サフィアルまとめ
そこら中に散らばった君の欠片
それは何ですかと訊かれるから、ドールですよと答えた。
さしたる興味もなさげにサフィラが一瞥した部屋の隅には、固く目を閉じたアルティアがある。氷に覆われた緑の髪と桃色のドレスが、揺蕩うように時を止めている。最期まで笑いながら薄氷の内に閉じ込められた彼女の面影を見据え、薄青はつまらなさそうに足を組み替えた。
「お気に召しませんでしたか」
「ああ、まあ――気に入っていないことはないのですがね」
頬杖をついて息を吐く。
――確かに、彼女は人間にしては愛らしい容姿をしていた。
劇作家として魔性の言葉を操りながら、その実、湯水のようにそれを浪費していたアルティアである。指先に乗せた軽い単語一つで人間を虜にすることに、人形に似た幼い姿が一役買っていたのは間違いがないだろう。
サフィラもその器は気に入った。
だからこうして観賞用として黙らせておいている。
だが――。
「気に入っているからといって見飽きないことはないでしょう。着せ替えのできるドールならまだしも、これは只の置物ですし」
立ち上がって触れた氷を目を細めて見上げる。
喋らなければ喋らないで、存外に使い道はないことに気付いたのは、彼女を氷の彫像にして数日の後だった。
それでも暫くは器を愛でている価値はあった。とはいえ見出した価値にも慣れきってしまえば、そこにあるだけの邪魔な配置物だ。
「――捨ててしまいましょうか」
邪魔ですしね。
ひどく淡白な調子で指先を当てる。冷えたそれから流し込んだ力の一部が、薄氷を覆って光を放つ。凝縮されたエネルギーの一部が少女の彫像を砕いて、サフィラの髪を掠めて飛び散る。
暫し――。
幾つかの色を孕んだアルティアの残骸を見詰めた。溶かしてもいいが処理が面倒であろう。氷であるうちは鋭利な硝子片と変わらずとも、常温に戻してしまえばただの肉片と繊維質に成り果てる。そうなれば床一面が見るに堪えない地獄と化すことは目に見えているし、自室を彼女好みの悲劇の欠片で埋め尽くす気もなかった。
「掃除は任せましたよ」
踵を返したサフィラの冷えた足先が、薄緑を踏みつけて割った。
今際に見ゆ
神なるものの存在に、思えばずっと悩んできた。
機械仕掛けの都合のいい存在は、空虚な舞台の上には幾らでも息づいていたけれども、この現実という壇上には一片の息遣いも期待できなかった。偶然は全て劇作家の仕組んだ緻密な脚本の断片であり、超常の存在が齎す奇跡ではない。
だから——。
神的な偶然を組み込んでいいものか迷っている。
アルティアは人間である。非力な少女であるがゆえに、一人で必然を仕組むには限界がある。もしも現実の神なる不可視の存在が、時計のように正確に運命を刻んでいるのなら——その力を借りることも吝かではないのだ。
手にした分厚い本を開いてペンを執る。半分以上が走り書きで埋まった脚本は、残りの白紙に宿命を描かれることを望んでいる。
それでも——。
いつもなら滑り出すペン先が、なだらかな紙面に引っかかって動かない。脚本家であると同時に登場人物でもあるアルティアには、神の手なしに己を如何に動かすかが分からなかった。
——思い浮かぶのは。
蒼白な冷気に身を包む、氷の角を持つ異形の男だった。
人心掌握は得手とするところでも、怪物の心の有り様など知るすべもない。限りなく化け物に近づいて尚、アルティアは未だ——人間のままだ。
彼を操るには。
彼を——この手にするには。
まだ、人を捨て足りない。
彼の存在を排し、己を排して描いてきた悲劇の外側で、しかしアルティアは男の形をした怪物を物語に組み込みたくてならなかった。そのために神の御業を望み、本を閉じる。
神がいるというのなら——。
——私の命を、彼の手で終わらせてみせなさい。
目を開けると全身がひどく軋んだ。
震える腕で異物感に触れれば、腹に突き立っているのが世界を救う勇者の剣であることが分かる。思わず吐き出した息が溜息にも似た悲哀で大気を揺らした。
結局——神はいないようだ。
それならばそれでよかった。いないことが証明されたのなら、偶然を装った必然を用意するだけで事足りる。
代わりに。
——彼は永遠に、この手には掴めない。
なんたる三文芝居かと笑みがこぼれた。究極の悲劇を求めた末に、全てを壊されありふれた悲哀で幕を閉じる生が、ひどく滑稽な名もない悪役の最期に見えてならなかった。
「何かしら——」
赤黒く溢れる言葉が震える。襲ってきた寒気が心臓を掴んで乱暴に揺すぶった。
「ここは寒いわね」
冷えれば冷えるほど、ティーポットの影を見る。
閉じた瞳の横を覆う薄氷が否応なく身を冷やしていく。暖かな紅茶の香りが鼻腔を過ぎ去るまでは、彼の領域はひどく冷たい。
「ああ、でも」
この身を凍てつかせて、永遠に滅ぼすような冷気は。
焦げるような痛みと心地良さで心臓を貫く冷温は。
「氷は」
あの薄青の面影のようで。
「——好きよ」
閉じた視界の向こうに、望んだ瞳が微笑むのを見た気がした。
猫の死ぬこと
猫が死んだ。
抱いていたのが気付いたら鳴かなくなっていた。冷たくなっていたのも知らないまま撫でていた毛並みから手を放して、その亡骸を膝に抱く。
何しろここは寒い。
「死んだわ」
「そうですか」
冷気の源たる男の方は、さして興味もなさそうにアルティアを一瞥したきりだった。
彼が淹れる紅茶は彼女が口にする頃にはまたすっかり冷めきっているだろう。空のティーカップに触れれば膝の躯と同じように凍てついている。慣れ切った冬の寒さも、指先から伝わる死の温度も、人間たるアルティアにはひどく苦しい。
――まるで。
「心臓を凍らせるのかしらね。貴方の冷気」
表皮の温度が下がっていくのは、未だ人を捨てることの叶わぬ彼女の脆弱な肉体には致命的だった。それでもここにいる理由を映すように、汚れの一つもない空のカップを覗く。
「単に寒さに耐えきれなくなっただけだと思いますが」
「無粋ね」
口を尖らせて死骸を抱く。寒さは紛れなかった。
別に――粋を求めていたわけではない。無意味な問答などを仕掛けるだけ無駄であることはよく知っている。その諦念は何もサフィラに対してのみ抱くものではなく、作家の脳に渦巻く膨大な語彙は、決して他者に理解できるものではないのだ。
否。
無意味では――ないのかもしれないが。
どうにせよ、アルティアの吐いた言葉は額面だけを切り取られてしまった。これ以上、奥に潜む意味を交わそうとしても無駄である。
「同意してくれれば、なのに私の心臓は凍らせられないのねって言えたところよ」
「――凍るよりも貫かれるのがお好みで」
「そう聞こえたならごめんなさい」
一段と低くなる声と注がれた紅茶に笑う。
ここで貫かれるなら――それはそれでよかったのだけれど。
それをせぬからには、彼は自分にまだ価値を見出しているようだった。凍てつく氷の温度も溶かすような心地で、冷えた紅茶に手をかければ、減らず口は上機嫌に湧き出してきた。
「凍らせる方が熱くなってるようじゃ、すぐ溶けそうだけれど」
引きつる表情を見上げて、氷の混じった紅茶を啜る少女は笑った。
喜劇たりえぬ
喜劇が書きたかった。
いつだかに見たのは確か喜劇であったし、取り囲む観客の笑顔にこそ魅了されて、アルティアは筆を執ったのだ。
笑わせるよりは泣かせる方が簡単だと――。
三本も書けばすぐに気付いた。自身の才能は生憎と悲劇にばかり偏っていて、口下手な性質と相まって笑いを起こすには到底向いていなかったのである。
諦めたら踏ん切りがついた。
最低の脚本を求めて走り続けて――気付けば後戻りは出来なくなっている。
それでもまた、喜劇でも書いてみようと思ったのは――。
「笑ってほしかったのかしらね」
ともすれば意識を失いそうなほどの凍てつく空気の中で、相対する青に気取られぬように呟いてから、手にしたノートを瞥見した。
完成したらどこかの劇団に送るつもりだった。差出人不明のまま公演されれば、それを見に行ってつまらないと笑ってやろうとでも思っていたのである。出来れば眼前の氷の怪物を連れて、笑わせる才能は本当にないのですね――とでも言われれば、幼い頃の感傷など捨てられるだろうと考えていた。
彼は――。
飽きたという。
敵意と殺意を凍える風に変えられても、まあそんなものだと思った。数千年の単位で生きる彼が、二十にもならぬ少女の描く空想で満足し続けることはないであろうことくらいは見当がついている。
そのうえでサフィラに悲劇を提供し続けていたのは自分だ。遠ざかる選択肢を取らなかったのは、何も彼の報復を恐れたわけではない。
手にしたペンを、人の身で唯一術式なく使いこなせる魔術で巨大化する。幾人もの血で構成されたインクを使って陣を描く時間を、彼は許しはしないだろう。
――化け物なのだから。
この身などすぐに滅ぼせる。魔物を屠り続けた屈強な勇者ならまだしも、彼女はこと戦いに関しては素人だ。
「私も人間の端くれなんだから、そんなに大層な術式でなくてもいいわよ。それとも盛大にお葬式をあげてくれるつもりかしら」
「まさか。貴女の器は気に入っていますし、極力丁寧に殺して差し上げますよ」
冷笑するサフィラの赤い瞳を見た。
己と同じ色のそれを茫洋と見るまま、覚えたとおりの陣を刻む。その腕を裂く氷の刃が心臓に届く前に――。
陣が光る。
心臓を貫く氷柱越しに、放り出された色とりどりの花弁と見開かれた目を見る。
それで――アルティアも笑った。
「私はね、喜劇が書きたかったの」
震える声に血が混ざった。吐き出した赤が透き通る蒼白を染めていく醜さは、飛び散る花束で幾分かは美しく彩られるだろうか。
「お葬式には、花が必要よ――ねえ」
名を。
呼ぼうとして逡巡する。その間に口を開く気力は消えていた。閉ざされていく視界の向こうで、眉根を寄せた焦がれた青を見て、至極おかしそうな笑みで終幕を飾る。
――その歪んだ笑みにもならぬ表情を。
花束に囲まれたサフィラは溜息と共に見送った。
葬式に花は必要かもしれないが――葬式などという発想が出てくる時点で、彼女の感性は悲劇作家の悪趣味なそれでしかない。
「笑わせる才能は本当にないのですね」
喜劇など書かれなくてよかった。
凍り付いた花弁を踏み捨てて、サフィラは踵を返した。
なくしたことと
「筆が乗らないわ」
いつになく不機嫌に足を組んだアルティアは、そう言って白紙のページをティーテーブルへ投げ出した。それきり黙った減らず口を瞥見する赤い眼がにべもなく視線を逸らす。
それよりも紅茶の方が優先である。
「スランプというやつですか」
「いえ。言葉はあるし書きたいものはあるけど――そうね、億劫なのよ」
ひどく素気のない態度を気に留める様子もなく、作家の方は肘をついて見せた。
アルティアの頭の中にはいつでも言葉が溢れている。その一つ一つを繋いで筋道立てた物語にするには、ことのほか集中力が必要だ。零れる言葉を拾っているだけでは、現実という取り返しのつかない舞台を彩るには不十分である。丁寧な因果関係とミスリードを積み重ねてこそ悲劇は存在しうるのだ。
「筋立てた話っていうのは思ってるより難しいの」
ただでさえ――。
彼女は人間だ。
動けば疲れ、集中力はいずれ切れる。陣なしで魔術を起動させることも叶わない貧弱な精神力は三日も持続しない。
怪物とは――違うのだ。
取り敢えずとばかりに気のない相槌を打つ氷の異形が差し出した、冷え切った紅茶に口をつける。かろうじて香るのはいつもと同じアッサムだった。
それでこれ見よがしに眉根を寄せる。
「こういうとき、気の利く男はハーブティーを差し出すものよ」
「おや、これは申し訳ありません。人間に関しては浅学なもので」
白々しい男である。全くどうでもいいとばかりに注ぎ直す香りはアルティアに届く前に凍って、本来の緊張緩和など期待はできなかった。
まあ――どうでもいいことだ。
「そういうわけで、次の脚本は少し待って頂戴。こういうときは本を読まなきゃいけないの」
継ぎ目を見出す感性が鈍っている。刺激を受けねば無理に書いても納得のいくものは出来上がらないだろう。そのためには時間が必要である。
ただでさえ――。
――こんなところで無駄な時間を使っているのだから。
手持無沙汰にペンを回しながら、薄氷の色をした男を見遣る。頬を覆う氷と、髪を分けて生える凍てつく角に蝋燭を翳そうとした日をふと思い出した。
溶ければ――人間になるのだろうか。
絶対零度の肌が解けたら、中から現れるのは誰かの魂であるのだろうか。いつかその身を奪われた薄青の面影が見えるのだろうか。
「人間の身で少しというなら、殆どないも同じですよ」
「そういえばそうだったわね」
返す皮肉な笑みの向こうに、凍った魂を見透かそうとした目が訝しがられる前に、アルティアはサフィラから視線を逸らした。
結局何も書けなかった。
いつまで待っても出てこない凍った紅茶と、主を喪った潔癖なティーカップをなぞって、赤い瞳を閉じる。
――その魂は、確かに雪解けを迎えて、何の変哲もない少女に変わっていた。
表情のない瞳は、しかし彼のものよりは豊かに人間を彩っていたように思う。何も知らぬと嘯いた口元よりもこの世を喜んでいたし、再びかの悪しき魔導に身を取られることもなかろうと、アルティアは一目で理解した。
世間は初夏である。いつでも日差しに火照る体温を奪っていった場所で、未だ白紙の未来をいつかのように投げ出してペンを回す。
溶けたのは何も彼の表皮だけではなかった。
「私も何の変哲もない女の子になったわ」
左腕の傷以外は。こんなところで誰かの紅茶を待つ以外は。
ただの――天才悲劇作家になってしまった。
「未来を想像より空想の方が楽しくなってきたの」
今書いている台本は、どこかの劇団に送るつもりのものだ。
実名は出さない。差出人不明でもいいかと思ったが――それでは芸もなかろう。本名ではないにしろ、何かしらのペンネームでも持とうかと、軽くなったティーポットを指先で持ち上げる。
「私、元々は劇作家だったのだものね。こんな腕じゃ現実なんか動かせっこなかったわ」
心理学を極めても、人の心を操るには限界があった。幾ら心を揺さぶることができても――アルティア自身は、非力な少女に変わりがなかった。
紅茶を淹れる加減も知らない。分かったところで冷やす方法もない。
減らず口は。
――一人では叩けない。
「貴方と見ない未来は退屈だったわ」
それで何も書けなくなってしまった。
「――香りもしない冷たい紅茶、私、結構好きだったのだけど」
ねえ。
問うても夏は夏のままだった。
破れた氷の内側に
今なら惚れはしないな――と思う。
肘をついた緑髪が表情も変えずに眺めていた舞台は果たして大成功であった。役者の熱の入った演技もさることながら、脚本はまさに現実の不合理を感じさせる内容であると、観劇を終えた客は口々に絶賛する。
アルティアは再び脚光を浴びる機会を得たというわけである。
後はこの劇団に、この脚本を書いたのは自分だと名乗り出ればいい。不審がるようなら目の前で書き上げてやっても良かった。そうすれば、彼女は再び劇団所属の悲劇作家として、誉を手にすることが出来るだろう。
「――名前、何にしましょう」
独りごちた思案が拍手の音に掻き消される。差出人不明の便箋には結局名は入れられなかった。下手をすればあと六十年は続くであろう人生の中で名乗るのだと思うと、軽率な名付けは出来なかった。
アルティアという呼称は――捨てるつもりだ。
今まで散々偽名を使ってきて、その本名の持つ意味は既に形骸と化して久しい。牽牛星を冠すると教えられても天文学への興味は一向に湧かなかった。それに――。
もう名を呼ぶ者もない。
ふと緞帳から目を落とすと、舞台の明かりに照らされた薄氷が見えた。
見覚えのある蒼白の髪と茫洋とした瞳で拍手を送っている。まばらに席を立ち始める観客の中で、彼女は舞台を見詰めたまま、時を止めたようにそこに座っていた。
それで。
アルティアも席を立つ。
「御機嫌よう。お久し振りね」
振り向いた瞳が髪と同じような青さで作家を捉えた。瞬く長い睫毛の間を見据えて、言葉を探す。
何しに来たのか――など明白だ。
だから既に空いていた隣に腰かけてみる。拒絶はない。
「劇、面白かったかしら」
こくりと面が下がる。
アルティアとしては納得できてはいない。一度目の前で通してもらえればもう少し手直しが出来たろうし、練習をこの目で見ることが出来れば指示したい箇所もいくつもあった。
それでもまあ――概ね上出来のようだ。肩の力を抜いて、そうとだけ声を漏らした。
本当は彼に提供する予定だった台本だ。隣の少女と氷の怪物が違うものだと分かっていても、その面影に肯定されれば悪い気はしない。
そのまま手元のノートを捲る。取り出したペンで今日の日付と題目を書き込んでから、ちらと隣の青を覗った。
「サラって名前よね」
「はい」
頷く声は少女のそれだ。自分のことを覚えているかと問うと、アルティア様ですねと明瞭な言葉が返ってきた。
それで頷く。
「この前は初対面で変なことを聞いてごめんなさい。貴女によく似た――」
人。
ではない。
それでもそれ以上の表現は出来なかった。アルティアは意味のない会話が苦手だ。即興で言葉を考えるのは容易ではない。
「人を知ってるものだから」
「お気になさらないでください」
ふと――。
サラが俯いた。もしやかの勇者たちから自身の顛末を聞いているのだろうか。彼がアルティアのことを口にしたとは思えないが、万一にも己のことを知られていては命に関わる。まだ書きたいものを書ききれないうちから死ぬのは嫌だった。
――彼に殺される夢も叶わなかったのだから。
「今日の演目の感想ってあるかしら」
誤魔化すように問うた。喪えば美化される記憶の醜悪な側面を必死に思い出そうとして、隣の澄んだ声を欲しがる。
「本当にあったことみたいに見えました。作家って凄い人ですね」
「そう」
「――でも、尺が足りなかったです。小説にしたら気にしなくていいのに」
「それも検討してみようかしらね」
小説など考えもしなかったが、書き方が台本とさして変わらぬならそれでもいいかもしれない。
こちらを見つめた青い瞳が瞬いた。悪戯っぽく笑う赤い眼と下ろした緑の髪を驚いたように見る彼女に、人差し指で自身の唇に触れて見せる。
――今なら惚れないだろうと思う。
誰かに自身の拵えた舞台へ共感してほしかった。現実を壇上にした悪趣味な悲劇に喜んだのが、あの氷の異形だったというだけだ。こうして空想へ戻ってきてしまえば、誰しもがアルティアの仕立てた脚本を絶賛し、喜んでくれる。
それでも――。
あの一年にも満たぬ現実の舞台こそ、彼女が何より描きたかった全てだった。
不合理で。
不条理で。
演技でない――悲劇。
最高の舞台で描く最低の脚本に笑みを見せるのは、きっとあの悪趣味な男だけだ。
彼女の脚本に目を通しては喜ぶ横顔の面影をあどけない少女に映し込みながら、その瞳へ語る。
「もし都合がよければ、次の演目も見に来て頂戴。美味しい芋料理のお店を紹介するわ」
確か彼は芋が好きだったはずだった。
言えば目を輝かせるサラへ呆れるような笑声が漏れる。
――なんだ。
――乗っ取れてなんかいなかったじゃないか。
ひどく気が抜けた。胸に溢れて言葉を押し潰していた霧も晴れるような心地がする。久しぶりに湧き上がる減らず口を押し殺し、少女の目を再び見詰めた。
「渾身のアイスティーを用意して、劇場の外で待っていて」
――あんなに怪物ぶったくせに。
演者の幕間 - 1
ラブレターというものはいつでも引き裂きたくなる。
封も開けぬまま手紙を破れば中から零れた想いの残骸がティーテーブルに散らばった。眉を顰めるのは同時で、その手を伸ばしたのはアルティアの方が早かった。
紙片を一枚残らず白い手袋に乗せてゴミ箱へ運ぶ。戻ってくるなり肘をつきながら、彼女は自身の領域に汚物が残っていないことをつぶさに確認しだした。その視線がようやく清浄さを確認して、ティーポットを持つままのサフィラへ向かう。
「人の心って迷惑よね。私、別にハーレムに興味なんかないのだけど」
そもそも人と関係を結ぶのが億劫だ。
喋るのは彼女が脚本家であると同時に女優であるからだ。その場限りの台詞を連ねれば事足りる関係でもなければ、言葉を発する気はたちまち失せてしまう。
――この怪物の前を除いては。
冷気を携える男の姿の異形は、不機嫌な様子でペンを回すアルティアを鼻で笑った。カップへ注がれる熱気が彼の凍てつく領域でみるみるうちに冷めていく。
「外見はともかくとして、貴女の中身を好む悪趣味なお方が大勢いらっしゃることの方が驚きです」
「これでも普段は誰からでも好かれそうな健気な少女の役柄なのよ。貴方こそ、自分の趣味の悪さを自覚してるなら趣味の悪い女でも好きになったらどうかしら。そこから生まれる物語もないわけじゃないわ」
「それはそれは――貴女の書くのに似た悲劇になりそうですね。観客席にいる分には娯楽ですが、壇上に上がるのは御免です」
「こっちとしても怪物の扱いなんて専門外よ、そっちで上等な悲劇に仕立てて頂戴」
にべもなく返されれば同じ調子で言葉を打ち返した。
今更痛む心もない。そもそもこの人間に似た化け物を扱えるとも思っていない。幾ら心理学に造詣の深い彼女であろうと、人間を超越した存在の精神性など知る由もないのである。
何しろ彼女は人間だ。
彼をどうにかする算段を立てているよりは、自室に積もった思いの丈をどうにか利用する方が建設的だった。幾つかは健気な少女のふりをして断りの文句を入れたが、そのうち面倒になってきて、曖昧に濁したまま机に投げ遣っているだけの膨大な書を、どうにかして悲劇に還元せねば気が済まない。
ペンを回しながら――。
見てきたあらゆる舞台を思い浮かべる。開いた白紙に刻む次の幕開けを、相応しい衝撃で飾らねばならない。
「――ああ、そうね。全員はっきり断らなくてよかった」
ひたり。
つけたペン先が生き物のように踊った。ロマンスに近い出だしだが、中身はひどく血生臭い。この筆が吸う血もますます増えることだろう。
「痴情の縺れの末に殺し合いって、ありふれてるけど充分楽しそうよね」
「――私はそういうのは好きませんがね」
「私も嫌いよ。こういうのをメインに持ってくるのはロマンスかサスペンスの仕事だわ。ここを冒頭にすれば衝撃的だし、繋ぎに丁度いいかと思ったの」
眉を顰めたサフィラに釣られるように作家の眉根が寄った。
ロマンスは嫌いだ。そういう閉じた俗世の面倒ごとよりは、もっと多くを揺るがす絶望である方が楽しい。それは眼前の氷にとっても同じようで、息を吐いた黒手袋が使われていないティーカップを磨き出す。
目もくれずにペンが走る。
「一人残った少女をキーにしましょう」
凄惨な殺人の現場に取り残されて、頬を切られた少女が震えている。その情景は同情心を買うにはうってつけだ。保護された彼女は怯えながら口火を切るだろう。
つるつると紙上をなぞる筆先を見詰めていたサフィラが、ふと口を開いた。
「ご自身が壇上に上がるおつもりで」
「役者が自分なら演技指導が要らないもの」
特にこういう役柄は――続けて笑う。
そんな状況に残された少女が、冷静な思考を保って最適な発言をできるはずがない。自身の命の危機を受けてなお真実を捻じ曲げるような言葉など思い浮かばない。
事実をありのままに語られては困るのだ。
――悲劇は大いなる誤解で生まれるものである。
とはいえアルティアはそれなりに名の知れた脚本家である。当時の彼女の容姿を知る者が全て灰燼に帰しているとはいえ、その名を出せばすぐに身元が割れてしまう。
役名が必要なのだ。
「次の舞台、貴方の名前を少し借りていいかしら」
「構いませんが、何故です」
「女みたいなんだもの」
紳士然とした笑みが引きつるのを見て、思わず笑みが零れた。全く単純な男である。
「まあ、でも、貴方の舞台の登場人物も近くにいるようだから、そのままはよしておくわ」
脳裏をよぎるのは一度だけ見かけたことのある勇者一行である。どうやら彼の脚本の主役らしい彼らと、いつもの笑みで言葉を交わすサフィラの白々しさに、思わず侮蔑の視線を遣ってしまった記憶があった。
「構いませんよ。別人だと言えばいいだけの話です」
「他人の脚本に赤は入れない主義なの。そんな無駄な手間はかけさせないわよ」
実に無駄であるし――。
無意味な誤解を招きかけない危険な行為だ。
万が一にも脚本に狂いがあってはならない。登場人物の混濁は意図して起こすものだ。それで暫く考えたのちに、ペンの背がテーブルを叩いた。
「――サラ。そうね。サラにしましょう。そっちの方が私には合ってるわ」
紅茶を差し伸べる手が――。
わずかに止まったのを、空想の中にいる作家は気にも留めなかった。次の瞥見でサフィラを捉えたときには、その不自然な間は消え失せていた。
それで続ける。
「そのままじゃ男みたいだもの」
「聞き違いでなければ先ほど女のようだと仰ったようですが」
「そうだったかしら」
気のせいよ。笑って言えば、熱しやすい氷の魔物は機嫌を損ねたようだった。小ばかにした笑いを抑えることもせず、アルティアは相好を崩したまま、紅茶に口をつける。
「貴方も送っていいわよ、ラブレター。サラ宛に」
青筋を見詰めて、作家は今度こそ声を上げた。
演者の幕間 - 2
月が綺麗だ。
凭れ掛かった手摺の向こうへ脚本を掲げ、緑髪を風に遊ばせたままのアルティアは、待ち人の到着に振り返りもしなかった。
昼に顔を合わせたときには漂わせもしなかった冷気が僅かに漏れている。主に忠実な下僕の顔をした怪物が、備え付けのテーブルにソーサーとカップを置く音に、彼女は不機嫌を隠しもせぬまま声を上げた。
「他人の台本に赤を入れるのは嫌いって言ったじゃない」
「私に言われても困ります。首を突っ込みたがったのはあちらですから」
――アルティアの台本では、こんなところで既知の顔に出会うはずではなかったのだ。
