Fate/defective c.26
新宿御苑の地下、スウェイン派が如何なる魔術によってか建設した大聖堂の中で、それは誕生した。
何千人規模を収容できるほど、縦に長く、巨大な地下空間の最北端にある「祭壇」に、一人の男と大聖杯がいる。聖杯からとめどなくあふれ出る黒泥は、床に滴り落ちる前にぐにゃりと向きを変え、空中で重力に逆らうように伸びあがり、男と聖杯の頭上にある泥塊に接続する。その泥の塊は、まるで心臓のように規則的に脈打ち、時折胎児のようにぐるりと蠢いた。
男―――アーノルドが、声を上げる。
「さて、アーチャー? これの完成は間近だ。君を除いた五騎の英霊の魂、一騎のデミ・サーヴァントを土台に、プロトタイプとなる魔術師まで獲得した。あとは、相応しい魔力の『炉心』を埋め込むだけ。―――そして、君にその『炉心』になる意思はあるか?」
アーチャーはアーノルドを睨み付けた。マスターを失い、急速に霊基が弱っていくのが分かる。現世と自分を繋ぎ止めるものが無くなったのだ。
しかし、彼は気丈に答える。
「言うまでもない」
「だろうね。ならば―――」
言うや否や、空中に浮かぶ不気味な塊から突然触手じみたものが飛び出した。蛸の足のようなそれは、目にも止まらぬ速さでアーチャーめがけて突き進む。
「そんなものが、僕に届くと?」
アーチャーは驚きもせず、矢を放つ。だが触手はそれを避けた。そして凄まじいスピードで、アーチャーの横を通り過ぎる。
「な……!?」
「うわああぁぁぁぁ!!」
予想を反する動きにアーチャーが戸惑ったのと、悲鳴が上がったのが同時だった。
見れば、瓦礫の山の中から触手が一人の男をつまみあげている。泥だらけのその顔に、なぜか見覚えがあった。
「お前は……一日目に助けた、アサシンのマスターか!? なぜこんな場所へ……!」
一般人同然の彼がこの場所へ来るのは無謀だ。アサシンのマスターは触手に片足を掴まれ、悲鳴を上げながら空中に吊り上げられている。
「まさか、炉心……!」
「そうだとも。君がならないというなら、第一級の魔術回路を持つこの男に炉心になってもらう他ない。というより……初めからそのつもりだったからね」
アーチャーは苦渋の表情で矢を放った。音速の矢が触手に突き刺さるが、穴を開けたそばから泥がそれを塞ぐ。その間にも、触手はフラフラと泥の塊に向かって男を突き出す。
「あ、い、いやだ! たすけて! 誰か! 誰か!」
叫ぶ男に、アーノルドが言う。
「哀れな人間だなぁ! 君はもとより、怠惰で傲慢で無知だった。そんな人間一人、せめて人類の救済の要となれるなら、君の生にも意味があると思ってのことなのに。いいから大人しく――――」
アーノルドは右手で、空を横一文字に薙いだ。触手が勢いよく泥の塊に向かって突き刺さる。
ばしゃり、と激しい水音を上げ、アサシンのマスターは泥の中へ放り込まれた。
「大人しく、悟りの境地へ至りたまえ。それがお前にとっての救いだから」
アーノルドは両目を閉じた。頭上で、泥海が蠢く。心臓のように規則的な鼓動と胎動が一層激しさを増す。
「それ」は、生まれ落ちようとしていた。
◆
「待ちなさい――――――!!」
少女は叫んだ。
メランコラの背の一番先頭に鞍もつけずにまたがり、今は短くなった黒髪を暴風にはためかせ、エマは声の限り叫んだ。
