花の円舞
花の薫りの章 ジャスミンの薫り
ジャスミン あの薫る白い花
宮殿 踊り子
香水 秘密
愛 ……それは、永遠とは続かない命と同じ
アルユラハンは悟る。彼女の目には情熱と共に、底に手の到底届かない愛がある。
それは中庭の水面に手を差し入れ、優雅な姿が微笑み映り、手を伸ばして美しい石を拾えることとは違うのだと。木々の葉から見上げる空に青が広がることも、星雲がきらめくことも目に入れられても、彼女の心の奥は覗けない。
踊り子はあちらが透けるヴェールを翻し、舞って見せた。しなやかな腰も、しゃらしゃらと鳴る飾りも、彼女の美貌を味方する。
「アユラハン様」
横に座る女が杯にワインを注ぎ、意地悪な横目で微笑みエジプシャン・マウ……猫の様に頬を肩に預けて踊り子を見た。
「………」
寝台は白い更紗で囲われていた。
アユラハンは瑞々しい果物を高杯に乗せ食している。時々、それは赤い果物が臓器に見えて幻覚を目を綴じ打ち消す。
「お呼びでございましょうか」
彼は顔を上げ、微笑んで踊り子を招いた。
「こちらへ来るように」
「はい」
踊り子が颯爽とやってくると、伸ばされたアユラハンの手腕が踊り子の頬に添えられた。
彼女は手から彼の目を見た。微笑んで。
風がゆるくヴェールを翻す。
香炉から立ち上るジャスミンは、秘密の愛を一時に紡いでは黄金の織物かのようにする。
その時間は宵の透明な淡紫の時間帯に白金の一番星を上品に乗せ、暮れるまで。
月が充ちる月齢であがり、どこからともなく響く祈り。二人も捧げていた。泉の心で…。
それはその時だけは続くと思わせる幻想 ……愛
メルヘスはあの美しい踊り子の来る憩いの場へ来た。
台に香水が置かれている。
「………」
それはジャスミンの薫るもので、蛇のような目でメルヘスは毒蜘蛛のように手を伸ばす。
細い手指に香水壜が持たれ、柱の先に広がる庭を見た。
「黄金の星が美しい……あの踊り子が流す涙ね」
彼女はペンダントから粉を壜へと注いだ。薫る液体に、さらさらと舞い溶けていく。
ランタンはメルヘスの恐いほどに無表情な顔立ちを照らした。
ことりと静かにおき、去っていく。
「主人様!」
男が駆けつけ、冑の赤い羽根が揺れた。長い腕が伸び触れるが、どうしても意識はない。
今朝方、あの踊り子と共に朝日を浴びながらこのホールへ現れ、台に向き合い微笑みあいながらこの香水を二人楽しんでいた。
「女を捜せ!」
衛兵は声を張り上げ、一気に宮殿は騒がしさを纏った。
すぐに踊り子は捕らえられた。何故なら中庭の白い石の台横、濃い緑の木々の端で気絶していた。その背を昼の日差しが陰とともに彩らせていた。
踊り子も目を覚ますことはなく、ただ、その手には積み立てのジャスミンの花が持たれていた。
遥かな闇を越えて、砂漠の先に星が見え始める。
アユラハンは駱駝に揺られながら進ませていた。風が吹きながら伝える。乾いた風は、一陣の水を伝えた。
振り返ると、蠍が夜の砂漠を跡をつけ歩いている。
顔を上げると、あの歌声が聴こえる……踊り子の歌が。
オアシスが現れ、夢を歩く。
緑を進み、葉陰から現れた。……まだ名も聞かぬ彼女が。
身を翻し踊りアユラハンを見て手招いた。
闇が訪れる……。
「二人で出よう。放浪の旅に」
「魂の……でございましょう」
「生命の……流浪に」
駱駝に乗りかけぬけた。
月光が差し込み始める。さあ……命の旅へ……。
秘密
白い花の薫り
愛………
メルヘスは宮殿から空を見渡した。
「………」
途端に風が凪いだ。
涙は誰にも伝え届けることなく風は止み、深く目を綴じる。
意識を眠りへ入らせたまま、二人は寄り添い眠っていた。
そよと風が吹く。あの、白い花が薫る。今の時期、宮殿を満たすこともある薫り。
夢を引き伸ばす幻想めく薫り……。
2014.3.5
薔薇の薫り
庭園では、メリエンダ様が薔薇の薫りをかいでおられました。
白い館はどこか僕にはよそよそしくて、初夏のこのお庭にいる彼女こそが女神のように心の砦に感じるのです。どれほどか経ってもきっとこの場はいつまでも体に馴染みはしない。それを、分かっているのです。
慣れないしぐさで紅茶を注ぐ姿をメリエンダ様の妹君ポーシャ様がくすりと微笑み、僕を緊張させる。いつでもからかうまなざしで見つめてくるので、どうしたらいいのか分からずにはにかんでばかりいる毎に「初心な方ね」と見かけによらず落ち着き払った声でおっしゃる。
背筋を伸ばし、薔薇の薫りに満たされるこの場所でメリエンダ様をそっと見た。
僕が恋心を寄せる彼女は、いつまでも、いつまでもお若いままでございます。5年前のあの日から何も変わらない、いや、いいえ。その美貌は増すばかりなのですから……恐ろしくも、この身は時に奮えて感嘆のため息が漏れるのです。
鏡に映った後姿を、鏡越しに見つめていますと、それを知ってか彼女は艶やかな面持ちで振り返りネックレスをかけていた手腕を黒髪を流しながら戻しては美しい背中がゆらゆらと揺れる髪に隠れた。
このお部屋には、今しがた多くの花瓶にこの手で生けられている薔薇が咲き誇りこの心までも魅了し惑わせてくるのです。あわてて目を薔薇に戻し、心音が僕の体を駆け巡るのもそのままに丁寧に落とされた棘の薔薇を静かに生け続けるこの心を弄ぶメリエンダ様! だけれど、この指が彼女の髪に触れることさえ許されましょうか。
「クリスティナ」
「はい」
顔をあげ、まともに彼女を見た。青い瞳が僕を見つめ、そしてまっすぐと歩いてきては机に置かれた薔薇を一本手に取りいつでも魅了してくるまなざしでじっと見つめてきた。どうすれば、どうすればこの瞳は僕だけのものになりましょう。そんな罪深いことさえ考えるこの身を沈めてしまいたいのです。
彼女は薔薇を僕のベストのポケットに挿し、ふふと微笑んで部屋を出て行かれた。視線を落とし、薔薇を見つめる。自身の頬も、この色に染まっているに決まっていて……。
薔薇の浮かぶワインを傾ける夜のメリエンダ様は、ご友人ユトイレン様の膝に頬を預けうつらうつら光る瞳で横たわっておいでです。時々、布巾を腕に起立する僕の腿にユトイレン様の爪先が伸びすうっと撫でてこられる。それをメリエンダ様は放っておかれるのですから、僕は困惑気味にいるばかりでした。
「薔薇ってね……ユトイレン。わたくしの心にいつでもそむく恋多き女みたいでね」
歌えば低くなる声の彼女は高い声音で言い、僕の胸部に挿された薔薇を見つめてきた。その視線があがってきて、囚われたようになる僕はがんじがらめにされて目を綴じるほかなくなるのです。
悪戯に微笑してユトイレン様の膝に髪を流し天井を見つめてはワイングラスを回す姿は、どこか蔓薔薇の態に思えて僕は蛇になりその蔓を這ってでも近づきたくなるのです。その薔薇の顔立ちに!
いつでも、心を遊んでくるばかり……。
「クリスティナはその長い金髪をおろさないの?」
ポーシャ様が僕の髪先に突然に触れてきたので、驚いて視線が固まりました。
「あたくし達は黒髪だから、あなたの金の髪が珍しいのよ。猫みたいに細くて柔らかくて、それでよくまとまっているのね」
メリエンダ様が僕に顔を向け、ポーシャ様の横顔を鋭く見た。知ってか知らずかわざとなのかポーシャ様はヒモを解き僕の長い巻き髪を黒ベストの背に流れさせた。頬に髪がおり、恐れて横目でそろそろとメリエンダ様を見ました。恐ろしいことに、彼女は悪魔のような顔つきで口を結びその場にいらっしゃるのです。悪ふざけがすぎたとポーシャ様が笑うこともなく、髪をもてあそびながらいる……。
「!」
僕は咄嗟の事に驚き、薔薇に飛ばされたポーシャ様と彼女の頬を打ったメリエンダ様を見ました。
「ふふ……」
白い腕を棘に傷つけながらも赤い血が数本滴り、ポーシャ様は尚も笑い立ち上がると、メリエンダ様はきびすを返して去って行かれました。
僕等は薔薇苑に残されたまま、僕だけ途方に暮れたのでした。
僕等の住む使用人屋敷には数名の使用人がおり、庭師、料理長、画家、専属医、占い師、掃除婦が各部屋を借りております。
占い師のヴィダリ夫人は僕の恋煩いをいつでも笑い飛ばしてくる気丈な方で、振り子で本日も占ってくれているのですが、どうもメリエンダ様の心が分からない。神秘的な顔立ちをするヴィダリ夫人は静かに視線を上げ僕を微笑み見て、僕は口をつぐんで彼女を見ました。
「もしかしたら、近いうちにもメリエンダ様に将来の方が現れましょう。だから、心も乱れておいでなのね」
僕はどこか常のあきらめに似た承諾をもって相槌を打ち、アンティークのタロットの絵柄を見つめました。僕は女であり、そしてこの恋はメリエンダ様のお父上、大旦那様の承諾を得るはずの無い気持ち。
僕は、もともとがサーカス小屋から大旦那様に買われた道化に過ぎなかったのですから。男の子として育てられ園術を見せてきた僕は、すでに心さえもメリエンダ様に捕らえられたまま。
薔薇の庭は夕暮れを迎えております。
いつもの季節、ここは幻想の場所に変わります。まるで、夢見心地のままに訪れる宵は夢を砕く……。いつでも僕の夢を砕いていく。無情に、無残に、そして、儚くも薔薇の薫りの如く雅にも。
メリエンダ様は馬車にご乗車になり、この屋敷を去って行かれました。
薔薇の咲く時季だけ訪れるこの屋敷で、寂しさを耐えなければならない僕は、また再び大旦那様のみの使用人に戻り日々を過ごすのです。
優しい方である大旦那様は僕によくしてくれ、そして僕の時々見せる庭園でのささやかなイリュージョンに拍手をくださいます。夜の星は色味を増していくばかりで、僕の恋心さえも色づかせて恋うる。
メリエンダ様、貴女をいつか誰ぞやが見初め、そして再びこの屋敷へと訪れるのでしょう。
そのとき僕は、薔薇のように散れたのなら、良いというのに……。泉の水面にすべる花びらのごとく、甘く、甘く溶けて沈んでいけるのだから、それさえも許されるのなら。
菊の薫り
蔀戸から天道の射す町屋を見つめていると、木々の陰が緑に揺れて涼しげだ。
もう少し突っ掛けで戸を上げて、ゆっくりと立ち上がる。着物の袂をそっと整えながら、足袋の足を進めさせた。
「にゃお」
格子の陰先から光に照らされて黒猫が現れ、そのしなやかな肢体が格子にふれて見上げてくる。
「お前、文はあずかったの?」
宵(よい)は戸から入ってきた猫を抱き上げ、首輪の鈴を確かめた。黒猫が花柄の着物を彩る。ごろごろと鳴いた。
黒猫は長屋で生きる宵の猫であり、庄屋の倅である太吉(たいきち)との橋渡しでもあった。彼女はしっかと昼の明かりで文を読む。その瞳は横顔が真剣そのものに光っていた。
外では井戸の水を汲む女たちの世間話が聞こえる。ざぶざぶという音が鳴り洗濯物を始めたようで、これから芋を干すとか、灰屋が明後日来て灰を買い取りに来るから用立ての間にうちの灰もよろしくねと頼んでいたり、普段通りのものだった。
それでも、宵の耳にはそれらさえも軽やかな琴線の音色として変わる程に心躍っていた。明日、太吉様の姉様が河越えをするということで、両親も留守にして庄屋の番頭に一日を任せるというのだ。
宵は目を綴じ微笑むと、日の射す野外を見た。主婦達が桶やたらいを持って会話をしながら歩いていく。陰が流れて行き彼女の頭もそちらに戻ろうとする。一人が振り返り、蔀戸から宵に笑顔で話しかけた。
「お宵ちゃん。あんたんところも、灰を出しておおきよ」
「あ、はい」
昼餉の支度をし終えていた宵は灰の桶を奥から持って来ておいた。灰は農作物の肥料に変わるのだ。
「今日は顔色が芳ばしいじゃないの。何かいいことあったの? 猫は知ってるかねえ」
「意地悪ね、もう」
宵は頬を染め微笑んだ。
太吉が庄屋屋敷を歩いていくと、柳の横を通って飴屋に入った。
宵はここの塩飴や大根飴が好物で、土産に持っていくと悦んで彼を見るのだ。
「若旦那。いらっしゃい」
「ああ」
飴屋の親父が笑顔で出迎えた。神社へ行ってその社の裏手の猫しか通らないようなところで彼等は夜まで話し合いながら飴をなめるのだ。
「菊飴?」
台に敷かれた季節の和紙の上に赤漆の皿が置かれていて、その上に何種類かの飴がきれいに山積みにされているのだが、それらに菊の飴を見つけた。
「ええ。若旦那。割りに、これは品のいい味にしあがりましたよ」
「ちょっと、いただこうかな」
味見のために飴屋の親父は用意した。彼は口に含み、確かにほんのりとする菊のあの芯の通った味に頷いた。
「これも今回はいただくよ」
「まいどあり」
太吉は飴用の竹細工の器を出して、親父はそれに詰めてくれるのだ。量りに乗せていき、器に入れてふたをした。銭を出してから顔を上げた。
「隣の町に行くんですってね。みちこさん」
「ああ。三日ばかね。柘植の櫛を見に行くんだ。じゃあ、また来るよ」
「ええ。ありがとうございます」
飴屋を出て鼻歌まじりに歩いていった。
いつもの神社の裏側。
宵は緑のもみじを見上げながら折り重なるその緑と濃い緑、それともみじ柄の陰と光に目を細めていた。彼女自身の白い頬にもその美しい陰が降りている。
その先に、トキの群れが空を飛んでいた。美しくてしばらくぼうっと見上げていた。
鳴き声にはっとして、飛び石が向こうの木々の間に見えて、その先には境内の三毛猫が二匹毛づくろいしていた。その先にはこの神社で育てている菊の花が鉢で育てられていて、どれもが趣のある妖怪の目に見える。
「宵ちゃん」
振り返り、岩場に座っていた彼女は立ち上がった。
「太吉様」
頬を染めあって彼等は歩いていった。窓の無いこの神社背後の林はまだ蝉の鳴き声が残る。夕暮れには日暮がしんみりと啼くのだ。美しくも別れのときを感じさせるので、いつでもその声を聴くと宵は太吉様の御大切さを知るのだった。
いつでもおしゃべりをしていると時間は早く、でも時に二人とも黙るときはその時間さえも和やかで、とても尊いのだ。
菊の飴をなめながら、手の平にためる飴を見て口に運び歩いている宵の横顔を見て太吉は口ごもった。
「いつまでも……」
「……ん?」
宵は微笑んで太吉を見上げ、いきなりの事に仰天して宵は太吉の肩を見た。想像以上に逞しい肩を。
「宵ちゃん。僕はね、姉さんにだけは打ち明けてしまったんだよ」
「え」
宵は開放されて太吉を見上げた。
「今から行って、菊の櫛も用立てしてもらうよう行ってくる」
「え、太吉様」
彼は疾風のように走っていき、そして彼女はひとり残った。遠くに、菊が見える。三毛猫たちが、鼻をひくつかせて菊の葉に彩られている……。
半月して、いつもの神社の裏手にある林の端にある林道を二人は歩いていた。
時季によって菊の飴の味は少しだけ変わった。それもまた良かった。太吉はあれから折に触れて二人の仲のことを何か言うでもなく、姉に相談している話のことも宵は聞くことはなかった。
「宵ちゃん」
林道で太吉は宵をとめ、彼女は見上げた。
すっと、櫛が彼女の髪を彩った。
「似合うよ……」
菊の透かし彫刻がされた柘植櫛は、まだ新しい椿油の薫りがした。
「太吉さん」
彼の胸部に寄せ、彼女は涙を流した。
叶わない。それでも愛している。
「宵」
しっかと抱き寄せ、ほろほろと泣いた。
「叶わないとわかっています。かなしくって、かなしくって」
「ああ、ああ。分かっているよ」
接吻。それははじめてのものだった。菊の品のある薫りがする。凛とした宵の姿に似て。
柘植の櫛が、地面にこぼれた。
黒猫が太吉のところへやってきた。
何気ない顔をした猫は床の間に入ると餌をもらってごろごろ鳴いた。
文をつけている。気がはやってそれを読む。宵はこのために文字の読み書きを必死で習い、今では難しい図の計算にすら興味を持って時々二人で盛り上がることもあった。解ければ二人微笑み顔を見合わせ、団子を食べてはいきなりの脅かしに噴出して鴉に持ってかれたり、その驚いた声にキジが潅木からばさばさと飛んでいったり……。
「………」
太吉はその文字に、目を見開き何度も見返した。黒猫が畳を歩いていき、姉の手毬を転がし遊んでいる。
駆け落ち。
その文字に、頭が回転する。思った以上に冷静に、彼はその手順をすぐに頭にめぐらせていた。舟の手配や、落ち合う場所、姉に手伝ってもらいそれを行いやすくすることなど。
彼等は十七の年齢だ。太吉も手に職はあるし、やっていける……。
脈が打ちながら太吉は何度も固唾を呑み、目を開いた。引き出しから和紙と筆を出してしたためる。
猫の首輪にしのばせ、鈴がごろんと鳴った。
「主人のところへ行くんだよ」
小さな身を彼は見送り、ずっと障子のさきに佇んでいた。
宵は出来る限りの長屋のなかのものを売り、すでに金銭にしていた。髪もびんつけにしているわけにもいかずに、先のほうでひとつにまとめて手拭いて顔を隠して長屋を夜に出る。
月は冴えて、それでいて井戸から汲んだたらいの水まできれいに光らせている。ござの上に置かれた干された大根や、隣から聴こえる向こうで長い髪を米糠の桶で洗っている女の鼻歌。猫の鳴き声……。
全て売り払っても、柘植櫛だけは手元に残した。黒髪を月光が照らす。意を決した宵のまなざしは強かった。
黒猫が木の上から降りてきて、宵の足に絡まった。
「さ、あんたも行こう」
抱き上げ、そそと歩き出した彼女を長屋の陰と月の明かりが交互に照らした。菜種油の灯りが各戸から漏れていたり、夕餉の湯気が漏れたり……。
彼女はいそいそと進んでいった。
橋の下。
「太吉さん」
猫を抱きかかえた宵が暗がりに入った。すぐに太吉は引き寄せ、舟に促す。柳を撫でながら舟は進み、一言も話さなかった。
これから、知らない地で二人は生きていく。菊の鉢が舟にはあった。月光が水面を射して、菊の陰と宵の美しさが静けさの流れに時を紡いだ……。
「飴……食べよう」
宵が静かに言い、彼自身も庶民の装いで手拭いを被り、二人とも同じ菊のそそとした雰囲気を纏っていた。
「ああ」
これだけは残しておいた飴の器を、ふろしきから出してそっとあけ、二人で食べた。
舟は二人を乗せて、どこまでも流れて行く……。静かに、波音だけをさせながら……。
金木犀の薫り
その家屋は金木犀の木に囲まれていた。
漆喰の塀がぐるりと敷地を隔て、木々が並び植えられている。
明治初期に建てられたその和洋折衷の建物は、小さな日本庭園の池にも金木犀の花が反射して映っている。
むせ返るほどの薫りに包まれながら、縁側で朦朧と過ごしていると暁子(あきこ)はいつでも思った。まぶたを透かす記憶の陰を追うこと。薫りの渦巻くさきに見えもしないけれど腕を差し伸べるのだ。
軒先から吊るされる青銅の行灯の硝子に、奥の和室が映っていて、先ほどまで暁子の弾いていた琵琶が横たえられ、床の間には生け花がなされていた。その薫りを発さない生花でさえも金木犀が薫るのではと錯覚するほどに満たされながら間口を開け放ち眠ることが好きだった。
襖を開ければ開かれた和室の奥に洋間が見え、今は母がコーヒーを豆からミルでひきいれている時間。色とりどりの色ガラスが上部にはまった窓からその空間を照らして明かりをとり、その窓の先でさえも金木犀が見える。そして、しばらくすれば洋菓子と共に母が暁子の肩を揺り起こしてコーヒーを置いていく。
暁子はまともな生活を送ることはなかった。一日じっとこの庭園が見える場所でぼうっとしていた。白く細い腕がモダンな柄の和装から見え、裸足に履いた黒塗りの下駄をからから揺らしている。心はいつでも薫りに包まれて探していた。相手の事を。ふらふらと腕を差し伸べて。
彼女の母はまずは義理の父が座る擦り切れた色合いのグリーンビロードのソファセットに座るローテーブルに菓子とコーヒーを置き、彼は厳しいまなざしで小さく折りたたんだ新聞を読んだまま手を伸ばした。一口飲めば顔立ちが穏やかになる。
お盆に暁子の分も乗せると、静かに歩いていく。
畳を歩いていき、銀箔の貼られた襖を引くと、金木犀の薫りがわっと彼女を包み襲い掛かってくる。その先に娘の背があった。丁寧に櫛の通された黒髪が背中に流れ、娘のコレクションでもある個性的な簪がささっている。朝方と夜中になると奏でる琵琶は今はまるで打ち捨てられた暁子自身のようにおかれていて、それをしっかり立てかけてあげると横へ歩いていった。
縁側に彼女のストッキングの足も陰になり進み、そっと娘の横に腰掛けお盆を置いた。
風がゆるやかに拭き、二人の髪を撫でていく。コーヒーの薫りも立ち上り、鼻腔を掠めた。
金木犀の花々はどれもがまるで踊るように咲き乱れ、夜は小さな精が踊りだすだろうと思われるほどで、母もそっとまぶたを閉じた。
暁子は下駄をおとし膝を抱えて頬を乗せ、目を綴じる……。
幼馴染の翔子(しょうこ)がいつもの様に暁子のことを「しょうこ!」と玄関から呼びかけやってきた。暁子はしょうことも読めるから、翔子はいつでも愛着と親しみをもってそちらの名前で呼んでくる。
翔子は円形の漆喰壁内部の玄関で吹き抜けになる階段うえを見上げた。和と洋を織り交ぜたシンプルなシャンデリアが下げられ、この屋敷の家紋が二階欄干咲きの通路に繋がる間口上に漆喰で浮き彫りにされている。
「まあまあ。翔子さん。本日もいらっしゃい」
「ごきげんよう。おば様。暁子はどうしてらっしゃるの」
「ええ。落ち着いているわ。いつもありがとう。どうぞ」
「はい。お邪魔します」
暁子の部屋に来ると、彼女は珍しく鏡台の前に座って棚から引き出しを出し並べられる簪から一つ一つ髪に当てながら笑顔で見比べ選んでいた。鏡台には櫛や椿油、貝殻に紅、おしろいなどが置かれている。金木犀の小枝も。
翔子は彼女の横に座ると、菓子とコーヒーを出されて微笑んで感謝した。
暁子の髪を櫛で梳かしてあげながら、今日も一方的に話し続ける。どんなことがあったか、近所の人はどうか、こんな人と会った、カフェでこんな話をした、レコードを聴いたなど。
外の世界に関心を示さない暁子は聞いているのかも不明で鼻歌を笑顔で歌いながら紅を乗せたり、簪を選んだりしている。
二人で縁側に来て、橋のかかる池を見ていた。岩の先に鯉が泳いでいるのが見えて、飛び石は池の左右に伸びていた。暁子はいつでも同じことを言った。
「右からあの方が現れて、橋を左へ行って金木犀の群生に向かっていくの」
しかし、彼女のいつもの視線と指先は左から右へ流れて行き、右の先には金木犀の木々の横を通って先ほどの玄関の表側へ出る。暁子の頭は左右の表現や感覚が逆に出来ていた。主に右利きだがふとしたときに左利きになっていて、時々琵琶も左で弾いているのを見かける。そのとき音は逆の弦からひかれていて、摩訶不思議な旋律を奏でていた。それでもあわせる歌は正規のものだ。
暁子の言う「あの方」本人は今現在日本にはいずに西洋にいて、彼女の恩師でもあった。
暁子の恩師は「フレグラント・オリーブ」という歌で一躍有名になった唄の先生で、琴と琵琶も奏でることができる音楽家だ。暁子に琵琶を手ほどきした人物でもあり、暁子の高い声に歌というものを与えた。それまでは、いつでもぼうっと庭を見つめるだけの少女だった。居たたまれないほどにやせ細り、そのため目も大きく笑顔もなく虚ろでもない無表情でいるだけだった。金木犀の季節になっても……。
音楽を覚えると、彼女は目覚しく変化していった。まれに翔子の話にも振り向くようにもなり、にこにことして頬は紅に染まるほどだった。この変化に翔子はよろこんだ。そして彼女の恩師を敬意をこめてフレグラント夫人と呼んだ。
暁子の脳裏ではいつでも敷地の奥手から玄関、すなわち暁子の知らない、感知しない外界へ行ってしまう姿が巡っているのだろう、それが逆の左右表現の認識で言い表す暁子の言葉は、外界からお歌の先生が帰ってくることを待ちわびる望みに思えて翔子の心を少し切なくした。友人はずっと待ち望んでいるのだ。再び大好きになった金木犀の薫りを婦人と橋の上で愉しむことを。それを毎日叶えてあげたいと思うけれど、翔子の権限では到底西洋から引き戻せる相手ではなかった。
フレグラント夫人の旦那は様々な柄の手拭いを西洋に広めようとしている人で、夫人はその彼について日本独特の音楽をその土地ごとで教えている人だった。なので日本に居たときも短期的に依頼されたり教室を開いて歌や琴、琵琶を教えていた一人に暁子がいたというわけだ。
旦那様の扱う手拭いの柄は日本的な柄に限らず、西洋の画材や風雅を取り入れたものや自然の情景を染め上げたものも多かった。綿素材でもちも良く、乾きも早くて清潔な日用品である手拭いの愛好家でもある。それに最近では使い勝手の想像性が広がる風呂敷も加えたようだ。
夫人自身も面白い試みとして、日本特有の音楽で西洋の踊り、バレエやヨーロッパの民族ダンスを融合させる試みをはじめ、日本へ帰る報せは今のところは無いのだから、暁子が幻想を見るうちはまだ良かった。
ただ、金木犀も季節のめぐりがある。春夏秋冬、四季があって花を咲かせることが出来る。雪の季節は花をつけずに家屋は薫りが無く、暁子は寂しくも美しい静寂の雪庭を見つめているのだ。透明な瞳で。そして椿の花が落ちると、いつでもほろりと涙を落とした。感情も無いかの横顔で。
暁子の母は受話器を静かに置き、開け放たれた襖の先で琵琶を弾く暁子を見た。
顔をそらし、洋間の横の廊下を歩いていき部屋に入ると娘の着替えを用意し始める。
夫人、大城麗(おおき れい)さんが旦那との別居を決め、日本に戻るというのだ。別段不仲の意味ではなく、仕事上の都合で別々に行動する方が便利だという結果からのことだった。
「今から、東京駅まで馬車の手配をお願いします」
言伝てから廊下を戻り、桐の箱を暁子の部屋へ持っていった。
昨夜は星まで出る空で池にも映り、娘は甘やかな薫りに包まれながらしあわせそうに縁側で過ごしていた。今は同じ笑顔で目を綴じ琵琶を奏で、いつもの様に母が横にきても気づかない。
「暁子さん。あなた、本日は遠くへ出てよ。お着替えをして、マントを羽織って先生を迎えに参りましょう」
「せんせい」
暁子は反応して母を見て、彼女は微笑み頷いた。
薫るほどの笑顔が暁子の表情に宿り、それは悦の光が瞳にいついた。
母は知っていた。恋など知る由もなかった暁子が麗さんに恋にも似た感情を持って想起しているのだということを。その事すらも彼女は分からず、しあわせにいるのだ。
暁子は着替えを手伝われ、大正浪漫の柄が素敵な着物と帯、足袋などを纏って髪型も一部モダンに結って片方の肩に飾りと共に流した。
馬車に乗り込み着物姿の母の羽織の腕に暁子はこめかみを預けて一点を見つめていた。紅のさされた唇がうわごとを何か言い続ける。
「あの方があちらからあちらに歩いてかれるの……」
母は風呂敷につつんだ麗さんへの贈り物を膝に、前を見続けていた。まとめられた黒髪に紫玉の簪が挿された母の頭が微かに暁子に頷いてあげている。
十五の齢の暁子は将来誰か婿養子をもらわなければならない時に、どんなに悲しむことかを母は考えると切なかった。だから、出来るだけ心を穏やかにさせてあげたい。
実際にいる許婚の青年を彼女は許婚の意味も理解に及ばずいるだけで、彼は今大学で植物の生態系をを学んでいる子だった。週末は甘い菓子を持って彼女を訪れ時々翔子も加わって暁子の横で時間を共に過ごしたり、暁子の祖父と日本国についてを話しながらソファセットから彼女の背を見たりしていた。
そのときでも、「あの方がいらっしゃる。あちらへ、こちらから……」と言い続けた。
東京駅へ到着し、パーラーへ入ると大城麗は笑顔でそっと立ち上がった。
「まあまあ。あなたがあの暁子さん? まあなんて美しい女性へとなられたことかしら」
彼女は暁子をしみじみと見つめて頬を染めてもじもじする暁子の笑顔の顔を覗き込んだ。
「あなた、いつかヨーロッパへ行くといいわよ。あの場所は感性がまた一段と磨かれて、とてもいいと思うの。ねえ、お母様もそれを賛成してくださると、暁子さんのいい感情へと繋がるとおもうの」
「まあ、またそれは……」
母は暁子を見て、娘はただただ先生に緊張して頬を赤らめうつむいていじらしくし続けていた。
「そのときはあたくしを頼ってくれればよろしいですから、お考えあそばせてくださいね。暁子さん。あなた、そのお気持ちになったら、本当素敵よ」
暁子は微笑んで頷き、耳を染めた。
料理店で食事をし、庭園のある場所で過ごした。終始暁子は笑顔が花開き、歌舞伎を観ては、夜は自宅へと先生を誘った。
「懐かしいわね。この金木犀の薫りも、このお庭も……」
日本庭園の橋の上から池には二人の姿が映っていた。夜は行灯が照らされ幻想的な情景に浮かび上がり、暁子は先生の腕に細い手を回して彼女の肩にこめかみをあずけ、一生このままでいることを思っておぼろげにいた。
むせ返る金木犀の薫りが、暁子の感覚を漠然とさせる。流れる風の如く、この場に淀んで、回転する……池の星を見つめ、微かな体温をこめかみと手腕に受けて、微笑んで暁子はぽろりと涙を落とした。星光に雫は照らされて、一方的な慕う気持ちは二人の間にある池へと募って行く。
「せんせい……」
暁子は麗に言うでもなく呼びかけ、彼女は美しい少女の髪に頬を微笑み寄せてあげる。
そんな、時間が過ぎてゆく……それが一生ものかの様に。
マリーゴールドの薫り
校庭の前衛に咲き乱れる元気な橙色の花を、その少女は苦手だった。
可愛いし美しいことは変わりないが、オレンジの色がおとなしい性格の少女にはそれさえも元気すぎたのかもしれない。ただ、パンジーやマリーゴールド、ひまわり、それらは学校という学校ではよく見かける種類の花であり、近所や通学路までの軒先のプランターには何を置いてもそれらを育てる主婦達が極めて多かった。
確かにピンク色や紫、黒やそれらの色が好きな少女は対極となる黄色やオレンジを周りには進んでは置かないこともあったが、それでも校庭のマリーゴールドは強く咲き誇り、季節を満喫しては、子供達を見守るかのようで、そして蜜蜂たちが可愛らしく蜜を吸い取っていったりもした。
グラウンドへ走っていくときや職員室へ行くまでの屋根つき通路をあるく途中でも、友人等と縄跳びを持って休み時間に走って通り過ぎるときでも、その花は折り重なりぎざぎざの橙の花びらに紅色のラインを乗せ、太陽の生まれ変わりのように咲いていた。
「………」
少女は自宅で咲いている藤棚の下の白やピンクの薔薇、松を囲う紫式部や百合、イチジクやドクダミの花などとは違う雰囲気の校庭のマリーゴールドをじっと見つめた。膝を曲げこみ焦げ茶色の瞳で見続け、その細部を隅々まで見た。
花の王冠をつけるにふさわしいがっしりした深い緑の茎と葉。密集している花たちの顔。きっと彼女達は女の子の花なのだろうと、理科の時間で習うおしべやめしべの知識もよそにおいて見つめる。
「知ってる?」
友人の声に彼女は振り返った。
「ひまわりって漢字で向う日の葵って書くんだよ」
その友人は少女が親友と呼んでいる子で、とても頭のいいしっかり者の人気者だ。少女も彼女が大好きだ。
「ひまわり? そういえば夏休みに育てたよね。朝顔も」
「うん」
下校時にも彼女と二人で帰るとき、その路沿いには見上げるほど背の高く、そしてこうべも垂れるほど種をぎっしりとつける巨大なひまわりが咲いている。同じく黄色なので、どこか少女は苦手でもあった。
「ひまわりってね、師匠を慕うように太陽を見ながら咲くんだって。ひまわり畑も全部太陽に向かって顔が移動していくんだよ」
その魅力的な話を聴いて、少女はドキドキとした。
彼女の事を信頼している少女は、彼女が薦めてくる少女の苦手な食べ物も食べることが出来るようになるほどだった。
それでも少女はそのとき、マリーゴールドを親友がどう思うのか、どう見ているのかを聴こうとする頭はなかった。
少女は保育園での運動会を思い出していた。土手に彼岸花が咲いていたことだ。それは地元に流れる川にも群生して菜の花の違う時季に咲く花でもあり、彼岸の時期に咲くから幼少時代の友人が怖いよねと言っていたり、それでも自分は立派に咲き誇る凛とした彼岸花を好きだと思ったことも覚えている。その子と共にその彼岸花が饅頭釈迦と呼ばれていることを教えてもらったり、その饅頭釈迦の茎を交互に裂いていって運動会のお昼の時間にネックレスにして笑いあったり、家の前の公園で春はシロツメクサの首飾りや冠をつくった事もあった。
「花は花で全てが美しい」
その事実は、彼岸花に時に人が向ける感情や、毒のあるトリカブトでも美しい青紫の花を咲かせることを加味しても少女の心にふと思ったことだった。毒があろうとも、トリカブトの花を嫌いうらむ人間などいるだろうか? 花に罪は無い。
どの花も美しい地球の輝きの一部だ。
「素敵だね、ひまわりって」
少女は微笑んだ。
「行こう」
「うん」
二人は歩き出し、飼育小屋の横を通る。
「この菜の花って食べられるんだよ」
「花を食べるの?」
少女は驚いて彼女を見た。
「確かに、よくツツジの蜜は吸うよね」
少女も言い、あの甘い、蝶も味わうツツジの蜜を思い出していた。
少女は元気に黄色の花を咲かせる菜の花の畑になっている一角から見上げた。
彼女達はまだ様々な花の背よりも小さくて、見上げると青空が花を彩り、太陽がその先にはあった。モンシロチョウや蜜蜂がその空や花の周りを見上げていると飛んでいる。
マリーゴールドは、なぜあんなに背が低いのに少女の心に残るほど元気なのだろう……。
この休み時間、カゴメカゴメをみんなでやったり、大縄跳びをやったり、遊具で遊んだり、一本橋をバランスをとりながら渡ったりして遊んだ。
そして少女は知らない。夕暮れ時、教師や部活の野球部やサッカー部達の残る緋色の時間帯、あの太陽に照らされていた明るいマリーゴールドも、夕陽の色に染まりきってめらめらとした紅色へとなることを。花と花の間に濃い夕影を落とし、それぞれが咲き誇り、そしてその校内の花を公務員のおじさんが育ててくれているのだろうということ。夜風にもあてられ、星を仰ぎ見るのだろうということ。マリーという名の、彼女達は……。
マリーゴールドの薫り。
それは、少女の記憶では薫ったのか、どうだったのかさえ今ではおぼろげな記憶。
百合の薫り
石造西洋建築の学園内。
鎖された門の鍵を手に、青聖学園の中学舎二年、アルベルタ=月島(あるべるた つきしま)は鉄の鎧戸を目の前に、何かうわごとかの様にいい続けていた。
白いレンガを積み上げた門と塀で円形に囲われており、外界を遮断している。上方はドーム型の屋根がついて硝子屋根を支える鉄枠のトップは白石の鷲彫刻をエンブレムに置いていた。これといって窓はその天井硝子のみで、採光をとっている。
アルベルタは白い指に持つ鉄の鍵をそろりと上げた。門扉に影がさし、鍵穴に挿されて回転する。
鉄環のノブがひかれて世界が広がった。
彼女の背景には学園の庭が広がり、昼の太陽がさんさんと降り注いでいる。だが本日は日曜日なので、誰かが出歩いているわけでは無い。寄宿舎もあるものの、この校内とは離れた場所にあるのだ。時折音楽や美術の教師が休日でも出歩くこともあるが、今日は姿が見えない。
眩しいほどに明るい背後の白い庭とは対照的に、円柱型の塀の内側は湿度が保たれている。
アルベルタはラテン系の母の血を受け継いだ大きな目の顔立ちであでやかさがあり、焦げ茶色の瞳と髪もロクシタンのボディケアが薫った。
「夢の…… 橋を渡れば 恐れなど
恐怖など掻き消えてゆくけど
まともに目を向けられない 瞳は
ただ 身を浸す世界は……」
先ほどから口ずさむ声は微かに口に響き喉を振るわせるだけで、他の誰に耳にも、花や植物達の感覚にも触れないとも思われた。
彼女は木々や花々の咲く間をまるで蝶々の態で歩いていき、奥のピアス加工の青銅扉の前に来た。
透かし彫りはこの青聖学園の称える青い神聖なる星をかたどった唐草模様で、その先は通路が続いている。
潤んだ瞳は情景を泉のごとく鮮明に映した。彼女の脳裏に儚く揺れる記憶が駆け巡るように。
扉を開けて通路を進む。それごとに百合の薫りは強く、増して行った。
須藤家の音楽ホールに置かれたクリスタルのピアノを奏でている須藤レイ(すどう れい)は微笑みながら指をなめらかなクリスタルの鍵盤に滑らせていた。崇高な、信じられないほどの旋律を心や体、空間全体へと響かせる。
神秘の音色がこのピアノにはあった。
台に飾られた百合の花さえも生きて精霊が現れ彼女に頬を寄せながら美しい音に聞き惚れまどろむと思われるのだから。
『白百合の夢』を奏でるレイはまるで幻想が現れたかの如く白い衣装と髪に銀の飾りをつける精霊が浮かんでは微笑んだ。
駆けつけてきたピアノ教師の慌てぶりに、胸騒ぎが起こった。
レイは週末だけ実家に帰りピアノを習っている。普段は寄宿舎に入りアルベルタともう一人の生徒とシェアを組んでいた。
「大変よ。貴女と同室の方が、気絶して発見されたらしいの」
今までの幻想は立ち消え、静かにクリスタルの余韻だけが反響する。それは哀しくなるほどで涙をぽとりと落としていた。
「今すぐ、戻ります」
レイはホールを出て急ぎ足で連絡を渡しながら自室へ戻り、バッグを持った。
アルベルタの眠る保健室は影の射す涼しい場所だ。窓からは木漏れ日がゆるく差し込み、保険の先生がレイを見ると微笑んだ。担当の教師も呼ばれており、既にベッドの横にいる。彼女のご両親は現在母の本国イタリアへ出張しているので不在だ。
「百合の間で発見されたの。理事長様からね」
校舎の回廊に囲まれる広い庭園に鎮座する白い建物は奥に百合の咲き乱れる場所がある。そこは常時縦長の窓が開け放たれており、時季にはセンターに置かれているハープが演奏される半野外ホールでもあった。
「i-phoneの画面にこの詩が記されていたの。須藤さんは、分かるかしら」
夢の橋を渡れば 恐れなど
恐怖など掻き消えてゆくけど
まともに目を向けられない 瞳は
ただ 身を浸す世界は愛
秘められた想いなど百合の薫りに負けて
花びらの間へと隠れてしまう
銀の月を仰げば 悦びも
うれしさも照らされてしまうわ
しっかり身を寄せてね…って 唇
ああ 髪さえも抱き寄せる愛
壊された心など百合の薫りに紛れ
月影のその下へ溶け出すだけで
「……これは、あたしとアルベルタで作曲したピアノ曲『白百合の夢』に彼女がつけた詩です。きっと、ハープでそれを奏でようとしていたのね」
言い聞かせる。アルベルタは掴みどころの無い子で、冷静に会話をしていたと思えばふと一点を見つめてはらはらと涙することがあった。
「百合の強い薫りに気分が優れなくなったのでしょうね」
「レイ……」
「アルベルタ」
レイは彼女の髪を撫でて顔を覗き込んだ。
「あたし……何故」
「百合の間であなた、眠っていたの。それで風邪をひくか百合の精霊に連れて行かれる前に理事長様が連れてきてくれたのよ」
「……ふ、嫌だわ。レイったら」
まだ白い顔の彼女は少し笑い、その笑顔のまままぶたを閉じた。少しだけ頬に薔薇色がさして思えて安心した。
「まだ眠っていて」
「はい。分かったわ……」
夢の続きを見るかのようにアルベルタは安眠に入ったらしい。
レイはずっと庭で立ち尽くして考え事をしていた。校舎は夜、暖色の照明が回廊にぐるりとともされているが、それも10時を過ぎれば消灯され、群青の深く高い空に金の星が幾つもきらめいている。
ここにはあの白い塔がある。白い悪魔の住まうかの様な薫りに酔う美しいアルベルタの姿が想起され、レイは深く呼吸をしては星を見上げ、門扉へ近づいた。
手には鍵が持たれていた。許可をもらえば生徒でも預かって入ることが出来る。
冷たい鍵を取り出し、ずっしりとするそれを手に確かめながら進んだ。星影が群青に染まる白い壁にうつり、扉の前に来ると闇みたいに黒い影がさして一瞬恐怖が掠めた。
鍵を回し、魔の雰囲気を払拭して扉を開ける。
静かな植物園が広がり、今の時間は昼に飛び交う蝶でさえも葉の裏で羽根を綴じ眠っている時間帯。奥の扉を開けて進んだ。
段々と百合が薫り始めた。闇に浮くハープ。
「………」
百合の精霊が腰掛けている。彼女が連れて行こうとしたのでは無いと言い聞かせる。彼女はレイが想起するだけにとどまる白昼夢で、アルベルタが見えるとは限らない。
精霊がこちらを見たとたん、優しげな瞳は黒くなり、そして鋭く唇が上がった。レイは動けなくなり、春の風が窓から拭き流れてくるままに立ちすくんだ。
ハープを流れるように鳴らし、あの唄を、歌う。
レイも口ずさんでいた。唄っていた。『白百合の夢』を。その続きを。
秘められた時は紡がれた
眠りの淵へと堕ちて行き
その指さえもほの甘く迷うのでしょう
百合の薫りに誘われてみる夢は
純潔のさきの一途なほどの……タナトス
「アルベルタは大切な親友よ。駄目よ。悪さをしないで」
レイは哀しくて頬をさす星明りが肌をどこか蒼くした。
薫りが一層強さを増し、ふらりと、意識が薄れた。月光を透かす精霊の髪が、白い衣がゆらめく……恐い無表情の顔で。
レイがふと目覚めると、自身はクリスタルのグランドピアノにしなだれていた。
「………?」
ぼうっとしたまま見回し、台の上の百合の花が微かに薫る。
クリスタルの楽器なので、光に寄って溶け込むことも在れば、夕陽に浮かび上がり荘厳に姿を現すことも、そして朝陽に滑らかに浮かび上がり鋭く光ることもあった。全てを透かすクリスタルは、いつでも精霊の姿だけははっきりとさせていた。
だが、彼女が立ち上がると背の高さに違和感を持った。見回す。黒いセーターに、チャコールグレーの膝丈スカート。品のいい黒のヒールで、肩に掛かった髪は結われていた。
壁の鏡に、紅をさす女性を見た。
「あたし……」
彼女は首をかしげ、大人びた様相にしばらく目を綴じ、そしてだんだんと感覚が戻っていった。
「ああ……懐かしい夢を見ていたようね」
須藤家のこのホールは現在、社会人になったレイ自身の部屋の一部へとなっていた。
何年も前のあの日。アルベルタは確かに美しい女性に誘われて毎夜あの百合の間へ訪れていたのだと話した。あの唄を作ってから夜の夢に訪れる女性は、レイが見ていたと打ち明けた白昼夢の女性、百合の精霊と同一と思われた。
アルベルタがあまりにも感情さえも不明な綺麗な涙をふと流すものだから、不思議だったのだ。
「レイ」
「アルベルタ」
成人するとなおの事母方の顔立ちになってきた麗しいアルベルタは、そっとレイに寄り添い頬を寄せた。
「ね。……弾いて。あの季節の曲を」
「ええ……」
アルベルタがあわせて唄い始める。
二人をあの時代、惑わせた精霊の唄を……。
カサブランカの薫り
ニコ 22・男
シェモイ 25・女
アルマス 28・男
純白のカサブランカ。
黒いシルクの寝台に大輪の花が幾つも、そして薫る。彼は流れる金髪を額に広げ、アクアマリンの瞳で見詰めた。花のこの理想的な構造を。
「時々……」
白い肌を彩る。銀の光がナイトテーブルから鋭く照らし、くっきりとしたカサブランカの影が肌に、顔立ちに、肩に、シルクに落ちる。
「真善美に関する君の審美眼が怖くなる時がある」
シェモイは長い髪を片方の肩に流しながら彼を流し見た。というよりは、観た、と表現するべきだろう。僕はいつでも美しい爪をまるで魔術を施すかの様に一回転させて見せ意見を述べる合図を送るシェモイ嬢をうっとりと見詰めている。その瞳が滅多に僕に向けられる事が無いのだとしても。
アルマスを彼女はいつでも美術品を鑑賞する態で正視する。窓際のアームチェアに腰掛けるシェモイ嬢は満天の星に彩られ包まれていた。ガラスに遮断されて夜気は感じられないまま。
それでも僕の心は寂しさの風が流れた様に思える。純白のカサブランカを黒薔薇浅織りのソファから拾い上げてソファセットから進んだ。彼女の前に来ては床に座り、膝に花を置いては見上げる。シェモイは僕に視線を落すと大輪の花を手にし、鼻腔に薫りを充たさせた。
「どうしたの……?」
緩く微笑む。意地悪な猫の顔立ちで。
「まるで蛇みたいだわ……ニコ」
構わないよ、僕は言い眼差しを彼女に縫い付け膝に頬を乗せた。寝台のアルマスを見る。彼女の冷たく、そして強い薫りをまとった指が僕の金髪を優しく撫でる。目を閉じてアルマスの存在を闇に落とした。
そして彼女の姿だけになる。滑らかな白の衣服に身を包むしなやかな四肢も何時かは僕のもの。チョコレートブラウンのエレガントな艶の髪も、手を、唇を這わせたくなる。薔薇を置いたような唇にはカサブランカも時に敵わないほどの色香を乗せて、惑わしてくるんだ。
あたしは白馬の上から背後を走ってくるニコを肩越しに認める。
あの子はいつでも嫉妬をしてきて可愛いけれど、どこか甘さの抜けない頼りなさが憎めなくも悩ませてくる。いつまでも水色の瞳は逞しさを匂わせることはなく、ときにあたしを絶望のどん底へと突き落してしまう程の悪戯な無垢さを持つ。
この身を、心を切に欲してくるニコの全ての言葉や行動はこの足許から伝ってくる大蛇のようでゾクゾクさせた。
けれど、あたしが心酔するのは、アルマス。彼……。完璧の美を嫌う彼は完璧な物には魔が宿る全てに囲まれながらも自己からは排除し、不均等の美を崇めては花を愛でた。花とは、完璧な様態ではない不安げな儚さがいいのだと、心危うくなれる瞬間が、美に危機感を感じる刹那が愛しくもしあわせなのだと溜め息をつく。彼の不均等の美へのフェチシズムは、あたしの求める彼が拒みながらも体現する完全美をなお一層引き立てた。昨日のカサブランカ……彼はあたしのことより花に魅せられてた。
「シェモイ」
ニコが追いつくと、太陽のもとでは蝶のようにふらつく瞳で見詰めてくる。
「お茶をいただきましょう。紅茶と砂糖菓子を」
馬の方向を変えすすめさせる。彼もついてきた。
薔薇に染まる白い頬は大きな少年のようで眉を潜めて見て来る。いつでも昼下がりは眩しいのか目を細めていた。銀釦のはまる大きな折り返し襟のビロードのジャケットから白グローブの手で何かを出すと差し出してくる。
受け取りながら見詰め、進めさせる鞍に影が落ちた。
「可愛いわ」
それはとても小さなプラチナで出来たオオルリの飛ぶタイピンで、丸いカットの瑠璃の花を加えていた。
「きっとシェモイのその白いスカーフに映える」
彼は一気に馬を駈けさせて行った。木々の立ち並ぶ泉の辺にあるテーブルセットへ。ここからでも分かる、耳の紅さが遠ざかっていった。
木陰に眠っていたらしいアルマスが草花を行く蹄の音で目を覚ましたらしくニコを見る。ニコは白いテーブル上の紅茶をポットからカップに注ぎ、目を眩しく光らせていた。蝶が番の舞を見せながらも旋回している。
アルマスが一度、あたしを見た……。
まどろみはいつでも無神経なニコに邪魔された。俺は背を睨め付けあきれ返って起き上がり、幹にこめかみをつける。
偏頭痛は変則的なもので悩まされていた。
静かな薫りを乗せてやってくる。それはシェモイ嬢だと分かっていた。瞼を開け、彼女を見る。まるで女神の様な女で、俺を称えて来た。言葉で、視線で、触れてくることなどせずに。その度に心は掻き乱され、花で紛らわせるどころかその薫りは息を奪われるほどの波となって襲い掛かった。
俺には不釣合いな女だ。完全なる追求を求める目がとにかく怖い。
カサブランカの香水は彼女の調香師がつくったもので、あの造形をたやすく思い出す。
俺は花が好きだ。その構造美は樹木が倫理的なものの考え方をする男の姿にも見えるなら、花は受動的なものの考え方をする女の成りに思えた。それだけじゃ無い。花という奴は曲者で、蜜蜂や蝶だけじゃなく人間の心さえも奪って離さなくして来る。人間は別に蜜を運びやしないじゃないか。花粉を届けることも人はしない。それでも季節を謳歌するのは生物全てに言えることで、花を愛でる事のできる昨日が俺達にもあるわけだ。女を愛でる事と同様に。
昆虫が花を生命を繋げる食欲の対象として捉えるとしても、人は目で見て心で観じ重なり合う花びらの建設的なあり方を見る。
カサブランカがふわっと俺の横に腰掛け、顔を向けた。まぶしく光るプラチナのタイピンがシェモイ嬢にしてはまるで乙女の様で俺はふっと微笑んだ。
狭い肩に落ち着く柔らかな髪が触れてくることを訴えてくる。だが俺は彼女に触れない。シェモイ嬢にはおいそれとは触れたらいけないものが備わっていた。にも関らず、例によって無神経なニコは寄り添い、抱きつき、頬に頬を寄せた。全く、あいつにも困ったものだ。まるで初心な恋人達の様に甘えるのだから、みちゃいられない。
シェモイ嬢が綺麗に脚を揃えて草地に座り、遠くを見る。白馬は影を落として低く嘶いていて、水を飲みに身を返した。その隙に主人の陶器の頬にキスしたくなるが、まるで蛇王子みたいなニコの肩越しの目が影のなか光る。
俺が毎回そんなどうしようもない事を考えてるなど思う事も無いシェモイ嬢は俺を完璧な美だ、魔的な態だ、なんだ、崇拝でもして来るつもりか言ってきた。
「紅茶を頂きましょう」
ソーサーからカップを傾け、俺はまるでカサブランカの様な女、シェモイ嬢を見た。横顔は美しく、まつげは彼女の淡緑の瞳を彩る。
ポピーが風に揺れ、引き立てる様だった。
ニコは飼い猫の様にシェモイ嬢の肩に寄りかかる。俺を敵対する目を向ける……が、俺はこの女を心から手放すつもりは無かった。それもこいつは知りはしない。
いつでも、いつまでも平行線のこの関係は続く、それだけで、不完全な美は体現されつづけるのだ……。
カサブランカが薫る。緑の風が流していく。それでもシェモイ嬢の存在はいつまでも夜も昼も薫りつづける。香水を纏うことなどなくとも。例え、年月が経過しようとも、きっと、そして、若さの完全なる美貌は、俺の求める不完全の美を少しずつ形成していくのだろう。愛されるべき全てとしてだ。
孵化するその時の彼女の心を、いつかは覗いてみたい。練り香水の様に体を離さない若かりし記憶を俺自身の脳裏に収めておきながらも、その対比さえも俺にはたまらないものへとなるだろう……。
20/03/2014
アネモネの薫り
彼女は狭い室内、膝を抱え震えていた。
神経的な目はキャンドルに揺れ動き、木馬の影や小さなカルーセルの影が壁紙を踊っている。
アネモネの花。
その暗黒へといざなう漆黒の瞳をそろえた花はどこか邪な悪戯をしのばせるデモンのようで、彼女はそれらに見つめられていた。
複数の洋風人形達の目に囲まれた彼女は紅色の着物に黒の半衿を覗かせ、紫の帯がだらしなく伸びている。金蝶の簪や金の帯留めが艶をうけ、真っ赤な爪は真っ黒のルージュに食い込んでいた。
アネモネに囲まれる人形達を凝視する姿は檻に閉じ込められた鳥のよう……。
彼女はアネモネの瞳や人形達の視線に怯えているのではない。これらの目が無ければ発狂するほど落ち着かなかった。
<監視>――それは、彼女にとって既に無くてはならない拘束眼。
彼女は黒ビロードの寝台で丸くなり下ろされた天蓋の内側で恐怖に震えていた。
<悪夢>は彼女を苦しめ、独りにし、逃れられない心の檻に閉じ込め透明な泉さえも鬼の目にする。
黒の半襟から漏れる金のネックレスは鍵が繋がり、それは外側からは空けられないこの部屋の鍵だった。紅の袖口から真っ白い手首が覗いて刻印される、黒い星。それはこの地上と彼女をこの世に釘付けにする釘頭かの様にも見えた。
眠りたくない。それでも彼女は逸脱された眠りの境地へと堕ちて行く。
緊張にこわばった足袋のそろえられる足はゆるみ、ゆるゆると堕ちていく。
青紫一式のアネモネの花畑にいた。
淡い紫に沈んだ空の色は上方が淡いローズピンクで、グラデーションの真ん中の天に白い太陽が昇っている。夕暮れも近い地平線近くの太陽は、まだ色味を変えずに低い連峰の稜線を影にしていた。
彼女の足元には、部屋にあった人形が一体、目玉が片方飛び出した状態で寝転がり眼帯がはめられ、髪はひび割れた顔を飾っていた。木馬は風も無く揺れ、カルーセルは壊れたメロディで回転している。その途切れ途切れのオルゴールは、サティの夢であってその今は寂しげに聴こえる音色によってアネモネはゆるく揺れている。
彼女は自身が安堵としていることに気づく。何故なら、幾万の花の漆黒の瞳は彼女を夕陽の淡い色に染まりながらも見つめているのだ。
ほっとため息を漏らし、裸足の足元をみる。夢では常の裸足を。
黒い蟻が素足をくすぐり、列になっている。
「………」
それは脚を伝ってきては、いきなりの痛みに彼女は顔をゆがめた。蟻に噛まれたのだ……。
麻痺したように、視野はカルーセルを映す。回転する馬達。時に調子外れる旋律。アネモネはまるでくすくす笑うかのように彼女を囲い回転し始めた。
重いまぶたを開くと何かの感触で彼女は足元を見た。そのことで胸部に乗っていた鍵はしゃらりと音を立て肩から落ち、首をかしげて状態を起こして立てられた真っ白い脚が覗く。
眉をひそめ、くっきりとした噛まれた痕を見つめた。それは明らかに、人間に噛まれた小さな女性的な歯型。
はっとして、人形達を見回す。アネモネの花は凛と妖艶に咲き、彼女を<監視>していた……。
ばっと着物の袷を戻し、寝台を離れて立ちくらみに支柱に手を掛け眉間に指を当てた。
「………」
ふと目覚めると、立ち尽くして支柱で体を支える自身がいては、脚の噛まれた痛みは消えていた。
物音で背後を見ると眉の下で切りそろえられた前髪と長い黒髪が艶を受ける。
「夕食だ」
規律のある低い声が静かに響き、無骨である手が動作がすっとして引いていく。彼女は彼の姿をそのわずかに見える軍服の手腕、そして彼の履く黒牛のブーツ、そして片膝を曲げるカーキのズボンの膝しか見たことは無かった。ここがどこなのかも、彼が軍人なのかも、自身がなになのかも分からない。
彼女は自身の名前を知らなかった。
小さな扉は閉ざされ、微かに見える廊下の柱時計が六時を告げる音さえ遮断された。彼女は鍵を握り締めたまま暖色のみへと戻った室内で佇んでいた。
大市雄源(おおいち ゆうげん)は夢見師の娘、高野月夜(たかの つきよ)の部屋のドア前から颯爽と去っていった。
未だ定期的に聴取される夢の内容に<悪魔月>と呼ばれる年月は現れず、ただ、それらの兆候を読み取る知識人も去ったために善後策は取れずにいる。
<悪魔月>とは、月が薄紫色になる春の宵に訪れる不可思議なあやかしで、雄源の仕えるこの戸部屋敷の人間が歴代何人も発狂し狂人となってきた事例によるものだった。
先代の戸部信(とべ まこと)は夢見師である高野澪(たかの れい)を招き兆候の全てを夢見で避け続けその代の戸部一族は誰一人として悪魔につかれる事もおろか、全うに生きた。だがその澪は信自身と妾の関係となり十七年前に正妻に殺められ安泰の時代は幕を下ろした。
当時五歳だった娘もその力があるとして将来を有望視されていたのだが、今となってはまだ有力な風は見られない。
現在の当主は女主人であり、戸部信の娘だった。四十の年齢の美しい女主人は怜悧な人間でもあり、夢見を殺めた母
を毎週刑務所見舞いへ向かいながらもその時から精神病院へ入った信の世話をしては女学院の理事長として学園を訪れる毎日を送っていた。
「アネモネ……」
雄源は軍から雇われた人間で、戸部家の護衛を任されても居た。普段は主人のボディガードをしどこへ行くにも同行した。そして月夜のことも任されている。
そろそろ月夜の所望するアネモネを新しくそろえなければならない。
雄源はあのアネモネの花が好きだった。黒い蝶が周りを舞い、そして春の気候漂う妖しげな季節はなんとも言いがたい感慨を思わせる。
自室へ来てくるっと踵を返すとドアをしめ、颯爽と進んだ。軍服を放りシャツの背がベンチに進み、カフスを外しながらスカーフ上、撫で付けられた髪のシャープな横顔が鋭く窓を見た。
「………」
月。
恐ろしいほどの満月の目が全てを見てきている。まるで、全てをその一瞬の後に闇に落とすのではと思うほどに明るい。カフスをローテーブルに置きながら窓辺へ進み、月明かりに影が伸びた。
林が広がり、その向こうには緑の丘が広がる。そちらを見れば月は威力を優しげに和らげ全てを照らした。
丘を越えた一角に、アネモネの咲き乱れる場所がある。そこは柳が幽玄に揺れてその先にアネモネがゆれ、蝶が漂い時々小動物が姿を見せた。小鳥はさえずり春を謳歌するのは心が澄む。
静かに夜を見つめ、引き返す。
シャツの腕をまくり、ブーツを乗馬用のブーツに履き替え部屋を出た。
屋敷から出ると馬に馬装を施し、アネモネの原へ向かう。明るい月はそれだけで出歩けた。
林からは静かな風が吹き、丘を越え原来ると、アネモネの花を見渡した。馬から降り、鎌を手にアネモネを掻き分け歩いていく。
手に持つ花の束は月光が腕に繊細な影を落とし、それを透かし掲げれば満月を背景に花弁が透かされ美しかった。
「………」
雄源はしばらくアネモネを適量刈って行き、彼を花が包んだ。
この旋律は、聴いたことの無い曲だった。
まぶたを閉じる月夜は淡い藤色の感覚にそっとまぶたを開いた。
「………」
そこは、薄紫色の夕時だった。まるで、どこか浪漫を感じる。首をかしげて天の向こうを見た。
不思議なことに、空を巨大な船がやってくる。幾本ものオールがこがれて掛け声さえ聞こえ、やってくるのだ。
野原は草花の広がる場所で、既に上品な一番星が姿を現している。
それは、恐い夢ではなかった。
しばらくここまで来る巨大な船を見上げていると、まるで透明なクリスタルの波をつくって横まで来ては彼女は見上げた。
「………」
だが、その暗黒の目をした彼等を見た途端、慄いて震え始めた。物言わない口元の彼等は先ほどまでの掛け声も浮かばない。誰もが胸にぽっかりと黒い隙間を開けている。
「お前が戸部の者か。われらの魂の置き場を崩した場所を返せ……」
<とばのもの>の意味が分からない彼女はただただ震えた。紫色の着物の彼女は黒いレースの半襟が黒い首筋を引き立て、その美しさに男達の黒い瞳は囚われてもいた。
「わたくしは……」
一気に男達の姿が船を越えやってきて、彼女は恐怖に叫んだ。
飛び起きると、木馬にしなだれ眠っていた。紫の袖を見つめ、立ち上がるとふと窓の外を見た。
「……紫」
まだ宵は深いとは思えずに窓際に来て、月夜はふと下方を見た。
林に女性がいる。母を小さい頃に亡くした彼女はふと彼女の面影を思い出し、見ていた。開襟シャツに革パンツ姿の勇ましい女性で、ゆるくセットした背までの髪が動向にあわせて揺れる。その女性がこの屋敷の主人だとは彼女は知らない。
女性は薄い紫の空を見上げ、白に近い夕陽を見た。彼女は窓を開け放ち、女性に声をかけた。
「もし。もし……」
女性は声の方向を振り返り、しばらくして彼女を認めた。
「夢を見ました。わたくし、こんな色の夜に不気味な船がやってくる夢を。暗い眼をした者達が乗る船は、わたくしを襲おうとなさったのです。我等の場所を奪ったのだと……危険ですから、どうか屋内へお逃げくださって……」
着物姿が常だった母とは違う女性でも、懐かしさを感じて月夜は言っていた。なぜかはらはらと泣きながら。
「月夜さん……」
落ち着き払った声で女性はいい、歩いていった。
「その話をお聞かせ願い無いかしら。<我等の場所>とは……、<魂の場所>というのはどういったことなのか」
それは高野月夜の母が見たことは無い夢だった。回避という状態で今まで彼女の母は先代である戸部に助言をしてきたのだ。何か知らぬうちに禁忌を犯してはいけないことを。その抽象的なものごとは長年わかっては居なかったのだ。
「まさか……この屋敷のことなのではないのですか」
月夜は聞きなれた男の声に振り返り、見上げた。
男が進んでは彼等の座るベンチソファへ座り、恐い目で二人を交互に見た。
「軍の調べで最近ようやく歴史的なことが判明し始め、このあたりは以前戸部一族が来る前は古い戦の続く場所だったらしく、原を越えた先の海で何艘かの船が沈まされたらしい」
男はアネモネの束をローテーブルへ置き、逞しい下腕を無意識に月夜は見ていた。あの恐ろしい夢でもしこのいつでもご飯を持って来てくれる腕が引き助けてくれていたならば、叫んで目覚めなかったことだろう。
そして、彼自身がいつでもアネモネを摘んできてくれていたのだと初めて知った。
「屋敷のことを調べましょう。もしも、その彼等の石碑か何かの上に知らずに建てていたのではこれから先も彼等の魂が訪れるのでしょうから」
女主人は窓の外を見た。薄紫の宵は優しげな色で春は穏やかだ。春は毎年一族は注意を払ってきたものだ。歴代の一族は何におびえてきたというのか、助言に従い生きてきた彼女には分からずに春は愛でるものだという認識が根強かったから。
月夜の夢に彼らは訪れた。恐ろしい夢ではなく、どこかきよらかな闇の夢だった。声だけが彼女を取り巻き、静かに語られたのだ。
「薄紫の訪れる夜はとりわけ明るく戦時でも酒に浮かれるほどだったらしく、それを狙われたのだということです。もともと、このあたりの風習で一夜は春を祝う花の祭時としてきたのだと」
「風流ね」
「アネモネはこのあたりの自生花で、それらが祭時の主な供え物」
月夜は木馬に頬と手を乗せ月を見ては話していた。女主人はサティの幻想曲、夢がオルゴールで流れる合間に聴こえる彼女の言葉に耳を傾け夜を見ていた。
「この屋敷はその彼等が運び込まれた安置所があったようです。村の家族が春の祭りもよそに駆けつけ悲しみにくれたと」
「その村というものはこの場所に我等が訪れた200年も前に人が途絶えて寂れていき姿を消したとは知っているけれど、基礎だけが残っていて、それを屋敷に利用したのね。何の遺跡かも不明なままに」
月夜は頷き、ゆっくりと止まり始めたカルーセルを見た。窓辺に置かれ、夜を透かしている。
新しく生けられたアネモネは人形達をはじめて活き活きとして見せた。不思議なほどに。
「彼等の魂を奉ってほしいのだと申しておりました。春の花の時季、アネモネの花を供えてと……」
完全に停止したカルーセルは、しばらくの静寂を生んだ。奏でられていた夢は、これから悪夢を見ることは無いのだという不確かではある心を余韻に残したようだった。
「軍に要請し、石碑を建てさせましょう。あのアネモネの咲く原に」
「ええ。お願いね。学園も長い休みの時期に入るわ。あたしもこの時季なら祭典を行えるから。
月夜の脳裏には浮かんだ。咲き乱れる愛らしいアネモネが彼等を見守り、春爛漫に踊るように季節を愛でる春の悦びが。
彼等の弔いの魂も天へと白い輝きとなり落ち着いてきらきらと昇ってゆくのだろう。アネモネの風に吹かれる影から上空へと……蝶の背に乗り、小鳥の羽根をかすめ、彼等の唄う春の歌を聴きながら……。
メープルの薫り
甘い薫り……それはしあわせになる瞬間。
甘い薫り、それは、心があでやかになる。
しあわせの薫り……それは、きっと、絶え間ない光と輝きの瞬間。
鈴也(れいや)は緑の丘から平原を見渡した。
白い花が咲き乱れる草原は風に吹かれ、そして舞う。
さわさわと、楓の木々が丘の上の白い舘を囲って揺れている。
彼は小さな頃からこの楓の大木が連なる風情を見上げることも、その下で眠ることも大好きだ。風と一体化して思える瞬間や、大きな手のひらのような葉の先から見える青空や白い雲の走る様を見上げることが好きだった。
何種類もの小鳥が鳴いては休憩し、昆虫が歩いていく。それらの自然のなかに人間もいさせてもらっているのだと何度も思える。それもしあわせだった。
秋にもなれば色づき始める楓は夕日の色となって行くのだ。
父は楓の幹を専用の刃物で一定間隔に線を引いていき、そこから滴り流れあふれ出る樹液をくくりつけた袋へと溜めて行く。
鈴也はメープルシロップが好きであり、それを毎朝パンにもバターと共に乗せたり、ミルクに混ぜたり、そして素朴な素材でメープルクッキーをつくることもした。
週末にはいつでも馬の背中にメープルシロップの詰まった袋をぶら下げて丘を行き、森を越え、一山越えた先にある湖に囲まれた街の市場で売りに行く。そこで各家庭から持ち寄られた瓶での測り売りをしているのだ。
いつでも専用の秤に石と瓶を乗せ、勺でシロップを注いでいく。
ともに横ではメープルクッキーも売っているので、とてもいい香りが漂った。
鈴也は市場でいつでも測り売りをしているとき、ドーナツ型にきらめく湖からの光に目を細めて一瞬をその水面のきらめきに吸い寄せられることがある。三年に一度は来る嵐の時には市場も開けないほど湖は荒れる状態になるが、穏やかなときは深い青を称えた美しい湖なのだ。
彼は毎年ある女の子を待ちわびるようになっていた。いつでもその子は籠をもち現れる、エプロンと頭きんに長い金髪三つ編みの少女である。
市場に来る人間は、この円形の街に住む人間か、それとも小舟で渡ってやってくる他の小さな村の人間かのどちらかだった。少女は小舟でやってきた。売り物の花にまみれて同乗してくることもあれば、たくさんの祭り用の飾りと同乗してくることも、そして香辛料に彩られてやってくること、美しい布に囲われやってくることもあった。
メープルの薫りは湖を風に乗ってただようのか、その香りをかぎつけてかやってくる。まるで、蝶が蜜を求めるかの様に。
少女はいつでも笑顔でやってきた。おなじみの瓶を持ち寄って、目をきらきらとさせて。エプロンと頭きんはいつも同じだが、下のドレスは毎年、毎週違った。ストライプ柄だったり、民族柄だったり、刺繍が施されていたり、一色だったり、素材がいろいろだった。
今年も彼女はメープルシロップと彼のつくったメープルクッキーを買いにやってきたのがわかった。
夕日が沈みかけた時刻。
湖を囲う木々の上にめらめらと陽が光っている。水面は薔薇色に染まってルビーを敷き詰めたように眩く輝く。様々な物の黒い影がどこまでも伸び、夕刻の風の凪ぐ時間帯へとだんだんと向かってゆく。市場は夕日と共に、転々と緋色のランタンや蝋燭が灯り始めて懐古的な空気が流れていた。誰もがのんびりと過ごし始める。
市場の背後、街では連合会の鐘が荘厳と鳴り響き、お香の立ち上る煙は今に光り始めるだろう一番星と絡み合うと思われて。
珍しく、そんな宵の時間に彼女はやってきた。
闇に溶け込み、ふっと紅の光に肌さえ染めて現れる小舟に揺られて、ぎらぎら紅に光る湖をすべりやってきた。
鈴也はランタンにマッチをすってふっと揺らめいた灯に影と光に照らされ、硝子のふたを閉じては少女を見た。
彼女は様々な民芸品を売る露店の間を歩きやってきて、まっすぐとメープル売りの少年の前にやってきた。
その頃には、彼女の頭上に一番星が現れていた。市場は一種の静寂がおっとりと流れる。酒を飲む店主もいれば、夕日を眺めながらチェスをする店員、犬を撫でながら長椅子に寝そべる者、様々だ。今日は土曜日であり、誰もが日曜日まで露店を開くので小さな寝床をつくって寝泊りする。
少女は瓶を彼に差し出し、鈴也もにこっと微笑んで勺ですくい、瓶詰めにしていくメープルが薫る。
「良かったら……」
鈴也は秤から顔をあげ、少女を見上げた。
少女は森に沈みかける紅を背後に、黒い影になっていた。彼女の耳にはめられた、金のシンプルなイヤリングだけが光っている。あの星みたいに。鈴也はドキッとして、口も開いたまま彼女を見ていた。
「今夜、流星群を共に観ないかしら」
「星の観測?」
「ええ。三年に一度、見られるの」
少女は初めて手のひらを差し出し、彼に言った。笑顔なのか、どうなのかは、店先のランタンを背にする少女なので分からなかった。
「あたしはローレシア」
囁くように言った言葉。夕時に恋の歌をうたうギター弾きや賭け事をする大人の声で囁き声に聴こえた。
向こうの少しした広場では、足に鈴をつけた踊り子たちが踊っている。タンバリンを鳴らして。
「ローレシア」
鈴也は座ったまま彼女を見上げ、一度、黄金に光るメープルシロップの勺から滴る流れを見ながら頷き、詰め終わると滑らかに揺れる瓶のなかの黄金の液体を見た。その瓶には強く夕日が映って濃く紅に光り、だんだんとその色味は暗い色に変わっていく。
彼は少女、ローレシアを見上げた。
「うん」
夕日が沈んでいくと、ランタンや蝋燭の明かりが仄かに空間を照らし始め、少女の顔もぼうっと表し始める。
「八時に、ウバレシオの広場で待ってる」
笑顔で彼女が言い、鈴也はウバレシオ、連合会の建物がある広場を思い浮かべながらもう一度頷いた。
「うん」
少女はメープルシロップの瓶とクッキーの入った布袋をバケットに入れた。
「甘い薫りは恋を思わせるの
七つの風に乗せてやってくる
七つの違った恋を乗せ」
向こうの弾き語りが歌い、声は宵に溶け込んでいく。
鈴也はウバレシオの広場で一人待っていた。
店じまいをしてすぐに馬に乗ってやってきていて、広場は闇に落ちている。
どこにも明かりは灯っておらず、人の気配も無い。ひっそりと静まり返っていた。
冷たく硬い石畳。彼は街灯を背に毛布に包まって座った。星を見上げる。軒先に円形に囲まれた空は雲ひとつなく、綺麗なものだ。
丘から見上げる満天の星とはまた景色が違う。丘ではさわさわと夜の風に楓の木々が揺れることもあれば、何の音もなく梟が森で鳴く声が響くこともあった。
少女はいつまでも広場に現れず、彼は水筒を開けてあつあつのチーズクリームスープを飲み始めた。湯気が立ち上る。
いくつもの流れ星が空に銀の線を描いていき、彼はしばらくして目を綴じた。
少し、恋心を寄せていた。
十四歳の自分と同年代ぐらいだろう少女。笑顔も、声も、自分には無い何がしかの魅力も、まっすぐ見つめてくる水色の瞳や、メープルシロップの甘い薫りににこっと微笑む可愛らしさも。毎回訪れる少女を待ちわびた。
しかし、少女は今訪れず、彼はまぶたを開いて星を見た。
「………」
複数の馬の蹄の音で彼は振り返った。鈴也の馬はそちらを見てうろうろし始め、落ち着かせる。
ランタンが灯される馬車が現れ、彼は立ち尽くしてそれを見ていた。立派な馬が三頭で綺麗な馬車を引っ張りやってきて、それが広場の星光にさらされて停まる。
扉が御者に開けられて、鈴也は息を呑んでみていた。
「………」
だが、現れたのは期待に反して、あの美しい少女では無かった。
男が現れ、その紳士は鈴也を一瞥すると顔を戻し、踵をくるっと返させた。
男も星を観測しに来たのだろうか? 鈴也は男が背後の荷台箱からアンティークの大きな望遠鏡を出したので、それを見守っていた。地面に三脚を立てて設置すると、初めてまっすぐと鈴也を見た。
「準備は整いました」
彼は男を見て、御者が動いた馬車を見た。
誰かが手をひかれて車馬から現れ、それがあの少女だったから驚いた。
「こんばんは」
「あ……こん、ばんは」
少女は美しい外套を纏っていて、皮製のブーツで降り立った。頭には筒型の帽子を乗せていて、毛布を足元に佇む鈴也は頬を染めてうつむいた。
少女のために一緒に飲もうとしていたスープの水筒を持ったまま、なにか自分がいたたまれなくなって彼は馬の手綱を持ったまま走っていっていた。
「あ! 待って!」
少女の声は背後で遠ざかっていき、馬が主人より早く走っていった。息を切らして街の路地を走って行き顔を上げた。星が通路の上に見えて、息が白くあがっていく。
情け無くも涙が乱暴に風に冷えた頬を伝っていた。身分がある女の子だったんだ。なのに自分は少女をいつか幸せに出来るだろうかと、夢に見ていたことも正直にあった。あの丘の上の家で、しあわせに過ごしたいと星を見上げながら空想に耽っていた心は自分をごまかせなかった。
ショックを受けたなんて、情けないと自分で思いながらも曲がりくねった路地を振り返った。
「………。あの子、僕のこと、みそこなったかな」
彼等を残して勝手にここまで来てしまった。
とても戻る気分になれなくて、彼はうつむいて市場へ歩いていった。
その上を、少女が意を決して誘った流星群が滑っていく。それさえも、彼の心は見上げる気力など持てなかった。
ただただ涙が流れて行くだけだった。
朝方は霧が市場を流れて行く。
包まっていた毛布から顔を出して、薄くけぶる朝焼けの薔薇色に目覚めて、小鳥の囀りを耳に満たした。
彼は毛布に包まりながら目を開け、驚いて飛び起きた。
「あ、の……」
ローレシアだった。
彼女は目を真っ赤に泣き腫らして嗚咽を静かに漏らしながら膝を曲げて真横でしゃがみ鈴也を見ていて、幻想的な霧とヴェールのゆらめく朝日に囲まれていた。露店の影は濃淡をつけて横たわり、流れて行く霧は彼女を取り囲む。
「ごめんなさい、あたし、本当に、」
しゃくりあげながら少女が泣いていて、鈴也は戸惑って彼女に毛布をかけてあげた。
「ごめん。俺こそ、元気に挨拶して一緒に流星群、見ればよかったんだよな。それなのに物怖じしたのは、俺なんだ」
まさかずっとここにいたのか、目は彼女の顔を判別できないほどむくませて目が涙で腫れてしまっていて水色の瞳が涙でうずもれていた。声も掠れてどこかがらがらで、それが愛しいと思って抱きしめたくなった。
「散歩、しようか」
彼は少女の手をにぎって服の裾で涙をぬぐってやり、静かな朝の市場を歩き始めた。
湖のほとりを二人歩き始め、水煙が流れる水面を滑る水鳥達は音もなく進んでいく。
森の上から昇り始める朝日は昨日の流星群の記憶を払拭した。
少女を岸辺の草地に小さなじゅうたんを敷いて座らせて、自分もその横に座った。朝露がきらきらと朝陽にきらめき始めて、クリスタルの粒みたいだ。
二人はずっと、何も言わずに朝陽を見つめ続けた。霧が流れて行くなか、きらめく朝露に囲まれながら。
彼は少女の横顔をそっと見た。頬が陽に染まって、水色の瞳がきらきらしている。
二人の頬を、朝陽は同等に照らす。
鈴也は丘の家に戻ってくると、馬から荷物を下ろし始めた。
メープルシロップもクッキーも全て売れて、逆に仕入れてきたクルミパンや穀物、香辛料やミルクの瓶をいつもの様に順番に下ろしていく。野営道具も下ろしていくと、馬の馬装をはずしてやって井戸から水を汲むと飲ませてやり、その後は丘に放つ。馬は草を食べに行った。
彼は小屋へ入って行き、父は森に仕事に出ているのだと分かる。
彼はテーブルに置かれた果物を無意識に転がしていた。
「帰ったのか」
「ああ」
鈴也は背後を振り返って森から戻った父を見て、彼は縄や斧を壁に掛けてから息子を振り返った。
「どうだった」
「いつもの奴は運んでおいたよ。それに全部売れた」
満足げに父は頷き笑顔で鈴也の頭をガシガシ撫でると向こうの台所スペースへ歩いていく。
「あのさ、親父」
「どうした」
「ローレシアって子と、付き合いたいんだ」
「え? はは。お前は」
ミルクを小さな瓶に詰め変えながら父は笑い、彼も手伝った。むすこにそれを任せ父は小麦粉の麻袋を積み上げていった。
「そりゃ向こうの国の姫様じゃねえか」
「えっ」
バランスを崩した瓶を抱えて鈴也は肩越しに父を見た。母が日本人の鈴也は父の金髪の背を見上げ、おかしそうに笑う父は今度は向こうに移って香辛料を椀で専用の器に分けていく。
「でも、」
昨夜、宵も深まった時間、目いっぱいのおめかしをして現れた少女を思い出す。頬紅と唇に可愛らしい色の紅も乗せた少女を見たのは初めてだった。花のように微笑んで、現れたのだ。星に彩られて綺麗だった。
それも全て朝には溶けていつものナチュラルな愛らしい顔は泣き腫らして、少年はずっとどうしたらいいのか分からずじまいだった。
父は何か落ち込んでいる息子を見ると、横に来て緑の目で顔を覗き込んだ。母親ゆずりで息子はいつも無口で大人しくシャイな所があるが、いつでも一生懸命何かに取り組む。それが恋だなんて話は初めて聞いた。ここで暮らしていると世間に疎くなるからいろいろ街に出ても戸惑うことも多いだろう。
「街で絵でもみたのか?」
「ううん。毎週、毎年メープルシロップとクッキー買ってくれる子。いつもその子が来るのうれしくてさ、昨日星見るの誘われてたのに、逃げてきた」
うつむいたまま父が入れたミルクのコップを持ってため息をついた。
「すごく大きな馬車で来てさ、召使も連れてて、それで綺麗な格好で現れて、なんか、僕、恐くなっちゃって、正直その子が許せなくて、そんな器小さい自分も情けなくて、それで、今日その子泣かせちゃって、でも……付き合ってみたいって思ったんだ。そんな立派な子が秘密で庶民の格好して毎回来てくれてさ、どんな子なんだろうって」
「………」
父は机でパンを切っていた手を止めた。
「応援してやりたいのはご尤もだが、俺は賛成できねえぞ」
「………」
鈴也はやはり、と思って顔を上げてからまた頷きながら視線を落とした。
「お前に恋してくれてたかもしれないが、それでもあっちの両親は許してくれないだろう。俺たちはここでひっそりと暮らしてきていて、身分が違うんだ」
「そうだよね……」
「お友達からは始められるだろう。何事もゆっくり噛み締めていけば、何か変わるかもしれない」
「うん」
鈴也は一度笑ってからドアから出て行った。
丘を見渡す。風が吹いてそよそよとそよいでいく。馬が元気に走っていた。
また五日間を過ごし、週末になって街に出かけることになった。
慣れた手つきで準備をして馬に乗り込む。親戚の人たちに渡すものも携えて森を進んでいった。
五日間はどこか上の空で、何か作業をするにもどこかに心がいっていた。
延々と森を歩かせていき、山を越えて、森と湖に囲まれたあの街が見えてくる。
湖がお堀のようになっている街は島のようでもあって、ドーナツ型の湖には森の木々をぐるりと映していた。空も。
馬から下りて、しばらくは街を見渡した。
遥か向こうを見る。
向こうにある国は湖に囲まれたあの村とは違って、城が森に囲まれた崖の上に建てられているほかは、街と言う街や村があるわけではなく、広範囲にわたる林や森に稀に小屋が転々と点在していた。国というよりは地主という地位で、もっと北側にある城下町を持つ城の主である王がその地主の兄だった。
ローレシアはその国王の弟が父であって、森に囲まれた国の土地を任された地主の娘ということになる。北の城下町を持つ城は立派でエレガントだが、森の崖に立つ城は飾り気の無い四角い要塞めいた建物で、何本かビリジアン色に金で鷲が刺繍された旗がはためいている。
鈴也は馬の方向を変えて、そちらへ行ってみることにした。そこまで時間はかかりはしない距離だった。
馬車が走っていく姿を木々の先に見た。
鈴也は馬を止めて目で追った。あの立派な馬車だ。向こうに小屋があって、そこで馬車が停まると、綺麗な格好をしたローレシアが御者に促されて出てきた。
小屋に入っていくと、しばらくしてあの望遠鏡の男が現れて、庶民の服に着替えたローレシアが出てきた。あの小屋で毎朝着替えて市場に来ていたのだ。
出てきたときには馬車から降りてきたときの波打つ腰までの金髪は綺麗な三つ編みにあまれて白い頭きんから流れていた。
少女はきょろついていて、あたりの森の様子を伺っている。鈴也は潅木の後ろに隠れた。
少女はあの男と共に違う馬に乗り、森を進んでいった。
「………」
鈴也はどうしたらいいのか分からなくなり、馬車が去っていった小屋を見た。きっと、また日曜日の夜に馬車が彼女を迎えにやってきて、あの要塞みたいな城に戻っていくのだろう。あの保護者のような男はもしかしたら物陰からいつも護衛として市場で買い物をする姫を見守っていたのかもしれない。踊り子達の向こう側や、立ち上るお香の先から。
今日、確認するのだ。いろいろなことを。
鈴也は馬を駆けさせて、崖の上に現れた城を森から見上げた。見えてくる頃になると、稀に小屋が森の間に見え始める。その小屋というのは、どれも城下町のある街の貴族達が所有する別荘ばかりで、時々森男たちの小さな小屋もあった。この一帯の森や林は彼らの避暑地ということにもなり、それらをローレシアの家系が土地を貸していた。
鈴也は森を進むごとにちらほらと木々に囲まれ現れる別荘を見ながら進んで行き、崖から城を見上げた。どこかそれはカラス達が群がるせいもあるのか、威圧感を覚える。あの柔らかな笑顔の少女がうかばないほど。
鈴也は馬を引き返させ、森を戻っていった。
市場につくと、彼は遅めの支度を始める。露店の用意が済むころにはどこも落ち着き始めていた。
「………」
少女が小舟で現れた。
ずっと鈴也は彼女がここまで歩いてくるのを見ていた。
いつも無口の鈴也は他の顔なじみの店主たちとめったに会話を交わすことも少なく、それでもいつもの隣の露店の店主は鈴也の腕を肘で小突いてきた。鈴也はそのおじさんの顔を見上げた。
「昨日は泣かせてたからな。罪な坊やだねえ見かけによらず」
冗談めかして言ってくるので、鈴也は頬を染めてうつむいた。
少女が笑顔でやってくると、彼もはにかんでいつもの差し出された瓶にメープルシロップを注いでいく。彼女の持ってくる袋にクッキーを入れて、意を決して彼は顔を上げた。
「昼に会わないか。話をしよう。ケヤキの木がある広場で」
隣の露店の主人が「わーお」とおどけて、その背を鈴也が咳払いして見てから少女を見た。
「あの、駄目、かな」
少女はずっと鈴也を見ていたのを、にっこりと微笑んで頷いた。
そうとなれば昼まで彼はどうやら浮かれていた。他のお客さんはいつもと違う雰囲気のメープル売りに微笑んで去っていき、隣の店主はおかしげに笑ったりした。
昼にもなれば早々に出かけていった。
鈴也が大きなケヤキのある広場に来ると、すでにローレシアはその木の下にいた。彼は走って行き、彼女に露店で買った白い花を差し出した。それはほんのりとピンクに淡く染まっていて、ほのかに薫りがして少女のようだった。
「レイヤ」
ローレシアはうれしくて微笑み、頬を染めた。
あれから秋に限らず、春も夏も二人は会うようになっていた。一緒に野原を馬で走らせたり、森で鳥の鳴き声の正体を言い合ったり、共に星を見上げたりしながら五年が経過していた。
少女は美しい女性に成長し、彼も立派な青年に成長していた。
彼女は時々丘の上の上に来て共にメープルの木から樹液をとる手伝いをしたし、ヤギを飼い始めればその乳を搾る手伝いやチーズつくりを共にしたりもした。
だが、それが続いたのは、ローレシアに当てられた許婚が彼女を迎えにやってくるまでだった。
「………」
鈴也は草原を一人、見つめていた。
「昨日ね、許婚がついにお城に来たの。父に挨拶をしに……あたしを迎えに、やってきたの」
昨日の夜、夕日を共に見たローレシアは夜の星がきらめくまでずっと鈴也とともにいた。
その言葉を思い出す。
「だから、今日は、さようならの日なの……」
ぽつりぽつりと言ったローレシアの声が、星をまるで鉄琴のスティックで鳴らすような声で言うので、星が泣いている声にも聴こえた。
今、鈴也は一人草原を見渡し、だただた風に吹かれた……。
父が背後にやってくると、気落ちする彼の肩を元気付けに叩いてやった。
「俺、しばらくはきっと誰の事も好きになれないと思う」
「そっか」
父はぽんぽんと頭を叩いてやり、一緒に草原を見渡した。
「お前らしくいればまた誰か見つかるさ。共に笑いあいたいと思えば」
「うん」
鈴也は頷き、風がさらっていく。きっと、ずっとローレシアと笑い合えた時間は忘れない……。
楓の葉が舞って行く。水色の空を、駆けていく……。
鈴也は十歳の息子が急いで帰って来たので振り返った。ローレシアを失って五年後、知り合った女性と結婚したのは父が縁を取り持ったのだった。
鈴也は父と共に市場でその秋もシロップを売り出しに来たのだが、小舟から女性が馬を下ろした時にその馬が暴れて市場の路を逃げ出して行ってしまい、じゃじゃ馬を乗りこなす父が急いで走って行き縄で捕らえてくれたのだ。湖に落ちた女性を救い出した鈴也と馬を掴まれてくれた父はその後彼女と懇意になり、家庭事情を聴けば家に看病をする人がいて大変だというのだ。その事で鈴也はその後も彼女の実家まで助けに向かい、そのうち父が結婚をしてはどうかと言ってくれた。
それまでずっとローレシアとの愛を忘れられなかった鈴也は段々と彼女以外の女性に惹かれていくことに困惑しつつも、いつまでも一人でいさせたくないと父が後押ししてくれたのだった。
今では生まれた息子は元気に育ち、父は今も健康に森へ仕事に出かけ、看病の怪もあって妻の家族の怪我も完治していた。
息子の後に妻ラナも入って来ておかしそうに微笑んで言った。
「何かね、可愛い子と友達になったってよろこんでいるの」
ラナは息子ハンソンと今日は週に一度の食材を買いに山を越え市場へ行ったのだった。
「へえ……可愛い子を」
鈴也はあの夕陽に輝いたローレシアの姿を思い出した。微笑む少女。お香の焚かれる白い煙や、彩りある布が全て夕陽でトーンを変えていた。いななくロバ、綺麗な細工が輝く硝子瓶たち、囲まれて彼女が市場を進んできた。その先では炎を囲って美女達は民族の踊りを踊っていて。
妻ラナは全く対照的な健康的な美丈夫だった。看病疲れも一切見せずに湖から救い出したときも大柄に笑い、湖面にも空にも広がる青空の様な女性だ。快活な部分はよく父親とも合っている。辛いことがあっても見せずに口数の少ない鈴也によく元気をくれた。
二人ともそれぞれ違った魅力を持っていた。どちらにも惹かれていた。
「ハンソン。どんな子だったんだ?」
「小麦粉の店で一緒に話して、それで向こうの店で買ったっていうパンをくれたんだ。長い金髪を細かい三つ編みにした子だよ。歌が上手で、笑顔が可愛いんだ」
「ね。すっかり目が恋してるでしょ? おかしかったのよ。いつもみたいに喋らずに黙り込んで口をぽかぽかさせちゃってこの子ったら!」
「ママ言わないでよ!」
ハンソンは真っ赤になっておかしくて笑う母親を見てばたばたたたいた。
「お友達できて良かったな」
「付き合いたいんだ」
「ませた子!」
ハンソンは笑顔で走って行った。
開けられたドアの向こうは草原が風に揺られている。小さな少年の背ははしゃいで駆け回った。恋を知ったあの時に、似ていて……。
「ノスタルジックな目をしてる。きらきらしてるわよ」
意地悪っぽく微笑んでラナが小突いてきて、鈴也が姫との恋愛を話で知っている妻なので、鈴也は焦って瞬きした。
「もしあの子の好きになった子がお姫様だったなら、応援できるといいって思うわ。運命の女神様はきっと見てくれていたのよ。あたしにあなたと巡り合せてくれて、乗り越えることが出来た。今度はハンソンがしあわせになる番ね」
「ああ。僕も君と出会えて良かった」
ローレシアはどうだろうか? 今、しあわせになれただろうか……。子供の頃の恋愛と大人になってからの恋愛は違う。でも、大人になって自分で見つけ出せることも多いのだ。しあわせの方法を。記憶を大切にしながらも。
風が吹く。楓の黄緑の葉が青空を走っていく……。
ハンソンの笑い声がどこまでも響いた
藤の薫り
何時だって目まぐるしく乱れるのよ……。
長い髪も疎かにして、憎い位に甘い薫りを充たさせて、それで、そして、泣く。貴女はいつでも崩れるのじゃない。最後には……。
白い窓枠から揺れる藤棚の淡い房は疲れ切った二人の姿を投影している様。白い光りさえゆらゆらとして、解らせて来るのよ。貴女がどんなに本当はじれったい位に愛を真っ直ぐに表現出来ないのかって事。白いリネンに広げる髪を弄んで、まるで余裕を持った風に微笑むけれど。
窓を開け放って、今に出て行こうって言うんでしょう。窮屈だから。春の甘い風に乗って藤の花の暖簾を越えて、頬を掠める花に撫でさせといて、微笑んで逃げようって言うのでしょう。
でも、逃がさない……私の愛は、藤蔓の様に固く絡まり、離さない蛇と同じ。一度私に絡みついたら、既にすぐそこの壁を這う茨の棘で磔にされたも同じ。離さない……どんなに貴女が泣いて叫んで春に狂おうが、愛に狂ってる方が、マシ……じゃない……? 愛に暮れる人形みたく。
