ロードラまとめ
楽屋裏(D-Club)
盗まれたというのなら取り戻すのが道義であろうと思う。
GSには――騎士としてあるまじきことであると理解してはいるが、乙女への持て成しというものが分からない。元より無骨な性分であるから、よく知らぬ存在の喜ぶことを、自ら考えるのが苦手なのだ。
バレンタインというものもよくは分からぬ。老若男女問わずチョコレートを貰うから、その返礼として一か月後に何かしらの品を用意してはいるが、その意義はさして分からぬままだ。
故に――。
チョコレートそのものに興味があるわけではない。
とはいえ人の心に寄り添うことはできる。自分たちに渡すべきバレンタインのチョコレートが消えたと知れれば、乙女たちがいかに悲しむかを想像するのは容易い。
騎士として乙女を泣かせることはあってはならぬと、そのくらいは分かっているのである。
ともなれば、例えおせっかいであったにしても、微力ながらも手掛かりを探すのが筋であろう。幸いにしてGSの観察眼は鍛え上げられている。どこぞのゴーグルではないが、相応の助手力とやらを発揮すること程度は出来るだろう。
であれば。
協力を仰ぐこと――が正解なのであろうが、この館の全員が容疑者である以上、迂闊な発言をするわけにはいかない。潜入捜査の成功のためには己が疑われぬことが要件である。
さてどうするかと頭を捻るGSの前に、ふと目に痛い白が見えた。
顔を上げると案の定ヴァルトルスがいる。美しい眉根をいつになく寄せ、苛立ちを隠そうともしないまま歩いてくる。ともすればすれ違っただけでも雷が落ちてくるであろう様子に臆することもなく、GSはようと声を上げた。
「チョコレートがなくなったんだってな」
「ふん、知ったことか。あんな悍ましい物体」
探偵乙女とやらに疑われているのだと不機嫌そうに唸る。相変わらず黙っていれば神らしい容貌も口を開けば台無しである。
ともあれ彼の歪みはそう大きいものでもない。容疑者として一番に疑るのは早計である。
というよりは――。
感情が表に出やすい性分のヴァルトルスを必要以上に疑っても収穫は少なかろうというのが本音だった。乙女相手でさえ普段から高圧的な彼が、こうも気が立った状況で他者を気にしているとは思えない。
つまるところ。
単純なのだ。
声を掛けた限り黙り込んだGSの様子にますますもって不機嫌の色を強めたヴァルトルスが腕を組む。
「――おい、よもや貴様も」
私に嫌疑を掛けているのではあるまいな――。
射殺さんばかりに睨むヴァルトルスに仕方ないとばかりに首を振る。
「んなこたァねェよ。お前がやるとは思えないからな」
半分は本心である。
第一に疑うのは早計だが、その衣装と同じく白であると決めつけるのも尚早だ。
疑いすぎるのもいけないが疑わぬのも致命的である。乙女のためであるとならばなおさら慎重に解釈すべきであろう。
例えば普段は三回の雷が五回落ちたのが、嫌疑を掛けられたことへの怒りにしか見えなかったとしても――。
歪みであることに変わりはない。まして潔癖のきらいがあるヴァルトルスだ。充分すぎる歪みとして換算することは間違いではない。
「ま、取り敢えず訊いて回ってるってだけだ。お前の疑いを晴らすためにもよ」
「ふん、どうだかな。貴様のような愚衆を信用する理由もない」
「ああ、まァ、信じてもらえなくても構いやしねェがな――」
高飛車な捨て台詞で踵を返した白を見送る。
そういえばカインならばあの魔眼占いとやらで視られるのではなかろうか――。
思いながら、指名の声を浴びたGSは、探偵乙女の元へ向かうのだった。
無情なる終幕(ヴァルトルス)
――何故機械などに捕まっているのか。
ヴァルトルスには理解ができない。得体の知れぬそれはヴァルトルスの力の全てを奪い去り、容易に拘束して見せた。
