テンプレ通りに出会った2人が人生のテンプレを乗り越える話(前編)

テンプレ通りに出会った2人が人生のテンプレを乗り越える話(前編)

※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

# 1

 東京、大手町。大洋生命保険(たいようせいめいほけん)株式会社。
 水野佑希(みずのゆうき)の所属部署がある4階は、部屋の仕切りがないオープンオフィスとなっている。
 エレベーターを出てオフィス内に入ると、いまでもときどき、その開けた空間に圧倒されそうになる。
 キーボードを叩く音、電話の呼び出し音に、それに応じる声、大量の印刷物を吐き出すコピー機の音……それらを通り過ぎると、佑希の所属する事務統括部のデスクに辿り着く。
「戻りました」
 デスクに荷物を置く前に、真っ先に課長の前島(まえじま)に挨拶をする。
「おかえり。事務センターはどうだった?」
 前島はPCから目線を上げ、佑希の方を見た。浅黒い肌に、白髪交じりの髪。安定感のあるがっしりとした体つきは課長席に相応しい。
 佑希は苦笑しながら答えた。
「相変わらず現場はこちらに手厳しいですが、なんとか調整はつきました」
「ははっ、ご苦労さん」そう言って前島はPCに目線を戻した。「ま、詳しくは報告書上げといてね」
「はい」
 デスクに戻ると、PCの電源を入れる。
「おつかれ、水野ちゃん」
 声を掛けたのは、佑希の4つ年上の先輩、古山律子(こやまりつこ)だ。シンプルなボブヘアーに、落ち着いたナチュラルメイク。眉だけはキリッと上を向いて、仕事ができる女という雰囲気を際立たせる。
 今日は、柔らかい素材のグレーのジャケットに、清潔感のある白のインナー。紺色のタイトスカートと、それに色を合わせた紺色のパンプス。
 36歳という年齢を感じさせない美しさ、かといって若作りにならない年相応の装いを物にしている。その姿は、佑希の憧れであった。
「田中センター長に嫌味言われなかったー?」古山はあっけらかんと訊いた。
「ええまあ」佑希は肩をすくめた。
「あの人は、いつもああだから。まあ、気楽にね」
「ありがとうございます」
 古山が席に戻ると、佑希は鞄から手帳を取り出した。
 ミーティングの報告書、明日の打ち合わせの資料作り、メールも何本か返さないといけないし、合間に現場からの問い合わせも入るだろう。今日は何時に帰れるかな。
「あのう……」
 派遣の女の子が、隣の席からおずおずと佑希に声を掛けてきた。彼女は、半年前に寿退社をした後輩の代わりに入社してきた子だ。どこかの短大だったかの出身で、仕事は丁寧だがなんともマイペース。とても退職した後輩のようには頼れない。
 彼女は綺麗にマスカラを塗った睫毛を伏し目がちに、佑希の手元を覗き込む。
「戻って早々にすみません。頼まれていた書類の件で、分からないことがありまして……」
 しょうがないなあ。自分の帰りを待ち構えていたんだろう。佑希は笑顔で彼女の方を向く。
「いいよ、どこらへん?」
 彼女はぱっと顔を明るくした。

 ミーティングの報告書を前島に提出して席に戻ると、そのタイミングを待っていたかのように電話が鳴りだした。
「大洋生命事務統括部、水野でございます」
「大洋生命テレサービス、インバウンドの澤井です」
 大洋生命テレサービスとは、大洋生命のコールセンター業務を一括して受託している子会社だ。澤井は、死亡保険分野のインバウンド、つまり顧客から架かってきた電話を受ける業務を担当している係長で、同じく死亡保険分野の事務統括を担当している佑希とは顔なじみの相手だ。
 その澤井がどんな用件だろう。佑希は少し、嫌な予感がした。コールセンターの各チームをまとめるSV(スーパーバイザー)ではなく、係長が直々に電話をしてくるときは、大抵厄介な案件だ。
「お客様がね、うちで同性パートナーを保険金受取人に指定できない理由を文書で回答しろっておっしゃってるんですよ」
「文書ですか。それはまた……」
 やっぱり厄介な案件だった。
「もちろん期間はいただいています。ご希望に添えるものがお届けできるか分からないとも伝えてありますし。まあ、渋々ですが」
「それは助かります。確か前に事務センターで似たような事例があったと思うので、ちょっと確認してみます」
「さすが水野さん、持ってる引き出しが違いますね」
「いや、弊社の見解となるとコンプラにも確認しないとですけど。まずは、一旦概要だけメールをお願いします」
「いつもすみません。よろしくお願いします」
 通話を終えると、佑希はOutlookの検索ボックスにいくつかの単語を入力した。類似の事例のメールはすぐに見つかったが、あまり今回の事例の参考にはならなそうだった。ここはコンプラ、つまりコンプライアンス部の見解を仰ぐしかない。
 佑希自身は、特段その手の人たちへの抵抗や差別意識はないつもりだったが、仕事の対応となるとまた別だ。彼らも必死なのかもしれないが、どうしてそこまでしなければいけないのだろうか。
 大洋生命では同性パートナーを保険金受取人にすることはできないが、最大手2社ではすでに可能であり、ネット専業保険や外資系にも対応が進んでいるところは多い。わざわざ大洋生命を選んでもらえるのは喜ばしいが、どうして最初から対応可能な会社を選択しなかったのだろうか。
 佑希には彼らの心情が理解できなかった。
「お先に失礼します」
 時計の針が5時を指すと、派遣の女の子は荷物をまとめて席を立った。
 今日はやけにいそいそとしているな。佑希は、彼女の後ろ姿を見ながら思った。淡いピンク色のワンピースの裾が、歩くたびに揺れている。そういえば、ネイルも新しくなっていた。デートの予定でもあるのだろうか。それに比べて自分は……
 そう考えて思い出す。佑希は周りを見回すと、鞄からスマホを取り出した。
 すっかり忘れていた。大学のゼミ仲間、美香(みか)への結婚祝いのメッセージを、今日までに送らなければいけなかった。
 文面はもう考えていた。あとはメッセージを取りまとめている友人宛に、送信ボタンを押すだけだ。
 佑希はもう一度文面を確認し、送信ボタンを押した。小さく溜め息をつくと、ぼんやりと空色の画面を見つめた。美香にだけは、先を越されることはないと思っていたのに。
 20代後半のとき、周囲に結婚ラッシュが訪れた。ちょうどそんな頃に美香は、勤務先の食品メーカーから、海外の現地法人に出向となった。それ以来、現地で華々しく活躍してきたという。しかし、そんな彼女も、向こうで出会った日本人と恋に落ち、相手の帰国とともに退職して結婚することになったのだ。
 佑希はスマホをしまい、PCに向き直った。少し目を離した隙に、他部署の部長からメールが来ている。
 みんなそれでいいのか? せっかく有名大学を卒業して、大手企業に就職して、責任ある仕事を任されてきたんじゃないのか? これからの時代、それが女の生き方だったんじゃないのか? それなのにみんな、家庭に入ってしまうなんて……
「はい、水野ちゃん」
 唐突に、目の前に缶コーヒーが差し出された。古山だった。
「さっきから難しい顔してるから」
「あ、ありがとうございます……」そう言って佑希は缶コーヒーを受け取った。
「なんかうまくいってないの?」
「いえ、大丈夫です」佑希は慌てて答える。まさか個人的な悩みで考え込んでいたとは言えない。
「そう? あんまり抱え込まないでね」古山は笑顔でそう返すと、自席に戻った。
 佑希は缶コーヒーを開けると、静かに口をつけた。
 古山はいつも、山のように降ってくる仕事をテキパキと捌き、周囲も驚く発想力と頭脳で仕事を推し進め、他部署の役職者や役員からも一目置かれている。それでもなお、こうして自分の表情の変化に気づいてフォローをしてくれる。
 結婚も出産もしていないが、彼女は自分の周りで最も輝いている女性だ。
 忘れてはいけない。私が見習うべきはこちらなのだ。

# 2

 中央線、荻窪駅。
 混雑したホームで、律儀に列をなす人々。
 そこに電車が近づく。窓から見える車内は満員で、狭い空間にどれだけたくさんの人間を詰め込むことができるか挑んでいるかのようだ。
 まるで奴隷だな。武田恵人(たけだけいと)は、電車から吐き出される人々を眺めながらそう思った。いや、自分もそのうちの1人か。
 そのとき、ポケットの中でスマホが振動した。
 こんなときに。恵人は、ポケットに手を突っ込む。
 液晶画面には“ヒューマンリソーシング”の文字が光っていた。
 今日から派遣で働き始めるという日の、派遣元からの電話。この電車に乗るより優先だろう。
 電車待ちの列が動き、人の流れに飲まれそうになる。その流れに逆らおうと、人と人との間に身体をねじ込んだ。迷惑そうな顔が見える。舌打ちが聞こえた。黒縁眼鏡が鼻の下までずれる。こういうとき、背がもっと高ければいいのにと思う。やっとのことで、ホームの空間に身を踊らせると、眼鏡を直し、応答ボタンを押した。
「お待たせしました。武田です」
「あ、武田さーん? ヒューマンリソーシングの城崎(しろさき)ですー」
 飄々とした男性の声が聞こえる。派遣会社の社員だ。派遣される方でなく、する方の。確か入社4年目で、自分より7つも若いはずなのに、自分に対する敬意は皆無だ。
「おつかれさまです」
「あのさー、突然でほんっと悪いんだけどー」
 不吉な切り出し方に、恵人は身を強張らせた。まさか、仕事を始める前から派遣切りじゃあなかろうな。
「実は、今日から大洋生命さんの本社に行くはずだった子が、急にバックれてー」
「はい?」
「事務センターはまだしも、本社さまに穴を開ける訳にはいかなくってさー。武田さん、悪い、これから本社に向かってくんない?」
「ええっ!?」
 恵人は思わず大声を出した。
 確かに自分は今日から大洋生命で働く予定だった。けれども勤務地は本社ではなく、家から数駅のところにある、事務センターという事務業務の拠点。そこで生命保険の契約書の内容をちまちまと入力するはずだった。それがいきなり本社とは。都内の一等地、自分とは縁遠いエリートたちの世界。光栄なことかもしれないが、話が違う。
「場所は後でメールするから。ま、本社っていっても、仕事内容はそんなに変わんないし」城埼は軽い調子で返した。
「けど、いまからじゃ始業に間に合いませんが……」
「大丈夫、先方にも事情は話してあるから」
「……分かりました」恵人は渋々答えた。そしてつけ加える。「それは、今日だけの話ですか?」
「いやー、すぐには次の人も決まらないだろうし、先方もころころ人が変わるのはよろしく思わないからねえ。しばらくの間頼みますよ」城崎は悪びれもせず答えた。
 恵人は頭を抱えた。けれども、上から言われてはしょうがない。もともとこっちには仕事を選ぶ権利なんかないんだ。
「分かりました」
 恵人は電話を切ると、電車待ちの列に並び直した。事務センターは私服可の職場だったが、念のためスーツを着てきて本当によかった。

