闇の肖像
アトリエの嵐
鴉の鳴き声が暗いアトリエにも響き渡る。嵐が来るらしいが、曇天はまだ崩れずに、むしろ不動の態だ。
画家島川蒔幻(しまかわ じげん)は黒いカンバスに向かい、闇に美しい背を向ける裸体を白く浮き上がらせ描いていた。画家の硬く閉ざされた口許も、光りの無い目元にも感情が伺えずにむしろ虚ろである。ごう、と一陣の風が窓を揺らし、モデルの明智レイは咄嗟にその薄い硝子板を見た。強くなり始めた風。黒い影となった梢の上に、風に揺られ停まる鴉。
「じっとして」
島川がちらりとレイの横顔を見て、レイは再び顎を引いて唇を閉ざした。
背に突き刺すような島川の視線。それは代々木公園でいきなり声をかけてきた時と同じだった。レイはギターを片手に静かに歌いながら芝生に座っていた。そこにはいつものようにいろいろな人間が各々の時間を共有しあっては、楽しんでいた。レイの周りにも数人ほどの聴衆がいた。その時にぎくっとするような気配を感じたレイは、一角にあるベンチを見る。そこには一人の男が座り、レイを睨んで来ていた。見開いた目で。レイは心臓がわしづかみにでもされたように弾き語っていた指を止め、歌詞の一切が飛んでいった。男が立ち上がり、そこまでやってくると誰もが男を見上げ、口を閉ざしてさっさと歩いていってしまった。
残されたレイは男を見上げ、石にでもされたように男の眼の魔力から逃れられなかった。
「私の絵のモデルになってもらえないか。君は若く美しい。その姿を留めたい」
何故か、危険しか感じなかったというのにレイは無言のままに、小さく頷いていた。首がぎぎっと軋むような感覚で、正確には声に出せなかった。口でも開けば、魂でも抜かれてしまいそうだと思ったからだ。
その男は晩夏だというのに、薄手の黒のコートと黒いロングスカーフを首に巻いていた。灰色の混じった長い黒髪を一つにまとめ、怖く深い目元でまっすぐにレイを見てきている。自分のどこにそんな魅力めいたものなどあるというのか、全く予期しなかったことに戸惑いを隠せないまま、連絡先だけを交換した。
レイはただただ下北沢の人間に有り気な個性的ではあるがありふれた装いにギターという、特徴の無いものだったのだ。
翌日には島川のアトリエを訪ねてみた。思った以上に薄暗かったのは、雨が降っていたからなのもあったのだが、島川自身の空気感もあった。出されたコーヒーを頂きながらパンケーキも頂き、その上に乗ったブルーベリーも苺も生クリームも、まるで餌に釣られたかのように平らげていた。灰色の壁にそぐわないパンケーキを食べる、なんか個性的ないでたちをしたレイ。まるで森の小屋に閉じ込められたモンスターのようだった。初めてそんな風を見ていた島川が笑った声を聞き、ふと視線を上げたレイは、その画家の意外に男前な渋い風に、視線を落として照れた。
「ごめんなさい。こんなにバクバク食べて、恥ずかしい」
「私の夢も食べてくれればいいのだがな」
レイはその言葉に、曇りの窓の外を見る画家の横顔を見た。まるで疲れきった表情をして、深い目元は鈍く光っていた。
「眠れないんですか?」
島川が「大してな」と言いレイは相槌を打ち頷いた。
「早速で悪いが、二十分ほど動かずにいてほしい。横顔のデッサンから入らせてくれ。座ったままでいい」
レイは帽子を脱ぎ、髪を手でわしゃわしゃ整えてからかしこまって膝に手を当てた。だが、そんな硬い表情に島川は「ホイップクリームでも投げつけたほうがいいかな」と言い、レイを慌てさせて表情を崩させた。
「何でもいい。最近あったいい事でも思い出していれば」
「はい」
その後は沈黙のなかをカリカリというデッサンの音と雨音だけが響いた。
そして翌日は正面の顔。その五日後の土曜日の今日には、いきなり服を脱ぐように言われた。五時間も粘って嫌がっていたのだが、嵐が来るし早く済ませたほうが気分も楽だとか、その後は近場の肉屋にでも連れて行ってやるだとか、気分を落ち着かせるために持ち寄った自作曲のCDを褒められたりなどして、結局は承諾していた。
特に不恰好というわけでも無いがなんら特徴も無い体格をしているレイだが、脚の形はまっすぐで綺麗だ。背筋も良く、顔立ちも整ってるほうでもあった。妙な装いも脱げば、そんなありのままの素のレイの素朴な美しさがあった。
一時間もすると、掛けていたオリジナル曲は全て終わってしまい、三時間目に入っていた。
ガタガタガタと風が窓を鳴らす。街路樹の鴉がばさばさと羽ばたいて行った。みるみる、曇天は更に暗さを増していく。
レイに恐怖が無いわけでは無い。軽率にモデルの話に着いて来たことに後悔が出始める。痛いほどの視線を背に感じる。五日前に見せてもらった神経質なほどの緻密なデッサンが思い出される。今カンバスに何もまとわない不安な状態そのままのレイが描かれているのだ。
「休憩を入れようか」
ふっと、緊張が取れてレイは息を吸い込んだ。
「はい」
安堵として、横の椅子に掛けた服を軽く着た。どこまで行ったのかを聞く勇気がない。あとどれぐらい続くのかも。今日は泊まりで明日も描くということになっていたので、夜まで続くのかもしれない。島川は横のキッチンスペースとなっている台で紅茶を淹れている。皿にクッキーを出し、テーブルに持ってきた。
「ありがとうございます」
「どうぞ」
三時間も動かずに立ち続けることが、こんなに辛いとは思わなかった。棒のようになった足をさすりながら紅茶に口をつける。
「何故、声をかけてくれたんですか」
「美しいからだと、言ったはずだ。君は似ているんだ」
「え?」
クッキーをまたバクバク食べていたレイはカスを口につけながら島川を見た。
「もっとも、夢の人物はこんなに食いしん坊じゃ無いんだが」
すでにレイが全て食べ終えた所だったので、島川は吹き出してふふと顔を背けて笑った。
時々見せるそんな画家の姿が、不可解な危険を感じながらもレイに自然にガードを下げさせる。
レイは真っ赤になって紅茶を飲み込んだ。
再び、休憩を終えると一度手洗いを済ますように言われてからモデルの続きを始めた。
会話をしていたときは忘れていたが、窓の外はすでに雨が降り始めていた。ざん、ざんと時々強く吹く風が窓に当たる。レイはただただその雫一粒一粒に集中するかのように、佇んでいた。
「君はよく似ている。夢でいざなってくる人物に」
レイは肩越しに見た背後の島川の目から目を反らせなくなり、またあの見開かれた目でまっすぐと見られていることに気づいた。島川の長い下睫毛で余計に目元が鋭く思える。
「崖へといざなってくる人物に」
島川がヘラを持ったまま動かずにレイを見ている。睨んでいるのではない。ただ、穴の開くほど見つめている。
カンバスには、闇を背景に崖の前にいる白い裸体のレイが佇んでいた。それはそこはかとなく純粋無垢な背中で、手を伸ばせば吸い込まれそうな白さだった。その横顔は、不安にもたげている。
再び、沈黙が流れ画家はレイを描き始めた。時々刺さる鋭い視線、時間の感覚さえ立ち消えていくほどの集中力で筆を操り続ける。
夢、夢。崖の夢の人物。それが島川を蝕み苦しめた。
「………」
画家が立ち上がり、レイはぎくりとして強張った。ここまで歩いてくる島川を動けないまま肩越しに見る。そっと肩に手を置かれ、そしてヘラがレイの首筋に来た。白い絵の具がそのままレイの胴体に斜めの線を引き、その冷たさにレイは逃れて壁にぶつかり島川を見た。島川はその場に立ち尽くしたまま、背後の窓に激しく打ちつけ始めた雨と、暗い空に取り込まれていきそうな風だ。不安定にして不動の、感情が粗くも疲れきった、命を削るような画家の横顔だった。
いきなり画家がヘラで画家自身の顔を傷つけようとしたので、レイは驚き飛びついた。
「いた、」
ヘラがレイの掌を掠めて、じわっと血が線を引いた。島川が共に床に崩れたのをレイの手にポケットのハンカチを当てた。
「すまない」
島川がふらりと立ち上がり、そして窓際へ行くと、いきなり窓を開けてそこから飛び降りてしまった。
「島川さん!!」
レイは叫んで、風と雨が唸り吹き付ける窓に駆け寄った。二階から下を見る。レンガの地面を打ち付ける雨。うずくまる画家がいた。
レイは走って階段を降り、雨が激しく打ち付けるなかを画家の背に手を当てた。
「島川さん!!」
物音に下のカフェの店主が出てきて、うずくまり倒れた二階の画家とすっぱだかのレイに驚いて急いで店に戻って救急車を呼んだ。
疲れきってアトリエに帰ってきたレイは、警察から開放されても病院から帰っても心が休まらなかった。先週偶然声を掛けられ、絵のモデル話を受けて、その内に夢で見た人物だと言い残して窓から画家が飛び立った。それ以外に何も分かりはしないのだ。しばらくテーブルに臥せって顔を抑えていたが、レイはふとカンバスを見て立ち上がった。
歩いていき、絵を見る。
「………」
そこには、美しいレイが、実に瑞々しく描かれていた。闇にあがる銀色の満月を背に、肌が煌々と照り光り、瞳は妖し気に光沢を受けている。崖へいざなってくる風など、一切窺わせはしないほどに、麗しい。
「島川さん」
レイはまだ乾いてはいない筈の絵に触れることは出来ずに、ただただいつまでもその絵を見つめ続けていた。
レイ
レイがギターを奏でながら小さな声で歌い、時々窓の外の小鳥がそれに合わせるかのように鳴いている。
カセットに録音しながら作曲をしているレイは、うーん、とか、ここはこうで、という言葉を挟みながらコードを進めさせ、歌詞を同時に乗せながら作っていた。
「喉が乾いたのでお茶淹れます」
「ありがとう」
歩いていったレイの背から窓を見ると、よく晴れた空は冷たい風が吹き抜けているのだろう、木の葉の掠れる音がする。時々響き渡る小鳥のさえずりが耳には心地よい。
「どうぞ」