抵抗すればするだけ殴られた。それでもヴァルトルスは意志も持たぬそれを睨み続けていたし、その奥にあるであろう何らかの人為を射殺さんとした。
所詮は機械である。
彼の眼力にも放てぬ裁きの雷にも、それは果たして何の感情も示さなかった。無機質な鉄塊ばかりがヴァルトルスの腹に食い込んで止まない。頬に触れぬうちはまだ罵倒で許していたが、露出した肌に絡みつく錆臭い金属のにおいと冷えた感触に鳥肌が立った。
それで――。
今は奪い取られた剣で腹を裂かれている。
衣装が汚れるのばかりが気になる。それでもこの無機質な蹂躙を今更止める方が無様だと理解していて、意地でも腕は持ち上げないつもりだった。朦朧とする意識の中で、しかしヴァルトルスはその矜持を捨ててはいない。
剥くべき牙を失って、自らの夥しい赤に塗れて体温が失われていく。頭蓋の中で反響する細い呼吸音が耳障りだった。赤く掠れる視界の奥に、自身の腹から吐き出される赤い紐を見た。
汚らわしい――。
音がして体が軽くなる。巻き取られていく腸が逃れるように自然と波打っているのが見えた。先ほどまで体内を巡っていた赤を吐き散らして、それが冷えた装置に晒されていく激痛も、最早その体には遠く薄れる。
途中でちぎれたような気がする。繊維の中から溢れだした赤に競り上がってきた血を吐き出したから、確かそのはずだ。
それで巻き取りを諦めたのか、それともただ工程が終わっただけに過ぎないのか――。
その鉄塊の腕が心臓を掴んだ。
握り締められれば破裂せんばかりに脈打つ。大きく筋の隆起した生命の維持装置を暫しもてあそんで、苦痛に歪むヴァルトルスの表情を楽しむかのように、それを彼が見える位置まで引きずり出すのだ。
そうして――。
「あ」
断末魔さえ許さず。
――瞬時に握り潰された臓物の欠片がヴァルトルスの頬を汚す。
責め苦の意味さえ理解できなかった。もう理解するような気力さえない。暗く重く閉じていく視界の奥で、無慈悲な鉄塊は機能を停止した。
瓦解(ヴァルトルス)
毎日自分の名を問われる。
お前はヴァルトルスか――最初のうちこそ機嫌を悪くしていたその問いの意味を、彼は日に日に理解しつつある。
ここには魔導書と呼ばれる本が多くあった。金の剣が描かれたそれには、自分以外の「ヴァルトルス」が多く眠っている。ひとたび姿を現せば鏡写しのように眉根を寄せるそれと自分が同じような表情をしていることに気付いたのは、無言のうちに睨み合う視線を外した先の磨かれた窓に、その顔が映し出されていたからだった。
魔導書から呼び出される伝記の存在をユニットと言うようだ。
金の剣の他にも、青の杖や紫の槍が描かれた本がある。ユニットそれぞれの持つ属性という力の傾向に合わせて刻印されているらしい。
それらの識別記号の意味をヴァルトルスは知らない。
ただ、自分と――同じ顔の彼らが金の剣に分類されることだけを知っている。
頬杖をついて今一度考える。己は「ヴァルトルス」か。
紛れもなくヴァルトルスである――少なくとも自意識の上ではそうだ。生まれてからずっとその名で呼ばれ、自身の中にある理念とこの思考も、全て「ヴァルトルス」だ。
だが――。
金の剣を見る。その概念に埋もれ、自身の持つ力を分類されて、彼はただの「光剣ユニット」となる。同じ顔と同じ性格と、恐らく同じ考えをしているであろう魔導の群れに囲まれ、その全員と同じ名で呼ばれ続けて、その限りなく希薄になったアイデンティティすら失っていく。
――私は誰か。
「ヴァルトルス」とは――誰か。
頷ける自信がもうなかった。魔導書に戻ってしまえば存在自体の意味さえ失くしてしまう。毎朝繰り返される問いは、さながら鏡に向けて名を尋ねるように、ヴァルトルスの自意識を奪っていく。