痴情の縺れの末に無惨な肉塊となった青年たちの中心で、一人震えていたアルティア――役名をサラという少女は、自身で切れ込みを入れた頬にガーゼを貼って、憂えを隠しもせぬ仄かな笑みで宿を同じくする旅人たちに会釈した。その中に、蒼白な長い髪を揺らして折り目正しく一礼をする赤目があったのだ。
視線を合わせたのは一瞬だった。
お互いの被った皮に眉一つ動かすことなく女優との邂逅を遂げたサフィラの元へ、魔導文字で書かれた手紙が届いたのは、宿に入ってすぐのことである。只の人間が知識だけで描いた代物であるから、本来の術式は発動せぬだろうが、成る程高位の魔導士でもいなければ解読は不能だろう。
夜のバルコニーへ来いと――。
言われて足を運んだサフィラは、珍しく不機嫌な様子を隠さない少女へひどく楽しそうに笑った。
「今ならホットティーも淹れられますが。如何いたしますか」
「紅茶ならアイスの方が好きなの。傷心で眠れない少女にはホットココアを出して頂戴。そっちの方が眠れるそうだわ」
「ご注文の多い傷心のお嬢様で」
「演技指導よ」
いつもの通り不遜に座ったチェアの上で、アルティアの赤い瞳が同じ色をした男の目を一瞥した。
――彼は人間に興味がない。
アルティアとは違い、完全なる傍観者でいることを好む。その絶望に自身が関わりはすれど、そのために他者を学ぶなどという行為はひどく無駄なのだろう。
だから完璧な役者を仕立て上げる心算で、彼女はよくサフィラへ注文を付ける。
何しろ見た目は美しい青年だ。背もアルティアが見上げるほどで、世間一般から見ても高い部類に入る。執事の皮を被っている間は悪辣さがなりを潜めて紳士的に見えるし、これで人間の心理を理解したなら――などと嘆息を禁じ得ない。
「こんな幕間で人の心が解らない怪物だなんてバレるのは嫌でしょう。台本を書き換えなきゃいけなくなるのはこっちも困るわ」
傷心の少女の前に湯気を立てる紅茶などあっては不自然だ。彼女が強く希望したならまだしも、この精神的に余裕がなくなると黙り込むサラという役柄が、紅茶に拘る理由がない。
要望通りのホットココアに口をつける。人間として不自然でない状態にまで抑えられているとはいえ、薄氷の異形が纏う冷気はそう簡単に体温を取り戻さないらしい。絶妙な加減で温くなったそれに紅茶を頼まなくてよかったと悪態を吐きながら、アルティアは白い手袋に飲料がかからぬよう、慎重にソーサーを探す。
「――貴方の御一行がそろそろ来ると思うのだけど。来たら言って頂戴、黙るわ」
「ご自分で気配を読まれては如何です」
「読めるわけないでしょう。魔導士でもないのに」
これ見よがしな溜息に皮肉を返そうとしたサフィラの口元が引き結ばれる。その冷えた唇に当たる人差し指を視界に入れて、作家の方も登壇の準備を始めた。
「サラ」が悲壮な表情で俯いて、サフィラが彼女へ心配げな視線を遣った頃――。
待ちかねた主役がバルコニーの扉を開ける。それに驚いて顔を上げる少女と、困ったように苦笑する執事が、彼らの舞台の登場人物を見た。
「申し訳ありません。水を飲みに起きて参ったのですが、サラ様が眠れないようでしたので」
「あの、この方は悪くないんです。話を聞いてほしくて、私が引き留めて、それで」
笑う主人公から視線を外し、裏方の視線がちらと交錯する。侮蔑の笑みを浮かべた冷ややかな赤が、同時に語った。
――気色が悪い。
少女たちの紅茶
「珈琲と紅茶なら、どちらがお好みですか」
問われて白紙から目を上げた。
いつまでも決まらぬ次回の公演へ向けた脚本を相談しに来たのが数刻前である。職業病のように用意されたチェアに腰かけて、ティーテーブルの前で飲料を待っている。
アルティアの気怠げな赤い瞳を見遣って、サラはティーポットとコーヒーポットを並べて唸っていた。僅かな表情の差異から困惑は読み取れたが、さりとて客人の方にも拘りがあるわけではない。
「――どっちでもいいわ。美味しく淹れられる方で。紅茶ならアイスにして頂戴」
「畏まりました」
手に取ったのはティーポットである。
その慣れた手つきが、陶器に褐色を注ぐのを横目に、作家が走り書きを捲る。
自分自身でも読めない文字は幾つかある。考えながら走らせたペン先は蛇のように曲がっていて、解読に集中力を要するのである。
「どうしてアイスティーなのですか」
それで問いに答えられなかった。無表情のまま繰り返されるそれを今度こそ咀嚼して、結局読み解けなかった暗号から目を上げた。
「いつも言ってるけど、そっちの方が好きなのよ。それ以外の理由は特にないわね」
「いえ、その」
サラの視線の先には陶磁器がある。
「ああ――容器ね」
合点がいった。決してアイスティーには向かないそれを、彼女が指定する意味が分からないのだ。サラとしてはもっと透明で涼しげな容器に淹れたいのであろうし、暖かい紅茶のような錯覚もあるのだろう。
それが――いいのだ、とは。
言わなかった。言ったところで、眼前のメイドはこれ以上涼しくなっても仕方ないような冷気を纏ってはいない。
だから適当に口実をつける。
「これも好みの問題だわ。私が好きなのは、ホットの心算で淹れてるアイスなの」
嘘は言っていない。そんな紅茶を淹れられるのは恐らくこの世で一人だけだとしても、アルティアがそれをひどく好んでいることは事実だ。
「――ホットティーのような気がするじゃない」
「はい」
「でも口をつけたらアイスティーなのよ。私、それ以外の紅茶は飲まないことにしてるの。こんな頓狂な我儘に付き合ってくれるの、貴女くらいだわ」
本当に。
彼女は自己主張が薄い。暫く彼女の体の主を務めていた男とは真逆で、感情が表に出ることも言葉を湯水のように消費することも少ない。アルティアが何か言えば反論してくることは稀だ。それで、信頼されているような錯覚をする。
だから――。
ふと見下ろした書きかけの脚本が、氷と冷気を感じさせる男の描写で止まっている理由を口にしてしまう。
「未練があるのよ」
「未練――」
無意識のうちに零した言葉へ口を噤んでも遅かった。繰り返された言葉と少女の青い瞳を見比べて、押し黙ることが悪手であると溜息を吐く。
「貴女が最初に見に来てくれた、あれ。本当は個人に渡す予定だったの」
「失礼ですが、その方は」
「――どこに行ったのかしらね」
あれ以来、アルティアの悲劇には氷をモチーフにしたキーが必ず入る。
装飾であれ人物であれ、主要なものには必ず一つ、氷と冷気を得た何かがあった。彼女の手がけた悲劇においては半ばお決まりのようになってきて、他の作家が使いにくいと苦情が入っている。
――仕方ないのよ。
クレームはそう言って一蹴した。やはり嘘ではない。
「生きてるかもしれないし、死んだかもしれないし、こっちからはどうすることもできないし。待ってるだなんて殊勝になるのも馬鹿馬鹿しいような相手だから、それで劇団に献上したわ」
氷を――。
描き続けていれば、あの皮肉屋はいち早く嘲笑するだろうと思った。もしやあれは私のつもりですか、全く描写がなっていませんねと喜々とした表情でうら若き作家の落ち度を連ねるはずだ。
白い手袋をつけたままの指で筋書きをなぞる。いつだったか現実にするはずだった空想を書き連ねるたび、現実にない蒼白な髪を思い知らされるようだった。
――脚本を現実にするには。
――演者が足りない。
「帰って来られたら、別の物をお渡しになるんですか」
「どうしようかしら」
頬杖をついて考えるふりをした。渡すつもりなど毛頭ない。相応の言葉があるなら別だが、彼のために現実という舞台を拵えてやるつもりはなかった。
そもそも彼が再び彼女の脚本を必要とするとは――思わないのだけれど。
「今の私、わざわざ書いてあげるほど暇じゃないのよね」
話は終わりだとばかりに黙り込む脚本家へ、メイドの繊手が冷えた紅茶を差し出した。手にした冷たさに満足して、口をつける。
「お口に合えば良いのですが」
「合わないわけないじゃない」
――私が一番好きな紅茶は、いつも貴方が淹れていたのよ。
拙い感傷を紅茶の下に飲み込んで、アルティアは笑った。
踏み外した人道
氷柱を焦がして魔女が笑う。
歳を取ることもままならぬまま、森の奥で無為な時を過ごしていたのが嘘のようだった。彼女の炎を凍てつかせる唯一の冷気をその身に浴びて――アルティアはひどく高揚している。
――最初に出会ったのは気が遠くなるほどの嘗て。
アルティアがまだ少女であったとき、その脚本を気に入った氷の怪物は、彼女をせせら笑いながらその才能を使ってみせた。狂気の脚本を現実に投影する少女の狂った精神と共に、身勝手に溶け落ちた彼を探して、魔導書を読み漁ったのも遠い昔だ。
副産物として手に入れたのは焔の魔導だった。
永遠の命を約束するそれをこの身に取り込んでから、アルティアはただ待った。いつの日か現れるであろう薄氷の魔物を呼び寄せるために――森に住まう悲劇を愛する魔女の噂と共に。
果たしてその獣は現れた。悲劇ばかりを望む光をその目に携えて、人の身を借りた化け物は、彼女の顔を見るなり目を見開いたのである。
それがひどく面白くて――。
「相変わらずよね。感情を隠すのもアクターとして大事な仕事よ」
「此処は舞台裏でしょう。壇上ではしっかり演技をこなして御覧に入れますよ」
高揚のままに言い放った言葉を炎に変える。業火を遮った氷の先で眉根を寄せる男の所作がいつだったかの紅茶を彷彿とさせて、溶かしたはずの狂気をふつりと熱するようだった。
やはり――。
サフィラと見ねば。
現実の悲劇は一人で奏でてもそう美しくない。嘗て狂った天才悲劇作家は、その脚本を誰かと共有することを好まなかったはずだけれど――それでも、今こうして力を交える震えに比べたら、孤独な舞台の喜びなど地に落ちよう。
心臓を狙う氷柱は高熱の壁で防ぎきる。陣がなければまともに力をぶつけることさえ出来なかった頃とは違うのだ。
崩れる障壁から蔓が伸びた。自在に動く緑を男の腕めがけて飛ばせば、届く寸でで灰となって燃え落ちる。
「残念だわ。もう少しで触れたのに」
「私にその程度が通用するとお思いで――それより、いつからそのようなことを仰るようになったのです」
「あら、前からこんなのじゃなかったかしら」
嘯きながら作り上げた植物の箱庭が燃える。
意地など張るだけ無駄なのだ。アルティアは非力な少女ではない。化け物相手にせめてもの去勢を舌に乗せる必要はなかった。
ならば言葉を飾る道理もない。
あの頃の非力さでは、サフィラの纏う冷気さえも跳ねのけることは叶わなかった。人を踏み外し退屈な永遠に転じ、己の精一杯の魔術であった花を凍てつかせてせせら笑う表情を、漸く自ら歪めることができるのだ。
なれば――。
再び燃やし尽くすことすらも可能だった。花開く焔を飛び散る薄氷が遮り、戯れの戦場に赤青の華が散る。
それを――見て。
アルティアは今度こそ、少女めいた破顔を見せた。
「昔から、私は貴方を愛してるわ、サフィラ!」
――あの紅茶を口にした日から。
怪物に掛けられた呪いは、同じ怪物へ堕して初めて、解かれたのだ。
叶わぬ夢のこと
外にしゃがんでいたので声をかけた。
「おや、珍しい」
持ち上がった赤い瞳が煌くのは見逃さない。どうやら機嫌がいいようだ――などと、この先の想像に湧き上がる頭痛を隠したまま、サフィラは紳士然とした笑みを繕った。
敢えて見せた隙に気付かぬ女ではない。それでも口元を彩るのが微笑であることに僅かな苛立ちを抱える。
――生意気な女だ。
アルティアの方はゆっくりと立ち上がると、彼の問いに朗々と笑んでみせた。それにますます加速する男の苛烈な冷気をものともしない。緑の髪の奥に覗く赤色を、同じ色の瞳にひたりと合わせる。
「そんなに驚くことじゃないでしょう。魔女だからって日がな一日変な壺の前に立ってたりはしないのよ」
「いえ、それだけひ弱な体ですから、インドアなものだとばかり」
「心配してくれてるのかしら? 嬉しいわ」
唇が引き攣るのをひどく楽しげに見遣った魔女は、冗談よと言葉を重ねてから、白手袋に覆われた繊手が大樹を指差した。家の周囲こそサフィラの予想よりは小奇麗に整えられているものの、彼女の住処が魔女の森と噂され人の手を離れた木々の隙間であることに変わりはない。
どうやら開拓を進めているらしかった。成る程既に彼女の森ではあろう。
そのために態々執筆を中断したのかには疑問が残るが――。
「飽きちゃったのよ。何百年も書いてたし、途中でマンネリにはなるし。でも書く以外の趣味なんてないし」
「それはそうでしょうね」
彼女は生産者である。
サフィラなどは生産者に回ることもあるが、基本的には消費者である。似たような顛末の悲劇を幾つ見ても演者が違えば飽きはしない。まして現実に落とし込んだそれは一度限りの展開を見せてくれる。選択肢が多いに越したことはないが、なかったとてそう簡単に退屈に身を堕とすことはない。
生産者の方はそうはいかぬのだろう。彼とて自身で作り出した絶望を二度扱う気にはなれない。それを同じ脚本の許されぬ舞台で数百年と続ければ――暇を持て余すようになるのも分からないではない。
「こんなことになるなら人間のときにもう少し色々趣味でも作っておくんだったわ」
――園芸でも出来たら少しは楽しかったでしょうに。
言いながら、その手に炎が収束する。アルティアの最も得意とする領域が、短剣の形を成して、女を象る人外の瞳をちらと輝かせた。
心得もないアルティアが振り回したとて、帯びる魔力の延焼以外に傷を与えることはできまい。少なくともサフィラとの戯れの剣戟では傷一つ与えることは叶わぬだろう。寒さを堪えるように身を抱くこともしなくなった彼女は、それをくるりと回しながら大樹へ近づいていく。
無造作に差し込んだ刃の先から燃え落ちる。一瞬のうちに灰と化した巨木を囲うように蔓が伸びあがり、その先から崩れ落ちる樹の灰と混じり合って燃えた。
何故――。
「どうして態々植物に変えるんです」
炎を破って伸びる草木など本来なら必要はあるまい。数秒の後に灰に変わるところを見るに、その魔力を強く維持しているわけでもないようだ。
「意味はないわよ。髪の色と同じでしょう。それと」
ふいと足元に開いた焔の花が地に焼け跡を残す。それをぼんやりと見詰めながら、アルティアの足は更に奥地を目指して、手にした刃を振るった。
自身とは頭一つ分も違う背を追った。薄氷が残す冷気に凍り付く足元の植物が前を行く熱気に即座に溶ける。
「妹が好きだったのよね。園芸」
意外な――台詞だった。
「とっくに情などないものかと」
「あるわよ。貴方と違って私は元人間よ。ずっと可愛がって来た妹に情が湧かないと思って?」
どうでもいい話だけれど。
自身に釘を刺すように吐き捨てて、手伝って頂戴とこちらを見遣る左目の下――サフィラを覆う薄氷と同じ位置に魔導の刻印を記した女は、足元の草を探った。
「何にするおつもりで」
「薬草。高値で売れるから一応探しておいてるの。貴方が来るまでは魔女らしいこともしてたのよね」
「私が来ても関係はないでしょう。やりたいなら魔女ごっこを続ければよろしい」
「貴方好みの噂なんてもう流す必要ないじゃない」
挑発めいた光が赤を捉える。氷の怪物の方は顔を顰めて、同じ色の瞳でその新緑を見下ろした。
「甘ったるいのはご勘弁願いたいのですが」
「あら、そう――あ」
笑いながら草むらから幾つかを摘み取った。手にした魔導書へ全て閉じ込める前に、手元に揺れる赤い花だけを抜き取った潔癖な指先が、それをどうするか暫し思案した。
――捨ててしまえばいいものを。
興味がなければ捨て置けばいいだけのことだ。使い道もないなら取っておく意味もない。まして名も知らぬありふれた花に手に取るだけの価値もなかろう。
「いる?」
サフィラが怪訝に眉根を寄せたのを一瞥して、アルティアの指が彼の前へそれを差し出した。
「要りませんよ」
「そう。残念」
「たまには空気を読んでくださいますか」
「それを言うならこれを受け取るくらい空気を読んでからにして頂戴」
少女の頃と同じような幼げな不機嫌を浮かべた顔がその花を引き戻す。煎じれば薬になると言って別のページに封じてから、再び振り向いた目が輝いていた。
「貴方って花言葉に疎いのね。曲がりなりにもアクターをやってるんだから、小道具の意味くらい理解してるものだと思ったわ」
さっきの花はね――。
歌うように森を歩きながら、足元の雑草が燃え落ちていく。後ろを歩く男の凍ったブーツに踏みつぶされて、灰になってもなお形を保っていた草花が、凍えと共に散った。
――私のものになって。
「妹の受け売りだけれど。貴方が私の王子様ならよかったのに」
ああでもそれでは駄目ね、私は喜劇に才能がないし。前を歩く背に辟易とした表情を浮かべようとして、それでは彼女の笑みを益々深めるだけだと口を噤む。
幾ら人の生を超越したとて、サフィラにとっては出会ったときから変わらぬ小娘でしかない。悲劇作家の卓越した知をもって感情を掌握されるのは嫌だった。慣れ切った人の好い笑みを貼り付けて――。
「なってもよろしいですよ」
振り返った瞳がこの上なく見開かれていた。
それで幾分か機嫌がよくなる。対する魔女の方は、己の算段が上手くいかなかったことが悔しいのか、唇を引き結んだまま薄青を睨み上げる。
「何笑ってるのよ、ばか。そこは『貴女、そんな言葉なんか吐きましたっけ』でしょう」
「たまには付き合って差し上げようかと思いまして」
「こっちに付き合うなら話に付き合って頂戴。使い魔じゃ頷くだけだし、人間に喧嘩売るわけにもいかないしで、碌に喋る相手もいなかったの」
喧嘩を売っている――自覚はあったのか。
続けざまに吐き出した皮肉には作家だものと返ってきた。続いて吐き出された大げさな溜息が、湿ったような調子で清澄な森林を揺らす。
「――結局何も叶ってないのよね。妹と一緒に国家魔導士になりたかったし、それが駄目なら喜劇が書きたかったわ。世界を陥れる脚本もアクター不足で止まったまま。今更引き出したら粗が目立ちすぎるでしょうし、貴方に殺される心算だったのも、でなければ妹に止めを刺してもらうつもりだったのも、結局、何も」
叶っていない。
「もういいんじゃないかしら。私、なりたかったもの全部我慢するようなこと、やめてもいいんじゃないかしら――って思うけれど、今更なりたいものもないのよ」
暫し足を止めて、振り返った視線がさして興味もなさそうな赤を捉えた。持ち替えたナイフの炎が女の細い腕を伝って地面へ零れ落ちる。そこから描かれた陣の真ん中で、人を捨てた魔女は笑った。
――まあ、でも、いいのよ。
「漸く貴方と対等になったわ。それだけはいい人生なんじゃないかしら」
「そうですか」
「そうよ。だから剣を取って頂戴」
「――ここでやるおつもりで」
「いいじゃないの。伐採ついでよ。木って変な虫がつくから嫌いなの」
魔導書を放り投げて、魔女は笑う。
逆なる怨嗟
パンドルフィーニは魔導の家系である。
決して貴族ではない。郊外の町に構えた邸宅は領主のそれより幾分か小さく、けれど民草のそれと呼ぶには豪勢であった。模範的な貴族崩れの中流階級の長女として生を受けたアルティアにもまた相応の才能が授けられ、無事育った祝福と女であるが故の幾分かの落胆を浴びて、どこぞの貴族崩れへ嫁に出されるはずだった。
それが幸福かと問われれば、今は首を横に振る。
嘗てはそれでよかった。身を焦がす感情など知らぬままなら、半ば義務感のままに嫁がされた先の、顔も知らぬ男の子を孕むことも、或いは悪くない一生だったろう。
何しろ――妹が生まれて、彼女の疎外感は増した。
男ではなかった。それでも稀有な魔導の才を小さな身に秘めた赤子が歓迎されぬわけがない。凡庸な姉よりも大切に――死なぬように育てられた彼女は、神の祝福を一身に浴びて、作劇に狂い魔導を捨てた姉を、それでも無垢に愛した。
妹の無邪気に応えるアルティアもまた無垢であった。自身に眠る狂気の一端も知らなかった。
妹が喜んでくれるからと書き連ねたその脚本を契機に目覚めたたった一つの特技への執着が、狂おしいほどに身を焼いて、彼女は畜生へ身を落とす。
鎌首をもたげた破壊者としての性は遅かれ早かれ芽吹いていただろう。きっかけは何でもよかったのだ。あの舞台で仮初の狂気に身を窶した主役の血に濡れたナイフである必要も、その奥に転がった見知った肉塊である必要も、まして左腕を深く切り裂いた痛みである必要さえなかった。
不条理で――。
不合理で――。
理不尽な。
現実こそが最上の悲劇の舞台たりえると知る日が来たなら、それが些細な失恋でも、世界の破滅でも、関係はなかったのだ。
道を外したのではない。同情を得て憤激が爆発したわけでもない。
狂ったわけでも――ない。
狂っていたというなら初めからだ。この世に生を受けたときから狂人だった。人を嫌い作劇の世界へのめり込み、その果てに悲劇ばかりを追い求め、可愛らしい容姿に隠した猛毒の棘で触れる者を傷つけ続けた。十六になっても貰い手もつかぬまま、父の眉間の皺になり母の悲嘆の眉根になり、家を飛び出すように都市部の劇団へ逃げ出したアルティアは、最初から空想という狂気の中にいた。
繊手で紡ぐ夢に身を浸し続け、遂に究極の壇上へと至る心には、理など残されてはいない。
*
だから最初から焔であったのだ。魅入られたのは皮肉でも偶然でもない。
少女である頃からアルティアの身に宿っていた執着の蛇が、今こうして地面に軌跡を描いているだけに過ぎないのだ。
地響きと共に爆ぜる赤い花を薄青の剣が裂く。陽炎に揺れる大気の向こうで、静かな激情に瞳を凍てつかせた男が立っている。こともなげに剣を引く腕には演技の欠片もなく、人形のように澄んだ顔を飾る大仰な表情もない。
――魔族サフィラの本性である。
凍てつく冬の力そのものだ。本に封じられた悲劇を愛する怪物は、その心の底に何も飼ってはいない。薄っぺらい感情と嘯きの饒舌さで飾った執事服の内に虚空を満たしている。
今や同じ化け物へ身をやったアルティアとて、その根底に揺らぐのは人間の感性だ。彼のあるかも分からぬ心を覗くことは叶わない。
虫の居所以外は――知らない。
若葉の芽吹きさえ許さぬ殺意の冷気の中で、人を捨てた新緑が悠々と踊る。まだ十八の少女だったころ、この怪物と初めて対峙したそのときに、この鋭い大気を浴びていたなら、心臓を射抜かれて死んでいたろう。それがひどく嬉しくて、魔女の孕む炎の熱に灰となる足元の草木を踏んだ。
笑いながら睨む先には凍り付いた木々がある。吹き抜ける冷ややかな風を浴びて、頬の体温が奪われた。
掌に顕現した炎を剣に変え、そのまま手にした魔導書のページを繰る。
油断はない。隙も作りはしない。
幾ら向こうの領域を溶かすことができるとしても、アルティアの身は人だ。魂を変質させるほどの魔導に耐え得る体ではなかったし、故に扱える炎はサフィラの冷気には打ち負ける。絶対的な優位性と――彼の憤激を差し引いても、勝てる見込みはないのだ。
そういうときこそ神に祈る。
悲劇を愛するデウス・エクス・マキナ――壇上の神はいつでも作家の味方だ。
開いた『悲劇』の第一ページ。愛した男に牙を剥く娘の、祈りの涙で幕を開ける。
――私は泣いてなんかやらないけど。
絶対零度へ向けて業火を纏い、赤色の瞳が燐光に輝く。全てを破壊し尽くし、果てに人ですらなくなったこの身を焦がす蛇のような執着を、眼前の凍てつく心へ絡みつかせる。その厚い氷を破るなら――内側からだ。
具現した狂気の騎士が、炎を纏って咆哮する。その鎧ごと突き破る氷柱が断末魔と共に砕けて散った。
散華を見届ける間もなく地を這う冷気に足を奪われる。痛いほどの凍えは一瞬、アルティアの飼った煮えたぎる魔導に融解されていく。
「そんなに王子が欲しいなら、ロマンスでも演じていたらどうだ、小娘」
面白くもなさそうに――揺らぎのない低音が銀の空気を裂く。苛烈な静謐さの満ちた薄青の髪をひたりと見遣ってアルティアが笑った。
「ロマンスですって? 失望するわ。貴方の目はもう少し利くものだと思ってたけれど」
この恋は――この愛は――。
そう呼べるほど美しくはない。恋と愛と情で作り上げた世界など似合わない。幼稚な心の内側の、更に醜い奥底から湧き上がる、蠍の劇毒にも似た感情だ。描くならばパステルカラーの甘さも澄んだ青の苦みも含まない黒のインクが良い。
でなければ――。
なぞった指先から具現する悪夢が、業火の元で龍の咆哮を上げる。猛り狂う執着心の塊が、赤いインクを零した恋の本が、絢爛な愛の舞台を彩れるものか。
アルティアの感情の全てには――悲劇こそ相応しい。
「私はずっと悲劇のアクトレスよ」
喜劇など似合うはずがない。
氷の足許へ花開く焔がその体を溶かさんとする。その上から咲いた薄氷が術式ごと熱を奪っていく。
対等に力をぶつけられるようになっても、やはり敵いはしない。
――及びはしない。
硝子に似た破片の掠った頬を拭った白手袋に、赤く生命の証が線を残した。
*
幼い時分より、自身が聡い娘であった自覚はある。
人の感情を見ることに長けていた。要らないものまで目につく性分は、他人の存在を嫌わせるには充分で――見えざる悪意に対抗する術が悪意でしかなかったことに、未熟な少女の悲哀がある。
けれど、所詮はそれだけだ。頭でっかちな幼子の精一杯の皮肉など生意気な世間知らずにしかなり得なかった。
だからアルティアは大人に好かれない。
その頃から狂気の一片は彼女の心に突き刺さっている。人を違えたとして、アルティアはアルティアを違えたことはないのだ。人として間違っていようと――アルティア自身を間違えたことは一度もない。
花開いた笑みの奥底にある棘を知るなり逃げていく者たちに興味を持ったことも、それを不快に思ったこともない。悲劇作家としての才能を持て囃されれば、それでも機嫌を取る者は多いのだ。不遜な女王として君臨し続ける若き天才は、己の脚本を如何に美しく再現するかにしか興味がない。