不器用なレイの淹れた薄い茶はいつでも色が無く、今の体にはその方がいいのかもしれない、と思いながらも島川は口をつけた。
レイはギターをしばらくしてギターを立てかけるとカセットの録音を止め、それを確認のためにかけ始めた。
相変わらずレイはお菓子を食べるのが好きで、灰色の空間はそのスナックの色で彩られていた。
レイはあまり窓の方を見ないようになった。背を向けるように椅子に座り、テーブルの上のお菓子を食べている。レイが自分で買ってきたものなので外国のお菓子が多い。その背後に青空の広がる窓は、木の梢に小鳥が数羽停まってはくちばしで毛づくろいをしているのが見える。
島川が一ヵ月後に病院から自宅に戻ると、レイが心配してこうやって来るようになった。「また下手なことをされては困りますからね」と言って。
「しっかり眠れていますか?」
「以前よりは」
あれから夢を見るときは、崖にいざなわれるのでは無い、自身で描いた満月が見る夢を照らした。
こうやって自由に動くレイの面影は夢に流れ込み、崖の前で踊ってみせるのだ。まるで月の精霊のように。
島川はレイが夢中でハーシーチョコやジェリービーンズ、ジンジャークッキーをほうばる顔を、ただただ横になるベッドから眺めていた。レイ自身は薄くて味の無い紅茶を一口飲むと、変な顔をして自分は飲まなくなり、島川はそんなレイに可笑しげにふっと笑った。レイは首をかしげて画家を見る。
「ところで、あの絵はギャラリーに出すんですか?」
「どうだろうな……まだ分からない」
レイは相槌を打つと、初めて出会ったときよりも眠れるようになったからか、顔色がいい島川に一応は安心をしておいた。今度は何を考えているのかは分からないのだが。
「君が嫌だというのなら出さない」
「まあ、恥ずかしいです。裸なんて大勢の人に見せるなんてことが無いから。まだ背中だからいいけど」
「綺麗なものだと思うが」
レイは頬を染めてキンダーチョコを割って食べた。
「いつもこうやって女の子にモデルをさせるんですか」
「いいや。専属のモデルを大学から借りてくる」
レイはチョコレートから出てきた小さなおもちゃから上目で薄いお茶を傾けている島川を見た。レイが島川の膝の上にどっさりいろいろなお菓子を乗せたのでそれに彩られている。そのなかのマシュマロだけ食べている島川を見て、ふふっと笑って口を手で押さえた。島川がレイを見て、レイは慌てて背を伸ばした。可愛いマシュマロがこんなに似合わない大人を見たのも初めてだったのだ。
「この五日間はずっと来ているがいいのか。仕事か学校へは行っていないのか」
「ああ、夜勤のコンビニで働いてるから大丈夫ですよ。昼は気ままに音楽活動しているから、こうやって来れるんです」
「大学生だと思っていた」
「一応はもう二十六です。音楽の専門学校に行くお金もないし、独学でいいかなって」
「プロは目指して?」
「今の所は現状満足。下北沢や自由が丘のカフェではもう何件かで音楽イベントに呼んでもらったり、演奏はしてるんだ。自作CDのファンもいてくれてるし、ストリートミュージシャンだからそんな感じ」
レイが手のお菓子をぱんぱんと払ってからギターを手にすると、膝に抱えた。口端にチョコレートがついている。
適当に弾き始める。
「彼氏はいないのか」
島川は自分がレイに質問ばかりしていることに気づいたが続けていた。
「いません。なんか声をかけてくれる子はいるけど、長く続かなくて。歌では愛とか恋とか歌っているけど、やっぱり理想から抜け出せないみたい」
曲作りの続きをして、お菓子を食べたばかりだというのにレイのお腹が鳴った。
「もうお昼か。何かまた買ってきますね」
「毎回悪いな」
レイは料理が出来ないのでいつでもバイト先のコンビニ弁当の残りをもらってきていたが、島川にはそういうわけにもいかないので言われた惣菜店で買ってきて二人で食べている。
早く食べたいのですぐに戻ってくると、レイは嬉しげにお皿に広げた。島川はベッドから椅子に移動するとレイを見た。
すでに手を合わせて食べている。よほど食いしん坊なのだろう、お菓子も一緒に食べていた。
レイは三日間は画家が部屋に戻ってもさすがに口数も少なかったので、普通に喋るようになって良かったと思いながら食べていた。
「島川さんはどこかの美術学校を出たんですか?」
「単身イギリスに渡って学んだ。独学に近い」
島川は、ふと、口に出していた。
「共にイギリスに行かないか」
「………」
フォークを下げてレイは島川を見て、島川自身は口を閉ざしてハーブチキンを食べた。
「忘れてくれ」
「いいですよ」
「え?」
「と言ったらどうします?」
「からかうな」
レイはシーザーサラダをフォークで混ぜながら言った。
「島川さんみたいな人は初めて会ったから新鮮なんです」
サラダとパンを食べて、レイは続けた。
「それになんだかドキドキするし。あんなにレイのこと綺麗に描いてくれる人もいないし、こうやって一緒にいるのも時々安心するんです。なんでかな。こうやって来るのも、来たいから来てるんです」
満月に照らされた絵画を見てから、その絵画の透明度こそがこの画家本来の心なのだろうと、レイは興味を持ったのだ。何故魘される夢を見るようになったのかは分からないし、何に思い悩む人なのかはまだ分からないが、レイには必死に救いを求めて来ているように思えてならなかったのだ。不可解な不安と、閉じ込められた心が迷宮に入り込んで混迷していく表情は、レイは見ていて辛かった。自分が歌を作る人間だからとも言えるが、誰かを歌で救ってあげたい、と思う気持ちは自然に生まれるもので、音楽に存在する不思議な癒しの力で一人の人間、こうやって向き合ってきてくれる一人の人を元気付けられるならそれにこしたことはない。自分が救えるものだなんてあるかも分からなくても、少しでも寄り添って手を差し伸べることぐらいなら出来るはずだ。
「自分でも知らなかった魅力を島川さんが見つけてくれたことと同じで、自分にも島川さんの違った面を見つけ合えたら、なんだか面白くないですか?」
全て食べ終えると、お皿を全て片付けてから椅子に座った。
島川は窓を見ていて、レイはその島川の思慮深い横顔を見た。
「驚かせて悪かった」
「もういいんですよ。それに何度も謝ってくれたじゃないですか」
てっきり島川につき返されるとばかり思っていたのだ。気難しい性格をしていそうだったから。
「きっと、私には君の存在が女神のようになっていたんだろうな」
「………」
レイは湯気が出そうなほど顔を紅潮させた。
「いちいち照れさせないでください」
思ったより真面目な顔で島川は窓からレイを見た。
「共にいやすさを覚えるのは私も同じだ。崖にいざなった幻影も、私自身の現状を打破させるためのはばたきだったのかもしれない」
「あんな危険な飛び降りをしたのにそんな事。そんなに悩みを抱えていたんですか」
いつの間にか島川がレイの手に手を重ねていたのに気づいて離した。レイ自身も後々気づいてうつむいた。
「芸術家に限らずに、腕の立たない者の悩みなど五万とあるさ」
「素敵な絵だった。スケッチも絵画も」
「君が与えてくれたのかもしれない。それまでを、ずっと闇でふさぎこむ絵しか描けなかった。光りを君が与えてくれた。写実的な幻想の世界に」
画家が手で顔を覆い、レイは顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「まだ、混乱しているんだ。君が現われてから小鳥の声さえも心地いい」
レイは島川の手に手を当て、顔を見た。
「もっと誰かに頼ってもいいんだよ。一人で抱えてたら、またどんどん殻が厚くなってしまうよ。島川さんみたいに芸術家がどんなに繊細な感性を持ってるかは分からないけど、触れる全てに傷ついてしまうならその分柔らかさだって人一倍感じ取れるんだろうから、ずっとかは分からないし川島さんが良いっていうなら、いくらでも一緒にいるよ」
窓越しの君
島川は重かった身体が日に日に元のように軽くなっていくのが分かったので、ベッドから起き上がると手洗いを済ませ、またゆっくりとベッドに戻った。二週間は泥のように眠って意識も飛んだり覚めたりを繰り返し、看護師や医者の言葉もうろ覚えだったのだが。部屋に戻って一週間だが、レイが来てくれるおかげでかなり助かっていた。
ベッドには横にならず座るにとどまった。
島川は身長も百八十二ある割りにフットワークは軽く、引き締まった体格は彼自身が高校時代の美術部やイギリスでの修行時にモデルを頼まれていたほどバランスの取れている。もしも中学時代から心身を鍛えるために柔術をしていなければ、三十九の年齢にして二階から落ちたとなればただではすまなかっただろう。あんな時にまで咄嗟な受身が働いたとは自分でも驚いたのだが。
ゆっくり立ち上がり壁際に歩いていった。布の掛けられた絵画を見る。縦1650横650のカンバスは、あの日描いたレイだ。
完成がこんなに麗しくなるとは、当初想像打にもしなかった。あの完成した瞬間、自身の魂の統合を求めたと共に、それまでの鬱屈を壊したくなった。レイの存在が自分のなかに入って来ることを受け入れたくて、拒みたくは無く方法も分からずに足掻いていた。
公園で可愛らしい声で弾き語る少女が、愛だとか恋だとか、夢は輝いていると目を輝かせ、静かに弾き語っていた。星柄の派手な格好をしていたがアニマル耳の生えた毛糸の帽子から覗くのは綺麗な顔立ちで、ギターを抱えていながらも背筋は伸び、オーバーオールのスカートから覗く辛子色のタイツの脚も、一瞬で細身ながら綺麗な体の腺をしている子だと分かった。そして、その面影が島川を日々悩ませる夢の住人とあまりに酷似していることに、心臓がざわついた。自然に人を引き寄せてくる感覚と、嫌な感覚とが相容れることも無く、島川はその少女に声を掛けていた。早急な確認を欲した。その得たいの知れない少女の正体が何なのか、夢の肖像が何者なのか。
