RTIまとめ
終わりゆく始まり(アキ)
腐臭の海から伸びるいやに綺麗な掌が、探るようにして草を掻き分けている。
歪な動く屍に囲われた木々の隙間から、漫ろに瞬くくすんだ紫が現れる。煤けた銀の長髪は先だけが錆色に染まっていた。左目を覆うモノクルの奥で、歪んだ笑みを湛える女は、よろめくような足取りで雑草を踏んだ。
手にした野草と茸を見もせずに籠へ放り込む。既に溢れんばかりの雑草で埋まったそれを、意思のない異形の掌が抱えている。
研究者アキにとって重要なのは種類ではない。
――その野草から何を作るかだ。
血に塗れた継ぎ接ぎだらけの白衣が湿った森の奥を踏みしめていく。青臭いにおいを撒き散らしながら、清澄な空気を無粋に裂く研究靴の足音が立ち止まったのは、それから数分後のことである。
竜。
――であろうか。
なぎ倒された木々の中央に体を横たえている。裂けた腹から零れる臓物が、生温く緑に赤黒を落とす。まるで吼えるかのように天を仰ぐ大口は黒く汚れていた。
まだ時間は経っていないな――などと思う。
追えばこの怪物を斃した相手に会えるやも知れない。さりとてこれを手放すのも惜しかったし、追ったところでアキがその力の全容を得られるとも思えない。
兎に角この屍を運ぶのが先だろうと、待機させた創造物どもの間を分けて駆け寄った先――。
巨体に埋もれるように伏した体を見た。
暴虐の爪に荒らされたそれは、辛うじて青年の姿をとどめているようだった。大きく開いた口が、深く食い込んだ牙に断末魔を圧し出されたときのまま、赤黒く柔らかな口蓋を晒している。
その光景に見開かれた紫が揺れる。唇が震えて息が上がる。肩で息をしながら、踏みしめた足が力を失くしていく感覚を遠くに感じる。
恍惚の表情で――アキは嗤った。
「ヒヒ」
ひきつれたような口許が渦巻く思考を収束させていく。二つの骸を指させば、腐臭を放つしもべは緩やかにそれを引きずってくる。
そのむせ返るような血のにおいを浴びながら――。
研究者は淀んだ銀の髪に鉄錆びの色を刻んだ。
始まりゆく終わり(モズ・クロガミ)
鼓動に合わせる鈍痛はやはり然程酷くはないのである。
この村は病に侵されているという。時折村の隅で呻くように蹲る人影が、その媒体であると聞いた。彼も幾度か見たことはある。
けれど――夢にも思ってはいなかったのだ。
クロガミ少年自身が、その病に侵されようとは。
竜化症と言うらしいそれは、今のところ緩慢な速度で全身を蝕んでいる。時折の激痛と共に鱗の如く硬化する皮膚と、いつの間にやら生えた歪な一対の角以外には、未だ彼を人間でなくすほどのことはない。
だからクロガミには分からない。
分からないけれど――。
――それはいずれ己を殺すらしい。
命が懸かっているというのなら、足掻けるうちに足掻かぬ手はない。何の手がかりもないままこの一室で死を待つよりは懸命だ。そう思って纏めた荷物を背負いながら、彼は確認するように頭の角に触れた。
行かねば――なるまい。
握り締めた掌が人間のものであるうちに。
張り詰めた面持ちで家を出るクロガミに声を掛ける者はなかった。早い段階で角の生えた彼は、村に蔓延する病の媒体であることを隠せない。遠巻きな視線には目もくれずに村の門を潜る。
何としても日が落ちる前に森を越えねばならないのだ。武器の心得があるとはいえ、一人きりで獣の視線に晒され続ける夜を送るのは恐ろしかった。
前だけを見て早足に歩く。木々の間から覗く、舐めるような獣臭い吐息に目を付けられぬうちに、仮宿を見つけねばならない。野営になるにしても安全な場所が必要なのである。
