テイルズ化まとめ
新年(ウィオイリ)
新年会をしようと言い出したのは誰だったろう。
起き抜けの一言にこぞって歓声を上げたはいいが、追われながらの道中である。派手な挙動も余裕を持った準備も許されず、借りた旅宿の一室に幾らばかりか豪勢な酒と食料を持ち込んで、細やかな晩餐会を開くに至った。
ごく内輪の盛り上がりだったが、奇縁で結ばれ旅を続ける面々だ。気心の知れている中で飲む酒は強くはないなりに美味かった――とウィオラは思う。
飲み比べを挑んで豪快に酒を呷った男を尻目にバルコニーに足を運ぶ。宴もたけなわの恒例行事となれば、その最中に観客が一人減ったところで気付くものはあるまい。雰囲気に呑まれてついつい慣れない酒を口にしすぎたと、冷たさの増す暮れの夜風で火照った頬を冷ます彼の肩を控えめに叩く指があった。
振り返った先の薄桃色が笑った。つられるように笑みを浮かべた青年の隣に立って、イリオーシュが気遣うように顔を覗き込む。
「お酒、大丈夫ですか?」
「少し飲みすぎてしまいましたが、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
そうですかと漏れた安堵の息に微笑を返す。バルコニーの手すりを握り、ウィオラの隣に歩を進めた少女の横顔を、彼は暫し見据えた。
この旅の終わりに――。
彼女が追うべき運命がいかに重いかは、皆理解している。
だからこそ必要以上に騒いでいるのだ。たとえ何もかもが無に帰してしまったとしてもひどいと嘆かぬように。
己の体が燃え尽きても、焦土の中でも、笑えるように。
――イリオーシュが謝罪などせぬように。
何しろ彼女一人を犠牲にするわけにはいかないのだ。皆が笑って手を取る都合のいい物語しか信じない。
そのための旅路である。
「イリス様」
決意を込めて呼んだ名に、青い瞳が円らにウィオラを見た。その桃色の髪へふと指を通し、彼は一つ息を吸う。
僕が――。
――は、烏滸がましいか。
「僕たちが、貴女を絶対に守りますからね」
そう笑ってから。
赤く熟れた少女の頬と、見開かれた瞳の揺れるさまに、自分がいかに恥ずべき行為をとったかに気付いた。
慌てて指を離す。理解すると同時にいたたまれなくなって、吐くべき謝罪が口から出てこない。口を開閉させること数秒、伺い見た姫君の、騎士とよく似た表情と目が合った。反射的に逸らした目をバルコニーのよく磨かれた床に遣って、暫し沈黙したあと、彼は逃げるように見た時計が零時を回っているのに気付いた。
「あの、イリス様」
「な――んでしょう」
「日付が変わったので」
吸って――。
吐く。
「今年もよろしくお願いします」
ばつが悪そうな笑みを漏らせば、イリオーシュも同じような表情で笑った。
えらびとるもの(ウィオラ・ユウエン)
イリオーシュを救わねば。
白んだ視界でウィオラが辛うじて思うのは、だから死ねない――と、それだけだった。
勝てないことを承知でぶつかった相手に吹き飛ばされたまでは覚えている。目を覚ました今、どれだけの時間が経っているのかも分からない。力を込めた足は意に反して膝を折り、幸いにして手にあった剣も体を支えるに至らない状態で、できることと言えば辛うじて扱える方陣の展開程度であった。
守護の誓いに与えられた癒しによっていくらかましになった体を引きずる。余裕を得てようやく巡らせた視線も、白霧に邪魔されて何も見通せない。
幻惑かと――。
考えるより先に足を進める。共に戦う仲間の名を叫ぶが返事はない。それどころか濃霧に反響して吸い込まれ、どこまで届いているかもわからない有様だった。
それでも足を止めるわけにいかない。
イリオーシュが待っている。彼女は確かに叫ぼうとしたのだ。
――助けて。
奥歯を噛みしめ、振り切るように声を張り上げようと息を吸い込んだときだった。霧の奥に滲む大木が見えた。
その根元に寄りかかる――。
「ユウエン!」
駆け寄れば、男はゆっくりと目を開けた。その肩へ手をかけたウィオラが守護方陣を展開しようとするのを武骨な掌が遮る。
「――行くのか」
怪訝に歪む瞳をまっすぐに見据え、痛みに耐えるユウエンが重い口を開く。荒い呼吸の狭間に低く唸る声から視線を逸らす。
