破滅にむかって

過去作品


 歯磨き粉を切らしていた。
 洗面台の引き出しを漁っていると小さな蜘蛛の死骸が出てきた。タンパク質はまあまあのはずだ。一口囓ると、案の定口に合わなくて吐き出した。やはり死骸はだめだ。生きていればまだましだったかもしれないが。
 空腹で乾いている。水をつけただけの歯ブラシで歯を磨き、リビングに戻ると、花梨はリンゴの皮をむいていた。
「デザート食べる?」
「おいしそうだね」
 俺はソファに座った。花梨はカーペットに座り込んでリンゴを丁寧に十六等分にし、フォークを刺して俺に差し出した。
 リンゴを咀嚼すると甘く香しい果汁が広がる。鼻に抜けるような酸味のせいで目頭が熱くなったが、なんとか我慢した。糖分を含んでべたべたした果汁のせいで喉が焼け付く。吐きたい。
「山下さんちの畑から採れたんだよ」
 花梨はうまそうにリンゴを口に運んでいく。
 お隣の山下さんは太っ腹で、よく色々な果物を持ってきてくれる。買い物無精な俺たちにとっては実にありがたい人だ。
「今日は久しぶりに買い物行く?」
 しゃくしゃくと咀嚼をしながら、花梨は俺の膝に頭をのせた。
「そうだな。歯磨き粉がないんだ」
「歯磨き粉くらいコンビニで買えるじゃん」
「そりゃそうだけど」
 いつでも買えると思って買っていないから切らしているのだ。なんでも後回しにするのが俺たちの悪い癖だ。
「あと切らしているものは?」
「えーっと、卵と、日焼け止めと……ステーキ肉」
「花梨はステーキ好きだもんな」
「肉食だからね」
 それから俺たちはしばらくウダウダと会話をして、ようやく重い腰をあげたときには半日がすぎていた。
 手を繋いでスーパーに入り、花梨はお目当てのものを買うと早く帰ろうと言った。彼は外出が嫌いなのだ。だが、俺は他に見たいものがあると言って断り、彼だけを家に帰らせた。
 スーパーを出て、路地を曲がり、コンビニのゴミ捨て場の近くまで歩いた。
 周りに完全に人がいないのを確かめると、ゴミ袋を一つ一つ丁寧に持ち上げて下から這い出してくる虫を探った。試しにウジ虫を一匹口に入れたが、ひどい味だった。昆虫はだから嫌いだ。生命としての価値が軽すぎる。
 俺が探しているのは虫ではない。ゴミ袋の最後の一つを持ち上げたとき、丸々と太ったどぶネズミが駆けだした。
 俺は猫のように一瞬で跳躍してネズミを捕まえた。そのまま丸飲みする。暴れまくるネズミが喉の粘膜を傷つける。それでもかまわず食道へ通し、胃に納めた。ネズミのぶんで腫れあがった喉が元通りになり、俺はふうふうと息をつきながら口元を拭った。
 味わうことなどしない。食事がすんだら、足早にその場を離れた。
 胃の中で飲み干したあいつが暴れている。その生命力が心地よいような気もしたが、ものの数秒で魂は消えていく。空腹だ。
 耐え難い空腹がすぐそこまできていた。
 家に帰る前に、まずは口臭スプレーを手に入れなければならない。田舎に家を買ったのはある意味で正解だったが、物が手に入りにくいという点では不正解だった。
 町はずれの雑貨店に入り、口臭スプレーを買うと、木陰に隠れて丸々一本使い切るまで口と体全体にスプレーをかけまくった。
 空腹。最後の食事が一週間前だ。俺の食事には時間がかかる。電車に乗って遠くまで行かなければならない。今日はもう無理だ。
 視線を感じて振り返ると、犬が興味深そうな顔をして俺を見ていた。
 俺は手をのばして彼に触れた。人慣れしている。