 大手町駅から数分歩いたところに、目的の建物はあった。蜂の巣のように規則的な窓が並ぶ、細長いビル。そこが大洋生命の本社だった。
 今日からここで働くのか。恵人は息を飲んだ。
 大洋生命といえば、日本で五本の指に入る大手の生命保険会社だ。最近は有名女優を起用したCMが話題だ。働けなくなっても、私があなたの支えになります――確かそんな感じのコピーだったと思う。
 恵人は緊張の面持ちで自動ドアをくぐった。
 出迎えてくれたのは、30代後半か40代前半くらいの女性だった。眼鏡を掛け、上下ともグレーのスーツに身を包んでいる。
「お待ちしていました。私は保険金部の青柳(あおやぎ)と申します」女性はにこりともせず言った。
「ヒューマンリソーシングの武田と申します。すみません、初日からこんな時間になってしまって」
 自分の責任ではないものの、一応は会社代表として、恵人はそう答えた。
「私たちもよく分かっていないんですが……なんだか大変だったようですね」青柳は困惑した様子で答えた。
 事情は話しておくと言ったのに。恵人は心のなかで城崎を呪った。
「とにかく、オフィスまで行きましょう。ゲートがありますので」
 青柳はそう言って、カードケースに入った社員証を渡した。恵人はそれを首から下げる。先に進む青柳に倣って、駅の改札のようなゲートに社員証をかざした。
 恵人はちらりと青柳の社員証を見た。首のストラップ、プラスチックのカードともに青色だ。
 恵人の目線に気づいたのか、青柳は説明した。
「社員証の色は3種類あります。青が社員、黄色が派遣社員、赤が来客用です」
 なるほど。恵人は納得した。それで青柳と社員証の色が違う訳か。
「大洋生命のオフィスは、このビルの2階から5階です。私たちの働く保険金部は2階にあります」
 これだけ高いビルでも、この会社のオフィスは4フロアだけなのか。恵人は意外に思った。
 階段を上がり、2階に着くと、まずロッカー室に通される。
「保険金部をはじめ、2階のオフィスでは大切な個人情報を扱いますので、携帯電話などの私物はロッカーにしまっていただきます。飲み物など必要なものは、備え付けのビニールバッグに入れて持ち込んでください」
 青柳の説明を受けながら、ずらりと並ぶロッカーの間を進む。
「武田さんのロッカーはこちらです」
 そう言って青柳が指差したロッカーには“中村”の名札が貼ってあった。青柳もそれに気づき、「失礼」と言って名札を剥がした。
 なるほど、それがバックれた犯人の名前という訳か。

 保険金部は、机が8つ固まった島が、10個ほど並んでいる部屋だった。
 皆デスクトップ端末に向かって、一心不乱にデータを打ち込んでいる。多くが黄色い社員証だ。意外にもスーツ姿は少なく、ワイシャツやポロシャツの人が多い。
 その中に、ぽつりぽつりと青い社員証の人たちが見える。1つの島に、2人ほど。男性はワイシャツかスーツ、女性もそれなりにフォーマルな格好をして、ノートPCに向かっている。
「部長も外出していますし、挨拶は明日の朝礼のときにしましょう。こちらが武田さんの席ですよ」
 恵人が席に座ると、青柳は自分の席に書類を取りに行った。恵人は机の上を眺める。机のうえには、文房具類と、プラスチックのケースに入った日付印が用意されていた。
 どうせ日付印も“中村”になっているんだろうな。そう思ってケースから日付印を取り出すと、本来名前が入る部分には“46”という番号だけが刻印されていた。
 違う色の社員証に、番号だけの日付印。なるほど、これが派遣で働くということか。

# 3

 大洋生命5階、会議室にて――
 常務の小窪(こくぼ)は、部長たちに向けて言い放った。
「当社も、もっと新規開拓のアウトバウンドを強化しなければ」

「なに、この目標値!? いまのコールセンターの人員でどう達成するの!」
 佑希は頭を抱えた。これをコールセンターに伝えたら、反発は必至だ。しかし、常務から下りてきた指示ではやむを得ない。

 埼玉、大洋生命テレサービス株式会社。
アウトバウンド部門、つまりインバウンドとは反対に営業などの電話を会社から顧客に架ける業務を担当している部門にて、課長の吉村は激昂した。
「ふざけないでください! 私たちに休むなって言うんですか!」
 受話器の向こう、佑希は頭を下げた。
「そんなことは言っておりません。御社のインバウンド部門と応援体制を組んでいただいて……」
「インバウンドも手一杯です! 失礼ですが、御社はこちらの仕事を理解されていないんじゃないでしょうか?」
「いえ、そんなことは……」

「はあー」
 電話が終わると、佑希はデスクに突っ伏した。
「ご苦労だねえ」
 頭の上から、聞き覚えのあるダミ声が響いた。佑希は慌てて頭を上げる。
柴田(しばた)さん! おつかれさまです」
 声の主は、総務部の古株、柴田だった。社員登用されたのは数年前だが、20年以上前からパートとして勤めており、総務部で彼女に敵う者はいないという噂だ。紫がかった髪色も、派手なネイルも、直接咎める者は誰もいない。
「たまたま通りかかったら、ずいぶん苦労してるようだね。はい、ご褒美。クッキー焼いてみたの」
 柴田は、ほぼ真っ黒に近いアイシャドウを塗った目を細めてそう言うと、きれいにラッピングされたクッキーを佑希に手渡した。
「わあ、かわいい。ありがとうございます」
「柴田さーん、こんなところまで来て、さぼってるんじゃないだろうな」
 そこに前島が割り込んできた。
「失礼ねえ。ほら、あなたもどうぞ」柴田は笑いながらそう言って、前島にもクッキーを渡そうとした。
「遠慮しとくよ」前島は目の前で手を振った。「ほら、ここは女子会じゃないんだ」
「はいはい」柴田は特にムッとする様子もなく、にこやかにその場を去っていった。

 武田恵人は、“竹田”の名札が貼られたロッカーから財布を取り出し、5階の社員食堂に向かった。
 3日目の勤務も半分まで終わり、早くもコツをつかめてきた。本社勤務なんて何をするのだろうと思っていたが、恵人の仕事は要するにデータ入力だった。城崎の言う通り、事務センターで行うはずだった仕事と大して変わりない。それに、以前の仕事に比べたらなんと気楽なことか。
 あの頃は大変だった。やっぱり、零細企業のSEなんてなるものじゃなかった。繁忙期には何度も終電帰り、時には終電も逃し、会社に泊まり込んだこともあった。本当にあの頃は……
 そんなことを考えながら会計を済ませ、トレイを手に座席を探していると、懐かしい顔が視界に入った。昔を思い出しているうちに、記憶と現実が入り混じってしまったのだろうか。
 恵人は立ち止まり、目の前の席で食事をしている男性を、もう一度、ゆっくり見た。間違いではなかった。恵人は、男性の方を向いて口を開いた。
久米川(くめがわ)……?」
 その声に男性は顔を上げ、恵人を見た。
「武田……? 生きてたか!」彼は、立ち上がって、声を上げた。
「よせって、大声出さないでくれよ」恵人は慌ててそう返した。
「悪い悪い。おお、座れよ」彼は向かい側の席を手で指し示した。彼も黄色い社員証だ。
 久米川は、以前恵人が勤めていたシステム会社の、唯一の同期だった。こんなところで再会するとは思ってもいなかった。
「武田、おまえどこにいんの?」久米川は訊いた。
「4階の保険金部。最近、派遣で働き始めたんだ」恵人は答える。
「なんだ、そうだったのか」
「久米川こそ、なんでこんなところにいるのさ」
「おまえが抜けた後、金融系システムの会社に転職したんだよ。いまは11階にある大洋生命システムズって子会社に常駐さ。幸いにもここの社食が使えるから、たまに来てるんだ」
「ああ、なるほど」
 常駐とは、自社でなくクライアント企業に常駐しながら働くという、IT業界によくある働き方のことだ。周りはみんなお客様だから、自社で働くよりずっと気を遣う。
「どんな感じ? 大変じゃない?」恵人は声を潜めて訊いた。
「ま、今度飲みながらでも話そーや」久米川は苦笑まじりに答えた。どうやらここでは話せない話らしい。
「武田はいつからここに?」
「今週からだよ」
「そっか、そっちの話も、飲みながらでも」
「ああ」