あのとき、ウィオラたちを追い詰めた仮面の少女――イリオーシュが女帝であったときと同じ仮面を砕いた先にあったのは、確かに一時のまどろみを与えられた村で見た、ユウエンの妹の顔だった。とうに焼け落ちて消えた村の、唯一の生き残りであることに間違いはない。
それでも。
ウィオラはなすべきことを曲げられない。
再び持ち上げた視線は今度こそ逸らさなかった。静謐な男の眼差しにはっきりと答える。
「イリスを救わなきゃいけない」
「そうだな」
お前ならそうする。
怒りも悲しみも落胆もないまま、ユウエンは安堵さえ孕んだ吐息と共に俯いた。懐を探る手に見覚えのある薬があるのを騎士は見逃さない。
鎮痛剤――。
協調を常とする騎士団とは違い、ユウエンの属したギルドという世界は個の集団だ。戦場で手傷を負った同業者に同情し、治癒を施す間におめおめと殺されるようなことはしない。手を組むのは利害の一致を認めた場合だと彼はいつか言っていた。
だから傷は自分で何とかするんだよとも。
一息に飲み下した量はおおよそ傷の痛みを忘れるには充分だろう。
少なくとも――手負いの騎士と一戦交える分には、支障はあるまい。
「お前はそれが正しいと思うか」
「わからない」
首を横に振って体を離す。立ち上がったその手にある剣は、怜悧な瞳でこちらを射抜く仲間に切っ先を向けた。
「ユウエンが納得できるように、僕の答えを示すだけだ」
純粋な――。
絶望にも、悲哀にも、憂えにも、悪にも、恐怖にも染まらぬ、愚直なだけの穢れのない瞳に。
刀を抜いたユウエンは咆哮した。
始まりゆく世界(イリオーシュ)
それは咲き乱れる一面の花畑だった。
遠い書物に残された、色褪せた花々の描かれた一枚の絵を頼りに、イリオーシュは生きてきた。いつか咲き誇る花を見るために、恵みを失い日に日に近づく終末を止めることを決意した。
民のためだと――王の務めだと――。
思っていたのは嘘ではない。彼女は手を伸ばす人々を見捨てられるほど冷酷ではなかった。
ただ。
自分の夢を殺せるほど、大人にもなり切れなかった。
迷う背を押したのは、自分を救うために尽力する仲間の笑顔だった。彼らのためならばどんな理不尽も受け入れようと決めた。この愛しい世界への愛情を、初めてこの手で感じたのだ。
襲い来る無情な暴虐と正論に、それでも彼らは前を向くことを止めない。この世界を正しく救うためならばと、自らの愛しいものを奪っていく現実の荒波に、歩みを止めずに飛び込んでいく。傷ついて膝をついても笑って立ち上がるのだ。
その表情は――。
イリオーシュが誰よりも夢見た花畑の中に、どれほど似合うことだろう。
だから、閉じた瞳の奥に見る褪せた絵画の一枚を描きながら、彼女はこの儀式の場に立つ。
何人たりとも踏み込めぬ聖域だ。イリオーシュの命はこの荒れ果てた大地に根付き、世界を彩る無数の花弁の糧となる。
別れ際、金髪の騎士に手渡されたものを握る。逃れられぬ敵襲の最中にあったことを言い訳に、未だそれが何なのかを見てはいない。
怖かった。
見てしまえば、この取り返しのつかない覚悟が今更鈍るような気がした。鮮やかな光を見るためだけに進んできた道程に影が差しそうだった。彼らのための最善だと信じた嘘を後悔すると確信があった。
それでも――彼女を守らんと今も戦い続けている彼らのためにも、早急に事をなす必要がある。
震える指先を眼前で開く。
アイリスの模様が刻まれた、銀製の小さなロケットだった。開いた先には何もない。思わず笑う声が情けなく震えていた。
「いやだなあ」
――初めて外を見た。
本でしか知りえなかった帝王学を振るう先を見た。終わっていく世界の真実に自らの手で触れた。
仲間を得た。友を得た。取り返しのつかない悲しみを知った。失うことの苦しみと、それでも前を向くことの尊さを知った。
一緒に救った世界を見て回りたかった。
手を取って笑いたかった。
――花を見たかった。
堰を切って溢れる願いで視界がぼやける。膝をついて祈るように包んだロケットに、いつでも前に立つ金の髪が過る。
――ああ。
「しにたくないよ、ウィオラ」
ただ一言だけの弱音を漏らして涙を拭う。
それでも立たねばならない。それに死ぬわけではないのだ。この世界のどこにも見えなくなるだけで、イリオーシュは恵みある限り生きている。
