シューカセンまとめ
決めるべき覚悟の話
傷を塞ぐでもなく入ってきた虎親を前に、秀助は呆れたように目を伏せた。
「医療室に行け」
「行くっての。の前に報告があるんだよ」
血腥い体をソファに埋めて、虎親の足が机を叩く。その不躾な姿を一瞥した灰色の瞳が、いつになく真っ直ぐな赤と、一瞬だけ交錯した。
行き場を失くした秀助の視線が眼前の浅黒い体の傷をなぞる。流れ出た赤が焦土のにおいを孕んで黒くこびりついている。無言の催促にも沈黙を貫く虎親の唇が、長く息を吐き出して張り詰めた空気を揺らした。
「泉に会った」
息が止まる音がする。
見据えた先の、俯いて指先を跳ねさせたきり動かない秀助の姿は、見ないふりをした。あたかも彼の様子を知らぬままだとでも言いたげに、昂ぶりを籠めた声を隊長室に反響させる。
「赤だったぜ。あいつはやっぱり強いな。久々に熱が入っちまって――このザマだ」
灰色の目は見えない。身じろぐ動揺だけが秀助の悲しげな呼気を伝えてくる。
戦場で出会い、虎親が生き残ったという事実を噛み締める、虚ろな歯ぎしりの音が微かに聞こえた気がした。
だから。
「決着はついてねえよ」
安心しろ――言外に告げる。
俄かに緊張を失った背が丸まった。いつでも背筋を伸ばす隊長としての姿を保つことすら出来ぬほど――彼はあのかつての仲間に執着している。
故に虎親はここにきたのだ。
動揺にぶれる剣先では人は殺せない。迷いで揺らいだ拳では生き残れない。
大きく手を振ると、腕の付け根の傷が軋んだ。小さく息を詰めて、誰も見てはいない手を下ろす。
「五高と派手に戦ってるときにゃ、あいつらも出てくるみてェだな」
「――そうか」
秀助の指先が机を叩いた。振り払うように軽く首を振ったことも、虎親の目は見逃さない。
ややあって――。
持ち上がった瞳が今度こそ彼を見据えた。未だ押し殺せぬ迷いを湛えたそれが、ひどく悲しげに決意を語る。
それでようやく虎親も笑った。
「そんだけだ。医療室行ってくらァ」
立ち上がった足がやはり電気めいた痺れを伝えて、虎親は今度こそ痛みの声を上げた。
虚想
「だッから、俺ァ勉学はからっきしなんだっつうの」
苛立ったような声で虎親が頭を掻きむしって、丁寧にニスの塗られた机に突っ伏す。強かな音が部屋に響いた。
ノートに向き合っていた泉と秀助が同時に顔を上げる。深々と長い溜息を吐き出す青年の黒髪を暫し眺めて、泉の苦笑が静寂を裂いた。
「っつっても虎親」
くるり。
男性にしては細身の、しかし硬くなった指先の上で、筆記具が回る。
確かこれは――シャープペンシルとかいう代物のはずだ。
「戦争が終わって、俺らも晴れて普通の高校生だぜ。勉強できねえとこれからはキツいぞ。な」
「そうだな」
同意を求められた秀助が、相変わらず無表情な浅黒い肌で頷いた。揺れるピアスから視線を外した泉が虎親のノートを覗く。
「――つうか何も書いてねえじゃねえかよ」
「知るか。俺は寝る。寝るぞ」
言うなり大の字になって目を閉じてしまった友人を見遣って、目を合わせた二人が苦笑した。よく日に焼けた肌を揺さぶる泉の白い掌を追っていた秀助の目がふと閉じて、微笑を湛えた唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「こうして学べるのもシロのお陰なんだがな」
ひたりと動きを止めた泉の耳が赤く染まる。振り返った大きく見開かれた紺碧が穏やかな金とかち合って、戦慄いた唇が馬鹿野郎と叫び声を上げる。
思い切り肘で体を打たれた秀助が一瞬だけ息を止めた。
仕返しとばかりの掌に打たれ、更なる攻撃を試みる泉と秀助が横倒しになる。机と秀助の足がぶつかる金属めいた音を笑い声が掻き消す。
そんなじゃれ合いを眠っていたはずの虎親が笑って、二人の動きが止まるのだ。
「おま、いつから起き」
「ずっと起きてたっつの。戦士の勘も鈍ったモンだな」
懐かしむように。
愛おしむように。