闇に浮かぶ白い背は、島川の心に降り立った純白の花だったのだ。描きあげた絵がそれを語る。
小鳥の声と共に、鼻歌が微かに聞こえる。
窓際へ歩くと、レイが道端にパン粉をばら撒いていた。レイ本人の顔は笑顔だが、きっと下の店主は内心なんともつかずに困っているのではないだろうか。あの事があってからは気がかりで店主が二度ほど様子を見に来てくれていた。そうこう思っていると、やはり店主が出てきてレイに「レイちゃん。うちは食品扱ってるから小動物に敏感になっちゃうお客さんいるんだよね。申し訳ないけど公園でやってくれるかな。猫もきちゃうよ」と言っていて、レイは口で「てへぺろ」と言って舌をぺろりと出した。なんだかその顔がおちゃめで、島川は台の上のスケッチブックを手に素描をはじめていた。レイは店長と談笑をしあっていて、「パン粉で浄化してるんだよ。あんなことあったから怖くてさ」と言い、やはりきのこ柄のエコバッグには菓子が覗いている。
ふとレイが画家の部屋のある二階の窓を見上げると、島川がなにやら難しい顔をして何かしている。スケッチだ。そこまで元気になってくれたらしい。今日は起きたばかりなのか、あの長い黒髪を縛っていないので雰囲気が変わって思えた。ああやってみると自分が思うよりは画家は若いのかもしれない。ちょっと白髪も混じってるし目元も笑顔が無いから、四十とか五十とか結構年齢が行っているのではと思っていた。さっと髪を手で掻き揚げて耳に掛け、難しい顔をしてすらすらと何かを描いている。
島川はレイと目が合い、手を止めてそれ以上を描けなくなった。なんだ。この緊張は。きょとんとしたレイの顔が、にこっと笑った。店主に挨拶をして、レイの姿は見えなくなった。
島川はスケッチブックを閉じ、しばらくしてドアが開いたので振り返った。
「島川さんおはよう。何を描いてたんですか? 小鳥?」
最近小鳥がよく鳴くと思ったらレイがパン粉をあげているからだった。
「いや。小鳥じゃない」
レイが窓際まで来ると、不思議そうな顔をして島川の顔や髪を見てきた。
「島川さんって」
「蒔幻でいい」
「照れますよ」
レイは横にエコバッグを置いてから続けた。
「意外に若いんですね。五十代のおじさんかと思ってた」
ショックすぎて島川は一瞬白目をむき、がっくりうなだれそうになったが首は痛いので手で額を押さえた。
「白髪は二十代の頃からあるだけだ」
「あー、若白髪。ダンディーですね」
「また適当を言って」
レイがいきなり島川が片方に流し下ろす肩の髪に触ってきたので、その爛々とするレイの瞳から目が反らせなくなった。
「蒔幻さんは結婚してないんですか?」
「五年前に離婚した」
「してそう」
島川はレイが離れて行き、帽子を取って髪をまたわしゃわしゃ整えて、傍目からは乱しているようにしか思えないのだが、それを脇に抱えてから振り返ったのを見た。
「ここに転がり込んだら駄目ですか? コンビニバイトだけだと部屋代とかが高くて。前までは昼は週3で雑貨屋で働いてたんだけど、そのお店三年契約でテナント変わってしまって残念」
そう自慢げにお気に入りだというその店で買った帽子を差し出し見せてきた。まさか被れとでも言うのだろうか。お断りだ。レイは見た目はシックで品のある装いがさも似合いそうな顔をしているのだが、本人の趣味が趣味だし、島川自身がそう思うのも自身の女性のタイプがそうなのであって、元の妻もそういった落ち着き払った性質だったからなお更のことだろう。それでも、レイの作り出すポップな音楽は若いからこそ心を抉る歌詞が潜んでいた。そんな夢だ希望だを語る年齢など当に過ぎたとしても、幾度も巡ってくる壁は、あの小さな窓からいつでもこの心を開放したがっていた筈だ。だからこそ若々しい歌が心に残ったのだろう。
「いい?」
「問題ないが、風呂はシャワーだぞ」
「それぐらいは大丈夫」
まさか部屋を派手にしつくすのでは無いだろうなという危機的イマジネーションが広がった。
「まさか部屋を派手にしつくすのでは無いだろうな」
「えっ、駄目?」
さも驚いたようにレイがのけぞり目を丸くした。
「カーテンで仕切るからな。アトリエは一色の方が好ましい」
嬉しそうにレイが頷くので、手首を掴み引き寄せ額に口付けをしていた。それで抱きしめていた。その時になって自分は何をしているのかと思ってもレイの頭にうなだれ頬をつけ目を閉じた。レイが体をカッカと熱くもじもじしていて、拒否されて嫌がられる前に離した。
「え、何で離すんですか」
レイが抱きついた。実体がある。鼓動している。黒いセーターの上からも分かった。あまりにレイがぎゅうぎゅうに頬を落ち着けたりぐりぐり腕で胴に抱きついてくるので、黒い生地にいろいろな色の毛玉がそこにだけ発生したの見て、島川はまさかこうやってレイにより段々と染められていくのではないだろうなと思った。
「あ。毛玉ついちゃった」
レイはびーんと二つほど抓んで引っ張り取った。また胴に抱きついたレイは、じっと窓の外を見た。微かに震える前に呟いた。
「部屋から毛玉取りも持ってきますね」
エコバッグを持って奥のテーブルに置くと、お菓子と惣菜を広げて椅子に座った。
「もしかしてボクシングとかしてるんですか? 意外にしっかりしてますね」
「ブラジリアン柔術は」
「何それかっこいい。教えてください」
「今は無理だが」
「待ちます」
島川も椅子に座り、レイを見た。
「付き合ってもいない男の部屋に転がり込むのは恐くないのか」
「利便性があるじゃないですか。蒔幻さんのモデルの素材になるし、部屋代もシェア出来るし」
「俺は落ち着かなくなる」
レイがぼっといきなり全身を染め、島川は二度見した。赤面症なんじゃないかと思うほどレイはよく紅潮するが、それも肌が真っ白いから尚更目立つ。
「風邪でも引いているのか」
「全然。風邪は引いたことないし」
「それは羨ましい限りだ」
「ほら、O型って割と健康体って言うからさ」
島川はAB型で毎年インフルエンザになっているが、血液型は無関係そうな気もする。
「そういえば何をスケッチしてたんですか?」
「敬語じゃなくてもいい」
「えー、けど蒔幻さん四十代後半でしょー? 流石に敬語じゃなきゃあ」
「三十九だ」
「えーーー」
またレイがのけぞって目を丸くするので、島川はどっちの意味かと思いながらも腕を組んだが肩が痛いのでほどいた。
「続きをしてもいいか」
島川が立ち上がったのでレイは身構え「あちょ!」と言った。
「スケッチだ」
「あ、レイのこと……」
レイは歩いていった島川の背を見て、一瞬不安になって真横の窓とスケッチブックをめくる黒い背を交互に見た。
「蒔幻さん……」
一人、警察から帰って画家のいない部屋で呟いたときの不安がよみがえり目を離せなくなった。
島川が振り返ると、ぎくっとして泣いているレイを見た。スケッチブックを置きそこまで行きレイを抱きしめた。しゃくりあげるレイの背を抱きしめた。男だというのに弱い自分をこんなに小さなレイに押し付けて心を不安にさせている。若い頃から女は守るものだと心にとどめているというのに、人間は強くなど無い。弱いものだ。一人で弱くなり心象の不可解な不安に取り巻かれ崩れてしまう。それを受け止めようとするレイに甘えることなどできない。男ならば受け止めてやらなければ。頼ってもいいからと言うレイの言葉は自分が塗り替えてレイを守ってやるものだ。自身の精神力の弱さに嫌気が差して始めた柔術も心を鍛えてもどんどんとまた自分の心の闇は広がりどこにでも発生する。生きているというだけで襲い掛かる不安。いつまでもその不安から逃れられはしないのではと思ってしまう。それを人は誰もが抱えながら一つ一つ越えて生きているのだ。過去は未来に活きるものだと分かっている。見つめすぎれば囚われてしまうが、無視をすれば軽薄な人間になるだけだ。振り返ることが出来ない人間は愚か者だ。不安は自分との心の葛藤であり、誰もが乗り越えることが出来るから感じる手に掴めない焦燥でしかない。上手に自分を飼いならし活かすことは出来るものだ。島川は深く息をつき、レイの背を抱きしめ続けていた。
レイはしばらくセーターにあったまっていた。そして泣いたり怒ったりするのは本当に疲れるので、そのまま眠ってしまった。
体勢が辛くなってきて声をかけた。だが相手は眠っていた。
「明智」
起きない。島川はベッドを見て、距離を考えて可能と見て抱き上げた。運んで横たえさせると張った首筋をさすってからレイの髪を撫でた。
昼の前に眠ったら夜は一人起きて菓子でも夜食にするのではと思いながら、レイは夜勤で働いているのだと思い出して寝かせておいた。
レイは夜の七時から深夜二時まで働いて帰ったら昼前の十時まで眠っている。今日は休みだから朝から来ていたのだ。
見ていたら自分も眠くなってきて、開いたスペースに横になり目を閉じると、意外にすぐに眠りに落ちた。
夢で、レイの笑い声と小鳥の鳴き声が響いた。ただただ、そういう夢を見た。
公園の風景
代々木公園でレイはギターを片手に弾き語っている。その息も白い早朝のこと。朝を告げる鳥の鳴き声は空を滑り、小鳥たちは樹木から樹木へ、そして芝の上や実の落ちる路に降り立つ。レイを首をかしげ見ては飛び立っていった。
僕らの声を 小さいけど聞いて
何も無いように してるけど笑えない
忘れた涙も 僕は知っていた
だけど だけど胸の奥すぎて見つからない
ふたを開けたら陽が差し込んでしまう
悲しみが溢れ出すことが怖いんだ
震える背中に君の手が触れても
気づかない振りをして
涙も枯らした振り
そんな悲しい心をもてあまし
わたしのこの手は 届かないのかな?