明日になれば再び己の名を問われるだろう。「ヴァルトルス」を答えられなくなったとき――己が光の剣に堕ちたとき、腹立たしげにこちらを睨みながら淀みなく自身の名を答える「ヴァルトルス」と、顔を顰めて頷く「ヴァルトルス」と、澱を抱えた自身との間に何が立ちはだかるのか。
同じ顔と同じ言動を内包する幾多の己自身が――。
ヴァルトルスから「ヴァルトルス」を奪っていく。
最早立てる腹もなかった。立ち上がった手にする愛剣の映し身を持った誰かと同じ、剣の魔導書へと身を戻す。
――或いは自分こそが「誰か」であるのかもわからないが。
閉じた瞳の奥に、そのユニットは己の瓦解する夢を見た。
終わりなき終わり(ヴァルトルス)
ヴァルトルスは昔からそこにある。
いつだったか知れぬが、理不尽に目覚めさせられた伝記の存在として、選ばれし者なる顔も姿も知らぬ誰かの支配下に入ったのだという。それ以来ヴァルトルスの体は魔導書という本に繋がれている。
事実、彼はその誰ともつかぬ存在に逆らえたことがない。憤怒に猛ろうが裁きの雷さえ届かぬ見当もつかぬ存在は、彼の怒りなどまるで知らぬかのように、その身に巡る体の全てを構成している。
それ自体に文句はなかった。
この世界の神として在った頃と何かが変わったわけではない。ただ、彼の住まう本棚に知らない本が継ぎ足されては消えていくだけだ。かの選ばれし者なる存在が彼に直接干渉してくるわけではないし、立ち塞がる敵を切り伏せさえすれば文句も言われない。
ただ――。
時折、目が覚めると全く配置が換わっていることがあるのだけは、未だに解せぬことである。
彼が眠っている時間はごく少ない。中には数か月と眠り続けている者もあるらしいが、彼に関して言えば精々が長くて一日だ。その間に、この膨大な書架が何者かの手によって全て整理されているとは思えない。見たことのない本が自分の前に増えていることもあったし、見知った顔が消えていることもあった。
それ自体がどうということではない。
何か違和感があるだけである。
住処に手を入れられることではなく――勿論それ自体も不愉快極まりないことではあるのだが、そんなに外部的なものではないような気がするのだ。
つまり。
ヴァルトルス自身が、何か間違っているような気がする。
その身は昨日と同じである。ヴァルトルスにとっては眠りから覚めるまでの記憶はないのだから、例えば彼の指す昨日が数百年前であっても変わらない。そうであるならば――。
――そうであるならば。
ヴァルトルスが昨日だと思っているそれが、遠い昔であることだってあるのだ。
選ばれし者とやらの力を彼は知らない。神なるものを多く従えるのだからよほどの術者であろう。それを思うなら、業腹なことにヴァルトルス一つをどうにかすることなどどうということではないのかもしれない。
例えば。
肉体を復元することさえも。
「――馬鹿馬鹿しい」
くだらない思考だ。ヴァルトルスにとっては昨日も今日も明日も変わりはない。目覚めた日が今日であり、次に目覚めるのが明日だ。
だからどうでもいい。
突然配架が変わっているのも。
起きたときに装飾の位置が変わっているのも。
愛剣についた覚えのない血が染みているのも。
――全部、どうでもいいことだ。
幸なきこと(ヴァルトルス)
ヴァルトルスは不幸ではない。
未だ顔すら覗かせぬ選ばれし者なる存在は癪だが、己の腕に糸を掛けたかの存在は、しかし彼を邪魔立てするつもりはないらしかった。彼の思考が遮られることはない。選ばれし者の力が与えられているうちは、どことも知れぬ大地に呼び出され獣と竜を殺すそのとき以外ならば体の自由も利く。眠りにつく時間をコントロールできないことを除けば、およそ不幸せと呼ぶには程遠い状況であった。
しかし――と天界神は息を吐く。