過去に開いた傷痕をこともなげになぞって、その痛みを慈しむように。
虎親が歯を見せるから、二人も同じような顔で笑う。これから先を見詰めるための儀式はきっと明日にも終わらない。
「馬ァ鹿」
誰のものかもわからない声で、平和に馬鹿笑いをするのだ。
辛気臭い白の上で体を起こした。
罅割れるような痛みを追い出すように頭を振ると、赤茶色の髪が視界を遮る。鬱陶しげに眉根を寄せた泉が溜息を吐いた。
掌が先程までの彼の温もりを孕むシーツと擦れる。
それがひどく虚しい。
終わったことを考えるのは嫌いなのだ。引きずるように後悔ばかりが傷を掠めて、悶えるような消えない痛みへ体が落ちて行ってしまう。
何が間違っていたかなど――。
何がいけなかったのかなど――。
考えるだけ無駄だ。
この痛みを否定するなら、彼らとの出会いすらも否定することになる。その笑顔も、じゃれ合いも、交わした言葉も、泉を泉たらしめる褪せた記憶の全てを悪と断じてしまえば、彼の中には何も残らない。
重力に逆らわぬよう体を倒した。柔らかな枕に頭が跳ねる。
もう一度――寝よう。
今度は思い出さない。
喪った痛みは過去のものだ。望んだ理想は取り返しのつかぬ理想でしかない。
前を向けと――もう充分だと――。
懐かしい声を聞いて、鼻の奥の熱さを堪えるように、泉は再び目を閉じた。
夜桜城
はらりと舞い落ちた薄桃を摘まむ。
見慣れた指の先に見る堅牢な石垣は、月明かりに深々と沈んでいた。連れ立った闇が蠢くのを押し殺した空気の中で感じながら、泉は目を閉じる。
凪いだ風が一陣舞った。
黒派第二高校本丸――墨俣一夜城。
四月の初めとは思えぬ凍てつく空気が泉に纏わった。疲弊しきり、最早かつての栄華となった堅牢な檻の中に身を隠すしかなくなった黒軍を、彼らが終わりにする。
重苦しく垂れこめた灰色の雲を裂くように警鐘が鳴る。物見櫓の人影を瞥見した泉が大剣を抜き放つや、影を割った赤が馳せた。
舞い散る桜の孕む光が鎖鎌に触れて削げ落ちる。昂ぶる金にちらつく黒を易々と斬り伏せ、己の得物を一振りした蓮華が目を上げた。
木造の床に刺さる大振りの太刀を浅黒い手が支えている。鼻と目元に入った朱が不敵に侵入者を笑っている。
「てめェの狙いは俺だろ」
その穏やかな殺意に、蓮華が目を剥いた。剥き出しの牙の間から獣めいた唸り声を漏らす彼と仇の間を、風に舞いあがった薄桃の壁が阻んだ。
「ここで仕留める――花房虎親ァ!」
「望むところだ。来やがれ」
灰色の曇天に乗る薄桃が、野太刀の刃に煌めく。
覚束ないまま殺した足音が止まる。
「てめェ、赤軍か」
少年じみた色の残る声の威圧にすら、箕島タイガの肩は震えた。敬愛する蓮華との合流だけを考えていた頭を不快な敵がかき乱す。
ふらつく指先が押し殺すようにホルスターをなぞった。目の前で構えられた拳に焦点を合わせられずに、唇が戦慄く。
「こんなときに押し入ってきやがって。許さねえぞ」
タイガの恐怖には目もくれず、怒りを湛えた猿麻の大きな瞳が眼前の少年を睨む。仄明かりを遮る花弁の一枚すらも邪魔だとばかり、彼の純粋な殺気がタイガを射抜いた。
唾を大きく飲み込んで、震える手で黒塗りの鉄塊を構える。月光にぬらりと浮かぶ拳銃の昇順が桜の先にある額を狙う。
「ぼく――俺は確かに赤軍です。ここに来た役目、果たさなきゃ」
「この景色を二人で見られたことを幸運だと思うべきなのでしょうか」
「分かりませんわ」
諦めたように首を横に振ったアグネリアが、対峙する愛しい黒を見上げた。儚い桃色に包まれて髪を留める十字架が揺れている。
掌に落ちた愛らしい薄膜を握り締めて、彼は眉尻を下げたまま、それでも尚笑って見せるのだ。
「貴方は侵入者。私は迎撃者。今回ばかりは、愛を囁くことも許されなさそうだ」
冗談めいた悲壮が二人の間を遮る。
今すぐにでも手を伸ばしたい衝動を振り払うように首を振って、アグネリアは手にしたナイフの切っ先を愛する男へ向けた。
――大丈夫だ。
