シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ)~Ⅱ

1.


 中津守弘は、真っ暗な自室の出窓に座り、外を眺めていた。
 東天に現れた十六夜の月が、澄んだ夜空に皓々と輝いている。
 片膝を立て、携帯電話を握り締めた腕を無造作に伸ばし、物憂げに窓の外を見る。
 眼下には、月光に映える木々が続き、広大な庭の向こうにポツリポツリと人家の明かりが星のように見える。
 午後九時半を過ぎた。
 この屋敷の女主人は、おそらく幼子を寝かしつけた後、側近の者と鍛錬に励んでいる頃だろう。側近に乞われて付き合っているというのが、実際のところか。
 その光景でも浮かぶのか、守弘は苦笑して目を閉じた。
 ワイシャツを胸元まではだけ、解いたネクタイを首から下げている。背広の上着は机の上に無造作に投げられている。
 そこには一部の資料が置かれており、一枚の写真が添えられていた。
 善知鳥景甫。
 今夜、主である鷹沢士音に報告する為に整えられた資料だ。彼本人に加え、善知鳥家のことを調べさせた。
 校内で垣間見た善知鳥景甫から感じた感情は、守弘が心の奥底に封じ込めようとしていたものを燻らせた。
 携帯電話を親指で数度なぞると、画面に一枚の写真が浮かぶ。
 奇麗な栗色の長い髪を風になびかせて笑う美しい女性の腕の中で、同じ髪と肌をした幼い少女が笑っている。
 何一つ持たなかったあの頃。
 生きることも、死ぬことも考えられない程、虚無の中に埋没していた頃に差した一筋の光。
 生きる意味を決めたあの時、この美しい女性に見つめられかけられた言葉を、守弘は決して忘れることはない。
 そして、触れることの許されない長い髪を見つめながら、『影』に徹するのだ。
 時刻だ。
 携帯電話を胸に収め、身形を整えると、皮製のファイルに書類を入れ居室を出た。
 細い階段を下り、扉を開けて広い廊下へ出ると、背後から声がかかる。
「やぁ、守弘くん。遅くまでご苦労だね」
 右手にアタッシュケースを提げ、ニコニコと笑いながら近付いて来る紳士に、守弘は微笑を浮かべて一礼した。
「先生、こんな遅くにどうされたんですか」
 中津守弘がこの男・染井英夫を『先生』と呼ぶのは、染井が鷹千穂学園中等部で化学と物理を教え、鷹沢グループの開発部門である製品の研究と開発の指揮を取り、加えて守弘が鷹沢に引き取られて暫くの間、彼の勉学と武道の家庭教師を引き受けていたからだ。
 若い頃からハツラツとして威勢が良く、屈託なく明るく武芸に秀でた男だった。その背広の肩幅や胸板も、太っているわけではなく鍛錬の為の筋肉のつき過ぎである。
「会長の所に行くのだろう。一緒に行こう。会長に見てもらいたいものがあってね、お話したら、この時間を指定されたんだよ。ちょうど君を呼ぼうと思っていたんだ」
「新作ですか」
 アタッシュケースに視線を向けると、染井英夫は少し得意そうな表情を浮かべ、守弘を促すように背を押して、小さく意地悪そうに呟いた。
「君に是非、試してもらいたいんだよ」
「また、特殊な何かを作ったんですか。先生の開発した妖糸も、使えるのはお嬢様と蛍くらいですよ」
 そのふくよかな顔を苦笑で見つめ、守弘は困ったように言った。
 もう少し『影』に使い易いものをお願いしたいと続けると、染井は嘆かわしいと言わんばかりに嘆いて見せる。
「そんな、誰にでも使えるものを作っても面白くないだろう。それぞれに合った護身具があるものだ。守弘。持って来たのは、君が以前言っていたものに近いものだよ。ほら、切れ味が良くて細工が分からないが、確実にヤレるものが欲しいと言っていただろ」