サンテーヌの異常なまでの愛情に気付いたのは、出会ってすぐの時からだった。友人伝いでささやかに開いた自宅でのパーティーに彼女はいて、白い円卓はまるで彼女の独壇場だった。淡い薔薇の花を女にした様な人だった。それでいて声は森を通り抜ける風の様に低く、あの目がまるで毒を流し込まれたかの様にエメラルド色に光り、強烈な眼力であたしを見た。
彼女の泉の様な肌にはよく深い色の金髪が似合う。その金をのべたかの様な髪、金糸みたいに細やかで、つい顔を近づけて見てしまっていた。自分の影が彼女の髪にも映る程に。そして薫った、初めて感じたあの甘い薫り。香水なのか、薔薇なのか、他の花なのか、見当さえつかない薫りを漂わせたサンテーヌ。
サンテーヌはその時面前であたしの手首を掴み真っ直ぐとあたしを見て、その瞬間恐れを感じて手を振りほどいて逃げ出した。何故なら、一瞬で嗅ぎ取ったからだった。まるで回る回る眼力の瞳はその奥に無限の暗い暗い宇宙を渦巻かせて回り、瞬時に首元へと噛み付くと思われる殺気……いいえ。絶対に手に入れるという欲望が巡っていたのだから。
愛情などというものはそういうもの。一度手に入れると思ったら何をしてでも手にいれる。一種子供じみた自我が欲を充たそうと自らの欲望の壷をいっぱいにしようとする。眩く溢れ出ても構わずに感情をつぎ込むのだ。それまであたしが一切を避けて通って来たそれらの情念を。それに生きる事を。
ソフィアが私の髪に指を通している間は、藤を掲げ一つ一つ、小さな薄紫色の花を彼女の短い黒髪に埋め込ませている。長い爪は時に彼女の頭皮を故意に食い込ませ、ジュエリーの様に黒髪を装飾する無数の藤の小花が一粒、二粒、私の上に落ちてくる。その時薫る。微かに、甘い、甘い藤の薫り。
私は背を上に肘を付き、ソフィアを見る。
「ね」
まるで彼女が爪を持って硝子のブイが縄で海に繋がれて波にも風にも動けない拘束を受けているかの様に、弱弱しく私の顔を上目で見つめて応える。
「ん?」
「ソフィアは、以前の恋した人はどの様な方だったの?」
「………」
彼女は視線を落とし、首を振ってからクッションに背をつけ上目でにっと微笑んだ。私が嫉妬をする事を見越してした微笑に見えたけれど、そんなのくらい、分かるわ。ちょっと意地悪に聞いてみたかっただけ。
「サンテーヌの知り得ない人」
「………」
私は瞼を伏せ気味に見てついと顎を反らし、背を下に彼女を横目で見る。
あたしは自室で背後を振り返り、充分にサンテーヌがいない事を確認する。
いずれ、分かっていた。この関係が今に下僕と従わせてくる者の関係へと変わって来るのだろう事が。
独占欲は時に素直にあたしに牙を剥け、蔓で心を縛り付けて来る。
解っていたのに惹きつけられたのはあたし。あの一瞬の情熱的な熱に囚われて、心が彼女を想い離さなくして、あの薫りの正体さえも突き止めたくなった。それが身も凍るほど冷たい毒の様な眼差しだったのだとしても。それを知って、踏み切らせたのだから。それが毒と知るならばどんな毒なのかを知りたくなり、味わって、痺れを感じて、体が麻痺に似た感覚の恋に陥ってでも、愛したいと切に思ったのだから。
それも、もう限界。
カバンを出す。いつか機会を狙って逃げ出す様に。
その協力者はいた。
サンテーヌを崇拝し愛している男、サンテーヌの旦那の秘書であるレヴィレーイが。
でもサンテーヌは男とは絶対に浮気も不倫も何もしない。だからって、何故あたしが狙われたのかは解らなかった。有り余るサンテーヌの情念を充たしうるとでも思われたのだろうけれど。
あたしがこの舘を出る事を秘書のレヴィレーイは大いに賛成して協力を惜しまないと言った。報われないっていうのに。それを言っても、一向に構わないと言う。あとは勝手にするだろう。
夫のマルクスは七十八の年齢で、十年前に花園で見初められ私の三十の年齢に婚姻を結んだ。
元々隣の地方で広大な花園を持つ屋敷を代々受け継いでいた私の父はそのマルクスとは見知った仲だったようで、娘の私を気に入ってくれたのならとこちらの意見など構うことなく嫁がせた。
マルクスは有名なオルゴールコレクターでありコレクションハウスを持ち、そしてオークションハウスのオーナーでもある。
彼は私が何より藤の花を愛する事を知ると、藤をモチーフとした柱型オルゴールを製作させ結婚記念に贈ってくれ、そして立派な藤棚も自室の窓外に誂えてくれた。それは時期には見事な美しさを見せ、毎年私の心を魅了してくれた。
オルゴールの円盤は全て私達の思い出の曲ばかりを揃えてくれた。毎年、毎シーズン盤面は増えて。
それでも今は、その藤のゆらめきのホールに広がる光と影を共に見つめるのはソフィア。
ソフィアの心が、私の事を既に避けていること、分かっている。
「サンテーヌ」
マルクスの声がする。よく通る声。いつでも颯爽と進み紳士ジャケットの背は私を探し、そして白い手袋をすっとはずしながらホールを来ては鋭い横顔が私を見つければまるで柱の横から飼い猫でも現れたかの様に笑顔をほころばせる。随分背の高い人で私の頬に手を当て、一度引き寄せ藤の薫りを鼻腔に充たさせる。
彼は充分素敵な方だと分かっている。けれど……。
マルクスは時に陰る私の目元に当に気づいていても、知らぬ顔をする。
「ソフィア」
いたずらっ子な男の子がそのまま大きくなったという感じの声は、マルクス様の子息であり前妻カトレア様との間の次男ディスマルクだった。
サンテーヌと同じでもう四十の年齢なのに、茶目っ気ばかりで今も蔦の這う塀の上から顔腕を出して笑顔で見てきていて、あたしが逃げる為に箱庭に用意している荷物を見ている。
「サンテーヌに知らせたら怒るか?」
「それをしたら、その首筋に噛み付いてやるわ」
彼は塀から身軽に飛び立つとここまで来た。顔はマルクス様と同じく掘りが整っているのに頭の方は何処へ螺子を飛ばしてきたのか、いつでもへらへら笑っていた。でも、きっと本来の顔はこんな調子の良い適当な物では無いのだろう。怜悧で、冷たいのかもしれない。分からない。あたしが二十になったばかりの世間知らずだから優しく接して油断させて来ているだけで。
「相変わらず乙女と思えない勇ましさだ」
膝を突いて恭しくお辞儀などしてきて馬鹿にしてくるのね。
「馬鹿にしないで」
ディスマルクはウインクの上目で見てきてすっと立ち上がり、円卓の椅子に座って脚を組んであたしと荷物を見た。
「私が君を逃がしてあげよう」
「………」
今まで彼史上聴いたことも無い様な大人びた? 冷静な声音で言い、あたしは瞬きをして荷造りから振り向いた。そこにはマルクス様も掠める眼差しがあり、背筋が伸びて口を噤む。
「サンテーヌは蛇女さ。五年前の女で諦めたと思えば、君のような若い生き血を吸いたがる」
「魔女みたいに言うのね。あなたの美しき継母よ」
「さあ、彼女を一人の安全な女性として見れた試しは無い」
あたしはしばらくディスマルクを見ていたけれど、また荷造りに戻った。ただ、黙々と。
あの子が今にこの花の牢獄から抜け出す事は感じているわ。
ふと鏡に映るソフィアの顔は私がマルクスを前にする顔より翳り、きっと媚薬さえ当に体は慣れている。
再び調合しなおす愛の薬は、私だけを虜にしているだけかもしれないけれど……。
彼女の自室へ来て、ノックをする。
「………」
石の通路に開いたアーチ柄の間口からは明るい青の夜。黄色の上限の月が、挙がってる。月明かりの路は足元を浚う波の様でしばらくはその光りを見つめていた。
虚ろにドアを見つめる。
「………」
ドアを開け、空虚と化した室内を見た。黒いカーテンはそよそよ揺れて、寝台には黒く丸いクッション一つと、白いシルク。他は、何も無い石の部屋。
「ソフィア……。ね」
ゆっくり見回し、頬を涙が伝って進んだ。
「ソフィア……?」
子供に言い聞かせる様に優しく探す、けれど、私は私の心をだた探していただけなのかもしれない。
五年前も、同じ……。無くしたまるで少女の様な心を探すためにあの子の心を縫い付けておきたくて、繋げておいた薫りの糸も途切れれば子を失った母親の様に追い惑う。霧の内に探すかの様に……私は、ソフィアを愛していなかったの? 時々、全てが分からなくなるの。彼女のことは分かるのに、自分の心は。
結局、私は私のことだけ愛してたみたい……。
室内に立ち尽くし、カーテンの外の庭を見て声に出して泣いていた……。
サンテーヌは怒り狂っているかしら。鏡を割ったり、窓を割ったり、ワイングラスを割ったり、オルゴールの微かな旋律が美しく鳴り止まない舘だったけど、そのオルゴールだけは傷つけずに、自身の心をずたずたに傷つけるが為にあたしの事を怒り狂って叫んでいるのかもしれない。
ディスマルクは振り返りながら馬を走らせ、あたしは落ちない様にしがみついていた。
「きっとレヴィレーイが今頃彼女のお守りをしてくれてるわよ」
「言い聞かせか」
「酷いわね。共犯者よ」
「ああ」
森を越えたあたりで馬の足を緩めてあたしも背後を振り返った。
「………」
………。
何故。だろう……。
頬に涙が流れていた。サンテーヌの笑顔が浮かんだ。夜の森に。彼女が小鳥と合わせて唄ったり、庭のカウチにゆったり横になっては花びらを噴水から掬い上げたり、夜は静かに一人ハープを爪弾いたり、そんな時は、全く人格がそれぞれに違った。まるで星の輝きの様にささやかな事もあれば、満月の明かりのように威圧感がある事もあった。時に掛け替えが無いと感じる程に愛してくれる事もあったけれど、耐えることなどできないほどの空蝉を響かせる心は苦しませる。
あの藤の花の様に甘いだけではすまされないサンテーヌの全てが。
「………」
あたしはふと、何かが落ちた肩を見た。
「………」
藤の小さな花。まだ髪に絡まっていたみたいで、彼女の無邪気な笑顔が浮かんだ。
でも、分かってる。もう、サンテーヌの薫りに惑わされないって……。
夜桜の薫り
星を見ようと思い、私は夜路を歩いたのでした。
夜気は優しくこの身を包む込み、心を透明に和ませる。静かな夜ですから、今にオカリナや草笛でも吹く小人でも現われやしないかと思うほど。
ぼんやりと、闇をあちらの方で灯りが照らしております。周りの樹木の存在をそこだけうっすらと色を帯びて現している
る。暗がりに佇む並木はシルエットとしてそこには在り、少しの風に揺れている。
街路灯が灯る場所までやってくると、私は既に甘い薫りに包まれておりました。どこまでも女性らしくて乙女の薫りは夢を乗せてやってくる花弁の世界みたいで、素敵でした。
夜桜は二種類……。うっすらと色付いたソメイヨシノは上品な薫り。そして、白い種類オオシマザクラはとっても甘い薫りをさせる。時季は少し違いますのよ。白い方が先に咲いて、その白い並木を通ればとても柔らかな薫りが降ってきて通り過ぎる。まるで少女の様な薫りがする。ソメイヨシノはどこか大人めいた芯のある薫りをさせて威厳があります。
今の季節は、白い方が花弁と若い緑の葉を交互に顔を覗かせる時季で、ソメイヨシノが満開に花開いていまして、夜の今の時刻だって、その両方の薫りが宵の気候に広がって混ざり合って鼻腔を満たして体を包む。
しばらく、私はその場から夜桜の並木に佇んで、そして見上げていました。花弁は本当に細やかに木枝を包んで繊細に顔を八方へ向ける花鞠の様で、風が吹けばさらさらと闇に花弁を舞わせ流れて行きます。
「………」
まるで、それは恋をする人の心にも思えまして、流れ行く愛情みたい。虚ろになることは無いけれど、薫りが寂しさなんぞは和らげてくれて、そして夜路に寄り合ってたまっている花弁を見ると、まだ若い色の乙女が地面にそっと頬を寄せているみたいで、紫の着物の振袖も鼻緒の可愛い草履の足も降り積もる花弁が飾っていくみたい。それが、花の精に見えて。
艶のある白い横縞の入る堂々たる幹の足元にゆっくりと眠る少女の様で。彼女は今眠るうちにも、どんなにか幻想的な夢を見ているのでしょうか。もしかしたら、秘密の月と一緒に扇子を振り舞っているのかもしれません。光臨に包まれて、眠って夢見る蝶と共に。その微笑みが見えるかのよう。
私はふっと目を覚まし、夜を見た。
夜桜の影の先に、星が光っておりました。
星にも薫りがあるのだろうかと錯覚するぐらいに、星と薫りを愉しみました。
昼時、小川にくるくる流れる花弁を見つめていると、小さな野鳥が囀りながら彩り飛んでいく。透明な水面は細かく光って鮮やかな苔をも光らせ、そしてその緑を花弁が飾っています。
春の小鳥が小川で首をかしげて水面をしていて、そしてチュチュッと鳴いて飛んでいきます。
窓枠に着物の腕をかけて、少しの間、お茶を愉しみながら春爛漫を満喫しています。土手の上に枝垂れる桜は今にも花を乗せた枝が水面につきそうで、咲き乱れる様子も映しています。
近くの和洋菓子店の美味しいチーズケーキはお茶もよく合って、ここまで陽気に吹かれてくる花の薫りも合いまると何ともいえない幸福感に満たされます。
ここから見えるのは見事な丸い八重の花をつける枝垂れ桜で、白に近い淡い色が可愛らしい。細い枝に美顔を並べて咲いている。チーズケーキの横にも桜の花が添えられております。それは、その町屋風の素敵なお店の横に咲いた紅色と白色どちらの色もつける枝垂れ桜のもので、その横には小川の土手に咲く色と同じ淡い桜色の枝垂れ桜が咲いています。
ついつい、いつでも通りすがる毎にそのお花の薫りを愉しむんですけれど、そのお店の丸い顔の猫がいつでも幹の向こうに座ってこちらを見ているんです。三匹猫はいて、あっちにいったりこっちにいったりと転がったり跳ねたりをして、光のなかで春を遊んでいて可愛らしい。
小川にも猫が二匹いるんですよ。若い猫みたいで、お店の猫のようにがっしりとはしていないのですけれど、その代わりとても美形でしなやかな猫達で、いつでも体を寄せ合ってごろごろしている。小鳥が現れると機敏に反応しているんですけれど、目を光らせています。今は木陰で葉をつけて黄色い花が枝垂れる下の草地でそろってお昼ねしているのが見えます。
「おや。それは藤伝のケーキだね。私にもあるのかい」
「まあ、先生」
私は慌てて膝を向け、彼を見上げました。彼は私の料理の先生で、日本料亭でも腕をふるって来たお方。私の恋するお方です。けれど……彼には素敵な恋のお方がいるのでまさかの心内など明かせやしない。それがどうもせつなくって、せつなくって……。
まさか本日いらっしゃるだなんて。夜桜と星にかけた願いが叶ったかしら。
「私、五個も六個もいただくものだから」
彼の前ではどうしようもない事を言ってしまう私ですけれど、彼はいつでも受け止めてくださって、「どれどれ、それじゃあ、狂子さんのケーキをいただいてしまおうかな」と全て平らげていく勢いでお茶目に笑うんです。
「深子さんにも、持って行ってさしあげて……」
それを小さなお櫃に入れて、花も一枝。
「………」
心を偽る指先が花を添えたとき、幾重にも重なる花弁のように心もめくりめく変わっていけば良いのにと思います。
「昨夜、夜桜を愉しみましてね。薫りも美しくって、風に舞う花弁の奇麗だったこと」
蓋を閉じて、春色と蓬色の風呂敷に包んで顔を上げました。彼は窓から見えるあの桜を見ておりました。光り輝くお外は四季の美を誇っており、彼の着物の肩に気づいて目を向けますと、花弁が乗っていてくすりと微笑みました。
夜の舞う桜が恋を思う心のように彷徨い舞っていくというのなら、彼の肩に届いた花弁は夜桜を見上げた私の思いが届いたのでしょうかと、勝手に可笑しげに思ってしまいます。
彼は明るい日差しに舞い降る花弁からこちらを見ました。
「どうもありがとう。深子も宵の深まった頃、一人外へ出掛けてってね。貴女と同様に夜桜でも楽しみにいったらしい。少し歩くとあの辺りは苑があるだろう。柳と八重桜が見事な」
「ええ。椿と池もあるところでございますでしょ。随分と立派な苑で、また揃って御茶屋で楽しみながら眺めたく思います」
「近い日には」
箱をお渡しして、彼に尋ねました。
「本日はどうなさって」
彼はお茶を傾け、共にチーズケーキに食指を進めながら頷きました。
「実は、私の新しい生徒さんに狂子さんと同じ年齢の子がいてね。もしあなたがよろしければ、紹介をしようと思う」
「ま! 先生ったら!」
またでございます。露ともこちらの気持ちも知らないもんだから、いつでも先生は、「知り合いの画家で若い子がいてね、狂子さんと感性が同調しやしないかと彼を紹介したい」だとか、「声楽を習う学生さんが素敵なんだよ。どうだい、付き合ってみては」とか、「美術館で素晴らしい話を聞かせてくれた方がいたよ。今度紹介したい」だなんておっしゃって、きっと私の気持ちを察してるんではないかしらって思ってしまう。
「じゃあ、お会いして見ましょうかしら」
毎回お受けはするものの、やっぱり心にわだかまりがあって話している時だってちらちらと日差しの先には彼の姿が幻で浮かんでしまうのですよ。
彼は小一時間もすると帰ってしまって、私は日の傾き始めた窓の外からの景色を眺めました。
先生は桜の枝垂れる小川の並木を歩いていかれて、その羽織の肩にまた花弁が流れて行きます。
窓辺にいたときも、花の薫りに満たされて彼には雅な花がよく似合う。思いながら三個目のチーズケーキを頬張ってうっとりしておりました。
「………」
彼があの街路灯のある向こうの並木へ差し掛かったときの事です。
ソメイヨシノの樹齢を重ねた見事な木と、それに白い花弁と緑の葉をつけるオオシマザクラの並木の方へ向かわれた背中に白と薄桜色の花弁が舞って行き、信じられないもう一つの背中を見ました。
夜桜に見たあの花弁の床に眠る精霊です。紫の着物の狭い背をして、江戸傘をくるくる回して光と影を滑らせている……。
うっすらとこちらを見ると、彼女は遠くから私に微笑み遥か向こうからふうっと掌の花びらを吹きこちらへあの甘く夢のような薫りを届けて幻覚か、なんなのか、私を花弁にそっと包ませる。
先生の背はチーズケーキの入ったお櫃の風呂敷を持ったまま歩いていくと、ふとこちらに薫りと花弁が届いたときに立ち止まってソメイヨシノを見上げていて、悪戯に微笑む精霊には気づいて無いみたい。くるくると江戸傘が彩って、ころころと笑っているみたい。
私は急いで草履をはいて駆け出しました。
光る小川の横を走っていき、小鳥たちが飛んで行き、雛罌粟(ひなげし)が路の端で揺れていて、つくしが揺れている。そして小川のメダカは光りと苔と藻の先に泳いでいる。
「どうしたんだい。そんなに慌てて」
驚いた先生が私を見ては、舞い降る桜の花弁が彼を木漏れ日と共に包みます。彼の背後にも並木は続いてうららかで、なのに、彼ときたら私にチーズケーキの箱を差し出すんです。
「もっと食べたいならほら、ふふ。どうぞ」
「ま! 先生ったら」
頬を明らめてから彼は冗談めいて微笑んでから見渡しました。
淡い白水色の空は鏡のようで、でも本当淡くって、不思議なほどに見上げ続けてしまいます。オオシマザクラの白い花弁がよく映えて。
精霊はまるで私の可笑しな動作でも見ているようにくすくす微笑み、昨夜の寂しげな花弁が掠めていった眠る横顔は掠めずに、きっと、私の心を移していたのだと思い当たります。
「この先までお送りしようと思って」
照れながら言い、そして歩き出しました。
きっと、この淡い恋心は花弁の舞う様に舞っては、次の季節を待つこと無く、諦めざるをえないのだと思うのです。
彼の笑顔を見ることが出来るのならば、それはそれでかまわないのです……こうやっている時間が、これからも続くのですから……。
幻のような精霊は、そんな私の心さえも見透かすのか、どこか大人めいて私を見つめてきては、色付く風に紛れて包まれていきます。
そして、私はこの陽気を踊る蝶の様にふらふらと彼の横をついて歩いていったのでした。
帰り路は夕暮れに差し掛かり、宵の陽は色を増して眩い瑪瑙の色。
春の夕時を様々な花を透かしてグラデーションに優しく空を染めています。どこまでも優しげで、見惚れてしまうのです。
「………」
枝垂れる並木の向こうに沈んでいく夕日。町屋の品格ある瓦を照らして。
涙が流れていました。
ただただ、涙が流れていました……。風の凪いだ夕暮れ時の花弁は舞うことは無く、心はただ一人、ここに留まったまま……。
宵の風が癒してくれましょうか。精霊はまた笑い飛ばしてくれるでしょうか……。
強い光りを放って沈んでいく。シルエットになっていく花の毬達。背後を走っていく自転車のちゃりちゃりする音。猫が愛を探し求める歌声。どこかしら、時が止まってるのは、私だけの気がして……。
くっきりと頬を夕色と透明な花毬の陰で照らされたまま、光が滑っていく。心を、恋を、心を。足元に渦巻く花弁と、落ちた涙を。
月の薫り 柔らかな花の薫り
草原。
乙女達は満月を仰ぎ見る。
草は柔らかく彼女達の素足を撫でていく。
風は緩く吹き、草原を金の光りで撫でていく。
さらさらと、さわさわと。
花。
彼女達は月の唄を捧げながら回転して称える。
柔らかな春の花たちが宙を舞う。
祈りを捧げながら。
月夜に晒した花の露を集めた精水を振る。
甘い花の薫り。
いろいろな種類の花の。
黄金の満月は強大な力を精神に巡らせる。
天……
風……
緑……
水……
大地……
五つの力を得て自然へと帰化させる。
地球を取り巻く風。
鮮やかで深い緑の森。
たゆまぬ流れ続ける水脈。
肥沃の大地。
地球を取り巻く天空。
全ては自然神様の懐に巡る。
黄金の満月に乙女達の捧げる花。
純潔な乙女達の祈りと、月の魔力と。
自然世界へ感謝を捧げて。
地球の美しさに感謝を捧げて。
髪を翻して月に舞う。
金の杯に夜露と朝露を。
月が水面に揺らめく。
森林からの潤った風。
山から響く動物達の声。
クリスタルと、ムーンストーンを乙女の額に当てる。
唇に。
両肩に。
鳩尾に。
腹部に。
両手首に。
腰に。
両膝に。
両足の裏に。
体内に巡る力を自然界へと捧げるために。
調律。
自然の調律。
緑の地球の。
ペンタグラムのペンダントを月に掲げる。
その中央に黄金の満月は揺れる。
確固とした月光を放つ。強く。
天と、風と、緑と、水と、大地の、自然の力を地球の源に回復させる。
緑の世界を。
森林の神を称える。
自然の神を称える。
地球の神を称える。
水と大地と風を司る神を称える。
美しい地球の力を称える。
乙女達の舞いは祈りであり、自然賛美の宴。
月の女神の降臨と、地球の神の織り成す宴を。
精神の安静と、安泰と、平安と、安らぎと、和をもって。
自然神へと感謝します。
クリスタルを鳴らす。
とても美しく透明な音が響き渡る。
心にも、身体にも。
精神がおちていくかの様に。
キャンドルと灯し、夜露を滴らせる花で額を撫でる。
甘い、きよらかにして品のある花の薫りは鼻腔を掠める。
満月がキャンドルの灯火の先に揺れている。
五つの力を掌に。
手を取り合って円陣を。
月の唄を捧げる。
青い地球の永続を。
月桂樹の葉。
まぶたをとざして。
目を開いて。
自然の神へと感謝を捧げる。
自然崇拝の賛美を唄にして捧げる。
クレマチスの薫り
愛の瞑想……
愛の……渦
彼女はクレマチスの薫りを、アーマンディーの薫りを愛でてたゆたう。
あの蔓の延びていく先にある星は満天。クレマチスの鋭い影は、まるで星座に取り込まれた歯車に回転するようだ。
草地に寝転がっていた彼女は身を起こし、こちらを海を称えた色の瞳で見つめ微笑んだ。
僕は心持ち心臓が高鳴り、視線を手元へそらさせる。星影が降る手元を。
透き通る声で唄う彼女は、僕の心を視線を越えて聴覚からも魅了する。長く地面に渦巻く金髪にも今に蔓がはびこり動けなくさせてしまえば、僕はここから逃げ出して、そして彼女のいないところで悉く叫べるのだろう。愛を、この心を、何に罪を感じることも無く。だが、それさえもしたくない、離れたくも無いと思う苦しさは、しあわせでもあった。
この口を滑らせるのはいつでも落ち着きの無いため息ばかりで、彼女の様には饒舌に唄を囀ることもできない。
また再び彼女の横顔を見つめた。今に月が望めば、さらに強く彼女を照らしつけるだろう。眩く、きよく。
朝には横に彼女は眠ってはいなかった。
白いヴェール天蓋の先を見る。フレンチ窓からは白い朝日がさんさんと射し込み、眩しくてしばらくぼうっとしていた。
寝台から出ると歩き出し、丘を見る。
「ヘレナ」
彼女が朝露に光る丘を、歩いていた。
手に白い野花を下げ、透き通る白い衣で歩いている。花冠を乗せ、まるで軽やかに踊る光りの女神のようだった。
しばらく、見つめてしまっていた。
裸足であるく彼女の姿は、白石の東屋へ進んでいく。
また瞑想を始めるのだろう。時々僕の横から静かに立ち去り、行っている。
僕は瞑想をしない。彼女のことを考えていることこそが僕のしあわせなのであって、ほかに考えを無になどしたくはないからだった。その話をすると、よく彼女は可笑しそうにくすくすと笑った。
彼女が瞑想を行うとどれほどか時間が経過するので、そのあたりにあわせてハーブティーを淹れるために庭に出てハーブを採取してくることにする。籠を持って。
舘に囲まれた中庭に来る。ここにはモンタナクレマチスがエレガントな鉄の柵に蔓を伸ばしていて、他にも数多くの薔薇やジャスミン、そして百合の花が中庭を彩っている。草木やハーブなども豊富だ。
僕はクレマチスのところへ来ると、それに囲まれて一度回って見回し、そして切り抜かれた空を見上げた。
「愛の渦……」
彼女の唄。いつでも僕の感覚を魅了してやまない、海の細波のような、どこまでも深い深い感覚。
「はあ……」
また賞賛のため息が漏れていた。彼女の透明な心を透かす太陽にでもなってしまえば、心を焦がすことを誰も攻め立てはしないだろう。クレマチスの花を見つめて薫りを愉しむ。目を綴じ、鼻腔に満たさせる。
今の時間、彼女は無心になっているのだろうか。宇宙と会話をしているのだろうか。地球の美を称えて。
一瞬でも、こうやって花の薫りを楽しみながら目を綴じていれば彼女の心を繋がれるかもしれないと思えてしまう。
まぶたを開き、僕は籠にハーブを摘んでいった。きらきらとクリスタルの粒みたいな朝露。新鮮な薫りが心を躍らせるハーブ。
僕は微笑みながら摘んでいた。
彼女が髪にクレマチスを一輪つけて帰ってきた。
白いそのクレマチスの花は可憐で、僕は微笑んで彼女を引き寄せまぶたを閉じ薫りを愉しむ。
「ああ……とても綺麗な薫りだ」
「ええ」
彼女も柔らかく微笑み、僕等はエントランスから進んだ。
彼女を促し、フレンチ窓から出た椅子に座らせる。煮出したハーブティーを丸い硝子のポットから硝子のティーカップへ注いだ。数種類のハーブを組み合わせたもので、薫りのある花も二種類浮かべる。
「美しい薫りね。どうもありがとう」
僕は微笑み、共に時間を過ごした。
「僕はね、花の薫りをかいでいると瞑想する君が浮かぶんだ」
「花の薫りを私に重ねて?」
僕は頷いた。
「君は何を想って瞑想を?」
「いろいろな種類はあるのよ……今朝はね、愛の瞑想」
「愛の……瞑想?」
宵の唄を思い出す。
「愛の渦
光の渦と
宵空を流れるきらめき」
「ええ。愛のね……」
彼女は丘を見渡し、ゆるやかな風が流れて行く。たゆたう水のながれを感じる様な。
僕は彼女をモデルとした彫刻家だ。
石造を鑿と彫刻刀で削っていく。
アトリエは花に囲まれた温室で、いつでも花に囲まれた彼女は寝そべったり、佇んだり、小鳥を指に乗せたり、ゴンドラで進んだり、花の巻かれたブランコに揺られたりした。
春や初夏は自然に花も咲くので、庭に出たり、それや丘や森に出ることもある。
今僕は彼女の髪を複雑に結い上げていた。複数の三つ編みや編みこみやまとめ髪を組み合わせて造形美をつくる。だいたいは彼女本来の美しい金髪を流し遊ばせることも多いのだが、時にこの様に様々な髪型にすることもある。
今の時期美しい薔薇とクレマチスを挿す。
「ああ……」
とても美しい。
また感嘆のため息を漏らす僕に彼女は微笑み、繊細な手元を取りそして歩いていった。
「今回はここで」
「ええ」
「とても綺麗だよ」
僕は彼女の米神にキスをし、戻っていった。
彼女が僕のモデルになってくれたのは、五年前の事だった。
街角でモデルを探していた僕は目の前を颯爽と歩いていく彼女に一瞬で感覚が持っていかれた。細身のパンツ、そしてブーツで颯爽と歩き、ショートジャケットのポケットに手を入れ首にマフラーを巻き、大きなサングラスを掛け、黒一式の装いはさばさばとした印象を放ち、そして真っ黒い大型の犬を連れていた。石畳を歩いていくその背筋の良い女の子は一見どこかのお洒落なショップ店員か雑貨を取り扱うか、帽子屋にでも立っていそうな感をうけていた。
彼女は僕の前を通り過ぎ、今にも降ると思われる雪の天候も気にせずにジェラート屋へ入って行った。そしてバナナの乗ったチョコレートのジェラートを持ちながら颯爽と元の方向へ歩いていき、それは突き動かされたように追っていったのだ。これを逃がしてはいけないと思って。
だが彼女は馬車に乗り込んでしまい、驚くほど高く美しい声で番地を告げて進ませようとした。
「待って」
僕が御者を引きとめたので彼女はサングラスを下げ、僕を見た。水色の瞳で。それは曇り空を全く忘れさせるほどの色味だった。
「……あなた、お乗りなさい」
彼女がしばらく何も言えない僕に言い、思った以上に落ち着きのある風で言ったので僕より年上なのだと気づいた。
それが僕等の出会いだった。
彼女はその時、実家を出て一人街角で音楽をやっていると馬車のなかで僕に話してくれた。元々はシエナの生まれ育ちらしく、このミラノには二年前から暮らし始めたらしい。何の音楽をと聴いてみたら、古い楽器を片手に唄を唄っているのだと言った。美しい声なので、それはとても様になることだろう。
彼女が間借りしているアパルトメントに来ると、僕等はそこで別れることになった。だが連絡先を教えあうことが出来た。なので僕は数日後、彼女をバールに誘いながらもモデルの話をした。
しばらく彼女は返事をしなかったが、頷いてくれた。
その頃、彼女の髪は暗い色に染められていた。生まれと育ちはイタリアだが、実際の血筋はデンマーク人で父親と母親が仕事の関係で別居をしているために母子でシエナの別荘を自宅にしていた。
その自宅というのが、実は今僕等のいるこの丘の上の舘のことだった。彼女の母親は現在夫とともに再び暮らしデンマークにいる。この舘を管理し続けてくれる約束で僕にアトリエとしても提供してくれた。
ミラノのバールで彼女は僕の話に承諾してくれた。半年前に音楽会社と契約も結んだので、彼女は録音の時にミラノに来ればいいので普段はシエナで暮らすことも出来るといってくれたのだ。
その日から、僕の愛情が彼女に向かうことは自然的なことで流れる水のように僕等を包んだ。
僕はその夜、彼女が瞑想をする姿を見つめていた。
寝台でねそべり、紅茶を傾けながら。
彼女は静かに目を綴じ、瞑想のポーズをとっている。無音であり、静寂が辺りを包んでいた。
室内にはクレマチスが飾られていた。それらは寝台にもあり、僕は薫りを愉しむ。これは青のクレマチスで、舘の壁に這っている花。
時々僕は瞑想をする彼女を見つめながら、うとうとと眠りへ誘われていった。その時は必ず美しい夢を見る。闇に光が飛び交い、そして花の薫りが線を引き、泉が現れて彫刻の彼女が女神のごとく歌っているのだ。水面に巨大な月を映し、そして回転する花。くるくると、次第に僕の足を蔓が絡めて引き上げて、天空へさかさまに吊るしてくる。彼女を愛でる僕を雁字搦めにする。彫刻はさらさらと砂にきらめき本物の彼女へと柔らかな唄とともに、爪弾きとともに変わって行き、僕に安堵のため息をつかせる……。このまま月に架けられてしまってもかまわなくさせる。彫刻としての彼女を愛でずに生身の彼女にだけ目を釘付けにしていればいいと、誰かが囁いてくる。
ふと感覚が意識を取り戻すと、彼女は静かに深呼吸を繰り返していた。
「愛の渦に巻かれる幻想を見たよ……君の愛の瞑想ゆえかな」
腕に頬を乗せ、静かに言った。
彼女は横顔が微笑み、僕をゆったりと見つめた。
「あなたのしあわせ、願っているから……」
彼女が少女のように微笑み、僕は心臓が高鳴って腕に顔を埋めた。
一年前、僕には僕だけの女神がいた。
彼女は僕を愛してくれていた。僕も彼女を愛していた。
僕は彫刻家であって、彼女はモデルをしてくれていた。
どこかしら、不思議な雰囲気の女性だった。彼女は僕に全てを夢を与えてくれた。
彼女が僕の元を去ったのは、一年前。
音楽が売れ始め、プロの演奏者と組むことに決まってイギリスへ旅立ってしまった。
僕は彼女を快く送り届けた。彼女との時間の全ては今でも舘の管理を条件にここで再現され続けていた。僕の記憶のなかで。
でも、僕はどうしようもなく悲しくて泣き続けた。彼女を奪われた気がした。それでもそんな気持ちなど言えなかった。彼女は僕のいるこの場所にい続けることを半年間音楽会社に言い続けていたらしいけれど、僕が彼女を送り出したのだった。イギリスの音響技術とか契約内容などを考えての事だった。
僕は泣きたくなると、彼女のしていた様に瞑想を行うようになった。
全く詳しくないけれど、瞑想の形をとって何度も深呼吸をしたあとに額の前に意識を向けて、彼女の美しい歌声をレコードから聴きながら心を落ち着かせて、愛を唄う彼女や、自然世界を唄う彼女の声を聴きながら、目を綴じた。
愛の雄たけびは僕の心を渦となって駆け巡った。彼女が無心に戻り自然の力を体内からめぐらせていた大地はとても美しく、時は自然と共に流れた。
僕の瞑想と呼べるかは分からないことを終えると、いつでも薫りに包まれた彼女の純粋な心が広がってしあわせな心地になった。花の薫りにつつまれて目を綴じれば、彼女に出逢えた。すぐそこに感じた。東屋にいる彼女、寝台の横で瞑想をする彼女、丘で朝日に照らされる彼女、温室で花に充たされる彼女が……。
「はあ……」
僕はしあわせのため息をつき、微笑み目を綴じた。
遅れ咲きの薫り
「遅れ咲きの薔薇の蜜を吸い上げる蝶や蜜蜂は、どこか君の態に似ているよ」
黄昏が迫る窓辺は私の腕を染め上げ、そして彼の言葉は緩く流れる曲に溶け合うように耳に入った。視線を上げて彼を見ると、黒馬に跨り星をわが子の様に擁く悪魔の絵画が飾られた壁に肩をつけ目頭を押さえては眉を寄せている。神経質な頭痛持ちの男で、いつでもああしている。
「そう? どういう意味かしら」
あの表情には不釣合いなほど声は穏やかな人だから、いつも見てしまうけれど結局は「お気の毒に……辛そうだわ」と思ってしまう。
「あなたが遅咲きの画家だという意味? アルバート」
街角で声をかけられ絵画のモデルを頼まれてからの付き合いではあるけれど、彼を一度も花に例えたことなどは無かった。確かに三十代も終わりに差し掛かって絵画の世界にのめりこみ頭角を現し始めた彼を新鋭の画家ともてはやす人は多い。それまでをワインの店で働いてきた彼は芸術を好み美しい曲に囲まれ生きてきたが、自らが表現者になりたいと思い始めたのだ。
「僕が薔薇なのではないよ」
春や初夏、夏を満喫する美しい蝶達や蜜蜂たちの可愛らしい姿が私に当てはまるとは思えなかった。壁に掛けられた姿鏡に映る自分は個室のなかで息を吸うだけの女にしか見え無い。ただただ硝子ケースに隔たれた動かないドールに。
「彼らのように輝きのなかをうつろい翔び薫る花々から蜜を吸い上げられたらどんなにいいかしら。どんなに私が庭園を出歩いていても、少女の様にメリーゴーラウンドで廻ろうが心は渇望して実らないばかりだから……」
「だからだよ」
ソファベンチに移動した彼は背もたれに腰をつけて微笑んだ。
「その時の君を描きたいんだ」
「意地悪ね……」
街角で私を見かけたとき、それはそれは落ち込んだ姿をしていたことでしょう。恋に捨てられた私は人前でも押さえきれない涙を流してうつむき歩き、ただただ紳士等の優しい呼びかけやハンカチにも目も上げられずに足早に歩き続けて帰るしか出来なかった。
「待望の薔薇は私を捨てた彼のことね。確かに彼は美しい男であって高嶺の花よ。でも私は自然を謳歌する蝶達の美しさには到底及ばないのに」
「僕が君をどんなに美しく描いても認めないんだね。君だけは。君の姿のままを描くというのに」
「悲しみに美を見出すのならばピエロや道化師をお描きなさいよ。今の私を描くだなんて滑稽でしかないわ」
彼は悲しげに私を見ると、また目頭を押さえて目を閉じ続け顔を上げなかった。
「自身を愛して欲しい。世には自らを嫌う人が多すぎるよ。とても悲しいことだ。生まれたときの待望の呼吸を覚えていなくても、太陽や生きてきたなかで見た美しさに笑顔を持った瞬間が一度でもあったならとても素晴らしい人生を経験しているというのに」
尚も顔をうつむかせて閉じられた瞼が繊細にして、そして私を悩ませた。彼自身が、なんと美しいのだろうか。時に微笑むときの甘い表情も顔をしかめるときでさえ。彼がこんな私を見続けていてはいけないというのに。
「どんなに遅くなっても」
瞳が私を見た。
「君自身が薔薇になることを恐れることは無い。君はまちがいなく僕の薔薇の花でもあるんだよ」
私は開けられた窓から暮れて行く街を見渡して意識から声をさえぎった。男の常套句。それらの言葉をいつでも受け止めてきた。あの男も同じだった。それでも自身の名声を得始めるといとも簡単に捨てられてしまった。舞台俳優としての道を選べば美しい女性達と共演することになり、私の存在を忘れて行く……。
涙が流れていた。忘れられた女達がそれではどんなにたくさんいるだろうか? 自己憐憫に浸りたくないのに男という甘い毒に晒された私はなかなか悲しみを忘れられない。もう心から開放されたいというものを。
「泣く私を描かないで」
「描かないよ」
立ち上がり私は部屋から颯爽と出て行った。
リヨンの市場を心となく出歩いていると、ふと見慣れた絵を見つけた。缶ケースに描かれたもので、それはあの遅咲きの画家である彼、アルバートの人気の絵だった。灰色の猫を抱え込んだ黒いワンピースの少女の絵で、金のボブヘアと透き通った白い肌と緑の目が印象的で、猫の水色の目と共にこちらをじっと見つめている。一人掛けに座る少女は不安げに足を揺らして猫の頭を撫でていた。彼はよく少女や女性や老婆を描く。そのほとんどが花束を抱え込んでいたり、ぬいぐるみを抱え込んでいたり、トゥシューズ、ぼろぼろのタオル、木馬などを抱え込んでこちらをただただ静香にじっと見つめて来ていた。
私はその小さな缶ケースを手に取り微笑んだ。
「これ、欲しいわ」
「お嬢さん。もしよかったらそれに飴を詰めてあげるよ」
「まあ、本当? うれしいわ」
店主のおじさんが愛嬌のあるウインクをしてくれて色とりどりの飴を入れてくれる。なかには少女の目のような緑の飴、それに猫の目のような水色の飴もあった。
「お嬢さん、個展の絵のモデルさんにそっくりだね。これはおまけだよ」
「どうもありがとう」
ついうれしくて微笑んでしまった。個展に飾られる私はどれもうつむいたり空虚を眺めてばかりいるというのに。だから彼のほかの作品とは少し違ってどこか夜の雰囲気が強いまま引きづられている気がするのだ。私はその時、そんな表情しかすることが出来なかった。
それでも飴や彼自身の無垢な少女の絵、おじさんの笑顔に少しずつ救われて笑顔が生まれるなんて、アルバートのおかげでもあるんだわ。いつまでも落ち込んでいたくないから、こうやって市場を出歩いたり出会いを求めているのだから。
笑顔で店主のおじさんに見送られ、私も微笑んで歩いていった。
野菜が豊富に売られた店が軒を連ねて季節を教えてくれる。不揃いだけれど太陽の恵みをたくさんもらった美味しい野菜たちは輝いている。花の薫りを漂わせた場所もどれも女店主たちの活発な笑顔と共に咲き乱れていた。だからいろいろと買っていた。
アトリエの部屋に戻ると微笑みながら花を活けていた。カーテンを開け放った室内は午後の日差しが差し込み、そしてゆるやかな明るさが広がっている。花々は繊細な花弁を陽に透かさせて悦んで見える。
鼻歌交じりに料理を始めた。野菜スープとか、いろいろ。
カチャ
ドアが開き、私はそちらを振り返った。
「あら。おかえり」
「………」
彼は驚いた顔で私を見てドアの所で留まり、私は微笑んだまま首をかしげて皿にラム肉と野菜サラダを盛りつけて行った。
「今日はあなたの絵を市場で見かけたわ。それで買って来たの」
彼はその場に佇んだまま、よほど私が料理をすることが珍しいのか、それとも私らしくもなくはしゃいでいるのが原因で落ち込んでいるのか驚いた顔のまままるで寝始めてでもいるように静かだった。
彼は動き始めてぎこちなく微笑み、ソファベンチに座るとローテーブル上の料理を見回した。
「とてもおいしそうだ。君は料理が出来たんだね」
「いつもあなたのお薦めのワインが飲める料理店へ連れて行ってくれるものね。料理は好きよ」
彼がワインのお店へ勤めていた当初からボトルを卸している料理店が何店舗もあるのだ。なかには彼の絵画を贔屓に飾ってくれているお店もある。
「さっきはどうかして?」
「いや……つい心臓が高鳴ってしまってね」
「………」
私は食器を置き、テーブルを見て部屋を後にした。
「待って」
腕を引かれて抱きしめられ、暴れても無駄だった。
「無神経すぎるわ!」
「君が好きなんだ」
離れていって椅子の背もたれに手をつき睨みつけた。
「あなたが認めているのは恋にやぶれた憐れな女でしょう。何が薔薇のようによ、何が遅咲きになれよ、私は……」
言葉を続けられずに口を閉ざした。ただただ新しく彼に恋をすることが怖くて仕方が無い私を見られたくなかった。このアトリエに戻ってくることのうれしさも覚えている。朝の市場から戻ってくるとき、あの少女の絵の缶を持って彼に飴をもらったのよっていう事とか、ただただ鼻歌を歌いながら彼の帰りを待って料理でもてなしたかったり、花の薫りに囲まれた美しいアルバートが今目の前でどんなにその時想像していたより男前なのか、どんなに優しい言葉を掛けてくれたのかとか。
そして彼が私の待ち望んだ言葉を私の思うとおりに言ってくれた事に怒って、以前の優しかったはずの男を思い出して、彼が強いてくるはずもないその後の悲しみを恐れて逃げ出したい気持ちでいる。捨てられるという再びの悲しみを。
わがままになろうが自分が対等になりたいだけ。恋をするされるの関係がフェアになることなどきっとありえないのだとしても。変動し続ける恋愛は誰もが一瞬を心を騙しながら続ける時間も来るときもある。対等を求めるから前に進めないのだ。フェアはフェアに見えてその枠に入れようとするのは到底難しいことで、互いに傷つきたくないと思うから生まれる保守だ。保守では愛を生む前に自己愛しか生まれない場合もある。だから恋が出来ても愛には向かうには時間がかかることもある。
「食べよう……せっかく君が手によりをかけてくれたんだ」
彼は微笑んでレコードのある場所まで歩いていき、慎重に曲を選び始めた。いつもみたいに。
花の薫りは食事をするには甘くて、それでも私はその花に囲まれながら、まるで蝶の様に移ろう心で見つめていた。ゆらゆらと揺れ踊るような幻想が個室を廻る。
「今は……まだ恋愛をしたくないの」
彼は私を見て、小さく笑ってから頷いて頭を引き寄せた。
「ごめん。分かってたのに」
「いいの。あなたの言葉、うれしかったのよ、きっと」
彼ももう一度頷き、髪を撫でてくれた。
素敵な曲が流れ始め、私たちは微笑みあってから席についた。
「ボナペティ」
「ボタペティ」
きっと、恋を愛にすることが遅くなったっていいのかもしれない。無理をせずにいれば素直に表せるときが来るのだと。
彼が微笑むことを取り戻した私を描いてくれたときは、彼に愛を告げるときなのかもしれない。彼自身が蝶として漸く生を受けて蜜を吸い上げることが出来る薔薇の花の薫りに包まれて。
草木の薫り
日本庭園。夜が闇を呼び込み、それでも木立を見上げれば星が微かに瞬き月が挙がっていることが確認できる。
綴れ織の端を持って立ち尽くし、そっと哀しげに目を伏せた。
月浪京太(つきなみ きょうた)は縦縞で織られた浴衣の袷から首に掛かる紐を出し蜻蛉硝子を月光に照らす。それは彼の青白い頬と黒い瞳に光の影を落とす。
「京太」
彼と同じ華道の門下生である掛元一(かけもと はじめ)はこれから花火大会に行くというのに今年も暗い背を見せる京太の背後に来た。
「毎年、誰を待ちわびている」
この夏の時期になると友はどこか影のある眼差しで庭を見つめることが増える。花と心を通わせているときでさえふとした時には障子の先に光る庭をただただ横顔は見つめているのだ。
京太は一の顔を見るとはにかみ、首を横に振った。
「行こう」
蜻蛉玉をまた浴衣に入れては草履の踵を返した。門下生達の間では蜻蛉玉の女が以前彼にはおり、その恋が生と死で彼らを分かつ過去でもあったのではないかと言っているが、元来から大人しい性格の京太に真相を聞けたことは無い。
時に花火を見上げながら涙を流すこともあるのだ。目も頬もきらきらと光らせながら。そんな彼をこっそり見ると女達はこぞってほんのりと頬を染めて恥ずかしげにうつむき、恋の始まりでも迎える乙女たちは彼の手の平に握られる蜻蛉玉の漏れる紐を見ては顔を見合わせ、暗黙の了解で諦めざるを得ないのだと言い聞かせるかのような空気が花火にはしゃぎ騒ぐ群衆の一角に流れるのだった。
垣根を越えると、門下生達がすでに集まり彼ら二人を待っていた。
百合子はこの流派の師匠の娘であり、京太とは学院が同じ間柄だ。京太自身の家柄は西洋の紅茶を卸売りしている。夫婦は欧羅巴へよく出向き良質の薫り高い紅茶葉を仕入れてきた。なので店は店員と雇いの店長に任せ、ほとんどを仏蘭西や英吉利などで過ごしている。以前、百合子は京太のご両親がいれば彼はこんなに何かに思い悩むことはなかったのではないか、問題は解決されたのでないかとそっと言ったことがあった。季節の花を生けながら、畳の新しい薫りにも囲まれ、春の日差しはゆるく個室を流れて行き、様々な小鳥達の囀りが響き渡っていた。これから来る夏の季節を前に言っていた。
彼女は普段は楚々として一歩下がり歩く性格の女性だが、時に一つ年下の京太を心配する顔を向けたりする。特に恋仲でもなく百合子自身には仲の良い許婚がいるので弟の様な感覚なのだろう。
百合子は日傘を差し他の女達と歩いていき、稀に二人、三人が京太を肩越しに見た。
一は繊細な風の京太とは違い、剣道もしていてよく日に焼けしっかりした体格をしている。どちらかというと女達にからかわれる事で浮かれる性格なのでそれこそ恋愛がどうのという青年でも無い。ただ、一自身には佐伯亮子(さえき りょうこ)という恋を寄せる相手がおり、亮子自身は恋愛になどなんの頓着もなく男共も時に引っ張っていくような美丈夫な女だった。その亮子は白と黒の太い縦縞の浴衣に桔梗の花柄を散らせては颯爽とその先を進んでは時々浴衣の裾から真っ白く細いかかとをにゅっと覗かせて進んでいく態が美しい。艶を受ける黒髪を頭の天辺で結い上げ揺らし、紫の日傘にあのうっとりするような項は隠されていた。時々彼女の愛らしい笑い声が聞こえると、頬を染めて彼は見てしまう。
「百合子」
青年の整った声に振り返ると、垣根の角には毬紫陽花の先に百合子の許婚である陣場条(じんば じょう)が優しげな微笑みで佇んでいた。いつも彼は彼女を迎えに来るのだ。
「条さん」
一と京太たちも彼に挨拶をし、女たちは微笑んで二人を交互に見た。
「素敵ね陣場さん。本当、浴衣の二人はいつでもお似合い」
「いつもの着物のときとは違った素敵さよ」
女たちが口々に言い、百合子も頬を染めた。一番先頭を歩いていた亮子が立ち戻って来て京太の横に来たので一はがっかりしてその亮子の横に来る。
「条君、今年もエスコートお願いね。京太のことはあたしが面倒見るから」
「?」
京太が亮子を見て、彼自身は一の気持ちを知っているので口を閉ざして前を向いた。
「昨年みたいにいきなり姿を晦まさないので、安心して下さい。みなで楽しみましょう」
京太がいつもの敬語口調で亮子に言い、颯爽と歩いていった。一は亮子が肩をすくめてやれやれ言うので恋愛的な好意よりも面倒を見てやらなければという気持ちが先立ってのことらしいと思って安心した。
京太は横に来た一の横顔を見てささやいた。
「今年は告白は?」
花火を見上げながら愛の告白、というのは以前から言っていた事だった。
「お前が余計な心配事の種にならなければな」
「僕のことは気にするな」
「こいつは」
あきれ返って一は背中をどつき歩いていった。基礎体力の整った一にどつかれると京太はぐらついて下駄を鳴らし、蛙の声が響き渡る田んぼ路に差し掛かるところでふと顔をよろけた足元からあげて水田を見た。
「………」
青々と風に気持ち良くそよぐ緑の稲。囲う木々も緑が蒸せて、どこまでも爽やかだ。稲の間から覗く鏡の水面は山々や空を蒼く映し、そして美しく純白のサギが羽ばたいては田んぼに降り立つ姿も映る。
みっちゃん。
彼女は14歳の頃、まだ何も世間を知らない箱入り娘だった。女学院にも通わずに田舎で大切に両親から育てられていた。毎年七日間、夏休みを京太少年はその田舎で過ごしてきた。みっちゃんと出逢ったのは彼が12歳の時、垣根から零れる名も分からない花に手を伸ばそうとしていたからだ。そのお宅は広い庭が見事で、いつでも恐いおじさんがいる記憶しか無かった。勝手に庭に入ると怒鳴られたこともあった。それがまさかみっちゃんがいたからだとは知らずにいた。
身体が丈夫ではなく心も閉ざし勝ちだったみっちゃんは、白い大きな犬だけが友達だった。両親とも会話が出来ないぐらいに心を閉ざしていた。その理由は両親も知らずに原因も不明だった。あまりに声を出さずにそれが小さな頃からなので喋れないのではとお医者に連れて行ったが声は出るし喋ることはできた。なのでとても静かな庭で、その日はおじさんもいないらしかった。
京太は綺麗な花をもっと近くで見たくて垣根に近寄り、そしてその薫りを嗅ぎたくなった。そして竹の向こうに初めて見えたのが巨大な白い犬だった。そしてその向こうに同じ程白い肌の女の子が座っていた。手には毬を持ち、犬が取ってくるように少し近くへほいと投げていた。犬は大きいのですぐに取ってくるが、少女は変わらず近くにしか投げなかった。花から少女に気を取られて庭に自然に足が進んでいた。
少女は驚いて少年を見て、犬に腕を回した。
『誰……?』
『僕は京太。夏休みだから村に遊びに来たんだ。君、この家の子?』
『ええ……』
小さな声で言い、名前を言った。
『父と母は私をみっちゃんって呼ぶわ』
『みっちゃん、大きな犬飼ってるんだね』
『友達なの。名前は白よ』
京太は恐いおじさんがいない事を見回してから頷いた。
『僕、お菓子持ってるよ。みっちゃんも一緒に食べよう』
京太はニコニコして進んで自分より背の高いみっちゃんを見上げた。遠くから見たら背が低く見えたが、どうやら年上らしいと声を聴いても分かった。京太は正直心臓が落ち着かなかった。まるで硝子の様にきらきらと光るみっちゃんの瞳は不安げなのにとても綺麗で、そして小さな声はどこまでも近付きたくなるものだった。
『ね。後で川に行かない? メダカがいっぱい泳いでて可愛いよ』
『えっと……私、外に出たことが無いの。お医者様のお世話になったときはあまり覚えが無くて』
彼女は一気に落ち込んでしまい、白が頬をなめた。
『身体が弱いの?』
みっちゃんは頷き、京太は相槌を打って横に座った。そしてアラレ菓子の入った袋の紐を開いた。
『これ、食べよう』
『うん。おいしそう。ありがとう』
二人は黙々と食べ始め、庭の大きな池やその上を滑っていくツバメを見ていた。青い空は白い雲が流れ、そよ風が夏の音を運ぶ。豆腐売りや風鈴売り、蝉時雨を。
『今日は豆腐屋さんが早いね。いつも夕食の数時間前なのに』
『うん』
みっちゃんは頷き、そして小さな声で言った。
『ポン菓子のおじさんの声がすると、いつも村の子達が大勢走ってはしゃぐ声が壁の向こうから聞こえるの。私ね、大きな音がするごとにいつも花火が見たいって思うわ』
『手持ち花火?』
『いいえ。鶏卵売りのお兄さんが毎年教えてくれるの。とっても大きな、線香花火よりも本当に大きな花火があって、それを大空に挙げるんだよって』
『………』
うれしげな横顔を見て京太は気の毒に感じてしまい、みっちゃんの視野に入った。
『一緒に観にいこう?』
彼女は驚いた顔で京太を見た。
『山を一つと野原を越えた所にある街から来たんだ。そこはそのお兄さんが言う打ち上げ花火が挙がるんだよ』
『でも、父が許してくれないわ。母も心配して気を失ってしまう』
京太はみっちゃんの言う病院という言葉が気になった。覚えていないというのも。気絶してしまうのだろうか。貧血気味なのかもしれない。でもそこまでは聴けなかった。
蝉がみんみんと啼き、陽が天辺に昇り始める。京太は汗を腕でぬぐうと思い切り立ち上がった。
『今日の夜、待ってて!』
彼はいきなり走って行き、みっちゃんは驚いてその背を見た。緑が蒸せる庭にどんどん小さくなっていく背を。
『京太君』
京太は父親にお願いして隣の村にある花火屋に連れて行ってもらい、そこで花火セットを買ってもらった。来月のおこずかいは半分という約束で。母親はせせらぎで冷やして来たきゅうりをざるに入れて帰ってきた時で昼のご飯つくりに伯母たちと取り組んでいてなにやら京太がせっせとしている事には気づかなかった。
夕暮れ時、京太は花火を腕に抱えて走って行った。
『………』
田んぼや竹林を越えて川を渡り、みっちゃんの家に来る。
垣根の先には明かりがついていた。みっちゃんと、それに彼女の父親と母親がいるのだろう。京太はみっちゃんが夕涼みで彼の事を待っていてくれていることを信じて、離れたところに花火をセットしはじめた。
夜風が彼の短く刈り上げた項をさらっていく。時々蝙蝠が飛んでいく。夕陽は刻々と色を黒に染め上げていく。
セットし終えて京太は息をついて立ち上がって微笑んだ。
『よし』
マッチを手にすると、それを静かに擦った。
そっと点火していく。
京太は花火から離れて行き、そして見守った。
ジジジ……、シュー、パンッ
その時、みっちゃんは音に顔を上げて瞬きをした。
パンパンッ
シュシュ、シューッ
夜空と、それに庭園の池に鏡みたいに映る、きらきらと金色や色々な色の火の花が咲いては立て続けに散っては咲き、そしてバチバチという銀色の火の柱が立ち上って辺りを明るくしたのだ。
『まあ、綺麗だわ』
みっちゃんは驚きのままただただ近い夜空を様々な仕掛け花火が彩るのを佇み見続けた。
『何事だ!!』
障子がガラガラと開き、父親が下駄をはき凄い勢いで灯篭が照らす庭を走って行った。花火はなおもその灯篭のぼんやりした蝋燭の灯りと共に夜空と鮮明に池に映る仕掛け花火を打ち上げていく。
『とても綺麗……』
垣根の向こうで声が響き渡った。
『こらお前! 何をやっている!!』
『わ、ご、ごめんなさい!! いたっ!!』
どうやら他のひやかしにたまに入ってくる男子達がされるように父親に拳骨をされたらしく、その声でそれが京太君なのだと分かった。
『花火……』
みっちゃんは草履を引っ掛け走っていこうとしたが、胸を押さえて膝を付いた。眩暈がして目を閉じ、息がしずらくなるまえに落ち着いて肩の力を抜いた。
真っ青で顔を上げると、すでに花火は挙がらなく静かな夜が流れていた。両親と線香花火をしたときの火薬の薫りが、庭の草木の薫りに混じってやってくる。京太君の優しさがそっとやってきたみたいに。
みっちゃんは胸を押さえながら顔を白く微笑み、しばらくうごけずにその場にただただ座り込んでいた。
京太はバケツに全て急いで花火の片づけをして拳骨をされた頭をさすりながら走って帰っていった。それでも顔は微笑んでいた。
みっちゃんの父親が急いで庭に帰ってくると、妻が縁側に静かに座る娘の横に座って肩を抱いてあげていた。妻は夫を見てから彼はずんずんと進んでいた速度をゆるめた。
『どうか怒らないであげて。あの子、私に花火を見せてくれたの。悪戯で庭に何かしようとしてきたんじゃないわ』
みっちゃんは真っ白い顔で言い、すぐに言った。
『とても綺麗だったの。だから、お願い』
父親は口を噤んで唸り、腕を組んで息をついた。
庭は再び夏虫が声を響かせ始める……。彼等は庭を見渡し、ただただ聞き入った。宵のひと時を、時に珍客が来てもいいのかもしれない。
京太は翌日はあの恐いおじさんが見張っていたのであきらめて帰って行った。
そしてその翌日は彼が村を離れなければ鳴らない日だった。
彼は垣根の前に来て、そして新しく花を開かせたあの花房を見た。背を伸ばせば届くぐらいの花の薫り。
『………』
京太は意を決して垣根の先を見た。
『みっちゃん』
みっちゃんは白といた。日に照らされて白の頭を撫でていた。白自身は草木の薫りを充分に嗅ぎ腹や背を撫で付けている。
京太は庭に入って行った。
『京太君』
『こんにちは』
彼女は立ち上がり、微笑んで彼を見た。
『この前はありがとう。花火、とっても綺麗だったわ。まさか私のために大変だったでしょうに』
『僕も楽しかったよ』
京太は頬を染めて言い、照れくさく微笑んだ。
『あ、ちょっと待ってて……』
みっちゃんが小走りで縁側から屋内へ走って行き、慌てたので胸を押さえて膝をついた。
『みっちゃん?!』
京太は驚いて駆けつけ、みっちゃんの横に膝を付いた。彼女からはとても綺麗な草木の薫りがした。まるで庭から生まれたみたいな。
『大丈夫……?』
みっちゃんは頷き続け、顔を上げて微笑んだ。
『ごめんね。大丈夫よ』
白いままゆっくり立ち上がり、京太は付き添った。
『京太君に私の宝物、あげたいの……』
箪笥から綺麗なハンカチに包まれたものを小さな手におさめ、彼に微笑んでそれを開いた。
『蜻蛉玉……?』
『うん。これ、とても綺麗でしょ? お天道様に照らすととっても綺麗なの』
『申し訳なくてもらえないよ、僕』
『いいの。受け取ってほしいの』
みっちゃんは京太の手に硝子玉を持たせ、にっこり微笑んだ。
『本当にありがとう。花火、とてもうれしかったの』
京太は巨大な花火の音でハッとして顔を上げた。
「たまやー!」
「たーまやー!」
一達が花火を見上げてはしゃいでいた。
「京太! 一緒に言おうぜ! たーまやー!」
その花火は色とりどりの花を咲かせ、まるで夜空に活けられた花の様だった。それは、みっちゃんが活けたかの様にも思えた。幾重にも連なる大玉の花火たちが天に渦巻き、輝きと共に皆を笑顔にする。
京太は涙を流していた。今度はその美しさに微笑み涙を流していた。
草原の草のむせ返る薫りに包まれて、花火の煙が乗せてくる火薬の懐かしい薫り。みっちゃんの庭から蒸せた草木の夏らしい薫りと、自分を取り巻いたあのひと夏の仕掛け花火の薫り。
みっちゃん。
「綺麗だ……」
翌年、変わらない夏の日に彼は村にやってきた。
しかし、彼らはどこかもっと涼しい避暑地を求めて引っ越してしまっていた。行き先も村人たちに告げないまま、引っ越してしまったのだ。
あれは確かに恋だった。初めて恋した瞬間だった。彼は蜻蛉玉を握り締め、ただただ夏の薫りの蒸せる放置された庭に佇んでいた。少しだけ伸びた背と、伸びた髪と、従兄弟のおさがりの服と。蝉が時雨を降らせ、彼を優しくつつんだ。それがみっちゃんの包まれてきた草木の薫りと美しい音。垣根の花は伸びたいほどに伸び、既に京太の背も届かないほどに伸びていた。
夕涼みになっても、ヒグラシの啼く宵になってもじっとじっと、みっちゃんの庭で夜空を見続けた。心に垣根の外から見上げた同じ仕掛け花火を思いながら。あの時、確かにみっちゃんと自分は同じものを見た……。
嵐の薫り
百合を散らした嵐の……。薫り奪ってった嵐の……。潮の薫りに増して土の薫りが強い汀。追い風や向かい風を受けて歩く僕等はずっと語らうことなく目に映る情景を写していた。
伸びきったつつじの茂みは背よりも高くどこまでも続き、緑の桜の並木が上に覆いかぶさる。ツツジの茂みからは高く伸びた白百合の花が頭を垂れて、空と百合を囲うツツジと木々に咲いていた。垣根の下に細かいピンクの花がたくさんルビーの様に散らばっていて、その花のもとの居場所のありかを探すけれど見当たらず、しばらく歩いてそれが風に飛ばされ散ってきた百日紅の花なのだと分かった。そして木々に絡み付いてレースみたいなカーテンの様に青い朝顔が枝垂れる風景とか。水色のアガパンサスの花が時期を終えて緑の房が揃う横に蝉の抜け殻を発見したり、見たことも無い植物群が迫っていたり、緑は美しくむせかえっている。
クラブを終えた帰り道は人通りは無いに等しく、嵐のために学校でしばらくの時間を過ごしていたうちにも練習は続いていた。肩にかけたバッグからは飲み残した水筒の中身が風音と共にちゃぷちゃぷと耳元をくすぐる。
公園に来ると、セミ達の鳴き声は僕等をまるでもう少しここに留まらせようとでもするかのように聴こえて包まれた。
「海也はさ、先生の話どうするの?」
僕の幼馴染で友人の孝輔がベンチに座ってぼうっと空を見ながら言った。
「もしも選考が通ったら、学校は移ると思うんだ。だから地元での大学進学の話は結果が出た後で」
孝輔は野球部だけれど、僕は演劇部だ。声を張り上げるから水筒の水は欠かせない。けれど、今回は多くの生徒達が一気に学校で待機していたから声を小さめに練習をしていた。クラブ練習のない生徒達の一部は僕等の演劇を見に来ることもあっていつもと違う雰囲気が広がっていた。親には学校から連絡網で話は行っていたから、なかには子供を車で迎えに来た親もいた。
「オーディションの最終選考まで行くなんて、将来映画やドラマに出るようになったら友人役で友情出演できるように監督とかに話つけてくれよな」
「野球映画とかだったらね。その時は僕が孝輔に教えてもらわないと」
僕等の背後に自転車が近付いてくる音がして、それが女子の声を伴って停まった。
「孝輔に海也!」
三年生の片山先輩で、僕と同じ演劇部なので声がよく通る。この広い公園にも響いたのではないだろうか。孝輔は片山先輩のお兄さんの開くイタリア料理店でよく食べさせてもらっているのでなじみが深いのだ。野球帰りにお腹がすくと腹持ちのいいニョッキを食べさせてもらっていた。
「先輩」
僕等は立ち上がり、笑顔でここまで来る彼女を見た。緑を背に爽やかな先輩で、ボブの髪が風にゆらゆら揺れている。制服の黒いスカーフリボンも。彼女は高校を卒業したらイタリア料理店を手伝い始めるらしく進学は考えていないらしい。なので気楽だといつでも僕等に言っているけれど、今必死に大学受験の勉強をしている同級生達には口がすべっても言わないでいるのだと言っていた。だから演劇にもその分、身を入れていて、僕の演劇指導も手厳しくしてくれているのはとてもありがたかった。彼女は家族でイタリアに旅行することが好きで、どこか男勝りな点もあることも味方してか、なにかしら感情表現が劇に活きている。舞台に上がる彼女はいつでもまるで魂が旅をし始めるかのようだった。
感情表現が下手でいつでも美しい物には関心があってぼうっと花や緑を見つめてきた僕に二年前に演劇部の勧誘をしてくれたのも彼女で、僕はその時あの笑顔に一目惚れをしてしまってつい入部を決定したことが功をそうした。家庭では昔より僕がよく喋るようになったとよろこんでくれて、声も大きく出せるようになった。まるで乙女っぽいわねとよく先輩にはからかわれるほど初めはすぐに根を上げてばかりいたし先輩達の威圧感にはのされてばかりいた僕がオーディションという舞台でどんどん挙がっていくまでに成長できたのだ。
孝輔がジュニア時代から野球を続けてきたことと同様に、自分も何か一つのものに打ち込めるよろこびを知ることが出来たのだ。
だから、僕は片山先輩を尊敬の人と置いているし、それに僕のよき理解者でもあった。だからこそ僕が町を移れば彼女や孝輔に逢う事が少なくなることが寂しくて仕方が無い。
「今日、料理店に来なさいよ。ドルチェでも食べてからでも夕飯は食べられると思う」
孝輔はグラウンドが嵐に見舞われていて練習は出来なく、体育館は他の運動クラブに占領されていたのでいつもの様に空腹は感じていないらしかったが、いつでも甘いものは別腹に入るとにこにこする。
「食べます!」
即刻返事をして僕等は歩き出した。
レンガ路を左右に囲う桜の並木は、緑の路になっていた。時々緩み始めた風に黒い蝶が緑の茂みから緑の茂みへと飛んで行ったり、木々の先にカラスが鳴いていたりする。
「最終審査まで行ったご褒美だと思ってくれてもいいの。よくあたし達の厳しい指導にも耐えてきたわね」
「海也がもしも選考通ったら、フルコースとか」
「あやかりたいんだろう」
「もちろん!」
「いいわよ! 言っておく」
公園の橋を渡っていき、池を見渡す。風が水面を撫でていっている。向こうに広がる芝の伸びた草も撫でていく。
「この場所、好きだから本当は町を移る程の事務所よりも近場を探そうって思ってたんだ。ここは僕の心の泉だから」
「本当に綺麗な場所よね。美しくて」
先輩は僕の腕を叩いてくれて孝輔に言った。
「孝輔も良い奴ね。寂しいと思うけど幼馴染の背を見送ってあげるなんて」
「うん……正直、一緒についていきたくなるけどね。でもこいつのよろこびはこっちのよろこびでもあるんです。どんなことがあっても大喧嘩しても最終的には今まで離れたこと無かったけど、不思議と一緒に成長してきてこいつ見てきていずれは分岐点は来るんだろうなって分かってたから。良い意味で。その路を先輩が作ってくれたから感謝してるんです」
片山先輩は耳まで紅くして照れて微笑んだ。僕は彼女のこの笑顔もどんな笑顔も大好きだ……。
雨が再び降り始めた。僕等は少し駆け足になり、料理店へと駆け込んだ。
「つれてきたわよ!」
店に声が響き、オーナー兼店長の大地さんが笑顔で出てきた。
「よう。よく来たな。雨はまた強くなってきたな。さあ。どうぞ」
「空は明るいから通り雨かもね」
硝子越しに見ると雲は流れていないけど、確かに雨脚はすでに弱まってきていた。
「今日はありがとうございます。先輩からお誘いを受けて」
「どうか俺にも祝わせてくれ。こいつも毎日の様に言ってるんだ。選考が通るごとにな」
「ふふ!」
先輩は僕の座った背もたれに腕を組んで顔を覗き込んできた。
「顔立ちだって甘くて可愛いんだから、海也はきっといけると思うのよ。深刻な役だってまるで顔つき変わってね、それに優しい人の役だって上手だし、頭の良い人の役も凄いせりふ量をこなすの。怒りの鬼神役で黒蛇を演じたことがあったけれど、あの時は本当恐かったわ。あとはコミカルな役をマスター出来ればいいんだけれど!」
「コミカルなのだったらこっちに任せてくれればいいんだけど」
孝輔はお笑いが好きでよくはまっている。顔の割りにおどけてくるからいつでも僕が落ち込んでいるときは元気をもらってきた。
「………」
そんな親友とも時間を過ごすことが経るかもしれない。でも今は電話もある。
僕等はみんなでおいしいドルチェを頂いた。
雨は次第に再び強くなっては弱くなり止んで、僕等の会話を小さくしたり大きくしたりする。硝子に打ち付ける雫。店内の観葉植物の先に霞むレンガ通りの街並。前の花屋の猫はショーウインドウから外の様子を眺めていて、花瓶から下がる花の薫りを子猫がかいでいた。しばらくすると雨の雫が硝子の壁に川を描く様を追い始めた。何気ない全てが脳裏に刻まれていく。
「海也……」
僕は甘くて美味しいドルチェを頂きながら、そして涙が流れていた。
彼らはみんなで僕の肩を抱いてくれた。
時は静かに過ぎていく。雨も上がりはじめ、少しだけ空が明るくなってきた。
葛の薫り
フォーレのクラシック曲「夢のあとに」を聴きながら少女は少年とともにうつろいの底にいた。夢との間際はいつでもこの美しい曲が流れている気がする……。
星明りはまだ若々しく、そしてキャンドルの小さな灯りは黄金色に光りを広げていた。
「夢のあとに」は繰り返し流れ続け、空間の二人を優しく包み込んだ。
十年後、二十一になった少女カトライと少年クラウスはハルバリー家から少し離れた森のなかに建つ葛の蔓が這う樹木のある離れで過ごしていた。
彼らは幼馴染でありメイドリー家のカトライとフレルダ家のクラウスは互いに古くから親交がある。幼い頃から行事や宴のある毎に子供達だけが集められた場所で共に遊んできたものだった。いつでも夜も深まれば大人たちの宴の声を掻き消すかのようにレコードを掛けて夢現の旅へ出た。
カトライはクラウスの奏でる「夢のあとに」にあわせ、美声を静かに響かせていた。ゆったりとする曲調は成長したカトライの声音に合う。
「目覚めぬ あの少女の窓辺に
薫りを甘く乗せた……
月光 そして微かな星夜に咲く
願うのならば
切なく 降りしきる夢のうちで
手を差し伸べる頬
見つけた まぶた開くことを望むならば
愛を語らう
愛 それは深い夢と同じ
星を見上げた二人の恋は
まどろみと消え果て
ゆるやかな夜は過ぎてゆく」
葛の花を蔓から集め降りしきらせて遊んだ頃をよく覚えている。森で甘い薫りに包まれながら、紫色と薄ピンク色の房花を散らして……。
クラウスはサックスを下ろし、静かに恋を寄せるカトライ嬢を見た。だが、彼女は既に婚約者の決まった身。これからの二人の馴れ合いの時間なども及びはしない夫婦と言う確固とした二人の世界へ行ってしまう哀しさをなんと表せばいいのだろうか。
夢の後に……。その夢は二人で長年付き添ってきた尊い時間だったのだ。ただただ傍にいれば良かった。何も他を望まなかった。いつしか離れていくなどとも思わずに。
秋は始まり、涼しげな空気が流れて行く。クラウスは彼女の肩にそっとコートをかけて微笑んだ。
「さあ。外を出歩かないか」
「ええ」
彼女は微笑み見上げ、秋の夕暮れの路を二人歩くためにドアを出る。
樹木には葛の蔓が這い、それは円形に囲う水路に寄って遮断されていた。なので二人は幼い頃から屋敷を抜け出し森を歩いていくと水路の橋を越えて秋は紅葉前の広葉樹にツルを伸ばす花を見上げて過ごした。クラウスは木に登ると花を採って水路を小舟で回りながら散らし撒いたものだ。
クラウスは肩にコートをかけ引き寄せる彼女の手を見つめ、歩みを止めて振り返った。
「僕と逃げないか」
「え……?」
水路は成長と共に小さく感じてきて、今では手を伸ばせばあの紫と薄ピンク色の房花は手に届く。大きな緑のツル葉は樹木を覆い、すでに何の木だったのかさえ不明にさせた。一年に一度屋敷の庭師によりツルの払われる時期は彼らはこの場所を訪れない時期だった。
「クラウス……」
カトライは小さく微笑み、首を横に降った。
「なんで……」
クラウスは哀しげな目をして彼女を見つめた。
「夢はもう見ることはできないの? カトライ」
彼女は橋を渡り、枝垂れる葉の伸びる水路をしゃがみ見た。手を差し伸べると、ひんやりとする水。
「少女は目覚めないのよ。事実を受け入れることが嫌だから。まどろみは消え果る。そのままの方がいいから」
「僕は君が好きだよカトライ」
「分かっているわ」
クラウスは置いてきぼりをくらった顔で地面の草地を見つめた。
「僕だけだったんだね。この夢を続けたいことは」
「ええ」
瞼を閉ざした彼女は美しく、そして水面を指先で撫でた。
「夜が明けること、いつでも恐怖だったわ。あなたが知らないぐらいに震えていた。いつでもクラウスが手を強く握ってくれていたから耐えられた。でも、その優しさからもう離れていかなければ私は私として強くなれないの」
見つめる水面は夜が映り行く。空の紫から薄いピンクの色味が水面を染め上げていた。そして、美しいカトライの横顔も染め上げている色。
クラウスの愛が彼女には恐くもあった。日々深くなっていくその彼の愛情は、どこか歯止めを利かせなければならない葛のツルの触手の様にも思える。その蔓に包まれて安心しきっていたのだ。自身はあの花であって葉という彼に守られ夜を生きてきた。彼の紡ぎだす夢は果てなど無くてそして未来も無かった。
ただただ、そこに留まることの甘い誘惑を称えていたのだ。星の微かな輝きと共に。
彼のサックスも、そして自身の歌声も、これから夢のあとには聴くことはかなわなくなるのだと知っても、涙が流れてかなわない。
「夢のあとに、私を歩いて行かせてほしいの」
カトライとクラウスを隔てる水路は、彼を葛の花の咲く場所に残して、彼女を夢から去って行かせようというのか。
クラウスは追いかけて彼女の腕を引いた。
強く抱きしめたのは初めてだった。
「クラウス」
カトライは目を綴じ、微笑んでささやいた。そっと。
「また、いつかここへ戻ってこれる強さが持てるまで……」
「カトライ」
「さようなら。またね」
カトライは彼から離れ、微笑んだ。山の先に眩い夕陽が沈んでいく……。
目覚めぬ あの少女の窓辺に
薫りを甘く乗せた……
月光 そして微かな星夜に咲く
願うのならば
切なく 降りしきる夢のうちで
手を差し伸べる頬
見つけた まぶた開くことを望むならば
愛を語らう
愛 それは深い夢と同じ
星を見上げた二人の恋は
まどろみと消え果て
ゆるやかな夜は過ぎてゆく
あの曲はクラウスの愛情を捧げたい心とそして終わっていく恋はカトライの心を反映させたものに思えて、彼は強く目を綴じた。無常などではない。愛の時間は夢で終わらせるわけではなく、これから実らせようとしていた。
これからほかの実を成らせろというのだろう。クラウスは目を開き、出始めた星を見上げた。一番星はいつも二人で見上げてきた色。ただ、今は一人で見上げている。
白薔薇の薫り ~ブランカ~
静かに鳴り響く鐘を聴いていると、窓枠に這う蔓花からの薫りが澄んで思える。いつでもそれは夜に嗅ぐとなんとも官能的で甘美なる魅力を月光の元解き放つのだが、ロサには昼のそれはどこか違うものに思えた。
見渡す街並は今は風も無く穏やかで、白い鳩が群れて羽ばたいていき、そして雲ひとつ無い水色の空はどこまでも澄み渡る鐘の音を響かせて留まらないようなので、そっとまなこを閉じた。日差しがまぶたをそっと照らしてくれる。
パリのマレ地区。ここでロサは恋人のブランカと暮らしていた。蚤の市で出会ったブランカは骨董品の鏡を露店に広げていた。細い背を丸めて座り、ベージュのコートから出る黒いパンツの足は細くて、そしてまとめられた髪から出る項はどこか色気があって、サングラスで見えない顔立ちのレッドルージュは閉ざされていた。どこを見ているのかも分からないような寂しさを感じ取って、ロサは声をかけていた。
「見せてもらってもかまわない?」
「ええ。どうぞ。いいものがあれば、気軽に言ってもらっていいの」
ブランカの仏蘭西語はスペイン訛りがあり、ロサは親近感を覚えた。しばらくロサは金縁でエレガントなものが揃う壁掛けや手鏡、コンパクトを見ていたが、ブランカの座る横に置かれた古めかしいトランクに入れられた鏡に目が止まった。それは錆びなどが鏡面を侵食する部分のある、まともに顔を映しえないようなもので、随分と使い込んだ風があった。
「その鏡は売り物ではないようね」
「これは……」
気づいたブランカはふとトランクを見下ろし、頷いた。
「これは私物。売れなくて申し訳ないわね」
その鏡と共にシュタイフドールや骨董の器、それに可愛い絵柄の缶やキャンディーの入る瓶が入っていて、無意識にロサは彼女の紅色のマニキュアを見ていた。
「お店を閉じたら、一緒にお茶しない?」
その呼びかけにブランカはロサを見上げた。彼女はいろいろな鏡を見ていて、おおよその目星をつけてからブランカを見た。
「それと、この壁掛けをいただきたいの。あたしの部屋に送っていただけないかしら」
「ええ……。これに住所をお願い」
住所と共に名前、それと電話番号まで書いて手渡した。
「じゃあ、夕方にまた来るわね」
ロサは微笑み、肩越しにもう一度彼女を見てから立ち去っていった。
それがロサとブランカの出会いだった。
夕方になるとバーでワインを飲み交わし、当たり障りの無い話を続けた。そしてブランカの素顔のどこか冷たさのある美しさを気に入った。
「以前は母と共にスペインにいたんだけれど、大学の関係で伯母がいるフランスに越してきたの。彼女は料理研究家でずっとフランスに父と共に住んでいて、あたしたち親子とは別居していたわ。今は部屋を借りているんだけれどね」
「お母様は今スペインで一人で?」
「妹と暮らしてるわ。あの子はまだ中学生だから」
「へえ。それなら寂しくないわね」
「ブランカは何年前からフランスに?」
「幼い頃から三、四年単位で行き来しているわ。両親についてね。でも、そろそろ独り立ちしようと思っているところだったわ。それで父が資金稼ぎにと倉庫で眠っていた鏡を売ってはどうかってすすめてくれたのよ」
ロサはブランカの横顔を見つめた。
「あたしの部屋に来なさいよ。マレ地区にあるんだけれど、そこでもいいのなら」
ブランカは微笑むロサを見て、グラスを置いた。
「迷惑じゃないかしら。いきなり押しかけるようで申し訳ないわ。勉強だってあるんでしょう」
「あなたは普段何をしているの?」
「両親の手伝いよ。数年前からね。彼らはフランスの骨董の卸をしているから。最近はオークションでの買い付けにも参加しはじめてる」
「忙しいのね」
「時期にはね」
「来てくれていいのよ。フランスでの住まいにしてもいいわ。でも、これからも何年か向こうに行くこともあるの?」
「今は自由よ。それに、拠点はフランスなの」
ブランカはあまり人の目を見なかった。サングラスをはめていたときは時々ロサの顔を真正面から見た。それは今も変わらないことだった。夜の照明のもとでなら見詰め合うものの。
ブランカがロサの部屋に来たのは一週間後のことだった。注文の鏡もあったし、生活費としてロサに払う分の資金のためにも今も蚤の市で鏡を売っている。元が働いているブランカだから余裕はあるのだが、どれほどかを環境保護ボランティア活動へまわしているということだった。ロサの場合は現在父が学費を支払ってくれているが将来働き始めたら返していくつもりでいる。母親は卒業をしたらスペインへ戻るのかと聞いてくるが、ロサ自身はフランスのこの街でずっと暮らしたいという理由があることを伝えていた。
ロサはいわゆるLGBTQのQ……、セクシャルマイノリティのクエスチョニングに位置する性癖少数者の持ち主だ。女性として生まれたのだが、物心ついた頃は自分は男の子だと思った時期もあったし、中学生になれば女性の心が芽生えたし、高校ではそれが男女の間で揺らぎ続け、恋愛対象は子供時代は女の子を好きになり、大学生になると男性も気になっていたり、女性と付き合ったりするという自分がよく分からない状態で生きてきた。この問題はロサを困惑させたし恋仲を長続きさせることも無く、そして時に現れる見掛けからは想像できない男っぽさがかすめると周囲を混乱させもした。マレ地区にくると、少しは自分というものに納得がいくようになっていた。自分の性と向き合うことに安堵とする時間を与えられた街だった。スペインでは自分の性癖を人に話した事は無かったし、大学に通い始めて彼氏や彼女をつくり始めたものの、彼氏とは長く続かない。彼女が出来始めたのはマレ地区に部屋を持ってからだ。だが、その人とは去年喧嘩をして別れてしまった。
自身がクエスチョニングであると思うまでは、自分はFTM(性同一性障害)なのか、バイセクシャルなのか、レズビアンなのかがよく分からずにいた。異性愛者は同性愛者であるレズビアンやゲイを差別するきらいがあるし、レズビアンやゲイは半端なバイセクシャルを嫌う傾向があるし、レズビアンやゲイやバイセクシャルは今度ははっきりとしないクエスチョニングを避けることもある。誰もが性的少数者達は認められたいと思っているし、誰もがパートナーと愛し合いたいと純粋に思っているというのに、なかなかそれを互いが性自認や性癖のくくりを決定してしまうと他のものを避けたがるという結果が悲しいことに生まれるらしいのだ。だからこそLGBTQというレインボー活動がある。フランスでは同性婚が認められ、マレ地区はその彼らの生き易い環境なのだ。ロサの両親は未だに彼女の性癖を知らない。
現在、ロサはブランカと恋仲だ。あの時、蚤の市で同じものを感じ取っていたのだろう。まるで鏡に映りこむ自分自身かの様に。鏡面を境にマレで生き始めた自分と、そして自身の心に性癖を隠し続け悩みの底にいたブランカが同じ動きと感情を持つものかのようにひきつけあい、共鳴したのだ。
ブランカは高校時代に自身がレズビアンであることを知ったらしく、思えばずっと女の子しか気にならなかったし、男の子に告白されても付き合おうとも思わずに女の子の友達とばかり過ごしてきた。小学一年から三年までフランスで過ごし、四年生から六年までスペインで、そして中学をフランスで暮らし、高校生活をスペインで過ごし、社会人になってフランスで両親につき骨董品の勉強と卸を学び始め、二十一から二十四までスペインで本格的に役員になって仕事の一部を任されはじめ、そしてフランスに来たのだ。二十五の時にロサと出会い、人生で初めて自分がレズビアンであることを告白した。
始めは壁を作っている雰囲気のブランカだったし、元からの冷静な性格もあって近寄りがたさはあったのだが、それも自分を認めることや恋人が出来たことで表情も変わった。たまに笑うようになったし二人でいるときはリラックスして互いに過ごした。
ブランカ自身が気に入っている鏡と、ロサが露店で買った鏡はよく二人を映す。そっと微笑み合う二人。教会の鐘の音に無心で目を閉じる二人。二人は似ているようで違う人間。同じ様で全く異なる人間。なのに、あまりにも似通った二人の心。
あたしはブランカであり、わたしはロサ。どちらも同じ鏡の存在。薫る白い花であって、体を伝う蔓……。
白い薔薇は今薫る。
ブランカがサングラス越しに街並を見ていた。ここは広場。地面はどこまでも気温を体に伝えてくる。彼女は一人、朝方はここでヒールを脱ぎ捨てて裸足で座っていることが好きだった。あまりに寒いと涙などは流れてこなくて、ただただ口から吐かれる白い息に気をとられていられる。それぐらいが心が落ち着いていられるような心境の前は、悲しみに占領されるのだった。
「ブランカ」
歴史ある建築物の屋根上から陽が白く射し始めたころ、ロサの声が背後から響いた。彼女は恋人を見た。ワインレッドのウールのひざ掛けを持ったロサはここまでくると、彼女にそれを掛けてそのまま抱きしめた。冷たい頬にロサの甘い薫りのする黒髪が触れ安堵とさせた。
二人はおぼろげに緑の芝生部分を見つめていて、ロサは目を閉じた。ブランカはサングラスの先、ただただ見つめ続けた。
今日はブランカは仕事がありロサは大学がある平日で、五時現在ではまだのんびり出来る。こうやって二人で過ごす朝の時間は尊いものだった。
どちらとも無く唄い始める。
「愛しい貴女の頬よ
美しい貴女の笑みよ
濡れたような唇よ
虜にする白い薔薇のように
朝の陽に透かされて溶ける
風に梳かされて漂う髪よ
私の恋人よ
渦巻く心の瞳よ
受け止めてくれるのだろう
確かな甘い言葉も
指に絡める貴女の黒髪
薔薇の頬が愛しくて……
身を一体化するように抱きしめたい
貴女は私に 私は貴女になる」
今は孤独を忘れられるのに、何故心は悲しいままなのだろう。ブランカには自分が理解できなかった。ロサと出会い、愛し合っている幸せが自分にはまだ慣れないのかもしれない。愛の歌を囀って心は愛情を感じることが出来る。
彼女達は部屋に戻り、朝食の準備に取り掛かる。チーズを絡めたベーコンと野菜の上にジャガイモを載せ胡椒を振り掛けるとオーブンに掛け、サラダを用意し、ロサはミルク、ブランカはブドウジュース。麦パンにハムとオリーブを乗せてテーブルに並べる。
朝食ではいつでもブランカの視線はグラスや料理に注がれる。ふとロサは仕事をしているときのブランカを見たいと思った。普段は寡黙でクールなブランカだが、まさか仕事をしている時も無口とは行かない。
ここで共に生活を始めて二ヶ月目。共にいて楽しんでくれているだろうか?今は聞かない。朝だから。
「あたし、行って来るわね」
時間的に大学生のロサが早く部屋を出るので、いつもブランカがキスで彼女を見送った。
「いってらっしゃい」
ロサは黒のパンプスに灰色のタイツ、黒の膝上スカートに灰色のニットを着て、パーマ掛かる黒髪の頭に帽子を乗せてバッグを肩からかけ、ドア横のコートを手に出て行く。コートを脱いだブランカは黒のノースリーブの上に白いゆったりした襟口の服を着ていた。どちらも黒や黒、灰色が好きだと互いで気づいていた。時々差し色で原色を入れることはあるのだが。
またロサが出て行くとブランカは意味も無く受話器を手にした。
「………」
何も声の聞こえない受話器。単調な音だけ。目を閉じる。ボブ髪を耳に掛け、それをずっと聞き続けた。
彼女も仕事の為に出る時間になり、バッグを持ち出かける。
「ブランカ」
「………」
「ブランカ・シガネル!」
彼女は髪を揺らし止り、振り返って声の主を見た。
「サンスエーニャ校で友達だった、リリアンよ!」
ブランカはここまで来たリリアン・エリアスをまっすぐ見て視線を反らせなかった。
「あなた、七年ぶりだわ。更に美しくなって、今はご両親の仕事を手伝っているって、フローリカ達の噂で聞いていたの」
「ええ……」
ブランカの心は一気に学園時代に戻る。リリアンはまるで百合の様に優雅に微笑んだ。
一瞬、恋人ロサの影が陽にそっと溶けていった。
リリアンはあの頃のままに無垢な微笑みで話しかけてくる。彼女達を含めた六人でできていた友人グループだったのだが、リリアンはブランカの初恋だった。
ロサは夜、ブランカが戻らなかったので一人窓辺で膝を抱えていた。
「………」
冷め切ったコーヒーは既に彼女の頬よりも冷たくなり、何故か流れる涙よりも冷えていた。そちらの流動的な雫の方がぬくもりがあり、それでもブランカのさっとしてくるキスより優しくはなくて、そして悲しかった。
何故こんなに悲しいのかしら。戻ってくるというのに。彼女が仕事で遅くなる事は何回だってあったし、連絡が無いことが今までに無かったからって心配のしすぎだと思うのに。
彼女の背が映る鏡は彼女しか映さずに、いつも横にそっと静かにいるブランカが見えない。
「!」
ロサは目を見開き、窓の外、街灯と一寸先の闇に紛れるブランカと、そして見知らぬ美しい女を見た。彼女達は美しくキスを寄せ合い、手を握り見詰め合って今しがた、ブランカが明かりへ全身を現した。あのスレンダーな体を。
ロサは立ち上がり後ずさりして、それが鏡に映った。衝動を受けた自分。その体が揺れて、涙が視界をぼやかせて地に落ちた。
「何で……。え?」
冷たくなった手。カップはその場に残したまま、半開きの窓に映る室内に既に彼女は映らない。
「何で……?」
髪をくしゃっとやり、瞬きを繰り返した。
ふと鏡が目に入る。
「あたし達……」
瞳が揺れるロサが映る。影は彼女に入り、月光が冷たく照らす体。
「同じじゃなかったの? 鏡みたいに……」
幻想?