だからあの男も――。
あの日の主役を演じた細身の男も、彼女のことは嫌いだったのだ。元より協調性に薄い彼のその感情が何かのきっかけで爆発してしまっただけだ。
舞台を台無しにしたかったのだろう。結果的に、彼の被った狂気の皮は少女の心にあった本性の種に水をやってしまった。切り裂かれた左腕を押さえ、肉の塊と化した馴染みの顔と血に塗れた自分を見て、恍惚に頬を染めながら哄笑する彼女をどう思ったのだろうか。
――恐ろしいには違いがなかろう。
滴る赤が美しかった。転がる動かない体が夢のようだった。観客の狂乱する悲鳴が柔らかかった。
そこにあるのはただ至上の悲劇であった。
アルティアの見てきたどの舞台よりも美しい。全てがその赤く塗れた体に帰結し、左腕を通じて伝わる泣きそうなほどの激痛から始まる。今ここで幕を開けた現実という壇上が、彼女が心の底から求めた至高を内包して破裂した。
壊れ行く終局が、この心にまで迫る苦しみが――恐怖が。
刃を首元に突き付けられて、終わろうとしていく心の最後の足掻きの悲鳴が。
そればかりがアルティアの狂気を揺るがしたのだ。
だから笑った。人が終わるそのときの感情はこんなにも愛おしい。胸を締め付けて脳を打つ生への執着は、こんなにも現実を舞台たらしめる。彼女がその心の置き場としてきた空想など所詮は色褪せた幻想でしかない。鋭利なナイフの研ぎ澄まされた冷ややかさも、鉄臭さの立ち込める箱の中で立ち尽くす男のぎらつく双眸も、眼前に迫る死の恐怖さえ――空虚な妄想の中とは違う。
斯くして鬼となった少女は――ただ。
*
所詮は空想の炎だ。無慈悲な物質には敵わない。
分かったつもりでいて、しかしその繊手が紡ぐことができるのは既に失われて色褪せた壇上の言葉だけである。朗々と読み上げた魔導文字が大蛇と化して薄氷を貫く。その奥にある氷柱に口から貫かれたそれが焼失するのを見届ける間もなく、降り注ぐ刃の雨に深く研ぎ澄まされた炎で応戦する。
「元人間にしてはしぶといな」
忌々しげな苛立ちを孕んだ言葉も、全て褒め言葉――として受け取ることにしている。
サフィラが吐くのは氷の欠片ばかりだ。鋭利で冷たいが故に、人間の感性を平気で傷つけてすり抜けていく。常人の道理から外れて久しいアルティアにもその意図は理解できる。
――できるだけだ。
「魔女だもの。貴方のためのね」
してはやらない。硝子だろうが氷だろうが、醜く燃え上がる熱情に触れれば溶ける。敢えてその焔をわざわざ消して傷付いてやるほど、彼女は優しい存在ではない。
消してやるつもりもないのだ。
サフィラの前でだけは。
言葉を呑んだ炎を燃え上がらせる。障壁のように指先から放射されたそれが男の手にする刃を遮り、その冷気を奪って燃え尽きていく。
瓦解する壁の内側に張り巡らされていた植物の蔦を切り裂いた剣がそのまま心臓を狙うのを踊るように避けた。
着地する先の花を燃やして、渦巻く内情が悲劇を彩る。或いは地を揺るがす炎竜へ、或いは亡失の王子へ、或いは哀れな狂王へ――アルティアの描いてきた壇上の全てが、些細な草木の犠牲で具現する。
その空想に塗れた舞台装置が面倒になったのか、サフィラの視線が手にした魔導書へ向いた。流れ込む凍えた風に凍り付くそれを近くの地面に投げ遣って不機嫌に顔を顰めて見せる。
「作家の道具を駄目にするのは幾ら何でも不躾でなくて?」
「そんなもの」
知るかと嘲笑う。
「やっぱり貴方って只の観劇者ね。作家には向いてないわ」
幾ら道理を外れたアルティアであれ、彼女の心にはいつでも作劇がある。魔力で強化してあるからこそある程度の雑な扱いをしている魔導書だが、原稿は折れ線の一本も入らぬように管理しているし、ペンにも細心の注意を払っているのだ。
その不機嫌を隠しもせぬまま、余波で凍り付いた左手を溶かしながら業火を纏う。渦巻くそれで底冷えのする空気を切り裂いて、繊手は意中の男の心臓へ指先を向けた。
帯びた魔力は決して美しくない。目に宿る赤色の燐光とは裏腹に、闇を滾らせた新月の夜の静謐に溢れている。
「面白おかしいトリックスターなんていらないの」
それは或いは悲劇の発端で、或いは喜劇の終端である。脚本家さえ手を焼く舞台装置が笑う意味は終ぞ分からぬままかもしれない。
アルティアは理解できないものが嫌いだ。
自身の理解できぬものを――自身を超越したものを脚本通りに動かすやり方が分からない。だからこそ偶然も不確定要素も徹底的に排除して、現実の舞台で踊ってきた。
トリックスターになるならば作者自身だ。その意図も、その言動も、最もよく知るが故に好きなように扱える――自分自身をその脇役に添える。なれば新たな道化など必要はない。
「私の舞台を壊す愚か者は、燃え尽きればいいのよ」
生み出された宵闇が、気の抜けた陽光を遮って舞い上がる。
*
「悪くないですね、上等です」
脚本に目を通し終えての第一声がそれであった。突然現れた冷気に身を包む紳士は、その薄く被った従順の皮をすぐに破って、アルティアの脚本を求めて来たのだと皮肉に笑った。
「そう、ありがとう。好きに使って頂戴」
「恐悦至極に存じます。光栄ですよ、貴女のような作家と出会えて」
その小馬鹿にしたような顔に走る鱗に似た氷も、髪を分けて生える氷の角も、気を抜けば意識を失いそうなほどの冷気も、彼が人でないことを知らせるには充分である。慇懃な態度が悲劇を彩るためのフレーバーであることも――アルティアの作家としての腕を人間にしては上等だと笑ったのも、彼女は理解していた。
穏やかさを繕った薄氷のような表情が、その奥に隠すであろう本性を知りたくなったのも事実である。何しろ彼女の生で人でないものに出会うのはこれが初めてであった。紛れもない異形でありながら、それをひた隠して人に紛れる長身が求めるものが何なのか、好奇心の赴くままに追いたくなったのも、知を求める者の性だった。
台詞の情感までもをつぶさに問う整った顔は今思えばただ機嫌がよかっただけだろう。そうでもなければ態々人間の元にまで足は運ばぬだろうが――。
ともかく、アルティアにとって、現実を舞台にして作る脚本を誰かに見せたのは初めてのことだった。
得られぬはずの賛同をいとも容易く示し、渾身の舞台を喜ぶならば、或いは彼でなくとも構わなかったのかもしれない。そうでなければ滲む悪意を隠そうともせずに、打算を表に出したまま近づく表情が珍しかっただけだ。
その計算づくの感情を安い言葉で表現する気はない。観客とは違って、作家の方は存在しない幻想を見るほどロマンチストではないのだ。
だから笑みには何も感じない。貼り付けたような感情の奥底に滲む悪辣な棘にしか興味がない。アルティアが内に飼った茨で、繕った優しさの奥を刺してやりたかった。
「精進するわ。観劇はさせて頂戴、自分の作った舞台は確認しておきたいの」
冷え切った紅茶の味を舌が覚える。
啜ったそれは美味しくはない。紅茶本来の風味は凍り付くような冷たさに掻き消え、香りも封じ込められて碌にしない。紅茶を頂戴――と、言ったときのアルティアが想定したそれとは似ても似つかない有様だ。
――それでも気に入ったのは。
「ええ。貴女の演じる舞台も、是非拝見させてください」
ただ、それが、とても。
*
――ああ、苛つく。
唇の端から零れる鮮紅を拭う。破けた白手袋の隙間から肌に直接体液がつくのが汚らわしくて眉を顰めた。
眼前の男とて、魔女と化した彼女の無尽蔵の魔力に中てられれば消耗するのは必然だった。ところどころの焦げた執事服を腹立たしげに直す潔癖さが、渦巻く冷気の中心で、再び燃え上がる怒りを隠そうともしない。
それが――苛立たしい。
ふつふつと湧き上がる感情に肌が焦げるような心地がした。ついた膝を持ち上げて、既に灰に近い土を払い落としたアルティアの睨む先で、サフィラもやはり同じような苛烈さを赤い瞳に宿している。
――何なのよ。
彼のための脚本があった。感情が乗らぬままに書き記したそれが完成した日に、彼は帰ってはこなかった。
それから数百年待った。人の身には長すぎる時間を彼のために費やし、取り返しのつかないまでに人でなくなっても、誰とも言葉を交わすことなくそこにいた。
身勝手な執着だ。愛でも恋でもなければ、情でさえない。幼子が気に入った玩具を手放さないとぐずるのと同じくらい――幼くて下らない所有欲に近い。
それでも。
持ち上げた掌に収束する闇が、煮えたぎる醜い感情の裡から湧いた焔と混ざって、地獄の業火に変わる。感情に任せるままに放出した力が逆巻いて、少女のころより伸びた緑の髪を浚っていく。
サフィラと同じ、左の頬へ刻んだ契約の刻印の上、燐光に煌く瞳で魔なる人外を睨みやる。
「――許さないわよ」
許さない。
「許すもんですか。脚本も完成しないうちから勝手に死んで、勝手に消えて!」
一度吐き出してしまえば止まらない子供の我儘にサフィラが顔を顰めるのが分かる。首を横に振りながら、意地ばかりを張った少女の亡失の嘆きが空を掻いた。
愛でも――恋でもない。
ただいつもの通りに不遜な言葉を吐いてくれればよかった。冷たくて味も香りも損なった紅茶を飲みたかった。願いながら何も掴めなかった手に、それだけがせめてもの祈りであった。
それさえも。
それまでも。
「それで今度は勝手に現れて、まだ揺さぶって遊ぶつもりなんでしょう。私にとっては最高の悲劇よ。ええ、それは認めるわ。でも、演者(わたし)にとっては最低なのに」
逆巻く感情を憎悪に塗り替える。勝手な執着に狂った果てに生まれた醜い一匹の蛇が――棘に宿した蠍の劇毒でもって獲物を喰らう怪物が、望む終焉だけを願って咆哮するのだ。
「観客(あなた)にとっても悲劇でも何でもないくせに!」
盛る炎の向こうへ誰より願った男の姿が揺らぐ。
陽炎のように滲むそれが涙のせいであると、アルティアはついに気付かぬままだった。燃え上がる熱に零れた端から蒸発する雫を拭う術さえなく、彼女は破けた白手袋の内側に隠した傷跡を振りかざす。
「耳障りだ」
対する声音は拒絶のそれだった。零度の氷が情愛の狂った熱を否定する。
今更どうでもよかった。女の形をした蛇も、男の形をした化け物も、所詮は己を吼えているだけに過ぎない。どこまで行ったところで交わらぬ平行線ならば――。
「――消え失せろ」
「貴方がね!」
燃えて――。
――尽きて。
――消えてしまえ。
水底の蛇
物心ついたときから、姉はいつでも机に向かっていた。
娘一人に与えるには広すぎる部屋の中で、無数の本に埋もれた後ろ姿がペンを走らせる音だけがする。集中を途切れさせてはならないような気がするのはいつも一瞬だ。その朧げな緑が消えてしまうような思いに駆られて声を上げる。
「お姉ちゃん」
問いかけると、そこで初めて妹の存在に気付いたように振り返る。
その顔が笑むのが好きだった。幼い少女の人形のような美しい顔立ちが好きだった。年上の優しさに満ちた子守歌のような声音が好きだった。
立ち上がった彼女の暖かい掌が頭を撫でる。ルネリアが誇る珍しい緑の髪だ。
姉と――同じ色だ。
「どうしたの、ルネリア」
――あれは悪魔だと、両親が語るのをルネリアが聞いたのは、姉が追われるように本の底から消えた後の話だ。魂を魔に売り渡してしまった。だからパンドルフィーニの魔術を捨てた。無為に人を傷つけ、誰にも嫁ぐ気を見せない、作劇に心を尽くす変わった娘。それならばせめて美しい喜劇を描けばいいものを、あんなに悪趣味で報われない話ばかり書く、見目ばかりが美しい魔性の毒花。
そんなことは――なかったと思うのだけれど。
姉はいつでも考えていた。考えた末に辿り着いた境地が、あの美しい悲劇だったのだ。彼女の隠した棘の一端も知らない妹だから言えるだけで、彼女はその優しい掌の奥に悪魔を飼っていたのかもしれない。
けれど。
ルネリアは姉が好きだった。大好きだった。両親に愛され、中流階級なりに何不自由なく暮らす彼女が、唯一与えられなかった悲しみを描く綺麗な筆跡を楽しみにしていた。その唇から童話のように紡がれる空想の世界に憧れていた。
「次のお話も楽しみにしてるね」
「ありがとう。ルネリアが観てくれるなら、とびっきりの脚本を書かなくちゃね」
「今度はどこの劇団なの?」
「ええと、どこだったかな――。劇団の名前は忘れちゃったけど、劇場はスカレシアの」
「あの大きい劇場? お姉ちゃん、凄いよ!」
言ったルネリアに笑う彼女の顔はどこまでも優しい。
痛みも悲しみも知らない、姉が自分と同じくらいに愛されていたと信じ込んでやまない瞳を見詰める。そうして暖かい腕で抱きしめて――髪を撫でる。
「可愛いルネリア。私は優しくて綺麗な貴女が大好き」
姉の方が綺麗なのにと、ルネリアはずっと思っていた。綺麗な物語を紡ぎ続ける指先と暖かな体。整った顔立ちを彩るよく手入れされた緑の髪も、自分と同じ色なのに全く美しく見える。
「ずっと――ずっとよ。ずっと、大好き」
狂人だと笑われ続けたことも、悪趣味だと眉を顰められ続けたことも、何もかも空想の中に溶かして、姉はただ笑っていた。
ルネリアは、その暖かさが――大好きだった。
*
「あ」
座っていた薄青に無意識に手を伸ばしてしまった。
妹のことを思い出していたせいである。作劇にかまけて意識を飛ばしながら、ふと遠い昔に撫でた妹の綺麗な髪を、眼前に座る男に投影してしまったようだ。その頭に手をやって、腰まで伸ばした割に引っ掛かりの一つもない一房を大事そうに撫でやってから、アルティアの意識は現実に返ってきた。
振り返った顔がひどく怪訝そうである。
「は?」
「間違えたわ」
ごめんなさいと悪びれもせず紡ぐ謝罪に、サフィラの不機嫌が色濃くなる。
アルティアが数百年来住み続ける森奥の家である。たまたま開いた魔導書に魅入られ、その身に炎を得るなり不老の存在となってしまった人間が、植物の間を魔導で切り開いて作り上げた木造建築だ。建築学など脚本に必要な部分以外は碌に知らないなりに本を読み、調度を整えれば、典型的な魔女の邸宅を想像して作り上げたそれは存外に「らしく」なった。
当然ながら大抵の家具は木造である。人外の魔術をもってすれば木材の切り出しも組み立てもそう難しくはない。一番気を遣ったのが寸法という有様である。
そんな家だから持ち主以外のことを考えているわけではない。全てがアルティアの女性にしては高く、男性にしては低い背に合わせて調整されている。だから長身のサフィラが腰かけると、大抵の場所では足が余り、常に机に膝を擦り合わせる格好になる。
尤もそんなことは気にしていなさそうだが――というのが、アルティアの思うところである。
精々その服が木くずで汚れるのが不興を買うくらいだ。その気持ちは彼女にも分からないではない。分からないではないが、調整してやる気もない。
彼女自身は不自由ないのだ。
青の髪を丁寧に直しながら、炎の魔女に深く溜息を吐く氷の怪物が、眉間に皺を寄せながら問うた。
「一体、何と間違えたんです。私と間違えるようなものが他にありますか」
――正直に言ってやるべきか。
珍しく作家が逡巡する。答えれば更に機嫌を損ねるのは分かっている。それ自体が恐ろしいわけではない。この皮肉屋の皮を暴いて、暴力的な冷気の渦に晒されるのは望むところだ。
ただ、今は気が乗らない。
とはいえ脚本に気を遣っていた現状で碌な言葉が思いつくわけもなかった。ともすれば刃が向かってくるであろうことを承知の上で素直に口にする。
「妹」
「は?」
サフィラが再び怪訝を呈した。
「ちょっと思い出してたのよ。それで間違えたわ。もうとっくに死んでたわね、妹は」
続くであろう怒りの言葉を遮るように、片手に持っていた焼きたての芋のタルトを差し出した。暫しそれを見詰めていた男が椅子を引く。
――その凍った足で、炎の魔女の足を思いきり蹴った。
「痛い」
「貴女も化け物なのだからこのくらいどうってことないでしょう」
大袈裟に足を押さえるアルティアへ小ばかにしたような笑みが降ってくる。
間違ってはいない。彼女とて人の身を捨てて幾百の年月を刻んできた。見目こそ二十の半ばを保っていても、その中身はとうに化け物に成り果てたろう。
でも痛いものは痛いのよ。
先ほど彼女が焼き上げたタルトに口をつけるサフィラを見た。彼の好物だというからわざわざ森の奥から取ってきてやった芋で、わざわざ丁寧に仕込んで焼き上げてやった女に対して、あるまじき態度ではなかろうか。
――まあ。
焼いたのだってアルティアの機嫌がいいからなのである。芋を取ってきたのだって何も彼をもてなすためではない。
魔女とてその素体は人だ。
食わねば死ぬ。
それだけの話である。
在るかもわからぬ心の在るかもわからぬ恩返しに期待をしているわけではないが、兎角、アルティアは余りすぎた芋で用意したもてなしで恩を売ることに決めた。幾らこの男に心を明け渡したとて、材料費は無料ではないのだ。
だから恩着せがましく嫌味を言う。
「貴方と違って痛覚まで凍ってないわよ。それにレディに手を挙げるのは男として失格なのでなくて」
「人の理を私に適用しないでいただきたい。そもそも貴女がレディだとは微塵も思えませんが」
「失礼ね。私も女なのだけど」
「女性が無条件でレディであるわけではございません」
言いながらの二口目が消える。味は悪くないらしかった。
それが分かっただけでも上等である。
サフィラと向かい合うように用意した椅子に座る。ここに彼女一人しかいなかったときからある、古い木製の椅子である。
同じ背丈の女性からしても軽いアルティアだが、それでも座れば軋む。ギィ、と鳴くそれにサフィラが腰かければ壊れてしまうのではなかろうかといつも思う。線は細くとも彼は長身だ。
そんなどうでもいい心配をよそに、彼はいつも新しい方の椅子を勝手に奪うのだが。
「繊細な乙女は傷付くわ。愛してる男からこんなに罵られるなんて」
「喜びなさい、貴女が大好きな悲劇の演出をして差し上げているのですよ」
「あんまり傷付くとお菓子焼く気力がなくなっちゃうわ。ああ――あんなに取ってきたお芋、どうしましょう」
一つ。
買ってきたプリンにスプーンを入れて、大袈裟に溜息を吐く。てらてらとする表皮を掬うとそれだけで甘いにおいがした。この香りはいい。向こうの男の珍しく慌てたような表情と相まって魔法のようだ。
魔女の台詞ではないが。
「――演出だと申しました」
「そう。じゃあお土産にケーキをお願いするわね」
肘をついて笑んだ人形のような貌に、サフィラは再び溜息を吐いた。
*
ルネリアの意識はいつも水底に始まる。
昔からそうだ。夢を見るときはいつも水の底にある。自分の中に眠るという強大な力は、水に適性があるのだと、両親が浮つく声音で話していたのを知っている。
それがルネリアの根源のようだ。夜眠るときは暗い水へ沈んでいくような気分だった。朝起きるときは水面に差す朝日に目覚めるようだった。不愉快ではない。懐かしいような、悲しいような、終わってしまうような気持ちになるだけだ。
一度だけ――。
姉が魔術を披露して見せてくれたことがあった。
普段は悲劇を綴る美しい指先が模造の剣で地面に素早く陣を描く。歌うように空想を紡ぐ言葉が魔導文字を読み上げる。
地を離れた剣先が炎を纏って。
竜の形を成して――消える。
それがひどく美しかったのを、今でもルネリアは覚えている。焔はどこまでも輝く姉のようだと思った。あの暗い水の底で、揺蕩い続ける自分とは、何もかもが違って美しかった。
だから。
「どうしてお姉ちゃんは国家魔導士じゃないの」
ルネリアには魔導文字が読めなかった。陣を覚えるのも、それを描くのも不得意だった。十のときから魔導を習うために魔導士へ従事して、既に四年が経っていたが、彼女は初歩中の初歩でさえ詠唱も陣も覚えられない。
あんなに綺麗な炎を吐き出せたこともない。
だから、自身が目指すべきだとされた頂点が、似つかわしくないような気がしてしまう。
――だってお姉ちゃんも辿り着けていない。
それに姉はどう答えたのだったろうか。才ある者の残酷な問いかけに、それでも微笑んでいたような気がする。泣きそうな顔をしていたのかもしれない。思い出そうとする端から、都合の悪い記憶は全て水の底に沈んで行ってしまうのだ。
姉には才能がなかった。才能がなかったから、あんなに美しく陣を描き、淀みなく言葉を発せた。ルネリアが覚えなかったのは何もかも必要がないからだ。そんなものを学ばずとも、彼女は充分すぎる力を持っている。
そんなこと。
言われなくても分かっていなければいけない年だったのだ。
心底不思議そうに問うルネリアを、姉は抱きしめた。暖かくて柔らかい姉の香りに絆されてまた記憶が曖昧になっていく。ただ、彼女が口癖のように繰り返す――言い聞かせるような愛の言葉だけを残して。
*
アルティアとて日がな一日騒々しいわけではない。唯一彼女の軽口に心を壊さない男がいなければ、森の奥の小屋には喋り相手などいないのである。だから彼のこめかみの青筋を皮肉で見送った後は、大抵暇になる。
そうなれば得意の作劇を始めるほかにない。幾十のスランプを乗り越え、幾百のマンネリにぶつかりながら、しかし彼女は流行に疎いわけではなかった。唯一の趣味である言葉を転がしていれば彼が次に訪れるまでの暇を潰すくらいのことはできたのである。
――そういえば。
明後日からアルティアの書いた脚本が演じられるはずだ。人が食べられる味のタルトを焼くのに必死で伝えるのを忘れていた。
料理自体は食べられるものになってきたとはいえ、未だキッチンでの仕事が苦手なことに変わりはない彼女にとって、菓子作りは難関である。生地を捏ねるのは勿論、計量からして一苦労だ。そんな苦労など知りもせず、上機嫌に菓子を食べる顔を思い出せば、その憎たらしさにふと笑う。
まあいいか。
どうせ明日も来るのだからそのときに伝えればいい。ケーキの約束は覚えているだろうか。買って来なければ責めてやればいいし、何なら焼くつもりのパイを没収してやってもいい。
――忘れてきた方が都合はいいかもしれない。
泡沫の舞台に興味がない気紛れな男を連れ出すなら、上機嫌なときを狙うか何らかの対価を支払わねばならない。ならば対価にしてしまえというだけのことである。
開いたページに昨日の続きを綴ろうとして思い出した。
そういえば――卵はなかったんじゃないかしら。
思い出してすぐに後悔する。引き攣った笑みに追い討ちをかけてやればよかった。パイが食べたかったら卵を買って来てくださると言ったら、あの男はそれでも怒りを抑えたかもしれない。そのときの顔はさぞ滑稽だろう。
たかだかパイ一つである。
これが惚れた女の作ったものであるからなどと言えたらどれだけ笑える話か分からないが、生憎あの氷の異形にそのような観念はないのである。それでも未だに自分に付き合っている理由も知らないが。
あと数年もしたらもう一度脚本を書いてやろうという気はあった。現実を貶める壇上で、まだ人だった頃のように、再び彼と共に悲劇を彩れたなら、それはそれで悪くはあるまい。
上機嫌に立ち上がって、インクを零した原稿をしまい込む。
とまれ、卵を買って来ないことには、彼女の算段は全て成立しなかった。
*
水の底。
姉は終ぞ知らない静謐な闇の中で、ルネリアはただ水面に揺蕩う太陽ばかりを見上げていた。
両親のことは嫌いではなかった。姉がいなくなるまで、眉を顰めて彼女を悪魔だと言うのを聞くまで、ルネリアにとって両親はただの両親でしかなかったのである。
あの綺麗な指先を――微笑みを――。
神に背いたものと言われるのが我慢ならなかった。その手が紡ぐ悲劇が幾ら他人から悪趣味だと顔を顰められていたとしても、彼女にとってはただ美しく見えただけであった。
だから、故郷が焼け落ちたとき失くした全てを思い出したとき、姉の涙する顔に行き当たって、ルネリアは初めて悲しみを知った。謝る姉の表情が克明に刻みついて消えない。あんな顔をさせたのが紛れもなく自分であるという、それだけがただ悲しくて、彼女は自分の身を憎み続けた。
いっそ。
水面に溶けてしまえればいいのに。
姉の光をただ見ていたかった。水の底から、輪郭のぼやけた美しい太陽を見上げていたかった。
崇拝だと――。
言われても構わなかった。確かに姉は神のように美しかった。神の祝福を受けたのは姉の方だったと、ずっとそう思っていた。
だから、今。
ルネリアは湖畔に立っている。
緑の髪を追い続けて、不意に途切れた足跡が掴めなくなった。そのうちに時ばかりが過ぎて、彼女は国家魔導士として働きながら、見えなくなった太陽の行方を追っている。追い続けても遅いばかりで――ただ、喪失感のうちに姉のものだと確信できる壇上の演目を見続けてきた。
――お姉ちゃん。
机に向かう背中はもう振り返らない。ルネリアの首を絞めながら、涙を流して謝りながら、町に火をつけて行方を眩ませた姉の姿は、もう彼女には描けない。
生きている。
だから余計に悲しい。生きていることだけがまざまざと分かるのに、一度もその姿を見ることができない。思い出の中の姿は霞んで消えて、そのうちに分からなくなっていく。
――お姉ちゃんってば。
振り返る微笑みはこの世界に存在するはずだ。それなのに、小さい頃に一番最初に読むことができた悲劇に、いつから氷のモチーフばかりを使うようになったのかさえ分からなくなってしまった。
それが悲しい。
悲しいから。
悲しいせいで。
――わたしは。
*
そういえば妹が死んだと聞いたのもこの頃だった気がする。
寒さが増してくる頃合いだ。郊外の湖に身を投げて死んでいたというのを風の噂に聞いた。国家魔導士として働き始めて、漸く一端に仕事ができるようになったと、誰かが泣くのを聞いていた。
葬式が行われたのかもアルティアは知らない。
馬鹿ね――とだけ思った。求めても手に入らない才をその手にしておきながら、彼女はいとも容易くその命を絶ってしまった。誰にも見られず、そこに至るまでの悲劇性さえ知られることなく、彼女の魔力を象徴するような湖畔の底へ沈んでいってしまった。
