学戦関連(がいやさん)

夜の牙(夜牙)

 鉄筋の裏に逃げ込む。
 荒い息は、逃亡のために太腿を酷使したせいだけではない。派手に抉れた左腕を押さえる。その右手の間から鮮紅が滴るのを、耳奥に反響する鼓動の激痛に合わせて見やった。
 ――運が悪かった。
 元来、さして戦の類が得意でない夜牙である。一人を相手取ってさえ、その名の通り、宵闇に紛れる牙とならねば勝ち目がない。
 それが多勢に囲まれたとあらば、背を向けた瞬間に心臓を貫かれていても、文句は言えなかったのだ。
「――参りましたね、どうも」
 緩めた右手の隙間に、白いものがちらついた。
 どうにも骨にまで達したようだ。救護班に世話にならねばならぬ。
 それよりも先に――。
 この窮地を脱さねばいけないか。
 色濃い赤黒を追って、敵軍の怒声がする。ああいよいよ死を覚悟せねばなるまいな、と突き立てた大剣を引き抜いた。
 ――どうせ最期かも知れぬ。
 ――大立ち回りの一つくらい、刻んでやっても構うまい。
 使い物にならない左腕をぶら下げたまま、片手で背負った剣を白へ向ける。
「隊長のためです。恨むなら軍を違った運命を」
 全く――運が悪い。
「死ね、クソ野郎ども」
 見開いた赤い瞳に、鮮血が迸った。

仇敵と旧敵(猿麻・タイガ+夜牙)

 あの日もこんなにおいがしていたな。
 頬に飛び散った鮮紅を拭って、タイガは己の手を見た。黒塗りの鉄塊がもたらす軽い痺れが残っている。
 薬莢が転がっていく。
 ――これが、目の前の骸が残した断末魔の価値だ。怯えながら命を乞うて、這い蹲った少年の遺せたものなど、この程度なのだ。
 タイガは違う。
 あの日、敬愛した先輩の仇を地獄の底へ叩き落としてから、彼は惨めな弱者ではなくなった。箪笥の奥で震えていた無力な少年ではなく、戦場に立って誰かの命を奪える強者になった。
 唇に刻んだ笑みを隠そうともせずに声を漏らす。彼の成すべきことは、今や彼が覚悟を決めるまでもなく、空気を吐き出すが如くに成せるのだ。タイガの全てを踏みにじった軍靴の音を、今度こそ絶やしてみせる。
 物言わぬ屍の先に赤黒が広がっていく。赤茶色の焦土に不出来な地図を描くそれを辿った先で、いつか憎んだ靴を見た。
 その先の小さな体が、タイガを睨みつけている。
「おい、お前の先輩出せよ、チビ」
 己の身長を棚に上げたような発言に、猿麻をまじまじと見遣ったタイガが嗤う。
「何のことですか」
「しらばっくれんな。分かってんだよ」
 歯ぎしりの音がこちらまで届くようだった。突き出された赤黒いネクタイが、凝った空気にも鉄錆のにおいを孕んでいた。
 ああ――。
 何たることか。
 口許に刻んだ笑みを余計に深くして、タイガは無垢な少年さながらに首を傾げた。手にした拳銃の銃口を下に向けたまま、決してその殺意を悟られぬよう、猿麻の真っ直ぐな敵意を嘲笑う。
「蓮華さんなら、貴方の師匠が殺したじゃないですか」
 息が。