その声に呼応するかのように、メランコラという黒馬は真っ黒い彗星のように、直線を描いて新宿御苑の池めがけて落下する。激しい水しぶき、轟音、熱量と共に池底が砕け散り、ぽっかりとうつろな暗い穴が口を開ける。
「行って、メランコラ!」
四人の魔術師を乗せた黒い彗星は穴の中の暗闇を突き進む。黒馬の背に乗ったアリアナ達は飛び散る水しぶきと激しい風に、ひたすら目を瞑るしかない。
馬は虚ろな穴を、深く深く潜る。やがて、暴風の隙間から、ぼんやりとした光の点が現れた。
「あれが底ね! アリアナ、見えますか?」
エマの声に、アリアナは薄く目を開けた。青白く暗い光がすぐ目の前に迫ってくる、と思った瞬間、メランコラの蹄がその床に着地した。
ズガン、と大岩が崩落するような音を立てたかと思うと、勢い余ってアリアナの身体がふわりと空中に投げ出され、そのまま瓦礫の中へ崩れ落ちる。
「痛ったぁ!」
運悪く、額に大きな石の角がぶつかった。あまりの激痛に目が一瞬眩む。ぬるい液体が眉間を伝った。
「っ……エマ、もっとマシな着地方法は無かったの……頭、割れるとこだったわ……」
「………そんな……」
打ちひしがれたエマの声に、アリアナは苦笑して瓦礫から這い出た。
「物の例えよ。そんなに絶望しなくて、も―――――」
その軽口は途中で止まった。うつ伏せになるアリアナの少し先、エマの小さな背中が見える。だがアリアナの目は、その少女の姿ではなく、かといって広大な地下空間に広がる聖堂の圧倒的な存在でもなく、その中心部、祭壇と思しきあたりに注がれる。
思い思いの方向に着地し、同様に呻いていた那次と佑も、その視線を追った先にある「それ」に言葉を失くした。
一番最初にそれを目にしたエマは掠れた声で弱々しく呟いた。
「嘘―――うそ。そんな……」
四人が視線を集める先。
祭壇にささげられた聖杯の、ほんの少し上空に、巨大な肉塊が浮かんでいる。黒曜石のような黒く薄い膜の中に、ゆっくりと、生まれたての雛のように脈動する心臓が見える。青い血管がうずまき、枝分かれし、灰色の目玉がぎょろぎょろと運動する。膜は乾燥するにつれ、鎧のように、刻一刻と硬化していく。
およそ、この世のものではない怪物の胎児だった。
「気持ち悪……」
嫌悪に満ちたアリアナの言葉に、聖杯の直下にいる青年が振り向いた。その顔にアリアナは怯む。白い肌の上を浅葱色に光る刺青が這い回る顔に、群青色の瞳、黒い髪。頸椎、肋骨、至る場所から触手のような管が伸び、聖杯を経由して怪物の胎児へと繋がっている。
「ようこそ。ブロードベンドの娘と、幸運な三人の魔術師達。今日は、人類の祝日だよ」
物腰の柔らかな声が響いた。エマは、ざり、と足元の砂利を踏みしめる。
「……アーノルド・スウェイン。漸く、外殻を脱ぎ捨てたのですね」
「そうだよ。聡明なブロードベンドの娘よ、こっちへおいで。一緒に―――――」
「嫌です」
アーノルドは一瞬、きょとんとした。だがすぐに口の端を引き上げて、苦しい笑みを浮かべる。
「ねえ、遠慮しないでよ。僕の願いを聞いたら、きっと君も、すてきだと思うはずだよ」
「思いません。こんなに醜い、ヒトに作られた怪物が叶えるあなたの願いは、きっとろくでもない」
その言葉を聞いたアーノルドは、不愉快そうに目を細めた。刺青がうごめく。
「へえ。容姿で言うなら確かに君は、美しい方かもしれないけど、そんな物言いは傲慢ってものじゃないのかな。 ――――同じく、『ヒトに作られた怪物』として」
