タイトル
男女はかろうじて分かれている程度の設備しか持たない寮は、けたたましい鐘の音で夜が明ける。機械的に染み付いた習慣で、オリヴィアはぱちりと目を覚ました。
数週間続いている暴動の対応に追われて、昨晩も床に就いたのは深夜だったが、起きる時間は変わらない。
周りの様子がいつもにまして気だるげで、オリヴィアも息を大きく吸い込みながらのろのろと伸びをした。自然と欠伸が出る。長く伸ばしたプラチナの髪の毛を鏡も見ずに乱暴に手で梳くと、簡単に一本に纏めてしまう。
僅かな時間が惜しかったためにろくに着替えもせず寝てしまったことを後悔しながら、服のしわを伸ばす。上から軽い防具を取り付けて、身支度を終えてしまった。
ついこの間まで剣を握ったこともなかった人間ですら駆り出されるほど緊迫していた時期に比べればましにはなったが、それでもまだ街は騒がしい。そろそろ、夜の警備の班が目の下を真っ黒にしながら部屋に戻ってくる頃だろう。
共用の軋むベッドを軽く整えなおして一息つく。彼女は、素早く支度を終えて、朝食までの余った数分をゆったり過ごすのが好きだった。
二段ベッドの下に寝ていたオリヴィアは、上の段から聞こえる慌ただしい音に苦笑した。彼女は、少し出遅れたらしい。あまりのベッドの古さに、時折上の段が落ちてこないかと不安にすら感じる音が鳴る。
慌ててベッドを整える音が落ち着いたかと思うと、上の段から身を乗り出して逆さまに顔を覗かせる少女と目が合った。女だけの気楽さからか、だらしなく下着がはだけてしまっている。
「おはよ、オリヴィア」
「おはよう」
ドロシーという名の彼女は、オリヴィアの孤児院時代からの年の近い姉妹のようなものだった。お互いに戦争孤児として孤児院に収容されて以来、十三歳を迎えて規定で院を出てからも、十六歳に至る今までここで同じ生活を送っている。
「あ、そうだ。オリヴィアは昨日さっさと寝ちゃったから、知らないよね。昨日の噂話」
ドロシーは話したくてたまらないかのように、目をぱちぱちと瞬かせた。少し呆れながら、
「そんなことをしているから寝坊するんじゃないのか」
「まあまあ。あの『お触れ』のことなんだけどね、公爵様の意図っていうのかな。この辺を再開発したいんじゃないかって」
言いながらドロシーは、壁に掛けてある欠けた鏡を睨みつつ、寝癖がくっきりと付いた栗色の髪の毛と戦っていた。見慣れた日常の風景に、オリヴィアは微笑する。
「要するに、荒くれ者に金を握らせて追い出そうってことか。紛れている魔導士も消せて、一石二鳥だな」
お触れ――魔導士を討てば、報酬に金を出す。
至極単純な布告だが、定職を持たない者が多いここにあっては、効果は顕著だろう。
荒れた土地柄故、魔導士が紛れ込みやすいという環境。首の数は十分にある。
「あ、そうそう、なんかそんな話だった! さっすがオリヴィア、頭いい」
髪の毛をやっとのことで整え終わったドロシーは、服を頭から被りながら言った。頭を通す場所が見つからないらしく、もぞもぞと布の塊が動いている。呆れつつ、服を正しい位置まで引っ張ってやる。
「……どちらにせよ、まずいな。次に路頭に迷うのは私達になるかもしれない」
「なんで?」
呑気に防具を緩慢な動作で身体に取り付けるドロシーを手伝いながら、オリヴィアは言葉を足した。
「元々、この辺一帯の貴族連中が大枚叩いて大量の兵士を雇い始めたのが、革命があって土地が荒れ始めた十六年前辺りだから。要らなくなったら放り出すだろうよ」
潜んでいる魔導士よりも厄介なのは、取り分に揉めて時には同士討ちまで始まる人間の方だった。
布告が出された直後である今現在でこそ街中が殺気立っているが、それもじきに落ち着くことだろう。魔導士も消え、荒くれ者も消える。
そうなれば、残るのは空っぽの空間だ。
空っぽの容器を守る仕事など、無くなってしまう。