「違ったの? 幻想だったっていうの?」
ドアが背後で開かれる音がした。振り向けなかった。
足元に差す白い月光。街灯に柔らかく照らされていたブランカとは違う。違ったわ。白い月光のような人なのがブランカだった。冷静で、静かで、愛情をそれでも深く持っている人だった。恐る恐る現す人だった。なのに、何故?
もしかしたら思い過ごしかもしれない。見間違い。寂しかった心が幻想で映っただけ。まるで鏡……みたいに。
ロサはくるっと振り返った。
「ただいま」
ブランカはコートを開き、ビリジアンのマフラーを取っているところだった。まとめている髪をほどいてボブに戻すブランカはロサを見ると、白い顔をしているので驚いた。それ以上に……。
「泣いているの……?」
ロサの手は狂気に鏡を割りかけてぎゅっと握り締めた。
「おかえり」
涙をぬぐった手の甲のひやっとした冷たさに息を漏らし、うつむく目が上げられなかった。
ブランカは駆け寄って肩を持ち、頬にキスをしようとした。
パンッ
「!」
ブランカは驚き、頬を手の甲で押さえてロサを見た。
「浮気者!」
声がびんっと響き、ぶわっと涙が零れた。
「子供扱いしてたのね?! 他の女とずっと浮気してたんでしょう! だからあたしといてもつまらなかったのね!!」
「ロサ、」
彼女は自分のマントコートを掴んで出て行った。
「待って! ロサ!!」
ブランカの姿が両方の鏡に映り、まるで魔力が働いたように動けなくさせた。それは愛情の尺度なんかではない。ロサのこともおっかなびっくりだけれど確実に愛しているのだ。ただ、方法が分からないだけで不器用な自分が素直に表せないだけで、壊したくないから。鏡の様に全てを映して、割れてしまったら鋭く傷つけてしまうことが怖い。
キスは確かにリリアンと先ほどした。けれど、それ以上はしていないし久し振りに会ったから食事をして、それで共に不動産屋を回って、それで戻ってきたのだ。まさか、その一度のキスを見られていたなんて。
行く当てがあるわけじゃ無い。カフェから出ると酒も飲んだからなお更落ち込んでいた。なんで窓辺で過ごしていたのだろうか。でなければあんな場面を目撃することは無かった。
振り返ってもブランカは追ってきてはいない。いつも行かないお店を選んだから現れる確立も無い。許せる? 分からない。浮気なんてされたこと無かった。自分もしたことは無いし、今までは愛が終ったために別れてきたのだ。相手が横暴だったりドSだったりとかしたわけでは無かった。この今の心への衝動はどうだろうか。静かな人だから、まさかあんなショックを与えてくるようなことがあるなんて思わなかった。自分の色に染められるとも思っていたのだ。鏡みたいに同じ動作をするような人というのではない。全く違った者同士、価値観だって違うままに、愛情を同じく互いに向け合うにはもっともの人だと。
何も言わない人だから、同じ感情だと勘違いしていたのだろうか。ブランカにとって、この間柄はそんなに軽いものだったというの? まさかそれは無いわ。ひとつひとつの愛を大切にするわ。
街角に来ると、壁に背をつけた。夜空を見上げる。
「どうして?」
あの時、鏡売りに声を掛けて、そして始まった愛の生活。間違いじゃないわ。今だって好きだわ。
浮気だったの? あの相手は誰だったの? 何故?
「ロサ……」
ブランカを見た。彼女はマフラーを持っていて、風の当たるロサの首元にふわりと巻きつけた。
「さっきの人……スペインの高校時代の初恋の人だったの。キスだけよ。こんな言い方したら怒るかもしれないけれど、一緒に食べて、彼女が一人暮らしする部屋を探すのを手伝ってあげただけ。こっちに来て、それであたしを訪ねて頼ってきたというの。助けになりたくて、それで」
ロサは静かに彼女の瞳を見つめながら聴いていたけれど、そっと相槌を打った。ブランカは一度もその泣き濡った目を反らすことはなかったし、今まで見たこと無かったぐらいに耳まで紅くして泣いていた。ロサは年上の恋人をそっと引き寄せた。
「信じる。信じるわ、愛するブランカ」
「ごめんなさい、不安にさせて、ロサ」
肩がブランカの体温に染まり、ロサは微笑んで息をついた。自分が染められていたのだと気づく。ブランカに。薔薇が白く染められていっていたのだ。ブランカ色に。一緒に眠るときも、窓から星を眺めるときも、ええ。元は、鏡を売っていた彼女に魅せられて染まったのが始まりで……。
ロサはブランカと強く包括しあい、その二人を月が照らした。その明かりは彼女達を離れさせないヴェールみたいで……。
「浮かない顔ね」
肘をついてゆったり頬杖をついていたロサの友人メリーザが顔を傾けて覗き込んだ。緩い髪を小さな耳にかけてあげると頬を指で撫でてあげる。
「ちょっとね」
食堂でコーヒーを傾けていると少しは気持ちが落ち着く。疑惑はこんなにも根深く心に針をおとすなんて思いも拠らなかった。この小さな耳から入ってきたブランカの甘い許しの言葉を鵜呑みにしていられればいいのに、そこはかとない焦りが心にあるのだ。大人な雰囲気を持ったブランカの友人。初恋の相手。あたしの方が若いし、どちらかというと可愛い顔立ちをしているし、時々履くロマンティックなスカートだって似合う。しかし、恋のライバルになりうる女性は大人の女だった。まるで草原を体現するような爽やかな笑みを感じた。ああいう人が、好みだったんだ……。
「あたしはあたしよね」
「え? いきなり自信喪失? 他の誰だというの? 誰かになりたいの? それはロサらしくない」
「分かってる」
メリーザは彼女の性癖は知らないが、恋人がいることも聞くし「鏡の様な人」と言っているので自我が強いロサにしては珍しい恋人を選んだものだと思っていた。自分を重ねられるほど同じ人だと。どのあたりが? と訪ねると「分からないけれど、感じるのよ」と曖昧なことを言う。先ほどの質問は、もしかして恋仲が芳しくないという意味なのだろうか。自分だけがその鏡の人から遠ざかっていくか、相手が遠ざかろうとしているのか。
「あなた、変わりたいの?」
「気づいたの。変わることって必要なんだって。確かに自分らしさは大切よ? でも、誰か大切な人に愛されていると、盲目になって自分に自信がついてこれでいいんだって思うけど……」
「恋人の気持ちが離れていく前にその人に染まりたくなったのね」
「負けを認めるような気分だわ」
「ロサ」
細い手を重ねるとメリーザは言った。
「恋に一筋なのは素敵だわ。恋をするうちになんでもしてみればいいと思うの。満足いくまで、それが愛を育てる行動の一つだとも思うわ」
メリーザ自身が彼氏と五年間続いている子で、冷静な性格なのだがどこか性格の面でドジなところがあり可愛らしくてロサ自身ももだえるほど抱きしめたくなる時がある。装って冷静にしているのでは無く、本当に明晰なメリーザがなぜかふとドジなことをやらかすのがお茶目でしかたなく、その辺りも彼氏は彼女を放っておけない魅力なのだと言っていた。彼女たちは彼女達同士の愛し方があって、それで成り立っているのだ。
ロサが部屋に戻ると、パンプスを玄関口で履き替えて揺れる黒いマフラーストール先の細い足首をふとみつめた。ぱたんと落ちるパンプス。スキニーなパンツ。それにベージュトレンチコートに包まれる灰色のセーター。彼女は裸足のまま、姿鏡の前までふらりと歩いてみていた。
「………」
赤いルージュ。長くてエレガントな黒髪。焦げ茶の瞳。眼力がある。アンダルシアの馬みたいに勇ましい顔立ち。自分はいつでも、いつでも自分に自信を持って顔を上げて生きてきた。自分の性癖がどんなに周りから受け入れがたい時もあるだろうが、それでも恋に生きた。確かに愛の終わりは毎回自信をなくしてしまうことだってそれはあったけれど、それでも恋をしてきた。同じ女性、同じ柔らかな体、同じぐらい繊細は心、そして同じぐらいに激しさだってあった。敗れたり勝ち取ったりの連続だったけれど、今の愛はどれもが今までの一番。ずっと恋はその時の一番だった。少し大人な付き合いができるようになった自分と、はしゃいできた前の愛とはまた違う面をどんどん見せるもの。
「髪型……変えようかしら」
なにも、あのブランカの友人のようになりたいなんて思わない。もっとロサ、自分らしさを出したいのだ。反面的にあのブランカの友人とは全く反対の位置に行ってブランカが今愛しているのは自分の事なのだと……。違うわ。それがブランカを勝ち取る正式な方法なのでは無い。自分らしさを見失ってはいけない。
「恋はこんなにも自己を見失わせるものなのね……」
ロサは俯き、その場にしゃがんで頭を抱えた。髪が美しい顔を隠し、歯の奥を噛み締める。愛に盲信したってかまわない、それを体と体で向き合って表現しきれていなかったのかもしれない。ヴェール先……鏡の硝子面に今まで隔たれていたのだ。だからブランカは静寂だったのをそのままに自分はさせていたのだ。その硝子を越えて、あの見た目はエレガントな枠を越えて、心と心だけで飾りなど無い『自分』で愛し合うということ。それが愛なのだわ。
重厚なまつげのまぶたを開き、立ち上がった。
鏡にはロサが映る。
「これが、あたし」
ブランカは複雑な心境だった。自分を心を今例えれば、壊れかけの懐中時計のようなものなのだと思った。しっかりとロサという存在があって動いている懐中時計が、自分という歯車で今まで愛をすすめていたけれど、初恋の相手という存在が再び現れてそのせわしなく動く秒針が狂わせてくる。秒針が歯車を、強制的に。それがロサに影響してくるだろうことは恐怖だった。こんなに可愛いロサを愛しているのに、リリアンという存在は秒針よりも早くブランカの鼓動を早くさせる。無邪気に相談してくるリリアンは酒で酔っていて夜のキスを覚えていなかった。
そして今、ブランカの目の前にリリアンが青年を連れてきたのだ。
「彼のポールよ。もう付き合って三年になるかしら。ね」
そのポールという青年はどこか間抜けな雰囲気が拭い去れなかった。きっとリリアンの方が気が強いし彼を引っ張っていっているのかもしれない。年齢は彼の方が上の印象がある。服装だって何というか、パンツにしまわれたシャツはチェックで、短髪は刈り上げられている。腕は太い。背も高いのだがのぼっとた感じだった。
「彼は軍の出でね、病院で知り合ったの。あたし以前風邪を酷くこじらせたことがあって入院したのよ。そこで彼が除隊した後のカウンセリングというやつで病院に来ていて、病院内をうろついていたあたしとぶつかってね。それでなんだか一目惚れ」
ブランカは「へえ……」とただただ頷いていて、優しい目元の青年が照れて笑う顔からリリアンを見た。
「仲が良さそうだわ」
言葉は宙を浮いてばらばらになってテーブルに落ちた。どうしてもブランカには興味の引かれない男はブランカに予想以上の気持ちを作らせていた。自分の方が勝っているのでは? という気持ちと、張り合う気も起きないほど拍子抜けした、という両局面の脱力感だった。ただ、それはそれはリリアンを大切にしてくれているのだろう……。
ブランカは微笑んで、彼を見た。
「大切な友人を愛してくれていてどうもありがとう」
「実はね……、結婚を控えているの。今年のことよ。彼は国に戻ってしまうからあたしだけフランスに残るんだけれど、それもしばらくしたら一緒になるから新しい部屋を探すわ。それまではよろしく。ブランカ」
「ええ……」
ショックを受けて二人を交互に見た。結婚。恋下手だった自分の初恋相手の結婚。
「あの……ちょっと失礼するわね」
耐え切れずにブランカは席を立った。
「ブランカ?」
走って行き、手洗いに駆け込んでこみ上げてきたものがいきなり溢れて涙塗れになった。
「ロサがいるのに、ロサがいるのに」
ブランカは小さく震え呟き続け、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。このままでは駄目だという心と、リリアンから離れなければと思う心と、奪ってしまいたいという渦巻く気持ち……。
「ブランカ」
まるで囁く声は自分のファムファタールに思えた。意地悪な人では無い。リリアンは底抜けに。なのに、今の思い悩む自分にはその彼女さえもどんなに自分をいけなくする存在になりうるか……。
ブランカは肩に手を掛けられたと同時に手首を掴み唇を奪っていた。驚いたリリアンの脈が一気に上がり頬を濡らすブランカの頬を見て開かれた目を見た。
「ごめんなさい、好きだったの……リリアン、あなたの事が」
ブランカが離れて行き、背後の壁に粒かって細い体が揺れて一度俯き、小さく言った。
「駄目だわ。あなたに協力出来ない。あたしには彼女がいるの。彼女のこと愛してるのに、これから幸せになるあなたと一緒にいたらあたしも彼女との関係も崩れてしまう。それが恐いわ。本当にごめんなさい」
彼女は走って出て行き、全ての後悔を抱えながら泣き続けた。
美術館にいて、一人心が空になりながらただただ一点の絵画をおぼろげに見つめていた。もう心を動かすことに疲れて、少しだけ、休んでいたい。しばらくその絵を見つめ続けていた。
とぼとぼと家路に着くころ、携帯電話に連絡が入った。
「ブランカ」
「………。リリアン」
「今日はごめんなさい……」
「何を言うのよ。謝るのはあたしだわ……。でも、安心して。あたしの会社にパリに詳しい子がいるの。とてもいい子で親身になってくれるから、彼女に協力させてあげてね……」
出来るだけ明るい声で言おうと思ったのに無理だった。なんてあたしは心が弱いんだろう? ブランカは星を見上げた。
「ありがとう。ブランカ」
ブランカは星のきらめきを見上げて、昔のことを思い出した。
『白い百合』と、友人達が二人のことを呼ぶ事があった。懐かしい呼び名。
今は『白い薔薇』。なんの遜色も無い愛の形が出来上がっているのだから。ロサとブランカ。あたしであってロサである人。ブランカであって彼女である不思議な感覚の子。時に大人びすぎているロサ。理由も分からずに大好きよ。一緒にいて、ただただ心がリラックスするの。つまらないなんて思ってないわ。一緒にいやすいの。話してなくても分かる気がして、まるで窓辺の白薔薇の蔦の様に、甘く絡み合う心の存在。
「あたしの方もありがとう。リリアン。あなたの事が好きでいられた過去はとても素敵な経験だった」
「今の人と、しあわせなのね」
「ええ。とても」
だからこそ、もう少し感情を口に表すことをしなければと思った。口に出さなければ、リリアンの時みたいに気づいてもらえない。どんなに今ロサ自身が大切なのかと云うことを。ロサを不安がらせたのだから。
「応援しているわ。優しい目をした彼とのこと」
「ありがとう」
彼女が照れて笑っているだろう顔が声からでも分かるほどよくあの頃はリリアンを見ていた。
「また落ち着いたら、これからも友人でいさせてもらいたいの。リリアン。その時はあたしの愛する彼女のことも紹介させてね」
「もちろんよ、ブランカ!」
星は流れてどこかへ彷徨っていく。それは心の内側に巡る宇宙かもしれない。心を乗せて、どこか分からない場所へ流れていくのが。どうか、その先にある場所にロサの心が光り漂っていますように……。
愛の形と云うものは何なのだろうか。リリアンは上の空で石畳を見ていた。
「どうしたんだい?」
ポールは彼女の横にコーヒーカップを置いた。
「あ、ええ。何でもないわ」
彼は彼女の表情を見て、「そうかな」と正直思ったが言わないで置いた。割と感が鋭い部分がたまに自分でも嫌になるポールだが、その部分は軍でも長所にはなった所だ。問題は感受性が強くなる部分が良くなかった。リリアンからはそこからくる優しさをよく褒められるのだが、それらから出てくる感の良さは時に邪魔になる。
昨日紹介されたあの美しい女性。どこかミステリアスな雰囲気があった。猫の様に鋭い目をしていた。どこかへ行ってしまった後は戻ってこなかったのも気がかりだったが、どこか自分がリリアンを見つめるときの顔と彼女がリリアンだけに向けるまなざしは同じに見えた。女同士は束縛しあう事がある。特に女子校の出なのでそれらがあるのではないだろうか。自分だけの人にしておきたい、という心が。それが恋や愛に充分なりうることがすぐに予想できた。
ポールは椅子ぬ座るとあまり彼女の様子を見過ぎないようにコーヒーを傾けた。きっとあの後何かがあったに違いない。こんなにぼうっとしたリリアンは初めてだ。いろいろと分かってしまう分、それらを上手に出さずにいることが自分には出来るのでうまくいっている事もあった。第一、愛するものは守らなければという精神が強い。
リリアンはあのキスの後からドキドキが収まらずに仕方が無かった。思い返せばよく彼女が自分を見てきていた。それがまさか恋心からだったなんて。昨夜の電話で「諦める」という言葉に少なからず消沈したのは事実だ。いきなり告げられて諦められて、それが普段冷静な相手だったから特に突き動かされて焦ったのかもしれない。
「ね。正直言うんだけれど」
それがリリアンの性格だとポールは分かっているので、穏やかに耳を傾けた。
「うん」
「あの子、魅力的よね。今まで気づかなかったけれど久し振りに会って美しくなってて。でも、この心は再会の衝動がさせてるだけかもしれない」
「うーん……良い事だとは思うよ。どんな形にせよ、良い方向に心が動かされるのは栄養になるんじゃないかな」
「ほどほどにしておくわ」
「ああ」
髪にキスをしてから二人で街並を見た。ポールと話していると、やはり安心して彼に戻っていくのだろうと思う。ポールの肩にこめかみを乗せて流れる音楽に耳を傾け続けた。
リリアンはメドリーという子を紹介されていたので、待ち合わせのカフェに来ていた。ポールはあと二日したら帰ってしまう。今はリリアンがこれからどんなところで生活するかを確認しに来たのだ。
「話は伺っているわ。あたしに任せて。比較的部屋も近いみたいだし、なんでも聞きに来てくれていいから、この連絡先も登録お願いします」
「助かるわ。いい人を紹介してもらって良かった」
「ふふ」
メドリーはにっこり微笑んだ。ブランカお嬢様の友人なので特に失礼の無いようにと思っている。思った以上に爽やかな人でメドリーは安心していた。ブランカ自身がどこかプライベートでは寡黙な人なのでどういった友人関係があるのかを一切知らずにいたのだ。
その後メドリーはリリアンと共通の話題を見つけて親近感を持ち、これからそつなくやっていけるだろうと確信を持てた。その事をブランカに伝える。
「どうもありがとう。本当に助かったわ、メドリー」
ブランカは畳んだ衣服を仕舞ってから肩と耳に挟んでいた受話器を手に持ってキッチンに来た。
「申し訳ないけれど、彼女の事よろしくお願いします」
「任せてください。いい友人になれると思いますわ」
「良かった。今日、共に食事をしない?」
ロサは今日サークル仲間との飲みで遅くなると言っていたのだ。メドリーが返事をして共に食事をすることになった。
宵の時刻、メドリーが部屋に来ると今日はシェアを組んでいる『同居人』の女子大生、ロサがいないことを知らされた。メドリーは持ち寄ったワインをブランカに渡すと一緒にキッチンに立って料理を手伝った。普段あまり使われないキッチンなので手軽なものを作るばかりだ。量はある。
そんなこんなでロサが帰ってくると、何やら珍しく笑い声がしていた。ブランカが酔いすぎると笑い上戸だとは知らないロサなので、首をかしげながら入って行った。
「あら。いらっしゃい」
そこにはテーブルの上を数本の酒瓶をあけた状態の二人がいた。
「ロサ。お邪魔してるわ。ああ、もう飲みすぎてしまって」
メドリーも可笑しくて笑っていてロサは歩いていった。こんなに酔ったブランカは初めてだった。もうふらふらしていて何を言ってるのかわからない。
「バッカスに誘われて惑わされているのよ!」
「まあ、ブランカったら凄い飲んだのね」
メドリーは微笑んでウインクした。
「たまにね、笑い上戸になるの。安心して。酷くは酔わないから」
既に食器は洗われた状態で台の上に並べ置かれている。ブランカはソファにすやすや眠り始めた。メドリーもそれを見て睡魔がやってきたらしく、テーブルに頬を乗せて眠り始めた。ロサはやれやれ微笑んで姉さん方の飲んだ酒瓶を片付けていくとワイングラスを洗い、彼女達の肩に毛布をかけてあげた。ブランカは何かふっきれたような顔で微笑み眠っていて、ロサは愛しくて頬にキスを寄せた。さっとメドリーを見るが、眠ったままだったから安心した。
続く
木蓮の薫り~調和の幻想~
マグノリア嬢
彼女が白い指をかかげればクリスタルの様な声音が男を呼んだ。目元は黒いシルクがかけられ、白い腕をのぞかせる深いワインレッドのドレスでしなだれる一人掛けのソファー。レッドルージュが美しく潤い、表情はないと思われる。
愛情の一手が添えられて、優しい眼差しが彼女に影を落とす。彼の名はクレナス・ドルンといった。マグノリア嬢の柔らかく甘い薫りに誘われたかのようにある日、この彼女の庭園へとやってきた。そこから彼は彼女に愛情を捧げ続けてどれほどだろうか。
彼女は彼の手に手を置き立ち上がり、そして歩き進んで行った。
クレナスは彼女の微笑みを知らない。伏せられた目はシルクに覆われ、開かれるのは決められた時だった。
≪専属の能力者≫として生まれてきた彼女は通称マグノリアと呼ばれ、≪薫る花連盟≫の一人だった。クレナスはその祭儀の際に訪れたもので、当時はまだ十五の若者でそれまでは≪花摘み男≫をしていた。花摘み男とは祭の花を摘んでいき歌を捧げる少年達のことで、それを≪花舞い乙女≫達が周りを舞いながら香水蒸留所までの路を進んでいくものだった。
元々クレナスはその祭儀の裏の目的を知らなかった。特定の能力者たちが集められ、そして行われる儀式があったのだ。蒸留のされる花々の薫り、そしてそれらから取れた貴重な精油。その美しさに誘われて彼は舞いの一団から一人、離れて行っていた。路からそれて緑の庭を進み、明るくだんだんと見え始めたのは白い舘の前に広がる庭だった。花はどうもみられない。だが、強い薫りはただよっていた。通常、この時期ともなれば家々の庭や路には色とりどりの季節の愛らしい花があふれて目を楽しませ、心をどこまでも和ませるのだが、緑の庭は可愛らしい花にその鼻を近づけずとも芳香が充たしていた。まるで初夏の先を先取りしたように鮮やかな緑の庭。そこへ足を踏み入れた彼は立ち止まって一団を見る。
黒いローブを纏った大人たちがおり、そしてその間に数名の若者がいた。いくつかの瓶があり、そこから薫りがするのだという感覚があった。きっと、花弁が集められているのだろうと。それぞれの花の。花の群生する場所や花のなる木があればその場所は薫りに充たされ、風が吹けばそれらに包まれることと同じで。
一際若者の内に一人際立つ子がいた。それは波打つ金髪がフードから長くもれる少女で、大きな金の高杯を手にしていた。それには白木蓮と薄紅かかる木蓮の花弁が乗せられており、彼女の愛らしい顔立ちのしたに柔らかく薫っているようで、とても穏やかな微笑みを称えている。フードが下ろされる。
『本日より、お前をマグノリアと名づける』
老年の男がそれを言い、金の飾りのついた長い棒を掲げるとその天辺に太陽の光りが宿った。そして彼女の頭にそっとその飾りが当てられ、白いローブを着た女達が微笑んで彼女の頭に金の鎖と共に花冠を載せた。
クレナス少年はしばらく彼女に見惚れて木々の下から見つめていた。レースとして下がるような葉の影にいた彼に一瞬をおいて気付いたのはマグノリアと命名された少女だった。緑の瞳で見つめてくると、とても、とても柔らかな笑顔で見てきた。
その時、少女はクレナスより一つ年上の十六の年齢だった。≪薫る花連盟≫には十六から加盟される。それまでを人知れず森で修行を積み、連盟に貢献できるまでに育てられるのだ。子供の頃から選出される≪花摘み男≫や≪花舞い乙女≫のクレナス達とはまた一線を駕す彼らは、王様に直接仕えることになり花の名をつけられる。
目隠しをされたマグノリアをつれ、室内から歩いていく。
アネモネ伯爵
「紫のアネモネには限りない妖艶さと危うさ、魔力を感じる。それにそこはかとない甘い愛らしさもね。薫りがとても素敵で見た目も本当に愛らしい。群生して咲く姿は強さも感じるよ。「孤独」からの「自由」、それは甘い薫りとして解き放たれるのだとしたらとても素敵なことだ」
アネモネと名づけられた男はクレナスを見ると、彼はアネモネ伯爵に頷いた。遠い昔の儀式に現れた少年はあの頃からマグノリア嬢のボディガードの様に彼女につき、行動を共にしている。そんな姿が愛しくも思えた。
スタイリッシュな黒い装いのアネモネ伯爵の斜め背後には色とりどりのアネモネの花が大きな花瓶に生けられ彼を彩っていた。黒髪に青い瞳の彼は鋭い眼差しをしている。常にはめている白い手袋の手は今組まれていた。
彼はその手を素肌に当てれば人の心が読めた。マグノリアはその目を開き見れば先見の能力があった。あと一人今この空間に共にいる婦人は黒いスカーフで耳元と口許を覆われ、それをはずせば耳から過去が聞き取られるのだった。その婦人の名はクレナスには知らされていなかった。冷美な眼差しの彼女は今まで人のどんな過去を見てきたのか、それらを飲み込んできたのだろう。孤高のものを感じた。ガーネットのネックレスがいつでも特徴的で、クレナスは彼女をガーネット婦人と呼んでいた。そして鋭いアネモネ伯爵の瞳は人の心を見抜く能力のもと、時に恐いものさえ感じる。その能力で今まで王に仕えて城の裏切り者や謀反者を捕らえさせてきたのだ。マグノリア嬢は人の顔を集中して見続けると将来が見えてしまうので、出来るだけ目隠しをすることを好んだ。
その彼らが何故、香水の作られる時期に≪薫る花連盟≫と名づけられた者達のもとで花の名をつけられるのか。それは「花」というものが純粋であることからだった。花はそのままの環境によって影響を受ける。風か水や光、そして状況までも読み取る。まず修行する彼らは花というもののありのままの姿を体のすみずみまで受け入れさせその感覚を取得することから始まった。森のなかで続けられる繊細な修行と自然との一体化のなされる無垢な体。そして能力が覚醒する。
時に触れずとも人となりをみて心が予測できるようになっているアネモネ伯爵は、常にクレナスから感じるマグノリア嬢への深い愛情を読み取るが、微笑ましくはあってもそれは男から見た感覚でもあるのだろう。表情の無いマグノリア嬢の隠された目元はそれだけでも美しいが、心は鍵が掛けられた鎧戸を目の前にしている様に頑なだった。
アネモネはクレナスの横顔を見ては小さく息を飲み込んだ。開放させてやることが望ましいのではないか。マグノリア嬢が安堵できるのは一人になることだ。きっと、彼女はクレナスを愛しているのだろう。だからこそ彼の将来を見ることをしたくは無い。あの命名式での鮮やかな明るい緑の庭先に見た少年。薔薇色の頬をしたブラウン髪のクレナスを見た瞬間に、もしかしたら見えていたのかもしれない。彼との家庭が。だが、先見の能力のある自分は先々の全てまで見えてしまう。それを恐れた結果、滑らかな黒いシルクは彼女の目を必要なときに覆った。
愛とは交差しては一体化を見せるには、互いの感情を見せ合わなければならない。心でも充分と通じ合うこともある。愛とは、深いものなのだ。
続く
ネムの薫り
白鳥 路緒 (しらとり みちお)
白鳥 貴堵 (しらとり たかと)路緒の姉
上条 誠也 (かみじょう せいや)貴堵の彼氏
青羽 瑠那 (あおば るな) 貴堵の恩師
黒谷 波子 (くろたに なみこ)路緒の彼女
碧峰 カレン (あおみね かれん)路緒の妻
北山 りょう (きたやま りょう)カレンの後輩
白夜 (びゃくや) ペットのサモエド犬
1 カレンと路緒 現在
ネムの木 見つけた 暮れ時に
その葉に触れれば 静かに綴じる
そっと瞼を伏せたみたいに 乙女がその手を握ったように
白と紅色 ぼんぼんみたい 幾方にも伸ばした雄蕊
樹木の間に見え隠れ ネムの木 ネムの木 見つけた
覗いた枝花 橙の陽に照らされて
夕陽に光ったネムの花 まるであの子の頬紅のよう……
ネムの花の妖精は女の子。閉ざされた葉の裏から顔を覗かせて、人が歩いていったのを見送る。
黒い七部の背は大きくVに開き、紐で交差され白くなだらかな背がのぞいている。白いフレアのスカートは微かな陽に染まり、黒の細いトレンカの脚はリズミカルに歩いていく。黒のバレエシューズで。
ネムの花の妖精は微笑んでその女の人の夢まで紡ごうと思った。
妖精は緑色の葉の衣裳をまとい、頭にネムの花の帽子をかぶっている。そのぼんぼんは手の甲と足の甲にもついていた。妖精がウインクすれば朝と共に葉は開き、夕方と宵に静かに歌えばその葉は閉ざされる。どこからか風の声がふいに聞こえたら、それは彼らの小夜曲かもしれない。
女の人、白鳥カレンは自宅のフェンスをくぐり、左右に様々な低木や中木の植えられる庭を進む。明るいレンガの路が蛇行して家まで続いていた。こじんまりとした洋館は窓の上部が色ガラスが嵌められており、そのあたりはフランク・ライト・ロイドを思わせるものがある。それでも家自体は明るい色調であり、壁にはツタが張っていた。
「ただいま」
真鍮のノブを手に葡萄のステンドグラスが丸窓になるドアを開ける。今の時間は真っ白いサモエド犬が彼女を出迎えた。
「ただいま、白夜」
白夜と名づけられた白く毛足の長い犬は笑顔で彼女を見上げて横を歩いていく。
「今日はね、ご近所さんでネムの木を見つけたのよ。時には普段通らない路も出歩いてみるものね」
彼女はアイアンのフェンスがカーブを描く階段を上がって行き、白夜も続く。
青いガラスに月とプレイアデスのステンドグラスが丸くはまるドアを開ける。カレンの部屋だ。
彼女は先ほど近所のおばさんからいただいたカップ咲の秋薔薇をベッドに置いた。滑らかなレースのカーテンを開く。扉窓を開け、夕陽が先ほどの淡いピンク色の薔薇の花を透明に染め上げた。白夜の白い毛も。ベランダのアイアンフェンスは葡萄の房と蔓葉がモチーフなので、それらが床に陰となって黄金色に伸びている。カレンがそこを進んでいく。
ここからはあのネムの木が生えた果樹園は少しだけ見えるけれど、ネムの木は隠れていた。その果樹はオレンジが植えられたところだという記憶がある。その路側にネムは咲いていた。まだ高木にはなっていなかったから、植えられて長い年月はたっていないのだろう。外気は風もなく静かだ。小鳥が空を翔けていく。
ベッドに戻ると、薔薇の横に座って微笑みその薫りを楽しんだ。甘い甘い薫りがする。乙女の薫りだ。
カレンは花の薫りを楽しむことが好きだ。時に薫りのない花もあるけれど、どの姿も可憐で美しい。ネムの花の薫りは不明だった。柵の先にあったから。
ネムの花は好きで彼女は花の絵付けのされたティーカップをセットで持っていた。それは四季毎にシリーズとなったもので、繊細なネムの花の描かれたティーセットもある。彼女はキャビネットからそのセットを出し、紅茶を飲むことにする。
「ね。白夜。夜、散歩に出てみましょう。今宵の月は明るいわ」
月齢カレンダーでは2,4。時期的に月が明るい。
彼女はプレートにカップアンドソーサーをいれ、部屋を出た。一階のキッチンで紅茶を入れるのだ。
キッチンに来ると、棚から紅茶葉の入る陶器を出して、ポット、銀器の葉濾し、ティースプーンを出す。お湯を沸かし始めるうちに、甘いお菓子を用意する。お皿に盛りつけた。用意が整うと紅茶もいれて運ぶ。テラスに出て涼しい宵に彼が帰ってくるまで紅茶をいただいた。白夜は水を飲む。
ソーサーを持ち上げカップを傾ける。庭は静かだ。暗くなり始めるこの時間はいつでも空気が変わる。漂う薫りも透明度が増す。
彼女はしばし黄金に光る宵の星を見上げ、時を過ごした。ティーカップのネムの絵も、夜色に染まっていく。
今日、路緒(みちお)は帰ってこなかった……。
カレンは漆喰壁でドーム型になったリビングの白いソファで白夜を腕に抱え頬を寄せながら、帰りを待っていた。だけれど、彼は帰ってこない。
「………」
彼女は紫色のストールを引き寄せ、静かに目を綴じた。白夜がその蒼白したように色味のない頬に鼻先をそっとつけた。白夜も眠りに入る。
カレンは夜の庭を歩いていた。青い光りがいくつも不思議と飛んでいる。
様々な低木の間を歩いていっている。
「あたし、彼の帰りが遅くなるなら白夜と夜の散歩に出るつもりだったわ」
独り言をいいながら歩き、彼女は庭の木々の向こうを見た。
「あら……」
その奥には、この庭には無いはずのネムの木があった。それはあの淡い夕暮れに見た木と同じ。彼女は歩いていく。
いきなり肩を引かれ、驚いて暗いなかを振り返った。
「……?」
そこには見た事のない男性が佇んでいる。ゆったりした袖の白いシャツと白っぽいパンツの男性で、静かだが精悍な顔立ちをしている。
「カレン。一人で出歩くのなら俺を呼んでくれなければ」
「まあ。白夜ったら」
カレンは不思議にその男性があのサモエド犬の白夜なのだと分かった気がした。ここが夢の世界なのだと分かっているわけでもないのに。その男性は緩く髪をまとめており、白い毛の帽子を被っていた。彼は雄犬で、家にいるといつでもカレンの横にいる。そして可愛い笑顔で見上げてきているのだ。うれしげに尻尾を振りながら。
彼はカレンをエスコートして夜の庭を歩いた。
ネムの木は近付く。そうすると、彼女は何かに気づいた。先ほどからネムの木が黄金にところどころ光っていると思ったら、それらは乙女の妖精達だったのだ。ふわり、ふわりと浮かんでいた。
カレンはうれしくなってそっと近付いていった。
「愛らしいわ」
そっと言い、彼女の白い頬に光りが広がる。柔和に。
「今晩は。またお会いしましたね」
カレンは妖精を見た。とても愛らしい妖精を。
「元気が無いのね。涙をふいて」
カレンは泣いてはいなかったけれど、純粋な妖精には心の涙が透明に光るのが見えていた。
ネムの花の妖精は優しく微笑むと、そっとネムの花で出来たチークブラシでさっと彼女の白い頬に淡紅色を乗せる。
カレンは頬に触れ、白夜が彼女の顔を見て微笑んだ。
「うん。魅力的だ」
カレンは照れて微笑んだ。
「笑顔が素敵」
「笑顔は優しい心」
妖精たちが言い、宙で輪になって回る。
「少し、夢のなかにいたいな……」
庭にある大きな木の根っこはとても複雑な形をしている。そこに二人で座って、ネムの花の柔らかさを見つめながら聴く。彼女達が歌う小夜曲を……。
路緒とカレンは六年前に出逢って結婚した。互いが現在二十五歳で、結婚四年目の夫婦だった。子供は作らない主義と決めているので夫婦水入らず、サモエド犬の白夜と暮らしている。だが、半年前から路緒は帰りがとても遅くなった。朝に帰ってくることさえある。お酒も飲まないし、娯楽もたしなみは無い。趣味はカレンとの美術館巡りや白夜をつれた遠出の公園巡りだったり、林の散策などで、性格も優しくて素敵な人だ。それだからずっとこの半年間も信頼しきっていたのだが、この所はちょっと、寂しい。
彼が帰ってきて理由を聞くことは今まで無かった。彼は帰ってくると優しく微笑み彼女の頬や額にそっとキスを寄せ、「ただいま」と言う。それが深夜でも、朝でも、夕方でも、今までの通りに。
彼は幼児から少女までの服のブランドを持っていて、実に可愛らしい西洋デザインの服が個人店には取り揃えられている。そのデザインの関係やモデルの子たちが決まったあとのカメラマンとの打ち合わせなど、今の時期は春物のコレクションのことで忙しいこともあるから特に仕事の話はしない。彼の部下には女の子もいないし、彼のお店の横にあるバーはジャズバーで、初老から落ち着き払ったおじさま、おばさま方の憩いの場だ。だから何か疑うべき陰などは無い。
カレンがふと目を覚ますと、夜だった。
夢を見ていた気がしたけれど、気のせいかしら。ソファで寄り添う白夜は背を丸めて眠っている。
「カレン」
暗がりの奥から彼が歩いてきたのが分かった。
「路緒さん。おかえりなさい」
彼はカップを持ち湯気を立たせて歩いてきては、ここまで来ると彼女の背後から射す眩しいほど明るい月光に姿を照らされ、微笑んで言った。
「ただいま。カレン」
そして膝を付き、彼女の額にキスを寄せる。彼女も微笑む。
「おかえりなさい」
彼はカップを差し出した。
「あなたのでしょ? いいの」
「いいんだ。僕のはまたいれるから」
「ありがとう」
彼女は受け取り、路緒は白夜の向こうに座った。
「さっきね、夢を見たわ」
「どんな?」
「ネムの木を散歩していて見つけたの。それが庭にもあって、黄金に光ってた。その夢」
「あの花、可愛いからな」
カレンは白夜の毛並みを撫でてから言った。
「ね。ネムの花の絵が描かれたドレスワンピース、可愛いんじゃないかしら。葉をアールデコに描くの」
「そうだな。可愛い。オフホワイトの生地に淡い色彩で」
彼女の髪を撫でる。
「……いつも遅くなってごめんな」
「あなた」
カレンは彼の横顔を見た。
「何かあるなら、何でもいいの。言って」
彼ははにかみ、小さく頷いた。
「力になりたいわ」
彼の指輪のはめられる手の甲に細い手を置いた。
その時、何か思い出した気がした。ええ。夢のこと。こうやって、優しく頬に触れた。それはキスみたいに。ネムの花の妖精が淋しくて泣くカレンの夢に現れてくれて、そして元気を出してと頬に紅を乗せてくれた。あの愛らしいネムの花で。
彼も何かがあって落ち込んでいたのかもしれない。カレンがずっと淋しがっていることと同じで、何か他の理由で。
「ヨーロッパに?」
カレンは横に支柱から釣る下がり揺れるランタンに明かりを灯してから彼の横に戻り、聞き返した。
四方を青いガラスで透かし、下方を透明なガラスで覆われて二種類の色の明かりが周りには広がっていた。
「僕のブランドを気に入ってくれた人がいてね、一年を通したコレクションを判断してヨーロッパでも販売をしてみたらどうかと言ってくれたんだ。ただ、店を出すまでには難しいから、あちらのセレクトショップに置かせてもらうことや、インターネットでの販売をしてみたらって。それで、次期春夏コレクションが終ったら判断してくれる。それでいろいろと最近は半年間デザインやパタンナーとかに時間が持っていかれていてね」
「素晴らしいことね路緒さん!」
カレンは頬が染まって路緒を見つめた。
「あなたのロマンティックなデザインはもちろんヨーロッパの可愛らしい女の子たちにもとても似合うはずよ」
「どうもありがとう」
彼の青い鳥と黒い鳥篭をモチーフにしたドレスワンピースはカレンの七歳の姪っ子もとてもお気に入りだった。彼のリアリティのある描写も人気のもとだ。
「君が言うように、ネムの花はとても可愛いよ。それらのデザインを取り入れてみようかな。花のシリーズで」
カレンが頷き、そこで白夜が起き上がって大きな欠伸をした。
「おはよう白夜」
白夜はくうんと鳴いて二人を交互に見ると、いつもの様に一度ご主人様である路緒の手の甲をなめてからソファから降りた。
「今から夜の散歩に出ない?」
「いいね。月の夜に着想を得てデザインが浮かぶかもしれない」
路緒とカレン、白夜は夜の散歩に出る。
月はやはり明るい。
月や星座や星をモチーフにしたら、意外に夜のアンティークローズも似合うかもしれない。
「この路の向こうよ。ネムの木を見つけたの」
「へえ。僕が子供の頃よくみんなで通っていたけど、気づかなかったよ」
二人は歩いていき、白夜は道の端の草花の薫りをかぎながら歩いている。なので二人の歩調もゆっくりだった。
「………」
彼等は街路灯の届かない果樹園の奥を見た。柵の内側にあるネムの木は、今の時間では見当たらない。まるで夕時に見たかげろうか幻だったかのように、夢で会った妖精の気配さえ。
「月明かりが冴えるまえ
星明りが静かな内に
そっと眠りにつきましょう
夢の世界を訪れるため」
カレンは妖精達の歌を口ずさんだ。
「素敵なメロディだね」
「ふふ。ええ」
それはまるで彼女が好きな妖精の世界に流れる歌に思えた。
「朝には銀の滴を抱いて目覚めるの
夜に染められた色も打ち消し」
ネムの木は妖精は静かな闇の内側で眠っていた。誰か、寝ぼすけがむちゃむちゃと歌っているのだろうか? 宵の歌が聞こえる気がする……。
「まあ。思い出したわ」
「何か?」
くすくすとカレンは微笑んで言った。
「白夜がね、人になって夢に現れたの」
「え?」と彼は首をかしげて横を歩く白夜を見下ろした。白夜は同じく首をかしげて彼を見上げながら歩く。そんな彼らを見てカレンは不思議におかしくて、くすくす笑った。
2 カレン 17才
碧峰カレンはセイントブルー学園に通う女学生である。
白いシャツにタイトな黒のカーディガン、プリーツの無い黒い膝上スカートが制服であり、黒いタイツのつま先はローファーだ。
「碧峰先輩」
彼女は後輩を振り返り、北山りょうは颯爽とそこまで来る。サックスのケースを提げて。
「今日の午後、練習に付き合ってもらえますか?」
りょうはアルトサックスを、カレンはソプラノサックスを担当している。秋の鼓笛隊で行事の決まりごとであるこの学園の歌にあわせて演奏行進をするのだが、アルトのパートが難しいのだ。ソプラノが先行してリズムを取る部分があるので、カレンは快く頷いた。
「ええ。いいわよ。本日は充分に時間があるから」
「助かります! ありがとうございます」
二人は共に廊下を歩いていき、噴水がある中庭に来た。
「何なら、今の休み時間でも練習に付き合うわ。持ってくるわね」
カレンはこの庭から比較的近い部室から自身のソプラノサックスを持ってくるために歩いていった。緑が多いこの庭は適度な昼の陽が差し込む。
りょうは木々を見回しながらカレンを待ち、ネムの木のところへ来た。
彼女はじっとその花を見つめる。不思議な花で、とても細い針のような白と淡いピンク色の線を扇状に広げているのだ。触れるとふわふわしているので、触れがたきものを感じる。まるで乙女の秘密かのように。両側に整列する葉は規則正しく、触れると恥らうかのように綴じてしまう。
見つめていると、その花と葉の向こうになにかが動いた気がした。
「りょうちゃん」
彼女はびくっとして茶色の目で振り返り、カレンを見た。
「ネムの花、好きなのね。あたしもよ」
「はい……」
りょうははにかんだ。
「こちらにいらっしゃい」
カレンは手招きして、そのネムの木の裏側、他の木々も並ぶ内側に歩いていった。りょうはどきどきしながらついていく。
「ここに、紫式部もあるのよ。あたしも始めは気づかなかったんだけど、ネムのピンクと、紫式部の紫の小さな房実が重なると可愛いでしょう?」
「あ、本当」
その向こうには大輪の白い薔薇も咲いている。
「さっき、誰かと目があった気がしたんです。ネムの花を見つめていたら」
「まあ。時々現れるタビーの猫かしら」
学園には数匹猫がいる。毛足が長い猫と、短くてがっしりした猫。どちらもタビー柄で灰色の猫だった。一年生でこの前は白い猫も見たと言っていた。何匹が住み着いているのかは分からない。幼稚舎の方では長老と呼ばれる大きな黒猫が出てくるのだが、なんとカレンが幼稚舎にいたときもいたし、もちろんりょうもその黒い猫のおばあさんのことを幼児時代から「魔法使いの猫さん」と呼んでいた。
「猫だったのかも」
りょうもカレンもサックスの準備を始める。
「母が趣味で妖精に関することを調べてるんです。イギリス出身だからそれらには詳しくて。先輩、もしかしたら、ネムの木の妖精だったかも」
「え?」
カレンは彼女を見て、お茶目に横目で見てきた。
「先輩も妖精の絵画展、今度休日に観にいきませんか?」
「へえ。それは楽しいでしょうね。森のギャラリー?」
「はい」
溌剌とした性格のりょうなので妖精という言葉が出てきて少し意外だったものの、昔から見知っている彼女のお母様はやはりロマンティックな人だ。父親は馬やセスナを乗り回す渋い人なのだが、どうやらそちらに似たらしい。行動的でサックスも力がある。将来は成人したらロイヤルエンフィールドに乗りたいらしい。
楽譜を広げると、二人でチューニングを始める。
ネムの木の裏から、悪戯好きの妖精がくすくすと現れて可愛らしい顔を見合わせてから二人の背を見た。二人とも真剣な顔をして楽譜に向き合い、サックスのマウスピースを加えている。
ふうっと息を吹きかけるとネムの雄しべがふわふわ揺れて、あら? と女学生の驚いた声がした。
「一瞬……、マウスピースが細い細いピンク色の線になったかと思ったわ」
妖精は笑って周り手を叩くと彼女達の楽器の周りにネムの花がぱっと花開いて消えて行き、彼女たちを瞬きさせた。
ネムの木の幹に猫がやってきて尻尾をからませて、妖精たちは顔を見合わせてぱっと姿を隠した。
「にゃあ」
カレンが足元を見ると、毛足の長い猫がいた。
「猫よ」
「本当」
さきほどのは幻だったのかしら……。
「あなた、何かを見た?」
猫に確認をとってみると、ただただ一度鳴いてからごろごろと足に擦り寄った。彼女達は微笑み、柔らかな顎を撫でてあげた。
3 路緒 17才
「今日も夜は出かけるの? 路緒」
部屋から出ると母が欄干から見える路緒に玄関ホールから呼びかけた。彼女の背後には葡萄を模したステンドグラスが幽玄に光っている。元々神秘的な雰囲気を持つ母はどこかに何かを宿している風だ。
「うん。近くの公園に天体観測に」
「あたたかい紅茶を水筒に持っていくと良いわ」
「どうもありがとう」
母は紅茶にこだわる人で、その器が何種類もキッチンの棚に並んでいる。
「銘柄は何が?」
「任せるよ。今日はちょっと勉強に根を詰めすぎたからリラックスするものがいいかも」
「分かったわ」
路緒は感謝をしてから廊下を進み、突き当たりの部屋に来た。そこには姉がおり、ピアノを奏でている。母に似て美しい姉だが、金縁の黒の装いにブロンズの蛇ネックレスを合わせる人なので、その美しさは彼女の性格通りに魔性を秘めていた。ピアノは彼女が作曲家なのでヘカテーに捧げられる系統の崇拝曲らしい。庭に木々を増やしたのは姉で、元々は母が結婚してこの洋館に着てからは薔薇が主流の庭だった。今は様々な低木や中木の間に薔薇があり、女性的な庭からどこか男性的な庭へと変貌している。それまでは母の嫁いでくるまではレンガの敷き詰められた噴水の庭だったらしい。それを義母の許しを得て薔薇を植えるためにレンガを移動させ土を出したらしい。
父は元々出張が多いので家にいることは少なく、そのためもあり母は薔薇に没頭し、近所の人たちにイタリア語講座や紅茶を教えていた。姑との仲も比較的良い。今その路緒の祖母は友人達と湯布院に旅行している。
「姉さん。公園に行くんだけど……」
「天体観測?」
姉、貴堵(たかと)は旋律を響かせながら瞼を綴じている。
公園というのはこの辺りでは開放された大きなボタニックガーデンのことで、そのセンターに広場があるのだ。植物園は広大で、迷路のようになっている。その広場をこのあたりの人間は公園と呼んでいた。
「あたし達は今宵は向かわないわ」
「分かった」
姉達が向かう日とかぶると広場に近づけない。彼は月齢とかそういったものには詳しくないので、新月が遠ざかった今は儀式のときでは無い事も知らないのだ。
路緒はしばらく窓下のベンチに座り、演奏を聴いていた。彼の背後を月の明かりが照らす。薄いレースの向こうをぼんやりと光っていた。それでも強い明かりではない。時間帯によって傾く月は今度は星明かりの時間へと移り変わって行くのだ。
本日の姉の様子は落ち着いているらしいから良かった。彼女は神経質なところと、愛に狂うときがある。その時は男の自分には何も分からないので近付くことも出来ない。少女時代の彼女は薔薇にとぐろを巻く蛇の様であって、鋭い針を持つ蜂かの様だった。路緒は姉が恐かった。人との愛を知った後の姉は、あまりにものめりこむ危うい性格に陥った。路緒は安心した。と心で思って彼女を見ていた。三ヶ月前に別れたという恋人とのことも収拾がついたのではないだろうか。心身ともに。姉の恋人はよくデートに路緒も呼ばれたが、少し変わっていた。魅力的なのは変わりなく美男美女の恋人達だったがどこか人としては変わったものがあった。結局は何が原因で別れたかは不明だったが、果たして二人がもし婚姻を結んだとして自分がその人を義兄と呼ぶことが出来たかと言うと、不明だ。何か見てはいけないものの気がしていたのだから。
路緒自身の現在の彼女はとても柔らかな雰囲気の子で、将来の路緒のデザイナーの夢を応援してくれている。撮影時のモデルもしてくれていた。一年前に自作で作っている衣裳のモデルを探していて友人に紹介してもらったお嬢さんで、短大生だった。年上の彼女だ。姉、貴堵の二つ年下でもある。家に連れてくると付き合い程度には姉は彼女と話を交わすのだが、結局のところは価値観の違いで深くは話さない。それに大体は彼氏がいて精一杯になっているか、精神がおちついて神秘的な力に傾向しているときが多いので、行動時間が重なることも多くは無い。
危険な人形遊びをしなくなっただけましだった。人形を黒い崇拝にかけて薔薇園に囲まれていた時は呪いでもかけているのでは無いかと本気で思っていた。姉が五歳で路緒も生まれていなかった頃からお人形遊びは始まっていた。猫が彼女に持ってくる小鳥やねずみの屍骸が円陣の人形の周りには置かれており、黒い蝋燭は音を立て、水の入った金の杯、西洋の詞の本、それらは薔薇の花もちらばっていた。その前に座って少女の頃の姉は何か唱えていた。小さな路緒が邪魔をするといつでも恐ろしい顔で何かを振り回してきて大泣きをさせられた。高校にもなるとようやくそれはなくなった。ただ、形を変えただけで崇拝は続いていた。その頃から庭は樹木が増え始めることになった。そしてその自然関係の崇拝を始めてから、彼女のヒステリーは成りを潜めてくれたのだった。
路緒は水筒と天体望遠鏡を持ち、夜道を歩く。夜は肌寒くなってきたものだ。
路緒の他に今は出歩いている人はまばらで、夜の犬の散歩、健康のための夜のジョギング、静かにギターを鳴らして練習する男の人、恋人と二人で歩く者達、すれ違っていく。
路緒の彼女は天体観測には興味が無いらしかった。普通に夜空は見上げ星座は見たりはするらしいのだが。
望遠鏡で覗いていると、幾つが流れ星……。
どこかで何かを誰かが願っているのだろう。今の時間も……。
「こんばんは」
路緒は声に気づき、望遠レンズから目を外して声の主を見た。
「何か見えますか?」
女の子が夜空を見上げている。
「ああ、えっと……今は適当に。流れ星とかを」
女の子は路緒と同年代ぐらいだろうか、クラシカルな感じの子だった。
「良かったらどうぞ」
「まあ。ありがとう」
彼女は微笑み、静かにレンズを覗いた。綺麗な子だ。路緒は心なしかぽおっとしてしまっていた。
「あ。本当、流れ星」
しばらくして女の子は美しく微笑んで路緒を見た。
「どうもありがとう。あたし、カレンって言います。親戚のお姉さんに連れてきてもらって、ここは本当に素敵な所ね」
「僕も大好きな場所なんだ」
路緒は胸のときめきを押さえきれずにまごつき、自己紹介した。
「僕は路緒。この街に住んでる」
「高校生? あたしは17歳」
「同じだね」
取り止めも無い話から、二人は星を見上げながら会話が続いた。
「カレン」
声の方向を見たカレンはきっと親戚の人なのだろう、彼に手を振って走って行った。
「またいつか」
「うん」
路緒はしばらく、彼女が溶け込んで行った闇を見ていた。その闇はどこか、星の夜空にも似て思えた。
何故か、流れ星が重なった。
「………」
付き合っている彼女がいるのに、正直先ほど初対面のカレンとの何かの雰囲気を拭い去れなくて、彼は望遠鏡を見て気を紛らわした。将来彼女と結婚する、そんな恋の予感に耳を染めながら……。
4 貴堵 24才
「ねえ。なんで?」
大学の講堂でグランドピアノの椅子に座った青年は、貴堵(たかと)の顔を見ずに鍵盤に指を置いたまま俯いていた。白い頬に黒い前髪がかかり、瞼は伏せられている。
「あなたなら出来るはずじゃない。何故諦めるの?」
「僕には到底無理だよ」
立ち上がりステージを見上げる貴堵を見ることも出来ずに颯爽と幕裏へ歩いていってしまった。貴堵は唇をきゅっと結び、目をきつく綴じ感情を抑えた。
今はあの彼女からまるで責められる様な声で言われたら崩れてしまうだろう。彼女は完璧にこなせるしその努力を惜しまず捧げる。ピアノに対しての並々ならぬ感情は素直なほどだ。それは恋愛に関しても硝子さえ透かして自身が傷つきながらも真っ直ぐにやってくる。その愛とピアノの狭間に置かれて彼は彼女からの全てを自身から一度切り離そうと思った。
「せっかくの話だというのに」
「僕は」
幕から声が聞こえた。彼は後ろ手にその幕を掴み暗がりの横を指してくる明かりが足元を照らす様を見て続けた。
「君の力で進みたいわけじゃ無いんだ。OBの君が間に入れば僕の小さな実力は色眼鏡にかけられる」
「………。本気で言ってるのね。馬鹿みたいだわ」
「男らしくないとでもどうとでも言えばいいさ」
踵を返して裏へ進んでいった。
貴堵も踵を返し、講堂を出て行った。黒髪が長引いていく。青い空は青いというのに二人の心は陰鬱だった。陰を見ながら歩いていき、ふと顔を上げ緑が輝く木々の幹に手をあてた。
「彼の音楽は素晴らしいのよ。そんなにあたしはプレッシャー掛けてるつもりも無いのに」
いつも気持ちだけ空回りしてしまう。愛する人だからこそ追い込んでしまうらしい。
「………」
木々の向こう、ネムの花が咲いていた。あの優しい花の様に自分は柔らかくなど無い。重荷に思われて去っていってしまう。
「まあ。白鳥さん。大学に来るなんて珍しいのね。彼氏に逢いに来たの?」
彼女は恩師、青羽瑠那の声に振り返る。
「青羽先生。ごぶさたしておりますわ」
「ええ。あなた、元気そうで良かった。少しはお肉もついたのね」
大学時代はやつれていたというほど神秘的な危うさがあった。今でも黒を身につけて西洋ゴシック調の雰囲気がある。美しい子だ。
「ふふ。お肉だなんて、先生ったら」
身長173に対して52キロという痩せ体質だったが、今は56キロはある。
「上条君、最近気難しいわ」
「選考の掛かった時期だもの。無理は無いわ」
きっと貴堵が追い討ちを掛けたのだろう。
「しばらく放っておいて上げたら?」
貴堵は溜息をつき空を見た。
「彼はまるで白い花のようだわ。こわいほど純白な。ツツジの白を見てるよう。光りが射せば繊細で乙女が宿るようなのに、夜には何にも染まらずに気高い。あたしの様な女ではただ乱暴に摘み取ってしまうだけに思える」
青羽は微笑んで腕に手を当てた。
「ふふ。あなた、茨と言われていたものね」
「まあ。先生は、お肉のついた茨を想像してね」
おちゃめに笑いはしたが、青羽はまっすぐと貴堵を見た。
「彼の存在にはあなたの様な人も必要なのよ。今まではただ忠実で穏やかだった彼の弾きかたはそれだけでは何の味も見出せなかったわ。刺激を受けることで純白の花だって劇的な薫りを漂わせるようになるものよ。この大学に入ってまず彼は自身の平坦な才能を思い知ってそこに甘んじようとしてたけど、あの子の素質をあなたが見つけて飴と鞭を強いたのが良かったのね。苦難はいくらでも用意されたほうが成長できる」
「今もね」と青羽は付け加えてからウインクし、回廊を歩いていく。
貴堵は講堂の方を見た。扉は貴堵が閉ざしたまま。今も彼はステージ裏で思い悩んでいるかもしれない。
彼女の携帯電話が振動した。メールを見下ろす。
『しばらく実家に帰って静かに練習をするよ。自分を見つめなおしてみたいんだ』
「………」
貴堵は相槌を打った。
「こちらにどうぞ。白鳥さん」
「ええ」
彼女は顔を上げゆっくりと歩いていった。
緑に左右を囲まれた壁なし廊下を進んで、その先は講堂の横に丸い広場がある。青銅の噴水があり、青い小鳥の細工が飾られている。その向こうに、見たことが無かった花があった。彼女は青羽についていくまでもなく、花に導かれるかの様に進んでいた。
「……綺麗」
彼女は進み、その前にまで来るとそれを見下ろした。
「カリアンドラ・ベッラ」
貴緒は青羽を振り返り、指に触れた。
「真っ白いネムの花は初めて見ました」
それはまるで季節を変えて降りてきた雪のようで、ふわりと咲いているのだ。
そして、驚いたことにその向こう側の見え無いところに、薔薇のような紅色のネムもあった。
「この低木種のカリアンドラ属の白いカリアンドラ・ベッラと紅のカリアンドラ・ベルミーリャはね、厳密には高木種であるネムノキ属とは違うわ」
「どちらも素敵」
青羽は繊細だが強い印象の彼女の横顔を見た。
「あたしはね、あなたは茨というよりも、このカリアンドラ・ベルミーリャで、そして彼はカリアンドラ・ベッラなのではないかと思うわ」
背後が深い陰で、濃い緑と花が闇に浮くように咲く二つの品種はどこかすぐにそちらに連れて行かれそうなのに、それでもそれぞれは強く印象つけてくる。
「他を受け入れずにいたけれど染まり始める白すぎる上条君、情熱が底から沸き上がる白鳥さん、どちらも繊細なこの綿の様で、それでも支えられて美しく咲いている。危なっかしいのにとても印象的で、彼は真っ白に心を閉ざしてしまってはあなたは血潮をめぐらせるように咲く」
「狂ったように……」
貴堵はぽつりと言い、その花を撫でた。
「あなたも、気を張り詰めすぎないで」
微笑んで青羽は見た。やはりカリアンドラ・ベルミーリャを背後に、カリアンドラ・ベッラを横に置く植物の緑にいる貴堵は美しかった。すぐ向こうの葉が作り出す闇にそのまま持ってかれそうな危うさ。
「あたしも彼と同じなのね。この花の様に」
「花も植物も太陽と冷気、水と空気が必要よ。支えあうこと、大切なこと」
青羽は貴堵の頬にそっとキスを寄せ、肩にこめかみを乗せ白花と紅花を見つめた。彼女だけでも自分のいる奥底へと引き寄せてしまいたくなる……。そして引き合って二人も堕ちてくる……。
5 瑠那 37才
青羽瑠那は一年前まで貴堵の音楽学校の恩師だった。
瑠那は久し振りに白鳥姉弟にホームパーティーに呼ばれた。その席には実家に戻るという前の生徒上条誠也、そして貴堵の弟である路緒の恋人だという黒谷波子がいた。瑠那が波子に会ったのは初めてだ。ダイニングからテラスを越え緑と秋薔薇の庭が望むホームパーティーは午後の三時から始まった。日が傾きかける内から。どこか誠也もこの前の今日でリラックスできているらしい。
瑠璃は美しい貴堵を横目で見た。まっすぐと前を見てそこまで表情は無く、白のワイングラスを滑らかに回している。どうやら波子とはあまり関わり自体が無いのか、雰囲気によそよそしさを感じる。その時の貴堵はやはり棘を持つ茨のようなのだ。だが、どうやら波子の恋人である路緒もはにかんでばかりだった。思った以上に冷静沈着な目元をしている可愛らしい顔の波子に対して。
会話は和やかな話題だし、極力ピアノの話は誠也の手前は避けてもいる。波子は時々ちらりと瑠那を見てきた。時に微笑んで貴堵を見つめる横顔を。
五時にもなると宵が星を掲げ始める時間帯が近付いてくる。夕陽は恐ろしいほどに眩く、やけに波子は赤のワインに飲まれて行った。夕陽で創られる、夜より深い闇の先に歩いていく波子を路緒は追い、少し涼んでくると言って誠也は庭の暗がりへ歩いていった。
「どうして?」
廊下へのドアの向こうから波子の涙を含んだ声が聞こえ、瑠那は振り返った。
「良くは行ってないみたい。仲を取り持とうとあの子も呼んだんだけれど」
貴堵が白ワインのグラスを回しながら言った。それはまるでめらめらとした夕陽が乱暴に揺れ宿り、それを傾けた貴堵の真紅の唇を見た。
「………」
腕を立て、瑠那はその唇にキスを寄せていた。離れて行った瑠那を見る。夕陽を背に完全な黒い陰になる瑠那を。
「青羽先生」
貴堵は俯き、グラスを置いた。
「夕陽は魔物ね。白鳥さん。愛を誤魔化す事が出来なくなる」
瑠那は透明度の高い橙色に染め上げられたテーブルクロスを見つめた。
「私は自分が何色にも染まらない、そうね、まるでティボウキナ……紫紺野牡丹のようなら良いのにと思うわ。その紫の花は一日で花を落とすの。それでもどんどん花はなり続け、心がどんどん巡っていくかの様に愛情もすぐに他の人に向かえばいいのに、あたしは淡く咲かせて色付いて顔も上げられないブルージャカランダみたい」
貴堵は横顔の瞳を暮れて行く夕陽に一瞬光らせた瑠那が、年上の女性だというのにいじらしくて可愛らしくて仕方なくなった。
瑠那は闇へと落ちていく空と庭を見る。
「時々ね、悪いことを考えてしまう。グランドピアノに必死になる上条君はどんどんあなたに感化されていくと言ってあたしを嫉妬させる。あのまま、闇に包まれていけばいいのにって、思うのよ。そこは安堵とする場所なのよって、でも、生徒だから言えない。けれど分かっているの。あなた達は闇に浮くように美しいカリアンドラ。本当は純粋に柔らかくて、時に情熱的で繊細なネム。触れたり夜気に包まれれば弱くも心を閉ざしてしまう様な」
庭の奥で、誠也は夕時の音を聞いていた。木々に囲まれ目を綴じて、時々線を引くように橙の陽が斜めに幾重にも降りてくる。葉を黒く透かしている様を見上げて、瞼さえ透かして染まる視界。深い視線を感じた。青羽先生から愛する貴堵に。あんな目をする先生は初めてだった。大学でも、もちろん二人で話している時でも。実家に帰る一週間を確実に不安なものにさせる空気。夕陽は魔物だ。それらの陰の部分を照らす。月でさえも暴かないような女性の心を。
「?」
ざざっという音で誠也は振り返った。
「波子」
路緒の声が続き、いきなりドンッと柔らかな身体にぶつかって誠也はきっと波子だろう彼女を支えた。
「ごめんなさい……ぶつかったわ」
「大丈夫?」
「もう嫌なのよ。あたしを見ない路緒のカメラの目線なんか、もう」
うまくいってないのだろうか。確かに元気が無かった。
「あたし、帰るわ」
波子が走って行ってしまい、濃い暗がりでは分からずに誠也は手を差し伸べたままですぐに路緒が現れたらしかった。波子は闇の内側では不安気だったが、路緒はよく分からない雰囲気をまとっていた。
「申し訳ないです……僕のせいだ」
「追ってあげたほうが良い」
「はい。失礼します」
だがその手首を掴んだ。
「僕が言うのもなんだが……、はっきり言ってあげたほうがいいよ。君のお姉さんの様にとは言わないけど」
小さくはにかんだ声が聞こえ、「ええ」という声を残し走って行った。遠くへ行くとその白いシャツの背は夕陽に照らされて去っていき、また静かに戻った。
僕等はどうなるのだろうか。それは自分達で決めることだし、恋愛が関係してピアノの選考が左右されてもいけない。自分は本当に弱いな。誠也は思いながらも空を見上げた。木々の葉から覗く空は、紫紺めいていく。
6 カレン
カレンは女学園の後輩北山りょうと共に妖精の展示会へ来ていた。
「可愛らしい」
「碧峰先輩に似ているわ。背中までの黒髪に、凛とした顔してるもの。青い花弁の衣装がとてもよく似合う」
それは確かに顔立ちがカレンに似ていた。
向こうには日本の在来の花を妖精に例えた物が集められているが、こちらはまた国が違った。これはティコフィラエア・キアノクロクスという高山植物だという。どこか気高くて静かに微笑んだ顔立ちをしていた。
「まあ。どうもありがとう」
頬を染めてカレンは言い、元気いっぱいなりょうにそっくりな妖精は橙色と黄色の花で、妖精は笑顔の丸顔が愛らしく、目元に悪戯なものを含ませていた。何かしでかしそうな顔である。きっとカマキリなどの昆虫が現れたらちょっと大きく葉の腕を動かして驚かせるのではというような。カレンはくすくすと微笑み、りょうは上目で笑って彼女を見た。
「妖精って何にでもいるんですよ。日本にも全てのものに神様が宿るって言われてるでしょ? あたしが使い続けるものはどういう神様がいるのかしらって思うの」
横に飾られた妖精の顔とりょうの顔がマッチしてカレンは言った。
「きっとあなたの元気な唇をつくるリップにも宿っているのね」
「先輩ったら」
女の子二人が会話をしながら個展を回った。
「椿の妖精ですって。ミステリアスね」
日本の花の場所に来ると、洋物の花弁ワンピースの妖精もいれば、着物にその花の絵柄の妖精もいた。どこか顔立ちはハーフを思わせるものが残るのは、これらの作品の産みの親自体がイギリス人だからであり、日本の自然に惚れ込んで移り住んでいる女性だからだ。着物の勉強も良くされているらしく、とても合っている。
雪の妖精……。以前、カレンはクラシックバレエを習っていた。コンサートではクルミ割り人形の雪の妖精を踊ったものだ。今見ているエーデルワイスの妖精はその姿をどこか思い浮かばせる。
「………」
額に雪の結晶をいただいて、雪のなかにそっといる。こちらを見ていた。
星の夜に出逢った少年を思い出す。少し寒かった。秋の夜は彼が紅茶をすすめてくれてどれぐらいかの間を二人で見上げた。白い花に夜の色のような髪。涼しげな目元はこの妖精と似ていた。カレンのなかでどくどくという静かな鼓動を感じる。
「りょうちゃん」
向こうで他の国の花の妖精を見ていたりょうは振り返った。
「あたしね、恋したみたいなの」
「え?」
エーデルワイスの妖精を見つめるカレンの横顔は頬が染まっている。ソプラノサックスを吹くときのカレンはいつも男前な女性で、憧れてきた。普段はとても優しい物腰の先輩で美しい。
いきなり失恋を叩きつけられた気がしてりょうはまたカレンに似ているガクアジサイの花の妖精を見ていたのを背を伸ばした。
「誰にですか? どのクラスのかな」
「え? ふふ。違うわ」
りょうは横目でカレンを見て、女学園外の男であるという充分な間に口を閉ざした。
「夜空の綺麗な日に出逢ったの。天体観測が趣味でね、この街じゃないんだけれど、素敵な雰囲気の人だった」
一気にりょうは不機嫌になって顔を背けた。
「りょうちゃん……?」
彼女が近付いて肩から顔を覗かせると、泣いていたので驚いた。顔は怒っている。
「りょうちゃん、どうしたの?」
「今日は先輩とのデート楽しみにしてたのに」
カレンは瞬きをしてりょうを見た。
りょうは一人でどんどん歩いていってしまい、カレンは追いかけた。
飾られた妖精たちが微笑んでいる。二人を見守るように。
りょうは振り返ってカレンの腕をつかんで背伸びをした。睫が伏せられそっとキスが柔らかく寄せられて離れていった頬が染まって走って行った瞬間のりょうの口元はよろこびに微笑んで震えていた。頬を押さえながら走って行ってしまう。カレンはただただ呆然としてその場に立ち尽くしていた。りょうに似ていた妖精の悪戯な顔立ちが浮かんで脳裏に焼きついた。
7 波子
大学の屋上から見渡していた。心はむなしかった。風は吹かれるだけ吹かれて体と精神を分離させてどこかへ連れて行ってしまうようだ。
何がいけなかったんだろう。彼と恋人になって彼はのびのびと服をデザインして、裁縫してそれをこの身体に合わせてくれて撮影して、モデルとしてだけじゃなかったのに、もう彼のフィルター越しの目は自分など見ていない。波子は年下の彼氏と言う感覚よりも大人として向き合ってきたし、それなりに年上の女として了見良くもしてきたつもりだった。彼を子ども扱いもしなかったし対等にやってきたし、第一何の波風も今まで立ってこなかった。仲もよかった。なのに何故? 彼の静かな瞳の奥に放熱を見られるのは衣裳を身にまとったそのドレスにだけ。ふと彼女の顔を見る目には、逃れられない何かがあった。
それで言われたのだ。他に好きな子が出来てしまった。
何がいけなくて心が移っていってしまったのだろう。分からない。
「波子」
彼を紹介してくれた友人が彼女の肩に腕を回して頭を引き寄せた。
「ごめんね。あたしが紹介したばっかりに、こんなに泣き濡って」
「仕方ないわ。学校だって離れているし、土日にしか逢えないと心の変化なんてわからないものだわ。でも分かってるの。彼が見てたのはずっとあたしだったんだっていうこと」
「波子」
彼女を思い切り抱きしめてあげて共に風景を眺めた。
「元気になるまで一緒にいるわ。元気になっても一緒にいたし、これまでだってずっと一緒にいたんだから」
「うん……ありがとう」
髪を撫でてあげてから二人しばらく風を受けた。
「あなたがいてくれて良かった」
「友達じゃないの」
「うん」
波子は微笑み、涙をぬぐった。また流れてくるけれど流れるままに目を綴じた。
きっとしばらくは忘れられないかもしれない。路緒のことを。もしかしたら何も無さ過ぎたのかもしれない。分からなかった。
波子は休みの日に気分を変えようと薔薇苑を訪れていた。
「あら」
波子は一人で出歩いている誠也を見つけた。暗い庭でぶつかったことを思い出す。倒れそうに見えてけっこうがっしりして思えた。
「あなた、よくここを訪れて?」
誠也は振り返り、路緒の可愛い恋人を見た。とはいえ、薔薇たちの間でも顔色が沈んでいるので別れ話をされたのかもしれない。
「路緒くんから聞いたことは無かった?僕の実家なんだ。この薔薇苑」
「え?」
ここはよく路緒が連れて来てくれたところで、彼の裁縫した衣裳の撮影で使うこともあった。
「それは知らなかったわ。話ではピアノを専攻しているのよね。お姉さんと同じで。美しいチェンバロがこの薔薇苑のホールにはあるけれどあなたも弾いて?」
「うん。時々はね。ただ練習用では私宅のピアノ」
「あの人ったら、言ってくれても良かったのに」
「はは。僕自身が路緒君とそこまで親しいわけでも無いしあまり顔を合わせないからね。貴堵さんがいる時間帯と彼が帰る時間帯は違うんだ」
波子は相槌を打ち、薔薇を見回す。
「この場所、好きなの。一人出来たのは初めてよ」
「そっか……。案内しようか?」
波子は淋しげに笑い、ついていった。
「恋って僕も不安だよ」
「誠也さんも?」
「青羽先生は魅力的で、僕も確かに心惹かれることもあるし男子生徒からも人気があるんだ。でも、なんていうのかな、いつも恋や心豊かな彼女の演奏が素晴らしいのに恋人の話も聴かなくて、不思議でね。もしかしたら……」
波子はホームパーティーで初めて会った貴堵と誠也の先生だというあのどこか官能的な目元をする青羽瑠那を思い出した。紫が似合う女性、という雰囲気を感じたのは初めてだった。とても上品でいて深く妄りに堕ちて行ってしまいそうなものを感じた女性は。なので、音楽大学の恩師という言葉は浮遊して思えた。それに路緒自身の感情を読み取ることに必死になっていて、結局はワインを飲みすぎてしまった。でも、覚えている。あのエロティックな瞳でじっと捉えていたのは他でもない、貴堵さんだった。
「実家はあなた達の大学から随分離れているのね」
「ああ……。あの時は言わなかったんだが、しばらく頭を冷やそうと思ってね。閉じこもって猛烈な練習さ。しっかり先生はついてくれるんだけれど」
貴堵の目は時々恐い。それは波子も感じる。とはいっても今までも数えるほどしか会ってはいないし、一度などは路緒に連れて行ってもらった夜の公園での妖しげな儀式と鉢合わせたときだった。路緒はすぐに踵を返して戻っていったのを覚えている。崇高さを感じはしたのだが、女達が集まって行っていたのだ。詳しくは分からなかった。なので余計に不思議な人、という雰囲気はぬぐえない。あの彼女に何か言われたら確かに自信に満ちた性格でもへこんでしまうかもしれない。路緒はへたなことは言わない主義だが、きっと貴堵さんは神経質なのだろう。時に恋人も戸惑うほど。
「薔薇苑で生きてきたなんて素敵ね。あたしもあなたの演奏、聴いてみていいかしら」
ちょうど同い年の二人だが、音楽学校でピアノ専攻の誠也に対して、波子は服飾学校に通う生徒だ。モデルは趣味で十代の頃から続けている。
「どうぞ」
彼女は薔薇苑の王子に促されて歩いていった。
薔薇の季節は実に美しい。そして愛らしい。最近あったことを覗けば、心からやはり沸き上がるものを感じる。
ホールにつくとチェンバロが弾き鳴らされ始める。甘い薫りが漂う。そしてチェンバロ特有の弾かれる音色も。
「………」
静かに響くチェンバロの音……。扉窓から薔薇たちが咲き乱れる。
哀しげで、波子は泣いていた。あたたかくも淋しい音色。それは、誠也も感じている彼の心を乗せた音色なのだろう。彼そのものの曲調なのだと。
たまらなく悲しくて、淋しくなってきて波子は薔薇苑を見つめた。視界だけははなやぐ世界。
「一つの恋が、終ってしまった。でもまた始まるわよね」
誠也は波子を見上げた。明るい薔薇苑を背に、抱きしめてあげたかった。だが自分はそれをしてはいけない。だがそれは自分の心を揺らがせることを恐れた自分本位のものなのではないだろうかともすぐに思った。彼女は今悲しんでいて、男として一時だけでも友人として慰めてあげるべきだ。
「波子さん」
「あ……ごめんなさい。あなたのピアノに感動してしまったの。心がマッチして」
「感動……?」
誠也は驚いて波子を見た。
「誠也さんらしいなって。それを思ったら、あたしはあたしらしさがあったのかしらって思うわ。路緒さんは彼らしさに生きてあたしに投影してたけれど、あたしは受身だったのね。彼に何か影響させること、無かったのかもしれない」