このところ本が埃を被っていることが多くなった。目を覚ますたびに不愉快な気分になるのは頂けない。加えて少しずつ、動ける時間が短くなっているような気すらする。
――尤も眠っている時間が長すぎて定かでないのであるが。
欠伸が出るのは加護が薄まっている証だ。口をついたそれは再びの長い眠りが近づいていることを示している。
そういえば最近では獣を狩ることすらなくなった。いよいよもって選ばれし者なる絡繰師が一体何を考えているのだか分からなくなる。
まあ――いい。
かの者が何を考えていようと、自身の自由が確約されているならば構うことではない。だから今日も塒に戻り、またいつ来るかもわからぬ明日まで眠り続け、起きるなり己の寝床に染み付いた埃に眉を顰める。
何しろヴァルトルスは不幸ではない。
不幸ではないから。
不幸にはなれずに。
金の剣が描かれた本を引っ張り出して、その中に戻るなり、最後の眠りに就いてしまった。
氷硝子細工(ジヴフリ)
薄氷に映る街がひどく歪んでいた。
故に、フリージアは杖を受け止める。氷硝を纏って振り下ろされた一撃に剣が揺らぐことに息が止まった。ただの一つで流れ出る嫌な汗を頬に伝わせるまま、彼女は眼前の青年を睨み上げる。
ジヴルはフリージアの師である。
この街を司る祭礼――氷硝祭では、第三皇女たる彼女にもまた責務が課されていた。しかし姉ほどの力もなく、薄氷の力を操り切れぬ彼女は、街の工房に住まう彼に弟子入りを志願したのである。
それが――。
ジヴルの背で憤激の声を上げる友を制するように、彼は身の内に秘める怒りを揺らがせフリージアを見据えた。
眼差しは静謐だ。
それゆえに灼けつくような痛みさえ孕んで彼女に突き刺さる。手にした杖に込める力すら決して緩まない。憤怒と――或いは決意にも似たその手に、しかし彼女の剣も引きはしなかった。
彼のそれが決意なら。
ただの怒りよりも恐ろしいものならば。
――彼女もまた、同じ感情で彼を迎え撃っている。
「君は何も悪くない」
睨みあげるフリージアの耳に、普段の笑みを失った氷竜族の生き残りの声が届いた。
「だから、どいてくれないか」
*
彼の力は本当に美しい。生物の形をなした氷の彫刻を満足げに眺めるジヴルの仕事を見つめていたフリージアは、思わず詰めていた息を吐きだした。
ふと彼女を振り返った青年が笑う。
「フリージア」
「何ですか」
その眼差しはいつもと変わらない。穏やかな瞳を見据え返す皇女もまた、先ほどの感嘆を引きずったまま、いつもの調子で首を傾げた。
「氷硝祭、見に行ってもいい?」
それは。
彼女の当座の目標地点である。少なくともそれまでに、彼の持つ幾百の技巧のうち、ほんの十でもいいから覚えて帰らねばならない。
皇族たるフリージアが、本来ならば振るえるはずの氷硝の力を扱えぬことが国民の目に晒されれば、彼女だけでなく血筋の信頼さえも揺るいでしまう。故に彼女は、多少なりと不格好でも、祭礼までに他人の目に耐えうる力を得ねばならないのだ。
その祭りの名が師の口から飛び出したのである。
「見にって」
思わず見開いた目を元に戻して問う。
「――何をですか」
「君の活躍を」
「それは絶対に嫌です」
ジヴルの前で不格好なところを見せられるものか。
教わったことの一部さえも習得できなかったなどと恩人に知れれば――その落胆と失望が如何なるものかは想像に難くない。
拒否を口にする弟子の口ぶりに観念したとばかり、ジヴルが苦笑を携えて口を開いた。
「僕、お祭りなんて行ったことなくてさ。一度は見に行ってみたかったんだ」
駄目かな。
――問われて拒否などできるわけがない。
「じゃあ、来てもいいです」
俄かに喜びを露わにする青年である。釘を刺すのは忘れない。
「私の出番以外なら」
不服そうな声を上げられても、フリージアが譲れるはずがなかった。
*
そう。