「……っ」
エマが唇を噛む。その様子を見た那次が声を上げた。
「ヒトに作られた……? 監督役、一体―――」
エマはその言葉をさえぎるように声高に告げる。
「ええ。わたしはエマ・ノッド。父によって、時計塔ブロードベンド派に遣わされた、この聖杯戦争の監督役。―――そして、父が作った唯一の成功品、つまりホムンクルスです」
「ホムンクルス……!?」
そう声を上げたのは佑だった。埃だらけになった眼鏡を掛けなおし、エマを凝視する。
「そんな。時計塔でここまで完全なホムンクルスの個体を見たことは無いよ」
「そうでしょうね。私は極めて非人道的な――――精製法で作られました。人間一人の精神を完全に消耗するやり方で。人造人間としては完成品ですが、ホムンクルスとしては全く正しくない……だから、その時が来るまで、ずっと、父と二人で」
「幽閉されていたっていうのか……!? 一体何年……!」
エマは佑の方を見て少し目を細めた。憂いや悲嘆の表情ではない。ただ機械的に、まぶたを少し下ろしただけの顔だ。
「……そんな事はどうでもいいのです、佑。それより、今は」
エマは再び、宙に浮かぶ今にも産み落とされんばかりの胎児に目を移した。
「アーノルド。バーサーカーのマスターよ。監督役の権限を以て命じます。今すぐ、そのビーストの幼体を破壊しなさい。その召喚は、ルール違反です」
「そういうわけにはいかない。分かってると思うけど。僕は、僕にしかできない義務を果たさなければいけない」
群青色の瞳が暗く光った。その目は、もはや何も見てはいなかった。
「エマ。君ならわかるだろう? 何年、人の世の虚しさを見てきた? 人ならざる者として。人間は――救いようのない、虚しい生き物だろう。自分の願い。欲望。希望。私利私欲。正義とか、悪とか、何が偉いとか、何が弱いとか、強いとか。聖杯戦争はその極致だ。欲望同士の果てしない戦い。それはいつ、誰が終わらせるんだ?
なあ、エマ。
僕を肯定してくれ。
もう誰も、何も失ってはいけない。失うのは辛すぎる。ならば、最初から何もない方がずっといい。そうだろう、エマ」
アーノルドは涙ぐむような声で懇願した。その声の裏には、どんな悪意も潜んでいない。純粋に、心の底から彼はそう願っていた。
「欲が、人類の悪だと……」
那次が呟いた。その脳裏には、あの火事の光景がまざまざと蘇る。薄ら笑いながら、両親が焼け死んでいく家を眺める男。死に損なった自分を、血相を変えて追いかけ続けたあの男。
『何が間違っている?』
心の裏から、そっと、いつかの自分が問いかける。
『アーノルドという男の、何が間違っている? おまえも、人間の欲望の下敷きになって苦しんだ犠牲者の一人だ』
「違う……」
『何が違うんだ? あの男が当主の座さえ欲しがらなければ、おまえは今頃、平穏で、安泰な、一家庭の息子に過ぎなかった。友人が出来た。母親が笑っただろう。父親は? お前は、その全てを、あの男の我欲の為に、ただあの炎にくべるしかなかったんだ。全ての悪の根源は欲望だと、それは何も間違ってはいないじゃないか』
那次の思考を遮るように、エマが口を開いた。
「だから、破壊するのですか。その聖杯から生み出された怪物で、人の世界を」