「よしよし」
 そっと鼻をよせると、彼は不思議そうな顔で俺を見た。思いも寄らない人物に出会ったかのような顔だ。
 俺は彼を抱き上げ、人気のない場所まで連れていった。人気のない場所というものがあるから田舎は好きだ。どこへ行っても必ず人がいる都会ではこうはいかない。
 湿気の溢れる森の中へ入ると、牙をむいて彼の喉に食いついた。即死だ。ごきごきと骨を砕き、肉を食い破って胃に納めた。
 今日はもうこれだけでいいだろう。十分だ。
 音をたてて血をすすり、抜け殻のようになった体を無理やり折り畳んで口に入れた。ふわふわの毛皮ごとすべて食べた。血の一滴も残さなかった。
 空腹。
 不思議なことが一つある。なぜ蛇はミルクを飲まないのだろう。血は飲むくせに、母親から母乳が出ないというだけで、なぜミルクを毛嫌いするのか。血と乳の成分はそれほど変わりはしない。
 その謎がわかれば、なぜ俺がネズミや犬だけで満足できないかがわかるかもしれない。
 困ったことに口臭スプレーを使ってしまった。もう一度買いに行ったら雑貨屋のおばちゃんは不信に思うかもしれない。
 何気ない顔で家に帰り、一度も口を開かないようにして、洗面台で歯を磨くしかない。舌も磨かないと意味がない。うちの歯磨き粉がなくなりやすいのはそのせいだ。
 ああ、それにしても腹が減った。
 自分の家がほしい。自分だけの家を建てて、そこに食料を保存しておけばいいのだ。土地代を含めていくらあれば可能だろうか。
しかし、こんな狭い土地で二重に邸宅を持っているなんて噂がたったら、花梨にどうやって言い訳をしよう。浮気しているのかと問いつめられても仕方がない。
ああ、腹が減った。


 花梨は血のしたたるようなステーキにかじりついていた。今日はいい神戸牛が手に入ったらしい。鼻歌を歌いながらステーキを口に運び、赤ワインを飲む。アルコールが一切だめな俺はコーラを飲みながらそれを見ていた。
「子供のころ、あたし色が白いでしょ? それにトマトジュースが好きで、弁当にもご飯のかわりに肉を入れていたくらいだから、ずっとドラキュラっていうあだ名で呼ばれていたんだよ」
 ドラキュラはひどい。花梨は死んだ肉を食べているだけじゃないか。
 生きたまま血をすするから吸血鬼なのだ。
「圭祐さん、おかわりは?」
「じゃあご飯お願い」
 大盛りのご飯を二杯。ステーキを一枚。付け合わせの人参、じゃがいも、ブロッコリー。デザートにはリンゴ。寝る間際まで食い続けたとしても、空腹感は失せなかった。
 油っぽいステーキのせいで胸のむかつきがものすごかった。焼けた肉など本当なら食えたものじゃない。野菜も好みの食べ物じゃない。だが俺はそれらをうまいうまいと言って食べる。
「圭祐さんは、痩せの大食いだから」
 うらやましいと言いながら花梨はベッドに横になる。俺はその首もとに鼻をよせる。三十分もシャワーを浴びながら体を洗った。血のにおいはしないはずだ。
 頸動脈が脈打っている。俺はこの血潮の音を聞くのが好きだ。彼女の溢れるような生命力を感じる。
 すがるように体を探れば、無意識に大きく鼓動する心臓の上に手を這わせていた。
 愛しい。獲物を狙うような高揚感に似ているが、同時にとても穏やかな気持ちにもなる。不思議だ。なぜ彼女に恋をしたのか。俺は人間ではないのに。
 恋とは、自分と同じ種とするものだ。爬虫類や植物に恋をする熊がいるか? 猫を好きになる犬がいるか?