「ふうん……? せっかく私達小間使いから兵士になれたのに、そんなことになったらやだねえ。……あ、行かなくちゃ」
二度目の鐘がなって、一斉に同僚たちが部屋から出ていく。二度目の鐘は朝食の合図だ。オリヴィアとドロシーの二人も、慌てて食堂へ向かった。
いつも通りの朝。食前の祈りを捧げ、無言で質素な食事を済ませると、すぐに仕事に取り掛かる。
その日オリヴィアに割り当てられたのは、数日間ずっとそうであるように、地域の警備だった。長い間小間使いとして皿洗いや洗濯を任されていたオリヴィアが剣を握ったのはたったの数か月前だったが、そんな人間でさえ駆り出されるほどに街中が混乱していた。
魔導士を殺せという布告にもかかわらず、人間同士が取り分に揉めて流血沙汰になる状況が続いている。オリヴィアらの役目は、そういった連中が主の領土で揉めないように目を光らせる程度のものだ。持ち場に着くと、途端に退屈になってしまう。
何か起こると走る緊張と、一段落するとやってくる弛緩の連続。とはいえ、少し前までと比べれば、大分余裕も生まれたものである。
ドロシーの、すっかり気の抜けた声が耳に飛び込む。
「ねえオリヴィア、明日私たち非番だよね」
言われて、ふと日付を思い出す。ずっと休める状況でなかったのが、二日ほど前にようやく順番で休暇を取ることを許されたのだった。
「……ああ、そう言えば明日か。暫くぶりだし、そろそろ孤児院に顔も出したいな。ドロシーは?」
「同じこと考えてた。ふふふん、お姉ちゃん達に会えてなくて、みんな寂しがっているに違いないね」
そう言って数週間の疲れの中に笑顔を作って見せたドロシーに、オリヴィアも微笑した。
「そうだな」
「いいなあ、二人とも戻る場所があって。同じ戦争孤児でもさ、私みたく親戚の家たらい回しからここに放り込まれた口だと、実家なんてもの無いし」
ため息交じりに口を挟んだのは、同じく兵士として勤めている少女。彼女――アリスは、そばかすの浮かんだ頬を少し膨らませていた。
すかさず、妙に大人びた顔を見せながらドロシーが答える。
「うーん。私達からしてみれば、アリスみたいに血の繋がった親戚がいるだけでも羨ましいけどなあ。ね、オリヴィア」
「無い物ねだり、ってやつかな。お互いに」
そんな風にドロシーや同僚の兵と他愛ないことを話しながら、ゆっくりと時間は過ぎてゆく。
気が付けば太陽は沈みかかっていて、強い西日を放っている。あまりのまぶしさに手で光を遮った。空を見上げると、うろこ雲が一面を覆っていた。秋特有のその雲は、妙に不吉な気分を掻き立てる。普段と変わり映えしない一日に何故か浮かび上がってくる胸騒ぎに、オリヴィアは困惑したのだった。
翌日、いつも通りの時間を知らせる鐘に目を覚ましたオリヴィアは、ベッドの縁に人影を感じた。まだはっきりとしない頭をなんとか動かすと、すっかりと着替えを済まして彼女を待つドロシーの姿を捕らえる。思わず目を瞬く。
「……あれ? おはよう……珍しく早いな」
言いながら目を擦って身体を起こすと、
「そりゃもう、やっと休みの日なんだよ。楽しみで楽しみで。オリヴィアも早く支度してよ、遅いよ」
腰に手を当ててふんぞり返るドロシーに、オリヴィアから思わず笑いが漏れた。
「ははは、それをドロシーが言うのか」
「それ、どういう意味。私だって年がら年中寝坊助な訳じゃありません」
「嘘。前の非番の日から数えただけでも、多分十回は私が起こしただろ」
勿論その間私は一度も寝坊していない、とそう言外に付け加える。
「うっ……。まあそれは感謝してるけどさ……」
「全く……ほら、そこ、寝癖取りきれてない」
言いながら歯の欠けた櫛を取り出すと、ドロシーの栗色の髪の毛をゆっくりと梳いてやる。
幼い頃から、幾度となく繰り返した光景。
「へへ、ありがと。オリヴィア」