「破壊ではない。作り直すだけだ。このビーストには、圧倒的な攻撃力も、破壊力も無い。サーヴァントでなく、英霊でなく、まして怪物でもない。これは、ただの『機構』だよ。人間から、欲望をろ過するための装置だ。例えば、ほら、こんな風に――」
アーノルドは頭上の胎児を指差した。
黒い艶やかな肉の隙間から、何かがずるりと音を立てて現れ、大量のどす黒い液体と共に地面に落ちてくる。それは出産に酷似した現象だった。落ちて来た塊は黒い液体に濡れたまま、ビチャビチャと汚い水音を立てて地面に落とされたまま動かなかったが、少し経ってからぴくりと体を震わせる。それから両の足を脚の折れた蜘蛛のようにうごめかせ、ゆっくりと蓮の花が開くように立ち上がった。
それは全員が見覚えのある人間の貌をしていた。
「………!」
誰かが息を呑む。平然としているのはアーノルドだけだ。胎児から生まれ落ちたその人間らしきモノは、以前の面影は塵ほども感じられない、生気を完全に失った瞳で辺りを見回す。豊かな金髪だったその長い髪の毛は黒い羊水にまみれ、その表情は死人が目を開いたようだった。
「何をしたの……? 彼女に、何を――――」
アリアナの震えた声に、アーノルドが淡々と答える。
「ビーストの権能を与えたんだ」
自慢げでも、高慢でもない。ただ友人に、昨日の話をするようにアーノルドは淡々と言う。
「欲望を濾過し、無欲の理を与えた。彼女はもう、何も望まないし、何も欲しないし、何も競わない。争わず、戦わない。自分の一呼吸ごとに、生に対して無垢な感謝と祈りを捧げる。自分が倒れるその時まで、自分の人生に何も期待しなくていい。ただ、そこに存在するだけで自分を肯定できる。
――――完璧な原型だ。人類全員から欲望を濾して、彼女のような『理想の人』を作ろう。既にビーストは完成されたのだから」
「そんなの……おかしい」
「……エマ?」
アリアナの声を無視して、エマは毅然とした歩調で聖杯の方へ歩いていく。生れ落ちた『理想の人』の原型の目の前で、エマは立ち止まり、頭一つ以上も背の高い彼女を見上げた。そして朗々とした声で、目は彼女を見つめながら、すぐ脇に立つアーノルドに語りかける。
「おかしいわ、そんな計画は。あなたはまるで人間を愛していないのね。同じ人間なのに。だから人間を壊しても、何とも思わないのだわ」
「僕が……人間を、愛していないだと? 違う。むしろ人間を愛しているから、その欠陥を埋めてやりたいと思うんだ。お前にはわからないだろう、ホムンクルス。お前は人間じゃない。部外者だから何も分からないんだ」
エマは目を伏せた。だが一瞬の後には、鋭い眼光でアーノルドを見つめる。
「いいえ、わかるわ。部外者だからこそ、わかるの。あなたは人間を愛していない。愛していると言いながら変化を強要するのは、ただのエゴよ。あなたが本当に愛しているのは、ここには存在しない、あなたの思い通りの人類だけ。違うのかしら?」
「――――――それの何がいけないんだ? ここに存在しないなら、作り出せばいい。それが人間の為にもなるのだから」
アーノルドは漆黒に近い群青の瞳でエマを見据えた。
「君は何も知らない。このビーストの半身となった少年がどれだけ純粋で無垢だったか。それを踏みにじった悪を。一人の英雄が狂気に堕ちるほど悲惨で凄惨な事件だった。君は何も知らない――― 僕は悲劇を起こしたくない。知らないうちに悲劇に加担していた自分が許せない。僕をそうさせた、全ての人間の欲望が許せない――――……!