 ウサギに恋をした狼のようなものだ。種の違いに関わらずとも、他人と暮らすにはそれ相応の努力と工夫がいる。ましてや彼女と俺はそもそもが相容れないものだった。
 俺の生活には忍耐力がいる。まったく我慢せずに結婚生活を送っている夫婦がいるとは思えないが、俺の場合は何をするにしても忍耐が必要だ。たとえば耐え難い空腹に耐えることとか。
「明日、何する?」
「あたしは寝てるかな」
 花梨は俺の胸でまどろむ。彼女は休日になるといつも寝ている。俺は休日出かけるのでちょうどいい。
 花梨を胸に抱いて眠れば、彼女女の喉にかじりついている夢を見た。あわてて飛び起きたときにはもう午前六時をまわっていた。
 花梨はまだ寝ている。起こさないようにそっと腕をはずし、着替えをした。
 料理を覚えたのはつい最近だ。それまでは蛇口をひねると水が出るということすら知らなかった。
 鍋に水をひいて火をかけた。花梨は茸が好きだ。エノキを切って鍋に入れ、豆腐をサイコロ状に切る。出汁を入れて、切った豆腐とワカメを入れる。あとは味噌をとかせば完璧。それからフライパンに火をかけ、バターを入れて、砂糖をとかした卵を焼いて卵焼きをつくる。
 塩漬けのキュウリは誰にもらったんだっけ。忘れてしまった。
 卵焼きと漬け物と海苔をテーブルにおくと、ナプキンを上にかけて、とりあえず朝食の準備は終わった。みそ汁は鍋の中で煮えているし、あとは米を炊いておけば彼女が勝手によそうだろう。
 日曜、俺は必ずバスに乗って駅まで行き、新幹線で大阪まで行くことにしている。大阪からちょっと足をのばして京都や名古屋まで行くこともあるし、時間に余裕があれば東京へも行く。
 大阪まで三時間半、往復するだけで七時間かかるから、一日仕事だ。
 花梨には行きつけの本屋へ行っていると言い訳をしている。普段は仕事と家の往復だから、週に一度の遠出を楽しんでいるのだと。
 嘘はついていない。遠出を楽しんでいるし、本屋にもよる。しかし遠足のメインが本を買うことでは、もちろんない。
 朝食をつくりおえて準備をすると、俺は鞄を持って家を出た。七時。バスは七時十五分にくる。バス停に立っていると花梨からおはようというメールが届いた。彼女はこれから朝食をとり、また眠るだろう。
 バスの乗客は俺しかいなかった。
 立ち並ぶ田畑。早起きの老人たちは今日も畑に精を出している。しばらく天気のいい日が続くらしいから、彼らも仕事がしやすいだろう。あちこちに借金をしてこの土地に移り住んだのは二年前。景色がきれいだし、近所の人たちが親切だから花梨は喜んでいる。
 田舎では人が一人いなくなっただけで大騒ぎになる。警察に捜査をされたらまずい。家出人など一人もいない土地なのだ。
 やはり都会はいい。昔は大阪に住んでいた。あのままずっとあそこに住んでいてもよかったのだが、うっかり近所の女の子を捕食していまい、住み続けるわけにはいかなくなった。こうして遠くからやってきて、目的を終えたら一日で帰る。それが一番だ。
 新大阪の駅を出るころには正午近い時間になっていた。笑いながら側を通り過ぎていく女子高生。若者の街。活気が溢れているから大阪は好きだ。ポケットに手を入れ、早足で歩いた。
 公園にたむろするホームレスたち。ホームレスはいい。いなくなっても捜索願を出す家族がいないからだ。しかし、あまり気がすすまない。老いてやせ細った羊を食いたいと思うか? レストランに出てくるのはたいてい子羊だ。
 夜まで待つわけにはいかない。俺は所帯持ちだ。明日仕事もある。
 俺は公園のベンチに座り、猫のように気配を消した。男が一人で公園をうろついて、通報されないとも限らない。物欲しそうな目で子供たちを物色しようものなら完全に変質者だ。木陰で本でも読みながら気配を消すのが一番。本屋によるのはそのためだ。
 目の前で女の子が遊んでいる。母親は五十メートルほど向こうにいる。子沢山の家庭らしい。子供は三人、母親は下の幼児二人の世話をしている。女の子は五歳くらい。親の目を盗んでちょろちょろと歩き回り、こちらに近づいている。
 人の目がある。だが一瞬、隙があるはずだ。大人たち全員が彼女から目を離す一瞬が必ずある。
 じりじりとした焦りが広がる。昼食をとるサラリーマンたち。若いカップル。公園には多くの人がいて、声に溢れている。
 本を読みながら時を待っていた。いつかチャンスがくるだろう。
 時計の長針がちょうど一時をさしたとき、俺は本来の姿に一瞬戻った。
 電光石火。
 小さな体を抱えて走っている。遠い路地。廃屋。使われていないビルの駐車場でも、どこでもいい。都会の中においても、開けた場所が一つくらいあるものだ。