「できたんですか」
 守弘の反応に、染井はニヤリと意地悪く笑う。
「ほら、興味が出て来ただろ。ガッカリさせない自信はあるんだよ」
 自分より少し高い位置にある守弘の肩をバシンと威勢よく叩き、豪傑笑いを廊下に響かせる。
 書斎の扉の前で待っていた執事の伊集院が、笑顔で一礼する。
「いつもお元気そうで、何よりでございます。染井様」
「やぁ、伊集院。遅くにすまないね」
 そう挨拶を返し、書斎へ入る。士音はもうすぐ来るという。
 アタッシュケースを置いて、守弘と伊集院を振り返ると、染井は少し気まずい顔で問うた。
「うちの娘は迷惑をかけてないかね」
「いいえ、桜はよくやっていますよ」
 守弘の答えに伊集院も控えた場所から静かに同意する。
 染井は、引き気味に頷いた。
「そうかね。親からみれば、単純なおこりんぼで、手を焼くばかりだよ。お嬢様のご迷惑になっているんじゃないかとヒヤヒヤだよ」
「心配いりませんよ、先生。桜はしっかり務めを果たしていますよ」
「そうかね」
 さっきまでの意地悪な表情はどこへやら、守弘の言葉に相好を崩し、染井は頑丈な肩で息を吐いた。
 伊集院が、何かに気づいて主の居室へ続く扉から出ていく。
 染井の様子を見つめていた守弘が、眩しそうに目を伏せた。
「親というのは、そんな風に我が子を心配するものなのですね」
 守弘がからかうように言うと、一瞬染井は破顔したが、一転少し顔を曇らせて、謝るように視線を落とした。
「すまないな。君のように『津』を名乗る影たちから見ると、親の元でぬくぬくと育つ佳乃のような子は、目障りかもしれないね」
 染井の言葉に、守弘は吹き出すように笑った。
 鷹沢家に仕える者の中でも、『津』は極限られた者。過去を消し、姓を変え、『影』として生きる決意をした者。鷹沢士音より数代遡った世代、『影』として生きる為に名乗った者の姓に由来する。
 その事を知るのは、鷹沢に属する者の中でもごく一部である。
 中でも、中津守弘は『影』を統率する『守護者』だ。
 彼もまた、消し去った過去を持つ者であった。
「そうではありませんよ、先生。親がいるからと言って、そんな風に我が子の心配をしてくれるとは限らない。だから、有難いという話です」
 守弘はそう答えると、先程伊集院が入って行った扉を開けた。
 伊集院を従えて入って来た鷹沢士音に、守弘が無言で礼をし、染井は明るく挨拶を交わした。
 それから一時間、染井英夫のプレゼンを鷹沢士音は笑顔で聞き、新作だと言われた物を守弘が実演して見せるのを部屋の端で立って見ていた。


 用件を済ませた染井が、それを案内する為に伊集院と共に下がると、鷹沢士音は笑顔を少し曇らせて守弘を促した。
 守弘がまず、薄いファイルを差し出す。
「こちらが、御前様の誕生日会の資料です」
 受け取った士音の表情は険しい。
 中旬に予定されている御前の誕生日会への出席は、かの姫君も『必ず出席するように』との厳命が出ている。
「御前の希望により、極限られた方のみのガーデンパーティとのことですが、それでも三百名程の出席者となります。リストはこちらに。警備は鷹沢が一任されております」
 書類に目を通す士音を確認しながら、守弘は続けた。
「配置として、姫様にはお嬢様と蛍、桜、それから葵が就きます。それから――」
 警備内容を澱みなく読み上げる守弘の言葉を聞きながら、士音は会場の見取り図を入念に確認していた。
 あの幼い子が初めて出る公の場だ。何事もなく終えられるように、万全を尽くさねばならない。
 一通り守弘の説明を受けると、士音はそのファイルを開いたまま、神妙な顔で机上に置いた。
「何度も練り上げておく必要があるな」