だから皆で変わらなきゃ。誰かが誰かを傷つける世界は、ここで終わらせなくてはいけないんだ」
熱に満ちていくアーノルドの言葉が終わった瞬間、ビシリ、と音がして、頭上に浮かぶ胎児の肉塊に一筋の裂け目が入る。それに呼応するようにアーノルドの顔や腕を這う刺青が激しく明滅する。胎児は膨張し、キリキリキリキリと金属の触れ合うような金切声をあげながら、水晶のような聖杯に網目状に泥を巡らせ、一つ、また一つと破片を飲み込む。
「ああ……!」
エマが悲嘆の声を上げた。
アーノルドが泥の海の中に膝をついて、祈るように呟く。
「おはよう、ケートス。目覚めたら、新しい世界だ。ホムンクルスよ。三人の魔術師達。一緒に祝おう、人間が生まれ変わる、この惑星の祝福の日を」
胎児が発する、水晶を裂いて呑み込む金切り声がピタリと止んだ。
「―――――」
「――――キ」
「キャァァァァァァァァァァァァ――――――――ァァァァァァァァァァァァ――――――――ァァァ――――!!!」
聖堂の柱が小刻みに震えるほど、耳をつんざくような一際高くけたたましい金切り声が聖堂の広い空間に響き合った。
「……!」
アリアナ達はそのあまりの響きに耳を塞ぐ。アーノルドがケートスと呼んだ獣は、水晶が縁取る巨大な孔を胸部に抱えたクジラのような形態へと身体を変容させた。泥でできた黒い肉体が、頭に相当する部分をもたげてエマと三人を見下ろす。その顔に眼はないが、アリアナは深淵を覗き込んだような底のない畏怖の念に襲われる。ふっ、と膝から力が抜け、地面に崩れ落ちた。
「あんなの……どうやって壊すっていうの……?」
掠れたアリアナの声の後ろから、突然大声が響いた。
「やはり裏切ったな、アーノルド・スウェイン」
続けて、バタバタバタと多数の足音が続く。見れば聖堂の奥から、あのシオン神父と、一軍勢というべき人々の群れが押し寄せてくる。軍勢はみな一様に鋭い眼光と剣柄をもち、カソックに身を包んでいた。
その先頭に立つシオン神父は、悠々とした足取りでアリアナの横を通り過ぎ、聖杯の下にいるエマとアーノルドに近づいた。その間に、教徒の軍勢は聖杯とビースト、アーノルドを囲むように包囲する。
「端的に言うが、君のしていることは契約と違う。これでは、お前が聖堂教会と手を切ったという認識をもたざるを得ん」
アーノルドは点滅する刺青に軽く触ってから、少し笑った。
「そうだね。言わなくてもわかると思うが、僕は君たちとの契約を放棄する。作り上げたのはデミ・サーヴァントだ。七つの首に十の王冠を持つ、666の獣ではない」
「そうか。―――――残念だ。君はあのマナカ・サジョウに勝るとも劣らない天才だったのだが……」
神父が言い終わらないうちに、教会の軍勢が予備動作も無く、一斉に剣を投擲した。
数百の白い鋼が一度にアーノルドの肉体を貫く。アーノルドはぐしゃりと崩れ落ち、泥の海に還る。
だが一呼吸も置かず、泥海はうねり、立ちのぼり、造形を再開する。二呼吸めには、その刺青の入った肉体は完璧に再生した。
「無駄だよ、神父。わたしの肉は既に泥の中だ。泥がわたしの意思だ。わたしは聖杯に完全に接続している」
「だが新しい肉体に精神を移し替える魔術は消耗の激しく、その精神は置換するたびに鋳なおした金属のように劣化していく。アーノルド。お前の精神はあと何度持つ?」
シオン神父は三本の剣柄を握って問うた。アーノルドは不敵に微笑み、肩をすくめる。
「俺は天才なのでな。そんな消耗など、気にするまでも無い」
やりとりを聞いていたアリアナは眉を寄せた。―――さっきまで、彼は自分の事を「僕」といっていたはずだ。口調も少しずつだが変化している。
―――人格が、既に崩壊を始めている……?