「波子さん、充分君は素敵な人だよ」
「ありがとう……」
誠也は立ち上がり、薔薇苑を見渡した。
「ここは心が癒される。僕はその世界で甘えて生きてきた。だから価値観が違う女性を愛することになって触発されたのは君と同じだよ。僕は彼女を何も触発できるほどの個性は無かった。僕達は僕達らしさを持ちながらにして、それを自分で芸術で生きるうえでは高める必要があったんだ。君のデザインだって、きっとほかの誰かを変えているはずだよ。僕の音楽に君が感動してくれたと言ってくれたみたいに」
波子は淡いピンク色の薔薇の様に微笑んだ。
「なれるといいわ……」
薔薇は薫る。複雑な薫りを乗せて、やってくる。
8 路緒
「自分を取り戻しながらも変わって行く?」
ピアノを奏でる貴堵の背を見て路緒は反芻した。
「彼が言うのよ。あたしからしばらく離れたいってね。あたし、自分を彼に押し付けすぎたのよ」
「………」
路緒は自身の足元に視線を落とした。自分はどうだったのだろうか。波子に対して自分を押し付け、そして自分は自分の世界に彼女をおいて満足をしていた。自分の作り出す世界、それに見合った波子の愛らしくも美しい自分だけの人形。写真の彼女は本物の人形の様に完璧で、そして大人だった。そして夜はどこまでも魅惑と官能の人だった。全てに惚れ込んでいたはずであって、彼女の全てに感化されて自分は彼女に服をデザインして来た。彼女に着せてあげたかった。波子がよろこぶ顔がとても神々しくも思えていた。だが、星空の下で出逢った少女は全く違う性質だった。何故だろう。感化し合ってきたはずの波子があの一瞬で遠くに感じてしまったのだ。星空の彼女は目の前で乱舞して踊り、波子の存在をどんどんとヴェールの先の人に変えて行く。それは、男の勝手。心変わり。出逢ったときの瞬間から出逢うまでの時の経過をさかのぼって行って薄幕の向こうに彼女を隠すかのように、友人に連れられレトロなバーに来て、逆戻りで扉が閉ざされ階段を戻っていくかのように。波子が知り合う前のような波に重なって遠くなっていってしまう。悲しくもあった。波子に申し訳なくも会った。でも、もう誤魔化せなかった。
「あなた、やっぱり別れたの?」
「うん……」
旋律が成りをひそめ、肩越しに貴堵が見てきた。
「あたしの感覚からでは、しばらくは波子さんのためにあなたも同等に悲しむ時間を持つのね」
貴堵は愛に、全てに必死になり本気で打ち込む。軽率を嫌うのだ。心移りして恋を終らせることは確かにあることだが、彼女としてはそれは許されない事柄なのだろう。
射抜くような目は何の曇り気も無くなっすぐすぎて恐い。愛に本気になるということは全力で傷つくという事だし、ただ、それを今までもちろん価値観を強要してきたことなどは無かった。きっと今貴堵は怒っているのだろう。
だがそれ以上は何も言わずに再び旋律が響き始めた。貴堵は滅多に慰めてくる、ということは無い人だ。彼女自身が不器用だからでもあるし方法が分からないからなのもあり、彼女いわく自分はそこまで強くは無いからだと言う。それでも一本気でもある生き方の貴堵が嫌いなわけではない。変わり者ではあっても。
「戻ってきてくれるといいね」
「あたしは彼を愛してるから、信じるほか無いわ」
路緒は相槌を打ち、目を綴じ旋律を聴き続けてその美しい音色で今は空っぽなのか殻なのかあの星空の彼女でいっぱいなのか分からない身に詰め込んでいった。
細い窓が連なり筒型になるこのホールを欠け続ける月が照らす。
彼は貴堵の言葉も分かっていながらやはり行動は止まらなかった。望遠鏡を持って夜、出かけていった。その様子を窓から貴堵は見て「愛に必死になる性分はあの子もね」とつぶやいて見送った。波子にも必死だったし、それに今度は新しい子に必死になり始めているのだ。
路緒は寒空を見上げた。星が薄い雲に隠れていく。先ほどまで月が現れていた空も、今の彼には星は見えなかった。ただただ、誰も、ましてや街の違う彼女が来るはずも無いこの場所で暗いだけの夜空を見上げていた。目を綴じる。
「波子……ごめん」
夜風が掠める。
9 貴堵
闇に浮くのは、瑠那の言ったあの紅色の花だった。それが辺り一面に浮くように咲いている。
名前……なんだったかしら。難しい名前だった。同じ色の長衣を引き歩く貴堵を彩る。
「カリアンドラ・ベルミーリャ」
どうしてその名前がふと思い出されたのだろうか。ふと記憶の箱が開いたようだった。その花に囲まれて。
自分の奏でる曲が遠くから聴こえる。その旋律に少しずつ彼のピアノも重なる……。それは心地よい世界だった。彼女は彼の奏でる曲が好きなのだ。元の素朴さも、複雑を極めていく態も、混迷しているときでさえ、追い詰めるほどに愛しくなっていく高揚、それを悟ることがある。彼は柔軟でもあって頑なでもあるから自由にならない。全てが欲しい。全てが欲しい。………。
彼女の元を去っていったメールが彼女の身体を蛇のように長く繰り返される帯となって締め付けてくる。
「だから青羽先生もおっしゃったのだわ。あたしが彼を縛り付けてはいけない」
そして強烈なものとなって広がった。瑠那のあの黒い瞳。光りを帯びてまっすぐっ見つめてきた……。
ふっと、瞑想の先の意識から目覚めるとそこは儀式の場だった。自分は瞑想の姿勢をとっており、誰もが静かにそこにいる。いつのまにか精神は今抱える問題事へと捕まえられたのだろう。無心になった身体へと。
脱力した感覚に浮かんだのは、あの闇に浮く印象的なカリアンドラ・ベルミーリャ。そして青羽先生の姿だった。
翌日の夜、貴堵は瑠那に呼び出された。
何故その場に向かったのかは、返事を出す為だった。
どうしても自分は今彼氏である誠也を愛していて、いずれ彼を支えて生きたいと思っている。きっと彼女自身が分かっていることだろう。言いに行くことはあるだろうか? それでも向かっていた。
黒髪を一部ゆるくまとめ、細い真紅のルージュ、黒のエレガントなジャケットとスカート。ヒールに黒のハンドバッグで進む。金の蛇の指輪が光った。紅いマニキュアが月光を受ける。
瑠那の部屋は知っていた。生徒だった時代何度も訪れて彼女とワインを飲み交わした。
「いらっしゃい。どうぞ」
「ごきげんよう。お邪魔します」
彼女が玄関をくぐると、瑠那はいつもと全く雰囲気が違った。エレガントなパーマが顔立ちを包み、深いブラウンの柔らかい素材は彼女の想像以上に美しい身体を見せ金の留め具が光り、長い足はゆったりと彼女に進んだ。一気に燃え上がる情熱を貴堵が感じた瞬間、飲み込まれかけたが意外に瑠那はにっこり微笑んで半身を返し、彼女を促した。
「久し振りだもの。ゆっくりしていってね」
「はい」
眩暈を覚えて一度気を取り直して進んでいった。透明感のある香水をまとっている。こんなに素敵な瑠那は初めて見た。それでも、愛情とか恋心とかそれらの感覚ではなく、ただまっすぐに食べられたいという欲望なのかもしれない。
ダイニングに着く。
「先生。ワイン、お持ちしたの」
「まあ。いつもありがとう」
彼女は微笑み、ソファに互いが腰掛ける。全ての用意は毎回整っている。今日はいつもとは違い、真横に瑠那はいた。吐息や体の柔らかさも感じるすぐそこに。彼女の視線はなめらかに裸体にまとうだけのジャケットの胸部に注がれ、それでもさっと恥ずかしげに反らされてコルクをあける。可愛らしい年上の女性に貴堵はその横顔を見つめた。白ワインの栓が開けられる。グラスに注がれた。微笑み合って傾ける。
瑠那は一気に飲み干し、その姿を貴堵は見た。
「貴堵ちゃん」
白鳥さん以外の名で初めて呼ばれ、潤んでいるが鋭い目が射抜いてきた。
「恋ってね、理屈では無いのよ」
「………」
「強く惹かれてしまったものが充ちて行くのでは無く欠けていく、引き潮の月だろうと押し迫りたくなる無我夢中なものが恋」
理屈に固める主義なのだろう、自分の愛は説明ばかりで、貴堵はただただすぐそこの瑠那の瞳を見ていた。ワインと香水の薫りが混ざり合う。テーブルの上のチョコレート。それに薔薇の菓子。どこからか微かに聴こえるピアノの旋律はレコードで、そしてそれに現実的なクリスタルの音色が重なっている。窓に掛けられたそのクリスタルが微かに煽られて、それは夜瑠那が鳴らす咆哮かの様に感じた。
「それが通じ合わなければ?」
迫り来る瑠那が段々と押し倒してくる目はそれでも緩く微笑む。
「情熱が果たされるだけでは一方通行よ。分かっている。あなたを軽率に見てるんじゃないことだけは分かって欲しいのよ。五年間ずっと想いが止められなかった……講堂から出てきたあなたを見て、もう耐え切れなかったわ。不道徳なあたしを惨めな人だと言ってよ。昼にはあなたの恋人との復縁を言っておきながら、夕方には、そして夜にはどんどんと……」
心にまで忍び寄ってくるそれが甘美過ぎた。貴堵はあまりにも麗しい瑠那に惚れ惚れし、大きな瞳で見ていた。唇の動き、頬の動くなめらかさ、陰の動くさま、鎖骨の陰、首筋や耳元に至るまで、髪の一糸にいたるまで。愛は魔力が宿る程に渦巻く。そして一瞬で牙を剥いてくる……。
「真紅に色付くあたしのカリアンドラ・ベルミーリャ……」
かすれた声が囁き。彼女の唇に重なる。
「………」
だが、貴堵は顔を背け黒髪が流れた。
「やはり体だけよ。高揚するのは」
「あなたにはそれが許せないのでしょうね……そこが好き」
ふふと微笑み、瑠那は膝を進めてヌーディーば黒のストッキングの上から真っ白く鋭い太ももが覗き、ガーターベルトが装飾したが、彼女から離れていった。
「………」
飢餓感。正直な。貴堵はキャンドルに瞳が光りその脚の残像に唇をなめていた。あちらへ行く瑠那。グラスにワインを注ぎ足し、銀器にチョコレートを取る。肘をついたまま貴堵は鋭く見つめ、狙っているのだと自分で気づいて背を起こし、彼女は薔薇の砂糖菓子を銀器に刺した。瑠那の唇に刺すかの様に感じた。あのピンク色の唇に。
「ね。貴堵ちゃん」
背もたれに肘をかけ横目で微笑みながらチョコレートを口に運び、貴堵を見た。その向こうには鳥篭がある。だが瑠那自身が自然世界の動物から自由を奪うことをしない主義なので鳥篭はいつでも持ち主はいない。だからこそ貴堵には様々な瑠那の心が映って思えた。今は鷹かのような。
「あたしが何故上条君への接触をあなたにさせているか分かるかしら」
「それは……」
愛の話から唐突に変わるとも思えなく、何か感情が絡んでいるのだろうといぶかしんだ。誠也にはしっかりとしたピアノの教師がついている。自分の存在はピアノに関してはスパイスに過ぎない。
「上条君は人に愛を向ける子では無かったらしいのよ。いわゆるノンセクシャル。ただ日常を優雅に過ごし好きなピアノを当たり障り無くこなして皆をよろこばせる、いわばそれはよい子の坊ちゃんが宴で褒められてよい子ねと頭を撫でられる感覚に終る。そしてあなたは愛にだけ直向だったわ。男性との全てを受け入れ拒絶し全てをピアノに感情を込めた。あたしの心に気づくことなく、そこで現れた無垢な少年を与えていれば何か化学反応を起こしはしないかって、不純なあたしの理由だけれど見事に上条君は逸材になりつつある」
ワインが回る。
「それは見ていてとても美しく甘やかな変化だった」
傾けられ、彼女の瞼は伏せられた。
「大丈夫よ。あなたを勝ち取るのは先にしてあげる……」
10 カレンと路緒 現在
路緒がヨーロッパに一ヶ月滞在することになった。デザインが認められて呼ばれたから。カレンはしばらく遠距離から旦那の健康を祈ることになる。
「食事は大丈夫かしら」
「問題ないよ。心配しないで」
初夏。既に春夏のショーも終えてヨーロッパ行きの準備も万端に整っていた時期だった。
春の花々から初夏の花々に移り変わって緑が輝いている。
空港へ旅立っていく路緒を見送る。
「………」
タクシーは角で見えなくなり、しばらくは見つめていた。感慨深く。
洋館へ戻るまでに庭を通って行く。緑が枝垂れて挨拶してくるかのようだった。
ひとりになると、思い出した。今はサモエド犬の白夜がよろこんで草地に背を撫で付けている木々の向こうの少し開けた場所で、まるで女性の死体を見つけたかのようにカレンは叫んだのだ。黒いローブをまとって円陣を背に髪を広げ、黒い涙で頬を汚した女性が口を開き仰向けにいた。再び夜の公園で彼と再会し、そして付き合いを重ね始めて初めて家を訪れたとき、彼女は叫んだ。そして、すぐに駆け寄った時に女性が身体に何事も無いのだと知った。だが、明らかに心はズタズタにされて傷ついていたのだ。それも、それが愛にであって、そして自身で引き起こし心に巻き起こした混乱から来るものなのだと知った。その美しい女性は路緒に起こされ、崩れるほどの美貌に打ち震えたことを覚えている。それが路緒の姉である貴堵であり、そしてとある女性に本気になってしまった心が偽れずにもがき苦しむ日々だったのだとしばらくして後に知った。
今、貴堵はこの街から離れた場所にある巨大な薔薇苑のある屋敷で過ごしてる。何か特別な関係が保たれているらしく、貴堵さんの愛する男性と、そして貴堵さんを愛する女性の三人で恋愛を続けているのだというのだ。その屋敷で。滅多に貴堵さんは実家に帰って来ないし、そして変わり者の二人の母はヨーロッパにいる。義姉さんの恋人達だという二人には会った事は無い。結婚式は身内のみで行った。
安心している。貴堵さんとの初対面がああだったから、その原因でもある女性と今はしあわせにしているらしから。ただ、路緒の心配するには彼女のことだから三人の関係を天秤の様に均等に保ち続けたい黄金率が一瞬でもぐらつけば、もしかしたらあの薔薇苑で同じように仰向けに泣く時間があるのだろうことを。
白夜は起き上がって尻尾を振りながら笑顔で草地の上を跳ねている。
彼女は歩いていく。
「………」
カレンはその低木を見て微笑んだ。
正確には常葉合歓。低木のネムの花だ。ネムノキの様に高木になるのではなく、2~3メートルの高さで留まる品種。あの近所の果樹園にはどうやら三本植えていたらしく、一本を分けていただいた。花が咲く今年の秋が楽しみ……。
足元に白夜がやってくる。ほおを撫で付けてきた。
「まあ。白夜。あなた、昨日の夢ではあたしの手の甲にキスをしてきたわ。どうしてかしらね」
カレンは微笑み頭を撫で、再びネムを見た。
「秋に、夢に見た通りの花が咲くのね。その時にはあなたも、それに路緒も横にいるのよ」
カレンは柔らかく微笑み、そっと咲く淡いピンク色のチークの頬を微笑ませた。
彼女は知らない。彼らがカレンに出会うまでに、恋が生き、消え、生まれたのかを……。彼女はまるでネムの花のように柔らかい愛しか知らない……。
それで、いいのだろう。りょうの淡い恋心さえ、今では昔の思い出。
暗闇
貴方は知っている
暗闇は全てが在ること
貴方は知ってる
闇には全てが居ること
貴方は知ってる
暗黒には様々が渦巻くことも混沌という名という事も
そして知ってる
闇はとても澄んだ心でもあり
恐れることなど無いということ
安堵の場所でもあるということを 知っている
貴方は安心する
凝視する暗がりには貴方の想うままを乗せられる
だから
微笑む
目を閉じて微笑んで 貴方は知る
闇のなかで冷たい川に足を浸す悲しみを思い出したら
自分が少し成長していることを知ることができる
あの頃見上げていた崖の上の羨望の対象は
あなたに近付いたり 離れたり 同調したりして
今の時間までを寄り添って来てくれたことを 振り返ってみて
闇は心を落ちつかせる場所でもあり
そして自己を省みることが出来る場所
目を閉じて
思い出す
夢と夢の間
眠りへといざなわれる瞬間
腕に抱かれた刹那
目まぐるしいほど人を愛しいと立ち眩んだ瞬間
疲れから元気を取り戻す一瞬
いつでもそっと瞬く闇はあなたに寄り添い
つかの間の休息を与えてくれた
深く熟考するときも 時に絶望のときも 泣きじゃくった後の落ち着きにも
寄り添っていてくれた
だから
大丈夫
恐れることなど無い
闇すらもあなたの味方であるのだから
安心して
純白
あの澄んだ瞳を覚えている
時がどんなに埋もれさせようと足掻いたって無駄だ
あのきよらかな心を覚えている
四季はどんどん巡って流れてまた巡り
何度も同じ季節を繰り返すでしょう
それでも変わるのは人だけ
残った人の心は変わっていく
それでも純白だった無垢な心は変わらない
まるで心に蓄積されていること忘れても
あなたは本当は覚えている
忘れていないで掴んでいる
優しい記憶の入った袋の端を
しっかり手にして離さないで
それで新しく記憶を作っていってるんだよ
傷つけられても
どんなに泣きたくなっても
記憶は優しく包んでくれる
それがあなたが優しい記憶の過去の人に出逢えていた証拠
だから
だから純白の心を大切にしてほしい
あなたが生きるうえで輝くそれらは勇気を与えてくれる
困難のときもそっと寄り添っていてくれる記憶たち
それを純白の記憶の箱として留めて置けば
泣いている心はいつか笑えるはずだから
純白を恐れることもあるだろう
不安に慣れすぎたあなたは
光に怯えることもあるだろう
闇に親しみすぎた身体は
純粋に涙することは止まなかろう
全て解き放った光りのなかで
そして覚えるだろう
白い陽を浴びることで安堵を覚えることだろう
優しく柔らかな微笑みは絶えることは無い
それを恐れなくなるだろう
期待しないなどという言葉こそを変える時が来た
微笑み涙するだろう
手に光りを 若葉を掴んで 微笑むのだろう
美しさに感謝するあなたの心を輝かせる全ては
純度のうちに出来上がっている
そして育まれては生まれている美
地球の恵みはたゆまぬものなのだから
アルゴル ~悪魔の光り~
Algol ~Damon star~
妖精たちが森の夜宴に戯れるこの季節。美しい星が天を埋め尽くしている。彼女たち妖精の女王が見上げる先にも輝いていた。こずえの先に、アルゴルの星が。
<悪魔の光>という異名を持つアルゴル星は、ペルセウス座が手に持つ蛇女メドゥーサの顔に位置する星の名だ。
「アルゴルの星が……今宵はまるでわたしに語りかけるように輝いている」
ここは森林。
精霊の女王は星空を眺め、木々の幹によりかかる。和やかさから来るうつらうつらとする瞳で。狭い肩に流れる金髪はうねり、白いエンパイアドレスは彼女の柔らかな痩身を包む。
草地に座り、葉陰の向こうにちらちらと光るアルゴルの星を見つめていた。神話のメドゥーサにちなんだあの妖しげな星を。それを見つめる瞳は水色。それはまるでメドゥーサの流した涙色を映しているかのような澄んだ色。
夏の虫は静寂を味方して、妖精たちの耳を楽しませていた。夜露にぬれた草花は静かに頭をたれ、明るい星光に照らされ彼女たちの目を楽しませる。
「わたくしがあの星を取って来て差し上げましょう」
夜の花の宴にいた一人の妖精が横に立てかける弓矢を手に立ち上がり、みなが彼女を見上げて笑った。
「美しいメドゥーサさんに威嚇されておしまいよ。あなた」
「恐くはないわ」
言い伝えでは、メドゥーサは勇者ペルセウスに退治されたという。だが、元は実に美しい女性だったことを知る者はどれほどいるだろうか? 遠い昔メドゥーサはポセイドンに見初められアテネ神殿に連れ去られた。宮殿を汚されたことに怒った女神アテネは、彼女の美しい髪を蛇に変えてしまった。それらの辛い過去はメドゥーサを洞窟へと追い込む。そこを涙の砦にして。
時が経ち、勇者ペルセウスは人を石に変える妖魔メドゥーサを退治しにやってきた。それは奇しくも彼女を辛い生の哀しみから開放することになる。そのメドゥーサの純粋な心は、天誅後に純白のペガサスとなって流れた血液から生み出される。ペルセウスは彼女の首を掴み、飛び立つペガサスを捕まえて持ち去った。
後に、勇者ペルセウスは人助けのためにメドゥーサの血から生まれたペガサスに乗り海の妖怪退治する。メドゥーサの目を見せることで妖怪を石に変え、岩礁に拘束された少女を救った。
思うに、純白の美しいペガサスはメドゥーサの心が創り出した美しさだったのではないだろうか? そして開放された後の分身だったのではないだろうか。
そんな伝説のある蛇女メドゥーサの首を鷲づかみにしたペルセウスの姿が、星座として位置づけられているのだが……。
「ペルセウスも酷い人ね……。未だに美しい娘の変わり果てた首を掲げて夜空にきらめいているんだもの。まるで瞬くアルゴルの星は彼女が恥らう姿。石に変わった者達にさえ涙を流し世を哀れんでいる姿にも見える」
ペルセウス座が持つメドゥーサの瞳として「アルゴル」は光り輝き、その星は<悪魔の光>との異名を持っている。それは不可思議に星の大きさが変幻するからだ。他の天体がその星の周りを三日に一度の周期ごとに回って重なることで、そのアルゴルが大きく見えたり小さく見えたりするのだった。
「見ていらっしゃいペルセウス」
弓矢を持つ妖精は凛と立ち細い弓矢をきりきりと引き、蛇頭を鷲掴むペルセウスの手元に向けて矢を射った。彼が驚いて乙女の首をうっかり離すように。
金に光り星明りをうける一本の矢は、たちまち天体に流れ星の如く線を描き、彼女達は行方を見届けた。
だが、その矢は天の川へ届くまでにすらすらと弧をえがいて森の彼方へ落ちていく。
「………」
彼女達は未だ輝くペルセウス座を見上げ、弓矢の妖精は腰を下ろした横に弓矢を静かに置いた。
果物を食べながら妖精たちは涼んでおり、その一房の葡萄をアルゴルに掲げた。まるでその葡萄の下方から涙が滴るかのようにアルゴルは楚々と光っている。星の雫……。
「何を語りかけておられるよう聴こえたのですか。今宵の哀しきアルゴルの星は」
「どのようなことかしらね……。ただ、どこかわたしたちの宴へと若かりし乙女のころの様に加わりたがっているかのようで」
「それではわたくしが彼女をこの場へとお連れ致しましょう」
竪琴を爪弾いていた妖精がすっと立ち上がる。唄でペルセウスを惑わし、少しの間だけ彼女をここへと連れてこさせようというのだ。
他の妖精たちは顔を見合わせ言った。
「おやめなさいな。あなた。ペルセウスはペガサスをお供に出来たし、メドゥーサを哀しみから一時開放しはしたけれど、それは彼が乙女心を知ってのことではないわ。それなのに女の歌で惑わされるかどうか」
それでも妖精は微笑み唄い始めた。
「ペルセウスさん
あなたの腕は剣を手に
あなたの手は首を持ち
その耳には救出を求める乙女達の声
けれどよく見て
あなたの可愛いお気に入りのメドゥーサは
乙女達を救いながらも恐れているの
強張る彼女の眼
鋭い彼女の顔
それは自分の姿を哀れんで
慈悲をいつかはと願う乙女心が泣き悲しむ顔にも見えなくて?
地上には緑のまどろみ
天には数多のきらめき
いつかは開放して差し上げて
彼女が元の姿で報われどこかで輝けるように
ペルセウスさん
あなたの愛はどこにあり
あなたの目は愛を知り
その顔には勇猛な優しさ忍ばせるなら聴いて
それをよく見て
あなたの綺麗なお供にしてるペガサスは
乙女達を救いながらも思ってるの
わが身を産んだ者は
泣き顔のメドゥーサ
彼は彼女の姿を哀れんで
共にどこまでも彼と武勇の道を決意しているようにも思えなくて?
我等はまどろみのさなか
天の輝きを見上げて
ときに憂鬱にもなるのです
彼女が元の姿で報われどこかで輝けるまでを」
竪琴から静かに指を離し彼女はしばらく見守った。夜風はゆるやかに髪を揺らす。
しかし、ペルセウス座は不動の態で光り、頭上の巨大なペガサス座を見続けているのみだ。
ペルセウスはうっすらとした雲に流れ隠れていき、再び現れ今度はアルゴルを薄く隠していった。その雲はメドゥーサの涙を拭うことは出来ない……。
妖精の女王は葡萄酒の金杯を傾け、肘掛に横たわったまま目を綴じた。
「森もさやけし啼いている」
泉の横にくつろぐ妖精の一人が応えた。
「はい。女王さま。今宵はとても静かな刻を紡いでおります」
彼女達が乙女の星を見上げているとき、何処からか男達の声が聞こえた。
「あら。森や木の精たちかしら」
弓矢を持った妖精はそちらの茂みを見ては、彼らなら持つことは無い明かりがちらちら見えたことで姿勢を低く立ち上がった。
「彼らではないわ」妖精たちは女王の周りへと集まった。
それはこの森から離れた村に住む青年達だった。彼らは言う。
「ああ。そうさ。俺はあの夜空に光るペルセウス並に勇気があるからなあ」
「あの恐ろしい悪魔の光を発するアルゴール星を見てみろ。お前はあの光の恐怖に惑わされずにあの子を救い出せるか?」
若者達は三名で森を歩いている。なにやら深刻なのかそうでないのか分からない口調だ。
竪琴から指を外し静かにしては夏虫たちの声に潜む妖精は木陰から近付いてくる声を息を潜め見守っていた。
「エネイディケの無謀がなければ今頃は王が彼女を連れて行かなかったろうさ。あの王は若くて血気盛んな乙女が好きだからな。お前から彼女を奪ってまで女王の座を与えて俺達の手の届かないところへ……」
「この手に盾とメドゥーサの首さえ持っていれば、取り戻せるさ」
「それならペルセウスに来てもらうか? 歌を歌うといい」
木々の草花の薫りをかぎながら一人の若者が婚約者を連れて行かれた若者を見た。
「おお ペルセウスよ!
我の悲しみを 打ちひしがれた心を見てくれ
この打撃をわが身の様に
私は永久の愛と願っていた乙女を奪われ
お前のその勇猛な腕を持っていればと思っている
おお メドゥーサよ!
今一度お前のその恐ろしい姿で憎き相手に分からせるんだ
この打撃を終わらせるため
でも私は自分で行くよ 彼女を迎えに行くよ
だから夜空の内は見守っているのだよ」
「この勇士を!」
「若きデベルシスの姿を!」
「王に打ち砕かれなきゃいいんだがな……」
「何か言ったか?」
「この勇士を!」
「若きデベルシスの姿を!」
若者達はあれこれと言い合い、そして泉まで来た。
きよらかな泉には夜の天体を美しく映し、細やかな星は木々の縁取りの陰に囲くらくわれている。彼らの影も映り、星座を見ているようだ。
「さあ。俺はこの森を越えた先に待つ城への攻防を控えて眠るとするか」
「頭脳も必要だぞ。女を取り返すには……」
「それがデベルシスには可能かなあ」
「何か言ったか?」
「おお ペルセウスよ!」
「それが明日の俺の重なる勇士だ!」
彼らは眠る場所を確保し、瞬きの元で眠りに落ちた。
弓矢を持つ妖精が静かに木々の間から現れ男達を見る。彼らは細身で大きな犬を一匹連れていた。
「まあ……彼らは言い放題。我等にはメドゥーサは哀しみの象徴に見え、恋する若者達にはペルセウスはあこがれの者に見える。瞳の星がなおも惑わす妖し気な光りに映るのかしら? この目には酷な運命に打ち奮えて見えるのに」
今尚、星は静かに光りを投げかける。堂々としたなかにも気品すら伺えた。
「どうする? 取られた乙女を連れ戻しにわざわざ危険な目に会いに行かせる前に、私達で惑わしては」
悪戯好きの妖精が猫のような上目でくすりと肩越しに言った。
「まあ。あなたったら、本当に男が好きね」
「それも若くて無茶をしてばかりの子達ばかり」
「今回ばかりはそれはよしておいたほうがよさそうよ」
女王がアルゴルを見上げながら言い、妖精は微笑み聞かなかった。
「試すのよ。愛する女の子を救い出したいという彼らの勇気をね。メドゥーサを助けてあげたいあなた達にも分かるでしょう?」
「ものは言い様ね。ただただあなたの場合は若い子で遊びたいだけのくせに」
「ふふ」
魅力的に微笑み、悪戯好きの妖精が夢心地の彼らへと歩き近付いていく。
彼女は肩越しに視線を向けると、竪琴の妖精も仕方なしに協力してやることにした。ゆったりと小夜曲を爪弾く。弓矢の妖精が歌声を滑らせた。
「若者よ ほら この夜唄を聴いて
眠りにむさぼり乙女を夢見てないで
もう少し美しい星を見てはいかが
わたしの目にも輝く光
悪魔の光りにも劣らない魅力のわたしの瞳の輝きを
とくと見てほしい
若者よ さあ 目覚めなさい
明日のことなど忘れてしまえ
もう少し森でくつろいではいかが
こちらの宴にくわわって共に歌い
あのアルゴルの星を称えようではありませんこと
若者よ ああ 美味しい果実をお食べ
目覚めたあなたに差し上げましょう……」
悪戯好きの妖精は微笑みながら唄い、緑の葉枝で彼らの頬や鼻先を一なでする。
「ううん。唄が聴こえる……なんとも美しい声だ」
「奔放にして、自由な」
若者達は目覚め、妖精たちは跳んで隠れた。彼らは夢心地のさなかで森を見回した。茂みから顔を覗かせる妖精は囁き歌う。
「こちらへいらっしゃい」
その声はどこからともなく聴こえる声となって彼らの耳に届いた。声に惑わされ、彼らは歩き出す。
妖精のしわざで犬は眠っていた。若者達は声をたどって木々の間を歩いていく。
「どこだ? どこだ?」
身を潜める妖精は彼らを唄で森の深いほうへといざなっていく。
悪戯好きの妖精を天体から見ているのはメドゥーサだった。彼女は微かなため息紛れにそれを見守った。
今の自分には海神ポセイドンを惑わせた美貌があるわけではない。プライドも崩され、姿さえも変えられた。そして乙女達の悪戯心や若者達の果敢な言動を見聞きしているだけ。時に廻ってくる星に隠れて自らの境遇から現実逃避できるけれど、その星は周期毎に去って行き地上の彼らにこの姿をさらしてしまう。地上の彼らは姿を消したり表したりする星を悪魔の光と言うが、彼女にとっての悪魔の星とは現実を隠すだけではなく包み隠さず見せて分からせて来る巡っては戻ってくる星のことだった。それでもどうだろう? その代わりに、三日に一度は彼女にとても美しい青の惑星をその時にはとくと見せてくれるではないか。
地上の者たちはメドゥーサの逸話を恐ろしい神話と語る事が多いけれど、時にあの妖精たちの様に心を分かってくれる者たちもいる。それだけでもどれほど心は救われるだろう。
時々、今宵の妖精の女王はこちらを見つめてくる。優しいまなざしをしていた。
メドゥーサは可憐に生きる者たちを羨望の眼差しで見つめていた。その顔は蛇の髪を鷲掴まれ嘆きの顔をしてはいても。
メドゥーサは心で思った。この心を分かっていただいて有り難うございます……。あなた方がいつまでも美しい森で遊べますように。精霊の女王へと心で呼びかけた。
森では悪戯好きの妖精が若者達を惑わし、夜霧の流れ始めたその先へ進んで行く。そして時に天体を流れる薄絹の雲は森を隠し星のきらめくこの場所から見えなくする。そしてまた風で現しては彼らを洞窟へいざなったようだ。
「さあ。こちらよこちら……」
声に惑わされた若者達はそこが洞窟とも知らずに幻を追うように進んでは、夜霧はそこまでは届かなくなっていた。
肌寒さが占める洞窟は彼らを目覚めさせる。
「ああ、ここはまるで……」
「ああ。本当だ」
彼らは辺りの岩窟を見回し、本能的に身を低くして警戒した。
「まるであのメドゥーサが現れそうな洞窟ではないか」
明かりを手に掲げて注意深く見回す彼らだったが、彼ら自身の陰が大きく揺れただけでも驚く始末だった。
これでは王から乙女を奪い返せるのかしらねと妖精は息をつき、光りの影の間から森の薫りを彼らに届けて恐怖をやわらげさせた。木々や草花の発する露の薫りが彼らを優しく包む。
驚かせてやろうと妖精は大きな葉っぱの仮面をつけて草の衣をまとっては低い声で言った。
「お前達は誰だ」
厳かな声に若者達はおのおの辺りを見回し、そして大きな影に驚いて腰を低くした。
妖精は声を変えて言う。
「若い人。この岩の溜め水をごらんになって。わたしの顔が映ってよ」
「我妻を奪いに来た者たちか!!」
若者達は驚いて洞窟を見回し、そして黒い影が近付いてきて現れた何者かを見て一人が声をあげて逃げていってしまった。
「な、何者だ! 洞窟の精か!」
「若い人、彼から私を奪ってくださいな。どこにいても私は監視されているのです」
「乙女の声がする」
二人は様子を伺いながら逃げていった友が気になった。
「あれは俺達を誘き寄せるメドゥーサの声か?」
「俺達を石に変えようとするのか」
「いいえ。違います。私は悲しんでいるのですよ。そう思われることが哀しくて、夜空で泣いている姿が見えなくて?」
竪琴の妖精が影から声を真似て言い、悪戯好きの妖精は緑の衣の声で言った。
「ここはお前達の来る場所ではない!!」
「私を助けてくださいな!」
彼らは何かに化かされていると思い、一気に洞窟から逃げ出して行った。
悪戯好きの妖精は彼らのその時の目を見開いた顔を見てけらけらと笑い転げ、竪琴の妖精は呆れてやれやれ首を降った。
「あれでは乙女を救い出せるかどうか。正体の見えるものには立ち向かってゆくのだろうけど、正体の見え無いものには頭脳もなにも無く逃げていってしまった」
若者達は息せき切って夜空を見上げ、ペルセウスの横に光るアルゴルの星を見上げた。
「あれは幻聴だったのだろうか」
「あれは哀しみだったのだろうか」
「そうだ。哀しみだ。俺達は救い出そうとする愛するエネイディケの心を取り返そうとしているのに、同じ女であったメドゥーサの心などは踏みにじっていたのではないか」
「彼女は悪魔なのでは無いのだ」
犬を連れた若者が現れ、彼らを見てこちらへ来た。辺りを見ている。
「洞窟から逃げ延びたんだな」
「明日は待ってはいられない。すぐにでも出発だ!」
「え。どうしたんだいデベルシスの奴は」
若者はどんどんと夜霧の流れる森を明かりを手に歩いていき、一人が止めた。
「きっと妖精にまどわされたのさ! 今夜を出歩いてみろ。この身が危険に晒されるだけだ。ここで休もう」
「賛成だ!」
「ごもっともだ」
「力を蓄えよう」
流れる夜霧は完全に森を包み込み、天の星は寄り一層きらめきを強くしていった。
アルゴルの星はメドゥーサの瞳として一際光り、地上を見つめている。
寝静まった森は、そして妖精たちの静かな小夜曲が響くのみ……。
人物
妖精の女王 森に住まう妖精
弓矢を持つ妖精 果敢な性格
竪琴を持つ妖精 優しい性格
泉の横に座る妖精 静かな性格
悪戯好きの妖精 悪戯な性格
エネイディケ 血気盛んな乙女
王 森の向こうの城の主。エネイディケを奪った
デベルシス エネイディケの許婚
友1 デベルシスの友人でお調子者
友2 デベルシスの友人で少し臆病
メドゥーサ 髪を蛇に帰られてしまった憐れな乙女。星座では頭部で表され、瞳に「アルゴル」の名がある。
ペルセウス 数々の妖怪を倒してきた勇者。メドゥーサの血から生まれたペガサスに跨り、人を石に変える彼女の首を持って出陣する。
メドゥーサは哀しみに暮れていた。
あの美しかった髪は宮殿を汚されたアテネ神によって蛇へと変えられ、彼女は洞窟へと隠れ住むを余儀なくされた。
それなのに、続けざまに勇猛な男達はまるで妖怪の様な彼女を退治しようと躍起になって静かに暮らしたい洞窟へとやってくる。
悲しみに打ちひしがれ顔を歪め泣き彼女はただただ暗がりに佇む。
どうして自分は元は通常の人であったのだと誰が信じよう。神々の動向に翻弄させられ、青春までもを奪われた。これはもう愛する悦びも恋をする心も味わうことなど無縁にされてしまったのだ。
恐ろしい限りの勇者達のあの目。あの気迫。剣を振りかざしてくるあの恐怖。
だが何の力が働いてか、彼女の姿を見た者たちはたちまちその武器を振りかぶった姿のまま石になり、その石造は増えるばかり。
元は彼女以外は無人だった洞窟は、恐怖に慄いた勇者達の顔を現した銅像が佇んでいた。
メドゥーサは哀しみに暮れては涙を落とし続けた。顔は疲れて顔も上げられない。
それでも、時にその歌声は以前のままの美しさを紡ぎだされる瞬間さえあった。
「静かに過ごさせてもらいたい。私の悲しみが深い怒りと恨みへと変わる前に……私を無下に攻撃しないで」
彼女は物音によって顔を振り向かせた。
また妖怪退治という名を引き連れた勇者がやってきたのだろう。
彼女は奥へ奥へと隠れるように白いエンパイアドレスの裾をひきずりながら歩いていった。こないで。こないでと思いながらも。
だが男は鎧を着けた重々しい音を響かせながら迫って、時々石造を見てはうめいている。メドゥーサは逃げつづけ、とうとう突き当たりへ来てしまった。
「私が何をしたというのだろう。ポセイドンに手を出され、アテネの女神には蛇に変えられ、そして恐ろしい男達からこんなに暗い洞窟で命を狙われて男達は石に変わって行くこのやり場の無い怒り、哀しみ……深い涙さえも彼らにはどう映ろうか……」
メドゥーサは涙を流しながらゆがめる顔が怒りと涙のあまりに変わり、そしてそれはもはや怒りだけになってしまいそうだった。
「お前がメドゥーサか!」
洞窟に点在する明かりが何かに反射してメドゥーサは一瞬腕で顔をかばい、そして男を涙の飛ぶ瞳でキッと睨んだ。
だがそれは石造であり、半端に胴の上だけが浮いている。どういうことだろう。
そう思った途端にメドゥーサは一瞬を置いて、視界が洞窟を映したのが分かった。
「………」
瞬きをする。ゆっくり。そして、悲しみからの開放が占領したかに思えた……。意識は薄まり、彼女の目は開いたままに勇者のいる方向を見て止まった。
勇者ペルセウスはよく磨かれた盾を掲げていた先から姿を現し、剣を掲げていた腕を下げた。
メドゥーサの首をはねた剣はその転がる彼女の胴体を写し、そして頭部の蛇たちは静かにうねったまま。
「!」
いきなりの物音にペルセウスは血の溜まる場所を見た。
それはその血の溜まる地面から何かが浮き上がってのことだった。
「何だ、一体」
純白の巨大な羽根が湧き上がり、そしていきなりそこから馬が現れ羽根を広げて勢い良くいなないた。それはペガサスだったのだ。
咄嗟に振り返ったメドゥーサの首は、どこか安堵とした女の顔にも思えたのだった。
純白のペガサスはその乙女メドゥーサの生まれ変わりだとでも言うのか、羽根を広げ天に駈けていく前に慌ててペルセウスはその背に飛び乗り、ペガサスはそれを振り払おうと暴れたがペルセウスは振り落とされなかった。
そして彼らはメドゥーサの洞窟を離れていった。
洞窟には哀しみのメドゥーサの倒れた胴体が横たわるのみ。
ペガサスは天を駈けて行く。
2014.8.9
黒い戸
佇む黒い影はじっと見ていた。襖は閉ざされ、狭く暗い廊下は白い漆喰壁が煤けている。左側からは囲炉裏の明かりが障子から漏れてはいるが、その先は闇でしかなかった。
時子は姉のいる床の間に向かうまでのこの廊下が毎日怖くて仕方が無かった。囲炉裏の間を通ることなどもってのほかなのだ。出来るだけ物音を立てないように、立てないようにそおっと歩くしかない。もしも毎夜毎夜部屋から抜け出していると分かれば恐ろしいほどに叱られる。
小さな時子は息を呑み、腕を丸めて歩き出した。
微かに床の音が鳴るのは仕方が無い。忍び足で歩いていく。もしも囲炉裏の横で養父の千造が晩酌から目覚めていたらと思うと気が気ではなかった。なので、そっと耳を当ててみる。
なにやらお猪口か小皿を置く音が聞こえ、その後に箸が転がっていく音がした。うーん、と千造の声が聞こえて完全に起きていることが分かると彼女は肩を縮めて障子から離れて歩いていく。
ここで引き返しては駄目だ。
一気に進んで行き、闇に小さい身体が包まれる。手探りでぎくぎくしながら壁を伝っていき、角に来ると地下への階段を静かに降りていった。時々蜘蛛の巣が掛かっていて驚いて口を塞ぎながらも。
下まで降りて行くと、引き戸がある。暗がりを手で探りながらひっかけを外し、音を立てないように戸を少しだけ開ける。微かな明かりが漏れた。その時、いつもの様に階段の上部を振り返った。
「ああ、今日も呑んだ、呑まれた。がははは」
時子は飛び驚いて小さくなる。廊下の角は右に手洗いがあるのだ。ずっとしばらくは動けずに廊下の下で小さくなっていた。音が聞こえなくなると、一気に戸の向こうへ行く。
「ああ、恐ろしかった」
蝋燭の明かりが占める漆喰の狭い廊下。その先は左側に障子戸が続いている。
「ああ、ほら。手毬をお蹴りよ、お人形さん」
その障子の先から、姉の声が高く聞こえていた。ちょうど囲炉裏の間の真下になるこの地下牢とも言うべき場所は千造に閉じ込められた姉が生活する場所だった。姉妹で隔たれた間柄であり、彼女にとって千造は恐怖でしかない。
五年前に両親の元を離れて預けられたのは千造の身の回りの掃除や食事を用意させるためだった。現在十三歳の時子は十五歳の姉とともに初めは甲斐甲斐しく家事を続けていた。だが、それも二年が過ぎた頃に千造は人が変わり、まるで別人になったかのように恐い男になった。姉を折檻し時子に無謀な用事を頼ませ続け、二人は次第に線の細い姉妹になっていき笑顔は失われていった。それも二年前に姉の気が触れると発狂したり叫ぶ毎に地下に閉じ込められ、今までそこにあった米俵だとか着物の入った木箱の数々、鎧や刀やら掛け軸なんやらを全て時子に上に運ばせ、そこを姉の牢屋にしてしまったのだ。
子供返りしてしまっている姉はまともに昼は起きていずに幼い遊びばかりをする。元々時子を守って来てくれた心強い姉だった。時子は涙をぬぐって顔を上げる。
「花ちゃん」
障子の先から姉に呼びかける。
「まあ、時子ちゃんいらっしゃったの」
姉は障子を開け、自分より背の少し低い時子を笑顔で見下ろした。床の間は手毬や吊るし雛、日本人形や手鏡など、いろいろなものが彩っている。姉自身の着物も柄が鮮やかで、そして囲う襖の全てが漆黒だった。漆喰の壁は雪洞の明かりがぼんやり広がり床の間を染め上げている。
「時子ちゃん、遊びましょう」
お手玉や折り鶴、ビードロが畳みの上には置かれていた。切り揃えられた花の黒髪は無垢なほどの瞳を純粋にともに光らせている。月に一度、千造の姉が来て彼女達の調髪をしてくれる時は千造は出かけており、そして時子もだんまりを髪を揃えられ、花はただただぼうっとしているのだった。千造の姉は優しい人で、彼の恐ろしい本性を知らない。
時子は今日もお手玉をともに始めた。
千造は囲炉裏の場に戻り酒を飲み続けていた。今日は実に良い気分だ。彼の取り締まる鍵屋の仕事で独立した二人の弟子が昼に来て挨拶がてらに良い酒を置いていき、仕事は成功しているという。
千造は鍵師であり、いかなる鍵さえ開ける自信があった。そしてそれは彼の自慢の弟子達も同様である。だが、ただ一つだけ厳重な鍵がある。黒い戸の先に、千造以外に誰もが入る事は許さない場所が。その戸があるのが今、花を閉じ込めさせている襖の先にある戸だった。
花は地下の掃除のとき、二年前に千造が入ったことを知らずに襖を開けその先にも黒い戸があることを知り、そしてその先へ進んできたのだった。そして彼以外見てはならぬものを見てしまった。花は随分と驚き立ちすくみ、そして逃げ出そうとした。千造に捕まえられて折檻され精神を狂わされたのだった。
今は幼児返りした花はいくら千造が昼にその戸に出入りしても一人遊びをしてはお歌を歌ってばかりいる。
杯を傾けると、ふと地下の部屋へ行きたくなった千造は膝に手をあて一気に立ち上がった。
障子を開け、廊下を歩いていく。角で曲がると階段を下っていき、戸をあけた。
「おほほほほ。ああ、面白い」
「うふふ」
「時子さんたら、まあ、お手玉のお上手なこと」
二人の声に一気に千造の顔が豹変し、頭に血が上って着物の懐に忍ばせていた鍵を握る手に力が入った。
「こらお前等!!」
時子は怒声に飛び上がり、千造を見上げてガタガタ震えた。
千造は時子の首根っこを掴みおかっぱ頭を振って逃げようとする時子を遠くへ飛ばして黙らせた。花は長い髪を一つにゆるく結んだ顔を傾げさせて千造を見上げる。時子の方を見ると首をかしげた。
千造が進み、時子の手首を引き上げて連れて行く。
「お前も姉の様になりたいのか! それとも地下でやつらと同じ目に遭いたいのか!!」
時子は何が何なのか分からず震えきって怒り狂う千造から目がそらせずに、どんどんと蹴り開けられた漆黒の襖の先へ連れて行かれた。
「花ちゃん! 姉ちゃん!」
ぐんぐんと腕を引っ張っていかれ黒い戸を千造が懐から出した鍵で開け始めている。時子は恐ろしい目に遭わされると必死に抵抗していた。
だがその黒い戸はあけられ彼女はどんどん暗がりへ連れて行かれる。
千造がもう一つの厳重な扉を開けると、その先へ時子は押し飛ばされた。
「きゃ!」
時子は地面に倒れて目を開け暗がりを見る。だが、それは千造のつけた蝋燭で明るみに出た。
目を震わせて見上げると、そこには夥しいほどの油彩画が飾られていた。そのどれもが千造であって千造で無い、そして恐ろしい姿をしていたのだ。三人の老若の男が拘束されており、そして絵画を描き続けさせられているのだが、誰もが見たことなど無い。誰なのかもわからずにいた。
何かのミシミシという物音で時子はふいに振り返った。
「!」
時子は口元を押さえて、変わり果てて姿を変えた千造を見上げた。真っ黒い毛に身体が覆われ、筋肉隆々とし、そして鋭い牙を生やした千造の目が充血しすぎて真っ赤に見え、そして時子を見た。
足を縺れさせた時子は何かにつまずいて倒れ、それが幾つもの白骨なのだと分かった。千造の巨大な手が時子の腕を掴み身体を引き裂こうとして、画家達はその時こそを描こうと目を真っ黒くしてどんよりとしたクマを作り筆を走らせる。
「ぐあっ」
時子が高々と路上げられた途端、千造が手を離して時子は床に転がった。
恐る恐る顔を上げると、その向こうには花がいた。
「花ちゃん……」
だがそれは、しっかりと毅然な顔をした姉、花だった。
彼女は持っていた壷を下ろして時子に駆け寄った。
「千造は悪鬼と手を結んで人を食べながらその魂を画家達に絵画に閉じ込めさせていたのよ。ずっと狂った振りして、見てたの。あの千造さんはもういないわ」
頭を押さえた千造は牙を剥いて花を見た。
「おのれ小癪な小娘が」
花は時子を自分の後ろへやって悪鬼と三人の不気味な画家達を睨みつけた。
「どうだ。だれか輪郭だけでも時子を描けたのか」
「はい」
一人が言い、悪鬼は時子を見た。彼らに描かれたものはずっと絵画に魂を閉じ込められる運命にあり、あとは生身は屍と化すのみだった。
時子はだんだんと虚ろな目になっていき、空間を見つめた。
「時子? 時子ちゃん!」
姉が肩をゆすってもぼうっとしたまま。
途端に、目を開ける時子は自分ば移動していることを知った。目の前には暗い目元をした画家がいて、時子を見下ろしている。筆が近付いてきて驚き目を綴じようとしても綴じられず、そして瞳に筆先が当たった。
瞳にだけ色がつけられ、時子の絵は抽象的なまま。
「時子」
声が聞こえる。あちらで声がする。花は空っぽになった時子の肩を揺さぶって気を取り戻させようとしていた。
そしてもう一人、花の絵を描いた画家が微笑んだ。その場所に花がどさりと倒れ、時子もその上に重なり倒れた。
千造は肉を食べるために牙を光らせ、腕を掴んで頭から口に放り込んだ。そして時子も足先から一気に飲み込んだ。
しばらくして悪鬼の口から出てきたのは白骨だけだった。
「これは酒が合う味だ」
悪鬼は笑い、絵画の時子と花はだんだんと色をつけられていった。それごとに視界が鮮明になっていき、そしてその恐ろしさが実感されてくる。だが叫びたくても叫べず、悪鬼は気が狂ったかのように激しく笑って回り始めた。
その回転はぐらぐらと蝋燭をゆらして蜀台を倒した。
「ぐああ、」
悪鬼が辺りを見回し画家達はその場を消えてしまい、そしてカンバスにどんどん火の手が伸びていった。
千造の家から小火が挙がったことで村人が集まってきては夜の消化に当たり始める。
小火は地下の奥部屋を焼いて消化されたが、その奥部屋に残るのは無数のこげた白骨と、そして一体の巨大な巨大な鬼の体だけだった。
人形の島
ジェラール・ダルクール公爵とルクサール夫人が人形たちの不可思議に巻き込まれていく物語。
第1話「不気味な島」 ジェラールは不気味な現象を起こすという島にやってくる
第2話「青い石の島」 友人が住む島に呼ばれたジェラールは島の探検に出る
第3話「鏡の泉」 ルクサールと共に宴に呼ばれた先で貴婦人から不思議な泉の話を聞く
第4話「幻の声」 人形博物館に招待されたダルクール夫妻。彼らは人形を手土産に贈られた
第5話「呪いの人形」 国王に呼ばれたジェラールは呪いの人形の真相を調べに向かう
第6話「子供の罠」 罪の無い子供のすることにジェラールは苦笑い
第7話「人形」 ジェラールとルクサールの15歳の息子ジルベールは美しい人形で空想を描き過ぎた
不気味な島
髪で目元の隠れた一人の女が擦り切れたドレスの裾を引きずりながら歩いていた。
「ダリタリ…… タリタリ…… ララララ……」
ふらふらとして、その嗄れた声の口元はそれでもまだ若いお嬢さんの風もある。
手に提げるのはボタンを目にした古めかしい女の子の人形で、やはり綿は飛び出し布地はちぎれ微笑んでいるけれど哀しそうな顔もしている。
「シルヴィー様……。シルヴィー様」
木霊の様に響く声は流れ始めた霧にこもるようで、柔らかな草地に裸足をぬらし歩く。白煙る霧に兎が跳ねて気配をさぐると、大木や木々の向こうから聞こえる動物たちの鳴き声に耳を動かし走って行った。女は蔦の這うかのように歩いていく。
時々空から聞こえる音。巨大な金属かクリスタルが風に煽られ音を立てる。ゴオンと鳴ったり、チリリリリと高く鳴動したり、ボオン、リーンと美しい音をそれぞれが立てるのだ。
「木の神
魂
森の神」
女は首をのけぞり回転させ髪が流れて行き、包帯で片方覆われた目元が覗いて閉ざされた片方の目のまつげが震えた。
その場にふらりと立ち止まり、目を開く。瞳には森が映り、ぼうっと見つめては、ふと笑った。
霧蒸せる深い森は続き、様々な生命たちをはぐくむ。薄暗い先を行くと、少し開けた場所に石でできたルネサンス様式の城が現れる。随分と古い時代に建てられたその城は今はひっそりとした歴史を秘めている。
枝垂れる木々の先に現れるそれは威厳があり、まるで魂の集まる場所の様だった。
白灰色の壁に暗い窓がぽっかりと浮かぶようで、そして灰水色の屋根にまで一部蔦が蔓延っている。
その窓に近付くと、何体もの人形が見え、来るものをじっと見ているようだった。
その城へと近付く馬車があった。蹄と車輪の音を引きつれ森から現れファサードへと流れ込む。
御者がドアを開けると一人の紳士が降り立ち見上げた。
「………」
よく確認すると窓の淵を埋め尽くすように飾られる人形。どれもが違う人形だがどれも同じ瞳をして思えた。
「これはこれは……。噂通りに気味の悪い」
男は言うと白いグローブを外し意外に綺麗な指にはめられた指輪をいじり階段を上がっていった。
ステッキで扉を叩く。背後の森は鬱蒼としていて、奥は闇を称えている。深い霧に閉ざされた今のこの島にいきなり現れるこの城こそが不思議に思えた。
滑らかに扉が開けられ、一気に何かの空気が彼に押し寄せた。ステッキの手に力を入れ口を閉ざす。まるで保たれていた不動のものがあふれ出したように。
黒いドレスの女が佇んでおり、暗い目元で男を見上げた。
「ロランス」
「これは公爵……よくいらっしゃいました」
今にも微風にも負けてしまいそうな声で言い、奥へと引いていった。
「灯台はしっかりと機能しておりましたでしょうか? この時期は突如として濃霧に包まれます」
「ああ。波も静かなものだったよ」
崩れそうな声の彼女に元気付けるように彼はしっかりと安定した声で言った。
「それはよろしゅうございました」
ホールを見回す。蝋燭が各所から荘厳な構造を照らしつけるが、彼らの揺れる影が幽霊の様に彼ら自身に語りかけてくる風である。
「男爵から伺ったが、一層の不可解さを見せているようだね」
「ええ」
暗黒がすぐ横に迫ってちょっとしたことで転がり込んでしまいそうなほど不安定な影が蠢いている。その陰はこの城の者達であり誰もが窓に見た人形達と同じ瞳に思えた。なので快活な顔立ちの紳士がいけにえにも思える。
「あの子が今は出ておりますので、そのうちに」
元々この城は百五十年前からとある男爵の家系が所有し続けてきた。だが五十年ほど前から呪われた島として一時航路が絶たれ、ずっと何年間もひっそりと管理だけが続けられていた。
「その彼女がこの島へ移住してどれほどになるかな」
「はい。五年ほどになります」
扉が開かれ、空間を進むと明かりが灯された。彼は座るように促され、窓から森を見る。違う方向の窓からは流れる霧の幻想的な古めかしい庭園が広がり、石造や蔦が見え隠れする。噴水は水気は無い。寂れた全ては時間が止まって思える。
室内に飾られた絵画だけが、五十年前まで百年続いた素晴らしかった記憶を残しているようだった。優しげに微笑む貴婦人、城での楽しげな宴、緑の庭で遊ぶ子供達や子犬、乗馬をする勇ましい若者、楽器を楽しむ夫婦など、暗がりのなかでも活き活きと切り抜かれていた。
この婦人は男爵夫人であり、二十五年前に見初められ婚姻を結んだ後に一人娘を授かったのだった。
「シルヴィーが七年前、突如として気を狂わせ頻繁にこの島のことを口走るようになり、数年前に私も共にこちらへ移り住むようになったことは夫からお聴きになったと存じます」
「ああ。若い娘が何故この呪われた島に引き寄せられるか彼自身が困惑の色を見せていたが」
「それまでを挨拶も叶わずに失礼をいたしました」
「いいや。理由も理由だったんだ。いろいろと大変だったことだろう」
「ええ……」
彼女は静かに頷き、まぶたを伏せた。
シルヴィーは元々とても恥ずかしがりやで可愛らしい少女だった。その記憶が強くいまだ生きたままだ。
公爵は立ち上がり、窓際まで来ると掃きだし窓の周りには人形は置かれておらず、そちらまで行くと庭を見渡した。振り返ると、室内は暗がりで見えなかったが慣れた目に蝋燭の影に揺れる窓際の人形たちを認める。
「魂を吸収する人形たち……と伺ったが」
霧の庭園を背後に公爵は言い、婦人ロランスは頷いた。
「公爵殿の目でどうか確かめてもらいたく思うのです。五十年もの間、この島は空気が彼らの呪縛により閉ざされたままと言っても過言ではなく、それを乱すものは悉く排除されてきたのです。シルヴィーがこの舘で生活し始めると気味の悪い現象は収まったと聞きましたが、それも嵐の前の静けさだったのでしょう」
公爵は相槌を打ち、扉窓を開けて庭園へ出た。
崩れた羽根をつける悪魔の石造は意地悪な顔をしており、茨と化した薔薇の磔にでもなっておもえる。悪魔でさえも魂の砦に捉えられたかのように。露が降りるその小さな薔薇は蔓となって今に公爵やこの屋敷の者達さえも雁字搦めにしようとする人形達の魂が宿って思えた。
「もう少し詳しく伺ってもいいかな。王が真相を聞きたがっている」
「はい」
小さな窓際の下にはベンチが置かれており、その上には所狭しと人形が置かれている。婦人はそれをぼうっと見ながら頷いた。
人形を手に女は土の出た場所まで来る。そこからは森の端から潮騒が響いた。
その場所に来ると膝を付き座り込んで、土を爪をたてて掘り始める。片方嵌められたレースのロンググローブも土にまみれさせて。そして掘った穴に彼女は人形を置いた。
口元は微笑み、首を傾げると髪から目元が暗く覗いた。重い土がかぶされていく。
「ららら……
たらりり……
らたたら……」
まだ一部が覗いた状態で女は立ち上がり、裸足で歩いていった。ドレスは土がぽろぽろと落ち染まり、長い髪が揺れる。また彼女は少し歩いたところに座り込むと、土を掘り始めた。黒く泥に塗れた人形を引っ張り出し、それをうれしげに手にするとその細い足を持って歩いていった。
「人の魂……
消え果て……
彷徨うなら……
宿を探し……」
ドレスを着た人形を逆さに持ち歩き、流れる霧を行く。
霧立ち込める海の臨む崖を横に歩き、岸壁を駆け上がる風が長い髪や裾を翻す。頭部からひらめく包帯もゆらして。湿った風は彼女を包む。優しく。
島全体が、鎮魂の彼女を。
「それまではこの島は五十年間、城を乗っ取ろうとしたり島に押し込んできたりする輩が変死したり病になる状態で排除され続け、それ以外では静寂が保たれてきました。なかには使用人達でさえ森に迷い込み二度と帰ってこなかったり、洞窟に迷い込んで帰らなかったりということもありました。それも全ては五十年前に起きた舘での秘密の儀式に起因します」
「秘密の儀式」
婦人は室内の絵画を示した。それらの奥の奥、光りの届かない方向を指の先が流れて行き、そしてそちらを公爵も目で追った。
小ぶりの絵画が飾られている。それは暗い目元をした男であり、その横には前主である男爵と息子であり現在の男爵の少年が記されていた。
「あの男は突如この島に現れ、多くの者達を生贄へと捧げた崇拝の教祖でした。この島は元は王族が手に入れるまでは彼らの神聖なる場所であり、その陣地を略奪されたのだと。なのでその土地に眠らされた魂を癒すためには同じ数だけの儀式が必要なのだと。その話を知らなかった前男爵はその男に儀式を開かせ、その男は契約を結ばせたと共に無理な条件を下しました。その癒されるべき魂と同じ数の生贄が必要になるのだと」
婦人は人形の飾られた窓際へと進んだ。
一体の人形を引き上げ、四肢と首を垂れる。
「五十年前、大量の犠牲者を出したその儀式の事実は報告を受けた王により闇に葬られ、前男爵は教祖と共に打ち首、少年だった夫は犠牲を免れましたが城の者や多くの貴族達は犠牲になり、一時その城を誰もが離れました。数年後、管理が続けられるさなかも城の事を知らないものたちや無法者は島を訪れ呪いに遭い、成人後に当主となった夫は島に戻り管理を引き継ぎました」
婦人が顔を上げると、庭園の公爵を見た。今にも彼を暗がりが包み込みそうである。森へと迷わせて魂を栄養にするかのように。
「これらの人形は、いまや全て娘のものです」
古めかしい人形達は空虚では収まらない目を向けていた。
「人形達には犠牲となった生贄たちの魂が浮遊された島全体から集められ、収められているのです」
婦人の暗い目元はじっと公爵を窓際から見ている。人形達の様に。
「私は……男爵と婚姻を結ぶ前は母と二人で生きておりました」
婦人は人形を細い腕に抱え、髪を撫で始めた。
「きっと、夫は少年の頃の思い出を脳裏に釘付けにされ続けていたのでしょう。それですから、尚の事私を見つけやすかったのだと思うのです」
彼は彼女の言葉に首をかしげ、ロランスは俯き人形の髪を撫でながら、その横顔はあまりにも美しかった。
「もしかして……」
ロランスは口を閉ざしたままで、公爵は暗がりの絵画を見た。恐ろしい事件を巻き起こした人物の絵画は、暗い目元が人形にも、ロランスにも重なったのだから。
「ロランス」
彼は屋敷へ戻ることを躊躇い、暗い目元をあげた彼女は彼を見た。
「私はあの邪悪な教祖の娘です。五十年前、儀式の日に貴族の女は一人教祖により身ごもり、一斉に王族軍が城へ押し寄せた際に捕らえられた教祖達の姿を確認すると城から逃げていったのだと」
ロランスは哀しい目で人形達を見た。
「私はこの島の初め民族の末裔であり、娘もその血を受け継いでおります。あの子は特異な自身の血を知らず、そして能力に自己をきっと抑えきれなかったのでしょう。そして、だから発狂せざるを得なかったのでしょう……それを私は身代わりになる事さえ適わずに。哀れな子……」
やつれた顔は生気がどこかへ浮遊している。
「シルヴィーは末裔の犠牲となった魂を再び鎮める力があってこの島へ来ると、事実を悟り始めました。魂たちの声があの子には聞こえるのです。何があったのか、何が起きたのかを知って行ったのです」
「そのさなかに一体何が起きて」
ロランスは立ち上がると、庭園の先、森を指した。彼は横目で森を見る。
ゴオン、リリリリ……
向こうから音が聞こえる。美しくも荘厳な。
「教祖はこの島の森の出口となる場所で儀式を行いました。その時に設えられたのは、支柱に吊るされた巨大な楽器で、銅やクリスタル、鈴などで出来上がったものです。最近、それが……」
一気に強い風がいきなり吹き荒れ、音が島に響くと共に公爵は腕で顔を覆い庭園に膝を付いた。
三体の魂が入った人形を下げた女は疾風に髪を乱し見上げ、包帯の裾が乱れ吹かれた。遥か頭上を見上げる。
様々な音が鳴り響き、それは魂たちをこの場へと留まらせるための呪いの音なのだと誰もが恐れた。教祖は魂の開放を願ったのではなく、永遠の魂の定着による島奪還を目的としたのだと。呪いが掛けられた事により。
霧が流れに流れて行き、うず高い支柱が見え始める。そして、まるで巨大な陰の様に頭上の霧の先に現れる。幾つもの吊るされた器。それが風に煽られ鈴の原理で音を鳴らしている。既に古ぼけて色あせた長い帯を幽玄に風にばたばたと靡かせながら現れた。
晴れた時期には一切風にそよぎもしない大小種類様々な釣鐘の数々は、それは見事なものだった。緑さんざめく森や木々、果てには向こうの青い海を見渡す場所に立てられたそれは実に美しい。青空を背景にしてよく日時計の様に見つめながら何時間も過ごすことも、季節の花の薫りを風が乗せてきたり、潮騒を聞くこと、森の動物達の声を聴くこと。それらのできる素晴らしい島だ。
だが今の時期は、儀式の開かれた季節。潜んでいた魂が安堵を願ってうねっている。それらの魂が巨大な塊になって鐘を鳴らし始めたというのか、末裔の彼女が来て漸く島で浮遊していたのを鎮魂され始めた頃から彼らが土へと帰化されることを願って彼女が人形を埋め始めて始まった現象だった。
巨大な風が吹き荒れ鳴らすのだ。
そうすると人形達は一気に声を潜めて黙り込む。誰もが人形でしかないかの様に。
女は段々と霧の晴れ始めたなかを見上げ続けた。
「恐ろしい魂……
それは幻でなく
誰をも震わせ……
私も震える」
空が覗き初め、あの支柱から吊るされた楽器が見え始める。そして、黒い影となって、釣鐘に重なる巨大な何がしか……。こちらを見て、微笑んだ。
彼女はふっと倒れて気を失った。
「邪なものを感じるのだとあの子は言います。鐘が鳴らされるその時が。魂たちは一気に落ち着かなくなり惑っては人形の陰や森の神に加護を求め騒ぐのだと。事件後五十年間、鐘を鳴らすものはおりませんでした。故意には」
どこかしら明るくなり始めた。音もなく霧は流れて行く。森の情景を現しながらも。
「あれらは取り付けた紐を数人がかりで引かないことには鳴る事はありません。その紐はすでに撤去され、そしてどんなに風が吹こうが動くような代物でも無い。それが、最近になって鳴り始めたのです。聴こえますでしょう……あれは、魂の唄でしょうか。無念の罪の無い魂たちの。それとも、もっと違う、他の何か……」
ロランスは震えて顔を覆った。公爵は婦人のところへ駆けつけ肩を支え、目元が覗く。美しいオッドアイを。それは彼女の娘も同じだった。片方は水色だが、もう片方はよく分からない色味をしている。その事について娘のその片目はあまり視力がよくないらしく、暗闇では利くのだと聞いた。まさか、その娘の目には通常見え無いものが見えていたのかもしれない。
「邪なもの……それが雁字搦めにしようと足掻いて、天への路を分からなくさせようと鐘を鳴らしているのではと。音は方向性を失います。霧が晴れると鐘は止む。本当は誰がその鐘を鳴らしているのかなど、風かなのかなど、分からないのです。その場所へとお向かい願いたいのです。儀式の行われた場所へ……」
公爵は教祖の絵画を見た。
「ええ。もちろん」
彼らは馬車へ乗り込み、森を走らせていく。晴れ始めた霧を斜めに裂いた陽が幾重にも降り注ぐ。美しい森だ。生物の声も響き渡る。鳥も駆け巡った。
森を進み、だんだんと風が強くなり始める。その先は海を臨む崖があるのだ。木々の間から、何かが見え始めたことに気づく。
「………」
高く鬱蒼とした木々の森がだんだん出口へと差し掛かるごとに大きくなっていく。
それは、巨大な太い柱だった。それがどれほどか立っているのだ。真っ直ぐではなく、半円の弧を描くかのような柱が。
「あれが……」
「はい」
四本の弧を描く支柱に吊るされるものが見え始めた。それは、見事に様々な鐘だった。それらがそれぞれ鎖で繋ぎ吊るされている。支柱にはそれぞれうっすらと色味の残る布が長く垂れ下がり青い空と海を背景に棚引いている。まるでそれらの吊るされる鐘の数々は、宇宙の星を見上げているかのようだった。
公爵はいきなりの婦人の叫び声に一気に顔を戻した。
「シルヴィーが!」
馬車が停まったと共に婦人が駆け出して行ってしまい、彼もすぐに走って行った。
支柱に囲まれた広場はそれらの楽器の陰が黒く降りている。その地面には幾つもの、無数の土盛がされていて、そこから小さな手が足、髪などが見え隠れして土に埋もれていた。それが人形達なのだと分かった。
鐘の影になったところに、ロランスの娘シルヴィーが倒れていたのだ。真っ青な顔をして。
彼らは駆けつけ、足元に三体の人形を落としたまま気絶するシルヴィーを抱き上げた。
「目を覚まして。シルヴィー」
婦人が頬を撫で続け、公爵は驚きを隠せずにいた。シルヴィー。あまりに美しくなっていたのだ。包帯の嵌められた片目は母親と同じあまり色味のよく分からないほうの瞳で、やつれてはいるが極めて繊細な顔立ちだった。少女の頃はいたいけな風が強く、いつでも父の足元に隠れてははずかしそうにはにかんでいた。
髪が風に煽られ、潮騒が響く。森の生物達の声も重なる。
「見えたのです……」
シルヴィーが魘されながら顔をゆがめた。
「教祖が、巨大な教祖の陰が鐘を操って……あの教祖の魂はまだ同じく彷徨い続けていたのです。いいえ、いいえ。この島に残って彼らの魂を引き止めていたのです。音で偽物の宇宙を形作り、惑わせて天だと思わせようと」
はらはらと涙をこぼしながら細い手が目元を覆う。
そして瞳が片方開かれ、水色の瞳が空を見た。
「私がこの天へといける広場に人形の魂と身を供養するごとに、影は大きくなっていくのです。あの鐘を下ろさなければ、彼らは報われはしないでしょう……」
シルヴィーは目を閉ざし、再び眠りへと落ちていった。
公爵は支柱から吊るされた鐘の数々を見上げ、風の音を聴いた。あんなに鳴っていた鐘は、今の強い風が海から吹き荒れていても不動の態である。
まだまだ人形達は埋められることを待っていた。屋敷は今は霧が晴れて陽に包まれている。その時でも、人形達の暗い目元は変わらない。
シルヴィーの唇。それは薔薇の咲いたように甘く、今は硬く閉ざされていた。気絶から眠り続けている。
百年前、静かなこの島は少ない民族が住む以外に人間はいずに、他の島との交流も無かった。そして民族内は儀式に生きていたらしく、それは生命を天へと繋げる血と肉の儀式であった。
彼らの間には『ルブレダ』という色の瞳を持つものが稀に生まれたらしく、その瞳を持つものは神とあがめられ一族の長になってきた。それはロランスやシルヴィー受け継いだ片目のことだが、教祖は両目ともこの色だった。彼は不思議な魔力めいた雰囲気を持っていた。その彼が生まれたことで、彼らの一族は島奪還の計画に乗り出した。
しかし、その彼らの儀式は邪なものでしかなかった。だから教祖は王から制裁を受けたのだった。
「我等は彼らの魂が安心を迎えたときに、この島を離れるつもりでおります」
男爵は多くの下ろされていく鐘を見ながら公爵に言った。
「まさか妻や娘がこの島の末裔でもあったのだとは知る由もありませんでした。少年の頃の記憶はあの教祖の瞳の色までのものは残ってはおりませんでしたから」
王に公爵から報告がいき、しばらくすると兵士達が島へ来て鐘の撤去が始まったのだった。
「今日もシルヴィーは人形達を島の土に埋めているのだな」
「はい……」
彼は頷き、今はどのあたりでそれを行っているのか、あの覚束なげな娘の姿は見かけない。
「今に、動物達と自然と人形たちの島へとなるのでしょう……」
暗い目元をした男爵は在りし日の記憶を蘇るごとに震えた。
貴族達の悲鳴。悪魔共の儀式。教祖の打ち首にされたあの顔。父の墓。
乗っ取ったものはただでは済まされない。
そして殺人の罪は消えない。必ずや。
シルヴィーは色褪せたドレスを引き釣り、ふらふらと歩いていた。
ただただ魂の安静を求めてあげては、人形を土に埋めていく。
今日も一つ、二人……土から人形の手や足が見え隠れ……。
青い石の島
公爵はサファイアの様に深い色の海を進んでいた。
心地よい風が全身に吹き、とてもすがすがしい。本国から二時間は海の上を船で進んでいる。
「しばらくすれば青の島に到着しますよ」
「ああ」
快活な顔立ちで船長に返事をし、衣服をバタバタと風に靡かせる。天候にも恵まれ、追い風なのでこれは順調に到着する。
招待状を受け取ったのは一週間前のことだった。随分といきなりの宴だとは思ったが、それも毎度のことでもある。それが友人であるダミアンでなければ都合もつけられないのだが。
≪僕は先日、とても美しい島をとある貴族仲間から譲り受けた。
その島へ君を招待すると共に、宴を催すつもりだ。
ぜひ君に来ていただきたい≫
一瞬その招待状を読んでいるときに、まさかあの『人形島』なのではないだろうなといぶかしんだものだが、方向は全く違うのだと分かった。男爵夫妻は娘と共に今もあの魂の砦である人形島で魂たちの救済と鎮魂を行っている。ひっそりと、静かに……。
「旦那! 見えてきましたよ!」
彼が見渡していた海から船長の指し示す方向を笑顔で見て、望遠鏡を渡され覗き込んだ。
海に浮かぶ緑の島。鳥達の黒い影が飛び交っていた。
「本当だ」
船は一気にその島へ向けて進む。南風が心地良い。
「これは楽しみだ」
彼は舌をなめて望遠鏡を外し、まだ肉眼では見え無いその島のある方向を見つめた。
「あの島には元々ドゥ・ヴァン一族が別荘を建ててましてね、冬の間だけ寒い地方から来てたんです」
「その別荘をもらったのか」
「ええ。大自然が広がる島に一棟だけ城がこじんまりとありましてね。一族でのんびりと過ごしていたらしく」
船は帆に風を受け、どんどんと目で見るごとに近付いてくる。穏やかな波は透き通る青さで、たくさんの魚達も泳いでいた。
「確か自然好きの主だったな。ドゥ・ヴァン様は」
「ええ。別荘地でも本当質素な暮らしを好んでいるらしいので」
ダミアンもそれは同じで、若い頃から無謀をして野宿やらをしていた。変わった所があるのだが、そこもドゥ・ヴァンの気に入ったところだろう。
緑の迫る島へとつき、ボートに移ると浜へと降り立った。
野生動物たちの声が聞こえる。
「ああ。美しい島だ……」
公爵は言い、笑顔で見回した。
船長に案内されながら歩いていくと、小さな建物が見え始めた。
歩いている間にあつくなってきてジャケットや帽子を外して腕をまくっていた。何がいるか分からないので靴は脱がないように気をつけて歩いている。
その建物というのは、本当に質素なのだと分かった。そしてその横には大きな檻に囲まれた果樹園と畑も見つけた。野生動物たちから自給自足の食べ物を守りながらも生活してきたらしい。ドゥ・ヴァンの好々爺顔を思い出し、微笑んで歩いていく。井戸の横に、変わったものが設けられていた。それは巨大な黒い皿であり、鏡が斜めにくくりつけられている。首をかしげて公爵はそれをいていたのだが、いきなりの友人の声に笑顔で顔を上げた。
「やあ! 来てくれたんだね! はるばるとどうもありがとう!」
「やあダミアン! 久し振りだ!」
お互いに挨拶をしあって背をたたきあった。
「美しい島だ」
「ああ。僕も初めは驚いたよ。本国からも二時間で行って帰ってこれるし、それに住みやすい。まあ、自然の力は侮れないけれどな。それもまた良い」
前にも増して日に焼け逞しくなった友人は大柄に笑い、船長に感謝をしてから報酬を渡し、公爵を促した。
「僕もまだこの島の探検は済んではいないんだが、だから君を呼んだのもある。共に回ろう!」
無数にある島はそのほとんどが無人島であって大自然が広がっている。この島も十年前にドゥ・ヴァンが上陸するまでは無人だった。
「この島は面白い動物がいっぱいいるよ。それに昆虫や見たことの無い生物がね。星も素晴らしい」
「ああ。ここへ来るまでも変わった昆虫がいたよ」
小さなドアから入ると、必要最低限以外のものは何一つ置かれていなかった。調理をする場所が無いことに気づき、宴と言っていたがどうするのだろうと思った。
「料理は魔法で出すのかい?」
「良いところに気づいたね。さっそく君にも手伝ってもらおう」
「任せろ」
彼らは荷物を置いて外に出ると、何かを渡された。
「強めの虫除けだ。ハーブを使ってつくった。蚊とかには利くが、基本的に虫に近付いたり攻撃はしちゃだめだぞ」
「わかった」
井戸の横の先ほどの大掛かりな道具の前に来た。
「これはね、鏡で太陽の光りを集めてこの鉄板で調理をするものなんだ」
「え? 太陽で調理を?」
「ああ」
幾つもある鏡をダミアンが一つの方向に光りを集めさせた。今は時間が懐中時計では昼前。ダミアンは彼を連れて檻の畑へ促した。
「裏には家畜の檻もあって肉はそれを食べるんだ。果樹園にオリーブもあるからオイルも取っているよ」
「相変わらずなんでもできるんだな」
公爵が友人に関心しながら野菜取りを手伝う。ダミアンだけが畑の折から出て行き、しばらくして肉を手に来た。鶏らしい。
「さあ。調理できる時間は決まっているんだ。一番の日照時だよ。それにじわじわと時期によったら時間が掛かるけどね」
大皿の鉄板で彼は調理を始めた。驚くべきことに、本当にじゅーじゅーと音を立て始めているではないか!
