サフィノイサラまとめ
口付けの意味(のいさら)
切っ掛けは雑談であったように思う。
使用人の雇用で未だ混乱するレンティス家の一部屋へ、ノイルは密かにサラを招き入れた。
二人の逢瀬が始まってそう時間は経っていない。レンティス家のメイドであるサラを悪しき魔導から救い出し、無事に連れ帰って暫くしてのことである。碌に残っていなかったメイドたちの中から、次の長を決めねばならぬという段になって、当然ながら名の上がった彼女を次期当主たるノイルが連れ出すのは簡単なのだ。
そうしていつも通り、見目には主従を貫きながらの密会は、ただ雑談に終わる予定だった。
――どういう会話の流れだったかは覚えていない。
「ちょっとごめんね」
ノイルはサラの手を取った。恭しく跪いて胸に手を当て、その手の甲へ口付けてみせる。
「敬愛のキス。悔しいけど――あいつに教わったっていうか、言ってたんだよな。俺のは本物だからね」
冗談めかして――。
言って見上げた緑の瞳が大きく見開かれている。感情を表に出すことの苦手な少女の頬が赤く染まり、白い耳までもを透かして薄桃色で彩っていた。青い瞳を見ることも出来ずに泳ぐ視線と、限りなく下がった眉尻が、彼女の当惑と恥じらいを如実に伝える。
所在なく開閉する口を呆けたように見ていたノイルは、掌の温もりが、それでも彼の手を握ったことで我に返る。
レンティス家の次期当主がふと笑みを消して立ち上がった。突然のことに僅かな不安を滲ませたまま足を引こうとする愛しい少女の手を強く握って、その体を引き寄せた。
「サラ」
顎に手を当てて――。
目を閉じるまま、唇を重ねる。珍しく丸くなる瞳を伺いながら、青い双眸はゆっくりと離れていく。
暫し。
見詰め合う。
無言のうちに余計に朱を増したサラに釣られるように、ノイルも視線を揺らがせて空笑いを浮かべる。背に回した手に力を籠めるまま、彼は羞恥を押し殺して彼女の顔を見た。
顔を背けようとする抵抗もつかの間であった。体を抱えられるまま、観念したように潤んだ瞳を青年へ向けた少女は、吐息と共に声を吐く。
「ノイル様」
「もう様付けはいいよ」
苦笑いに困惑するのはサラの方である。小さく呻くように声を上げながら唇を開閉していた彼女は、ややあって頷いて見せる。
「――ノイル」
「うん、サラ」
上機嫌に笑って。
赤くなった頬で、ノイルは再び腕の中の少女へ口付けた。
殺戮の夢想(サフィノイ)
人を殺す夢を見た。
初めて庇護なしに外に出て、自身が二十年に近い時を過ごしてきた邸宅がどれだけ安全だったのかを思い知った。消えたメイドの兄を名乗る同行者が激昂せねば、恐らくノイルはあのときに死んでいただろう――と、今ならばそう思う。
ただ。
地を満たす生臭い鉄のにおいがたまらなく嫌だった。それまで温厚だった執事の赤い瞳が激情を宿しているのが恐ろしかった。とうとう動くもののなくなったとき、その足が肉塊を踏み付け蹴り上げるのが見ていられなかった。自分が無我夢中で突き刺した剣があの中にあるのを見てしまったら気が狂いそうだった。
頬を伝う液体の感覚に怯えた。拭った手が赤く染まっていたときのことを考えると、恐ろしくて呼吸が止まりそうになる。頭痛と吐き気で滲む視界の奥で従者が振り上げた剣は――。
「サフィラ!」
伸ばした手が空を掻く。
寝転んでいる。背に当たる感覚がベッドのそれだと理解した。
――夢か。
そよがないカーテンの奥は黒い。部屋に差し込む明かりがないところを見るに、夜は明けていないらしい。であれば先の悲鳴は迷惑だったろうかと、ノイルは安宿の薄い壁を見遣った。
そういえば昨日も事件に首を突っ込んで危険な目に遭ったのだった。あんな夢を久々に見た理由は十中八九それだろう。
あのとき。
悪漢に囲まれ、社交界の華々しい打算でもなく、使用人たちに垣間見えた野心でもない、真の悪意に初めて触れた。傍に控える身辺警護ボディガードもおらず、唯一ノイルを守りうるサフィラの隙を窺っての襲撃で、頭が真っ白になった。
気付いたときには――。
ナイフを持った男の胸に、手にした剣が深々と突き刺さっていた。
あの時からノイルの手は汚れたままだ。何度洗っても落ちない血のにおいが、行方を眩ませた使用人の行方を追うごとに強くなっていく。知識を至宝とするこの国にあって、本を司るレンティス家の正当な後継者が無防備に街を歩くさまは、格好の餌だと思われているのだ。
まあ。
だからこそ何も知らぬ少年として振舞っている方が油断を誘える。執事がいつかそう言って、無知を知り武器にせよと笑ったのを思い出した。
それでも最初のうちは本当に無知なだけだったのだ。頭を押さえるサフィラに幾度苦言を呈されたかも、その意味も分からないままだった。それがいつの間にか人を相手に武器を握ることが多くなり、剣の鞘に集めた怨讐の念も数え切れなくなった。
従者はまるでそれを喜ばしいことかのように語る。
御身を付け狙う不届き者は数知れないのですと言う。ですから私はその剣が役目を果たせていることを喜ぶのですと続ける。数えきれない苦難に襲われ、それでも御身がご無事である幸福を思い、私は神と貴方に深謝致しますとも。
――でも俺は。
いつの間にか血のにおいが気にならなくなった。薙ぎ払った剣が肉を断つ感触に顔を顰めなくなった。人殺しに堕すことに――恐怖しなくなった。