 止まった瞬間に、その脇腹へ蹴りを叩き込む。面白いように飛んだ軽い体に銃口を向けて、目を見開いたままタイガを見詰める大きな瞳に、目を細めて応えてやるのだ。
「どうしたんですか。武器を構えてくださいよ。師匠の仇を取りに来たなら、早くしないと逃げちゃいますよ」
 ――俺は。
 相対する目に盛る炎が、溶岩の如き怒りを湛えたのを機に、タイガは慣れた手つきで引き金を引いた。
 果たして――。
 その師匠譲りの身軽さで、猿麻の体が中空を舞う。
 しなやかな拳がタイガの頸を抉らんとし、しかし昂奮にぶれた指先は届かない。能力で劣ったとしても、感情に任せた新兵の一撃と、多少なりと場数を踏んだ躊躇のない銃口では、猿麻の勝ち目はないに等しかった。
 師と共に鍛えたはずの拳が眼前の仇に届かない。冷静になれと言い聞かせるたび焦りが募り、猿麻の手から正確さを奪っていく。
 代わりのように彼の攻撃を見極め始めたタイガの銃口が、とうとう小柄な少年の頬を掠めた。
 肩で息をしながら持ち上げられた拳銃の先、その持ち主が唇を吊り上げる。勝利を確信して、しかし急所を外すように右腕に向けて撃ちこまれた弾丸を避けるすべはなく、猿麻の脳髄に熱い衝撃が走った。
 呻き声を漏らして膝をついた黒の額へ、喜悦の笑みを漏らす赤の銃口が突きつけられた。
「痛いですか? 痛いですよね。痛くしてるんですから! あはっ」
「てめえ――」
「このまま沢山甚振ってあげます。軍人なんか、軍人なんか」
 陶酔したような焦点の合わぬ瞳が、茫洋と憎しみを見据えて引き金に手を掛けた。せめて最期まで睨み付けていてやろうと猿麻が拳を握る。
 刹那。
「――時間切れですか」
 拳銃の圧力が彼の額から消えた。無言のまま走り去るタイガの足音を追うように、後方から迫った軍靴が彼の隣で立ち止まる。
「賢明な人でよかった。あのまま勝負挑まれたら死んでましたよ。私が」
 見上げた先に汗をぬぐう夜牙の姿があった。消えていく背にしばしの警戒を見せていた彼が、心配げに猿麻を見下ろして、開いているかも分からぬ目の上の眉を動揺に顰めてみせる。
「――え、私悪いことしました? ごめんなさいごめんなさい睨まないでください」
「いや、夜牙先輩のせいじゃ、ねっす」
 先程までの怒りがゆっくりと体中に広がっていく感覚で、猿麻は首を振りながら目頭を揉んだ。
 睨みつけていた自覚はない。
 もしそう見えたなら――それは己の不甲斐なさへの怒りだ。
 冷静になれと教わったはずだった。仇を目の前にしたときにこそ、その目を真っ直ぐに見て、行動を読まねばならない。憎いのは、その鉄則を実践することさえ叶わない自身だ。
 戻ってきた血流で右腕が軋む。痛みで眉間に皺を寄せながら、猿麻は低く唸るように呟いた。
「ちょっと考えたいことがあるんっすよ」
「何があったか私には分かりかねますが、それならいいところがあります」
 思わず持ち上げた視線の先で、夜牙は普段の温厚な笑みを刻んだまま、傷を押さえる猿麻の赤い手を指さした。
「医務室に行きましょう」