 同じ社員食堂にて――
「そういえば、水野さんと直接お会いするのは、お久しぶりですね」
 50代前半ほど、眼鏡の奥に穏やかな笑みを浮かべた男性は、佑希に向かってそう言った。
「そうですね、和智(わち)課長。商品開発部の方はいかがですか」
 自分の名前が呼ばれたので、佑希はフォークを皿の上に戻し、笑顔でそう答えた。
「おかげさまで新商品の『くらしサポート』も好調で、一同ほっとしているところですよ」と和智は返した。
 「くらしサポート」とは、今年発売された就業不能保険だ。病気やケガで働くことができなくなった場合に、給付金を受け取ることができる。発売の前後は事務統括部も慌ただしかった。佑希は担当外なので特に関わることはなかったが。
「いやあ、去年は本当に大変だったもんな、和智」と前島がねぎらう。
「まあな」
 和智が前島の方に向き直ったので、佑希はまたフォークを手に取った。ボロネーゼのソースが白いジャケットにつかないよう、丁寧にパスタを口に運ぶ。
「けど、僕はみんなに、あれやってこれやってって言うだけだから。今回は、橋本くんがずいぶん頑張ってくれたからね」
 和智はそう言って、隣に座っている若い男性の方を見た。精悍な顔立ちの彼は、首を小さく横に振った。若くして商品開発部で活躍しているだけあって、聡明そうで、隙を感じさせない。事務統括部にはいないタイプだ。
「ほお、それは頼もしい。おまえらも見習えよ」前島はそう言って、佑希と、その隣にいる伊藤に目をやった。伊藤は佑希の3つ下の後輩の男性だ。
「いやいや、伊藤さんは新商品の件でもだいぶ頑張ってくださったし、水野さんも会議資料なんかでよくお名前を見かけてるよ。2人とも頼もしい部下じゃないか」和智は、たしなめるように前島に言った。「逆に、あんまり働かせすぎてないか心配だよ。特に水野さんは、女性なんだから」
 女性なんだから。その言葉が佑希には引っかかった。別に女性だからと言って手加減してほしい訳じゃない。和智には何度も会ったことがあり、そのときは穏やかで良い印象を持っていたが、実は女性を下に見る人だったのか。佑希は少し失望した。
「ふん、『女だから』なんて、時代錯誤もいいところだ。仕事するのに男も女も関係ねえよ」
 前島はきっぱりと言い放った。前島が味方になってくれて、佑希は少し安心した。
「失礼、前島のところで働くと婚期を逃すって定評だから、つい心配になってしまってね。余計なお世話だったかな」和智は穏やかな口調で、しかし鋭く言った。
「ふん、心配には及ばねえぞ。最近そうでもねえから。俺としては腰掛けで働こうって奴は困るんだがな」と前島は返す。
 橋本と伊藤は、食事を取りながら、無言で彼らのやり取りを聞いている。和智はまだ心配そうに、何か言いたげな顔をした。
 前島は、定食に添えられていたヨーグルトに手を伸ばした。そして、「おっと」と小さく声を漏らした。
「失礼、スプーン取ってくる」
 前島はそう言うと席を立ち、カウンターの方に歩いて行った。
 和智は、前島の後ろ姿を見届けると、笑顔で佑希に訊いた。
「本当に不満はないの? 忙しく働いてないで結婚したいとは思わないの?」
 意地の悪い人だ。佑希は思った。それを押し込めて笑顔で返した。
「不満なんてありません。結婚は、良い人がいればいずれ、とは思っていますが」
 後半は、この手の質問が来たときに使っている常套句だった。和智はそれを聞くと、憐れむように言った。
「良い人、ね。うちは給料は良いけど、それだけ稼いでると大変だ。自分より稼いでいる旦那さんを見つけないといけないからね」

 俺たちは一服していくから。男性陣はそう言って階段の向こうにある喫煙所へ消えていった。
 4階までは階段で一つ下りるだけだったが、彼らと同じ方向に向かいたくなくて、佑希はエレベーターの方へ歩いた。
 軽く笑って返したが、それでも和智の言葉は胸にちくりと刺さっている。
 エレベーター前に着くと、ちょうど手前のエレベーターのドアが閉まりかけているところだった。次で下りればいいか。そう思ったところ、中にいる男性が自分の方を見た。

 恵人は、食事を終えると、1階のコンビニに寄るという久米川と一緒に下りエレベーターに乗った。エレベーターは空だった。1階と3階のボタンを押し、“閉”ボタンを押す。すると、閉まりかけたドアの隙間から女性の姿が見えた。恵人は慌てて“開”ボタンを押した。
「すみません」
 女性は低い声でそう言って、中に入ってきた。そして、恵人の前に手を伸ばし、4階のボタンを押した。
 その横顔は、どこか不機嫌そうに見えた。すっと整った眉の間にはしわが寄り、長い睫毛をした目は、もの憂げに伏せられている。けれども、不機嫌な顔をしていてもなお、滲み出る上品な美しさがあった。肩より少し下まで伸びた長い髪。白のジャケットに、紺色のワンピース。そこから伸びる、細い脚。首の社員証は青だ。
 エレベーターが動き出すと、彼女は恵人から少し離れ、ドアの前に立った。その僅かな動作で、長い髪が揺れる。ほのかに甘い香りがエレベーターに広がった。
 こんな美しい人に、何があったのだろう。笑えばきっと、もっと美しいのに。恵人は無意識に彼女を見つめた。
 あっという間にエレベーターは4階に着き、ドアが開く。彼女はドアの向こうへ歩いていってしまう。
 恵人は、背筋を伸ばして歩いていく彼女の姿を、ずっと見ていたいと思った……
「どうした?」
 久米川の声で、我に返る。慌てて“閉”ボタンを押そうとして、反対に“開”を押してしまう。
 また慌てて“閉”ボタンを押し直した。ドアが閉まると、久米川は笑った。
「あの女の人?」
 久米川は鋭かった。
「いや……その……めっちゃ美人じゃなかった?」
 恵人は顔が熱くなるのを感じた。
「やめとけ。4階って、なんとか管理部とか、お偉いさんばっかりがいるところだぞ? 手の届かない高嶺の花だ」
 別にそんなんじゃない、反論しようと思ったときには、エレベーターのドアが開いていた。
「じゃな」
 そう言って、久米川は手を振った。恵人はちらりと久米川を振り返りながら、エレベーターを降りた。
 エレベーター前で一人、恵人は彼女の顔を思い浮かべた。
 そんなつもりはない。手が届くなんて思っていない。
 ただ、あの人に笑ってほしいと思った。それだけだ。

# 4

 東京、高田馬場。
 佑希は、帰宅するとそのままベッドに倒れ込んだ。
 今週も一段と忙しかった。身体が悲鳴を上げている。
 明日は一日中寝ていよう。それから明後日に溜まった家事を片付けよう。
 そういえば、前島は明日釣りに行くとか言っていたな。佑希はぼんやりと思い出した。どうしてこの激務の後に、遊びに行けるのだろう。
 そうか。前島は、中学高校と野球部だったんだっけ。持っている体力が違うのだろう。それに……
 考えかけて、やめた。男だから女の自分より体力がある、と言い訳にしたくはなかった。
 しかし、薄々と気づいてはいた。体力の話だけではない。前島には専業主婦の奥さんがいると聞いている。毎日の食事をどうするか考えることも、週末に溜まった家事を片付ける必要もないんだ。
 だからといって、女の方がつらいと甘えたくはない。男にだって、男にしか分からない苦労があるのだろう。それでも……
「ずるいなあ」
 しんとした部屋の中で、佑希はひとり、つぶやいた。

「乾杯!」
 客たちの騒ぐ声に、呼び出しボタンの音、それに応える店員の声。
 周りの喧騒に対抗するように、恵人と久米川の2人は、勢いよくグラスを合わせた。
「いやー、こうしてまた武田と飲めるなんて思わなかったよ」久米川は、ビールジョッキを勢いよくテーブルに置くと、涙を拭う仕草をした。
「ばーか、大げさだよ」恵人は笑って、レモンサワーに口をつけた。
 真横でコールの掛け声が響く。大学生だろう。
「……ったく、元気いいなあ」と久米川。
「もうちょっと離れた席にしてくれればよかったのにね」と恵人は返す。
 けれどもしょうがない。2人の給料では、大手町の良さそうな飲み屋には手が届かず、電車を下って学生街の安いチェーン店に落ち着いたのだ。メニューを選ぶのも、価格を気にしながら。酒が薄いのは、酒にあまり強くない恵人にはちょうどいいが。
 横の学生グループに目をやると、茶髪の男が薄着の女に言い寄っている。
 あいつらは楽しそうでいいなあ。恵人はレモンサワーを流し込んだ。

 ああいけない、化粧くらいは落とさないと。
 そのまま眠りそうになったところを、佑希は精神力で振り切った。シャワーは明日の朝に回してもいいものの、化粧は落としておかないと、この年齢の肌には厳しいものがある。
 本当に、化粧は朝も夜も面倒臭い。それがなければ睡眠時間だってもう少し長くなるのに。
 そう思いながら、佑希は洗面所に向かった。

 久米川はだいぶ酒が回って、会社の悪口を言い続けている。
「俺から言わせると、この会社、相当やばいぞ」
 恵人はウーロン茶を啜りながら、適当に相槌を打つ。
「上の人たちがシステムのことをまったく分かっちゃいない。予算も減らされて、みんなギリギリだ。いま売り出してる新商品だって、相当カツカツのスケジュールで回してたんだぞ」
 久米川は顔を近づけ、声を低くした。
「このままじゃ絶対、何か問題が起きるぞ」
 恵人は曖昧に相槌を打った。
 きっと久米川自身、何かが起きればいいと思っているんだろう。恵人は思った。恵人自身もそうだったが、忙しさが限界を超えると、すべてがどうでもよくなることがある。いっそ自分の手ではどうしようもないくらいの大問題が起きればいい。そんな思いがよぎるようになるのだ。
 恵人は同情の目で久米川を見つめた。

 翌週。
 佑希は、1日の仕事の段取りを手帳に書き始めた。今日は定時までに仕事を終えなければいけない。
 優先すべきは何かを考えていると、前島に呼ばれた。佑希は、思考を中断して課長席に向かう。
「水野さん、ほんと悪いんだけどさあ」
 前島にそう切り出され、嫌な予感がした。
「毎年今頃の時期、事務部門の業務フロー点検ってのをやっててね」
「はい」
「いつも幸田(こうだ)さんが担当してくれてたんだけどさあ」
「……はい」
 幸田とは、現在育児休業中の、佑希の後輩だ。
「今年は水野さんにお願いしたいんだ。ほら、古山さんや伊藤くんは、まだ新商品関連でいろいろあるからさ」
「…………はい」
「それで、非常に申し訳ないんだが……」
 前島は、言い出しにくそうに、頭をかいた。
「コンプラへの提出期限が……来週なんだよねえ」
 佑希は無表情になった。
「ええと、そういうのって、もう少し早めに……というか、毎年の業務なら、前任者から前もって引き継ぎとかなかったんですかね……?」
「幸田の奴め、本当は今頃戻ってきてるはずだったんだが……。まあ私の監督責任もある。申し訳ない。助け合いだと思って、引き受けてくれ」
 上司に詫びられてはしょうがない。
 大まかな仕事内容を聞いてメモすると、佑希はふらふらと自席に戻った。
 助け合い。
 仕事の段取りを書き換えながら、ぼんやりと思った。
 大洋生命は、女性に優しい会社だ。就活の際、説明会で何度も強調された。産休、育休も取りやすく、育休に至っては3年間取得可能で、時短勤務や退職後の再就職も可能だ。入社後も、実際に制度を利用している人の多さに驚いた。
 だが、それは多くの独身男女の犠牲のうえに成り立っている。休暇中の業務は残りのメンバーに割り振られ、勤務時間は増えるばかり。穴埋めで派遣社員が入ることもあるが、結局はこちらが一から業務を教えなければいけない。
 助け合いというが、助かるのは制度を利用する機会に恵まれた人だけ。果たしてこの先、自分にそんな機会が訪れるのだろうか。毎日夜遅くまで働き通して、休日は疲れで何もできないままで……
「えー伊藤くん、小窪常務の誕生会、行けなくなっちゃったの!?」
 前島の大声が響く。
「すみません、先方がどうしても今日の夕方でないと、と……」
「そんな、当日に困るよー。常務の手前、席空ける訳にいかないし、キャンセル料だって高いのにさあ」
 前島は呑気でいいな。佑希は頭を抱える前島を見やった。
 いや、元はと言えば盛大な誕生会を要求する小窪の方が呑気なのだ。小窪の担当部門はコンプライアンス部とシステム企画部、そして我々事務統括部。他の部門の者ならともかく、担当部門に所属する正社員は、余程の事情がない限り、この恒例行事からは逃れられないのだ。
 しかし、定時で仕事を終わらせようとせっせと努力している理由がこれでは侘しくなる。楽しい用事でも待っているなら張り合いも出るというのに。
 課長席の電話が鳴り、前島はよそ行きの静かな声に切り替わった。静かになったところで、佑希はメール画面に向かう。
「ちょっと、誰かー。あ、水野さーん」
 再び前島の声が響く。
 何で私ばっかり。イライラしながら佑希は席を立つ。
「悪い! この資料さ、11階の水野谷(みずのや)部長に持ってってくれない?」
 佑希は無表情で資料を受け取った。