かりそめではない ただ愛してるんだ
叶わぬ夢でも わたしは見つめる
だから それを腕に大切に抱きしめて共に
重い足あげればそれだけでいい
目の前の光りに手を差し伸べてよ
そこにわたしは待っているんだよ
気づかない振りをして
口許だけで笑ってるから
大丈夫なら背に呼びかけてね
レイの声が静かにその場所だけに響き、朝の光りがギターの一番先に一筋纏う。パステルに染められた髪もだんだんと陽が透かして、背を暖めはじめた。猫がベンチにごろごろと転がって、夜の寂しさを拭うようなレイの甘い手を待ちわびているようだった。爪弾いて歌い終えてから、淡い色の空を見上げる。目を細めて、そして閉じた。
猫がごろごろ鳴いて膝に甘えてくる。レイはにこっと笑ってその腹を狂い撫でして猫を喜ばせた。
「変な人と出会ったって言ったでしょ。確か話したの君だったよね。その人ともしかしたら付き合うかもしれないんだー」
と言っても、話好きのレイは見る猫見る猫に言っているので、あらかたこの猫も聞いているだろう。わざわざ猫を引き止めてまで近寄ってきて愛撫をご褒美に恋話を聞かせてくるのだ。猫には内容などさっぱり分からないのだが。
「まあ、まだ分かんないんだけどね。何考えてるか分かんないし。けどなんかわかんないけど可愛いんだよね」
人間が嬉しそうな声音で話すので、猫は安心してこの人間に可愛がられていた。レイは確実に自分が変わり者の画家島川蒔幻に惹かれていることを分かっていた。女にある母性というものでも働いているのだろう、放っておけなかった。
「よし。歌うかな」
またギターを抱え、爪弾き始める。ランニングをする若い男や、犬の散歩をする主婦、ベンチで早くも話の佳境に入っていそうな老人たちが、同等の朝陽を浴びて各々の時間を過していた。
あとどれぐらいかしたら島川をここまで引っ張ってきて、リハビリがてらに運動をさせるつもりだ。あんなに灰色の部屋に閉じこもって真っ黒い服だけ着てナチュラル素材の食事は気を遣う、健康志向なんだかどうなんだか分からない人だが、とっとと治してもらって島川自身にの生きる活力に繋がる柔術をレイに教えてもらいたかった。
カセットで録音し決まったコード進行で弾き語りながら新しい歌詞をつけ始めた。
幾何学模様の太陽が
東から上がってるのですか
螺旋で繋がるお月様
西に照ってるんですか
僕を迷宮に連れ込むつもりの
道化師なんて装わないで
太陽のままにまっすぐで
月のまんまにミステリアスな
そんな情熱だけを僕にください
柄杓座にでも掬われて
北のお空にいるのですか
南にいる僕に届かずに
互いに双眼鏡で探してる
星座をつなぐ線を辿って
銀河鉄道に飛び乗ったら駄目
傾いてこぼれる水みたいに
僕のところに降ってきて
そんな素直さを表してください
ここにいるよ 星と月と太陽は
僕らの丸めた手のなかさ
今に瞳が合わさって
やっと見つけられるんだ
太陽のままにまっすぐに
僕のところに降り注いで
情熱だけを僕にください
路をゆっくり歩いてきた島川は、レイが弾き語る姿を見つけて足を止めた。今朝から自分でリハビリに出歩こうと歩いてきた。
こんなに朝早くからギターを抱えて、楽器のことはよく分からないが湿ってしまわないのだろうか。猫を膝に三匹も乗せて、周りにも五匹も囲っていてすでにレイの服は猫の毛塗れだった。あれでまたアトリエを猫の毛か色とりどりの毛玉まみれにし尽くして人間の入る隙さえ与えなくするつもりだ。島川はゆっくり歩いていき、寒い気温に体が強張るのを感じながらもレイの所まで行く。一ヶ月も寝たままになったことで、あんなに筋力が落ちて腕も細くなるとは思ってもみなかったので、しっかりとリハビリに励んだほうがよさそうだ。
「それにしても、その変な人がさ、レイがお気に入りのカーテンでるんるんに部屋の仕切りをかけてたら、すっごい顔するんだよ。白目剥いて口ぱかーんて開けて色男が台無し台無し。部屋はワンルームで十八畳なんだけど、レイのところと、アトリエとその人のスペースで分けて来たからアトリエがせまくなって、レイと一緒のところにベッド置けばいいのにって言ったのに嫌だって言ってた」
島川は猫相手に同居人への不満を聞いてもらっているレイのところまで近付いて来ると、相手は猫の胴に顔を押し付けるのに必死になっていた。また今度はヘアカラーをパステルカラーにしていて、まるでユニコーンの水色、クリーム色、ピンクの三色に変えている。この前まではモカ色だったのだが。
レイいわく、ゆめかわいい髪色とやらにするんだと昨日美容院に出かけたきり帰ってこなかった。だからなかば寂しかった。何をそんなに素直になっているんだと自分で思いながらも島川はようやくレイの横までたどり着いた。
「明智」
「あ! 蒔幻さんおはよー!」
レイが真横を見上げてきて、手を振った。猫がじっと島川を見てくる。
「散歩してるんだね」
敬語は無しと言ったので堅苦しい言葉で話しかけてくることは無くなったが、余計に歯に衣着せぬ言葉がそのままの性格毎ぶつかって来るので、相手に悪気は無いと分かっている分、どういう扱いをすればいいのか分からずにいた。レイ自身はあっけらかんといて、毎回なんでも冗談まじりに言って来てにこにこしている。まるで大好きな可愛い子犬をからかって遊ぶ子供のような性格なのがレイのようで、それでいて心ではいろいろと考えてくれているのがよく分かった。
島川は猫が場所を開けた所に座ると、猫が島川をベンチ代わりに黒いコートに眠って異常なほど体を擦り付けて匂いをつけてくるので、それに視線を落としながらもなんともつかずに見ていた。匂いもつけたら満足して恋人猫と去って行った猫を見送った。ぷふっとレイが笑い、島川はハンカチを出して少しは毛を払った。広がっただけだったのだが。また服用ブラシで払えばいい。
「またメルヘンな髪色にしてきたな」
「あ。流石に気づいた? 男の人って髪形変えても気づかないから」
「それは流石に……」
島川はレイには黒髪にしてその緩い三つ編みにしている長い髪を下ろして欲しいと思っているのだが、個人の個性や趣味を変えさせるなど野暮で乱暴なことはしたく無い。それで昨日の夜は魔女が帰ってくる前に写真撮影用の大きな銀のカーテンをダンボールから出し、レイのかけたペガサスとファンタジア柄のカーテンの裏にせめても重ね吊るしたのだった。そうしたら今度はメルヘン妖精にでもなって帰ってくるつもりだったようだ。
島川は筋肉の張る腿をさすってから言った。
「朝ご飯はしっかり食べたのか?」
「コンビニの残りのお弁当食べたよ。バイトだったから」
それで帰って来なかったのかと納得した。
「蒔幻さんはそろそろ絵を描き始めるの?」
「まあ、そうだな。手の感覚も戻したいところだ」
「こういう風景は描くの?」
島川は朝日に照らされ明るくなり始める公園を眺めながら、首を横に振った。
「いいや」
光りのヴェールが雲から幾重にも降りて、木々の薄い影の幕を光りとともに広げている。鳥のはばたきの影を引き連れる。朝露で湿った芝はまだ昆虫は歩いてはいない。
「こういう絵も描けるようになれればいいんだがな」
つぶやく島川の横顔を見上げると、微かに、微笑んでいた。その瞳を光らせて。
画廊
画廊はアトリエから多少離れた、人通りのある通りにある。
島川の絵画以外にも、様々な画家の作品が展示されている。
島川の作品の飾られた二階へ促されたレイは、一階とは雰囲気を変えた空間を静かに見回した。
暗い森の鴉や、闇の沼に倒れる兵士だとか、襤褸切れになったドレスを纏い檻に閉じ込められた生白い女だとか、膝を抱えて泣きくれる男だとか、ここ数年はそういったものばかりを描くことが多くなっていたのだ。島川が夢を見始めてからは……。
夢。何故見始めるようになったのか。その糸口を、夢を見るたびに探し続けた。夢を考えないように努めた時期もあった。寝ても覚めても疲れきる日々だったからだ。夢は魔物のようなもので、島川を安眠へといざないはしない。彼の身に記憶に留まらないなにかがあったのかも不明なままに、夢の幻影は無言で島川を攻め立てるかのようだった。あの夢の崖には見覚えも無ければ、レイに出会うまでは夢の女も見知らぬ者だった。
「昔からこういうダークな絵ばかり描いてきたの? 黒ばっかり」