黒鉄(黒軍)

 黒づくめの青年の足音が反響する。
 薄暗い廊下に満ちていた静寂が、彼を避けるように引いていく。学ランの襟を直しながら、長身は無機質な学校の扉の前に立った。
 ――今日も戦果は上々だ。
 彼の手によって失われた命の数など、数えるのも馬鹿らしい。浅黒い肌に僅かな翳りが差すのを誤魔化すように、天井にぶつからぬよう屈みながら、彼は報告を待つ大人たちの前で、灰色の瞳を細めて見せた。
「第二小隊小隊長、只今帰投しました」
 ――太平を超えて、日本全土は戦火に包まれている。
 突如として現れた異国人の持つ莫大な科学の力に、国は大いに割れた。日本に新たな富をもたらすであろう力に屈した者と、日本という国を他者へ明け渡すことを良しとせぬ者である。
 長すぎた安寧の代償を払うかのごとく――。
 国民全員を巻き込んだ戦争で、限りある兵力が底を尽きるのは時間の問題だった。両軍の消耗が激しくなっても、この島国を二分する戦いは、未だ終わりの兆しを見せない。
 いよいよ疲弊した軍が、新たな人材を血眼になって探すのも、当然のことである。
 学生。
 白羽の矢が立ったのは、国を担う次代であった。各地に氾濫した寺子屋は学校と言う区分で纏め上げられ、何も分からぬままに集められた子供たちに戦闘訓練が科せられる。
 軍人と同じような立場で、軍人と同じように武器を振るい、そして――。
 軍人と同じように人を殺す。
 実力をつけるだけ――人を殺せば殺すだけ――彼らの地位は向上する。小隊長に選ばれるのは何も黒づくめの青年に限ったことではなく――。
 彼らに敵対する者もまたそうであるのだ。
「小隊長も楽じゃないねえ。俺はもっと楽な仕事がしたい」
 白いブレザーの下のシャツを着崩した青年がぼやく。黒が歩んだものとは違う、最新化された設備の中を軽やかに歩きながら、彼は視線を遮るサングラスの縁を持ち上げた。
「第三勢力って潰したって聞いた気がするんだけどな。気のせいだったか――」
 鼻歌まじりの指先が新しく下された指令を中空に描く。忘れぬようにと脳に刻みつける一字一句と共に、腰の蛇腹剣が耳障りな音を立てる。
 敵が誰であれやることが変わるわけではない。
 この学び舎で教わった、人を殺すためだけの技術の粋を振るい、相手のそれとぶつけ合う。生き残った方が勝者であり、地に伏した方が敗北者だ。
 それだけのことである。
 薬莢のくすんだにおいの中、勝者たる赤いジャケットの青年が得物である大剣を持ち上げた。血の一滴も流さぬまま首の骨を折られた骸の前で、荒れた息を整えながら吐き捨てる。
「ああ――ったく、いい気しねえっての」
 ふとずり落ちたジャケットの下から生々しい傷痕が覗いた。憎々しげに眉根を寄せながら羽織り直した彼が肩を回して首を鳴らす。
 随分と自身の率いる小隊から離れてしまったような気がする。
 隊長がこんなことでは仕方がない――苦笑しながらも不安はない。元よりはぐれ者の寄せ集めであるのだから、本来ならば隊長などという役すら必要はないのだ。
 それぞれの色を纏った青年が、己の安息を求めて足を踏み出したときだった。
 背後から呼び止められて振り向く。それぞれの前に立つ己と同じ色をした存在が、彼らにいつものように問うのだ。
 ――何故戦う。
 白が笑い、黒が口元を引き締め、赤が眉を顰める。
 ――そんなもの。
 最初から決まっているとばかり、淀みなく応えるのだ。
 国を安寧に導くものに染まった白の。
「誰だって生きたいに決まってるさ。でもって」
 かつての意思を貫く鋼の黒の。
「戦いで生き残るためには勝たねばならない。そして」
 裏切り捨てられた己だけを信じる赤の。
「この世は戦いで出来てる」
 ――それぞれの描く勝利が、まだ見えないのだから。

