箱
月の花乙女
月の明かりのもとに舞う
香りは森と花の便り
幾重にも折り重なる自然の便り
歌声響けばハープが奏でる
月影動けば乙女も微笑む
鈴が鳴る 太鼓も唄う
パイプはうなる 踊りも巡る
黄金の月が泉に映る
白い記憶は心の奥に
追憶の旅
流離う風は知っている
我らの尊いその祈り
ここに呼び戻せと云っている
夜の風のきよらかさはここに
彷徨う心は穏やかに
静寂の洞窟
眠る動物
水滴の楽器
傾く月はツタの先
静かに小夜曲
生命の泉の音色
闇はわたくしの味方に
暗黒の願いは沼に沈めて
宇宙の終わりと始まりのときを
想う影の印象に月が陰を落とす
美しき声に魅了されるのは
鏡となった救いの心
三人の魔女が奏でるは
生命と死とそのひととき
はためくその衣に
流れの一糸を
彷徨うのは体
移ろうのは夢と足取り
心は水源のように溢れ
真理は尽きぬほどに
泉の上を滑るのは
妖精かそれとも光りか
さざ波をここに
波紋を体に
静けさに幕を引かせる風の音
木々のさざめき
頬をなでるのは息吹き
悦びをのせて
花の薫りに充たされて
林を走る花弁の風
薫りはどこかで懐かしき
こずえを見上げて手を差し伸べて
頬に触れて瞼を綴じて
夢と現の狭間は今も
なおのこと一層に美しい
霧に包まれた
ならば私はどこまで彷徨おう
2016.9.4
ポーシャの星
あの月はどうしてあんなに地球から顔を隠されているのだろう。
薄い衣をまとって、まるで月自体が僕らの姿を見たくないと拒みながらも見させられているみたいだ。
僕の悲しい心にかさなったのかな。
いつだったか、ポーシャは僕に言ったっけ。『月が出ているときは星は微かなものでしょ。星は月の光りに隠れて、わたしたちを見てるの。見てないと思ってても、しっかり見てるの』
それで、続けた。
『だから、天の国にいった人だって星になって、月の照る日もわたしたちを見ているのよ。隠しごとなんてできないのかもしれないわね』
そんなことを言って僕らのもとから星の夜に去っていったポーシャ。音楽のためにヨーロッパに独り身で向かって、きっと同じように星空をむこうでも見上げているんだ。
ずっと一緒にいるって言ったのに。それは僕だけの願いだったんだろうか。星に願ったことだってすべて。
「元気だしなよ、康(やす)。ポーシャはもともとママが生まれた国に戻りたがってたし、パパの日本での天体の仕事についてきてただけなんだから」
ポーシャのママはポーシャを生んでしばらくして亡くなってしまってから、ヨーロッパで日本人のパパとおばあさんの家で生きてきた。それが、五年前に日本に戻って天体関係の仕事をすることになって、そのプラネタリウムで僕らは出会った。
ポーシャがしてくれるいろいろな話が大好きだった。本物の星の観測もたくさんした。五年間で僕は小学生になって、それでもう四年生だ。ポーシャは六年生のお姉さんになって、僕をいつでも弟みたいに可愛がってくれた。僕だってポーシャといるのが大好きだ。
「ポーシャが帰りたがってた話、僕知らなかったもん」
空港まで日本人とハーフの親子を見送りにいった帰り道、本物の年の離れたお姉ちゃんは森の先の広場が公園になっている翠ヶ丘に連れてきてくれた。今は一緒に星空を見上げている。
僕があんまりに空港で泣くものだからポーシャはずっと困っていたし、お姉ちゃんは呆れてたし、ポーシャのパパは苦笑して僕の頭をぽんぽん叩いてなだめてくれていた。
『わたしはまだぴんぴんしているし、お星さまにもなってないのに、まるでこんなに泣かれたんじゃあ罪深く感じてトピアM5の横に光るトピアN7になっちゃいそう。いいの?』
『嫌だよ! ポーシャあ!』
今は目もぱんぱんに腫れていた。夜風がやさしくまぶたをなでる。
「トピアはヨーロッパでも見えるのかな」
それはポーシャが見つけた新しい名の無い星だった。ポーシャはトピアM5はママの星なのよ、とつぶやいたことがあった。膝を抱えて夏の空を山頂から見上げた横顔は、うれしげに瞳がきらきらと光っていた。
いつか、何十年後になるかわからないけれど、自分もトピアM5の横に並びたいとつづけたポーシャの目から、涙が一つこぼれたのを見逃さなかった。
女親がいなくて寂しいなんて一言もいったことなかった。パパがいてくれていつも楽しいと言っていた。優しくて、何でも知ってて、細いけどどこか頼りがいがあって、そんなポーシャのパパを自分は尊敬していると言っていた。
きっと、お姉ちゃんには言っていたんだ。ママがいなくて寂しいこと。早くママの母国に帰りたかったこと。
「僕ね、ずっとポーシャと結婚するんだって思ってた」
「そっか」
お姉ちゃんは頭を抱き寄せてくれた。月はもう森の木の上に顔を隠していって、風が薄い雲をどこかへ吹いていった。
流れ星がいくつも流れる。流れていく。僕の恋みたいに落ちていった。
「僕のこと、年下としか思ってなかったのかな」
「お姉ちゃんはあんたのことをポーシャが可愛がってくれててうれしかったから、あんたがポーシャと結婚して姉さん夫婦になってくれてもうれしいと思うなあ。時々ぼけたあんたにツッコむ姿も似合ってたもん」
「本当?」
「だからさ、諦めないで星見上げてるときみたいに、いつかあんたも誰かに見上げてもらえるような人になれたらポーシャも見直してくれるんじゃない?」
「……むずかしい話でわかんないよお」
「ポーシャも惚れるような男になりなさいってこと。それでから迎えにいってもいいんじゃない?」
「まだ間に合うかなあ」
「あんたねえ、何歳よ。ガキンチョがまるでサラリーマンみたいなこと言っちゃって。有名なアスリートだって小学生のころにはもう将来のヴィジョンを胸にした夢を語り始めるものよ」
「僕の夢はスターウォッチャーだよ。夜の船にのって、イルカのジャンプを見ながらみんなに星を紹介するんだ」
お姉ちゃんは僕の将来の夢の話をうれしげに聞いてくれていた。
星はどんどんと多くなってきて、もしかしたら今に肉眼では見えないポーシャの見つけた星も見えるんじゃないかって思ってしまう。
スターウォッチャーになったら、みんなに紹介するんだ。
目では見えない暗がりにも、星は存在していること。そこからみんなを見てくれていて、そのひとつに細やかに光るトピアという水色の星もあるんだよ、と。
ポーシャがよく言っていたみたいに、見えないものの先にだって夢はあるから、美しいものはあるのだから、みんなも見つけてみてくださいって。それは生きていくうちにも、星じゃないとしても大切なものに気づくはずだって。
「僕は星が隠れてみていても、ポーシャのためにだって強く恥じない人になりたい」
お姉ちゃんはにっと微笑んで頭をぽんとなでてくれた。
「応援してるぞ。未来のスターウォッチャー」
この青い地球の夜になる時間も、星や月は照らしてくれている。海の波の音、こんなに綺麗な惑星。それを守ることだって、夜空を守ることだって、できるんだ。
目には見えないけれど、視線の先にあるトピアをじっと見上げ続けた。
きっと流れ星は願いを乗せて、いつかはどこかできらめいて、ポーシャに想いを届けてくれるんだ……。
僕はふと思う。ポーシャの隠していたことって、なんだったんだろう。そしてほんのりと思う。ポーシャの密かに願い続けていたそれが、きっと叶いますようにって。
2016.9.11
ポーシャの星 2
数多な幾千の星を越えた愛は
私は水色の星の映像をバックにして、ステージの上に拍手を受けていた。
私の歌声は夜の星にどれほど届いたのかしら。
「どうもありがとうございました」
久しぶりにやってきた日本。十三年ぶりの地。林に囲まれたこの野外ステージは風が縦横無尽に駆け抜ける。思い余って頬を流れた涙もさらっていく。
私の後ろで伴奏をしてくれていたサズ弾きのタリーヌが私の横に来た。ともにお辞儀をした。
「トピア~Ⅲ章~でした」
星になったママに捧げるトピアセレナーデ。
芝生に並ぶ椅子に座るパパも優しく微笑んで拍手を送ってくれた。
パパもまた、頬に涙が伝っていた。
「ポーシャ」
私は控室になっている大ぶりのティッピーテントで振り返った。
「パパ」
「巡回ライブ最終公演、よかったぞ」
「どうもありがとう」
私は微笑んで、パパはいつものように頭をぽんぽんと撫でてくれた。
「星も綺麗だったわね。このあたりは満天の星が見えるから、きっとママにも聴こえていたはず」
「ああ」
サズ奏者のタリーヌが柔らかな表情で私に尋ねた。
「彼は来ていたの?」
私はしばらくして、首を横に振った。
「やっぱり飛行機の時間が間に合わなかったみたい。二日後の公演なら間に合ったという連絡を彼のお姉さんから伺ったんだけれど」
「そう。また二日後にやりましょう。彼のために」
私は頷いた。日本へはその彼のために戻ってきたのだから。
康。私にいつも元気をくれていた男の子だった。悲しいときも、寂しいときも、泣きたいときも康がいてくれたから笑ったりできたし、一緒に星を見上げていると心が安心した。私のほうが年上だったからなのもあって、世話のかかる康のお守りをしているみたいで楽しかったのかもしれない。康のお姉さんの優さんはいつでも私がパパにも言えない相
談を聴いてくれていた。ざっくばらんな人で頼りがいがある人だ。
その私の初恋の康とは、いつか結婚を天国のママに許してもらえたらって、ずっと願い続けていた。願い事は口にだしたらいけないって聞いたことがあったから秘密にしていた。願いをかけた夜空だけは知っていた。元気をくれる子への小さな恋を。
十三年前に酷いホームシックになって日本を離れて、歌い手になりたくて合唱団に入ってから二年。康への恋心がどんどん強くなったことが辛かった。
私を励まし続けてくれた夜の星。ずっと心にとどめ続けて歌にした想い。そして康への想い。全てが綯い交ぜになって、日本の林は私に教えてくれた。大丈夫。と。
「今日はとても良かったわ。三か月間の公演お疲れ様。体を癒すためにもペンションへ向かいましょう」
私たちはトランクをもってテントを出た。パパが車を付けてくれてあって、それに音響機材やサズ、トランクを積み込んで出発した。
この林の音楽ステージから走って橋を越え、色味の濃い森にペンション千草がある。
暗い林をライトが照らしながら走る。それでも木々に囲まれた路の頭上には星。
トピア。それはママの星。
水色で、そして大小二つ並んだ星。
もちろん天体望遠鏡でなければ見ることはできないけれど。
私は林の路をまるで飲み込んでいくかのように感じる星屑を眼前に、どんどん迫ってくるそれらの夜空に、セレナーデを口ずさんだ。
夜空にまるで包まれるかのよう。林というベッドで。私は夜の鳥になり、そっとそっとはばたくよう。あのトピアまでよ。
私の心の帰るところは星空のなかにある。そこでは優しい色をした世界は待ってくれていて、水色に包まれて私は安堵とする。
林の木々は風に揺られて、心を撫でて癒してくれる。
多くの清い救いがこの世にはある。悲しみはいつかは誰かの愛で優しさに変わる。
「パパ。ありがとう」
運転をするパパはいきなり言った私をちらりと見て、また前に視線を戻した。
「どうしたんだ? ポーシャ」
「パパの支えがあったからここまでこれたんだと思って。十三年前だって、本当は頭を下げてくれたんでしょう? 私がヨーロッパに帰りだがって、日本での仕事を離れることになったから」
「そんなこと気にすることあるか。僕はね、お前があのとき言ってくれたからターシャお祖母さんにもずっと寂しい思いをさせずに済んだんじゃないか」
「うん」
お祖母ちゃんはヨーロッパの次の日本での野外巡回ライブで風邪をひかないようにと、ひざ掛けを編んでくれた。今も私の膝に乗っている。
秋口のこの季節、夜は涼しくなる日本。お祖母ちゃんはヨーロッパから出たことはないけど、よく少女のころに日本から電話をしていた私は、日本の気候はヨーロッパと違うと言っていたから、よく理解してくれている。
「……あ。コスモス」
「コスモス?」
橋が近づいてきたころ、その周辺にコスモスが群生して咲いているのがライトに照らされた。
タリーヌが後部座席から身を乗り出して、「綺麗」と微笑んだ。
そこで車を停めて、私たちはコスモスと夜空を見上げた。
コスモスと星が一つ一つ細い銀のチェーンでつながっていたら、花は銀河の身に着けるアクセサリーね。それを伝って今に蟻が宇宙まで登って行って、星が発する甘美な蜜を巣にもっていこうとする。それはどこか哀しみを帯びて、みんなの悲しい願いを乗せて色づく涙。それをそっとそっと星は長いこと包み込んで慰めてくれて来た優しい囁き。
蟻は地球に戻ってくるまでに眼前に広がる青い地球を見て、初めて驚いて星の蜜に包まれてしまうんだわ。いきなり雨のように涙が降って足元をとられた時のように。星さえも見上げることが出来ずに悲しみに暮れて、落とす涙に。それでもその潤んだ涙の落ちる先には蟻の巣があって、誰もが行き来している。降ってきた涙にも、雨にもものともせずに。だから自分も歩かなきゃと思う。
どこにでも救いの心はある。
揺れるコスモスは蟻たちが巣まで戻れるほどのしなやかさをもって、揺れている。
「ポーシャ!」
十三年振りの再会とあって、私は私らしくもなく緊張をしていた。
康とは全く連絡を取り合っていなかった。
だから、彼が大学卒業後に海洋系の仕事につき、天体学者になって星のインストラクターになったのだと康のお姉さんの優さんに聞いて驚いた。
康といえば泣き虫で、笑顔が可愛くて、小さいのに走るのが速くて、というかお化け屋敷での逃げ足が速すぎて、いきなりボケてきて意味の分からないのに癒される日本の友人。そして私の初恋の相手だったから。
私はどうしても遠くから聞こえる声に振り向くことが出来ずにいる。
ここは待ち合わせの静かなレストランで、まさかそんなところで大きな声を上げて名前を呼ばれたことへの恥ずかしさも手伝った。いつでも声が大きい、変わらないなと、なんだかおかしくなってきて肩を震わせて笑った。十三年前も日本を離れるとき、空港で大泣きされた。
ポン
「ひっ」
私は変な声を出して咄嗟に振り返り見上げた。
「………」
そこにはすらりとしなやかに背が高く、浅黒い青年が立っていた。太陽のような笑顔を私に向けて、微笑む目元はきらきらと輝いている。
「……や、す……?」
彼は白の丸襟の上に黒い上下のラフジャケットをさらりと着て、颯爽と私の前の席に来るとするりと座った。そして身を乗り出してきて、まじまじと笑顔のまま私をまっすぐと見た。
「美人になったな。まるでベガを女にしたみたいだ」
うれしげに言って、私は頬まで紅潮させた。
「康ったら」
「コスモスって不思議」
「何故?」
「たとえ風で倒れてもその茎から何か所も根が出て、新しい茎を伸ばして花を咲かせるというの」
「本当?」
「私はコスモスは勇気と諦めない心を兼ね備えた、しなやかな強さのある花だと思ったわ。どんなに辛いことがあっても、そこから立ち上がれる力を見せてくれる人生の花だって。だから」
続く
2016.9.11
月影の祭り
まつりごと
今は江戸の時代。
この山地には百年前から由緒正しき祭祀(さいし)が秘密裏で根付き、村人以外に知られることを頑なに拒まれてきた。
その祀りは夏も静まり、夜霧と共に涼しさが肌に染み付く時季になれば行われる《夜神さん》という。
夜神とは、この閉ざされた山間の小さな村に毎年現れ、民家の内の一軒にやって来ては乙女を《片色目》にしていく不可思議な現象を施す根源である。
その翌朝になると、乙女は朝の帳のゆるやかな明るさに目を細める。なぜなら、乙女の左瞳の色だけが空色だったり、木の葉色だったり、何かの花の色に、はたまた淡い夕暮れ色に変えられているからだ。それが何かの花の色ならば、翌年その花が多くつき、花染め織物や花を閉じ込めたべっこうあめの産地でしられるこのあたりは美しい花の彩りで充たされた春を迎える。もしも自然の色ならばそれになぞらえた事象で季節を報せてくる。
祭祀はそれらへの感謝や畏敬や鎮魂を込めて行われる。貢ぎ物としては花色ならば染物や花を。瞳の色にちなんだものが乙女により手向けられてきた。泉色ならば湧水を。栃色ならばその実といったように。
だが、光も跳ね返さぬような闇色や、何にも染まらない純白に瞳が変えられた時だけは穏やかには済まされなかった。夜神さんの訪れた翌日から乙女は座敷牢にいれられることとなる。そんな一年は何かが起こる。その時にその乙女が身の危険にさらされないよう、それらの禍から逸らさせなければならなかった。そして明くる年の夜神さんの祭祀でその乙女は貢ぎ物として捧げられた。
瞳を変えられた乙女が座敷に匿われていることで、禍は最小限で済まされるのだが、もしも逃げ出したとなれば酷かった。