彼は楽しくなってきていた。
「ワインをあけよう。祝いの酒を持ってきたんだ」
彼らは宴を始めた。
夜、星を見上げながら数を数える行為ができないぐらいの星屑に空は埋め尽くされている。明るいほどに。木々の陰の先に光っている。
「とても幻想的だ」
「ああ」
ハンモックを揺らしながら唄を口ずさむ。
「へえ。男爵って、あの美人妻の」
「ああ。娘もたいした美人になっていたよ。驚いた。今度、元気付けに一緒に会いに行ってやろう」
「それがいいな。そんな大変なことがあったのか」
「この島で元気を取り戻させてやるのもいい。娘も気を取り戻すかもしれない」
幾つも星が流れて行く、透明な夜空は星の音さえ聴こえそうだ。夜風は涼しく、野生の声が響き渡った。
「明日の朝早くから探検に出かけよう」
ダミアンが言い、彼も頷いた。
小屋に入るとランプを灯す。静寂と共に聴こえる様々な動物の声。
「これがこの島の簡易的な地図だ。まだドゥ・ヴァンさんも全ては回ってないらしいから、何があるか分からない」
ぼうっとした明かりに照らされるそれは島の形によく彼らが使ってきた周辺のくわしいところや、小屋の場所、近付かないほうが良い場所、嵐のときの非難場所が記されているが、それも島の前面に集まっていてその奥地はまだ足を一切踏み入れていないらしい。
「さあ。何があるかな」
透明な朝日を背に進む。朝起きの鳥達の声が高く響いたりしている。
その彼らは岩場がそびえた場所の麓を歩いていた。緑が迫り来て、幾重にも重なる。それも坂のように上がって行き、向こうに木々に囲まれた泉を見つける。そこへ行くことにする。変わった花が咲いていたり、手を足を使ってよじ登ったりと高い位置に来ると元来た方向を確認しながら進んだ。
泉に来ると、動物がいて水を飲んでいた。透き通っていて大きな魚が泳いでいるのも見える。綺麗な鳥も泳いでいた。そこで休憩をして水を飲む。
彼らはその場を歩いていくと、滝があるかもしれないと水脈を辿るように歩いていった。草や枝を被る岩場を水が何本も流れ光っていたり、木の間を縫うように水が土と落ち葉のなかを流れたりしている。湿った蔦が蔓延ってその下を水が流れている。時々動物の気配がすると静かに離れていった。昆虫も多くいる。
島自体の広さはかなりのもので、いきなり全てを回ることは出来ないだろうとわかっていた。
「………」
ダミアンが立ち止まって横を見て、彼を呼んだ。
「おい。こっちに来い」
「ああ」
歩いていくと、そこには岩壁に亀裂が入っていた。
「洞窟だ」
「行ってみよう」
頷き、彼らは注意深く始めは入り口から伺った。どうやら広い作りの洞窟で、なかは随分と涼しい。何かの動物が住処にしているかもしれないので慎重に進んで行った。
「……?」
「おい」
彼ら二人は驚いて、その先を見た。
「人がいる!」
公爵が笑顔になった瞬間、ダミアンが腕で制した。
「静かに。もしかしたら、知らぬうちに海賊か何かが住処にしているかもしれないだろう。僕等は島の裏側へは行ったことが無いわけだし、向こうにしたら僕等のいる側が島の裏にもなる」
「確かに」
彼らは背後から近付いていくが、もちろんダミアンも自分達以外で人を見かけたことは無いと言っていた。
「……え?」
彼らはそれが人では無い事を知った。
「これ……人形か?」
怪訝な顔をして近付くと、完全に動かないし灰色と白と青、それに黒だけの三色だと気づいた。思い切って前まで行くと、それは確かに人形……銅像だった。
「おい。あっちにもあるぞ」
そちらは同じ配色の女の石造だった。
「なんで無人島のはずの洞窟に石造があるんだ?」
「おい。こっちにも男の石造がある」
岩場に紛れて全部で五体置かれていた。そのどれもが若者で、遺跡探訪で見るような古めかしい格好をしているわけではなかった。探検をするときや航海をするときの格好をしているのだ。
「おいおいおい……。まさか呪われた洞窟なんじゃないだろうな」
「まさか!」
「じゃあなんでこんなに人形ばかりなんだ。しかも生々しいぐらいに現実的だ。息でもしそうに思える」
「精巧だな」
ランプに照らされる範囲は全て見回すが、何か気配があるわけでは無い。生活の雰囲気も無い。ただ忽然とあるのだ。遺跡でもなさそうだということは、何処かからか奪ってきたものを一時保管している犯罪の場所というわけでもなさそうだった。
「奥を探ってみよう」
「ああ」
不気味な等身大の人形たちの置かれた場所を通り過ぎていく。
公爵は肩越しに振り返った。
「………」
一瞬、女の石造が動いた気がした。灯火と影のせいだろう……。
「おお! これは凄い!!」
彼らはなかば興奮して洞窟で辺りを見回した。
天井は穴が開いていて光りが差し込み、そしてその開けた洞窟の場所はとても美しい。
真っ青な奇石が壁にびっしりと光りを受けて輝いているのだ。それが壁から染み出る水で地面に広がる水面に鏡となって映り、その水面には天穴から漏れる緑が青石と共に揺らめいていた。地面の一部にまで青い石は続いているので、倍増して美しい。細い滝が上部の壁から落ちている場所があり、それは青を透かして滑らかに落ちていた。色の綺麗な鳥が長い尾と首で進んで水を飲んでいる。どうやら上の穴から来るらしい。鳥が飛んで行き、それさえも美しく映る。
彼らはしばらくただただ呆然と美しい青を称える岩場を見つめていた。
だが、ダミアンはあまりに動かない公爵を見て肩に手を置いた。
「おい。そろそろ腹が減らないか。持ってきたパンでも食べよう」
だが公爵は動かずに、ずっと瞬きも忘れたのか青い石の壁を見続けている。
「ハハ。冗談よせよ。それか何か毒虫にでも刺されてたのか?」
心配になってきて腕をまくったりして確認するが、動かない。いつも冗談をかましてくる友人なのでダミアンは初めやれやれ笑っていたが、段々と真顔になっていった。
「おい。ジェラール」
頬をバシバシ強めに叩く。
「おい。もしかしてお前まで洞窟の石造になんかなるんじゃないだろうな」
あの灰色の肌で白いシャツ、黒いパンツに蒼い上着の石造たちを思い返して、ダミアンは背筋を震わせて同じ青の石の壁を見上げた。
「いい加減に応えろ!」
ダミアンは仕方なしに重い公爵を担ぎ上げて今はこの美しい洞窟を離れるに限ると思った。それとも自分は幻想でも見ているのだろうか? この洞窟に何か幻覚を見る霧が出ていたとか。
息を切らして洞窟から逃げると、草地に公爵を放って意識確認を始めた。
「おい! 目を覚ませ!」
だが目は開いている。何かを見続けたままなのだ。あの深く青い石をいまだに。今は目に緑の木々を映してた。
ダミアンは思い切り公爵の頬を叩いた。
「こら!!」
「うあ!!」
いきなりの事に驚いた公爵は瞬きを続けながら衝撃を受ける頬を押さえ、何故いきなり友人にびんたをされたのかが分からなかった。
「何だ、一体どうした」
「こっちのせりふだ!」
「え?」
「青い石の壁を見ていたら動かなくなったんだぞ。驚くじゃないか」
だが、しかし、そういえば帰ってくるときにあまりにも必死だったこともあるが、あの五体の石造はあっただろうかと思った。確かにランプを掲げながら公爵を担いで不安定ななかを走って行った。夢中になっていて石造を観ていなかったのだ。
「青い石の壁……?」
「え?」
彼は首をかしげて友人を見て、とぼけているのかと思ってまたびんたした。
「いた、いたい、なんで一体……びんたするんだ」
ダミアンは首をかしげながら背後を振り返った。
「え?」
走って逃げたからか、先ほどの泉は比較的近くになっていたが、見渡した限り洞窟のある方向の岩場は明らかに遠い。
ダミアンがいきなり走り出し、驚いた公爵も走った。
「洞窟のなかに石造と青い石の空間?」
何故友人がそれを覚えていないのかが不明だった。何か忘れさせるような空気でも流れていたのだろうか。自分はこの島にしばらくはいるので慣れているのかもしれないのだが、あんなにはっきりとしていた。
「ここだ」
ダミアンは再び洞窟を見つけ、ランプを掲げて進んでいった。
「あれ」
だが、あの石造は見当たらない。
「夢でも見てたのかな。一人で暮らしてるからなあ」
ダミアンは首をかしげ、奥へ進んでいく。路は単純な一本道であり、ごうごうと音が鳴っている。風の音だった。
奥に来ると、いつのまにかまた洞窟の入り口に戻っていた。
「他の洞窟なんじゃないのか?」
公爵が言うが、ダミアンは首を傾げるばかりで、彼は石造とか妙なことを言い続ける友人が心配になってきた。
「おい大丈夫か?」
逆に変な目で見られる前にダミアンは「戻ろう」と言った。
彼らは洞窟から緑の氾濫するなかを歩いていき、その背後の洞窟の奥では、あの青く輝く美しい石の壁が今もこれ以上誰に邪魔されること無く存在していた。木漏れ日を水面に映し、鳥達が時々水を飲みに来る……。
昼下がりは小舟で島の周辺を回ってみることになった。サファイアの如く蒼い海は本当に蒼い。
島の裏側は崖になっていて、その崖には鳥達が巣をつくって群れをなしているのが見える。あまりそちらへは小舟ではいけないとわかり、引き返していく。きっと岩礁もあるだろうと思われた。
そこから離れて迂回し、低い岩壁の横を進むと上に緑がひさしになって覆いかぶさっている。蔦が枝垂れていて、きっと満潮時には海に沈むだろう岸壁の裂け目を見つけた。
大降りの船で充分進んでいける幅だ。小舟で進んでいく。その海水につかる岩場に落ちて生えている木々が高くそびえていて、カニだとか小魚がいる。岩の裂け目を見上げながら進む。青い水が続き、しばらくして突き当たった。
「奥まで来ると波の音が反響して綺麗だ」
「ああ。まるで母親の胎内のようだな」
「落ち着く」
彼らはしばらく小舟に寝転がり、その音を聴き続けた。
だが、どれほどかして水位が上がり始めたことに気づいた。
「そろそろ引き上げよう。潮の高さが変わり始める」
「ああ」
彼らは小舟を戻らせて行った。
「今回は妙な石造は見なかったみたいだな」
「ああ」
ダミアンは肩をすくめ、海を小舟で進めさせていった。ぐるりと回ると、細い木が立ち並ぶ場所に来た。その間から海蛇だろうか、泳いできては向こうへ行く。見上げると大きな葉を連ねてつけていてまるで生き物の様に揺らめいている。小舟をその細い木にくくりつけ、蛇や虫に気をつけながら進んでいった。
水場を歩き、しばらくすると木々がどんどん幹を太くしていく。
「誰だいあんたら」
いきなりのフランス語に彼らは咄嗟に振り返り、腰を落とした。
「………」
そこには美しい女がいて、焦げ茶色の長い髪の頭部を布で縛り、パンツ姿の鋭い目で立っていた。手にはナイフを持っていて明らかにぎすぎすしている。
彼らはフランス語が話せるので咄嗟に言った。
「俺は島の北側に住んでる者だ」
「何?」
女は怪訝そうな顔をして、そしてすぐにダミアンは気づいて驚いた。
「人形になっていたはず……」
「………」
女は口を閉ざし鋭くダミアンを見た。公爵は友人を見てから女に言った。
「君は何者だい」
「あたしはこの島から西に行った方向から来た。まあ、島流しみたいなものさ」
「他に四人の連れが?」
「あんた、あの洞窟に行ったの」
「ああ」
女は相槌を打つと短剣を下げた。
「一ヶ月前にあたし等は五人でここに置いてきぼりにされた。別に戻れる距離だが、帰ったら命は無いと思えって言われててね」
「何で島流しなんて」
「まあ……」
女は罰が悪そうに顔を反らしてから二人を見た。
「浮気さ。その四人の奴等とね」
「ああ……なるほど」
それで主人に怒られて追い出されたわけか。それ以上二人は何も言わなかった。
「人形って言うのは?」
「さあ……一ヶ月前に頻繁に男共が言ってたね。洞窟で老夫婦と若い男の石造見たとかどうとか」
「老夫婦と若者って」
それはドゥ・ヴァンたちの事だ。だがあの夫婦がまさかあそこまで奥地を出歩けるわけも無い。いろいろと危険でもあったのだから。
「だがあたしはその洞窟にたどり着けないし、男共も一度見たきりだって言ってたよ」
「他の者達は近くにいるのかね」
「ああ。崖の上にね」
彼らは巨大な木々の間を歩いていく。
「圧巻させられるな……」
「あたしもこの場所が好きさ」
うず高い木々の幹は近付くことも躊躇われる神聖さがあった。その間を歩いていくのだ。下は水場で透明でありところどころから湧き出ている。
それを崖を這う蔦を掴みながら昇っていく。
「時々棘が生えた蔦もあるから気をつけな。ムカデもいるから」
「ああ」
慎重に進んでいく。そうは高くない壁なので、上まで来ると見渡す。木々が柱のように立ち並んでいる。時には宿木もあって違う種の木々が芽吹いていた。
しばらくすると日の暮れになる。彼らは急いだ。
崖の上に来ると海を見渡した。
その時には紅と紫が交互になった夕暮れへと空が染め上げられていった。海もその色へと染まりきり、ガーネットの様な透明度の高い夕陽が暮れていく。南側からは東から昇る朝日は見える。夕陽は見えなかった。
「そいつ等は誰だ」
青年の声に彼らは振り返り、テントから出てきた男を見た。
「向こうに住んでるんだとさ」
「え?」
ほかに三人の若い男が出てきて夕陽を背にする美しい女に一度キスをする。
四十代前半だろう二人の男達を見た。
「僕はダミアンだ。彼は友人のジェラール」
若者達は頷いてから崖に座った。
「なんだ。流されたのか。あんた等」
「いいや。好き好んで住んでるのさ」
「へえ。俺らは三ヶ月、あと二ヶ月この島にいることになってる」
よく争いが起きないものだと関心しながらも、それでも男同士は殺伐とした雰囲気があるのでやはり争いごとはよくしているのかもしれなかった。
今は沈んでゆく美しく壮大な夕陽があれば、これ以上誰も言葉を発さずに肌を紅と紫に染め上げ見つめていた。瞳をガーネットに光らせながら。
女が美しい声で歌い始めゆったりし始める。二人の男がそれにコーラスを乗せ始めた。
夕陽の色味と共に昇り始め輝く星。どんどんと天体は美しく移り変わって行く……。
「青い石の洞窟で」
「ああ」
「緑の先を進んでいくと忽然と現れて、入っていくと君たちとそっくりな石造と、その奥に美しい青い石の空間があった」
彼らを夜風が吹いていき、気温も下がり始める。夜行性の動物の行動する音がする。
「……島の記憶……」
数多の星を見上げながら女が言った。
歌声は高かったが、話声はハスキーで、風の様に話す。青年達もそうだった。
「島の神の記憶か?」
「かもしれないと思ってさ。心臓部の洞窟にそれらが形作られて現れては消えてさ……」
流れ星が幾つもきらきらと流れて行く。青い星や色のある星、星雲や……それらも今は、あの青い石の水面に映っているのだろう。
「それで思ったら浪漫があるな……神秘的だ」
彼らは星を見上げながら、だんだんと眠りへ落ちて行った。
今、夜の洞窟には二人の男の石造が粉の様にきらきらと形作られている。忠実に、精巧に……。
真夜中、目を覚ますとダミアンが見当たらないことに気づいた。
公爵は辺りを見回し、潮騒に海を見渡す。
「………」
月明かりが降り注ぐ向こうで、小舟が夜を進んでいる。
凪の時間なのだろう、ゆったりと進んでいた。黒い影は二つあり、一人はシルエットが友人であるのだとすぐに分かった。だが、もう一人はどうやら女、マリアだった。ダミアンがオールをこぎ、マリアは風を読み取ってでもいるようだった。
まさか浮気でもするつもりでは無いだろうな。女好きのダミアンだ。ここに女を連れていないもの少し愕きでもあったのだが、本業の絨毯卸業もあるのだから年がら年中この島に滞在しているわけではないのだから、女を見つけるならば実家のある本国で見つけることだろう。危険もある場所へは女は連れて行かない性格だ。
どうやらただ夜のボートを楽しんでいるだけのようだが、公爵は見ていてはらはらした。血気の盛んな若者達四人もいるのだから。
「マリアのやつ……」
声に気づき、彼は青年を見た。
「心配ないさ。マリアは若い男が好きで、十七の自分からはあんたらは父親みたいなもんだ」
「若いな。それぐらいだとは思っていたが」
そのマリアは安堵感をもって海に浮かんでいた。ダミアンには気を張らずにいれる雰囲気があり、時に男達の張り詰めた空気感に耐え切れなくなるときもあるからだ。落ち着いた大人の感じもある。
「へえ。エジプトに……。それは素敵だね」
「ああ。それにペルシャもね。中東は素晴らしい地を行く文化があるよ。エキゾチックな風雅がたまらない」
「あたしもいつかは行って見たい」
「この期間にどうせなら行っては駄目なのかい」
「時々偵察が来るのさ。面倒なもんでね。でも、まだ先があるんだ。いけるときが来たら島のあんたを訪ねる」
「待ってるよ。仕事があれば島にいないがね」
マリアは頷き、夜風に目を綴じた。少しだけ凪は風に寄って波を作る。
今は夜の陰となる。
一瞬、ダミアンの脳裏にあの美しい石造が蘇った。目の前の美しい女は石膏のような肌であり、夜の色に染まっている……。このまま、本当に彼女が幻なのだとしたらここで石造へと戻って共に沈んでいくのだろうか。音もなく、ただただ無心に。オールを漕ぎながら、その考えは夜風が浚っていく。
鏡の泉
「あなた」
妻が姿鏡の並ぶ前を颯爽と歩いてくる。
公爵はスカーフを直しながら「うん」と言う。鏡に映るように背後に来た妻が彼の肩に微笑み手を掛けた。
「本日もとても素敵です」
彼は微笑み振り返り、妻ルクサールの腰を引き寄せた。
「お前もとても美しい」
ルクサールも微笑み、軽くキスをかわしてから離れていった。
本日は王族に御呼ばれしており宴があった。人形島のことを報告してからはダミアンの暮らす島へ行ったりとしていたので陛下への挨拶はご無沙汰だった。
二人で品格良く身だしなみを整えると、執事が現れ馬車の用意が整ったと報告を受け、廊下を進んでいく。
舘の者達に見送られ、御者が馬車を走らせて行った。
城へは夜の林を越えていく。甲高い動物の声がときに響く。
森を越えると下町に来て、段々と城が近付いてくる。馬車が並んでファサードから貴族達がエスコートされていく。
彼らも順番に降りては馬車が走って行き、城門を笑顔で進んでいく。
宴のホールに到着した。宴が始まると王が現れ、みなが順番に挨拶に向かう。
「陛下。お招きいただき、有り難う存じます」
「ああ。公爵。先だってはご苦労だったな」
「ええ。次回、頃合を見て再び様子を伺いに参りましょう」
「ああ。そうしてやってくれ」
公爵は王にあの不可思議な現象を起こした先日の休日についてを報告しようと思ったが、やはりそれは止めた。なぜなら管轄外でもあるし、それに島の空気を保ちたいからだ。
「本日は良く楽しんでいくように」
「はい」
彼らは深く頭を下げ、後ろへと引いていった。
グラスを受け取り歩いていく。
「ご機嫌麗しく」
妻ルクサールの友人であるアレクサンドラ夫人が夫と共にやってきた。
「ご機嫌麗しく。お久し振りね」
妻も挨拶を交わし、軽く近状報告をしあった。
「それであなた、あの話はご存知?」
アレクサンドラが何か御伽噺でも始まる口調で悪戯めかして言って、ルクサールは首をかしげた。
「『鏡の泉』の噂なのですけれど……」
「いいえ。初耳ね」
低い声のアレクサンドラは人を安心させる声をしている。特別なことを聞かせてくれる風で彼女が微笑んだ。シックな色合いを好むアレクサンドラは片方に流す黒髪を一度艶めかせた。
「ルクセント伯爵の奥方はサラマンデのご出身でございますでしょう? そのご実家のお屋敷には背後に深い森が続き、離れた場所に別館がございましてね。そこが奥方のお気に入りの場所。別館のお庭は立派なネムの木があって、泉に季節になれば青い泉に白とピンク色の糸花をふんわりと映しますのよ。ケヤキや柳、それに雲を乗せる空や小鳥も共に映るものですから、素敵でしょう? 果ては森とその先の連峰まで鮮明に移しこむんですもの」
「それは一度はお呼ばれして見たいものですな」
「ジェラール様方も絵になることでございましょう。泉の横には人憩う場所もあります。蔦の這う白石のベンチや白い薔薇ばかりの蔓の柱など、とても素敵よ」
ルクサールはルクセント伯爵と耳にして、あの魔女の様に魅惑的な、だが実に静かな女性イヴェット夫人を思い描いた。彼女は蒼い顔を漆黒の髪に覆わせよく黒紫や祖紫などの色合いのドレスを白に合わせ身につけている。生まれはフランスだが血筋はスペインだ。見た目は迫力があるのだが口数が少なく、社交には頻繁には出ない。ルクセント伯爵も彼女を大切にしている風だ。
魔女のようと言うのは、やはりイヴェット夫人から醸される雰囲気からだった。とにかく彼女の光る黒い目が深いのだ。
「その泉はあるふとした時に、思いもかけないものを映しこむというのですから」
「思いがけないもの?」
「まあ……恐いわ」
彼らは顔を見合わせ、アレクサンドラ婦人を見た。
「わたくしはルクセント夫人が少女の頃から過ごし、婚姻を結んだ後もよく故郷に帰る毎に立ち寄るというその別館の泉は、魔法の泉なのだと思います」
「もしよろしければ、ご招待致しますよ」
彼らは背筋をさらに伸ばし、声のした方向を見た。
そこには線が細く小さく口元を微笑ませる伯爵がいた。
「まあ。お恥ずかしいわ」
ルクセント伯爵と挨拶を交わし、彼はどこか含みのある微笑みをしてから肩越しに微笑み、去っていった。
「珍しいこともあるものね。はるばるご出席なさっていただなんて」
「ああ」
地元の宴などには出るし、王室の行事も大きなもの以外はあまり顔を見せないのだが。だが、どうやら夫人は見当たらなく彼だけで出席したようだ。彼の付きのものが後ろを歩いているのみだ。
ここはサラマンデ。イヴェット夫人の実家バルモード家の別館だったはずだ。
確かに彼らはその泉を眺め見つめていた。近付くほどに繊細に映りこむ鏡面は巡る自然を細やかに映していた。葉の一枚一枚、幹の細かい違いや山々の白い頂の陰と光の加減さえも。あの大きなネムの木はゆらゆらと愛らしく風に揺れていた。
だが、今ルクサール夫人とアレクサンドラ夫人がいるのは夜の世界だった。
「?」
ルクサールが突如の暗転した夜の世界から眩しい泉を見た。その泉には夫ジェラールとアレクサンドラ夫人の愛人グラジエロ青年が同じ体勢で見下ろしてきている。彼らの背景の青空や泉を囲う岸辺の草木や苔、木々は先ほどまで彼女達が見ていたものだった。柳が枝垂れる場所まで同じ、ただこちらは星も輝く夜になり、連峰は巨大な陰と化している。不気味な風が彼女達の首筋をさらって行った。
「お二人とも、ようこそいらっしゃったわ」
二人が振り返るが、そこは闇を称える夜があるのみだった。だが泉を見ると、美しい風景を背にあのイヴェット夫人が男二人と挨拶を交わしている。下から見る形になるイヴェット夫人の顔立ちは、どこか魔が居つくようにも思えた。男が一度騙されては一生抜け出せはしないような。
「あなた!」
ルクサールは夫の身を案じて夜露にぬれる草地に膝手を付き水面に細い指を差し伸ばした。
「まあ!」
鏡面だった水面はいとも簡単に波紋を広げて誰の事も映さなくなった。
アレクサンドラは彼女を立たせた。
「もし彼女が魔女なのだとしたら、彼らは食べられてしまう」
ルクサールはアレクサンドラの狭い肩に泣き付いた。ルクサールの夫は確かにどこででもどんと構えているが相手が正体も不明な魔女だとかなのだとしたらと思うと……。
その公爵は美しく青白いイヴェット夫人を認め、微笑みその手の甲にそっとキスを寄せた。
「相変わらずお美しい」
「まあ。どうもありがとう」
「先ほど、ルクサール夫人とアレクサンドラ様がおられた筈だが」
グラジエロそれを言うとイヴェットは彼の瞳を見た。
「まあ。あたくしはあなた方お二人しかご招待してはおりませんが、伯爵の思い違いでしょうか。殿方のみの秘密の宴であったのだとおっしゃっていたようにも」
グラジエロはイヴェット夫人の深い瞳を見続けていてぼうっとし、無言で頷いた。公爵は愛する妻の肖像が何故かぼやけ始め、頭がぼうっとしてきて額に手をあて目を綴じ俯いた。暗くなった視野で一度目を開き、指の間から見えた泉の情景にはたと視線が止まった。暗い闇を称える泉を……。はっとして額から手を離す。だが、昼の泉に戻っていた。その時には、彼はイヴェットを見て彼女の歩いていく背についていっていた。
泉が落ち着き始めたが、彼らの姿が見え無いことに気づく。ルクサールが覗き込むと自分が透明にうつり、その先に夫が背を向け歩いていく姿が見えた。
「あなた! あなた!」
だが、夫は宴の前、室内で姿見の彼女に振り返り微笑むのではなく、彼女がスカーフを正すことも無いままに、歩いていってしまう……。
彼女は一気に泉へと飛び込んでしまった。
「ルクサール!!」
アレクサンドラが叫んだ声もむなしく、ルクサールは夜の泉へ消えていった。
「………」
そのアレクサンドラの目は泉を無言で見つめ、そして深い色味のルージュの口元が妖しげに微笑んだ。そして、闇へと歩きゆらゆらと消えていく。
その時、ハッと我に返ったのは公爵だった。どこかで女性が自分を呼んでいたのだ。だが、誰の声だったのか……。別館へ入っていく二人の背を見ていたが、彼はどうしても気になって旨がざわつき、二人に何も言わずに庭を引き返していった。公爵が走っていくと、先ほど彼女に声を掛けられた泉が見えてくる。
「!」
女性が背を上に浮かんでいる。黄緑の藻を手足に絡ませて光り差し込む透明な水に。
「大変だ!」
ゆらゆら揺れる女性をみた途端、彼は泉に飛び込み飛沫が舞った。イヴェットはそれを目を細め扉から見ては、青年だけを連れて行き扉を閉めた。鍵をかける。
公爵は女性を泉から引き上げ、その美しさにはっとしてしばらく見惚れてしまっていたが、気を取り戻して即刻人工呼吸を始めた。
その頃、グラジエロは暗い色味のレンガ積みの別館の食堂にいた。
「さあ。どの部分を頂こう……」
イヴェット夫人の背はシャンデリアから吊るされた硝子の器を見上げていた。その大小さまざまな硝子の器は筒型で蓋も付き、その頂点部から鎖で繋がれている。
液体につけられた人の体の部位が吊るされていた。内臓、手、目玉、耳、足首……。それを意識の混濁したグラジエロはただただ見上げていた。イヴェットは振り返り、進んできた。ほんのりと頬に色味がさして思える。いつもより唇は紅く、瞳もあでやかだ。どこか悦とした微笑みだ。彼女の美貌がどんと心に迫るほど押し寄せる風でその場のアームチェアに彼は腰を下ろしていた。
サーベルが何処からとも無く銀の弧を描き現れ、ぼうっとその剣の穂先を彼は見つめた。
「……その美しい首だ。私だけの人形を形作るのは……ね」
闇だった背後に大掛かりなからくりがぼうっと現れ、それが作動しはじめた。黄金の光りを受け、何かを製造するためのそのレトロな機械が……。
ぎらりと剣が乱暴に光った。
「どこだグラジエロ!」
バタンと食堂の扉が開けられ、ぎっとイヴェットは睨んだ。
「ここは……」
公爵は驚いてシャンデリアから吊るされた様々なホルマリン漬けと、その背後の不気味な巨大カラクリを見た。そしてサーベルを向けられているグラジエロを。公爵は走り彼を背後に行かせ、切っ先を視線だけで見るとイヴェットを見た。途端に彼女がサーベルを振りかざし、咄嗟に彼は椅子を投げつけるが彼女が回転して避け鮮やかにこちらに低い大勢でやってきて彼はのけぞり避けて彼女の足元を蹴り掬おうとしたが飛んで免れたイヴェットはテーブルに乗り、しりもちをついた彼に剣先を向け見下ろした。その彼女の背後に揺れる硝子の器に納められたもの。公爵は青ざめて口元を引き下げ、くるっと身を返して起き上がり彼女を見た。そして一気にその足に突っ込んでいった。
「きゃ!」
サーベルが弧を描きながら飛んで行き、かんっと音を立てて突き刺さった。硝子の筒に。何かの部位を貫いて……。途端にホルマリンが彼女の上にざあざあ降って来て、そして硝子の器がゆれストンとサーベルが彼女の真横に落ち突き刺さった。
「………」
イヴェットはそのサーベルの柄を取った公爵を見た。
「人攫いの魔女かい。美しの君は」
ホルマリンの甘い薫りが鼻をつく。咽るような。
「ふふ……夫よ」
公爵は片眉を上げばらばらの器を視線だけで見上げ、夫人を見た。
「あたくしはこれらで造る人形に伯爵の魂を入れているの。時々、憑依の本体を取り替えなくてはね……」
危うくあの伯爵の一部にされるところだった公爵は目を丸く眉を引き上げ、背後で目覚めたグラジエロを一瞬視線だけで振り返り、また視線を戻した。
「………?」
辺りを見回すが、そこは妻が彼を覗き込む顔があった。その横では宴が続けられている。
「あれ」
「あなた。どうかなさって?」
人々の向こうには王もいて、彼らは会話を楽しんでいた。
「アレクサンドラ夫人は……」
「え?」
妻ルクサールは首をかしげた。
「それは誰?」
「え? 先ほどまでイヴェット夫人の別館についてを……」
公爵は口をつぐみ、瞬きをした。誰だ? イヴェット夫人というのは。それに、アレクサンドラ? そんな名前聞いたことは無い。それに、サラマンデ? どこのことだというのだろう。
「どこか気分でも優れなくて?」
「いや。問題ない。何かの白昼夢でも見ていたようだ……」
「まあ。今は夜だというのに」
「ああ。本当だな……」
彼らは笑い、公爵はグラスでも傾けて正気を取り戻した。夫人はいつもの様に彼の肩に手を乗せ、顔を覗き込み微笑んだ。
「………」
宴のうつる鏡。現実には映っていない影が一つ。アレクサンドラ夫人だ。獲物を逃がした彼女は暗い鏡のなかで人々の間を抜けていく。そして鏡にさえも映らなくなった。
幻の声
ルクサールは室内で背後を振り返った。
季節は宵の涼しい晩。星の出る時間になると澄んだ夜空が輝きを見せる。
だが、彼女を振り向かせたのはそれらの静かな夜に見せたなんらかの幻なのかもしれない。
一体の人形。それは馬に銀の甲冑を乗せた女性のものだった。その女騎士は凛として剣を構えている。先ほど、声が聞こえたのだがそれも気のせいだとはにかみ、宿泊施設の寝台へ入るために薄衣の寝具を調えた。
『Hvor ble det av deg? Hvor ble det av deg? 』何処におられるのです。どちらへいらっしゃるのですか
再び涼やかな声に振り返り、髪を耳にかけた。何語なのかはあまりよく分からない。
『Dronning av kjarlighet.』我が愛の女王……
彼女は歩き、人形の口元を見つめた。しっかりと引き締められている。
「ルクサール」
「あなた」
扉から入ってきた夫を見ると彼女は人形を示しながら言った。
「この人形が……」
公爵は進み、彼女に微笑んでから女騎士を見る。
「やはり綺麗だな。模造品とは思えないよ」
「喋ったのよ。さっき」
公爵は可笑しそうに微笑み手に取り上げ、見回す。だが何も聴こえなければ動きもしない。
「気のせいさ」
海の見える窓辺へ歩いていき、彼は不安げな彼女を見た。
「おいで」
彼女も小さく微笑み彼のところへ行く。海の音はここまでは聴こえないが、この島はホテルの建つ小さな島だ。星空はルクサールの気持ちを和ませた。横にいてくれる彼の存在も。彼女は安堵として彼の肩に手を乗せこめかみをつける。微笑みながら目を綴じた。
「気のせい……ね」
それは数多の人形達が展示された博物館でのことだった。
公爵夫妻は一体一体を隅々まで眺めながら進んでいた。ビスクドールがあったり、ぬいぐるみ、陶器や真綿、様々な素材と歴史を持ち合わせた人形達であり、それぞれに名前と由来が記されていた。
「どれか気に入ったお人形のコピーを頂けると聞いたわ」
妻のルクサールが言い、公爵は心に留まっている人形を振り返る。カーブを描く階段の左横に展示されているもので、女性の人形が甲冑を装備しているものだ。目元は冑に隠れ見え無いが、ルージュとほんのりとした頬、それに長い黒髪が流れているスタイリッシュな人形。名前はリヴ・ビヤークネスというらしく、六十年前にとある兵隊好きの体が弱い少年が所望したものらしい。製造はノルウェーだ。展示品には触れることは出来ないので、妻の話に彼は相槌を打った。
「君はもう決めたのかい?」
「二階を観てからにするわ」
「ああ」
階段へと進み、彼はリヴの人形を見る。どこか、舞っているように思える。剣を手に。誰かをモデルにしたのなら、それは一体どんな女性だったのだろうか。その時代のノルウェーや周辺国の王政や英雄などを思い返す。だが、何故北欧の人形で黒髪なのだろうか。だからといえ特に珍しいわけでもないのだろうものの……。
二階は今だ所有者のいる人形のコレクションだ。
ミニチュアドールもあったり、コレクションハウスもある。
ルクサールはある一点の人形を見つめ、やけに長い間その前にいる。白馬の人形で、前足を高く掲げて勇猛にいななく姿だ。
「迫力があるわね。なんだか見入ってしまうわ」
彼らは人形を手に入れて三日目。公爵は甲冑姿の女。ルクサールは馬だ。お互いはまだどの人形を頂いたのかは聞いていなかった。
彼らはレストランのために船に乗り込んだ。海を渡った島にある。それに他の島に宿泊施設、他の島に憩いの島、それらが比較的それぞれが近い列島で集まっている。この博物館があるのは本国だ。
レストランでは彼らの友人が数名いて食事と会話を楽しんでいる。彼らも挨拶をしてテラスの席へ加わった。潮風が吹き、青い海が美しい。そして海鳥たちが羽ばたいている。遠くには船が走っていた。帆に風を受けている。
「話す人形? それはまた、珍しいものをお持ちなのね」
「博物館に招待された時の贈り物よ。何体も同じ人形があるの。本物を模して作られたはずなのに。今も部屋にあるわ。どうやら、ノルウェー語らしくて、自身の君主を探し求めている声でね、ほらあなた、見せてさしあげて」
「ああ。どうやら病弱な少年が作らせたらしい」
彼らは箱からその問題の人形を出した。
「あら。これは有名なリヴじゃない? 『薔薇の女王~Dronning av roser~』という物語の挿絵での一場面で、馬に乗って死神に浚われた女王を救い出すまでの物語よ」
「あなた、童話にはお詳しいのね。娘さんに毎晩読み聞かせてらっしゃるの?」
「ええ。きっとその坊やも外に出られない状態ならよく聞かせて貰っていた物語なのかもしれないわね。誰かに自分の境遇を重ねていたのかもしれないわ」
「でも偶然ね。馬は別の作者なのよ。時代も。これも模造品」
誰もが馬に乗る女騎士を見た。
けたたましい音に驚き誰もが本国を振り返った。青い空の下、美しい旧市街の街並は昼下がりだった。
この島は宿泊施設があり、レストランのある島も視野に入る。ほかにも様々な小さな島が緑色に点在している。カモメ達が音に驚き一斉に飛び立っている。
「何かしら」
「船で向かおう」
すぐにどこにでも行きたがる公爵が彼女の腕を引っ張りあっという間に常に用意の整っている船に乗り込むが、船長が許可を出さなかった。
「今何が起きたのか分からない本島へ向かうのは危険です。渡航を許可できません公爵殿」
止められている内ににわかに街が騒ぎ出したのが分かる。いくつかある大きな建物には博物館も含まれ、その建物に何かが近付き、凄い勢いで去っていくのだ。同じ服を着た男達が小さくその後を追って走っていく。
「何の騒ぎかしら。博物館からたくさんの人が」
公爵が船長をじっと見て、船長はその目を見て舵を取りに行った。
陸が近付くと博物館で警備をする男達の馬が駆け抜けて行くのがわかる。
彼らが港に着きホテル契約の馬車に乗り込むが、博物館行きはやはり許可を出さなかった。なので彼は妻の腕を引き走っていく。彼女は息を切らしながら勘弁してくださいあなたと言い走るが既に彼の耳には毎度の事届いていない。
博物館は近付くと物々しく、厳戒態勢が敷かれていた。なので入り口で真っ青になった館長が彼らを見ると急いで駆けつけてきた。
「博物館で一体何が」
「怪盗です」
館長が声を小さく言い、汗をハンカチーフでぬぐった。
「何だって?」
玄関ホールを通り、走っていく。
「………」
人形達の展示されていたはずの場所が、ものけの殻になっていた。
「実は、数日前にこの予告状が届けられたのです」
彼らは室内に通され、妻は既にへとへとになっていた。年齢も年齢だ。普段運動などしないのだから。公爵は今更ながら彼女に扇子を仰ぎ続けて背を撫でてあげ続けている。
「拝見します」
それは美しい文面の怪盗の予告状だった。
「しかし……」
館長が辺りをまた気にしながら言った。
「本物は信頼されたお客様がたに」
「それよ」
妻がソファ背もたれから背を起こした。
「では、予告状を見て急遽元から用意されていた精巧な模造品の贈り物と擦りかえることを思いついたんだね」
「ええ……。今怪盗たちが連れ去った方が模造品の人形達です。今、招待したお客様がたは全員あのホテルの島に」
公爵は頷き、話を切り出した。
「それでは秘密裏にまたその人形を保管できるように手配することが大切ですね。それで……人形が喋ると知って?」
館長が公爵の顔を見た。
「僕に人形達のことは任せてください。怪盗もまさかホテルにあることは全く知りもしないでしょう。あなたが行動すると目立つ。僕等二人で戻って彼らに人形を一室に集めることを言います」
今度はすんなりとホテルに戻ることが出来たが、現在島で過ごしているものは半分だった。他のもの達は様々な場所に行っているのだが、二日に一度ホテルやレストラン、本国で開かれる宴にも揃って招待されているので夕方には絶対に戻ってくることは分かっていた。ホテルの宴、それが今夜だ。
やはり早々に戻ってきた者たちが宴の準備に取り掛かる。その彼らに声を掛けていった。
「なんですって?」
「確かになにやら騒ぎが起きていたが……」
誰もが用件を飲み込み、準備の部屋部屋での移動に紛れて人形が公爵の借りた部屋に集められた。
やはり誰もが模造品といわれていても大切に扱われ、人形達の目がこちらを見ている。窓から見える夜の海は静かな音を鳴らしている。
「良かったわ。あんまりにも古めかしい感じまで再現しているものだから、まさか本物だったなんて思わなくても大切にしておいて」
ホテルは横に岩窟と共に木々がもたれかかり涼しく警備もしっかりしている。コレクションを管理するにも適していた。
「王国軍が盗賊を捕まえてから博物館に人形は戻されるのだと聞きました。それまでを各屋敷にコレクションとして保管するのだと」
「では、不可思議な体験もそれまで続いて。この二人が夜にままごとを始めるんだ。目を疑ったが、夢と思ってばかりいた」
女の子と男の子の人形を所持する一人の紳士が言い、他の牧羊犬と神話の女神アルテミスの陶磁器を持つ夫人が言った。
「夜は女神が角笛を吹き、そして犬が吠える声が聞こえます」
「僕はこの猫のぬいぐるみが夜に逃げ出すみたいに壁を引っかく音がするんだ」
誰もが顔を見合わせた。
怪盗が国境で確保され、騎士に連れて行かれた。どうやら目的は闇オークションだったらしい。今は檻のなかだ。
博物館に本物の人形たちが集められた。
「配置を変えることになりました。由来や種類で分けてね……」
館長が言うと、馬の横に女騎士。その彼女の横に女王。動物だからと同じ場所においていた牧羊犬から猫が逃げたがらないように離れたところに置くなどして人形達に配慮した。
それでから人形達の声が聞こえることがあったのかは今は分からない。それとも、あの島だったから聞こえた幻の声だったのかもしれない。人形といえ魂の込められ一人の人から愛され必要とされてきたもの。それが涼しい岩窟から地底へと続く霊魂がふつふつと湧き出て蘇り、声を発させたのかもしれなかった……。
呪いの人形
公爵は自身の領土に戻り管理業務を一通り済ませると、上半期の報告の為に城へ赴いた。
国王は報告を受けた後に会議室で公爵を一見した。
「それで、実は今、我が王家内で騒ぎになっていてな」
「はあ。一体どのような?」
国王は一度背後にいる家来に手を出すと、彼はお辞儀をして出て行った。しばらくすると小さな姫がやってくる。その腕には愛らしい人形が。
「これは私の姪であるジュリアン王女が娘に贈った人形でね。この贈り物が来てからというもの、妃がよく気絶をしたり弟王子が夢遊病を発症させたり、私自身も妙な夢に魘される日々で、この前は乳母がこの人形に噛まれたとかよく分からない事を言ってくるようになった。
ジュリアン王女は公爵に預けられている土地に一軒別荘を持っており、今の時期は夫であるカゼイル将校と共に訪れることが多い。
「まさか王家に呪いでもかけているのではないかと実しやかに囁かれはじめた。申し訳ないが、それとなしに偵察を入れてくれはしまいか」
公爵は馬車で草原を走らせているときもあの美しいジュリアン様を思い返していた。年のころは公爵とあまり変わらない位なのだが、唄と楽器をたしなむ他はやはり少女趣味があり多くの人形を所持していて、ドールハウスがある。いつでも花に囲まれ庭で過ごすことを好み、将軍とも取り分けて仲も良いので今まで何か話題に上げられる上で悪い点などは無かった。
よく緑系統の衣装の似合う方で、頬の薔薇色の具合が年齢によらずいつまでも若々しい。将軍の場合はほとんど屋敷を空けているので、時に帰ったときはより仲がよく、別荘に来ることの出来るのもワンシーズンと決まっている。
「まさか彼女がそんな」
彼はさっそく今領地にいるジュリアン様のところへ向かうことにした。手土産は国王から預かっていた。
別荘に到着すると、早々にジュリアンを見つける。白馬に乗り林からやってきたのだ。
「ジュリアン様」
「まあ。ジェラール殿ではございませんか」
彼女は微笑みながらうれしげにやってきた。
「ただいま夫は出ております。さあ、どうぞおあがりになって」
彼は促され、明るい白樺林の横を共に進んでいく。
「本日は城へ向かわれた日ですわね」
「ええ。いやあ、姫が愛らしい人形を手に、ジュリアン様から頂いたのだとおっしゃっていましたよ。彼女も玉の様に愛らしく成長なされて私もうれしいかぎりだ! 彼女もいたく人形を気に入っておられましてね」
「ええ」
彼はうれしくて笑いながら言ったが、ジュリアンは背を向けたまま進んでいき、公爵は笑顔のまま居間に促された。
居間には人形のコレクションはなく、もっぱら夫である将校の趣味である美術品が飾られている。
「最近の将校は忙しいことでしょう。怪盗騒ぎもありましたね」
「ええ。それも済めば暇もいただけて共に過ごせるのでしょうが」
彼女達には子供がいない。王位継承からは外れているので問題は無いのだが、やはり何か心つもりがあるのだろうか。ジュリアンは人形趣味に明け暮れ、将校はお国のために日々働きかけ、以前の男爵の島での鐘の撤去や怪盗の捕獲などありとあらゆる場面で王に依頼されたことを大から小まで請けては防衛のため騎士達の鍛錬に勤しんでいる。まさかその妻であるジュリアンが問題を起こすとも思えないのだが。
「久し振りに人形コレクションを拝見しても?」
「もちろんかまいません」
ジュリアンは黒い扉を開け、彼を促した。今日は珍しく茶色を貴重としたドレスで金の模様が光沢を受けている。彼は廊下を進んで行きながら異変を感じていた。どこかそれは霧掛かる感覚であり、彼女の腰まで流れる巻かれた黒髪を見ながら進み、ドレスの裾に視線がさがり、そのままどっさりと倒れてしまった。
公爵が目覚めるとそこは暗がりだった。髪をかきあげると立ち上がり、あたりを見回す。なにやら巨大な陰に囲まれており、空気は落ち着いていた。だが気持ちはまだ落ち着いていない。どうやら、この薫りからして屋敷だと思われる。ジュリアンは様々な精油が好きでありよく屋敷内を薫らせているのだ。食事のときはそれは避けられダイニングや宴のホールは何の薫りもしない。彼女はにおいに敏感なので、屋敷にはシガールームが無く将校も別荘では禁煙をしているという。
彼は歩き回ろうとしたがいきなり跳ね返って尻餅をついた。その時、月明かりが滑ってやってきて、彼は事実を知った。
「人形達の部屋……か」
自分の体が小さくなっているのだ。
「うわ!」
いきなり真横にいた人形が動き、大きな目で公爵を見た。そして突然腕を掴んできてその場を走り去って行ったのだ。テーブルからソファーに飛び降り、そして絨毯に飛び乗って他の人形達も一斉に走り始めて公爵は目を見開き引っ張られるまま走らざるを得なかった。どんどん人形は速度を速めて行き壁に向かっていくのだ。刹那その腰壁部分に暗い穴が開き、ふっと体が軽くなりそこへ走って行った。
「一体なんなんだ!」
見上げるが暗闇では人形も見え無い。だが彼らは目だけが不気味に光っていた。人形は夜行性だったのだったかと不可思議に思うほど誰もが目を光らせ闇を駆け抜ける。だんだんと地面が柔らかくなり始め、気がつくと草が視野を埋め尽くす野外に変わっていた。見上げると、月が枝垂れて影と光りになる草の向こうに細く挙がっている。どういう事だろうか。
「ジュリアン様は王家に呪いをおかけになるために、わたくし共の仲間のポーリャを遠くへやったのです。あの城へと生贄に献上されたポーリャは不本意ながら王家の者達に様々なことをさせているのです」
人形は誰もが公爵と同じ生きた人になっていた。だが、大きさはやはり人形だった。
彼らは草地を歩き、そして巨大な河に来ると小舟に乗り始めた。だがそれは元の大きさならば庭園を流れる小さな水路だった。滑らかな水は月光を映して流れて行き、ゆったりと舟は進む。岸では何体かの者達が袖を押さえ手を振っている。月に明るい草地の間に。舟が向かうのは元の世界ならば白い石に囲まれた泉のはずだった。だが、どんなにしてもたどり着かずに草地は生い茂っていき、そしていつの間にか夜でも透ける水面の先の底は苔が蒸し始める。森へと入って行き、時々小川を夜行性の動物たちが飛び越えていって公爵は身を低くしては誰もが息を潜めて彼らの下を通り過ぎる。
次第に小川の先に巨大な木の陰が見え始めた。その木はところどころに祭りの日の様に明かりが灯されかけられており、ぼんやりとした光りをなげかけ広げている。よく見ると、その夜で暗い葉の向こうや枝には小さな人……きっと人形たちだろう。座ったりしているのだ。大きな木は下方の根っこが持ち上がっており、その間に扉が幾つも取り付けられている。太い根っこの下に住まいがあるらしいのだ。
「我等は人形の魂です。殻の身だけは部屋に残り、我等はこうして外に出ることが出来るのです。しかし、この次元は我等に導かれたものたちしか見えません」
人形が小舟を蔦の垂れる岸につけ、彼らは降り立った。
「ジュリアン様も同様でした。少女の頃、われわれのこの場所に誘いいつも一緒に遊んでいました。しかし、大人になるにつれこの次元の事を忘れて行きました」
この人形はきっとジュリアンの小さな頃から大切にされてきたのだろう。他の人形たちもそれらが多いに違いなく、年齢を重ねるごとに思い出と共に増えていったのだ。
「わたくし共の間で一体、魔女の製作した人形がおりました。それをジュリアン様は知らずにオークションで競り落としました」
そして彼女はその晩から夢を見るようになったのだという。呪いのかけられた人形と知らずにベッドに飾り眠り、深夜になると寝覚めの悪さで起き上がり日々彼女は憑依されて行った。人形達は何度も彼女を助けようと腰壁の暗い影から彼女を少女の記憶と同様に呼び続けたが、既に彼女の耳にはそれらは聞こえずに魔女の呪いに心が蝕まれていく。そのオークションは人形好きを知る魔女の末裔が仕掛けさせたらしく、その魔女は既に王家によって罰を科せられていた。ジュリアンは夢で日々王家の悪夢を見続け、そして魔女の思う様に彼らを呪うようになってくる。そしてそそのかされたままその呪いの人形を王家へ献上たしたのだった。
「わたくしはジュリアン様のもとのお優しいままに取り戻したいのです。彼女は我等の髪を優しく梳かしてくれて、ドレスの綻びも見つけると直してくださり、毎日語りかけてきてくれました。よく明るいお庭へ連れ出してくれもしました。夜は我等は彼女をもてなしてこの木の下で時間も忘れて回って踊りあかしました」
公爵は幾つも輪になって回る花冠の少女の人形達を見た。明かりが影を伸ばし彼らを照らして回転する。
時々、不可思議な黒い影が木々の向こうから見え隠れした。
「あれは魔女の影です。彼女の怒りは強いのです。王家にとって古くから王家の行く末を暗示する魔女は大切に扱われてきました。しかし、謀反となる家来の名前を言ったとたん、王は怒りに触れてしまったのです。魔女は連れて行かれてしまいました。それが王の信頼するものだったのですから、その後見事に裏切られたことを知ったというのに彼らは魔女の存在を禁忌としたのです。そのために魔女は檻で呪いを掛けた人形を作り、彼女の懇意の男にそれを預けてオークションにいつか掛けさせることを言い残しました。時代も流れると魔女の娘はそれを伝え聞いたのです」
月が傾き始め、その細さが向こうの木々の先へと沈んでいった。辺りは闇も暮れて木々は静寂の暗がりへと包まれていった。夜がしんしんと深まっていく。
目を覚ますと、ジュリアン様の夫である将校がいた。
「将校殿……」
彼は起き上がると室内を見回した。
「私が帰ってくると廊下で倒れていたので驚いたよ。ジュリアンも見当たらずにいるままで、どこへ行ったのやら」
「お忙しかっただろうにとんだ災難でしたな」
「いや。問題は無いさ」
彼らは部屋を出るとジュリアンを探し始める。やはり外は夜になっており、彼は一度人形達の部屋へ向かうことにした。
「おや。人形の部屋に鍵が掛かっている。将校殿。鍵を持って?」
「この部屋はジュリアンしか開けない。鍵も彼女しかもってはおらんだろう」
「蹴破っても?」
「致し方ない」
公爵は息を吸い、思い切りドアを蹴り散らした。するとそのドアが開けられ乱暴に開き、公爵は足を下ろして暗がりを見た。
「ジュリアン!」
彼女は人形達を抱きかかえて絨毯にうずくまっていた。夫が駆けつけると抱え起こした。その目元は酷く疲れきり、虚ろだ。ジュリアンとも思えない。
「また何か悪夢でも見て魘されたのかい」
夫婦間で話した事があったのだろう、優しく将校が彼女に聞き、ジュリアンはソファーに座った。
「人形達が公爵を連れて行く夢を……不思議な夢でございます。私が……私が騙されているのだと。そんなこと……」
彼女の目が変わり、いきなり怒鳴り始めた。
「そんな事はございません!! そのような事が!!」
「ジュリアン!」
将校が抑え、公爵は人形達を見回した。だが何も動くことは無い。ジュリアンが茶色の衣装を抱え込んで丸くなり、少女の様に泣き始めた。まるでそれはあの大木の幹のようだった。安堵を与えるような色味に思えた。ジュリアンが将校に泣きつき彼はなだめ続けた。
ジュリアンは泣きつかれて眠り込んだらしい。
彼女は黒い糸の束ねられた流れを見て、咄嗟にそれを掴んでいた。
「お待ちになってください」
その糸は闇に艶めきながら流れて行き、彼女を連れて行く。そして、その間にも恐ろしい窓が空間に幾つも開けられて目の前に広がる。
魔女が牢屋のなかでだんだんと弱っていくさなかに一針一針刺して行くあの人形。手は既に血豆が出来て痛々しく、床に落ちる手鏡に映る姿は恐ろしいほど青白かった。ずっと呪いの言葉を呟き続けている。どれもが魔女自身の記憶らしく、開いては綴じ、綴じては開いていくまぶたの様に続く。だが、向こうから懐かしい声が聞こえていた。
「その魔女の髪から手を離してジュリアン様。そのままではあなたは連れて行かれてしまう。一生、連れて行かれてしまう……」
ジュリアンは指や手に既に絡みつく黒髪を見てはうろたえ、目を綴じて願った。その声のする方へ向かうことを。
どしんと尻餅をつき、彼女は辺りを見回した。髪をかきあげ、茶色のドレスを正してすぐに思い出した夢の場所に包まれていた。
「あなたが古い記憶に繋がるように茶色のお召し物を着てくださって助かった」
「あなた達……」
「緑の色は新しい記憶の色。どんどんと生まれていく生命の色。それは以前の記憶から離れて行って成長する希望の色」
「茶色は木の幹ともなる古の記憶の色。過去の色。生まれたときから変わらずに空気と成長していく空気に触れ続ける色」
少女の人形達が弧を描きながら回り踊る。
「知っている。その唄……ああ、なぜずっとあなた方を私は近くにいながら忘れていたのか……」
彼女は膝を付き人形たちを抱きしめた。
「怖い夢を見るのです。そこから開放されるにはあの人形を手放さなければならなかった」
「彼女自身も恐れているのです。魔女の呪いを掛けられてしまい生み出された自身の身を憐れにも思っているのです。あなたは彼女を手元に戻し、魂を浄化しなければならないの。魔女の魂と共に、可哀想な魔女……」
人形達は涙を流しながら言った。
「我等は浄化された後の我等が仲間の人形を我等が内へ招き入れとうございます」
「ええ、ええ。私も心よりそれを祈ります。あなた方、ずっといてくれたのね……」
ジュリアンは微笑み、そして何かの黒い影に気づいてはっと顔を上げた。
「………」
この森のなかへは入ることが出来ない魔女の魂が木々の間から見つめているのだ。それはそれは、寂しそうな顔をして、すでに泣き暮れた顔をして。美しい顔をしたその魔女は若いうちに刑罰を与えられ檻に閉じ込められた。その美貌は怒りに塗れているころは怒りに隠れていた。しかし今は深い哀しみにとりつかれたままにさめざめと泣いている。
ジュリアンは夢に見たいた人物だと認めると、彼女をそっと手招きした。
木々の間から陰が伸び始める。今日は新月。月は何処にも無いというのに不思議なもので、彼女は何かの光りに照らされ始めた。それは木々の先から見え始めた。彼女がまた王家の魔女として大切にされてきた記憶の日々だった。現在の王がまだ子供の時代は魔女の部屋に忍び込んでくる彼とよく遊んであげていた。その子供時代の現在の王が子猫を拾ってくると一緒に餌をあげたりもした。しかし王子がまだ六歳になったばかりの頃、魔女は連れて行かれたのだ。美しい庭で竪琴を爪弾いた日々も、光る泉と小川に小鳥達やそよぐ柳を見てきた日々も。
それらの記憶が怒りと哀しみに勝って魔女の心にやってくると、いつの間にか魔女は人形達の秘密の砦にいた。
魔女は美しく透き通る瞳でジュリアンを見ると、ジュリアンはその若い娘さんを思わず抱きしめていた。ジュリアン自身は夢を見ていてもどれも断片的で言葉も切れ切れだったので魔女自身が何者だったのかはずっと分からないままだった。先ほど人形達が言うまでは。
魔女はジュリアンの幼少の頃からの思い出の場所と記憶に包まれて安堵として目を開いた。
「わたくしは何十年も昔、あなた方の仲間を作りました。それはジュリアン様の家系である王家に復讐を果たすため。もう、あの人形を開放してあげなければ……」
「それであなたが心の闇から開放されるのです」
「あなたはわたくし共の一人の仲間をつくって頂いた方なのです」
だんだんと暗闇は木々の向こうから朝日が見え始めた。
魔女は横顔を照らされ、そして微笑んだ。
「ええ。あなた方の仲間の人形を受け入れてやってください」
さらさらとした声が流れて行き、ジュリアンはだんだんと深い眠りへ降りていった。
「緑の色は新しい記憶の色……。 茶色は木の幹ともなる古の記憶の色……」
耳に優しげな人形達の声が響く……。
子供の罠
地面から草を二束、束ね拠っては先を繋げ編みこんだ。
少年は得意げにそれをたくさん草地に作って行き、その周りには蝶やバッタなど様々な昆虫が飛んでいた。
その草地に座る少年の周りにはたくさんの騎士の人形が置かれており、一部は四升に整列し、一部は一列に剣を掲げ整列し、一部はてんでばらばらに彼を囲っていた。まだ午前の涼しい気候。影もゆるく斜めに伸びている。
少年は周りを見回すと立ち上がり、その場から走って行った。
ぬいぐるみをたくさん持ち寄るとそれを騎士たちの周りに置いていった。しばらく砦となる草の塔を取り合う戦いごっこをしていた。
十時になると少年は眠くなり始め、人形を抱えたまま眠り始める。
五才の少年ジャメルは翌日も人形遊びをするためにそれらの入った籠を両手で持って走って行った。
「うわ!」
ジャメルは叫んで柔らかな草地に転がり、足元を見た。昨日自分で拠った草の塔が罠になって足に引っかかったのだと分かった。
「う、うう、ジェロームおじさーん!」
大して痛くなかったがジャメルは大泣きし始め、その声に大木の下で妻のルクサールと共にくつろぎ彼女の唄を聴いて和んでいた公爵は驚いて顔を向け、草原に転がる甥っ子を見ると走って行った。
「どうした坊主」
抱き上げてやるとすぐに泣き止み、籠から大量の騎士たちが溢れかえっていた。二人でそれを籠に入れる。
「これでね、戦いごっこするんだ!」
「へえ。おじさんも加えてくれ」
「いいよ!」
ジャメルはなにやら難しい名前を騎士一体一体につけているらしく、それを言いながら人形遊びを始めた。ルクサールはくすくすと微笑んで木漏れ日に揺られながら夫と甥っ子を見ていた。
「やあ。ジャメルが申し訳ないね」
公爵の弟であるマティスはルクサールの横に座ると彼女に微笑んだ。ルクサールも挨拶を交わすと、すぐに変わり者のオドレイ夫人がやってくる。彼女はルクサールがお気に入りでいつでも彼女に色目のようなものを使ってくる。息子のジャメルはやんちゃだが女性に関してはシャイな性格でルクサールを前にすると一切喋れなくなった。オドレイ夫人はだいたい乳母に子供を預けているのであまりルクサール自身はオドレイ夫人の生態なるものを分かってはいなかった。
今度はジャメルは自分たちで戦いごっこをしようと言い始め野原を駆け回り始めた。
「よし捕まえてやるぞジャメル!」
「僕はアルトロメイス・ヴァン・フィルマン・ロレンツォ・カルレ・ジュール・エルキュール=ダンブレシオ候から命を受けた名誉騎士マルタン・エディ・ルシアン・モリス・ジャン・ティエリー・スタニスラス=デフラミンク大佐であるぞ! ボリョボリョ・ポニャーロ・ペカペケ・プニャリャン・ケフーバ・ディオニュレンチュ・チュッチュ=パキョーヌめ!」
「なんで俺だけ妙な名前……。ま、待てマルタン・エ……ティエ、モ……、……? デフラミンク大佐め! うわ!!」
パキョーヌ……、ジェロームはその場に派手に転んで何かにつっかかって足元を見た。向こうで草地に塗れて甥っ子がけらけら笑っていてころころ転がっている。
「大丈夫か我等が好敵手ボリョボリョ・ポニャーロ・ペカペケ・プニャリャン・ケフーバ・ディオニュレンチュ・チュッチュ=パキョーヌ!」
と心配した笑い声を掛けてくれはするもののやはりジャメルはけらけら笑い転げていた。
「全くこれにジャメルの小僧も引っかかったな?」
公爵は足元に絡まる草に手を伸ばし、何かの影に気づいて顔を上げた。
「………」
そこにはジャメルの無口な姉が立っていて、その十一歳の少女アルテミシアは腕に草にまみれたぬいぐるみを抱えていた。公爵は今だに姪っ子でもあるアルテミシアの喋った声を聴いたことが無く、いつでも無表情の彼女に微笑むと逃げられてばかりいた。すぐに父親であるマティスの足元に隠れてじっと上目で見てくるのだ。だからといえ、喋ることができないわけでもないらしい。時折彼らの屋敷に行くと美しく高い歌声が幻想的に聞こえるが、その正体が彼女なのだとおぼろげに思っていた。だが実際確認したことは無い。
「やあ。アルテミシア嬢」
彼は転んだままはにかんで、彼女はいつもの服装、白のネグリジェの様なドレスでそのまま他のぬいぐるみも抱え込んで走って行ってしまった。ジャメルはそんな姉が走っていくのを「せっかくぬいぐるみも遊んでたのに!」と地団太を踏んで姉の部屋から勝手に持ってきたことも忘れて足をばたつかせた。
遠くから背を向け肩越しにじっと無表情で伯父である公爵を見てくる。だがすぐに前を向いて屋敷のあるほうへと走って行ってしまった。いつでもオドレイはそんな娘にすら気を向けないので、ルクサールがその後を追って行った。
「うわ!」
今度はジャメルが彼の背にのっかって来てわいわい騒ぎ始め、公爵はくすぐり攻撃を始めてきゃはははという笑い声が響き渡る。
ルクサールが屋敷の廊下を歩いていくと、その先には落ち込んで歩いていくアルテミシアの背中があった。そっと歩いていき優しく声を掛ける。
「ぬいぐるみ、一緒に拭きましょうか」
彼女は涙をぽろりと流したままルクサールを見上げ、こくりと頷いて共に歩いていった。
「でも、ジャメルがいると楽しいでしょう。暇しないわね」
アルテミシアはこくりと頷き、ルクサールは微笑んで彼女の髪を撫でてあげて二人でハンカチーフで草や露のついたぬいぐるみを拭き始めた。
「アルティね……」
ルクサールははたとしてぬいぐるみからアルテミシアを見た。とてもあどけない声が姪っ子のものだと分かると、驚いたがそれを出さずに優しく聞き返した。
「ん?」
「いつもいつもジェロームおじさんが英雄なの」
「え? そうなの?」
ルクサールは彼の若い頃の無鉄砲さや最近は随分治ったものの歯に衣着せぬもの言いに困らされてきたので首をかしげ続けていた。
「ふ、うふふ」
そんなルクサールに初めてアルテミシアがくすくす笑い、その時の顔は実にあののんびりした母親オドレイ夫人にそっくりだった。その声でよく聞こえる歌声が本当にこの子の声だったのだと分かった。
彼女はぬいぐるみの手を動かし見つめながら言った。
「アルティ、大人なるのが怖いの。だって、そうしたらジェロームおじさんはもっと年上になっちゃうでしょ? そしたら、お話しする勇気が出る前にアルティは他の男の人と結婚しなくちゃならなくなるの。それが怖いの」
「アルティ……」
髪を撫でてあげて肩を抱きしめてあげた。
「あなたにはまだ時間がたくさんあるわ。ね? おばさんともこうやってお話できたんだもの。もうちょっとしたらジェロームおじさんともお喋りできるようになるわ」
「うん……」
アルテミシアがぬいぐるみを抱きしめてから目を綴じた。
草原では再び縦横無尽に作られた罠と化した草の砦がどんどんパキョーヌの足を狙いデフラミンク大佐のくすぐり攻撃にあって少年を勝利へ導いていきもう勘弁と彼は叫び笑いながらぐだぐだになっていた。
「いつまでもお元気ねえお義兄さんは」
「はは。小さな頃からジェロームは僕とは違って機関坊だったからね。体のつくりが違うよ」
もう何度引っかかったか不明なほど草に塗れたあと、公爵はまくっていた腕で汗をぬぐって草原に寝転がって青空を流れる雲を見た。その横に騎士の人形を手にジャメルも寝転がる。
ジャメルの目には騎士が闘う姿が見えていた。島から島に渡るには船の交渉が必要でアルトロメイス・ヴァン・フィルマン・ロレンツォ・カルレ・ジュール・エルキュール=ダンブレシオ候の手形を持ち空を小鳥の背にのりかけぬけていく真っ最中だった。小鳥では海を渡ることは出来なかったので船が必要だった。その船は草舟で手配され、将校引き連れる一隊は乗り込み向かう。
ジャメルはうとうとと午後のお昼寝に入っていた。
オドレイ夫人はぬいぐるみに塗れてアルテミシアと眠るルクサールを見つけると、その横に座り髪を撫でた。
ルクサールは目を覚ますとにっこり微笑むオドレイを見た。
「こちらへ来て」
オドレイはアルテミシアに掛け布団をかけてあげてからルクサールに言い、彼女は着いて歩いていった。
アルテミシアが目覚めると、ルクサールおばさんはいなくなっていた。
「どこに行ったのかしら……」
彼女は起き上がり不安げに見回した。しかしルクサールは見当たらない。
「あなた知ってる?」
アルテミシアはぬいぐるみに呼びかけ、その灰色のウサギのぬいぐるみはまぶたが綴じ開きをし、そして青い目が彼女を見た。
「僕はさきほどアルティの母上がルクサールおば様をお連れする姿を見たよ」
おどけた顔のウサギのぬいぐるみが言い、音もなく寝台から飛び降り可愛い様態で歩いていく。キリンのぬいぐるみとクマのぬいぐるみはいつもの様に窓際へ歩いていき星空を見始めた。フラミンゴのぬいぐるみは昨日原っぱで草の砦で救い出されるお姫様役をデフラミンク大佐からおうせつかっていたので、今でもその役に酔いしれて自己を姫と思い込むオスのフラミンゴぬいぐるみで、いつも仲の良いバッファローのぬいぐるみに追い掛け回させて乙女に成り切っていてお姉さん言葉が響き渡っている。ライオンのぬいぐるみは子猫のぬいぐるみに毛繕いをされていて大きなお口をあけてフェルトで出来た牙に挟まる草を子猫が取ってあげていた。その向こうでは花瓶の花をオオカミのぬいぐるみが薫りをかいで大きな尻尾をふらふら揺らしている。オオカミは昨日ぬいぐるみ隊では王子様であり騎士長の役を授かっていたので、今はオスのフラミンゴよりも花の薫りを楽しむメスのオオカミのぬいぐるみでもあった。ジャメルにはぬいぐるみのオスとメスは分からないのだ。
ぬいぐるみと話すことが出来ることをはじめアルテミシアは不思議なこと、変わったことだとは知らなかった。お友達の誰もぬいぐるみと話しているところを見たことが無い。だが実際ぬいぐるみは彼女の前で動いて自我を持ちそして時々泣くアルティをいいこいいこするのだった。
ルクサールは動くぬいぐるみ達を向こうから見て大いに驚いていた。しかも彼らは姪っ子と話をしているのだ。彼女も小さな頃はお人形ごっこをしていたが、それは実際は自分が人形役やぬいぐるみ役の声まで再現して手で彼らを動かしていた。それを自分のお友達だと思い込んでいた経験は誰にでもあることだ。だが、シャイなアルテミシアのぬいぐるみ達と彼女は違う。ぬいぐるみはまさか妖精や小人でも入っているのかと勘違いするほど、元気に動き回って今はもみくちゃになっているのだ。
「あの子、あたくしと一緒」
どこか掴みどころの無いオドレイ夫人が言い彼女はルクサールの細い手を撫で続けている。どこか、これは分かった。オドレイ夫人は子供なのだ。少女のままの様な感覚であって、こうやって甘えてくるのも女友達の幼い子達のような感覚のままなのだ。ぬいぐるみ遊びをまるでいつまでも双子でし続ける感覚のように。
「あなたも人形やぬいぐるみと話して?」
オドレイ夫人は微笑みながらルクサールを見て、衝立向こうのドアから出て行った。ルクサールも静かに出て行く。その背には「アルティ。お背中を掻いて」という子猫の声が聞こえていた。
アルテミシアは翌日、ぬいぐるみ達を車輪付きの箱に入れてヒモで引っ張っていき、草原の向こうにある湖につれてきた。
いつもの様に小舟に自分とぬいぐるみ達を乗せてオールを漕ぎ始める。
ぬいぐるみ達は視野の低くなった湖面で、深い緑の森を見上げたり岸の黄緑の草地に囲われたり青空を撫でて吹く風を受けたりしていた。湖面からの森は実に迫力がある。オオカミのぬいぐるみは外に出ると意気揚々としてりんとした声で言い始める。
「今助けに行くぞフラミンゴ姫!」
「まだ浮島に姫はたどり着いていないわ。真横にいるわよ」
「たあー!」
言いながら小舟の上を跳んだり跳ねたりしており、ウサギのぬいぐるみはやれやれ言って花の冠をつくり続けていた。キリンのぬいぐるみは首が長いので浮島が見え始めていた。
湖を一周、二周ゆっくりと回りながら過ごしてから、湖にいくつかある草地で小さな浮島に上陸する。そこで皆でのんびり過ごしてお昼ねしたり、サンドイッチを食べることが好きなのだ。
ライオンのぬいぐるみは大きなあくびをして草原のうえで眠り始め、耳だけはいろいろな方向に動いている。子猫のぬいぐるみは水面をゆく小魚を見続けている。
アルテミシアはうとうとと眠りについて、野花がそよそよと風に吹かれる。
「あ! いたいた!」
また小さな弟のジャメルがぬいぐるみに囲まれる姉を岸から見つけた。しかしジャメルは小さすぎて舟を漕げないので行っては駄目だと父と乳母から言われていた。ジャメルは辺りを見回していて、腰には三体ほど騎士の人形をくくりつけている。
ぬいぐるみ達はアルティの前以外では喋ったり動いたりしないようにしているので、また黙り込んで動かないようにした。ジャメルは向こうにいる公爵を見つけて手をぶんぶん振っているので、きっとここまで来るつもりだろう。アルテミシアはいつでも眠りたいときは背中をばしばし叩いてきても狸寝入りをするので結局はまたぬいぐるみ達だけをさらっていき人形遊びに加えるつもりなのだろう。
「どうしたジャメル。またお姉さんのところに行きたいのかい?」
「うん!」
「分かった分かった」
公爵はもう一艘舟を出してやり、ジャメルも乗せて湖面を進んでいく。
「湖の上はやはり涼しいなあ」
「うん!」
またアルテミシアは眠っていたのでジャメルは公爵に言った。
「アルティはよくここでお唄を歌うんだよ。隠れてると歌うんだ。誰かいると歌わないんだよ。それで夜もおねむの前に歌ってるんだよ」
「へえ。やっぱりアルテミシアだったのか。歌姫の正体は」
いつでも人形遊びをするときはまるで入れ替わったかのように驚くほどかつぜつよく大人の口ぶりで細かい設定を叫びまくるジャメルだが、普段の口調はやはり幼いし興味があること以外はあまり覚えもまだよくない。そこが子供の不思議なところだと思う。公爵の子供は今は十四歳であり寄宿舎に通っており実家から離れているのでそんな時代も懐かしかった。
浮島は全部で八つ湖に浮かんでいて、三つが細い橋で繋がっている。どうせいつもアルテミシアは眠っていると起きないので、橋で繋がる浮島を二人で渡り歩いて森を見たり飛ぶ鳥の種類を当てあったりしていた。水鳥がやってきて湖面に停まったり羽ばたき始め、岸にも何羽か集まってくる。一番大きな浮島に来ると、ジャメルはそこに持っていた人形を外して遊び始めた。
何か気配がして公爵は視線を向ける。ここはアルテミシアが眠る小さな浮島も近いのだが、なにやらたくさんの視線を感じずにはいられないのだった。それもその筈で、先ほどまで皆がアルテミシアを囲い見ていたはずのぬいぐるみ達がみんな公爵のほうを見ているではないか。
「………」
これもアルテミシアの悪戯か、ぬいぐるみの方向を眠ったふりをして変えているのか、こちらを愛らしい顔をして見て来ている。動きもしないはずのぬいぐるみ達は風にそよがれていた。子供のすることはよく分からないのでジャメルの悪戯好きも分かっていることだし、公爵ははにかみながら顔を戻そうとした。
「え」
ライオンのぬいぐるみが欠伸をして公爵は二度見し、すでに不動の態だったので瞬きをした。
「おかしいなあ」
ジャメルは騎士ごっこではしゃいでいて気づかない。公爵は首をかしげながら向き直った。ぬいぐるみ達はくすくす笑ってまた寝そべった。
ばっと公爵が見ると目を見開き明らかにぬいぐるみの形体自体が姿勢から変わっているので口をあんぐり開き、その彼の目の前で浮島にぬいぐるみ達がアルテミシアを囲いとんとん飛び跳ね回っているのだ。
公爵はぶったまげて倒れてジャメルは振り向いていきなりボリョボリョ・ポニャーロ・ペカペケ・プニャリャン・ケフーバ・ディオニュレンチュ・チュッチュ=パキョーヌが騎士の攻防に加わったので人形でぱしぱしと攻撃をしながら例の難しい設定を叫び始めた。
「女王アルテミスに捕らえられた我が薔薇色の姫を同盟を組んで救い出そうぞ! おぬしが働いた我等王国への謀反をそれで撤回してしんぜよう! こらこの腑抜け者め起き上がれ! 共に行こう! これ!」
本日もぬいぐるみと人形たちの世界は平和に過ぎ去っていくのだった。
人形
ジルベール・ダルクールは寄宿舎に通う十四歳の少年である。両親は王国からどれほどかの領土を任されているダルクール一族の主ジェラール・ダルクール公爵とその妻ルクサール夫人だ。
七歳から寄宿舎で過ごすジルベールは行動的な両親の性格をあまり引き継いではいない。静かな少年であって成績は良く乗馬やポロにも長けているが自身からはしゃぐ事も無い性格だ。
ジルベールは切り揃えられた前髪から黒い目元が覗き、白いシャツの首元を飾る黒いシルクのシンプルなリボンに黒のカーディガンと膝丈ニッカポッカ姿で静かに学園の廊下を歩いていた。漆喰で固められた廊下は黒い窓枠とドアが続き、今日も窓から透明な陽が斜めに射していて、各所に飾られる花瓶の花弁を透かしている。
その突き当たりに花の描かれた絵画、そしてその下には小さなテーブルが置かれている。
「………」
彼は影を引きながら歩いていくと、その突き当りのテーブルに置かれた人形を見つめた。
それはとても綺麗な人形で、とても静かな態をしていた。彼はこの人形に只ならぬ想いを寄せるようになっていた。その人形はよく彼の空想に現れては宇宙を飛び回る感覚にさせてくれて、幻想的に夢をみさせてくれる。つまらない授業も眠るときもふとした友人との会話の間も。
彼はその人形に心で名前をつけていた。
「レケンドラー」
すでに表情が無いながらも光る彼の瞳は陶酔の色を見せ、その背はどこまでも隙があった。
「ジルベール」
友人が彼を見つけ近付き、ぼうっと学園の人形を見ているジルベールに声をかけた。レケンドラーという名前も聴こえていた。
「誰だ? レケンドラーって」
「………」
ジルベールは耳に入っていないのかただただ人形レケンドラーを見つめるばかりで、その前に手をひらつかせた。
「ああ、何? アルベルト」
「そろそろ食堂に行こうぜ」
「そうだね。行こう」
二人はその角を曲がって食堂のある建物へ向かう為に回廊を歩いていった。
レケンドラーはずっと廊下の床を見つめ続けている。
深夜、アルベルトは痺れを切らして起き上がってジルベールの横に来て見下ろした。
このジルベールの寝言でこの二ヶ月間はずっとこの時間に起き上がって朝まで眠れない。
「レケンドラー……」
誰なのかわからないが、学園にも寄宿舎にも先生にもレケンドラーはいない。
「レケンドラー!」
「勘弁してくれよ!」
壁に飾られたピンクのカップ咲の薔薇をばしっと起きないジルベールに叩きつけて花弁と大量の薔薇が彼の白いシーツに舞った。
毎日毎晩に近くどんなにゆすり起こそうとしても頬を叩いてもその目や口を無理やりこじあけ起こそうとしても、仕舞いには寝台から引っ張り引きずりまわそうが深い眠りに落ちているのか、あまりに深い眠りに囚われ過ぎているのか一切目覚めずに目を冴えて彼を睨み朝ぼらけに明るくなり始める空も落ち着くまでは目覚めもしないのだ。
それでもアルベルトはジルベールにそのことを言ったことも無い。一時は友達の仲を絶交したいと思うほど悩んだが、結局は言えないのだ。いつでもジルベールはアルベルトを細かいところでもフォローしてくれるし色々な相談に乗ってくれて静かな性格だが良い奴なのだ。
薔薇を引き連れて寝返るジルベールはまた寝言を始める。何度その内容を解釈しようとしても要領を得ない。
「だからここに居るのに……出してくれ」
檻にでも閉じ込められているのか、その囁き響く声はまるで宇宙の砦にでも響くような声なのだ。
「出せないよ。お前はいつでもそうやって夢に悩んでいるのか?」
ジルベールが何も言わなくなり寝息も聞こえなくなった。
アルベルトは廊下を出て最近覚えた場所で丸くなって眠ることにした。とはいえ、ただ目を綴じているだけなのだが。身体だけでも休ませたい。寄宿舎の階段踊り場にはテーブルとソファが置かれており、この所は三日間目覚めるとこのソファーで眠るようになっていた。初めからここで眠っていればいいとは思うが、夜眠ったばかりでは二時間ほどは先生が見回りをしているのだ。一層の事部屋を移してもらえれば友人として何の支障も無く接することが出来るのだがそれは許されない。
また彼は寝転がりながらテーブルに置かれた人形を見た。学園や寄宿舎には何体か人形がある。この踊り場の人形、まるで双子の様に学園廊下突き当りの人形と同じ顔と同じ装いだ。それでも色が異なった。学園の人形は金髪に青い瞳と黒い衣装だが、ここにあるのは黒髪に茶色の瞳で白い衣装を着ている。だから雰囲気が違って同じだとはしばらく気づかなかったのだが、こうやってここ数日夜の暗がりに小窓の月に照らされて見る人形は同じだと分かった。
「まさか人形をレケンドラーって呼んでいたのか? ただ夢を思い出してふと言っていたんだと思ってた」
その女性の人形は実に美しい。まるで女神の分身のようだった。実に冷たい顔立ちをしておりミステリアスさがある。レケンドラーという名前よりも、むしろもっと崇高な名前が似合いそうだった。だから結びつかなかったのだが。あの時のジルベールの横顔は何も映していないかの様にもおもえた。目は何年間も見慣れてきた人形を見ているようで心は違うところに行っていた。今に、感覚どころか全てを奪っていこうとする誰かがいるのだ。それがレケンドラーなのだ。出来れば彼の相談に乗ってやりたいとは思うのだが、何しろ普段無口なジルベールは言ってこない。それに毎朝普通に目覚めるので夢も忘れているらしかった。
だが、明日こそは聞こう。それでなければ今に首でも絞めてしまいそうだ。なので何か起こして塔にでも閉じ込められる前に決意してアルベルトは息をつき目を綴じた。
レケンドラーは魅力的な瞳でジルベールに微笑んだ。
だんだんと力を失っていき目が霞みレケンドラーの群青色の風を受けて透ける衣装も頬をなで眠くさせてくる。
「目覚めたくない……」
銀色の星が大群になって押し寄せて流れて行き、銀の彼女の装飾品がしゃらしゃらと繊細な音を立ててゆく。太陽は容赦なく彼女に押し寄せてジルベールの身も包もうとする。太陽の光りの檻に閉じ込められた彼はクリスタルの太い鎖に引かれる舟に乗って太陽の方向へ引っ張られていくほか無くなるのだ。
「出してくれ。夜の君のところに居たほうが良い……」
どんどんと深い夜の底へと海の様に沈んでいくレケンドラーは黒い闇に染まっていき薄く色付いてきた空の色の瞳をした彼女は真っ白の瞼に閉ざさせていき長く尾を引く金髪をゆらめかせて夜の世界へ沈んでいく。そこにいたいというのに。
羽根のついた白い冑を被った黒髪に白い衣装の槍を持つ女が威厳をもって太陽を背に現れ、彼を連れ去っていく。銀の馬車に乗せて夜の女神がはるか手の届かない場所まで。レケンドラーはいつでも何も言わずに、そして流れて行くのだ。
夜の夢は悪夢だった。空想で昼に見るものとは違う。追いかけても去っていくレケンドラー。だからこそ恋焦がれて追ってその関係に病みつきになっているのかもしれない。昼の彼女がどんなにレケンドラーに素晴らしい幻想と愛を見せてくれても、また悪夢を見るために眠りたくなってしまうのだから。名も分からない白い衣装と黒髪の女神は黒馬が引き壮大な白い朝日の天を翔けさせる銀の馬車から押し落とし、彼は眠りの出口へと落ちていく。その出口では無い。その出口では無いのに、目覚めていく。
ジルベールは目を覚ますと、甘い薫りにしばらくして気づいた。
「……?」
起き上がると辺りを見回す。また今日も早起きをして窓でも拭いたりしているのか、同室のアルベルトは見当たらなかった。それよりも、何故か薔薇に塗れている乙女のようななりになっていて一輪手に取り芳しい薫りをかいだ。これがレケンドラーの残していった足跡ならどんなにいいだろうか?