 ファイルを閉じた指先がそのまま口に咥えた棒を握った。
 口の中で飴を転がす少女が、黒い軍帽を被りなおしながら、眼前の無表情を見上げる。
「こんなところです、隊長」
「了解した。助かる」
 浅黒い肌の隊長と呼ばれた青年――甘津秀助の灰色の瞳は、彼と同じ色の瞳をした少女――雨燕を瞥見してファイルの表紙に注がれる。武骨な指が確認するようにページを捲った。
 紙の擦れる音の間で沈黙する。
 元より言葉の多くない二人である。空気にも似たように訪れる静寂の中に、緩やかな時間の流れだけを数えているうち、秀助の瞳がふと持ち上がった。
「夜牙」
 無感動な声が低く大気を震わせる。
 ややあって、机の影がぬらりと割れた。蛍光灯の光に照らされた黒髪の下で青年が笑う。温厚な容貌に陶酔の朱が差して、開いているのかも分からぬ目がますます喜悦に持ち上がった。
「私の気配に気づいてくださるなんて流石は隊長です! ああ何という幸せ」
「夜牙」
「隊長が私の名前を呼んでくださる!」
 呆れたように頭を抱えた秀助に雨燕が苦笑する。
 秀助の椅子に纏わりつく夜牙に目を移して、彼女は手元の書類を叩いた。耳障りな紙の音でこちらを見た糸目に不敵に笑う。
「大体の作戦は総隊長に提案してありますから、そのうち正式に指示が出ると思います。夜牙先輩も頼みますよ」
「ええ。負けることに関してはお任せください」
「――勝ってください」
「雨燕さんも私と手合わせしたことあるじゃないですかぁ、やだぁ」
 私ってば弱いんですよ――。
 手を合わせて笑う袖から細く白んだ腕が覗いた。どうにも返す言葉がなくて、雨燕は先程と似たような苦笑で視線を泳がせるしかないのだ。
 ――彼が弱いのは真実である。
 再び隊長へと意識をやったらしい夜牙と、無表情に彼をあしらう秀助に軽く一礼をしてから、閉じられていた教室の鍵を開けた。
 予想より大きな音を立てる古びたドアの向こうに赤がある。
 生気を失ったような白い髪と白い肌が、唯一の異彩を瞬かせた。手に書類を抱えた小さな体が真っ直ぐに雨燕の目を見詰めている。黒い眼帯で片目を覆った、ともすれば年下にも見える姿を見下ろす。
「伊織先輩」
 名を呼ばれて小首を傾げた伊織が訥々と言葉を発した。
「イオ、でばん、ある?」
「今回は――俺の作戦ではありません」
 頷いた彼女に無言で用を促す。
 命があれば即座に暗殺部隊として秘密裏の処理を行う伊織も、平時は雑用係として軍の会計を担当している。その立ち位置上、彼女が走り回っているからといって急を要するわけではなかろうが、軍内の状況を可能な限り把握しておくのも司令塔たる雨燕の役目だ。
「零式が、夜牙、に、ようじって。秀助のとこ、たぶん、いるから」
 黒翼零式。
 ――その名に浮かぶ笑顔に、つい視線を外した。
「碌な用事じゃない気がしますが」
「イオ、も、そう思う」
 俯いた口から無感動な声が漏れる。直後に背後の教室から派手な鋭い音がした。
 夜牙の悲鳴とにこやかな声の狭間で、二人はそれが窓硝子の割れた音だと知った。顔を見合わせた彼女らの騒々しい沈黙は、雨燕の溜息で遮られる。
「伊織先輩。今月は」
「まっかっか」
 開かれた帳簿のマイナスを見た。
 残念ながら――黒軍の予算はそう多くない。ただでさえ長すぎる戦争により国内の貨幣流通が滞った状態であるのに、それを全国の各校に分配しているのだから、一校あたりが管理できるのは雀の涙にも満たぬ数字だけだ。
 それを。
 大きく扉を開いた黒づくめの長身が、胡散臭い程の清々しい笑顔で今破壊したわけである。
 首を大きく持ち上げた伊織が、四十センチ以上の差のある黒髪を見上げて首を傾げた。
「夜牙、いた?」
「ええ、ありがとうございました。お陰様で日課の夜牙くんいじりが捗ります」
「勘弁してくださいよ、頼みますから」
 零式の後ろで心なしかやつれたような顔をした夜牙が首を横に振った。自身の後ろに隠れたきりの彼を一瞥して、彼らの騒々しさを尻目に内容を理解したらしい秀助が、雨燕に向けてファイルを差し出す。
「作戦は把握した。いないのは」
 暫し沈黙する。
 恐らく軍内で任務に出ていない主要な面々はここにいる。一つ瞬いた伊織が細く無機質に声を上げた。
「忌世と、真と、燕が、かえってきてない」
「花房先輩と猿麻もまだ帰投していませんね」
 雨燕の声に再び周囲を見渡した秀助が、灰色の瞳を細めた。真剣な面持ちに僅かに張り詰めた空気に、戦場を焼く火薬のにおいを微かに感じて、全員が彼の声を待つ。
「全員が帰ってくるころには正式に作戦も下されるだろう。それまでは、各自休息を」
 各々の返事が重なる。解散していく背を見送りながら、秀助は学ランに隠れた己の足に触れてから、一度息を吐き出した。
 ――全員が。
 生きて帰って来られるかも分からぬ戦場で、全てを握っているのが、彼の指揮だ。秀助の背負った信頼と重責を笑い飛ばすように振る舞う彼らとて、彼と同じように命を奪い、奪われようとしている。
 灰色の目を瞼の内側に仕舞う。
 鋭く息を吸い込んで、再び開いた瞳にいつもの覚悟を宿し、彼は足に遣っていた手を離して歩き出した。

毀る零(夜牙+零式)