 誘拐犯というものがいる。言葉巧みに子供を連れていく。俺にそういう話術があればもっと気軽に子供をさらえるかもしれない。でも子供と話したことなどないから、俺にはとても無理だろう。もし子供に騒がれでもしたら人前で人さらいになってしまう。
 隠しカメラ。隠しカメラは嫌いだ。どこかに備え付けられている。しかし、どこにでも絶対にあるというわけではない。大きな繁華街にはある。だがちょっと裏地に入ったらそんなものはない。
 子供の顔が青くなっている。ずっと口を押さえていた。窒息する前にどこかで解放してやらなければ。
 俺の姿を見ている人がいるだろうか。どこか、思いもよらないようなところから俺を見ているやつがいるかもしれない。
 俺の警戒心が強いのは本能だ。警戒心と臆病さがなければ狩りなどできない。
 よし、ここならいいだろう。
 子供を解放すると、彼女はつんざくような声で何かをわめいた。そっと口元に耳をよせる。だが聞き取れない。何を言おうとしているのか。
 泣き叫ぶ口を押さえ、喉にかじりついた。香しい甘い液体が滑り落ちていく。胃に暖かいものが染み渡る。こんな美味なものがこの世にあるか。
 一週間飲まず食わずだった。ああ、うまい。うまい、うまい。必死で貪った。
 頬肉を食べ、脇腹の肉を食べ、太股をかじり、眼球も髪も食べた。洋服まで飲み込んだ。かつん、かつんと音をたてて骨を砕き、心臓も腸も脳まで食べた。固い固い歯まで食べた。ああ、うまい。うまいうまい。こんなうまいものこの世にあるものか。
 地面についた血をすべてなめとって、ようやく息をついて寝転がった。
 胃が重い。体重が幼女のぶんだけ増えている。そのまましばらく、猫のように丸くなってうとうとしていた。
 満腹というのは、こんなに生物を幸せにするのだ。やっぱり自分の家がほしい。どこかにマンションをかりて(防音が絶対条件だ)、食料を蓄えておく。
 しかし、殺さずに生きたまま子供を部屋においておくことなど、できるのだろうか。知恵のたつ子がなんとかして逃げ出したらどうする? 俺は四六時中彼らを見張っておくわけにはいかないのだ。
 こうして空腹に耐えながら家と狩り場を往復するしかない。それが一番だ。
 鞄に入れておいた携帯電話が鳴った。
 俺はのろのろとおきあがって、獣の手のまま通話ボタンを押した。獣の舌が人間の言葉を吐く。
「おはよう。花梨、起きたのか」
「失礼な。ずっと前から起きてたよ。圭祐さん、今本屋?」
「そうだよ」
 俺は電話口に耳をあてたまま丸くなった。聞き慣れた声が全身を包むようだ。なんとも心地良い。
「昼飯食べた?」
「食べたよ。お前はまだか」
「うん。何食べようかと思ってさ。冷蔵庫に肉と人参と卵があるんだけど」
「タマネギある?」
「ちょっとだけあるよ。四分の一くらい」
「じゃあ、牛丼にしたら?」
「いいねー。それいいかもしれない」
 花梨の様子が目に浮かぶ。花梨は、料理上手だと思う。夜はステーキ肉をのせたフライパンを器用に動かしながら、時折きれいにひっくり返す。焦げ目もない。油のひき方も完璧。
「付け合わせのデザートは?」
「リンゴ……あれ、そういえばリンゴ冷蔵庫になかったね」
「あ、そうか。あれ俺が昨日食べちゃったよ。ごめんね」
「いいよ。買ってくるから。圭祐さんは、今日は何時に帰るの?」
「今から帰るよ。六時くらいになるかな」
「わかった。じゃあね、久しぶりに外食しない? この間行ったあのお店さ、なんていったっけ? お酒がおいしかったところ」
「ああ、あそこ。なんとかハウスっていったかな。いいねー、行こう行こう」
 がさっ。
 音がした。がさがさと。
 ぎょっとして振り返ると、十二、三歳の少年たちが俺を見ていた。
 一生の不覚。電話していたとはいえ、この姿のときにこんなに近くまで他人の接近を許したことはなかった。見開いたいくつかの目が俺を見ている。全員で四人いた。
「あ、あたし思い出したよ。オールドエールハウスだ。そうでしょう?」
 そろそろと少年たちが後ずさる。
 驚愕した顔。俺の口まわりにべったりとついた血。そうだ、これが問題だった。なぜ俺は血を拭っておかなかったのか。
「圭祐さん? 聞いてる?」
 彼らは走り出す。俺はとっさに跳躍して逃げ遅れた少年の背に爪をたてた。
 その体を地面に縫いつける。
「うわーん、おかあさーん」
 獲物が泣きわめく。仲間たちは一人が捕まったことにも気づかず、我先にと逃げていった。
 俺は自分が未だ電話を握ったままだったことに気づいた。
「圭祐さん? 誰か泣いているの?」
「おかあさん、おかあさん」
 少年たちは遠ざかっていく。
 殺すか? 逃がすか?