# 5

「いやあ、佑希ちゃんが持ってきてくれるなんて嬉しいよ」
 大洋生命システムズ株式会社、業務部部長の水野谷は、佑希の姿を見るとそう言った。
 佑希が書類を差し出すと、水野屋はそれを受け取ろうと手を伸ばす。書類を手渡す瞬間、水野屋の手が佑希の小指に触れた。故意か偶然かは分からない。佑希は不快感を顔に出さないよう、にこやかに応じた。
「お元気そうでよかったです、水野谷部長」
「佑希ちゃんも、元気にしてる? 僕がシステム企画部にいたとき以来だねー」
 水野谷は、もともと大洋生命の社員だった。噂では、セクハラで飛ばされたとか。名字が似ているからか佑希のこともお気に入りで、度々声を掛けられていた。
 水野谷は、佑希に顔を近づけて声を低くした。
「ね、どう、彼氏とはうまくいってる? そろそろ結婚とかー?」
 佑希はいろんな意味で返す言葉を失った。
 彼氏とは、とっくの昔に別れていた。仕事が忙しすぎて、恋愛どころではなくなったのだ。

 データ入力も、ずいぶん要領を得てきた。恵人はPCに向かいながら思った。昨日からは、自分で入力するだけでなく、他の人が入力したデータの確認作業もするようになった。間違いを見つけても自分だけで修正する必要はなく、社員を呼んで2人で確認しながら行えばいいので気が楽だ。
「ちょっと、社員だけ集まって」
 係長に呼ばれ、社員たちは席を立つ。こうやって社員だけが呼ばれるのは珍しくない光景だ。おそらく下々の者には必要ない情報なのだろう。
 係長の話は長く、10時半の休憩開始に迫る。派遣社員には、午前と午後に15分ずつの有給休憩がある。目を休めて、データ入力を誤らないようにということらしい。
 時計が10時半を指しても、社員たちは戻ってこなかった。普段は社員に一声掛けて席を立っているが、どうしたものか。周りも少しザワザワしている。
「ねえ、これ休憩出ちゃって大丈夫だよね」
「いいんじゃない? 時間なんだし」
 誰かが言い出すと、みんな安心したように席を立つ。恵人もそれに倣った。
 とは言っても、休憩時間は手持ち無沙汰なものだ。周りは女性ばかりで談笑する相手もいないし、自分はタバコも吸わない。画面を見続けた後だから、スマホを開く気も起きない。
 とりあえずブラブラとふらついていたら、エレベーター前まで来てしまった。
 そういえば。恵人は思い出した。この間久米川が、屋上からの景色が良いと言っていたな。
 ちょっと行ってみるか。そう思い、恵人はエレベーターのボタンを押した。 

 エレベーターを待ちながら、佑希は泣きそうになる。これでいいと思っていた。前島の教えに従い、古山の後を追うように、男性並みに全力で仕事に取り組んできた。プライベートを犠牲にするほどに。それがこれからの女の生き方だと、本気で信じていた。
 けれど、周りを見れば、恋愛に結婚、出産に退職。そして自分も、彼氏は、お婿さんはとプレッシャーをかけられる。
 険しくても、自分が信じて進んできた道は、たくさんの人が後に続くと思っていた。けれど、振り返ると後ろには誰もいなかった。みんな、古びた緩やかな道で、幸せそうに歩いていた。
 本当は、彼女たちが羨ましかった。
 私だって、愛する人と結婚して、子どもを産んで、穏やかで幸せな日々を送ってみたかった――
 エレベーターが来た。
 佑希は、泣きそうな気持ちを抑えながら、エレベーターに乗り込み、4階を押そうとした。けれども、何かがおかしい。15階と18階のボタンが光っている。しまったと思った瞬間、エレベーターがふわっと上昇する感覚がした。
 まあいいや。佑希は諦めて、手を下ろした。
 15階で3人、18階で2人が降り、佑希は1人になった。行き場を失ったエレベーターは、どこにも行かずに停止している。
 佑希は「R」ボタンを押した。頭はまったく働いていなかった。

 恵人は、屋上に来てみてから、自分があまり景色に感動する性格ではないことを思い出した。ビルの建ち並ぶ眺めには3秒で飽き、恵人はベンチに横になった。
 この時間だ。誰もいない、貸切だ。5分だけ横になって、仕事に戻ろう。そう思ったところに、人影が見えた。

 相変わらず頭はまともに働いていなかった。ただ、もうすべてから解放されたかった。自分には、何も失うものはない。だから不思議と恐怖はなかった。
 佑希は、とぼとぼと屋上の端まで歩いた。柵の前で立ち止まり、後ろを振り返る。誰もいない。
 佑希は柵に手をかけた。両手両足に力を込め、柵をよじ登る。
 静かに、柵の向こう側に踵を下ろす。爪先の下は、数百メートル先だ。
「やめて!」
 声がして、後ろを見た。
 男性だった。黒縁メガネに、水色のポロシャツ。少し長い髪型が、風になびいている。学生のような印象を受けるが、よく見ると自分と同い年くらいかもしれない。このビルで働いているのだろうか。まあ、自分にはもう、関係ないことだ。
「来ないで。ほっといてください」力なく佑希は返した。
「だめです。こっちへ戻ってください」
「嫌です。来ないで。本気だから」佑希は彼の方を見ながらそう言った。
「飛び降ります」
 佑希は、そう言うと、足元を見つめた。そして、泣きそうな顔をしてもう一度彼を振り返った。
 彼は、もう一歩、佑希に近づき、言った。
「飛び降りるなんて無理ですよ」
「どういうことですか? 私のことも知らないで」
「本気ならもう飛び降りてますよね」
「あなたが邪魔するから」
「見て見ぬ振りは、できないです」
 彼は、柵に手をかけた。
「飛び降りるなら、僕も一緒に」
 佑希はもう一度彼を振り返った。「馬鹿なの? 死ぬの?」
「それでもいいですよ。僕も一度死のうとしたし」
 佑希は目を見開いた。
「けど、落ちたら痛いだろうなあ。知ってます? 飛び降りても地面に落ちる前には気を失うって、あれ嘘なんですよ」
 佑希はしばらく無言になった。そして訊いた。
「……ほんと?」
「はい」
 佑希はまた無言になった。
「僕が証明しますよ。あのときは3階だったからうまくいかなくて、地面にぶつかるときの衝撃や、自分の血が流れる感覚まではっきりしてたなあ。とにかく痛かった」
 彼は、遠い目をして、口元に笑みを浮かべた。
「もうあんな思いはしたくないけど、こうなったら仕方ない」彼は、じっと佑希の方を見つめた。「まあ、こっちへ来てくれると助かるんですけど」
「頭おかしいんじゃないですか?」そう言って、佑希は足元に視線を戻した。
「よく言われます。けど、あなただって、20階建てのビルの、こんなところにいるんですよ」
 佑希は、さあっと血の気が引く感覚がした。足元に広がる景色を見て、急に頭が冴えた。自分は、なんてことをしようとしているのだろう。
「さあ」彼は、柵によじ登り、上から手を伸ばした。「手を。もう、馬鹿なことはやめてください」
 佑希はゆっくりと、柵に右足をかける。そして、手を彼の方に伸ばした。彼は、しっかりと佑希の手を握った。彼は、そっと微笑んだ。つられて佑希も笑った。
 もう一歩、柵に左足をかけ、柵をよじ登ろうとした。そのとき、
「きゃああーっ」
 ヒールが滑り、佑希の身体が柵から離れた。彼が慌てて両手で佑希の腕を掴む。
 いまや、佑希の身体を支えているのは、彼の両腕だけだった。佑希の身体は、ぶらぶらと宙に浮く。
「大丈夫です。絶対離しません!」彼は力強く言った。「登って!」
 彼は力強く佑希を引っ張る。佑希は、柵に思い切りつかまった。その腕を、背中を、彼が引き上げる。佑希は脚を上げ、柵に爪先をかけた。彼が、佑希を抱きかかえる。そして、柵の内側へと、佑希を引っ張り上げた。
 彼は、佑希を抱きかかえたまま、屋上の床に転がり下りた。

# 6

 手の届かないところにいると思っていた女性が、自分の腕の中にいた。
 エレベーターで感じた甘い香りを、恵人は自分の胸元に感じた。
 恵人は慌てて上体を起こし、彼女から離れた。ここで誰か来たら疑われてしまう。
 少し距離をおいて、まだ横たわっている彼女の顔を覗き込む。
「大丈夫、ですか?」
 返事はなかった。ショックからか、気を失っているようだった。
 弱ったなあ。この状況をどうしたものか。恵人は考えを巡らせた。
 ふと教習所での応急救護の教習を思い出し、肩を叩いてみた。
「大丈夫ですか、大丈夫ですか!」
 やっぱり返事はなかった。
 この後はどうするんだっけ。呼吸の確認をして、人工呼吸? いやいや。恵人は首を振った。
 この後自分が取りうる最善の方法。自分の部署に戻って上司に状況報告、助けを求める。いやいや、その間彼女を放置するのか?
 彼女をおぶって、助けを求めにいく。ううむ、それも怪しくないか?
 考え込んでいると、胸元の社員証に目が行った。そういえば、彼女はなんて名前なのだろう。
 勝手に見ていいものなのだろうか。躊躇いながらも、おそるおそる社員証に手を伸ばした。
 水野佑希。
 そうか、水野佑希さんというのか。恵人は、心の中で繰り返した。
 彼女の名前を知ってしまった。恥ずかしいような、後ろめたいような、胸が苦しいような気持ちになった。名前を知っただけなのに。
 恥ずかしくなって、恵人は社員証から手を離した。カードケースが裏返しになって、佑希の胸元に戻る。すると、カードケースの裏側に名刺が入っているのが見えた。覗き込むと、名刺には彼女の名前の他に、所属部署とその電話番号があった。