「お七。今日も来たよ」
「三治朗(さんじろう)さん、外は寒かったでしょう」
声を潜めて迎え入れ、すぐに襖は閉ざされた。
お七が閉じ込められたのは、村でも十の指に入る立派な屋敷の娘として産まれたには悲しすぎるものだった。六畳の固い床じきの間。そこには寝床や桐箪笥、葛籠(つづら)や鏡台などが置かれている。外からは弱光さえ射し込まない地下。
今や彩りの秋も過ぎて寒さが身に染み始める冬の入り口。たまに雨は雪にかわり、野や山がほんのりと雪化粧を纏うような。鳥の鳴き声も寂しさをまし、鹿の高い鳴き声もなりを潜めて狼の遠吠えも静かになってくる季節。
お七は恋仲の三治朗と毎年見てきた秋の山錦に包まれた村の美しさを思い出すと、心がなんとも切なくなる。山の青い泉を滑り波衣となる紅葉や、畔の木々の間を現れる狐や雉の姿。色づいた実をとりわけ二人でほんのり甘酸っぱいそれを食べたりもした日々。
三治朗は今、着物の膝に視線を落とした可憐な乙女を見て、自己を責めた。なぜもっと早く結納を済ませなかったのだろう? 身分の違う二人は許嫁にもなれず、それでも二人でいられる今生の幸せを日々尊く思い過ごしてきた。夜神は婚姻を結ぶ前の乙女の前にしか現れない。
だからとてまさかお七を訪ねたのだなんて。
お七の左の瞳は純白で、小さい瞳孔などは夜の坩堝ほど暗い。この地方の女の髪型通り前髪は切り揃えられ、長い後ろ髪はゆったりと毛先が染め物の布で包みこまれ、彫り物留め具の花飾りが咲いている。それは奇しくも今のお七の左眼と同じ白、村に伝わる《おなご生涯花》の風習で、彼女が生まれたときに印として与えられた白い花だった。お七は言う。この瞳は私の大好きな生涯花とおんなじ。綺麗で、気に入っているのよ。と微笑む。
三治朗は辛かった。こうやって人目をはばかり逢いにきた帰り道は、一人悔しさに涙が頬を流れ伝った。
焦燥した顔など見せるべきでないと笑顔で会いに来ても、お七が三治朗の焦りを読み取っていることは長い付き合いでわかっていた。
本当に辛いのはお七なのに、助けもできない自分がなんと情けないのか。
「思い悩まないで。この瞳を受けたことで、この一年は村人に注意をしなさいと夜神様は忠告してくれているのですもの」
三治朗を安心させるために言い、そのお七の視線の先、三治朗の背後から襖越しに、足袋をする足音が微かに聞こえた。お七は三治朗を早く葛籠に押し込み上に柔らかな着物を乗せてから蓋を閉めた。
三治朗は息をひそめて目を閉じ、着物に焚き染められた香の薫りに包まれながら、はね上がる心臓を落ち着かせた。
お七は引かれた襖の先を見て驚き、身を固まらせた。まさかまだ夜の深部でもないのに来たのだなんて。
夜群青の衣を召し、足元まで長い放埒な黒髪を風も吹かないのになびかせるのが、人あらずにまごうことのない夜神様だ。その深い青の瞳は月のように光りを発している。
青く光る瞳がお七の黒い右目に揺れる。
光りにあてられそろそろ雪肌のお七は花になり透明になりそうだ。
また彼女の全身からじわじわと発されはじめた群青色の光がみるみると夜神様に吸い込まれていく。お七は膝をくずし後ろに倒れかけ手首を掴まれた。その白い手からもみるみる光りは吸い寄せられ、夜神様に到達するまでには白い光になってゆく。
今日のぶんの光をもらうと、夜神様は今度はふわと浮かび、なんとその場で見えなくなった。
葛籠からそれを見ていた三治朗は酷く驚き、支えを失いふらりとしたお七の背を見ると蓋をはねのけ駆けつけた。葛籠に仕舞われていた色とりどりの花染着物が空に舞い三治朗の肩にまとわりつき、その薫りと頼りある胸に包まれてお七は目をさました。
「大丈夫か?」
「ええ、三治朗さん」
頬を染めたお七を座布団に落ち着かせ、三治朗も顔を赤らめてから気を取り直してゆっくりと聞いた。
「さっきのは一体」
「………」
お七は言うわけにはいかずにいた。
彼女の視線を落とした顔を見ると、三治朗の心に大きな焦りが走った。まさか恋仲の自分にまで言えない夜神様の秘密があり、二人を隔てようとしているのか。
「お七」
キッといきなり彼女は顔をあげ彼を見た。
「言えないの。お願い。私を助けるためと思ってどうか」
三治朗は脳裏で何かが弾けたように目をみひらき、ついカッとなっていた。
「彼はお前をさらっていくんじゃないか!」
夜神様は村の守り神と言われているが、これは何を信じろというのか理解できなかった。
三治朗はあまりにいつも落ち着き払っているお七、恋仲を引き裂かれる悲しみの涙さえ見せたことのなかったお七を凝視した。それは今まで強く頑なに弱くなることを耐えるお七のしおらしくも健気な姿だと思っていたのに。
だが、三治朗は自分の怒りは勝手なことではないのかと思いとどまり、聡明なままのお七の瞳をじっと見て、何度も息を吸い吐いた。
お七はじっと三治朗の瞳をそらすことなく見続けた。それは白い瞳がもとからお七の色であったのだという概視感が襲うほど。まだ若い三治朗にはすべてが不可解な物事でしかなく、理解になど及ばなかった。彼は顔を背け、走って座敷から出ていった。
襖がぴしゃりと閉まりお七は取り残され、こらえ続けていた涙が一気に溢れ、顔を床に臥せって泣きそぼった。
この瞳は悪い風に当たって、病や疫に冒される危険があると夜神様が匿わせているもの。そんなことが知られたら、恐怖にかられた村人たちはお七に何をするか目に見えている。
夜神様は訪れる毎にお七から体に憑いた邪な疫の毒素を抜きにくる。
白い瞳は清らかな力を集めた月の光。一人の時間でも毒素に負けぬよう、瞳から体に抗える力を込めていた。
村人の一部はその年は豪雪に備えた冬支度をする者も多い。それで白い瞳の年毎に雪崩が起きそうな場所は広葉樹の苗が植えられたり、屋根を補強したりなどした。
逆に闇の瞳のときは、河が氾濫するほどの大雨に見回られる。その時に過去に三度ほど座敷牢から乙女が抜け出し流されたことがあり、忠告も無視した行為に夜神様が翌年現れなかったこともあった。
お七は辛さに押しつぶされたくなくて、必死に髪を束ねる染められた布を持った。
もとは治すように言われていたお七の癖だ。不安になると幼い頃から髪の染め布をいじり、しつけがなっていないと怒られていた。
それも、上手に毒素が消えていき夜神様がおよぼす自然治癒がすすめば、疫にならずにすむ。
だがその後はやはり何らかの疫になるかもしれない村にはいることはできず、乙女は貢ぎ物にあげられた後に一人社から抜け出し村を出なければならなかった。
その時は、三治朗さんに言おう。一緒に駆け落ちをしましょうと。
それまでは、疫に体は勝つかどうかはわからない。そんな大きな不安を抱えて夜神様に授けていた。家を離れる寂しさもつのった。
それがなぜ結納前の乙女だけに現れるのか、体の免疫がかわるのか、なんの関係なのかはわからない。
お七はずいぶん見ることのなくなった外の景色を思い、そこを駆け抜けていくだろう三治朗さんを思って再び泣きふした。
今は雨かしら。雪かしら。晴れているのかしら。四季は巡っているのだ。
深い雪に閉ざされた村。三治朗は屋敷にくることはできない。
灯火のある座敷には、姉と妹がいてお七の横で裁縫をしたり、お手玉で遊んだりをしていた。それらの影がゆらゆらと漆喰壁に描かれている。
姉はちらりとお七の横顔を見つめた。幾度も、大切な妹に代わり自分が身代わりならと思う。お七はいつでも悲しみや不安をうちに押し込む。姉自身は夫がいて、婿として彼が屋敷を継ぐ役目があり、姉も忙しさでお七のいるここへはあまり来てやれない。末の幼い妹も一人で座敷を訪れさせることもできなかった。
雪の気配は地下座敷には響かないが、しんしんとした寒さもそうは届かない。みな綿入りの着物を着込んでいた。
幼い妹が笑顔でお手玉を座布団に置き、鏡台からくしを持ちお七の髪をすきはじめた。どきどきにこにことした無垢な顔がお七を覗きみてくる。そんなとき、可愛らしい妹や優しく無口な姉と別れることになる寂しさがお七を襲う。姉の髪にはヒトリシズカの飾り。妹の髪にはヨシノシズカの飾り。お七の髪には白桔梗の飾り。まるで雪に交ざりそうな白さ。
しばらく遊んでいると時もたち、妹は眠たげに目を擦るので姉が抱き上げて座敷をはなれていくのだが、ずっと気にしていたことがあり振り返った。
銀箔の襖に妹を抱き上げる姉が振り返り、お七は見上げる。妹は大事なお手玉を小さな手で握りしめ、すでに目をとじ柔らかな頬を姉の肩に預けている。
「三治朗さんとのこと、わたくしは陰ながら見守っております」
「お姉さん」
お七はびっくりして目を見開いた。
「冬場は雪に閉ざされて会えない寂しさはございましょうが、また春になれば」
お七は静かに、だが深くうなづいた。
「お忙しいのにこちらに来ていただいて有り難う存じます」
お七は深く頭をおろし、あの白い瞳が見えなくなった。さらさらと髪がおりて涙をかくし、あげられたときには揃えられた前髪の下の瞳は蝋燭に強く光っていた。
「これも私に与えられた宿命と思い、強く過ごしてゆきとうございます」
微笑んだお七の顔に、姉はすっくとたつ白桔梗が重なった。日に日にお七は強い揺るがない光りをまとうように感じる。姉はお七をいじらしく思い、強くうなずいて見せた。
「わたくしはいつでも貴女の味方です」
「弱音はもう言いません。お姉さんのお言葉、感謝いたします」
辛いのを頑張るお七の姿を見つめ、姉は優しく微笑み襖を出ていった。
姉が階段を上がり廊下を歩き、妹を床の間に寝かしつけてから出ていくと、一瞬後ずさり美眉をひそめて下男を見た。
この下男は酷いことを言い影で村人や親族にお七を疎ませ者にしている悪い男で、お七を身の危険にさらさせようと目論む者だった。なにも言えない、することのできないお七を辛い立場にさせて、許せない心が静かな性格の姉の心に渦巻いて苦しくなる。お七はそれをまだしらない。お七を守らなければと姉は心に決めている。
下男は彼女たちの両親にはさもいい人ぶり口車にのせているので、どんなに姉があの下男を追放して下さいと懇願しても、悲しいほどに信じてくれない。
また下男は彼女には見せてくる賎しい口元で廊下を去っていった。
姉はぞっとしつつも口を悔しげにきゅっと結び、身を返して歩いていった。
上では寒さの身にこたえる季節。心が凍てつく前に姉は外部からは板で仕切られた回廊を歩き母屋にきた。
そこには両親が深刻な顔をして向かい合い座している。
「父上。母上」
お七はあんなにも頑張っている。なのにこれ以上はお七の傷口に塩をすりこむような下男の不浄さなど寄せ付けたくなかった。
だが、いつもどう言うべきかが思い付かずに、言っても解決におよばずにいた。
無情を感じずにいられずに、姉は引き返して廊下を歩き、自室に来て暗がりで膝をつき深く祈りを捧げた。
「どうか夜神様、お七をお守りください」
姉は何度も呟きつづけた。
毎夜その祈りを聴いてきた夜神は、姉の背後にすうっと現れて背に冷たい手を当てた。それは綿入り着物のうえからも感じて、姉は驚き振り返った。
そこには見なれない背の高い青年が佇み、青く光る瞳で姉に視線を落としていた。
夜神は彼女が何に怒りを感じ祈りを捧げてきているのか、言葉には出さないので解りかねている。だが疫からお七を守ることも夜神の役目である。
「お主は何に怒りを持っておる。怒りなど似合わぬ顔をして、辛かろうて」
「わたくしは」
姉は声が震え、いきなり現れた青年に対してどうしたらいいのかわからずに、どうにか整理をしようとした。これは誰として助けの手を差しのべてはくれない日々に突如現れた救いだろうか。
「しかし、酷いことなどしとうございません」
「お主はは怒りを持ってしても清らかだ。だからこそ苦しみ続けているのだろう」
夜神は静かに言い、身をかえしてふっと姿を消した。
姉は心底驚き、彼が夜神様だったのだと今に気付きその場に力がぬけて座りこんだ。
姉は急いで廊下を出ると早足で歩き見回しながらあの青年を探した。
「そうですわね。致し方ない。男手のほしい時期でもあるけれど、向こうの頼みとあってはあちらの村に四年間のこと下男を出して手伝わせるのがよろしいわね。なにやらあちらは足りてないと言うから」
姉は両親のいる二の間の障子から聞こえた声に顔をあげた。
「何やらお千代が下男について言っていたのもどうも気になり始めた。あの男に我々はなにかされるのかもしれない」
「恐ろしい。その前に屋敷からやはり出しましょう」
その話に姉は佇んだままにいた。
その姉の視野に青い光りが二つ。
そしてもっと先にあの下男がいて黒いものを持つ目で姉を見ていた。
姉は胸元に手をそえて見た。夜神は実は先ほど男に隠された邪悪さが見えて危険に感じ屋敷から遠ざけさせるように、お七の両親の心を操り下男を追い出させた。
やはり怒りのもとはあの下男だったようである。そんな者などは不要。明日には下男は使いとやらに出されることだろう。
夜神は姉を静かに見つめると、身をかえして姿を消した。
また深夜になればなお暴れだす疫の浄化をしてあげなければ。
春になり、すっかり花が咲き誇る季節。川のせせらぎが軽やかに三治朗の耳に響き、飛び交う蝶や昆虫がゆるやかな日を浴びている。
いまだにお七は地下座敷からは出ることができず、三治朗が携えてくる春の便りに四季の眩しさと芳しさを感じとっていた。
「今年の冬は豪雪で寒さも厳しかったが、そのぶん花が綺麗だろう」
「綺麗」
二人は微笑み、見つめた。
昨日は妹が春の姉様人形を持ち座敷にやってきて遊んでいき、姉は夫と用事ができて早々に妹をつれ上へ上がっていった。もう春なのだわ。お七は思い馳せて花を見つめた。
「お七」
冬の間ずっと思い続けていたことを三治朗は花を弄びながら、顔をあげてついには言った。
「二人きりでかまわない。今ここで愛を誓わないか」
まっすぐに三治朗がいい、花をお七に持たせ手を握りしめた。
お七は顔が紅潮してまばたきを続け、三治朗を見た。
「秋には祭祀が行われる。その前にお七との愛をしっかりした形にしたいんだ」
お七はどんなに待ち続けたことかと、胸が締め付けられるほど苦しくなり動けなくなった。本当にうれしくて、今に涙が溢れんばかりだった。喉がつまって何度も深呼吸をして、だが、苦しいと気づいて胸元を押さえた。
「お七」
三治朗は驚き肩を持ち顔を覗き見た。白い瞳が光り、三治朗は瞬きをした。
瞳が光ると、お七は体が楽になってようやく顔をゆっくりとあげた。
膝の上の愛らしい花を見つめる。どれも大好きな花。見ているだけで心救われる尊い花の生命。
お七は小さく微笑み三治朗を見た。
「お花、どうもありがとう。お話もとてもうれしい。私もどんなに今すぐそれが叶うなら」
しかし外の空気をまとうものは花瓶にさし遠くからしか眺めることはできなそうだと、さきほど悟った。まだ治癒の段階。夜神様は上手に浄化ができればよその地で生きていけるという。今は辛抱のとき。
「すぐに返事なんかできないよな。俺がいきなり言っていて驚くのだって無理はない」
「必ず、返事をするときがくるわ」
三治朗さんを愛しているのだから。
「待つよ。だから」
三治朗はお七を初めてしっかり抱きしめ、耳を染めて走るように座敷を出ていった。あとはぽうっと撫子色に頬を染めるお七が残った。それはお七自身が可憐な一輪の花として座敷に咲くようだった。
三治朗は菜の花畑を駆けていき、青空に舞う紋白蝶が番で踊るように飛んでいる。
心地よい風がふき小川の流れもなにもかも軽やかだ。三治朗は声に出し笑いながら走っていた。
水車の回るところまできて、たくさんの桶に色とりどりの草花が摘まれている。女たちは染め物に勤しんでいた。
「久しぶりにご機嫌だねえ」
汗をぬぐい染め女の一人が言い、笑顔で三治朗に話しかけた。彼女たちの内には片目がすみれ色、さくら色、よもぎ色などになった者もいた。夜神様の報せによるもので、 彼女たちの場合は座敷に幽閉されることはなかった。
三治朗は彼女を見て、まるで静かになってしまい今度は項垂れてしまった。ふとっちょのおばさんが「どうしたのお」とやってきて、三治朗の背をばんばん叩き元気付ける。
やはり自分は勝手なことをお七に言ってしまっただろうかと思った。夜神様に瞳を変えられた乙女が、秋の祭祀までにまさか結納らしきものを結んだ話など聞いたことが無い。もしも夜神様の怒りをかうことになればどうなることか。
それでもお七を心から笑顔にしてあげたいのだ。
一度夜神様が現れた日に何も言わないお七に怒って出ていってしまってから、三治朗は反省し思い悩み続けていたのだ。なんて馬鹿なことを自分はしたのかと。男が女にそんなことを言ってしまった自分への怒りもあり、責任をもってこれまで以上にお七を大切にしたいと思ったのだ。それは純粋な心だった。