 穴がないように、危険が及ばないように、考えつくすには時間が必要だ。
 そして、士音は次を促した。
 調べておくように頼んでおいたものだ。
 守弘は、別の書類を差し出した。
「こちらが例のものです」
 渡された書類は、善知鳥景甫のものだ。
 鷹沢士音は書類に目を通すと、最初のページに添付された写真をもう一度確認した。
確かに、あの日、娘の前に現れた男だ。
「善知鳥・・・、聞いたことはないな」
「報告にある通り、善知鳥家の養子とのことですが、そうなる以前の事についてはわかりません」
「養子・・・」
「善知鳥家現当主には子どもがおらず、養子を迎えたことは知られていますが、その養子である彼がどういう素性かは、調べられないようです」
 調査を続けるかどうか問うた守弘の言葉は、士音の耳には入っていないようだ。
 鷹沢士音は視線を落とし、卓上の写真立てに手を伸ばすと、何かを確認するかのように一つ呼吸をした。
 そこには、守弘が携帯電話に入れている写真と同じものがあった。
 娘が幼い頃、亡くなった妻と庭で遊んでいるのを、士音が撮影したものだ。
 写真たての前に置かれた小さなケースには、歪な形の黒い塊が宝石のように納められている。染井が預けて行った、綾が持つ護身用の武器だ。
 それは彼女の為だけに作られた特注品だった。
 鷹沢は、ある家の『影』を担う家だ。『影』を担いながら、『影』であるが故に虐げられてきた。
 一方、虐げながらも鷹沢の持つ力を利用し、主家の一族は隆盛を誇っていた。
 どんなに身を粉にして働こうと、その全てが搾取される。そのようなしがらみは継ぎたくなかった。それは士音の父の口癖だった。
 士音が混血の母を持つのは、生き方を変えたいという士音の父の足掻きだ。案の定、士音の外見に異国の血が見える事に、主家の当主は拒絶を示した。
 そして、士音がその主家の娘を妻としたことが、より一層士音の立場を膠着させた。
 だが、周囲の状況とは裏腹に、この屋敷は穏やかだった。
 勘当同然で嫁した令嬢は、明るく穏やかで美しかった。誰にも隔てがなく、いつも笑い声が絶えない屋敷の中では、主である士音さえも肩肘を張る必要がなかった。
 愛する妻と愛おしい娘を守ることが、この屋敷にいる者すべてを守ることが、士音の生きる理由となった。
 その為には、一人ではどれほどの力もない。信頼できる者が必要だった。
 しかし――。
 亡くなった妻は、殊更守弘を可愛がっていたが、その彼に『影』を任せた事がいつか後悔に繋がるのではないかと思い始めていた。
 そんな矢先、娘の傍に知らない青年がいた。娘がどう思っているのかは関係なかった。
 その姿を垣間見た時、今まで気付かないフリをしていた事を思わずにはいられなかった。
「すまない・・・」
 そう呟くのが、精一杯だった。

2.


 士音の表情に、守弘が察して頬を緩める。
「旦那様、何を仰るかと思えば――」
「お前の人生を奪った・・・」
「逆です。私は人生を与えられた。拾っていただかなければ、今はないのです。その事をお忘れなく。では、もう遅いので――」
 士音が言わんとすることを敢えて気付かないフリで、話を終えようとした。
 だが、士音はやめなかった。
 視線が机上の書類に注がれる。素性のはっきりしないその青年は、しかし確かに公の場所で確たる存在感を示している。いずれ会うこともあるだろう。
 だが、目前にいる信頼し、大切なものを委ねるに足る青年は、『影』だ。
「あの時・・・」
 そう、十五年前。
 その頃、鷹沢士音は行き詰っていた。
 主家の『影』として虐げられるだけではない。先が見えない独自の事業を模索しながら、多忙な毎日に追われていた。