傷つくのは今だけだ。拳を構える彼はきっと、彼女と共に生きてくれるのだから。
だから――。
「いつかこの景色を手を繋いで見られるように、零式様――お覚悟を」
手が震えることはない。
扉を開いた黒がへらりと笑った。
「侵入者はっけえん。燕ガンバ」
「貴方も頑張るんですよ、真」
小さな体を不安げに名無しへ寄せていた恵真が恐怖に震える双眸を名無しへ向ける。汗で滑る右手を刀に掛けながら、動じる様子もない仮面の友人に弱々しく囁く。
「ナナシ、エマどうすれば」
「下がってるの。自分が全部終わらせるから、目を閉じてればいいの」
「そんなの嫌なのだわ。おともだちに任せるのは駄目」
手にした兎の縫いぐるみを地に落としながら叫ぶ恵真を見詰めていた燕と真が顔を見合わせた。
――ここは戦場だ。
「お話してると俺らが先手取っちゃうぞ」
交錯するように身の丈ほどのチャクラムを構えた二人が同時に馳せる。狙いは――。
見開かれた紺碧を庇うように、恵真の目の前を横切る桜の花弁がトランプに撃ち抜かれた。
燕の頬を掠めたそれを気に留める様子もなく、冷静に距離を置いた彼が、シルクハットをかぶり直した仮面の少女に武器を向ける。
「随分と不思議な力をお持ちで」
「友達の――家族のために使う力」
一瞥。
それで彼の意図を理解したらしい真が、体勢を立て直した恵真に向き直った。
「手、震えてるけど大丈夫?」
「心配はご無用なのだわ。エマはナナシのおともだちなのだわ」
鈍い銀に、堪えきれずに天から降り落ちた白が光った。
「いお異邦」
後ろを向いたきりののえるが、夜桜を見詰めながらようやく声を発した。
隻眼の少女が無表情に首を傾げる。手にした大斧が不愉快な金属音で少女の声を引き裂いた。
だから、のえるは大きく声を上げる。
「あたしたち、おともだちになれましたか」
「うん、なれたよ」
「ならいいんです。思い残すこと、ありません」
向き直った彼女は笑ってなどいない。
目に涙を溜めて、恐怖に震える足を奮い立たせて、諦めたような敵軍の友人を見据えている。
「行きたいところがたくさんありました。でもそれももういいんです。あたし、いお異邦と――伊織ちゃんとおともだちになりたかっただけなんだって、分かりました」
両手を大きく広げる。舞い散った桜が月光と雪に白く滲む。
美しい――この夜に。
「わたしも、そうおもってた」
伊織は再び、親友に斧を振るう。
敵の城ながら素晴らしいと遙は思う。
後方の気配に無防備な背を貫きながら、彼はゆったりと振り返った。その先にいる長身の女が咥えた棒を引っ張り出している。
「知ってっか。桜の木の下には死体が埋まってんだとよ」
「そうらしいですね」
引きちぎられたような黒いセーラー服の端を揺らして、凍てつく白が吹き込む。再び口に戻った飴を転がして、雨燕は掴みあぐねる敵を見据えた。
「墨俣一夜の夜桜城――っつって、粋じゃアねェか。後は伝説が本物になりゃ完璧か」
肩を竦めた遙が笑う。
そのある種の不遜さに麻痺していた本能が揺さぶられた気がして、雨燕も唇を吊り上げるのだ。
「埋まるのはそっちと相場が決まってるでしょう」
「理由を訊こうか」
「桜は赤を吸ってこそ美しく咲くんです」
抜き放たれた清澄な銀に、白く溶け落ちる花弁を重ねて、彼女は馳せる。
刹那の攻撃に辛うじて大剣を抜くことに成功した夜牙が、目の前の闘争心を見据えて苦笑した。
「見付かってしまいましたか。これは私死にましたかね」
金属に阻まれた足をこともなげに引き戻したティナが鼻を鳴らす。夜牙の困惑は一層深まる。申し訳程度に構え直した大剣がどこまで通用するかも分からぬというのに、素早い彼女を相手取らねばならないというのだ。
チャイナドレスの裾を撫でる白雪を掬い上げ、殺意を孕んだ指先が退路を探す夜牙の糸目を睨んだ。
「御託は必要ありません。武器を構えてください。私は泉様のところへ行かなくちゃいけないんですから」
「おや――そういうことなら話は別です」