 影に紛れて夜の廊下を進む。
 軋む扉を極力小さな音で開けて、その隙間に滑り込み、零式は木の板一枚を隔てた外気を感じた。冷えた夜風に身を委ねようと引き戸に手を掛けたところで――。
「どこへ行かれるおつもりですか」
 影が割れる。
 振り返った先の人のよさそうな糸目が笑った。探るような無垢を装って、夜牙が首をかしげている。
 だから、零式も慣れた微笑を繕った。
「どこに行くということでもありませんよ。少し外に出てくるだけです」
「そうですか。では急ぐほどのことでもありませんね」
 一歩。
 近寄る背で金属音がした。重量のある大剣を軽々と背負った細身が、緩やかな速度で間合いを詰めてくる。今まで幾度も手合せをした眼前の弱者の姿が、零式にはひどく穏やかな強者のように映った。
「――少し昔話をしましょう」
 歩みが止まる。
 逃げることも向かうことも出来ぬ距離を保ったまま、月明かりに照らされた白い肌が微笑を描いた。
「一年前に、そう言って出て行ったきり戻って来ない方がいらっしゃいます。隊長とは何かお話をされていたようですが、非常に残念ながら私は内容を深く知りません」
 夜牙もよく見知った赤茶の髪の彼は。
「赤軍、というところに、行ったそうです」
「それがどうかなさったのですか?」
 零式は既に覚悟を決めている。人知れず握った拳で腹を突いてやれば、眼前の細身くらいは簡単に沈むであろうことも理解している。
 表情は崩さない。最後まで零式を貫き通した末にこそ、武力があるのだ。
 その様子を暫しの沈黙と共に眺めやっていた夜牙が笑みを消す。天井を見上げたまま長く細い息を吐いた。
「貴方が出ていくことを私が止める理由はありません。仲間だからなんて言ったところでどうにかなる理由ではないでしょう。でもきっと隊長は悲しむ。またしても自分が仲間を止められなかったと嘆く。それは許しがたい」
 抜き放たれた大仰な武器が月光にぬらりと光る。
 開かれた赤い瞳が獲物を見詰めて嗤っている。
 ひたりとも動かぬ空気が凍てつく温度で零式を包む。月の仄明かりにこそ己の戦場を見出し、武器を抜くその姿が、まさしく――。
 ――夜の牙。
「医務室あたりで寝ててもらおうか」
 低く大気を揺らす声を聴くや、零式は拳を固めて跳躍した。

夜桜城(黒軍・赤軍)

 はらりと舞い落ちた薄桃を摘まむ。
 見慣れた指の先に見る堅牢な石垣は、月明かりに深々と沈んでいた。連れ立った闇が蠢くのを押し殺した空気の中で感じながら、泉は目を閉じる。
 凪いだ風が一陣舞った。
 黒派第二高校本丸――墨俣一夜城。
 四月の初めとは思えぬ凍てつく空気が泉に纏わった。疲弊しきり、最早かつての栄華となった堅牢な檻の中に身を隠すしかなくなった黒軍を、彼らが終わりにする。
 重苦しく垂れこめた灰色の雲を裂くように警鐘が鳴る。物見櫓の人影を瞥見した泉が大剣を抜き放つや、影を割った赤が馳せた。

 舞い散る桜の孕む光が鎖鎌に触れて削げ落ちる。昂ぶる金にちらつく黒を易々と斬り伏せ、己の得物を一振りした蓮華が目を上げた。
 木造の床に刺さる大振りの太刀を浅黒い手が支えている。鼻と目元に入った朱が不敵に侵入者を笑っている。
「てめェの狙いは俺だろ」
 その穏やかな殺意に、蓮華が目を剥いた。剥き出しの牙の間から獣めいた唸り声を漏らす彼と仇の間を、風に舞いあがった薄桃の壁が阻んだ。
「ここで仕留める――花房虎親ァ!」
「望むところだ。来やがれ」
 灰色の曇天に乗る薄桃が、野太刀の刃に煌めく。