 そんな時、まとまらない思考に嫌気が差して、普段は寄り付きもしない酒場街を歩いた。
「寂れた裏通りの怪しい街角で、自動販売機の明かりに浮かんでいるお前の顔は秀逸だったよ」
「・・・」
 擦り切れたトレーナーとジーンズ、身奇麗とは言い難い様子で、なんとも強気な面構えだった。そのギャップに釘付けになった。
 守弘が思い出しながら、小気味よく笑った。
「あぁ、あの時の旦那様は、まるで珍獣でも見るような表情でしたね」
「珍獣はヒドイだろう・・・」
 だが、確かに目を引いた。
 男を誘う為に物憂げに立っている何人もの女達に雑じるように、その場に存在しているその少年が、やけに生々しく浮いて見えた。
「おじさん、金持ちだろ。俺を買わないか」
 視線が合ってしばらくして、少年は一歩前へ出ると、少し背伸びをするように士音の顔を見つめてそう言った。おそらく小学校高学年か中学生というところだ。
 我に返ったように瞬きを数度して、士音が答える。
「売るのか。いくらだ」
 間の抜けた質問だ。少年は、熱く語るように続けた。
「おじさんの言い値でいいよ」
 士音は暫し彼の顔と見えない星空と自分の肩口を順に視線を移して勘定し、彼の顔に戻った。
 痩せた頬に目ばかり大きく見えるその少年の顔が、次の言葉を待つ。
「よし、まず三つ、こちらの言うことを聞いてもらおう。値段の交渉はそれからだ。おいで」
 そう言うと、士音は少年の手を取って、とっとと暗い街を出た。
 三つとは、
 ファミレスで飯をたらふく食う。
 身の上話をしてもらう。
 良いと言うまで付き合う。
 だった。
「いつも、あんな風に誰かを買っていたんですか」
 伊集院が用意していた飲み物を二つのグラスに注いで、守弘がからかうように言った。
 秘書としての控えめな口調ではなく、ただ、小気味よくからかうような口調だ。
「馬鹿なことを。そんなシュミはないよ」
 グラスを受け取って、士音はグラスに口をつけた。
 同様に、守弘も一口喉を潤す。
「何故、俺を拾ったんですか」
「そりゃ、お前、珍獣なら拾うだろ。貴重なものだぞ」
「交番には、行きませんでしたね」
「そうだな」
 あの日、育ち盛りの少年がファミレスで満腹になるまで食べるのを見て、何故あんな酒場街に立っていたのか聞き、お互い目を擦るくらいの眠気が差してきた頃、少年の自宅まで送った。
 自宅に送り届けたら、――何もなかった。
 守弘の父は借金を作り追われる身、母はとっくに男と駆け落ちして失踪。本当に何一つないアパートだった。
 結局、そのまま屋敷に連れて帰ったら、妻に怒られた。
「あの時の奥様の怒りようは、ハンパなかったですね」
「あぁ」
 その時の妻の事でも思い出しているのか、士音は卓上の写真に向かって苦笑を見せた。
 こんな時間に未成年を連れまわすとは何事ですか、と説教が飛んだ。
 既に日付は変わっており、季節は晩秋、気温が下がる時間帯だ。
 守弘にとっては、雨風が凌げて人の気配のあるこの屋敷は、非現実的な場所であった。その上、美しい奥方が自ら甲斐甲斐しく世話をやいてくれた。
 若い夫婦はとても仲が良い様子で、時折幸せそうに掛け合いながら、夜分の珍客をもてなしてくれた。
 守弘はホコリを洗い流し、気持ちの良い衣服をあてがわれ、温かい寝床に放り込まれた。
 暫くこの屋敷で過ごすうちに、鷹沢家が置かれている立場を知ることになる。
 奥方の実家である主家や、それに連なる三つの家からの圧力は、この屋敷にいてもひしひしと感じる程に圧倒的で重苦しいものがあった。