撤退先を求めた瞳がティナを射抜いた。ゆっくりと開かれた赤い瞳が、獰猛な獣の牙で彼女を狙う。
重苦しく冴える空気を月明かりに照らして、桜の花弁を易々と斬り落とした切っ先がティナに向けられた。
「隊長を一目拝むことも許さねえ。ここでくたばって――花見の肴にでもなっちまえ」
雪ごと桜を握り締めた手が痛いほどの冷たさで頭に回った。
鮮やかな――雪桜。
その中に佇む浅黒い肌の指揮官を見据えて、泉の手が背の剣を撫でる。
「もう分かってんだろ。俺らがここに来た理由。襲撃相手に黒を選んだ理由なんかよ」
「ああ」
秀助がゆっくりと頷いた。耳元で揺れる金に天守閣の窓から吹き込む白が触れて消える。
「それでも諦める訳にはいかない」
「何でだ」
「俺たちは勝つ。もう誰も犠牲にはさせないと、決めたからだ」
真っ直ぐな。
意思だけを孕む目が泉に迫る。
求めるものだけを求める覚悟を決めた灰色が紺碧を見詰めている。
「その邪魔をするなら――泉、ここでお前を」
その先を言うことはなく、秀助が拳を引いた。腕に装着されたボウガンが軋んだ音を立てる。
何もかも――。
分かった上で、彼は泉の前で立っている。誰に縋ることもせぬその尊い瞳にこそ、泉は笑えた。
「受けて立ってやらァ」
抜き放つ武器に桜が吹き付ける。白と混ざって床を埋める薄桃の光の中で、赤と黒は己の武器をぶつけた。
XXXの日記
【一回目】
戦死、病死
戻って来られたんだ。
虎親も秀助もまだ生きてる。俺が助けられるかもしれない。
何回やれば助けられるかも分からないが、兎に角やってみるしかない。
戻ってくるのがいつか分からないし、何回繰り返すのかもわからないし、でももし今回が駄目だったら、これが次の俺の手助けになればいいと思う。
【五回目】
毒死、戦死
今のところどうにか残ってる。飛ぶ時間は毎回同じような気がするのに、この日記帳だけ残ってるのはおかしいな。俺が戻ってること自体おかしいんだけど。
黒軍の兵士も救えるんじゃないかと思ったが、目的は絞った方がいい気がしてきた。
仲間だけは出来る限り生き残って欲しい。虎親と秀助と赤軍を救うのが目標だ。
【十七回目】
戦死、拷問死
赤軍に構ってるうちに二人が死ぬ。虎親が死ぬところを見た。きつい。
もしかしたら赤軍から欠員が出ることが条件かもしれない。
だとしたら俺はどっちを取ればいいんだろう。どっちにも生き残って欲しいなんていうのは駄目なんだろうか。
そう都合よくはいかないのか。
【三六回目】
戦死、毒死
血を見ても手が震えない。虎親は最近ずっと目の前で死ぬ。
赤軍に俺の状況を話してみたが精神が疑われるだけだった。閉じ込められかけた、もうやめよう。
秀助は黒軍の誰かに謀殺されてるのか? 分からない。
今回は黒軍の兵士を殺してみる。兵士の特徴は次の俺が書く。
【九九回目】
刺殺、刺殺
前々回は昏倒してる間に二人が死んでたから、前回は二人を昏睡させればいいんじゃないかと思って刺したら死んだ。
今回は刺しどころを変えてみよう。駄目でも試行回数は幾らでもある。
【百回目】
爆撃、爆撃
昏倒はさせたが本拠地が襲撃されて二人とも死んだ。
二人に危害を加えるのはどれも駄目なんだろうか。もう何回か試してみないと。
【一八一回目】
拷問死、処刑
ティナはすぐ気付く。気を付けた方がいい。
前回は俺を庇って死んだが、何かと言及してくるなら早い段階で黙らせた方が良いかもしれない。
他のメンバーは、遙あたりはうすうす気づいてるんだろうが、特に何か言ってくるわけでもない。
なるべく始末はしないでおきたい。誰がどこでトリガーになるか分からない。
【五四四回目】
処刑、処刑
迂闊に生き残らせても駄目だ。秀助の足がハンデになる。
追っ手に何か罠を仕掛けておく必要がある。前のやり方じゃ時間と金がどうしようもない、改善しよう。
秀助がいなければどうにかなるのかもしれないな。
【一〇八二回目】
戦死、病死
虎親と秀助の何にそんなに執着したんだ?