フリージアは。
例え圧倒的な異種族の力を見せつけられたとしても、その氷に心臓を射抜かれたとしても、この身が凍てつく灼熱に溶かされて跡形もなく消え去ったとしても。
絶対に。
「絶対に――どけません」
いつか乱暴にドアを叩いたときと同じように睨み上げた瞳が、その憤激の皮を僅かに削がれている。
彼の纏うそれがただの憤怒でないのなら。
確固たる意志のもとに構成された願いだったとしても。
――同じ想いを剣に乗せたフリージアは、そうであるが故に、絶対にその剣を収めたりはしない。
「貴方を祭りに連れていく約束が、駄目になるから。私はこの街を絶対に守り抜く」
見開かれた瞳に敵意はない。ジヴルの背から唸る友もまた、いつの間にか言葉を解するように声を立てるのをやめていた。
「――そうだね」
そうだ。
「氷硝祭、見に行かないと」
約束だから。
言って、ジヴルはただ笑った。
笑ったまま体を倒す。負けたとばかりに振られる手が、フリージアを招くように無防備に開く。
その意味を――。
理解せぬほど、彼女も子供ではない。
喉元に向けられた震える剣先の向こうにある表情に、ジヴルは思わず噴き出した。歯を食いしばり、心底から嫌がるようなそぶりを見せて、涙をこらえるように唇を噛む顔が、見たこともないほど子供じみている。
「あのさ」
もうわかっているだろう。
歪んだ氷硝は、これをもたらした氷竜族の身にしか破れない。さりとて町を覆う零度の灼熱を自らの意志で溶かすことは彼にはできないのだ。
決めてしまったから。
不凍の氷となってしまったから。
――フリージアと同じように。
だから笑った。せめて彼女の涙にならぬように。杖を投げ出す友の意思を見届けるように、背の竜はただ一つ鳴いて見せるだけだった。
それでも言いたいことがある。
「約束守れなくて、ごめん」
大きく詰まった息の奥、少女のこらえた涙が頬を伝うのを見るまま、青年の意識は闇に鎖される。
結局泣かせてしまって。
――ごめんな。
棺(ディオヴァル)
何ともまあ奇麗なものだ――とディオーネは思う。
硝子の棺。その主を象徴するかの如き鮮やかな白薔薇に、友の仇敵は息もなく眠っている。
死んでいるようだ――と思う。生きているようだ――とも思う。死の自由さえも奪われた神に訪れた束の間の休息は、生死で語るに尽くせぬ。まつろわぬディオーネとてまた同様。
であるが故に、その眠りを彼の憎む純なる不純が言うところの死で彩られていることを、ひどく場違いであるように思った。
それは選ばれし者によってもたらされた一時の眠りだ。
装身具を奪われ、本人はこの静謐な死の棺に眠る。再びその力が要されるときまで、依代となった本を失い、数も知れぬ眠りのうちの一つとなるのだ。
ディオーネには他の本のことがわからない。そう几帳面にいちいち棚を確認せぬし、己の体があり、酒があるならそれで構わない。故にこのかつての天界神が幾つ記されているのか知るすべはなかった。
だから知らない。
これが再び眠りから醒めるときがあるのかさえ。
白い髪と胸に抱く剣。いつかそれを今の主たる者のために振るったのか。或いはただ、現界するやこの棺に押し込められたのか。この眠りがいつか醒めるのか。それとも永遠に、世界崩壊のそのときまでここで目を閉じているのみなのか――。
だからディオーネは、彼の眠りを死と呼ぶ。
永遠に醒めぬならば変わりはない。意識のないまま、限りなく死の淵に近い呼吸を続ける者が、生きているなどと言えようものか。
しかし彼女には死なるものがわからない。いつかこの仇敵がもたらしたそれさえも遠く霞んで朧だ。自ら葬列に参加したしたこともないならば、この静寂の満ちた小部屋に何を施すべきかもわからない。
ただ。