ノイルにはサフィラのような義憤はない。誰かのためであるという免罪符もない。身に降りかかる火の粉を払っているだけに過ぎないのだ。
殺さねばならなかったろうかと考えるとき、最初のうちは圧し潰されそうになるのを止めるために思考を閉じた。今は考えることさえなくなっている。殺さねばならなかったという正当化さえ、今の彼は必要としていない。
それは。
――それはあの悪漢たちと何が違うのか。
彼らは純粋な悪意の塊だった。人を貶め、辱め、略奪し、殺すことを喜んでいる。それでも自分よりはましだとノイルは思う。彼らには楽しむという目的があった。あれは冷酷無比な意味なき殺戮ではなく、意味を持った歪んだ営みだったのだ。
だがノイルはどうだ。
自分は。
殺人の大罪に意味をも持たせずに。
誰かの家族を奪い、誰かの待つ人を奪い、誰かの営みを奪っている。その罪を数えることさえやめている。初めて人を殺した日すら遠い昔に置いてきた。
零れた滴の感覚を振り払うようにベッドに潜る。
罪を悼む涙だったらどれだけよかったろう。罰を恐れられるならその方が人間らしい。重みを感じられなかったことを悔いるほど、ノイルは人間ではあれなくなってしまった。
これは。
――どんな重みさえも感じられなくなった自分への、軽蔑の嘲笑だ。
扉を叩く音がする。その向こうから彼を呼ぶくぐもった声に確かに聞き覚えがあった。
やはり――起こしてしまったか。
「ごめん、サフィラ、大丈夫」
震える声を押さえつけて、なるべく大きく声を上げる。
布は朝までに乾くだろうか。麻痺した心でも涙だけは流せる大罪人がいたことは、誰にも分からぬままであれるだろうか。
「ちょっと、嫌な夢を見ただけだよ」
一度拭った雫は、もう零れなかった。
君を殺した(のいさら)
部屋には斜陽が差している。ドアに向かって伸びた影が揺れている。
西日に照らされた部屋に置かれた物は多くない。隅に寄った机と、内線用の電話が、静かにそこに佇んでいる。いつも通りメイドは仕事を終えたらしく、丁寧にメイキングされたダブルベッドには汚れの一つも残っていない。
――その真ん中で。
俺の部屋で。
妻は揺れている。
脳の奥を焦がすようなひどい汚臭がしていた。息を吸い込む術さえ思いつかない。
息を止めて――。
夕日に影をかけるものを見上げる。
俺よりも幾分か背の低いサラが首を伸ばして揺れる。天井に唯一ある突起に縄をかけて、そこに首を入れている。
窓から差し込む光の角度が変わる。水色の髪を赤く染めて、黒く隠れた顔が露わになっていく。
半分だけ目を開いて。
だらしなく口を開けて。
飛び出た舌を戻すこともなく。
首が長く伸びて。
力なく四肢が垂れ下がって。
爪先から零れ落ちる赤茶色の雫が。
――それが臭う。
ぎい。
揺れる。
ぎいぎい。
揺れている。
ロープが軋んでいる。倒れた椅子に汚臭が染み込んでいる。美しく優しい俺の妻は、俺と共に生きた部屋で。
そうして死んでいた。
自殺だということになった。腰を抜かしながら、彼女を引き下ろそうとその体を揺する俺が、幾ら何でも彼女を殺してはいまいというのが、警備隊の見解だと後に聞いた。
俺にはそのときの記憶はない。
記憶がないし――。
どうやって彼女が死んだのかも知らない。帰ってきて扉を開いたときにはとっくに死んでいた。そのはずだ。確かにそうなのだけれど。
ぎいぎい。
揺れる音がする。
俺がどこにいようと、何をしていようと、眠っているときでさえ、背後で揺れる気配と音がする。
ぎい。
その音が始まると、俺はもう意識を切り離されて、あの日のサラを鮮明に見詰めるしかなくなる。
――彼女はぼうっと椅子に腰掛けている。
長い間そこに座って、二人で撮った写真を手に、焦点の定まらない目で天井を見ている。一つ息をこぼすたびに瞳が色を失くしていく。
暫く。
そこにいて、彼女は不意に立ち上がる。差し込む夕日の光を見て涙を零す。
それから椅子の上に立つ。いつの間にかロープがかかっている。そうするのが当然のように、ちょうど頭の位置にある輪に首を差し入れる。
少しの躊躇があって――。
がたん。
と。
いう音で現実に戻ってくる。悪い夢から逃げるような心地で、俺はサラの最期の幻視から目を覚ます。
ダブルベッドの上に座る俺の目の前に、サラの死んだ椅子がある。木製の椅子に染み込んだ汚物は落ちなかった。変えた方がいいと使用人が言うのを振り切って、俺はそこにサラを置いている。
あれは。
断末魔なのだ。
幻視から醒めても、サラはいつもそこに座っている。二人の写真を手に、不自然に伸びて力なく垂れ下がった首を傾けて、そこで笑っている。
汚臭がする。
サラは俺を責めない。
笑っている。
いつものように笑っている。
俺の殺戮を受け止めて寂しそうに笑っている。
――責めて欲しい。
――責めてくれ。
君を押し潰した俺を殺して。
殺そうとして。
繊手が。
伸びてくる。
ぎい。
首に巻きつく縄が泣く。
ぎしぎし。
笑顔のままのサラの手が巻きついてくる。
俺は。
――気付けばサラの椅子に座っている。二人が笑う写真を手にしている。部屋の中央で、ぼうっと彼女の揺れていた場所を見詰めている。
妻はもうどこにもいなかった。俺に纏わり付く音だけが引っ切りなしに頭上から聞こえている。
ぎしり。
立ち上がって――。
振り返る。