三治朗はおばさんに元気付けに花べっこうあめを口に放られて水車小屋を歩いていったのだった。みな顔を見合わせ、その背を見送った。藍染をしていたおばさんの手跡がついた背を。
「お七との結納は間違っているんだろうか。夜神様はどうお考えだろう」
「それは男としての使命感からであろう」 森で一人ため息をついていたら、いきなり木が喋ったのか、三治朗は見回した。
自分しかいない。青をたたえる泉は小花に囲まれている。
先ほど声がしただけで、どこを見回しても見当たらない。まさか幻聴だろうか。どうやら遠い京の都には妖魔や幽霊が出るというが。
「まさか夜神様でもあるまい」
しばらくしても声は聞こえず、三治朗は畔に座りこんだ。
「そんなに身近な存在でもあるまい夜神様が昼に出てくるとも思えない」
ばっと振り向くがやはり三治朗一人だった。自分の心の声だろうか。わからない。
三治朗はため息をつき、泉を見つめた。
「お七を幸せにしたい」
呟き、頭を抱えた。
「応援いたします」
三治朗はとっさに振り返り、お七の姉を見た。彼女は微笑み横に座ると泉から吹き上げる風に髪を揺らした。瞳を光らせて。
「あの子が必死に強がる姿を見て、これからも支えになってもらいたく存じます」
「知ってたんですか」
「少なからず察してございました。両親の了解は得られないかもしれません。しかし、愛情というものはまず第一の力。わたくしはあの子を心救えるのは三治朗さんだと信じております。わたくしが見届け人となりましょう」
お七の姉は三治朗を見て、頭を下げた。
「お七と秘密裏にでも婚礼をしてさしあげてくださいまし」
二人が裏口から静かに屋敷に入り、地下の座敷にくるとお七を見て驚いた。彼女は水色の淡い光を発して臥せっていた。前に三治朗が見た濃い群青の光りからは大分薄くなっており、ゆらめきも浅かった。
「お七」
二人は駆けつけたと共にお七を引き上げた。お七の白い瞳が白く光り、いきなり強い光りを発した。そのままお七は気を失い、光る瞳が薄いまぶたに閉ざされた。
その後、お七は二ヶ月間眠り続けた。不思議と痩せ細ることもなく、静かに横たわったまま時は経つ。
空を朱鷺の群れが羽ばたいていき、鷲も悠々と羽ばたいている。三治朗は青空を見上げてそろそろ燕も飛び交う時期だと思った。
時々、お七の姉は彼女は変わらず落ち着いて眠っていると知らせてくれる。
初夏に色づく鮮やかな翠の山々に囲まれて、お七が早く目覚めることを思う。
その頃、座敷では誰もいない内を夜神が淡い水色の光りを吸い込んでいた。時々、目も覚めるような美しい青の光りがお七の体を包みこむ。
透明感のあるその青は、どこにも白みも黒みの欠片もない清い青だ。浄化が上手にいき始めていることの証。
夜神は静かに手を引き、またその場で姿を消し際に柔らかく微笑んだ。お七は大丈夫にちがいない。
ふと、お七はまぶたが震えて目をあけた。
おぼろげに辺りを見回す。そこは幼い頃に姉とよく遊んだ地下座敷で、しばらくは首をかしげていたが、ゆるゆると思い出してゆっくり起き上がった。体は軽く、どこか今までの元気がふつふつとわくように感じる。
座敷を見回すと、鏡台にシャガの花が挿されていた。
夏になっている。
お七は品のある花を見つめ、しばらくはただただ座っていた。
久しく日を浴びていない白肌は今に左の瞳ほど白くなりそうだ。
襖の先から姉が驚き現れ、ここまで来た。
「目をさまされたのね」
声はしばらくは出ずにいたが、こほこほんと咳をすると小さな声が出た。
「眠っていたの」
姉は頷き、お七は眠る間になにか夢を見ていたようで思い出せずにいた。綺麗な夢だった。
「もう少し横になっていなさい」
お七は横になり、ゆるゆると目を閉じた。
三治朗さんに会いたいという気持ちがはじめに心に流れ、眠りに入る。
夢うつつの願いは、ゆえに夢の世で三治朗に合わせてもらえたらとお七は夢の淵でどうにかその背を掴もうとする。明るい野で笑顔の三治朗が振り返った。ただただ今は安心したい。癒されたい。疲れた体をほっとさせたくて、彼女はその三治朗の胸に倒れるように頬と手を当てた。重い瞼を閉じて、自分の背を抱いてくれる腕と胸部の優しさに包まれて、お七は安堵とした。
こんなに心が落ち着いたのは、しばらくぶりではないだろうか。体は沈むように眠りの深部へ落ちてゆく。もっとここにいたい、と口がかたどる。そのままお七は夢からも離れて三治朗の胸のなかで意識を遠ざけさせた。眠っていたい。今しばらくは。
翌日、三治朗が姉とともに座敷に来ていた。
三治朗がいるときは、妹はつれて降りてくることはできない。幼い子はあったことを正直に何でもいうからだ。
お七はすうっと目を覚まし、そこが座敷なのだとわかった。
視線を横に向けると、姉が額に手を乗せて微笑んでくれた。お七も微笑みかえす。
その横には三治朗がいた。お七は心なしか自然と頬を染めた。夢では彼女を包括してくれて、三治朗が彼女の癒しだった。身も心も軽くなったのを覚えている。幼いころは手をつなぎあったり、それで野を追いかけっこしたというのに、どんどん大きくなっていけばお七はしおらしく、三治朗はたくましくなっていく。まだ頼りない場所もあるけれど、この半年で三治朗は少しずつ男らしくなってきているように思えた。それが彼の瞳のまっすぐな汚れない光りを見ればわかる。
続く
2016.9.16
トカゲ
それでは、ちょっと木々にみっしりと這う蔦の下をのぞいてみましょう。
見覚えはございますか。ひっそりと蔦の下で眠って]いる蜥蜴。そこは涼しくて、時々彼らのえさになる小さな虫が這ってくる。昼でも暗がりのここ。森にさす淡い陽が太陽の傾きによってもっともっと緩く差し込むだけ。それでも秋の夕方にはくっきりとした紅色が森を染め上げて、蔦の陰を蔦の葉に落とすんです。
蜥蜴はぴくりと動くと、目をうごかして足やしっぽをくねらせた。そうするとあたりを見回し始めました。
重なる蔦のむこうからはさえずりが響き、その小鳥を乗せた木々のさんざめく音。
「ここはどこだ?」
あたりを忙しなく見回したと思うと、びくっとして蜥蜴は蔦のつるに背をしたたか打ち付けて視線を向けましたね。
人と違って蜥蜴の視線は片目だけでも180度は見渡せるので、それに慣れてくると、どうやら自分は自分の家ではないところにいるらしいと気づいたようです。
それでは彼の家はどこでしょうか? 巣作りのために木の枝で作られた小鳥の家? 木の穴に作ったリスの家? 土の奥底に続く蛇の家?
「ここは湿っていて、僕はちょっと居づらいなあ」
蜥蜴の姿でそこから動きだし、四足歩行で蔦から顔だけを覗かせました。
すると、いきなり蜥蜴めがけてなにかがやってきて、彼は驚いて目をつぶりながら蔦に身を隠しました。目をきょろつかせて動揺を抑え込みます。
「さ、さっきのは」
あまりの衝撃に言葉が思い当たらずに、しばらくは記憶の断片を手繰り寄せる作業を続けてから、ようやく言いました。
「僕の恋人だ」
そうでした。先ほどのは、これから愛を紡いでいこうと愛の巣を一緒に作っていたはずの鳥の恋人でした。羽根の内側にある茶色の斑が他のメスより少し濃いからわかりました。
なぜ、恋人に自分が攻撃をされなければならないのだろう、とつぶやきながら、また顔を覗かせました。葉影からつぶなら目がきょろりと見回しています。またすぐに隠れました。枝にとまった愛する可愛い若鳥ちゃんは鋭い目で我を食べんとしているので、彼はさえずってみることにしました。
ええ。まだ自分がどんな格好をしているのかが蜥蜴には分かっていません。なので、恋人を劇的に怒らせて喧嘩の真っ最中にくちばし攻撃をくらったか何かして、一時気を失っていたのだと彼は思っているのです。
しかし、鳥と同じぐらい視野が広いのに自分の羽根は見当たらないし、湿っているので飛べないなんて軟な羽根でもありませんから、ここは第一に狭い場所から抜け出さないとなりません。
ご立腹の恋人がいますから、仕方なしに蔦の下を這ってこの窮地から一時他の待機場所を探すことにします。なにしろ、相手が怒っているとはいえ自分の嫁さん、女性を傷つけたくはないですからね。しかも何であんなに恐いのか分かっていないわけですので。女の気持ちは分からないと言いますが、それを彼も感じ取っているらしいです。彼がいつの間にか蜥蜴になっているからなんですけれどね……。
蜥蜴はとにかく縫うように隙間を見つけては、蔦這う木肌を歩いてできるだけ外に出ないように歩いていきます。しっぽが出たりしないように全身に意識をもって。
蔦の這う木から、草花の茂みに入りました。けれど自分が鳥だからこそ分かっていますが、何しろ今の明るい時間帯は草木が明るく風にそよいでいる美しい時間帯。だから目ざとく見つけられやすい。今の栄養をたくさん蓄えようと躍起になっている若ちゃんに、喧嘩相手の自分が目ざとく見つけられないわけがありません。ですから茂みに入っても大きな葉の下に隠れて、木の上、枝に停まっているはずのカノジョを探します。
しかし鳥より目が悪いのか、ここまで離れすぎると見えません。これは困った。これではまるで蜥蜴にでもなってこの身を食べてくださいとばかりの餌食じゃないか。彼は思って動かずにいます。その横を蟻だとかが忙しなく歩いていき、一瞬蜥蜴を見ただけで去っていきますが、分かっています。彼女たちはね、動かないものは餌と思って様子をじんわりと見に来るのです。なのでしばらく見ていましょう。
蟻はだんだんと一匹、二匹と仲間を集め始めましたよ。動かない相手ですし、蜥蜴はもともと体温が低いので、しばらくは近くで見ても蟻たちは生きてるかどうかわかりません。なので、一匹が蜥蜴の体を歩き始めました。
「やめたまえ」
ちょうど呼吸で動いている腹にさしかかると、蟻は生きている蜥蜴に驚いて一目散にみんなで去っていきました。逆に捕食されたら困りますので。
鳥である彼は、そこまで小さな鳥ではありません。昆虫もちょっと大き目なものは目につきますし、小さな爬虫類も食べますが、蟻は食べません。なので、自分が今蜥蜴と気づいていない彼に、蟻が食べられることはありませんでした。が、どうもあの黒くて考えぬかれた形の蟻が餌に思えてならない一瞬でした。
今はいかに恋人を説得するかです。それを考えなければなりません。若ちゃんはどうやら初婚らしく、卵を産んだ経験はなさそうなので、二年目の自分がしっかりと子育てや餌集めや巣作りを教えなければなりません。
「ビービービーッ」
彼は驚いて、自分の声がしたことであたりを見回しました。あの勇ましい鳴き声は間違いなく自分です。自分が若ちゃんを手にいれたときに、他のオスどもを声だけで威嚇、いやもとい。爪も使いましたが、いてこませて若鳥を手に入れたあの声だったのですから。その場面をこの私も見ていました。木陰からそっと。
だけれどどうやら自分の声を出した何者か、きっと他の鳥の声などを真似てくる種類の鳥たちでしょう、ばさばさと暴れているようではありませんか。情けなくも恋人から逃げ回って、けしからん。
「……。?」
彼は自分で首をかしげるのでした。
見てみると、空間を二羽の鳥が追いかけっこして飛び交っているのです。この地面すれすれを来たり、舞い上がっていっては見えなくなったり。
どうしたことでしょう。追いかけられている鳥は間違いなく自分、彼自身でした。しかも追いかけているのは若ちゃんでした。しかも、大量のハートを飛ばしながら激しく追い掛け回しているではありませんか。
彼は絶句しています。まさか自分に似た鳥を若ちゃんが追い掛け回して猛烈にモーションをかけ始めているのだなんて。相手はメスが怖くて逃げまどっています。自分にはあんなにキレて攻撃してきたからには、自分には飽きたのかと思わざるをえない落胆模様です。けれど自分を奮い立たせました。僕が手に入れた若ちゃんなんだから、愛情が勝るに違いない。あんな若造に取られてなるものか。というか、彼にははた目からは自分なのに自分よりも違うように見えてしまうようです。自分と同じなのにはたからライバルとしてみると別人に見える、そういう現象でもあるのでしょうか。いつか私も調べてみたいものです。
蜥蜴は躍起になって茂みから出てきて、大声で叫びます。僕はここだと。愛の攻防戦を繰り広げるうらやましいカップル鳥たちはてんで気づきません。
大声を出した、というつもりが、全部自分の考えていることだけで、実際に口には出ていなかったのです。蜥蜴はしゃべれないのです。
自分にとっては『羽根』をばたつかせても気づいてくれません。これは悲しい。なので蜥蜴は両手を広げて自己アピールをしました。
「ぐえふっぽ」
その途端、血迷った若ちゃんに目ざとく腹のあたりをくわえられ、変な『声』が出ては宙に舞いあがって、バサバサと激しい羽根音とともに彼は青空に飛び出しました。
「若ちゃんっ、僕だよ!」
バサバサする音が二重に聞こえ始めましたよ。
そして互いの羽根がもつれ合い、そのまま木の上に落ちていくと、二つの体は木の葉に支えられて、緑に包まれておりました。いつのまにかあたたかい若ちゃんの目が自分を見つめていると気づきました。
彼は自分の体が軽いことに気づきます。さっきまでは重くて、地面を這っているときも手足がしとしととどこかについていないと心もとなかったのに。
「あんた! 早くさっきあたしがとった蜥蜴食べましょう!」
「蜥蜴?」
「あら?」
しかし、彼女の口にも爪にも蜥蜴は見えません。
……。
それもそうでしょう。私の魔女としての憑依の術はまだ完成していなかったということなのですから。
ある日、蜥蜴の奥さんから相談を持ちかけられたのです。「私の夫(蜥蜴夫)が私を裏切り、他の女(メス)と浮気をして、あんちきしょうにひやっとさせてやりとうございます」と、大きな魔法の鍋につまみ上げた蜥蜴を入れようとしていた間際に言われた言葉でした。蜥蜴はしゃべれないけれど、魔女として修行を積み続けている私の心にはしかと届いておりましたから。そんなものが聞こえていれば大きな鍋に入れられないだろうと? 普段はそのあたりに朽ちかけて落ちている蜥蜴や亡骸になったクモを拝借するのです。
ほうら、さんざん鳥のオスと体を変えられて追いかけまわされ、今は地面で自分の体に戻ったと蜥蜴は、今度はあの気違ったように追いかけてきた鳥から身を隠そうと蔦の下に急いで潜っていきました。
私の肩に乗っている蜥蜴さんは心でくすくすと笑っているようです。これはもう浮気は考えずに、蜥蜴夫も蜥蜴さんの夫として腹を決めることでしょう。
私はそっと物陰から離れて陽の傾き始めた森を見渡します。
鳥の夫婦はおかしな夢から覚めたオスの鳥が、何やら若鳥ちゃんのご機嫌をうかがいながらも毛づくろいを手伝ってあげているようです。彼もとんだとばっちりだったようですけれど、一層仲が深まったと見えて、今は夜になる前に作りかけの巣へともに飛んで行きました。
さて、私はまた干からびて地面にころがった材料を探しにいきましょうか、それとももう暗くなるから、黒猫に変身して魔女の森の夜警にでも入りましょうかしら。
2016.9.17
青の癒し
抱きしめて この肩を 疲れた心にあなたの愛が必要
星を見るその瞳 光りがあふれて私も幸せ
ずっと探し続けるのはもう疲れたとあなたに言ったとき
慰めてくれたその声だけが 言葉が 嫌なことも忘れさせてくれたの
つらい時は思い出す あなたの笑顔 横にいたぬくもりを
透明な心に光る白いその花は清らかに薫るの
愛というその日々が心にあなたを抱かせるわ
白い羽をはばたかせて自由へと旅立つ
愛の旅路は青い空に溶け込み
嗚呼
覚えているかしら 覚えているかしら
全ての夜 すべての朝 全ての想いに忘れない
二人でたどった旅路を
何があったってあなたがいればよかった
全てを塗り替えてくれるあたたかさをずっとわたしとともに
忘れずの影
忘れたくない 忘れられない
でも忘れちゃったら どんなに楽なんだろう
その答えがどこに転がってるかなんて
わからない わかりたくない わかってしまったら
悲しくてしかたない
あなたの笑顔も素敵なところも
さりげない優しさも 全て今も心に沁みて
過去になるほど美しく光るの
なぜ? なぜ思い出はいつも
私に対してやさしく微笑みかけるの
それはまるで置いてきた昔のあなたそのままで
ちょっとした心遣いも 好きでした 愛してた
何かあれば今でもあなたの声が脳裏で繰り返される
誰に伝えたらいいの? 慰めの歌はいつでも優しい
そんなことが余計に辛くて もどかしいよ
それでも涙は頬をそっとなでるの
今はどこで何しているの? あなたも私を思い出すの?