「いい加減自分で出来るようになってくれ。二年後には成人なのに」
返ってくるのは、ドロシーの間の抜けた声だ。
「別にできなくていいよー。大人になっても、オリヴィアがずっとやってくれるでしょ?」
オリヴィアは呆れ交じりの苦い笑みを零すと、鏡の前に立った。見慣れた自身のプラチナの髪をぐしぐしと梳く。ドロシー曰く、彼女にしてやるときとは比較にならないほど雑な動作らしいが、こればかりは癖である。
仕事用とは違うまだ小綺麗な方の服――それでも綻びが目立つのだが――を引っ張り出して、寝衣を着替える。自身の好みの、動きやすい服装だ。
すっかりと身支度を終えると、防具で覆われた普段とは違う十六の少女相応の姿が、古いひび割れた鏡に映っていた。久しく見ていなかった気のする姿。護ってくれるものが無いと、途端にその身体は貧相で頼りないものに感じてしまう。
オリヴィアの支度を待っていたドロシーは、視線をオリヴィアの頭からつま先まで流して、盛大なため息をついた。
「オリヴィアってさぁ、ほんっと勿体ないと思う」
「何が」
「もうちょっと格好に気使いなよ。まあ、それはそれで似合ってるんだけどさ。……髪の毛も真っ直ぐでさらさらだし、鼻もしゅーっとしてるし、目だって綺麗だし。なんかこう、ふーん……妬けるなぁ」
自身の栗色の癖毛を弄びながら言うと、半ばふくれっ面で、ドロシーはオリヴィアの両肩に手を置いて向かい合った。
彼女の青い瞳と目が合って、オリヴィアは顔を反射的に逸らす。
目を見られるのは苦手だった。
「綺麗って言ってくれるの、ドロシーだけだ。その、差別とか。しないでくれて。
……私の親だって本当はわからない。戦争で死んだんじゃなくて、目がこうだったから捨てたのかも」
オリヴィアは、鏡に向き直って手を置いた。自身の双眸の紅玉を覗き込む。
赤い目。血を吸ったようだ、不浄の色だと形容されるその目。
「周りがどう言ってるかなんて関係ないよ、本当に綺麗だもん。
こんなこと言ったら院長先生にめちゃめちゃ怒られちゃうだろうけど、私は魔導士だって、みんながみんな悪い人達だとは思ってない。実際に会って話してみないと、そんなの分かんないよ」
「……そうだな」
オリヴィアは、ぽつりと呟くように言った。
孤児院の保護下から抜けて、世間により一層晒されるようになって痛感した、周囲の侮蔑するような目。
一人だったら、きっと耐えられなかっただろう。
――ドロシーが一緒で良かった。
そう、強く思った。
「痛っ」
額に鋭い刺激が走る。思わず手で擦りながら視線を上げる。
中指と親指をすり合わせてにやにやとするドロシーの姿を認めて、指で弾かれたのだと気づく。
「ドロシー……?」
「ほれほれ。そんな顔しない、しない。オリヴィアお姉ちゃん? 可愛い妹や弟達が心配しちゃうぞ」
そう言って屈託なく笑うドロシーに、どれだけ助けられてきたのだろう。
気遣いに応えたい。だから、それ以上考えるのをやめた。
「……ああ。もう、行こうか」
オリヴィアは、軽く息を吐いて立ち上がった。気がつけば、仕事のある他の同僚たちは既に部屋にいない。非番の日は朝食が出ないため、のんびりとしたものである。
部屋を出て、少し軋む床板を鳴らしながら歩く。
横についたドロシーの足取りはいつになく軽い。久々に仕事を離れられた開放感に満ちている。
オリヴィアはそんなドロシーの様子を見て微笑した。ふと、廊下や階段のあちこちに貼られた、指名手配されている魔導士の張り紙を一瞥する。
先の革命で首謀者として名指しされた、レナードという男。自身の両親が死ぬ原因となった――かもしれない男。その似顔絵が描かれた張り紙は一段と古く、色褪せている。
だが、その男の朱く鋭い瞳が、どことなくオリヴィアの心を揺さぶるのだった。
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