西日が差し込んでいる。見事な夕焼けだ――と思う。明日は晴れるだろう。
涙が溢れた。
ぎい。
椅子の上に立つ。いつの間にかそこにロープがかかっているから、当然のように首を潜らせる。
これから俺は。
饐えたにおいのする液体を滴らせながら四肢をぶら下げて長い首をして舌を垂らした汚くて醜くて恐ろしくて悲しくて苦しくて絶望的で悲鳴を上げて倒れ伏した俺を見開いた虚ろな目で見るサラと同じ姿に。
ならなくてはならない。
そう思う。
そう思うから――。
「サラ」
がたん。
流星の願い(のいさら)
呼び止められて振り向いた先に主がいる。
人懐こい笑みに隠し切れぬ一片の緊張を孕んで、差し込む西日に照らされたレンティス家次期当主ノイル・レンティスは、メイドであるサラの名を呼んだ。応える彼女の方はいつもの通りの無表情で、裏返り気味の彼の声に首を傾げる。
「ノイル様、何かご用でしょうか」
「ああ、いや、用って程のことじゃないんだけど」
煮え切らない台詞である。泳ぐ視線とぎこちない笑みを見据えて、サラは次の指示を待つ。
急かしもしない代わり、聞きもしない。
――何しろ彼女はメイドである。
ややあって、何かひどく決心したような様子で青の双眸が緑を捉えた。肩に力を込めたまま、ノイルが強い調子で声を上げる。
「今日が流星群なの、知ってる?」
「ええ――存じております」
何と言ったろうか。星座までは覚えていないが、いつだったかに仲間内でそんな話が上がった記憶があった。情報源がどこなのかは兎も角として、そういうことに詳しい人間はどこにでもいる。
しかし、今その話を振られる理由が分からない。何か他にも噂を聞いたような記憶はあれど――思い出そうとすれば曖昧に溶けてしまう。
だから傾けた首は戻らなかった。
彼女の心底不思議そうな様子を尻目に、ノイルの方は尚も息を詰めたまま緊張を漲らせいる。そのまま半ば叫ぶように声を上げた。
「なら、今夜、星見に付き合ってくれないかな」
――何故ですかと。
問おうとして詰まる。彼が幾ら人懐こく彼女を一端の人間扱いしているとしても、その関係性は主従のそれだ。絶対に崩れない壁を前に意思を問うような分不相応な真似は許されない。
頷く背を尻目に、ノイルはようやくいつもの調子を取り戻したようだった。大きく安堵の息を押し出し、肩の力をゆるゆると抜く。太陽の如く照らす笑顔で、彼はサラの手を引くのだ。
「じゃあ、行こう。もうすぐ日も落ちるし」
*
暮れていく日を二人で見る。不思議な心地がして、サラは確認するように隣の温もりを見上げた。
巡る太陽を期待に満ちた目で見詰める青年がそこにいる。視線に気づいたかふとこちらを見下ろそうとする笑みを直視する前に、彼女は視線を空へ戻した。
――いつからだったろうか。
サラにとってのノイルはただの主ではなくなっていた。何かにつけ己を気にかけていると知り、己の命さえも使い捨てようとしていた上位の使用人たちから守ろうとする彼の姿が瞼に焼き付いて離れなくなった。
だから。
けれど。
こうして並ぶのも、こうして共に空を見るのも――彼の部屋のバルコニーへ立っているのも。
本来ならば有り得ないはずだったのだ。
ここに立てる理由を問おうにも、それがこの曖昧な感情を決定づけるような気がして口を閉ざす。彼のその優しさと正義感に、勝手に卑しい想いを押し付けていることを自覚したくなかった。
これからも。
ずっと主従のままでありたいのだ。
「あ」
落ちていく日を追うように一番星が零れた。紫に染まりゆく境界線を割いて消えていく。
「サラ、見た?」
「はい」
一番に走り出した兄弟に続いて、幾つもの星が落ちていく。紫から濃紺へ、暗く暮れていく空を照らして、流星の軌跡が二人の頭上を流れ落ちていった。
その光景を息を吞んで見詰めていたサラの手を、ふいにノイルの手が包む。伏し目がちな緑の目を大きく見開いた少女を真っ直ぐに見据える青年の瞳のきらめきが、光り落ちる星を背にして尚強く輝いている。
――この人は太陽だから。
ただ笑んだ彼女の日差しは、知っているかと優しく囁く。
「一番星が流れるのを見られたら」
――そうだ。
メイドたちは恋の話に花を咲かせていたのだ。今日この日、流れ行く星の最初を二人で見ることができたなら。
恋が。
「叶うんだって」
ジンクスに頼るなんてよくないとはわかってるけど。
苦笑した青年の瞳が柔らかく弧を描く。それだけ本気なんだよと続けて、彼の瞳が彼女を射抜く。
「サラ、好きだ。俺と付き合ってください」
言って朱に染まる頬を見て。
真っ赤に熟れた少女は、何も言えなくなってしまった。
薄氷の終幕(サフィノイ)
役者とは壇上にあるからこそ美しい。
故にサフィラは悲劇の紡ぎ手であらんとする。無神経で醜い人間という生き物がもたらす下らない世の無聊を、その偽りなき嘆きと苦しみの咆哮のみが慰めるのだ。
そのあたり、少しばかりの誤算を含め、今回の舞台の主役はよくやっている――と思う。
世界破滅への第一歩に相応しい偶然は、サフィラをごく楽しませてくれた。封印を解いた小娘が、膨大な魔力の塊たる彼に耐えうる、優秀な魔術師の素養を持っていたこと。雇い主である主役が、彼女に淡い恋慕を募らせていたこと。彼がサフィラを彼女の兄だと簡単に信じ、長い旅路ですっかり心を許したこと。
全て良い風味付けだ。