 これほど途方に暮れたのは始めてだった。


X


 お隣の山下さんは今日も夏みかんを持ってきてくれた。なんて親切な人だろう。圭祐さんはフルーツが好きだから助かる。
 山下さんとのセックスは淡泊ですぐ終わってしまう。彼はもう初老だからそれも仕方ないと思う。
「夏みかんは酸っぱくてうまくないんやけどね、凍らせてアイスに入れて食うとうまいねんで」
 訛りを含んだ口調が面白い。作り方を教えてくれて、それから彼は家に帰っていった。
 圭祐さんがつくってくれたみそ汁の味を整えているうちに量が倍近くになった。圭祐さんは料理下手だ。彼が今朝つくってくれた卵焼きなど、甘すぎて食べられたものじゃなかった。私のために朝食をつくってくれるのはありがたいから文句は言わないようにしているけれど。
 圭祐さんは不思議な人だ。食べるのが好きで、朝から晩まで何かを口に入れているくせに破滅的な味音痴だ。彼がつくるみそ汁はどんなに我慢しても一杯も飲めない。辛すぎたり味が全然なかったり、使う出汁を間違えていたりと、もうぐちゃぐちゃなのだ。
 一度圭祐さんのシチューに死ぬほど塩を入れてやったことがある。普通なら口に入れた瞬間吐き出すはずだ。なのに、彼はごく平然とした顔でもくもくと平らげた。私が何をしたのか気づいたふうでもなかった。
 味覚障害という病気がある。彼は味覚障害なのだろう。
 彼はそれに気づいていないのかもしれない。先天的な障害なら、彼はそれに気づかずに今まで生きてきたのかも。
 一緒に病院に行かなければ。
以前圭祐さんにその話しをしたときは、のらりくらりと誤魔化された。
「今までこれでやってきたから大丈夫。鼻がきくから悪いものを食べたことはない。心配しないでいい」
彼は病院嫌いだ。一緒に暮らしてもう何年にもなるが、彼が病院に行ったことはない。
でも、そのうちなんとかして病院で視てもらわなければ。治療したら障害が治って、見違えるほどおいしい朝食がつくれるようになるかも。
面倒なことを後回しにしてしまうのが私の悪い癖だ。なんとか説得しようと思いながら、もう何年もたった。
圭祐さんのいない日曜は休養の日だ。
バスに乗って遠い街まできていた。タバコを吸いながらビジネスホテルに入る。街に一つしかないホテル。
電車に乗って都会まで行けば知り合いに見つかる危険もなくなるのだが、そうすると往復でけっこうな時間とお金がかかる。そんな面倒なことを毎週続ける気力はなかった。
ホテルには男がいた。サラリーマン風のまだ若い男性で、シャワーはすでに浴びたのか火照った顔をしている。
「小林さんですか?」
「はい、そうです」
 私は返事をした。出会い系サイトに書き込んだのだから、当然偽名を使った。
「どうぞ、よろしく」
「はい、どうもー。こういうのは始めてなんですか」
 私はベッドに腰掛ける男性の正面に座り込むと、彼のワイシャツの前をはずした。
「これで五回目なんです」
「へえー。じゃあ、もう慣れたものですね」
「あなたはどうなんですか?」
「あたしは週一でやってますよー」
 男を裸にすると、自分も服を脱いだ。
 そのままベッドに引き上げられ、足を持ち上げられた。見ず知らずのやつ。顔などどうだっていい。目をつぶって何も見ないようにする。