 遅い。
 前島は、なかなか戻らない佑希にイライラしていた。さっき頼んだ仕事について、補足があったというのに。
 もしや水野谷につかまってしまったのだろうか。あのセクハラ部長め。うちの部下をなんだと思っているんだ……
「課長」
 古山に呼ばれる。古山は、受話器を押さえ、深刻な面持ちをしている。
「水野さんが……」

 恵人が屋上で待っていると、50代くらいの男性と、佑希と同年代くらいの短い髪の女性がやってきた。
「武田さんだね。連絡をありがとう。水野の上司の前島です」男性は、駆け寄るとそう名乗った。
「電話を受けた古山です」と女性が続く。
 前島は佑希のそばにしゃがみ、肩を叩いた。
「おい、水野さん、水野さん!」
 反応はなかった。古山が心配そうに口元を覆う。
 前島は佑希の耳元に口を近づけた。そして、しばし何か考えた後に、口を開いた。
「仕事だ!」
 ぱちり。佑希の目が開いた。
 嘘だろ。恵人は顔をひきつらせた。
「すみません、いま行きます……」佑希は、うなされたように口を開いた。
「ああ、水野さん! 気がついたか!」前島は顔を綻ばせた。
 隣にいた古山も、嬉しそうな、しかし複雑な表情を浮かべた。
 佑希は、ゆっくりと体を起こした。
 意識が、ぼんやりと戻ってきた。
 前島と古山がこちらを見ている。そうか、死に損なったか。
 その後ろで、先程の男性が心配そうにこちらを見ている。そうか、生き延びたか。
「水野さん、いったいどうしてこんなところで……」前島は心配そうな顔を見せた。
「ええと……」
 佑希は返事に詰まった。ありのままを話す訳にはいかない。けれども、中途半端にごまかすと、この男性に疑いの目がかかりかねない。
「僕のせいなんです」彼が声を上げた。
「なんだって?」前島は彼に厳しい目を向ける。
「ええとですね」恵人はしどろもどろになりながら答えた。「僕が屋上への行き方を教えてほしいと言ったら、その、丁寧に案内をしてくださって……」
「そうそう、それで、ついでに私も、ちょっとだけ遠くの景色が見たいと思っちゃって!」
 佑希は慌てて彼の話を引き継いだ。
「ほら、あれです……あの、富士山とか! 今日見えるかなーって、手すりから身を乗り出したら手を滑らせて、落ちそうになったところを彼が助けてくれたんです!」
 前島は目を丸くして、彼の方を振り返った。
「そうなのか」
「……だいたいは」彼は答える。
「じゃあ君は、命の恩人じゃないか! 水野さんを救ってくれて、ありがとう!」前島は明るい声を出した。
 前島が調子のいい性格でよかった。佑希は安堵しながら、それに重ねるように口を開いた。
「ええ、本当にありがとうございます」
 そして、立ち上がってお辞儀をした。「本当に、命拾いしました」
「水野ちゃん、動いて大丈夫なの?」古山が心配そうに尋ねる。
「はい! この通り、もう大丈夫です! びっくりして気を失っちゃっただけみたいなので、もう仕事に戻れます」
「本当に? 少し休んだ方が……」古山は心配そうに見つめる。
「本当に大丈夫です! ここで休んだら、仕事も溜まっちゃいますし」
「あ、そうだ。さっきお願いした件で、ちょっと補足があったんだよね」前島が容赦なく言った。
「分かりました。戻ったら早速伺います! あ、でも」
 佑希は男性に向き直った。
「彼に挨拶しないと」
 ここで4階に戻ったら、彼との接点はなくなってしまう。佑希は、カードケースから名刺を抜き取り、差し出した。
「事務統括部の水野佑希と申します」
 彼はおずおずと名刺を受け取った。
「ええと、名刺なんか持てる立場ではありませんが、保険金部の武田恵人と申します」
「武田さんですね。今度改めてお礼をさせてください」
「あ! お礼と言えば」先に行こうとしかけていた前島は、振り返って口を挟んだ。
「今日の常務の誕生パーティー、招待するよ。参加費もタダにする。私からのお礼だ」
 まったくこの人は抜け目ない。それは自分がキャンセルを出したくないからだろう。佑希は呆れた。
「君の武勇伝を披露するといいよ。出世の機会になるかもしれないよ?」
 前島は、恵人の黄色い社員証に目をやった。
「ええと、そのパーティーは、みなさんいらっしゃるんですよね?」恵人は3人を見回しながら尋ねた。
「ええ、もちろん」前島は答える。
「それでは、ぜひご一緒させてください」
 佑希は驚いて恵人を見つめた。前島の思いつきに、本当に応えてくれるとは……。
「よろしく。保険金部って言ったね。君の上司にも君の活躍を伝えておくよ。休憩時間も過ぎているだろう? きっと心配しているよ」前島はにこやかにそう言った。
「助かります」恵人は一礼した。
「さあ、行くよ。水野さん」
 前島に促され、佑希は慌てて後に続いた。
 古山は、2人が屋上のドアの向こうに姿を消したのを確認すると、恵人に向き直った。
「さっき水野さん、富士山がどうとか言ってたけど……」
 古山はニヤリと笑った。
「富士山、反対側なんですよね」
 恵人は目を見開いた。
「水野さんも馬鹿じゃないから、方角くらいは分かると思うけどねえ。ま、そういうことにしておくか」
 そう言い残し、古山はドアの向こうへと消えていった。恵人はムッとした顔でその後ろ姿を見つめた。

# 7

 同日、昼休み――
 佑希は、社員食堂で恵人の姿を見つけた。
「お一人ですか?」
 佑希が声を掛けると、スマホを見ながら食事をしていた恵人は、慌てた様子で、向かいの座席に置いた荷物をどかしてくれた。
「おじゃまします」と言って佑希は席に座る。

「――飛び降りの騒動で退職して、しばらくは無職でした。一時期飲食のバイトもしていましたが、体力的に厳しくなって、派遣会社に登録して、ここへ」恵人は、パスタをフォークに巻きながら話す。
「そう……っていうか、飛び降りの話って本当だっだんですね」佑希は驚いて訊きかえす。
「嘘だと思いました?」
「てっきり、私を説得するためかと……何が、そんなにつらかったんですか?」
「前はSEだったんですけど、いろいろ大変で」恵人は力なく笑った。
「そうだったんですね。SEさんって大変なんですね……」
「まあ、コード書いたりするのは好きなんですけどね。学生のときから、自作のHP作ったりしてましたし」
「へえ! すごいですね」
「まあ、大したやつじゃないですけど」
「それでもすごいですよ。そういう専門の大学だったんですか?」
「いや、自分、大学出てないです」
「あ、失礼」
 “学生のとき”と言うからてっきり大卒かと思ったのに。気まずくなってしまうではないか。
「うち、お金なかったんで、大学は行かせてもらえなかったんですよ」恵人は肩をすくめた。
「そんな、奨学金とか使わなかったんですか?」
 そう言ってから、しまったと思った。失礼なうえに的外れな質問だった。
「あー、そうですね……」恵人は言葉を濁す。
「あ、いや、そりゃあいろいろありますよね」佑希は明るい声で言った。
 どうせ大卒には分からないだろうな、そんな心の声が聞こえてきそうだった。佑希は豆腐ハンバーグを切り分けながら、次の話題を探す。
「ところで」恵人は言った。「声を掛けていただいて、僕の話ばかりで。何かお話でもあったんですか」
 佑希は顔を上げた。
「お礼を言いたかったんです。助けていただいて」
「いや、お礼なんて」恵人は照れ笑いで返した。
「きっと」佑希は皮肉っぽく笑った。「大卒エリートの悩みなんて、くだらないと思うでしょうね」
「そんなことないです」恵人はまっすぐに佑希を見た。「どうしてそんなに思い詰めてしまったのかと」
「それは……」佑希は箸を置いた。
「男性と同じように、全力で仕事に打ち込むことこそ自分の生き方だと思っていました。けれど、周りを見れば、結婚に出産に寿退社。そんな姿を羨ましく思ってしまう自分がいます。けど失った時間はもう戻らない。自分の人生、なんだったんだろうと」
 堰を切ったように、言葉が溢れ出た。
「結婚、したいんですか?」
「えっ?」
「いや、仕事に打ち込むより、家庭に入りたいってことなのかと」
「失礼ね」ムッとして、佑希は言った。失礼なことを言ったのは、お互い様だったが。
「……すいません」恵人は小さな声で言った。
 また静かになってしまった。恵人は、自分より先に食べ終わったパスタのフォークを揃えている。
「そういえば、自作のHPって、いまでも見られるんですか?」会話を繋ぎ止めたくて、佑希は訊いた。
「いや……黒歴史ですし」恵人は頭をかいた。
「ってことは、まだ残ってるんですね。見たいです」
「いや、残ってないです」
 恵人は顔を赤らめた。佑希はそんな恵人の顔をじっと覗きこんだ。
「……いや、残ってますけど」恵人は目をそらした。「大したもんじゃないですよ」
 そう言って、恵人はスマホを取り出す。検索ウィンドウに文字を打ち込み、ページを開く。佑希は身を乗り出して覗きこもうとした。
「そんな乗り出さなくても。はい」
 そう言って、恵人はスマホを佑希の方に差し出した。
 濃い黄緑の背景に、イタリック体で『KATE'S HOMEPAGE』と記載がある。
「へえ、最終更新2009年って、結構長いことやってたんですね」
 恵人の過去を垣間見ていると思うと、わくわくした気持ちになる。自然と口元が緩む。
 すると、そこへLINEの通知が入った。女性の名前だった。
 佑希はスマホを恵人に返した。
「彼女ですか?」
 スマホを受け取ると、恵人は吹き出した。
「母親ですよ」
「なあんだ。つまんないの」
「非常につまらないことに、僕にLINEをくれるような女性は、母親だけなんですよ」
 恵人は、本当につまらなそうな顔をしてそう言った。その顔があまりにおかしくて、佑希は笑った。
「そんなにおかしいですか」
「あはは、すみません」
「もう」
 その様子を、古山が遠巻きに眺めていた。古山は眉に皺を寄せ、2人の笑顔を見つめていた。