周囲に撒き散らされた白薔薇の海と、彼を彩るように棺に投げ入れられたそれが、この部屋の全てであることはわかる。誰かが訪れたのだろう、踏み散らされたそれの中から幾つか美しいままのものを拾い上げ、茨を掻き分けて棺へ寄る。
その蓋を押し開けて、中に眠る白い肌へ無造作に花を投げやる。剣を抱えて組んだ手の上に白く潔癖な花が乗った。その体にぶつかって散った花弁の一枚が、棺を落ちてディオーネの足に乗る。
――従おう。
それがここの流儀であるなら。
「無様だな」
――天界神。
最果て(ジヴフリ)
道は最果てに至った。
思えば英雄に手を引かれるまま、重い足取りで随分遠くに来てしまった。それでも愛しく懐かしい故郷の氷硝を再び目にすることは叶わないままだ。
それでもまあ――悪くはなかったと、フリージアは永遠とも見える道に踏み出した。
――七番目の竜の消失とともに、散乱した無数の本は、再現された記憶からかつてあった記録に戻っていく。
「ごめん、君に迷惑を掛けて」
数え切れぬ魔導書の墓場で、自身と同じように空気へ溶けかかったジヴルが笑う。困ったような口調が暗がりに沈む視界に木霊した。
きっと彼はあのときを――彼の人としての最期を想起している。フリージアの剣に射止められた氷竜族の生き残り。卓越した氷硝を操る力を見込んだ彼女が、生涯ただ一人、師として愛した青年だ。
止めない歩みで視界が明滅する。少しずつ、人として与えられた仮初の器が消えていく。
思わず横に手を伸ばせば、消えかけた温もりが同じように触れた。同時に握り合った掌が感覚を失っていく。
後悔しているのは貴方だけじゃないと――。
言いたくて、声が詰まる。既に涙を流す機構があるかさえも分からない体で声だけが震えるのが情けない。
口にできたのはただ一言だった。
「ごめん――貴方を救えなくて」
あの日の感覚を、フリージアは忘れていない。
きっとこの道が果てたとしても消えないだろう。敬愛する師を、共に過ごした同志を、隣り合って笑った友人を――愛する人を、その剣で貫いた。
歩みは止まらない。もう歩いているのかさえ分からない。
重力に引きずられるように、悲しみに満ちた物語たちの墓標の中に混じり合いながら、薄くなった聴覚にジヴルがまた笑うのを聴く。気にしてないよと言ったのだと思った。いつかと同じように。氷硝を削ることに失敗した弟子の不始末を片付けながら、落ち込む彼女に言ったのと同じように。
そう思うと足取りが軽くなった。
フリージアが持って逝くべきものは何もない。後悔も、悲しみも、苦しみも、もう置いて逝って構わないのだ。彼がその死に何の嘆きも抱かずに、いつものように笑ったならば、彼女は今どこかの過去で生きている少女へ、この感情を託すべきだ。
それは――。
ジヴルも同じことであった。
それでも繋ぎ止めるように握った手に力を籠める。ただ一つの未練がそこにあった。
「師匠」
「どうしたの」
「氷硝祭に連れて行くって約束したのに、守れませんでした」
「いいよ」
「いいんですか」
「いいんだよ」
「そうなんだ。いいんですね。もういいんだ」
「そうだよ。もういいよ」
足は動く。温もりは消える。自身の存在もまた希薄になっていく。
その中にあって、フリージアはなくなった唇を、清々しく持ち上げた。
「なら、いいかあ」
二冊の本が重なって、床に跳ねた。
続きゆく道(ヴァルト・ヴァルトルス)
白く廊下を往く。
それが終わりの合図だと、ヴァルトはいつからか認識していた。いつか自分の治めた天の名をした小さな国しょうかいに似た、しかしあのヒステリックなまでの潔癖をも凌駕する白に囲まれて、彼の尽きた命はあるべき場所に帰っていくのだろう。
それは予見であり――。
確信でもある。