そう思っていたから。
何か重いものを蹴り上げて反射的に槍を構えた。
森は獣の領域だ。元より人の分け入るべきでない道に、何が寝ていてもおかしくはない。歯を剥き出しにして眉間に皺を寄せたクロガミは、彼にも理解の出来る呻き声を聞いて息を呑んだ。
赤い――。
髪である。よく焼けた肌も、その服装も、このあたりでは見かけたことがない。
それでも――人間だ。
「だ、大丈夫!?」
武器を仕舞って肩に手を掛ける。うっすらと開いた紺碧の瞳が焦点の合わぬままに瞬いて、彼の方に手を伸ばしてくる。
「飯――」
「お腹空いてるんだね」
幸いにしてまだ土地勘のある場所だ。少し歩けば別の村があることも知っている。何より――ここで彼を見放すことは躊躇われた。
取り出したおにぎりに飛びついた赤が一心不乱に白米を齧る。ものの数十秒で消えたそれに目を瞬かせるクロガミに向けて、彼は快活な笑みで声を立てた。
「助かったぜ。ありがとな」
すっかりと活力を取り戻した彼は、名をモズと言うらしい。
聞けば小さな集落の出身らしい。村内では腕利きで、大人ですら彼の喧嘩めいた剣術には敵わなかったそうだ。功名心にはやるまま家を飛び出してきて数週間、とうとう勘の利かぬ土地にまで足を運ぶこととなった彼は、数日この森で彷徨った挙句に腹を空かせて行き倒れたらしかった。
あっけらかんと顛末を話す彼に問われれば、クロガミも己の装備の理由を話さぬ訳にはいかないのである。
竜化症――。
という言葉を、モズは知らないようだった。
散々に唸った末に、日が傾いて森の出口が近づく頃に、彼はそれを兎角重大な病とだけ認識することに決めたらしい。一人大きく頷くと、隣を歩く角を持った少年に向けて、屈託なく笑いかけた。
「うし、それなら俺も付き合うぜ。元々目的のある旅じゃねえし、お前は命の恩人だしな」
「いいの? まだ手がかりもないし、治るかどうかも分からないけど――」
「手がかりがないから旅して、治し方が分かんないから自力で治すんだろ」
ああ、それいいな、俺たちが竜化症を治せますって――。
武功を求めていたはずの少年は、あっさりと方向を変えて頷いた。赤く照らされる浅黒い頬が未来への期待に高潮する。彼に応えて笑う歪な角の少年も、ひどく楽しげに、包帯の巻かれた足で地を蹴った。
これは二人の未熟な少年の物語。彼らの辿る道はやがて絶望へと至る――。
錯誤(アキ・モズ)
クロガミは助かる。
モズはいつか交わした約束どおりに薬を作れるわけではない。結局、その体は動かすためにあるもので、思考するためのものではないのだ。
その分だけ走ることはできる。切らした息を肺に詰め込んで体中に回し、そのまま足を前に出す。
もうすぐで――目指した場所に辿り着けるはずなのだ。
山奥の古びた研究所、万能を手にした薬売りが、人の内に宿る竜を滅ぼす薬を持っている。誰とも知らぬその神じみた存在に、握りしめて皺だらけになったなけなしの全財産を渡して、後は頼みこめばいい。
友人のために。
リュウカショウなる病を祓う薬を――。
息を切らせて登る山の果て、動かぬ機械に囲まれた扉の向こうに、モズは震える手を伸ばす。
こみ上げる吐き気は疲れか緊張か不安か。肩に力が入るのは抑えようもない。更に高まる鼓動で強く叩いたドアの向こうから――。
「おや、お客様とは珍しいねェ」
モノクルが顔を出す。
白衣を纏った中性的な顔立ちと背格好である。まさに研究者といった出で立ちの影は、唇を歪めて値踏みするようにモズを見詰める。