感傷がないわけではない。狂った姉なりに彼女を愛してはいた。それよりも、次の悲劇へ向けた執筆の方に意識が向いたから、アルティアはそのときのことをよく覚えていない。
今更思い出すようなことでもなかった。
――なかったのだけれど。
魔導書を手にしたまま、買い物袋を手に提げて立ち寄った湖は、晩秋の風に煽られて僅かに波立っていた。清々とした凛と尖る空気が来る冬を受け入れるように充満している。深く澄んでいるにも関わらず見えない水底が波打つ湖面の奥底に青く沈んでいる。
感嘆の息を吐く。次のテーマは湖にしようかと、その息を呑むような深淵に赤い瞳を細めた。
見入っている場合ではないと思い出すのに時間はかからない。
後方に感じる人の気配は、先ほど街を出たときから気にかかっていた。街中で白昼堂々魔導を人間にぶつけるわけにはいかぬから、その人影が諦めるまで待とうと思っていたのだが。
――馬鹿ね。
魔女の術式は魔女にしか解けない。魔導書を奪っても、その中にある薬草を具現することはできない。それに気付かぬ何とも愚かしい物盗りだ。
愚者に容赦はしない。放った炎で燃やした茂みから飛び出す姿に、魔女は思わず溜息を吐いた。碌に気配を消すことも出来ぬような人間が人外を相手にするなどと、何とも無謀で喜劇的だ。
だから――。
油断したのだ。
湖畔の底から伸びる水の鞭に足を取られる。自身の足に魔力を通すより先――。
魔導書を残して、その身が湖畔へ落ちていく。幾ら焔の魔術とはいえ、人の身を揺るがさぬ程度のそれは大量の水を前に役を成さない。鼻から入り込んだ水に涙が零れる端から溶けていく。
この身に宿るのが――氷ならば、死なずに済むだろうか。
水の奥に揺らぐ術師の姿に手を伸ばす。
そうやって、薄氷の後ろ姿に救いを求めてしまうのが。
伸ばされるはずのない冷たい手を願ってしまうのが。
――愚かしくて孤独な悲劇の終端が。
作家には許せなかった。自身の命は誰かの心を震わせる悲劇のためにのみあるものだ。誰の心も動かせない終幕に意味はない。
余った芋はどうなるだろうか。怪物はまた訪れるだろうか。ケーキは買ってくるだろうか。明後日からの興行は観客の心を揺さぶるだろうか。書きかけの脚本は完成しないのだろうか。溶かすと決めた氷はやはり溶かせないままだろうか。
誰か待ってくれるだろうか。
――そこにいない私を。
口から零した気泡が消えていく。水に支配される肺の中で、寂寞の慟哭が音もなく震える。
それを。
「おねえちゃん」
声が遮る。
とうとう気が狂ったかとアルティアが笑った。水底に沈む妹の幻聴など笑えもしない。朦朧とする頭の中に、ただその穏やかな声だけがする。
「わたしは」
――私は。
嘗ての脚本通り。
妹に殺される。
「待ってたんだよ、お姉ちゃん」
悲劇の呪縛に溺れた一匹の蛇が、湖畔の底に消えた。
星見
「星が見たいわ」
窓枠の霜を溶かしながら、アルティアはそう振り向いた。
冬である。焔の魔術をその身に宿して以来、ただでさえ好く季節ではなくなっていたところだ。未だこの森の奥まで雪は降り積もってはいないが、大気の凍えは魔導の力をもってしても覆せない。
加えて――。
眼前で椅子に腰かけたままパイを食すサフィラの冷気があっては、家の温度は余計に落ちていく。
魔女の方は構わないのだが。
木材が朽ちる。またいちいち切り出すのは手間なのだ。悟られぬ程度の熱気で緩和してはいるが、こうしてところどころに湧く霜ばかりはどうしようもない。気付いた端から溶かすばかりである。
男が芋の菓子を飲み下したのを確認してから笑う。
「今日は流星群なのよ、確か。次の悲劇では星空を最初のシーンに持ってきたいから、大道具の指示のために見ておきたいの」
「お一人でお出でになられたら如何です」
「夜道を女一人に歩かせるのは危ないのではなくて」
にべもない返答には慣れていた。彼と向かい合うように置いた椅子へ腰を下ろし、頬杖をつく。
二つ目のパイが一口齧られていた。
「どうかしら」
「悪くはありませんね」
――なんて言う割には嬉しそうなのよね。
彼は手作りの菓子の方を好む。理由は知らないが、見目も美しい店売りのものよりは拙い味の方に興味があるようだった。食せるならばアルティアのものでなくても構わないのだろうが――。
彼に態々料理を振る舞ってやるのは彼女くらいのものだろう。
白手袋に隠した繊手を持ち上げる。思い出すように中空でくるくると円を描いたそれを見詰めながら、彼女はふと問うた。
「月が綺麗ですね――は、なんだったかしら。東の方のなんとかが言ってた気がするわ。ご存知?」
「私に聞かないでください。遠い場所のことに興味はございません」
「そうよね」
「急に何なんですか。貴女はいつも急ですけど」
眉間に皺が寄るのについ笑った。笑む顔も悪くはないが、やはりそうやって不愉快を隠そうともしない方がいい。
自分の前では。
優越感だけを押し出して空をなぞる。描いた陣から炎が微かに踊り、男の表情をその向こうにけぶらせた。
「それの類語というか、同じような隠語に星が綺麗ですねっていうのがあるらしいのよ」
意味は知らないけれど。
そもそも大本を知らないのだから知るはずもない。脚本に使えるかと思って数少ない東の国の資料を漁ったはいいが、どうやら向こうでは使い古された表現らしい。そんな陳腐なものを自分の作劇に招くような真似をするものではあるまいと、それで調べるのをやめたきり忘れてしまった。
「――っていうのを思い出しただけ。それで、お付き合いくださる?」
「さて、如何いたしましょうね。この身は魔女の随伴に与るほど上等な代物ではございませんし」
最後の一かけを口に入れたサフィラが背もたれに体を預ける。次いで伸びる黒手袋が、飽きもせずに同じ焼き菓子を取ったのを見るや、アルティアは大袈裟に声を上げてみせるのだ。
「明日はスイートポテトにしようと思っていたのだけれど」
止まる。
見開かれた赤い瞳に再び問う。――お付き合いくださるかしら。
「参りましょう」
「ええ、よろしくお願いするわ」
立ち上がった氷の怪物は、その手に持ったパイに齧りつくまま、凍える風の中へ身を躍らせた。
*
外に出たころには日は暮れかけていた。仄かに星の煌く中を裂いて、緑の髪が執事服を追う。
とはいえ。
サフィラが目的地を知っているわけではない。女の歩幅より男のそれが広く――歩く影もまばらな郊外へ続く道で、彼が彼女に合わせる気を失っているというだけである。
「それで、どちらへ」
振り返った瞳に繊手が指を差す。
「郊外の広場よ。あそこなら煩いファロもいないし、開けてるから」
「そうですか」
足取りは迷いない。自身の灯した火に照らされる凍った草木を見詰めながら、アルティアはその霜をもたらす靴をちらと見遣った。
それ以上口を開くでもなく――。
辿り着いた広場の奥に、満天の星空を見る。
静謐な冬の大気に霞む雲の隙間から、煌々と輝く無数の星がある。幾つも零れ落ちる光の群れが地平線へ消える。
声すらも似つかわしくない天と地の狭間にあって、しかしサフィラはその光景に一つ息を吐くばかりであった。
それよりも。
隣の魔女が、珍しくひどく感情的な歓声を上げた方に視線が行く。
まあ。
見目だけは美しいに違いないのだ。
見下ろす緑の髪が冬の清澄な風で靡いている。その下の赤い瞳は普段の気怠さを星の煌きで消し、瞬くたびに長い睫毛が揺れる。
幾ら美しかろうと劇毒を吐くのだからどうしようもない――と、サフィラが視線を外そうとした刹那に、彼と同じ色をした目が長身を見上げ、その唇に弧を描いた。
「私に見惚れてるより、星の方を見なくてよろしいの」
「貴女の方が美しいですよ」
気紛れである。いつも通りの否定に面白味を見出せない程度に、今のサフィラは機嫌がよかった。たまには甘ったるい空気に乗ってやっても悪くはなかろうと、吐き出した虚言と共に笑んで、女を見詰める。
――果たして。
「は」
目を見開いた彼女の口から、呆然と驚愕が飛び出した。
それで笑う。
「陳腐な台詞はお嫌いなのではなかったのですか」
そりゃあ自分の悲劇に書くのは大嫌いよと、そのくらいの台詞は想定していた。この無闇に口の立つ作家気取りの生意気な小娘に、言葉で一矢報いることができただけでも、サフィラの機嫌は上々である。
しかし。
いつまで経っても返しの台詞はない。怪訝に眉を顰めて、月のない星空の仄明かりの向こうの表情を見透かそうと目を凝らした。
突然隣から炎の塊でも飛んで来られたら、幾ら魔族の身とはいえたまったものではない。
「あの」
ようやっとの声は細く震えていた。
さも弱ったように眉尻を下げる視線が泳いでいる。胸に抱え込んだ魔導書を強く抱いて、口を真一文字に引き結んだまま、アルティアは顔を熟れた林檎の色に染めて、吐息と紛うような声を押し出した。
「そういうのだめ」
「は?」
意味が分からない。
「急にそういうこと言うの、だめ」
「はあ。お気に召しませんでしたか」
「や、嫌じゃない、けど」
しどろもどろにアルティアの視線が外れた。
――サフィラはアルティアの初恋の相手である。十八のときに抱いた歪んだ情念を飽きもせずに引きずったまま数百年が経っても、こと恋愛に関しては、経験を積まぬままの心はあのときと全く変わっていない。
そして。
十八の少女の心は、意中の男が吐く台詞に少なからず左右されたりするのだ。
普段から冗談めかした愛を囁き続けるアルティアである。しかしその意図には彼の飾り立てた笑みを削いでやろうという悪意が強い。冷淡な台詞と聞き飽きたとばかりの反応を期待している。だから――。
気紛れに弱い。
悲劇作家の皮も魔女の装いも剥がれてしまえば只の少女である。まして人付き合いの得意でなかった頃に戻されてしまえば、彼女に吐くべき言葉はない。
明らかに様子の違うアルティアから怪訝そうに外れた瞳が見上げる星空に視線を向ける余裕などもうない。俯いたまま、抱えたきりの魔導書を握る力を強め、不意打ちに高鳴る鼓動を押さえつけるべく幾度か深呼吸をする。
隣の男の冷気など既に気にならなかった。冬の空気を前にして四肢の末端までもが熱い。平静が保てていないのだから、彼が隣にいるというだけで逃げ出したくなる。
「――御覧にならなくてよろしいのですか。次の冒頭にするのでしょう」
急な問いかけに余計に後ずさりたくなった。飾る言葉が見当たらない。嘯くには思考する時間が足りない。
それに、たぶん。
今見ても頭に何も残らない。
「アルティア嬢?」
「何でもない」
名前を呼ばれて鼓動が狂った。隠すように見上げた星空と、その視界に嫌でもちらつく薄青の髪が、言うつもりもなければ思ったつもりもないような言葉ばかりを生み出しては消えていく。
整った顔立ちに、よく手入れのされた長い髪。潔癖なほどに整えられた紳士服と伸びた背は、所詮は人間を偽るための――或いはただ素体とした人間が美しかったまでのことであろう。素体の癖が染みついているところのある男なのである。
それでも、サフィラはアルティアが見てきたどの演者より。
「貴方の方が綺麗だと思うわ」
口走った呟きを魔導書の裏表紙に隠して、彼女は無言のまま空を見た。
――星が。
綺麗だ。
もえつきゆ
――敵う気は最初からしなかった。
それにしても、一撃たりともその身に叩き込めないほどだとは思わなかったが。
樹に強かに叩きつけられた体から鮮紅を零し、アルティアはサフィラを睨む。冷気の中央に立ち、ただ静かな激情に身を滾らせた薄青の男の低く揺らがぬ声が、彼女を見下ろして笑った。
「終わりか、小娘。所詮は人間だな」
その首に食らいつかんとしたのはアルティアの方だった。
人の身を捨てて数百年の月日を過ごし、漸く戻ってきたその長身を見詰めるたびに、彼女は自身の炎の奥へ揺らぐ姿を繋ぎ留めたいとばかり願ってきた。
けれど――それは。
いつまでも続くものではない。
「そうね。ここが終幕よ。人間としてはね」
笑う膝を持ち上げて、破れた白手袋を脱ぎ捨てる。左腕の醜悪な傷跡をなぞった赤い視線が燐光を孕んだ。
それが魔導の合図だと、サフィラは嫌というほど知っている。
しかし――。
「悲劇の一番の見せ場をご存知? 隠された真実が明らかになるどんでん返し――急、とも言うわね」
「何が言いたい」
「鈍感な人。それでよく役者が張れたわね。作家の意図なんて一度も分からなかったのでなくて」
笑った指先が宙に描く陣は彼の知るものではない。次に飛んでくるであろう焔に向けて、その身が構えたのを見て、アルティアはますます唇を緩めた。
少しばかり話は続けられそうだ。
「ずっと待ってたわ。貴方が帰ってくるまで。誰とも喋らないのは、そうね、とても――寂しかった」
この森の奥の小屋で、人を踏み外した魔女はただ待ち続けた。身に宿した炎で溶かせぬ冷気が吹き込む日だけを待ち望んだ。
いつ現れるのかも――現れることさえないかもしれない面影を待った果てに、漸く目にした彼を、もう二度と手放したくはない。
それでも。
一度消えたものを信じられるほど彼女は単純ではないのだ。
「一人で待ち続けるのなんてもう御免よ。貴方がまたいつ消えてしまうかもわからないのに、一緒にいるのももう限界」
ならば。
「ここまで来て、私が私に拘る理由があるとお思い?」
紡ぐ子守歌に炎が揺らぐ。
人の身には過ぎたる力だ。逆巻く地獄の奥に眠る灼熱を芽吹かせるためには、アルティアの体が滅ぶだけでは足りない。
その理性。
その声。
その表情。
その――魂。
「全部くれてやるわ」
貴方に。
己の中に眠る執着の大蛇に。薊の花弁とその棘に。
全て喰わせて、少女は真に化け物へと堕ちる。
愛する男と同じ地平が、業火を纏ってアルティアの体を包む。零れ落ちる詠唱が透き通った歌から醜悪な獣の喚きに転ずる。赤色の燐光を放つ瞳だけがその向こうで煌々と愛憎を語っている。
炎が――。
晴れたのちに、そこに大蛇が立つ。威嚇と共に舞い上がる薊の棘と炎の只中で、その細い瞳が怒りの咆哮を上げた。
「喧しい――」
対するサフィラの瞳もまた苛烈。歪んだ憎悪と愛の果てに、炎の獣へ成り果てた姿を睨みやり、その醜悪な声を掻き消すように叫ぶのだ。
「獣如きがァッ!」
剥いた牙を氷に変える。氷輪が蛇を覆って爆ぜた、その向こうから――。
炎塊が男を捉える。灼熱に揺らぐ視界と、腹を伝う不快な熱を押さえて眼前の獣を睨んだ。かの小娘とこの大蛇の一撃に、余計に心中の煮え立つ思いがする。
「小賢しいッ――!」
食い縛った奥歯から怨嗟のような声を吐いたまま、怒りに見開いた赤い瞳に激憤の光を滾らせて、サフィラは手にした剣を引いて地を蹴った。
*
パンドルフィーニの魔導師としてだけなら、私の才は両親に認められていた。
それでも娘だった。まだ一人目だ。十八の母は未だ子を宿せたし、母の二倍ほどの歳だった父にも男子を望む心があった。
だから私の魔術は独学だ。
師はいない。家にあった膨大な魔導書を、有閑階級故の知識で読み解いただけ。舞台を見に行ったのだって――その余興の一つだっただけ。
ただ両親にとって想定外だったのは、私の知識欲が普通の少女を遥かに上回っていたことだけだった。そんなこと見ていれば分かるだろうに。昔から本に齧りついて、教わる嗜みだって古典教養にばかり傾倒していたのに、彼らはそんなことも知らなかった。
自分の才能がある場所に落ち着くのは当然のこと。多少の知識があれば、この頭が美しい喜劇よりも悪趣味な悲劇に向いていることはすぐわかる。
だから書くのは悲劇ばかりだった。
所詮は世間知らずの中流階級。十六にもならぬ娘の戯言。それならせめて面白おかしい話を書けばいいものを――。
――そんなの私が一番そう思ってるわよ。
それでも馬鹿な娘は捨てられないのだ。妹に勝つことをやめても、人間が嫌いになっても、頭でっかちな皮肉ばかりが得意になっても、魔導を捨てても、家を捨てても、ただ一つこれだけは捨てられなかった。
幾ら笑われたって――。
私は現実から追い出されてしまったのだ。
それで空想に心を置いていたけれど、本当は違った。私の意識は最初から現実を俯瞰していた。空想でもない、現実でもない、神の領域――現実の作劇者。この世界の理の外にある存在であったから。
悪辣で。
理不尽で。
不合理で。
不条理な。
運命さえも繰ってみせる。この世の絶対悪の後ろで、私の最高の脚本を投影し続ける。役者でありながら脚本の外にも在る。己の尾を喰らい続ける、始まりも終わりもない完全な存在だ。
私は。
蛇になったのだ。
*
足はまだ言うことを聞く。
故にサフィラの勝利だ。胴を氷の杭に食わせた蛇は、身動きも取れぬまま威嚇するように鳴いている。
それで漸く笑う気になれた。
「は、堕ちたものですね。せめて蛇なら自分の尾を喰うくらいのことはして欲しいものです」
それならばまだ次元を超越したと認めてやれたろう。口許の血をぞんざいに拭って歩を進める。ただこちらを憎々しげに見詰める爬虫類の赤い瞳に、飽きもせずに宿る燐光だけが、この理性なき炎の獣が少女であったことを伝えてくる。
今更どうでもいいことだ。
近寄るだけ強まる独特のにおいに鼻を鳴らす。地面に伏した顔の前にしゃがみ、その喉に左手を這わせた。
破れた手袋の隙間から熱を孕んだ鱗の感覚が伝わってくる。右手に持った氷剣をゆっくりと後方へ引きながら、怪物は情念に狂った炎へ普段の調子で言葉を紡ぐ。
「生憎、私はそういった感情には疎いものでして。寂しいと嘆く貴女に何をして差し上げればいいのか分からないのです」
口付けか。愛の虚言か。それとも抱き留めてありもしない温もりを与えてやればいいか。人の身をしておきながら人の理を外れた娘に、そんな常人の求める愛が必要だったとは、サフィラには思えない。
弱り果て、その命ごと炎を消していく大蛇は、それでも赤い瞳の燐光に煙る彼の首に食らいつかんとゆっくりと口を開けた。そのぬらりと光る口腔の奥、赤黒い地獄に向けて、彼は嗤う。
「――獣臭いですよ」
引いた直剣を突き立てる。
その赤色ばかりを見詰めていて気付かなかったのだ。
大蛇の断末魔に呼応して足元に描かれた体の軌跡が赤く光る。理性を失って尚完成していた陣に、獣の血に混じった詠唱がサフィラの耳を打った。
焔の花弁が爆ぜる。
消沈する炎の中で、その身を氷で覆った怪物が舌打ちをした。自身と同じだけの魔術に押されて、余計な焦げ付き跡を纏った執事服に眉根を顰め、荒い呼吸を誤魔化すように絡まった髪を乱雑に掻き上げる。
「理性なんて残っちゃいないと思っていたのですが」
ああ、全く。
「最期まで腹の立つ小娘だな」
今度こそ燃え尽きる蛇の亡骸を一瞥することもなく、化け物は踵を返した。
墓前の命題
運命は自由意志か。
起因があり、帰結がある。それを動かすのは果たして人間の意志そのものだったか、終ぞ分からないままだった。
分からないまま、私は人を捨てた。
悲劇を繰る糸を千切って久しい。その間、神の存在を徹底的に省いてきたのは、何もそれが不確定な要素だったばかりではなく、生家がそれをごく頑なに信じていたのが気に入らなかったせいだった。
パンドルフィーニは魔導の家系だ。
だから神の寵愛たる魔術の力を信じる。ひいては神の存在に絶対的な信仰を捧げる。そうすることで家の力をより高めることができるのだそうだ。
馬鹿らしい。
神に祈ろうが何だろうが、結局死ぬのだ。金ばかり余らせて何もなくなってしまう。神の意志を信じて運命など信じて下らない操り糸に絡まって出来た信仰心が役に立つものか。
だから。
全て捨てた私の前で、捨てられなかった者から石の下敷きになる。
碌に手入れのされていない墓石が激しい雨に曝されている。両親も、祖父母も、妹も――凡そ私の知るパンドルフィーニの全てがこの下にある。今やファミリーネームを捨てた私ばかりがその血と知を受け継いでいるのだと思うと、後ろ暗い喜びの念が重たくのしかかった。
頭を打つ雨で余計に重たくなった頭は、しかし暫くその下に眠る怨嗟を見詰めたままだった。頭が重い。まだ責めているだろうか。悪魔の娘と罵るだろうか。もう何も出来ないのだから訴えるようなことさえないと分かっている。
どうでもいい。
どうでもいいのだ。
本当に悪魔の娘になってしまったのだから。
「何をしていらっしゃるのです」
横合いから掛かった声に、肩に入っていた力を抜いた。振り返った先の薄青が呆れた表情でこっちを見ている。
現実感が戻ってくるようだった。私が幾ら空想の世界に浸っていても、この低くて落ち着いた、纏った冷気と同じような声がするだけで引き戻されてしまう。
サフィラの装いは殆どが普段と同じだ。一片の皺もない執事服を纏って、手を黒手袋で隠して、薄青の髪をハーフアップにしている。左の頬に覗く氷も、そこから続くように生えた凍てつく角も変わらない。
違うのはそれを隠す大きな蝙蝠傘だけだ。
「墓参りよ」
「そうですか」
雨の中を出歩いている理由は訊かなかった。訊いても私がどうにかなるわけじゃない。
随分と雨を受けた泥と水溜まりの中から的確に足を出す。踊るような足取りに飛び散った泥水は魔力で焦がした。
だって汚らわしい。
切れ長の赤い瞳がこちらを見るのが気に入っていた。私と同じ色で、同じような表情をするからだ。氷の異形で、凍てつく魔導である彼と私は、そう離れた存在でないように錯覚できる。
その指先が招くように上下したのだけが予想外だった。
「いつになく優しいじゃない」
「女性を傘の外に追い出す紳士がおりますか。雨でも昼は人通りがございます」
人通りがなければ追い出すのか。
――追い出すだろうな。この人のことだし。
入れてくれるのだとしたら機嫌がいい証左である。この男というのは気紛れで、単純で、演技が得意なくせにすぐ顔に出る。傘が差し出されなかったということはつまり、今は普通ということだ。もっと機嫌が良ければ彼が濡れてでも雨から遮ってくれるだろう。
まあ。
私だから差し出さないのかもしれないけれど。
雨を凌ぐ蝙蝠傘の中で、少しばかり体に流れる魔力を高めてやる。体温の上がる心地いい感覚と共に蒸発して消えていく雨粒を眺めた。
「――暑いのですが」
横から降ってくる声に思わず笑った。熱に弱い氷の怪物を見上げれば、赤い瞳が侮蔑を孕んでこちらを見下ろしている。全く不機嫌を隠せない男だ。私の前でだから――というなら、そっちの方が嬉しい。
笑顔の仮面の方は誰でも見慣れているのだ。柔和な犬の振りをした狼の、その本性を見せてくれるなら、それは近しい証だ。たぶん。
と――言ったら、私を畜生に例えるおつもりでと機嫌を悪くされる気がした。
だから言ってやらない。
「少しの間よ。我慢して頂戴」
「こんなことなら無視した方が賢明でしたかね」
「傘の外に追い出す紳士はいないんでしょう」
「気付かなければ問題はございません」
それはそれでどうなのだろうか。濡れて佇む傷心の女性に気付かない紳士というのもいかがなものかと思うが。
兎角、私が思ったより彼の機嫌はいいようだった。外に蹴り出されなかったのがその証だ。それならば泥道を踏む足をエスコートして、手か何かでも繋いでもらった方が紳士らしく見えはするのだが――。
それはいい。彼らしくなくて気分が悪くなりそうだ。
「傘を忘れてくるとは、作家にしては先見の明に欠けますよ」
「天気予報は専門じゃないの」
代わりの皮肉に軽口を返す。作家だからって天気まで読めたりはしない。気象学にもっと関心があればよかったのだが、生憎と私は天文学にしか興味がないのだ。天気を読む必要のあるような旅に出たことなんてなかったし、大体そういうときは時空転移魔法を使えば事足りる。
だから最初から傘なんて必要はない。そこに一つ、忘れる口実が加わっただけ。
「ねえ、また傘に入れてくださる」
「――貴女次第ですね」
皮肉な表情で笑う整った横顔を見上げる。距離は近くとも感じるのは冷気ばかりだ。
そういう人。だからこんなにも焦がれるのかもしれない。
私の炎では溶かせない。情念なんて知りもしないような怪物だから、心に宿った執着の焔では、彼に届いたりしないのだ。
*
そのくせ勝手に溶けるのだから。
いつだったかと同じような雨が降っている。曝された墓石の角はとっくに取れてしまった。以前に供えた花は枯れ果ててどこかに消えてしまった。
傘も。
俯いても声は掛からない。どこかの優しい紳士なら差し伸べてくれたろうか。泥道をエスコートするために手を握ろうとしてくれたろうか。
そんなの御免だ。蹴り出されない傘の中には入りたくない。暖かい手なんて取りたくない。
いつかと同じようにどこかへ溶けてしまった減らず口しか。
もう、聞きたくない。
運命は自由意志か。
自由ならこれは彼が選んだことなのか。憎むべきは彼で、恨むべきは身勝手さか。勝手に終わっていく冬を、自ずと始まる雪解けを、彼が選んで行ってしまったというのか。
今だけは神を信じさせてほしい気分がした。
髪を流れ落ちる雨粒が、強めた魔力で蒸発する。私一人を避ける悲鳴のような音が煩わしくて呟くのだ。
まるで彼がそこにいるように。
「傘、忘れてきちゃったわ」
丁度いいか。
雨でも。
そうでなくても。
どうせ彼がいねば蒸発するのだし。
氷に送る口づけ
猛暑である。朝から照りつける日差しは午後になると勢いを増し、雲一つない晴天が憎らしくなるほど気温が上がった。
焔の魔導を身に宿し、それ故に暑さに強いアルティアでさえ辟易するほどの温度に、元来熱に弱いサフィラが耐えられるはずもない。泉に程近い森奥の小屋に辿り着いたときには既に満身創痍といった赴きであった。
腰ほどまで伸ばした髪を高く一つにまとめている。薄青の清涼感よりも長髪への鬱陶しさへ眉根を寄せるアルティアも、自身の緑髪を一つにして流していた。双方の疲弊しきった表情にいつもの皮肉をかけてやる気力さえない。
それでもアルティアの方はましである。
幾ら暑くともサフィラの纏う冷気は健在だ。否応なしに体感温度を高める魔力に身を包んだアルティアにとってみれば、その肌寒いくらいの温度は心地いい。