 いったいいつからこうなったのか、まだほんの子供だったころから性的におかしかった。
 獣のような息づかい。男が涎を垂らしながら腰を動かしている。ああ、気持ちがいい。汗と涎は大好きだ。ぬるぬるとすべる。
 十四歳で中絶を二回した。相手は先輩だったか、近所のお兄さんだったか、あるいは教師だったかも。とにかく若くて馬鹿だった。
 十五歳で親から勘当された。殴られてもなじられても同じような仲間たちのたまり場への出入りをやめなかったからだ。
それから風俗に勤めた。好きなだけセックスができる夢のような職場だったが、すぐに体を壊した。また仲間同士のコミュニケーションもうまくいかず、難しい仕事だった。
 圭祐さんに出会ってなかったら、私はどうなっていたのだろう。今ごろどこまで墜ちていたのか。
 アダルトビデオに出演するのならまだいいが、不潔で条件の悪いお店でぼろぼろになるまで働かされていたかもしれない。父親のわからない子供を抱えて生活保護をもらえたらいいけれど、私は頭がよくないから手続きがわからず、なんの保障ももらえずに死んでいたかも。
「そう。でも、そんなにいい旦那さんがいるのに、なぜこんなことをするの?」
 ああ、そんなことはどうでもいい。とにかく気持ちがいい。
 たとえば、そう、動物園のライオンは十分な餌をもらえて満ち足りているけれど、それで狩りの欲望を捨て切れたと言えるだろうか?
 満ち足りてさえいれば本能を忘れられると思うか?
 私は思わない。
 狼が獲物を狙うように、ドラキュラが美女を求めるように、本能など抑えられるものではない。
「一回いくらなの?」
「お金がほしいわけじゃないの」
 男は、それでも交通費だと言って私に五千円を押しつけて去っていった。
 アドレスがまた一つ増えた。連絡してもいいし、しなくてもいい。そういうどうでもいい人が増えていく。
 他人とのセックスのあと、私は必ず圭祐さんに電話することにしている。
 二年前は大阪に住んでいた。人が溢れていたし、わざわざ出会い系サイトに登録しなくても街角に立てばいくらでもセックスできた。活気溢れるいい街だったし、圭祐さんも気に入っているようだったのに、なぜ引っ越ししたのだろう。できればあのままずっといたかった。
 でもいい、まあいいや。おいしい夏みかんが食べられる。
「圭祐さん、白を見なかった?」
「しろ?」
「犬なの。ずっと餌をあげていて、懐いていたのに、突然見なくなっちゃった」
「そう。どんな犬?」
「可愛い犬よ。毛がふわふわで、なんか不思議そうに小首をかしげてこっちを見る癖があるんだ。子鹿みたいで本当に可愛かったのに」
「ああ、あの犬なら食べたよ」
「鍋にして?」
「そう。犬鍋にして」
 笑えない冗談を言わないでと言って通話を切った。
 肉だ。肉が食べたい。血の滴るようなステーキを買おう。
 なぜ私はこんなに肉が好きなのだろう。俺は本当にドラキュラなのかもしれない。


 スーパーでありったけの肉を買って帰宅すると、リビングに山下さんが座っていた。
「あれ? どうしたんですか」
「どこへ行っていたんだ」
 体中に不安が走った。この人は、こんなふうに怖い声を出す人だっただろうか?
「なんですか? 出ていってください」
「先週病院にいたんだって?」
 病院?
