ツバアキまとめ
闇をも喰らう
――穴がある。
光はない。動かない。口を開けて誰かを待っている。
覗き込んでも底は見えぬ。見ようとも思わぬ。
冥府の道だ。
その先に続く底なしの暗がりへは、誰の手も届かない。
――アキ。
ひどく優しい声が聞こえた気がした。蠢く闇と同化しそうになって、思わず視線を逸らした穴の底から、誰かが呼んでいるのだ。
聞き覚えのある声を追って再び闇へ目を遣る。
その縁に手を添えて、確りと握るのだ。
決して落ちぬように――。
そうして、冥府へ声を投げ入れる。
「ツバサ」
橙色の髪が肩から零れる。それを梳く黒い指先の優しさはやはり伴侶のそれで、女は安心したように微笑んでから問うのだ。
「寒くはないの」
そんなに暗くて――底なしの――。
そんな場所は。
伴侶の声が笑った。伸びた漆黒の先が歪な指となって、日に透ける頭を撫でる。
落ちない――のだと思った。
この腕は落とさない。彼女を引き寄せたりしない。
――寒くない。それに底はあるよ。某は辿りついたのだ、アキ。
ぬめる闇がずるりと頬を撫でる。
――某はずっと、ずっと悩んでいた。矜持を守れば強くはなれぬ。強くならねばアキを守れぬ。
煩悶に満ちた声音が鼓膜を揺さぶった。
この人はどこまでも――どこまでも自分のためにあるのだと。
打ち震える心を撫でるように、歓喜の声がする。
――それで決めたのだ。とうとうアキを守れるぞ。
髪を撫でていた闇が凝縮して、よく知った姿を眼前に描いた。
まだ――歪だ。
――さあ。
手を広げる人型に知る。
これは――。
これは女が隣にあって初めて完成する。
伴侶だから。
共にあるべき存在だから。
彼女がいなければどうにもならぬ。さながら毒蛇に咬まれて冥府の牢に繋がれた妻が如き、そこにあるだけの囚人にしかなり得ない。
――おいで。
手に竪琴はない。掻き鳴らす至上の音楽がなければ、冥府の船の渡し人も、地獄の番犬も、無謀な逢瀬を嘲笑うだろう。
けれどきっと大丈夫だ。
妻に焦がれた奏者は、奪還を夢見たから引き離されたのだ。冥府の底で共に住まうなら、天上に続く階段などなくていい。顔を見たって構わない。
そこに待つのは漕ぎ手の老人でも三つ首の番犬でもない。
優しく佇む伴侶の掌だ。
「今行くわ」
立ち上がる姿に、冥府の穴が歓喜するかの如くにさざめいた。
強者たる(文章リメイク)
とっくに限界だったのだ。
擦り切れた靴からも、雨上がりの泥に縺れて悲鳴を上げる足からも、鼓動について来られずに痛み続ける肺からも逃げられない。いつから軋んでいたのかも分からない。
己の不甲斐なさで半身を奪われたときからか、旅を始めたときからか――或いは、生まれたときからか。
今は隣にいないムクホークが、最後に残した戦闘不能を告げる悲鳴が耳から離れない。責めるような声に魘されて逃避するように夜を走った。
あてがあったわけではない。街灯の隙間を縫い怪訝な瞳を振り払って、我武者羅に足を動かす。
行けるところまで――動けるところまで――。
誰にも見つからないところまで。
迷い込んだ森の奥でとうとう息が詰まった。止めてしまった足は動きそうにない。鼓膜の奥で強く鳴る脈の音が、ザンの悲鳴と研究者の悪辣な笑みを掻き消してくれるような気がした。
ようやく――。
逃げおおせたのだ。
安堵の息が自嘲と共にせり上がってくる。足りない水分を補おうと湧く唾を飲み干すと、喉を塞がれて心臓が大きく跳ねる。
心地いい。
ようやく風を感じた。木の葉の擦れる微かな音と深緑のにおいが初めて体中に満ちていく。凍りついた血液が動き出して、震える指先に温もりが戻ってきた。
だから。
「やっと――追いついた」
その声を真っ直ぐに聞いてしまった。弱さで折れた世界を突き付けられてしまったのだ。