無言のうちにドアを閉めた彼女の家で、サフィラは机に突っ伏すなり動かなくなった。
郊外の森の奥で、それも水源の冷気が漂ってくる場所だ。煉瓦造りの街中よりはよっぽどましだろう。それでも足りないとばかりに黙りこくる男を見詰めて、アルティアは彼の眼前にあたる位置の椅子を引いた。
「貴方、夏の間はここに住んだら如何」
彼女は大助かりである。
腰掛ければ青が目の前に来る。家に入るなり再生した氷の角と鱗が心地よさそうだが、彼女とてこの気温の中で不機嫌な彼の相手をする気にはなれない。
——尤も、機嫌を悪くする気力さえも尽きていそうだが。
「良い提案です」
覇気のない声が返ってきたのが証左である。更に溜息混じりの声が続く。
「煉瓦は暑いです。そのうえ街中では体温も下げられない。貴女といた方がよっぽどましでしょうね」
「感謝して頂戴。わざわざ体温上がらないように調整して差し上げてるのよ」
「お心遣い、痛み入ります」
——駄目だな、これは。
アルティアは早々に諦めた。この男、とっくに根を上げている。
普段ならば、私がいなくても貴女は体温を下げているでしょう暑いんですから私のせいにしないでいただきたい——とでも減らず口が返ってくるところであろうに、その様子もない。
実際にその通りである。アルティアとて暑い中で自分の熱を発散し続けるつもりはない。室温が上がって余計に苛々するだけだ。
兎角、彼女が思うよりも今のサフィラは駄目だった。幾分か快適になった室温に気力を取り戻しつつある家主に胡乱な目を向けた彼が、心底限界とでも言いたげに声を漏らす。
「寝ます。寝室をお借りしても」
「好きにして頂戴。向こうよ」
ソファも——とは言わなかった。
サフィラにとっては勝手知ったる他人の家といったところだ。いっそ傍若無人なほどの勝手を見る家主も、特にそれを咎めるつもりはない。
よろよろと頭を屈めて消える足取りが扉を閉めた数秒後、戻ってきた室温に眉を顰めたアルティアも立ち上がった。
*
まあ好きにしろと言ったのはこちらだけれど。
ベッド脇に引きずってきた椅子へ腰掛けて、アルティアはその寝顔を見詰める——まさかソファを無視して婦女子のベッドを占領するとは。
そういう男である。細やかな気配りなど期待するだけ無駄だ。
アルティアに対してはこと扱いが雑なのである。
意中の男に素気無く扱われるのは不服だ。そもそも彼女自身、その人形のような容姿もあって男に悪い扱いをされたことはあまりない。さりとてその嫌気を振り払う程度には本性を独占している優越感のような感覚もある。複雑なのだ。
——まあ。
この寝顔を見ているのは恐らく彼女ただ一人であろうが。
よく手入れされた割に無造作に解かれた薄青の髪がサフィラの疲弊を訴えている。普段は忠実な僕の笑みか皮肉めいた侮蔑ばかりを浮かべる顔は、表情をなくせば彫刻に似た美しさがある。低く留まる体温も、動きもしない指先も、そのまま絵画に収めればさぞ高値で取引されよう。そのくせ上下する胸に呼吸が宿っていた。
生きていはするのだ。
確かめるように——無意識に女の手が伸びた。近付ければなお冷える。けれど翳した手には規則正しい呼気が当たる。
それで。
左手の白手袋を外した。この冷え切った陶器には、きっと何者も触れたことはなかろう。
端整な顎に触れても起きる気配はない。乱れぬ呼吸と閉じた長い睫毛をぼんやりと見据えて、女はゆっくりと身を屈めた。
——五秒ばかりか。
「冷たいわ」
閉じた瞳を開いて、吐息混じりに囁く。
離した唇に残る冷えた柔らかさをなぞるように、彼女は自分の唇へ指先を当てた。
男と口付けを交わしたことなどただの一度もない。生まれたときから纏ってきた上流階級の観念から外れた後も、ただ必要な舞台装置に成り得なかったが故だ。
いつ捨てても惜しくはなかった。
——はずなのだが。
引き結んだ唇から指を離す。眠りこけているサフィラをもう直視できない。顔中を巡る鼓動が煩くて鬱陶しい。保った熱を追い出すようにきつく目を閉じてから立ち上がる。
「ああ、もう、馬鹿馬鹿しい」
——沐浴をしよう。近くの泉に浸かればこの熱も多少は落ち着くに違いない。
冷静になったら——タルトでも焼こう。起きてきた男の声と顔で赤くなる頬を火のせいだと誤魔化せる。
眉尻をこのうえなく下げたまま、アルティアは寝室の出口を乱暴に開いた。
炎に送る口づけ
アルティアの素体は人である。
故に息は切れる。無尽蔵の魔力にも限界はあるのだ。生計のために行う薬剤の調合に、珍しく魔力を使いすぎたと息を吐いた彼女が、手元の本を閉じて向かいに座るサフィラの方へ滑らせた。
「あの馬鹿商人、渡してきた調合量のメモが間違ってたのよ。薬草は無駄になったし、魔力を使わなきゃ三日も四日もかかるし、かといって納期は明後日だなんて言い出すし」
「災難でしたね」
「全くよ。有り得ないわ――あ、それは完成したやつだから」
貴方のリクエスト通りよと指先で記された本を開く。成程示された粗筋は彼が思った通りのようだ。
詳細な中身は後で目を通せばいいだろう。
彼女が駄作で納得するとは思えない。
「確かに頂戴いたしました」
笑んだ男に満足げな表情を見せたのも一瞬、魔女は疲れ果てたとばかりに息を吐いて見せた。
「ちょっと寝るわ」
「ええ、ごゆっくり」
寝室に戻る背を見送って、サフィラは手元のシナリオを開いた。
*
台本を読もうと思った。
アルティアは過去の台本をあまり見せようとしない。ともすれば寝室に保管しているそれを持ち出すのが面倒なだけかもしれないが。
兎角、サフィラはこの六百幾年のうちに溜め込まれた膨大な悲劇の脚本を一度も目にしたことがない。
カーテンの引かれた森奥の寝室は昼でも暗い。差し込む明かりを頼りに本棚を探り、目についた一冊を引き出す。捲るページに記された丁寧な字を追って、その粗筋を見たなら戻して次を手に取る。
幾度か繰り返したところで気付いた。眉を顰めて振り返った先の寝息は、未だ起きる気配を見せない。
――無作為な選択にも関わらず、全ての脚本に共通する要素がある。
氷だ。
冷えた冬の大気と、爆ぜる氷が、いつでも彼女の物語の主軸を占めていた。そんなことをしていれば幾度ものスランプとやらの理由が自ずと分かる。最近になって解放されたと言っていたのは、恐らく今まで彼の目にしてきたシナリオに氷が存在しなかったことと無関係ではあるまい。
近寄ったベッドの上で、魔女は出会ったころと同じ少女のような表情を見せていた。無防備に眠る髪は解かれ、髪留めは白い手袋を纏う腕に通されている。
その緑が。
乱れているのがどうにも気になった。
伸ばした指先は職業病のようなものである。どうにもこの体を使い出してから整理されていないものが目について仕方がない。
引っかかりの一つもない髪へ指を通しながら眠る顔を見る。
見目だけはいい少女である。まさに薊の花のようだ。見て楽しむ分には悪くはない――と、サフィラもそれだけは認めている。
閉じたままの長い睫毛と整った眉が、たれ目がちの眉尻を彩っている。白い肌に映える透き通ったような薄桃色の頬は瑞々しい。均衡のとれた体つきと、伸びる長い手足の細さを、頑なに外さない白手袋が際立たせている。投げ出されたままのこの国に珍しい緑の髪が余計に目を引く。
触れようとする男は――まあ、多いのだろう。
サフィラにはよくわからない感情である。この魔女が心に押し隠したように見える棘も、その実一目で見透かせる。そもそも彼女の方に隠す気がないのだから、見破れぬ人間というのが、なんと心なるものに疎いことか――。
思いながら黒い手袋でなぞった首筋に少女が身じろぎをした。その顎をやや強引に持ち上げてゆっくりと屈む。
――花の香りがする。
離した唇から熱が逃げた。人間の孕む儚い熱など、僅かな間を持って消えるのだ。
が。
身の内に焔を飼う魔女の熱は、閉じた唇からも完全に逃れはしなかった。残る温もりを拭うように人差し指を滑らせ、サフィラは乱れた己の髪を乱暴に掻き上げる。
「下らないですねえ」
こんなことで。
――こんなことを。
一つ息を吐いて、氷の異形は踵を返した。
喰らい
人の身とはかくも不自由である。
吹き飛んだ左腕を再生することは叶わない。激痛を押さえるようにして食い縛った歯の隙間から赤い液体が漏れ落ちるのを乱暴に拭った右手にも傷が残っていた。穿たれた腹からは既に必要もない赤黒が零れ落ちている。
サフィラの眼前に――。
異形が降り立つ。
緑の髪から捻じ曲がった牡牛の角を生やし、結んだ先を蠍の鋏へ変化させている。赤い瞳は爬虫類のように細まり、笑みを湛えた頬を蛇の鱗で覆っていた。
無様ね――と。
人でない声で笑う不釣り合いな鬼腕の少女に、口内の血を吐き出してから唇を吊り上げる。
「貴女の方が無様ですね。そうまでして私に勝ちたかったのですか」
召喚魔術。
自らの体に降ろした魑魅魍魎を全て取り込んで、サフィラを討つためだけに人を捨てた少女が立っている。そこまで来て未だ自我を保っている方が、彼にとってみれば誤算に近い。
そうまで強いか。
意志とやらは。
「たかが人間だって、束になって掛かれば貴方を溶かせたんでしょう」
だから私たちなら完璧よね――伸びる腕を振り払うべく放った氷を炎に焼かれる。捕まれた片腕を軽く捻りあげられて、その口から押し殺した悲鳴が漏れた。
「――そういえば、気になることがあるのよ」
「何です、随分と元気があることで」
疲労と失血にぐらつく足を蹴り上げられる。果たして天井ばかりが見える視界を、異形の少女の瞳が遮った。その笑みに精一杯の皮肉で返せば、見上げた先の燐光が強まる。
無言のまま腹部へ走った鋭い痛みに――。
サフィラが笑みを引きつらせるより早く。
「内臓って凍ってるのかしら」
化け物が笑う。
爪の走った後が無遠慮に開かれる。ずたずたの白手袋が興味深げにその中へ伸ばされるのが視界の端をよぎって、彼は頭蓋を揺らす鋭い痛みに息を止めた。
ゆっくりと。
引きずり出される中身に足で抵抗してやる。果たして造作もなく潰されたそれに唸り声を上げた。合わせて口腔から零れ落ちる赤黒い液体が床を生臭く染める。
男の中身へ口付けた少女は、その赤黒く染まった唇を舐めとると、そのまま彼へ口付けてみせる。
差し込まれる舌を――。
思いきり噛み千切る。
「抵抗――されないとでも」
目を丸くした少女の長く伸びたそれを吐き出して、サフィラは声を絞り出すまま嗤った。
のだけれど。
機嫌を損ねたような表情をする彼女が平然と蠍の青い血を吐き出す。その胸が上下していないのに、彼は再び乾いた笑みを浮かべるのだ。
――人間を捨てて。
「その先に、何があると、仰るのですか」
「そうね。愛かしら」
舌のないまま喋る彼女が肋骨を切り開く鈍い音がした。その先にうずまった生命の根幹を大事に持ち上げた彼女の瞳がちらとサフィラを見る。
にこりと。
いつもの調子で。
サフィラがよく知る。
――人間が。
笑って。
「心臓は食べてあげる」
拍動する赤黒を噛み千切った。
小話
ああ――苛々する。
赤色の燐光も、儘ならぬ性格も、掴みづらい芝居がかった言動も腹立たしいことこの上ない。サフィラにとってみれば取るに足らぬ元人間の、細やかすぎる反抗でこそあれ、積み上がれば鬱陶しさは増す。
「今日もご機嫌斜めね。どうしたら良いのかしら」
「簡単なことです。貴女が黙ればよろしい」
燃え上がる草木を眉根を寄せて斬り払った。瓦解する植物の蔓に遮られて、陽炎に歪む女が舞うように空へ浮いた足を動かす。
「作家に言葉を扱うのをやめろだなんて、酷なことを言う方ね」
中空へ足を伸ばすアルティアのドレスの裾からは焔の蛇が覗いている。威嚇するように鎌首をもたげたそれに眉根を寄せて、氷の魔物を囲う凍てつく大気が牙を剥いた。
――畜生ふぜいが。
降り注ぐ氷柱は、しかし彼女の腕の一本さえ捉えないまま溶けていく。
本気でないのだから当然である。
所詮は魔女を自称する元人間に戯言に付き合ってやっているだけに過ぎないのだ。息をするように交しわ合う皮肉と何ら変わりはない。纏う一枚を傷つけるような無粋な真似はしないのが礼儀である。
花開く炎の薊を薄氷で消沈し、薄青が舞う。応えるようにステップで中空を掻いた新緑がその刃を短剣で弾いた。
距離を取った氷の魔導が眉を顰めて見詰める先――。
お分かりかしらと人が笑う。
「これは貴方のための剣なのよ」
淑女然とした一礼に、サフィラは再び頭痛を覚えた。
氷炎の舞踏
馬車に揺られる。
目的地が近づくにつれ減る口数を繕う余裕はない。手にした送り主不明の招待状を裏返す青年が、その豪奢な装飾を睨んで懐へ仕舞い込んだ。
羽織った黒いマントと赤いコートに風を受け、短く切った茶色の髪が煽られる。ノイルの青い双眸の先では、彼と同じように招待状を見詰め、小さく俯く少女の姿がある。
「ルネリアさん」
持ち上がった紫の瞳が瞬いた。下方で二つに縛った緑髪を払って、白手袋の下の繊手が握った紙を膝に置く。
「本当に心当たりはないんですよね、これ」
「はい。どうして旅をしてるわたしのところに届いたのかも分からないんです」
――ルネリアとノイルが出会ったのは昨日のことだ。
彼の従者が消えた日、代わりのように届いた招待状の主を探るために、記された街に宿を取った。窓辺の少女が同じ装丁の施された紙を持っていたから声をかけたところ、姉を探してここに来た日の夜に、この奇妙な手紙が届いたという。
彼女は劇に詳しかった。聞いたことのない演目に首を捻るより先に、少女は言ったのだ。
「昨日も申しましたけれど、この劇場、一年前に潰れたはずなんです」
「どういう経緯だったかはご存知ですか」
ノイルの元にそんな話は入って来なかった。そもそも、彼の住む場所から遙かに離れたこんな辺鄙な場所に大劇場があったことさえ知らなかったのだ。
煉瓦が跳ねる音がする。目的地は遠い。
背もたれから体を起こしたノイルを一瞥して、ルネリアが言葉に詰まる。無理に訊くことではない――彼が制する前に、弱々しく声が上がった。
「一年前に、ここで虐殺事件があったんです」
公演の主役だったという。
悲劇の主人公が手にしていたのが本物のナイフだったことに誰も気づかなかった。混乱の中で俳優と女優の全てを刺殺した彼は、半狂乱のまま何かに怯えるようにして自警隊に捕縛され、処刑された。
「事件自体は聞いていましたけど、ここだったんですね。確か生き残ったのは観客と――」
「脚本家です」
「――お詳しいですね」
応えはない。
俯いたままの少女の気を紛らわす言葉を思いつくわけでもなく、ノイルは視線を表へ遣った。確か彼女の出身地はこのあたりだという話だし、観劇を好むというのなら知っているのは当然のことかもしれない。身近な虐殺事件など恐ろしくて当然だ。
一抹の気まずさを拭えぬまま、外の景色を流していく彼へ、殊の外明るく繕った声が問うた。
「ノイルさんの執事は、どのようなお方なんですか」
振り向いた先の紫が隠した興味に輝いている。思い出す面影に苦笑して、ノイルは金の装飾が施された袖口を振って見せた。
「文句も言わずについて来てくれて、何でもできるいい執事です」
「羨ましい。わたしのメイドはすぐ怒るんですよ」
「きっとルネリアさんが心配なんですよ。それにあいつ、時々生意気なんです」
馬の蹄が煉瓦を叩く。口許を押さえて笑うルネリアの指先が、膝の招待状を鞄へ戻した。
目的地が近い。
懐の手紙を一瞥して、ノイルは柔らかなソファへ座り直した。
*
開いた幕は悲劇に始まる。
たった二つだけの観客席に腰かけ、意志のない人形たちが踊るのを見詰めていたルネリアは、ふとその台詞回しにひどく聞き覚えがあることに気付いた。
――貴方に身も心も捧げて。
――私は。
「蛇に」
――成り果てて、しまった。
それは。
「ルネリアさん?」
強く息を吸ったきり震える彼女を、ノイルの訝しげな視線が見据えた。それにさえ気づかぬまま、紫の瞳が見詰める舞台で、人形たちが終端に向けて踊り出す。愛する男の胸に抱き留められた女が、自身の首筋へ添えられた刃を一瞥し、その心臓を喰らうように歯を立てて――。
首が飛ぶ。
ゆっくりと降りていく緞帳の後ろで、意志なき演者たちが支えをなくして崩れていくのを、ただ食い入るように見詰めている。
その瞳に影が踊った。
美しく手入れをされた緑の髪を結んだ少女が、薄桃色のビスチェドレスで舞うように下手から現れる。中央で止まるヒールの足音と共にドレスの端を持ち上げて淑女然と一礼をして見せた。長い睫毛に縁どられた赤い瞳が、立ち上がるルネリアを見詰めて、優しげに微笑んだ。
「アルティア、お姉ちゃん」
震える声を漏らして踏み出した縺れる足をノイルの腕が抱き留める。体勢を戻してから告げる感謝の台詞さえも虚ろに、彼女の瞳はただ、最愛の姉を目掛けてはやっている。
制するのは姉の白手袋だった。
「姉妹の感動の再会はよろしいけれど、まだ役者が揃ってないの」
アルティアの指先が至極冷静に手にした本を捲る。無造作に破った一ページを投げ遣ると、描かれた陣が光を放った。
身構えるノイルの前で――。
花が散る。無数の花弁の先で、高い壇上からこちらを見下ろす女が、ひどく静かに憐憫の笑みを浮かべていた。
「俳優(アクター)は多い方がいいでしょう。紹介するわ」
主役に譲るように。
大袈裟に横へ逸れたアルティアの身を遮る花弁が凍りついて爆ぜた。薄氷に閉じ込められた色彩が硝子のように輝いている。
上手から現れる長身は、今度はノイルの方に見覚えがあった。
「――サフィラ」
「ええ、サフィラにございます。ノイル様」
整った顔が、赤い瞳を隠して人の好い笑みを浮かべる。
胸に当てた黒手袋。乱れなく着こなす執事服。腰ほどまでも伸びた薄青の髪を揺らして一つ礼をする――ノイルの消えた従者。
高い舞台から飛び降りる二つ分の影が、青年と少女の眼前で着地する。男の足許で氷が爆ぜるのも、女を守るように炎が舞うのも、ただ茫然と見送るばかりの彼らなど意に介さず、舞台の操り手は声を上げた。
「改めて、ようこそ、私たちの描く悲劇へ。それからお礼を申し上げましょう。貴方たちのお陰で舞台は概ね台本通りに進行しているわ」
「どういう意味ですか」
「あら、こんな時なのにちゃんと敬語で話してくださるのね。ねえ、貴方より主の方がよっぽど礼儀正しいのではなくて」
「貴女こそ、御令妹様の方がよほど令嬢らしくていらっしゃいますよ」
睨み合う軽妙な語り口が笑みの奥に悪辣な苛立ちを広げている。ごく言葉を交わし慣れた姿に――ノイルは悟った。
「サフィラ、まさか、お前」
動揺にぐらつく心がようやく重心を取り戻した先は怒りの釜だった。冷えた水で煮えるような恐ろしい心地で、眩暈さえ覚える頭を押さえる。
「――騙してたのか」
「だったら何だと仰るのです」
一方のサフィラはあくまで平坦だ。
いつの間にか腰から抜き放たれた氷の細剣だけではない。冷気を纏っているのは彼自身だ。左の頬を埋めるように露わになった氷の鱗と、続くように髪を分けて生える凍てつく角が、人ならざる本性を誇示するように仮初の主を見遣る。
「サラはどこへやった」
「ああ、あの人間ですか」
そんなもの――冷笑がノイルの耳を打った。
「『殺した』に決まっておりましょう。私がここに立っているというのに、その程度のことも分からないとは、思いのほか暗愚なお方だ」
抜いた剣は反射だった。
怒りに震える指先の向こうで、魔なる男の赤い瞳が嘲笑う。忠実な犬の皮を破り捨てた悪意が唇を楽しげに歪めるのが見て取れた。
それが。
余計に苛立つ。
「いい顔です。如何ですか、私を信じて愚かにもここまでついてきた心地は。貴方が行く先々で苦難に見舞われたのが、よもや偶然だと思ってはいらっしゃらないでしょうね」
歯を砕かんばかりに食い縛るノイルの横で、ルネリアの目はアルティアばかりを見詰めている。
「お姉ちゃん」
――優しかった。
記憶の中の姉はいつでもルネリアを愛していると言った。家出同然に飛び出し、この劇場でただ一人生き残った彼女が、家に再び戻ってきたとき、本当に嬉しかったのだ。
姉が生きていたことが。姉が笑いかけてくれたことが。姉が――戻ってきてくれたことが。
それなのに。
「嘘だよね、そっちの人に命令されてるんだよね。お姉ちゃんがそんな、あんなこと、本気でするわけ――」
「陳腐な台詞回しはやめなさい。吐き気がするわ」
溜息と共に頭を振る。アルティアは抱えた魔導書を開いて、眼前の妹を見据えると、吐き捨てるように口を開いた。
「可愛い私の妹。いつまで経っても綺麗で愚か。目を逸らしているのか本気なのかは知らないけれど、私の行動原理は貴女が一番よく知っているはずよ」
詠唱が――。
無造作に引き破られたページの陣に反射する。彼女らの生家の最も得意とする、陣と詠唱により強化された魔術だ。
反射的にルネリアの呼び出した水が迸る姉の炎を消沈させる。その刹那、肌を刺す冷気と共に凍り付いた水泡が音を立てて飛び散る。
彼女に牙を剥く硝子に似た破片を叩き落したのは、間に割って入ったノイルである。構えた剣で真っすぐに睨みやる先に、氷の異形が笑っている。
「おや、中々の反応です。剣術にかまけていただけのことはある」
片手で振る氷のレイピアがそう簡単に割れないことはノイルが一番よく知っている。杖を構えた少女を片手で制し、彼は青い瞳を敵意に煌かせた。
「ルネリアさん、下がって。あいつは剣の腕も立ちます。その代わり」
「お姉ちゃんの魔術は任せてください。幾ら陣があっても、炎と水ならわたしの方が優位です」
漲る怒りと悲哀の殺意を前にして、化け物たちはあくまでも冷然とそこにある。踊るように後方へ下がるアルティアが詠唱を口ずさむのを、真っすぐに立つサフィラが一瞥した。
その赤い瞳へ、同じ色を携えた女が笑って見せる。
「最大限の支援はして差し上げるわ。騎士(ナイト)らしく守ってくださる?」
「貴女を姫(プリンセス)に据えるのは些か不服ですが、よろしい。妥当なところです」
サフィラの足許へ広げた陣を睨むノイルを一瞥して、気に入ったとばかりにアルティアが笑う。口にした詠唱は強化の術式――人の身には尚も厳しい彼の冷気をより鋭利に、臓腑にさえ届く致命の刃に仕立て上げるための術陣だ。
自身の体に施したのは人をもって彼の力に耐え得る冬の力。自らが先に凍り付いては意味がない。
手にしたペンでページを叩く。
全ては――悲劇作家の手のうちに宿る神が紡ぐ。
「悲劇の幕開け、運命の序章。哀れな剣士とその執事、姉を追う妹――その邂逅から参りましょうか」
伸ばした指先が未来を紡いで泳ぐ。
主演は四人。邂逅に始まり死に終わる、救われることのない現実だ。
「最高に素敵な悲劇を」
「心底から至高の絶望を」
見せてくれと。
紡ぐ作家と俳優が、同じ皮肉を携えて嗤った。
*
薄氷の剣戟を躱し、その先にあるはずの心臓を狙う。果たして易々と空を掻いた剣を跳ね上げるように直剣が振り抜かれた。
サフィラの剣は細身だ。しかし絶対的な魔力で維持されたそれは鉄製のレイピアよりも硬質である。
無茶が効くのだ。
肩で息をするノイルがどうにか取り落とさずにすんだ剣を構え直す間に、追撃が心臓を抉らんとする。かろうじてはじき返した先の顔色一つ変えぬ男に憎々しげな息が漏れた。
ルネリアにも彼の支援に回っている暇はない。
アルティアの使用する陣も詠唱も、同じ家に育つ彼女にとっては覚えのあるものだ。しかし――覚えがあるだけである。
その身に宿した絶対的な才で振るってきた魔術に補助強化など必要がない。
故に。
次に姉が何を放つのか、彼女には分からない。
薄くなった本から引き剥がされた陣が地に落ちる。紡ぐ詠唱の向こうで、吐息の一つすら乱さぬ氷がふむと唸った。
「序幕としては上々でしょうか」
「ええ。初めての舞台にしてはよく踊ってくれたわ」
「何を――」
ノイルがようやく絞り出した声を嘲笑うように、女が手を振って見せる。地に落ちた陣へ歌うように唱えた起動の文言が、凍てつく冷気を纏う男を手招きして呼び寄せる。
「またお会いしましょう。次はもう少し芝居の質を上げておくとよろしい」
「貴方を役者に選んだことを後悔させないで頂戴ね」
男の胸に抱き留められた女が、自身の首筋へ添えられた刃を一瞥し、その心臓を喰らうように歯を見せて――。
光の向こうの影は消えた。
肩で息をするまま、静寂の戻った舞台のさなかに、二人だけが残される。
舞い落ちた白紙を拾い上げたノイルが怒りのままに手に力を込めた。虚脱感に膝をつくルネリアが杖を支えに立ち上がる。
――今宵の舞台は。
ここで尽きた。
空虚な二人分の観客席に、荒い息だけが響いて消えた。
生命問答
「貴方ってどうして生きてるの」
心底不思議そうに訊かれるものだから首を傾げた。眼前に腰かけてこちらを見守る魔女は、サフィラの知る限りの情報を総合すれば随分と機嫌がよかったはずだが。
口にしたパイを飲み込む。
「これまた随分ですね。死ねと仰りますか」
「違うわよ」
ついた肘を崩して机へ頬をつけたアルティアが、手にしていたペンを回した。
稀代の女性悲劇作家はどうにも最近調子が良くないとぼやいていた。口を開けば皮肉と薄っぺらい愛の告白ばかりを吐き出す彼女が、ここ数日は碌に目も合わせず、未だ新しいにおいの抜けない本を捲ってばかりであったのだ。
それが久し振りに機嫌がいい。見下ろすサフィラの赤い瞳に、丁寧な字で記された脚本の続きが目に入る。自然と未来の筋書きを追う目を遮るように魔女が瞬いた。
「そうじゃなくて、生きてる意義の話よ」
考えたという。
アルティアは悲劇が書けなくなった自分に用がないそうだ。その身の全てを空想に捧げ、ついに現実さえも己の手中にした少女にとってみれば、ただ一つ自身が自身足りうる瞬間を失うことが耐え難い。彼女にとっての存在意義は全て悲劇である――と、哲学書を読み漁って結論付けた。
「あと貴方がいることね」