 それらに追われるように、屋敷の主は多忙で、ほとんど屋敷にいなかった。遅くに帰って来ては、一歳になる娘の傍で、奥方と過ごすことが何よりの幸せな時間だった。
 この屋敷の女主人は、美しく聡明で優しかった。
 仕える者すべてに心を砕き、愛する夫を支え、幼い娘を慈しみ育てていた。
 一度だけ、問うたことがある。何故、それ程に周囲に気を遣い、笑顔でいられるのか。
 美しい人は、やはり笑顔で答えてくれた。
 自分が親の反対を押し切り、鷹沢士音に嫁がなければ、彼も彼の元で働く者達ももっと楽であったかもしれない。
「それでも、私は彼と一緒にいたいから――」
 愛するものの傍で、守りたいものを守る。
 そう言って、小さな娘を抱き寄せた。夫によく似た顔立ちの、静かな幼子。
「私は幸せなのですよ、マモル。でも、皆には苦労をかけているのですから、ほんの少しでもいい、苦労を軽くするのは私の役目です」
 何不自由なく育てられ、親の言いなりで生きてきた自分には、何の力もない。
 できることをしているだけなのだと言う。
 そして、主が何を思い、どうしたいのか、鷹沢が大きくなることの意味を聞かされた。
守るため。
 虐げられることなどなくなるほどに強く、大きくなるのは、すべてを守るため。
守弘は『影』に徹することを決めた。
 未来も希望もないと思っていた。幸福など、非現実な世界の幻想だと思っていた。
 だが、できることはある。
「守りたいものの為・・・か」
 少年が『津』を名乗ることを望んだ時、士音は何度か止めるよう説得した。
 鷹沢の為に命を捨てるな、と。
 だが、決心は変わらなかった。命を捨てるのではない、何も持たない自分ができることをやる。
 愛するものと、守りたいものの為に生きるのだ。自分を害して何とも思わない人間の為ではなく、守りたいものの為に。
 すべての過去を消し、『中津』と名乗る時、士音は唯一、彼の名前の中の一文字を残した。
 『守』・・・それが、彼の実親が付けた名だった。
 その名を付けた時の親の思いだけは、忘れないようにと、士音は言った。
 新しい名を伝えた守弘に、奥方は静かに受け止めてくれた。
 苦労をかけますね。
 守弘は、グラスを置くと威儀を正して主に向き直り、慎重な態度で続けた。
「まだ鷹沢は、万全とは言えません。加えて、御前様のご命令により、半年前鷹沢傘下から三家の一つに組み込まれた浅黄産業は、鷹沢傘下として動いていた時の利益をすべて失った形で事業を行き詰らせています」
「聞いている。優良企業であった浅黄を、あの一族は食い潰してしまっている。悉く裏目になるように仕組んでいるようにさえ見える経営戦略だ」
 鷹沢傘下で必死に働いてきた者達を、ツルの一声で取り上げて路頭に迷わせる。そう分かっていても、主家に逆らうことはできず、主家を後ろ盾に物申す三家には反論しようもない。
「三家が食い潰す利益以上のものを生み出すには、もっと強くあらねばなりません」
「そうだな」
「私の役目は、『影』に徹することです。『影』として、旦那様を、お嬢様をお守りします。それは紛れもなく自分自身で選んだこと。ですから、どうかお気遣いなく」
「苦労をかけるな」
 士音はただ、素直にそう呟いた。
 それを聞いて、守弘が破顔する。
「本当に、似たもの夫婦ですね」
「?」
「奥様も、いつもそう言っておられました。『苦労をかける』と。その度にお答えしたものです」
「――」
「私は、『満足』しております、と」
 間違いではない。満ち足りているのだ。
 何も持たなかったものが、今、こうしてここに居る。守りたいと思うものの傍に居る。
 生きる理由が、確かにここにあるのだ。これ以上、何を望むことがあるのだろう。

3.