この前興味があって見せてもらった絵の具ときたら、チューブは圧倒的に黒のラベルばかりが多く、レイは「ひえーー」とのけぞり目を丸くして、島川の顔真似をして驚いてみせたのだった。それを言ったらふてくされるだろうから言わないのだが、時に島川が目を見開きまっすぐに見てくるあの鋭い眼力が、魔力でも兼ね備えてそうで怖いのだ。それなら自分も手に入れてみようと目を丸く見開いてみせると、可愛いなと言われて照れる。
「それまでは画風は違った」
レイは見回す。
「へえ、どんな?」
間口で仕切られた方を島川が示すのでそちらへ歩いていった。
レイは笑顔で見回した。
「意外」
小さな額縁の絵ばかりが揃っているが、どれも水彩で、全てが水色で統一された色合いのものばかりだ。
朽ちたメリーゴーランドや、森で踊る道化師だったり、壊れた球体間接人形、二階建てバス運転手の車掌猫だったり、ビッグベンの時計盤のなかの縁を駆け回る二足猫など、そういったファンタジックなものが多い。
「これ蒔幻さんのいつの作品?」
「二十代前半あたりの、イギリスにいた頃のものだ」
可愛いというより、綺麗なのだ。あの嵐の日に見た満月と麗しい肌をしたレイの油絵に垣間見た、透明度がそこにはあった。
レトロだったりデカダンな風が題材になった水彩ではあるが、あの黒の絵画の間の影は見受けられない。
レイは青い星空の元に踊るバレリーナの絵を見つけた。それは白いアネモネに囲まれていて、どこまでも繊細に描かれている。レイがうっとりとして見ていると、ふと、その横の絵を見た。
「わあ、綺麗な人……」
一回り大きな額縁に収まる絵で、サファイアのネックレスをしているのだろう、とても美しい女性の肖像画だ。水色で色づけされてはいるが、雰囲気的に実物は黒髪なのではないだろうか、肩に流し柔らかそうな胸元を隠し、そこだけが薄い薔薇色に染みる唇をして、こちらを見つめている。静かな眼差しは、まるでその先に凪ぎの海を映しているかのようだ。限りなく透明で、そして静寂の女性像。
「この人、この前言っていた大学のモデルさん?」
他の絵を確認していた島川は、レイに尋ねられてそこまで来た。
「ああ、彼女は……」
元妻だった。イギリスで知り合い、五年前まで婚姻を結んでいたが別れた女性、冴子。その名の通り、冴えた美貌の女性だった。
彼女が島川の元を去って三年して、暗い夢を見始めたこともあるが、彼女が原因とは考えづらい。たまに連絡は取り合い、食事をすることもあったり、何かの祝賀会で顔を合わせることもあった。冴子はハープ奏者であり、島川と婚姻を結んでからはイギリスでの活動から場所を変え、東京を拠点にしていた。別れてからはまたイギリスと日本を行き来しているようだ。この絵は人気がある一つでもあるので、離婚した今は画廊から下ろさせるように頼んでもオーナー側が「人気があるから」とそのまま展示されている。
「もしかして、前の奥さん?」
「ああ」
レイはこんなに美しい人と結婚していた過去があると知って、島川自身が島川で見た目も良いので頷けることだが、落ち込んだ。正直落ち込んだ。自分は背はひょろりと百七十四はあるが細くて、個性的な格好が好きだ。よくよく見てみればちょっと島川と不釣合いなんじゃないかと気づいて、まじまじと黒衣の島川を上から下まで見た。今日は黒の上下ジャケットに白の詰襟シャツで長い髪も整え縛っているので、モデル体系だし色男の紳士ぶりで落ち着き払った素敵な大人である。画廊で客に鉢合わせることもあるのでしっかりした身なりをしていた。いつでもラフに着崩す薄手の黒のコートも黒の開襟シャツもパンツもブーツも渋いのだが。
レイは唇を突き出して美人をまじまじと見ていた。ちゅっとキスをしたくなるほど綺麗な絵だ。相当愛されていたのだろう。島川に。
「あれ。じゃあ二十代後半の作品は?」
「ほとんどイギリスにある。イギリス時代の作品を日本に、日本に戻ってきて描き始めたものをイギリスの画廊に預けた。暖色を基調として日本各地の小さな祭の妖艶な舞踏や神楽に幻想を取り入れた作品に移行したから、新鮮な文化同士を画廊で飾らせたほうがいい」
「なるほど。それも妥当だ」
レイはだんだんと、水色から、暖色、そして闇色へと変わって行ったという作品を見た。向こうの絵だけ、油絵だ。何があったのかなど分からないと言っていた。幻想的には変わりない、その全体的な画風は変わらない。それでも、明らかに心は蝕まれ月食のように翳って行ったのだ。
島川の構想には、ずっと別れてからも元妻の絵画を描くことがあった。暗い夜、森の湖でハープを爪弾くその姿を。描こうと思っても描くことは無かった。自分で作品に加えることを拒んでもいたのだ。心に折り合いがつかないからと。
がしっ
いきなりのことで島川は肩越しに抱きついてきたレイを見下ろした。
「どうした?」
優しく聞くと、レイは目を閉じて応えなかった。しばらくは、しがみつかせておいた。心臓がばくばくと音を立て、島川は顔を戻して胴に回されるレイの白い手に手を当てた。レイは嬉しくなってにこにこと顔を上げ、島川の染まった耳裏を見て嬉しくてまた頬をつけ目を閉じた。
互いに口には出さないしまだ同居を始めたばかりだが、きっと互いに好意を持っている。相手の性質を探り合っている時期で、先生とモデルというよりも半ばレイの乗りもあって友人のような段階であるような気もしないでもないような風の落ち着かない系の関係に収まってるきらいもあったりなかったりの今に恋人にでもなりそうな勢いがありありとありのあり。
室内
レイは鼻歌を歌いながらドラム式の洗濯乾燥機から派手極まるいろいろの服を取り出して、カンバスに向かう島川は背後でレイがそのあったかさににこにこと顔をうずめているのを肩越しに見て、顔を戻した。窓に向かって三脚が立てられていると、レイもいるからか、心はどこか晴れた物があった。
レイが銀のカーテンを巻くって洗濯物をベッドに置く。
しゃかしゃかと音が聞こえて島川は部屋を二分するカーテン側を振り向いた。
「………」
銀のカーテンが三分の二ほど斜めにまくられ大きな薔薇クリップで留められ、ペガサス柄のカーテンとともに、向こうのレイ・ワールドが見える。灰色の壁はパステルピンクとイエロー、クリーム色の布で覆い尽くされ、天井からは星型のランプが吊る下がり、赤紫のベッドが置かれ、黒いふわふわクッションが並び、金の枠にブリジッド・バルドーの写真が飾られ、レトロな鏡が立てかけられて、毛糸のぬいぐるみが床の壁際に並び、ペガサスやユニコーン、狼やフラミンゴが座っている。メリーゴーランドを模した幕の裏は服の棚だ。黒いレースがベッドの上から天蓋になって下がっていた。ベッドの下には何足か靴が置かれ、床にはラグの上にビーズクッションが置いてある。その前には小さなテーブルが置いてあった。上にはメイク用品が並んでいる。
島川は頭がメリーゴーランドになる前にカンバスに向き直り、レイが向こうの窓を開けた音と共に、こちらにも風が流れ込んできたのをそよと受けていた。
視線の先の窓からは陽が射し、島川の灰色の混ざるこげ茶色の瞳を透かしている。その瞳が見るのは、レイと小鳥の絵画だった。それは実に三年ぶり、そして、イギリスにいたころの初期の絵画の修行中以来の様々な色を扱ったものである。パレットにも、おろしたての色とりどりのチューブから絞られた水彩絵の具が並び、そして混ぜられている。
レイが洗濯物をたたみ出てくると、椅子を運んで島川の横に座った。あまり集中しているときには近付かないようにしているが、今は大丈夫だろう。
「昨日の画廊の絵とは全く様子が変わったね」
「ああ」
元々、全ての色味の油絵の具、水彩絵の具は持っているのですぐに揃えが利いたが、昨日の帰りに画廊隣の画材屋で揃えた業界上での新色もあった。
「レイってこんな顔してるんだね」
「ん? ああ。そうだな」
島川がふっと微笑んで筆を頬に滑らせる。レイは島川の、陽に透明に光る灰こげ茶色の瞳を見てから、描かれる絵の自身の瞳の色を見た。
「蒔幻さんって、純日本人? 顔立ちも濃いし、瞳の色も灰色とかの淡い色が混ざったこげ茶色だし、鼻も高いし」
「いや。西スラブ系のクオーターだ」
レイはおぼろげにバルト系などの中欧ヨーロッパあたりのイメージの知識しかないので、うんうん相槌を打っておいた。
「スラブ系の国の芸術には触れなかったの?」