その記憶が光っているか 輝いているのかなんて
考えることさえいけないのかな
一人でみあげる青い空は 二人でみつめた朝日を塗り替える
それでも
一人で見渡す夕日を 二人で見つめた月が落ち着かせるから
今でもあなたを思い出す
女が過去をすぐに忘れるなんて嘘よ そんなの嘘
だって私こんなに今辛いもの
歌は一時私の心を癒していく いつか別れを乗り越えるまで
思い出を胸に顔を上げられるその日まで
2016.11.24
透明の陽
水に手を浸す。透明のボウルに浮かんだような私の白い手。腕をまくられたその皮膚には窓から差し込む日差しが水面に反射して、その下腕にも光りゆらめいていた。
一気に手を出すと、おにぎりを手際よく握り始める。塩のふられた水は波紋を広げ続けていた。
「バジルとトマトでいい?」
「うん。あとチーズもね」
今日はお庭でピクニックとしゃれ込んでいるから、昨日家庭菜園で収穫したものを洋風おにぎりの具材にするわけだ。あとはオリーブのピクルスとモッチャレラチーズのおにぎりには黒胡椒をまぜこむつもり。
「ねえ。夏生(なつお)は帰ってくるのかな」
「きままだからね……」
飼い猫の夏生はいつでも近くの河でこの時期は遊び始めると、五日ぐらい帰らずにどこかで遊んでくるらしい。よくピクニックをしているとぴょんと顔をハーブや花の向こうから出すので、呼び寄せては何もなかったように丸まって膝で眠るのを好きにさせている。
「海苔を巻くの手伝ってあげるよ」
「えーと、大丈夫だよ。守くんハーブティー作ってて」
「うん?」
この前は和風おにぎりを作って青紫蘇を巻くというのでやらせたら、まん丸のゴマおにぎりに毬のように細長い紫蘇を巻いてねという注文を見事にスルーし、輪切りたくあんを巻いて表面を埋め尽くしてその上に海苔を覆わせたから、ご飯:たくあん:海苔の割合が、2:4:1で、きつかった。独創性押しなのかどうなのか、守くんはそれを作るだけ作って、食べない。最終的にそれをお茶漬けにしてごはんを追加して食べた。こいつ、まさか年の差を利用してテヘペロを決め込んで可愛がってもらいたいのか。わからない。
「あと一か月で付き合い始めて五年目だね。ユリカさんどこか行きたい?」
「そうだね。五年だね……」
私はしばらく感慨深く五年を振り返ってから、背後でコンロに向かう彼の背を見た。
「守るくんと初めて出会ったときに夏生とも出会ったんだっけね。あの池に、行きたいな」
守るくんの背が「ふふ」と笑って揺れた。その肩から湯気が上がっているのが、何気ない幸せに思えた。
「じゃあ、一か月後もピクニックで夏生をつっておかないとね」
八月も晴れたあの日、私は一人池にピクニックに来ていた五年前のこと。このサマーハウスからワーゲンに乗って三十分。お気に入りのその池のある場所に、いつもは見慣れない影があった。その青年は爽やかに髪を夏風邪に翻して、きらきら光る瞳で池を眺めていた。
私は離れたところにシートを広げて水鳥を眺める彼の横から流れるラジカセをともに聞くともなしに聴いていた。パリスマッチ。好きな歌手で、すぐにそれに気づいていたけれど、声をかけることはそのときは考えていなかった。
そんな私たちを近づけたのが、風来坊のように現れて、今でもその野生の放浪癖が続いている一匹の野良猫だった。
猫が緑の森から現れて、いきなり苦手なはずの池に飛び込んだのだ。
『大変!』
咄嗟に私は立ち上がって池に足をそのまま踏み入れて、そんな目の前で猫はすいすい泳いで小魚を加えて岸辺に上がり、一人で瞬きをする人間をちらりと見て、何食わぬ顔でとことこと魚をくわえて歩いて行ってしまったのだ。ゆらめくスカートから覗く素足に黄緑の藻がふわふわ触れるのがやけにくすぐったくなって、いそいそと池から上がって派手に咳払いをして照れ隠しをした。
青年はおかしげに口元に指を当てて、ラジカセの横のバスケットからタオルを出して私に渡してくれた。
その時から池で会うようになって、会話も弾んで、いつしか猫も加わった。
聞いてみると、その毛足の長い猫は泳ぎが得意なフォレストキャットという種類みたいで、青年、守くんから言わせたら泳ぐのを知っていたから猫よりもいきなり池に入って行った人間の方におどろいたようだった。
猫は私たちについてくるようになって、守くんはいつしか猫とともに夏の我が家にいつくようになって、交際が始まった。
この山に囲まれたサマーハウスは五月から八月下旬まで私が夏のアトリエ代わりにしているところで、それ以外の時期には街中のギャラリーで作品を出しているマンション暮らしだ。
綺麗に並んだおにぎりをバスケットに詰める。水筒にハーブティー。それに食べやすいサイズにしたフルーツ。それらを持って庭に出る。
自然体のイングリッシュガーデン。心地よい風が吹き抜ける。
昼の日差しが差し込む白いテーブルセットが緑の世界に浮かんでいる。私たちはその一部となって、トマトやバジルの緑が色を添えた。
ふと顔を上げると、守くんが咄嗟に頬を染めて顔をそらした。
「どうしたのよ」
「えっと……」
しばらく守くんは何も言わなかったけれど、いきなり顔を向けてきて私が洋風おにぎりを持つ手を掴んでやはりおにぎりブレイカーの守くんによっておびぎりが指からダイレクトに食卓の皿に落ちた。
「さっき、貴女がいるこんな日常っていいなって、思って……それで」
私は自分の先ほど感じた感覚に同じものを感じて、どきどきと鼓動を打ち始めた。
「け、けけ、こけ、こ、」
顔を染めた守くんがまっすぐ見つめてきて、私は息をのんで眩暈がしそうなほど彼を見続けた。
「けっく」
「みゃおうん」
「うあぁあ、」
神出鬼没な夏生が長い胴でテーブルに手をかけ、私たちは夏生を天パりながら見た。
可愛い顔をして、何食わぬ顔でまた私たちにおねだりをして頭をなでろと見つめてくる。
私は困り切ってはにかんで夏生を見る守くんの横顔を見た。
きっと……分かっている。しあわせな言葉が待っているんだと。分かってる。
おにぎりを握りつぶした手で私は微笑みながら再びおにぎりを整えて、皿に乗せた。
そよ風が守くんと夏生の髪や毛並を揺らす。
「この庭には、あなたたちがなんて似合うのかしら」
これからも、ともに。このふとした感覚が尊いものなんだろう。
こうやって二人と一匹で囲む風景昼間の食卓が、私には一番大好きな作品に思えた。
バジルは、幸福を願って家の周りに植えられる家族のしあわせの象徴。
2016.24.24
絵画の君~マーメイドの涙~
プロヴァンスのミラー
窓を開け放つと広葉樹の木々の立ち並ぶはるか先に海が一望できる。ここは別荘。
丘の上にはこの一棟があるだけで、あとは翠の風が駆け抜ける。室内には私が先日誘拐してきたミラーがいた。誘拐、というのはちょっとした言い過ぎではあるのだけれど、ワインバーでこの半年、顔を見合わせるようになった彼女を気に入って酔った寝込みを連れてきた。
ミラーはさっと開け放たれたカーテンと窓から差し込む陽気に、その白い瞼をゆがめると一度唸り声を上げた。きっとぶどう酒が私の味方をして彼女を弱らせたとともに、翌日の頭痛までも引き下げてバッカスも今は朝日に乗って悪戯に去って行ったのだろう。ミラーは哀れなほどうずくまって頭を抱えている。
その長い金髪から覗く白い腕も、顎のラインも美しい子。
「ここはどこ……サラ」
「バーからはそうね、だいたいセスナなら一時間というところかしら」
「どういうこと……」
ようやく顔を上げたと思ったら藤色のシーツを引き上げて上目で私を見てきた。あまりにも妖精のようにかわいらしくて、どうしても頭を撫でまわしたくなる。水色の瞳はいつでも私を虜にするのだから。
「ほら。立ち上がって。ベランダに出ると少しは気分もよくなるわよ」
「動きたくないわ」
「そう?」
私だけが歩いていき緩い潮風を受ける。
「ねえ……」
「ん?」
柵に腕をかけて遠くの青い海を眩しく見つめていた私はミラーを振り返った。
「サラって、変わってるわよね」
ゆっくりとミラーが歩いてきて、私の陰とミラーが重なって、私はそれに自然と視線を落としていた。私の陰はミラーの白い脚に絡まって、そして顔を上げた私の横まで彼女の水色の瞳がやってきた。
「夢かな。わからないけれど、サラと優しいキスをしたような気がしたから。でも、それがまったく変じゃないの。不思議と、それが当たり前でとても美しいことのように思えて。変なのに、変じゃないの」
私は太陽に光るミラーの瞳と、潮風にゆられる金髪が私の腕に触れるたびに心が彼女に引き寄せられて仕方がなくなる。
「夢……なのではないかしら。ミラーの夢」
かんじんな時に怖気づいて、私は彼女の瞳から逃れられなくなる。海よりも淡くて、穏やかな朝と同じ空色の瞳。夜にだけ見てきたミラーとはまた違う雰囲気は、光りをまとった私だけの女神に思える。
ワインバーでいつでも彼女は、だんだんと増していく私の恋心もじらすほどのあまりにも素敵な笑顔を向けてきた。秋口に出会った彼女は冷たくなってきた夜気をいつでもふくんでバーにやってきて、マスターと話をしながら談笑しはじめて、私に気づくといつものように『ウォーターハウスのマーメイド』、と言ってきた。よほど似て見えるのだろう、私も芸術が好きだから、二人でその関係の話をよくしていた。そしてふと私の目を見つめて、素敵に微笑むミラー。そんなとき、ミラーがいつも何を考えて私を見つめてきていたのかいつでも気になった。
「夢なのよね。きっとそう。だって、闇の色の海にあのまま泳いで行っていたら、夢と気づかずに目覚めなかったかもしれない」
そんなの嫌よ。現で彼女といたい。彼女の一抹の不安を腕を撫でてあげることで和らげた。ミラーもはにかむ。
「私はそんなに似ているのね。あの絵画に」
私が視線を向けた先をミラーも見た。丸い壁鏡のサイドに飾られたJ・W・ウォーターハウスの絵。マーメイド。海辺の岩場に腰を下ろして、黒く長い髪を櫛ですいて海水を落としている人魚。私も好きな絵。ミラーのために、実家の居間からこの別荘のこの寝室に運んだ。この日のために。
「私と……彼女はどちらが綺麗?」
しばらくミラーは引き寄せられて歩いて行った先の絵画に見とれていて、私がすぐそばにいることに気付かなかったみたい。肩越しに私を見て、振り向いた。
「ふ、まるで白雪姫の女王のようなことを訊くのね」
口元だけは笑って、澄んだ水色の瞳は笑ってはいなかった。
「mirror mirror, wall the mirror……」
英語でミラーが言って、ごまかそうとする。私は聞き入れずに彼女を見つめた。
「ミラー。あなたは泉の精霊オンディーヌのようだわ。私にも恋に必死になって命をも投げ出して、そして私の胸だけで泣けばいいのに、ミラー。私ならあなたを捨てない」
「サラ」
「私が今までされてきた仕打ちのようには」
サラの瞳が変わらないから、それどころか憐れんだ瞳で潤んだから、彼女から私は離れていってソファに腰を下ろしてうなだれた。
「そんな弱みを見せないで。サラ」
ミラーを見上げる。マーメイドの絵画の横にいる彼女。まるで困惑の色を見せるオンディーヌと同じ顔をしている。
「お友達で、いさせて?」
私の情けないほどに弱弱しい声が、まるで人魚ののろいかのように思わせる。このまま恋に破れて声を失って消えていくかのように、泡沫になるかのように。
過去の悲しみがいくつもよみがえる。私は耐え切れずに顔を覆って部屋を飛び出した。
あんなにもう恋愛を諦めていたのに、なんどだって私は誰かに恋をしてしまうのだわ。歯止めを効かせたって無理。穏やかでは済まされない情念が波となって私に押し寄せて恋に狂わせる。そしてミラーをさらってきてしまった。なんという浅はかさ!
「ああ!」
恋に狂うとは、なんと幸せにして苦しく、涙の止まらない罪なのだろう。
庭に広がる木々の木洩れ日は出会った当初のあの寒さは忘れたように優しげに揺れている。また凍てつく寒さが巡るときは、ミラーとともにいられたらって思ったのに。
そっと、私の影にミラーの影が重なった。
「サラ。驚いたけれど、私、あなたとの夢が素敵に思えたの。確かに恋愛なんて大して積んでいないしわからないわ。でも、あなたを泣かせるのは嫌なの。ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスが引き合わせたのかもしれないわ。海を制する美しさのあなたと、泉に住まう私を」
いつもの声。私を癒してくれる声と、それと微笑み。陽に照らされるそれが、こんなにも綺麗な子。疲れた心をいつも知らず内に包み込んでくれた。
「いいの?」
ああ、私がぶどう酒の魔力にやられていたのね。そのままミラーの優しさに浸っていたくて。いつでも私をそっと受け止めてくれた彼女に酔いしれるために。
「今度見る夢は、一緒がいいわ」
「じゃあ、暗い海じゃなく爽やかな青い海で癒されに行きましょう」
私たちは手を取り合って、丘と林の先の海へと出かける。風に乗って恋心は歌になる。
もう涙はいらない。それでも、これからも流すのでしょう。歓びの涙だって、悲しみの涙だって流すのだわ。けれど、一歩一歩、その悲しみは乗り越えて行ける。一人の時よりもたくさん。それは繰り返して引き寄せる波のように、私たちの足元をさらっては海の碧さに打ちとけていく。
まどろみのままに浜辺に腰をおろす二人の影。ずっと、夕暮れが訪れてもともにいよう。けれど、夜になる前には戻ろう。彼女が見たマーメイドの夢を私が塗り替えられるように。
地中海の優しい夕暮れ色に染まりながら、帰途につくのだわ。
2016.12.30
美人なお姉さんのいる風景
無表情でそれは落とされた。
ベランダから地面に。
それは大きな風船だった。
彼女は風船お姉さんと呼ばれている団地の若妻だ。いつでも下に子供が通ると、彼女の言ういやがらせというもので、子供の喜ぶ風船を落としてくる。
それは風の抵抗を受けてふわふわと下へと滑空していき、そして今日はピンク。昨日はイエロー。明日は夢色の予定の風船たちが彼女の手により落とされていくのだ。
そんな悪者をやっつけるために登場したのが近所の家のスーパーウーマン、三歳の可愛い可愛いキャット、大稲田家の愛猫大稲田サトちゃんだった。サトちゃんは爪を繰り出し子供が大喜びするまえに悪なる風船に爪立てる。だがそれは猫の爪防止バルーンとして周りにボンドが塗り固められ、彼女の爪は通らなかった。
だがこれがもし成功した時の暁にはと、若妻の風船お姉さんは風船の内側になんとも愛らしいバラの花びらをたんと仕込んであったのであったのであった。
ついにその日、下を通りかかった子供の上にハートの形の風船が落とされた。それをすかさずさとちゃんは子供を守るべく爪を出してとびかかる。
ばちーん!