その辺りの拘りは作家ほどではないにしろ、同じ壇上に立った共演者として、意図せぬ名優には敬意を表さねばなるまい。この拓けた野原を氷で染め上げたのも、全ては最後の場面を豪奢なものとせんがためだ。
いずれどちらかの血で染まるとも――。
問題はない。
これは悲劇の終幕なのだ。
心地良い冷気の中、サフィラは最後の登場人物を待っていた。
この長い救世の道中を互いに支え続けたと信じ切ってきた、仮初の主従の邂逅である。手には武器を携えて、魔王へ相対する勇者の如き殺意を目に宿し、彼は古の王を打ち倒さんと現れる。行く先々で引き起こされた凄惨な事件の糸を引き、何も知らぬ顔をして笑っていた氷の魔物を殺すべく、あどけない少年の面影を残した顔立ちが霜を踏むのだ。
「思いの外お早いご登壇でしたね」
人の好い執事の顔で笑う。
相対するのは赤茶の髪をした青年だ。サフィラが欺き、そして裏切った主人である。
赤いコートに黒いマントを巻きつけ、冴えた殺気を腰の剣に宿して、レンティス家の次期当主ノイル・レンティスは、口許を引き結んだまま、青の双眸で怨敵を睨んだ。
「お前を止めるのに、急ぐのは当たり前だろ」
「そうですか」
凍て星の煌きを宿した怪物の赤い瞳が、望む終焉を前ににわかに輝きを増す。吊り上がる口許を隠しもせずに、煌々と愉悦を湛えた薄氷は、腰に携えたレイピアを抜き放った。
「では、長口上はやめておきましょう。――ご随意に、ノイル様」
恭しい一礼と共に漏れ出す冷気がノイルの肌を刺す。
薄青の長髪に、氷の角を生やした執事。男の左頬を這う氷の鱗は、彼が既に少年を処分する意を決したことを告げている。
応えるように翳した剣に指を這わせ、眼前の悪魔へ対抗するための力を纏わせる。ノイル自身の魔力では、サフィラには到底太刀打ちできないだろう。加えて、体の本来の持ち主を救い出さねばならない。
だから。
「借りるよ」
五千年前、世界を氷と悲劇で覆わんとした悪辣な魔導。その存在を古書に封じ、レンティス家に託した賢者。彼が遺した――封印のための剣。気が遠くなるほどの時を経て、なおも強大な魔力の残滓を纏っている。
声が指先から駆け上がる。体中を巡り、力と共に馴染んでいく。
封ずる。
もう一度。
――あの怪物を。
相対するサフィラの方は、見覚えのある刀身を視界に入れるや、忌々しげに眉根を寄せた。剣に眠る魔力のお陰で、彼は五千年もの長きに渡って、書の中で退屈な日々を過ごす羽目になったのだ。
漂う温度が知らず下がる。足許で揺れる草が凍り付いたところで、彼はしかしと思い直した。
忌々しいことに変わりはないが――。
良い舞台装置にはなろう。
持ち上げた唇に刻む笑みも壮麗に、古の魔物は朗々と声を上げた。
「貴方の最期を彩る舞台、これにて終幕と致しましょう!」
振り上げる――。
氷のレイピアから冷気が迸る。
地を這う温度が氷柱を成すのを薙ぎ、ノイルは跳躍する。右手に携えた剣で、襲い来る凍てつく大気を切り裂く。
魔力で対抗する術はない。意志を持って襲い来る氷の刃をいなし、思い切り地面を踏み切る。
中空から振り下ろし――。
そのまま薄青の首に食い込ませようとした刃は、果たして細剣に阻まれた。
サフィラの魔力によって維持される、不凍の氷の強度は、生半可な力で叩き割れはしないようである。少年の眉間に刻まれた皺が、笑みを浮かべる切れ長の赤に映った。
拮抗した力をかわすように、燕尾服の化け物は己を狙う白銀に氷の剣を滑らせた。その勢いで弾き返した軽い体。無防備な左胸へ切っ先を向ける。
突き出す左腕。
数拍前に地を捕らえた足で、ノイルは剣の先端から体を逸らした。追撃を避けるべくしゃがみ込む。上に手を伸ばせばすぐに冷え切った腕の感触に行き当たる。
強く握り込んだ黒手袋が舌打ちをするのを聞く。防護を失った脇腹に向けて突き刺さんとする白刃が、強い衝撃を受けて持ち主ごと地を転がった。蹴り上げられたと理解するまでに時間は要らない。次の一手を認識する前に、ノイルはその場から体を離した。
爆ぜる氷塊が頬を薙ぐ。小さく切り裂かれた皮膚の熱さが飛び散る零度に奪われる。
小さく呻き声を上げて頬を拭う少年に、サフィラはひどく楽しげに口の端を持ち上げた。僅かに乱れた燕尾服の袖口も厭わず、用意された台詞を語るが如く、彼は鮮やかに輝く赤い瞳に確かな歓喜を湛える。
「悲劇の味は如何でしたか? 救われない偶然に翻弄される運命は!」
呼応するように温度を下げていく大気が、ノイルの温もりを芯から奪わんとする。
この歪んだ喜びに、何人が呑まれたのだろうか。
凍えた空気に震える指先に力が巡る。偶然が生んだ悲劇が終われば、この化け物は再びこの世を蹂躙するだろう。今度こそ、この世界の支配者として、悲嘆に塗り潰された脚本を演じ続けるのだろう。
――サラの体で。
巡る魔力は、訴えかける意志と同調するだけ、体に馴染む。
声に後押しされるように――。
強く踏み込む。
「俺も、サラも――人間は、お前の玩具じゃない!」
切っ先に乗せた覚悟は重い。眼前の悪魔がもたらした悲劇の全てを乗せて、纏う意志を確固たるものとする。
いっそ憎しみめいた感情を湛える青い双眸を。
怪物は――嗤う。
「良い顔をするようになりましたね。ああ、全く、笑えますよ。とんだ道化だ」
「お前の三文芝居には、もう付き合うつもりはないぞ」
「心外な」