 覚束ないまま殺した足音が止まる。
「てめェ、赤軍か」
 少年じみた色の残る声の威圧にすら、箕島タイガの肩は震えた。敬愛する蓮華との合流だけを考えていた頭を不快な敵がかき乱す。
 ふらつく指先が押し殺すようにホルスターをなぞった。目の前で構えられた拳に焦点を合わせられずに、唇が戦慄く。
「こんなときに押し入ってきやがって。許さねえぞ」
 タイガの恐怖には目もくれず、怒りを湛えた猿麻の大きな瞳が眼前の少年を睨む。仄明かりを遮る花弁の一枚すらも邪魔だとばかり、彼の純粋な殺気がタイガを射抜いた。
 唾を大きく飲み込んで、震える手で黒塗りの鉄塊を構える。月光にぬらりと浮かぶ拳銃の昇順が桜の先にある額を狙う。
「ぼく――俺は確かに赤軍です。ここに来た役目、果たさなきゃ」

「この景色を二人で見られたことを幸運だと思うべきなのでしょうか」
「分かりませんわ」
 諦めたように首を横に振ったアグネリアが、対峙する愛しい黒を見上げた。儚い桃色に包まれて髪を留める十字架が揺れている。
 掌に落ちた愛らしい薄膜を握り締めて、彼は眉尻を下げたまま、それでも尚笑って見せるのだ。
「貴方は侵入者。私は迎撃者。今回ばかりは、愛を囁くことも許されなさそうだ」
 冗談めいた悲壮が二人の間を遮る。
 今すぐにでも手を伸ばしたい衝動を振り払うように首を振って、アグネリアは手にしたナイフの切っ先を愛する男へ向けた。
 ――大丈夫だ。
 傷つくのは今だけだ。拳を構える彼はきっと、彼女と共に生きてくれるのだから。
 だから――。
「いつかこの景色を手を繋いで見られるように、零式様――お覚悟を」
 手が震えることはない。

 扉を開いた黒がへらりと笑った。
「侵入者はっけえん。燕ガンバ」
「貴方も頑張るんですよ、真」
 小さな体を不安げに名無しへ寄せていた恵真が恐怖に震える双眸を名無しへ向ける。汗で滑る右手を刀に掛けながら、動じる様子もない仮面の友人に弱々しく囁く。
「ナナシ、エマどうすれば」
「下がってるの。自分が全部終わらせるから、目を閉じてればいいの」
「そんなの嫌なのだわ。おともだちに任せるのは駄目」
 手にした兎の縫いぐるみを地に落としながら叫ぶ恵真を見詰めていた燕と真が顔を見合わせた。
 ――ここは戦場だ。
「お話してると俺らが先手取っちゃうぞ」
 交錯するように身の丈ほどのチャクラムを構えた二人が同時に馳せる。狙いは――。
 見開かれた紺碧を庇うように、恵真の目の前を横切る桜の花弁がトランプに撃ち抜かれた。
 燕の頬を掠めたそれを気に留める様子もなく、冷静に距離を置いた彼が、シルクハットをかぶり直した仮面の少女に武器を向ける。
「随分と不思議な力をお持ちで」
「友達の――家族のために使う力」
 一瞥。
 それで彼の意図を理解したらしい真が、体勢を立て直した恵真に向き直った。
「手、震えてるけど大丈夫?」
「心配はご無用なのだわ。エマはナナシのおともだちなのだわ」
 鈍い銀に、堪えきれずに天から降り落ちた白が光った。

「いお異邦」
 後ろを向いたきりののえるが、夜桜を見詰めながらようやく声を発した。
 隻眼の少女が無表情に首を傾げる。手にした大斧が不愉快な金属音で少女の声を引き裂いた。
 だから、のえるは大きく声を上げる。
「あたしたち、おともだちになれましたか」
「うん、なれたよ」
「ならいいんです。思い残すこと、ありません」
 向き直った彼女は笑ってなどいない。
 目に涙を溜めて、恐怖に震える足を奮い立たせて、諦めたような敵軍の友人を見据えている。
「行きたいところがたくさんありました。でもそれももういいんです。あたし、いお異邦と――伊織ちゃんとおともだちになりたかっただけなんだって、分かりました」
 両手を大きく広げる。舞い散った桜が月光と雪に白く滲む。
 美しい――この夜に。
「わたしも、そうおもってた」
 伊織は再び、親友に斧を振るう。

