Fate/defective c.25
「最悪の事態、最悪の事態って何度か聞いたけれど」
アリアナは赤い春用のコートを羽織りながら口にした。
「結局、何のことなんだろう」
「さあな。あの監督役が何を考えているのか、僕には全く分からない」
アリアナの屋敷の玄関先で、既に靴を履いた那次は肩をすくめてそう言った。既にシオン神父たちは先に新宿へと出発し、今はアリアナと、ライダーのマスターだった天陵那次と、ランサーのマスターだった御代佑の三人が、エマの指示によって新宿御苑へ向かう支度をしているところだった。
「そもそも、彼女はどうしてあんなに幼いのに、聖杯戦争の監督役になったんだろう」
佑が独り言のように呟く。アリアナはしゃがみこんでブーツに足を入れながらため息を吐いた。
「さあね。エマの言うとおり、ブロードベンド派って人達の差し金なら、彼等は小さい子供を聖杯戦争に巻き込むような、相当気が狂った魔術師集団ってことじゃないの」
「魔術師なんか気の狂った奴ばっかりだ」
そう吐き捨てるように言った那次に、アリアナはちらりと視線を向ける。
「へえ。あんたもその気が狂った奴等と同じ存在だって分かって言ってるなら、大した人間ね」
「……何だと?」
「ちょ、ちょっと待ってよ二人とも……こんな時に喧嘩してる場合じゃないよ」
睨みあった那次とアリアナの間に、佑が慌てて入る。アリアナは気にも留めず、那次を睨みつけた。
「大体、あんたの発言が特に気に食わないわ、天陵那次。一体何様のつもりなの?」
「はあ? 何がだ」
「魔術師は全員気が狂ってるって言ったわね。あんただって魔術師なら、その全員の中の一人よ」
「全員とは言っていないだろ」
「ほとんど同じような意味のことを言ったわ!」
「言っていない!」
「言った!」
「言ってないって言っているだろう! お前こそ一体何のつもりだ? いちいち僕に突っかかるな!」
「何ですって? あんたが癪に障る物言いをするのが悪いんじゃない!」
「なんでお前の機嫌を取らなきゃいけないんだよ!」
「ここはあたしの家よ!? 嫌ならすぐに出て行ってよ!」
「ちょっとストーップ!」
佑が突然大声を張り上げた。言い争っていた二人は驚いて彼を見る。
佑は二人の視線を受けて、おろおろと目を泳がせた。
「あ、いや、あの……そろそろエマの支度も終わるだろうし、喧嘩は……その、良くないと思うよ……あはは……」
しどろもどろに言い繕い、収拾がつかなくなった佑はそろそろと二人の間から抜け出す。二人はあっけにとられて彼を見ていたが、彼はその沈黙に耐えられなくなったのか、身をすくめて壁際に寄り、蚊の鳴くような声で言った。
「ご、ごめんね……! 何でもないよ……! 口を挟んで本当にごめんなさい……!」
「い、いやいやいや、佑は悪くないだろ、ていうかお前、前の時と何か違くない……!? 前は僕にもっとこう……『ライダーの思いを無下にするな』みたいなこと断言してたよな!?」
「うわー! やめてよ! そんな恥ずかしい事、平気で言えてたの僕!? 無理! 忘れて!」
「はああぁぁ……!? お前が言ったんだろ!?」
「あの時は違くて……! うわぁもうやめて! 恥ずかしい!」
「……何なの、この茶番は」
アリアナが眉をひそめて呆れた溜息をついた時、佑が涙目のままぼそりと言った。
「あの時はランサーがいたからかなぁ……何を言っても怖くなかったし、何をやってもいいような気がしていたんだけど……」
「……」
それを聞いて口をつぐんだアリアナの代わりのように、那次が口を開く。
「……佑、お前、そういえばあのピアスはどうしたんだ」
「え? あぁ……持ってるよ。僕はピアスは着けられないから、ほら」
そう言って、佑は着ていたコートのカーディガンのポケットから、浅葱色に輝く石のついたピアスの片割れを取り出した。
「それ、何?」
アリアナが尋ねる。
「これはランサーの召喚に使った触媒なんだ。もともと彼の持ち物で……ランサーが片方だけこちらに遺したのを、僕が持ってて……」
「ふうん……そうだ。ちょっと待ってて」