 染井英夫は、廊下の向こうに現れた娘の佳乃を見て手を振った。
 タオルを首にかけ、汗を拭きながら歩いてきた桜が珍しそうに目を見張る。
「父さん、来ていたの」
「今日は泊まりと聞いていたから、会うとは思っていたよ。元気そうだな」
 使用人の中には、この屋敷に住まう者もいるが、自宅から通っている者も中にはいる。
 蛍は常時綾につき従う為、この屋敷に居室を持っているが、桜もまた時に屋敷に泊まることを許されている。
 よって、毎日親子が顔を合わすということはない。
「さっきまで、お嬢様と蛍と一緒に訓練室にいたのよ。ついでに警備の数人も」
「お嬢様に無茶はさせてないだろうな」
 恐る恐る問うと、案の定な答えが返ってくる。
「何言ってるの、父さん。無茶しないと訓練にならないでしょ。手加減したら怒られるわよ、お嬢様には。蛍とその他数人はへばってたけど」
 女子高生としては背が高く、筋肉質で、女らしい丸みのない我が娘が、おそらく容赦なく打ちのめしたであろう女主人と訓練相手に心の中で謝罪する。
「学校の男の子とも、仲良くな」
「いきなり何よ、それ」
 染井は常日頃思っていることを言った。言える時に言っておかないといけないという強迫観念からか、藪から棒の話の展開になっていた。
「よく噛み付いてるんだろ。聞いているよ。カジ・・・なんだったかな」
 梶原常史のことだ。
「モテなくていいから、とにかく可愛くいなさい」
 親としては、重ねてそう願いたい。
 桜はあからさまにムッとして言い返す。
「そいつがお嬢様に失礼だからよ。お嬢様をお守りするのが、私の仕事。心配しなくても、私は可愛いわよ、父さん」
 ヤレヤレと呆れて見せて、染井は項垂れた。
「お前をあの方のお側においたことは、正しかったのかどうか」
 染井は自分の娘を『影』にするつもりはなかった。
 確かに、鷹沢が大きくなる過程でかなりの質量で係わってきたが、それとこれとはまったく別の話だ。
 だが、染井佳乃は何故か『影』を希望し、女主人を護ることに執念を燃やしている。
「武術を教えてくれたのは、父さんでしょ」
「そりゃ、お前が私の作った護身具を使いこなせないからだろう。辛うじてその銀の籠手で、力技で押すしかない」
 素手で戦うしかない娘に、特注の籠手を開発したのは、少しでも護ってやりたい親心からだ。
「それから、私が教えたのは『護る』武術だ。誰かを打ちのめすものではない。強くなる意味を取り違えてはいかんよ。まして、お前一人で護っているのではないことを肝に銘じなさい」
 自分の娘が、だれかれ構わず訓練相手を探しては、思い切り遣り合っているということはどこかの噂で聞いた。訓練は良いが、過ぎれば不興を買う。それは危険が増すということだ。
 だが、腕力しかない言われ方は、娘の癇にさわる。
「ひどいわね、それが親の言うこと」
 父親は動じない。
「親だから、はっきり言うよ。他人ははっきりと真実を言ってはくれないさ。お前がどうなろうと、責任は持たないからな。だが、親は違うだろ。娘の幸不幸は重要だ」
 正論を真っ向から唱えられると、何故か腹が立つ。
 素直にはなれない娘を、父親は適当にうっちゃってしまう。
「それから――」
 染井はおもむろにアタッシュケースを開けると、大きな手で鷲掴みに出来る大きさの皮製のケースを取り出した。
「お前に作ったものだ。旦那様の許可は取った。今嵌めている籠手よりも軽く機能的で強度は数段上げた」
 無造作に差し出されたものを受け取ると、すぐに開けてみるよう促される。
「実践で使う前に、必ず試しに使っておくのだよ。『影』の失敗は、命取りだ。お前も、お前がお守りする方もな」
 言われなくても分かっているが、言われなければならない立場だとも分かるので、反論できない。
 態度を有耶無耶にしていると、廊下の向こうから俯き加減で近付いて来る者がいた。
「葵さん、貴女も遅いのね」
 少し痩せて見える長い首筋に伸ばした髪を左側で一つにまとめ、動きやすいスッキリとしたスーツという身形である。
 葵は、外出先での警備を主に任されている姫付きの『影』だ。表向きは保育士として鷹千穂学園幼稚舎に勤務している。
 彼女は、父親が鷹沢グループ傘下の会社に勤めていたことが、姫付きとなった理由だった。
 彼女は親元で暮らしており、この時間この場所にいることは珍しい。
