長編『イデアリストの呼応』二章
二章『セントポーリアは咲き誇る』
※セントポーリア:イワタバコ科の多年草。バラエティー豊かな品種
花言葉は『小さな心、小さな愛』
1
阿(あ)礼(れい)優(ゆう)亜(あ)は修道院服を着た。下着姿でもじもじしていたところ、白髪の少女が脱いで渡してくれたのである。サイズが合わず、胸や臀部のラインがくっきりと浮き出るため、恥ずかしさに頬が染まる。優亜は自身の無駄に大きな胸に対し、コンプレックスを感じているのだ。
「恥ずかしがることはありませんよ。とてもよくお似合いです。ラファエロが描く聖母様のよう。ふふ。すばらしいです。あなたの心が清らかであることの表れですね」
白髪の美少女はどこかズレたフォローをした。
彼女の口元を見てはキスされたことを思い出し、優亜は顔をさらに赤くした。ファーストキスだったのだ。
――同姓とのキスは、キスと呼べるのかなぁ……? うむむ。きっとセーフだよね!
白髪の彼女は微笑んでいる。能力は解除しているのだろう――緑色の翼は既に消えていた。修道院服を脱いだ彼女は、白いTシャツにハーフパンツといった軽装で、露出した肌の至るところに白い包帯が巻かれていた。少し血が滲んでいる箇所もあって痛々しい。
白髪、白いシャツ、白い包帯。とても儚げで、かつ痛ましく……目を離した隙に、ふっと消えてしまいそうな危うさを感じる。
よく見ると一五七センチの優亜より背が低く、小柄である。服のサイズがぜんぜん合わないのも当然だ。
数十分前――優亜と、もう一人捕らわれていた少女は、白髪の少女によって救い出された。そして小さな雑居ビルに移動し、三階にある何も無いガランとした空室に避難したのだった。
どうやってここまで来たのか、というと、単純に跳んできたのだ。
文字通り、ビルからビルをぴょんぴょんと軽やかに。
どうやら白髪の天使は、肉体を飛躍的に強化させ、翼を駆使した高速移動とハイジャンプが可能になる能力を有しているらしい。天使は二人の少女を細い両手で抱えて、人の目に留まらぬスピードでビルの屋上から屋上へと移動したのだ。
「もう心配はありません……落ち着いて、深呼吸するのです」
彼女は、もう一人の被害者の震える体をしきりに撫でて、慰めようとしている。
被害者の少女は高校制服を着たまま監禁されていたらしく、服装はそのままだ。その身を縮こまらせて、真っ青な顔でガタガタ震えている。
優亜は息を呑み、緊張した面持ちでその青い顔を見つめる。
今のウチなら、この子の気持ちを理解できる。レイプされる圧倒的な恐怖、絶望感がリアルに想像できる。ウチには、この子を癒せる可能性がある――。
優亜は張り出した胸元を隠していた腕を、被害者へ伸ばし、その冷え切った手に触れ、目を閉じた。
「ウチに、あなたの心を理解させて」
深く、深く――溶け合うように、優亜は感情移入する。
乱暴に服を破かれてベッドに押し倒され、ニヤニヤ笑う裸の男達に迫られ――残酷過ぎる行為。痛み。涙。絶叫。大事な全てを奪われる絶望感。
引き裂かれた心を柔らかく温かいベールでそっと包み込むようなイメージで、優しさを注ぐ。
優亜の左手の小指に嵌められている指輪が緑色に輝く。
イデアリストの能力が発動したのだ。
「『理解心療(セントポーリア)』――お願い。あなたの苦しみをすべて理解させて……」
穏やかで大きな波と、嘆かわしく荒れ狂う小刻みな波が溶け合うように。
優亜の理解が、被害者の心を温かく包み込み、傷を癒していく。
次第に少女の震えが止まり、呼吸も穏やかに……。比例してその目に涙が溢れ出していく。
「わあああああああ!」
堪らずに少女は優亜の胸に顔を埋めてくる。優亜は驚くことなく、晴れた日の大海原のような微笑で、その乱れた髪をそっと撫でた。
少女は幼い子供のようにしきりに大声を上げて泣き続け、そのうち疲れたのか、抱かれたまま眠った。
『理解心療(セントポーリア)』解除。小指の指輪は輝きを失う。
対象者の苦しみや悲しみを深く理解した時に発動する能力――『理解心療(セントポーリア)』。その効果は心を癒すばかりか、鬱病、PTSDなどといった、カビのように心に根を下ろす精神病さえ治療可能である。
「ああ、とても美しい……すばらしい……」傍で見守っていた白髪の少女が、祈るように手を組み、涙を流して感激していた。「あなたも、『奇跡』をお使いになられるのですね」
優亜は眠った少女を撫でながら、恥ずかしげに苦笑した。
「『奇跡』……うん、一応。でも、君もその『奇跡』、使えるんだよね」
「ええ」白髪の天使は十字架のネックレスを両手で包む。「わたしの名前はマリィ。洗練名なんですけどね。あなたは?」
「ウチは阿礼優亜。優亜って呼んでね」優亜は笑う。「よろしくね。マリィちゃん」
「ええ、よろしくお願いします」
マリィはまた、手を組んで祈りのポーズを取る。
「どうか……あなたの『奇跡』の道に神のご加護があらんことを……」
優亜は少し驚くが、すぐに柔らかく微笑む。
「えっと……マリィちゃんの『奇跡』の道にもご加護あれ、えと、神様の……でいいのかな?」
くすくす、とマリィは上品に手を口元に当てて笑い、優亜も少女を起こさないように、静かに笑った。
「そういえば……あの赤い髪の男性は、何者なのでしょう? 少女をかどわかす不届き者にしては、どこか正義の意思に満ち溢れていたようでしたが」
マリィは小首をかしげた。
「あの人もきっとイデアリスト――『奇跡』を使える人かも」優亜は胸がドキドキするのを自覚した。「あの部屋にいた男たちをみんな、赤い刀でやっつけてくれたし」
優亜は胸のドキドキが、抱かれて眠る少女に気付かれないことを祈った。
あんな風に自分を激しく叱ってくれた人はいなかった。自分が思わず自虐めいた弱音を吐けば、いつも周りの人は「優しいのね」「大丈夫だよ」と声をかけて慰めてくれた。
でも、あの人は違った。容赦のない直線的な厳しさで怒ってくれた。
『てめえはなあ! 素直に助かって喜んでりゃいいんだよ!』
あの人は散々ひどく罵倒してきたのに、最後にそう言ってくれた。とても力強くて優しい命令。希望と安心という名の殴打。
「優亜さん? どうかなさいましたか? 顔が赤いですよ?」不思議な顔のマリィ。
「う、ううん! な、なんでもないよ……そっ、それよりもっ、これからどうしよっか?」
なんとかそう言ってごまかすと、マリィは一つうなずき、
「ええ。そちらの女の子の目覚めを待って、起きたらおうちに送りましょう。酷い目に遭われましたが……きっと、周りの人々の愛情と時間が、癒してくれるでしょう。それに優亜さんの『奇跡』の効果もあります。……どうか、神のご加護があらんことを」
マリィは胸の前で十字を切り、手を組んで神へ祈りをささげた。
2
その夜――切辻練吾は、タクシーの運転手に買ってもらった包帯で適当に頭をぐるぐる巻きにして応急処置し、タマキに新宿のとあるカフェで待っている旨をメールした。それからバイト先のコンビニに戻り、練吾の怪我を心配する店長の声を無視して私服に着替え、ギターケースを背負った。
待ち合わせ場所である、客もまばらなカフェで席に着き、何か注文しようと手を上げたが、自身が一文無しであることに気付く。近づいてきた店員に「てめえ、水まだかよ?」とビビらせてはぐらかした。
「あーあ。オレの給料……今月、どうやって暮らせばいいんだよ」
今更ながら、運賃としてタクシー運転手に給料を景気よくバラ撒いたことを後悔する。血だらけの練吾に包帯を買ってくれたりとサポートしてくれたことには感謝しているが。
――にしても、だ。あの翼の女――何者だ? それにあの巨乳女も、イデアリストと言っていた。あの二人――まさか?