ついにこの日、ピンクのハートは割れ千切れ、その内側から白いバラの花びらがそこらにばらまかれ舞いちっておまけのまたたびも猫に降りかかってよろよろにめろつかせたのであった。
「ふっ」
若妻の風船お姉さんは口端をあげ微笑し、窓を綴じ去って行ったのだった。
あとは残された子供がぼうぜんとまたたびに大喜びの猫がバラの花びらに包まれているというロマンティックな足元を見下ろすばかりとなった。
そして屋内ではせっせと今日も大きな風船を明日のためにふくらませるべく団地妻が息をひそめながらも顔を鬼のようにして息を吹き込み続けている影が、横の部屋の障子に見えている。旦那は恐れおののいて「風船お姉さんへ」の子供たちの感謝状に今日も両手をふさがれているのであった。
2016.12.30
黒い旗
大きな旗が水色の空にばたばたと音を立ててはためいている。どこかしらで遠くの国の歌が寂しく響く。それを片耳に、彼は細めていた目を閉ざして幼子の歌に自らを重ねた。
ああ。そうだ。昔は私にも歌をぐらいの心のゆとりはあったのだ。しかし今は馬の硬い背に乗り、耳にするのは悲しげなあどけない声……。
それもいつしか、強くなった風にばたばたと翻る旗音に遠くなり、聞こえなくなったので薄い瞼を開いた。その視線の先には草原。丘の上から見渡すそこには彼の部下が騎乗から見上げてきていた。
視線をめぐらせ、幼子の声の正体を探していた。さわさわと草がなでられていく。馬の尾やたてがみも、彼らの持つ旗も同じ方向になびいていく。
「はて」
幻聴だったのだろうか。やはり、草原にもこの丘の上にも子供の姿は見当たらなく、男たちの暗い瞳が並ぶのみだ。暗くても、その奥に宿る情熱はひしひしと彼の心に伝わっていた。すでに疲れきった彼らの体は泥や砂にまみれてはいても、忘れていない。愛を。
「紫の花は やさしき花よ
茜にゆれるよ いっぱいに
ことりは去るよ ねどこへと
ぼくらはどこに 帰ろうか?
紫の花は ちらねども」
再び聞こえた。
今度は男の子の声にまじり、少女の声もまじって聞こえた。
振り向くと、そこには二人の騎馬隊がいて、まっすぐを彼を見ている。
「ご判断を」
彼は頷き、前に向き直った。
これは子供時代を懐かしむ心の聞かせるものだろうか。ずっと、今度は途切れることなく聞こえ続ける。
彼は馬をぴしりと鞭打ち、踵で一蹴りして一気に走らせ丘を駆け下りていった。耳をうなる風と蹄の音とともに縫う童歌。ああ、思い出した。それは自身と姫の歌ったものだった。
あのころから、ずいぶんと大人になってしまったのだな。あのころは存在すら知らなかったこんなに思い剣を腰から下げ、美しい庭で姫と小鳥と過ごし、夕暮れの空を窓から眺めて小鳥の行方を追った。姫の遊び相手だった自分が少女の声すらも思い出せなかっただなんて。
部下たちは近づいてきては、合流して一気に彼らは草原を駆け抜けて行った。彼の眼を涙さえも光り流れて行った。
彼らは低い声で歌う。不屈の歌を。
国を愛する歌を。
だが、ずいぶん昔に彼自身の愛のありどころであった姫は失ってしまった。なぜなら彼女は奪われてしまったからだ。遠い国へと。守るものを一時見失った彼は兵士へと志願し頭角を現し十五年。
今、姫が愛し、手紙で帰ることを今でも望む祖国は内情の混乱を見せていた。
愛の名の下に彼等の軍隊は行く。
だがそのいく手をはばむものがあった。それは愛とは対象となるものたちの軍隊だった。国はそのことで二分されてしまっている。
愛は不屈だ。
誰もが我らは言う。声高らかと唱えよう。それこそが意味なのだから。
幼い歌はそれを確信へと思い出させるためへと聞こえた心の叫びなのだ。何も知らなかった時代の、ささやかな幸せのときなのだ。心情と重なり悲しげに聞こえたのが、どこか寂しかった。
それでも愛を信じる彼等がいる。
一方、黒い旗を立てて座る相反する者の軍勢は海を見渡す崖に戦陣を構えていた。
鋭い眼光をしてはいるが、それでも青い海に注がれるそれは今なお美しく輝く。風がさわやかにそうさせるのだろう。
男は敵対する羽目になった彼の言葉をめぐらせた。
『愛とは魔物ではございません。自己に向ける愛こそは破壊になりましょう。しかし我らの愛は守るための感情なのです。僕はあなたが言う強奪に決して愛は感じません。屈折したものとしか思えないのです。守る愛は弱さなどではないのです。それこそが強さなのです』
男は彼等の愛を生ぬるいものだと言った。愛などで何ができるものかと。それでも彼は愛を信じることを知っている。
だが、どちらも国のためをおもう気持ちは変わらない。やり方が異なるだけで。
『多くの涙をこの目で見てきた。これ以上の涙はいらない』
そのためには男は強硬手段が必要だと王に言った。それは違うと彼は言った。強硬手段は更なる悪化を生むだけだと。
王はこれ以上の援護を要請せずに攻防を続ける方向を訴える彼と、更なる援護を要請して国を強化することを唱える男が敵対を始めたことに心を痛めている。
男の耳に、ふと何かの歌が聞こえる。これはどこかで聞いたことがある。
振り向くと、彼の息子が歌っていた。今や敵となった彼と同年。昔はともに二人は剣を交わし修行をしていたものだ。それから十八年。月日は長く流れてきたものだ。
「懐かしい歌だ」
「ええ……。国軍が二つに分かれた今、優先すべきは再び力を合わせることです」
男は頷き、海を見る。
「分かっている」
彼等は立ち上がり、颯爽と馬に乗り込んだ。そして海を背にすると崖を駆け下りて行く。
右に彼の率いる軍隊。左に男の率いる軍隊が並んだ。
草原を挟んで互いが静かににらみ合っている。
※私も愛を信じる側です。
2017.1.7
三日月
夜の猫たち
子供たちは誰もが音を潜める夜は、そっとしていなきゃいけないよ。誰もが身動きをせずに、そうだね、眠ってしまったほうがいいのでしょう。そうしたら、怖いことも分からずに、夢がどこかへ連れて行ってくれるのかもしれない。まあ、悪夢を見なければの話だけれど。
けれど、眠る子ばかりじゃない。時にはよい子だって眠れなくてがたがたと震える夜があるだろう。カーテンの隙間から、ちかちか光る星を数えては、月が出始めたら怖くなって布団にもぐるんだ。
今日は鋭い三日月。下弦の杯さ。それはまるで悪魔の手のひらに見えて、子供たちをその上でもてあそんでころころと転がすように感じるんだと、小さなレネは思っていた。今も布団のなかで真っ暗い脳裏に浮かび始める、あの大きな黄金の三日月。今にもそれが悪魔の爪となって襲い掛かってきそうで、ネッラは勢いよく起き上がって群青に染まる夜の部屋を見回した。けれど誰もいない。今日は猫のモルモルもほかのベッドルームで眠っている。
大きな目でカーテンを見つめる。その向こうにはまだあの悪魔がいるのだろうか? あんなに綺麗な星屑の衣装を着た悪魔が地球を覆って宇宙から自分を見てきている。レネは柔らかなカーテンをそっとさわって、怖いもの見たさで再び明るい夜の世界を見る。
「そうよ。怖くなんかないわ。女神様の微笑む唇だって思えばいいのだもの。そうしたら、なんという綺麗な夜かしら。悪魔なんかは夜の暗がりでひっそりと隠れていて、出てきやしないのかもしれない」
子供心に言い聞かせて、まじまじと月を見上げると、ふいに夜に神秘の声を響かせる鳥が一鳴き。それはことごとく小さな心を落ち着かせてくれる。もうちょっと小さいころなんていうのは、その鳥の夜の囀りにも不可思議なものを感じて、震えていたこともあったんだけれどね。今ではもうその美しい鳥の正体を知っているから大丈夫。知らないというものこそが恐怖の源でもあるのだときっと今にレネも気づく年がくるのでしょう。
もう少しレネはカーテンを引いてみました。月光に照らされた夜の街を見ようと。ここは古い煉瓦の町並みが深い森と山に囲まれた村。そこから夜の鳥は声を響かせているのです。窓の外を見てみると、誰もが静かにする夜は、大人でさえも見当たらない。鳥の声も再び森の深くへとはばたいたのか、風の音すら今は聞こえなくなったので、レネはもう少し外を見ていることにしたみたい。だけれど、お歌も歌わずに、今はお話をする相手もいないから小さなお口をぽかんと開いているだけで、案外宝石箱のような夜の町並みを見ているのが楽しくなってきた。煉瓦のひとつひとつ、石畳の一枚一枚が月光と月影を描いて、家々の窓の外に飾られる花さえも昼とは違う彩で咲いているのが新しい発見で、レネは水色の瞳をきょろきょろさせてピンク色の唇を微笑ませた。
「あら。猫が歩いているわ。あんなところにいては月の光でできた影に隠れている悪魔に見つかるのではないかしら」
しかし猫は何の怖がる素振りもみせずに、路地裏へと歩いていったので、レネはお口をおさえて目を丸くして静かに見ていました。けれど、猫はお友達の猫と現れてそのまま石畳の路地をてててと走っていきました。その猫たちの月影が伸びて、そして見えなくなるとレネは安心して微笑みました。
「ああ。よかった。やっぱり今日のお月様は女神様が監視しているから、平気なのよ」
さあ、レネがどうやら夢幻にでも誘われたかのように、お外の世界に飛び出したくなってきたみたいだ。本当は、もう誰もがそっとしていなければならないというのにね。
レネは猫に導かれたかのように、毛糸のガウンを着て、毛糸の帽子をかぶってドアを開けました。
廊下には誰もいません。パパとママも眠っているみたいで、猫のモルモルも見当たらない。
レネは静かに歩いていくと、鍵を開けようと玄関のドアに手を伸ばします。
「だめじゃないか。夜は静かに眠ってなければ。僕が見てないと遊びにいっちゃうんだね」
レネは驚いてすぐに後ろと見たけれど、誰もいない。
「ひっ」
まさかの小悪魔かしらと震え上がるけれど、足元に何かが触れて見下ろしたら、猫のモルモルだったから、レネはついついうれしくなって抱き上げました。だって猫がまさかしゃべるなんて夢のようですから。
「モルモルしゃべった」
「本当はだめだけど、僕もお出かけしたい頃合だからさ。僕がついてってあげるよ」
「今から月の女神様にご挨拶にいくの」
レネはモルモルを抱えて鍵をあけて外に出ました。
けれど、まだレネは知りません。夜は何があるかわからないから、大通りに来ると夜警が見張っているし、酒屋地帯には酔っ払いがいるし、ここのように静かな素敵な御伽噺のような場所だけじゃなく、そんな子供心にはなじみがないような、艶やかな色香を振りまく女たちが踊るような魔性のキャバレーもある。まあ、それも大人たちからとっては幸福な悪魔の乱舞なんでしょうけれど。
レネはそんな夜の帳も打ち消されるような大人の場所へは遠くて行けないから、大丈夫。
モルモルと路地を歩く大きな影と小さな影。物陰には猫仲間が様子をみています。今から森へでもいくのかしら? と見守っているのでしょう。
森はすぐそこにあります。昼にはとても明るい森で、小動物をよく見かけるところ。本来は夜には暗くて何も見えないけれど、今日は強い光りを放つ三日月で木々の一本一本まで見えるみたい。
モルモルと一緒に歩いていくと、見たこともない泉にたどり着きました。これも夢かしらとレネは思って、そこに誰か背を向けた女の人がいるのを見つけました。白く薄いヴェールを身にまとった髪の長い人。
「女神様だわ。きっとそう!」
レネは走っていき、モルモルが止めるまもなくそこまで行くと、女性は小さなレネを振り向いた。
「あら、まあ。子供が出てきてしまっている」
女性は思いのほか真っ黒い目をしていて、肌などは青白くて、レネは驚いてしまいました。
「何をしているの?」
泉を見ると、彼女は水底に沈む小石を光らせて、夜空に上げているところで、まさか夜空をこうやってつくる人がいるのだなんてことを知りませんでした。これも夢かしら?