# 8

 派遣社員の定時となり、黄色い社員証の面々は一斉に席を立つ。席には社員だけが残り、残務とやらをこなしている。
 恵人も他の派遣社員たちと同じように、オフィスを出てロッカー室に入った。けれども荷物は取り出さずに、いつの間にか貼りかえられていた“武田”の文字のロッカーの前で、ただぼんやりと立っていた。
 誕生会の会場について、店名と場所は聞いていたが、直接集合なのか、みんなで集まって行くのか、詳細は何も分かっていなかった。
 昼休みにせっかく彼女に会えたのだから、情報を聞いておけばよかった。
 とりあえず様子を窺いにいくとするか。恵人はロッカー室を出ると、エレベーターに乗り込み、4階のボタンを押した。
 エレベーターが開くと、恵人と同じ色の社員証を下げた女性が数人、エレベーターの到着を待っていたところだった。それ以外に、廊下に人影はない。
 社員たちはまだ仕事中だろう。誕生会の開始時刻まで1時間以上ある。動くには早過ぎただろうか。
 辺りを見回しながら、廊下を進む。初めて訪れる、別のフロアだ。自分がここにいるのは場違いな気がした。
 ほどなくして、オフィスのドアが目に入った。男性社員が社員証をかざして中に入るところだった。勝手には入れなそうな雰囲気だ。
 ガラス張りの壁から中を覗けないか、そう思ってドアに近づこうとしたそのとき、紫がかった髪をした中年の女性が、中から姿を現した。恵人はぎょっとして足を止める。
 女性はドアの外に出たが、恵人の方には歩いて来ずに、ドアの方に向き直った。手にはカラー印刷されたポスターのようなものを持っていて、手首にはめたセロテープをちぎり、ポスターをドアに貼ろうとしていた。
 ここで中を覗きこんだら明らかに怪しいな。そう思って、恵人はその場を去ろうとした。そのとき、女性がこちらを振り返った。
「あ、ごめんね、通る?」
 女性はそう言って、自分の青い社員証をカードリーダーにかざし、ドアを開けようとした。
「あ、いえ、違うんです」
 恵人は両手を顔の前で振った。
「入んないの? じゃあこんなところでどうしたの」と女性は尋ねる。
 困ったな。どう答えよう。女性はこっちをまじまじと見ている。
「えっと……」
 適当にやり過ごそう、そう思って口を開くと、女性は「あっ!」と大声を出した。
「もしかして、あんた、前島さんが言ってた人かしら」
 前島。その名前なら、今日聞いた。
「聞いたわよー。水野ちゃんの命の恩人って」
 なんと。あの男性はそんなふうに周りに言いふらしていたのか
「いや……そんな大したことはしてませんよ」恵人は苦笑しながら答えた。
「やーっぱりそうなのね! こんなところでどうしたのよ。あ、そっか。このあと誕生会行くものねー。それで待ち合わせ?」女性は矢継ぎ早に言葉を浴びせた。
「ええと、待ち合わせてる訳じゃないですけど、お店に直接行っていいのか分からなくて……」
「なるほどね。大丈夫、みんな仕事終わったら連れだって行くから。ここで待ってなさいな」女性は笑顔で答えた。恵人は少し安心した。
「ところで」女性はまじまじと恵人を見つめた。「あんた、その格好で行くの? スーツ持ってないの?」
 痛いところをつかれた。よりによって今日は、ワイシャツですらなく、水色のポロシャツに、黒のチノパン。こうなることが分かっていれば、もう少しまともな格好にしたのに。恥ずかしくて、恵人は少しうつむいた。
 女性はニカっと笑うと言った。「ついてきて」

「うちの旦那のよ。歳の割にスリムだから、きっとサイズ合うでしょ」
 女性はロッカー室に入ると、一人一人に割り当てられているロッカーではなく、部屋の隅にある大きなロッカーを開け、上下のスーツを取り出した。恵人は差し出されるままに、それを受け取る。
「ズボン緩かったら、これでなんとかして」
 続いて女性はそう言って、スーツで両手がふさがっている恵人の腕に、さらにベルトを乗せた。
「あとはワイシャツとネクタイよねえ……どっかにあったと思ったんだけど」
 女性は床に置いてある段ボールを漁った。
「あ、あったあった」
 そして、スーツとベルトの上に、放り投げるようにワイシャツとネクタイを乗せた。
「あ、あの、ありがとうございます……」
 女性の勢いに気圧されそうになりながら、恵人はお礼を言った。
「いーのいーの。この時間なら誰も来ないだろうから、いまのうちにここで着替えちゃいなさい。じゃ、また誕生会でね」そう言って、女性はロッカー室を出ようとした。
「あ、あのっ」恵人は慌てて女性を呼びとめる。「お名前、伺ってなかったんで」
「ああ、私? 総務部の柴田こずえちゃんです。よろしく」
 女性は、黒く化粧を塗りたくった目を細めて、そう答えた。
 柴田がドアの向こうに消えると、恵人はふーっと息をついた。まったく、すごい人がいたもんだ。
 彼女も常務の誕生会に出席するようだし、それなりにちゃんとした社員なんだろう。旦那さんもここで働いているみたいだし。
 とにかく、おかげで助かった。これで佑希の前でも恥をかかずに済むだろう。

# 9

 1階のロビーで、恵人はそわそわしながら社員たちが下りてくるのを待った。
 スーツのサイズはおおよそ合っていた。さらに、コンビニで整髪料を買い、髪も入念に整えた。ついでに、鞄のポケットに眠っていたコンタクトレンズもつけてみた。これで、しがない派遣社員には見えないだろう。
 エレベーターが開き、青い社員証の面々が現れる。その中に前島の姿もあった。挨拶しなければと恵人は背筋を伸ばしたが、前島は恵人に気づかずに横を通り過ぎてしまった。
 スーツ姿じゃ気づかれなかったか、とがっかりしていると、佑希の姿が目に入った。佑希は少し驚いたように恵人を見つめている。そして、ゆっくりと微笑んだ。
「お、おつかれさまです」恵人はどぎまぎしながら声を掛けた。
「おつかれさまです」佑希は笑顔で答えた。
「行きましょう」そう言って佑希は、ゲートに社員証をかざす。恵人もそれに続いた。
 佑希は、前を歩く前島に声を掛けた。
「課長。武田さん、ちゃんと来てくれましたよ」
 前島と、その隣にいた古山が振り返った。恵人を見て、目を丸くする。
「どちら様かと思った」前島は笑って言った。
 
 みんなで連れだってお店へ向かう。佑希と恵人は、自然と肩を並べて歩いた。横に並んでみると、2人はだいたい同じくらいの背丈だ。
 佑希は、前を歩く男性をそっと指差して、小声で説明した。
「あれがうちの部長、山下部長です」
 続いてその少し前を歩く、恰幅のいい男性に目をやった。
「あちらは金子専務。役職の割に気さくでいい人ですよ」
 そして、後ろをちらりと振り返り、楽しげに話す男女に目をやった。
「人事部の塚本(つかもと)部長と、若手の柳原(やなぎはら)さん。やけに仲が良くて、不倫してるんじゃないかって噂」
「しっ、聞こえちゃうぞ」
 後ろから女性の低い声が聞こえた。振り返ると、いつの間にか柴田がそこにいた。
「はい、気をつけまーす」佑希は苦笑しながら答えた。
 そして恵人を手のひらで指し示した。「柴田さん、こちら保険金部の……」
「もう知ってるわ」柴田は笑みを浮かべた。
「いつの間に」
 佑希は驚いて、柴田と恵人を見比べた。

 会場は、接待にも使われそうな和食料理屋だった。店内に入ると、奥の広いお座敷席に通される。みんな空気を読みながら、自分の座るべき場所を探す。小窪はいちばん奥の方に座るらしく、自然と若手はそちらを避けていた。
「ほらほら、20代女子、そっち行かないで常務のテーブル行きなさい」塚本が女性陣を促す。
 佑希は手前から2つ目の列のテーブルに腰を下ろすと、恵人にも座るよう促した。恵人は戸惑った様子で、佑希の左隣に腰を下ろした。
「あの、水野さんは向こうに行かなくていいんですか?」恵人が奥のテーブルを指差す。
「呼ばれてるのは20代の女子だけだし。私はお呼びじゃないから」
 佑希は声をひそめた。もしかして、自分は20代だと思われているのだろうか。それなら光栄なことだが。
「まったく、失礼な話だね」柴田はそう言いながら、佑希の向かいに座った。
「ねえ、ここ空いてる?」
 顔を上げると、古山が恵人の向かいの席を指差していた。いつの間にか前島たちと離れてこちらに来ていたらしい。
「あ、どうぞ」恵人が答える。
 古山は静かに腰を下ろすと、佑希に向かって、来週の会議について話し始めた。話し相手を失った恵人は、うつむいてスマホを取り出している。
 どうしたのだろう。佑希は困惑した。古山はすごく気配りのできる人で、いつもその場全体が楽しめるような話題を振ってくれるのに。しかも、来週の会議のことなんて、いま急いで話すことないのに。
「古山さん、こんなところに来てまで仕事の話はやめましょうよ」
 試しに、冗談っぽく笑いながら古山をたしなめてみた。一瞬、古山は面食らったようだったが、すぐに笑顔になって「ごめん、ごめん」と返してくれた。
 常務の小窪が拍手で迎え入れられ、乾杯の音頭とともに誕生会が始まった。
 といっても、佑希たちのテーブルは至って平和に、普段の仕事の愚痴や、各々のプライベートの話で盛り上がっていた。
「武田くんは、毎日どんな仕事をしているの?」古山が恵人に尋ねる。
「ええと、お客様に万一のことが起こったとき正当なお支払いができるようにするために、支払いの申請書類の内容を審査端末に打ち込んでいます」恵人は、丁寧にそう答えた。
「へえ、しっかりしてるね」佑希は言った。
「面接みたいな答えね」古山は面白くなさそうに言った。「けど、データ入力って大変そうだね。ずっと同じことやるんでしょ? 疲れない?」
「いえ、こちらは有給休憩も取らせてくれますし、いまのところ定時であがれてますので、天国みたいなものですよ」恵人は答えた。
「ふうん、定時なんだー。羨ましい」と古山。
「ねえねえ、前はどんな仕事してたの?」割って入るように柴田が訊いた。
「前は、SEをやっていました」恵人は答える。
「今日、自作のHPも見せてもらいました。すごかったですよ」佑希は重ねる。
「ふうん、そんな才能があるのに」古山はまた口を開いた。「派遣で単純作業なんて、もったいなあい」
 本当に、今日の古山はどうしたのだろう。先程から一言一言に小さな棘を感じる。酒がそうさせているのだろうか。柴田もあからさまに眉をひそめている。
 佑希はハラハラしながら恵人の答えを待った。
「僕は、正社員として働くことがすべてではないと思っています」恵人は冷静に答える。
「前の職を辞めたときに思いました。そのときは正社員でしたが、働いて、働いて、すべてを失うところでした」
 恵人は、グラスに口をつけると、続けた。
「いまは仕事帰りに同僚と飲むこともできます。安くて美味しい料理を作ろうと、工夫を凝らすことも。一般的に、男の派遣社員は望ましい生き方ではないかもしれません。けれども、生き方は無限にあります」
「いいこと言うじゃない」柴田は言った。
「そうだ!」古山の隣で、一緒に話を聞いていた男性が声を上げた。
 佑希は胸をなでおろした。そして、グラスを持ち上げ、言った。
「その通り、生き方は無限!」
 皆グラスを上げた。