静謐の中で朽ちていった七番目が消えた。書と己を繋ぐ呪縛は、ようやく訪れた終わりを以て途切れる。この世界が初めて迎え、そして二度と迎えることのない円満な終わりに、彼らの歩んできた道は全て閉じられた。残るのはありふれた平和に空々しく賑わう街だけだろう。
ヒールが床を叩く音が白く反響する。左右に豪奢な扉を携え、ヴァルトの心を象徴するかのような潔癖は終わりなく続いていく。
七番目の消えた本の墓場の先だ。物語は終わっても、彼の存在は終わらない。誰にも触れられることなく忘れ去られるその日まで、彼の歩みは止まらない。
最初の一歩を遠く置き去りにしている。それでも不思議と足は前に出る。
災厄の全てを書き換えられても。
神話の果てに全てが消し去られても。
続くはずだった道が閉ざされても。
ヴァルトは――。
否。
――名もなき物語の断片たちは。
誰かの作った道を進んでいく。世界を違えた誰かがこの終わっていく物語を夢想し続ける限り、この白い回廊を前に往く。
果てにあるのが虚無であろうとも関係はない。
彼の道はまだ――。
絶えない。
*
彼の世界の崩壊するさまを、ヴァルトルスは見据えている。
最後の魂を還して物語は終わる。ゆっくりと書き換わっていく世界は、暴虐と破壊の爪痕を失くしていく。選ばれし者が世界を救う物語は道半ばで閉じられ――再び開かれるその日まで、泡沫の夢は眠る。
何もかもをなかったことにして世界は書き換わっていく。ヴァルトルスという神が在ったことも、ヴァルトという人間がいたことも、彼らに付き従う者の足跡があったことも、世界を救うべく現れ、その手で世界を閉じた者がいたことも、今はもう過去の夢に過ぎない。
目を閉じればヴァルトルスは終わる。何事もなく商人の行き交うありふれた道に呑まれて、何かがあったという事実とともに、再び御伽噺の一つに戻っていく。それがわかるから、瞬きさえしない。
目を閉じたら――。
彼は誰かの手にある本の中の一ページとなるのだろう。かつてどこかに在った神の物語として、意思を持たぬ絵と文に変わっていくのだ。
温く風が頬を掠める。潔癖な白い長髪を攫って流れるそれに、自然と小さく口許が緩む。
見下ろす世界が不浄に染まっていくのは、そう醜いものとは感じられなかった。これは彼の守った約定のあるべきものでも、偉大なる創造神の持ち物でもなくなってしまったのだ。切り離されていく世界の狭間にあって、ようやくヴァルトルスは、かの磊落な女の言うことを少しだけ理解できた気がした。
虚空の浸食がヴァルトルスの足にも迫る。無慈悲に閉じられていく本の表紙の存在を感じて――。
目を閉じる。
歪な塔の上から足を踏み出した。靡く髪留めと白髪の端だけを遺して、その体は空虚に溶けていく。
いつか目を開けるその日まで――。
ヴァルトルスはそこに在る。
忘我(ヴァルト・ハインズ)
思えば人生とは耐え凌ぐことであったような気がする。
家財の一切と伝手を失い、身一つを残され放り出された。己一人なら泥水を飲んででも生きたろうが、せめて妻子には惨めな生活を味わわせたくなくて、手当たり次第に門戸を叩いた。幾度の門前払いの果て、初めて開いた扉にこれ幸いと転がり込んだのは、前後の記憶すら薄れている頃の話になる。
雑用係として借金を返すことに同意したのはハインズ自身だ。何しろ最初のうちは食いつなぐために必要な最低限の小銭だけを借りていた。
それが知らぬ間に莫大な負債になっている。終わりのない重労働に人知れず吐血を堪えたこともある。それでも愛する家族に今の質素な生活が限界を超えた果てのものであることを知られたくなくて、彼は仮面の主に仕え続けた。
あらゆる受難に――。
耐え忍ぶうち、無意識がすり減った。意識できる部分が増えてきたと勘違いをした頃もあったが、今となっては自らの状況をよく把握している。