【三五二二回目】
戦死、不明
死んでも生き返る。
俺はまだやれる。
【XX回目】
絞殺、戦死
今回は少し長く考えてみることにする。
花弁の
黄金の煌めきの中に、花房虎親が佇んでいる。
よく日に焼けた褐色の肌へ軽快な笑みを浮かべて、昔馴染みの顔を暫し懐かしげに見詰めた彼は、むせ返る向日葵のにおいの中で口を開いた。
「痩せたな、秀助」
ここまで来るのは疲れたろうからまあ座れ――と気さくに言う。その間にもどっかりと座り込んだ虎親を見下ろして、秀介は笑った。
「はなは変わらないな」
「そうか? まあ、お前よりは老けてねえ自信があるけどよ」
生温い夏の風が沈黙を攫う。
葉の擦れ合う音がやけに耳に響いた。そういえば蝉の声がしないと思えば、夏というには気温が低いことにも気付く。
促されるまま腰を下ろした秀介が問う。
「ここはお前の花畑か」
「そうと言えばそうかもな。種は俺のだ。でも結局は違えよ」
「そうか」
「李人に渡したんだ。俺が帰る頃には咲いてるはず――だったんだけど、秀介、お前知ってるか」
「そういえば、咲いていたな」
――黒軍の庭だったか。
もう何年も前のことで記憶は曖昧だが、確かに向日葵の黄色い花弁を見た記憶がある。思い返せば古い痛みが胸を抉った。
その痛みの原因は、あどけなさを残した鷹揚な表情をして、そうかそうかと笑声をたてる。
「そりゃよかった。ここは満開でも、向こうで咲いてなきゃ意味がねえからな」
ひとしきり笑ってから、虎親は立ち上がる。目で追った顔が逆光で黒く塗り潰される。
そこでようやく――。
彼が学ランを纏っていることに気付いた。
風が擦れて黄金が揺れる。生きるもののない静かな空間に、いつでも誰かの隣で騒がしく笑っていた青年の声が静かに落ちていく。
「お前、ここに来るにはまだ早えだろ」
無骨な指が秀助を指す。
見下ろした服は眼前のそれとは真逆の色をしている。
――そういえば。
――俺は今どこにいるのだったか。
問おうと顔を上げれば影はなく、真夏の日差しがまともに目に刺さった。
「それで目が覚めた」
林檎を剥く手を見つめて、秀助はそう語った。
白に覆われた病室の中、自身もまた白装束を纏って、彼はベッドの上に腰かけている。寡黙な男にしては珍しく、見舞いに来た泉が入ってくるなり口を開いたと思えばとうに亡くした友人の夢を見たと語り出したのだ。
泉の方は相槌も打たずにそれを聞いた。
嫌になるほど目を逸らし続けた現実を突き付けられている。それからも逃げるように、殊更丁寧に剥いた林檎の皮の芳香を嗅ぎ取りながら、彼はそうかとだけ頷いた。
素っ気のない応答にも秀助は笑っている。懐かしげな苦笑に身を任せて再び口を閉じたきりだ。
――暫しの沈黙がある。
外は太陽とは縁遠い。そろそろ雪もちらつかん頃合いだった。最適な室温に整えられた秀助のための箱庭にあって、泉は背筋を震わす空寒さを冬のせいだと断じた。
それで笑う。
「まだ退院してねえからどこにも行けねえだろ。っつかさっきからジジ臭いことばっかり言ってんな」
「ずっと寝ていたからな」
仕方がないと竦めた肩の細さから目を逸らして、泉はただ、外皮を失った林檎にナイフを入れた。
シューカセンまとめ