 みんなほどよくお酒が入り、席が入り乱れた頃、小窪がビール瓶を持ってテーブルを回り始めた。そして、佑希たちのテーブルにもやってきた。
「いやあ、水野さんだったっけ? 頑張ってるみたいだねえ」
 ちょうど佑希の右隣があいており、小窪はそこに腰を下ろした。
「ええ、それはもう」佑希はにこやかに返した。
 小窪がビールを注ごうとしたので、佑希はグラスに残ったビールを飲み干し、両手でグラスを差し出した。
「そうやって女の子ばっかりチヤホヤしちゃって」と柴田が言った。
「柴田さーん、相変わらず口が悪いなあ」小窪は笑いながらそう言うと、柴田にもビールを注いだ。
「水野さんは事務統括に来て、もうどれくらいになるっけ」
 小窪はテーブルに腕をついて佑希の方を向いた。妙に距離が近い。佑希は、気にしていないふうを装って答えた。
「5年になります」
「そっかー。その前はどこにいたんだっけ?」
「事務センターの登録部門に、3年半いました」
「そっかー、事務センターにいたのかー。あれ、そうすると、もしかして営業経験ないの?」
「いえ、新入社員のときに、半年……」
「半年じゃ経験あるなんて言えないよー。いかんなあ、やっぱり保険会社に勤めるなら現場は知っておかないとー」
 小窪は、佑希の言葉を遮るように、大口を開けて言った。
 自分で希望した訳じゃないのに。ろくに営業もやらせず事務方に配属しておいて、こっちが悪いかのように言うなんて。佑希は笑顔の下で拳をギュッと握った。
 その姿を、恵人はぼんやりと眺めていた。

# 10

 小窪へのバースデーケーキのサプライズもうまくいき、誕生会は無事終了した。その後、役職者を中心に一部の者たちは2次会へと繰り出した。
 佑希も前島に声を掛けられたが、遠慮しておくことにした。あの男たちのなかに混ざる気は起きなかった。
 2次会に行かないメンバーは、数人ごとに固まって駅へと向かっている。佑希は1人で歩いている恵人に声を掛けた。
「おつかれさま。さっきは良いこと言ったじゃない」
「そうですか?」と恵人は返した。
「あ」佑希は気づいた。「ごめんなさい、ついタメ口で……」
 お酒が入っているからか、つい馴れ馴れしくしてしまった。今日出会ったばかりだというのに。
「いいですよ」恵人は笑った。「というか、水野さん、大学出て9年ってことは、僕と同い年じゃないですか?」
「え」
 もしかして、さっきの小窪との何気ない会話を聞いて計算したのか。
「あ、浪人とかしてなければですけど……」と恵人はつけ足した。
「うん。浪人はしてない。ってことは、武田さんも32歳?」
「はい。正確には早生まれなので、まだ31ですけど」
「へえー、なんか意外。最初見たとき、ぱっと見二十歳くらいかと思った」
 佑希はいたずらっぽく言った。その後ですぐに実年齢に気がついたことは伏せておくことにした。
「それは、多分眼鏡と髪形のせいでしょう……」
「うん。いまみたいに年相応の格好すれば、それなりに格好いいんだから、若作りは止めときな」
 お酒の入った勢いついでに、褒め言葉を混ぜてみた。正直な気持ちだ。エレベーターを出て恵人を見たとき、本当に目を奪われてしまった。
「格好いいって……水野さんこそ眼鏡したらどうですか」
 恵人はそう言って、何もない眉間を人差し指で直そうとした。

 駅に着く頃には、みんな散り散りになっていて、東西線に乗るのは佑希と恵人の2人だけのようだった。
 車内の人混みのなか、2人は当たり障りのない会話を続けた。次第に電車は佑希の最寄り駅に近づく。
「あと一駅ですね」
「うん……」
 佑希はぼんやりと駅のホームを眺めた。大学生らしき男女が、別れを惜しむように寄り添っている。
 電車が発車する。彼らの姿は見えなくなり、窓には自分たちの姿が映る。
「あーあ。しばらく残業続きだったからさ、こんな時間に帰れるの、久しぶりだよー」
「それって……普段は相当大変なんですね。じゃあ今日は帰ったらゆっくり休んでください」
「んーでも……なんか飲み足りないっていうか……」佑希は言葉を探していた。
「じゃあ2次会行けばよかったじゃないですか」恵人は笑って返した。
「んー、そういうんじゃなくって……」
 そうこうしているうちに、電車は高田馬場駅のホームに差し掛かる。佑希よりドア側に立っている恵人が、身体をずらして佑希の通るスペースを確保しようとした。けれども佑希は恵人の背中を押した。
「ねえ、2人で飲み直さない?」

「や、やっぱり」恵人は気まずそうに口元を引きつらせた。「もう少し、落ち着いたところの方がよかったですかね」
 2人が入ったのは、学生たちで賑わう大手チェーン店。恵人が久米川と数日前に訪れた居酒屋だった。
「ううん、私が、武田さんの普段行くようなお店に行きたかったんだもん」佑希は笑顔で返した。
 社交辞令ではなく、本心だ。武田のことを知りたくて、無茶を言って恵人に店を探させた。自分の住んでいる街なのに。
「それに、やっぱり今日みたいにお堅いところは疲れたし」
「水野さんでも、そう思うんですね」恵人は意外そうに返した。
「そりゃそうよ。大手町の女は、もっとお堅いと思った?」佑希はそう答えて、薄いカクテルをあおった。
 もちろん、仕事柄、様々な部署と関わるので、交流のため飲みに行くことは多い。けれども利害の関わる相手同士。その場は、時に探り合い、時に接待となる。
 それに比べて、いまはなんて自然体でいられるのだろう。佑希は両手を前に突き出して、思い切り伸びをした。
「水野さんは、普段どういうところに行くんですか?」
「私はあんまり外では飲まないかなー。今日みたいなつき合いは別だけど。コンビニとかでビール買って、部屋で1人で飲んでる方が……って、淋しい一人暮らしの独身女って感じだね」
「いやいや、無理して外に出たり、人に会ったりしなくても、自分が好きなことをするのがいちばんですよ。毎日忙しくしていたらなおさら」
「そだね。ありがとう」佑希は微笑んだ。
 照れ隠しでつけ加えた自虐に、こんなにまっすぐ答えてくれたことが、佑希には嬉しかった。
 焼き鳥が運ばれてきた。佑希は訊いた。「串は外す派?」
「そのまま食べる派です」恵人は答えた。
「同じく」そう言って佑希は、串にかぶりついた。
「ところで」塩味の焼き鳥を食べながら、佑希は言った。「いつまで敬語なの。自分の方が半年若いっていう自慢?」
「すみません、いや」恵人は照れくさそうに言った。「ごめん」
「よし」
 そう言って、佑希はカクテルを飲み干した。さり気なく恵人はメニューを手渡す。佑希は店員を呼び、梅酒のロックを注文した。
「いつから一人暮らしなの?」恵人は訊いた。
「もうかれこれ十何年」佑希は答える。
「っていうと、大学生のときからか」
 恵人の発した“大学生”という単語に、少し堅さを感じた。学歴の違いを感じさせる話題は出さないようにしていたのに。
「まあ、そうだね」
「もしかして、ずっと高田馬場?」
「ええと……そうだね」
「ってことは、大学は早稲田?」
「まあ、ね」
 佑希は、氷が溶けた水を飲もうとして、グラスを目一杯傾けた。学生の頃は自慢だった母校の名前を、社会人となったいまはなるべく口にしないよう努めていた。
 事務センターやコールセンターなどの現場には、派遣から出世してリーダーやSVになった人も少なくない。そのなかには大学を出ていない人もいる。日頃仕事を頼み頼まれる相手に、変に劣等感を抱かせたくない。飲み会で関わるときも、なるべくその話題にならないよう気を遣っていた。
「すごい、頭いいなあ」
 ほら。こういう反応になってしまう。佑希は笑って言った。
「私からすれば、HP作れたり、会話からさり気なく年齢計算できちゃったりする方が、頭いいと思うけどね」
「えー。HPはともかく、計算は普通ですよ。水野さん、文系ですか?」
「もう、バリバリの文系だよ」
 そこに梅酒が運ばれてきた。一口流し込むと、カクテルとは対照的に、強めのアルコールが、喉の奥を流れていく。
 既に誕生会で身体にアルコールが溜まっていたのを、今更のように思い出した。頭がふわふわする。顔があつい。たのしい。
 佑希は、もう一口、もう一口、と梅酒を流し込む。
 もう、細かいこと気にして喋ってもしょうがないかな。
「ね、前にSEやってたって言ってたじゃん」
「うん?」
「やっぱSEってブラックなの?」
「ブッ……」恵人は焼き鳥を頬張りながら声をつまらせた。「……ブラックと言えば、そうかもね」
「へえー、そうなんだあ」
「まあ、みんなそうって訳じゃないけど、うちのところは」恵人は苦笑いだ。
「えー、どんな感じだったのー?」佑希はテーブルに身を乗り出した。
「えっと……プロジェクト中は終電はあたりまえで……」
「うんうん」
「指示通りに作っても、直前の仕様変更でそれまでの仕事がパアになって……」
「うんうん」
「繁忙期には土日も休日出勤ばっかり……って水野さん!?」
 話を聞きながら、佑希は涙ぐんでいた。