「とってつけたような台詞ならばなくてよろしい。無駄です」
「本心なのに。酷ですこと」
ころころと笑う少女の声がした。言葉の割に傷ついたような素振りも見せぬ顔に溜息を吐く。
氷の異形の大袈裟な所作をものともせず、薊の花は笑ったまま彼の瞳を見る。
「それでね、貴方の意義が知りたくなったの」
意義と言っても――サフィラの前へペンの切っ先が突き付けられる。
「絶望を見たい、なんて表面的な答えは駄目よ。知りたいのは理由の方」
剣のみならず、あらゆる物理的な干渉を殺す概念の武器だ。鋭利なペン先に乗った宣戦布告の奥で、サフィラと同じ赤い瞳は、装った皮肉と冷酷さを破り捨てて問うていた。興味を光らせる知の捕食者にふむと一つ唸る。
――考えたことがなかった。
サフィラは魔族である。父も母もなく、面倒な肉体を捨て、不滅性と意志のみを得てただそこに在る上位種族の一端に過ぎない。そう思うならば、まずもって後ろ盾のない彼の存在自体が非常に不安定だ。
表面を剥げば虚空に満ちているのである。
生きる意義などあったものではないが――それだけを伝えても、眼前の魔女は納得しないだろう。さも納得がいかないとばかりにつまらないわと口を尖らせるに違いない。かといって説明も面倒である。何しろ彼にとってはどうでもいいことだ。
納得しうる理由を探す瞳が、手にした食べかけのパイに視線を落とした。ページの半分が白紙のままの脚本がその向こうに見える。
アルティアの焼いた菓子はサフィラの口に丁度いい。脚本家としての腕は人間にしては上々で、彼が演じれば思う通りの悲劇を誘う。半ば人間を身に残したままの彼女の、こうした無意味な問答に付き合う程度には――嫌いではない。
「貴女が」
焼き菓子を焼いて。
彼の分の椅子をわざわざ用意して。
彼以外の紅茶を頑なに拒み。
皮肉ばかりを口にして。
愛を嘯きながら。
悲劇を描き続けている。
「――ここにいるからですかね」
一言に纏めてパイを口に運ぶ。僅かに熱を失ってはいるが、まだ食せないほどのものではない。
嚥下するまま応答のない魔女を一瞥した。
限界まで見開かれた赤い瞳と、中途半端に起こしたまま固まった腕がゆるゆると力を抜いて再び机に置かれる。
「な、に言って」
「本心を申し上げたまでですが」
少なくとも嘘ではない。
サフィラがこの身を依代としてから、絶望の表情以外のために行動を起こしているのは、アルティアの焼き菓子と脚本を得るときだけだ。他者の悲劇を嘲笑うことが話せぬなら消去法的にもう一つを選ぶしかないのである。
その後の台詞は意趣返しのつもりであった。
の――であるが。
林檎のように熟れたきり言葉を発しなくなったアルティアは、視線を泳がせるまま気まずそうに机から体を持ち上げた。俯いて脚本に向かう耳までも熱を孕んでいるようだ。動揺にぶれる手で無言のうちにページを埋めた白手袋がややあってペンを置く。
「次は傑作を書くから」
今はこれで。
顔を見せないまま押しつけられた完成原稿を手に、その調子に声を失うサフィラを置いて、彼女が乱暴に寝室の扉を開閉した。
消えた薄桃のビスチェドレスと鍵の閉まる音を見送る。
静寂の戻ったリビングで、彼は手持無沙汰に原稿を開いた。記された悲劇の内訳を一通り確認して息を吐く。
首尾よく終盤までを書き連ねたと思えば、突然書けぬと騒ぐ。昨日まで書けなかったと思えば先の十数分で終幕を書き上げる。挙句客人を残して寝室に引き籠りだす。
「――何なんですか」
全く。
人間は理解できない。
嘘喰らいの拍
嘘を吐く日よと言えば、そうですかと返ってくる。
「貴方が一番好きな日じゃなくて」
続けざまにペンを回して笑うアルティアに、捲っていた悲劇の脚本を閉じて冷笑したサフィラが息を吐く。
いつまで経っても傲岸な男だ――と家主は思う。
現れるなり机に置いてあった書きかけの脚本を手にした。そのまま足を組んで一つしかない椅子に陣取り、家の主人であるアルティアが眉を顰めるのを横目に彼女のシナリオを読破せんとしている。
まあ――。
いつものことだ。
時計を見る。十一時五十七分を指す長針に目を閉じて、アルティアがついた手を机から離した。
炎を飼う女の白手袋が肩に回るのを、男は溜息で迎えた。
「暑いのですが」
「誰かが立たせるせいで疲れたのよ」
せせら笑いに青い髪が揺れる。
その奥からこちらを見詰める赤に、彼よりも幾分か明るい自身の瞳を映して、アルティアは火炎の熱を孕んだ吐息で囁いた。
「ねえ」
サフィラ。
一度も呼べなかった名を口籠る。らしくもないと目ざとく笑う男を見下ろして、アルティアは目を細めた。
「好きよ」
「おや、柄にもない。ロマンス作家に転向でもなさるのですか」
「愛してるわ」
――左頬。
サフィラを模して彼女が印を刻んだ場所を覆う氷を溶かさんと熱が這う。後方を見るべく体を捻った彼の浮かべた嘲笑に、アルティアは伏し目がちの瞬きを一つくれてやった。
凍えた吐息と燃える指先を交錯させる。互いの体温を拒絶するような沈黙を崩したのは魔女だった。
無言の挑発を続ける赤を見据える。優しさを装った表情の向こうに見えるひどく冷酷な色にまで届くように、近づけた目に燐光を纏わせて、アルティアは昨日書き上げたばかりの台詞を朗々と読み上げる。
「『気が狂うほど愛に縋って、息絶えるほど貴方を追って、とうとう蛇に堕ちました。それでも貴方のその瞳は、血よりも赤いその目の奥は』――」
緩やかに。
重ねた唇の冷えを拭って、呆れた表情に笑いかける。
「私を見たりはしないのね」
視界を瞼に隠して体を離す。その奥に至極つまらなそうな声を聞いて――。
「下らないですねえ」
――正午を回る。
同時に響いたノックの音に、アルティアは座ったままの使い魔に開くよう指示を出した。
果たして開いた扉の先に立っていた男は、扉の陰で彼の入室を待つ少女に幾度か頭を下げる。腕を組んで促す家主に再び首を垂れ、ルッジーノは笑った。
「あ、サラさん、ありがとうございます。アルティア様もお元気で」
「昨日会ったばかりでしょう。で、今日は遅かったわね。御用事でも?」
「いやあ、エイプリルフールですから」
騙されるかと思って――と、彼は笑った。
「アルティア様だって相手がいなければ嘘は吐けませんからね」
「吐いたわよ」
即答するまま、彼女は指示を待つサラを一瞥した。
全く――。
下らないことに魔力を使ってしまった。
日に日に薄れていく面影を追って絵を描くうち、ふとその声が朧げに霞んでいることに気付いた。漠然とした焦りをぶつけるように、意思を奪って碌に喋らぬようにした『素体』に覚えている限りを投影した。
――が。
やめた方が良かったかもしれない。
虚しいだけだ。
「誰にですか?」
至極驚いて問うルッジーノの頓狂な声には応えない。代わりに続ける。
エイプリルフールに吐いた嘘は。
「向こう一年は真実にならないそうよ」
読みかけのまま放られた本を抱えて、アルティアは笑った。
「下らないわねえ」
月の美しいこと
眠る必要がないと言う。
初夏の纏わりつくような暑さを掻き消す冷えた空気の中で、ペンを握っていたアルティアが問えば、サフィラはそう答えた。いつもの通りのティーテーブルで、いつもの通り冷え切ったティーカップを手にした彼女は、ぼんやりと月を見上げる男の視線の先を追う。
満月である。
アルティアの身は人のものだ。凍てつく空気の中心で不遜に笑う男とは違う。睡眠は当然必要である。
ただし欲求には薄かった。雲のない夜空にあって、煌々と照らす光の下で、夜を徹して未だ完成に至らぬ悲劇の脚本を書き上げることもできる。普段の減らず口を閉ざしたサフィラの隣にあれば――。
「何か一つ、書けそうではあるのだけど」
構想が纏まらない。ぼんやりと浮かぶものはあるのに、いざ紙に向かうと言葉にはならなかった。インクばかりが溢れてひとところに円をなすのを暫し見つめる。
一つ。
息を吐いて本を閉じた。
バルコニーの手摺に凭れ掛かり、空を見上げる男の隣に少女が立つ。踊るような足取りで月光にヒールの音を響かせる彼女を一瞥した赤い瞳が問うた。
「脚本はよろしいのですか」
「書けないときに無理に書いてもいいものにはならないわ」
「そうですか」
上の空である。
自ら問うておいて興味もなさげに流すのがサフィラというものだ。さして気にも留めず、アルティアの白手袋が冷えた手摺に絡む。身を乗り出すようにして見上げた月に思わず目を細めた。
「今宵の月は綺麗ですね」
――隣の薄氷も同様であった。
彼と同じ赤い瞳でちらと見た端正な横顔が、長い睫毛を瞬かせながら月を見つめている。普段は皮肉めいた笑みばかりを貼り付ける口許は無表情に意識を遠くへ遣っているようだった。
それで。
緑髪の少女も何の気なしに応えた。
「そうね、こんな夜なら死んでもいいわ」
月光の下に在る夜ならば。
人形めいた顔立ちで小さく笑って、彼女もまた、煙ることのない月を見上げた。
*
睡眠は必要なくなった。
森奥に住まう焔の魔女が、かつて人だったその唇で詠唱を刻む。巻き上がる炎に埋もれていく花々と共に浮き上がった体が、彼女の寝床である小屋の屋根へ降り立った。
満月だ。
今宵の月はまた格別である。五百幾年にも及ぶ生の中でも、伸ばせば手の届きそうな満月は数えるほどしか目にしていない。月光が強ければ強いほど、彼女の名の由来となった星々の影は薄くなるが、それでいい。
白く光を放つ夜の象徴には。
静かに輝き続ける冬に似た天体には。
――勝てなくて構わない。
初夏の風が頬を撫でる。生温く髪を浚われて、しかし心地よさげに少女の形をした怪物が笑む。
今日は――。
これから訪れる太陽の季節に、この静かな光が埋もれるまでの猶予であるのだ。
「今日も月は綺麗だったわよ」
翳した手の隙間から漏れ出る光の陰に赤い瞳が瞬いた。緑の髪が湿気た空気に靡いて夜に溶けていく。
「――サフィラ」
貴方はいないけど。
アルティアは笑った。
紛らし - 1(R15)
アルティアは生娘である。
とはいえ悲劇のためとあらば幾らでも捧げるつもりでいた。敢えてそのようなシーンを組み込む必要がなかっただけだ。歯止めをかけていたのは己の心に残る上流階級としての在るべき姿の残滓である。
それと――。
今、己をベッドに押し倒して見詰める男への、執着めいた純粋な恋慕の情だった。
「どういうおつもりかしら。汚らわしいのじゃなくて」
「ええ、愛と情欲を切り離せないなどと、人間は愚かで汚らわしいと思っていますよ」
さも当然であるとばかりに言うサフィラの赤い瞳が、同じ色をしたアルティアの目を見据えて皮肉めいた笑みを刻む。
全く――。
この男の考えることは一向に分からない。魔女がその表情へ不機嫌を刻み込むたび、氷に覆われた頬がさも楽しげに笑ってみせる。それが余計に気に入らないと隠しもせぬ溜息が尚も男の遊戯に油を注ぐようだった。
「まあ、そういう気分だ――というだけの話です」
お付き合い頂けますかと掴まれる。
――左腕。
反射的に手を払った。驚いたような表情も一瞬、男の唇が喜悦に歪むのを睨み遣りながら、アルティアは左腕を押さえた右の掌を滑らせる。
――外す手袋の下。
露わになる白い肌に、大きく裂かれた傷跡が残っている。
肘から手首にまで渡る傷口を塞ぐ皮膚は未だ白く薄い。罅割れるように周囲の表皮を巻き込み、のたくった腫れを引き起こしているそれが、遥かかつてに刻まれたものであることは明瞭である。しかし傷口を塞がれてなお、剥き出しになった神経は僅かな圧にさえ痛みを伴う。
「なるほど、それで手袋でしたか」
「理由の半分はね。痛いからやめてくださる」
申し訳ありませんと薄っぺらな謝罪が続いた。その笑みを崩さぬまま、少女の上で男が思案する。暫しの後、自身に馬乗りになられて自由を失う彼女の手を、冷えた指先がそっと持ち上げた。
手首の。
傷口を掠る場所に――冷え切った唇が落とされた。
「意味はご存知」
眉根を寄せて問えば、薄青は白々しく肩を竦めてみせる。
「さて、どうでしょうか」
「そういうところ、嫌いよ」
「光栄です」
自由になったのも束の間、再びシーツの上へ押し付けられた左手に、男の行動は迷いない。膝までを覆うビスチェドレスの裾を捲り、冷えた指先で太腿をなぞられて、アルティアはとうとう震えを誤魔化すすべを失った。
所詮は――生娘だ。
「散々男を騙してきておいてこれ・・ですか」
明瞭な恐怖を訴える体をせせら笑う声が鼓膜を打つ。減らず口を彩る笑みだけを辛うじて刻んだ魔女は、しかし声を震わせている。
「体を開かなくても、男達ばかを騙すくらいなら簡単に出来るわ」
「それはそれは。流石は偉大な悲劇作家ですね」
喉の奥で笑いながら――。
サフィラの指が背に回った。ドレスを押さえるリボンをいとも容易く解き、硬直する体に自身の冷えた体温を押し付ける。
そのまま。
太腿に口付けられて、アルティアは再び眉間に皺を寄せた。
「わざとやってらして?」
「そう取られたなら申し訳ありません。貴女の肌が美しいだけですよ」
「取ってつけたようなお世辞はやめてくださる」
溜息と共に頭を押しのけようと伸ばした腕が掴まれた。抑えきれぬ野性味を孕む切れ長の赤い目に睨まれて、彼女は抵抗の方法を忘れた。
それも――刹那だ。
すぐに詰めていた息を吐き出す。乾いた痩せ我慢の笑みを貼り付けて、演者たる己に徹して――。
「こういうときは唇に頂戴」
解放された腕で抱き寄せた唇へ、自身のそれを重ねた。
冷えた感触をなぞるように唇を撫でる焔の魔女と、彼女の熱を払うように撫でやる氷の異形は、同時に息を吐き出して笑った。
「――生娘よ、私」
「おや、それは予想外です。随分誑かしたものだと思っていました」
「貴方のために取っておいたと申したらどうするかしら」
「また貴女は――ご勘弁願いたい。甘ったるいのは嫌いです」
「お菓子は好きなくせに」
普段通りの語り口でようやく心底から笑う。体を起こして痛いほど冷たい身に腕を絡ませれば、辛うじて体を覆っていたビスチェドレスがシーツの上へ落ちた。
「優しくしてくださる?」
「善処致しましょう」
意中の男の頭痛を堪える返答に。
その視界に入らぬよう、少女は笑った。
紛らし - 2(R18)
零れ落ちた髪が鬱陶しかった。
腰まである髪を纏めもせずに、下着までも取り去られた少女に跨る男は、自身の纏う衣服を乱してはいなかった。その幾許かの狡さに子供めいた怒りを示し、アルティアは声を上げる。
「擽ったいのだけど」
「優しくしろと仰ったのはそちらですよ」
一暼のみをくれたサフィラの赤い瞳は、その痛いほどの冷たさを孕む指先とともに、再び白い腹をなぞった。
六百幾年の歳月を重ねても、その体は十八のときと変わってはいない。少しばかり伸びた緑の髪と左頬に走る炎のような契約の刻印以外は、全て氷の怪物が初めて出会ったときと何ら変わらぬ容姿である。
人形の如く整った顔立ち、均整の取れた肉体――。
これを武器にしなかったというのだから、サフィラにとっては信じがたい。現実を至高の壇上とする悲劇作家たる彼女にとってはこの上ない道具であろうに。
触れるか触れぬかの位置で往復する脇腹に、少女がこそばゆげに体を捩る。
少しばかり――生娘だという言葉さえ疑ってかかっていたが、どうやら真実らしい。
目を開いたアルティアの方は、男の端正な相貌を見ることもできずに、視線をただ執事服の方へ遣っていた。たぐまったままベッドから投げ出されたドレスの横に、脱ぎ捨てた上着だけが視界の端へちらつく。
――全部脱がれなくてよかった。
――目の遣り場に困る。
なぞる指先は擽ったくもどかしい。優しくしろと言ったのは本心ではあるが、戯言のようなものでもある。それにこうまでされると交わすべき言葉も尽きてくる。
元より、飾らない言葉でのやり取りは苦手だ。
「ねえ、幾ら何でもそこまで繊細に出来てなくてよ」
「淑女レディからの催促とは、はしたないですよ」
「誰のせいよ。都合が良いときばっかり淑女扱いしないでくださる」
普段都合が良いときばかり紳士扱いするのはこちらだが。
分かったうえでの文句に、果たして返ってきたのは笑声のみだった。獲物を狙うかの如く細めた赤い瞳をアルティアへ向けて、サフィラは幾分か低く声を上げる。
「では」
――遠慮なく。
胸元のリボンを無造作に解く手に視線を奪われているうちに、不意に触れられた頂に声が漏れた。冷えた指先で捏ねられて、吐息が甘くなる頃合いを見計らったかのように、再び腹をなぞられる。先ほどの擽ったさに混じる不可解な感覚にアルティアの意識が追いつくより先に。
下腹部へ手が伸びる。
自身でも碌に触れたことがない。その刺激に吐息へ嬌声を乗せ、荒く息をするまま悩ましげに眉根を寄せるアルティアへ、サフィラは再度楽しげに声を漏らす。
そのまま彼女の耳へ噛み付いた。耳を覆う軟骨の感触で歯が擦れると、少女の体がなおも跳ねる。
「貴女も人間ですね」
言われて。
一つ息を吐いたアルティアが、彼の首へ腕を回した。引き寄せた男の首筋へ歯を立てれば、僅かな強張りとともに鉄の味が溢れた。
さながら吸血鬼ヴァンパイアだと内心笑いながら、口許を汚す赤を舐め取る。ちらと見上げた不遜な赤に、自身の表情が映り込んでいることに、ひどく優越感めいたものを抱いた。
「今は貴方も人間ひとじゃない」
引きつった笑みと。
――思うよりも強い力で。
再び押し倒されて、アルティアの赤い瞳が見開かれる。シーツへ広がる緑の髪に重なるように、サフィラのハーフアップが解けて絡んだ。
その幾束かが魔女の頬を掠める。
「ねえ、擽ったいわ」
「こちらの方が宜しいでしょう」
再び指を秘部へ伸ばしながら――。
何を考えたのか、男はただ、少女の目を見据えた。
「貴女のその顔、私だけが独占できるようで、気分が良い」
一つ。
息を呑んで、魔女の頬が快楽のみでない真紅に染まった。怪物の首筋に滲んだ赤が耐えきれずに零れ落ちて彼女の頬を濡らしていく。普段ならばある逃げ場はシーツと男の腕に塞がれ、ただ赤い視線ばかりが宙を彷徨った。
それを真正面から捉えて、怪訝そうに眉を顰めるサフィラに、アルティアはただ唸るように声を上げる。
「そういうこと、今言うのは、だめ」
「はあ」
ぎゅうと目を瞑ったまま。
林檎のように熟れたまま。
「――もっと好きになっちゃうじゃない」
絞り出すように言う少女に、怪物はやはり、不可解に息を吐くばかりだった。
氷を送る口づけ
体が帰ってきただけ以前のそれよりはましか――。
ベッドに横たえた青い屍を見詰めて、魔女は溜息を吐く。制御のすべを失って生えた氷の角と、死してなお纏う冷気の渦に身を置いて、物言わぬ男の顔を眺めた。
死因は知らない。
いつまで経っても現れぬので暇潰しに街に出たら、男の怪物の骸が上がったとかで騒ぎになっていた。身寄りもなくどこから来たのかも分からず、どこかでその面影を見知った顔は多いのに誰一人として名前を知らず――人を痛めつける冷気は何より気味が悪い。処分するかとなったところを、使い魔だの力を与えた自分の執事だのと理由をつけて、アルティアが引き取ってきた。
嘘は言っていない。演技とはいえ一応は執事という立場で通っていたのだ。尤も、使い魔だ――と言ったのが知れれば、この短気で熱しやすい氷は途端に機嫌を損ねたろうが。
今は全て過去形である。
その魂が再び本へ還ったのか、或いは今度こそこの世から消え去ってしまったのか、アルティアにはそれさえ知れぬままだ。二度目の別離も、一度目の再会があるがゆえに苦ではない。
ただ。
「私が生きてるうちに、もう一回帰って来てくださるかしら」
そればかりが気にかかる。
「貴方が帰ってくるまで、せめてこの本棚だけは、まともな状態で残しておきたいのだけれど」
詰め込まれた悲劇のシナリオは全て、この世を滅ぼすための前段階だ。彼のために書き記したそれらの軌跡を最初からなぞってもらうためにも――この本棚だけは維持せねばならない。
今は彼女の魔術がこの小屋を維持している。定期的に術陣を張り直しているために時を止めているこの場所も、魔女の死とともに時間を止めるすべを失って少しずつ劣化していくだろう。となればあの繊細な紙たちを維持することはできまい。
全く。
一度ならず二度までも――勝手な男である。
大きく溜息をついた。眠るように呼吸を失った横顔が憎らしい。死ぬまで乱さなかった執事服に滲む血も、普段の儚げな白い肌の向こうへ死の蒼白さを湛える頬も、腰まで伸びた美しい薄青の髪も、切れ長の赤い瞳を二度と開かぬ長い睫毛に隠した目元も、何もかも以前に見た寝顔と変わりはしない。
それで。
あのときと同じように唇を重ねる。
「冷たいわね」
一人分の吐息と共に囁いた。残った冷気の余韻も、身を切るような冷たさも、何も。
――何も変わらない。
込み上げてくる熱さに大袈裟な声が漏れる。張り詰めた肩に入った力を抜けば、耐え切れずに震える声が零れた。
「これじゃ生きてるんだか死んでるんだかも分からないじゃない」
焔の魔女の体温に奪われるはずの雫が、男の冷気で形を成したまま伝い落ちる。揶揄う言葉さえ喪った事実が胸に刺さって抜けない。
生まれて初めて――子供のように泣きじゃくりながら、アルティアはただ、その躯に涙をこぼし続けた。
「――勝手に死なないでよ、サフィラ」
今は全て過去形だ。
炎を送る口づけ
馬車に轢かれて死んだだとか、確かそんな話だ。
悲劇作家でありながらひどく凡庸な死である。あれだけの口を利いておきながら死ぬときはこれであるのだから、この魔女にまで成り果てた少女というのも、脆い玩具と何ら変わりない。
「所詮は人間ですか」
勿体ない――とは思う。
五千年以上の時をこの世界で過ごしてきたサフィラでも、これだけ不可解な人間に遭遇したことは一度もなかった。揶揄えば反応はいつでも面白かったし、菓子の焼き加減も理想的であったし、描き出す悲劇のシナリオは、幾百の時を他者の絶望へ費やし続けた彼でさえ舌を巻く。
まあ、つまりは。
気に入った玩具が弾みで壊れてしまった。
並べられた棺の中の一つへ歩み寄る。いとも容易く重い蓋を開いた中に、死化粧を施され、終ぞ一度も着ることのなかったウェディングドレスに身を包み、少女にしか見えぬ魔女の骸が呼吸もなく眠っている。未婚の少女はこうして一番美しい姿で送り出すらしい――と、本の知識に見たことはあれど、彼が実際に目にするのはこれが初めてだ。
伸びた緑髪は解かれている。左の頬に刻まれていた印は、彼女が死ぬなり姿を消したようだった。赤い瞳は固く閉ざされたきりだ。死者の誤魔化しきれぬ蒼白さを覆うように施された生前を模す化粧に、赤い口紅だけが不釣り合いなほど生気に満ちていた。均整の取れた体に纏う白いドレスもまた、彼女が生きていたならばさぞ映えたろうと思わせる。
「思いの外お似合いですよ」
貴女を少女と定義づけるかどうかは置いておくとして。
続けて笑顔を崩さぬまま放つ減らず口に返る言葉はない。静謐な空気に満ちた死者の寝床に、魂のない温度で息をする男の朗々と語る声だけが響く。
返答がないのも、声の反響が眠りを妨げるのも、決してサフィラは気にしない。
どうでもいいのだ。
「まあ、しかし、花の一本でも差し上げるべきでしたかね。それでも貴女は汚らわしいだとか仰りそうなものですが」
ふむ、と唸る氷の異形が、ふと何か思い出したように屍を見た。
腕のいい悲劇作家たる彼女は、その六百幾年の時間のうちに、膨大な脚本を書き溜めている。サフィラとてその全てに目を通したわけではないが、確か読んだシナリオのうち一つに、今と似たような状況があったはずだ。
恋慕する主を喪った使用人。嘆きのうちに祭礼場に忍び込み、物言わぬ女の骸と対面を果たす。
あのときの台詞は――。
「再現して差し上げれば、手向けにはなりましょう」
彼女は作家だ。その命を懸けて作り上げた舞台に、しかし己が登壇することは滅多にない。その主役エトワールの真似事をさせてやろうというのだ。
恐らくそれが一番性に合っていよう。
彼女にとっても――己にとっても。
片手を魔女の頭へ回す。やや強引に持ち上げれば、周囲に飾られた花が散って舞い上がった。その只中に重ねた唇を離して、ルージュの感触を指先で拭う。
黒い手袋に乗る赤が血のようだ。
暫し見詰めて、普段の温もりを失った体から伝わった熱が冷めていくのを、サフィラはただ息を吐いて見送る。
「『愛していました、我が心の主』――でしたっけ、アルティア嬢」
雰囲気で許してもらう他ない。
演じていないものを、そこまでまともに覚えていないのだ。
共に食すこと
口に消える菓子を見る。
ナプキンで拭う口元を茫洋と見やりながら、甘いものは好きなのだよなと思う。六百と数十年前より発展した魔術――或いはそれを魔導科学とも言うそうだが、その中にあってかなり非厳格ルーズになった食のマナーを体現する施設にて、アルティアはさして頼むつもりもなかった大皿を前にしている。
サフィラと街に繰り出す必要に追われたのは数時間前のことである。
被った演技の皮に限界が来るのにそう時間は必要なかった。挙句に約束を取り付けていた商人の方は直前になって予定を繰り下げてきたとなれば、淑やかな令嬢レディと万能な執事バトラーに罅が入るのも当然のことである。仕方なく当座の減らず口を叩ける場所を――と視線をさまよわせた結果、目についたレストランに落ち着いた。
とはいえ。
アルティアは潔癖である。他者が手を付けたものは、たとえそれが意中の男のものであったとしても食したくない。彼女にとって大皿は天敵であるのだが。
「大皿料理しかないならこれも仕方ないのよね」
二人分のトングのうち一方をサフィラへ向けて、息を吐いて食事を睨む。
彼女とて譲歩ができないわけではない。取り分けに各々の箸が使われなければまだ我慢できる範囲ではある。順調に減らした大きなパイはあと一人分だ。
一人分――である。
徐に懐から取り出したコインを男へ向けて、彼女は目を瞬かせる。