吐き捨てた言葉にサフィラが肩を竦める。大袈裟な調子とは裏腹に、機嫌を損ねた様子もなく、彼はノイルの眼差しに淀む昏くらい色を見据えた。
「私は、貴方が望む冒険譚を提供したに過ぎません。事実、貴方の犯した罪は、全て貴方のものではないですか!」
――握り締めた柄。
滲む怒りと後悔を抑えるすべもなく、奥歯を噛み締めた少年が表情を歪める。真っすぐに睨む初々しい激情に、男は会心の笑みを浮かべた。
「人間とは斯様にも無様で、斯様にも愚かしい! 滑稽ですねぇ――!」
恍惚の哄笑へ向けて再び走り出す。突き出した切っ先が長髪を掠めた。一瞬だけ剣先を追って不愉快に歪んだ口許は、しかし即座に少年へ向けられる。
レイピアの先端が冷気を生み出すより数拍早く。
ノイルは後退する。先まで立っていた場所で氷が爆ぜるのを一瞥し、吹き荒れる雹の最中に身を躍らせた。
視界は利かない。それは向こうも同様だ。
たとえ己の力であれど――。
人間の目は万能ではない。
身を裂かれながらも跳躍する。驚愕の滲む瞳を見据え、唇が歪むのを押さえられない。
不可避の一撃が氷を叩き割らんとする。
その。
――刹那。
揺らいだ赤い眼差しの奥に。
緑の――。
「サラ!」
化け物の中に眠る少女の面影が、見開かれた瞳に笑いかける。
その目に走る――赤い光。
「無様なことですね」
バランスを崩した鳩尾に鋭い蹴りが食い込む。吹き飛んだ体への追い打ちとばかり、現れた氷柱が臓腑を狙うのを、朦朧とした意識で捌き切る。
痙攣する肺から咳を吐き出して立ち上がる。覚束ない視界を一度閉ざし、首を横に振ってから息を整えた。
冷徹な赤がそれを見詰めている。
「全く。陳腐な展開に飛びつくものではありません。これは喜劇ではないと、今更、申し上げる必要もないと存じておりましたが」
呆れた調子で溜息を吐いたサフィラを睨み、ノイルは口に溜まった血を吐き出した。
「相変わらず――卑怯な奴だな」
「異なことを。単なる演出ではないですか。古典的な手段に引っかかる方が悪いのですよ」
「ああ、もう、喋るなよ」
低く唸るように言って、少年は先の感触を思い出す。
――手応えはある。
降り注ぐ刃の間を切り抜け、右手に力を籠める。封印のための剣から手を離さなければいい。この意志と呼応している間は、ノイルは充分に怪物と渡り合える。
構えられた細剣の先。
心臓ごと叩き潰すべく振り下ろした剣が、燕尾服を切り裂いた。
サフィラの湛える驚愕が憤怒に変わるのを至近距離に捉える。そのまま持ち上げた剣を横薙ぎに払えば、笑みを浮かべた青い瞳の先で、初めて怪物は血を流した。
*
遠い昔。
魔力の塊の中に意志を持つものがあった。
純粋な悪意の塊。悪辣な意志の権化。殊に悲劇を愛したそれは、人の体に取り付いて、悲嘆と絶望の氷で世界を覆った。
かの存在を憂えた数多の賢者たちは、持てる力を練り上げて、一つの剣とした。莫大な魔力を持ったその剣により、怪物は一冊の書に封じられる。
――そして。
これより、賢者の一人であったレンティス家の下で、魔導書は全て管理されることとなった。
*
幾度目かもわからぬ剣戟が火花を散らす。
サフィラの消耗は大きい。大気の孕む温度は生温く、睨む赤い双眸にも力はない。零れ落ちる真紅の体液を煩わしそうに払い、彼は一つ舌打ちをした。
相対するノイルとて変わりはない。鉄錆の味をした唾を飲み込む間にすら、酸素を欲して心臓が暴れる。
細剣が中空を掻いた。爆ぜる氷の最中を駆けて、少年の白刃が化け物を捉え――。
――貫く。
臓腑を切り裂かれる感触に、サフィラの端正な顔立ちが歪んだ。それでもなお、彼は鮮紅の溢れる唇を嗜虐的に持ち上げた。
「愛しい女ごと、憎き怪物を。ああ、何と、素晴らしい」
「煩いな」
振り絞る声を遮る。突き立てた刃を握る手に力を籠めて、ノイルは燕尾服の男を見上げた。
残った魔力を全て流し込む。にわかに輝きを帯びた刀身から、彼の体を通して足許に白く陣を描く。
その感覚で――。
怪物の顔に初めて焦燥が浮かんだ。
「貴様、どこでその術式を――!」
ノイルは答えない。代わりに剥き出しになった仮面の下を真っすぐに見据える。
残った力で反逆を試みながら、再びの眠りに誘われる赤い瞳。その恨めしげな悔しさに、低く唸り声をあげた。
「おやすみ、サフィラ」
――引き抜く。
荒れ狂う風の隙間で氷が爆ぜる。ノイルを貫くことが叶わなかったそれは、主の眠りと共に姿を消した。
掻き消えた陣と風の向こうに少女が立っている。全身に傷を負い、意識をなくしたままの彼女を抱きとめる。その手から滑り落ちた青い表紙の本を拾い上げて、紺碧の双眸が緩やかに細められた。
「お伽噺はお伽噺のまま、眠ってろ」
幕間(サフィノイ)
帰って来ない。
斜陽の差し込む室内である。仮初の主であり、当面の悲劇の主役でもある青年の帰還を待ち続けて、既に二時間ばかりになる。じきに日が落ちる頃合いになっても、窓の外に喧騒の一つも生まれないあたり、恐らく彼は未だにふらついているのだろう。
目を離したのは失敗だった――と、サフィラは幾度目かになる溜息を吐いた。
路銀として扱っていた中から、幾ばくかの金を手に、ノイルが遁走した。サフィラが気付いたときには、彼が取った宿の部屋はもぬけの殻であった。机の上に残されたメモには、日が落ちる前には帰るから心配しないでほしいとだけ書き記されており、完璧な執事を装った薄氷の魔物は、その想定外の行動に舌打ちを禁じえなかった。