そう言いおいて、アリアナは靴のまま廊下へ上がり、奥の部屋へ入ったかと思うとすぐに何かを持って戻ってくる。
「それ、ちょっと貸してくれる? ……ありがとう。これを付け替えて……と。ほら、簡単でしょ」
アリアナが少しの間佑のピアスを弄ると、それはあっという間にイヤリングになった。佑はそれを受け取って目を見開く。
「……いいの?」
「それならすぐに着けられるでしょ? 大事なら、肌身離さず持っていた方がいいわ」
「……ありがとう。アッカーソンさんって、優しい人なんだね」
今度はアリアナが目を見開く番だった。意表を突かれたその言葉に、アリアナの表情が曇る。
「あたしは別に優しくなんかないわ。……あと、アリアナでいいから」
「そうだな、こんな猛犬女が優しいわけあるか。佑、人を見る目が無い」
便乗して嫌味を言う那次に反駁しようとアリアナが口を開いた時、廊下の奥からエマの声がした。
「皆さん、お待たせしました」
「ああ、やっと支度が……え?」
アリアナが答え、他の二人もエマの方を見て、三人は硬直した。
「エマ、髪は!?」
腰の高さまであった長くて艶やかなエマの黒髪は、ばっさりと肩のあたりで断ち切られていた。エマは右手に握った黒い絹糸のような毛束を掲げながら、特に感慨も無く、あっさりと言う。
「これから使う魔術に必要なので、切りました。思いのほか多くて……時間がかかってしまいました。すみません。さあ、早く出ましょう」
あっけにとられる三人をよそに、エマはさっさと玄関の扉を押して外へ出てしまう。外にはすっかり夜のとばりが下り、アリアナの家の玄関から漏れる橙色の電灯だけが路上を照らしている。
三人がエマに続いて外へ出ると、エマは既に水銀で描いた魔方陣の上に切り落とした自分の黒髪を置いて、詠唱を始めていた。
朗々とした澄んだ声が、夜に響く。
「セット。
――――おいで。『メランコラ』」
そのたった一言の詠唱で、魔方陣の上に置かれた黒髪が水中の草のようにゆらゆらと揺れ、絡まりあい、編み上がり、一つの形を作っていく。
「……使い魔か」
那次が小さく呟くころには、黒く艶やかで巨大な馬が一頭、夜の中に立ち上がっていた。
「メランコラはわたしの友人なんです。さあ、乗ってください。新宿御苑まで、飛んでいきます」
エマは既に慣れた様子でメランコラという馬の背によじ登り、またがった。三人は少しためらいながらも、順番にメランコラの背に登る。メランコラはびくともせず、ただおとなしく、されるがままに立っていた。
「しっかりつかまってくださいね。メランコラはすごく速いですから。……さあ、行って! メランコラ!」
たてがみに掴まったエマの号令で、メランコラは勢いよく春先の夜空へ駆け出していった。
◆
「僕が、アーノルド・スウェインだよ」
刺青の青年が蠢く泥の塊に向かって一礼した瞬間を狙って、瓦礫の隙間から一本の矢を放った。
「――――――ッ」
ひゅ、という風を切る音が聞こえた瞬間には、もう矢尻はアーノルドのうなじに突き刺さっている。音速を超えるほどの決死の一矢が、衝撃波で聖堂を破壊しながら青年に届いた。まともな人間に当たれば、頭を吹き飛ばすことなど容易い一矢だ。
そしてアーチャーの目は、確かに矢がアーノルドの頭蓋を吹き飛ばすのを見た。
だが―――
「おや。アーチャーのサーヴァントは、小柄だがとてもしぶといようだ」
「……まあ、こうなるとは思っていましたよ」
頭のついていた洞からアーノルドの声が響いた時、アーチャーは瓦礫の隙間から立ち上がる。それと同時に、相手に聞かれないようカガリに念話で話しかけた。
『カガリ。あなたは今いる場所から動かないで、待機していてください。魔力の供給も無理のないよう』
『―――――――わかったワ。こっちも少し事情が変わった。―――ああ、でも――あの聖杯、もう――泥が』
『落ち着いて。まずは彼に聞きたいことがあります』
カガリは相当弱っているのか、それ以上は何も語りかけてこなかった。アーチャーは瓦礫をかき分け、かなり遠くにいるアーノルドと聖杯に向かって声を張り上げる。