女性は光る小石をひとつ手のひらにつかんで、黒く鋭い爪で円をかいて小石を指輪につけました。
「これをあげる。眠れない夜だったのね。このお守りで、ぐっすりと眠るといい」
レネの指にその指輪を通すと、レネはふらふらとしてすうっとまぶたが重くなっていく。モルモルは幸福な眠りを約束する夜の悪魔様の腕のなかで眠るレネのところにきて、彼女の微笑をみた。
「次回こそはいけないわよ。夜の泉にはまったら、こうやって小石のような骨となって、魂を夜空にあげてやらなきゃいけなくなるから」
「うん」
モルモルはうなづいて、悪魔様は夢を伝ってこの泉からレネをベッドへ返してあげました。
この泉は夢の夜の泉。子供たちの悪夢に現れて、恐怖心という骸が沈んでいく。それを、彼女が一つ一つ夜空へ掲げて星にしてあげるのだから。
子供は夜は静かにしていなきゃいけないよ。心を安らかにして眠れば、少しは怖い夢だって見なくなるから……。
悪魔様は泉で今日のお仕事を終えて、鉄の棒でクリスタルの棒をなでるように鳴らして夜の夢を安静へとうながした。その澄んだ音は星のよう。
下弦の時代は悪魔の役目。本当の上弦の時代の女神様のときまで、夢はお預け。
2016.1.16
薔薇の花弁
まるで縋るかのようにその花弁の香りを鼻腔に充たす。俺はどこからかやってくる深い不安を払いのけることで心情は森を走る孤独の旅人のようだ。
惑い、そして出口のない暗澹の場所でうずくまっていれば、時は過ぎ去るわけでもない。ただただむざむざと横を事実が通り過ぎていくだけだ。これでは今に狂ってしまう。
あいつが俺のもとを去っていた。これが逃れがたい事実に変わりはない。
『もううんざりなのよ』
あいつの声、ローレンの声が薔薇の花弁一枚一枚が足元へと落ちていくかのようにばらばらになり、紅いワインに浸されたかのように沈んで俺の身体の底へ落ちてゆく。
海馬はリフレインを促して、俺に涙を流れさせる。もうそれは流しきったと思った。別れの言葉などは聴きたくなかった。なのに容赦のない現実に重ねられた現実。
目を開く。床の白い薔薇の花弁。なおも美しいそのさまが、未だにローレンの素肌に重なる。だが俺の足元にはふさわしくない。彼女のまぶたのような一枚を手に取り、その香りをかぐ。
白い薔薇の香りは上品すぎて、俺の悲しみなどを安いものにするようだ。俺の悲しみに似合うのは、もっと情熱的で乱暴な、甘やかなほどに心狂わせてくる紅い薔薇のあの香り。
俺は手を伸ばし、花瓶から薔薇を抱き寄せて足元に水を滴らせた。走っていく。
そのままこのバーを出て角を曲がり、誰もが俺を振り返ってみてきた。街並みは全て俺をあざ笑うように思える。そんなのは幻だ。
「ローレン!」
門をくぐると、俺は愕然として白い薔薇を抱える腕が固まった。
「なんで来たの。いまさら何?」
門を越えて石の塀に囲まれた緑の庭で、ローレンは男とともにいた。その男は困惑気味に微笑み、俺を見ると首をかしげてローレンに聞いた。
「彼は」
「以前の人よ」
白い薔薇は俺の顔の下で美しく香る。それはローレンそのままのものに思えた。だが、今はそうじゃない。俺のローレンではないし、純白な微笑みなどはどこにも見当たらない。違う色をした大人の女がそこにはいて、今まで俺にしていたように愛の歌を男に聞かせていた。
「帰ったほうがいいかな」
「いいのよ。この人とはもう別れたの」
ローレンが男に向き直って、俺は悔しさとともに庭を歩いて、蔦と薔薇の這う石の積まれた家を見た。
「もう二人の住処になったのか」
「そうよ」
俺は薔薇を庭のテーブルに置き、踵を返して出て行った。
バーまで走って戻るのに、どこを通ったのか定かではなかった。
「待ってくれ!」
いきなり肩を引かれて、振り返るとそれはあの男だった。
「がっ!」
男が吹っ飛び、俺は体勢を直した。
「お前がローレンを取ったのか?」
「酷いな……」
男は血つばを吐き、まだ床に落ちていた白い薔薇の花弁の一枚を赤くした。
「俺だけの女だった。こうやって他に染められることもなく」
「束縛が強いんじゃないのかな」
男はよろめいて立ち上がると、肩をすくめて椅子に座った。
「何で追ってきた」
「さあ。分からないが、あまりことを荒立てたくなかったのさ。今彼女は自由になりたがっている。恋愛だけじゃなく、歌手としても。だから、自分を変えたくて仕方ないんじゃないのか」
「俺が重荷だと」
「見守ってみたらどうかな。どうなるのか、あんただって彼女を愛するなら俺に任せるといい。俺は歌のトレーナーでもあるんだ。きっと、彼女はもっと変われる。任せてみてくれないか。いい歌手にできると信じて」
「関係があるのか」
「まあ、それは……」
口をにごしたのを、俺はうなだれて頭を抱えた。薔薇が目に映っては、今にまぶたを閉じれば彼女の面影は過去の元となるのだろうか。
今度は、美しい紅い薔薇として俺の前に現れるまで……ここで待つしかなさそうだ。
俺の演奏をバックに歌うその日を夢見て紅い薔薇をいつかは彼女に買いにゆく。
2017.1.16
魅惑の狂気
お題:魅惑の狂気 必須要素:織田信長
いつになく閑散とした城内は、今にも水滴の音が滴れば全てが倒れてしまいそうなほどであった。
痩身ながらに筋肉の張る腕を片方掲げた男が雪の庭で一人、鋭い眼差しで一点を見つめている。それは白い椿である。
「椿に香りはないのだったか」
男は振り返り、静かな城内を背にする一人の女に言った。
「殿みずからが楽しまれてはいかがでしょうか」
「うむ……」
女はふと視線を床元から上げ、ちらりと冬の庭の信長様に止める。
白い和の花がよく似合う御仁だと、女は思う。その魅惑の横顔の凛とした様に冬風が吹き込むと、なおも思わせぶりに女の心をもてあそんで思えるのは、わたくしだけかと女は思った。徒に花弁を弄ぶのがこの己の髪ならばと思う女心よ。
しかしながら、彼の見せる顔はそればかりではない。うすら寒くなるようなあの狂気の時は、今は穏やかな闇に沈んで見えはしない。
今にその狂気すらも虜にしてはこなかろうかと、女は身震いをおぼえてしまう。
「………」
ふと出来た影で、彼女は肩を見た。顔をあげると、打ちかけを殿が優しく彼女にかけてくれたのだ。
「寒かろう。そろそろ、引いてはどうか」
彼の優しさは真のものである。いつしかあの白椿になってしまいたいと思う。けれど、まるで恋などは、あの優しさは幻だったのかと椿は思うことでもあるのか、ぽとりと美顔を白雪へと落としてしまう姿を見るのは女には辛い。
「殿。水仙の花は、実に甘くめまぐるしい香りを放つものでございます」
彼は彼女の横に腰をおろし、庭を見る。雪の降り積もる庭は、向こうに水仙の咲く一角がある。
「膝を折ったことはなかろうに、お主」
「花の香るのを探るのが好きなのです」
女はふふと微笑み、打ちかけを引き寄せた。
空を見上げると、鳶が旋回している。曇り。今に雪が降り始める気配がする。
再び、木の周りに落ちる椿を見た。まだあの黄色い雄蕊は生き生きとして、他の椿の枯れたのは雪に隠れて見えはしない。
「わたくしもいずれ、ああとなってしまうのでしょうか」
つぶやきは口のなかでだけくぐもり、消えていく。
しかし、彼は何かをつぶやいた女の手に手を重ねた。
その優しさが自身には大きすぎて、女は涙を抑えて眼を閉じた。
凍てつく空気とともに、雪が降り始める。
次第に、白い花は雪に閉ざされ隠れていく。
春と夏が過ぎ、紅葉のうねるような秋の夕暮れ。今に再び深い冬はやってくるけれど、今は茜に染まる空を見上げていた。
信長は馬上で高台から風景を見渡す。それは夕焼けがめらめらと紅に染め上げて、天地を同じ色味にする。どこかしら、影の深さはさらに深く、足元もおぼつかなげに町のものは風景のなかを行き来している。
「殿」
「ああ」
馬とともに身を返させ、城下町の見えるこの場所から離れて行く。
実を返した眼前には錦の山。紅葉が茜に染まると、それはあまりに哀愁ではない、絢爛さをもって押し迫ってくる。この風景が彼は好きだ。からすなどは皆一斉に鳴いて帰ってゆくが、その羽さえも夕日に一部を染められている。
今も、彼の横顔は共にそれらの色に染められていた。
城へ戻ると彼の手には花が握られていた。
彼女は首をかしげてそれを見る。
「お前にやろう」
「まあ、うれしい」
それを受け取り、彼女は微笑んだ。
「この花は一生わたくしと共にあるのではないけれど……殿」
信長殿、貴方様にはずっといてもらいたく思うのです。しかし、戦国の世に生きるうえではそれはどんなに口に出して憚られる世迷いごとだろうか。
女として生まれたのなら、男として生まれ戦に出ることと同じで心を忍ばせなければならない。
もし、自身が戦の世の生まれでなく、彼ももし違う世で生まれたのならどうなっていたのだろう?
きっと花はそれを知ることとなるだろう。我々の生きとせ生きる時代も過ぎればどの世があるかは分からない。けれど、花の記憶は脈々と土の種とともに受け継いでいく。
極寒の冬は次の春へと移り変わり、女は一人、庭を眺めていたが、城を出ることに決めた。
「春は穏やかよ」
菫が野に揺れる。野菊が愛らしい。つくしが顔を見せ、そして女郎花が高く顔を掲げている。
「殿はいつ帰られるだろう」
再び花を差し出してもらいたく思う春の日差し……。
2017.1.19
ラズエン
激しい雷鳴が轟く天地は、今にも割れた硝子を踏み付けでもしたかのような土砂降りに見舞われそうである。そして傷を引きずりながら行くのはやはり安楽ではない過酷な道。
苦し紛れの喘ぎを受ける雲はその素肌をさらされ、絹のように引き裂かれんとしていた。
漆黒の鎧を纏った堕天使ラズエンは、スカルの顔立ちを甲冑から覗かせ背後を見る。雲の渦巻く天空を。崖にはばしばしと豪風が吹きつけ、骨だけの大柄な騎馬をもさらって行きそうだが、それらは全て臓腑の消失した肋骨を吹き抜けるだけとなり、その古びた鐙にかけられる鉄の脛当てにつけられた金具ががちがちと音をさせた。
崖に引き戻したのは、何がしかに呼ばれた気がしたからだ。ラズエンは地上を見渡し、うねり返る灰色の土の街並みを見渡した。羽をばたつかせて疾風に逆らうように暗い森へと帰って行こうとする鴉が軍団で羽ばたいてはがあがあと鳴いているのが見える。土壁の町には悪魔たちは狂喜してこの荒れ狂う天候を悦び、ラズエンの耳に不調和音を叩きつける。
穢れを背負ったこの悪魔共は誰もがここでは無い現実世界では違った生活をしているもの達の知られざる姿である。あのうねり苦しむ天空は、その彼等に苦しめられている者の嘆きの空である。
ラズエンは黒い槍を地上に立て、暗い眼孔の奥を青く光らせて悪魔の声から微かに聞こえたはずの声の正体を突き止めようとした。
すると、それは悪魔たちがはびこる地に小さくなって砂に塗れ蹲っているではないか。
「助けて、たすけて」
がたがたと震えて今にも地面に一体化しそうである。
「これはいけない」
途端にラズエンの背から、長く漆黒の羽根が生え一気にこの荒れた空を突っ切り街へと滑空して行った。土の壁の群れが近づき悪魔たちが放埓とした悪態を撒き散らし、または悦とした叫びを上げながらラズエンを見ては様々な武器を投げつけてくる。だが彼の羽根はそれらを跳ね返し、空気は全てを壁まで叩きつけ退かせては、あの少女の場所まで一気に羽ばたいて行った。
骨の腕にその少女を抱え込んで一気に黒い雲のうめく天空へと舞い上がり、頬や全身に稲妻を受けながら大きな羽根で少女を包み、そして一気に雲の上へとやってきた。
「うう、うう、」
がたがたと震える少女は骨の腕の内側でうめいている。
その骨の腕に、徐々に肉や筋、血管が乗り始め、スカルの頬にも肉付けられていっては水色の瞳の眼球が優しげなまつげに装飾され、そして冑からは長く波打つ金髪が漏れると黒い羽根に柔らかく乗り、そしてゆっくりと開かれ始めた両翼の間から、月光に輝く黒の甲冑の腕にしっかりと抱きしめられる少女が現れた。
たおやかに黒の羽根は満月に光沢を受け、ラズエンの背へと折りたたまれる。
「若者よ」
少女は恐る恐る縮めていた肩を下げ、ぎゅっと閉じていた瞼を少しだけあけると、美しい声の主をそろそろと見上げた。
それは数多の星空を背にした美しい女性であり、そして青く光る黒い大角を生やしていた。
「貴女は、大魔王様なの?」
小さな声は助けを求めていた少女の声であった。
「いいや。私はラズエン。穢れた大地を見回る堕天使。そなたの声を耳にしたのだ」
少女はそれを聞き、ようやく安心したのかこくこくと力なく頷きながらも急激な眠気に引っ張られて硬く瞼を閉じ眠りへと落ちていった。その少女の脳裏には、すでに星に飾られたラズエンの珠の美しさが残るのみ。偽物の笑みも悪意ある行いも何の穢れももう届きはしない。安堵の海へと滑り込んだかのように眠りに入った。
ラズエンはその少女を黒い絹のマントに包んで雲海を羽ばたいていった。
少女はいつしか恐怖が消え、ラズエンの腕から粉のようにさらさらと光りながら孵っていった。
ラズエンはあの崖から悪魔の街を見下ろす。
今は血色の夕陽が毒々しく土壁を紅に染め上げ、悪魔達は自らの血に狂乱して埋もれ騒いでいる。
黒い槍を立てたラズエンは、それだけはどんな光りにも曇らない青い眼光で冷静に見つめていた。悪魔は弱い悪魔を追いかけ血祭りに上げてもいて、叫びと狂喜とが入り混じった声が夕日にでも捧げられている悪徳の儀式でも見させられているかのようだ。甲冑に包まれる肋骨に収まる脈打つ心臓はそれを見て尚も心痛み、そして弱って行く悪魔が一粒こぼした涙が地上に夕焼けの光を宿して落ちた瞬間、今までの悔いを改めたそれが悪魔の身ではなくなり、一層黒い心の悪魔達を恍惚とさせる。
ラズエンは槍を背後に振りかぶって、一気にその夕陽に照らされた貢物の方へと投げつけ、悪魔達がその風でどれほどか消滅していき錆にまみれた鎖を断ち切って貢物が開放された。だが、その途端にやはり今までしてきた悪は立ち消えるわけではなく、この今の悪夢の現状から放たれるだけであり、その貢物はそのまま地面に足をつけたと共に死した。
深く地面に突き刺さったラズエンの槍は、その場所でふっと消えると崖の上のラズエンの手元に戻っていた。
顔を上げたその骸骨の頬を、血で塗りたくったような夕空が照らしつける。
その眼孔からは静かな光りが発されている。ゆるい風がなびきマントを翻し、そして甲冑も光沢を受ける。今まで苦しめられたものたちが涙を流し充血させたような夕陽。
「かわいそうに」
その言葉など、苦しむ者たちには届けようも無い。届かない。ただ、この地からその苦しみをどうにか軽減させ、うまくいけば苦を消滅させてあげられるのがラズエンの役目である。
空から聞こえる。レクイエムが聞こえる。
それは崇高なものであり、その時ばかりは悪魔達は誰もがそれに身を焼かれるのを嫌がって逃げて行く。黒い影の底へ堕ちてゆく。
悪が成りを潜めた静寂に優しく響く天使たちのレクイエムにラズエンはしばし耳を澄ませた。輪唱と鐘の音は天地を包み、隠れる悪魔達を脅かす。
神を騙してまで命乞いをする悪徳の者を焼き尽くす。
暗い洞窟はじめじめとして黒い羽根を濡らす。
骨の大馬に騎乗し行くラズエンはその奥に来た。
ここは魔の巣窟であるこの黒い世界の坩堝の門がある場所で、ここを抜けると夢の入り口となる深い深い霧が立ち込める。そこを縫って魂はやってきて、悪い物だけがあの街へと流れて行くのだ。時々その悪いものに引き込まれてここには合わないものが迷い込むことがある。あの哀れな少女のように。その少女は立て続く苦しみに耐え切れずに怒りに塗れて苦しみを加速させていたことで、強引に引き込まれてしまった所をラズエンに助けられたのだ。
一人の心では処置できなくなった問題や、誰に相談しても助けてもらえない悲しみというものは深いものである。それを癒されることはあるのか、苦しみの根源は消滅するのか、それは時に本人しだいとなってよくなることもある。ものの捉え方や努力などで。だが、時にそれさえもなぎ倒され悪にさらされ苦境を噛まなければならなく、ラズエンが助けてあげなければならない者もいる。悪というものは、苦しむ相手の努力さえも無下にする非常な行いをするもの達なのだ。
それをどうして哀れに震える者を見捨てられようか。
ラズエンのもたらす癒しは時に悪人の死を伴う。そうでなければ止まないのだ。
洞窟に静寂が澄み渡る。
今、この門は閉ざされている。
ラズエンは門の見回りを終えると、蹄を響かせ歩いて行った。
洞窟から出ると、暗い森には木々の上に鴉たちが停まっている。黒い目で見下ろしてきている。そして段々とそれらは羽ばたき始め、ラズエンの背にばさばさと群れて舞い飛び始めると羽根となってまた鴉に戻って森から天へと舞い上がって行った。ラズエンの黒い羽根は様々な感情をその羽毛の間に忍ばせて悪意を無化させる。その無化されたものがここの鴉の食料で、それを力に彼等は街を見回り悪魔の行いを見てラズエンに報せるのだ。
ラズエンは下部の鴉が羽ばたいて行った森の上空を仰ぎ見た。