女だ。
確信した理由は薄い。声が男にしては高いというそれだけである。それを知ったところで何になるわけでもなく、少年は疲弊した声帯に力を込めて、お願いします――と叫んだ。
「友達が、リュウカショウって病気で、危なくて」
「ああ。なるほど、薬かい。確かにボクが持ってるよ」
フヒヒ。
吐息交じりに笑声を上げた科学者は、ゆるりと手にした槍にぶら下げた試験管を解く。内蔵された液体を焦らすように注いでから、丁寧に蓋をして、時間切れを気にする彼へ差し出して見せた。
「後でこいつの効果のほどを教えてくれれば、お代は結構。早く帰ってやりなよォ。あの病気は早いうちに対処しなくちゃね」
「ありがとうございます!」
「いいってことさ。期待してるよ」
――キヒヒ。
笑む顔を見ぬうちから走り出した少年の背を見送って、科学者アキは再び嗤った。嘘は言っていない。数多の科学者と同じ、彼女は極めて客観的で、事実のみしか口にしないのだ。
体内に限らず、あれは竜を殺す薬だ。通常の人間が飲んでも直ちに影響はない――竜だけに効力を示す致命の毒薬。
しかし。
既にその身に竜の力を受け入れつつある竜化症の患者が飲めば話は別だ。かの恐ろしい事象は竜が宿るが故に起こるのではない――竜に変ずる病である。ただ寄生されるだけならばその身を取り戻すことも出来ようが、変じたものを元に戻せるようなものではない。
「――効果のほどを、期待してるよ、少年」
キヒヒ。
名も知らぬ少年に告げた言葉を繰り返して、アキは嗤った。
血塗る(アキ)
辿り着いた先にいたのは、果たして異形を従えた女であった。
意志なき死体の全てを下がらせて嗤う彼女が、一つに縛った銀の髪を揺らす。纏った白衣と同じ、地に近づくほど乾いた血のような赤茶色に変化するそれに目を遣るのも束の間、科学者アキはモノクルの位置を直すと、その特徴的な笑い声を響かせた。
「キヒヒ! ようこそ、ボクの実験場へ、選ばれし者。招かれざる客人だなんて言う気はないよ。ボクにとっては皆等しく招かれるべくして現れた存在。偶然は全て必然足り得るのさ。キミがそう思い、ボクがそう思うならね。故に――」
興奮のうちに捲し立てた台詞を遮るように、槍を手にした指先が伸びる。紫の薬品と無数の試験管を携えたそれが硝子のぶつかる無機質な音を立て、こちらを指差して尚も笑った。
「この邂逅は必然。このボクと、選ばれし者たるキミの、神聖なる創造物だ」
ヒヒ。
吐息に混じる声と共に唇が吊り上がる。魔導書を構えるこちらに向けて、女はその笑みを崩さない。
まるで――。
喜ぶかのように。
だからと吐いた続けざまの言葉が高ぶりに歪んでいた。弾む吐息が少女のような陶酔を訴えてくるのがすぐに分かる。
「だから」
純粋な――期待で。
その槍が持ち上がった。
「ボクと一緒に創造しよう! ボクとキミの作品を、ボクとキミの血と肉と骨と脳味噌と内臓と細胞と遺伝子で! 今ここに! 作り上げるんだ!」
受け入れるように伸ばした腕に、試験管がじゃらりと音を立てた。止むことのない哄笑が死のにおいを孕んだ実験場に響き渡る。魔導書を開かんとする腕に向けて、彼女は尚も止まない陶酔を喋りつづけるのだ。
「どっちが先に死ぬかなァ。どっちでも構わない、勝てばボクはボクになり、キミはキミになる。負ければボクは作品になり、キミは創造物になるだけなんだから!」
鳴り響く笑声が天井を仰いで。
――血に塗れた槍は、目標を貫かんと地を蹴った。
RTIまとめ