だからこれは別れではない。
再会はなくとも――。
――ここにいるのだから。
*
疲弊しきる足を気力で動かしている。限界を訴えて軋む心拍を誤魔化して、ウィオラは無数の兵を睨んだ。
これが最後でも構わない。別の場所で戦う仲間も、祭壇に立っているであろう彼女も、きっと同じ気持ちだろう。
息を吸い込み、己を鼓舞するための咆哮を上げて駆け出す――。
その足が。
踏み散らした花弁が舞い上がった。
動きを止めたのはウィオラだけではない。混乱する兵の足元に、失われたはずの花が咲き乱れるのを、誰もが呆然と見詰めていた。
――それは。
待ち望んだ光であり――。
たった一つの犠牲を認めた世界の再生だ。
頬を掠めて舞い落ちた虹の花弁を手に、騎士はただ立ち尽くした。
エピローグ(レギーナ)
分厚い論文集を封筒に込める。
宛名に書くのは共同研究者の名前だった。これで当面の研究資料の対価にはなるだろうと、予め用意してあった手紙を入れて封をする。最近のレギーナの仕事である。
——旅を終え、彼女が戻ってきたのは帝都の研究室だった。
女神と共に世界を救った英雄は、覚悟していたほど悪い扱いを受けなかった。名目上の反逆罪として謹慎が申しつけられた他にお咎めはない。それはレギーナに限った話ではなく、救世の旅路を走破した全員が、以前の役職とそう変わりない場所で、それぞれのできることをやっていると聞いた。
とはいえ、英雄になって帰ってきたからといって、彼女のやることは変わっていない。ようやく共同研究者が一人増え、少しばかり気持ちが外を向いた他には、研究漬けの毎日に変わり映えはしなかった。
クリスチアナ・アンセマンへの送付資料を横に置き——。
数刻前に届いたばかりの手紙を開く。
見慣れた文字をなぞる視線を遮るように、数日前に拾った猫が膝を占領する。その背を撫でながら掲げた紙が、机に面した窓から差し込む日差しに透けた。
差出人は腐れ縁の貴族騎士である。
騎士団に戻ったカファイラは、元の地位もあってそれなりに重要な役職に就いたという。互いが相応に忙しい中で、どちらともなく始めた文通も、今や資料用の棚の一段を占領するまでになった。
内容は何のことはない近況報告である。旧体制が取り払われた騎士団の制度の再編が近々ようやく終わる苦労が綴られている。レギーナはその辺りの事情に疎いが、ああまで大規模ともなると、号令一つでどうにかなるものではないのだろう。
頑なに上ってくる膝の猫を幾度か下ろせば、諦めたようで今度は使っていない椅子を占拠する。日当たりのいい場所に置いてあるそれの上で不貞寝とばかり丸まった背を見て苦笑する。
取った筆は滑らかに紙面を滑った。
こちらもそう書くことがあるわけではない。彼の苦労への同情、もうじき書き上がる合同論文のこと、拾ってきた猫の横暴、最近発売された携行食の栄養バランスが優れていること——。
最後に気遣いの言葉を乗せて、サインを施す。気の置けぬ相手へのくだらない手紙に誤字の心配をする必要もない。そのまま封を閉じ、先に書き上げた封筒の上へ置いた。
——それから。
何の気なしに、机の前の窓を開け放つ。吹き込む風が優しく資料を攫うのも構わず、レギーナは緩やかに笑みを浮かべて、快晴に照らされた町並みを見た。
今はもう見えなくなってしまった王女も、本当に大精霊となってしまった仲間も。
賑わう商人の声に。はしゃぎ回る子供たちに。穏やかな母の笑顔に。舞う花弁に。誰かの心に。
そこに——生きている。
「いい風だねェ」
独りごちれば急に懐かしい感傷が胸を覆った。愛したものを喪くした疼きと、喪ったから得られた喜びとがない交ぜになって、寂寥感によく似た棘が心を締め付ける。
——カファイラは何をしているだろう。
——たまにはこちらから顔を出してみようか。
きっと驚くに違いない。手紙を渡せば直接言えばいいのにと笑うだろう。その表情が無性に見たくなって、レギーナは立ち上がる。
静寂だけが取り残された部屋の中で、閉めた窓の桟に乗る虹の花弁に、起き上がった猫が一つ鳴いた。
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