「母親の故郷のブラティスラバには八歳まではいたが、確かに美しい国だ。日本で生活するようになってからはイギリス映画が好きでその憧れが強かったからイギリスを選んだ。いつかは再びスロバキアにも旅に行きたいとは思っている」
「その時、レイも着いていっていい?」
島川はレイの絵から、レイ本人を見た。
「ああ」
レイが嬉しげににこっと笑った。小鳥の羽を色づけし、本物の小鳥の方が外で鳴いている。レイは向こうに戻り、カセットをかける。ここからは見えないカーテンに隠れた場所にもいろいろ、特にギターやカセットボックスなどがあるのだろう、今日はセルジュとバルドの曲を掛けはじめた。他には個性派ファッションモデルの出す歌や、イタリア、フランス、スパニッシュ、ロシアなどヨーロッパの言語のミュージシャンのカセットが多い。
水彩のレイは肩や頭の天辺、広げる片腕や指先に小鳥を乗せている。ギターではなく民族的な発弦機を持ち、彩りのある衣装を着て、緑の木々に囲まれ活き活きとした顔で笑って佇んでいる。彼の描く民族的な衣装は彼の創造するものなので、どこの衣装というものは無い。まだ長い髪の部分は色をつけていないが、下ろされて風になびいていた。黒髪にしたいと思っているのだが、実際のレイがパステルユニコーンのような髪色をしていて、黒髪にはしたがらないのかもしれない。
またカセットをセットしおえたレイが戻ってくると、島川は聞いた。
「髪色は何が合うと思う」
「黒じゃない? 衣装もローズピンクとか紫や橙にビリジアン、群青とかのストライプで濃い色味だし」
島川はレイを見た。レイは頬を染めて島川を見た。
「じゃあ黒だな」
「絵だけね。レイは明るい色が好きだから」
まだ髪の色入れには取り掛からないのだが、真ん中分けの真っ直ぐな髪をしていて、両耳には大きく丸いピアス加工をされたピアスが顔立ちを引き立てている。レイ自身はもっと柔らかいイメージではあるのだが、あえてレイの印象とは一線を駕した雰囲気の絵にした。
「モデルはやらないのか。背も高いし、顔立ちもうけそうなものだが」
「モデルって大変そうだから。競争も怖そうだし、のんびりしていたい。忙しくなったら蒔幻さんともいられなくなるじゃない」
島川は筆の手が止まり、その横顔をレイはふと見上げた。
「……明智」
「レイでいいよ」
「………」
島川は筆を持つ手が止まったまま、何度か息を呑んだ。
普段は深く二重の刻まれた広い目蓋が閉ざされ、レイは心配になって鋭く目の閉ざされる島川の様子を伺った。
「大丈……」
「付き合わないか。レイ」
「――うぶふ?」
『大丈夫?』という言葉が上ずり、レイは島川の鋭い両目を瞬きを続けながらぽかんと口を丸く見た。
「え……」
レイは眩暈で椅子にのけぞり、そのまま倒れていきそうになって島川が手首を持って支えた。レイの肌という肌が染まりつくして、目を回したようになっている。
「レイ」
レイはそのまま頭がふらふらして椅子に落ち着かされて肩を揺らすとそのままぐらぐら揺れた。
「大丈夫か」
「うん……いきなり過ぎてわけわからない……」
レイが目を回していて、島川は何の情緒も準備も場所の用意も無く突然言ったことを反省した。ずっと思っていたことではあったが、今でなくても良かったのではと。元から女というものは状況というものを大切にするようだし、まずったのではと思った。第一、十三歳も年が離れていて元からレイの恋愛の眼中にも無いのかもしれなかったのだ。
島川が後悔し始めていると、レイが「うー」と唸った。
「いいよ」
レイが小さく言い、目を開けた。まだ真っ赤な顔は頬が火照っている。
レイが島川を見てきて、島川は自然と笑顔になっていた。それも満面の。小さくガッツポーズを作り、そんな子供のように喜んだ島川の姿が可愛くて、レイは笑顔で見て両手を取った。
「レイ、幸せ」
月
気付けば見ることのなくなっていた夢。
闇に浮かんだ女が踊る裸体は月に光り、ヴェールを翻し、全てを透かした夜の夢の幻。
島川は穏やかな夜の海が、浜に寄せてはかえす夢を見ていた。あの虚無の暗い崖もなければ、月さえも無い。だが、恐れの風は吹かなかった。空気は柔らかい。
いつでもあの夢は、様々な夢を見た最後に見るものだった。画廊でファンを迎える夢や、祝賀パーティーで多くの画家と交流する夢、イギリス時代の懐かしい師匠や、自身が絵に入り込んで走りまわる夢、別れた妻と行ったことの無い場所へ行き日常を過す夢、全く知らない者たちが争いあう夢など、そういった夢の後、目覚める前に観る夢だった。
島川が辺りを見回すと、背後遠くに、それはあった。崖だ。あの崖。その遥か下は岸壁に白く波が打ちつけ砕けている。
「!」
その崖の上に、白い影があった。髪をなびかせ、ヴェールを翻させて、女がいる。その狭い背を向けて。そして、その彼女の目の前には男がいた。
それは島川自身で、崖から吹き上がる緩い風に縛っていない髪を乱れさせている。その顔は蒼くなって女を凝視していた。見開いた目で、じっと。
女が舞うことは無く、片腕を横に掲げた。すると、崖の上の島川がその淵へと近付いていくのだ。意識のある波打ち際の島川は走った。
「!」
島川はバッと目を開き、瞬きをしてから闇を凝視した。灰色の天井。色味も無く、月光も無い。
「うふふふふ、ふふふ、」
島川はぼんやりと重い頭を傾かせ、視線だけでカーテンで仕切られた方を見た。レイだ。いつもバイトの関係で夜に強いので、スマホでコメディネット小説だとかお気に入りのyoutuber動画を観ているとかで、それで笑っているのだろう。
島川は胸をなでおろした。目元を手で押さえ、夢を忘れようと顔を両手で覆った。
「うふふ、うふ、」
島川は髪を指で掻き上げ、レイのいるほうを見るとベッドから立ち上がった。暗い空間を歩いていくと、カーテンの隙間から微かに派手な色味が照明で漏れている。
確か、こんな言葉があるんだったか。「月が漏るより 闇がよい」。元妻と観にいった伝統芸能の長唄の一節だった。あの二人椀久では愛した女の面影を追った松の林で、男は幻は幻と知り倒れたのだ。それとは形を変えて、結局島川と妻の冴子は別れることとなった。
島川は抑え目にくすくすと笑い声の聞こえるレイに引き寄せられるように、カーテンの前に立った。
「レイ」
「んー? あ。ごめん、うるさかった?」
「入っていいか」
「え、ちょ、待って」
レイはカーテンのなかであられも無い格好、防音もかねてぬくぬく布団を被ってはいるが寝るときは裸派なのでパンツ姿だ。慌てふためいて布団を剥ぎ、時期の寒さに派手にくしゃみをしてメリーゴーラウンドを模した衣装ケースからパジャマを出して着た。
「いいよ」
島川がカーテンをめくると、入って行った。レイの横に座ったのでレイは驚いて島川を見た。
「どうしたの? 目の下、くまみたいになってる。嫌な夢見たの?」
「久しぶりにな」
「蒔幻さん」
レイが島川の広い肩に腕を回し、島川は目を閉じてレイの狭い肩に首をもたげた。
「辛いよね。眠れないなんて」
レイはばりばり眠れるし夢も面白い夢が多くても疲れないという人物なので、分かってあげたくてもどうしてやればいいのかが分からなかった。
「崖を見上げる夢を見た」
「上にいるんじゃなくなったんだね」
「そうだな……そういうことなのかもしれない。あの状況では無いが、もう一人の俺は、まだ崖の上だった」
「蒔幻さん、一度夢診断をしてもらったらどうかな。ほら、何か隠された過去でも思い出すかも」
月の無い夜でも、確かにこんなに派手な場所にいると心は安らぐ気がした。紛れるのだ。まあ、島川の場合ここにい続けたら不安定な情緒にでもなりそうだが、一時的なものなら心的に助かるかもしれない。
「記憶……過去か」
島川は目元を押さえた。
「ここに横になりなよ。一緒に寝よう。その方が安心するよ」
島川は枕に頭を預けながら目元を押さえてうんうん頷く。その周りはぬいぐるみまみれだった。レイは島川に似合わなくて笑ってしまいそうになるのを口を押さえて笑いを堪え、横たわった。
「……?」
島川は既に、眠っていた。
「相当疲れてるんだ……」
レイは腕を撫で、彼女も照明を消して目を閉じた。寝相で島川がレイの肩に手を置き、レイも引き寄せられるままに眠りに落ちてゆく。