意識せねば手が動かなくなった。常に気を張っていなくては人の気配に気付けなくなった。ぼうっと立ち尽くす時間が減った。静寂に耐えられなくなった。少しずつ苛まれていくうちに――。
ハインズは爆発した。
通りかかった仮面の主に飛び掛かって物置小屋へ引きずり込む。普段のヒステリックな苛立ちではない、驚愕をその仮面の裡に湛える彼の首へ、青年の両手が伸びる。
――ざまあみろ。
頸動脈に指先が食い込んだ。見るだに優美で線の細いヴァルトでも、首筋はハインズと同じく筋張った男のそれだ。ひどく意外だったが、その下に鼓動が隠れていることへの驚きに埋もれて消える。
――ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ。
気道に残っていたらしい呼気が乾いた音を立てて吐き出される。酸素を求めて強くしなる体を押さえつけ、青年は興奮で噛み合わない歯の根を鳴らした。
――おまえが。
仮面の奥に鋭く睨む眼差しが潤んでいる。空気が足りないのだ。空気がなければこの主も死ぬのだ。意外にも彼は生きているのである。
――おまえのせいで。
今まで味わってきた全ての辛苦をぶつけるように、ハインズは渾身の力で首を絞め続けた。いずれくすんだ白い髪が動きを止めても、腕をつかんでいた手が地に落ちても、その首を支える骨が嫌な音を立てて割れても、彼はまだ満足しない。
――次の会合の予定に現れないヴァルトを探し、シルヴィアが物置の扉を開くまで、ハインズは鬱血した彼の首に手を回し続けた。
剥離する魂(ヴァルトルス)
神たるもの、異能の一つや二つは扱えるものだ。
尤もかの書に閉じ込められれば、そのルーツが神であろうが人であろうが亜人であろうが或いは怪物であろうが関係なく、二つばかりの力を得ているようではある。力の特質は性質と――末路によるようだ。
ヴァルトルスの役目は専ら強敵への防壁である。如何なる攻撃をも阻む神の領域で、命をも砕かんとする刃を遮る。
その役割に不満はない。
それが特質だというのならその通りだ。不純の一片をも許さぬ性質は、汚らわしい下界の刃が臓腑に届くことを良しとしない。むざむざ命を奪われてやる気がないのは彼とて選ばれし者と同様だ。
しかし。
自らの魂を削らねばならぬことには納得がいかない。
割れるような頭痛と震える視界でどうにか体勢を保って、ヴァルトルスは眼前で醜い咆哮を上げる竜を睨み上げる。白い髪は敵のそれとも味方のそれともつかぬ赤黒い液体でところどころが汚れ、潔癖なまでに整った衣服の裾も幾度もの熱で焼け焦げた。硬い鱗にぶつけ続けた剣の刃毀れが即時に埋まっていくのを見やる。
果てのない死闘にも終わりが近づいている。双方ともに消耗が激しい。慰めにもならぬ追撃の隙と反撃の機会を伺いながら、上下する肩をいなして再び武器を構えた。
選ばれし者によって時折もたらされる癒しの業は絶えて久しい。大方条件が整わぬのだろうが、この余裕のない状況下では呆れや諦念より苛立ちが勝る。
知らず食い縛った奥歯は何も消耗と感情だけによるものではない。
幾度障壁を張ったかヴァルトルスは覚えていない。下される指示をこなすうちに、あれだけ満ちていた魂の力が大きく削れている。命にも等しく、また武器種の違う彼らと歩調を合わせるための気力でもあるそれを奪われていくうちに、彼はとうとうここに立つだけの力さえ奪われかけていた。
それでも手負いの竜は怒りの声を上げる。最早見慣れた攻撃態勢を目に入れるなり、かの姿の見えぬ存在からは無言の指示が下る。
――ここを凌げば。
ヴァルトルスはあの醜い口腔に消えずに済む。
一つ息を吸う。食い縛る歯の向こうにそれを匿い、体中の残る力を掻き集めて拳を握る。地に足を食い込ませ、高らかに振り上げた拳で、込み上げる血反吐と共に、ヴァルトルスは怒りの限りに叫んだ。
「私に――触れるな!」
ロードラまとめ