 男が近づいてくる。私はスーパーの袋を投げ出して玄関まで逃げた。外に出ようとした瞬間、腕を掴まれて引き戻される。
「病院にいたやろう。隣町のあの病院は、息子が院長をしているんだ」
「それが、なんですか」
 男の頬を叩こうとしたが、その手を掴まれた。毎日畑仕事をしている男に私が力で勝てるわけがない。
「あんた中絶したね?」
「それがなんですか」
「俺の子供を堕胎した。そうやろう」
「誰の子供かなんてわかりません」
 この人でなし、子供殺し。
 私は俺をなじりながら髪をひきずり、リビングまで連れていかれた。光を集める仕様になっている窓から日光が差していた。
「何人殺した? 俺の子供だけやないやろ。今まで生きてきた中で、中絶した回数を言え。何人子供を殺したんか言え!」
「あなたには関係ない!」
「ええから言え!」
 首を絞められた。苦しい。怒りにまかせて暴れまくったが、男はびくともしなかった。
「俺は、子供ができたら女房と離婚してあんたと結婚したるって、何度も何度も言ったやないか! 忘れたんか! 俺はあんたが好きなんや、だからゴムもつけずに何度も……それやのに、お前は俺の子をおろしたんか! お前そうやって、孕んではおろしてきたんやろ!」
 ベッドの睦言など、本気で聞いている人間がこの世に何人いる?
 山下さんが私との結婚を望んでいた? 馬鹿な。馬鹿としか思えない。私が離婚なんかするわけないのに。
「何人殺したか言え!」
「二十回」
「最低や。この人殺し。化け物。お前なんかもう人間やない。くず。化け物、吸血鬼……」
 苦しい。男が私の服を破り、無理やりにおさえつける。恐怖で、体中が粟だって震えた。
「助けて……助けて、圭祐さん、圭祐さん」
「この化け物。子供殺し。バラしたる。旦那に全部バラしたるからな」
「やめて、やめて、助けて」
 裸にされた。今まで生きてきてレイプをされたのは始めてだった。嫌悪感で吐きそうになる。
 圭祐さん。助けて、助けて。
 首を絞められる。苦しさで目の前が白くなり、口を開けてあえいだ。体が動かない。普段の彼からは想像もつかないほど早急に体を揺さぶられる。
 こんなことをされるなんて信じられない。苦しい。悔しくて涙が溢れる。
「淫乱女。人間のくず。人殺し。中絶女……うっ」
 腰を動かしていた男の顔が突然真っ赤になり、苦しみながら私の腹の上に倒れ込んだ。
「山下さん……?」
 男は目を見開いてもだえ、胸をおさえて体をびくつかせた。失神する寸前のように体中を痙攣させ、ひーひーともれるような息をついて震える。
 私は男の下から抜け出した。
 男の様子は尋常じゃない。心臓発作だろうか? 老いた人が、セックスの途中で心臓発作を起こすのはままあることだと聞いた。
 水をかけた虫がよくこんなふうになる。涙を流しながら、男は悲痛な声をあげて苦しんでいた。
 どうしよう。どうしたらいい?
 救急車を呼ぼうか?
 それともお隣へ行って男の奥さんを呼ぼうか?
 それとも、このまま放っておくべきか?
 男の苦しみ方がだんだん弱々しいものになっていく。このままだと死ぬかもしれない。ここで死なれたらまずい。男は下半身が裸の状態なのだ
 なんとかして男に服を着せて、そうだ、この首も痣もなんとかしないと。
 痣なんか短時間でどうにかなるものじゃない。服も、暴れる男にどうやって着せればいい?
 震えているうちに男の痙攣がとまり、彼は動かなくなった。
「死んだ?」
 肩のあたりをつついても彼は動かなかった。手首に触れても脈がない。息もしていなかった。
 死んだのなら服を着せやすいかもしれない。だけど、死体なんかには触れたくもない。
 私は震えながら洗面台にむかった。胃の中にあるものを吐き戻し、服を脱いでシャワーを浴びた。気持ちの悪い感触が体に残っている。げーげーと吐きながら全身に水を浴びていた。
 最悪だ。圭祐さんに私の本性がばれたらどうする? 私を受け入れてくれた唯一の人なのに。
 風呂場から出て寝室へむかった。それから痣が隠れるようにハイネックの服を選んで着替えるとリビングに戻った。死体は悪夢のように消えてなくなってはいなかった。
 男の足下にまとわりついているブリーフに触れたら、また吐き気がした。自分がひどく惨めだった。もしかすると、世界中で一番情けない人間かもしれない。
 ため息をつきながら下着を引っ張り上げて着せ、それからそのあたりに脱ぎ散らかしてあったズボンをとって足に通すと、渾身の力を使って男の腰を浮かせ、思い切り引き上げた。男の体は重く、数秒持ち上げるだけで額から汗が吹き出していた。
 肩で息をしながら男の体をずらし、ズボンのチャックをあげ、ベルトを絞めた。これでいい。
 だけど、これからどうしよう。
 私は死体の脇に座り込んだまま途方に暮れていた。
 時計を見ると三時だった。ふいに圭祐さんが帰ってきたらどうしよう?