「そっか、水野さんのところも大変なんだね」
 恵人は、とっくりを佑希に差し出す。佑希は、お猪口を両手に持って、酒を受ける。
「そうなのよう。毎日大変なの」
 佑希はそう言って、お猪口に口をつける。
「事務統括部だっけ? 仕事の内容的にはどんなことしてるところなの?」
「事務の現場の管理っていうか、調整役っていうか。うち、コールセンターは子会社に業務委託してて、あと、中野に事務センターっていって契約書のチェックとかデータ入力とかいろいろやってるところがあるんだけどね」
「うん、知ってる」
「そう? それで、そういう現場がちゃんと仕事できるように運用を考えたり、数値管理したり、業務改善したり、そんなことをやってる部署なんだ」
「へえ、すごいんだね」
「まあ、実際は会議と書類作りと電話とメールで1日過ぎちゃうんだけどね。日中は余計な問い合わせばっかで、定時過ぎてからやっと自分の仕事ができるって感じで……って、これさっきも言ったか」
 佑希はそう言って、お猪口の日本酒を飲み干す。
「ごめんね。こんな情けないとこ見せて」
 相手の話を聞くつもりでいたら、気がついたら自分の愚痴ばかり話してしまった。こんなことでは、さぞ呆れられただろう。
「ううん。水野さんが気持ちを吐き出せて楽になったなら、それでよかった」恵人は笑顔で答えた。「僕でよければ、いつでも話を聞かせてください」
「うん……ありがとう」

 1人で駅まで行けるという恵人を、佑希は、どうせ駅の反対側まで行くからと言って見送った。恵人が地下へと続く階段の奥に消えてしまうと、佑希は後ろ髪を引かれる思いで歩き出した。
 その瞬間、ふと、誰かに見られている感じがして振り返った。けれども、そこにいたのは、酔っぱらって足がおぼつかなくなっている男性だけ。
 気のせいか。佑希は男性に軽蔑の目を向け、歩き出した。
 それにしても、今日はなんて長い1日だったのだろう。正気を失って柵を飛び越えようとしたのが遠い昔のことのようだ。
 けれども、そんな気の迷いのおかげで彼と出会うことができた。
 同じ会社にいても、部門も違えば、立場も違った。
 普通に生活していれば、きっと出会うことはなかった。

# 11

 4階です。
 アナウンスの声でハッと我に返り、佑希は慌ててエレベーターを降りた。どうやら、1階から4階までのわずかな時間で眠りについていたようだ。
 普段から深夜残業に慣れているとはいえ、お酒が入った状態での夜更かしは身体に堪えたようだ。やはり20代の頃のようにはいかない。本当に、今日が土曜日ならよかったのに。
 もちろん、こうなることは昨日の時点である程度予想していた。けれど、それでも命の恩人であるあの男性と一緒にいたかった。
 しかし、強引に飲みに誘ってしまったが、相手の方は今頃大丈夫だろうか。データ入力なんて、ただでさえ眠気との闘いだろうに……

「珍しいな、おまえが栄養ドリンクなんて」
 メリメリと瓶を開ける音を耳にして、同じ島の社員が恵人に声を掛けてきた。
「ええ、まあ、そうですね」
 いまの自分はそんなイメージなのか。昔は栄養ドリンクなんてお茶代わりに飲んでいたのに。恵人は心の中で思った。
「大丈夫? 疲れてるのか?」社員は心配そうに訊いた。
「いや、大丈夫です。昨日ちょっと……」
 そこまで言って、恵人は言葉を詰まらせた。詮索されるかと思ったが、社員はそれ以上何も訊いてこなかった。
 ドリンクを一気に飲み干すと、久々の苦みが、カーッと喉の奥に流れ込む。恵人は顔をしかめた。
 それでも今日は幸せだ。昨日あの人と知り合って、お酒の席までともにできたのだから。それだけで、今日も一日頑張れる気がした。

 紙コップの中に黒い液体が注がれる間にも、一瞬の睡魔に襲われそうになった。いけない、いけない。佑希は、自販機の取出口を開け、コーヒーを手に取った。
「おはよう。やっぱり今朝は眠いよね」
 声がして振り返ると、古山も財布を手にしていた。いま、まさに睡魔に襲われていたところを見られただろうか。佑希は苦笑いしながら答えた。
「おはようございます。今日はコーヒーでも飲まないとやってられないですね」
「ほんとだね」古山も苦笑した。「あれ? でもさあ……」
 古山が首を傾げたので、佑希は身構えた。
「水野ちゃん、昨日は1次会で帰ってたよねえ。逆に、いつもより早く帰れたくらいじゃない?」
「えっ、ああ、そうですね。けどやっぱりその、お酒が入ると身体にくるというか……」佑希はしどろもどろに答えた。
「ふうん。水野ちゃん、いつもお酒強いのにね」
「そうですね……まあ、そういう日もあるというか」
「ねえ水野ちゃん」古山は笑顔で呼びかける。
「はい?」
「あの後、武田くんと一緒だったでしょ。2人でどうしたの?」
 佑希は硬直した。どうしてそのことを。
 もしかして、昨日恵人との別れ際に感じた視線は古山だったのか。そういえば、古山も乗り換えに高田馬場駅を使っていたっけ。
 いや、別に後ろめたいことをしている訳ではない。佑希は答えた。
「いや、別に2人でどうとかではなくて、昨日はちょっと飲み足りなかったので。本当は古山さんも誘おうと思ったんですけど、2次会に行かれてたので……」
「えー? じゃあ2次会来ればよかったじゃない」
「そうなんですけど、やっぱり気の置けない人たちで飲みたいというか……」
「ふうん」古山はフッと笑った。「彼とはもう、気の置けない仲なんだ」
「いや、その……」
 古山は笑いながら言った。
「誕生会のときも、彼のことかばってたみたいだし、もしかして、吊り橋効果で惚れちゃったあ?」
 心臓がもわりと広がり、体温がキュッと下がった。
 すると、古山は一瞬で真顔になり、
「派遣はやめときなよ」と、乾いた声で言った。
 佑希は驚いて、目の前にいる、自分の先輩を見つめた。
「危ないところを助けてもらって、カッコよく見えたかもしれないけど、所詮はいい歳して派遣やってる男だよ。将来性ないし、なによりつり合わないよ」
「一時の感情だけで恋してる歳じゃないでしょ。将来のこと、考えなきゃ。努力しなきゃ結婚できない時代だよ。まだ若いと思ってると、私みたいにあっという間にオバサンになるよ」
「それとも、この仕事に一生のやりがいを見いだせる? この部署にいても、先が知れてるんだよ。若いうちから営業の最前線にいた人たちとは、もう差がついてる。事務統括なんて名前だけはいいけど、やってることはただの調整役じゃない」
 古山は一気にまくしたてると、最後に言った。
「分かった?」
 佑希は呆気にとられながら、小さく頷いた。

 電話の向こう、澤井の声は殺気立っていた。
 以前問い合わせがあった、同性パートナーの件で、なかなか回答を返さないコンプライアンス部に散々催促をし、メールを何往復もして文書案を調整し、やっと承認が下りたというところだった。
「けど、これじゃ納得していただけませんよ」
 けれども澤井は、それをあっさりと突っぱねた。
「それはコンプラにも訴えたんですが、あいにくこれ以上具体的なことは書けないというのが、社としての見解なんです」
「1週間以上かけてその答えですか? お客様にもそう言われます。この文書を見てお客様がまた電話してきたら、こちらはどう答えればいいんですか?」
 そうは言われても、たった一人の顧客のために、これ以上の対応は無理だ。
「……もう一度だけ、確認してみます」
 佑希は、低い声でそう答えた。そうでもしないと、ここは収まりがつかない。ここの部署は、そういう仕事なのだ。

 帰りの電車の中、恵人は真剣な眼差しでLINEの画面を見つめていた。
 画面の中央には、ウサギのようなかわいらしいキャラクターのスタンプが浮かんでいる。昨日の帰り際、佑希とLINEの連絡先を交換した。そのときのやり取りだった。
 そして顔を上げ、左上を見た。そこには、恋愛映画の広告が吊り下がっている。大ヒットした小説が原作で、有名俳優と人気アイドルが主演を務める。朝のニュースやバラエティー番組でも、キャストが何度も出演して、この映画の宣伝をしている。
 それが今週末、公開となる。これはチャンスだ。
 恵人は再びスマホに目を落とした。そして、胸を高鳴らせながら、映画の誘いのメッセージを書き始めた。

 今日はさすがに終電は避けたい。佑希は目をこすりながら思った。
 けれども、昨日できなかった仕事がまだ残っている。日中はコンプライアンス部との応酬に余分な時間を取られてしまった。明日の会議までに、まだやらなければいけないことがある。
 佑希は、作り途中の資料に目を落とした。事務部門のコスト管理についての資料だ。
 事務部門は、収益には直結しない部門だ。もちろん佑希たちの仕事も。どんなに顧客のために尽くしても、どんなに頑張って残業しても、その仕事はコストとして見なされる。
 日々関わっている現場の人たちの仕事も、将来的にはAIに置き換わるかもしれない。そうなれば、自分たちが管理をする必要もなくなるかもしれない。
 古山の言う通り、自分たちの仕事にはもう先がないのかもしれない。
 しかも、自分が長く担当している死亡保険の分野は、今時もう流行らない。いま主流なのは、生きている間の病気に対する備えや、働けなくなったときのための保障だ。
 いままでの経験や知識が、これからどう役に立つと言うのか……
 そのとき、デスクに置いてあったスマホの画面が明るくなった。
 恵人からだった。
 佑希は無表情でLINEの文面を見ると、そのままスマホを鞄にしまった。
 仕事が終わったら、断りの返事を入れなければ。
 ごめんね。武田さん。

~テンプレ通りに出会った2人が人生のテンプレを乗り越える話(後編)に続く~

テンプレ通りに出会った2人が人生のテンプレを乗り越える話(前編)

後編はこちらです
http://slib.net/91774

テンプレ通りに出会った2人が人生のテンプレを乗り越える話(前編)

有名大学を出て、仕事一筋に生きてきた佑希。正社員の職を辞し、派遣として働きはじめた恵人。立場の違う2人の、現代の身分差の恋。20年前に公開され、大ヒットしたあの映画のオマージュです。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-12-18

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