 敵の城ながら素晴らしいと遙は思う。
 後方の気配に無防備な背を貫きながら、彼はゆったりと振り返った。その先にいる長身の女が咥えた棒を引っ張り出している。
「知ってっか。桜の木の下には死体が埋まってんだとよ」
「そうらしいですね」
 引きちぎられたような黒いセーラー服の端を揺らして、凍てつく白が吹き込む。再び口に戻った飴を転がして、雨燕は掴みあぐねる敵を見据えた。
「墨俣一夜の夜桜城――っつって、粋じゃアねェか。後は伝説が本物になりゃ完璧か」
 肩を竦めた遙が笑う。
 そのある種の不遜さに麻痺していた本能が揺さぶられた気がして、雨燕も唇を吊り上げるのだ。
「埋まるのはそっちと相場が決まってるでしょう」
「理由を訊こうか」
「桜は赤を吸ってこそ美しく咲くんです」
 抜き放たれた清澄な銀に、白く溶け落ちる花弁を重ねて、彼女は馳せる。

 刹那の攻撃に辛うじて大剣を抜くことに成功した夜牙が、目の前の闘争心を見据えて苦笑した。
「見付かってしまいましたか。これは私死にましたかね」
 金属に阻まれた足をこともなげに引き戻したティナが鼻を鳴らす。夜牙の困惑は一層深まる。申し訳程度に構え直した大剣がどこまで通用するかも分からぬというのに、素早い彼女を相手取らねばならないというのだ。
 チャイナドレスの裾を撫でる白雪を掬い上げ、殺意を孕んだ指先が退路を探す夜牙の糸目を睨んだ。
「御託は必要ありません。武器を構えてください。私は泉様のところへ行かなくちゃいけないんですから」
「おや――そういうことなら話は別です」
 撤退先を求めた瞳がティナを射抜いた。ゆっくりと開かれた赤い瞳が、獰猛な獣の牙で彼女を狙う。
 重苦しく冴える空気を月明かりに照らして、桜の花弁を易々と斬り落とした切っ先がティナに向けられた。
「隊長を一目拝むことも許さねえ。ここでくたばって――花見の肴にでもなっちまえ」

 雪ごと桜を握り締めた手が痛いほどの冷たさで頭に回った。
 鮮やかな――雪桜。
 その中に佇む浅黒い肌の指揮官を見据えて、泉の手が背の剣を撫でる。
「もう分かってんだろ。俺らがここに来た理由。襲撃相手に黒を選んだ理由なんかよ」
「ああ」
 秀助がゆっくりと頷いた。耳元で揺れる金に天守閣の窓から吹き込む白が触れて消える。
「それでも諦める訳にはいかない」
「何でだ」
「俺たちは勝つ。もう誰も犠牲にはさせないと、決めたからだ」
 真っ直ぐな。
 意思だけを孕む目が泉に迫る。
 求めるものだけを求める覚悟を決めた灰色が紺碧を見詰めている。
「その邪魔をするなら――泉、ここでお前を」
 その先を言うことはなく、秀助が拳を引いた。腕に装着されたボウガンが軋んだ音を立てる。
 何もかも――。
 分かった上で、彼は泉の前で立っている。誰に縋ることもせぬその尊い瞳にこそ、泉は笑えた。
「受けて立ってやらァ」
 抜き放つ武器に桜が吹き付ける。白と混ざって床を埋める薄桃の光の中で、赤と黒は己の武器をぶつけた。

山間の別離(零アグ+夜牙)