「ありゃまあ、ちょっと見ない間に面白い頭になったねえ」
金髪にスーツ姿の青年が、苛立ちを誘う軽口を叩きながら歩いてきた。
「おっ? おおっ! デュナミスがついてる!」
タマキは嬉々として練吾が着けている剣型のネックレスに顔をずい、と近づけてきた。
「あ? デュナミス? なんだそりゃ」練吾はネックレスを握って隠す。
「そのネックレスのことだよぉ! イデアリストの力を引き出すための道具さ! いやあ、やっと覚悟を決めたんだね。いやあ、良き事かな良き事かな。で、どうだった? 感想は? んん?」
「まあまあだった」練吾はつまらなそうに答える。「それよりも、おいタマキ聞け! イデアリストとは、一体何なんだ? その本質を言え」
すると、タマキの表情から嬉しさが消え、得意げな笑みが生まれた。
「待ってたよ、その質問」
タマキは練吾とテーブルを挟むようして、椅子に座って長い足を組んだ。
「『理想家(イデアリスト)』というのは、その名の通り固有の理想を抱く人物を指す。それも、自分の人生すべての時間を――生命を賭けてまで己の理想に執着し、追い求める一種の異常者さ。そいつになる覚悟がある者に、能力を得る権利が生まれる」
タマキは練吾のネックレスを指さす。
「君の『理想切断(ケルベロス)』は、君自身の理想を反映した能力を持っているだろう?」
「強姦魔や殺人鬼の手足やナニを不能にする力、か」
「そう。でも、それだけでは君の理想世界に近づくには程遠い――がむしゃらに走り回って、一人一人不能にするんじゃあ、時間がいくらあっても足りない」
「そのためには、模倣者を増やさなければならない」
練吾は強い意思を帯びた目で答えた。
「その通り」タマキはテーブルに頬杖をついた。「気付かなかったかい? 感覚的に、さ。『理想切断(ケルベロス)』を使用した時に、自分の体から放射状に広がる何かを」
「放射状に――?」
練吾は記憶を手繰り寄せる。極度的な興奮状態にあったため、そんな感覚があったとしても、気付く余裕などない。しかし――。
「何かを呼び起こす……そんな感じはした」
「それだよ練吾くん。君はベルアラームをガツンと派手に鳴らしたってわけさ。強姦魔をブチのめしたいと思っている人間の、潜在意識を起こすためのベルをさ。それはイデア・エフェクトと呼ばれている」
「まさか――。それは、何かの例えか?」
「いや、事実さ。イデアリストには、そういった能力が備わっている。それがイデアリストの本領なんだからさ。――いいかい?
『理想(イデア)』とは、普通の人々が生活する中で認識する現実や感覚を超えた、延長線の先にある真実をいう。イデアリストはね、ふだん何気なく生きる常人には決して見ることのできない、真実へ続く延長線を見出すことができるんだ。そして常人を、イデア・エフェクトによって延長線へ導くことができる」
「現実や感覚の延長線――その先にある真実……」練吾はネックレスを握り締めた。「オレは――強姦魔や殺人鬼をこの世界から消したい。そう願っている。これが理想や真実ってやつなのか?」
「そう。その個人の理想が、民衆を突き動かす」タマキはうなずく。「人間社会はね、その『全体そのもの』が勝手に成長するわけじゃないんだ。その中で特に優れた『個人』が爆発的な成長を遂げることで、それに賛同した社会は追いつこうと成長し、進化する。いつの時代だってそうだ。たとえば、イエス・キリストが辿り着いた神がかりな思想に、無数の信者たちが賛同し、その教えを国教とする国家がいくつもあるように、ね。イデアリストというは――その概念が長い時を経て『個人の力』として進化したものなんだよ」
まあ、これも友人から聞いた話だけど、と付け加えるタマキ。
「なるほど」練吾はニヤリと笑う。「いずれ、世界はオレの理想に賛同し、全員がこぞって外道どもの手足やナニを潰し歩くようになるってわけか」
「うん、そうだね。でも……本当にそう望んでいるのかい?」
なぜか、タマキの表情に憂いが帯びた。
「練吾くん。キミはおそらく、そのためにこれから何十、何百人の手足を不能にしていくだろう――。でも想像してみてくれ。その果てにあるのは、なんだろうか? 練吾くんは、今のまま自我をきちんと保っているだろうか? 心は壊れていないだろうか? 無事だろうか?」
「あ? 何バカなこと言ってんだ」
練吾は、タマキの言わんとしていることが理解できなかった。
自分自身のこれからだとか、自分の身がどうなっているとか、練吾にとっては学歴と同じぐらいどうでもいいことなのである。
イデアリストの力を駆使して無数の罪人を狩る。そして模倣者を次から次へと無尽蔵に生み出し、活動範囲を広げていく。それは強姦、殺人に対する強大な抑止力となり、ゆくゆくは強姦や殺人といった概念さえ、人々は忘れるだろう。
それが練吾の理想とするところであり、自分の身の保身など一ミリも考慮していないのだ。
「ひょっとしてかわいそうだと思っているのか? オレを? 心配しているのか?」
「練吾くん、これだけは覚えておいてくれ」タマキは急に真顔になる。「これから先、道を踏み外した時や、目的を失った時は――迷わずぼくを訪ねてくれ。ぼくは君の味方だ。どんなことがあろうとも」
「はあ? キモいことぬかすなてめえ!」
思わず練吾は身を引き、背中を背もたれにぴったり貼り付けた。
「ま、あれだ――。とにもかくにも」タマキは瞬時に表情を切り替え、微笑を浮かべる。「メシにしようか。おごるよ」
「……なあタマキ」練吾は腕を組む。「お前、何か企んでるだろ? タダでこんなすげえ能力くれやがって。裏には何があるんだ?」
「ふふふ。そこに気付いてしまったか。バレてしまっては仕方がない」タマキも腕を組み、得意げな顔をする。「世界平和を築き上げることが、ぼくの目的なのさ! ぼくはね、『理想切断』による悪人のいない世界にするのが夢なのだよ!」
「人形みてえなツラしてペラペラとよお……」
不愉快だ。練吾はタマキの鼻先に人差し指を突きつける。
「何が『世界平和』だ。何が夢だ。えっ? バレバレなんだよ。オレの目はごまかせねえぜ……。それはてめえの本心なんかじゃねえ。ただの飾りだ。そうだろ? コラ、すべて吐けよ」
すると、タマキの表情は一瞬、失われ――またにやり、と笑った。
「ひどいなあ。これでもさ、マジなんだよ? ぼく……」
「いや、嘘だな。オレの目をごまそうなんざ――」
――不意に、練吾のネックレス――デュナミスが赤く輝き始めた。
「なっ!? 『理想切断(ケルベロス)』が……反応している……!」
ガタッと立ち上がる練吾の肩を、タマキが押さえる。
「落ち着いて練吾くん。キミから半径約百メートル以内に、強姦魔、あるいは殺人鬼が入り込んだんだ」
「半径百メートル?」
「そう。それが『理想切断(ケルベロス)』の領域――つまり縄張りだ。現在から過去二十四時間以内に強姦、殺人を犯した人物がその領域に入り込めば、否応無く能力が発動する。それが『理想切断(ケルベロス)』の発動条件なんだ。ちなみに『理想切断』のイデアエフェクトの範囲はおよそ半径二十キロメートル。ちょうど、新宿駅でエフェクトを起こせばネズミーランドまで届く計算だ。もし世界中に影響を与えたいのなら、時間かけてあちこち飛び回って、犯罪者の手足やナニを潰して回らなきゃならない」
「へえ……ははっ、随分と忙しくなりそうだなあ、おい」
練吾は好戦的な笑みを浮かべ、武者震いを覚える。
「もちろん、デュナミスを外している間は、発動しない。もっともその分だと、ずっと外しそうもないね。あ、ちなみに一度でも対象者になった人間を取り逃がしたとしても、それ以降はいつでも半径百メートル以内に入れば対象にすることができるよ」
「ハッ。取り逃がすだと? そんなヘマすっかよ!」
練吾は緑色のジャケットを羽織り、駆け出してドアから外に飛び出た。
ターゲットは東側の方向、九十七メートル先にいる。
自動行動、開始!