彼は朝の支度を始めると早々に部屋を出た。
「あれ」
今日は朝の庭に行ってみようと思い階段前を通ったが、そのソファに何故かアルベルトがいる。上がって行き、ふとテーブルの上の人形を見た。
「朝陽の女神」
今始めて気づいた。小窓の朝陽に照らされるその白い衣装の人形は、夢に出てきてジルベールからレケンドラーを奪っていく女神に似ていた。彼はアルベルトを見ると腕を叩いた。
「おい。こんなところで寝ていたら風邪を引くのに」
「うーん」
目を覚ますと不眠の原因ジルベールがいて、彼は起き上がってジルベールを見た。
「どうしたんだ?」
「レケンドラーって誰だよ」
「………」
昨日も聞いてきたことだとすぐに思い出した。その時も今と同じ顔をしていた。どこか鋭くて問い詰めてくるような、アルベルトらしくない表情で。
「何で?」
「毎日夢に魘されてレケンドラーって言い続けて」
「え?」
ジルベールは途端に顔を染めて押し黙ってしまった。
アルベルトはテーブルの人形を持ち走って行ってしまった。
「おい!」
階段の上からその腕を振りかぶり、恐い顔のアルベルトが人形を投げつけようとした。だが、しばらく手を振るわせたまま動かずにいてジルベールを見ると人形の手を下げた。
男女別棟の寄宿舎には女生徒も入らない。
「まさか人形相手に恋して?」
「!」
ジルベールは俯いて口を噤んだ。背を向けて走って行き、アルベルトはすぐに後悔したが追いかけることが出来なかった。どうやって声をかけろというのか。まさか事実だったなんて、恋の叶えようも無い。
美術室でジルベールは溜息をついて暗い目元をした。生きたように動くレケンドラーの油絵が彼により描かれている。ただ座っているだけの人形ではない。銀河を背に黒い舟に乗る深い青をした瞳のレケンドラー。こちらに微笑み、冷たい瞳をしている。シイタゲルコトヘノ……ジルベールは目を綴じてアルベルトが怒っていたので戻るのを躊躇っていた。たしかにそれは人形相手に本気になるような友人なんて不気味で仕方が無いだろう。だが胸をあつくするほど愛しくなってしまっているのだ。既に人形のレケンドラー以外目になど入らないほど。
だがそろそろ教室に行かなければ先生が来てしまう。彼は諦めてキャンバスに布をかけて美術室を出た。
アルベルトはジルベールを見ると顔を反らした。ジルベールは俯いて席に座る。窓の外を見ると、青空を彼女が白馬に乗り気持ちよく翔けて行く。その青空には薔薇星雲も浮かび回転し、流星群も青く駆け巡り幾重にも青い空に溶け込みきらめいて流れて行く。幻想の泉が波紋を広げて全てを透明にすかして行く。レケンドラーはここまで花の絡むブランコでやってきては彼の頬を指で撫でて離れて行き甘い薫りを乗せ花を舞わせてはまたやってくる。彼は蔓の支柱に手を伸ばし、途端に体が浮いて駆け出していった。
「ジル!!」
ジルベールは群青から水色に変わって行くレケンドラーの薄衣の腹部に頬を寄せすでに彼女の実在しない世界から出て行こうと目を綴じた。
アルベルトはいきなり窓から身を乗り出したジルベールの腰を他の男子と共に掴んで引き込み、彼は気絶をしていた。緑の木々から白い花を高木につけて、その花弁が風に乗って教室に舞いやってくる。女生徒は驚き泣き顔になっていた。
彼はベッドのある所へ連れて行かれた。
目を覚ますと歌声が聞こえる。それは去年会いに行った従姉妹のアルテミシアの声にも似て思えた。どこかからか美声が聞こえ、行ってみるとベランダから歌う従姉妹を見つけたのだ。出て行くと、驚いたアルテミシアはすぐに部屋へ入っていってしまいカーテンも閉ざしてしまった。だが、その声よりももっと大人びていて、それがレケンドラーでは無いと分かった。
辺りを見回すと、女生徒の背があった。
「………」
長い髪は腰まで届き、金髪だ。彼女は泣いているらしく、声をかけた。
「あの……」
少女は振り返り、青い瞳で彼を見た。途端にジルベールは息が止まりかけて驚いて声を失った。レケンドラー。
だが紛れも無く少女はまだ成熟しきらない乙女であって、そして泣き濡っているのだ。
「君が唄ってたの……?」
少女は頷き、ジルベールから顔を戻した。
「気分は落ち着いたかいアンナベル」
先生が進んでくると目覚めているジルベールを見た。
「ああ。良かったよ。目を覚ましてくれて。何かあったのか」
「いいえ。ごめんなさい」
先生は肩を叩いてあげてから女生徒を見た。
「これから教室へ連れて行く予定だったんだがな、今日から学園に入ることになったアンナベル・クラークだ。アイルランドから来た子でな。フランスの地に来たばかりで緊張をしすぎたようだ」
ジルベールは頬を耳まで染めて俯いて頷いた。まさかレケンドラーが実在するなんて思わなかった。夢が叶うだなんて。
「アンナベル」
ジルベールは庭園を歩く彼女を呼び出した。その彼には既に今まで見つめてきたレケンドラーの人形の姿を映すことは無くなっていた。
「もし何も分からなかったら、僕に聞いてくれれば助けになるよ。それに、とても会ったばかりには思えないんだ」
アンナベルは頬を染めて俯いて頷いた。
アルベルトは向こうからそれを見ていて、口を閉ざし続けた。
アンナベルが駈けて行きジルベールは口元が微笑んでいた。だが、その彼の目がだんだんと一点を見上げ、凍りついたようになっていくのをその場を去っていこうとしたアルベルトは知り足を止めた。まさか、また朝の様に何かやらかすのではないのだろうかと。だが、その場にジルベールはへたり込んでしまった。
ジルベールはレケンドラーが怒ったのだと思った。漆黒の天空に青空が渦を巻いて飲み込まれていき、それは既に彼の空想の枠を超えて恐怖しか残らなく鋭い目をしたレケンドラーが黒い衣を広げて彼を襲おうと猛烈な勢いでやってきた。暴風を伴って銀の装飾を鳴らし彼女がやってくる。
「レケンドラー!!」
ジルベールが叫んで倒れこんだ瞬間、幻想は消えて彼の目に青いのんびりとした空だけを映した。
「………」
「え? 息子が?!」
公爵は手紙を握り締めて走って行き、すぐに馬車の手配を取って妻と共に寄宿舎のある地方へと走らせて行った。
数日してその村に到着すると、すぐに病院へ通された。
「ジル……」
ジルベールはうわごとを言い続けていた。手にはレケンドラーを持ち髪を撫で、目は天井をただただ見ている。友人として顔を知るアルベルトと、金髪の外国人の女の子がいた。
「アルベルト。申し訳ないね。息子がこんなことになってしまって」
「いいや。俺はいいんです」
公爵は進むと、妻のルクサールはジルベールの髪を撫でて口元を押さえて公爵に泣きついた。
「レケンドラー……僕だけだったんだ……君には……レケンドラー……」
「レケンドラー?」
「人形の名前みたいです。三日前、いきなり庭でレケンドラーって叫んで倒れこんで、目を覚ましたらずっとこういったうわごとを言ってるんだ。夢でも同じように寝言を言っていたけど」
医者が来ると両親に小さく微笑んだ。
「息子さんは多少精神的に疲れているようです。話によると二ヶ月前から同じ夢を見ていたらしく、昼間もぼうっと空を見ていたり人形を見つめていたりとして、何か現実から逃れたいことでもあったのかもしれません。それももしかしたら落ち着けば戻ってくる可能性が高いので、様子を見てみましょう」
「Bhi se chor leis an diabhal……」
「………」
女の子、アンナベルがアイルランド語で言い、誰もがアンナベルを見て彼女は言った。
「悪魔に憑かれたのよ……彼は」
「何を言ってるんだアンナベル。ご両親に失礼だぞ」
「でも、彼のあの様子はおかしかったわ!」
アンナベルはガタガタ震え始めて公爵が彼女をなだめた。
「今は静かにしていよう。こいつもきっと今は静かにしてもらいたいかもしれない」
彼らは病室を出ると医者が続けた。
「一応、あの人形をもって行こうとすると魘されるのでそのままにしておいているんです」
「あの人形が悪魔なのかもしれないわ」
「アンナベル。君の国では悪魔がそこまで頻繁に信じられて?」
「悪魔ばかりでなくて、妖精も信じられているわ。フランスにはそういう伝承は無いの?」
公爵は困って気を落ち着かせたルクサールと顔を見合わせ、ドアから眠るジルベールを見た。目覚めている状態なのか分からない。何しろ目を開いて喋り続けているが、一切こちらに気を向けないのだから。悪魔なんて言葉か聞こえていたら取り乱すのではないだろうか。
「美しい人形に恋をしていただけです。きっとずっと彼女とのことを思い描いていたんだ。そうしたらそのレケンドラーに瓜二つのこの子が現れたから混乱したのかもしれない。だって、その前までちょっと取り込んでたから」
「なるほど……」
公爵は無口な息子とは何を聞いても一つ返事だけしか帰って来ないし、それでも乗馬の話やポロの話になると花も咲くしいろいろな所へ連れて行くと最後には子供らしくはしゃぐ子だったので特に普通に育ってくれているのだと安心していたのだ。親戚の子達もだが、どうもダルクールの子供達はシャイな子が多い。公爵の弟にしても同様だ。
「ね。あなた……この事は言わないつもりだったんだけれど……」
ルクサールが公爵を連れて行き、この前の事を言った。
「ぬいぐるみと一緒にアルテミシアが喋っていたの」
「本当か? 確かにあのぬいぐるみ達、動いた気がしていたが」
「あなたも以前から人形に関わることによく巻き込まれているし、もしかしたらダルクール一族は人形と何か深いかかわりが元からあるのではないかしら」
「妙なことを言うなあ。君も」
公爵は再び入って行った。
「しばらくはこういった状態かもしれない」
「私はこの子としばらく一緒にいるわ。お願いあなた。許可を出してもらいたいの」
「お医者様がそれを許してくださるなら」
「ここは精神病棟なので、ご家族の看病は出来ないんです。優秀な者達が揃っているので、どうかそれを踏んでいただきたい」
実際はいきなり暴れだす患者もいるし、危険でもあるのだ。ルクサールは不本意ながら頷いた。ジルベールの髪を撫でてから席を立つ。
「あの子のこと、よろしくお願いいたします」
「はい。あまり気を落とされずに」
「ええ……」
彼らは一時病院の城を後にした。
「君達にも本当に申し訳なかったね。とても驚いたことだったろうに。どうか元気を取り戻してほしい」
「俺心配です。あいつは親友だから。確かに最近はちょっと喧嘩っぽくなってたけど、大切だからこそなんだ。ずっと一緒にいて、それなのに人形とかに気が行き始めて嫉妬してたんだ」
「あまり根を詰めすぎるな。な? 私もあの子にアルベルトがいてくれてうれしいんだ。一緒に見守っていこう」
「はい」
アンナベルは公爵の腕の裾を引っ張って彼は振り返った。
「私、絶対に人形を作った人に聞くべきだと思います」
公爵はアンナベルの青い瞳を見て、ただただ怯えている彼女を抱きしめた。
「分かった。安心できることが得られるなら調べてみよう」
人形職人のバリドウ・ケニャンはフランス語が分からないので紹介をしてきた学園の理事長を見た。人のいい感じの表情は壁に様々な女性の絵画が飾られていた。
「彼女たちは?」
なので理事長が間に通訳に入った。
「ああ、彼女は僕の妻です。既にもう年齢はかなり上になっていますが、若い頃はそれは美しい女性でね。今でも美しいけれど、それはそれは若い頃は美しい女性ねで、今でも美しい女性で」
「その女性はこの子に似ていて? 彼女はアンナベルと言う少女で、アイルランドから来た子です」
アンナベルがやってくると椅子に座り、老人は丸まった背中のまま顔だけをまじまじと上げてアンナベルを見た。
「おやおや! これは若い頃の妻じゃないか。元気にしていたか。不憫は無いかね。それはね、私は何十年もお前を見てきてまた若く戻るなんておもわなんだ」
公爵は横目で通訳している理事長を見て、理事長は横目で見てから顔を戻した。何も通訳がまずっているのでは無い。相当年が行っているのは一見してわかってはいたのだが。
「この人形と同じ顔で黒い衣装を着た金髪の人形はいつ製作を?」
「懐かしいなあ。これは双子の人形でね、私が四十代の頃に作ったからもう五十年も前かな。よくこんなに綺麗なままでいるよ」
まさか公爵自身が生まれる以前からあった人形だとは思ってもみなかった。
「元気かいローザや。お前の姉妹のイザベルはどこへ行ったの」
「実はそのイザベルは私の息子を惑わしましてね」
「またか!」
「え?」
公爵は首を突き出し瞬きして見た。
「美人だろうこの双子は!」
「はあ……」
公爵はこれ以上は調子を狂わされると思い、しばらくは休憩をとることにした。
アンナベルは廊下をおぼろげに歩いていた。ここは人形を製作した老人の館であり、ジルベールが眠り続ける原因になったのかもしれなく、そのご両親と共に来たのだった。
先ほどまでの彼女ではなくなっていた。明るい色の瞳は何かの写しているかも不明で足元は頼りない。廊下は短く、その先に導かれていた。
『あなたが来れば分かる……』
声は続いていた。まるでその声を聴いてはアンナベルの魂がどこかにつる下げられたままになったかの様で、自覚は無かった。
『ジルベールの元へいざなって』
ドアノブに手を掛けた。彼女の影がうつり、その背後にぼんやりと他の影。ノブを回して暗がりの室内に入った。その途端、目の前は違った風景に包まれた。どこかそれは懐かしい、草原であって春の陽気。風が流れて行く。
明るい草原にはいろいろな色や種類の野花が咲き、とてものどかだった。その先には長い髪の女性がいる。何か竪琴をかき鳴らし、なめらかな高い声で歌っていた。この声はアンナベルを導いた声だった。そして、思い当たった。似ている。アルベルトが言っていた『レケンドラー』という人形に似ている。人形を作った老人の妻の絵画とはまた異なる顔だった。
彼女は歩いていき、それごとにその肖像は変わって言った。顔立ちが少しずつ。レケンドラーはアンナベルを見て、それはまるで鏡を置いたかのようにそっくりになった。レケンドラーに似たアンナベルよりも、アンナベル寄りの人形だった女性に。そしてゆらゆらと変わり戻って行った。
アンナベルは自身の頬に触れた。レケンドラーは立ち上がり、彼女の肩に触れた。その瞬間、アンナベルの視界が倒れてレケンドラーの白いエンパイアドレスの足元が映し出される。その姿は視線を上げるときらめきとなって風に消えていった。視線を向けると、自分がいた。顔がレケンドラーになっていた。先ほどの変化は彼女の身体を人形が乗っ取った瞬間のゆらぎだったのだ。彼女は声が出ない。実態さえなかった。自分の身体は歩いていく。草原に一つだけあるドア。アンナベルは草原に残されるのだと思い、目を綴じた。だが目を綴じると、レケンドラーの記憶だろうか、草原の草花の陰に隠れていたかのようなそれらの記憶の陰がそっとアンナベルに迫ってきた。
ジルベールがいた。だが面影があるぐらいで、十歳にも満たないと思われる小さな子供で、草原で一人遊んでいる。その向こうには髪の長い女の子がいた。その子も同じ年齢ほどと思われる。レケンドラーに似ている。彼女は男の子を見つけ、無表情になって歩いていった。背後まで来るとジルベール少年が振り返って女の子を見る。二人はにっこり微笑み合い、手を取り合って走って行った。夕暮れが草原を染め上げるまで遊んだ。明るい林の先の泉だったり、さらさらと細い滝の棚だったり、青い花だけが咲き乱れる不思議な白い石の丘だったり、苔の蒸す緑の洞窟に入って行ったりした。レケンドラーは喋らなかった。声が出ないのかとジルベールは思ったらしかった。レケンドラーの記憶はどんどんジルベールだけになっていく。草原に戻って夕時を迎え、空は色味をワインレッドにしていく。ジルベールはレケンドラーのおでこにちゅっとキスを寄せ、彼女の頭に花冠をかぶせて微笑み、夕陽の方向へと走って影になっていった。その時レケンドラーは不安を感じてもっと彼と共にいたいと思った。
光りが落ちていくと、共にレケンドラーは光りの精霊の力を眠らせて草花の陰へと落ちていった。雫の様に。そして、蝶が羽根を綴じるかの様に彼との楽しかった想い出の影も翌朝の光りに照らされ忘れてしまうのだと思うと悲しくて悲しくて仕方が無かった。その日一日の光りの記憶しか留めることができない彼女は夜の星と月の光がいずれ出るまでに眠りに落ちてしまおうと願った。彼の元にいけたらどんなに良いだろうか。何も話すことは無いけれど、ただただ光りに照らされるところで彼と少しでもいられたら、彼の≪日常≫が欲しかった。
アンナベルが目を開くと、それは夜だった。視線を上げると、夜色の棚引くエンパイアドレスを着た女性が銀の弓矢を引いている。そしてその銀の矢は夜の流れ星となって射られ、線を描いていく。夜の草原は虫の音が美しく、リンリン、リリリリ、リリーンと響く。星光りで山々の陰となった地平線へと向かっていった。
光りの精霊の願いを乗せた銀の矢はどこかへ向かっていったようだ。彼女は睡魔に負けて目を閉ざす。重いまぶたを閉ざして、小夜曲を聴く。誰が歌っているのだろうか。光りの精霊の記憶だろうか。夜の女神の歌声だろうか。
アンナベルの魂はレケンドラーが首から提げたネックレスのビンに詰められていた。そのなかは今夜の草原。
人形に憑依したそのレケンドラーの魂は寄宿舎のジルベールの目に留まるようになる。だが一日の特別な記憶はジルベールは忘れていたのだろうか。
ジルベールの両親が老人と話している。アルベルトは人形を見ていた。似た顔が多い。レケンドラーは喋ることは無く彼らの横に座った。
「今日は一度戻りましょう」
彼女は頷き、自分の納まっていた人形をつくった老人を初めて見ては微笑んだ。それは、どこまでも妖しげな微笑だった。
老人は不可思議なものを感じずにはいられなかった。だが言葉が出ずに、少女は背を向け歩いていく。
学園に戻った彼らは寄宿舎へ向かい、眠ったままのジルベールのところへ来た。気の良い老人はなにも怪しい所などは無く手がかりは無いようなものだった。
レケンドラーが歩いていくと、ジルベールのところへ来る。眠ったままの顔は嗄れの夢で会っていた。馬車に乗せたり、小舟に乗せたり、光りを駈けた夢。彼女の操る光りを彼は虜になっていたものだ。
レケンドラーが彼の額に触れた。さらさらと黒髪が流れ、白い額が覗いて触れる。
すうっとジルベールが目を開いた。
「………」
彼は驚いてレケンドラーを見た。夢に見続けた女性だ。太陽の女神であって夜の月の女神とは異なる彼女が。焦がれていた人形の彼女。人形相手に本気の恋だなんてどんなに笑われても馬鹿にされても気持ちは変えられなかった。白昼夢にまで見た彼女が目の前で微笑している。その長い髪に触れ、そして狭い背を引き寄せていた。
「逢いたかった……」
「あたしもよ」
アンナベルの声で言う。光りに声や音は無い。物質的な衝突が無いからだ。固体を得て初めて声が出た。
「ジルベール。あたし達、婚約をしましょう」
レケンドラーが底の無いような声で言い、妖しげに微笑んでジルベールの髪を見る。
「ああ」
ジルベールが頷いた。レケンドラーはずっとずっとジルベールの髪を細い指で撫で続けた。ジルベールは彼女の正体を知らない。ビンは今満月が強く光り輝いた。レケンドラーの感情が満ちたかの様に。
その日からすぐにジルベールとアンナベルの噂は広まった。寄宿舎は別の場所だが、学園内では仲良く共にいて夜の寝言や白昼夢も止み、アルベルトの不眠も解消されていた。二人が恋人同士だということはすでに誰の目から見ても明らかで、ジルベールの両親も安心して既に戻っている。
「将来の婚約を?」
まるで人形が動いているかの様なアンナベルが向こうにいる姿を遠目から見てアルベルトは驚いて友人を見た。どうやら目が本気で、最近アンナベルは初めて会った頃と顔立ちが変わってきているように思えていた。ふっくらしていたかわいらしい顔が細くなってきたからだろうか。女子特有のダイエットでも始めたのだろうか、不明だが痩せていくとどんどんレケンドラーとジルベールの名づけた人形にそっくりになっていった。だが違った。確実にレケンドラーがアンナベルの容貌さえも乗っ取ってきているのだった。それでも首から提げた小さなビンだけは大事にし続けていた。割れないように銀の百合のピアス加工細工に囲まれたペンダントになっている。昼の今は草原が見えていた。それは遠くから見ると昼の明かりなどで光っているペンダントの様に見えた。夜になればそれは暗くなった。
ジルベールは時にそのペンダントを不思議に見つめた。だがそれはレケンドラーに思いを馳せていた頃の視線ではなかった。ただただ不可思議なペンダントを見る風の目にレケンドラーは微笑した。
彼女の目には夜になれば夜の精霊の行いが目の前に広がり見えた。レケンドラーは人形の身体からジルベールを手に入れ、じっと腕を取り寄り添った。誰に知られることも無い夜の光りを、秘密を抱えながらも……。ビンは銀の星が光る……。
宵の深まった先の夢幻。そして白昼夢……。それはジルベール・ダルクールにはなくてはならないことだった。陶酔する世界にはレケンドラーがいて彼を誘うのだ。白い肌に黒髪の女神は群青の薄衣を月光になびかせ、神秘の瞳で彼を見つめ微笑を称えた。その愛情は泉の様に深く透明で、湧き出るふつふつとした心は止むことは無い。
「ジルベール」
緑にそよがれるジルベールは白い頬に白い陽を受けていた。その顔は繊細なものであり、母ルクサールにとてもよく似ていた。フランスの片田舎にある寄宿舎の庭にいた。豊かな緑に囲まれたその場所は太陽が降り注ぐままに降り注ぎ、若い彼らを照らしているのだが、彼の心だけは他所へ行っていることをどこかしらジルベールの友人アルベルトは勘付き始めていた。
ジルベールは木々を見つめていた。切り揃えられた前髪から黒い目元が覗き、白いシャツの首元を飾る黒いシルクのシンプルなリボンに黒のカーディガンと膝丈ニッカポッカ姿だが、それは制服である。
庭には寄宿舎で飼っている白い孔雀がいる。小学舎から高等舎まで生徒を受け入れているこの寄宿舎は学年毎に階や棟で生活の場が分けられているが、十三ある庭の内でもこの庭には比較的彼らの中学舎の生徒達が来る。女生徒達の棟はレンガの壁を隔てた向こうにあるので場所によったら声や合唱、友人同士で楽しげに歌う声や恋の話などが聞こえた。ここは静かな場所だ。小学舎に通う児童達の声も届かない。だが、騒がしい場所でもジルベールは時折ぼうっとしている。
「ジル!」
腕を多少乱暴に引き振り向かせると漸く驚いてアルベルトを見る。
先ほどまでレケンドラーはペガサス達の飛ぶ青空に浮かぶ巨大な金枠の姿鏡に彼女を映し彼は天を駈け彼女に腕を差し伸べ息せき切って走っていた。どうも銀色の玉やペガサスから舞う白い羽根が足を絡めて彼女には近づけずに虹が空を駆け巡ってはその輝きで目を綴じ腕でかばって真っ逆さまに急降下していく感覚だった。それを雲に乗って気絶したように揺らめいていた。その雲をペガサスが悪戯に飛び出して彼をあたたかな背に乗せいなないた所でくすくすと笑うレケンドラーの声が微笑み、その声は鈴のように遠ざかっていき、実に現実的な声、「ジル」というアルベルトの言葉が羅列となって彼の感覚を占領して目覚めさせたのだった。
「レケンドラーは」
「どうした」
「鏡に閉じ込められた様に僕を惑わして」
友人を連れて行くとアーチに蔦が絡まるベンチに来た。
彼は座るとただただ空を寂しげに見つめた。
「また僕を頭がどうかした顔で見るんだね……」
「アンナベルが聴いたら怒るぞ。またあの人形の事を言い始めるんだな」
「レケンドラーのことだ」
ジルベールはアンナベルのことを時にレケンドラーと呼んだ。アンナベルはそれを何を言うでもなく受け応える。
「寄宿舎はどうせ大学に入って村から出るまで変わらないんだ。まだまだ先だ。学園で会うんだからそんなにレケンドラーレケンドラー言うなよ」
アルベルトは背もたれにもたれて腕を組んだ。
それでも悪戯なレケンドラーは昼のジルベールに幻想を見せた。それをジルベールは以前の白昼夢の様に目に見ていたのだ。
レケンドラーは光りになってアンナベルの身体から離れて溶け込んでいった……。
既にジルベールには元の恋を寄せ合った少女アンナベルの姿の記憶は見えなくなっていた。人形が具現化したレケンドラーの存在しか……。
一つの夏
露草の 海に溺れる白百合かな
松林 蜘蛛は針葉に 足先渡し
青い海 今は灰色 風強し
青い空 覗いて変わった 青海へ
葉陰先 流れる雲に 見る今後
彼方から 望みの夢を 追い掛ける
烏たち 威嚇し啼いて 寂しく聴こゆ
緑駈ける 夏の風から 晩夏へ行くの?
風浚う 短い黒髪 項の涼しさ
涙だけ こらえて笑顔 いつまで続く?
昆虫の 居場所を再び 林に戻す
あの横顔 笑顔は心に何かを落とす
笑いあう 時間の尊さ 人と居て
生かされて いる存在の あたしだから
あたしの歩みを止める 理由は一つも ないのだから
情けなく 涙がそっと 優しさにこそ
夜涼し 虫の音さやか 目を綴じ微笑む
風吹けば 思いは届く はずなのに
sade song
1 サディスティック・ナイト
それは誰も知らない地下の薔薇
鞭払い咲いた紅い血潮に
お前の背中を私に貸して
欲望の全てで壊すのだ あ ああ ああ
曇りなき純情の軌跡は
いつまでも翳ることなど無い
身体は正直に弧を描いて
履き違えた感情は崩れた ああ あ ああ
何もかも私の手におさめれば
命さえ投げ出すことも出来ずに
背徳の汚れを愛するなら
悲しみさえも消え去って 闇に 消えて 悦に
花は散ると共にまた開いて
月は満ちてはまた欠けて行く
終焉など見せないサディスティーク
痛みを刻むと共に叫べば ああ あ ああ
悪意の花は黒く薫って
城壁に蔓延る悪魔の幕
夜の帳を飾って血塗られ
転がる身体に愛情注ぐ あ ああ ああ
私の全てを受け止めるのは
聖なる異端と悦楽の微笑
少女のまなこは美しく光り
それでも涙と濡れ果てるだろうか 光り そして 悦に
ああ ジュスティーヌ
おお 私の
ああ 無垢な汚れを
2 月光に堕ちる
あの麗しい君の微笑み
頬に触れる君の息吹毎
僕の唇をつける床へ
呆れたため息を落としてくれ
もう 待てない
鮮やかな鞭の響きは
心をくすぐりかしずかせる
君は女神 称える月と
同調しては輝きを増す
さあ ここへ
躊躇いも無く
鞭払って
甘く冷たく突き放して
言葉で なじって ああ
恐れ多くもその足にすがり
汚れた者と呼ばれていたい
許されるなら君を崇めては
称号をほしいままにしてよ
その 身体で
ガラリと鳴った鎖の影は
巣をめぐらす蜘蛛みたいに射す
この身体を雁字搦めにして
月光に堕ちる僕と君の
キスは 魔性
最上の時を
ぶち壊して
君の囚人にしてくれよ
言葉で いじって ああ
躊躇いも無く
鞭払って
甘く冷たく突き放して
言葉で なじって ああ
Masochist know the love of all(マソキストは全ての愛を知っている)
Also love false (偽りの愛も)
The pain of truth(真実の痛みも)
甘く 甘く 甘く 甘く……
3 黒い扉と薔薇
覗いては ならない 禁断の 扉
深夜の 幕など 全ては 下りた
遠く 遠く 聴こえる 雄たけび
魅惑 の声 未詳 の者
悪魔の 蹄を 頂く 男は
鋭い 微笑に 血の文字 なぞった
叫ぶ 言葉 低く くぐもる
邪悪 の闇に 魅了 されて
木 霊 す る灰色のコーラス
人肉の宴を開く
捧げられた逆ペンタグラムに
飛び散る薔薇……
激しいうねりの踊りを
狂い誰もが我をなくし
描かれた逆ペンタグラム
薔薇はひとひらの何か……
ああ あ ああ あ ああ あ ああ
サタニストの宴が開かれる
ヒエラルキーに花は咲くか
一人の聖職者が古ぼけた石積みの教会から庭に出ると、草地にしゃがみ土の出たところに花を植えた。寸胴のように穴を掘って底を平にし、鉢から出した花を置く。それはどこか吹く風には逞しいながらも心を注がねば倒れてしまいそうな風にも思える花である。彼はしっかりと土を戻すと、微笑んで頷き立ち上がった。離れたところから井戸から汲んで置いた水を持って来てジョウロで注ぐ。
いきなりカラス達がせわしなく騒いで教会突端からはばたき飛んでいき彼はそれを見上げた。
「………。どうしたのだろうか」
このあたりは比較的カラスは多いし数羽で飛んでいたりケンカしたり話し合ったりは見るのだが、一斉に先ほどの様にガアガアと騒ぎながら飛び立つことは珍しかった。ここから柳の先に見える囲われた墓地にも別段変わった様子は見られずに、森は静かなまま、そして向こうに見える村もとりとめて……。
だが、カラス達が空を大量に舞う方向から耳を澄ませると、彼らの鳴き声とは別の音が村側からしていることに気づく。何か野太い、だが派手な音が鳴り響いたのだ。
ゴオオォン……、ゴオオン……
それはまるで銅鑼が鳴らされたかのようで、不思議に思ってジョウロを置き見続ける。カラス達が村の方へ飛んでいくと、旋回して戻ってきて森へと向かっていく。黒いまばらな空だったが元の薄い水色と曇り空が混ざった色味に戻って上空は雲しか走らない。
ゴオオン……
その音は軒先から村人達を数名路地におびき出し、首をかしげさせた。何かの祭事でもなければ、それならば誰かが訪問してきたのだろうか? あの主の住まう城へと。
僧侶は急いで城に呼ばれた馬車に乗り込み向かわなければならなくなった。物々しい雰囲気の村には見知らぬ国の鉄化面をつける兵士達が立ち並び彼らを高い背の甲冑から見下ろしてきている。凛とした馬達さえも村人と静かに威嚇しているようにも思えるのだ。何者だろうかと思いながらも彼らの間を馬車は通り過ぎていくが、それらの終るところで止められ、目も覚める様な青い瞳と間近で目が合った。精悍な顔つきの騎士で、蓄えられた髭のしたの口が開かれる。
「この国の聖職者か。城へ呼ばれたようだな」
「はい。兵士殿」
「まあいい。行け」
短く男は鼻で息をつき顎を城側へしゃくった。彼は感謝を捧げながら十字を切り馬車は進む。
城へ到着し馬車から降りると城の者に急かされ小走りで進んだ。
「どういった様子でしょうか。彼らは一体」
「王との接見でお耳に入られること。今ここでは」
僧侶は頷き鎧戸の並ぶ廊下を進んでいく。その先に壁が消え左右を柱で支えられた所を越えると観音扉が開かれており、その先に後ろ手を組み片足を地面に打たせる王がいた。
「陛下」
「来たか」
「はい」
王は彼を認めてから観音扉を閉ざさせる。二人の兵隊がそれを占め、このホールを颯爽と歩いていく。
「困ったことになった。ブレアッケンデン王国の王が教会を引き渡せと言ってきているのだ。それを拒むようならば強硬手段に出るのだと言う」
宗派を争う戦の文字が浮かんだ。僧侶は王が深い息をつき足を止めたので見上げた。
「この国は今まで争いも無く静かに誰もが暮らしてきた」
「はい」
「だがこの国をブレアッケンデンが占領し宗派も彼らの崇拝を受け入れろという。私は数年前に招かれた先で王との会話で宗派のあらましを耳にしたが、どうしても受け入れがたいものだ。強いヒエラルキーを感じるものでな……」
「ブレアッケンデン王国の王はおいでで?」
「ああ」
穏便に話をしに来たのだからと言う体でも無い。すでに包囲されたにも等しいのだろう。あの物々しい兵隊達はすぐにでも彼らを圧する事だろうし、威圧感を帯びた先ほどの兵士の顔はこの軍隊を持たない国には到底いない性質だ。
「断るというのであれば戦が起こるのでしょう」
「ああ。だが教会を渡すわけには行かない。彼らは内側から国民の心を宗派に染めようとしているのだ。枢機卿のいないこの国は他の国に比べれば力は確かに無い。だが、教会を心のよりどころに、頼りにして日々を暮らす者たちで出来上がっている尊い国だ」
「ええ。それはもうおっしゃるとおりです」
広いホールを抜け観音扉が開けられ、廊下を進む。左右に飾られた絵画は自然の風景画だ。王は立ち止まり僧侶を振り返る。
「ヒエラルキーに花は咲くか」
「………」
王は切実な目で訴え、真っ直ぐと彼を見た。
「多くの国で極めて自由の許される階級というものはヒエラルキーには縛られてはおりません。この国の様に。花は自由に芽吹く花であり、そして意味を違えれば侵食されがたい孤高の花に。そして場合も変われば彼らに染められ背徳の花となりうる危険なものでございます」
王は視線を落とし目を綴じる。
「しかし、命を天秤に掛けるような国に強要を強いられては」
「抗う方法は無いのか」
「もしも受け入れ花を正しく育てるのであればそれはまた難しい事でしょう」
僧侶は一度遠くを見ると言った。
「結局階級社会に自由の花が咲くなどというのは幻想に過ぎません。それが階級と言う現実なのですから。勝手な手しか伸びないのです。あなたは王家ながらに村人を平等に扱おうとする心を持った素晴らしい統率者でございます。陛下」
この国は最下層のものはいない。王でさえ時期には畑を耕し草を取り収穫を手伝い。誰もが農民で自給自足だ。
「王は国を守らねばなりません。教会を攻められればだんだんと彼らは武力行使に来ると思われ……」
その先の扉が開かれ、颯爽と長い髪で勇ましい女が現れ歩いてきた。美しく、そして甲冑を纏っていた。
「国王。その者が教会の僧侶か」
「ああ」
彼女はここまで来ると凛と微笑み、目はきらきらと光っていた。
「私はブレアッケンデン王国女王エイレッケン三世だ。国王から話は聞いたかとは思うが、この国を占領させていただく」
張りのある声を見上げ、僧侶はどうしたものかと思った。
「それは何かの特別な理由が他にあってのこの国の場所の占領と相成るのでしょうか?」
エイレッケン女王の表情は恐いものとなりその青い目が僧侶を射抜いた。
「お前は山に宿る神を信じているか」
「山に宿る……と」
僧侶は首を傾げ、エイレッケンを見上げたままでいた。
「なかなか鋭いとは思ったがその理由には至らないようだな。安心しろ。あなた方は城の外にいる彼らがこの国を取ろうとする者たちに見えたかもしれないが、彼らの目的は危害では無い。案ずることは無いと言っておこう。我等の信仰には古来より山の神への崇拝が必須なのだ。数世紀前より引き継いだその力はあなた方の国が出来るより前に、そしてエイレッケン一世の納める時代より前のこと」
彼女は並び絵画の内の一点の前まで進み、指し示した。風景画を見ては遠い目をして言う。
「私は王位へとつく前から聞いて来た。古の崇拝を呼び戻すことをエイレッケン二世は願っていた」
彼女は冑を脇に抱えて言った。
「あなた方に願いたいことは一つ。古から我等が崇拝の地でもあったこの場所に位置した教会はすでにあなた方のものであることは分かっている。神の違いがあるというのならばそれはいえよう。われわれは人を排除する方針の崇拝だ。自然崇拝とは四季折々の神を参拝するもの。そのことに関してあなたは人を源とする宗派キリシタンのしきたりからわれわれを受け入れがたいと思う節もあろうと思うが、この地を返却していただきたい折に静かに暮らすあなた方国民を追い出すことはしない。そして相容れないならば宗派を変えろとも言わない。ただ、われわれ側には崇拝に当たる階級があることにも口出ししないでいただきたい」
彼女は肩越しに彼らを一度見ると廊下を戻っていった。城門の方向へ。
「神のいる山への崇拝になぜ彼ら騎士が必要となるのか」
この国の国王はブレアッケンデンの女王に訪ねた。城門の横にある塔の螺旋階段を上がっていくと見張り台があり、そこからは多くの山々が望める。美しい風景だ。彼らは横ばいに寝そべったり肘をつきながらその山を眺めて風に吹かれていた。
「身を護るため……とでもいおうか。何も攻撃のためではない。彼らは勧善懲悪、弱きを助け悪を征する教育を幼少期から叩きつけている精鋭部隊。見た目は恐いかもしれないが国民からも人気がある。令嬢達からは豪いもてていてね。女にはことさら優しい面々なので彼女達も骨抜きにされるのかな」
可笑しげに女王は笑い、国王を見た。
「その話はいいとして、あなたがたであの山に登ったことは無いかと思うが……」
彼女はそろりと手腕を伸ばし、山々の奥の奥、かすんだ先に見える先端の鋭い山脈を指し示した。
「まさか……ドッケンデン山脈が?」
頷くと腕を下ろし、彼を見た。涼しげな目元で。
「無謀だ。あの山は言い伝えでは百もの試練を乗り越えなければ生きて帰れないと言われている山脈だ。悪魔がすむとも言われている」
「その他の国からは悪魔と呼ばれるらしい者こそは我等が先祖の崇拝する神聖なる神」
「なぜお前達はわざわざ危険を冒してまで神を確認しに?」
「先も言った通り、われわれの崇拝には階級がある。それには試練が必要であり、その試練の内容により決められる。神に以下に近付いたことが出来たのか、そればかりではない。神に近付くことが目的なのでは無い。もっと深いところにある挑戦することで自己に打ち勝つ意味が崇拝にはある。自然の背景と驚異を自身の身にしっかりと受けながらいかにそれらを理解できるのか。理解など望まれなくても、それは元からそこにあるべくしてある物なのだから、それでも人として生まれたのならば理解しなければならないものが自然の世界。確かにそれを理解した順に与える階級は必要としないと思われるが指導する側からはそれらの区分があったほうがいい」
雲はどんどんと風によってカラスの大群が飛んでいった森の先、山々の奥にある山脈へと流れて行き雨雲へと黒く変わって行く。それはカラスが愚かな人間達が山に挑戦するためにやってこようとしていることを伝えたかのように拒む壁に思えた。
「静かに暮らすあなた方は自然を読みながら暮らしている。その心はとても素晴らしく摂理に合うものだ。人は自然世界に生きる生物を見習わなければならない。それを伝えなければならない」
「ヒエラルキーに花は咲くか……」
「え?」
彼女は国王を見た。
「先ほど僧侶と交わした会話だ。あなた方の言う崇拝上の階級にならば花は咲くのだろう」
「花……」
女王は自己で出来た影を見ると顔を上げて山脈を見た。
「私は女だ。女として国を治める上で様々な男との違いは確かにある。私が前王の願った通り自然崇拝の神を崇めることを進める事を実行し始めたことが女の観点からだというのでは困る。次期王も、その先の王も性別関係なく人として崇め続けてくれなければ」
「そのためにもこの地へ崇拝という魂を越えて再び来たと」
「ええ。あなたが言うように、花を咲かせるためでもあるのだろう」
花は咲くことを望み冬を越える……。
記憶の波
寄せては返す、そして打ち寄せる波
それは記憶に似ている
やなことあった記憶は押し寄せ繰り返されて
楽しかった思い出は引き返していってしまうもの……
また誰かの楽しい記憶の場所へと加わるために
だから
やなこと忘れてしまいたいよね
また訪れる不安のあるやなことが待つなら
夜なんか明けなきゃいいのにって思っても
日常はやってくる
その日常にも優しさが待っているから歩いていける
微笑みがあるから
あたしは誰かに微笑みを与えてあげられているだろうか?
もらってばかりの笑顔を自分から返したり与えたり
できてないから笑顔をくれるのかもしれない
寄せては返すもののように
笑顔をもらったら笑顔になれる
引き返していくもののように
哀しみも少しだけ引いていく
やなこと全て蹴りをつけなきゃならないときは
嵐の様に怒ってしまいたくなるの、わかるよ
よく分かる……
いいことのなかで生きてこれたかもしれない全てだものね
それでもめげちゃ駄目だ
頑張っているから笑顔がもらえるんだ
心を少しでも安らかに凪ぐことができたなら
また次の風が吹き揺られるときまで休んでよう
少しだけ眠ってよう
できるかもしれない
誰かに微笑みを分けること
もらってきた分だけ笑顔を返して 広げる笑顔
笑顔って愛情だから……
記憶の波を引き寄せて
いつか大切に引き寄せて
微笑もう
そして力にしよう
優しい風が包む
二人を優しい風が包む
そんな時間を、尊い時間を生きているのです
柔らかな時間がある
二人とも微笑んで
苦しみなんてもう要らないわ
涙は全て悦びのために
心はいつも貴女のほうへ
二人の身体を光りが包む
何も恐れる影は無い
彼女達に降り注ぐ互いを見下ろすときのような
幸せの影だけよ
安堵の声が聞こえる
そうっと吐いて目を開けるの
どこを見ても光りの世界
優しい風が吹く
ここは虹のかかる空がある場所
誰も彼女達を見ない
誰も彼女達に話しかけない
彼女達が許される世界
雲の上に乗って柔らかな世界をゆくの
互いが微笑む
そして同じ方向を見て
同じ方向を指差す
その先には虹
待ち焦がれていたんだよ
こうやってうれしくて涙が流れること
やっと期待してもいいんだね
ここでなら
ここでなら……
優しい蝶が云う
「お嬢さんたち
人生は一つきり
わたしは蜜を吸い上げ伴侶を見つけるまでに
青虫だったし 硬い鎧の冬虫だったり
姿をこうやって美しく変えた
貴女がたはわたし
綺麗な羽根を羽ばたかせることが出来るわたし!
美しい花の蜜を吸い上げ
愛を羽ばたき
そして舞う姿を見せておくれ
人生は一つきり
でも方法は幾万
この優しい風の吹く世界を見つけられた貴女達は
下の森で愛の泉を見つけられた彼等と同じ
その泉には虹が映り
彼等二人は片方はよろこびの涙を流して
片方はよろこびに踊っている
それが人生……
愛の人生……」
蝶は美しく花の世界を舞いながら
翻り飛んでいった
優しい風は彼女達を包む
そして
共に一つの人生を生きるために手を取り合う
寄り添いあって
頬を寄せる
そんな世界なのなら……いいのにと……以前は
思ったとおりの世界
世界……
世界……
……世界
涙がかれるほどに望んだ世界
喉が干上がるほど祈った世界
天を仰いで 雨を叫んで 二人繋いで 手を 繋いで
光の世界を願ってた
ここでなら……認められるのよ?
ここでなら……
優しい風が吹く 二人の身体に
微笑みが広がる 光と共に
黒薔薇のカラス
ほら。あの子をご覧よ。
薔薇の棘に指を刺して泣いている。
ほら。あの髪をご覧。とても乙女の光沢に思えないほど艶がある。美しいね。
空を蒼い瞳で見上げたら、カラスが飛んでいたのだとさ。それはとても孤高の態を帯びて、灰色の空を飛んでいた。
少女は薔薇の間で見回し、そして一輪を取って握り走って行った。
「わたしは罪ある女です
分かっていながらわたしは
わたしは公爵様と交わした
わたしは罪ある者です
愛情が少し欲しかったのです
この薔薇が愛でられるように
この花が美しく薫るように
一時ともしれない情熱に
身を任せたいと心の奥底で願ってた
わたしはこの身をこの薔薇のように抱かれ
惑わされ
そんな振りをして本当は
熱の視線を時に送ってしまっていた
公爵様は優しくしてくださり
罪あることをそれともせずに
美徳の一つであるように
この身体を慈しんでくださって
わたしを罪悪という背徳に甘く甘く
そしてたおやかに浸らせた
わたしは罪ある女です
公爵夫人を知りながら
そのお子様達を知りながら
なんの罪悪も目を綴じて
目を綴じて口付けを
包括を
その時
なんと可愛いのでしょう
思わずには居られずに
感情は余裕から全て一瞬剥奪されて
幸せな風を感じましたのだから
心は無心だとか
それや空虚だとか
それらの凪が現れて
ああ
わたしはどこまでも自分が情けなくも
思ったのです
わたしは愛をそれでも少し育めたらしいのです
許されないものとして
一目会ったときから
何か強烈に心動かされ
魅力的な公爵様の態にすぐに囚われてしまっていたのでしょう
分かっていても
歯止めを利かせていたのに
彼が心の弱音を見せたとき
判断力を欠いたときに
その場しのぎだったとしても
果たされてしまった関係で
いと悲しくもとても良くて
耳を染めるばかりで
この薔薇のようには美しい女ではないけれど
この花のようには魅力的な薫りはしないけれど
ああ
どうしたら愛は頬を落ち着かせて
そして平静を装えよう
あのカラスは灰色の空を一羽飛び
わたしは一人薔薇の間を走る
あのカラスはどんなことを思い
日常になにが起こり生きてるだろう
薔薇は可愛らしい
美しくて
愛しい……わたしはどんなに薔薇と違うだろう」
ドレスの裾が薔薇の棘で傷ついていく。
少女は走り、そして立ち止まって薔薇を握った手の平を見る。
はらはらと落ちていく。
カラスは羽ばたき蔓に停まって、ふと黒い薔薇をくちばしでつついた。
棘の蔓と黒い薔薇がカラスを彩る。
黒い目をあちらへ向けカラスは遠くを見つめる。濡れ烏羽根は光沢を受けた。
向こうで黒いドレスの少女が膝をついている。黒く長い髪は背から零れ落ち方は震えて、白い手腕や首筋が見えた。彼女は泣いており、薔薇に囲まれてもいた。
カラスは首をかしげてから、再び蔦伝いに棘を避けながら跳び移っていく。
大輪の黒薔薇は、どこか背徳の甘美なる薫りがする……。
それはあの少女のようだった。大人と乙女の間の少女は白い肌の頬を薔薇色にして泣いている。
あの子は何をあんなに泣き濡っているのだろう?
この心躍るような花の薫りを知らないのだろうか?
知っておれば、あんなに塞ぎこんでおらずとも身体から充たされるのに。
それでも、この薔薇はあの少女に似て思えた。
悪魔の微笑んだような唇に見えるこの薔薇が。
いいや。悪魔というよりも、背徳の美にそっと足を踏み入れかけた危うさが。
彼女がまるで魔女のように知識が高く自信が少しでもあるならば、あのようには崩れはしないのだろうが。
少女イライネ・ヘルネはそっと石の舘の廊下を急いで歩きながら今しがた摘んできた薔薇の束を抱えていた。
棘は彼女の白く出る下腕を微かに傷つけ、魅惑の紅を添えている。
「イライネお嬢様」
彼女は驚いて背を伸ばし振り返り、教育係のサンドラ夫人を見た。
「はい。ご機嫌麗しく、サンドラ夫人」
「ごきげんよう」
サンドラ夫人はイライネが三歳の頃から様々な躾や礼儀、マナーや習い事を教育してきた女性だ。
現在十五の年齢のイライネは両親の元を離れサンドラ夫人に任されともに過ごしている。
「本日は公爵様のいらっしゃいます。そのお腕の傷を隠さねばなりませんね」
「……はい」
彼女は俯き薔薇を見つめて花弁に触れた。
「公爵夫妻のため摘んで参りました。夕食の席にお飾りしてかまわないでしょうか」
恐る恐る顔を上げ、夫人を見た。
「………。ええ。かまわないでしょう」
彼女も微笑み、夫人は小さく会釈をし去って云った。
イライネは歩いていき気がはやっていた。食堂の横にあるドローイングルームを通ると、小さなドアを開けて薔薇に似合う花瓶を手にした。それに水をはり、薔薇を生けていく。
微笑んでいた。
「………」
しかし、この心はいけない。目を綴じ、息を吸い、吐いてから目を開いた。
何も無かったように接しなければ。
薔薇の花瓶をカートに乗せ、食堂へ運んでいく。テーブルセンターへ飾った。
「美しい……綺麗だわ」
イライネはあの夜のことは薔薇の内に秘められるように、そっとその場を去った。
「恋に遊ぶだけにしておけたなら
どんなに気は楽だろうか
何も見ない
何も聞かない
平静を装うことが出来たなら
星屑たちよ
わたしを笑って欲しい
あなた達はそれでもとても
とてもきよらかだから
悲しい涙を流して光っているみたいなのだと分かってる
激しく移り変わる天体に光る星
情熱をあなた方も知っているでしょう
けれどわたしの望みは叶ってしまったけれど
決して許されるべきことじゃなかった
星屑たちよ
あの夜がまだ新鮮に生きているようで
わたしはあなた方の様に透明な心に戻ろうと望む
浅はか……なんと浅はかなのかしら
わたしはどんなにか憐れな淋しい女
誰か新しい恋を見つけられるならばいいというのかしら
夜空よ
今も尚優しく包んでくれる夜空よ
あなたはとても優しいのね……
わたしには勿体の無いほどに
星は美しい
夜空は綺麗で……」
石枠のアーチを描く窓辺で、イライネは昴の星を見つめた。
ふと目覚めたイライネは、自身が白い夏の東屋にまどろんでいたことを知る。髪も白い衣も石のベンチから流れ、そして緑の蒸せる庭園を見た。水色の空には青い小鳥が駆け抜けて行き、ゆるい風が吹く。
「眠る間の夢だった……」
彼女はしばらくはゆったりと横たわり腕に頬を乗せ、緑の庭園を見つめる。
悪魔の愛
薔薇を蛇が伝い這って行く。
まるで棘など意の解さないかのように、そして頭をあげて威嚇してきた。
庭園は夜。噴水は上がらない。月は巨大でもなく、それでも明るい色を称えていた。
白い柱の先のホールは踊り子達が踊っている。ヴェールを、そして黒い髪を翻して。紅いルージュは魅惑の瞳を光らせ微笑む。
男は背に黒い羽根を背負っていた。羽毛は硬質でしっかりとしており、光沢を受けている。長く真っ直ぐな黒髪は無表情の男の顔を現し床に流れ、感情の無い瞳は灰色をしている。黒く尖った爪は先ほどから横に座る女の肌を撫でていた。
彼はこの世界の王であり、悪魔だった。彼が指を動かせば宇宙は星と共に巡りチタンの瞳を向ければ海王星、天王星、毒雲星雲などが空に現れ女達をうっとりさせる。
薔薇星雲を引き寄せそれを全て本物の薔薇の星に変えて降らせることも、金の星の全てをサファイアにして降らせることも出来た。彼はなんでも操れた。
だが、感情だけは操れない。自身のそれさえも。
愛の王ではない彼は、愛と云う観念を知らなかった。
「我等を悦ばせてくれることこそ貴方様の愛なのです」
女達は云う。
「優しく頬を撫でて頂くこと、わたくし達の舞いをご覧になることさえも愛なのです」
悪魔は涙を知らなかった。
愛は時に涙を伴い、感情をもたらすという。
ただただ彼は無感情に天体を操り、花を咲かせ、夜を生きた。女達の笑みに囲まれて。
ある時、女が佇み白い中庭の円形の水場で滑らかな水を浴びていた。水面には満天の星が映り、時々流れ星がきらめいて行く。薔薇が囲う先の美しい女は足元を越える黒い髪を濡らしていた。
男は白い柱の先に彼女を見ると、彼女の風に流れる髪を見たいと思った。それは初めての事だったのかもしれない。今までは望まれて行うことが男を動かし、女達をよろこばせた。何故だろうか。あの濡れる髪もいいのだが、夜風にそよぐ繊細な、そして柔らかな髪も再び見たいと思ったのだ。それは何時何時でも見ることは出来ることを知っていた。今のように濡れた髪の美しさは今に鏡面に如く星がうつるかと思われるほどなのに、流れたゆたう髪の見たさは、ああ……触れたいのだ。彼女に。
頬を薔薇色に染める女は現在掌から透明の水をさらさらと落とし、片腕に透明のヴェールを長く掛けカーブを描かせている。透き通ったベールの先に、庭園が広がり見える。
男は進んでいた。白い長衣を引き、庭園に来ると彼女の背後にそっと来て髪に唇を寄せた。
驚いた女はあたたかな眼差しの男を肩越しに見上げ、頬を更に染めた。まるで薔薇のような唇は本当に薔薇の花弁をどんどんと舞わせる。それも男のしたことだ。潤う瞳はまるで星を映している。ふわっと風が吹き、女の髪がなめらかに水気をなくした。
男はそっと抱き寄せ、髪に頬を寄せた。ただただ、そうして二人佇んでいた。
蛇は地を這って行き、男の足元を伝っていく。眠った男はいつでもまるで石膏のようだ。それが目を覚ますとふわっと息を吹き返し、そして美が宿った様に優雅に動き起き上がるのだ。男は愛の王では無いが、美の悪魔だった。それらを操る者だった。
生命が彼の前ではしなやかに生き愛を感じる。
女達は静かな曲を奏でていた。小夜曲は癒しであり、そして星を流れさせる魔力があった。
薔薇のサロメ
1 夜の路と夢の残滓
「アリージャ……踊りなさい」
美しい女は蛇の様な目で見つめてくる。エキゾチックなその瞳で。
闇から出ずるその魅惑の夢を歩いていく。それは決してまどろみを許しなしない、しなる鞭のような緊張感を帯びていた。
「……美しく踊るのよ。さあ、魅了の舞いを、今」
囁き。その声……。
意識を戻すと自身は冷たく固い石畳の路地に倒れていた。
まつげが綴じて開くごとに頬に当たる。白い息はゆらりと暗い夜気に上がって行き、黒く長い髪は広がっている。
アリージャは美しい顔を一度歪め、そして起き上がった。ベージュトレンチコートを払うとハイヒールで立ち上がる。骨の様に細い足はパンツに包まれ、鋭い影を地面に落とした。レトロな街路灯は感情の無い明かりを広げている。
あたりを見回すが、人っ子一人見当たらない。酔っ払った青年も、金の工面に向かう初老男も、彼と別れて泣きながら歩くような女性も、帰り道を急ぐ母子の姿も無い。ただただ暗がりが続くだけ。
「酔いすぎたのよ……」
それを少しずつ思い出して、髪を整える。バーで飲んでいた。一人だったけれど、声を掛けられてしばらく男と二人で飲みながらも会話を続けていた。内容はクラシックの事やダンスのこと。しばらくして別れて、バーを出た。その後はふらふらしてそこから記憶は無い。
アリージャはダンサーだった。少女の頃、ロシアからこのイタリアにやってきた。いつもは母国で、誰もいない路地裏で一目を気にしながら踊ってきた。人に見られることが無いように。
なぜなら、毎日夢を見てアリージャは踊らされていたからだった。暗がりに誰か分からない瞳で見つめられ、踊るように言われて。それでも上手に踊れなければ責められ練習を余儀なくされた。踊りの下手な子と烙印を捺され、その夢を恐れて一人練習を続けた。正体の分からない夢の女性は、まるで蛇のようだった。
十五歳で家族と共にイタリアに移住した彼女は、あの夢を見ることが少なくなった。授業ではダンスがあり、踊らなければならない時にアリージャは恐れた。人の目や言葉を。だが、夢の師に鍛え上げられた彼女の踊りは実に素晴らしいまでに成長していたのだ。絶賛されて高校の部のダンス予選に出てはどうかと教師から薦められた程だった。
その日の夜、悪夢は再びやってきた。激しく踊り狂う女性。まるで剣を光らせるかの様に。踊りだけで切りつけられるのではないかと思うほど怖かった。まだ自分はダンスが上手ではないのだと言ってくるかの様だった。コンクールは断った。それでもダンス部の女生徒達はアリージャにクラブに入ることを薦めてきて、彼女は断るのは諦めて入部した。夢を忘れたくて踊り続け、夢の女性に追い着きたくて踊り続けた。
名前を教えてと叫ぶ夜もあった。あなたは誰なの? と怒鳴るほどの夢もあった。それでも彼女は妖艶に踊り微笑しては教えてくれない。闇に、消えてゆく……。
鍛えられた彼女の踊りは将来を有望視させ、そして独特なそのダンスは人を魅了した。
小さな頃から見続けた夢の女性を当初は憧れていた。目覚めるとベッドから飛び降りてるんるんと微笑み踊って彼女を真似てきた。それでも母や父に夢のお友達のことを知らせることは無かった。秘密のお友達と思っていたから。
夢のダンサーは幼いアリージャに踊りを魅せ、彼女をだんだんとダンサーにした。
高校を卒業するとアリージャは本格的なダンス学校に入った。一時スペインに留学していた時期もあった。プロになるとスペインに渡ったが、そのうちイタリアに戻ってきたのだった。
彼女は時々夢を見ると、酒を飲むようになっていた。
今は誰もいない路地裏を歩き、部屋へ帰る。ハイヒールの音だけ響いた。
コツン、コツン、コツン
シャン、シャララン……
「!」
アリージャは驚いて肩越しに振り返った。
シャン……
それは鈴の音だった。あの音。夢の踊り子が足につけているから聴き馴染んだ悪魔の音……。ここは現の世界。逃れるようにアリージャは走って行った。
階段を駆け上がっていき、部屋の鍵を開けて明かりをつけると頭を抱えてしばらく床を見つめる。
「気のせいよ……夢の踊り子が現実に出てくるはずない」
言い聞かせて早足で奥へ進んだ。
2 舞台上の白昼夢
薔薇。薔薇、薔薇……ふりしきる、薔薇。
舞台上、スポットライトを見上げて薔薇の花が落ちてくる。
「………」
それは、夢にシンクロした。あの薔薇舞う夢……乱舞するダンサー。
昨日、夢を見た。
酒屋から帰って一人寝床に入り、深い眠りへすぐに誘われたけれど夢の扉は開かれた。薔薇を抱えて舞わせて踊る夢の踊り子。「薔薇の女王」はアリージャの夢でその女性が踊る演目だった。他にも「剣の舞い」「蛇の毒」「ハープの旋律に酔いしれて」「百合の薫りを伝い」など、それらの演目がどこから浮かんだのか、女性は踊るのだ。どれもアリージャが習得できていない踊りばかりで、夢での鮮明なそれらの振り付けが現実ではどうも掴めなくて踊ることが出来ない。
視界が白くなっていく……。
「アリージャ!」
はっと目を覚ますと、舞台の床に薔薇が降り積もっていた。自分は屈んでいて髪が床にうねっている。ほかのダンサー達が現れ、顔を覗き込んできた。
「大丈夫? いきなり倒れたわ」
「ええ……ごめんなさい」
最後のポーズで片腕を掲げて天を仰ぎ、天井から薔薇が降ってくるのだが、自分は夢の薔薇の女王を思い出し完全に固まってスポットライトを見続けていたらしいのだ。くらくらする頭を抑えて顔を上げる。
「!」
リハーサルのギャラリーに座っている……夢の踊り子。
目をぎゅっと綴じて開くといなくなっていた。
「休んでいたほうがいいわ」
「ありがとう」
きっと、昨日は飲みすぎたのだ。
今期の公演を済ませれば次のダンスの練習に入る。どんなに踊っても、公演を終えてもアリージャの心は満たされることは無かった。もっと上手に、もっと上達しなければと思うばかりだった。どんなに現実で彼女が認められても夢ではあの踊り子に追い着かない……。焦りと共に訪れる不安。夢に踊らされて、酒に溺れて、無我夢中で練習をして、今にまともでいられなくなるかもしれない。
腕をさすりながら目を綴じた。
「どうぞ。飲んで」
顔を上げると、マグカップを渡された。
「まあ、申し訳ないわ。ありがとう」
「気にしないで。さ、落ち着いて」
「ええ」
向こうから先生がやって来ていた。彼女は背を伸ばす。仲間のダンサーは肩に手を当て元気付けてから舞台に戻っていった。
「あなた、何か考え事や悩みでも? 次の演目でもあなたを主演にするつもりだけれど、状態が不安なようね」
鋭い顔立ちの先生が射抜くように見てくる。繊細な顔立ちはそれでもどこか優しさを持っている。
「いいえ。大丈夫です。ごめんなさい」
公演時に飲みに行くべきではないと分かっていたのだ。それでも耐えられなかった。自己管理が出来てないなんて。
「しばらくは休んでらっしゃい」
「はい」
3 サロメの演目
ダンス教室で皆が集められた。
先生は皆の顔を順繰りに見ると、鋭いレッドジュールの唇を開いた。
「次回の演目は『サロメ』よ。ご存知の通り、オスカー・ワイルド作の舞台でも踊られる『七枚のヴェールの踊り』を主にしてね」
今までそれらの演目がこのダンス教室で踊られたことは無かった。創作ダンスが主だったからだ。
「もちろん踊り自体はこちらで独自に創作をします。主演は昨日も本人には伝えたけれど、アリージャ。あなたよ」
アリージャを見ると皆に言った。
誰もがアリージャを見た。
だが、アリージャ自身は真っ青は顔をしていた。ロシア生まれなので元々が彼女は抜けるような白さを持って生まれたし、イタリアっ子たちの様にはテラコッタに焼けようと思ったりしない。あまり日焼けすると肌を真っ赤に痛くする性質でもあった。その彼女が調子がやはり優れないのか、青くなっているので誰もが驚いた。普段から完ぺき主義者で最後まで居残って練習をするし日曜にまで教室に一人やってきて踊り明かしている人だ。と思えば酒場近くで見かけると別人かの様に酔いつぶれている。
「アリージャ?」
「あ、ええ」
我に返ったアリージャは皆と先生を見て、こくりと頷いた。
昼、一人丸い窓から街並を見つめていた。
「………」
「アリージャ」
先生の声に振り返り、丸い窓枠に座っていた彼女は顔を向けた。
「無理なら、無理と言っていいわ」
彼女は首を横に振り、まだ冷たいままの顔で俯いて顔を上げた。
「いいえ。これは、きっと適役なのだと思います。サロメこそが……私が踊りたいものだったのよ」
腕を抱えうなだれ、目を綴じる。
夢の踊り子、それはサロメだったのだわ。きっと、彼女は。
何故かなんてそれは愚問なのだと、アリージャはまぶたをそっと開いた。
憧れ続けた夢の女性。妖艶で、奔放にして、そして女という塊の全てを持っていて、全てを絶している。彼女の、アリージャだけの美しい悪魔だった。
それを、自分が実現できるというの? 踊れたためしなど無い「薔薇の女王」も「ハープの旋律に酔いしれて」も、他の演目も……。アリージャはその夢で授かった演目を創作ダンスの教室で提案したことは無い。夢の内の秘密としてまだ大切にしていたいし、それに自身が毎日人知れず練習をしていても今だ習得できていないのだから。
「先生、わたし、踊りきってみせます」
細い手を硬く握り、震えるほど強い囁き声で言った。
4 そして舞へと堕ちて行く
サロメの「七つのヴェールのダンス」は威厳のダンスであり、魅了のダンスであり、情熱と威嚇のダンスだ。魔性の女、ファム・ファタール……男の運命を狂わせた女の踊り。最後には自身の命さえも翻弄され愛に死んだ女の魂。愛を、生首を、男の忠誠を欲し、裏切られもして、謀られた。愛に狂った少女の踊り。無垢すぎた少女の。
アリージャは夢の淵を彷徨っていた。闇しかない。ただただ。
「!」
いきなりの事に腕を見た。蛇が瞬時に絡み付いていて、彼女は叫んでまた足元を見た。蛇が巻きついている。そしてだんだんと締め上げていき、自由な足を動かすとシャラン、と音が揺れた。
「………」
腕に絡みつく蛇、首に巻きつき舌を出し見てくる。足を締め付ける蛇、足首をそろりと見下ろすと、足首に鈴……。蛇を途端に払って激しい弦のかき鳴らされる音と共にヴェールに気づいた。指の付け根からひらりと弧を描き翻ったヴェール。降りしきった薔薇……、闇に、いる自分。
「………」
視線の先に、彼女がいた。上目で微笑んでいる。
体が勝手に踊っていた。激しい踊りを。ヴェールを返し、薔薇の床を旋回し、蛇を巻きつけ回転し踊る。
シャンシャンシャン、シャラン……
どこからなの? 吹き鳴らされる笛、そして民族楽器、鈴の音、足が全く止まらない。自分の意思では停まらない。視線の先の彼女は微笑んでいた。蛇はアリージャの腕を噛み、足を噛んで、それでも停まることができずに踊り続ける。何がために? 自分はサロメではない。愛に踊る彼女では無い。首を欲するがためにヘロデ王の前で踊った自分では……彼女は、夢の踊り子はサロメではないのか? 彼女の母ヘロデイアなのか……いつの間にか彼女は気絶していた。鼻腔に薔薇の薫りが迫るだけ。
いいえ。彼女は、サロメに違いない……。
<章=5 囚われた夢彷徨い人>
「だって、自我が無いって言うのよ……」
「あんなに毎日踊っていたからじゃないかしら」
教室のダンサー達は口々にアリージャのことを言った。
彼女は現在、まるで日々を取り憑かれたかのように踊り狂っていた。何時間も踊り続け、倒れるように止んでは誰かが倒れた彼女に食事をさせベッドに運び、そしてまた目覚めれば狂ったように踊り続ける。自我などは無く、ただただ話すことも無く何時間も踊り続けて倒れるまで踊り続ける。そして死んだように眠っては目覚めて踊り……。
その踊る彼女は、恐ろしいほどに美しかった。
近寄りがたいその姿は畏怖さえ覚え、そしてまるで見たことも無い程に超絶技法な舞いを魅せるのだ。
それは、夢で見た全ての二十五あるあの演目だった。そして全ての踊りはどんどん生み出された。
薔薇の様に踊り、誰をも魅了する……。
「舞いの悪魔に魅せられたのね……」
アリージャは踊り続ける。
夢との境を失って。
アリージャは夢で踊り続けていた。意識など現実には無かった。自身はあの女性になっていた。夢で踊り続ける。そして闇の先に怯えた小さな目がある。その少女の目はじっと自身を見つめ、震えていた。あなたも踊るのよと心は叫ぶ。このように踊り狂うのよと。
古来の記憶は流離って悠久を越え現世へとやってくる。わずかに残る、芸術の海で溺れ流れてきた魂。踊り子の魂。国で踊る懐かしい姿の自分。母ヘロデイアを前に、血の繋がらない父ヘロデ王を前に、兵士達を前に、あの不可解な預言者の男の声を聴きながら、エキゾチックに舞った姿。あの遠い昔に踊った七つのヴェールの踊り。その魂は少女たちの夢を辿って彷徨ってきた。
漂流する魂は彼女たちの夢に引っかかって、彼女たちによって踊り継がれていく。もしも人目に触れなければ一生少女は心に留め自分しか知りえない踊りとなり、夢でいつしか踊り狂う。……サロメの魂が。
サロメから受け継がれた魂が宿ったダンスは新たな幼い少女の夢に現れ魅了し恐怖に落とし始めた。
アリージャはサロメとなって踊り続ける。女の子の夢に現れ、サロメの魂を受け継がせようと、かの幻の踊りを……。
闇の占める夢に現れる五才の女の子、コンスタンサは一時も目をそらさなかった。いつまでも見続ける。夢の踊り子を。元はアリージャという名だった女性サロメを。彼女が朝に目覚めて、優しくも白い陽に包まれるまで。
薔薇……。折り重なる花弁の芳しい薔薇。それはめくるめく願望と欲望、あくなき至上への精神の折り重なったような。その薔薇のなかでひっそりと眠る踊り子の魂を呼び覚ます……。薔薇のように舞わせるために。
幽玄の女
一
それは幽玄な女だった。美しい目元はいつも哀しげで、閉ざされた口元は儚げだ。ゆらりと、まるで今にも消えてゆく幽霊の態で。線の細い繊細な顔立ちをしたその女は世を嫌っているのか、それとも憐れんでいるのか、息さえもすることを半ば拒みたく思っているのか、存在が不思議な空気に包まれている気がして。
障子からは月の明かりが染みている。蒼く鮮明に。蝋燭などは要らないほどだ。真っ黒い陰は畳にも伸びており、ゆっくりと姿勢を変え、流れた髪は一瞬女を艶やかに、優美にした。そろりと腕が伸びると髪をかきあげ、そしてだらんと落ちては力尽きてこうべを垂れる風情が、椿の花に似ている。
浮世絵師はその女の姿を和紙に筆に走らせていた。何枚もそれを描き、一番に美しい女の姿を映し出せとの主からの命令だった。主というのはこの女の主人であり、浮世絵師の依頼人だ。
病弱な態の女は背を上に腕に口元を埋め、こちらを見ては咳をして顔を見えなくした。器官でも弱いのか、時に苦しげにうなだれる。どんな態でも見逃せないほどの美しさを醸すのだからどうしようもない。
まるで妖魔の様な女。あまりにも白い肌は陽を知らない。実際、女は夜も明ける前に屋敷の奥へと連れて行かれるのだから。もしかしたら昼の光りを知らずに、月光や蝋燭の明かり以外を見たことが無いのではないだろうかと思わせる。
浮世絵師のまだ若い男は息を呑み、心を偽りつつも筆を走らせる。和紙につっと墨を垂らすごとに描かれていく女はまるで和紙の上では魂をどんどんと宿っていくかのように魔性を覗かせるのだ。危険だ、と、男は思う。女の美貌に雁字搦めにされていくのがよく分かる。もしも、自分が日本画家だとしたら自分の魂を持っていかれるのではないかと恐れた。現に、以前彼女の絵を描くように依頼された日本画家は去年の冬に気を狂わせでもしたのか、夜道に一人倒れていた。真っ白い雪は彼の回りを顔料で染められていて、それらは群青の夜で横たわる彼女を囲った日本画と同じ顔料だった。その縦軸と同じく、群青に囲われ絶えていたのだ。
その日本画家は女に魅せられた結果、手を出しかけたらしい。それを見張り役の下男に阻止されなければ主様の囲っている彼女は手を染められていたかもしれない。それが原因で夜道を襲われたのではとも言われていた。
だが見ろ。青いほどに白い、まるで妖狐の様に美しい女の姿は限りない絶壁を彼女と浮世絵師の間に心の内に作っているというものを、今にも手に触れてしまいたくなるほどだ。陰と影ですらも触れさせたいほどだった。
しかし、実感の無い。
昼に女を見たことは無い。夜にしか現れない。屋敷の奥に幽閉でもされているのか、近くの人間でさえ彼女の存在は知る人ぞ知る程度の籠の鳥だった。
まさか、この女は幽霊なのか。ともいぶかしんだ。主は幽霊でも愛して匿っているのかと。分からない。
咳を一つ、二つする。それごとに現実に引き戻され、可笑しな疑いを晴れさせる。
男は筆を一時置くと、息をついてから女を見た。名前も知らされてはいない女を。
「さあ。今宵はここまでとして、どうぞゆっくりなさるといい」
女は頷き、姿勢をまた変えた。
男は早々に立ち上がり、静かに歩いていくと廊下へ出る襖を開けた。
「お茶をいただこうかな」
廊下に座る下男が頭を下げ暗がりの廊下を歩いていった。その向こうに灯篭が灯っている。
男は振り返ると、机と座布団のところへ戻った。女は目を綴じている。
机の上の和紙には女が描かれ、畳の上には数枚。硯の墨は今だ黒々として女を描きたがる生き血のようだ。筆は今は感情も無いかのように転がっている。
ちらりと女を見る。
「………」
あの主から奪ってしまいたい。何度も思うことだ。呼ばれて屋敷へ来て、通された間にいた彼女を見た瞬間から。
その時、彼女は黒と白の縦縞に立派に青紫のリンドウが描かれた着物を召していた。黒に刺繍の帯を締め、長い髪は片方に流され変わった形に編まれていた。白く細い手は白粉かと見まごうほどだった。鋭い眼差しは真っ直ぐ男を見据え、細い顔立ちは艶の黒い瞳をしていた。床の間に生けられた花を背後に正座をするその姿は何かにとりつかれたかのようだった。横に座る主は強欲な男などでは無かった。教養のある知識然とした男であり、静かな態の男であり、南蛮の渡来品を扱っていた。
だが、その美丈夫な女の態はその日だけだった。それもあまりの気の張り詰めようで恐くなっていただけで、緊張も解ければ立ちくらみを起こして主に支えられた。いくら主が静かな態の男とはいえ、浮世絵師さえ知っていた。実はたいそうな剣豪であり恐ろしいほどの冷静な鬼になりうる程の静寂の雰囲気を持つ。やはり、主には一切の隙などが見られなかった。下男も腕に覚えがあれば主もやはりそれ以上で、女は守られているのだ。
「先生。お茶でございます」
夜間は物を食べないので、当初共に持ち込まれた甘味は女のものだけだ。
「今の時期だけですから、茶に柚子を浮かばせました」
「風流だ」
男は感謝し、女も体を起こさせた。
女の声を聴いたことは男には無かった。咳は聴けど、話した事すらない。声を掛けても頷くだけだ。だが、もしも歌えばさぞ美しいことだろうとは思う。
二
なだらかな項から肩にかけての白い肌は、珍しく結い上げられた女の髪の陰が降りていた。いつもは白い襦袢姿だが、友禅を纏った女の美しさたるや言葉も出ない。なかば着崩されて黒字に金の帯は波の様に棚引き白足袋は揃えられている。肘掛に両下腕をしなだれて肩越しに視線を落とす姿は実にそそった。紅を差された口許は今にも泣きそうだ。
何度、美しいと口に出しかけただろうか。それでもその日は主が腕を静かに組み座って彼らを見ていた。黙々と男は女を凝視し、描いていく。もしも主がいなければ自制が利いたかどうかさえ分からない。
主は女を慈しむのだろうか? 分からない。
その日は襖に囲まれた場所だった。絢爛な襖絵が描かれている。女の横に一対、南蛮渡来のカラクリ時計が置かれている。足元にはビードロも二つ、一つは転がり、一つは置かれていた。
意外に屋敷には主が卸している南蛮渡来のものはあまり見かけない。変わった趣向のものではあるが、日本の寝殿造りにもよく似合う。
染料を細かく下絵に記していくと、顔を上げて一息をついた。
部屋の四隅に蝋燭が灯されている。和紙が末広の筒型に明かりを囲っている。
「今回、話があります」
男は主を振り返った。先ほどと変わらないままの姿で主は正座をしており、男は体を向けた。
「こちらへ」
「はい」
主について歩いていく。一度主は襖の前で肩越しに女を見た。その後、男は歩いていく。廊下を進んでいった。
他の間に来ると、座布団が用意されており促されそれぞれが向き合う形で座った。
「あなたは彼女の何かには気づかれたか」
「……はて」
まさか幽霊か妖魔か何かなのかというわけにもいかない。
「青い炎の様な空気……」
「え?」
浮世絵師は首を傾げて主を見た。
「日本画家は以前、彼女の体をうっすらと覆う青い炎のようなものを見たと言っていた。置き鏡を横たわり見つめる姿を描かせていたのだが……」
男は蒼い月光に照らされていた女を思い浮かべていた。それは障子から満遍なく染みこんでいた明かりで畳にも降りていた。神秘的なあの姿を思い出すと、どこかあまりのことにぞっとするほどだ。
男はうっとりと目を開き、気を取り直して言った。
「いいや。奥方はまさか鬼でもあるまい」
「鬼……か。ははは。それはまた」
主が珍しく笑い、首を横に振った。
「よもや我が妻がよく分からなくなる事もある。時に覗かせる目は、刀を振るものは判る何かがある。闇と月光の間に潜むかのような……」
「昨年、冬に日本画家が夜路に倒れたようですね」
主の顔がいつもの無表情に戻った。
「あれは実に残念だった」
それだけを言い、遠くを見ただけだった。
屏風の先から帯が掛けられた。それは紅色の帯であり、向こうからは蝋燭の明かりが広がっている。黒塗りの間柱や銀箔の壁にもその灯りは反射している。屏風は数匹の黒い仔猫と孔雀であり、松が見事で苔むす岩の間をせせらぎが蛇行している。なので、まるで帯が突然訪れた夕闇かの様に濃い茜を射したようだ。ゆらゆらと幕の様に広がる灯火色の夕陽を背後に。
それほどにこちらの空間は薄暗くなり、屏風の先へと心が連れ去られた。
浮世絵師は固唾を呑んでいた。
「いや。こちらの方が良い……お前にはよく」
落ち着き払った主の声がする。しゅるしゅるという着物の着付けられていく音が先ほどから響いていた。黒い帯が次に斜めに掛けられ、さっと群青に金雲の模様の友禅が屏風の上部に舞って見えなくなった。まるで一瞬蝶が舞ったかのように。
男は耐え切れずに正座の膝に俯き現実逃避を試みた。美しく着付けられていくのだとう女。あの主の手に寄って帯や袷や簪など、装飾されていくのだ。女のそんなときの姿が見たい。整う前の姿も、その時どんな表情をしているのかも。
ふと横を見る。
筆が漆の箱に何本も揃っている。それの一本が錐に見えた。
「………」
愚かな考えは感情を盲目にさせる。筆箱の底に刃物を仕込むなどと。主からあの美貌の女を奪ってしまいたい。
顔を上げると、困惑して男は現れた女を見た。横には主が佇み、その瞬間強い敵意が芽生えた。完璧な主は幽玄の女を所有し、浮世絵にしろという。
長く尾を引く髪はまるで黒い大蛇のようだった。彼女は微笑みを称えていた。それは妖しげな程に男の冷静さを失わせた。女には男を狂わせる何かがある。
「お待たせを。さあ、夕餉に御呼ばれを」
この日の夜は屋敷に数名が集った食事の会が開かれる。浮世絵師も呼ばれ、女の表情が見れると思った。
食事の間に呼ばれ、近くの庄屋の主や奥方、それに琴の先生や花道家元がいる。
「お待たせをしたね」
客人たちには既に余興を行う者達が日本舞踊を魅せていた。彼女たちは引いていき、彼らも席に着く。
柚子と三つ葉を浮かばせた蕪の澄し汁や、ショウガの乗る白だしの白身魚のつみれ、紅葉や扇子の生麩が添えられた肉の西京焼など、赤漆の器に美しく料理が楚々と咲いていた。菊の花弁が添えられた枝豆の豆腐や鶏のにこごりなども美味だった。
酒が酌まれ、それが進む。女は主の横で皆の話を静かに聴いていた。杯を美しく傾けると、頬がそっと染まった。だが二口傾けたのみでその後飲まなかった。浮世絵師は花の浮世絵も頼まれた折に顔なじみの花道家元との話もしながらも声を、女の声を聴きたいと羨望した。彼女の艶の瞳は蝋燭に揺れる。友禅の金糸も、主が傾ける杯の酒にも。
三
浮世絵師は闇に蝋燭が揺れていることに気づいた。
いきなり手首を強く掴まれたことで顔を上げ、意識を戻したのだ。
目の前には闇に浮く、恐ろしくきつい顔の主があの冷徹な瞳を蝋燭に揺らめかせており、まるで妖魔のようだった。
視線を向けると女がいた。白く浮かんで、まるで今にも消え入るようだった。ふっと主によって蝋燭が吹き消されると、今気づいた左右の障子からの灰色の月光が射した。そこは目が慣れると床の間で、鏡台と生けられた花の他は何も無い。どうやら酒に酔った自分は女の床へ来てしまったようなのだ。
困惑して静かに俯く女は白い襦袢を崩していた。まるでこうべの落ちた椿の様にうなだれている。
銀に何かが光り、ぞっとして女から主の腰元からぬらりと抜かれた小刀を見た。
「主様、わたくしに免じてお許しください」
その意外に低く落ち着き払った声は女のもので、一つ、二つ咳をした。
「わたくしは彼に是非ともかきあげて貰いたく思うのです」
主の静かだが底の無い程深い殺気は鋭く男を射抜くままに見ていた。銀に鈍く光る刃は鞘に収められ、手首を掴む手は緩んだ。浮世絵師はその事で手元から筆が落ち、墨を伴って女や白い絹に黒い斑点が落ちた。周りをそこで見下ろすと、何枚もの和紙が散らばっていた。それらには女が美しく描かれていた。どれもが魂が宿ったかのような、どこか生きて喋りだしそうな不可解なものも感じる。
痛みで肩を抑えると、檻に閉じ込められて下男を見た。肩を越す程度の長い髪をかきあげると姿勢を正した。
下男は血気盛んな目をして錠をかけた。頑丈な檻は寒々しくてくしゃみをするとぼんっと獣の毛皮が投げ込まれた。
「風邪でも引かれたら奥方に移る」
「かたじけない……」
毛皮に包まって裸足の冷たい足を引き寄せた。石に囲まれたその場所は檻の向こうに蝋燭の灯る床の間がある。変わった花が生けられており、背を向けた主の背が見える。なにやら書をしたためているようで、羽根でそれをすらすらと書いていた。その横に長い間口は左右を美しい帯が下がって装飾されており、南蛮灯篭が下がっていてこの国の芸術と交じり合っている。
この檻にも浮世絵が出来上がるまでの工程に必要な、下絵の数々と板、彫刻等、染料や顔料壺や筆、新しい和紙、馬簾が大き目の漆の箱に用意されている。
何やらある字は一人書を確認するように声に出し読んでいるが、何語かはわからずに南蛮の言葉と思われた。特徴的な語尾を使っている。たしか主は阿蘭陀や西班牙という国から渡ってきた品物を扱っているらしい。浮世絵師は出島には行った事は無かった。
何やらそれを折っていくと封に入れた。
静かに立ち上がると主は横目で男を見た。自室の横に檻を設えているような人物だとは思いも寄らなかったが、この屋敷はどこか独特な雰囲気が拭い去れない。
「あなたも付き合うといい。その場にいても退屈だろう」
その言葉に下男は檻の鍵を開け、浮世絵師は出た。主は踵を返し下男に文を渡すと歩いていった。男も歩いた。襖を開けると、そこは暗がりだった。床は板張りで、広い。どちらにしろ石床も板床も薄ら寒かった。
「お相手をして頂こうか。先生に竹刀を」
まさか暇しのぎや日々行われるだろう主や下男の鍛錬に付き合わされるとも思わずに浮世絵師は口を閉ざした。主の部屋から漏れる明かりだけが伸び、その奥は闇がこずんでいる。主は竹刀を構え、氷の様な視線で真っ直ぐ見てくる。途端に恐ろしいほど無言の気迫でダッと迫って来た。避けることなど出来るはずも無く途端に打ち負かされていた。
「少しは訓練の足しになるかと思ったが……これでよく我が妻を浚ったものだ」
酒の宴は深まった頃には覚えてはいない。声が遠のいていった。
翌朝、気絶が助かってか深夜の寒さも感じることも無く目を覚ました。牢屋は朝の陽が降りている。横に細長い窓があった。箱は開けられたまま、彫刻刀の刃が光っている。牢屋の先を見るが、主はいない。床の間は違う場所にあるのだろう。道場のある左の間とは逆にある襖側から声が聞こえた。それは小唄であり、声は主のものだった。
「人と契るなら
薄く契りて末まで遂げよ
もみぢ葉を見よ 薄きが散るか
濃きが先ず散るものに候
そじゃないか」
浮世絵師はその声に襖を見ているが、戸が引かれて主を見た。
「これは起きられましたか」
襦袢姿で男に気づき、上に着物を羽織った。悔しいが風流のあるのは主も同じであり、どんな時でも様になる雅な男だ。浮世絵師としては女と主を花のなる木の下に座らせ共に夫婦仲を描きたくなるほどだった。
「朝餉を用意させますので」
男が書院造の明り取りに設えられた昨日の机の上に置かれたものを手にした。リンという音が響くと、下男が障子を開けた。朝餉を用意するように申し付けられた彼は頷き引いていった。
「妻は日のある内は不在と思っていただきたい」
浮世絵師は相槌を打ち、すぐに朝餉が運ばれてきた。先ほどから無意識に手にしている彫刻刀を見て主は口許に指を当て笑み、身を返し歩いていった。
「本日は先生の着替えを弟子の方にお持ちいただいた。晩には布団も運ばせるので」
背は廊下を進んでいく。下男は背後を歩いており、男は頷いた。きっと根をつめて描かせたいと言ったのだろう。昨夜叩き打ちされた手前では檻から出してもらいたい言いづらい。朝餉も済めば戻されるのだろうが、何故檻などあったのだろうか……。
浮世絵師から見たら、この夫婦自体が只者ではないのかもしれないといぶかしんだ。
格子の向こうで主は横になり巻物を読んでいた。遠目からでもそれらは南蛮の工芸品が細密に描かれ文字で記された巻物であり、興味がそそられていた。
「それはどの南蛮渡来の工芸品の巻物で」
「葡萄牙だ。次の機会に仕入れようと思ってね」
「私も拝見したいのだが」
しばらく主は黙って男を見たが、下男に錠を開けさせた。
「拝借します」
浮世絵以外にも師に習って様々な技法の絵を得意とする男だが、どれも目新しい。あまりにじっくりと見ているので主は微笑しほかの巻物を出した。
「南の海を渡って来るこの者達が描いた変わったものもある。小さな島の髪が縮れた黒人や、海で見た魚や変わった動物の絵、花や木など。それに向こうの女の絵もある」
畳に遠くまで広げられたそれを見て、男はじかにまじまじと見た。
「凄いものだ。見たことも無い」
「雲風殿」
庭園は紅葉しておりさざれ石が今に夕陽に染まるだろう。
「下手を考えるといけない」
「………」
四
夜は冷え込む。雪でも降るのではないだろうかと思われた。長襦袢の上に丹前を着て首に巻き物をし、羽織の肩から毛皮を掛けて消し炭股引の足元は厚手の足袋を履いた。総髪撫付の髪を整えると、ようやく落ち着いて袂に腕を入れ正座をした。御座が敷かれ座布団が置かれている。
向こうの畳に、女がいた。彼女は鬢付け髪をした髷を尾長に下ろしている。背から腰元、床に掛けて黒く流れるその髷髪は幽玄の態である。ゆったりと着流した着物の裾尾を引き佇んでいた。背後の開けられた障子は夜の庭園が広がる。
彼女を見ながら男は筆を走らせた。だんだんとそれはとりつかれたかのように。懇々と。そして板を置くと、彫刻刀を構え一気に彫りはじめた。魂を吹き込むように。寒さなどいつの間にか忘れ一身に。
庭園はその先に月が消えて行き天の川が流れ始め、繊細にして圧巻させられる天を背に女が佇む。息さえもすることを躊躇われるほどに彫り進めて行く。不動の女は息さえ聞こえず、本物なのかそれとも器なのか、不確かなほどだった。瞳は真っ直ぐ男を見てはそれでも弱弱しい。風が吹き始め、ゆらゆらと垂らした髷が揺れている。頬を撫で、着物を撫でて。それは冬も間近な薫りを乗せて男の下にもやってきた。
「………」
男は目を見開き女を見て、ゆらゆらと彼女の体の周りを包んで揺らめく青い、美しい炎の様なものを見た。それは深い深い青であり、まるで昼下がりに主に見せて貰った南の海とはまた違う神秘の色で、彼女の横には六連星が光っていた。上品に。気のせいか、男は目をこすって再び見た。
女の漆黒の瞳に吸い寄せられる……まるで万物の秘を閉じ込められているかのように。悲哀の瞳が真っ直ぐ見ていた。
その瞬間に男は我を忘れて彫っていた。
主が朝方、牢屋の前に来ると男は倒れていた。
「………」
下男を呼び、錠を開けさせる。
周りには彫刻刀と碧の染料が広がり男を囲っている。そして、あの時の様にやはり美しい何枚もの浮世絵が完成された形で石の壁に貼り付けられていた。どれもが恐ろしいほどに妖美である。それは日本画家が縦軸を何枚も完成させ壁を埋め尽くさせ、突然夜に飛び出し翌日に青に包まれ雪の上見つかったときと同じだった。
下男が頬を乱暴に叩き、まだ息があることを確認した。
「うぐ、」
男が目を開くと主と下男が見てきていた。頭痛がして頭を抱える。
「昨晩、気が触れてぶちまけた……」
小さく言いながら顔を歪め、しっかり起き上がった。あれは一体化したいという何がしかの危ない感情だった。あの青い炎、女の全てを手に入れたいと思った瞬間、視野が青に包まれた。何があったかは分からない。何にも形容しがたい深い悲しみが押し迫り混乱をきたしたのだ。
男は壁に貼り付けにされた絵から主を見た。まるでそれはこの屋敷に雁字搦めに、その名の通り磔にされた女かの様に彼を取り巻きぐるぐる回って混乱させる。
「奥方を解放してあげてはどうか」
主の顔が無表情になり、こんこん、と奥の襖から咳が聞こえた。
どこか近くの場所にいたのだ。昼のひと目にも触れさせないところに。
「絵が完成したのだ。感謝をするよ」
主は踵を返し歩いていき、牢屋を見回した。
『青い炎』と日本画家は言っていた。だがその青い炎を纏う女の縦軸はその時も無かった。最後の夜、妻は白の襦袢を纏っていた。それは日本画家がさせた事だった。青が際立つからと。
「最後の絵はどこにある」
主は振り返り、浮世絵師を見た。青の顔料に囲まれる男を。
「それは……」
コホコホという咳が響いた。
男はそちらの襖と主を交互に見ては、口を閉ざした。この屋敷はあの正体の分からない女を囲っている。何か遥かな力でもあるのだろうか、それを抑えられているかのようで、主はそれを知っているのか、分からなく大切に娶っているのか。
魅力的だった青の色の海。巻物に描かれていた。あの色は女の体を包んでいた青の色と似ていた。南の海を渡って南蛮から来たという渡来者達。
「奥方はどこの御仁なのか」
「この国の者だ」
聴かれることを避けるように再び歩いていき牢屋から出て行った。
「南蛮から来た何かの呪いではなかろうか。青い炎を確かに見た。美しくも濃いものを。女は何かが憑いているに違いない。まるで青の海から取った染料の様な石の神が宿っているに違いない。海に帰りたがっているのだ、あなた様が私に見せたあの美しい海に、魂は」
錠がガシャンと掛けられ、格子先の主の横顔を見た。
「違いますか」
主は青に囲まれ、そして美しい妻の絵に囲まれた浮世絵師の青年を見下ろした。涼しげな顔をした青年で、切り揃えられた髪が今は乱れている。目元だけは強い光りを帯びて風袋は年齢よりも落ち着いて見える。今は青ざめて見上げてきていた。
「サフィーロとアグワマリーナという南蛮渡来の石がある。深い青と澄んだ水色の石だ。それは装飾された工芸品として私の手元に渡ってきた。銀の櫛として」
「それを奥方に……?」
「あの櫛で妻の髪を梳くごとに、彼女はどんどんと変わって行った」
主は歩いていくと机の引き出しから何かを出した。それは封のされたものであり、彼はそれを広げる。
「訳せばこうしたためられている。西班牙で百年続く名家で令嬢に伝えられてきたサフィーロとアグワマリーナ、オニクスの銀櫛は所持するものに大いなる美貌を約束されてきた。それは黒の髪がきよらかな白髪となって後も梳かれ続け女性の全てを約束した。海と空から作り出されたとされる石であり不可思議なことに持ち主は青の光りに守られ長く生きた」
主は静かに微笑みを称えた。
「それであなたは絵に収めようと。だが……」
女の目を思い出していた。青の炎を引き換えに日本画家や浮世絵師に自身を描かせようとしている女は確実に解放を願っている。自身の姿を絵画に書き写させ主に自分の身代わりにさせたいが為に懇願してきたのではないだろうか。
「何故日の目を当てさせずに」
主の背後を風が吹き、障子の先の紅葉が美しく舞っていく。黄色から橙色、紅色へと染まっている紅葉を陽が照らして浮き立たせるのだ。青の天に鮮明に。
「美しさを引き換えに体力を奪われていく。銀の櫛で髪を梳かなくなったが夜にようやく起きれるほどだ。私は彼女を暇させない為に多くのものを収集してきた。何よりも……妻は夜気がよく似合う」
哀しげな声は女の命が伝承の様には長くは無いのではないかと云う畏怖があった。もしも病弱な女が外に出ればそのままたちまち幽霊の如く雪と舞って行ってしまうのでは無いかと。
コンコンと咳がする。
立ち上がり青の染料の床を歩いていき格子に手を掛けた。
「青は心に留めております。絵に起こすことが出来る。見事に仕上げて見せましょう」
五
女は抑えきれない妖気を秘めて腕を抱えうずくまっていた。暗闇で、濃く青い光りが彼女を包んでいる。白い絹の襦袢から出る真っ白い裸足も、そして項や広がる髪も、頬も青くする。
息をついで、咳をする。
愛する碌衛門様を傷つけたくは無い。幼い頃からいつでも一緒だった。立派な方だった父様が母様と共に遠路遥々危険な航海で西班牙へと旅立たれてから頼りも消息も一切不明になり、孤児となった彼女はこのお屋敷へと奉公に来てからの碌衛門様との仲だった。広い屋敷は外に出ることは無くても暇などせずに、年上の碌様の身の回りのご用達で当てられ共にお庭でよく遊んで下さった。それでも武術の訓練だけは共には受けさせてもらえなかった。どんどんと強くなっていく碌様を彼女はうれしく思っていた。
結納を結んだのは彼女が十七のときであり、碌衛門様は二十五のときで、すでに彼は家元となって先代の旦那様に変わり屋敷を引き継いでいた。彼は積極的に渡来人たちに関わり彼女がよろこぶものを揃えさせた。銀の櫛もその一つだった。彼女の両親が西班牙へ行ったまま姿を現さなくなったことを知っていたので碌衛門様は渡来語を学んで渡来品を扱うものになり、幾度もあちらへ手紙を渡し両親の消息を探すように封書をしたため続けてくれている。
だが、銀の櫛を使い始めて四年目になるが体力がままならなくなってしまった。それまでは碌衛門様の身の回りをよく世話したし学問も好んだというのに……。