レイが暗がりを歩いていると、夜だったっけ、と思いながら地面に視線を落とし歩いていた。
ジョンジョンはお気に入りのもので、レイはにっこり笑って顔を上げて走って行った。だが、笑顔が消えて辺りを見回した。
「ここどこ?」
小さな手で辺りを探ると、風しか当たらない。
「--い」
遠くから、声が聞こえた。
「ここどこー?」
レイも声を限りに言った。
「おーーい」
さきほどの声がする。レイはとことこと歩いていき、暗がりを見回す。あどけない声は遠くまでは届かないのだろうか。
「わ!!」
驚いて、いきなり自分が高いところにいたのを知ってその場に転んで見下ろした。
「あぶない」
レイは震えて、そして途端に不安と悲しさで一杯になって声を出して泣きはじめた。ここがどこなのかも、暗くてみんなどこにいるのかも、何も分からない。
「おい!」
がさがさと音が鳴って、茂みから誰かが出てきた。それは中学生ぐらいの男の人で、恐い顔をしていた。
レイは怯えて立ち上がり、きゃああと叫んで走って行った。
「あぶない!!」
その声と共に手首を掴まれた瞬間、包まれて重力を失った。そして、すぐにどさっと体が当たった。
レイが泣きじゃくりながら起き上がり、顔を上げると男の人が倒れていて、レイはもっと泣きながらあたりを見回した。そこは森で、すぐそこに崖があった。男の人は動かなくて、泣きながらレイはぐらぐら体を動かした。
「--イ! レイ!」
親の声が聞こえ、レイは立ち上がって泣きながら見回した。キャンピング姿をした両親や、姉と妹が森の木々の向こうから走ってきた。レイは抱き上げられてわんわん泣き、そして泣きながら男の人を指差した。
そうだった。思い出した。自分はキャンプ地から迷子になり、森に迷い込んで、いつの間にかどこなのか分からなくなっていた。それで、そうだ。自分を探しに来てくれたのだろう男の人がいきなり現われたことに驚いて落ちたのだ。
レイが唸りながら目を開けると、目元が濡れていた。
「ううーん」
髪を手で撫で乱して、夢の記憶を留めようとしばらく目を閉じた。
「……あれ……?」
レイは目を開け、そして肘をついて眠る島川を見た。黒いボーズ頭の中学生ぐらいの男の人。だから近所のカイくんみたいに野球でもやってそうだった。島川みたいに、目を閉じたときの顔。鼻が額から繋がって高く通っていた。外国人みたいでもあった。
「あー!!」
レイが声を上げ、島川が飛び起きた。
「どうした」
見回し、レイを見た。
「病院で会ったよね! レイが五歳のとき、森で迷子になって、ずっと忘れてたけど、キャンプに行ったの!」
「病院……?」
寝起きでいきなりいろいろ言われて、島川は頭を押さえながらぼやけるままにレイを見ていた。
その記憶は島川からは消えていた。一時的な記憶喪失になったからだ。それでから、島川は頭痛がしばらくは止まずにストレスが溜まり、精神を鍛えようと柔術にのめりこんだ。
島川はレイがわけの分からないことを言うのを、とりあえず聞いていた。
気付くと窓は月が雲から現われたのか、明かりが漏れていた。ああ、闇より月が照るほうがいい、島川が思い、自然とレイを抱き寄せていた。興奮するレイは抱き寄せられて、頬を染めて島川に抱きついた。
レイは思った。運命の人が現われる前兆の夢。こうやって、記憶を紡いで、自然に引き寄せあうまでの、不思議な夢だったのだ。
悪夢
レイは眠りの内に、魘されていた。
「うう、」
キャンプ場で迷子になった夢を見て、それでからバイト先から帰ると眠りにつき、そして魘された。
レイは泣いていた。暗がりでしゃがみこんでいる。嫌な言葉が上から降ってくる。レイがわんわん泣いて、それで嫌な言葉が止むことが無い。
無下にレイの気持ちを踏みつけてくる声。罵倒。わけのわからない酷い言葉の嵐。
レイは泣いていたのを、目を恐る恐る開けて顔をあげた。
そこには少年がいた。レイにいつも、毎日酷いことを言ってくる少年だ。レイはその少年のことが大嫌いだった。わけもわからず精神的にいじめて来る。他の人には言わない酷い事をレイにだけ言ってくる。そして皮肉めいた顔で意地悪い顔で見下ろしてくる。酷い少年。
レイは何でこんな嫌な奴の夢を見なければならないのか、とても嫌だった。
ああ、そうだ。あのキャンプ場で、同じようにまたあの少年が悪辣とした言葉を叩きつけてきたのだ。すごく嫌な言葉。レイは泣いて一人、皆でいた食事の席を立ち上がって歩いていった。泣いた背に、泣けばいいと思ってる、と酷い言葉を叩きつけてくる少年。意味も分からずに毎日毎日いじめて来る少年の声をもう聞きたくなくて、一人で毎日暗い場所に来て泣きくれた。すると遠くからレイだけを抜かした団欒が聞こえてくるのだ。レイは心を闇に浸して泣きそぼった。あの意地の悪い少年の声が楽しげに笑っている。他の人間も。なんて卑劣で悪辣な少年。
レイはただただ泣きそぼって、耐えた。真っ白になる脳はぼうっとして、ただただ少年の吐く嫌な言葉が入ってきてレイを苦しめた。レイはいつも疲れきっていた。少年は住む場所が同じだったからどんなにレイが嫌だと思っても少年はそこにいた。その嫌な少年は他の人間には嫌なことを言わずにさも優しい顔を振りまいていたから黙認されているようで、レイはずっと心に傷を負い続けた。レイはその卑劣な少年が大嫌いだった。
キャンプ場でまた少年が嫌なことを言うので、そこから離れて歩いた。
うつむいて歩き続けた。
すると、いろいろな天道虫や蝶々がいる。レイは次第に木々を見上げたり、草葉を見て回った。ずっと泣いていたレイだったが、お花をつんだり蟻を見ているうちにどんどんと歩いていった。
それで、暗くなっていくことにも気付かなかった。
それで迷子になっていた。
それで歩いていたら、中学生の男の人に驚いたのだ。
レイは涙まみれで目を開けた。
「レイ」
心配そうに顔を見ている島川がいた。窓の外は明るく、小鳥が鳴いている。
「蒔幻さん」
「大丈夫か。魘されていたが」
「うん」
レイは島川にしがみついた。
「なんでもない。きっとバイトで疲れてたんだよ」
島川がパステルカラーで長いレイの髪を優しく撫でた。
レイは小さな頃からお腹も弱くて痩せていた。食事でいつも嫌なことを言われて部屋に行っていたので、余計にストレスを抱えていた。そのためか今でも食べても痩せていて、偏食でも陥ったのかお菓子が好きだった。時間の経過や出会いと共に、あの嫌な少年のことを乗り越えたと思ったのに、まだ心は癒えていなかったのだ。
自分の心を守るために男のようなそぶりで話して、「私」と言わなくなった。「レイ」と自分を言うようになっていた。もう傷つきたくない。傷つくと心が痛くて、痛くて仕方が無くて、どんどん闇に落ちて行ってしまう。怒りに塗れることも、心底疲れるのだ。幸せや期待するなんてことをしなくなったレイは、ギターで弾き語ることを覚えた。作詞作曲をしていると、その闇のなかが静かで、何もなくて、本当に本当の自分とだけ会える場所だと分かる。穏やかに静けさが占める闇には、様々な楽しいことや美しいことだけを浮かばせることが出来た。
けれどどんなに歌を歌って心を癒しても心の奥底は傷を負ったまま。ギターの音色さえ悲しくなると、視覚だけでも彩りを好んで、楽しい世界に塗り替えたかった。夢見がちな可愛い世界。そんななかで過す、自分だけの心の落ち着ける世界。大切な一つ一つを働いてようやくもらったバイト代で少しずつ買って、それで微笑んで見つめた。
レイは島川から離れると言った。
「蒔幻さんがいてくれて良かった」
島川は髪を撫で、微笑んだ。
「そうか。良かった」
ただただ辛い日々だった記憶は消すことは出来ない。
あのレイをいじめてきた相手は何も無かったようにのうのうとしているような奴だ。だから考えたくも無いのに脳裏に浮かぶときは嫌で仕方が無かった。
そんなことを忘れたくて仕方が無かった。
レイは歌を作って心を保った。平静を保つことができるようにもなるために。
眠るのが怖くてレイは起き上がった。
「朝の九時か。起きよう」
寝汗をかいたので、レイはシーツをはがしてランドリーボックスに入れた。
「何かお菓子あるかなあ」
レイはがさがさとお菓子ボックスを漁る猫のようなので、島川はその背に言った。
「もう少し身になるものを食べるほうがいい。食事もコンビニ弁当だけなんだろう」