「賭けをしましょう」
「良案です。どちらから」
「貴方でいいわ」
ふむと唸った角と鱗を隠す氷の異形は、普段から纏う冷気を人間の体温にまで引き上げている。少女を装う魔女の手元で弾かれる時を待つ騎士の描かれた小さな円盤を見据え、指さして一つ。
「――表」
「じゃあ裏ね」
甲高く無機質な音を立てて、運命が宙を舞う。
机に伏せたそれを即座に隠すように覆ったアルティアの白手袋が開いて――。
「では私が頂きましょう」
上機嫌な男の口にパイが消える。
膨れっ面の魔女の方は、表を向いた騎士を乱暴に懐に仕舞い込んで、残るケーキをちらと見遣った。
――パイをやったのだからと言うのは簡単だが。
それも癪である。指させば口を動かすサフィラの方も意思を理解したようだった。さて次はどうするのかと問う切れ長の赤い瞳に、垂れ目がちの同じ色をした眼差しは、真剣な表情で腕を持ち上げる。
「最初はグー」
「子供っぽいですよ」
「コインは癪だわ」
言えば男が溜息を吐く。それでも持ち上がる黒手袋は、彼が彼女に付き合ってやるとの明確な意思表示だ。
それで弾んだ掛け声を上げた。
「じゃん、けん、ぽん」
開かれた白に対し、黒は握られたままである。
「頂くわ」
先ほどまでの不機嫌を笑みに塗り替える彼女の代わりとばかり、先刻の機嫌を損ねたことを隠しもせぬサフィラが吐息を漏らした。
口に入れた生クリームが舌の上でとろけて甘みに変わっていく。噛むスポンジはほろほろと崩れて形をなくした。声にならぬ声で美味を表現する少女に、男の方は最後に残されるタルトをちらりと見た。
「お言葉ですが、アルティア嬢」
「何かしら、サフィラ」
名を呼ばれた執事が手にした切り分け用のナイフを弄ぶ。曲芸さながらの軌道で手元を行き来するそれに目をやりながら、さして驚いた様子もなく、令嬢は首を傾げる。
「最初から分ければいいだけではございませんか」
「半分こ」
「――その言い方をされると気が進みませんね」
「私も嫌よ、他人とものを分け合うなんて」
今でさえかなり我慢している。
相手がサフィラでなければ、彼女はとうにここを出ているところである。彼であるからこそ大皿も許しているというのに――。
頬杖をつくアルティアに、ナイフの柄が向けられた。幾分か執事としての表情を取り戻しつつある男が、それでしたらと笑って見せる。
「お好きに分けてください」
好きに。
――と言われても。
渡されたナイフとタルトを暫し見比べる。ちらと見遣ったサフィラの視線は既に別の方向へ逸れていた。どうやら本当に興味がないらしい。
それで遠慮なく刃を入れる。
「そういうときばかり律儀なのは何故です」
「性分よ」
ちょうど等分したタルトの片割れをトングでつかんで、アルティアは笑った。
誕生日
九月も半ばを過ぎた。空も高くなって雨が増えてくる時期だ。
四季という珍しい概念を持つこの国において、ことにその彩りが顕著な森の奥の小屋だ。どこからか漂う金木犀の甘い香りを窓から眺めた魔女がふと室内を振り返った。
「貴方の名前の由来って何かしら」
唐突な問いかけに、男の方は手にしていた脚本から目を離して眉根を寄せる。さも面倒そうに息を吐く氷の異形がさあと声を上げた。
「詳しくは知りません。この体の元の主と、適当に捲った書物にあった宝石の名前を借りただけです」
「ああ、なら蒼玉なのね」
「ザッフィーロ――ですか」
「こっちではそう呼ぶのよ。どこだったかしら、ジャールの近くではサフィラって言うとか聞いた宝石。持ってるわよ」
そう言って、サフィラの返事を聞く前に窓辺から手を放したアルティアが木目を歩く。鼻歌を歌いながら机上に置かれた宝石箱へ手を伸ばす。
凍てつく視線の方は終幕に粗く目を通して脚本を閉じる。稀代の女性悲劇作家へ、自身の要望通りに書かせたそれの実行法を整理しながら、緑の髪が上機嫌に揺れるのを見つめていた。
ややあって――。
「あった」
白手袋が摘み上げた深い青が、窓から差し込む木漏れ日を反射して光る。丸く丁寧に磨かれた石の中で海が揺れている。
天井へ翳されたそれを切れ長の赤い瞳が追った。
「美しい石ですね」
「でしょう」
心なしか自慢げに胸を張ったアルティアが笑う。凍てつく大気の前に用意した椅子へ腰かけて、机に肘をつきながら、彼女は手中の深海をその名を冠する男へ向ける。
「最高級品よ。使えるかと思って家から拝借したの」
差し上げましょうか。
悪戯っぽく問われれば、サフィラは再び眉間に皺を寄せた。
「結構です」
「そう? もしかしたら守ってくれるかもしれないわよ。貴方、誕生日はいつ?」
「要らない物は覚えておりません」
そもそもあったとして五千年以上も前の記憶である。いちいち律儀に記憶して己の歳を数えるなどという無駄な行為に価値は見いだせない。
首を横に振って足を組む横柄な態度に、家の主は慣れたように微笑んで見せた。被った淑女の薄皮に皮肉を透かして、その赤い瞳が同じ色をした怪物の目を捉える。深海の石を透かして、紫に光る片目が瞬いて見せた。
「それは寂しいことだわ。じゃあ私が誕生日を差し上げましょう。今日ね」
急な――。
言葉に、さしものサフィラも目を剝いた。溜息に似た呆れの吐息を吐き出してから、誕生日おめでとうと手を叩く機嫌のいい魔女を睨むように髪を掻き上げる。
「急にそう言われても、誕生日とやらに何をすればいいのかさっぱりですね」
「歌ってからケーキを食べればいいのよ。今日のところは私が焼いて差し上げるわ」
「これからですか。脚本ももらったことですし帰りたいのですが」
「芋よ?」
「――承知しました、お付き合いします」
いつもの通りである。思わず会心の笑みを浮かべたアルティアが、腰かけたばかりの椅子から立ち上がる。
先日から秘かに練習を続けていたケーキスポンジと生クリームを披露できるのだ。
手慣れた様子でエプロンをつけてから器具を取り出す。食糧庫とした箱から材料を選んで持ち上げた。卵を割りながら振り返った男の目に、ひどく機嫌のいい赤が笑いかける。
「ザッフィーロって九月の守護石なのよ。持ってれば守ってくれるかもしれないわね」
「石如きに守られるとでも」
肘をついて息を吐く男の黒手袋が、青い石を持ち上げて転がす。
確かに――これだけ見目にも価値が高いものなら、貧困からは救ってくれるだろうが。
生憎サフィラはそのような状況に陥る予定がない。そもそも貧困であって困るようなこともないのだ。
「分からないわよ。事実は小説より奇なり――とか言うじゃない」
奇跡や偶然でも守ってくれることはあるかもしれない。
卵黄を取り分けながら魔女が言う。一段落したのか、大きく呼吸をした肩越しに、ちらと怪物を一瞥した横顔がそれじゃあと声を上げた。
「じゃあ誕生日プレゼントにしましょうか。誕生日にはね、贈り物をするのよ」
「必要ありませんよ」
「実利主義も行き過ぎると毒よ。そういうしきたりだと思ってくださる」
有無は言わせない気らしかった。手元に転がる青を再び掬い上げ、サフィラは息を吐く。
それが了承の合図であると、アルティアの方はよく知っている。スポンジを焼き上げるための炎を手元に生み出して、ひどく上機嫌に、彼女は彼を振り返った。
「お誕生日おめでとう、サフィラ」
「ありがとうございます、アルティア嬢」
視線が合うのは一瞬。
アルティアが製菓に戻るのと、サフィラが己の名の石をしまい込むのは同時だった。火力を調節するまま、少女は歌うように続ける。
「私は翠玉が好きね。来年はそっちを差し上げるわ」
「結構です。これ以上石ころを増やしてどうしろと仰るのです」
にべもない返答に笑って。
少女は男の誕生日を祝う歌を口ずさんだ。
再会のこと
騎士を装う男を見る。
サフィラはA-Clubに所属する騎士――氷虚騎士である。その完全に装われた外皮を、同経営者によって営まれる別館A-Club Girlsの聖女――炎偽聖女たるアルティアは、所作の一つさえ見逃さぬようつぶさに見据えていた。
腰まで伸ばした薄青の髪を結ぶ紫のリボン。隠しもしない異形の証が頬を覆い、その先に生えた角から冷気が漏れ出でる。女性的な美貌の中にも筋張った手の甲を黒手袋が覆っていた。右のポケットに挿した風車は、どうやらその凍えるような大気で凍り付いている。
装いを見ているうちに、赤い切れ長の目がちらと見た。
浮かべた皮肉めいた笑みを隠しもせぬ癖に、彼は客の――乙女の前ではひどく紳士的な男であるらしい。
だから、アルティアも容赦はしない。
「貴方の衣装って何か足りてないわよね」
切り裂くための言葉ナイフを白手袋で覆った指とともに向け、彼女は彼とよく似た笑みを浮かべて見せる。
眉根を寄せた男は、額に手を当てながら息を吐いた。
「相変わらず失礼なことを仰る」
「だって何だか物足りないのよね――見慣れないっていうか」
言いながら。
繊手が指すのは胸元である。空いたそこにどうにも違和感が抜けない。
曖昧な感情を眉根に表し、引き結んだ口元で無遠慮に胸元を見据えるアルティアの視線を、サフィラの赤がちらと一瞥する。怪訝に寄った眉で心底不思議そうに首を傾げた。
「貴女と会ったときからこの格好でしょう」
アルティアの――。
指先が止まる。軽く見開いた赤い瞳を覆うように、緑の髪が揺れた。
「そう――だったかしらね」
「大丈夫ですか。人の身で長く生き過ぎて脳が先に腐ってしまったのでは?」
「貴方の方がよっぽど失礼でなくて」
騎士の癖にと唇を尖らせて、彼女は手にしたバッグから小箱を取り出した。無造作に手渡されたそれを無遠慮に開けた指先がああと声を上げる。
髪留めと同じ赤を帯びた紫のリボンである。フリルのようになった布の中央へ、丸く深い緑の――。
「翠玉ですか」
「差し上げるわ。ないよりは様になるわよ」
言って笑ってみせる聖女に、あくまでも騎士は冷淡だ。
「結構ですよ。アクセサリーならこちらで選びます」
――そのくらいは想定内である。
慣れたものだと笑いながら、アルティアはならと喉を震わせた。
「誕生日プレゼントにしましょう」
「は?」
「今日でしょう、誕生日」
「確かにそんな記憶はございますが――」
サフィラは既に長く時を生きている。その中で不要なものは切り捨ててきたはずが、何故覚えているのかもわからぬ誕生日だけは、確かに九月の半ばを過ぎた頃合いであると鮮明に記憶していた。
が。
「何故、貴女がご存じなのです」
教えた覚えはなかった。
再び聖女が動きを止める。その動揺にぶれた素顔が、即座に息を吐いて皮肉の仮面を被りなおした。
男の手にある贈答品を一瞥して笑声を上げる。
「――前に教わったわ」
「そうでしたっけ」
「そうよ」
だから受け取ってくださる。
「それともお気に召さないかしら」
「――まあいいでしょう。頂いておきます」
サフィラの返答に、アルティアはひどく楽しげに笑う。緑の髪を流して、戴いた小さな王冠を直して、安堵さえ織り交ぜた吐息がその喉を通り抜けた。
よかったと。
どこか解放されたような面持ちが、赤い瞳を無邪気に彩って、少女の双眸に宿る光を和らげる。
「――ようやく約束が果たせたわ」
その呟きにも似た言葉に眉根を寄せたのはサフィラの方だった。
「約束などした覚えはございませんが」
「こっちの話よ」
ひらりと手を振って笑う。長い睫毛の下に赤い瞳を隠したアルティアは、少女めいた悪戯な光をひらめかせ、男に手を伸ばす。
「つけて差し上げましょうか」
「結構です」
息を吐いて首を横に振る異形が、手にしたリボンを暫し見る。
その濃緑に薄青を映しながら――。
「自分でやりますよ」
持ち上げた端を首に回す表情に、少女はひどく嬉しそうに笑った。
「そう!」
別離のこと
夢幻は夢幻のままだ。
今宵こそ確かに存在した館たちは、夜明けとともに再び辿り着き得ぬ幻想と消える。乙女や紳士は何れ再びどこかに開く一夜を心待ちに、また騎士カヴァリエーレと聖女ストレーガもあるべき場所へあるべき姿として戻っていく。刹那の逢瀬に心躍らせ、明ける空を嘆きで睨むのは――。
何も客ばかりではない。
炎偽聖女を戴く少女にも、その身に纏った一夜のヴェールを剥ぐ時間が訪れる。滲む朝焼けを前に取っ組み合いでもするかのように出ていく少年たちと、きりきりと眉間に皺を寄せる少女を鷹揚に笑う男の背と、一仕事終えたとばかりに伸びをする少年が視線を向けた先の弾む足取りで赤のドレスを揺らす少女の笑みと、ただ静かに歩き去る白と薄青の少女たちを見送りながら、彼女は静寂の戻った館に残る男を見やった。
氷虚騎士。
――と、ここでは呼ばれた。
その胸元に最後まで翠玉ズメラルドが輝いていることに安堵する。図らずして彼に遺してしまった呪縛の証で、ようやく果たされた約束の印でもある。
忘れて――。
欲しかったのだ。こんな頓狂な女がこの世にいたことも、六六六年にも及ぶ氷の荊の呪縛がそこにあったとことも、芝居がかった口ぶりも、ただあの小屋に残った世界破滅の脚本シナリオの山を除いた全てを、アルティアという悲劇作家が存在した痕跡を。
それでもあのとき、自身が気まぐれに発した誕生日を覚えていたことが、ひどく嬉しかった。この怪物の心に一つでも掻き傷を残しておけたことが何よりも――。
悲しくて。
アルティアはここから動けない。
ただいつかのまま、彼が彼女をにべもなくあしらうだけだったら、さっさと館を後にしていただろう。元ある場所へ帰らねばならない。ここは夢の中だったのだと、泡沫の邂逅に苦笑を残して立ち去れた。
それなのに――彼は。
彼は彼女の見る夢ではなかった。或いは夢であるがゆえに都合がいいのか。とうに断ち切ったはずの未練が、不意に揺らがされて余計に強くなった。
それでも夜は明けていく。白み始める東の空を睨むように、開け放たれた館の扉の向こうを見遣って、彼女は重い足を前に出す。
帰らねば。
――還さねば。
もうとうにこの世のものでなくなってしまった身を。
「一夜の夢もお終いね。儚いものだわ、悲劇もそんなものだけれど」
手を振って見せながら、振り返ることはしない。薄氷の面影に触れれば苦しくなるだけだ。せめて最後まで意地を張り通して、あの異形の知る悲劇作家アルティアでいたかった。
「アルティア嬢」
足が止まる。
もう二度と呼ばれないはずの名だった。込み上げる声を堪えて、その表情に聖女の仮面を被りなおして、彼女は笑う。
「何かしら、サフィラ。貴方が声をかけるなんて珍しいわね」
「最後のご挨拶くらい、まともにしておいた方がよろしいかと思いまして」
怪物の赤い眼光は揺らがない。芝居がかった悲しみと寂寞は大仰すぎて薄っぺらい。さようならと、彼女には理解し得ぬ彼の母国語で紡がれるであろう音は、恐らくその意味を伝える気など全くないのだ。
――それでいい。
そちらの方が彼らしい。
笑って、館の外に出るその刹那で振り返る。一歩でも足を引けばこの夢は終幕を迎える。躰を喪い魂だけで迎えた最期の逢瀬へ、もう二度と戻れはしない。
近づく薄氷が朝の光に輝いている。目が痛くなるような美しさに目を閉じる彼女の背へ手を回し、男は少女へ唇を重ねた。
触れるだけでいい。
その冷たい温度へ、今度こそ最期の熱を刻み付ける。離れると同時に開く赤い双眸たちが笑った。
「さようなら、アルティア嬢。お元気で」
「さようなら、サフィラ。幸運を」
――今度こそ言えてよかった。
突き飛ばすように氷の胸を押して、焔の華は朝日に溶ける。
永遠に分かり得ぬ神よりの幸福を投げつけるまま、王冠だけを遺して、薄桃は走り去った。
飴玉
飴玉を転がす。緑と青などとこれまたひどく悪趣味な色を選んだものだ。
執事さんと揃いだよ――と気のいい商人が薬の代金とともに渡してきたことに心躍らないわけではなかったが、どうにも緑も青も食欲を掻き立てる色ではない。どうせ薄く光を透かすなら宝石にでもすればいいのだ。
西日に透き通る菓子は、それでも口に放り込めば甘かった。鼻腔を通り抜ける香りが、外から流れてくる金木犀に似た優しさで舌の上を転がる。
アルティアとて感性は未だ少女である。
甘いものは好きだった。着々と発展する菓子たちは眺めるだけでも心を持ち上げてくれる。さて今日は何にしようかとショーケースへ指先を這わせる瞬間がたまらなく心地いい。
のだが。
眼前の男の方は眉根を寄せたままだった。
「美味しいわね」
「甘ったるいだけです。こんなものの何が良いのか、理解に苦しみますよ」
その表情をつぶさに見つめておきながら、魔女が発するのは美味を強調する言葉ばかりである。思惑通りますます歪んだサフィラの整った眉根が息を吐いた。
彼はさして甘いものが好きなわけではない。普段から菓子を食すのは単にその素材である芋を愛しているが故で、更に言うならこの魔女の不器用な味付けが、かつてこの体の主だった少女の味覚を的確に捉えるためだ。
食べきれないから付き合え――その後にケーキを、と契約を迫られ、半ば強制的に口に放り込む羽目になっているが、これだけ甘みが強いと次の質素な味わいが麻痺しかねない。不愉快に眉間の皴を深くしながら、氷の異形は上機嫌に飴玉を転がす魔女を見る。
「こっちは美味しいわよ」
「それは何よりです」
「交換してみる?」
結構ですと。
そう紡ぎかけて、薄青はふと赤い瞳を緑へ向けた。口の中で溶ける青い飴玉が舌の上にべたつくのを煩わしげに転がしてから笑う。
「よろしいですよ」
立ち上がるまま、予想外の返事に目を丸くするアルティアへ歩み寄る。手を引けば簡単に椅子から離れた軽い体を抱き寄せた。
慣れた調子で重ねた唇に――。
果たして魔女の方も淡白だ。何でまた機嫌が良くなったのかと呆れめいた色を浮かべた赤い瞳が、ごく至近距離に男の赤を捉える。
舌の上の宝石を押し出すように。
交錯する互いの舌に、麻痺した感覚が新たな甘みだけを強調する。舌の上で溶けるそれを敢えて喉奥に押し込もうとするのも互いに同じだ。呼吸が詰まって困るのは魔女が先で、怪物の纏った執事服の胸元に皺が寄る。
本当に飲み込んでしまわぬうちに離れた唇から繋ぐ銀糸を舐め取るのは同時。それきり胸を押して離れようとした少女ごと体を翻し、男は彼女を壁と腕の内側へ繋ぎ止める。彼女がその意図を理解する間もなく、背に回った黒手袋が薄桃のビスチェドレスを支える紐を解いた。
眉を顰めるのはアルティアである。
「せめてベッドに運んでくださる」
頬に移した甘い宝石が膨らむ子供の駄々のようにも見える。その表情に余計に気分を良くしたサフィラが首を傾げた。
「お気に召しませんか」
「寒いし汚れるじゃない。それとも貴方が片付けてくださるの」
雪が降るほどまでにはならずとも、肌寒くはなってくる。そのうえ日が高いわけでもない。
気が乗らない――。
率直に口にするのは簡単だ。そうであるが故に言葉を飾る。人形めいた美貌で笑いながら嘯くのは、作家兼女優ぶたいやくしゃとしての性だった。
しかし、そうあるがため、意図を汲み取れぬ愚者の振りをするのも簡単だ。笑いながら再びその顎を引き寄せて、触れ合わせるだけのキスを送る。
その意味が分からぬ彼女ではなかろう。
果たして思惑通りの驚愕と顰蹙を浮かべた瞳が、口元を引き結んで幾分か低く声を上げた。
「――ちょっと」
「始末は請け負って差し上げましょう」
「珍しくて虫唾が走るわね」
性欲は汚らわしいのでなかったの。
さも気分を害したとばかり、鼻を鳴らす高慢な態度が余計に面白い。良心を捨て家を捨て、とうとう人の身さえも半ば失って尚、その心にある人間性は揺らがないのだ。
「そういう気分です」
小さくなった口内の緑を噛み砕く音とともに、腕を覆う白手袋を外されて、観念したとばかりに抵抗をやめたアルティアがちらと整った相貌を窺った。
――意味が分からない。
相変わらずだと一笑に伏せばそんなものか。言行の一致せぬ男である。機嫌と気分で己の全てを覆してしまうから、どうにもいつも掴みあぐねる。
思案は長くは続かない。黒い手袋に覆われた凍てつく指先が、内に飼う魔導の熱を払うように素肌に触れれば、途端に息が甘くなる。
それに気を良くするのは男の方だ。喉の奥で笑声を立てながら、彼女の瞳を覗き込んで、嘲りの色さえ浮かべた切れ長の赤が声を上げる。
「随分と慣れたものですね」
「誰のせいよ」
憎々しげに睨む目も潤んでいてはどうにもならない。とはいえ、背筋を駆ける否応のない期待を刻み込んだのは紛れもなくこの男だ。何しろ彼女は彼に抱かれるまで口付けを交わしたことさえなかった生娘だ。
恨みがましい視線に、サフィラは尚も笑みを崩さない。口の中に残った甘い破片を溶かして、べたつく己の口腔に舌を這わせると、そのまま少女の胸元へ唇を落とした。
――一から何もかもを刻むのも、それはそれで心地がいい。
「アルティア嬢」
指先が滑るたびに漏れる引き攣った声を堪えようと、アルティアが噛む己の指先に、サフィラの指が絡む。自身より二回りばかり大きい冷えた手に心臓が高鳴るのを抑えつけて声を上げた。
「何のおつもり」
「噛んではお怪我をなさいますから」
「――気紛れな人」
再びの深い口付けを、彼女が拒む理由はなかった。
ただ。
珍しいとは思う。
それもすぐに溶けて消える。脇腹から腰をなぞる凍えた温度と、口腔を這う飴玉の味をした舌が、彼女の口に残った残滓を舐め取って溶かした。その感覚に朦朧とぼやける意識に、唇を離した男が低く呟く声だけが残る。
「甘ったるいですね」
――金木犀の香りがした。
二月十四日の蛇
芋じゃないわよと、少女は開口一番に目を細めた。
「お暇させて頂きます」
「ちょっと」
家に入るなり踵を返すサフィラの執事服の裾を掴んだアルティアの瞳を、零度の視線が射貫く。遁世的な深い赤を見返して、彼女は口腔に溜まった文句を思い切り吐き出した。
「平時ならともかく、バレンタインよ。甘い芋を使ったお菓子はあるみたいだけど、この辺の芋がチョコに合うわけないじゃないの。店売りだと嫌な顔するし。貴方の好物を俗世の催事イベントで踏み躙らない良心に感謝してほしいものだわ」
「貴女に良心などとまともな情動が残っていたことに驚きを禁じえません。そのようなことに言葉と時間を費やしていないで、さっさとそこの白紙を埋めるがよろしい」
「折角心を込めた乙女の愛の告白にとんだ態度ね」
「愛を囁くなら鏡に向かって仰る方が有意義ですよ」
――にべもない。
そういう男である。話は終わりかとばかりに再び家の敷居を跨ごうとする足許へ、容赦なく炎の術式を打ち込めば、氷の魔導は前進を止めた。
振り向いた眉間に皺が寄っている。
「――とんだ乙女で」
「受け取りもしない貴方が言わないでくださる」
睨み上げた先の眼差しはひどく面倒そうである。悲劇、ひいては人間の絶望にしか興味関心を示さぬサフィラにとってみれば、何かにつけて催事を実践しようとするアルティアの気質は面倒極まりないだろう。彼女も平時はそれで構わぬのだが。
いいじゃないか――とも思う。
どんな経緯を辿ったにしろ、今日は恋する乙女の祭典だ。相手は確かに御伽噺ばけものだが、彼女もまたその主役の一人である。
普段は登壇せずに裏方仕事をこなしているのだ。たまには華々しい主役の気分も味わいたいというのは至極当然の欲求といっていい。
――だから、今日ばかりはすげなく扱われることを承知でチョコレートを用意した。
「別に受け取れって言うわけじゃないわ。一口齧っていってくれればそれで納得するから。貴方だって芋しか受け付けない繊細な体をしてるわけじゃないでしょう」
「随分と本日にご執心のようで。そういった殊勝なことを貴女が仰るときは大抵が余計に面倒な事態になることをお忘れで?」
「よろしくてよ、そこまで言うならもっと面倒なことをしても」
赤い蛇の瞳にちらりと黄色の光が走るのを見て、サフィラの表情がますます歪んだのを視界に捉える。
今日に限ってはそんな顔をさせるつもりはないというのに――。
つくづく、この男は思い通りにならない。
「――承知いたしました。有難く戴きましょう」
「ええ!」
観念の溜息を吐いたサフィラの手に、綺麗に包装された小箱が乗った。
出逢ったもの
見知らぬ男に声をかけられたのは、路地の裏で場面転換の機会を伺っていたときだった。
「アルティア・パンドルフィーニ様でお間違いないでしょうか」
「ええ、そうですけれど。ご用事でも?」
返答に迷いは見せなかった。幾ら容姿を知るものを排したとはいえ、下手に誤魔化すのは得策ではなかろう。
その代わり——。
アルティアの目は不審を孕んで男を見据えた。
格好に受ける印象を言葉にするなら、ごく完璧な執事である。マギッテリの嫡男付きだと言っても通るだろう。腰まで伸びた薄青の長髪の下で、切れ長の赤い瞳が人当たりのいい弧を描いている。ともすれば女性的にも見える端整な顔立ちをしているが、高い背丈と引き締まった体つきを見て、女だと思う者はあるまい。
乱れの一つも許さないとばかり、丁寧に着込んだ燕尾服と黒い手袋から察するに、彼も彼女と同じ人種だろう。腰の低い所作にも漂う気品は従者というよりむしろ主人に近い。
総じて——不自然なまでに理想的だ。
好ましいものにこそ嫌疑を向けるのがアルティアという女である。警戒を隠そうともせぬまま、後ろ手に炎の陣を描いて魔力を込める。幾ら人目がないとはいえ、一般人を装う彼女にとって市街地で魔術を使うのは本意ではないが、だからといって舞台の半ばで命を投げ出すつもりはないのだ。
少女の不審を心なしか上機嫌に見遣る男の方は、我が意を得たりとばかりに手を差し伸べてみせる。
「ここでは貴女様にも不都合でしょう。僭越ながら場所を移させていただきます」
言って——。
指を鳴らした彼の周囲から時空が歪む。動揺で弾けた指先の術陣に内心で悪態を吐いて、アルティアは半ば諦観に近い面持ちで眼前の男を睨んだ。
——転移魔術。
発動のために莫大な魔力を要する術式である。並の魔術師では発動すら叶わないだろう。比較的魔力量のある貴族の出身であったとしても、複雑な陣と長大な詠唱なしでの制御は難しい。