「来週、幼稚舎の遠足があるので、姫様の警備の確認をしていたのです。それに、中旬の姫様の警備のことでも相談がありましたので」
「御前の誕生日パーティに出席することだね」
 まだ幼い姫君には伝えていないとのことだが、準備は入念に行われているはずだ。
 染井英夫も、その日は鷹沢士音の側近として出席するようになっている。
 姫様の護りは大変だろうと労うと、葵は恐縮するように礼をした。
「でも、お嬢様はさっきまで私と訓練室にいたのよ」
 桜は、何気なく問うた。姫君の事については、必ず綾が係わっているはずだ。綾抜きで警備の話をするのは不自然だった。
 だが、葵は桜の言わんとすることに気付き、申し訳無さそうに肩をすくめた。
「私の動きや他の方々の配置など、既に決まっていることの確認をしたのよ」
 葵としても、限られた場所の中で警護する日常と、まったく別の場所で大勢の中で警護することは違う。
「御前様のパーティでは、桜も一緒に姫様に付くようだから、よろしくね」
「そうなの。でも、まずは遠足ね。どこに行くの」
 遠足は、鷹千穂学園高等部から歩いて数分の場所にある扇公園だという。
「目と鼻の先じゃない」
 幼稚舎からの道のりとしては、学園敷地をぐるりと巡る感じだろうか。
「それでも幼稚舎からは歩きますので」
「そうだな。あまり遠くへは行かせないだろう」
 幼稚園児の足を考えれば、遠足もそんなものだと笑う染井が、気を遣うように葵に問う。
「母上は元気かね」
 短い問いに、少し言いよどみ、葵は礼を言った。
「えぇ、落ち着いています」
 そう答えると、おやすみなさいと挨拶を交わし、葵は静かに立ち去った。
「何、父さん。葵のお母さんって」
 問うた理由が分からず、父親の顔を見上げると、いつもの説教が返ってくる。
「お前は、自分の母さんの心配をしなさい。『息子を産んだんじゃないのに』と、父さんは怒られてばかりだよ」
 実際、毎日耳にタコが出来るほど聞かされる。
 だが、頼みの娘の答えは冷たい。
「息子だと思って生むからだって、言い返してよ」
「そんなこと、言えるわけがないだろう。お前は本当に可愛くないな」
 心底諦めた口調で呟くと、いきなり会話に別の声が参戦する。
「また、こんな所で親子喧嘩ですか。みっともないですね、染井先生。桜も、さっきまでお嬢様や警備の男どもの相手をして、まだそんな元気があるのは怪物よ。蛍はとっくに居室に戻ったわよ、フラフラで」
 早足で廊下を突っ切ってきた一人のメイドが、挨拶もソコソコに言葉を投げた。
 目鼻立ちのはっきりした女性だ。桜よりも四つ年上になる。
「吉野くん、君も遅いんだね」
 気圧されたように、染井が苦笑する。
 吉野と呼ばれるこのメイド見習いは、染井の教え子だ。成績優秀で推薦入学で鷹千穂学園中等部に入学して以来、染井はタジタジである。あれから年月は経ち、今は大学生だ。
 かなりの勢いで突進してくる吉野は、
「まだ日付はまたいでいませんよ、先生。桜、今日は泊まりでしょ。せっかくだから、私の訓練に付き合いなさいよ」
 と捲くし立て、すれ違いざまに桜の腕を掴むと、相手の同意も確かめず、引き摺るように連れて行く。
 歩く速度は変わらない。
「訓練って、吉野さんはメイドでしょ。訓練なんてしてどうするの」
 引っ張られる形で桜が慌てると、吉野は大袈裟にため息をついて桜を睨んだ。
「何言ってるの。腕っ節を鍛えれば、選択肢は広がるでしょ」
「選択肢?」
 言わんとする意味がわからず、問い返すと、尚一層睨まれた。
「これだから苦労知らずは。生活に不自由してないっていいわよね。どうやって生きていこうって悩まなくていいのは、楽ね。先生、もう少しビシッと育てた方が良いですよ」
 とばっちりが飛んで来て、染井は大きくため息をついた。
「これ以上ビシッとされたら、嫁の貰い手が無くなりそうで怖いよ」
 だが、畳み掛けるように痛いところを衝かれる。
「桜が嫁に行けると思ってるんですか、先生。甘いですよ」
「何ですか、それ。ひどいじゃないですか、吉野さん」
 引き摺られるままになりながらも、桜が応戦するが、ぐうの音も出ない言葉が返る。
「貴女、嫁に行く気があるの」
「ありませんけど」
「でしょ。ほら、先生、だそうですよ」
 返す言葉もなく、ヤレヤレと呆れて天井を仰ぎ、染井は遠ざかる二人を見送った。