何より、彼女は彼の見せるあの刀の闘志に深く、異様なまでに惹かれる心を騙せなかった。それはまるで自身もその刀となってしまいたくなる様な気持ちだ。それをきっと碌様は見抜いていなさる。時として自分を見る目はまるで妖かしでも見たような目をするのだから。その時ばかりは彼女の体は漲るような力が揺らめき、気が遠のく寸前ながらも足の力をしっかりもっていられた。その時は彼の周りに不可解なほどの美しい漆黒の炎が揺らめいて見えるのだ。まるで、あの銀の櫛に小さく光る黒い珠かのような色の。
浮世絵師の雲風様は昨晩、とりつかれた様に恐ろしかった。なぜか自身を描く彼を前にじわじわと力が漲り、目の前をうっすらを青い光りが充ちてもいた。闇に沈んでいるときと同様に。日本画家が彼女を最後に描いたときと同様に。
「碌衛門様……碌衛門様」
不安になって彼女は主人を呼んだ。
いつでも少しでも明かりが射すと闇は崩れていく。青い炎は静かに体にしみこんでいく。
あの青い石は何をしようとしているの? この体に、そして碌衛門様に。既に日本画家も倒れた。
浮世絵師のあの強い眼差し。射止めてくる様な男の色香のある瞳。体は緊張せずに入られなかった。全て一時と逃さずに見つめてき続けた。毎夜毎晩絵に変えて。それも終わればふと元の目元に戻り、お茶を勧めてくださった。だが机に突っ伏すように浮世絵師は昨晩倒れ、そしてしばらくして立ち上がると恐いほどに真っ直ぐな目で自分を見てきた。格子先の彼はしっかりと炎の色を捉えようと手招きをしてきた。そして檻に近付いていき彼は何色かある青の顔料のどれをも交互に何度も何度も何度も見比べ続け、そして格子からいきなりあの逞しい腕を伸ばしがしっと手首を掴んできた。その途端に、彼はみるみる青ざめていって見上げてくると、足元の全ての青の染料をひっくり返して舞わせて背を向けた。「本日はここまでで……早く休まれると良い」とだけ言い残され、彼女は何故かとても哀しくなって青の顔料に囲まれる背を見てから「今宵も有り難う存じました」と声にならない声で言い引いていった。
彼女はいつしか気を失い、眠りへと落ちていった。
主が彼女の眠る場所へ来ると、蝋燭を灯した。
まるで息が無いかのように眠っている。彼女は日の光を恐れるようになっていた。何かに怯え、夜気に包まれると安堵するらしく、体にしがみついてくる。
目を覚まし、ゆっくりとまぶたを開いた。
「碌衛門様」
彼女はしなだれしがみついた。目を綴じる。
「雲風殿が今お前の絵を描いてくださっている」
彼女は何度も頷き、彼は髪をやさしくなで続けた。
「彼はお前が外に出たがっていると……」
「嫌です。日の光は怖い……わたくしのわずかな力も吸い取っていってしまうに違いありません」
震えながら拒み、ただただ謎めいた不可解な力に怯えた。だが碌衛門様には何に怯えているのか分からない。瑠璃に光る炎を恐れているのだなんて、彼には見え無いものは話しようも無いのだ。
彼を失いたくは無い。不安で仕方ない。両親さえも何処へいったままかも分からずに、愛してくださる主人様までも見失うのが恐かった。
「よくよく考えると、天道に当たらないのは病を起こすとも思えるのだ。出てみてはどうだろうか。昔はよく昼の庭で遊んだな……」
彼女は顔を上げ、涙を流して優美な顔を哀しく泣き顔にした。
「よし、よし」
そっと口付けをしてはずっと寄り添って長い髪を撫で続けた。
浮世絵師が彼女といた時を思い出す。ふつふつとした殺意が闇に彼を捉えようとした。暗がりを睨み見つめ、目を綴じる。
彼女はそっと目を開き、碌衛門様の黒い殺意を感じてしっかりした腕を見つめた。それが彼女の力としてなだれ込んでくる。蝋燭が明かりとなり青の炎は見えはしない。その黒い力が、彼女には恐かった。碌衛門様はまた心が静まったのが分かり、彼女は安堵として目を綴じる。
両親の失踪の謎も、青と水色、黒の石が装飾された銀の櫛の不思議も、碌衛門様の闘志を自身が吸い取る不可思議も、今は眠りへと落ちていった。
「浮世絵師の青の絵が完成すれば、あの櫛は手放すべきなのかもしれない……。きっと、それが得策なのだ」
主は静かに囁き、目を綴じる。
六
白い絹の長襦袢の裾を引き、鬢付けの髷髪を長く長く足もとまで流した女が佇む絵は、深く青い炎が囲っていた。それは厳かであって不可思議なほど透明感がある。
浮世絵師は美しく刷られた浮世絵を見て、思わず息を呑んだ。それは今までの彼女からは分からない活きたものだった。儚げも、消え入りそうな不安感も絵からは称えながらも感じるのは活きた魂だ。実にそれは不思議に均等が取れていた。
彼はそれを掲げる。
「ここまで満足したものは初めてだ。なんという良い出来だろう」
胸が高鳴り、手の届くところに魅せられ続けてきた女がいるのだ。無垢なほどの瞳が何度も揺れた。
彼は乾いた絵の裏に自身の名と共に「藤條碌衛門殿の宵の方」と奥方の名を筆で走らせた。
主からはそれを五十枚摩り下ろして貰いたいと言われていた。
主は完成したという絵を浮世絵師から拝借し、感嘆の息を漏らさずには要られなかった。
「実に素敵だ」
男は満足げに頷く。
「奥方の美しさが際立っております。青い炎というのはまるで六連星の宿ったかの様で」
「昴か」
主は男の顔を見ると、言葉を続けた。
「渡来人の話によれば、希臘という古よりある国に星を見る者達がいたらしい。星は航海の時にも役に立つ方位を固定し、なにやら伝説もあるのだとか」
「南蛮人達も南の海を星を見て方角を見ていたと」
男は海に浮かびながらも夜に星を見上げることを夢想せずにいられなかった。
「妻の絵を私は西班牙へ送るつもりでいる。これらの絵は実に妻の特徴を捉えたものだ。先の日本画家の作品と共に」
「南蛮人に売るのですか。それは初耳だ」
「人探しをしていてね……」
主は袂をさぐり、小さな箱を出した。
「それは」
「先日話した銀の櫛だ。これを青の炎の妻の絵と共に、櫛の元の持ち主だった西班牙の名家へ返そうと思っている。他の妻の絵もともに送り、彼女の行方不明になった両親を探す手がかりになればと思っている。先ほども申したように、星の導きで進む船が行き先を違えて何年間も西班牙から帰ってこなくなったのかどうなのかは不明だが、妻は会いたがっているのだ。今も無事に生きていることを絵にして知らせたい」
「そのような事情があったとは」
男は立ち上がり、全て数枚ずつ刷っておいた奥方の絵を揃えて彼に渡した。
「銀の櫛は受け継がれてきた女性の血縁の元に帰った方が確かに良いと思われる。青の炎というのは彼女には強すぎたのでしょう。奥方のご両親もいつぞや見つかるといいのですが……」
女はビードロを鳴らしていた。咳を一つ、二つ、柱にしなだれてビコンビコンと音が鳴る。
今宵は美しい月夜で、女の心は落ち着いていた。
浮世絵師は役目を終えて帰っていき、むやみやたらに碌衛門様の殺気立つことは無くなった。まるで、連動するかのようなものだった。青い光りと、黒い光りが大きな力に寄って引き合っていたのだ。サフィーロと、ワグワマーリンと、オニクス。
西班牙へ旅立つ船と共に、定期的な手紙と、何枚かの絵と共に銀の櫛は母国へ帰ってゆく。
わたくしは達者で暮らしています。少し、不可解な石の力に惑わされたけれど、そのためもあり美しい絵は生み出され、一人の日本画家は美しさの妖かしに魅せられ過ぎてしまいもして、生涯に美しい絵を残して行った。二人の画家の絵画が海を渡る……。美貌を約束された女の絵が。
少し、似ていると思うのです。母様の面影に。成人した私はやはり美しくも気丈だった母に顔立ちが似てきていて……。
いつか元気になったら、私達夫婦で西班牙まで行けたらよろしいのに。そしてきっと櫛の持ち主であった女性たちは驚くのでしょう。青の炎に包まれた着物の女を見て、世の不思議を思うのでしょう。
青い夢
螺旋
目を開くと自分は夜空にいた。白地に水色のピンストライプ柄のパジャマのままだ。その柔らかいパジャマも短い黒髪が吹き上がる風にゆらめいている。何故こんな高いところにいるのだろう? 分からなかった。
上を見上げると渦巻く星がきらめいている。そして包まれてもいた。光りは青かったり、白かったり銀色だったりする。星が風に吹き荒れるごとにきらめいているのだった。
ずっと見上げていると、だんだんと風が渦を巻き始め体を包み、そして僕を軸に螺旋を描きながら竜巻の様に勢いがついていって星さえもそれに流されてぐるぐると回り始めた。そのずっと先で何かの星雲が回っている。ゆっくり、ゆっくりと……。
気がつくと、硝子でできたような床に転がっていた。暗いあたりを見回すとどこまでも暗いけれど向こうは群青に光っていて、夜に向かって陽が傾いているのだと分かった。視線を落とすと床に自分が白く浮くように映っていて、その下は底の無い空のようだった。咄嗟に身を固めたのはもしかしたらこの床が薄くて少ししたことでひびが入り落ちて行ってしまうかもしれないと思った恐怖からだ。
とりあえずゆっくり立ち上がり、膝に手を当て何かが光ってスパークする床下を見た。僕が映るもっと先に、いくつもの光りの粒がぶつかり合って強い輝きをそれごとに放っては花火の様に消えていくのだ。どれも青い光りや白い光りで、花火の鮮やかさこそは無いけれど、どれも小粒のサファイアやダイヤモンドみたいだ。
しばらくは微笑んで見つめていた。
だが、何かの音に顔を上げると向こうから空を滑り近付く誰かに気づいた。
「あんた、そこにいたら危ない。今に星が生まれるぞ!」
その言葉で脳裏に理科か科学で習ったビッグバンから超新星が生まれる経緯が一気に渦巻いて駆け巡って想起された。
その男はレトロな自転車でここまでやってくると、ハンドルにつけたラッパを吹き鳴らして耳をそばだてた。まるで郵便局員のような格好の男だ。夜警なのかもしれない。
「よし。お前以外はいないようだ。早くついて来い」
男が普段は荷物が乗るのだろうところを指差し、僕は星が生まれる瞬間に巻き込まれたらひとたまりも無いと思って急いで乗り込み、また自転車は夜空を滑空していった。
ずっとずっと上まで駆け上がっていき、硝子の床を見下ろした。するとそれは金の縁がされた円盤の床で、その先でスパークする光りはどんどんと大きくなっていってだんだんとたくさんに増えていった。
男が必死にこぎながらも肩越しに見てきて、色付きのゴーグルを渡していた。それをはめろという事だろう。頷いてはめると、上に星空に浮く門が見えてきた。
周りを見ると、他の数人の者達も一輪車だったり馬車だったり馬などでその夜空の上部にある門に向かって駈けて行っているのだ。
「彼らは一体誰なんだ」
言ったとたんに背後が激しく眩く光り、男が「振り向いたらいけない!!」と怒鳴って門へと一目散に吸い込まれていった。
「門を閉ざせ!!」
大人数の男達の声で目を開くと左右から太い縄を引く筋肉の男達が扉を閉ざしていった。激しい音が轟き細くなった隙間から風が渦巻いて扉が揺れ動き、そしてこのパステルカラーの雲に占領された明るい場所に響き渡るとしっかりと閉ざされた扉は不動のように動かなくなった。
「やれやれ。今回の任務も無事にやってのけたぞ」
自転車の男が言い、馬車や馬や一輪車だとかから下りてくる者達はそれぞれ何か籠を持っていた。あれはなんだろうと思ってじっと見ていると、男が言った。
「あれはエッセンスだよ。星が生まれる瞬間に役目ごとにばら撒いていくのさ」
「星って……何の?」
まさか宇宙の星でもあるまい、それとも生命の生まれる瞬間の、自分達は細胞になってしまっているのか、僕は瞬きを続けて眉を寄せていたので男がハッハッハと笑いながら歩いていった。
僕の頭に浮かんだのは、「輪廻転生」という言葉だった。
宇宙の星でも生命でもなかったなら、魂の生まれ変わる場所……スピリッツ・バンクなのではないか、と……。
天井も壁も無いこの空間を見渡した。うっすらと淡いピンクかかったこの場所はまるで優しい色の夕暮れと同じ色で、弾力のある大量の雲もその色に染まっている。人々はどやどやと帰っていき、だんだんと雲に入っていって見えなくなって行った。
そちらへ急いで走って行く。雲の内側にでも柔らかな雲のベッドだとか何かでもあるのか、どんどん進む視界にうず高い雲が近付き、そしてその雲に視野は占領されていきなんの感触も無くすうっと視野が真っ白になって入っていく……。
うなって目を覚ますと、僕は暗がりにいた。
柔らかな布団に包まれている。
「あれ」
見回しながら肘をつくと、そこは自分の部屋だった。見慣れた、よく体に馴染む感覚。
「夢か」
また頬を腕に埋めて目を綴じて、先ほどの夢の続きを見ようと試みた。だが、感覚がつかめ無い。すぐそこまであるのに。眠気はそれでもゆるやかに残っていて、パジャマの袖を見て目を綴じた。
「眠りへ落ちて行く」
誰かの声が聞こえた気がした。ああ、レトロな自転車のおじさんか。だが強い眠気で落ちて行く。
夢の生まれる瞬間……だったのだと思った。それだ。夢の終わりと始まりの狭間、これからまた何か夢を見るのに違いない。記憶と記憶がぶつかりあって行く、脳内のシナプスの光りだったのだと……。
左舷
僕はどこまでもつづく海を見ながらオールを漕いでいた。小舟はずっと水面を滑っているのだ。
「広いなあ」
すぐそこの滑らかに波打つ世界。それは岸辺から見るより穏やかで、ときどき魚たちが足もとを泳いでいく姿も見えるほどだ。浅瀬ではなく深い深い海のはずなのに、心は下の下まで見透かせるほど。
そういえば、僕は一体いつからこうやってオールを漕ぎ続けているのだろう? 遥か昔からか、それとも岸辺からながめた青い海の記憶からそこまで時は経っていないのか。
ただただ天候は落ち着いていて静かな海に、カポ、カポという舟を操り水面を掻く音と、それと自分のゼイゼイという乾き疲労しきった呼吸が交互に鼓膜を占領する。どうやら水も飲まずに体力を要している。
時々見上げる空に海鳥が飛んでいくときは高い声で鳴いて、自分はこの地上に僕だけではないのだと安心させてくれた。
「ああ、全く。僕はどこの島を探しているんだろう」
硬質の船底は僕の体を支えるが、いかんせん舟の上は心情もあいまってかゆらりゆらりと時々揺れた。それでも確実にオールは舟を前へ前へと押し出してくれている。
「やあやあ」
僕は辺りを見回して潮風を受けながら声の主を探した。
「やあやあ」
ポチャンという音と共に一瞬声がして、また消えていく。
背後を振りかえって、一瞬視界に銀の光りが映りこんで海に消えていった。
「あれ。魚さんかい」
僕はオールから手を離してヘリに両手を掛け、水面から先ほどから見えている海を覗いた。魚はひれを使ってゆっくりスピードを緩めていく舟の周りに来てひらひらと手の様に振ってきた。
「ここから先は気をつけないと、海妖怪につれてかれるよ」
「妖怪?」
僕はハハハと笑って顔を上げた。滑稽なしゃべり方で言う魚は声がまるで変声期を使ったようにぴろぴろ聞こえ、まったくの危険さを感じないのだ。
「それは会ってみたいなあ」
オールを手にすると、途端に魚達は舟の左側へと寄りかたまるように移動して僕を瞬きさせた。
顔を右側へ向けると、先ほどまでなかった筈の張りぼての見上げる程の船が浮かんでいた。
「え?」
それは和紙が張られて船体は黒塗りに上部は青のラインがはいって、錨までくくりつけられている。僕はついおかしくて見上げながら笑っていた。
けど、その沈まない張りぼての上からまるで綿で出来たような海賊風の水兵が現れて剣をかまえて僕を見ている。
「そこの勇者よ! お前が志を共にすればわれらと共に海妖怪をこえようではないか!」
これまた変声期を使ったようなワレワレ声で僕はついに彼らを見上げながら吹き出してしまった。
そしたら船員たちは張りぼてからどんどん落ちてきて小舟めがけて降って来たのだ。
「うわあ!」
慌てて定員オーバーになる前に自分で海に飛び込むべきか、サーベルを避けるべく飛び込むべきか駆け巡ったうちにぽんぽんぽんと音も無く実は小さかったその綿でできた水兵たちが舟に落ちてきて、一匹……、いや、一人だけ場所を違えて海に背を上に浮かんでいる。それを腕を伸ばして引き上げてあげた。
「感謝をしよう!」
小さな水兵たちは並んで言い、敬礼してきたので僕も咄嗟に敬礼した。先ほどまで舟の片側に隠れていた魚をちらりと肩越しに見ると、誰もが揃ってヒレで敬礼していてまるでくすくす変な水兵たちをおかしげに笑うように口をぱくぱくさせている。
僕が向き直ると、水兵は船に合図をおくった。するとフェルトを連ねた縄が投げ込まれ、それを手早く小舟の縄に繋いだのだ。それは見事にリアルなブーリン結び(航海結び)で、その結び目と綿の水兵を二度見した。
「進め!」
張りぼて船から掛け声が上がり、汽笛が鳴らされ緩んでいた縄がぴんと張った。
「………」
「すすめー!」
ぴんと張ったままで、船は張りぼてのまま重い僕の乗る舟を動かすことなどできないのだった。
僕の乗る小舟は和紙製の張りぼての船を引っ張りながらオールを漕ぎつづけていた。もはや思いのほか力がある犬に縄で「早く早く散歩」と路を引っ張られる飼い主を連れて行ってるペットの感じはこうなのではないかと思いながらも漕いでいた。
「海妖怪って何なのかな」
訊ねたがだんまり渋く黙り込んだ水兵たちはまるでただの綿になったように喋らなかった。
「どうしたんだい?」
それを見回すと、僕は首を傾げて自分がパジャマなのに気づいた。白地に水色のピンストライプが入ったやわらかいもので、首を傾げてまた顔を上げる。
すると、僕の枕元にサイドテーブルにおいてあったスノーボールが落ちていたのだ。それは黒に青いラインの入った船に青い目の小さな水兵たちを乗せたもので、今は逆さの斜め上に雪となる白い粒が沈んでいてまるで先ほどまでいた海の上空に広がる雲みたいだった。青い水面がそれで現れていて、僕はそれを正しい位置に戻してあげた。
「あれ。まさか」
その船には元は無かったはずの小舟がくっついていた。
「海妖怪……て」
僕は思い当たって分かった。
「スノーボールを覗いていた僕のことか!」
まるでガラスボールのなかからあのぴろぴろ声やワレワレ声が聞こえてくるかのようだった。また妖怪が現れたぞ! と。
足音
ぽつりぽつり
コートの男がポケットに両手を突っ込み、街路灯の下にいる。
夕立で降った雨にぬれた路を見下ろしてる横顔はしわが刻まれ、暗い目元をしていた。
革靴のかかとでとんとんと音を鳴らしてその靴先の革も光沢を受けていた。
横目でじろりと見てくると、顔を上げてまっすぐ見てくる。
「よく、きたな」
待ちわびたという風に体をむけてきた。男の背後は左右に家が並び、その奥はゆるいカーブになっていて闇が染みている。その暗がりは男の存在自体に思え、俺は立ち尽くしたまま口を一文字に噤んでいた。
ぽつんぽつん
街路灯から水滴が落ちて、水溜りにはねている。
「俺はまだ行かないよ」
だが男は片手を出して「いいんだよ」と手招きし、その黒い陰がゆらゆらと地面に揺れていた。
「まるであんた、死神みたいだ」
「ははは」
男は笑い、ソフトキャップをとって鷹揚にお辞儀したのが男の雰囲気ではなかった。
「やめてくれ。まるで行儀良いファーストじゃあるまいし」
「死神でもなければ、ファーストでもない。さあ、行くぞ」
俺は歩き出し、明かりのある場所から灰色の薄闇へ、そして暗がりは何もはねない闇へと飲まれて行った。その闇に包まれて、背後からぴしゃんぴしゃんと音が響く。ほかは男の靴音だ。水滴の音が響いている。
肩越しに背後を振り返る。
街路灯の周りだけが照らされて、闇に何があるか分からなくなっている。壁際の巨大なゴミ箱も、見えない。俺が先ほど捨てたもの。
俺は履き崩したスニーカーで歩いていく。
「それで、どうするつもりでいる」
声に我に返る。
証拠の品を袋に入れて、布にくるんだまでのことを思い出していた。
もしも、あれがゴミ箱を見に来た男達に渡れば俺はもう日の目はせいせい浴びれないだろう。この男が言うようにどうするかという判断もままならないままに、隠れ住んで逃げ続ける運命だ。
「今なら引き返せるぞ」
「あんたは誰なんだ」
俺の足音はスニーカーだから響かない。かつん、かつん……という音が響くだけ。気味が悪いほどしっかりと心を打って俺の心音に合わさるようだった。
「まさか誰も俺みたいな若造があんな大発見したもの持ってたなんて思わないさ」
男の気配だけを頼りに歩いていく。壁にぶち当たることも無く。
だがここがはたして街並なのか、どこか違う世界への淵なのかなどは分からない。
いますぐ走って戻り袋のなかみを取り戻したっていい。それなら自分はこれからもまた普通に生きていけるのだ。
「あんなもの、本物なんて思う奴もいないかもしれないじゃないか。歴史が変わるかもしれないなんて言われたが」
旅先で見つけただけだった。テントの杭を打っていた。何かに気がつき、掘り返したら箱が出てきた。それはアルミの缶で、それを空けた瞬間に異様な工芸品が出てきたのだ。それには後にしらべたらエジプト文字で何か書かれ、古めかしいそれは妖しく太陽の光りを受けていた。
きっと持ち主が人目が着く前に処分したんだろう。それか、時を見て発表するために保管しておいたものを俺は勝手に持ち帰ったのだ。数ヶ月してニュースが流れた。それは男が精神病になり変なことをわめき散らして騒ぎになったとかで、そのまま精神科にいれられた。元々大学教授で古代研究をしてたらしく研究データが発見された。
それは俺が掘り出した品物に関してのものだった。
俺は警察に届けようと思ったが、その前からそれを見せていた奴がそれを反対した。今思えばそいつは工芸品の美しさに魅せられてしまっていたんだろう。そいつは勝手に闇市場に連絡をとり、それをそいつらに引き渡そうと言いはじめた。
一世一代の出土品を持っていかれた男は狂った。だが、原因はそれだろうか? まさか、あの工芸品も持っていたからなのも原因じゃないのか? エジプトの出土品には手を出すなとは伝わっているらしいのだが……。
闇は続いた。
もしかして、俺も今微かに狂い始めているのかもしれない。男は本当はいもしなく、あの出土品を手にしたことで幻覚を見てこれから淵までいくのかもしれない……。
「エジプト時代の出土品は、闇に出回ればどうなるか」
警察に突き出せば、もしかしたら精神を崩した男が元に戻るかもしれない。一人の人生を壊すなど俺に本当にこのまま出来るわけが無い。
「………。俺は戻る」
背後をむいて走り出した。
どんどん明かりが近付いてくる。視界が走って揺れているのが分かるぐらい明るくなってきた。俺は街路灯下を通り、ゴミ箱の蓋を開けた。
「無い」
俺は背後を振り返り、闇市の男達の気配を探った。
「もう持っていったのか!」
肩に手を置かれた。ゆっくり振り返ると、男の笑顔があった。
頭の片隅でこの男は気を違えた教授に違いない、と思った。分からないが、そこから俺の意識は遠のいていった。
耳にはぽつんぽつんという音が最後に響いた。
黒穴
もしもそれを見つけたら、山のなかなら蛇の穴かな、それとも他の動物かなと思うことだろう。それが例え木だったら、キツツキのおうちかもしれないしはたまたリスかもしれない。
今、ハヤノウェのの目の前にある穴は、家の壁にぽっかりとこぶし大に開いた穴だった。
はて、これは何だろう? と思う。確かに藁も混じっているような土を練り固めた自然の土壁の集落なら、なにか動物が掘り進めたのだろうと思うかもしれないし、実際その主が顔を見せてせわしなく藁を運んだり餌を運ぶ姿をみることだろう。それでもハヤノウェの住んでいる家は硬質の壁に囲まれた部屋だった。
彼はまじまじと見ながら、しばらくしてフォークを手に持ってくると穴の前に来てその先を暗い穴へと入れてみた。
「うわ」
まるで引っ張られて回転するような力を感じてフォークをすぐに引っ込め、瞬きをした。近付いたら危ないだろうか? 少し怖いと思いながらもあたりを見回し、ふと横の窓から緑の木々の揺れる空を見る。鳥が飛んでいく。いつもの平穏な日曜日だ。だからこそこの穴の出現に戸惑った。確かに非日常なことが起きて疲れた日に起きてもここまでした事例は今まで無い。
まさか吸い込まれやしないだろうな。不明だ。もし帰ってこれないと困る。猫の餌やりもある。
しっかりと壁に両手を当てて、足を踏ん張った。膝を壁に付けると覗く覚悟を決めて片目を穴に近づけた。
「………」
暗がりはただただ暗くて、よく分からない。多少、宇宙と繋がって銀河や惑星が回っているのではと期待してもいたのだが、顔を離しながらも夜に覗けば天体が見れるのかもしれないとも思った。それか万華鏡を覗いたように美しい世界が回っているなら素敵なのだが。
穴から離れ、何も起こらなかったので肩越しに見た。
これは人を選ぶ穴だろうか? もしも老人が覗けば若かりし思い出が輝いて目の前で幕を開くだろうか? 猫が覗けば望みどおりの獲物が駆け回って見えるだろうか? それは眩しい水面の先に泳ぐ銀魚を目を光らせ狙う子猫の様に。
だがフォークは選ばれて自分は選ばれなかったことに納得せずに、覗くだけではなく手を入れればいいのか、人体以外の物質なら反応するのかといろいろめぐらせてから、悔しいので手を突っ込んで見る事にした。そのことで穴のなかの住人が怒って夜に出てきて寝込みの自分を頭をバシバシ叩いて攻撃してきたら嫌なのだが。
彼は思い切って手を突っ込んでみた。
「うわ!」
凄い勢いで肩までぐんっと引っ張られ、その腕は風がごうごう当たってきている。このままでは何か飛んできているものに触れても怖いので、それが硬質なものだったり、逆に妙に柔らかいものでも怖いし腕を必死に曲げこんだ。だが、壁があると思ったのに反して異次元か何かは分からない空間は壁が無かった。なので仕方なく腕を曲げこむだけ曲げこんで守った。
「何やってるんだ?」
涙目で肩越しに見ると、呆れた顔のドチャンガがいた。
「いや、壁に穴が……。腕が抜けないんだ」
「馬鹿だなあ。それに突っ込んだら駄目じゃないか。学校で教わらなかったのか?」
「え? どの時限で受ける授業だよ」
「HRでも運動会でも習うだろう」
ドチャンガが呆れながらぐいぐい引っ張ってくれてようやく腕が穴から出てきた。
「どういう事?」
「心の闇の節穴だよ」
「え?」
「どうせ寝てたんだろう。話の時に。これは不安を感じたり、心にぽっかり穴が開いたり、安堵したりしたときに出てくる穴だよ。普通は心に開くんだけど、時々こうやって壁とか床に開くんだ。不安が大きかったらそのまま落っこちてしばらく帰ってこれないね。悲しんでるから」
「誰だそんな穴を開けたのは」
「お前が日曜日だから気が抜けたんじゃないか?」
ドチャンガはやれやれ首を振ってキッチンスペースへ歩いていった。
「俺の幼馴染もかれこれ五ヶ月穴にはまって出てきたがらない。全く、あいつの心の闇ポケットは深かったんだ。それに気づかなかったんだけどな」
「へ、へえ……」
ハヤノウェは肩越しに穴を見ながら頷いた。
「ほら。紅茶」
「あ。ありがとう。いただくよ」
一緒にお菓子も出して食べ始める。
「ああ。おいしい」
ハヤノウェが言ったとき、ほっと心の空間が埋まったのか穴が狭くなった。
「さっきフォークが吸い込まれかけた」
「気をつけろよ。穴の内部は大きな空間になってて繋がってる。俺の幼馴染にフォークがぶつかったら傷害罪だからな。まあ、もしかしたら他の誰かが膝抱えながらも甘いものでも喰いたいと思ってて引き合ったのかもしれないけど」
ハヤノウェは冷静に話すドチャンガの顔を見ながら相槌をうち、ビスケットを手に集めて小さくなった穴に持って行った。
「食べろよ」
声を掛け、ビスケットを穴に放り投げた。それは勢いよく木っ端微塵にならない程度に吹き飛んでいってすぐに見えなくなっていった。
「誰かが食べたかな」
「どうだろうな」
ドチャンガは紅茶を傾け、ほっと息をついて窓の風景を見た。
今日も一日平穏にすぎていく。
葉芽
僕は土の下で眠っている。まあるくなって、目をとじて。
生まれる前から僕らは成長している。土は僕を包み込んで、時々凋落する水を与えてくれるんだ。
その僕の横にはカブトムシの幼虫が同じように眠ってるんだ。それに、時々ミミズ君が来て土を食べながら進んでいく。
ここにいると、僕らの季節がまだ先だと分かる。土の表面は地上の気温が伝わってきて、季節によって水分量もちがえば栄養も少し変わる。
もう少しここで眠ってよう……。
雪に閉ざされた土の下ではとても静かな世界で、闇しかないけどとても安心するんだ。木々も眠っていて、活動を休めている真冬。
僕らには雪の上をあるく者達の音さえ今は響いてこない。土の下のエネルギーを受けながら、眠っている。ずっと眠っていると時の感覚が分からなくなり、そして気が遠のくように熟睡の時期に入るんだ。
まだまだ、眠っていよう。
僕は自分が何なのかを知っている。
ただただ巨大な自然のエネルギーを受けながら僕らは『発芽』する。
粒子の土をどんどん昇っていって、ゆっくりゆっくりと、そして時々水がしみこんでここまでやってくる。土の粒子をくぐりながら。
ミミズたちも土を食べて排泄して柔らかくなっていく僕らのベッド。
そして僕らはこうべをもたげてすっくと明るい地表に首を現す。
僕らは自分が何なのかを知っている。
けれど、僕らの外の世界をまだ知らない。どこに僕らは芽吹くのか、どんなところで生きるのか。
少しずつ、地表の明るさに包まれ始める……。
まぶたを閉じながら、顔を現した。
暗かったけれど、少しずつ挙がっていく『朝』の気温と共に出てくる僕ら。緑色のその顔をすっくと上げて、まだまだ目を開けられない。昼の明るさがほしい。僕らのまぶたを開けさせるから。
けれどまぶたを透かして明るさは分かる。どんな世界だろう。
風を今でも感じるしさらさらとした水が僕のまぶたを鼓舞する。そして身体を残した地表にその水はしみこんでいくのが分かる。
幼虫さん。少しの間、君の顔とさようなら。また会いましょう。
昼の太陽。僕は眩しげに目をそっと開いた。
葉芽の僕は小さな小さな身体だけれど、青い空が見えた。真っ白い太陽が眩しくて、うれしくなった。
しばらくは陽に照らされながら、栄養をたくさん吸い込んだ。
こんにちは太陽。こんにちは地表の世界。
眩しさに目が慣れ始めると、僕はあたりを見回した。
たくさんの仲間が生命の声を挙げて発芽している。まだ眠ったものや首をもたげるもの、まぶたを閉じているもの、それに、僕と同じく葉芽を開いているものもいて、それぞれが違う声を発している。
うれしくなってあたりを見回した。すると、寝ぼけた大きな木がたくさん回りを囲っている。緑の葉を芽吹き始めている。彼らの手の平を開き始めている。
僕らはどんどんと首を伸ばしていった。いろいろな鳴き声や自然界の音が聞こえる。風に僕らはゆらゆら、夜の露を受けて重くもたれて、陽に照らされると光合成を始める。
蟻が体を昇ってきてあたりを見回したりしている。
どんどんと次の花を咲かせる準備に入っている僕らは、蕾を膨らませ始める。
「まあ。美しいこと」
声がする。
僕は驚いて見上げた。
とっても素敵な羽根を広げたものがふよふよと飛んでいるのだ。
「どらどら、ちょっと失礼」
「あなたはどなた? 綺麗だね」
「わたしは蝶さ」
ひらひらと舞いながら彼女は言った。
「あなたもとても美しい子だよ。純白の柔らかな花弁がまた素敵」
蝶は青空がよく映える。緑の木々の周りも飛んでいった。気品があった。
土から生まれた幼虫は、歩いていって巨大な木に登っていくと、どんどんと蛹になって行った。
そして季節が来て孵化をする。
カブトムシは夏の陽を浴びて、夢に現れて、そしてとても近くにいて安心感があったものの記憶を追った。
『一輪草』の花だと知っていた。水の記憶が教えてくれていた。
カブトムシはしばらくいろいろなところを見ていた。一輪草がどんな花の子だったのか、少し楽しみにしていたのは声が聞こえたかだらった。
『幼虫さん。少しの間、君の顔とさようなら。また会いましょう』
季節が流れていって、またきっと芽吹くのだろう……その頃は、自分は他のカブトムシを見つけて卵を産んで新しい一輪草の赤ちゃんと土で育ち、再会を夢見るのだろう……。
眩い太陽、緑の濃い木々。昆虫達の世界と生命の声。
謳歌しながら恋をするため青空に飛んでいく……。
美鳥の君
舘には公爵から名をいただいた女達がいた。
白鳥嬢。白い衣裳に白い優雅なアイマスクの女性。
孔雀嬢。エレガントな黒髪に艶青と深緑の美しい衣裳の女性。
鴉嬢。漆黒の衣裳を身にまとった紅いルージュの美女。
青掛巣嬢。鮮やかな青と純白の衣裳に柔らかなブロンド女性。
瑠璃嬢。目の覚める様な瑠璃色の衣裳の女性。
ボヘミアン
リジャール
リジャールは旅を続けていた。その漂流はどこまでも続く。
出逢っては別れ、季節は巡り、星を見上げ。星を見上げて手の平に光りが落ちてくる。頬をさよならの記憶が掠る涙を風に流してこんにちは。
マツゲをぬらして、昼は眩い緑に目を細めて流浪して若いあの子は笑顔で輝く。柔らかな花弁の様な乙女の、せせらぎは水をはねてスカート翻す。
鳶色の瞳を恋に色付かせて、青い空がどこまでも届ける心にまで奥にまで。
リジャール。リジャール、愛しいリジャール。群れる羊達を掻き分けて角笛吹けば、流浪はそれを背に再び旅立つ。
深層の森に疾走する生命たちは悠久の紡がれるもの。
light anytime any load
いつかは光り射すさ
いつかは花が咲くさ
いつかは疲れるだろうさ
それでも誰かが横にいれば
二人で花を咲かせられるさ
遥かな路だろうさ
遥かに続く人生だろうさ
それでもいつかは立ち止まり
そして暮れ行く夕陽を見ていると
きっと分かる
黄昏に染まった花が
もとは白かったこと
心が望んだ色だったこと
優しい色に染め上がり
そこには夕時の鳥が一羽
静かに啼く 夜を引きつれ朝啼く鳥につなげるために
雪舞い
ハナミズキの蕾を見上げていたら
冬空の雲は今にも雪を降らせそうな色合い
風が吹いて
北風吹いて
耳を澄ませたよ まぶたに凍てつく風を受けながら
ふと目を開いて見上げた
紅色の木枝の先に縺れるような風花を……
白いそれは遠くから運ばれた雪んこ達
らんらんと唄いながらやってくるんだ この土地までを
雪の花が空を舞う……
いずれそれは本当の雪になって瞳に触れた
冷たい雪の舞いを
さあ 雪の妖精たちは唄い踊ってるんじゃないかな
地球よ 冷えておくれ
力を取り戻すために
自然の四季を取り戻すために
一生懸命 冷やしてくれているんだね……
今の冬の砦を……
らららと唄い 純白の柔らかな雪の衣裳をまとって
雪の妖精踊るのよ
ひとかけら
ひとかけら 愛を手に受け止めてみると
ひとかけら それは微笑む
一筋の 流れに見つけた愛をすくい取ると
一筋 掌から零れ落ちて残骸が土にしみこむみたい
数ある調べのなかから選んだのは
たった一つの路
事あるごとに耳に掠める
安らぎの声
二つの間の 心と差し伸べられた手
二つの間の 交わされた瞳と微笑み
二筋の 涙は二人の頬を流れたもの
二筋の 涙は二人の間におちてせせらぎになる
一筋の 流れに落ちた二つの愛を探りすくい取って
ひとかけらの愛に戻して心に入れるの
どこまでも川は流れて行く
それを二人手を取って同じ方向を見ると
光りが差しているのがわかる……
薔薇蜜刻
美夜は窓縁で椅子に座り、庭を眺めていた。横顔は美しく白い陽が差し込み、悲しげだった。
彼女は淡い白ピンク色の着物に淡いピンクのオールドローズが挿されている着物はどこかモダンで、黒い帯に引き立てられている。
夜緒は鋭い眼差しで振り返り、羽織る絢爛な友禅がざっと翻る。セーラー服のリボンが風邪を受け、学生帽下の目が涼しげだ。颯爽と進むが、友禅を衣紋掛けにふぁっと掛け、艶やかな柄の軍服ロングジャケットをまとう。脇差のサヤが光った。
「馬車の用意は」
「できております」
ボブヘアの美しい女が告げ、廊下を進む。
霧が深い夜気は冷たい。黒い馬の馬車が陰のようにあり、街灯が照らす。乗り込んだ。
細波のさき
夕刻より、刻一刻と過ぎ行くものは、生命を照らしつけて尚も微笑の記憶を絶やさない。
微笑みは波の様にたゆたう。手腕がゆらりと近付くたびに懐に招き入れるみたいで。
耳にはさらさらと届く。海馬に残るその砂の流れて行く音。脳裏に浮かぶその情景。
夕陽に染まる波際はきらきらと光って海の絶え間ない音を響かせる。
何処までも、何処までだって……続いていく海を悠久に想う。
輝く星の時間まで、共にいましょう。
亡き者の魂は安堵とするあの花の閉じた花弁の内側に。
舞い踊る記憶たちは蝶の羽に乗って流離うでしょう。
闇と光りとのまにまに、悟るでしょう。その間に流れた涙があるならば。
まどろみを迎えた心の救済。儚かった言葉の数々は消え果ることさえ無い。
帰るのだ。影を引き連れて夢と現のまにまに。
一つの記憶を囲ったまどえんの友を連れて思い出して、季節を越えて行く。
偶さかの光を心に蓄えて、どんな夕陽をみた時も思い出せるもの。それは、愛。
刻々と迫り来る闇を、底なしと云うのなら、我等はいつまでもそこにいるのだろう。
段々と張り詰める夜気を越えて、夢の旅路へ向かうまで。
深夜はいつまでも続きはしない。悪夢に目覚めたなら闇を見て恐れをなし、目を綴じる。
体を抱えて息をつく。深夜の静寂に目を開き、夜の気配に侵食される。
ゆるゆると眠りの波が押し寄せるならばいずれは忘却の底へと沈めるだろう。
さあ、あの声を聴くといい。深い森から微かに響くあの美声は、いざないの音楽。
君が踊りだすことを待ってる。ハープとリュートを奏でるのはわたし達。
闇に浮かぶかい。裸足で踏むステップの内に、火影に揺れる。夕陽の記憶はどうだった?
夢の目は開かれて、リュートを爪弾く男は目で問うだろう。
悪夢など無かったかのように紅を心に焼き付けたことを思い出せば、きっと想いは届く。
さあ、踊れと手を拍子で打ち鳴らしては、まるで離さないかのように永遠に躍らせる。
疲れても、眠くても、踊りたくなくとも、大丈夫さ、と囁いて、躍らせる……。
純粋な朝陽は何も知らないかのようにやって来る。
夕陽も同じだった太陽だとは思いもしないその透明感で。
素敵な銀白の衣を纏い、やってくる……。
山々を光線は撫で照らし、花々の蕾を透かし、露の降りる葉を光らせて。
柔らかな草地に裸足で踏みしめるここまで来た陽の眩しさ。
目を細めて、涙を流して微笑むのだ。
手
手……。
それは何時からだっただろうか。彼の心に刻み付けられ一時と離れようとしないその『手』の印象。目を閉じる闇に白く蝋人形が如く血も通わずに浮かぶ手。青白くてただただ感情さえ伺えないそれは彼の心を深深と陶酔させた。夢から覚めて天井の闇を見てさえも浮かんだそのはっきりとした輪郭は、自身の手をゆらゆらと重ね見てはその先に揺れる。
誰の手であろうか? 彼にはわからない。ただ、幼い頃からあるその手の記憶。何時からか、それはもしかしたら母においていかれた時からなのかもしれない。先生に木蓮の下で待たされた時からかもしれない。曖昧であるが、確かに女性との影があり、そしてその手は大きな男のものの様に思えた。小さかった自分から見た手は、今の自分の手を見ても分かるように随分と大きく無骨で、女の手でさえ幼ければさぞ大きく記憶したことだろう。
母が去っていった記憶。それは春だった。水色の空に花弁が舞っていた。和傘をさし、レトロな着物で羽織りを着、まつげと紅が美人な母だった。背を向け歩いていった母。風が吹き荒れて彼の丸い帽子を持ち去っていこうとして手で押さえた。母の背に手を差し伸べたが、桜の花弁が掠めて行くだけ。そこへ、置いてけぼりにされたのだった。背後の修道院へ引き取られ、小学校に通うとそこには女教師がいた。印象は随分と違ったが、母と似ていた。大人しめな格好をする教師だったが彼はよく質問をしよく話しかけた。木蓮の木の下で待っていなさいといわれた時があった。同じく晴れた日だった。お櫃の弁当をその下で食べて待ち、鐘が鳴る前になっても現れず、その後は意気消沈した。それからがどうだったのか、成長した今では短編的な記憶が残るだけである。時に飛躍か思い出してか、白い手は桜の花弁に埋もれて横たわったし、あるときは木蓮の木の幹にかけられた手腕になった。夢では。
彼は体を起こす。どうやらまだ気温としては深夜のようで、一層のもの静けさが占めていた。肩から上着を掛けベッドを離れる。暗がりを歩き、浮かぶ手。時に自身の手と重なり、差し伸べられて戻ると記憶に浮かぶ手だけが部屋の闇に浮かぶ。精神科へ行ったことがあった。幼い頃から『手』は彼の視野から薄れたことは無かった。闇でははっきりと、明るみでは透き通ってその手は視界に現れる。ただただ彼だけは大人になっていった。
椅子を引き、再び目を閉じて手で目元を押さえる。掴めないもどかしげなその手。それは勝手に動くことは無い。それは二人の女の手だろうか? 分からない質問を常に自問するばかり。答えなどは無い。
コンコン
彼はびくっとしてドアを見た。何故こんな時間に誰かが訪ねるのだろうか? 彼はしばらくはドアを凝視していたが、再び鳴ったので立ち上がった。手の先にあるドア。それは今は自身の手で遮ろうとするがどいてなどくれない。一致する自身の手と目の前の手。誰なんだ。誰の手なんだ? 彼はドアへ駆け寄り、ノブに手を掛けた。
「あんたの手なのか、あんたの手なのか?! 記憶の手は、目の前を離れない手は!!」
「研吾さん」
彼はドアを開け、同僚の平八を見た。
「あなたに会いたいって女性が来てね、急いでとのことで……」
平八の後ろには女がいた。ぼんやりと灯る白熱灯の傘下にいて、着物の肩が照らされている。
「あんたは……」
「野辺毬子です……野辺透子の妹でございます」
「おふくろの、姉妹?」
毬子は恭しく頷き、よく似た顔立ちだと分かった。
「姉は巡業のため、国を離れます。その前に坊ちゃんに会っていただきたいのです」
「なんだって……」
よく飲み込めない。ただただ白熱灯に群れる大きな蛾たちから鱗粉がきらきら降り狭い通路を舞っている前に立つ女とそして今は薄れて見える白い手。
「姉は下の馬車で待っております」
「なんで俺を置いていったんだ!」
声を荒げていた。平八が気性の荒い彼の前に腕を遮らせて気を落ち着かせた。
彼は走って階段を降りていっていた。アパートの玄関ドアを潜り馬車を見ると一気に逆上し、ドアを開けていた。そこには見慣れない男がいて、だが一瞬で蘇った。それは母の愛人であり、十字架を形だけつける男であり、彼が大嫌いだった偽善者の男であり、母を奪っていった男……。
「きゃああ!」
女の叫び声と共に目の前にはっきりした白い手の輪郭は完璧に自分の手と重なってその愛人の男の首に固く手を掛けていた。それは自分の手。自分の感覚。まさか俺が人に手を掛けて? これも夢か? それでも止まらない。今や重なった自分と記憶の手。闇に白く浮いて。
平八が背後から彼を羽交い絞めにして男から離れさせたとき、一瞬で視野に桜の花弁の舞う眩しい記憶と木蓮の花の咲く木下の記憶が渦巻いて思い出された。そうだった。あの時は悔しかったのだ。激しい寂しさと悲しさに埋もれていたのだ。彼の小さな心は。母に捨てられ、女教師にも約束を破られ、やっと現れた午後の女教師は彼の目の前で倒れた。口端から毒の血を流し倒れてその胴に手を差し伸べた。離れない白い手の記憶の輪郭に重なって。それは、その手は裏切り者の女教師に対した気持ちが及ぼしたものだけでは無かった。それは愛人だった男の手でもあったのだ。母の背に当てられた夜の手。黒髪を撫でる手。それをいつでも小さな彼は憎らしげに見ていた。いつか、いつか同じぐらいに大きな手になったらあの悪者を罰してやろうと思い続けた手だった。彼の父は母と子供の為に働く人だった。なのにあの愛人ときたら朝出かけた父が去った後に家に現れて宗教とかの話を餌に母をかどわかして昼の家にいた。そして父が出張の日は夜までいた。愛人の男は他の主婦まで呼び寄せ偽の十字架を武器に説法とやらを説いていた。
彼は春の日に母に連れられ、茶屋に入って団子とお茶をいただいた。手を繋いで散策し、桜の木の下へ来た。
置いていかれたのだと、捨てられたのだと分かった時は脳裏が真っ白になった。そして、そこから辛かった記憶は蓋をされていったのだろう。手の記憶だけを残して……。
やはり母の手の記憶ではなかった。今目の前で叫んで口許を押さえた母の手は細く指が長く、そして柔らかい印象だった。そしてそれを見た途端、彼の目から涙が流れて地面に崩れ座った。
「そうだ。俺は先生に手を掛けたのだ」
交差し続ける記憶はどれも涙に繋がった。うなだれて、彼はただただ悔恨の涙を落として闇に落ちた。自主という言葉が手に重なり浮かんで、その手の輪郭だけが今始めてあの日から目の前から薄れ消えて行った。その視線の先に、馬車から崩れた愛人の背があった。御者が慌てて通報して多くの足音が響き渡る。
「こちらです! お巡りさん、こちらです!」
彼はうなだれたままであり、腕を引かれて立ち上がった。既に目の前の暗がりは何も浮かばない……。
蛇王~誘惑に揺られて~
鋭い上目が闇夜の葉先から見ていた。月光がその黄金の瞳を光らせる。滑らかな黒髪が白い背を撫で、地に渦巻く。膝を曲げてその場に座り、微笑して顔を向けた。ゆらりと丸い金耳飾が揺れた。
彼女はそろりと躍り出ると、時々蛇に戻りつつも進んでいく。宮殿に男の背が佇み、波打つ黒髪は整えられていた。腕や腰元にかけられる白い衣が日焼けした鍛えられる肌を彩る。クロムチ蛇がその足元に進み、そしてするすると脚を伝って腕を伝い、そして男が雅な目元を向けたら色香ある女になりあでやかに微笑んだ。
「ブジェルカ」
女ブジェルカは彼の唇を黒く尖る爪で撫で、額の金の丸と繋がり黒髪を装飾する細い鎖がシャランと鳴った。
「蛇王殿はあの星を取ってきてくださらないの?」
銅鑼猫の様な声で女は言い、男は身を返して椰子に囲まれる白い石の庭園の上を輝く星を見上げた。
アルティア ~揺らめく光りと影の間際で~
竪琴の奏者であるアルティアは、蒼い月夜にその旋律を響かせていた。
繊細な音を紡ぐ指先はまるでそれ自体が芸術品。月光に染まるしなやかな手腕を操り、その肩に流れる長い褐色の髪は光沢を受けていた。その髪と共に、まとう薄い衣は風になびく。
「たゆたうは 月の映る水面の泉
古より伝わりし水の記憶を 湛えんや」
その美声はこの国の宝であり、アルティアの家系に代々伝わる特異な声音である。柔らかな唇からすべる歌は誰の心をも魅了して離さない。そして琥珀色の瞳を向ければまるでクピドーに射抜かれたかのように男も女も胸を抑え背後に倒れて行って池ポチャした。
それを面白くなさそうに見るのは影の動きを読んで暦を織る暦織り士のハシャーだ。彼は以前、アルティアに迫ったところ、番犬には噛まれかけて追い掛け回されるわ、アルティアの家の女衆には「もうあなたの織物は頼みません」と得意の金切り声を発されて鼓膜を破られる寸前だったわ、そこの子供等には髪を掴まれて引きちぎらんばかりに暴れられるわで、さんざんな目に合わされた。
なのに、同じく陽を見て暦を記す布絵師のシュローイときたら、その分彼等の贔屓にされ始めている。
ハシャーは、シュローイを敵視して見るようになったが、お門違いの怒りを向けられたシュローイは困っていた。この前などは葡萄酒に酔った勢いにハシャーに殴られかけた。
せっかくの美しい夜に、黒い雰囲気を醸している暦織り青年がいるので、アルティアは竪琴を爪弾きながらもそちらに視線をくれる。
自分がハシャーが来た時に叫んでしまったのが原因なのだ。月の無かった闇夜にキャンドルを灯していた白薔薇の庭に、いきなり現れた大男。そしてまっすぐとこちらに来るのを見た瞬間、自分は叫んで逃げ惑っていた。薔薇の棘につっこんで傷は負うわ、衣も破れるわで、駆けつけた衛兵と番犬が謎の男の影を追っていったのだ。そしたらそれはまさかのハシャーだった。
あれは逆に申し訳なかったなと思って、家の者達に勘違いだったのだと言っても無駄だった。逃げて来た姿が姿だったので、娘が何かされたのだとお冠である。薔薇の棘ですと言っても聞き入れない。「不法に侵入したのは暦織りです」と。確かにその通りなのだが、自分が贔屓にしていたハシャーの仕事を奪ってしまったようなものなのだと罪悪感を感じずにいられない。いくら個人的にハシャーから暦を買ってあげようと思っても、それはあまりに貴重なもので個人では手が出せないものなのだ。
暦読みというのは、陰陽によって分けられた占いと似たものであり、ハシャーは影を読んで一月分の災いを、シュローイは陽を読んで三月分の吉事を読む。その家系ならではの立地などで占われた。元々が闇を読むハシャーの家系は、彼のように負の感情を生きているのだが、それをしっかり抑えることがプロだった。今の恋に破れたハシャーはその余裕さえなくなっている。
ハシャーは今、岩に座って竪琴を恐い顔をしながら聴いていて、石のベンチに座るシュローイを横目で睨み付けている状態だ。アルティアは胸がざわざわとして視線を落とした。
すると、途端に声の質が操れなくなってしまう。
誰もが先ほどまで水晶の如く澄み切っていた声が、まるで深い森の洞窟に吹き込む風音のように低くなったので、驚いた。
シュローイは気遣わしげに彼女を見ては、立ち上がってハシャーの腕を掴み連れて行った。
背後では再びアルティアの女の長による打ち手によって、演奏が続けられる。
まるでその洞窟からの風が森を通り、再び空に吹き上がるかのように声が戻っていった。プロが感情に流されるな、という厳しい躾が成されているのだ。
ハシャーは泉を囲う林を歩いていきながら、シュローイを睨み見た。シュローイの横顔は泉の方向を見ている。そしてハシャーを見上げた。
「怒りはアルティアのためにならない」
シュローイは蜂蜜色の髪をいきなり掴まれて、驚いてハシャーの目を見た。
うなじを攻撃されたことで意識を失い、ハシャーは唇をなめた伏せ目で肩に細身を担いで林を歩いていった。
宴が終っても帰って来ない二人を心配したアルティアは、ずっと泉で一人待ち続けていた。すでに夜風は冷たくなり始め、泉からも霧が立ち昇り始める。不安をあおるような霧だ。
林にも流れて行く霧を掻い潜って、影がやって来た。
「シュローイ? ハシャーなの?」
アルティアは不安によって紡がれる低い声で訊ねた。
それは、ハシャーだった。
彼女はやはり反射的に震え上がり、彼を見上げる。影のようなハシャーは彼女の目の前までゆっくりと歩いて来ると、邪な目元をしてアルティアを見下ろした。
「シュローイ……は?」
まるでガラスを爪で引っ掻くような声を震えて出すアルティアに、ハシャーは顔を歪めた。危険を感じたので彼女は唇を閉ざして声を出さないようにした。
「シュローイはもう影の内側に閉じ込められて陽も浴びる事なんかできやしない」
「え……?」
林に視線をくれるが、すでに霧が濃くなってしまった。
闇夜に蝕まれて行くかのようで、アルティアは体を震わせる。どうにか喉元を整え、ゆっくりと言った。
「シュローイとは、お友達というだけだわ。恋仲じゃ無いの。だから……」
だが静かな深い怒りに取り巻かれるハシャーは首を横に振るだけだ。
アルティアは手首を掴まれ、叫び掛けたが声を失った。いきなり抱きしめられ、薄い衣を何かの水分がぬるっと湿らせたからだ。それはハシャーの胴体に湿っていたものだろう、ゾッとして体を冷たくした。
「俺はあいつを閉じ込めた。その時暴れるあいつの頭を掴んで岩にぶつかった。引き上げて頬を叩いたが動かなかった。それを引っ張って行って影の檻を閉ざした」
「ヒッ」
ドンッとアルティアは肩を叩いて逃れたがり、暴れた。どこか分からないところを闇雲に噛み、逃れて走って行った。声も無く息せき切って走って行った。
「アルティア!!」
追ってくる。迫ってくる。恐怖に塗れてただただ走る。怒れる影の人が。
「………っ!」
石につまずいて声も無く繁みに転び、喉を抑えて、そのまま気を失った。
朝陽で目を覚ますと、アルティアは繁みに囲まれていた。
痛い体を起き上がらせて、首を傾げ辺りを見回す。何故、ここで寝ているのだろう。
記憶を探るためにその場に座って目を閉じる。
「!」
目を開くと、朝露で光る繁みから林に駆け出した。
シュローイ!
昨夜のことを思い出した。宴の刻、シュローイがハシャーを連れて行き、林へと歩いて行った。心配して二人を待っていた夜の深部に、ハシャーだけが戻って来て、そしてシュローイを閉じ込めたと言って抱きついてきたハシャーから逃げたのだ。
ハッとして、彼女は走る足を止めて自身の体を見下ろした。衣は血に染まり、なおも陽で透ける肌は光っていた。
これは、シュローイの血……。
途端に叫び声が声にもならずに発され、細い首を抑えて走り出した。声が出ない、声が、出ない。
「お嬢様!」
ようやく探し出されたアルティアを見て、衛兵が息を飲んで血に塗れる姿を見た。番犬が激しく吠え、衛兵が鎖を引く。
アルティアは涙に塗れた琥珀色の瞳で、口をぱくぱくさせて林を指し示した。
衛兵は更なる異変に気付き、まさか声を失ったのかと驚いてアルティアの口許を見た。
「長に伝えてくれ」
「はい」
若い衛兵が走って行った。
ハシャーは影の内側に拘束されていた。ハシャーの家系の主が凍て付くような視線で檻の先のハシャーを見る。既にハシャーの背は鞭の跡や鉄の棒による拷問痕が染み付いて、一寸先の闇にその身ごと溶け込みそうだ。
「一生この場所にいろ」
主は踵を返し、去って行った。
暗い影のなか、目だけに光沢を受けてハシャーは重々しく閉ざされた扉を睨み見つづけた。
ハシャーの家系の主が地下から上がって来ると、エントランスホールにアルティアがいた。
颯爽と歩いて行くと、ショックで声を失ったアルティアの腕をそっと撫でてあげた。
たんこぶどころで済まされなかったシュローイは、あれから発見されて頭がぱっぱらぴーになってしまっていて、屋敷で目覚めてからはまるで鶏になってしまったように腕をばたばたとさせて奇声を発して駆け回っている。包帯頭は痛々しく、中身まで痛々しい事になってしまっていた。
アルティアは今朝方、シュローイが目覚めたというので急いで向って、そんな姿を目の当たりにして、尚の事気落ちしているのだった。もともとヒヨコみたいな髪色だからとはいえ。
「あいつが申し訳ない事をした。早い段階で精神が落ち着くまでを閉じ込めておくべきだったが、君の歌を聴けば癒されると思ったのだ」
アルティアは小さくはにかんで頷いた。
声の事はショックも和らげば戻ってくるとされている。それを女長は言ってくれた。
ハシャーのことを心配してやって来たが、この家系の掟には口出しは出来ない。なので、アルティアは引き返す他無かった。
シュローイは庭で陽に照らされている。
今日はまるで猫のように背を丸めて眠っているので、アルティアは髪を撫でてあげていた。甘い顔立ちの爽やか青年だったシュローイがぱっぱらぴーになってしまって、周りの女達は随分残念がっている。まるで鬼のような怒れるハシャーの方はとんと姿を見せなくなった。なので、暦織りと暦絵師の二人の若者はなんとも使い物にならなくなってしまった。
声をだんだんと取り戻しつつあるアルティアは、シュローイにのみ届くか届かないぐらいの声で子守唄を歌いつづけた。琴音にも掻き消えてしまうような声で。
シュローイとずっと一緒にいると、心が和んで、時々胸が高鳴った。無垢な顔をみせたり、いきなりはしゃぎ出す姿を見ていると。母性本能というものかは分からないが、守ってあげたくなる。
だが、アルティアの今のささやかな光りの時間にさえも、女長の持ってきた話は影を落とさせた。
しっかりとした人と婚姻を結ぶ事だ。その候補を挙げて来て、そしてシュローイとの穏やかな時間をも引き剥がそうとしてくる。
「アルティア」
彼女はびくっとして肩越しに長を振り向いた。
「もう屋敷におあがりなさい」
アルティアは気落ちし、衛兵の男は肩にシュローイを担いで連れて行った。
「いいですか。暦士をもともと家系に入れることは出来ないの。恋仲までは問題はなくとも、婚姻はいけません。彼等は影と光りの存在。その間に立つ我々とは違うのです」
彼女達の目の前を歩く衛兵の肩に担がれたシュローイは、まるでひなたぼっこする猫の様にこめかみの辺りを手の甲で撫でている。
「アルージャ。シュローイをガイラの処へ連れて行くよう」
シュローイは癒しの効果のためにここへ預けられており、頭が戻ってくるように音楽療法をされている。家系の一番の歌い手であるアルティアはまだ満足に声が戻らないままなので、他の者に任されていた。
だがどんなに小さな声だろうと、やはりアルティアの歌が一番シュローイを無意識下でも安堵とさせていることにはまだ誰も気付いていなかった。
シュローイの暦見は人を元気付けるものであって、もともとが元気溌剌なアルティアの家系にはあまり必要はないと思われていたし、一番に注意を払わなければならないのは、影の日のほうであり、そちらに敏感だった。宴を開く日には影となるような日には開かない掟があったからだ。影が光り、どちらかの暦見が入っている場合は片方しか入る事は出来ない。影と光りを一つの家に入り混じらせることは出来ないからだった。なので、もしかしたら、ハシャーがシュローイを襲った日は本来は影の日だったのかもしれない。
ガイラの部屋までシュローイを見送ると、気落ちした妹を見てガイラは優しく微笑み、アルティアのことも座らせた。アルティアも微笑んで床に置かれた大きなクッションに座り、大きなハープとガイラの歌を聴き始めた。シュローイは猫の様にごろごろと背を床に撫で付けていたり、落ちつかなげに転がっていっている。それはやはりアルティアの歌が一番心落ち着くものだったからだった。だが歌が無いよりはやはりいい。
アルティアが部屋に戻って来た宵時、今日は月が出ない暗い夜だった。そういう日は誰もが早めに眠る。そしていつものように朝陽と共に目覚めるのだ。
シュローイとハシャーを林の泉で一人待っていたのも、誰もが寝静まったころ、屋敷を抜け出してのことだった。そして、朝の挨拶に現れなかったアルティアを衛兵に探させたら、林にいたのだ。
彼女は部屋を歩いていき、いきなりの何かの影に驚いて立ち止まった。
それは大きな影で、部屋奥の暗がりに尚一層暗い色をしている。
「誰……」
口の内側にだけこもる声。
影は、実態こそはないのか、ゆらゆらと揺れている。アルティアは首を傾げた。
「あなた……ハシャー?」
近づくことが出来ずに訊ねるが、その影はすうっと闇に溶け込んでいった。
「……」
不安を感じて、アルティアは一人マントフードをまとうとランタンを持って屋敷を出ようとした。
「お嬢様」
衛兵のアルージャがたちはだかり、見上げた。
「夜の外出は危のうございます」
「ハシャーの家に」
「え?」
彼は背を折って耳元を近づけてあげた。
「ハシャーの家に。彼の影を見た気がして……」
アルージャにはどういうことなのか分からないので、真剣な眼差しのアルティアをただただ見た。
「お願い。共に行くのならいいのでしょう」
ということで、お嬢様の護衛をしながらハシャーの家へ向う事になった。その道すがら、濃い影の部分にゆらめく黒い影を見ていた。まるでハシャーがなおも未練がましくしているかのように。いや、それ以上の胸騒ぎ。ハシャーが影を伝ってまで現れたという気配に、只ならぬものを感じて、その感覚が歩く毎に強くなる。
ハシャーの家に到着すると、アルージャが悪魔装飾のドアノッカーを掴み叩いた。
アルージャが引き、アルティアがドアを見つめる。その悪魔装飾が、まるでこの家の影の部分を寄せ集めているかのようで、いつもは感じない恐怖をアルティアは感じ、無意識にアルージャのマントを掴んでいた。
「はい」
この屋敷は男衆が多いので衛兵などはいなく、家の者が出た。
「夜分に申しわけございません。アルティア嬢が、ハシャー殿にお会いしたいと」
「ハシャーはまだ地下におります。あのような場所に女性をいれるわけには」
アルティアは聞かずにドアから屋内に入って行ってしまい、このエントランスからこの家の主が上がって来た地下への階段を駆け降りて行った。
「お嬢様!」
アルージャがすぐに追いついたが、アルティアがアルージャを睨み見た。
「……」
アルージャは口を噤み、主様家系には逆らえない。だが言った。
「お嬢様の安全を確保する事が勤め。わたくしが地下へ参ります」
アルージャはアルティアを残し、階段を駆け降りていった。アルティアの横をこの家の者が走って行き、止め様とするが、アルージャが鎧戸に手をかけた方が早かった。アルティアは階段半ばの暗がりで、影に覆われながらも息苦しさで眩暈を感じていた。
「!」
アルージャが目にしたのは、見る影も無いハシャーの崩れた姿だった。全身に拷問を受け、今は恨みに刈られた暗い目をたぎらせている。
カツンと主が振り返り、冷たい目でアルージャを見た。
「躾の邪魔はいかがなものか」
アルージャは目を険しくし、アルティアが万が一追ってくる前にドアを閉ざした。
「何故そこまでして」
主はハシャーを顎でしゃくり示した。
「我々に怒りをコントロールできないことはあってはならないのだよ。こやつはその辺りを鍛えなおさなければならない」
アルージャは顔を歪め、主の持つ鞭に視線を移した。
「影を見るということは、精神の砦なのだ」
「しかし……」
だがアルージャは口を閉ざした。影の家系に生まれたということは、覚悟がなければ一人前になれないのだ。その為にこの家には女はいない。もしも娘が生まれればすぐに養子に出されることになる。
「こやつはまだ若い。今が重要なのだ。もしも駄目ならば、本当にこの地下から出すことは無いだろう。若気の至りで恋に走ってばかりもいられないからな。今日のところは帰っていただこうか」
アルージャはここまで来た理由を述べなければならなかったが、果たして言っていいものか。
「アルティアが来ているんだろう。俺に会いに。俺には見える」
主はアルージャに背を向けたままで佇むが、肩越しにドアを見ると、顔を戻した。
「こいつは影の力を使ったな」
「俺がここにいる限り、影を操る。夜を縫って」
「それが心が弱いというのだ。いくら焦がれようと許されない。一生出たくないのか」
ハシャーは視線を落とし項垂れ、目を閉じた。
主は横目でアルージャを見た。
「お引取りを願おう」
「……」
アルージャは引くしかなく、ハシャーを気遣わしげに見てから、頷いて身を返した。
ドアをくぐり、暗がりでアルティアがこの家の人間と共にいた。
「ハシャー殿は躾を受けておられます。帰りましょう」
アルティアは首を振るので、アルージャは言った。
「あとはハシャー殿次第です。今後のことは」
アルティアはまだ不安だったが、相槌を打ってから、ドアをしばらく見つめた。彼女を囲っていた影の気配はどこかへ引いたようだった。
こうやって心配しても、女の自分には何もできはしない。アルティアは小さな石の首飾りを外し、そのペンダントをこの家の者に持たせた。ハシャーにこのお守りをせめても渡してあげてくれと言った。
「しかし、あなた様の名前は出せません」
アルティアは頷き、もう一度ドアを振り返ってから、階段を上がっていった。
彼女が帰って行くと、お守りぐらいはと主に渡した。
「仕方がない」
主は暗い目元のハシャーを見ると、それに今ハシャーがはめるピアスの金具に石を通した。
普段は厳しいが、人なのだから恋する気持ちは充分に分かるのだ。自身も若い頃は立場の違う娘に恋をし、駈け落ちをした先で捕らえられこの様に躾られてきた。厳しいようだが、これもこの家のさだめ。一度項垂れたままのハシャーを優しさの掠める目で見てから、今日の所は地下を上がって行った。
※診断メーカーの空想職業
<『奏者』です。髪は褐色。瞳は琥珀色。おとなしい性格で、風を使用します。
仲がいいのは『絵師』、悪いのは『暦織り』。追加要素は『長髪』です。>
テーマ「光りと闇」
主人公は竪琴を奏でる歌姫です。それを二人の性質が異なる青年を取り巻くお話。
2016,2,6
童話のあと
白雪姫
薔薇の真っ赤な狂い咲き……。
涙も黄金のキャンドルに消え果てまた呼び戻される。逃げても逃げても手首をつかまれ引き戻されて、そして鎖で雁字搦めにされて崩れるだけ。窓の夕陽は猛烈な勢いでやって来る悪魔の様。悦を引っ提げてここへと訪れる。闇になど落としはしないよ。紅にその身を染めつくしてしまうでしょう。影に全てを潜ませて生息する息遣いは微笑している。ただただ面白げに見ている。逃れられずに蜘蛛の巣に完全に絡み取られた姿を。
白雪姫は毒に痺れた体をぐったりとさせていた。既に真っ白い頬は青くなり瞳だけはきらきら光って視線を彷徨わせた。毒……いいえ。女王グリムヒルデの媚薬は可憐な乙女の全てを剥奪する。薔薇の唇、紅リンゴの頬、闇夜の長い長い髪、白雪の肌は今蛇の様に美しい女王の黄金の瞳に収められていた。瞳という名の檻に閉じ込められた様に射すくめられて弛緩する体は動かない。
女王の長い黒髪は、黒いビロードドレスの背に流れている。細長い脚はするっと覗き、そして隠れていった。白雪姫の視線がそれに奪われる。それでも手は伸ばせなかった。鎖につながれた腕は重い。女王はあでやかに微笑んで媚薬の瓶の口を白雪姫の唇からそっと離した。その口はしから紫の液体が流れ、白い首筋まで装飾する。女王は長身のスレンダーな背を立たせ、かつん、かつんと石の床を進む。円卓に硝子の鋭い瓶を置くと、肩越しに力を完全になくして崩れる白雪姫を見る。冷たく麗しい女王の瞳は今にも狂い咲く白百合の様だ。乱暴に、上品に。
朽ち果てたこの霊廟は誰一人としてやって来るものはいない。誰もが知らない秘密の砦。これから美しい鳥を入れておくのに丁度いい鳥籠。愛の巣になることだろう。この世随一の美貌を誇るのは自らがいいが、愛らしい存在は嫌いでもない。そしてその存在が蹂躙される可愛さにはそこはかとない悦楽を感じた。
既にネクロフィリアのあの隣国の王子はあちらに倒れて目元は金髪で隠れ見えなくなっている。とはいえ黒い目隠しで追われて見えないのだが。あの青年はしつこくて手間取った。白雪姫を再び手に入れようと剣を提げてやってくるが女王には適わない。
「うう」
王子が唸り汗の浮く上半身にキャンドルの灯が跳ね返った。口許を歪めて肘で起き上がるが、手首は腰元で拘束されているのでまともに動けない。彼の城地下には硝子ケースに腐乱した女の死体が収められている。時にカニバリズムの相を見せ食べるらしいが美しい物好きの女王は近寄りたくも無かった。
グリムヒルデは王子が邪魔をしない場所まで白雪姫を連れて行くために呼びかける。充分と体に媚薬の効力が行き渡った白雪姫は目を光らせて鼓動をはやらせ立ち上がり、揺れる瞳でグリムヒルデを見た。
「さあ。おいで」
群青ビロードのドレスをまとう白雪姫の白い手を取り、共に寝台へと歩いていく。肩越しに女王は振り返り、微笑した。
王子は気を取り戻すと目隠し越しの明るさに気づく。小鳥の鳴き声がする。どうやら昼の様だ。
首を強く振り続け床にこめかみをずらすと目隠しが取れ、あたりを見回す。そこは見覚えのある空間で、女王の管理する部屋だと分かった。向こうには青銅で出来てライオンの顔が脚になった浴槽があり、そこにはまるでぐったりと動かない白雪姫が四肢を出させ目を閉じていた。あの黒髪を長く長くしめらせ黒石の床に渦巻かせている。
「ピピ」
アーチ窓から青い鳥が青い空を伴うかのように滑空してきて、彼女の丸い肩にとまった。白雪姫の薔薇の様な唇にくちばしをつける。首を動かして黒い瞳で見つめていた。王子が動くとそちらを見て、途端に飛び立って行った。手首の拘束がそのままだったが、脚は媚薬の効力が切れて充分動かせるようになっている。よろめき立ち上がるとふらふらと歩いていった。間近に来ると、真っ白く浮く体が浴槽にあり呼吸をしている。
王子が膝を付くと、首筋に歯を剥いて一気に噛み付いた。ごりっと喉元が動きその瞬間えに言われぬ感覚が浸食する。が、そこで鎧戸が開いてそちらを見ると女王の下僕がやってきて王子の拘束された腰元の縄を引きあちらへ投げ飛ばした。
「白雪様に勝手をなさらないでいただきたい」
低い声で言い下僕は下がって壁際へ行き、ドアから女王が現れた。陽を浴びると尚美しい女王は凛とした顔で王子を見ると広い袖を引き寄せ優雅に進んだ。彼は立ち上がり白雪姫に視線を落とし、その彼女も朝日にきらきら揺れ光る水面に肌を光らせ美しく、まるで雫を落とす雪の間際に差し込んだ陽を纏っているかのようだ。それは神聖であってきよらかな纏いだった。
まるで夜の精霊の様な女王がゆっくりやってくると、王子の横まで来て伏せ目で微笑み囁いた。
「愛のときを紡いだわ。あなたが及びもしない程に」
王子は意識の無い白雪姫との愛の紡ぎ方しか知らない。知りえないし知るつもりさえ無い。王子は麗しい女王の顔を睨み見下ろし、視線を戻した。土に塗れてまとまる金髪がいきなり鋭く鷲掴まれ、王子は顔を歪めて女王を見た。まるで感情も無い水色の瞳で。
「わたくしの家臣におなりなさい……」
青い鳥
瑠璃色の鳥は湖横の石の霊廟地下から飛び立ち、柳を揺らして離れていった。その姿が湖面に映り、青い空に溶け込んでいく。
高い声で鳴く神秘の鳥は森の上空を羽ばたき、戻っていった。
白い雪をいただく連峰の麓は深い森。暗い暗い森の先に洞窟があり、そこを目掛けて一気に風に乗る。
「まあ。戻ったの。半月ぶりね」
夜の枷
寝る間の夢は僕を悩ませる。どうしようもなくぐったりした感覚で目を覚ますと、まずは今まで見ていた夢の内容が目の前を占める。そして同時に思う。夢での生活の後に現実でも一日が始まると。夜に見る夢は数時間の間に見ているだけだというのに、数日間の夢旅をしているのだからたまらない。
夢夜(ゆめや)と名づけられたが為に夢に縛られるのだろうか? 一時期学校では仲間内では「夢也」という認識するように頼んでいた。それなら前向きに将来の夢に対するにあたる男らしい名前に見えるからだ。現に彼の将来の夢は作曲家になることで、それも自分の体験をもとにしてヒーリング系やアンビエント系の曲を作れたらと思っている。民族楽器や日本古来の楽器などはそれもが心や体に訴えかけてくるものだ。それらを使用した音楽を作りたい。自分もぐっすり眠れるような音楽を。
白い猫が間口からやってきてベッドに飛び乗り、頬に胴体を当ててくる。夢夜は微笑んで体を撫でてから、今度は黒い犬がやってきてベッドの横に座って見上げてくる。首元を撫でてやってから微笑み、立ち上がって歩きテーブルセットの椅子に座る。その上には林檎が籠に置かれ、白いカーテンから射す朝日で影を伸ばしている。しばらくはぼうっとそこに座っては窓の外の植物や窓の下に置かれたベンチに並べられるハーブを眺めて過ごした。出来るだけそれで現実世界を整理して感覚を呼び戻すのだ。毎晩の夢に囚われるとまた夜に夢を見ることになる。
しばらくしてからペット達に餌をあげるために立ち上がって用意をする。今日は休日なので、クロゼットの扉を開けてから着替え始めた。緩いジーンズにベージュのヘンリーシャツ、薄い灰色のニットコートにハンチング帽を被る。ブーツを履いてから麻を編んだバッグにいろいろ入れる。指だしグローブをはめてから振り返った。
今日はバイクでキャンプ地にでも軽く遠出でもしようかと思ったが、やはりペットも連れて行こうか。それだとフォルクスワーゲンにいろいろ詰め込んだほうがいい。一日泊まるとしても、テントで眠ると夢を見ない。草原でのテントは地面が柔らかいし草の薫りもするのだ。いつも猫は気ままに部屋で過ごすので大目に餌と水を用意してあげれば大丈夫だ。
「よし。出かけるか」
「ワウン!」
さっそくキャンプの用品を出す。テント、タープ、寝袋、ランタン、下着、ペンライト、リード、玩具、餌、カッパ、ラジオ、オカリナ、などなど最低限のものを持っていく。食事はそのキャンプ場に毎回利用する軽食カフェがあるので良い。基本的に彼は燃料を使わない主義だ。
仮面
人形
僕は何時からかふるえる手でその仮面を身に付けるようになっていた。サーカステントは薄暗く、テント内部は空気が淀んでいる。背後ではドーベルマンたちが唸り何かを威嚇し、所狭しと置かれた美術道具や曲芸の小道具の間で影と暖色の明かりに染められていた。
道化師の一人である僕。擦れた首輪の革が鈍くざらつき鏡に映る。ドーベルマンと同じ首輪。ここでは誰もが同じような暗い目元で自身を睨むのだ。
孤児院から連れてこられたばかりの頃は何も分からなかった。時に笑いもしたし団長に褒められれば何でもした。サーカスは回転木馬のように楽しげに幕開き見る僕の目に光を射して、サイドから立ち込める暗澹とした皆の異様な目元はそれさえも照明とギャラリーの歓喜に紛れていた。気づかなかったそれを、つい一ヶ月前に気づいてしまった。僕の首に掛けられたレトロな首飾りはそんな洒落たものなのではなく、拘束を目的とした首輪でしかなく、団員たちの腰元には頑丈な鎖が取り付けられる輪があり、幕の陰では誰もが実に深い混沌にいたのだと。黒いアイラインやメイク、仮面に隠れる彼らの感情は団長によってかき消され、奮い立たせた根性で舞台に上がって演術を見せていた。終焉のこないその場所で。
子供の頃は夜も深まれば小さな隅っこのクッションに丸まって布に包まり熟睡し、朝には起きて皆と長いテーブルを囲って食事をした。昼間は一人訓練に明け暮れ狭い広場に植えられたいろいろな花に囲まれ、笑顔でジャグリングをしたりしていた。食事の時以外は大人たちを朝と昼には見かけなかった。
終わりを見せない演術……幕の降りないサーカステント。
団員たちの目に気づいてからというものだった。観客たちがどんな顔をしていryのかに気づきはじめたのは。誰もが享楽に笑い、声は乱舞し廻り廻り、それら全て悪辣とした狂喜の表れだったのだ。
<魔物>それらがこのサーカス団の観客だったのだ。眠る事も食事もしない快気にのみ生きる者たち。その角や裂けた口に並ぶ牙を知って僕は驚き、幕の隅へ走って逃げがたがた震えた。
「彼らは人じゃないの?」
「駄目だ、仮面を取るんじゃ無い」
震える手で取ろうとしていた仮面の手が押さえられ、メイクのされた団員の目が僕を間近に見てきた。充血した目。細い鼻筋に寄せられた皺。
「素顔を見られたら連れ去られるぞ!」
暗がりだと隠しきれやしない目の下の隈。今まで彼らの眠る姿を見ただろうか? 明るみに出た事は。
ジャグリングをせずに走って行った僕の背を初めて団長の鞭が襲った。一気に首輪がきゅっとなった気がして隅にいる団員たちの姿をまじまじと見た。誰もが鎖に繋がれていたのだ。出番以外では……。
それでから、僕も不眠サーカスの本物の一員になり、この悪魔のテントで猛犬に見張られ演じ続ける。気づけば、団長でさえ魔物の尻尾が揺らめいて、鞭としてゆらゆら揺れていた。仮面の無い素顔のまま。
あなたと私
あの薔薇の薫りを覚えてる? ほら、私と美結で少女のときに通ってた。庭園に咲いてたあの薔薇よ。
いろいろな色と種類に囲まれてたの。つる薔薇も、ブロバンダも。
あの時、私は美結が薔薇に見惚れていたから嫉妬して、あなたの気を惹かせようとしたのよね。鋭い棘は寂しい私の肌を傷つけて、美結の視線を奪った。
奪ってそしてあなたの唇はその血に寄せられ、薔薇より血色のルージュをつけた。私の顔を見たあなたは、そっと静かに微笑んだ。
「なんで、こんなことをしたの?」
少し悲しげに言って、その血色のルージュの唇で頬に口付けをしてくれた。
私とあなた、薔薇の薫りに囲まれて。
理想的な空の色は光を落として花弁と二人を照らして、そして同じ心にしてくれる。
それを信じていた。
あなたは私の知らない方法で心が離れて行った。
男の子と芝生の上でピクニックをして微笑んで、一緒にブランコに揺られて笑っては、一緒に手を繋いで走って行った。
それは私たちが初夏の薔薇の庭園で話し合う昼下がりのまどろみとは違って、夕陽の色が熟れはじめる秋の薔薇園での帰り路で……。
今はもう、あの薔薇園は冬の帳に落ちている。だから足が向かないの。
時期を違えた花瓶の薔薇は一人でいる私の肌を傷つける。
『振り向いてもらいたいから、傷つけるの?』
その言葉は今の孤独の室内には響かない。私の勝手な理想が描いた声だから。
<私たち、結婚しました>
葉書に血がぽつり、ぽつりと落ちる。成長した青年の顔をそれで汚す。私の涙があなたの顔写真に落ちる。花瓶の薔薇はただただ美しく紅いままに私を見ている。
私の心はあの頃のままよ。薔薇に嫉妬して、彼に嫉妬する心は紅いまま。
ただ、痛いだけで顔をゆがめて泣いた。心も、指も、恋も。
覚えているのは私だけ? 一緒に同じ花を見て微笑み合った顔も、あなたが寄せてくれた唇も。
窓際に歩いて行くと、ひんやりとした夜気が届くけれど、心を冷静になどしてくれない。
視野に映る情景は彩りはなくても、記憶の光は乱舞している。共に踊って白いレースのワンピースも、髪も軽やかに薔薇園で翻していた。
ガラス窓に白く浮き上がる自分。夜を背景に佇んでいる。誰も横にはいなくたって、今まであなたとの記憶だけで充分だった。
でも、今は違うのね。あなたは彼の愛情を一身に受けている。
ワインをグラスに注いだ。同じぐらい紅い花弁を浮かべる。酩酊の幕開け。
雪の砦
私はその人のこめかみの二つボクロを見て、彼女の横顔が星の光る夜空色ならどんなにか美しいだろうと思った。梢のシルエットを浮かばせて。
「螺旋を描いて結晶は降りてくる」
美斗(みと)は白い息を吐きながら雪を纏った木々の枝先に光る銀の星を見る。
「知っている? 水はね、記憶を留めるということ。こうやって凍てつく氷さえも記憶しているの」
美斗の手のひらに舞う結晶は、とても繊細だ。心さえも優しくなる程に美しい。
「……綺麗ね。雪の結晶」
彼女は優美に微笑み、頷き言った。
「あなたの心はきっと澄んでいるのね」
夜闇に浮く白いコートと、私の深緑のコート。肩を寄せ合って降りてくる雪を見ていると、心にまで蓄積されていくみたい。
森からは狼の群れの鳴き声。月は鮮明に向こうで輝いている。凛とした腹に据える遠吠え。生命の神秘を感じる。
雪原には月光がきらめいて、風が吹くときらきらと白く浮いて舞っていく。常闇の底へと向かって行くと云うのだろうか、今にも旋律を響かせて。
クリスタルをキーン……と爪で弾き鳴らし続け、星の音とした。幾つも流れて行くあの流れ星。透明な空気は心情を体に氾濫させる。共に寄り添っていたい心を。
風の音は吹き荒れて、駆け巡っていく。時に乱雑に髪を靡かせて頬を冷やして行く。唇を閉ざしたままに、命を、魂を溜め込んで。
blue evening ~青の宵~
窓辺。
それは様々なものを覗かせる。
そっと目を向けてみると、青い宵が待っている。
私は切り抜かれた夏の夕刻を眺めて、ふと「綺麗」と思う。
以前、蚤の市で見つけた手鏡。それは露天で寂しげな冬の空を映していた。木枯らしが枯葉も落ちた梢に吹き抜け、私達の頬も掠めていった。
織物の上に並べられたいろいろな物はそれぞれが魂を持ったもののようで、曇り空だから影も無く、静かな店主はただただ小さな椅子に不動でいる。風にもそよともしない物達と、そして声を掛けてもしばらく答えなかった相手。
「見させていただいてよろしいかしら」
「ええ……ご自由にご覧になってくださいまし」
「どうもありがとう」
アンティークな置物が並んでいる。まずは全てを見て行くと、手鏡を見た。
鏡面の雲は全く動くことは無く垂れ込めて、時々カラスがかける。
「お嬢さん、鏡をお探しで」
「少し、気になって」
店主が初めて顔を上げ、唾の広い帽子から顔が見えた。
「……」
正直、目が奪われた。蒼い目をした黒髪の男で、肩からゆったり流れる髪と黒いマフラーは真っ白い肌を引き立ってる。静かな声だったため、老人なのかと思っていた。
瞳の色は変った色味で、水色や青というよりも、まるで朝方や宵時の蒼。満遍なく光が充ちているのに落ち着き払って深い、なのに新鮮で生まれたばかりの太古から続く宵と朝の色。
それほどに、彼の見た目の若さとともに横たわる深みは不可思議な存在にさせる。まるでそこだけ空間を切り抜かれて時空の進みを不確かに、めちゃくちゃにしたかのような。
何者なのだろうか。老いて思えて若く見える彼。カシミアの乗る膝は長く、長身を連想させたが実に細い。
教会の鐘が昼を告げ、彼は微笑んだ。
「綺麗なお嬢さんだ。共にお食事はいかが」
小さな椅子をもうひとつ。
今は湯気を上げるカップを手袋の手で包んでコーヒーを頂いていた。露天の店主達はおのおのが袋からサンドイッチを出したり、バケットからピクニック用品を出していた。
「エリオットさんはこのあたりの方?」
「私は先だって、橋の向うから来ましてね。ほぼ北上しながら生活をしている流れ者です」
首を背後に向けた彼は森の先を示した。すると、小さな馬車が見える。ロバが二頭いる。
「師匠から修行を命じられ、旅を続けているのです」
2015.6.30
薔薇の挿し木はいかが
芝の見えるお宅。白いアーチを潜っていくと、良く手入れのされた庭が広がる。
暁(あきら)は三十本ほどの薔薇の挿し木を、白い石台に並べた。
これは大輪の紅いツル薔薇の秋芽。来年、薔薇垣を増やすのだ。
彼女が石台に向う背後は、秋の薔薇が囲っていたものの、既に濃い緑色になって囲っている。
黒髪に黒のシックなワンピース姿の彼女には、その緑の佇まいもとても良く似合った。
白壁に這うツル薔薇は、時期に咲けばそれは見事な美顔を誇る。そして薫りも楽しめた。
大振の平器に水を浸していく。
「暁ちゃん」
彼女が振り返り、見上げた。
葉薔薇のツルに囲まれた二階部の窓から、妹の鈴(れい)が顔を覗かせる。
「鈴ちゃん。いらっしゃいよ」
鈴は暁の十個下の七歳で、おとなしい性格をしている。彼女はこくんと頷いて部屋へ引いていった。
暁は二種類の麻袋のヒモを解きはじめた。薔薇の挿し木に使う土が入っている。
「暁ちゃん」
芝生をお気に入りの黒兎の縫い包みと、それに白い服を抱えてやってくる鈴を見た。
「いらっしゃい」
「これ……」
鈴がはにかみ笑顔で差し出した。今日はちょっと寒い日だったから、暁の七部丈のワンピースが寒く見えたのだろう。
「まあ、どうもありがとう」
白いカーディガンを羽織って黒い釦をはめる。鈴はオーバーオールのスカートと、白いパーカーに、縞模様の厚手のタイツを履きこんでいた。どちらも風邪を引きやすいので、よく分かっているのだ。
鈴はよく気が利く子だった。
「葉っぱがたくさん」
「薔薇よ」
「えっ」
驚いて、まるで魔物を見るかのように見て来たので、暁はクスクス笑って応えた。
「大丈夫。心配しないで。薔薇を増やせるのよ」
「本当?」
心配そうに切られた薔薇の葉枝と、それに背後に広がるツル薔薇を鈴は交互に見た。
「ええ。これを、水の入った器に一本一本浸していくの」
既に棘の取られた枝を笑顔で二人で水に浸していく。
「これでお花が咲くの?」
わくわくして鈴が見上げてくる。白い台に跳ね返る陽で頬を白くしていて可愛かった。目もキラキラしている。
「ふふ。まだまだよ。これをね、水につけたまま茎のところを鋏で斜めに切るの。フラワーデザインのお稽古でも、バケツに入れたまま茎を切るでしょう?」
「はい。斜めに切るとお水をたくさん吸うの」
「その通り」
不思議そうに鈴が、花はおろか芽も無い薔薇を見まわす。暁に倣って鋏を持った。
「葉の生えている五センチ下を斜めに切るのよ。それで、二本目の葉が生えている上は、三センチ上を普通に切るの」
「こう?」
「ええ。上手ね。そのまま水にまだ浸しておいてね」
それでどんどん切って行く。
空はよく晴れていて、いろいろな種類の小鳥達の鳴き声が聞こえる。暁が視線を上げると、プラタナスの木々の上に鳥が停まってこちらを見ていた。
「これはね、一時間、水につけておくの。今度はこのポットを並べてね」
「はい」
白い台にたくさんの黒いビニールポットを並べていく。
「麻袋から鹿沼土と赤玉土をこのトレーに5対5の割合でいれて、よーく混ぜるの。それでから、このポットにスコップで土を入れていくのよ」
「はい」
全部で五十個のポットに入れていくのだが、五個まで入れて鈴が言った。
「暁ちゃん。これは、ポットを全部積み重ねておいて、トレーから入れてから並べて行った方が楽よ」
七歳児の当然の突っ込みに、暁は微笑んで鈴を見た。
「……」
「真っ白いものを黒で埋めつくしたくなったの」
「暁ちゃん」
いまだ並んでいる半数のポットは穴が空いて白い星が夜空に散らばっているようだった。その半数を今、暁が意地になって掻き集めているのだが。
にっこりと微笑んで暁が言った。
「さあ。土を入れましょう」
「はい」
二人でスコップで入れていく。
「これを全部おうちの薔薇にするの?」
「五本だけよ。あとは配るの。来年行なう薔薇の宴で出展するのよ」
「楽しみ」
ふふ、と微笑み合ってから全てポットを埋めた。麻の袋を締める。
「まだ一時間ぐらい、茎を水につけておくほうがいいわ」
「お茶しましょ」
まったりした可愛さで鈴が言うと、二人で用意しに向う。
「ハーブを摘みましょう」
「ハーブティーね」
鉢にミントの葉がまだ残っているので、それを摘んで指でちぎりながら硝子のポットに入れる。お湯を注ぐ。
「なんでミントだけ鉢で育てているの?」
「ミントはね、野生力が強いの。土の下でどんどん茎が繋がって繁殖するから、いつの間にか庭がミントだらけになるのよ。それで、鉢で育てて、出来るだけ花芽も摘むのよ。そうすれば、種が土に落ちないでしょう? ミントは薔薇と同じで何年間も生えるから」
「だから毎年見るのね」
昨夜、鈴がママと作ったクッキーの筒缶も持ってきた。秋の香りの強い薔薇が裏の庭に何種類か生えている。その薔薇の花びらで作ったジャムを入れたクッキー。
「おいしそう。鈴は本当、自慢の妹だわ」
「おあがり」
「いただきます」
甘く香って、二人をしあわせにした。
ふいに鈴が言った。
「暁ちゃんのお部屋のパソコン画面、女の人が緑の葉が生えた鉢を抱えて微笑んでる絵」
「バジルの鉢よ。あれはね……」
その後を暁は続けなかった。まさかそのバジルの鉢に生首が入っていて、そのハーブを後生大切に育てている女の絵だなんて、鈴には言わない。
「ハーブに興味を持ったきっかけなの」
事実でもあるのだが。
暁はレモンの蜂蜜漬けも出してあげた。ハーブティーをカップに注ぐ。
蝶の羽ばたき。花を求めて、裏まで舞って行くのだろう。多くの種類の蝶を見かける。鈴はうっとりと頬杖を着いて目で追っていた。愛の乱舞を空高くまで見せる蝶。
「鈴は好きな男の子、いるの?」
すると頬を染めて俯き、首を振った。
「ミカサくんはリカちゃんが好きなの」
兎の縫い包みの耳を開いたり前後させたりしながら言った。
「じゃあ、お姉さんが」
「いいの! 暁ちゃん怖いからっ」
時々暁の部屋からは何か、呪文か分からないけれど聴こえる。ただ歌を歌っているだけなのだが。協力して一緒にプレゼントのお菓子を作ってあげようとしただけなのだが。媚薬入りの……。
「ま! もう一時間経ったわ」
「はい」
また台に来た。
「カヌマ土とアカダマ土を混ぜたのよね」
「ええ。もしも、初夏に咲いた薔薇で夏に挿し木をする時は、パーライトとピートモスを7対3で使うの。モスは苔だから、水分を含んで夏の乾燥を遅らせることが出来るのよ。これは秋に咲いた薔薇だから鹿沼土よ赤玉土を使うの」
「ふうん」
「ポットを十個ずつ、この平トレーに入れていくのよ」
すぐにそれをする。ジョウロを持ってきた暁は、土の入ったポットに水をかけてしめらせていった。そしてポットの入ったトレーにも水を二センチほど溜める。
「トレーにも水を溜めておくと、新芽が出て来るまで水を少しずつ吸い上げてくれて土も乾かないのよ。冬場は植物が生長が遅くなったり、眠る時期だから、それほど水の管理が必要なの」
ひたひたに水が張られて、その小さな水面にも青空が映る。
「今度はこのボトル」
「これはなあに?」
「ルートンよ。この白い粉を土に挿す部分につけると、発芽が早くなるお薬」
「暁ちゃんが毎夜飲んでるお薬」
「は睡眠薬よ睡眠薬睡眠薬睡眠」
精神でも病んでそうな真っ白い肌で言った。
ボトルから皿に、白い粉を出す。
「……」
それを二人で挿し木の下部につけて行く。
「粉をつけたら、棒で穴を開けたポットの土に挿すの。だいたい、三センチぐらいかしら。その後は、しっかり茎が動かない様に真っ直ぐに立てて、土を指で少し固めてね。少しよ。それと、葉と葉が重ならないように、それぞれ外側に向けて挿してね」
鈴が頷いてどんどんとやっていった。
「お上手」
「うふふ」
あっという間に五個のトレーは十個ずつの薔薇の挿し木ポットでうまった。
「ピートモスって可愛い名前」
「ミズゴケが主原料なのよ。他にも、柳とかアシか腐敗して、積み重なった泥炭層の土を使ったものもあるの。だから、植物系のモスがつくの」
「ふうん」
「本当は鹿沼と赤玉にピートモスを混ぜると、冬場の水の管理も少しは楽になるんだけれどね。今回は入れなかったわ」
「楽しみ」
「ええ。本当」
彼女達はそれを日陰のある屋根の下に運んだ。
「しばらくはずっと、日陰で管理するのよ。トレーの水を切らさないようにするの。それ以外はもう発芽を心待ちにしましょう」
「はい!」
そろそろお昼の時間。
「さあ。おうちに引っ込んでお昼ご飯を作りましょう」
昼の陽射しに溶かされるとでも言う勢いで、暁はトトトと屋内へ入って行った。
夜型人間、日の出るうちは、朝から昼前にしか外に出ない暁は、本当にまるで暁の星の様に美しいのだけれど、いかんせん……魔女っぽい。と鈴は思っている。
暁はセラピー作曲家なので、作曲も自分の好きな時間に仕事をするのだった。またパソコンで夜に打ち込みをすることだろう。
鈴はキャアアッと叫んで暁が鍋に乾燥トカゲの尻尾をぶっこんだので驚いた。
一つの初秋
嵐の後の虫の音は より一層の生命感じ
さやけし風の涼しさは 心では詫びしさも兼ねて思えて
揺れる緑と風の織り成す 自然の歌は聴こえますか?