「問う。お前は何者だ? 何が目的だ? その聖杯は、既にお前のものとなったのか?」
アーノルドは身体をこちらに向け、その声を聴いた。そしてしばらく黙り――アーノルドの影がぐねぐねと動いたかと思うと、吹き飛んだ頭が元通りに首についていた。
「問いに答えよう、アーチャーのサーヴァント。 僕はアーノルド・スウェイン。魔術協会のスウェイン派頭領で、十年前の聖杯戦争の勝利者。目的は、この聖杯で人間とサーヴァントの合成品、デミ・サーヴァントを作ることだ」
「デミ・サーヴァント……?」
「そうだ。人間がサーヴァントと憑依・融合した姿。そしてそれが今、どうやら成功の兆しを見せた。そして、このデミ・サーヴァントには、『ビースト』のクラスが振り分けられる」
『――――――!』
脳を通してカガリの驚嘆が伝わってくる。アーチャーは眉根を寄せた。
「『人類悪』……だと」
「そうとも言えるが、僕はそうだとは思っていない。人類悪とは、人類が繁栄する中で生まれる癌のようなものだ。人間が生み、やがて人間を滅ぼす大災害になるモノ。……だが知っているか? 人類悪は、ただ単に人理を脅かす為だけの悪ではない。それは人間をより良い方向へ導きたいという、『人類愛』に他ならないんだよ。
このデミ・サーヴァントの願いは『人類愛』そのものだ。故に、これには第八のクラス、『ビースト』が振り分けられる」
『デミ・サーヴァントですって。そんなモノが作れるほどの奇跡を………ああ。それで、完成された聖杯、か―――――』
カガリの独り言が頭の中に響く。アーチャーは再びアーノルドに問いかけた。
「ではその『ビースト』を、お前は何故に生み出した?」
「何故? 簡単なことじゃないか。僕は、『人類愛』をここに示したかった。それだけだ」
アーノルドの影が体をくの字に折ってくつくつと揺れた。……笑っているらしい。
「そもそもこれは例外中の例外でね? ビーストは全部で七つ。それを人類が克服するための『冠位』も七つ。枠は既に、全部埋まっているんだ、本当は。だからこの僕の『ビースト』は、七つの人類悪の内のどれでもない。―――故に、これを克服する『冠位』のサーヴァントもいない」
「……誰も倒すことのできない人類悪、か。邪悪の真骨頂と言ったところだな」
「いいや。言ったじゃないか。これは人類『愛』だ。人類を守りたい。人理を守りたい。分からないのかい? このビーストは、人類史を衰退の未来から守るための、最後の砦だよ」
アーノルドは、蠢く泥の塊の前をうろうろと歩き回る。しばらくそうやって、美術品を鑑賞する人のように泥塊の周りを移動し、つとアーチャーの方を見た。
「僕は永遠に消えない人理を築き上げたい。未来永劫、安全で理想的な、安寧そのものの世界を作り上げたい。そのためにはこのビーストを使って、長い作業を繰り返さなくてはならない。長い作業だ。とても時間がかかりそうだ。君は、アーチャーは、それに協力してくれるか?」
アーチャーは顎を引いてアーノルドを見た。遠くて顔は見えない。だが、ふざけた妄言を弄しているようにも見えない。
「僕はマスター以外の人間に従う気はない。……が、お前の言う『消えない人理』の世界には、興味がある。答えろ、魔術師。お前の言う理想の世界とは、何だ」
「それはね……」
アーノルドは一段明るい声で言った。
「それはね、『欲望のない世界』だよ」
「―――――」
「来る日も来る日も、人間は欲望に苦しめられている。あれが欲しい、これが欲しいと、うわ言を言い続けながら、他を踏みにじってでも自分の欲を満たすことに精いっぱいなのが人間だ」
アーチャーの脳裏に、カガリの姿が浮かんだ。ここに来る前、カガリが告白した言葉を反芻する。
【この世界はどこまでも有限だわ。増え続けるもの、満たされ続けるものは存在しない】
「故に、人は争う……」
呟いたアーチャーの言葉に、アーノルドは素早く反応した。
「その通りだとも。そして、この世界において争いが断絶したことは無い。何故なら、人の欲が絶えることは無いから」
「それは……」
ならば、カガリはどうなる?