飛躍的に向上した身体能力で、常人には見えない赤い刀を手に街路を駆ける。
時には邪魔な群集を飛び越え、走行中の車から車へ飛び移り――あっという間にターゲットを視認できる所まで移動した。
時速七十キロで走る運搬トラックから高く跳躍し、群衆に紛れて道を歩くターゲットの目の前に降り立つ。
赤い髪に緑のジャケット。
練吾の目立つ姿に群集は目を留める。
怯えたターゲットは、事態を把握できないながらも、人気の無い路地裏へと逃げ込む。
「選べ! 外道っ!」
練吾はわざと高らかに叫ぶ。群衆によく聞こえるように。
「警察に自首して罪を償うか! 今すぐ俺に斬られるか!」
練吾は高く跳躍し、逃げるターゲットを飛び越えてその眼前に着地する。
「あ、あんた……『血のカマイタチ』なのか……?」
犯罪者の男はポケットから取り出したナイフを構える。その声は不思議と落ち着いていた。
一方、路地裏を覗き込むモブは練吾の『斬る』という言葉に頭を傾げる。練吾の赤い刀を視認できるのは、イデアリストかそのターゲットに限られているためだ。
「それがあんたの選択か……悲しいねまったく。まあ、こう言って警察に行ったヤツは一人もいねえんだけどな」
練吾はにやり、と笑みを浮かべ、地面を蹴る。
「レイプしたその時、既にてめえの地獄行きは決定済みなんだよ! おとなしく地獄へ行け! 外道!」
瞬時に赤い刀を乱舞させ、ターゲットの手足と股間を切断する。厳密には、切断ではなく封印したのであるが。
犯罪者は四肢の感覚を失い、地面に倒れた。
にやりと笑い、練吾は犯罪者の間抜け面を見下ろす。
しかし――突然、練吾は眩暈を覚えてよろめいた。
「――なんだ? この感覚は――」
フラッシュバック。緑色の翼を持つ白髪の少女。母親の柔らかな笑顔。父親の頼もしい笑顔。
そして――過去の自分。
急に、悲しくなった。悲しくなりながら、犯罪者を見下ろした。
約十八時間前に、この男は友人の女をレイプした。その情報が感覚的に、デュナミスから練吾の脳内に送り込まれている。だから自分は、それ相応のことをしたまでだ。
なぜ、悲しい? なぜだ? なぜ胸が痛む?
白髪の少女の笑顔のイメージが離れない。
懐かしい。なぜ、懐かしい? そして今、なぜこんなにも悲しい?
「お前は、一体なんなんだ? 翼の女……!」
「ありがとよ……」倒れる犯罪者のか細い声。「罰してくれて……苦しかったんだ」
「!? なっ、何を……」怖ろしい。練吾はただならぬ恐怖を覚えてよろめいた。「てっ、てめえ、何を言ってるんだ?」
「ありがとよ……」どこか満足げに、救われた表情で犯罪者は気を失った。
練吾は頭を抱える。混乱。世界がぐにゃりと渦巻く。気絶した犯罪者が、自分の姿に変わった。大量の芋虫が湧いて現れ、その自分の姿に群がる。
頭を振って幻を追い払う。頭痛がする。なぜこいつは、罰せられて救われた顔をするのだ! 意味がわからない。わからない!
悪人が、そんなセリフを吐くんじゃねえ! てめえは決して許されねえ人間なんだよ! 心の無い野獣でしかないんだ! 悪人なら、悪人らしくしろ! じゃないと、オレは……!
ぽん、と誰かに肩を叩かれる。
振り向くと、タマキが悲しげな表情をして立っていた。
「大丈夫かい?」
タマキの手を振り払う。練吾は全身が冷たい汗に塗れていることを自覚した。
「くそったれ……」練吾は額に手を当てて目を固くつぶる。「おい、タマキ」
「なんだい?」
「オレの他にもイデアリストはごろごろいるんだろう?」
「まあ、僕が知ってるイデアリストは、片手で数えられるほどだけどね」
「緑色の翼を持った、白髪の少女。知ってるか?」
「ああ、『手負いの翼』のことだね」
「『手負いの翼』?」
「知らない? 『血のカマイタチ』と同じ都市伝説ヒーローの一つだよ。傷だらけの天使が、捕らわれた弱き人を救い出すってね。その手のネット掲示板ではよく知られてる存在さ」
「捕らわれた弱き人を救い出す……」
練吾は下着姿の少女を抱えた天使を思い出す。
「どこにいるか知ってんのか?」練吾は問う。
「いいや。にしても練吾くん、なんで、あの女の子のことが気になるんだい?」
「……まあ、ただ単純に気になるのさ。俺以外のイデアリストの存在が。――ん? お前いま、あの女の子って言ったな?」
「いやいやいや! 目撃証言にねっ、少女みたいって記述が多いんだよ!」
慌てて両手を振るタマキに、練吾は疑い深げな目を向ける。
「ふうん。てめえが何を知っていて何を企んでんのか知らねえが……オレの邪魔だけはすんじゃねえぞ」
練吾は雑踏の方へと歩く。後からタマキの足音がついてきた。
3
阿礼優亜の人格をイデアリストたるものへ成長させたのは、とある親友の死がきっかけであった。
優亜は都内の墨田区に平凡な一軒家を構える中流家庭で不自由なく育ち、両親と兄との関係も良好で、仲の良い友人たちも多い。
勉強もそれなりに出来て、運動神経もまあまあ悪くないし、スタイルも顔も並より上。世間に対するコンプレックスなど無いだろうし、誰に対しても分け隔てなく接して優しさを振りまく。
優亜は容姿に優れ、家庭面においても能力面においても、平均的で普通な女子高校生だ。だから傍目には悩み事もなさそうに見えているだろう。
しかし、万人に存在するであろう心の闇というものは、優亜にもある。
その闇の現れは、中学生だった頃に親友がいじめを苦にして自殺したことが起因となっていた。
小学三年の始め、クラス替えで席が隣同士になってから、その親友とはだいたい何をするにも一緒だった。彼女はマコちゃんといい、優亜と同様、中流家庭で何一つ不自由ない生活を送る明るい女の子だった。
「ねえ優亜ちゃん。心ってどの辺にあるんだろ?」
「ねえ優亜ちゃん。雷って好き? ウチは大好き」
「ねえ優亜ちゃん。夢ってある? ウチは漫画家になりたいな」
「優亜ちゃん。ウチ、ずっと優亜ちゃんと友達でいたいな。ホントだよ」
とても純粋で笑顔の可愛いマコちゃん。天然な要素が強かったけども、好奇心旺盛で上手なイラストを描くマコちゃん。
中学校が別々になり、涙ながらにお別れして以来、日に日に二人は疎遠になっていき、中学二年生になる頃には一切の連絡が途絶えてしまった。
中学校での新生活が始まると、部活動や新たな交友関係などで忙しくなり、マコちゃんへメールすることも次第になくなっていったのだ。
そんなある日、マコちゃんが学校の屋上から飛び降り自殺した情報が舞い込んできた。
優亜はひどく悲しみに暮れて、葬式に参加してもずっと泣きっぱなしで、マコちゃんの死に顔をまともに見ることができなかった。
マコちゃんの遺体が火葬場で焼かれている間、待合室で周囲の親族などがボソボソと「まさか苛められてたなんてねえ。あんないい子が……。かわいそうに」と他人事のように喋っているのが聞こえ、思わず優亜は激情に駆られた。
「あなた達に、マコちゃんの何が分かるんですか! マコちゃんは……! マコちゃんは……! マコ……ちゃんは……」
その時、優亜は小学校時代の彼女しか知らないことに思い至り、ぽっかりと心に穴が空いた気分になった。
――あたしは知らない……最近のマコちゃんのことを何も……あたしは……。
優亜はマコちゃんが焼かれている火葬炉へ駆け出し、その扉にすがるようにして両手と頬を当ててすすり泣いた。とても熱かった。
「ねえマコちゃん。あたし、マコちゃんのこと何も知らないよ……。何がマコちゃんをそんなに苦しめたのか、分からないよ……」
翌日から、優亜はマコちゃんがなぜ死んだかを調べるために各方面へ駆け回った。在学していた中学校や、新しい友人などに直接聞き回った。
しかし驚いたことに、マコちゃんには新しい友人はいなかった。優亜と共通の友人の子に聞いても、さっと顔を青くして「知らない!」と言って逃げ出す始末なのだ。
苛めが原因で自殺したらしい、という噂は聞いている。でも、学校の人達が誰一人マコちゃんのことを知らんぷりするのは異常だ。担任だった教諭でさえも、話をはぐらかす。
マコちゃんの家に行き、両親に訊いても、ひどく落ち込んだ表情で首を横に振り、「遺書も何もなかったし、学校側も白を切るからねえ……」と力無い返事をする。