それを片手一つで使われたのでは——。
彼女が敵う道理はないだろう。
空間は形を変えていく。男越しに広々とした庭園が見える。快晴に照らされる眼前には、周到にもティーテーブルとスコーンが準備されている。
抵抗の意思を弱める目当ての少女の様子をよそに、男は折り目正しい一礼とともにゆったりと笑んでみせた。
「——さて、申し遅れました。私はサフィラと申します。ご覧の通り人間ではございません」
サフィラと名乗る男が、頭の左側に生えた氷角を指差して言う。下がり始めた温度に体を震わせる人間を前にして、彼は穏やかな微笑で自らの敵意を否定した。
暫し目を瞬かせていたアルティアは一つ息を吐く。冷えた大気を白く割るそれに唇が弧を描くのを止めようがない。本名を口にされたときにはとんだ闖入者だと思ったが——。
——面白いじゃない。
「私の命運、ここで尽きたり——と言ったところかしら」
「とんでもございません。貴女の悲劇作家としての名声は聞き及んでおります。是非とも私の織りなす舞台にお力添えを頂きたく、参じたのですよ」
「あら、嬉しい報せですこと。魔なる境地にまで私の腕が轟いたというなら、こんなに素敵なことはありませんわ」
少女らしく無邪気に小さく笑うのは本心だ。
未だ見ぬ人を超越した存在が、他ならぬアルティアの腕を見初めたと言うのだ。貴重な褒め言葉は素直に受け取っておかねば、彼女が次に浴びるのは演者からの罵倒なのだから、心が荒れる一方である。
名を——名乗る必要はないかと断じて、彼女は手にした本を開いた。あらかじめ術陣を描いてある中から目当てのページを千切って虚空へ投げる。簡単な詠唱を一つ吐き出せば、紙は執事の手元で一冊の本に変わった。
装丁は簡素で気に入ってはいない。活版でないからメモ書きも溢れていて、到底人に見せられるようなものではないが——。
そもそもアルティアのみが知る、現実を舞台にした脚本である。人に見せること自体を想定していない。
「こちらは?」
「初対面の少女に大事な舞台を一任するだなんて賭けは避けたいことくらい、存じておりますわ」
「これはご丁寧に。話の早い方で助かりました。有り難く拝見させて頂きます」
言ってにこやかに礼をしたサフィラがティーテーブルに脚本を置く。代わりに手にしたティーポットの向こうで、彼は笑った。
「紅茶でよろしいですか」
「ええ。ありがとうございます」
そうして出てきた紅茶を手に——。
アルティアはページを捲る手をつぶさに観察する。
俄かに真剣みを帯びる眼差しは、なるほど確かによく見た演者のそれだ。端々の言動の不自然さをも完璧にしまい込むあたり腕はいいのだろう。
まあ——。
アルティアの脚本を求めて来たというのだから、そういう存在であることに間違いはない。
口をつけたティーカップがひどく冷えていることに顔を顰める。サフィラというらしい男の纏う冷気は人間には酷だ。気付かれぬように小さく零す詠唱で体を覆い、体温を守る薄膜で意識を繋ぎとめる。
全く自分本位な相手であることが重々に理解できたところで、彼はアルティアが思うより朗々と声を上げた。
「——中々の脚本です」
その言葉で。
彼女は発するべき台詞を全て失った。込み上げる笑みを隠すこともできず、得体の知れぬ男から協力者へと変わった眼前の魔物を見据えて、ともすれば立ち上がってしまいそうな心を抑え込む。
本当に——と口を衝きかけた無邪気な子供を押し殺し、彼女はティーテーブルへ肘をついて、浮かれる声音で笑ってみせた。
「光栄だわ」
「こちらこそ、良い物を読ませて頂きました」
気になるページでもあったのか、幾度か捲る指を離して、サフィラは閉じた本をアルティアへ向ける。受け取る白手袋を暫し見詰めた紅玉がふと声を上げた。
「差し出がましいようですが、アルティア様はお若いように存じます」
「そうね。今年で十九になるかしら」
「ああ、そのお年でこのような脚本が書けるとは。将来が楽しみです」
和やかな笑みと弾む声音は、浮つく心にもやはり不自然である。
その皮の奥を知りたくて——。
アルティアは取り出したペンの切っ先を彼へと向けた。
「貴方も——別にそう、隠すことはなくてよ。私の脚本の意図を知って、それでも欲しいと言うのだから、相応の人間でしょう」
小首を傾げる少女に目を見開いた男が、ふむと一つ唸ってみせる。逡巡というよりは間に近い沈黙を挟んで、サフィラは長い睫毛を瞬かせた。
「そうですか。では遠慮なく」
先までの笑みを消して腕を組む。右足を持ち上げて左足の上へ遣ると、あからさまに眉を顰め、不快を明らかにした彼は吐き捨てるように声を上げる。
「私を人間と同列に語らないで頂きたい」
棘を孕んだ言葉を受けて、アルティアは尚も笑う。脚本を褒められたときよりも何故か気分がよかった。美しい顔立ちに明らかな攻撃の意図が滑稽なほどよく映える。
——なるほど。
——それが本性なのね。
「いい顔だわ」
「光栄です」
今度こそサフィラの声に感情はない。さもどうでもいいとばかりの相槌を受け流し、彼女は先程から気になっていたことを躊躇なく声にした。
「それと、アルティア様はおやめくださる。様付けにいい思い出がないの」
その要望にはひどく素直である。指先で顎を撫で、彼女から目を逸らし、暫し思考したのちに、思い付いたかのように赤い瞳を見据えた。
「ではアルティア嬢と」
「よろしくてよ」
呼称はアルティアの中によく馴染んだ。何度も心に刻みつけ、高まる鼓動を抑えるように笑みを描く。
弾む声の理由も分からぬまま、初めて得た感情の名など知りもせず、指先に灯した炎を翳して、彼女は無邪気に笑う。
「ところで、その角って溶けたりするの?」
——それを彼女は、いつか恋と呼んだ。
射影
不意の閃光で眼前が眩む。一瞬ののちに黒く残像を映して消え去る白の向こうの少女へ、サフィラは眉根を寄せた。
「急に何なのですか。眩しいですよ」
水晶体の向こう側に笑う紅玉が、見るからに複雑そうな魔導科学の産物から目を離し、悪戯めいた光を宿して上目に彼を見た。悪びれもせぬアルティアの瞳は、薄青を捉えて小首を傾げる。
手にしたタルトを置いて眉間を揉む氷の魔導から少女が視線を外す。
「ごめんなさい。まだ使い慣れてないの」
魔女が片手で振るのは小箱に似た機械である。丸く伸びた筒の先にガラスが嵌っている。再びその先端をこちらへ向けて何やら試行する彼女に、知らずサフィラが溜息を漏らした。
「六百と――何年でしたっけ。長く生きすぎて脳が駄目になってしまったのでは?」
「失礼ね。機械これが苦手分野なのは否定のしようがないけど」
悪戦苦闘しながら拗ねたように声を上げた。
鬱陶しげに払う緑の髪が揺れる。
その口で、アルティアはそれを商人から買ったのだと言った。アンティークばかりを取り扱う骨董商だったと記憶していたが、何に使うのかもわからぬ錆びた歯車の中に真新しいそれが目について手に取ったのだという。
曰く。
「写真機っていうらしいのよ」
「どういったもので」
「姿をそのまま記録できるみたいよ。映ったのは写真って言うんですって。真を写すで、写真」
中空をなぞりながら字を書いた白手袋の指先が笑んだ。朗々と歌うように紡ぐ言葉に冷徹なまでの赤が息を吐く。
全く――意味が分からない。
「それで、何故私に向けたのです」
「撮ろうと思って」
「とる?」
「写真は撮るものって言ってたから」
言って裏返された最新式の箱の先。
小さな画面の中に、タルトを手にしたサフィラがいる。突然の閃光に目を見開き、強烈な白光へ眉を顰めて、氷の角を生やした執事服が固まっていた。
「いい顔ね」
「やめて頂きたい」
至極上機嫌に相好を崩すアルティアの表情を見ては不愉快を刻む。再び向けられたレンズが今度は光を放たずに無機質な音を立てた。
ますます溜息を深くする男の眉間の皴に尚も笑声を上げ、魔女は手にした魔法の箱を指さして見せる。
「面白いのよ、これ。ここのボタンで写せるの」
それで――。
サフィラがいつもの笑みを取り戻した。繊手の内にある小箱に手をかけ、彼女が声を発する前に取り上げた。
そのまま翻して。
――無機質な機械音が響き渡る。
「ちょっと」
「いい顔ですね」
意趣返しのつもりで画面を見せる。机に肘をついたまま、垂れ目がちの赤い瞳を丸くして、口を僅かに開いた少女の姿がある。今は不機嫌に塗り替わったそれが永遠に残るというのなら悪くはない。
「確かに中々面白い玩具です」
幾度か連続でボタンを押せば、冷え切った黒手袋を白が遮った。
先程まで機材のうちで驚愕の表情を見せていた少女が不愉快で頬を膨らませている。
「私のものなのに私の写真ばっかりあってもしょうがないじゃない。返してくださる」
「私が貰って差し上げてもよろしいですよ」
「嫌よ」
折角の玩具を。
戯れるかの如く機械を狙う指先を避け、水晶体を向けるまま機械音だけを響かせる。小箱の中へ少女の数知れぬ憤慨と不機嫌が刻まれて、ようやく彼女がサフィラの手を掴んだときには椅子を蹴倒していた。
上目に睨む表情にもう一度指先を沈めた彼がせせら笑う。
「折角、被写体としては完璧なのですから、黙ってそこに座っていてください」
「そっくりそのまま貴方に返すわ。見た目だけなら麗しい紳士なのに」
どこを押したか――。
奪い去られた小箱が、再びサフィラの目を灼いた。
孤独と作家
作家には孤独が不可欠だ。
自らの心を前に、内にあるものと顔を突き合わせて、精密な虚構を作り上げねばならない。ことアルティアが得意とする悲劇という種別ジャンルにおいては、充足感よりも喪失感が重要だった。
憤懣と疑念、空虚な嘘、叶わぬ願いと届かぬ祈り――舞台装置の神デウスエクスマキナに頼らぬとなればなおさら、己に眠る感情の泥沼へ向き合う時間が必要だ。
作劇の壇上へ生涯を捧げた魔女は静謐を壊すことを許さない。
だから彼がちょうどいい。
「ねえ、サフィラ」
「私に声をかけている暇があるのでしたら集中なさい」
にべもない返答と共に手にした本のページを捲り、半ば管理者と化した凍れる魔導は鼻を鳴らした。
迫る締め切りの日付は七日後、埋まったページは未だ要件の三分の二。生まれ持った言語感覚と無限の想像力を以て書き進めるアルティアにしては珍しいことに、構想時点で二月ほどを要した。五百枚の原稿用紙を埋めるために残された時間はペンを執れたころには一月を切り、人を逸脱した身に任せて眠りもせずに空想を書き連ね、ようやくまともな形になったのが昨夜も遅くになってからだ。
あらゆる欠点を完遂の陶酔によって覆い隠され、昨日までは完璧に思えたそれも、高揚を失ってから改めて目を通せば粗まみれで見られたものではない。結局大部分に手を入れる羽目になり――。
――このざまである。
木々に遮られた斜陽に赤々と照らされた白手袋が肘をつく。我関せずとばかり、彼女がかつて書き上げた脚本の一つを捲る黒手袋に、白紙へインクを滴らせるだけのペン先を向けた。
「何もこの修羅場に雑談しようって言うんじゃないわよ。台詞の相談」
「ご自身で決めるがよろしい」
「決まらないから言ってるんじゃないの。終わらなかったらどうする気よ」
「貴女の身がどうなろうと私には関係がございません」
だったら今すぐ出て行って二度と顔を見せなければ如何。
――とは。
言えないから、アルティアはサフィラに勝てぬのだ。
頑ななまでに感情の機微を知らぬ男である。戯れにそんなことを言って万一にでも頷かれてしまっては、人を捨ててまで待ち焦がれた六百と幾十年の苦節が全て水の泡だ。
溜息で押し隠した棘を観念の証と偽る。とはいえ悩んでいたのは事実だ。白いページに文字は刻まれない。
そういう時は――。
もっといい方法があると知っている。
「ねえ、『貴方、私だけの救世主。炎に溺れて消える私の、煤を拾って下さりますか』」
「『炎の中に飛び込むなどと御免です。その体が消える前に』――ああ、いや」
サフィラは役者なのだ。
作劇家ではないが演じ手ではある。赤い瞳を先よりは真剣に瞬かせて、試すような女優の瞳に返す言葉を探るのも性分だ。
例え反射でも――一度口にすると、最適解を探し出す。
「『灰になる前に』、の方がよろしいですか。『この手を取ってくださいませ』」
差し出された掌はその延長のようなものである。言われるがままに手を重ねれば途端に不愉快に顔を顰めるのが目に見えていた。
だから笑うだけに留める。
「助かるわ。つくづくいい俳優ね、貴方」
「お褒めに与かり光栄です」
至極どうでもよさそうな返答がある他に、彼からの言葉はない。再びの静寂と迷いの消えた充足感に満たされ、アルティアの指先が更なる毒を求めて宙を這った。
――作家には孤独が必要だ。架空に向けて理想を望む空虚な意欲は静謐からしか生まれない。
間違いでは――ないが。
「サフィラ」
再び呼べば面倒そうに赤い瞳がアルティアを見た。こみ上げる笑みを抑えることはしなかった。
「興行、たまには貴方も見に来たら如何」
傍に誰かがいねば、孤独であることすらも分からないのだ。
憤懣たる美
人として振舞うのは随分久しぶりだった。
魔女の森の主だと知りながら懇意にしていた商人が代替わりを検討しているというので、挨拶に行った。ここは一つ、肝試し代わりに脅してやろうかと思っていたところ、先に人間のふりをしてくれと釘を刺された。
それで人間の振る舞いをしたのだが――。
久々すぎて勝手が掴めなかった。薬草の話に触れられると、つい人を超えた年月で蓄えた知識が口を衝きそうになる
「貴方はそんなことないんでしょうけれどね」
白紙のページにインクをこぼすまま、アルティアは言って眼前の薄青を一瞥した。
サフィラの性質そのものである薄氷によく似た色の長髪が、顔を上げるたび緩やかに流れる。長い睫毛に覆われた赤い切れ長の瞳は演技をしていなければひどく世を厭っている。頬を覆う氷の鱗と、人外の証である氷の角から放つ冷気を隠すでもなく、彼は整った顔立ちを炎の魔女に向けた。
見るだに――。
凍えるように美しい男だ。
「たかだか六百年で鈍るとは。演技の才はあるようにお見受けしていましたが、所詮はそこまでですか」
「失礼ね。人間の六百年は長いのよ」
ペンを置いて足を組む。六百年前には自然だったはずの人間然とした振る舞いに、殊の外精神力を使ったようだ。今日はこれ以上の悲劇を綴れそうになかった。
息抜きが必要なのだ。
見据えた赤い瞳は気だるげである。ごく見慣れたその色を崩すための言葉を探る。サフィラの内にある虚空に、強く刻まれた感情いかりをこそ、アルティアは愛しているのだ。
「私も貴方と同じになったんだもの。貴方の目から私の才能が語れるんだとしたら、これから先の何千年よ」
疲弊した頭は、しかし即座によく知る男の逆鱗に手を伸ばした。
すぐさま刻まれた眉間の皴を笑う。几帳面に着込んだ執事服に刷り込まれた仮面を剥がすには、こうして苛立たせるのが一番だ。
先ほどまでの疲労感は吹き飛んでいる。意中の男の本性――ただ一人、アルティアだけが触れていられる悪辣な氷の魔導こそ、唯一彼女をどんな境地からも救い出すのである。
だから続けた。
「――あら、ご不満でも?」
「紛い物の力で不死になっただけの人間と同列に語られるのは不愉快です」
「人間風情の体がなければ動けもしないくせに?」
浮かべた笑みは彼が被る仮面とよく似ていた。皮肉を浮かべて瞬く彼と同じ色の瞳が、赤い燐光を孕んで緑の髪から挑発的に覗く。
「経過が違っても結果が同じなら外から見れば全部同じよ。私も貴方も人の体に魔導を飼った人外バケモノ。そこに違いがあって? たとえ経過を聞いたって――」
――敢えて。
探すのは本性サフィラを引き出すための言葉。怒りを露わにする眉の下で、明るさを増した瞳が怒りの証左だ。
「人の身で人外の魔力バケモノを受け入れた私と、魔族バケモノでありながら人の身に頼る貴方、どちらが優れてると思われるのかしらね」
笑みを崩さぬままの流れるような言葉に、煌々と憤怒を湛えたサフィラが低く唸った。
「口の減らない小娘が――言わせておけば」
全く。
美しいと思う。
サフィラの持つ気品めいた矜持は、傷つけられて露わになった獣の牙にこそよく映える。一段と温度を下げ、人間であれば即座に臓腑ごと凍り付くほどの冷気を孕んだ大気でさえも、至上の美を前にする高揚を煽るのみだ。
「そっちの方が素敵よ、貴方」
逆巻く氷の渦の最中に、アルティアは笑った。
ファミリーネームのこと
訪れるなり占拠した椅子の上で足を組み、原稿用紙に刻まれる筆跡を一瞥したサフィラに、それまで文章と格闘していたアルティアが溜息を吐いた。
「嫌になるわ」
氷の魔導サフィラの訪れとともに、小屋の付近にある氷混じりの泉がとうとう凍った。春も近づき、ようやく温まりつつある空気が冬の温度を携えている。
身の内の炎を絶やせば死ぬ魔女である彼女にとって寒気は天敵だ。まして彼女はもとより寒さに強くない。封鎖された暖炉を睨む日々の終わりがけに、不意に戻ってきた冷たさは、幾ら意中の男の性質といえ辟易はする。
――が。
そちらは我慢すればいい。彼がいねばいないでアルティアの機嫌は悪くなる。なにしろ六四八年ぶりの再会を果たして間もないのだから、会う時間が削れるのは彼女の本意でない。
それ以上に白紙の用紙が問題だった。
ひとところに落ちて歪な円を描く黒いインクを睨みやる。天才と謳われた悲劇作家は、赤い瞳で彼女の最も信用する俳優を見上げた。
「台詞回しに付き合ってくださる」
言われたサフィラの方は至極暇である。手持無沙汰に掬い上げた自身の薄青の長髪に、枝毛の有無を確認していたところだった。手元の一房から視線を離さぬまま、彼は溜息を吐いて厭世的な赤目を細める。
――面倒だ。
「ご自分で考えるがよろしい」
「毎回そう仰るわよね。詰まってるから言ってるんじゃないの。自分で考え付くならとっくに埋まってるわよ」
それは――そうである。
この傲岸不遜な元令嬢は、さも当然のようにサフィラへ面倒ごとを押し付けてくる。そちらの事情を解せというならこちらの感情も汲んでほしいものだが――。
求めるだけ無駄なのだ。
そういう小娘である。思えば初対面の時から彼の不溶の氷角に蠟燭を当てようとしていた。
よく殺さなかったものだ。
――作家としての腕前だけは買っているからな。
脳裏によぎる自己賛美へ自答する。どういう頭をしているのかは知らないが、拍子抜けするほど脚本通りに現実を動かす力はある。言えば嬉々として望み通りの脚本を用意する彼女には、感情を対価にする価値がある。
――今のところは。
それで息を吐く。
「どうぞ。お付き合い致しましょう」
満足げに――どこか優越感を孕んだ破顔を前に再び吐息が漏れた。
全くいちいち癪に障る。
「主役が同じ孤児院で育った親友ライバルに剣を向けるわ。『お前がそこを退かないのなら、俺はお前の血を踏みつけてでも行く』」
「『ならば俺はお前の体を踏みつけてでも止めてみせよう』――で、如何ですか、アルティア嬢」
「もう、今は劇中よ。作家の名前なんて出さないでくださる」
「そうですか。でしたら」
悲劇作家の不機嫌な表情に、普段の減らず口と上機嫌な皮肉の笑みを崩す隙を見出した。口許を彩る邪悪な笑みとともに、サフィラの瞳の奥の輝きが僅かに増した。
「魔導大家の末席パンドルフィーニとでも、お呼びしましょうか」
それは――。
貴族令嬢アルティアの最も厭う名だ。
引き結ばれた唇と跳ね上がった眉に笑みを漏らす。サフィラの知る人間よりは幾分か摩耗した彼女の感情は、不愉快を示しても怒りにまで到達することは少ない。普段はこちらを馬鹿にする表情が人間らしい様相を呈するのがひどく面白いのだ。
要は――気に入っている玩具である。
果たして憤激を湛えたまま鼻を鳴らした元令嬢は、乱暴に肘をついてサフィラを見据えた。しかし瞳にちらつく燐光を覆い、彼女は唸るように声を上げる。
「マギッテリ」
「は?」
「今のファミリーネーム。マギッテリなの」
怪訝に眉根を寄せた執事の格好を前に、アルティアは視線を逸らしたまま息を吐いた。
「結婚したのよ。三百年くらい前にね」
――思い切り。
今度は困惑を交えて皺を濃くした。この茨毒に満ちた娘に求婚などと馬鹿げた真似をする男がいるものとは。
まあ。
見目だけは麗しい。本性をよく知るサフィラはともかく、皮を被れば大抵の人間ばかは騙せよう。問題は、彼女にとってひどく労力を使うらしいそれを維持できたことである。
「よくもまあ、そこまで猫を被っていられましたね」
「被ってないわ。あの方が求婚したのは魔女よ」
髪先を指で弄び、件の炎の人外はちらと氷の男を見遣る。その眼差しの辟易したような色と同じ、頭痛めいた眩暈を押さえ、思わず呆れの声が低く漏れた。
「――世界広しといえど、貴女以上に気の狂った人間などいないものだと存じておりました」
「相変わらず最ッ高に失礼よね、貴方」
まあ否定はしないけどと視線が逸らされた。彼女とて自分の性根が他人に好かれぬのは理解しているらしい。
ひとつ大きく息を吐きだしてから、指先からほどけた緑髪が机に落ちるのを鬱陶しげに払い除け、白い手袋に覆われた指先が再び悲劇を紡ぎ出す。普段は減らず口を叩く小娘も、作劇の世界に身を埋めれば暫くは大人しい。
次の一文に詰まった彼女が再び声を上げるまで、サフィラの意識は自身の髪に集中した。
愛を嫉む
気紛れに思いついたことだ。
眼前で脚本に頭を悩ませる少女が、緑の長髪を煩わしそうに払っている。こういうときばかりは、いつもの薄っぺらな愛の言葉も聞こえない。
普段から煩わしいばかりの台詞である。サフィラは悲劇を愛するが、殊ロマンスには興味がない。そこに喜劇的な終わりとくれば、彼の嫌悪するくだらない幸福の真似事の、最たる例といえよう。
尤も――。
このアルティア・パンドルフィーニという悲劇作家に限って言えば、軽薄な愛の言葉が真実だとも思えないのが事実である。だから、その劇的で芝居がかった行動に、気紛れに付き合ってやることはある。それでも充分に混乱した様子は見られたし――機嫌がいいときには、それでサフィラの方も満足する。
だが。
――応えてやったらどうなる。
そればかりは試したことがない。使えるとしたら恐らく一度きりのカードだ。それも博打になる。これで万一にも夢見がちに目を輝かされでもしたら、鬱陶しいことこの上ない。
とはいえ、今日のサフィラは機嫌が悪くない。加えて暇だった。普段はこちらの都合など考えもしないくせに、自分が原稿に集中するとなるとヒステリックに彼を意識から除外する作家に、少しばかりの嫌がらせをしてやりたい気分でもある。
それで声を上げる。
「愛しています」
一拍。
沈黙があって、アルティアが顔を上げた。一瞬の不可解を驚愕に塗り潰す。見開かれた瞳が、予想よりも大きく揺れている。
思いのほか大きい反応に、薄氷の魔導は釣られて軽く目を見開く。視線を逸らした炎の魔女が、そこに至って、ようやく声を上げた。
「似合わない冗談はよしてくださる」
――滲む動揺。
望外の隙を突かない手はない。口の端を持ち上げた男の目に、歓喜の光が僅かに揺らぐ。幾重にも被った仮面で、怪物と同じ舞台に立てたつもりになる生意気な小娘を、突き崩して壊してやるのだ。
「貴女がいつまでも私への愛を語るものですから、応えてみるのも一興かと」
「おやめなさいな。そんな理由で口にするものではないわ」
「機嫌でも悪いのですか? 貴女がいつもの調子でなくては、私も心が沈みます」
「やめてよ」
「そう怒らないでください。美しい顔が台無しですよ。笑顔でいる方が――」
「やめてってば!」
叩きつけられたペンが机に跳ねる。勢い余って床にぶつかったそれが、黒く線を引くのも構わず、アルティアは椅子を蹴倒して立ち上がっていた。
その顔にある紅玉が。
――何かを恐れている。
「今日は本当におかしいわよ。頭でも打ったの? 私の俳優サフィラは、そんな安っぽい台詞は吐かないわ!」
激情に足を取られ、戦慄く体を抱き込んで、少女は甲高い声で叫んでいる。まるで見も知らぬ誰かを見るように、サフィラをその目に映して、彼女は続く言葉を絞り出した。
「愛だなんて、そんな、醜くて、おぞましい――!」
漏れ出たのが本音だというのなら。
ここに至って、サフィラは彼女の恐怖を理解する。口角が吊り上がるのを堪えきれない。およそ彼の知る中で、最も愚かしい人間が、彼だけにもたらされる絶望に身を震わせているというのだ。
――崇高な愛を求めている。世界で最も美しい感情を望んでいる。この潔癖な小娘は、愛の夢に溺れている。
己の抱く感情が、いかに醜いものかを知っているから――。
――恐れている。
「自覚があったのは良いことです。ですが、己の感情は、覚悟を持って振るうべきでしたね、アルティア嬢」
易々と愛を説く。アルティアの中にある感情が、彼女の望む愛とはかけ離れているから。偽りの愛であると思い込んでいるから。
立ち尽くす少女に歩み寄る。震える足で距離を取ろうとする体を抱き寄せた。
侮蔑を浮かべる赤い双眸に――。
俯いた少女は気づかない。
「貴女が私を愛したから、私が愛で応えた。それだけのことでしょう」
なるべく優しく頬に這わせた指先から、火蜥蜴の熱が伝播する。普段ならば鬱陶しいはずのそれも、悲劇作家の仮面を剥がされ、震えるだけの魔女の表情を見るためならば――悪くはない。
「愛されたかったから愛を説いたのではないですか。鳥籠の中で愛を待ち続けたのではないですか。自分を愛してくれる王子を、何より欲しがったのは、貴女ではないですか」
至近距離で揺れる赤い瞳が、怯えた色でサフィラを見た。その中に映る愛しいはずの男が、待ち侘びたはずの愛を語る中で、彼女はそれを拒絶する。
美しいものに美しくあってほしい。
それを汚す言葉を、自分で吐きながら。
矛盾に満ちた激情と願いを、怪物は嗤う。
――人間とは。
――何と滑稽で。
「これが、貴女の望んだ喜劇の終幕なのでしょう?」
――何と愚かしい。
サフィアルまとめ