「うん。そうなんだけどね」
レイは幾つかお菓子を出すと、テーブルに置いた。あまり食事というものは好きなほうでは無いのだ。食べるのは好きだが、家庭的な食事の時間はトラウマのように思う。
レイは島川を見た。
「じゃあ蒔幻さん、一緒に作って食べよう!」
「そうだ。肉屋に連れて行ってやる。なんだかんだ色々ごたついていたからな」
「本当?!」
レイは大喜びで今度はパジャマから服に着替えることにした。彼氏と過しているので寝るときパジャマを着るようになったのだ。
レイはうきうきして支度をはじめた。
絵
島川はレイの絵を完成させると、それを見た。
今度はレイのままの絵を描きたくなり、スケッチブックをめくっていく。いろいろなレイのふとした時の表情が描かれている。
この前はビデオカメラがあったことを思い出し、それでレイと行った公園や街角で会話をしながらホームビデオのように撮った。ビデオカメラを持つのも、元妻といたときやイギリス時代以来のことだった。
島川はビデオカメラの映像を見ながら、嬉しそうに花の薫りを楽しむレイの美しい横顔を見て、一時停止した。
建物の屋上にある硝子ハウスの温室に行ったときのことだ。
カンバスにその顔立ちを描写していく。
柔らかな笑顔の横顔。背にはギターを背負い込み、腰をかがめて花の薫りをかぎ、満面に微笑んでいる。
その温室は花に囲まれた憩いのスペースがあり、そこでレイはギターを弾き語ったのだ。星を旅する可愛らしい歌を歌っていたものだ。
様々な緑の植物と花を描いていき、レイの姿も格好も鮮明に描いていく。蝶々や、それにレイが好きなペガサスも花の茂みから現われた姿で描いた。静かに白い羽根を閉じるペガサスが、優しい眼差しでレイの背を見つめる。レイの足元に、公園にいる猫も三匹ほど描いた。
何時間かして、素描を終えるとそれを見つめ微笑んだ。島川は絵の具を用意するために棚の方へ行く。
レイが帰ってくると、島川が昼寝をしていた。
にこにこ微笑んでから、買ってきた食材をエコバッグから出して行き小さな冷蔵庫に入れていく。コートと帽子を脱ぐ。
ココアを入れてから、すっかり寒くなってきた窓の外を見た。
「? 新しい絵かな」
壁際に布が掛けられた三脚に気付いた。
「今度はどういう絵なんだろう」
ココアで手を温めながら、溶けいるマシュマロをスプーンですくいながら食べる。
「美味しい!」
レイは幸せになって飲み干すと、そこで島川が動いた。
「ううん、」
島川が目を覚ますと、レイが向こうで何かをしていた。二杯目のココアを作っているのだ。
「レイ」
「あ。蒔幻さんおはよう。ココア飲む?」
「そうだな」
レイは鍋に島川の分のチョコレートも加えて練り始めた。バターも焦げないようにゆっくりと。生クリームを加えて、牛乳も加える。
カップに注いでから島川に持っていった。
「新しい絵?」
「ああ。水彩画も完成した」
「見たい!」
レイに微笑み島川は椅子から立ち上がり、森に佇み鳥に囲まれるレイの水彩画を見せた。
「幻想的で綺麗……」
レイがまるで自分ではないかのような絵を微笑んで見つめた。細かいところまで見つめる。民族的な装いや黒い髪はレイの顔を引き立てる。森の風景との対比を生み、小鳥たちが自由気ままに停まったり羽ばたいたりしていた。弦楽器を手にする指も繊細だ。
「レイって意外に黒髪でも良いね」
レイが嬉しそうに島川を見た。
「自分がしたい髪色にすればいい。今のレイも可愛いからな」
「うふふ」
レイは島川に綺麗に微笑んだ。
「蒔幻さん、ありがとう。いつでも蒔幻さんはレイのこと、綺麗に描いてくれるんだね」
島川は一瞬緊張に似た面持ちになってから、頷いた。
「ああ。こちらこそありがとう」
島川はココアを飲み、頬が熱くなるのを隠した。
レイは島川の手に手を重ね、島川はレイを見た。
「ごめんね」
「いきなりどうした。俺はもう大丈夫だ。レイ、辛い記憶はこれ以上は抱え込まないほうがいい」
島川が言い、レイははにかんで頷いた。
「何か夕飯作ろう」
「そうだな」
痛みは時間が経過すると共に様々な出会いを通して癒されていく。何度も同じ嫌なことが起きたり思い出したらあまりにも辛いことだ。またその時は出会いで痛みは癒される。今までがそうだったように。辛いことがありすぎると人に会うことすら嫌になるが、世の中は嫌な人間ばかりでは無い。一握りの善い人に出会って、辛さを分かち合いそして乗り越えていけるのだ。
昼下がり
「そう……。そう。うん。わかった」
レイは相槌を打ち、挨拶をしてから電話を切った。
窓の外を、目を細め見る。
室内にはゆるやかな昼下がりの陽が差し込み、薄いレースのカーテンが囲う。その床にも、そしてベッドに座るレイの足や、そしてロングTシャツの胴と、顔立ちにも陽は射していた。その光沢を受ける唇は、微かに微笑んでいた。穏やかに。
窓を行く小鳥は梢に停まっては飛び立ち、寒空へ飛んでゆく。冷たく心地よい風はレースカーテンを、レイの頬や髪にまで流れ揺らし、瞼を伏せさせる。天井に顔を向けて、肩を上げ下ろすと、目を開き天井を見た。
「そっか」
レイは立ち上がり、コートとマフラーを着て仕切りのカーテンを引き、部屋を後にした。
頬を切るように外気は冷たい。陽は頬を暖めるけれど、影に入ると凍てついて、明るい場所を歩く。レイは微笑んでいた。背中が軽い気がした。
雪は今は振りそうな感覚は無いけれど、夜のうちに積もった雪は路肩に寄せられて雪だるまになったり、自然のもので飾られて看板代わりになっていた。コートに手を突っ込んでマフラーに顔をうずめ、爪先も凍える前に歩いていく。パステルカラーの長い三つ編みが揺れるぐらいの速さで。
レイがこの辺りのカフェとか小さなお店などを外側から眺めながら歩いていくと、しばらくして島川を見つけてどの店のドアを開け入って行った。
島川は淡い色味が視野端に近付いてくることに気付いて、レイを見た。レイは微笑んで歩いてきて、手を緩く振って島川の横に来た。
「今から公園にでも出かけるのか」
「うん、それもいいかもね。蒔幻はどう?」
「そうだな。猫の描写もしたいから後から向かうか」
このアンティークショップの店主が来ると二人を見て微笑んだ。
「何か紅茶かハーブティーでも飲んでから行くか」
「うん」
この店はいろいろな茶葉や古いティーカップセットなども売っており、横でそれらを楽しめるスペースもあるので、二人はそちらへ行き店主にオーダーしてアッサムティーとダージリンを頼んだ。
カウンターの方から店主が声をかけた。
「最近、島川さんも元気になってきたね。レイちゃんのおかげかい」
「レイのおかげ?」
レイが島川を見ると、島川はふと微笑んでから「うん。それはレイのおかげだ」と言った。
「意外な組み合わせって思う?」
レイが紅茶葉を蒸らしている店主に聞くと、店主はうれしそうに二人をしばらくは見つめた。
「表情が本当に二人とも良い。それは似合うということさ」
「うれしい」
レイがにこにことした。
紅茶を出されてから湯気まで薫る紅茶を楽しむ。
島川は、今日のレイは空気感が今までと変わったと思った。どこかしら軽やかな風のように、粉雪が吹き上げるように。何かいい事でもあったのだろう。
公園に来ると冬の匂いがする。しんとした匂いだ。猫たちも寄り固まって、雪の積もっていない陽のあるところで目を閉じて日向ぼっこをしている。その毛に陽があたり、繊細に光らせている。眠った木々は鳥の休憩所になり、ベンチは所々を人が埋めていた。
島川はスケッチブックに猫を描いていく。レイは一人、散歩をして歩いていく。からからと風に舞う枯葉の音。子供たちが走っていく声。ボールが跳ねる音。寒空のギターと小さな太鼓を叩く音。演劇の練習をする集団。鳥の鳴き声が駆けてゆく。
レイはずっと、微笑んで見ていた。長い三つ編みも揺れないほどの足並みで。
雪は眩しい。
淡いすみれ色のロマンティックな形態のコートと、黒に銀の天使柄のタイツと、黒いフリルと懐中時計柄のついた白いマフラーと、肩から斜めにぬいぐるみ素材の淡いピンクの薔薇のバッグをかけて、今日はカチューシャで黒く短い角をつけて歩いていた。
子供たちの笑い声。走っていく音。雪だるまをつくる女子高生や、雪合戦をする大学生グループ。
みな楽しげに遊んでいる。レイはそんななかを歩き公園を楽しむ。
闇の肖像