「おかしい! おかしいよ……そんなの。誰もマコちゃんのこと理解してなかっただなんて」
思い切って優亜は、マコちゃんの家に台所の窓から不法侵入し、彼女の部屋に入った。とても綺麗に整理整頓された部屋だった。両親が手入れしたのか、それともマコちゃんが死ぬ前に整えたのか……。
罪悪感を覚えながらもこっそりと引き出しを開けていくが、特に遺書のようなものや、個人的な日記などは見当たらない。しかし、ベッドの枕の下に交換日記が隠されているのを見つけた。
「これは、あたしとマコちゃんが小学生の時の……」
四年生の時から毎日書き合った交換日記だった。卒業すると同時にぱったりと辞めてしまい、マコちゃんに預けっ放しだった。
最後のページをめくってみると、まだ優亜が読んでいない文章が書かれてあった。日付は自殺する四日前。とても綺麗な字で優しい文章。
しかし、死に直接繋がるようなことは書かれていなかった。ただ、優亜とのかけがえの無い楽しかった思い出が書き連ねてあっただけで……。
涙をぼろぼろこぼしながら優亜は日記を胸に抱き、受け取って帰宅した。
その日以来、優亜はマコちゃんの日記を毎日読んでいるし、別のノートに新しく日記を書いては、マコちゃんの墓に供えている。
彼女がなぜ死んだのか……具体的には分からないままだ。しかしその代わり、優亜の心の中に燃えるような決心が生まれていた。
どのような状況であれ、苦しみ困っている人がいたなら、深く理解してあげたい――。きっとマコちゃんは、苛められているのを誰にも相談できなくて独りぼっちで苦しんだ末に自殺したんだ。マコちゃんには、理解してくれる人が何よりも必要だった。だからあたしは、理解したい。マコちゃんのように苦しむ人の心を……。
それが本当の優しさに繋がるのだと……。
それから優亜は、学校の生徒達や街で偶然見かけた苦しそうな人など、積極的に話を克明に聞いて、深く理解するように努めた。
――そんな時だった。優亜がデュナミスを拾ったのは。
高校二年生になった春、友人との待ち合わせ場所へ向かうために原宿の雑踏の中を歩いていると、アスファルトの地面に何かキラリと光る物が見えた。
百円玉かなラッキーと思い、通行人にぶつからないよう近くまで移動し、さっと拾った。
それは小さな指輪だった。二.五五キャラットのエメラルドが嵌め込まれている。素人の優亜にも一目でとびっきりの高級品であることが分かった。
そのエメラルドの輝きの深奥へ吸い込まれる錯覚を覚え、目を逸らそうとした――しかし、すっかり魅了され切った優亜は、数十秒間、立ち尽くして指輪を見つめ続けた。
指に嵌めたい。胸がドキドキ鳴る。初恋のように。初恋は未経験だが。
手放したくない――。これが他人の落し物だとはもはや思えなかった。
――これは既にウチのもの……。ウチの手に渡る運命があらかじめ決定付けられていたもの。
そうとしか思えなかった。でなければ、この一体感はどう説明できるだろう?
おそるおそる左手の小指にはめてみる。やはりサイズはぴったりだった。
あり得ないことだが――エメラルドリングが体と溶け合い、完全に同一化したのだと感じた。ふと冷静になり、自分のものではないのですぐ外さなければ。と思うが、躊躇う。
これを外すのは、強引に自分の生爪を剥がすのと同じことだ。
すると――指輪は輝き出した。原理は不明だが、情報が頭の中に流れ込んでくるのを感じる。
能力名『理解診療(セントポーリア)』。発動条件は対象の苦しみや悩みを深く理解し、指輪をはめている左手で触れること。効果は対象の心の痛みやストレスの治癒。
この温かい指輪が自分に語りかけてきているのだと直感的に理解した。
単純な性格である優亜には、疑問などなかった。非科学的だろうが非常識だろうがどうでもいい。ただ、かねてより渇望していた力が、この指輪に秘められている。
それだけでいい。
それだけでウチは――救われるのだから。
「今のウチに癒せない人はいない……!」
強い自信を胸に優亜は原宿のメインストリートを大股で歩き、小さなビルを曲がったところでうずくまっている少女を見つけ、しゃがみ込んで声をかけた。
「あの、大丈夫……ですか?」
「関係ないでしょあんたは!」
少女は顔を両腕に埋めたまま涙声で言い放った。おそらく十六歳の優亜より年下だろう。
いつもならそれで怯んでしまう優亜だが、今は違う。『理解診療(セントポーリア)』の力があるのだから。
「確かにウチは無関係かも。でも悲しそうな人を見かけて、心配するのは人として当然だよ」
「余計なお世話だよ!」
「じゃ……ここでウチも休んでいいかな? よいしょっと」
優亜は少女と五メートルほど離れたところで、ビル壁に背中を付けてしゃがんだ。
「……変なの」
「ごめんね。ほかにタダで休める場所が無いの。許して」
それから一分も経たないうちに、少女は自ら口を開いた。
「……ねえ、聞いて?」
彼女は堰を切ったかのように滔々と語り出した。
近々、彼女の両親が離婚することを決めたらしく、それでひどく心が傷付き、落胆しているとのことだ。元々、父と母の仲は悪く、ケンカが絶えない日々が続いていたのだが、ある日、決定的な亀裂を生む出来事が起こってしまう。
「お父さん、浮気してたんだってさ。それも……あたしみたいな年齢の子と……」
大好きだったお父さん。いつも優しく接してくれていたお父さん。
そんなお父さんが、自分とほぼ同年齢の子と……。
優亜は心を痛ませながら目をつぶり、胸に手を当てる。
『心から信じていた人の裏切り』……『大切な人との離別』……『子供という立場のせいで大人に影響力を持てない悔しさ』……『あまりに理不尽で歯止めすることのできない状況』
少女の心の痛みを分析し、感覚的にカテゴライズしていく。それが理解の早道となると、優亜は経験的に信じている。
いずれも優亜が既に実体験した痛みだ。実際の状況は違えども、その類の痛みは体験済みだ。リアルに痛みを感じ取ることができる。
デュナミスが輝き始める。とても優しくて暖かく、神々しい光。
『理解診療(セントポーリア)』発動。
その光で少女を頭上から照らし出すように、左手で頭を撫でる。
少女の心と自分の心が融和していき、深く、深く少女の心の中心へと近づいていく。
その奇跡的な未体験の現象に、優亜はからだを震わせる。あまりに優しくて暖かく、感動的な能力。
気付くと優亜は涙を流していた。これだ、これこそがウチが求めていた能力。これが、ウチが思い描く理想の世界へ近づくための手段。ウチの理想とは――この世界の人々が互いの心を大切に想い、深く理解し、癒す意思を持つこと。
「今、分かったよ、マコちゃん。ウチがしたいこと……」
いつしか優亜は、マコちゃんの頭を撫でている錯覚に捉われていた。エメラルド色の輝きが強いせいで、夢心地になっていたせいかもしれない。しかし、確かに自分はマコちゃんを癒しているのだと感じる。
指輪の光が嘘だったかのように失せると、マコちゃんは――いや初対面の少女は優亜に抱きつき、豊満な胸に顔を埋めて泣き出した。
心で凝り固まっていた深い悲しみが溶けて、涙となって流れ落ちていく。
「大丈夫だよ。大丈夫……」
その小さな頭を撫でながら、優亜は静かに慰める。
それから優亜は連日、放課後には学校内の生徒や、街中で悲しみに暮れている人を見つけては、積極的に『理解診療(セントポーリア)』を発動をして心を癒していった。
すると次第に優亜の模倣者が学校内に現れ始め、赤の他人でも悲しんでいる人を見ると相談に乗って慰めるような人が増えていった。
これはきっと、イデアリストの能力の一環なのだと、優亜は確信している。能力を発動した時に、かすかだが自分を中心として見えない波紋が、遠く広がっていくのを感じるからだ。その波紋を受けて影響され、人々は物事の正しさに気付き、模倣するのだろう。
このイデアリストの能力をコツコツ発動させていけば、みんながみんなを理解する世界に変えていけるかもしれない……。それができるのはウチしかいない!