「気付いていないのか、奴は……」
神父が小さく呟いた。
「付け入る隙は、ある。何度も新しい肉体を作り直させれば、精神は摩耗していく……」
佑がもごもごと言う。アリアナも頷いた。那次は何の反応も示さず、無視しているのか、別の事を考えているのか分からない。アリアナが那次に向かって口を開こうとしたとき、それより先にアーノルドが声を発した。
「でも、もう遅いよ。例え僕の精神に異常が生じていようと、それは誤差の範囲内。それより先に―――――」
ビーストが突然空中で身をよじった。
「キャァァァァァァァァァァァァァ―――――――!!」
ビーストが金切声をあげ空中で暴れるごとに強い風が吹く。砂埃が舞い上がり、思わず目を瞑ろうとした瞬間、ビーストの身体が弾け、花弁のように泥が伸びる。
「うわあああ!!」
「いやあぁッ!」
悲鳴があちこちで上がる。見れば、泥から発生した花弁の一つ一つが触手になり、教徒たちを掴み上げては、ビースト自身の胸の穴に放り投げていく。
剣を向ける者、逃げ惑う者、空中に放り投げられる者、触手に掴まれた腕を引き離そうと暴れる者。
「な、」
アリアナと佑は目を見開いて立ち尽くした。が、すぐに我に返る。
「佑、後ろ!」
「わああ!」
泥の腕が佑のすぐ後ろまで迫っていた。目と鼻の先で、アリアナがポケットの中の宝石を一粒投げる。
「『explosion』!」
激しい爆発音を立てて腕が霧散した。その隙に、佑が詠唱を始める。
「Set. first-order equation. Exrpcet ――――Fifth bullet and rupture ! 」
数十の弾丸が虚空から放たれ、全て泥の腕に命中し破裂する。パァン、と軽い発砲音を立てて触手が泥水になるが、少しも立たないうちに再生した。
「全然……無駄だわ!」
「そうみたいだ、どうしよう……」
もう八割ほどの教徒がビーストの穴に投げ込まれていた。まばらになった軍勢を見ても、神父は顔色一つ変えない。
「キィィィィィァァァァァァァァァァ――――――!!! キ キキキキキキ!! ァァァァァァアアアアァァァァァ――――――!」
再びビーストの金切声が上がった。クジラの末端にあたる部分の肉が花弁のように裂け、最初と同じようにぼたぼたと黒い泥水を纏った人間たちが放り出される。カッソクを纏った彼らは色を失った瞳で虚空を見つめ、すぐ傍の乱闘騒ぎなど意にも介さない。
「騒々しい獣だ。……しかし、信仰に獣の四肢は届かない――――」
シオン神父が苦しげに言いながらビーストの触手を蹴り落とす。だが背後から迫る腕の束から逃れることは出来なかった。
「……ああ、異端者め……! 主の救済の証明を……! 聖堂教会に主の威光が在らんことを!」
「神父。アナタはまだそんな事を言う」
アーノルドが腕を振って、神父を捕えた触手を自分の元まで引き寄せた。
白い肌に浮かぶ浅葱色の刺青は眩いばかりに輝き、群青の瞳は鬼気迫った様子で神父の顔を凝視した。
「あんた達は主の威光や救済などどうでもいい。実際のところ、大事なのは聖堂教会の権威だ。666の獣を召喚したら逆説を以て主の愛が証明される?
―――馬鹿らしい。そんなことだから、あんな女に獣を横取りされた挙句、一騎のサーヴァントに全てを台無しにされるのだ」
「欲望が満ちすぎたお前たちは、特に入念に濾さなければ。行ってくるがいい、無欲と平和の理の中へ」
バシャン、と水音が響き、最後の一人が投げ込まれた。あとには、聖堂教会からやって来た数百人の『理想の人』達が織る沈黙が重なる。
「さあ、これで残ったのは君たちだけ。どうする? お前たちに、理想から逃れる手立てはあるのか?」
アーノルドは、三人と一体に問いかけた。 押し黙る三人の魔術師を見て、彼は穏やかに諭した。
「もうわかっただろう。欲望は悪だ。人間は変わらなくてはいけない。恐れることは無い。彼等をご覧、苦しみも、痛みも、呻きも忘れて――実に平穏だろう」
「いいえ」
そう声を張り上げたのは、エマだった。
「苦しみも、痛みも、呻きも忘れたなら、それはもう人間とは言えません。ただの石っころとおんなじ。私は、人間を無価値な砂利になどしたくない」
「大丈夫。父から預かった『とっておき』があります。アリアナ、佑、那次――――」
エマは赤い瑪瑙のような瞳で真っ直ぐに三人を見つめた。
「これで、きっと最後です。――――力を貸してください。あとのことは、くれぐれも、お願いします」
そう言って、エマは、聖堂教会の教徒が持っていた剣のひとつをおもむろに手に取り、
寸分たがわず、心臓に突き刺した。
Fate/defective c.26