情欲

 彼女は暖房でやや乾燥した部屋の中でベッドに腰をかけている。去年行った海外旅行の写真や祖父母からもらったクマのぬいぐるみ、誕生日にもらった髪飾りなどが本棚の上に置いてある。やっと150cmを越えて子ども服が窮屈になり始めた柔らかな身体に興味を持っていないらしい。心臓の位置さえ掴めずにいた。
 彼女は細く長い黒髪に櫛を通しながら想起していた。その日の帰り道、草が生い茂る人影の少ない場所で男性の裸体を見た。石を蹴りながらひとりで歩いていたため、目の前にいるベージュのコートを着た素足の怪しい人物を避けることができなかった。その男は彼女の父親よりも老けていたように思う。薄汚れた髭面とだらしなく弛んだ腹、そして股にぶらさがる陰茎が目に入り込んだ。帰りの会や回覧板でよく聞く「不審者だわ」と彼女は思った。男の視線が彼女の全身を舐めまわした。ねったりと笑う。彼女は生きてきた十年あまりの間に、このような人間に遭遇したことはなかった。そのため不幸にも男の意図するところが理解できなかったのである。
 「知らない人のことをじろじろ見るなんて失礼です」と彼女は言った。男は少女の声を聞いて破顔した。
 「お嬢ちゃんはいい子だね」と言い、彼女の方へ近付き頭を撫でた。
 彼女は男の体温が上昇し血液が海綿体に集中していること知らない。ただ男に頭を撫でられたことに嫌悪感を抱いた。ここから逃げなくてはいけないと彼女は思った。いや、本能的に感じたのである。彼女は小さいときから色んな人に頭を撫でてもらうことが好きだった。両親はもちろん、親戚のおばさんや近所のおじさん、学校の先生にも撫でてもらうことがあった。だが、この男性には許してはいけない。彼女はランドセルの肩ひもを強く握り締め、一目散に走り去った。後ろを振り返らず、男性が何か言っているのも聞かずに自宅へ帰った。
 心臓がバクバクとして家についてからも落ち着かなかった。母親がつくったおやつのクッキーも喉を通らず、少し体調が悪いと言って早めに自室へ戻った。
 それから今日出会った男のことを考えている。今日のことは両親には言えなかった。彼女は大切なお皿を割ったように「いけないこと」をしてしまったと感じていた。その理由は分からなかった。
 あの男はなにを企んでいたのだろうか。12月、厚手のコートとマフラーがなくては外に出られないほど寒くなった。わざわざ裸で外を出歩くなど頭がおかしい人なのかもしれない。そしてあの笑った顔。彼女は初めて見たあの表情が脳裡に残って悶々としていた。欲しい物を買ってもらったときでもあんな顔で喜んだことはない。べとべとしたヌガーでも食べているかのような頬の動きに言われようもない恐怖を感じた。そして今も彼女の体に何か纏わりつくような気味の悪い感覚が残る。頭から足先まで見つめられたときにペンキの刷毛で男の垢を塗られてしまったのだと彼女は思った。
 そのとき彼女は似たものを知っていると思い出した。彼女の学校の先生、若々しいお兄さんのような先生のことである。彼も彼女を褒めて頭を撫でたときにほのかに甘ったるさを醸し出していた。そのときには気付かなかったが、確かに帰り道に出会った男性と共通するものを持っていた。先生は無邪気に彼女の頬を撫でることもあった。必ず人がいない放課後の教室のことであった。
 彼女の回想は更に遡る。近所のおじさんはどんな顔をしていたか今まで確認したことがなかった。彼女はただ一輪車が上手にできたことを褒めてもらい、鼻高々であった。家の近くの公園だった。学校から帰ってきて着替える時間さえも惜しくミニスカートのまま一輪車の練習をした。その度に近所のおじさんは公園のベンチに座り、彼女の練習風景を見つめる。ジュースやおやつを買ってくれるためこの公園の小学生は皆、そのおじさんが好きだった。彼女もまた練習で疲れたときに大好きなコーラを親に内緒で飲めるからおじさんを気に入っていた。転んだときもすぐさま駆け寄って膝に着いた土をはらってくれた。
 髪の毛を櫛る手が止まった。彼女の体は小さく震えている。室内の温度が急激に下がり、指先が凍るようであった。最早、彼女は自分の身体に関心を持たざるを得なかった。丸みを帯びてくる時期を目前に控え、身体より先に精神が子どもの枠からはみ出していく。嗚呼、この変化に誰が気付くだろうか。彼女は大きく息を吸い、吐いた。彼女の同級生はまだ知らない。誰よりも早く情欲の存在に気付いた彼女は急激に幼い昨日までの自分から脱皮してしまう。強制的な変容に耐えられず、彼女はその晩ずっと泣き続けた。
 彼女の痛みがこの先も続くと知るのはそのまた3年後のことである。

情欲

情欲

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-09

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