ある種の使命感に燃える優亜は、母親に怒られながらも夜遅くまで街中の人々を癒していった。
そんなある日、優亜は大きな壁にぶつかってしまう。理解することのできない人と会ってしまったからだ。
夜の新宿オフィス街の薄暗い路地裏で、地面に座って悲しげに泣く女性をみかけ、優亜はショックを受けた。
衣服はぼろぼろに破け、膝の傷から流血したまま、その女は泣き続けていた。
急いで近づき、ハンカチを包帯代わりにして止血して、着ていたカーディガンを脱いで羽織らせる。起き上がらせようと女の腕を肩に担いで、近くの広場のベンチに座らせ、落ち着かせる。
「わっ、わっ、私っ……」
ぶるぶると小刻みに体を震わせ、女は顔面蒼白で語り始める。
彼女はレイプされたのだと言う。会社帰りに、二人組の男に人気の無い路地裏に無理矢理連れ込まれ、そして……。
一瞬、優亜は自分の耳を疑った。ついグレープを連想して現実逃避してしまうが、すぐに意識を目の前の女性に戻す。彼女はレイプされたのだ!
でも……レイプされるって、どういうこと? どんな苦しみなの?
それが途轍もなく理不尽で、邪悪な力で傷付けられ、女性にとってとても大事なものを奪われることは理解できる。どうしようもない怒りを感じる。
だけど……ピンとこない。
優亜はその類の邪悪さとは無縁に生きてきた。女の子はみんな、そのうち心をときめかせて恋をして、愛し合って結ばれ、ストロベリーチョコみたいに甘いキスをして……そして結婚して初めて、至福の絶頂の中で処女を捧げるものではないか……。それが女の子の正しい人生ではないか……。
その全ての幸せを、一瞬にして奪って悦ぶ卑劣な男がいるということは、サスペンスドラマで見たことがある。しかし、具体的にどういうことをされるのだろうか……?
分析ができない。理解ができない!
「ウ、ウチ……ウチは……わかりません……ごめんなさい……」
どうしようもない敗北感を感じて、優亜は女の手を握りながら謝った。自分にはこの人の痛みを理解できない。癒せない。
ウチは無力だ! 何がイデアリストだ……。
一時間ほどその場にいたが、そのうち女はふらり、と力なく立ち上がり、「帰る」と言い残して去っていった。
優亜は悔し涙を流しながらベンチの端を握り締め、行き場の無い自分への怒りを持て余した。
これがウチの欠点だ。実際に自分が体験していないものは理解できない。
すぐに優亜はインターネットでレイプに関する生々しい情報を閲覧し、その残虐さに顔を歪めながらも、逃げずにグロテスクな情報と格闘した。
しかし、いまいちピンとこない。第一、この、小さな部分に入れる、ということが想像できない……。優亜自身、そんなことには興味などないし、それは結婚してからするものだと固く信じている……いや、そうでなければならない。
その強過ぎる固定観念が、理解の妨げになっているのではないか? と優亜は思い至る。
この固定観念を壊すにはどうすればいいだろうか? どうすれば……。
それから数日、優亜は悩み続ける。この壁を突破しない限り、真の理解者になることなどできない。どうすれば、一体どうすれば……。早く解決しなきゃ。そうこう悩んでるうちにレイプ被害者が続々と出て、癒されることのないまま、自殺する場合だってある……。癒せるのはウチしかいない。ウチが、早くなんとかしなきゃ……。
そこで閃いたのが、自分自身がレイプされる、という妙案だった。
自分は知性や感性に優れておらず、想像力に乏しい。ならば、実際に経験するしかない!
優亜は自分の体型が好きではない。乳房が異様に大きいせいで、見知らぬ男から舐め回すような視線を受けることが多々あるからだ。通っている高校のクラスメイトにさえ、そんな下品な視線を向けられたり、そういうのが目的で恋の告白をされることなんて数え切れない程ある(胸をチラチラ見られながら告白されるのだ)。
中学時代からそのようことが多々あり、知らず知らずのうちに男性不信になっていた。そのせいか初恋もまだ経験していない。
しかし、この体型を利用すれば、すぐにレイプされることができる――!
レイプ被害者を救うために、やるしかないのだ。今すぐに!
翌日の昼間、優亜は学校を無断欠席した。新宿に行き、安価な洋服店で胸元が大きく空いたドレスを買い、試着室で着用して外に出る。周りの粘着質な視線で、本当に身体が粘液まみれになった錯覚を覚えながら、街を歩いた。気持ち悪い。
数歩進むごとにナンパしてくる男を無視し、優亜はレイプ意識が高そうな男を見定めようとする。なかなか現れない。ただのナンパ男や怪しげなスカウトマンしか寄ってこない。昼間だからいけないのだろうか?
「ちょっとそこの女の子ぉ。超かわいいね! 胸もびっくり地球サイズ! ちょっとパーティーいかない? おごるからさあ」
顔中をピアスだらけにした気持ち悪い男が目の前に立ちはだかる。本能的にこいつだ、と優亜は感じた。暴力的で非情な雰囲気が漂っており、間違いなく女をオモチャとしか思っていないゲスだ。
それからの展開はあっという間だった。黒い車に案内され、乗った途端に睡眠薬入りのジュースを飲まされ、反射的に暴れて抵抗したものの、複数の男に抑えられ、いつしか気を失った。
目覚めると、薄暗い部屋でベッドに寝かされて手足を縛られていた。身動きが取れない。ドレスは脱がされている。ブラジャーとパンツしか身に着けてない。しかしここは自分の部屋ではない……。
五人の見知らぬ男がいる部屋――。
ぞわわ、と嫌悪感が全身を毛虫のように這い、優亜は全力で拘束状態を脱しようとするが、近くにいた大男に首をぎゅう、と絞められる。
「大丈夫だよぉ。お嬢ちゃん。ここに来た女の子は、みんなここでハッピーになるんだからさぁ」
首から毛むくじゃらな手が離れ、優亜は激しく咳き込む。
「げほっ! げほ……ほかに女の子が、いるの?」
「うん。三階の監獄でおやすみタイムだよ~。壊れるぐらい遊んじゃったから、かなり疲れてるみたい」
「最低……。さいってえ! 人間じゃない!」
「うるせえガキだねえ。身体は一級品なクセに。まあいいや。おれ、やっちゃうわ。カメラの準備できてるよなあ?」
大男は服を脱ぎ出し、背後の男へ合図をする。
全裸になった男は、優亜に覆いかぶさった。
フリーズ。頭が真っ白。何も考えられない。今からウチは……これを、こんな汚いものを入れられる? え……嘘……嘘うそウソ嘘うそウソ嘘うそウソ嘘うそウソ嘘うそウソ嘘うそウソ嘘うそウソ嘘うそウソ嘘うそウソ嘘うそウソ嘘うそウソ嘘うそウソ嘘うそウソ!