【怖いのは、求め続けて、求め続けて、限りなく求め続けた後のその先―――『全てを手に入れた後の日々』よ】
仮に全てを手に入れたとしても、人の欲望に終わりが無いのであれば。無限の神秘と知識を得た後、カガリはどうなる? それでもまだ、何かを求めるのか。砂漠で水を求める人のように、雪原で火を求める遭難者のように。永遠に渇き、満たされることのない欲を持て余しながら。
【どんなに全てを知っても―――限りなく近づいたら、今度は遠のく日々が酷く恐ろしい】
アーチャーの背に寒気が走った。カガリはこのことを言っていたのか。
【ワタシって狂ってるカシラ?】
【それが、何だって言うんですか? ――今さら引き返せるとでも?】
「まさか」
アーチャーが首を振った時、背後で足音がした。
「アーチャー……」
「……カガリ……! 危険ですから、下がって……!」
アーチャーの背後から歩いてきたカガリは、青ざめた唇を引きつらせるように笑った。顔は病的に白く、足は立っていることすらおぼつかないほど震えていたが、目だけは恐ろしいほど爛々と輝いていた。
「ナルホドね……これは『欲』を喰う獣。ダカラあの時も、底知れない程おそろしく……逃げ出すしかなく……。ああ、でも、やっと分かりました。アナタは、このビーストで、全人類の欲を喰らおうとしている」
アーノルドが「ふむ」と首をかしげ、それから、コツ、コツと足音を立ててこちらへ歩み寄ってくる。
「……!」
アーチャーは弓を構えたが、カガリが厳しい目でそれを止めた。
ゆっくりと歩いてくる彼の表情がだんだんと露わになる。縦横無尽にはしる浅葱色の刺青の顔に、群青の目、黒髪。明らかに人ならざる者の姿をしている彼は、アーチャー達から数メートル離れた場所で立ち止まった。
「その推察は正しい、マスター・カガリ。僕はこの獣で、『全人類の欲を喰らい尽くす』。そして、欲のない、理想の世界を作る。このデミ・サーヴァントはそのために生まれた。どこまでも純真で無欲な少年の魂と、それを他者に強要する狂気の機構―――どうだい?」
「……そうね……悪趣味極まりないワ……」
言い捨てたカガリに、アーノルドの目が暗く陰った。カガリは続ける。
「欲を捨てた人間なんて……ただの抜け殻」
「でも君は知りたくないかい?」
突然アーノルドが口を挟んだ。アーチャーはぎょっとしてアーノルドの顔を見る。
彼は狂ったような清々しい表情を浮かべていた。
「カガリ。そのままでは君は、求めても求めても終わりのない欲に身を食い荒らされる。満足できない人生はそんなに居心地がいいかい?」
「――――……」
「カガリ、聞かないでください! 貴方はそんな虚無の人ではない!」
カガリは体を震わせて俯いた。瞳が聖堂の床を見つめる。
「『すべて』を知りたくはないのか? 満たされる人生。何も求めずとも、満足することのできる、満ち足りた理想の人。―――今の君では、全知には至れない!」
「……!」
アーチャーは迷わずカガリの手を引こうとした。ダメだ。そんなものは妄言だ。
だが、彼女はそのアーチャーの手を強く振り払い、アーノルドの方へ一歩踏み出す。
「カガリ……!」
「――――令呪を以て命ずる」
アーチャーは呆気にとられた。こちらを振り向いたカガリの目は、爛々と、輝いている。
「ワタシを止めるな」
信じられなかった。
あれほど、「知ること」に執着していた彼女が?
何故。何故。何故。何故。―――――何故?
それとも―――――単に、僕が知らなかっただけ、なのか。
……いや。
知っていた。彼女は、そういう人間だ。一度こうすると決めたら、もう誰にも止められない。
それでも―――
「今だけは引き止めたかった」
もはや為す術なく、アーノルドと共に聖杯の泥へ歩いていく彼女の、細い背を見送ることしかできない。
アーチャーは悔恨のあまり固く唇を噛みながら、遠のくカガリの姿を見つめる。
「クラウディア……!」
絞るように叫んだ最後のあがきも虚しく、彼女は二度と振り返らないまま、聖杯の泥海に呑まれていく。
◆
「変だな」
その様子を聖堂の入り口から密かに眺めていた、ひとつの人影は呟く。
「アーノルドは契約を違えました。……私の独断で、彼の処分を決定します。本部にも、そう伝えておいてください」
そう言うと、彼は屈んで、地を這う蛇の小さい頭を撫でた。蛇はそれを受けると、するするとどこかの隙間の中へ消えていく。
人影はそれを見送ると、「やれやれ」と立ち上がった。
「やはり異端者たる彼に任せるべきではなかった、か」
Fate/defective c.25
to be continued.