ムアサドさんまとめ
白詰の枯れる
瑞々しい緑のにおいは、何故か見たこともない母の故郷への郷愁を駆り立てる。
ミンクの父は見果てぬ地平の向こうまでを手中に収めたのだという。見渡す限りの砂漠の端までが、偉大なる砂漠王の領土なのだと――。
母は言った。
砂漠の中央で育ったミンクには、無限に続くかのように見える砂の大地に果てがあることが実感できない。母が生まれたという草原という場所も、オアシスが精々の土地にあって、想像はつかなかった。
ただ――。
時折母がくれる白い花はひどく気に入っていた。
小さな花弁が集まって、一つの花になる。活けておいたはずがいつの間にか白い綿のようなものに変わっている。それは種というのだと、母は優しく教えてくれた。
その貴重な白を沢山手にした母が、幼い娘の前で、冠のように茎を編んでみせたことがあった。
――花冠というものなのだという。
見よう見まねで編んだ拙いそれを笑った母は、願掛けを教えてくれたのだ。大切な人との約束をするための――。
*
「お前の剣にしてほしい」
幼馴染みの言葉に、ムアサドは耳を疑った。
王位継承のための実質の戦乱が言い渡されて数日後の部屋である。侍女の娘である自分にも王の資格があるのだと息巻くほどの自信もなく、そもそも未だ剣のない彼女にとっては、一見すれば願ってもない申し出だ。しかし相手がミンクである。彼女とて側室の子なのだから、参加の権利を持っている。
――主を持って命を守る剣になるというのは。
――王位継承権を放棄することだ。
「何だい、急に。君なら充分に王位を目指せるだろう?」
「そう思うか?」
いつになく神妙な顔で問うミンクに迷いなく頷く。
宮廷の侍女からハレムに召し上げられた母は、草原の民から側室に選ばれたというこの少女の母と親しかった。母の代から始まる付き合いで、幼い頃から共に過ごしてきた彼女に対するムアサドの信頼は厚い。
彼女の王たる資格はひとえに簡単に迎合しない性格にある。大衆を窺うことも重要だが、自分の信念を貫き通す胆力は、一国の主として何より必要な素質だ。
だから彼女は――。
ミンクに王になってほしいと思っていた。
少なからぬ動揺は表情の薄い少女にも伝わったろう。彼女は逡巡したように青紫の瞳を逸らして、それでも声を上げた。
「わたしは王位に興味がない」
「王になれば誰かを救えるんだぞ」
「助けるだけなら王じゃなくたってできる」
尚も反論を続けようと身を乗り出したムアサドを手で遮る。その話はここまでだといわんばかりの態度にますます募る不服を抑え込んで、彼女は一度椅子に深く座りなおした。
無言で。
眼差しが可否を問うている。
だから首を横に振った。
「君なら王になれると、私は思う」
真っすぐなムアサドの視線に幼馴染みもまたゆっくりと顔を上げた。交錯する視線に諦念と失望めいた色を孕んだミンクは、頑として自身の意を曲げるつもりはないようだ。
「わたしは自分の意志で兄弟姉妹の首を取るつもりはない」
それは。
ムアサドの頭を強く揺らした。強張った体から抜けていく熱の代わり、湧き上がるものを飲み込むこともできず、彼女は椅子を蹴って立ち上がる。
「違う、そうじゃない! 王に立って国民を助けるための戦いだ!」
「だとしても兄弟姉妹を蹴落とそうとしてることは確かだろ」
倒れる椅子が床を打つ音だけが響いて――。
その後は惨憺たるものだった。
とはいってもムアサド自身もよく覚えているわけではない。ただ、自分の正義を否定された思いだけが頭を渦巻いて、体中を呑み込んで言葉に変わっていっただけなのだ。
彼女とて兄弟と争う不毛さは理解している。それでも王になることが――。
――否。
王になる権利が必要だった。
無我夢中で口論を続けるうちに、いつの間にかミンクも自身の座った椅子を蹴倒していた。何度も叩きつけ、互いに突き付けた指先はとうに痺れて赤くなっている。とうとう吐き出す言葉もなくなって荒い息のまま睨み合う二人の瞼がふと緩んだ。
「もういい」
――終止符を打ったのはミンクの方だった。
「わたしにお前みたいな理想はない。殺し合いの権利は捨てる」
低い唸り声だった。重ねた言い合いですっかり枯れた喉で、はっきりとそれだけを告げて、彼女は踵を返した。
扉の閉まる音で力が抜ける。虚脱感に勝てぬままへたり込む彼女の脳裏にかつての約束が過ぎっては消えていく。痩せた手で彼女の頭へ花冠を乗せた手は――。
「――一緒に国を守るんじゃなかったのかい、ミンク」
*
白い花を編む。
母仕込みの記憶は頭が忘れても指に残っている。無心で冠を作っているときだけは、ミンクは過去の感傷から逃れられた。
彼女をずいぶんと気に入ったらしい主は、この呑気な行為に文句をつけない。平穏な戯れにしては鬼気迫る表情がそうさせたのかもしれないと、ミンクは鏡に映る眉間の皺を見た。
――花冠を贈って約束をするのよ。
――きっと叶うからね。
母の穏やかな顔が脳裏にこびりついて消えない。彼女によく似ているはずの鏡に映る顔は、正反対の表情でこちらを睨んでいる。
きっと約束は違えていないのだ。あの日ムアサドに贈った花冠に、二人で込めた国を守るための願いは、まだ互いの心に燻っているのだろう。
それなのに――。
いつからか、ミンクの思う国とムアサドの思う国が違っていた。
だから。
この断絶は然るべきものだったのだと。
自分を納得させるために目を閉じる。黒く塗りつぶされた視界にも、不思議と指先は動いていた。
思うべき相手もなく、込めるべき願いもないまま、編みあがった小さな王冠を――。
浅黒い指先は握りつぶした。
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