「いやああああああああああ! いやだ! やだ! やだあああああ!」
これがレイプの恐怖……絶望……。
優亜は自らの固定観念が崩れ去るのを感じた。今、自分は女の子としての大事な幸せを失う。最愛の人に捧げる処女を失う。身の毛のよだつ醜い男の理不尽な暴力によって……。
男が優亜の下着に触れるその瞬間、バン! と扉は開け放たれた。
現れた長身の男は赤い長髪に精悍な顔。頼もしい好戦的な笑み。
着ているコンビニ制服の名札には、『新宿イースタービル店 切辻練吾』。
4
「らっしゃいっせー」
ヘブンイレブンの制服を着た切辻練吾は、来店した客を見ずに、空いた商品棚に惣菜パンをストックしながら適当に言った。
「あのう……切辻練吾さん、ですよね?」
聞き慣れない声がした。近づいてきた客が喋ったのだろう。
「誰っすか? 今、仕事中なんで……」
「あっ、ごめんなさい……。えっと私、三日前、練吾さんに助けていただいた者ですが……」
「あン?」
昼間の購買ラッシュ時を乗り切ったばかりで、少々疲れている練吾はうんざりしつつも客の顔を見る。学生服を着た女の子だ。誰だか思い出せない。視線を下にずらし、その大きく張り出した胸にピントを合わせると、練吾は「ああ、ああ、ああ」と何度か頷く。
確かアレだ。レイプされそうになっていた娘だ。
「あの時の巨乳かよ」
「えと……顔を見て話してほしいんですけども……」
女子高生は顔をほんのり染めて、身体の角度を変える。
「ああ、失敬失敬……。てか、よくここがわかったな」
喋りながら練吾は仕事に戻る。仕事熱心ではなく、単に女子高生に興味が無いためだ。
「その、名札に名前と仕事先が書いていたので……」
「ん? あ、これか」
練吾は制服の胸に付いてる名札を見る。確かに名前と『新宿 イースタービル店』とプリントされている。
「で、なに。何の用?」
「そのっ……おっ、お礼言いたくて……!」
「あんた大丈夫か? 顔赤いな。熱でもあるんじゃねえの?」
パンを棚に詰め終えた練吾はトレイを持ち上げ、巨乳少女を一瞥する。
「礼なんていらねえよ。あんたはただ運が良かっただけだ。これからは気いつけな」
すたすたと在庫置き場へ行き、トレイを置いて店内へ戻ると、まだ少女はいる。依然として顔が赤い。練吾は顔をしかめた。
「あのなあ。見てわかんねえか? オレは今、何をしている? コンビニ徘徊が趣味の痴呆にでも見えているのか?」
「いつ、バイト終わるんですか?」
上ずった声で聞かれ、練吾は小指で耳垢をこそぎ落としながら、
「十七時半。それがどーしたの」
「あの……切辻くんのこと、理解したいなあ、と」少女はうつむく。「実はウチもイデアリストなんです。そのことも絡めてお話がしたいなあ、なんて……」
イデアリスト――そういえば、あの白髪の天使はどこにいるのだろう。
「ところで小娘。あの白髪の女はどうした?」
「小娘じゃなくて……ウチは阿礼優亜っていいます。マリィちゃんは今来ていませんけども……」
「ああ、そう。マリィ、ねえ……。マリィ……か」
うわ言のように言いながら練吾は、レジに入って大きく背伸びをする。
すると、カウンターにパンとウーロン茶が置かれた。客は優亜である。
なぜか、ぶすっとふて腐れたような表情をしている。
「十七時半。ウチ、店の前で待ってますので」
「チョコロールが一点、ウーロン茶一点……おい、十七時半まであと三時間あるぜ。いいよ明日で。だるいし。合わせて二七〇円になりまーす」
「お願いです。今日、話したいんです」
「なぜだ」
「約束してくれなきゃ、お金払いません」
えっ、何いってんだこいつ? と練吾は不思議に思う。妙な意地を見せ付けてきた優亜はなぜか真剣だ。
「わあった。わあったよ。だからとっとと金払え。通報するぞ」
十七時半。定時で仕事を終えた練吾はいつもの革ジャンに着替え、あくびをしつつコンビニの入口へ向かった。気乗りはしないが、マリィに関する情報が少しでも聞けるなら行ってやろう。
マリィという謎の少女を見て以来、なぜか犯罪者に制裁を加える時に感傷的になってしまい、調子が狂ってしまう。あの翼の少女のシルエットが脳裏を過ぎっては、懐かしんでしまうのだ。
この奇妙な感覚を早く払拭しなければ、犯罪者狩りに支障をきたしてしまうし、何より気味が悪い。早くこの問題を解消しなければならない。
優亜はこちらの姿を認め、たたた、と走り寄ってきた。その様子にはどこか必死さを感じる。逃げる前に捕まえねば、と思ってるのだろうか。
「来てくれてありがとうです。えと、切辻君は、その、マリィさんと会いたいんですか……?」
思いつめていたように、優亜はいきなり切り出してきた。
「そうだよ。今どこにいるんだ? マリィは」
そんな優亜の様子を気にも留めずに、練吾は簡潔に聞き返した。
「教会です。八王子にある教会で……。ウチも住所教えてもらっただけで、行ったことないんだけど……」
「ふうん。お友達になったわけね。で、オレも行っていいのか?」
「はい。何でか知らないけど、マリィちゃん、切辻さんのこと気になってるみたいで……」
「どんな風に?」
「どんな風に、と言われてましても……。不思議と懐かしい感じがするって言ってました」
――懐かしい感じ、か。
練吾は顎に手を添えて考える。お互いに同じ印象を持っている、なるほど、ということは……ん? どうゆーこった? 一瞬だけ、感覚的に納得できた気がした。それが当然であるように思えた。
しかし、その直感を確証づける情報など無い。何かの錯覚に違いないだろう。
――オレはマリィのことを何も知らない。マリィもオレのことを何も知らない。
「まあいい。行こう、時間がもったいねえ」
練吾は早足に新宿駅へとすたすた向かい、後から優亜が慌ててついてきた。
人、人、人でごった返す駅構内をずいずい突き進み、京王八王子行きの特急に乗り込む。それなりに混んでいたが、練吾はシートに長い足を組んで座り、その隣に優亜がちょこん、とおとなしく座った。
八王子に到着するまでの間、沈黙する練吾に優亜がいろいろと話しかけていた。練吾は生返事しかしないため、一つ一つの話題がすぐ尽きてしまう。
その会話の中で分かったことは、優亜は練吾と同い年で十六歳であること。だから敬語は必要無いこと。優亜は偏差値高めの進学校に通う一年生で、成績は中の上であること。好きな食べ物はサーモンの刺身。よく遊ぶ場所は池袋のラウンドワン。そして――
「ウチの能力は『理解診療(セントポーリア)』」周りに聞こえないよう、口に手を沿え、練吾の耳元で囁く。「対象の心の痛みを理解することが発動条件。効果は対象の心を癒すこと」
「イデアリストにはそんな能力もあるのか」
驚いた練吾は、ここで初めてまともな返答をした。
「うん、そうだよ」どこか得意げな優亜。
「で、マリィは?」
「マリィちゃんは……」なぜかガッカリした顔になる優亜。「発動条件は分からないけど……能力名は『アルビノクロウ』って言ってたよ。発動したら翼が発現して、高速移動が可能になるんだって。ウチを助けた時は、高く跳んで、ビルの屋上から屋上へ軽々飛び移って移動したし。びっくりしちゃった」
「高速移動か……」
練吾はその力が『理想切断(ケルベロス)』と似通っていることに気付いた。
自身の身体能力を飛躍的に向上させる――マリィの『アルビノクロウ』とやらも、自動行動なのではないか? おそらく他に大勢いるだろうイデアリスト達の能力は知らないが、その中でも自動行動という特性は希少だろうと、根拠も無く感じる。
そして、互いのことを懐かしく思っている。自分と彼女は、逃れようのない因果関係で固く結ばれている気がしてならない。
八王子駅に到着し、下車した練吾たちは駅前のバスターミナルへ向かう。バスで二五分のところに例の教会があるらしい。優亜がちょうど目当てのバスの乗車用ドアが開いていることを確認し、小走りに進んだ。
しかし――バスに乗り込もうとした時に、練吾のデュナミスが赤く輝き始めた。
『理想切断(ケルベロス)』が発動したのだ!
「え? 練吾くん、ひょっとしてデュナミスが――」目を丸くする優亜。
「ちっ。こんな時に――仕方ねえな」
対象が位置する方角は北。距離――九〇メートル。
自動行動、開始!