考えを回した末に、大したことではないだろうと高を括った。
大図書館の御曹司が一人で出歩くことの危険性は、彼とて充分に理解しているだろう。面白い展開を求めて敢えて一人にしたことも少なくない。死ぬことなく、それなりに切り抜けてきたのだから、今日中には戻ってくるだろう――。
と。
思っていたのだが。
窓の外を覗く。暮れていく斜陽はじきに山間に陰るだろう。薄く浮かぶ月が、夜の到来を告げている。
「――面倒な」
低く唸った怪物が前髪を掻き上げる。一つの瞬きの間に、歪んだ表情を仮面の下にしまい込み、彼は氷の吐息と共に立ち上がった。
*
ランタン持ちの声が遠くにする。
灯りらしい灯りのない街路を行く。夜ともなれば人出はなく、サフィラのブーツが煉瓦を叩く音だけが響いた。停滞した熱気を孕む夜気に眉を顰め、彼は左手を持ち上げる。
軽く握れば、冷気を放つ細剣が顕現した。凍る足許を気にすることはしない。
角と鱗は――。
隠しておくことにする。
万一にも見られては面倒だ。
月の光に紛れ、人の姿を保ったままの魔の者は、赤い双眸を鋭く巡らせる。このようなところで、順当に進行していた場面を乱されるわけにはいかない。
暗く鎖された裏路地に足を進める。魔力の塊としての本質は、人の微細な魔力の質に鋭敏だ。
恐らくこちらか――。
果たして辿り着いた小さな家から、魔術で灯された消えない炎の光が漏れているのを見る。細めた瞳の色をにわかに明るく揺らめかせ、サフィラは扉を叩いた。
素直に出てくるとは思っていない。
十中八九、後ろめたい集団だ。わざわざ他人の要請に応答することはなかろう。
――だがそれ以上に。
暫しの間を開けて、強く扉を叩く。纏った冷気を一時的に薄め、氷のレイピアを握った手を後ろに回し、緩やかに瞳を細める。
粘られたくはあるまい。
「煩えな!」
果たして荒々しく開かれたドアへ穏やかに一礼する。
「夜分遅くに申し訳ございません。主の姿が見当たらず、探しに参りました」
「知らねえよ、他を当たれ」
すげのない返答は織り込み済みである。
動揺を隠すように瞳を揺らし、話は終わりだとばかりに背を向ける青年に向け、隠した刃を突き立てる。
――断末魔はない。
「正解ですか」
そうであれば、最早隠す必要もあるまい。抑えていた冷気を解放する。凍り付く足先から駆け上がり、頬に刻まれる氷の鱗と、繋がるように伸びる氷の角を露わにした。
そのまま歩を進める。
小さな家だ。見立て通り、そこまで部屋数が多いわけでもない。ひときわ厳重に用意された扉に背を預け、中にいるであろう誘拐犯の声を探った。
「――脅せば金になる」
それで。
おおよそ知れた。
湧き上がる感情に任せて蹴破るように扉を開く。どよめく最中にある主役の意識がないことを見止めるや、サフィラの唇に嗜虐の笑みが浮かぶ。
「これは、これは、お揃いで。私の玩具に何か御用がおありですか」
芝居がかった台詞にも、滲む怒りは抑えられない。赤く光を孕む氷の眼差しがひたりと人間たちを見据えた。
「私の舞台を乱したのですから、さぞ大仰な大義名分がおありでしょうと思っておりましたが、なるほど、下賤な。芸術を介さない人間には、この程度の理由が精々ですか」
滴る血さえも凍らせ、赤黒く染まったレイピアで空を切る。纏う体温が下がる共に、凍った空気で部屋中に霜が降りた。
この馬鹿どもを。
――生かしてはおけぬ。
「死に晒せ! この愚図どもがァッ!」
空気を揺るがす咆哮と共に、氷柱が迸った。
*
目を開ける。
どうにも頭が痛い。窓の外から差し込む日差しと鳥の声で、辛うじて今が朝であることは理解できた。
ゆっくりと体を起こせば、寒気が走って体を抱きしめる。思いの外熱い体温に眉根が歪む。
扉が開いて――。
見慣れた薄青の髪に、安堵の息を吐いた。
「サフィラ」
「ああ、ノイル様、お目覚めですか」
路地に倒れていたものですから驚きました――と、いつもの調子で彼は笑う。
「夜気に一晩晒されていたのです。医者は風邪だと申しておりました。しばらくはご安静に」
そういえば。
昨日の記憶はあやふやだ。確か、街を見て回ろうとして、一人で飛び出してから――。
どうしたのだろう。
「これからは、お一人での外出は控えてくださいね」
痛む頭で茫洋と考えるノイルの思考を、サフィラの声が遮る。一度霧散した考えが戻ってくることはなく、襲い来る睡魔に敵わないまま、再び体を横たえた。
ゆっくりと視界が閉ざされていく。まどろみに囚われて、ノイルは一つ欠伸をする。
「――私の手間が増えますので」
意識の淵で呟いたサフィラの表情を捉えることは、彼には叶わないままだった。
君のいる明日(のいさら)(R18)
向かい合ったきりだ。
レンティス家の寝室にて、ベッドの上に座る男女は、先程から一度も目を合わせられないまま黙っている。普段のそれとは違いひどく重苦しい静寂に、口を開閉するまま呼吸だけを繰り返す青年は、今宵より妻となる女の腕へ視線を這わせた。
ノイルはレンティス家の次期当主である。
下流階級たるメイドとの結婚は本来ならば望ましいことではない。渋る周囲に彼の行動は抜かりなかった。まずは中流貴族への支援の約束と引き換えに、身寄りのないサラを養子として受け入れるよう打診する。使用人と主としての関係は彼女の解雇をもって終結させた。恋愛結婚という一点に渋る者を納得させる術を持たないながら、温厚な子息の激情で一切の反論を封じ込めたことを、彼はプロポーズとともに苦笑で告げたのだ。