拍動が止まる。半身の悲鳴が静寂に満ちた頭蓋の奥に沈んで、代わりに鮮明な愛しさだけが引きずり出された。
長く伸びた橙色の髪。太陽に似た丸い瞳が心配げに細められて、たゆまぬ芯を包んで微笑を刻む口角が下がる。華奢な体つきとは裏腹の気強な眉尻が垂れる。
震える足は疲弊したせいなのか、それとももっと別の理由なのか、もう分からない。振り向くまでもなくまざまざと浮かぶ面影に上手く息が出来ない。口を開閉させながら、声帯の震わせ方も忘れて、ツバサは初めて己という一個体の感覚を取り戻した。
――アキ。
意思さえ失った今、体を支える柱を奪われて立つことは出来なかった。
崩れ落ちた彼女を切り株に座らせたアキは、俯く伴侶から空に視線を移したきり動かない。言葉を探す清涼な沈黙を吸い込んだ肺だけがどこまでも膨らんでいく。
「ねぇ、ツバサ」
真っ直ぐな緑がようやくツバサを見た。
「どうしたの? 急に逃げ出すなんて」
一度も背を見せたことのなかった彼女の逃亡に、アキは誰より困惑している。
ツバサもようやく顔を上げた。疑うことを知らぬ瞳の奥に宿る意思が、強者としての彼女を求めているように見える。
かつて見た絶対的な強者の夢想を眼底に見る。開いた口からはすんなりと言葉が漏れた。
「――某は誰よりも弱い」
眼前の瞳が大きく見開かれる。
「今まではずっと、自分のことを強いと思ってたさ。だが、某は本当は何もできない。弱さの塊なんだ」
半身を失えば全てを忘れて背を向けてしまうほどに。何よりも大切にしてきたはずの誓いすらも投げ出してしまうほどに。
確かに全うできると信じて疑わなかったはずの――アキと同じ瞳で見ていたはずの、己に課した義務も責任も投げ出してしまうほどに。
「某にはお前たちを守れない」
眉間に寄る皺を見たくなくて視線を逸らす。暫く足許を泳いだ視界は、やはり先程と同じ草木の芽に定まった。
「そんなこと、ないよ。ツバサは誰よりも強いよ」
その――励ましが。
心を抉った。まるで強くあってこそ己であるような。強さこそが己の一部であるような――。
ならば。
ならば今、弱者に堕ちた己はツバサではなく――。
何者なのだ。
唇を引き結ぶ。横に振った首は思いの外弱々しく空を切った。
「某みたいな弱い存在はいてはいけないんだ」
彼女はどこまでも純真にツバサを信じている。無邪気に強者を肯定している。
無自覚なまま強いのだ。
好きなものを好きだと怖じることなく言葉にすることも、最愛の相棒を失いながら泣き腫らした目で立ち上がることもできる。彼女より実力のあるツバサが差し伸べた手にさえ、縋ることを選ばず共に戦うことを望んだのだ。
それこそが彼女の在り方であり、ツバサの愛する真っ直ぐな優しさだ。弱者へ差し伸べる手は強者の精神にしか宿らぬ。
彼女の隣に立つのは己を貫くことのできる者だけだ。
だから。
「いっそ、消えてしまえば――」
いいと思った。
風に吹かれて今にも折れそうなこの新芽のようなアキに。雑草の中に紛れて、確かに空を見詰める純粋さに。
ツバサは――相応しくない。
隣で衣擦れの音がしたのを耳にするより早く、乾いた音と痺れるような痛みが頬に響いた。反射的に押さえたそこから、心に掛けた膜が破れていく。
「バカ」
見詰めた瞳がいつもの強気で怒鳴った。
「消えてしまえばなんて、言わないでよ」
とうとう目を霞ませていた膜が破れたようだった。この森に迷い込んで初めて、ツバサの脳が目の前の愛おしい顔立ちで満ちる。
彼女は怒っている。悲しんでいる。
誰かに伴侶を否定されたことに。伴侶が誰かを拒絶したことに。
ああ――。
強い。
その強さでもって、彼女はツバサを選んでいる。
「すまない、アキ。某は、もう――消えてしまえばなんて、言わないから」
己の醜さを突きつけられたことに震えながら、頬を押さえたままで、ツバサは視線を逸らした。
ツバアキまとめ