車道に躍り出た練吾は、超人的スピードで走行中の車の上を飛び移りながら移動する。常人にはそれは、着色された一陣の突風のようにしか認識できないに違いない。
ジャンプ。ひらりと宙返りし、ターゲットが運転する軽トラックの上に降り立つ。
ゆっくりと歩いてちょうど運転席の真上に立つと、両手で構えた紅い刀の切っ先を下に向ける。
「てめえ聞こえるか!」練吾は怒鳴る。「選べ! このまま警察署に直行して自首するか! ここで手足の感覚失って派手に事故るか!」
すると、運転手側の窓が下がり、パンチパーマの男が顔をのぞかせた。
「なっ、なんだおめえは!? お、おい!」
「地獄の番人だ」練吾は刀の切っ先をパンチパーマの頭に向ける。「てめえの地獄行きチケットは、キャンセル効かねえぜ」
「なにふざけたこと言ってんだおい!」
パンチパーマが軽トラックを路肩に寄せて急停車したのを確認し、練吾はにやりと笑った。
「ふざけてんのはてめーだ! 外道が!」
練吾は刀を振りかざし、車体越しにパンチパーマの手足を切断した。紅い刀は目的の『手足』と『性器』以外の物質を透過する。だから軽トラは無傷だった。
もっとも、今回のターゲットはレイプ犯ではなく殺人犯だ。四時間前、狭い車道を走行中、不注意運転で車体が歩道に乗り上がってしまい、小学生の子供を二人轢き殺し、そのまま逃走したのだった。
軽トラックから飛び降りて、車内のパンチパーマを一瞥する。ぐったりとシートにもたれて気絶している。野次馬が集まる前に、練吾は走って路地裏を抜けて、適当なコンビニに入った。
ミネラルウォーターを買い、外に出て一気に飲み干す。練吾は大量の冷や汗をかいていた。汗を吸ったシャツのせいで、背中がひどく冷たい。
「くそっ! なんだよこの感覚!」
とても寒くて苦しい。胸のあたりだ。ドライアイスが体内で際限なく膨張しているかのようだ。
「練吾くーん!」
背後から大きな声。優亜だ。
走ってきた優亜は、ぜえぜえと息を切らしながら練吾の顔色をうかがう。
「大丈夫? 練吾くん、とても顔色が悪い……。ひょっとして、イデアリストの力を行使したから?」
「気のせいだ」練吾は無理に笑った。「最高に気分がスカッとすることしてきたんだ……。苦しいわけがねえ」
「嘘だよ」優亜は真面目な顔で断言した。「そんな青い顔して。胸の当たり……心が寒くて痛いんでしょ?」
その抽象的ではあるが鋭い指摘に練吾は目を見開いた。
優亜は続ける。
「分かるよ。ウチは多くの人の苦しみを見て、感じ取ってきたんだから。練吾くんは間違いなく苦しんでる。でも――その苦しみ自体を、自分でも理解できずにいる」
優亜は胸に手を当てて、練吾の状態を分析した。
「バカかよ」練吾はせせら笑う。「お前にオレの何が? 苦しんでいるだと……? 走るぜ、虫唾がよぉ。オレは今、バカな外道を地獄行きにしてセーセーしてんだよ」
「練吾くん、きいて。その苦しみをウチと一緒に理解していこう――」
「――さっさと行くぞ!」練吾は優亜の言葉を遮った。「やめだやめ、無駄話なんか……。教会、閉まっちまうぜ」
「練吾くん……」
空のペットボトルをゴミ箱に投げ捨て、練吾は去って行く。その後姿を見つめ、優亜は憂えげな表情で小指の指輪に触った。
5
心臓が激しく鳴る。震えるように小刻みに鳴る。吐き気がする。
目的地の教会に近づくにつれ、原因不明の拒絶反応が強くなっていき、練吾は顔面蒼白で息をあえがせる。霊的な何かに生気を吸われているみたいだった。
バスで三〇分ほど移動し、住宅街から少し外れて建築物が少ない、閑散とした所で練吾と優亜は降りた。
マリィが書いた住所のメモの通りに進む途中、練吾は何度も優亜に「休もうよ」と心配されたが、ことごとく無視した。
頭の中では無数の不可解なビジョンが展開されている。それは複雑に編み組まれた電線が次々とショートして火花を散らすように、刹那的なものだった。
今まで制裁を加えた犯罪者たちの顔――父の顔――母の顔――ピアノ――「ありがとよ」と言った強姦魔――マリィの微笑み。
――すべてはあの白髪の女が原因だ。あいつと会わなければ、オレはこんなポンコツにはならなかったはずだ。克服しなければ。あいつと直に対面し、どうにかして克服する必要がある。
練吾は奥歯を噛み締めながら一歩一歩、重い足を引きずるように進めていく。
「着いた。ここで間違いないはず」優亜は目の前にそびえる教会を指さす。正門の上部に黄土色の十字架が飾られていた。「練吾くん。ほんとに大丈夫? なんか怖いよ……練吾くん?」
優亜の呼びかけを無視し、練吾は教会に近づいて正門を開く。
音楽が聞こえた。パイプオルガンの甲高い和音。
イギリスの作曲家ギュスターヴ・ホルストの『木星、快楽をもたらす者』
――オレは……この曲を知っている。よく知っている。しかし耳障りだ。
縦二列に並んだ長椅子の間をふらふらと進む。真正面の奥には祭壇があり、その左横に荘厳なパイプオルガンがあった。演奏者は――。
マリィ。
裾の長い頭巾(ウィンプル)で特徴的な白髪は隠れているが、間違いない。
演奏に熱中しているため、こちらに気付いていないのだろう。旋律は美しく軽やかに、しかし厳しく正確に奏でられている。傍若無人な練吾ではあるが、その演奏を強引に中断させようとは思わなかった。
それはあまりに罪深いことである気がしたからだ。修道服をまとったマリィがこの演奏を通して、極めて神聖な領域に到達しようと努めているのを感じる。見えない天使と戯れているように、とても楽しく幸せな表情で鍵盤を叩いている。
そして曲が終わると、マリィはそのまま両手を組んで目を閉じる。神様に祈りを捧げているのだろう。本当に練吾と優亜に気付いていないらしい。
「……マリィ」
練吾は搾り出すように声を出す。天井が高いせいか、声がやけに反響する。
「お邪魔してごめんね、マリィちゃん! 練吾くんも一緒だけど、いいかな……? えへへ」
優亜は精一杯、場を明るくしようと手を合わせたり、小刻みに跳んだりした。
マリィは座ったまま、ゆっくりと、こちらに上半身を向けた。
「あなたは……切辻練吾さん……」
どこか不安げな顔で、マリィは答えた。綺麗なソプラノボイスだ。
「その顔から察するに……どうやらあんたもオレのことを良く思っていないらしいな」
練吾は長椅子の角に寄りかかりながら、にやりと笑った。
「身に覚えがあろうがなかろうが、問わせてもらうがな」練吾はマリィを指さす。「何者だ? なぜ、オレの心をこんなにもかき乱す? なぜここまでオレは、ヘタレちまうんだ? 三日前のあの時以来、すこぶる調子が悪い。犯罪者を狩るたんびにあんたの顔がチラついてはヘタレるんだ」
優亜が練吾の肩に触れて「ちょっと練吾くん」と弱々しくなだめるが、効果は無い。
「わたしも……」マリィは十字架のネックレスを握ってうつむく。心を落ち着かせるためだろうか。「あなたを見て以来、わたしの根本的な何かが変わりました。『奇跡』を発現して囚われた人を助ける度に――何か、表現し難い黒い感情が心の中で渦巻き、神聖な部分を侵食しようとするのです。それはとても恐ろしく、禍々しくて……」
マリィは立ち上がり、練吾と視線と合わせる。
「あなたは、何者なのですか? それに……」言葉を区切り、マリィは胸に手を当てる。「不思議と、懐かしい……。黒い感情と相反するこの感じは、一体……?」
「だが、あんたとの接点は一つもないはずだ。たぶんな……」
練吾は自信なさげに言い、彼女の顔を仔細に確認してみたくなった。本当に、知らない顔だろうか……?
「練吾くん……? 乱暴なことは……ダメだよ」
背後から聞こえる優亜の注意を無視し、練吾はマリィへ近づいていく。
みるみるうちにマリィの顔が青ざめていくが、逃げずに練吾を見つめている。
手が届く距離まで近づくと、練吾はマリィのウィンプルを乱暴に剥ぎ取った。透き通るような白髪が晒され、照明を反射して輝く。
美少女の顔を見つめる。背丈がおよそ三十センチも違うため、展望台から地上を見下ろすような形となった。
無垢な白髪。つぶらな瞳に、陶器のようにつるりとした白い肌。天使が実在することを危うく信じてしまいそうな説得力が、その美貌にある。
その綺麗な目が貫くように練吾の顔を見上げていた。
「わからない……。なぜだ? こんなに、懐かしい感じがするのによ」
練吾はうろたえたように後ずさる。この顔に見覚えはない。この懐かしさは、外面的な要素から生まれるものではないのか?