祝福とまでは行かずとも、正式な結婚式まで漕ぎ着けた二人が契りを交わしたのが今日の昼である。
即ち――。
「サラ」
緊張で幾許か裏返る声に、返事もまた震えていた。夫婦としては当然の、レンティス家の存続を考えるなら必須のその営みが、互いに触れるばかりの口付けのみを交わし続けてきた彼らにとってはひどく難しい。
せめて空気を和らげる一言を――と、紡ぐべき言葉を探せば探すほど頭が混乱する。間をもたせるように名を呼んでしまったが、それが余計に彼女の肩を強張らせているような気さえした。
長い間があって、ノイルが口を開く。
「急――だったけど、どう思った?」
それは。
目下、彼の最大の懸念である。
強引に事を進めてしまったという思いは強い。頷くしかない――と思わせたくはなぁったが、結果的にはそうなって然るべき状況に陥ってしまった。
「――驚きました」
俯いたサラの返事は、想定した通りである。綺麗に整えられたシーツに落としたノイルの視線は、先程よりも重苦しく、黒手袋を外した掌に纏わりつくような心地がした。
でも――と声がして、彼の目は上を向く。
「嬉しかった、です」
ほの灯りに照らされて、サラはか細く声を上げていた。
透き通るような白い肌が赤みを帯び、整った顔立ちは悩ましげに俯いている。長い睫毛が薄青の髪の隙間で踊り、翠玉の色をした瞳が、僅かに潤んでいた。
引き締められた唇に――。
ノイルが口づけをする。そのまま押し倒した体からくぐもった声が漏れて、彼は上気した頬で、愛する妻を見据えた。
「ごめん」
返答はない。
代わりにおずおずと背中に回される手に甘えて、再び唇を押し当てる。舌でなぞれば簡単に受け入れる彼女に、鼓動が耳の奥で鳴るのを聞く。
拙く絡める舌に夢中になるまま手を強く握った。一回りも小さな手に、応えるように力が篭るのが愛おしい。
酸素を求めて上がる息にも気付かぬまま、深く探る舌に、サラの鼻にかかった声が響く。縋るように服の背を握る手の感覚へ、押さえきれない思いのまま、ノイルは徐に彼女の服へ手をかけた。
ボタンを外すうちにも唇を重ねる。直に触れる肌の感触を味わいながら、ようやく離した舌の間に、銀糸が伝って零れ落ちた。
「好きだよ」
辛うじて言葉にできたのは、それだけだった。衣服を乱され、蝋燭の頼りない灯りにも分かるほど頬を朱に染め上げてなお、自分を見詰める妻の視線に、ノイルは腹を括る。
――俺は。
――サラの夫だ。
脇腹に触れる手を持ち上げる。羞恥に震える彼女の肌を伝い、躊躇する指先で触れた丘陵に、甘い声が漏れるのを聞く。
思わず、ごめん、と囁いた。思いのほか掠れた声に、自分で僅かに目を見開く。
やわやわと触れるまま、ノイルの唇はサラの耳を食む。小さく声を漏らす姿に愛おしさが募った。そのまま指先で摘む頂点に、下敷きにした体が跳ねる感覚で、彼の息は自然と荒さを増した。
口を塞ぐべく持ち上がる手が視界の端に映る。すかさず自身の手で覆えば、涙をたたえた緑の瞳が、抗議するように青い双眸を見た。
「聞かせて」
「いや、です」
「何で」
「こんな、はしたない――」
か細く紡ぐ声を塞ぐ。いいから――と続ければ、サラの抵抗はそこで止んだ。
密かに気をよくするまま、暫し掌で遊ぶ。鼻にかかった甘い声が、困惑の色をなくし始めた頃になって、ノイルは指先を彼女の腹に沿わせた。
内股を優しく擦って、熱を孕んだ秘部へ触れる。一際甲高く上がる声を落ち着けるように、彼は彼女の耳元へ唇を寄せる。
知らない感覚に眉を顰めて耐える女の表情に、男の手は勢いづいていく。埋めた指が体内を荒らす感覚に慣れないまま、サラは混乱の混ざる息を甘く吐いた。
その全てが快楽だと、ようやく認識した頃に――。
指を引き抜いたノイルは、決意を込めて彼女を見下ろした。
「サラ」
熱に浮かされた緑が、夫の余裕のない表情を見据える。最後の確認だとばかりに、息を詰めて呼ばれた名に、高まった緊張はほぐれる。
愛しい夫の頬に手を添えて――。
サラはぎこちなく笑った。
「ノイル」
落とされる口付けを受け入れる。唇を離したノイルがベルトを外す音に混じって、どちらのものともつかぬ荒い吐息が響いた。
もう一度、深く舌を絡ませる。ノイルが押し当てた昂りをゆっくりと沈み込ませれば、サラの口からはくぐもった呻き声がした。
「大丈夫?」
掠れた声で問う。小さく頷く彼女へ、気遣わしげに唇を寄せてから、再び腰を埋めていく。
深く――。
口づけを交わして気を紛らわせる。己の浅ましい欲で、痛みに耐える妻に無理を強いることはできなかった。埋めた己自身の動きを暫く止めたまま、ノイルは穏やかにサラへ笑う。
彼女が背中に手を回したのが合図だった。
ゆっくりと動かした腰は、いずれ速度を増して、止め方がわからなくなる。背筋を駆け上る快楽と幸福に脳髄を溶かされるような感覚に浸るまま、背に爪を立てるサラを掻き抱いた。
一際大きく震える体を抱き締めて――。
ノイルもまた、己の欲を吐き出した。
*
布団の中からこちらを見ている。
視線は血の滲む背中である。先程から深刻な顔をしたままのサラに、ノイルは幾度目かわからぬ苦笑を向けてみせた。