「染井様も、形無しですな」
 状況を見ていた伊集院が、労うように言葉を掛ける。
「まったく、言いたくはないが、近頃の若い者にはついて行けんよ。娘も含めてね」
「『吉野』というのは、染井様が名づけられたそうで」
「いや、メイド見習いで入る時、呼び名を考えておいた方が良いと伝えたら、ウチのノー天気な娘の名前を訊かれたので、『ヨシノ』だと答えたのだよ。じゃあそれでということになってね。物怖じしない賢い子だが、あの勢いはウチの娘がもう一人増えたようで、なかなかたじろぐよ」
「かなり苦労してきた娘と聞いております。今も、メイド見習いをしながら大学へ通い、あのように遅くまで精進している。よく頑張れるものです」
 心底そう思っているようで、伊集院はすでに姿も声もしなくなった遠い廊下の向こうを思い遣った。
 染井もそれには同感のようだ。
「シングルマザーで頑張った母親への恩返しというところだそうだよ。本人は、突っ張った物言いしかしないがね」
「先が楽しみでございますな」
 伊集院が感嘆し、染井も肩をすくめて笑った。


 天蓋付きのベッドの傍に立ち、中から聞こえてくる穏やかな寝息を見つめ、綾は安堵するように息をついた。
「ご心配ですか」
 姫付きの近江が声をかける。
 幼子が寝入ったことを確認して訓練室に行ったはずだが、やはり彼女自身が眠る直前も確かめないと気が治まらないようだ。
 綾は苦笑すると、ベッドサイドの椅子に静かに腰をかけた。
「お嬢様が案じておられるのは、御前様のパーティに姫様が出席されることですか」
 夕食後、遠足の話をせがむ幼子に答えながらも、もう一つの事柄については一切口にしなかった。
「大勢の中に連れて行くのは初めてだ。それにあの三家も揃う。何事もなく終われば良いと思うが、できることなら連れて行きたくはないな」
 三家の存在は、幼子にとっては恐怖だ。そして、御前とは直接の血縁関係のあるその三つの家の者達にとって、この幼子は目障りなものこの上ないのだ。
「姫様のご出席は、御前様からの命令だとお聞きしておりますが」
「そうだ。逆らうことはできない」
 もどかしい。
 敢えて近江は軽く答えた。
「お嬢様がお傍についておられるのですから、大丈夫ですよ。葵もよく姫様には慣れています。パーティ用のお召し物は見られましたか」
 特別に用意されたワンピース。上等のレース生地で、姫君のものは撫子色。綾のものはその色味より少し淡いものが選ばれた。
「きっと可愛らしいですよ、お二人とも」
 二人がそれを着た姿でも想像しているのか、近江は一人幸せそうに微笑んでいる。
 その様子に、綾も表情を緩めた。
 近江は、元々綾の母親付きのメイドだった。
 綾が生まれる以前の事も、目前で穏やかに寝息をたてている幼子の生まれた経緯も、今の鷹沢の状況も、すべて見てきたうちの一人だ。どのような想いでここまで守ってきたか、すべて見てきた。
「近江は楽しみにしております。こうして穏やかな毎日が続き、いつかお二人が成人される日が来ることを」
 心から祈っている。
「叔母様は、この子をどんな娘に育てたいと思っただろうな」
 脳裏に浮かぶ美しい黒髪と同じ髪を撫でながら呟く綾に、近江は柔らかく暖かい口調でゆっくりと答えた。
「姫様のお母上も、そして奥様も同じ想いでしたよ。元気であればそれで良い、と」
 そして、幸せであることを祈る、と。
 近江の声が聞こえたのか、一つ大きく伸びをした姫がコロンと寝返りをうって大きく息をつくと手足を放り出して寝入ってしまう。
 起きなければいいがと、一瞬息を止めて見つめていた綾と近江は、目覚めそうにないその穏やかな寝顔に視線を合わせると、静かに肩を振るわせて幸せそうに笑った。


                               ――Ⅲへ――

シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ)~Ⅱ

シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ)~Ⅱ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-17

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