しばらくすると、森を馬で歩いて行き泉へ来た。ここは心落ち着く場所である。馬から折り、頬骨を馬の頬骨に寄せて眼孔から青い光りが暗闇に落ちた。さやさやと木々が啼く。風は泉を撫でる。その音。
だが、その安堵を破り騒ぎが近づいてきた。
街を見回る鴉ががあがあと鳴きながら戻ってきたのだ。それは異常が発生したという証。
ラズエンは一気に駆け出し、森を疾走していった。
森を抜けて走らせて行き、悪魔の街が近づくとその広場で悪魔達が踊り騒いで何かを囲っていた。それはあの少女だった。また引き戻されたのだ。
ラズエンは泣き叫ぶ少女を見て険しい声を出し、槍で悪魔を一気に薙ぎ倒していった。
黒くうねる空は叫びが今にも轟きに変わりそうだ。一振りされた槍は悪魔達を破裂させて悪辣とした声を消し去った。
少女はすでにぐったりと柱に縛り付けられたままにうなだれ、声を嗄らして「ラズエンさま」と囁き、気絶した。
ラズエンは柱から少女を下ろし、抱き上げて天を見上げた。
「何故に幾度も少女を傷つけるのか!」
苦し紛れの雲間から一粒の雨が頬に落ち、そして穢れたる地上に舞い降りし漆黒の堕天使の苦痛の頬を濡らす。
どんどんと濡らし、土砂降りへと変わり、少女の身体を凍えさせる。ラズエンは少女を羽根に包み込み、少女とは関係のない他の悪魔達が隠れ成り潜める街を離れて行った。
少女はラズエンに抱き上げられ洞窟の門の前まで連れてこられ、そしてその門扉は左右に移動し、静かに歩いて行く。
霧を歩いてゆく。
「戻りたくない、怖い、苦しむのはもう嫌なの」
少女は寝言でも怯えきっていた。
霧を歩く間にもラズエンは血肉をよみがえらせその背にする黒翼の間に長い金髪が流れる。
霧を抜けると、そこには巨大な丸鏡が立てられている。黒い彫刻で装飾のされたそれは、今は少女の苦の根源となるものが映し出されている。少女は耳を塞いでがたがた震えた。そして眠りから覚めると鏡に映る現実の苦しみに目を震わせ、発狂しかけてラズエンは強く少女を抱きしめた。
「これが少女の苦しみ」
それは悪意ある人間達が及ぼすものだった。あの悪魔の街にその陰を躍らせていて、その面影が確かにあった。あの槍の効力はしばらく時間差がある。
助けを求められず、夢でも恐れる少女は鏡のなかで苦しみに喘いで顔を歪めている。その覗いた目はあの世界で見る充血した夕陽そのままだ。
槍の力は威嚇の力として少女を取り巻く悪意をけん制し、少女に救いの気づきを辺りに施させる。そうすると、少女はふと顔を上げ、現実を歩いてふいに見つけた何かに駆け寄った。それは小さな行いとして少女に心を通わせて、小さな微笑みを与えた。
それは、どんな形なのかはその本人にしか分からずにその時にしかめぐり合わない。何かの形で少女に癒しを与えて、それを少女が救いだと受け止めて、その一日やこれからの心の支えになってくれるものなのだ。
ラズエンはふと腕が軽くなったのを感じた。
少女は鏡のなかで歩いて行く。少しまだ頼りないが、その口元は微笑んでいた。きらきら輝く川辺にしゃがむと、流れてきた花を掬って手元に収めた。その薫りを楽しむと、また花を放って川をくるくると回りながら流れて行く。その先に、優しい色の空が広がっている。
少女は立ち上がり、ふと肩越しに振り返った。アリガトウ……その口元の動きが微笑みとともにラズエンの脳裏に焼きついた。
鏡は再びもとの色に戻り、ラズエンを映す。
そこには、少女と同じ微笑みをするラズエンがいた。
2017.1.29
角あるもの
珈琲にミルクを注ぐと、はじめふつふつと白い珠が幾つも浮かび上がってそのまま円舞をはじめた。それらが手をとりあってつながって、雪景色のように広がるとそれは宇宙から地球の雲景図を眺めるように台風の目を表して駆け抜けてゆく。それらの雲はダルメシアンのような雲を描いたり、はたまた停まることなく回って人を描く。そしてそのひとがたは骸の骨となってスカルは笑顔から悲しみの表情になり、角を生やした悪魔が飛んでは珈琲カップの内側を丸いひとつの黄泉にしたようでそれは白い羽根を生やした天使となってゆるやかになっていく回転は薄雲の向こうに何か、天が広がるのか、静かに渦は凪いで行った。
「私たちの心はやはり草食動物から抜け出すことは無いのね。悪魔の角のように」
甘いキャラメルドーナッツと、ミルクを入れた珈琲が目の前にあり、今や消えた悪魔の渦のあった場所はモカ色となっていた。
「悪魔は肉食なのじゃないの?」
「角の生えた肉食動物を知らないわ」
人間というものは得てして弱いものなのだから、頼りの無い爪と、生は噛み切れない歯と、筋力と勢いがなければ負けてしまう生き物なのだ。それで知恵ばかりは働いて悪魔の所業をする畜生でもあるのが一部の人間だ。だからこそ、人の描く、人しか描こうとも思い浮かびもしない悪魔というものは角を生やしているのではないだろうか。それは自己を悪徳で護ろうとする浅はかさかもしれない。牙を生やす悪魔を描く絵画もあるが、そのほとんどは黄泉を描いた場所にいる悪魔ではないだろうか。すでに人に何かを課すための役目を持った者として描かれる。おかしなもので、人は悪魔を描き、悪魔から罰せられるという考えも持っているのだ。
だから甘い甘いお菓子を食べながら、そんなことを黒い珈琲からはじまって考えていると、つい全ての人間の弱い側面のついて回る人生というものが、いかに誠実に生きられるかが課題でもあるというものだ。
どうして野生のものたちはあんなに美しく強くしなやかなのだろう。人なんかは絶対にその本当の力というものを得ることは出来ない。
「わざわざ舟を出してまで魚を食べたいとおもう猿もいないように、ヒトが木の実だけを少数だけで群れて食べていれば、浮かびもしないことだとおもわない? それなのに人間は愚かなもので、たくさんいるのは弱い生命体や、それや菌類だけよ」
2017.2.5
想うはただお一方~曼珠沙華の輪~
私は師匠、猫婦人の生けるその花を見つめ、うっとりとした。まるでまたたびにでも麻痺したように。しかし私は人であり、この等身大で着物を召した巨大な家猫である猫婦人はまたたびを生けているのではない。それは天の国を現したかのような完全な形を見せる白の曼珠沙華である。
あなた方は曼珠沙華を真上から覗き見たことはあるだろうか? それは幾何学の極みとでもいうように、美しいもので、まるで天と地とを結ぶ路が通されているかのような神聖さを感ぜずにはいられない。だからさしずめ、うっとりとするというのも、何らかの魔力にあてられてでもいるのかもしれない。
猫婦人は口元のひげを上品に揃え、私を見て微笑んだ。その爪を収めた三毛のふわふわの手元に持つ曼珠沙華は、川原で彼女の門下生であるお千代が摘んできたものだ。
小動物というものは、曼珠沙華の毒気を嫌うために近寄らないものだが、そのためにお千代は使いにだされたわけである。
三毛の猫婦人は耳元に錦の美しい帯をつけ、深緑を基調とした着物を召しているのだが、それとこの生成り色を染み込ませたような白の花が実によく合うのである。
「師匠はなぜ、この花を選ばれたのです」
「猫は気まぐれと申されます」
猫婦人は優しげに微笑み、花器に生けると顔を上げ、障子の外を見た。
「けれど、猫の恋というものは一途なものなのです。気まぐれなのは人のなすわざ」
その障子の先、師匠は日本庭園の回廊を挟んだ向こうで客人に茶をもてなしている猫子爵を見つめているようである。猫子爵はほがらかに笑って会話を愉しんでいた。
猫婦人の頬は毛並みに覆われているために高潮などは見てとれないものの、きっとその心は牡丹の花の色に染まりそうなほどに恋の心を抱えているのではないだろうか。
私には一瞬、彼らが曼珠沙華の川原で散策をする姿が夢現に浮かんだが、それは夢現。霧のさきの幻。
2017.2.26
宇宙に舞う
その星雲の名前は僕の記憶にもあった。
薔薇星雲。それがこの球体間接人形の瞳に嵌められた色だった。
ホワイトプラチナの髪に囲まれたほんのりと染まる頬の乙女。僕の目を奪った人形。
従姉妹のお姉さんのアトリエには、多くの球体間接人形が飾られている。
「この子の名前はなんていうの? ローズ?」
他の人形の顔に美装メイクを施していたミズリーお姉さんは筆を静かに離すと言った。
「あなたが決めてもいいのよ。ラウン。その子、気に入ったのならあなたの誕生日にあげる」
「いいの?」
僕は驚いて人形を見た。
その人形はまるで群青色の夜を纏ったかのようなビロードのドレスに身を包んでいる。星屑のようなネックレスが光り、薔薇星雲の瞳などは本当に宇宙に浮かぶそれのようだ。
僕は自室に迎え入れたローズを夜になっても見つめ続けた。その瞳はまるで回転するかのようだ。あまりにも見つめすぎて、くるくる、くるくると廻る回る……。
次第に人形の周りには幻覚のメリーゴーラウンドの木馬が上下しはじめ、オルゴールが鳴り響き、支柱を越えた馬が僕とローズを乗せて宇宙へと旅立つ幻想。
僕らは手を取り合って回転する。夜空を背景に。
僕の手にはいつの間にか、筆が握られていた。その筆は宇宙色の絵の具でどんどんといろいろな星を、惑星を、描いていく。その間で僕らはダンスする。
彼女の薔薇星雲の瞳が悦として微笑み、僕はそれに魅せられてアハハと笑った。
嗤った。人形が、ローズが嗤った。
それはどこか奇怪で、魔性めいた……。
いきなり乱暴なほどに気が遠のき、その瞬間に手首を掴まれて闇に落ちた。
目を覚ますと、そこは庭だった。暗くて、背中は夜露に濡れて冷たい。髪をかきあげて起き上がると、頭がはっきりしてきた。
「ローズ?」
呼ぶけれど、見当たらない。庭木の間にも、暗がりの家の窓にも。
歩いていくと窓を外から覗いた。ローズは見当たらない。
「どこだろう」
僕はランタンに灯をともすと、何かを感じて引き寄せられるかのように家の裏手の森へと歩いていった。
しんとした森。ランタンが照らしつける以外の場所などは暗がりだ。夢で見たように宇宙は木々の先には見えないほどに鬱蒼とした深い森。だから、この森の出口を振り向くと、明るく見える。
「ローズ」
僕は呼びかけながら夜の森を歩く。
本来ならば危ないから夕方には出歩かないようにしているのに。森は動物たちの大切な住処だ。静かにしてあげなければ。
しばらく歩いていくと、小広い場所に出る。
「ミズリー姉さん」
「ラウン」
それに……。
僕はミズリーお姉さんがローズと共にたたずんでいる姿を見て驚いた。
「さっき」
確かに歩いていた。ローズが。あの間接をしなやかに。
「何者なの?」
ミズリーお姉さんは手に筆を持っていた。それが金のインクを滴らせ、空にすらすらと何かを描いていく。それは何かの文字のようだった。すると、ローズの静かな口元が動き、その「言葉」を発したのだ。
「お姉さんはローズに魂を吹き込んだの?」
魔法の筆を僕は見た。ローズはその魔法の筆で色づけされた唇で微笑む。あの薔薇星雲の瞳はくるくる回る、廻る……。
僕ははっと目を覚ました。
「あれ」
そこは暖色の色合いの占めるアトリエ。ミズリーお姉さんの球体間接人形の工房だった。
「ローズは……」
見回すけれど、彼女は見当たらなかった。お姉さんも黒髪の人形制作に取り掛かって、ずっとこちらを見ずにいるまま。
夢、だったのかな。
そうと思う間にも、その記憶はさらさらとした星屑のように広がっていった。それは、薔薇星雲のある宇宙のように。
「ねえ。今度、薔薇星雲の瞳を持つ人形を作ってよ」
僕は微笑んで、ミズリーお姉さんの背に言った。
2017.2.26
想い
想い
京の都は偶さかの美を誇る。神秘の砦である。
そこに美麗な魔物がいた。黒い長髪を漆黒の着流しの背にし、黒い猫の耳の生えた妖かしであり、雪のような肌には月光が差し込んでいる。桜山に囲まれたこの社は、春のこの夜を辺りに甘い薫りを漂わせていた。
その魔物は銀の飾りのつく杖を高く掲げると、夜空に銀の幾何学模様が描かれ始めた。その図形はその角毎に星が強く光りを発する。
すると、彼の背後の桜の大木の足許に横たわった骸が、何かに操られたかのように布ずれを伴って動き出したのである。
その乱れ髪の女の骸は、口元から血を一筋。だが、その青い顔の目元が開かれ、うつろに虚空を見つめた。
魔物は振り返ると、その骸の前まで来て、御髪に手を差し入れた。すると、その頬に色味が戻り、唇は紅が差したようになる。
桜の薫りは生命に充ちるというのに、甘やかなそれはあまりにも魔を潜ませて思わずにはいられない。
そして女の肩に長く垂れ下がった髪結いが不気味な風にあおられると、身体はなめらかに動作し、まるでそれが生きたままのようにする。
桜山の間から、銀の幾何学模様の描かれる夜空を背に、美しく飾られた牛車が桜色の灯篭をともしながらやってくると、この桜の丘に桜色の雪洞が灯り始めた。
魔物は牛車が銀の細やかな図形を引き連れて星に変えてここまでやってきたのを見る。その魔術の星は生命に充ち、牛車をそれらの砦にする。
それに彼らは乗り、夜空へと旅立った。
ここへ戻るときは、いつだろうか。
骸と魔物を繋ぐ宇宙の歯車は、牛車の車輪となって星屑を舞わせていく。
その骸は、それまでは優しい乙女だった。猫又である彼のことを大切にしていた。猫又は彼女に恋をしていた。それでも、彼女は尻尾を隠して普通の猫を装う彼が魔物であることも、猫又であることも知らなかった。
彼女は青年に恋をし、そしてその恋は破れ去った。だから、悲しみに暮れた彼女は美しい桜のもとまでやってくると、骸と化した。猫は尻尾が三つに分かれ、黒い着物を召した姿に戻り、桜の花弁に囲まれる美しい乙女を発見し、涙した。
「尚も美しく薫るか、桜の花よ」
彼は「世知辛きことよ」嘆き悲しみ、見守っていた桜は姿を現し妖女として現れた。
「これまでも私は死を見て感じてきた。そなたが願うのであれば、その多くの魂をここへ込めようぞ」
桜の妖女は桜吹雪を舞わせ、花弁が銀の飾りと変わって黒い鉄杖を彼に与えた。
彼は彼女の指し示した夜空を見上げた。そこには魔性の下弦の月。
「地の世界と繋がる内に、さあ……」
桜吹雪の先の夜空にかけて、彼は呪術をかけ、乙女の骸に魂をよみがえらせた。
「夜空の星のあるうち。それが条件」
彼らは牛車で夜の空へとあがって行き、そして愛を結んだ星座となった。
それは、とてもよく晴れた日の夜空にしか見えない、微かな愛の星である……。
2017.2.26
紅葉の忍守
それは大正のこと。浪漫の風雅が感じられる街並みは、どこか情念を含んだ秋の雰囲気を夕方まで彷徨わせたままに、夜へと突入しようとしていた。
和洋折衷の屋敷。
異国から渡ってきた電話を耳に押し当て、夫人は息を呑んで夕空に染まった窓の外を見つめる。老紅葉などはその茜に完全に染まりきり、庭のどこにあったのかさえも今は光りに紛れて、この心情では記憶も朧ろになりそうである。
「事実でございますのでしょうか」
彼女の声は今にも夕闇迫る室内の影に消え入りそうなほど、打ち震えていた。
彼女の白皙の頬に涙が伝い、それは今しがた日の傾きにより強く差し込んだ夕陽に当てられ、まばゆく紅に染む。
彼女の目には映らない庭に、紅葉がはらはらと散ってゆく。
「そのようなことなどは否でございます」
しかし、相手の男は夫人の言葉に、彼女の悲しみを癒すように応えるしかなかった。どうしても、どうしても男は渡航を止められぬ立場である。できるだけ柔らかな声で言う。
「夫人。私は、これが我々に決められた別れであるのだとしか、言うほかはありません」
彼女が嗚咽をもらすうちにも、夕暮れはどんどんと深まってゆく。だが、彼女の心を洗い流すには夜の星はまだ遠い。
「何時、お帰りになるの。大和へは」
男は一切を黙りきり、しばし時が過ぎ去ろうとしていた。なぜなら、それは一生のことだったからである。愛する女性との今生の別れを、この異国の美しい電話で伝えなければならないことがもどかしくもあるが、このわびしい秋の空でも彼女を慰めうることだろう。それは相愛する声をこの受話器から聞くことの出来た事実として、これからも記憶に留まるのだから。
紅葉は次第に夜の闇におち、街灯により存在を明らかに庭に鎮座した。
それは初めて彼に出逢った日のことを思い出させる、圧巻とする妖齢の大紅葉である。
秋の風が荒れ狂った台風の日、彼は彼女のふらついた細い身体を抱き支えてくださった方だった。江戸傘はその風に持っていかれ、刹那目が合った男性とのあの情熱。紅葉を背にした彼の微笑。
今は、この現の彩も街灯を消して闇に溶け込ませてしまいたくなる……。
いつまでも二人、電話口で時を感じたくなくて、しばし、まだずっと、耳を寄せ合っていた。
紅葉もはらはらと舞う夜を、星がきらめき、二人を見守り始める。
2017.2.26
流離い
my darkness mortion rans time, masking a swen erder. sideless now we are saw sea. are voices cry are heard dear. my foces freedom.