「気にしなくていいって」
「ですが、傷を負わせてしまいました」
余計に小さく縮こまる体に、ますます苦い笑みを深くして、彼は布団の塊になった妻に手を伸ばす。
後ろから抱き包める。暫くもぞもぞと動いてから、彼女はささやかな抵抗をやめた。
「俺は幸せだったからいいんだよ。サラは嫌だった?」
少しばかり意地悪く問えば、布団の中の体は動きを止める。
「――お言葉ですが、その訊き方は、ずるいと思います」
拗ねたような声に大きく笑って、ノイルは顔を赤くしているであろう妻を抱く腕に力を込めた。
誓い(のいさら)
白い手袋に手を通す。
纏った白いドレスの横で、昨日までの同僚が控えているのを、翠玉がちらと見遣った。整えられた裾を引きずるのが落ち着かなくて、サラは自然と教会の床へ視線を落とした。
――俺と結婚してください。
内密に交際を続けていたノイルが頭を下げた夜を、サラは一生忘れられない。
大貴族の次期当主と、貧民街出身の給仕の恋愛結婚とあれば、あらゆる障害が降りかかるに違いないと――。
思っていたのであるが。
危惧したよりも事は円滑に進んだ。彼女が彼の本心を告げられる前に、彼女が覚悟できる範囲のことなど、とっくに終わっていたようだった。
結局――。
サラが決めたのは、日取りとウェディングドレスだけだった。
現実を突きつけられることのないまま、とうとうこの日を迎えてしまった。普段から茫洋とした性質ではあるが、今日は特に足許が覚束ない。一度でも瞬いたら自室のベッドにいるような気がして、何度も白い手袋に触れた。
「サラ、そろそろ時間です」
未婚の給仕の声で我に返る。年上ばかりの使用人の中では、年の近かった女性だ。サラへの仕打ちを哀れんでいたが、給仕の端くれが家政婦長に声を上げることができるわけもなく、目を盗んで食事を分けてくれていた。
もう二度と彼女に呼び捨てにされることはないのだ――と思うと、寂寥感が込み上げる。
やすりで擦られるような痛みを呑み込んで、強く頷き返す。ひどい顔をするわけにはいかない。立場が違ったとしても、彼女が目をかけてくれた事実が覆るわけではないのだ。
手渡された本の表紙をなぞる。彼女の髪と同じ薄青をしたそれには、確かにサラの名が刻まれている。
これを――。
ノイルから渡される指輪の代わりに、彼に預ける。
本を渡すことの意味を、サラはよく覚えていない。そもそも彼女自身が、自分にこんな機会があるとは思っていなかったし、教える方もそこまで真剣ではなかったのだろうと思う。
きっと、この表紙を見た彼は、困った顔で笑うだろうとも思う。慣習的に周囲の人間が選ぶらしい本を初めて見たとき、思わず彼女も眉間に皺を寄せてしまった。忌まわしい記憶が心の奥底で蠢くような心地がしたのだ。
それでも。
彼に彼女の名を預けるのは――悪くないことだと思えた。
開かれた扉の向こうから、風が流れて頬を撫でる。穏やかな日の光が差し込む先に行かねばならない。衆目に晒されることを躊躇する足に力を込めて、サラはじっと前を見据えた。
この先に。
ノイルが待っている。
ゆっくりと前に進んでいく。どよめく観衆の困惑は、すぐに感嘆と妬心に変わる。囁く悪意の群れが背中に刺さって、薄青の髪は知らず俯いた。
あんな女より私の方が似合いなのにと言われても――。
――サラには否定ができない。
主人と給仕であるというだけでも人目を憚るというのに、彼女は貧民の出身でもある。レンティス家の給仕として必要な下積みもなく、単なる偶然で拾われただけの身だ。本来ならば人としてさえ扱われないはずの彼女が、彼の隣に並んでいることは、糾弾されてしかるべき事実である。
「サラ」
――待ち侘びた声がして。
顔を上げる。その先に、穏やかな笑みを湛えた愛しい人がいる。
全身の力が抜けるようだった。遠のくざわめきに、青い瞳が輝いているのだけが明瞭と見える。その瞳に映る己の姿が、鏡で見るよりずっと美しくて、サラは思わず瞬いた。
「俺がいるから」
微笑む彼の向こうで、彼の両親が相好を崩している。真っすぐに彼女を見ている。
それで――いいのじゃないか。
「――はい」
迷いなく頷いた。
安心したような表情で、タキシードの新郎は新婦を抱き寄せるようにして隣へ並べた。鋭いひと睨みで周囲を黙らせた瞳が、途端に温厚な色を宿してサラを見る。
その唇から――。
溜息が漏れた。
「綺麗だよ」
囁く声に熱が集まる。顔が赤くなるのを隠しようがないまま、蚊の鳴くような声で礼を言った。
ノイルも。
と。
言おうとして目を遣る。未だ幼さを残す顔立ちに、正式な礼装は不釣り合いなように見えた。サイズを合わせて作ってあるはずなのに、どこか背伸びをしたような不安定さを孕んでいる。日の光に照らされる、直しようがなかったらしい癖毛も、均衡を欠いたような印象だ。
本人が一番わかっているようで、ノイルは照れたように苦笑した。
「似合わないだろ」
「少しだけ」
「だよなあ。他の服ってないのかな」
弱った声を漏らす彼に、思わず笑声が零れる。
白いドレスの裾を引きずることに慣れないサラと、居心地の悪い正装を着るノイルは、天秤の両皿に相応しいのではないか。
なんだ――。
――最初から、不釣り合いなんかじゃないじゃないか。
「でも、世界で一番素敵です」
言って本を渡せば。
やはり、彼は困ったように笑った。
サフィノイサラまとめ