 どうしようもない。家に帰ったらこの人が倒れていたんだと言うしかない。この男が勝手に家に入ってきて、勝手に心臓発作で死んだのだと。
 なんて情けない。私の何が悪かったのだろう。私は自分の本能に従っていただけだ。どんなに日常が幸せでもお腹は減るし、寝るなといっても眠くなる。
 セックスするなと言われてもしたくなる。一人だけでは足りないのだ。
 誰だって抑えられない欲望くらいあるはずだ。ない人はいない。みんな何かしら秘密があって、泣いたりわめいたりしながらそれを隠しているに違いない。
 みんな秘密を守るためならなんでもする。たとえば人を殺したり、その死体を隠したり。きっと押し迫った状況があればそれをする。みんな何かを守りながら生きているのだ。
 私は泣きながら家を出た。ふらふらと歩き、公園へむかう。
 しばらくここにいよう。私は散歩をしていた。そのあいだに彼が勝手に家に入ってきて、死んだのだ。そういうことに。
 彼が家に入ってきた理由は――なんでもいい。畑でいい夏みかんが採れたから届けにきたとか。田舎だから鍵をかけるという習慣はない。近所の人がうちに勝手に入ってくるのはそうめずらしいことではない。
 私は自分の体を抱いて泣いた。
 こんなに辛い思いをするなんて思わなかった。私は甘かった。私は失敗したのだ。
 無性に圭祐さんの声が聞きたかった。
 圭祐さんの声は優しく、私を包み込んでくれるようだ。私はもう彼がいなければ生きていけないだろう。
「圭祐さん」
「おはよう。花梨、起きたのか」
 かわらない下手な冗談が、今の私には愛しかった。私は目じりににじんできた涙をぬぐった。
「失礼な。ずっと前から起きてたよ。圭祐さん、今本屋?」
「そうだよ」
 圭祐さんの声は弾んでいた。機嫌がいいようだ。彼はここしばらく体調が悪そうにしていたので、安心した。
「昼飯食べた?」
「食べたよ。お前はまだか」
 たわいもない会話がうれしかった。ずっとこのまま話していたかった。早く帰ってきてほしい。一緒に家に帰り、彼に死体を見つけてもらおう。そうしたら彼が警察に通報してくれるだろう。それが一番いい。
 しばらく話をしていると、ふと彼が黙り込んだ。
 風を切るようなすごい音が聞こえ、ごく近くで子供が泣きわめく声が聞こえた。
「圭祐さん? 誰か泣いているの?」
 圭祐さんの返事はない。ふと突風が吹いて、私は携帯電話を地面に落とした。
 拾い上げようとしたそのとき、誰かに肩を叩かれて顔をあげた。見ると、山下さんの奥さんがにこにこと私の顔をのぞき込んでいた。
「こんにちは。うちの亭主が、そちらにお邪魔していない? 今朝お宅に行くって言って出て行ったの」
 彼女は静かな声でそう言って、上品に手の甲を口にあててほほ笑んだ。
 地面に落ちた携帯電話からかすかに聞こえてくる、圭祐さんの獣のような息づかい。
 山下さんの奥さんの優しい上品な笑顔。
 どうしたらいいのかわからない。突き放されたような絶望が体中を包んでいく。
黙りこくっている私の足下を生ぬるい風が吹き抜けていった。

破滅にむかって

異常な食欲というものに興味があって。
人肉。

破滅にむかって

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-02-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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