「ちょいーーーーーっと! そこまでだぁぁ!」
陰鬱な雰囲気を大胆に吹っ飛ばす大声が突然、教会内に大きく反響した。
ビクッと驚き、反射的に振り返るとそこには、二人の人影が見えた。
男と女の二人組だ。練吾は男の方をギロリと睨みつける。
「タマキ……!」
高級スーツを着込み、相変わらずの不敵な笑みを浮かべたそいつがいた。
「やあ練吾くん。元気ぃ?」
※
「阿礼さぁん……。なんでだよぉ。なんであんな赤毛ザルなんかと一緒にいたんだよぉ」
学生服を着たとある少年――安形(あがた)雅(まさ)紀(き)は、あふれ続ける涙を拭うことなく、新宿の街並みをとぼとぼと歩いていた。しかし奇妙なことに、周囲で行き交う人々は、彼に一瞥も与えずに通り過ぎるし、嘲笑いもしない。
「どうせヤリチンの口車に騙されて引っかかったんだ……。阿礼さん、人を疑うことを知らないとってもいい子だからなぁ……」
ぶつぶつと呟くが、誰一人として彼を奇異な目で見ない。むしろ、その存在性すら知覚していないようだ。
「どうせオレは……存在感ゼロで、ブサイクで、臆病で、頭も良くない……。でもさあ、オレには阿礼さんがすべてなんだよぉ。阿礼さんがいたから、立ち直れたし、真の自由の力を手に入れることができた……。阿礼さんがいなければ、オレの人生はブスブスの炭クズのままだったんだ……。だから、オレの隣には常に阿礼さんがいるべきなんだ」
雅紀は、自らの存在感が無きに等しいのだと自覚していた。だからこんな風に、自虐的発言を臆面もなく街中で披露することができるのだ。
「上手くいかない……。なんでオレの人生は、こんなに上手くいかないんだよ、クソ……」
むしゃくしゃした雅紀は近くのゴミ箱を思い切り蹴飛ばした。
中身が散乱し、飲食店の廃棄物から腐臭が漂う。しかし周囲の人間は誰も少年を非難しない。
しかし、その代わりに――。
「おいあんた! こんな道の往来でなんてことしてんだ!」
雅紀から四十メートルくらい離れたところで、言い争いが起きた。
「るっせえな! ただゴミ箱蹴っただけだろうが! あんたに何の関係があるんだ!」
「反抗するのかよ。悪いのはオタクの方だろう!」
「やるかてめえコラア!」
低レベルの言い争いをする二人の周りには、転がるゴミ箱など存在しない。
少年が蹴り飛ばした他には、見当たらない。
「まだ足りない……このイライラを解消するためには、まだまだ……。邪魔なんだよクソチンピラが!」
雅紀は声を張り上げ、肩がぶつかりそうになったヤクザの顔面を思い切り殴りつけた。
バキイ! と歯が折れる音が聞こえた。この少年の細腕のどこに、そんな力があるのだろうか?
「なっ!? うう……」ヤクザは折れた歯を血とともに吐き出す。「てめえやりやがったなぁ! どこに逃げやがったあ! 赤い服を着た野郎だ!」
周囲にわめき散らすヤクザの近くで、雅紀は嘲笑を浮かべていた。少年は黒い学生服をまとっており、ヤクザが敵意を向けている赤い服の要素などない。
「あっちです。あっちへ逃げました」
雅紀はにやつきながら、人差し指をその方向へ向けた。
「待ちやがれぇぇ!」
それに従ってヤクザは人ごみを掻き分けながら突き進んでいき、そして目標を探し当てて反撃のパンチを食らわせた。
「はははっ。せいぜいクズ同士でやり合ってろよ」
殴り合いの泥試合へ発展した二人を尻目に、幾分かは気が晴れた安形は帰宅するために新宿駅へ向かった。
すると――。肩を叩かれた。
スキージャンプのように口から心臓が飛び出そうな勢いで振り向く。
「ストーキングはほどほどにしときなよ、幽霊さん」
ホスト風の美青年だった。金髪と赤ストライプのスーツが目立つ。
「その存在感の薄さは探偵に向いてるね」青年はウインクした。「でもまだまだ甘いぞ♪」
「うわあああああああ!」
雅紀は逃走する。誰にもオレを見ることなどできない。これは法則なのだ!
自由の絶対条件とは――それは誰にも気付かれないことだ!
ありえない。オレの存在に気付くだと? 神でさえ覆し得ない法則なのに!
そう、ただ一人の例外を除いて――気付いていいのは阿礼さんただ一人だけなんだ!
金髪ホストをまくために、古びたビルの間にある狭い道を通ったとき、背後に薄ら寒い気配を感じた。
体をビクつかせながら振り向くと、そこには手足の長い少女が悠然と立っていた。黒いTシャツとジーパンという軽装だ。金髪ホストはいない。
もしかして、この自由の力のことがバレて、二人に尾行されていたのだろうか? 今日はなんという日だ。絶対的法則が二度も破られるなんて。
逃げよう、と思ったが、道の奥が暗い行き止まりになっているのに気付き、立ちすくむ。
「あんたさあ。面白い能力を持ってるんだねえ」少女は嬉々とした表情で言う。「自分がしたこと喋ったことを、結果的に他人がやったことにする。それがあんたの能力なんでしょ?」
「なっ! なんでそれを……? なんでオレに気付いた……?」
「注意深く見てりゃ分かるよ、アホウ」少女はつり上がった目を細くする。「蹴飛ばされたゴミ箱や、殴られた男はあんたから遠くの場所にいたじゃん。で、なぜかあんたはその犯人の居場所を知っていた……ボクは騙されないよ」
「う……うう……」雅紀は絶対的な窮地に立たされたような心境になり、顔を歪ませてしわくちゃにした。「どっ、どうする気だよ、オレを……。何なんだよあんたら……」
「あんたらぁ? ボクは一人だよバーカ。一人だから、相棒が必要なんだよ」
「ひ、一人ぃ?」
では、あの金髪ホストはいったい? ただの一般人が偶然、雅紀の存在に気付いただけなのだろうか。
少女は腕を組んで得意げな笑みを浮かべる。
「ともかくボクは、あんたの力が欲しいんだよ。あんたのその力なら、このクソみたいな世界を理想的な形へ変革できるかもしれないから」
どうやら彼女には敵意がないことを悟り、雅紀は少し冷静になる。
「いっ、一体、なにを……」
「怖がらなくていいのさぁ」少女はスキップして近づいてきて、その勢いで股間を撫でられる。「相棒になってくれたら、たくさんイイコトしたげる」
「はっ、離せ! 触るな!」
反射的に雅紀は彼女を突き飛ばし、わなわなと震えながら喋る。
「オ、オレには、オレには……大事な、大事な人が……」
「うほ~。ご執心中の女がいるってわけね。ぎゃっはははは! あんた面白れえわ! 童貞のくせによぉー。え? そうだろ? どーてーだろ? どーてー! ひひひ!」
少女は目尻に涙を浮かべてヒーヒー笑った後に、雅紀に手を差し伸べた。
「いやー分かった分かった。もうからかわないよ。でもね、超本気なんだよボクは。あんたとタッグ組んで、世界を変革したいんだ。協力してくんない? お望みとあらば……」少女はTシャツの中から拳銃を取り出した。「あんたにとっての嫌なヤツ、タダで殺してやるよ」
「ほっ、本気か? あんた……。そんなもん出して……」
雅紀は後ずさる。その分、少女も歩を進める。一歩、また一歩……。
「超マジ」
西部劇のガンマンのように、少女はトリガーに人差し指を突っ込んでクルクル回した。
「じ、じゃあ、あの……赤い髪のクソ野郎を……」
雅紀は喉をごくりと鳴らした。
長編『イデアリストの呼応』二章