 夜牙が山村を訪れたのは思い付きだった。
 彼の生まれる前から続く戦いと呼ばれるものが一応の終幕をみてからもう五年になる。幾多の戦場を超えてようやく掴んだ平穏には、しかし戦火の燻ぶりが未だ絶えない。忠犬たちによる敗走する残党ども(・・・・)への追撃の音と、雪辱を果たすべく蜂起する敗者の群れがぶつかり合って、相変わらず薬莢の焦げたにおいはそこかしこに漂っている。
 それで足を伸ばした。
 幾多の同胞の脂で燃えた戦火は好きではない。全て終わった灰に火をつけようと試みる者も嫌いだ。
 それに比べてここはいい——。
 空気が澄んでいる。のどかで優しい風に、牧畜のにおいが乗って流れてくる。雨上がりの土に春先の木立の青臭さが混じって肺を浄化する。
 未だ太陽は南中を過ぎたあたりである。せっかく遥々やって来たというのに、踵を返すのは勿体なかった。時間があれば寄ろうと思っていた付近の山村を求めて、予定通りに夜牙の足は土を踏む。
 ぬかるむ泥を超えて、見えたのは朴訥な木造の屋根であった。
 なるほど聞いた通りである。このご時世にあって呑気なほど開かれた村だ。外界を拒まぬ牧歌的な性質は、秘境の地にあってこそ成り立っているのだろう。未だに衝突を繰り返す平地であればこうはいくまい。
 家々を物珍しく見回る夜牙の目に、開けた農地が留まった。鍬を振り下ろす長身とその横の小さな影に見覚えがある。
 懐かしさのあまりに——。
 踏み入れば、彼らはこちらを見た。
 男の瞳が怪訝と警戒を浮かべる。まるでいつぞやに声をかけたときのようではないかと、夜牙の口許に、知らず柔らかな苦笑が刻まれた。
「お久し振りです、零式さん」
「——よくここが分かりましたね、夜牙くん」
 不安げに見上げる隣の少女を片手に庇い、かつての同胞たる零式が唸った。
「ここに来たのは偶然ですって。疑われても仕方ないですけど」
 ますます苦笑は深くなった。何しろ他の人間ならまだしも夜牙である。
 零式が黒軍に反旗を翻し、赤軍の少女を攫って行方を眩ませた晩、計画にいち早く気付いたのが夜牙だった。実力行使で止めに入った彼と零式は、寝静まった庭で暫し己の力をぶつけ合って——。
 夜牙は敗北した。
 だから、まあ、零式の警戒も仕方がないのだ。
「あなた——」
「大丈夫ですよ、アグネリア。中へ入っていてください」
 走り去る少女を見送る夜牙が剣を帯びていないことを確認して、彼はようやく拳を緩めた。未だ消えぬ怪訝と疑心をいつもの笑みで躱して、かつての補佐官は次の言葉を待つ。
「戦争は終わったと聞きましたが」
「はい。もうすっかり——とはいきませんが、私たちの知っている戦い(・・)は終わりました」
 零式の口は重かった。夜牙のよく知る紳士的な毒舌を引き出すのに暫しの時間を要したが、そこは旧知である。疑念の棘は抜けぬままだが、以前の軽口をふと聞く。
「あのときのように問答無用で襲い掛かってくるかと」
 言われて、そんなことはできませんよと、夜牙は懐かしそうに笑った。
「もう貴方と、一人の人間として会話できるようになってしまいましたので」
 同胞という一つの意識を信じ込んで、あの薄暗い戦火からの脱走を裏切りだと思っていた。あの赤いジャケットと同じくいつか剣を交えるのだと信じてやまなかった。
 だがもう同胞ではない。
 山奥の村でたまたま顔を合わせただけの旧い知り合いだ。そこに何の意味もない。裏切るだけの濃密さも、剣を交えるだけの情熱も、錆び付いて動かなくなって久しいのだ。
 五年前より伸びた髪を追うように、夜牙は俯いて続けた。
「まあ――何でしょう。まだ戦おうって人たちは多いらしいですけど、私はちょっと。せっかく生き残れたのに死にたくもないですし」
 そこまでの忠誠心はなかったのだ。
 彼の誓った服従の所在は黒軍ではなかった。差し伸べられた手もまた、自身の属した色を愛していたのではない。主人(かれ)が求めたのは全てを犠牲にした末の勝利ではなかった。
 それももう——。
 どこにもない。
 黒軍を捨て、安寧を取った彼らを繋ぐものは、今や何もないのだ。
「だから偶然ですよ」
 もう邂逅に意味はない。
 ああでも元気そうでよかった——言って返した踵に別れの言葉はない。言うだけ無駄だ。
 永遠の別れではないが、約束される再会もあるまい。
「夜牙くん」
 躊躇うような間があってから呼ばれた名に、夜牙はふと振り返る。血にまみれた腕を泥に埋めて、今は命だけを育む長身の男には、きっと平穏こそが似合うと、心の底からそう思った。
 思ったから。
「お幸せに」
 そうとだけ手を振った。

学戦関連(がいやさん)

学戦関連(がいやさん)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-21

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  1. 夜の牙(夜牙)
  2. 仇敵と旧敵(猿麻・タイガ+夜牙)
  3. 黒鉄(黒軍)
  4. 毀る零(夜牙+零式)
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