爽やかな 蜜柑の薫りに包まれて
三羽の蝶の 愛の乱舞に目が眩む
露草の 黄色い唇 青い頬
身に染みる 秋の雨の冷たさよ
空を行く 雨雲に見る 鴉の羽ばたき
雨の日も 曇りも蝶の強い羽ばたき
口端と 一緒に肩も上げてみた
雨降って 地が固まると 草花活き活き
口噤む 弱音も上がる息も抑えて歩け
幾年の夏を乗り越え秋になる
蝉の声 潜まれ土に還って行くので
夏虫が 秋虫の音に 唱和する
すずやかな 風と縫い行く 鈴なり蜜柑
素敵な歌の 噂を聞いて 心が澄み行く
立ち止まり 見渡す風景 笑顔呼ぶ
雪子
激しい吹雪だ。
うーうー唸る北風にむかって雪子は田舎路を歩いていた。
雪の積もる路を、藁でできた長靴で踏みしめて。目のまえは自分のまつげにたまる雪で白くぼやけている。瞬きするごとに。黒い木はすでに冬眠に入ったのだろう、枝がただただ揺られに揺られている。
雪子は強い風にたおされないように前かがみで歩きはじめた。どんどんと厚手の茶色いコートに雪がたまっていく。耳当て付きの毛糸の帽子も、マフラーも、どれも鮮やかな赤紫色。そこから黒く長い三つ編みがふた筋。
「うう、早く到着しなきゃ」
雪子の実家から岳の家までは、だいたい歩いて二十分ほどの場所にある。そこまでには、今は雪にとざされた牧場が広がるのだが、その間を歩いていた。だから、何も風をさえぎる物がない。容赦なく吹き付けてくる。
「岳に早く会いたいし」
雪子がこの牧場に戻って来て、まだ五日ほどのものだ。冬休みを毎年ここで過ごすのは、地元の祭りに参加するいわれがあるからだ。
岳の家は雪子の実家からは一番近い家で、小さな商店を開いている。この辺りではなくてはならない店だ。日用品や小物、調味料などが売られていた。食料などはほぼ自給自足なので、民家ごとで物々交換などがされていることが多い。
牧場にかこまれた小路をでて、広めの路に出る。定期的に除雪車が通るので、牧場端は雪山になり、吹雪の方向もかわる。
彼女は急いで走っていった。はあはあと白い息が舞う。
檜林に入ると、木々の先に一、二軒の無人別荘。そこをこえて、林道を抜けると、そびえる連峰が見えてくる。その白い山を背に歩く。路にそうように吹雪くと、気を抜いて倒れそうになる。
「もう、大分なまってるなあ」
自分に叱咤。村にいたときは、家をよく手伝って藁にまみれたし、牛の世話もしては四季が彩る山を走り回った日々だけれど、現在住んでいる他県の町の高校では、手芸部に入った。自分からスポーツをしなくなって五年だ。
「ようやく着いた」
路なりに歩いて、山川商店が見えてきた。その二階に岳はいる。
木がかこう商店の横を歩いて、横手にある玄関の戸の呼び鈴を鳴らした。
しばらくすると戸があいて、すぐに入った。
「おばさん。お久しぶり」
「雪子ちゃん。元気そうじゃない! おあがりよ。さあさ」
「はい。おまじゃします」
雪子は手製の藁の長靴を雪を落としながら脱ぎ、コートの雪を払ってからそれをフックにかけた。帽子もかける。
雪の結晶がたくさんのって光っている。
藤色のセーターと黒いズボン姿で歩いていった。毛糸物は全部、手芸部でつくったお気に入りのものだ。
廊下を歩き、居間に来ると岳がコタツに入って笑顔で手をあげた。
「おう! 雪子!」
「ひさしぶり。岳」
ちょっと雪子は驚き、はにかんでから早めにコタツに入る。
「大人びたね。岳」
まじまじと見ると岳はにかっと笑った。お互いに十七になった。それは男子は顔立ちも変わるだろう。一年前はまだまだガキだったのに。だが、声は相変わらずの調子だから安心した。
雪子は背が低い方なので、いつでも岳と雪子はたがいをガキ扱いしてきた。
「あんた、祭りで笛吹きの先頭やるんだってね。ママがうれしそうに言ってた」
「ああ。半年練習したんだ」
二つの村が合同で行なう冬の祭りは、その間にある社の神様を祀るもので、毎年、社の近くの合同小屋で行なわれる。各家の長男か長女は婚姻、または成人するまでに必ず出なければならない。少年は笛や鼓を、女子は舞を踊って、この村の子どもたちの健康を願うのだ。しかも笛吹きの代表に選ばれることはとても良い事で、村にいろいろと貢献してくれた少年にみなの推薦で与えられる役なのだ。
「はい。雪子ちゃん。お茶よ。それにこれ、預かっておいたもの」
「どうもありがとう。おばさん」
それは去年、雪子が舞った時に来ていた衣装とお面だ。毎年、次の子に渡す前に刺繍を施すいわれがある。すると、前の子の健康に翌年の子供があやかることができるのだ。それは毎年衣装を巡って交換しあう。
「今年は十七の年だから、特別な刺繍ね」
「雪子は手芸部になってから、本当に刺繍うまくなったよな」
いつでも雪子は岳にほめられることが好きだった。子供っぽいけど正直者だし、小さな頃から岳はよく雪子をほめた。だから、こうやってセーターとかマフラーを岳に毎年ほめてもらいたくて頑張る。
「ふふ」
今も岳は雪子が二年前に編んだ帽子をかぶってくれていた。
毎年、先頭の笛吹き少年の家に祭り時の衣装や楽器が集めらる。その家は一ヶ月前から特別な神棚が設えられて、それらの道具を収めて、家を清めるのだ。その一番奥手にある部屋は入れないようになっていた。そして、一週間前の準備期間に衣装が出されて、居間に集った女の子たちが刺繍を施すのだ。
それもあと二日。雪子だけが村を出ているので毎年ぎりぎりになる。この五日間はいろいろと忙しくて、とくに遅れてしまったのだ。
雪子が針と刺繍糸を出すと、岳がおちゃめな顔で覗き込んできたから驚いた。
ちらりと岳の母を見るが、おばさんは居間から台所へ行ったみたいだ。
「な、なによ」
「お前、顔変わったな」
「そう? あんたの方が変わったんじゃない」
「そうかあ~?」
雪子は頬が染まるのも抑えられずに刺繍をはじめる。
「また付き合うか?」
「ば、ばば、」
雪子は顔を上げて焦って言った。
「いつあんたと付き合ったことなんかあったのよ!」
だが、コタツから出てロッキングチェアの横に移動した雪子を岳が真剣な顔で見た。
岳はいつでも雪子から見れば、放って置けないお馬鹿、高校生になっても悪戯をやめないどうしようもない子だった。可愛くてどうしようもない、憎めない幼馴染み。高くなるのは背だけね、と毎年雪子はひけらかしてきたのに。だから、ママから先頭笛吹きの話を聞いて驚いたし、現に大人びた風の岳に戸惑った。
「今は大切な時なの」
「俺はさ、二十歳の祭りのとき、雪子と一緒に式礼に出たいんだ」
「え?」
「駄目か?」
それは、特別な行事だった。正式には、十八の時に相手が決まった者同士が、冬の祭りでその仲を公言されて、衣装を渡す女の子に認めてもらい、そして二年後の二十歳の儀式でそのときの少女に二人を祝福してもらう舞いを踊ってもらう、いわば村に古く伝わる婚礼の儀式だった。
「この衣装、今年は毬子の妹に行くことになる。そのあとの衣装は毬子が着る。儀式では、姉妹が連続して花嫁の衣装を受け継ぐことで、祝いの力が強くなるんだ」
雪子は何も言えなくなって、ただただ混乱して岳を見ていた。
「返事は急がないからさ、いきなりだったし。ただ、」
岳が口ごもってから言った。
「俺ずっと雪子が好きだったから」
雪子は目を見開いて、照れて「いやあー!」とうなじをかいて笑う岳を見て、まばたきを続けた。
「え? す、わた、え、す、」
彼女は衣装と鮮やかな色の糸を持ったまま、いきなり腰が抜けてその場にべたんと座った。
「もう! 照れるー!」
岳がくねくねして自分で自分に腕を巻いた。
この調子だ。いつでもこう……。雪子は悔しくもドキドキしてしまって、衣装を見つめた。
縫いとめる刺繍に健康と愛を。その代わりに祝詞をもらう。
「一年考えさせて」
雪子がつぶやいてから、うかれている岳の横顔を見た。
岳はぱたりと口をつぐんで雪子を見て、いきなり紅潮して離れて行ってしまい、向こうに座った。
「うん……」
雪子は泊りがけで刺繍を完成させることになる。毬子の妹、玉子の健康を祈って。玉子は雪子の一つ上で、毬子は玉子の双子の姉だった。双子の場合は両方舞うことになっていた。その間に自分が入ったのは、五歳のときの初めの儀式で、社からの競争で順番が決まるからだ。一番初めに着いた子が第一に神の祝福を受けると考えられ、最後の子にもそれが行き届くように、前年の一番の子の刺繍した衣装を最後の子が着て、それを逆さ周りに回し着ていく。
雪子は病気をしたことがないし、風邪もひかない。村の娘たちは比較的同じように健康だった。だれもが快活だ。高校でも、皆が風邪をひいても雪子はわりと平気だった。
一年の健康だった自分を思い返しながら、一針一針縫っていく。玉子はいつでも雪子に優しいお姉さんで、雪子は毬子、玉子によくなついていた。
翌日は牡丹雪だった。
ふわふわと降り続けている。雪子は微笑んで衣装を見つめて、笑った。
「できた!」
それが昼の光りに照らされる。
「………」
その白い布地の部分に、元気に笑う岳の笑顔がふわっと浮び広がった。
「!」
雪子は頬を紅潮させてドキドキし、衣装を胸に抱えてばっばっと左右を見た。誰にも見られていなかった。もちろん、岳も。
「そういえば、岳、今年は三回も消防で活躍して頑張ったんだってママが言ってたっけ」
川に流された人を助けたり、行方不明になった人を山で見つけ出したり、それに夜の見回りで下着泥棒をした人を捕まえたりしたらしい。
立派になったなあ、岳。と雪子はうんうんと頷いた。
「おばさん。刺繍ができたわ」
「まあまあ、綺麗だわ!」
「えへへ」
岳の母はそれを大切そうに持って、神棚のある部屋の襖に入って行った。
それを他の衣装と重ねて置く。神棚の前でお祈りをする。
雪子はずっと手を合わせて目を閉じていた。いろいろな一年の出来事が浮んだ。喜怒哀楽も、健康に過ごせたことも、それに、やはり岳のこと。
笑顔で雪子を見た。
「雪子ちゃん。岳と散歩でもしてきなさいよ。もう待ち遠しそうにしてるわよ」
「え? 本当?」
雪子はいつでも岳に引っ張られて、そりだ、スキーだ、犬と追いかけっこだ、かまくら作りなどをするので、玄関に向うと、彼は用意が整っていた。
「行こうぜ!」
ぐいぐい引っ張って来る。
どんどんと路を歩いて行く。
雪子はどきどきと心臓が飛び跳ねていて、引っ張られながら帽子を被ってマフラーが揺れた。
白い世界に浮く雪子を振り返った岳が、しばらくしてから言った。
「……似合うな。雪」
「………」
雪子は、眩暈がするほど目の前がきらきらとした。
さあっと風が吹いていき、青い空に白い雪が巻き上がる。凍て付く風は、二人の距離を縮めた。
ふわっとお姫様だっこをされて、一気に視界が高くなって岳の顔が近くなった。そして、そのまま抱きしめられた。
「高校が遠いから、遠距離になるけどさ、俺はそんな距離は、今まで以上に寂しくなるって思ってる。でも、気持ちはずっと強くなって行くんだ」
ぼそぼそと、心地良い声が耳元で囁かれる。
雪子はこの胸の高鳴りをいつわれなくて、心から村の神様に健康と自分たちの仲を見守ってもらえたらと思った。
「うん……」
雪子は岳の頭に腕を回し、ずっと抱きついていた。
「こんなに逞しくなってたんだね」
雪子は自分を抱き上げ抱きしめる優しい腕に包まれて、一筋涙が流れて行った。
そうか。ずっと、岳に会いたいから、帰って来ることが楽しくて、待ち遠しくて、仕方なかったんだ。雪子は腕をゆるめて、岳の目を見た。いつでも、お茶目な瞳の奥に宿る優しさの眼差しがきらきら光っている岳を。
自然に、目を閉じていていた。胸が高鳴……。
「おーい! 岳何やってんだよヒューヒュー!!」
「それは雪ん子かあ?!」
雪子も岳も顔を紅潮させて彼等を見ると、雪子を下ろしてごほごほ咳払いした。
「う、うるせえなあ!」
「あんたたち!」
「へへーい!」
はやしたてて二人の村の男子は走っていった。
「んもう!」
雪子も岳もその背から、顔を見合わせて、恥かしくなって互いに顔をうつむけた。
「よ、よろしくね……岳」
「お、おおう、よろしく、な、」
「あ、あの」
「な、なに」
雪子はばっと顔を上げて、岳に言った。
「高校卒業したら、村に戻ってくるからさ、牧場の手伝いもあるし」
「本当か?!」
頷いてから、そして彼女は笑った。岳はドキッとして、口をつぐんだ。
「だから、それまでは待ってて。毬子さんと玉子さんに、祝ってもらえるように。神様の前で誓えるように」
2016.1.26
梅と雪
化粧筆を取り、顔の縦に白粉を引く。片目が閉ざされる鏡台に映る顔。その眼も開き、自身を見る。
そしてどんどんとひやりと冷たい白粉を塗っていく。肩まで出た首筋にも。
手早く紅を差し、目元にも朱を入れ、眉墨で半月を描く。
半端に開けられた障子から冬空に冴える椀月が挙がり、松葉の月影を雪と障子に落としている。既に凍てつく葉菖蒲も氷に閉ざされた池は粉雪がうっすらと積もり、巻き上げる風によって月光できらきらと光っていた。
横目で捉えるその庭の一番奥には、ぽっと彩る紅梅と白梅が夢見心地で咲いている。その梅の花びらは紅を引いたくちびるにも、白い薄目蓋にも似ている。
その名を頂いた芸者、梅吉は化粧を終え、鏡台に映る顔をしかと見た。その瞳は月が照るように光沢を受け、今にも泪を零しそうである。
白襦袢を引き上げ、姿勢良く立ち上がると着物を着付けていく。
黒の振袖に黄金小槌の帯を垂らし、肩越しに姿鏡を見る姿は、凛として隠し切れぬ影がある。本日でこの屋形での舞いは終焉を迎えることと相成り、わけあって席を移らねばならない。
白粉で隠した翳り。顎をあげ斜め背後の庭の月を見上げた顔を、本物の月よりも白く照らした。
夜の夢は姿を変え、幾度と無く見る幻想は絶え間なく昼の白昼夢にもなり梅吉の前に現れる。昔忘れたあの恋の名残を、ありありと見せる。
男は名乗らなかった。舞台を幾度か見に来ては楽屋まで通うようになり、いつしか逢瀬を交わす間柄となっていた。
その男が現れなくなり早五年。忘れた頃に夢先の恋いうる人となり、梅吉の身を焦がして舞いの席を焦燥の時へと変えさせた。
忘れるように努めた三年間の辛さも乗り越えた先には、独りきりの季節しか巡らなかった。二年を無心に過した。
師匠はお前の舞いは死んだ蝶のようだと言い捨てられた。季節を間違え生まれた蝶が、梅の花に行き着くまでに力尽き雪に薄羽根を震わせるようだと。または、季節外れに狂い咲きした梅が、蝶のかえる前に薄花びらを散らせてしまった姿のようだと、……悲しく言った。
ここまで梅吉を芸者に育て上げた師匠は、梅吉の色恋など知りはせず、胸のうちは誰にさえ知られることは無い秘密の間柄だった。
そんな梅吉も、美しいだけが取り得では魂も無い舞いばかりを見せるようになったこの半年。師匠は屋形を変えさせることを言って来た。
梅吉はいつしか昼間の男の幻影と遊ぶようになり、麻薬でもしたかのように目を幸せにまどろわせ、真冬の庭を裸足で歩き弟子を驚かせたり、舞台からいきなり誰もいない場所で足袋を進ませ語りかけるように膝をつき虚空に語りかけ、そしてしなだれるも畳にくずおれれば誰もいない床に臥せって泣きそぼった。
そんな姿を客に見せられ半月、ついに師匠もこれは梅吉自身がもつまいと、屋形を移すと見せかけて先生のいるところへ移すのだと影ながら囁かれていた。
男の幻は確かにそこにあった。あの背まである切りそろえられた黒髪も、白い装束の腕も、切れ長の瞳と微笑み薄い唇も、梅吉の前に現れては触れようとしたら消えてしまう。
「梅吉姐さん」
「ええ」
梅吉は虚ろな目に月の光りを宿して頷くと、振り返った。
今日は、夜の庭に男の幻は現れなかった。もうこの屋形では最後の夜となる。夢か幻か、現か心象か。聞こえた弟子たちの話では心を病んだものの屋敷へ幽閉されるとかどうとか。
もう一度、肩越しに庭を見返る。
「……!」
シゃ、と黒足袋に雪駄の足が雪に現われ、視線を上げていくと白い着流しに、灰色の羽織に、あの男が佇んでいた。紅梅と白梅を背景に、きらきらと月光に光る雪に立って凍る池から吹きけぶる粉雪に飾られた男が。そして、あの長い黒髪をそよがせて、一本一本に至るまで月の光りを跳ねさせる。
その目元は雪に目を細め、瞳は光った。
「お前さん」
梅吉は弟子が掛けた声も聞かずに、窓を越え庭に出て行ってしまった。
「梅吉姐さん!」
白い足袋で雪に降り立ち、黒い裾を引いて走ってゆき、その黒に雪が霧のような絵を描いていく。
「!」
弟子が目を疑ううちに、本物の霧が夜の庭に流れ込み月と梅吉を隠していってしまう。梅吉は腕を伸ばし男の腕に、しかと手を掛けた。
「ああ、お前さん」
梅吉の唇が五年ぶりに引きあがり、泪が雪のような白粉を滑り落ちた。
「梅吉」
吹雪いたような風が、男の声に聞こえた。肩に頬を預け、目を閉じる。
「もう、離さないよ、お前様」
いきなりの吹雪で霧も、きらきらと舞う雪も、紅白の梅の花びらも舞ってゆく。その庭には、既に梅吉の姿はなくなっていた。
弟子は驚き、庭を見回す。そして、梅の木に囲まれたある一角を見た。
弟子は首をかしげ、楽屋から縁側に出て草履を履きそこまで行った。小さな社があり、その石造りの屋根に梅の花びらがこびりついている。雪は積もってはおらず。
『梅の妖魔に魅入られたかのような……』
以前、梅吉が気狂いを起こすようになり師匠が言った一言だった。梅吉は、それまでは梅の妖魔に魅入られたような芳しい美しさがある子だったと言っていた。こうなるまでは、と。
「梅の神様にもで気に入られて、連れてかれちまったんだろか……」
弟子はつぶやいた。
師匠は言ったものだ。
『それはまるで、あの子の知らぬ間に妖魔の瞳だけでその背を切り裂かれたが如く切れよく完璧に踊りきってね、時々あの子がぞっとするのか背に手を当てて足を止めるんだけれど、その手の間からは私にはありありと見えたのさ。幻のような、妖怪の血が伝うのを。そう、今のあの子は、魅入られて妖魔そのままになっちまったのさ。』
林檎
カツン、カン、ポツ
反響する音で俺の脳は覚醒した。重い目蓋を閉じたまま、地面の硬さに咳き込んで、眉をひそめて肌に感じる寒さに目を歪め開けた。
「なんだ……」
喉がからからで声が掠れ、もう一度咳払いをした。骨身にはこの寒さと硬さは辛く、痛めた間接や背中をぎこちなく撫でながらゆっくりと肘をつき、辺りを見回した。
何も無い。ただただ暗い空間が広がっている。天井と呼べるかは不明だが、開放感のある気配は無いので、どこか閉ざされた空間なのだと分かる。
腰を抑えながらも唸って膝を付き、そしてふらつきながら立ち上がりふんばった。
「ここはどこだ」
寝起きは大きな声など到底出せない。ただでさえ朝は頭もくらくらするのに、この置かれた状況を整理できずにいた。
頭に手を当てる。しばらく働かない頭で考えあぐねても、覚えていることと言えば普通に眠った事ぐらい。そして……。
ああ、そうだ、俺は夢を見ていた。よく見る夢だ。
灰色の草原を息せき切って汗まみれで走る夢で、ランニングから出る腕やブーツの重い足で生草を掻き分けて行く。その先には大きな木があり、そこを目指している。
ようやく行き着くと、その木の太い枝には美しい金髪をなびかせる女が微笑み座り、見上げる俺を見下ろしてきて、そして林檎を投げ渡してくるのだ。
それを草むらから探しだし拾い上げると、草原がさらさらと音を立てめまぐるしく空間が回転する。女のふふふふふ、という笑い声と共に意識が混濁していく。
次の瞬間には真っ暗闇にいて、俺は再び走る。手にした林檎はどんどん汁を滴らせて掌のなかで柔らかく熟れてゆく。
目の前に金装飾の大きな鏡が現われ、あの女が映っているのだ。女は無表情で俺を見つめ、そして鏡に近寄るといきなり鏡面にひびが入り、破片一つ一つの女が笑う。
俺はその声に耳をふさいでうずくまり、ガシャンと激しい音がしたと共に鏡の破片が落ちてきて地面に散らばる。
歪めた目を開け見下ろす鏡の破片一つ一つに、耳を塞ぐ俺と、そして背後に女が微笑んでいる。
そんな夢を見て目覚ざめると、いつでもどっかりとした疲れが体を侵食し、まるで鉛のような体と目蓋でしばらくは動けずにいる。
緩い覚醒の気配さえ軽やかさを見出せず、息を深く吐き出しただただ虚ろに目を閉じて脳の覚醒を待つのだ。
ここも夢の一部だろうか。あの正体不明の美しい女も現われるのだろうか。あの林檎の女は。
だが、今の俺は手に何も持ってなどいなかった。
カツ、トン
再び不可解な音が響く。軽い頭痛に頭を抑えながら見回す。
「?」
俺は何かに気づいた。暗がりに紛れて、何かがあることに気づいたのだ。
そちらに歩いて行くと、そこには人がいた。椅子に座って何かを持ち、背を向けている。
目をすぼめると、その人物の目の前、闇の間際に四角く大きなものがあった。
「絵画……か」
その人物は筆とパレットを持ち、バケツの水に筆を浸したり、色を調節しながら絵を描いていた。
「これは」
それは、素描されたモノトーンのスケッチの上から絵の具で色付けされ始めた、あの夢で見た風景だった。あの女、そしてまだ色の付いていない草原と大木。
闇に目が慣れ始めた俺は、その奥にもう一点、色付けされた絵を見つけた。それは金枠の鏡の前に佇む女。足元まである金髪が白い体を包む。
俺はふと、手の感触に気づいた。いつの間にか林檎を手にしていた。それを見下ろし、顔を上げた。
「?」
辺りを見回すと、そこはあの夢に現われた世界だった。草原が広がり、そこに俺は佇んでいる。いきなり背全体に冷たい感触がして、咄嗟に振り返ろうとしても無理だった。そして濡れた感覚が背中にはりついたままだった。ぎこちなく、眼球だけを動かした。
大きな影が出来、恐ろしいほどに巨大な細長い物体が木の上の女の方へ向かっていく。それは女の体に滑り、そこからモノトーンは白く色づけされていく。
白い絵の具をつけた巨大な筆だった。またバケツの水にちゃちゃちゃと筆を潜らせる音が背後からする。
そして、女のほうを見た。それは美味しそうな林檎を手にした。先ほどのものよりも、細い筆で林檎に色が与えられたのだ。女の微笑みを見た。
そして意識が混濁していき、俺は自然と目蓋が降りて眠りへと入って行った。
眠りへ向かいながら考えていた。いつものだんだんと夢のなかへと向かうときの感覚のなかで。
俺が絵画の世界の人間だなんて、そんなこと。俺は自分だ。自分で、それで、夢を見て目覚めて、そして。
いや、だがそういえば、それ以外は? 俺は、俺は何者だ。名前は何で、そしてどこに眠り、そして目覚めるんだ。ああ、分からない……また、眠りへと落ちてゆく。
二つの作品が展示された画廊で、青年と女性が見詰め合っていた。
一つは鮮やかな草原の木に林檎を持つ女性が青年を見つめ微笑んでいる。もう一つは林檎を持つ青年の映る姿鏡の前に、女性が佇んでいる。
画家の女は、絵画の女性に似ていた。彼女は同じ顔で微笑み、二つの絵画に手を添えている。
一瞬、鏡のなかの青年が黒髪から覗く青い目で、画家の女を見た気がした。画廊を訪れた少女はびっくりし、息を一瞬止めて青年の絵画を見た。
それはやはり絵画であり、動くことなどは無かった。幻か、絵画に閉じ込められた青年が画家に恋をしたのか、錯覚か……。
「うう……」
少女はさっと、あの鏡の青年を見た。確かに声がした気がした。
この画廊には他にもこの画家の作品が飾られている。
そのなかに、自分によく似た少女の絵を見つけた。金髪のボブも、背格好も、十七という年の頃も同じ。窓際に膝を付き座り、林檎を手にこちらを見ている。
画家は少女の前まで来ると、無表情で見下ろしてから言った。
「動いたら、駄目じゃない」
少女は画家を瞳だけで見上げた。それでも動くことなど出来なかった。気づくと、その手には林檎を持っていた。そして、ソファに座っているのだと思い出した。
画家が群青のソファに座る少女の絵に語りかけると、少女は再び動かなくなった。
画家は絵画を見回し、他に動いている絵画の魂はいないと確認すると、そろそろ画廊を開ける準備に入る。看板を外へと運び戻ってくると、新しく加わった二点の絵画を見つめ微笑んだ。
青年の青い瞳が、鏡のなかから女をずっと見つめている。
イヴの魂のままに画家は微笑む。
湖畔のソルティスティーノ
湖の霧 ~Nebulo de lago~
エレメンダは露の降りて濡れる草の咽る湖の辺に座っていた。彼女の纏う薄絹をも濡らしている。草地には彼女の長い金髪がうねり、白い裸足に手が添えられていた。水色の瞳は湖面を虚ろに見つめる。
深い木々が押し迫るように、だが不動の態で生い茂り、その先の山々は黒く、その先は灰色に、そしてもうその先は白く形がうっすら分かる程度の輪郭。湖を囲う森の木々は霧が流れて行き、幹と幹の間を白くぼやかせては現し、そして隠してはまた現し流れて行く。
湖面はたおやかな水面。ゆらゆらと水煙が立ち上っては表面を流れて行き、霧と一体化してゆく。時々、ぱしゃり水面を崩して銀の魚が身を返すとどこまでもを広げて行くのだ。ゆらゆらとさせて。静かに。
空は雲が覆って今にも飴が降りそうで、弾力のある先はそれでも白く光っているところもある。湖面の色は明らかに空の色を映さずに暗く、鏡の様な色だ。
湖面を白鳥が滑ってゆく。美しく波が立っていく。
白鳥はとても高い声で鳴くことがある。優雅な首をそろりと伸ばし、そして高く曇った天に鳴くのだ。愛の歌だろうか。まるで夢へと誘う声に聴こえるし、悪夢から逃れるための道しるべになってくれる声にも思える。今は静かにこうべを垂れて湖面を滑っている。
霧は立ちこめ、湖面を滑る白鳥の姿も現しては隠してゆく。
馬のいななきが聴こえる。振り返ると、霧煙る森をゆらゆらとランタンの灯りが近付いてきていた。木々の間から巨大な黒馬に跨った男が現れる。
「お迎えにあがりました」
男は高い位置から降り立ち、彼女の狭い肩に長い白のマントをかけて黒いシルクのリボンを結んだ。長い髪を整えさせる。
「さあ。参りましょう」
「どうもありがとう」
馬に乗り込み、鬱蒼とする森を進んでいく。この辺りは老木が倒れ苔むしていたり、樹立する幹にツタが絡まる。流れて行く霧は蔓の葉に露を降ろしてい光沢を与えている。彼女は男の胴に寄り添い、虚ろに水色の瞳は開かれていた。涙が零れる。微かに震えたので男は手綱を持つ片方の手で彼女にフードもかぶせてあげた。彼女は目を閉ざし、馬の足並みはゆっくり進んでいく。
森に囲まれた舘に戻った。霧咽る庭が広がり、白い柱に囲まれる回廊の先には暗がりが奥まで続く。この時期はお客様は来ないが、春にもなれば演奏会が開かれ、初夏には薔薇が咲き乱れて人々を楽しませる場所になる。そして冬には繊細な雪の結晶が天から降り積もり月光に純白はきらきらと光る厳かさ。
彼らは黒馬から下り、しばらくは今は秋と冬の間の庭のベンチに座り、霧に包まれた。
彼女はあの湖畔に向かうことも、それに宵の霧煙る湖畔に向かいたがることも止めはしないだろう。
四季の森 ~Kvar sezonoj de arbaro~
エレメンダは窓から森を見渡した。霧が沈んでいて、木々の天辺は黒くどこまでも続いている。山は微かな影になっており、深い雲が立ち込めていた。山と山の間から霧がどんどん生まれて流れてきている。
広大な空は雲にだんだんといかづちを走らせ始めた。
エレメンダは少女の頃、人々から『森のソルチスティーノ』と呼ばれる女に出会った。
山の麓にある小屋に住むソルチスティーノは神秘的な目をした女だった。何か病気になったり怪我をすれば彼女を訪れ、薬をもらったりしていた。
幼い頃エレメンダはよく初夏の明るい湖畔でソルチスティーノと会うと話をしていた。白い花を摘んだり、花冠を作ったり、彼女の母国のラテンの唄や不思議な言葉の唄を教えてもらい共に歌った。なにか怖い夢を見たときは聞いてくれておまじないのお守りを作って小さな手に持たせてくれた。
エレメンダはそのソルチスティーノと呼ばれた女性のことが大好きだったし、毎日彼女に会いたいが為に湖畔へやってきた。
夏になると涼しい湖面に小舟を出してくれた。視線が低くなって湖の碧に包まれたように思う湖面の上は大好きだった。山も空もまるで近付いてきて包まれているみたいで安心した。山々や自然は我々の偉大なる母なのだとソルチスティーノは優しく教えてくれた。共に森を歩く小さな体は緑の大きな葉を鮮やかにさせる木々の先の青空に吸い込まれていってしまうようで一体化していくようでうれしかった。
不思議なことばの唄は空に吸い込まれていった。
「Mi marŝas la verdan arbaron ミマルサスラヴェルデンアルバロン
Flanko de la lago フランコデラァーゴ
Estas infano ami エスタスインファーノアミ
Rideto estas simila al rozoj リデートアスタスシミララロゾイ
Vi tenu vian manon ヴィテヌヴィアンマノン
Lumo kolektos ルーモコレクトス
Papilioj flirtas パピリオイフリルタス
Mi tenas el la blankaj floroj ミテナスエルラブァンカイフラロイ
Mi ankaŭ rideti ミアンカウリデーティ
Vango de infano ami ヴァンゴデインファーノアミ
Akva surfaco de lumo reflektas アクヴァスルファコデルモレフレクタス
Kune mi iros tra la arbaro al クネミイロストララアルデロアル
緑の森を歩く
湖の辺
愛する子がいる
笑顔は薔薇に似ている
あなたは手を差し出す
光りが集まる
蝶が舞う
白い花を差し出す
わたしも微笑む
愛する子の頬
水面の光りが反射する
一緒に森を歩く」
ソルチスティーノが秋のある日、少女を連れて行った。山を馬でいくつか越えた先にある小さな集落で、その村の豊穣の祭に少女と共に行ったのだ。
その閉ざされた集落は余所者が滅多に入らない村であり、旅人も避けて通る場所だった。なにやら風習もあるという噂で、全貌がつかめない。
だが実際は豊穣の祭は少女の目にはとても楽しいものだった。仮面をつけた村人達が行列をなして紅葉した大きな葉で囲まれたドームをみなで担いで森へと運んで行き、なにやら唄と音楽、儀式を捧げてそれぞれが持つ綺麗な石をその紅葉の葉のドームに放って祈りを捧げていた。青空にその祈りが吸い込まれていき食べ物や自然に感謝を捧げていた。夜には村の小さな広場で松明がたかれ、森の神をかたどった仮面の男と山の神の格好をした女が演劇をみせた。その姿は秋の星空の元、たいまつの明かりに照らされてとても美しい舞だったのを覚えている。ソルチスティーノは彼女に唄を教えてくれていたので、皆とともに歌うことが出来た。
まるで夢見るような一日だった。たくさんおいしいお菓子やその村の料理を食べて素敵な祭だった。
冬の森 ~Arbaro de vintro~
冬になると山の麓までは行けなくなる。なぜならそこへ行くまでは深い崖があり、そこは橋が渡されているのだが冬季は閉ざされるからだ。ソルチスティーノはその期間になる前には湖まで来ることは無く、馬で背後の山を越えて食料を調達して小屋で静かに過ごした。冬の間は薬草を煎じたりフェルトでおまじないを造ったり首飾りを作って過ごして春になれば生活の足しになるように売りに行った。
それを冬になるまえ、秋の豊穣祭の帰り道にソルチスティーノに知らされた。高い馬の背に乗ってゆっくり歩いていく紅葉する森は、木々の葉が目の前まで来るほどの近さになってしなだれて、楓の折り重なるカーテンみたいだった。とても鮮やかだった。黄色から橙、そして紅色に上に向かうごとに染まっていく木々の葉。まるで降ってくる葉は渦巻くようだった。
小さなエレメンダはソルチスティーノに会えなくなることを寂しがった。
ある雪の降った翌日、エレメンダは一人湖畔まで走って行った。エレメンダの舘がある側の森は湖畔を挟んで針葉樹林が広がる森で、対岸側のソルチスティーノのいる山の麓側は奥へ向かうと針葉樹林が成りを潜め始め広葉樹林が広がる森になっていた。
延々と針葉樹の幹や葉に雪が降り積もる真っ白い世界を進んで行き、森を風が吹いていくとさらさら、きらきらと美しく粉雪が白い大地を舞っていった。大木達はどれも不動の態で静かにそこにある。今は静かに木々たちも眠っているのだ。冬だから。それをソルチスティーノは言っていた。
雪の上を歩くのは、他の季節に歩くときよりかかるのでしばらくすると湖のあるのだろう広い場所が見えてきたときは笑顔になった。
一面に広がる世界は湖を氷に閉ざさせており、その凍てついた氷面を風が吹き雪の粉を舞わせていくのだ。どこまでも、どこまでも遠くまで。そしてその先の森へと渦巻く前に旋回して水色の空に舞い上がっていく。凍った湖面を野生動物が歩いていて、彼女は小さな身を潜めてそれをじっと見ていた。
森の木々は頭に真っ白い帽子をそれぞれ乗せた貴婦人達が濃い緑のドレスの裾を広げ上品に佇んでいるかのようだった。白いファーのマフや筒状の帽子をかぶって。その一人が、まるでソルチスティーノがこちらに肩越しに微笑んでいるかのようだった。
エレメンダは湖畔を歩いていき、広葉樹林を見渡した。それらは葉が落葉して木枝が雪を纏って。
彼女の小さな手にはソルチスティーノへと贈り物がもたれていた。それはエレメンダも持っている同じ置物だった。額に星をつけた白い髪が長い白ドレスの女性が微笑み、薔薇を持っている。その彼女の足もとにはオオカミがいる。その置物。それはどこか優しいソルチスティーノに似て思えた。
葉を落とした冬の木々を見上げながら歩いていくが、行けども行けどもどうやら同じ場所をぐるぐる回っているらしいことが足跡をみて分かった。それに、氷の張った湖もずっと木々の先に見え隠れしているから、何かの不思議な力でこれ以上少女をその先へは進ませないようにしているみたいだった。
エレメンダはずっと森に佇み、空を見上げた。繊細な木々の枝先が装飾する水色の冬空を。
彼女は小さく微笑み、引き返して行った。
それでから湖の辺で待つようになるが、やはりソルチスティーノは冬には現れなかった。
舘から見える空 ~vidi la ĉielon tra la fenestro~
ホットチョコレートを作っていた。ボルミオリ・ロッコの大降りの瓶からばらばらにされた板のチョコレートを火にかけているバターと共に鍋で溶かし始め、少しずつ牛乳を足していく。マグカップに注ぐと少量のウィスキーを入れた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
男もそれを頂き、彼女もテーブルに着く。
この男は両親がエレメンダとその姉につけている舘の用心棒で、名前をボウデンといった。今この舘にはこの三人が住む以外に誰もいない。料理や掃除は姉妹がするし、馬の世話と力仕事は全般をボウデンがしてくれた。雪かきは三人で行った。
テーブルの上にはあの陶器の置物が置かれている。いまも優しい微笑みをして薔薇を両手に持ちオオカミを従えていた。額の大きな星は雪のようだ。
エレメンダはそれを見つめて言った。
「昔ね、仲のよかった女性がいたの。彼女とあの湖でよく遊んでもらったわ。一度だけお祭りに連れて行ってもらったことがあるの。秋の豊穣祭りよ。素敵だったわ」
ボウデンは静かに聴いていた。少女の頃の話を彼女がしたことは今まで無かった。湖に出かけていく理由も話した事は無かった。
「何度か馬を走らせてその村に行こうとしたのよ。けれど、その女性がいなくばその幻の村にはたどり着けなかった。まるで夢みたいな話よね。確かに実在するのに、どうしても見つけられないの。そこで食べたお菓子も、踊りも、唄も、今でも覚えているわ。彼らの笑顔だって」
窓の外は雪が降り始めていた。曇った大空を雪が横に吹き付けていく。窓はカタカタと音を立てた。
水色の瞳でボウデンを見た。黒髪で焦げ茶の瞳をした男はラテンの血かバルト系の血が流れているのだろう、魅力的な人だ。中東ではないことはどこか分かる。
「どこか、あなたに似ているわ。その夜の様な髪も、鳶色の瞳も。彼女は瞳の色のローブドレスをよく着ていた。まっすぐの黒髪は腰まで長くてね……そのソルチスティーノ、名前、名前をラヴェーラといったわ。昔は両親も彼女を頼ってよく薬を買いに行ったのに」
彼女はひざ掛けをかける膝を抱えて目を綴じた。
「微笑みはこの女王様みたいな美しい顔立ちだったの」
彼女は自分で馬に乗れるようになってから、村を探しに山を越えることもあったし、それにソルチスティーノの小屋まで行ったことがあった。だが、その小屋さえも無人になっていた。鎧戸は錠がかけられ、窓も板が張られていた。厩も馬はいずに、井戸も蓋がされていた。何年間も無人のままだった。周りにたくさん咲いていた季節毎の美しい花々は奔放に咲くようになり、薔薇は次第に小屋を蔓延るようになり、花以外にも草が茂り始めて。エレメンダは向かうごとにいつソルチスティーノが帰ってきても良いように庭の手入れをし続けた。心配性の姉にも内緒で。今でもエレメンダは春から秋にかけてどれぐらいかに一度ソルチスティーノの小屋へ向かい、花々の手入れをしていた。
目を綴じても、目を開いていても浮かぶ。彼女の美しい顔立ちが、声が、共に歌った唄が。小舟を滑らせた風も頬は覚えている。
「その女性に会いたいですか……?」
彼女は腕に頬をうずめたまま頷いた。
「会いたい……。大好きだったわ。いつも笑顔をくれた人」
彼女はゆっくり立ち上がると窓際へ来た。ボウデンも立ち上がり、窓際へ来た。
雪と風がかけてゆく空を、鷲が風に乗って飛んでいる。
2014.11.26
少女
学び舎の日本庭園で千鶴は芝生に膝を付き、白磁に青い絵付けのされた睡蓮鉢に手を当てた。鋭く白い睡蓮の花びらの下に、赤い金魚が泳いでいる。
丁寧なセーラー服のプリーツスカートから伸びる白い腿に、芝生から蟻が登って皮膚をくすぐるが、その瞳は金魚の動きにとらわれていた。
千鶴の切り揃えられた前髪から覗く瞳は水面に反射する陽に跳ね返り、眩そうに細められている。おかっぱが輪郭を囲う頬はほんのりと紅く、唇などは血みたように光っていた。日を浴びてもなお白く眩しい項からは、制服に焚き染めたお香が薫る。
この金魚は一生この鉢のなかで、柔らかな緑の藻に包まれ、そして睡蓮の茎や葉の下に隠れながら生きるのだ。見上げる水面の先の、青い空を透かすあの松葉の庇のもと。
時々、天を小鳥が横切り鳴き声を響かせて、この小さな鉢の際にも反響することだろう。雨の日には雫が睡蓮の花びらや葉を鼓に打たせ、雨が止み水面が凪ぎを見せるまでは鉢の奥に潜んでいる金魚。
千鶴は髪を耳に掛け、セーラーの袖を捲り上げ、病的なほど真っ白な腕を伸ばした。
「千鶴ちゃん、金魚を見ているの?」
学友がやってくると、千鶴は頷いて腕を下ろした。
「こんな狭いんじゃ、切ないでしょうから」
学友の少女小夜は千鶴の手を握って停めた。
「千鶴ちゃん。そんなことしたら、金魚は生きてけないわ」
小首を傾げる千鶴の柔らかな手を握ったまま、繊細な二重の瞳を見る。いつでも千鶴は、感情の無い目をしている。
「向こうの池のが、広くていいわ」
鯉が泳ぐ池には、岩の上に甲羅干しをする亀がいたり、アメンボが滑っていた。
「池に行ったら、きっと亀に食べられちゃうわよ」
千鶴はじっと鉢の金魚を見つめた。小夜には金魚がさも安心しきって心地よさげに泳いで思える。だが千鶴には、やはり囚われた檻の小魚に見える。
鉢の水藻は光りを受けふんわりとそよぎ、白い小花を水中で咲かせている。
金魚も鮮やかな水藻に影を落としながら眩しい赤に光り、影に入ると蓮葉の緑に染まる。その睡蓮の茎には気泡がいくつもまとわり付いて、金魚がそっと胴で撫でると、ゆらゆらと水面へあがっては気泡は今度は際にまとわり付いた。
「小夜ちゃんは、この学び舎にずっと閉じ込められてるのと、お外へ運ばれていくのはどっちがいい?」
虚ろな瞳で千鶴が問いかけてくる。広く美しい日本庭園、木で出来た赴きある校舎、寮のある別棟。そして、高い高い白の塀。
二人は、ここの生徒は、誰一人として外の世界を知らなかった。
美しい少女たちが閉じ込められ、小鳥のような声で歌い、暇しのぎにバイオリンやピアノの演奏をし、一日に三度のお祈りをする。千鶴も小夜も十五歳、物心もつけばこの学び舎にいて、ここが全ての世界だった。
そして夜になれば、唯一一日のうちに大きく変わる天体の移り変わりを見上げた。満天の星を見上げ、眠りの淵へと落ちてゆくまでを過す星月夜。時に木々の囁きが外の世界への誘いの言葉にも聞こえ、眠れない夜にさせてくる。
そんな時、あの鉢の金魚も外の世界を望みながら夢を見るのかしらと思う。あの水面に眩しい星屑をちりばめて、睡蓮の花を夜の神秘の群青に染められて、金魚は葉陰に眠っていながらも。
千鶴の知る外は、変わり行く空が全て。流れ星の降る夜も、星座のきらめく夜も、雪が窓から見える木の葉と空を飾る風景も、朝陽がそれらを射す朝も、鈍色の空も、黄金の夕焼けも。
そのなかには誰かの顔が浮かぶわけでもなく、星には宇宙が想起された。
「それじゃあ、私たちも鉢から外に出たら、恐い人間に浚われてしまうの?」
千鶴は金魚のいる水面を、白い指で撫でた。波紋が斜めに走り、金魚が反応してせわしなく泳いだ。
千鶴が髪をさらつかせ天を仰いだ。青い空に雲が流れすのが松葉の先に見える。他には誰もいない。千鶴が水面に滑らせたような大きな手も、この塀に閉ざされた天空には現われない。
「小夜は、ずっとここにいるのが安心だわ。先生方がお外は危険だというじゃない。ね。ほら、校舎に戻りましょう?」
小夜が千鶴の肩を持ち、立たせた。だが小夜はいきなりのことで、二つの長いおさげを揺らしプリーツが広がり芝生に倒れた。
千鶴がいきなり小夜を拒んで手を払ったからだ。
「千鶴ちゃん」
千鶴が髪を翻し、向こうへ走って行った。
「待って!」
小夜は立ち上がって追いかける。講堂とお祈り館の間を走って行き、迷路のように立ち並ぶ木々を越え、草地を走る。瓦屋根が天辺を飾る遥か高い漆喰塀の前に来た。本来、ここまでは来てはいけない決まりになっている。立ち並ぶ木々を越えてはいけないのだ。
実に多くの木々が植え込まれる敷地内だが、塀の周りにだけは木々は植えられていない。そこを伝って塀の外に出ることが無いように。二階建ての寮や校舎よりも高い塀。
それを見上げ、千鶴が諦めたものと小夜は安堵した。だが、鳥がその塀を越えて羽ばたいていく。千鶴は薄い目蓋を閉じ、開いて塀を見上げると、ゆっくりと指で漆喰塀をなぞりながら歩いていった。
小夜もその後ろを着いていく。
「何をやっているんだ」
硬い声が響き、小夜はぎくりとして咄嗟に振り向いた。
そこには、普段少女たちの前に現われることは無い塀の監視人である黒人の大男が立っていた。
小夜も、そして千鶴も異性という種類を見たのは初めてだ。理事も校長も、そして先生や医務も女性ばかりだからだ。
ずいぶんと背が高く、そして恐い面持ちと見た目をした人だと思った。声がまるでホルンのように低くて、肌も黒い。そして、目元には黒い硬質のアイマスクを嵌めていた。
世界に男というものがあり、女以外のものがある事自体をしらない二人は、ただただ言葉も無くし見上げていた。
「塀から離れろ。でなければ、理事長の前に連れて行く。その背を鞭打たれたく無いのならば戻れ」
男が首をしゃくって二人の少女を見るが、おかっぱの少女だけは頷かずに、ただただ透明な瞳で見上げてくる。
「あなたが私たちを守っているお祈りの神なのですか」
「神?」
男は眉を寄せ千鶴を見て、そしていきなり大声で笑った。二人はびくっとして男を見た。
「本当にここの鳥篭の小鳥は何も知らないんだな」
男は一度辺りを見回すと、腰にくくりつけた鞭から手を離し二人を見た。
「来い。どうせ二十歳にもなればどの少女もここからは姿を消すんだ」
「本当に?」
そういえば、常に校舎は一定の人員だけで保たれている。講堂に集う人数も五十人だった。三歳から十九歳までの少女が二人ずつ生徒が三十二名と、先生方。少女のその後のことなど、先生方が教える方針は無く、新しく入り、古きは見なくなることが極普通の理とされていた。
男は黒い上下のスーツと黒のタートルネックの装いだ。それはまるで杉や檜の幹やその化身かと思うほどに黒一色で、そんな人も学び舎にはいなかった。少女たちはセーラー服、綺麗な先生方は上品なロングスカートの装いをしている。
二人は男に着いて行く。塀の際の芝生に、レリーフの施された四角い鉄板がはめ込まれていた。それに鎖をつなぎ、皮手袋のガッシリした手で横の重々しいハンドルを回すと、重い鉄の板が引き上げられていった。
そこには地下へもぐっていく階段があった。少女は顔を見合わせた。
男が手招きし、千鶴がなんの疑いや躊躇も無くついて行こうとするのを、小夜が手を引っ張って引き止めた。
「千鶴ちゃん」
「行きましょう? 小宇宙の外が見られるのよ」
千鶴が再び小夜の手を払い、降りていってしまう。小夜も走って追いかけ、鈍い音を再び響かせて閉ざされていく背後の鉄板を振り返った。青い空が、細くなって鉄板に閉ざされ、体に響いていた音もなりを潜めた。
ランプの光りが揺れる通路は、あのお仕置き部屋への廊下に似ていた。そこへはマナーを守れなかった場合などに座敷へ二日間閉じ込められて躾をされる。
不安になって小夜は千鶴の手を握りながら付いていく。暗い間口の所に差し掛かると、男が立ち止まった。
鍵を開けて扉を開けると、個室のようだった。
そこには三人程の人間がいた。背の高い金髪の白人が二人と、もう片方の黒人が一人。本を読んだり、紅茶を飲んだり、会話をしている。
三人は二人の美しい少女を見ると、監視人仲間の男を見た。
「また塀に近付いたのか」
金髪の男がテーブルに本を置き二人の所まで来ると、連れてきた男に言った。
「彼の所へ連れて行くつもりか」
「午後からは自由に放し飼いにされているからな」
相槌が打たれる。
千鶴は四人の見たことの無い綺麗な人、学び舎の皆とは違った物を有する者たちを観察していた。顔立ちが深く整い色の違う肌や髪や瞳をして、木のように大きく太陽のように強い眼差しをした不思議な美しい存在だ。確かに少女たちも先生方も美しいのだが、目の前の者には言葉の思いつかない物がある。
「こっちだ。お嬢さんたち」
奥の扉に促され、二人は歩いていく。紅茶カップを手にした男と、その男と会話をしていた男がじっと鋭い目で少女二人を見ていた。
扉を越えて歩いていくと、小さな何かに入らされ、そのソファに座った。車など見たことが無い二人はここが何かは分からない。
助手席に初め会った黒人の男。運転席に本を読んでいた金髪の白人が乗り込み、暗い通路を走らせて行く。動き出したので流石に千鶴も咄嗟に小夜の手首を握り、窓や車内、二人の男の後頭部を見た。過去には恐がって叫ぶ少女もいたので、助手席の男が振り返った。
「安心しろ」
「はい」
不安げに応え、背もたれに落ち着いた。しばらくランプで琥珀に染まる暗い通路を走らせると、だんだんと坂を登って行き前方に蔦が垂れ幕になった出口が見えてきた。その先は緑の氾濫する眩しさで、どんどん近付いてくる。
森に車両が出ると、二人は振り返った。すでにその出口は蔦に隠れて見えない。
「これはトンネルなのね。童話で見たけれど、こんなにはらはらするものなのね」
「そうね……」
すぐに、森を走るより速いことに酔って小夜は口を押さえた。千鶴も慣れなくて速く行過ぎる木々の風景から目を閉じた。がたんがたんと時々揺れ動いて、それが少女二人を車酔いさせた。
敷地内も木々が多いが、森は初めての二人はそれを実感できる余裕も無いほどに顔を白くさせ始めている。バックミラーを見てそのことに運転手の男が気づき、ゆっくり走らせた。これでも30キロで走らせてきたのだが辛いのだろう。紅く熟れた少女の唇も白く血の気が引き、目元もさらに虚ろになっている。これで外の世界に出ようと興味を持つというのだから、囲われた深窓のお嬢様たちは恐いものを知らないのだ。
ゆっくりになったので、まだ気分は優れなかったが千鶴は背後を振り返った。
今まで見たことも無い程にたくさんの木々が生えているこの場所の遠く向こうに、黒い塀がどこまでも続いていた。それは、あの学び舎の高い塀である。内側は白漆喰だが、外側は森に溶け込むように黒漆喰で塗り固められていた。あの上方の灰色の瓦屋根だけは同じだった。それも、やがて木々に紛れて見えなくなっていく。
あの小宇宙から、天の外へ出られたのだ、と、顔を前に戻しながら千鶴は思った。ここにはもう、見えない硝子の天板で閉ざされたような塀のなかの世界や限られた天は無く、どこまでも広がる天がある。木々の屋根の遥か上に見える空も、あの囚われの箱から見上げる空とはどこか違って見えた。
「何故、親切に宇宙へ連れ出してくれたの」
千鶴が問いかけると、運転手の男が眉を寄せてバックミラーの美少女を見た。おかっぱの少女は感情の死んだような目だったが、森を背景に光りが宿って思える。
「宇宙、か」
「変わってるのは皆同じさ」
庭で神なのかと問われた助手席の男が言い、運転手の男は「そうだな」と頷いてから千鶴に言った。
「親切からなんかじゃ無い」
それからは黙りきり、小夜はすでに真っ青で座席に凭れ千鶴の手を弱く握り、千鶴もこれ以上問いかけることは無く、窓の外を見つめた。時々、鹿が番で車を見たり、狐が羊歯の間を飛び跳ねたり、若い狼が岩の上から見てきたりして森の奥へ走って行った。それらの動物を少女たちは図鑑で見たことがあり、千鶴が小夜に教えてあげようと彼女を見るごとに、小夜は目を閉じて真っ白いハンカチで口元を押さえて辛そうなので、再び窓の外を見るにとどまった。蔦の這う太い木の幹をリスが登っていったりもする森に、千鶴は楽しさを見出した。いろいろな鳥の鳴き声が響き、姿は見えなくてもいろいろな生き物がいるのだと知った。秋に聞こえる高い鳴き声も、月夜の遠吠えも学び舎には聞こえていたが、それが森の動物たちの鳴き声だと先生たちは教えることはなく、少女たちはその声が聞こえることは世界の日常の一部だと認識していた。
森を行くと、しばらくして明るい色合いの木々になってきた。針葉樹の森から広葉樹の森へ来たのだ。小鳥が黄緑の葉枝から晴れた空に飛び立つ姿も見え、ようやく小夜も目を開けて森を見始めた。
しばらく行くと、その路の先に巨大な鉄門を構えた西洋の屋敷が近付いてきた。その門扉は車両が近付くと自動的に開く。
門を越えると、白い道のサイドにコニファーが並び、そして黄緑の芝生が広がっている。そして見事な花園が左右にはあった。前方の屋敷は図鑑で見た西洋の美術館のようで、思った以上に巨大で二人は見上げたら車の天井で見えなくなったので顔を戻した。
ファサードに停車して、二人の男が少女たちに出るように促した。
ここはどこなのかと聞くようなことはせず、二人は付いていった。
背後を振り返ると、こんなに広い場所を見たことが無くて小夜は心持ち興奮していた。目の前にする西洋の建物の壮麗さも驚いている。千鶴は辺りを見回していたが、声を掛けられて振り返った。
大きな観音扉が開けられ、二人の同じ格好をした女性が現われた。それは屋敷の使用人で、その二人の間にもう一人の男が立っていた。どうやら、人間には知らないだけで二種類がいるらしいことを千鶴は思った。校長先生のように年齢が明らかに上の人がいて、また学び舎の皆とは違う種類の、どちらかと言えば彼女たちを連れてきた二人の男寄りの見た目をした、それは年嵩の紳士だった。
紳士は何も言わず、背を向け歩いていった。彼らもその背についていく。
「君たちのように外界に興味を持つ者は時々現われる。十七年をあの場所に閉じ込められてはそれは不思議に思う者も出てくるだろう」
絵画も女性や風景や動物、静物画や建物のものなどは置いてあるのだが、この屋敷に飾られた絵画には、図鑑や絵で見るようなシャンデリアも飾られ、翼を広げたような大きな階段もあり、美しい中庭には噴水もあった。そして、男の肖像画や神話の神々や精霊の絵画も。
「やはりここは世界が違うのね。あなた方のような見た目の、私たちとはどこかが違う姿の絵が飾られているわ」
千鶴が言うと、小夜が言った。
「見て。あれは薔薇よ。私が好きな花だわ」
小夜が小走りで回廊から太い柱に囲まれた中庭へ行くと、図鑑やルドゥーテの絵や絵画でしか見たことが無く、憧れを抱いていた薔薇が咲き乱れる場所までやって来た。すると、なんとも甘やかな薫りが彼女の鼻腔を充たし、彼女は失神寸前に幸せを感じてふらついた。咄嗟に黒人の男が駆けつけ支え、小夜が潤んだ瞳で壁に倒れたのかと思って見上げて男を見つめ、黒人はその美しい少女に瞬きを繰り返すと咳払いしてしっかりと立たせた。
千鶴がここまで歩いてくると、薔薇を見回して、一つ一つ名前を言っていく。
「なんて美しいのかしら」
白い頬に陽を透かして二人の少女はまるで庭に降り立った蝶のようで、それは誰もが時間が止まって見惚れるほどのものだった。絵画の一片を見ているようで。
紳士は彼女らを絵画に納めたくなった。理事長に言えばいくらでも少女たちを貸し出せる身分でもあった。どうせ時が来れば伯爵や侯爵の所へ連れて行かれる籠のなかの少女。見目麗しく、芸に、マナーに、芸術知識に明るく、彼らの飼う小鳥となる。養子では無く、社交に出すわけでも無く、蝶よ花よと囲うための動く美術品だった。
若い美しさのある少女の時代には箱から出されることはなく、大切に囲われ続ける。少女たち自身で美術の時間に描き出す学友たちの肖像画は、やはりどれも愛らしくも麗しかった。
中庭から彼らは再び屋敷を歩いていく。
階段を上がり、大きな室内に来ると、どこもかしこも作りや家具が上品で美しいので、 少女は見惚れていた。
千鶴はふと、窓際の円卓に置かれた硝子の器を見た。
無言でそこへと歩いていく。近付くごとに、やはりそれは……。
「……金魚」
虚ろな声で、千鶴は言った。
黄緑の藻が揺れる硝子の器に、金魚がゆらゆらと泳いでいる。
こんなに広い屋敷のなかでしても、金魚はこんなに狭い器に囚われ、それ以上を動くことも出来なくて泳いでいた。それを不思議に思うことも無く、学び舎の少女たちのように、小夜のように、ただ生きる。図鑑で見る違う世界を学ぶように、硝子の向こうの屋敷の世界を見て泳いで、それでもやはり囚われたままなのだ。
千鶴は暗い目元で紳士を見た。窓辺から差し込む陽で、円卓と硝子の器に泳ぐ金魚も、揺れる藻も、千鶴の影も長く床に伸びていた。それは繊細であって、金魚の器は影のなかでも光っていた。そして、千鶴の瞳は影と同じく光りは射さずに、今にも飛び立ってしまいたい鶴のように、じっと見つめてきている。そんな、いつしか華麗に飛び立つだろう姿が重なるかのようだった。
「泣いているのかい」
千鶴の瞳からぽろりと涙が落ち、小夜がそこまで歩いて共に金魚鉢を見つめた。
「私たちは囚われた金魚のまま、この屋敷でも、時期が来ても、結局は変わらないの?」
「それは君たちが引き取られた先でなければ分からないことだ」
「なぜ?」
髪を揺らして首を傾げ千鶴が尋ね、紳士はしばらくは応えなかったが言った。
「それがこの世界の作りだからだよ」
「金魚の運命と同じ世界」
千鶴が囁き、袖もまくらずにいきなり両手で鉢の金魚を掬い上げた。さらさらと水がきらめき落ち、金魚がぴちぴちと白い手の上で暴れて、小夜は驚いてそれを見た。
「………」
すぐに千鶴は水に金魚を返してあげて、混乱した金魚はしばらく水藻の激しく揺れるなかで泳ぎ回っては、次第に落ち着きを取り戻して泳ぎ始めた。
「金魚はここがいいのね。小夜もそう」
水の滴る手をだらんと下げて千鶴は言い、金魚を悲しい目で見つめた。
「驚かせてしまってごめんね。金魚さん。もう、大丈夫だわ」
硝子の器に手を添え、雫が流れていく。手を下げて紳士を見た。二人を連れてきた男たちのことも見た。
「私は金魚でなく、翼をもった鳥になりたいわ」
「君らは鳥だよ。外に出れば、恋も出来ることだろう」
「こい?」
「君らのまだ知らない感情さ」
紳士は言い、金魚の先の窓から見える風景を見た。
金魚がこの世界を自分の世界だと思うことは、宇宙を知らない花を伝う蟻や、麦を育てて生きる農夫や、音楽世界だけに生きる作曲家と同じで、自分の世界だけが世界になる。金魚鉢を透かして見る木々や庭の風景もすでに宇宙であり、行くことのない、それが出来ない場所なのだ。
小夜は時々、塀の辺りを歩くようになっていた。
「あ……」
監視のために歩くあの黒人、ポールを見つけると、木々の後ろに来てから頬を染めてそっと顔を覗かせた。
「ポールさん」
当の本人はまた生徒たちがふらふらと蝶や子山羊のように塀に近付いてこないように塀の際を歩き見張っている。基本的に、塀に近付くこと自体を許されておらず、彼女たちが生活している範囲と塀までの間には木々が密集して立ち並んでいたり、建物に隠れて見えない場所が多い。
ポールの細く編みこまれた襟足の長い髪を項で縛った、高いところにある小さな後頭部を見ていた小夜は、自分が昨夜、月光を頼りに認めた文を手にしたまま佇んでいた。
「小夜」
小夜は驚き、千鶴を見た。
「千鶴ちゃん」
彼女が横に来ると、木々の向こうを歩くポールを見た。あの時のように黒い上下のジャケットとパンツに、今日はグレーの詰襟シャツを着ている。ここからでは判別に難しいが、やはりアイマスクは嵌めているのだろう。
「他にも、見たことのない<男の人>が二人、塀の周りを歩いているのを見るわ」
「そうなの?」
<男の人>という言葉は、屋敷を訪れた際に紳士が二人の絵画を描きたいと言い、その時に現われた少年が言った名称だった。少年と言っても、それは紳士の十七歳の息子であるが綺麗な顔立ちをしているので、服装がスカートを履いていないだけで千鶴も小夜も同じ種類だと思っていたのだが。その少年が<男の人>と<女の人>の観点が存在することを二人に教えたのだった。
この学び舎の監視人は六名体制で行っている。三人が休んでいる間は三人が監視をしていた。なので、あの地下の部屋にいた三人は休憩中で、彼らで一組となり二組でローテーションを組まれている。
「あの男の人たちはどこから来たのかしら」
「ポールさんに聞いてみることは出来ないものね。あなた、何故ずっとポールさんを見ているの?」
小夜は文を両手にしたまま、首をかしげてうつむいた。いつもおさげにしている髪を、今日は上部だけリボンでまとめて下ろしている。
「分からないの。ポールさんを見たくて、来てしまうの」
休憩していた三人は夜の見張り役なので、昼に見かけることは無い。
千鶴も小夜も恋というものは知らないので、木々の向こうのポールを見た。
「……?」
動物かは分からないが、気配、視線を感じてポールは辺りを見回した。
「………」
茂みの向こうに、少女が二人佇んでいた。刈り込まれた純白の躑躅の大きな茂みから。ポールは心なしか、それがあの小夜だと分かって落ちつかなげに顔を反らした。戻ってきてからは小夜が夜の闇に浮かんで仕方がない。離れた場所に恋人はいるが会えるわけでも無く、美しい蝶を遠目から時々見かけるだけの生活だ。気にならないというのも無理な話でもある。あの冷静な目元をした少女千鶴もいて、やはり感情の無い目で見てきていた。
ポールはあの二人が塀に近付かないことは分かっているので、歩いていった。小夜はポールが行ってしまったので、落ち込んでうつむいた。
夜、小夜は一人で静かに寮を抜け出した。
見回りの先生たちが寝静まる時刻は知っていた。千鶴が昔言っていた。一時になれば、絶対に先生たちは眠りについているからと。いつもあの子は何をするか分からない所があるから、何度か夜に抜け出したことがあっても不思議とは思わなかったし、冒険できない性格の小夜はその話をいつも驚き紛れに聞くだけだった。
しかし、こうやって自分が抜け出すだなんて。
小夜は庭に出てくると、細い月が池に映るのを見た。木々は影となり、その横に立つと細やかな星屑の天体が圧巻の荘厳さを広げている。
小夜が塀の方へ歩いていこうと池の横を歩いていたら、岩に影を見つけて立ち止まった。
「………」
それは黒い服なので闇に紛れていたが、その目だけが白く浮かんでいた。誰かが岩に座って池を見つめている。
「!」
ポールは咄嗟に夜に箱を抜け出した少女を見た。
「ポールさん?」
小夜が囁き、そこまで歩いていった。岩の所まで来ると、そこに座るポールに視線を落とした。ポールは小夜を見上げ、彼女が満天の星を背景に潤んだ瞳をしているので、再び心が落ちつかなげに視線を落として池を見た。
「会いたくなります。何故かは分からないけれど、ポールさんを見つけたときは、とてもうれしいの。笑顔が止まなくて、心が温かくなるの」
「幻想だ」
「幻想? それは御伽噺よ」
あまり分からない小夜は間隔を開けたところにある、二周り小さな岩に腰を下ろして池に映る星を見つめた。星座も判別できないほど数多の星を。流れ星もきらめき映りこむほど鮮明だ。
ポールはまとめられた項の髪に手を当て、今更ながらアイマスクを嵌めていないので目元を押さえて目を閉じた。硬く高い鼻筋は夜風で冷たく、頬と掌は燃えるように熱かった。暗いので小夜にはポールの素顔は分かってはいないが、肌が白い小夜の透き通る肌は夜にも浮き上がり、その頬が染まっていることさえ見て取れた。
「千鶴ちゃんが、私の言っている感情が何なのかが分からないけれど、興味があるというの。あの子はいつでも研究することが好きだから、花の種類と名前や薫りの成分まで事細かに調べて、私のことも穴が開くほどじっと見つめてくるの」
「変わり者だな」
「分からないわ」
美しい横顔が池を見つめ、今日は下ろされている長い黒髪が輪郭や細い腕を飾っている。小夜が顔を上げると、ポールを見た。
「どの文献を見ても、私と同じ、似たような感情は<中毒>とか<気に入り>とか<好き>と出てくるの」
<好き>と小夜が口に出した言葉にポールは岩に添えた手が震えた。
「私、可愛い動物も好きだし、薔薇も好きだし、星も好きよ。薔薇の薫りを初めて知ったときの、あの倒れそうなほどめまぐるしい感情が体のなかを熱くして、仕方がないの。無くては落ち着かないものを中毒だと言うのよ。祈りを捧げるときも、心は落ち着かなくなってしまった」
小夜が立ち上がり、ポールの所に来ると同じ岩に座って見上げた。
「寒いわ」
手に手を当ててジャケットにこめかみをつけ、目を閉じた。警戒心というものが無いから、学友にすることと同じように寄り添って目を閉じる。そういう仲の良い少女たちの姿は普通に見てきた。寒ければ寄り添い、悲しければ抱き合って共に泣く美しい少女たち。ポールはジャケットを脱いでいたいけなお嬢様が風邪を引いて寝込まないように肩にかけてやった。肩に腕を回すことはしなかった。そんなことをしたらきっと小夜は叫んで、寮からあの鬼の理事長が飛び出し、背を思っきし鞭払ってくるだろう。
小夜は、千鶴に抱きつくのとは全く違う感情に動けずにいた。小夜は困惑して見上げた。夜空のほうが明るくて、小夜はポールの目だけが白く浮くのが恐くて首に美しい手腕を回した。
「アイマスクをしていないと、まるであの絵画に似ているのね。屋敷の人が教えてくれたわ。あれはルシフェルという悪魔を描いたものなのだって」
その絵画は道楽で屋敷主人がポールをモデルに描いたものだから、似て当たり前だった。黒人の自分が何故白人の宗教のルシフェル、しかも堕天使を割り当てられなければならないのかと不満だったのだが。
「私たちと違う体をしていたわ。ルシフェルっていう人は不思議なのね」
今更ながら、黒衣のヴェールを腰に巻いただけの姿でモデルをしたことに落ち着かなくなって「さあな」とだけ言って、結局まだ震えている小夜の背に腕を回して狭い背を温めた。
人間に黒い羽根は生えていないし、肌も白く描かれたので、ポール自身には結びつくとは思えないのだが。
「芸術って不思議ね。あんなに美しい物を描けるのだもの。目の前に現われたら私、気を失ってしまうわ。お風呂で見る千鶴や皆の姿とは全く違って、まるで不思議の国のアリスの木みたい」
「例えがよく分からない」
塀は高く厳重に囲われているのに、個人の壁の無さにポールは理性を保つには精神力に頼り、この内のガードの無さこそが外に出たあとの貴族の色に何色にも染められやすい可愛い愛玩女にされるためのプログラムでもあるので、その透明にして純粋な毒牙がこちらに向けられることへの弊害については苦情を申し立てたかったが、普段は滅多に千鶴のように塀に興味を示す、外界を意識する少女もいなければ、ましてや小夜のようにこうやって接触してくる少女もいない。自身がガードを下げているからに違いないのだ。少女を見たとなれば姿を見られる前に去らなければならず、接触など言語道断なのだから。第一、夜に出歩くこと自体が小夜を忘れられずに眠ってもいられないことが原因だった。
精神力も体力も訓練されてここへ来る彼らもここへ閉じ込められる貴族や名士の末女や双子の片割れの子たちと同様に名のある家柄の末子から選ばれる、しっかりした血統の者だ。普通に自身も近場の恋をしたいと思う。
「小夜嬢」
「はい」
もしも、自分の役目が終わる時期になり小夜を迎えることが許されるならと思う。だがこの箱庭の小鳥たちを欲する者は多い。引き取られたあとはどう扱われるかは分からない。現在二十二の年齢だが、あと五年監視人としてこの甘い檻に閉じ込められることになるのは、ポールたちも同様だった。
「夜は出歩くな。理事長に報告す」
小夜はポールの口を閉ざした。肩からジャケットが落ちて小夜の髪が黒い頬になめらかに触れ髪からやはり薔薇が甘く薫った。寄り添うより更に。
バッと離れて走って行ってしまった小夜の、純白の花の間を妖精のような背が小さくなって行くのを、ただ呆然と眺めることしかできなかった。十代の小僧のようにしばらくふいの情熱に引き寄せられたままの乙女の口付けに硬直して、しばらくしてから息をつき項に手を当てた。冷たい夜風が頬や手の甲を冷まそうとするが、森の野生動物の声がまるで愛を啼くかのようで気持ちを高揚とさせた。静かにジャケットを拾い立ち上がり腕にかけ歩いていった。
監視役の眠る部屋に戻ると、余計に眠れなくてブランデーをグラスに注いで一気に煽った。
「どうした」
物音に目を覚ました一人がポールを見た。彼はスペイン人の男で、もう一人はフィンランド人だ。昼に休憩していた三人は、スイス人、ロシア人、イギリス系の黒人だ。
「最近夜は落ち着かないな。恋人に会いに行きたくなったか」
「ああ」
「それも一ヶ月後か」
もう一人も声に起きて、枕に肘を立てて言った。
「一ヶ月に一度は祈りのために乙女たちが屋内に完全に一週間を閉じ篭ってくれるから助かるよ」
その時、一組の内の一人ずつがローテーションで一週間の休暇をもらえる。みんな屋内に閉じこもって祈りを捧げるとはいえ、緊急で何かが起きて男手がいないのは困るし、その期間は庭の手入れの人間が入るので、万が一学び舎の生徒と鉢合わせないためにもやはり監視をしなければならない。だから三ヶ月に一度、ポールは恋人に会いに行ける。それも一ヶ月後ではあるのだが、小夜の温もりが離れない。脳裏にも透き通る小夜の声が美しく響き渡り、鼻腔にはあれから小夜が理事長に頼み取り寄せた薫り高い薔薇のシャンプーが薫り、肌の柔らかさはまるでなめらかな生クリームやマシュマロや……、とにかく普段男やポールが言葉にもしないような名称が当てはまり、そして張りのある黒人のダイナミックな恋人のグラマラスさとも全く違う底なしの綿具合は衝撃だった。まるで白躑躅の蜜を吸う蝶のような少女。それが小夜の印象だった。
恋人のレイアも美女だ。それは間違い無い。
ロケットの写真を見る。美しい。そして可憐な小夜が浮かんだ。考えないようにしていたあの唇の触れた温度も、触れたと初めは気づかないほどの柔らかさも、グラスをもう一杯煽って塗り替えた。
「もう寝る。申し訳ないな。眠りを妨げた」
ライトを消しシーツを引き上げ、目を閉じた。ブランデー二杯ぐらいではどうにもならない。それでも無理やり眠りの糸を丁寧に掴むように意識を遠ざけさせた。
夢も池のような凪ぎを見せればいいと、思いながら。
千鶴は庭の陶器のベンチに座り、女神の美術書を見ていた。花に囲まれ、その黒のおかっぱの横顔を石楠花が彩る。
金魚の砦からは逃れられそうも無いと知ってからは、千鶴は金魚の睡蓮鉢を見つめることはしなくなった。そんな心など持たずにこの世界が全てで、外の世界がある事さえ知らずに生きる他の少女たちが、笑顔で睡蓮鉢を見て語り合ったり、鯉に餌をあげる姿にも目を向けずにいた。
「え? 本当?」
二つ年が上の少女の声に、千鶴は美術書の女神の逸話を読んでいた瞳を滑らせながら、聞くでもなく耳に入るままにした。彼女の背後の合歓の木から、淡いネムの花が枝垂れている。
「貴女、塀で幽霊を見たの?」
「とても驚いたわ。ネックレスをなくしてしまって、色々なところを探していたの。草むらにもないし、絶対に鞠をついていたときに落としたものだから、藤棚のあるあの辺りからどこかに行ったのだと思ったから」
「それで?」
「そうしたら、顔が真っ白で、髪が生成り色で、恐ろしいほど背が大きくて、草葉色の目をした美しい幽霊がひゅっと現われて、聞いたことも無い、そうね、嵐の夜の風のような低い声で何かを言ったの。スペイン語でも、フランス語でも、ドイツ語でも、英語でも、イタリア語でも、ポルトガル語でも無かった。私、驚いてしまってその場に腰を抜かしてしまったわ。まさか、お昼に幽霊を見るのだもの」
「貴女、怪談を読むから幻や白昼夢を見たのよ」
「本当よ? もう塀には恐くて近づけない。絵に描いたっていい」
「けれど、幽霊が出ただなんて先生に知られたらまた世迷いごとを言ったお叱りを受けるわ」
「秘密で今度、描いてあげる。本当に、まるで木の精霊みたいだったの。ああ、もしかしたら精霊だったのかもしれないわ。あんなに髪が短い人は初めて見たけれど……」
千鶴は美術書を閉じ、立ち上がり歩いていった。塀の周りを歩くと見かける男の人の特徴で、その通り、藤の棚のある辺りを任されている人だと分かっていた。
ネックレスが探せない先輩が可哀想なので、千鶴は探しに行くことにする。きっと相手側が声を掛けてくることは無いだろう。塀に近付きさえしなければ、相手側は姿を消すのだから。
千鶴が木々の間を歩いていくと、空を見上げた。太陽に光る間なら探しやすい。物陰に隠れていたら多少は面倒なのだが。先輩が首元にしているネックレスはよく知っている。それはここの少女誰もが必ず一つは身につけている装飾品だが、指環やピアス、ネックレスやイヤリング、ブレスレットなどのことで、少女たちの一族の証として別れ際に持たせるものだった。それがあればもしも成人し迎え入れられた先で同族の人間だと見分けさせることが出来る。装飾品の理由は少女たちは知らされることは無いが、大切なものだから肌身離さず持ち続けることを言われている。
スミレが光り、千鶴は膝を付き指でスミレに触れた。その花にネックレスが絡まり光っていた。それは、美しかった。まるで地球の申し子である花を本来彩るために生み出されたかのような。そして、そのスミレの花はあの先輩の印象のままにささやかで、愛らしい。千鶴はそのスミレを見つめ、指で撫でた。黄金の蜘蛛の糸に、先輩が絡まるかのようだった。先輩が大きなスミレを胸に抱き、震えているような幻想。恍惚と、千鶴の瞳は光り口元は微笑していた。それを指に絡めネックレスは彼女の白魚の手指にさらりと流れ、千鶴は歩いていった。
その背に気づいた木々の先の監視人は、少女たちに干渉してはならないので静かにその場を去った。叫ばれた少女でも無かったからだ。というか、叫ばれたのにはショックを受けたのだが、日本の少女がどんなにシャイで奥ゆかしい性質かはよく叩き込まれているので、致し方も無かったのかもしれない。白人とは違い、背も高いわけではなく、ましては女性しか見たことが無いのだから。彼の場合は少女と鉢合わせることがあっても、意思疎通をしない為に母国語のフィンランド語を話すようにしているので、語学を流暢に扱う生徒たちといえども、何を言っているのかも分からなかったことだろう。正体不明の者が何を言っているのかも分からないとなれば、塀に近寄ることも無くなる。
「百合先輩」
「まあ、千鶴ちゃん」
少女百合は一人だった。彼女の同級の学友は現在ここにはいなかった。
「これは、先輩のネックレスなのではとおもい、持って参りました。スミレの花と共にありましたよ」
「まあ! とても有り難いわ、千鶴ちゃん。ありがとう」
百合は千鶴を抱き寄せ、その髪を撫でた。
「とても困っていたの」
千鶴は腰まで長くカールした百合の黒髪を見つめ、手を添えてから優しくその髪を撫でた。背と共に。
「可哀想な先輩……とても不安だったのでしょうね。私が癒してさしあげたい。先輩の心はスミレの花のようにささやかで、震える小鳥のような心なのだもの」
外の世界のように、金魚の鉢の世界だと知ってもきっとショックも受けないのでしょうね。可愛らしい先輩。そのスミレの花びらにいつしか涙を落とし揺らして悲しむときは来るのかしら。
百合の名を冠しながらにスミレの心を持つ先輩が、とても愛しくて千鶴は頬にキスを寄せた。百合も千鶴の頬にキスを寄せ、もう一度抱き合うと離れた。
「それでは、御機嫌よう」
千鶴は憂いげに微笑み、歩いていった。合歓の花に囲まれた百合は、千鶴がつけてくれたネックレスを見つめ、微笑んだ。
何も知らない先輩。その方が幸せなのかもしれない。外を望みもせずに、与えられた運命を全うし、何に憂うことも無いのなら。
悠久から続く花のそのままに季節に委ねる身の美しさ。
千鶴は空を見上げた。淡い水色の空は、空に金魚の幻影が泳ぐようだった。空想だけはいつでも自由にはばたく。広い天空を金魚は泳ぎ、自分の体も鳥のように羽ばたいている。自然を謳歌する風のように。
花の円舞