木々の向こうには、かなり深い色の群青が浮かぶ青い満月を囲い撫でている。
天窓をなでる風はどこへと今度は流れてゆくのか、パティオの泉を撫でてここまでと柱の間をやってくるのか。
はるか遠くの海にはいつか重なり合うはずの心と手と、あの人がいる気がするばかりだ。天秤はゆるやかな風に揺られ、砂金がきらきらと黒石の床に流れ光った。私は爪先で絵を描き、指先を触れ合わせた。
天蓋が乱暴に風に揺らされ、頬をなぶってゆく。顔をあげれば、薔薇の花弁でも吹き荒れるように香りが。それでも、彼はこの頬にあの手の甲を触れ合わせる幻しか浮かばずに、涙を流した。
行く果ても無い旅路を終えて、いつ、どこであの彼の竪琴は聞こえるだろう。
船にのってやってくるのはいつだろう。潮風と共に、掛け声と共に、カモメたちとともにやってくる南風は帆を膨らませて。
私の金髪を金の櫛ではなく、彼のあの浅黒い肌の指が通るのは。流離いの時を越えて。
愛のために生きたこの身体は愛のために炎を灯すのはいつなのだろうか。月の舟にのって彼に逢うためなのならば、私はオールをこごう。そんな青い夜の空という海を情操も、全てさえも流れてゆく。渦巻く星屑を抱きしめて、奇跡の場所まで。出逢える場所まで。
硝子の蒸留器に浮かぶ幻は航海の夜。ここまでやってくる。一艘の彼の乗る船。鋭い風に流れてくる。ここまでやってきて。早くとは言わない。だから、やってきて私を抱きしめてほしい。
まるで身体が泡沫に溶け込むように恋の心は天へと上がってゆくなら、いつかは星となって彼に届くといいのに。
梢を飾る木の葉は、さやさやと夜空を撫でる。透明な月光を満遍なく浴びる私は、両手を広げて神聖な光りに振り仰ぎ祈った。いつか、いつかはと……。
朝日の告げる訪れは、幸せなものだった。
小鳥たちは光りのヴェールを縫って囀り、パティオの泉へと流れる。黄緑の木々が映る水面をしばらくは眺めていた。
透明なグラスの光りと影は床に鮮明に揺れて、朝日に強く光ると共に天蓋のベールに透かされた。
「………」
その先に、足許とともに、彼が私の前に現れ、顔を上げた私に微笑んだ……。
私は駆け出し、抱きあった。彼からは潮の香りがした。
パティオの木々が影を落として、ふっと軽くなった身体。私は抱き上げられていた。驚きと共に微笑んで、身を任せる。
「航海を無事に終えてきたの」
そのまま館から離れ、白い砂浜を歩き、私をおろすときには海原が広がっていた。
穏やかな海。どこからかやってきた風。それは、箱のなかから見た望みの空で願った風が帰ってきた愛の風なのかもしれない。
いつまでも昇り行く朝日を私たちは輝く瞳で眺め続けた。微笑みながら。
藤の女(ふじのめ)
江戸の時代。吹きけぶる桜の花弁。私は桜の木を見上げ、その先に浮かぶ昼の白い月を見上げた。まるで空に溶け込むかのように灯っている。
朱に塗られた橋を渡り、河に描かれる桜の紋を眺める。その河にも白い月は淡い空と共に移りこみ、桜がその上を掠め流れてゆく。満月を囲っては花筏が滑ってゆく。
「あら基一さん」
私は名を呼ばれ、ふと振り返りその女を見た。彼女は着物問屋の若女将、染谷京子であり、私は微笑んで挨拶をした。
「京子さん。今日はお日柄も宜しいですな」
「ええ。本当に。河を囲う桜も柳もそよそよと美しいですわね。わたくし、昨日の晩なのですけれど、柳の先にね、美しい女性を見たのよ」
「美しい女性? 貴女より?」
「ふふ」
京子は春色の、それでも大人びて落ち着いた色合いの着物の袖を紅の口元にあて微笑んだ。
「私とはまた感じの変わった人」
「へえ。どんな」
「もしかしたら男やもめの基一さんなら、そっと惚れ込むような人かもしれないわね」
私は六年前妻に先立たれ、一人の日々を過ごしている。商いは今は店の番頭が表立っており、私はそのまとめ役をしている。兼ねてより京子がもしも染物問屋の女将ではなかったのならば、彼女を第二の妻にと思ってはいたのだが、やはり商いの差があり、その言葉などはずっと心の奥にしまったまま。恋心などはいい大人になった今では、ただ虚ろに舞い散る桜に重ね合わせて路へと渦固まっていく様に重なるだけである。
「もし宜しければ、夜出歩いてみてはいかがかしら。こんなに明るい春の夜ならば、血迷った者もではしないでしょう(眠っていましょう)」
春に浮かれて江戸の町が怪しい危険さをはらむ夜などは、出歩くことなどはまず無い。
「ああ、そうだね」
つい、「それでは共に貴女と出歩きたいのだが、どうか?」という言葉を言いかけたが、やはり言葉は風に流されたまま。
新しい女を求めてもいい頃合なのだが。私は河を見つめた。時は流れ去ってゆく。桜の花弁が流れてゆくように、同じように。
その夜、淡い月が天を飾る路を私は歩いた。町屋の屋根などはその月光を受けて光り並んでいる。
ゆっくりと歩いてゆくと、誰も居ない路には風がやわらかく通るばかり。桜の香りを乗せて、甘いその香りを乗せて。橋に差し掛かり、さらさらと柳が揺れて、そして桜の花弁が舞っている。
「あれは」
ぼんやりとさらさらと幕を漂わせる柳の先に白い影が、いいや、淡い藤色だろうか、その着物を召した女が居た。長い髪をすべて下ろし、その絹糸のような黒髪一本一本さえも、さらさらと風に揺られて月光が一纏いする。あでやかなものだ、と私は思った。時たま強い風が吹くと、その長い髪はあおられて、真っ白いうなじが覗き、多少私はぞっとした。なぜだろうか、あまりにも美しすぎて、ぞっとした。
その女はふと肩越しに伏せ目がちの目で振り向いた。まるで私は妖女(ようめ)にでもとらわれたかのように、目が離せなかった。
「お絹」
六年前になくしたお絹、妻の面影が重なっては桜の吹雪に消えてゆく。私は足を進めていた。
「お絹なのか?」
これは春の迷いごとだろうか。その柳の下まで走ってゆく。だが一瞬足許がもつれかけ、眼をそらした隙に顔を上げると、女は消えていた。私はその場に立ち尽くしつぶやいた。
「お絹なのか……?」
それは私の望みがただ見せただけの幻だろうか。
明朝、私は烏の鳴き声で眼を覚ました。そして他の小鳥の鳴き声も響く。こんな時間に烏が一羽、いや三羽四羽、五羽ほどか、分からないが多くの鳴き声を響かせているなどと。なにやら胸騒ぎを覚え店から出て町屋を歩いていくと、橋の袂を人々が話をしながら見下ろしていた。
「何かあったのか」
その群集から少し離れたところに京子を見つけ、私は彼女に声をかけた。
「京子さん」
「基一さん。河で人が」
「え?」
「わたし、彼女を知っているわ。先だって夜に見た柳の女性よ」
「まさかそんなはずが」
私は胸がざわざわして、その河の袂を見下ろした。乱れて河の流れに彷徨う藤色の着物。それらはゆらゆらと桜の花弁に装飾されて溜まり流れては、また桜の花弁が渦固まり流れている。顔こそは正面からは見えなかったが、あの紅をさした麗しい唇、それは見まごうことなく昨夜桜の夜に見た美しい女だった。真っ白い足の先の足袋が、こぽこぽと川の流れを受けて光っている。
「なんということだ」
「あれはどなたなのかしら」
京子は険しい顔をして私の横に来ると、恐怖に震えたその白魚の指を私の下腕に触れ合わせた。私は彼女の怖がる肩を一度撫でてあげると、背後を振り向いた。藁を持った男たちが来ると女の身体の上にそれをかぶせ、数名の男たちが河から引き上げる。
「下がれ。みんな下がれ」
私たちは下がり、路をあけた。
「行きましょう。基一さん」
「ああ。そうだな」
沈うつな気持ちで私は店に帰る。朝餉の用意をしていた女中たちが私に問いかける。
「なにやら早くから出てお行きになられましたわね。旦那様」
「ああ、ちょっとね。河で女の死体が挙がった」
「え?}
女中たちは顔を見合わせ、私の顔を見た。
「このあたりでは見当たらない顔だったが、美しい女だった」
「まあ、そんな哀れなこと」
「恐ろしいですわ。何があったのかしら」
私はその女の身体に怪我という怪我は見当たらなかったことを思い出す。あの長い髪などはさらさらと河の流れに漂い、滑らかに朝のゆるい光りに照らされていた。
2017.4.17
夜
薫る薔薇の花弁を、片方は清らかな水に舞わせた。
それは向こうの月を透かしてゆっくりと水底へゆらゆらと一片、一片沈んでゆく。水面の花弁に丸いクリスタルのような水が滑り、乙女の頬のような表面を光り侵食していき、そして薔薇の小舟が片方へかしぐと、大きな硝子瓶の海底へとゆるやかに降ってゆくさまを見つめていた。それは小人を乗せて月夜を滑空していく薔薇小舟に見える。
それを月光にさらして数日して作るのが、薔薇の化粧水。
薔薇の花弁をもう片方。それは火にかけたお湯のなべに浸して煮込む。次第に薔薇の色が赤からピンクに、そして白に変わって行き、その落ちた色を全て湯が拾って薔薇色に染められてゆく。それを月に照らして充分と冷ます。
そしてはじめの薔薇水の半分を透明な瓶につめる。煮詰めた薔薇水も半分を透明な瓶につめる。
そして半分の薔薇水に煮詰めた薔薇水を注ぐ。するとを透明の薔薇水にピンク色の薔薇水が注がれて、混ざり合って行く。それを新しい瓶につめる。
これで三つの薔薇水の瓶が出来た。
今度は蒸留器を持ち出して、皿に花弁を浸した水を入れると下から火であぶる。すると管を伝って蒸気が白く移動して行き、その先の瓶に微量の雫が滴り落ちはじめる。それが薔薇のエッセンス。
花時計
花時計
西洋のアンティークなアーケード内。
装飾された硝子の馬車に美しい春の精霊たちが閉じ込められ行列をしている。
春を迎えた石畳の街は、花の薫りと彩りがまるで迫りくるかのよう。
この季節に行われる花時計祭りのために、街全体が花を纏っているのだ。誰もが明るい笑顔で挨拶を交わし、花を抱えて踊っている。
とある煉瓦の家の窓辺でも、一人の少女が花時計の仕上げに入っていた。その窓にも花が飾られ、街の装いの一部となっている。その少女の薔薇色の微笑みさえも。
「さあ。完成したわ」
十七を迎えた街の乙女たちが誰しも自分たちで花時計を製作し、後に成人祭事の行われる広場の噴水に飾られるものだった。
彼女にとって、この祭りは待ち望んだものだった。それには一人の憧れの女性がいた。
幼いころ、きらきらした目で広場にやってきた彼女は、ひときわ注目を浴びる女性に一瞬で虜になった。その女性はその年に十七の成人を迎えたシルビアという娘で、本当の天使のようだった。
街の幼い女の子たちは、誰もが花乙女たちに頭をなでてもらえると、美しく健康に育つと伝えられていた。幼かった彼女は満面の笑顔で走っていき、だが転んでしまった。途端に大泣きした少女を、その花乙女は駆け寄りすぐに抱え上げ、ポケットから美しく甘い花を閉じ込めたキャンディーを差し出し、優しく微笑んで涙をぬぐってくれたのだ。そのとき、彼女は心の底からわきあがる幸福を得た気がした。
そして時は経過し、彼女は十七の乙女になった。今度は自らが花乙女として、これから女性としての時を刻む花時計を祭りで捧げ、街からの祝福を受け、そして幼い少女たちに美と健康の笑顔を分け与える番。
彼女は胸を躍らせて、完成した花時計を掲げた。窓から射す陽を透かして、とても可憐。
「オリビア」
姉に呼ばれ、ドアを振り向いた。すでに彼女は祭りの装いである。彼女もわくわくして共に衣装の支度を手伝ってもらう。
波打つ長い金髪にたくさんの花を飾り、白いヴェールの衣装を身に着け、花時計を手にした彼女を見た姉は、あまりに可憐で驚いた。
「オリビア。貴女を誇りに思うわ。こんなにも美しくなったのね」
姉はぽろりと一滴の涙を流し、オリビアは姉のシニョンにまとめられた髪に花を挿した。
「リリーお姉さん。私もよ」
「さあ。行きましょう」
「はい」
街ははなやいで、甘い薫りに充ちている。
彼女、オリビアは花乙女たちと共に落ち合ってまるで妖精かのように軽やかに広場へと向かっていった。
「きゃ!」
オリビアは花時計を落としかけ、しっかりとレースのロンググローブの手で持ち直し、顔を上げた。
「ごめん。大丈夫だったかい」
ラテン系の青年がいた。心配そうに顔を覗き込んできて、オリビアは頬を染めてうつむいた。
「はい。心配はございません。わたくしこそまるではしゃいでいて」
青年は安心して微笑み、他の友人に名前を呼ばれて振り返った。
「ああ」
再び青年はオリビアを見つめた。
「じゃあ、気をつけて。僕はここで失礼するよ」
「はい」
彼らは去っていき、しばらくオリビアはぽうっとしていた。
乙女たちの成人の祭事にはその周りで成人した男の子たちが民族楽器を奏で輪になって踊る。噴水を囲って乙女たちがおり、花時計が飾られ、この祭りの日にだけ噴水の上に立てられるフェンスの櫓に一人一人登ってゆく。するとその上にいる司祭が祈りを捧げ、彼女たちを花乙女と認めるのだ。
だんだんと夕べとなってゆく。
花時計というのは、実際はゼンマイ仕掛けの時計が花に囲われているのではなく、花に囲われた一本のキャンドルが立っていた。そのキャンドルは花弁と精油から作られたものだ。
花乙女たちがみな洗礼を受け終えると噴水を囲い、キャンドルに火が灯されていく。その蝋燭が時計となり、これからの彼女たちの時間が刻まれはじめるということだ。
神聖な灯火は柔らかな花弁の先に揺れ、空には星明りがきらめき始める。
花乙女たちが賛美の歌を捧げ、祭りは佳境に入った。
深夜。オリビアは楽器の音色に目を覚ました。
年季の入った大人たちはまだ酒屋で酒を楽しみ春風の街を出歩く声がする。祭りの後の静けさはまだ訪れない。
その声を縫い、微かに聞こえる聴きなれない旋律。
オリビアは部屋を出ると、音をさぐるために街に出た。やはり、誰もが浮かれて酒を手に踊ったり歌ったりをしている。
彼女はふと暗がりの路地を見て、そちらへ歩いていく。そこはすでに人々の笑顔を照らしていた街のランプの届かない場所。
石壁に囲まれた路地は静かになっていく。しかし、あの不思議な旋律だけは聞こえる。
「まあ……」
彼女は驚いて昼に見た青年を見た。
「あれ。君は確か」
笑顔で彼は彼女を見た。
「不思議な旋律が聞こえたから」
「ああ……これはアラビアの楽器」
「珍しいのね」
彼女がそこまで行くと、彼は頷いた。
「僕らは西洋を旅して回っている流浪の民なんだ」
爪弾きながら言い、いたずらに微笑し見上げてくる青年の瞳月明かりに照らされは野生的であり、異国の風雅に当てられてオリビアはめまいを起こしかけた。
「それなら、また行ってしまわれるの」
「ああ、そうだね……どれぐらい先になるかな」
青年はまるでその先に青い海が見えるかのように、遠い目をした。
いずれ去ってしまう。そんな寂しさにオリビアは肩を落とした。しかし顔を上げる。
「とっても素敵な演奏だったわ。共に踊って歌いたいぐらいに」
「いいよ。歌おうよ」
彼女は踊り、彼は歌い、そして共に歌い、夜は流れていく。月が姿を隠しても、ランプの明かりに頼りながら。
その後もオリビアは夜になると、彼に会うために家を出てあの広場に向かい、彼と共に踊り歌った。
昼には彼らは街の者に広場で踊りを見せていた。
だが、流浪の民の旅立ちの日は必ず訪れるものだった。
オリビアはその日が迫ることが怖かった。あの青年に会うことが出来なくなるのだ。
一人、オリビアは明るい昼の林を歩いていた。気分は落ち込んでおり、頭は彼のことばかりだ。泉にさしかかり、寂しげな瞳で水面を見つめた。
共に笑い合える時間。楽器に合わせて踊れる時間。二人で歌詞を作りあう時間。マナーの時間がどんなに厳しくても、彼に夜会いに行くと笑顔の内に元気になれた。全てが尊くて、貴重な時間。
「私の花時計は彼のために灯され始めたんだわ。そうならいいのに……どんなにか」
瞼を伏せ、涙が滴り落ちた。
彼からは奔放な心地よさを感じる。共にいるだけで楽しくて、かけがえが無い。
けれど、許されないのだと分かっていた。だから思い悩むのだ。十七の大人になっても決して自由になったというわけではない。自分への責任と街への貢献の役目を与えられたのだ。流浪の民は流浪の人生がある。街娘には街娘の生活がある。
そんなものも脱ぎ去って、自由に羽ばたきたい。
「ああ、空はこんなに青い」
両手を広げた。胸いっぱいで張り裂けそうになるこの小さな胸が、自由に羽ばたきたいと言っている。
彼女は、強く手を握ると腕を下げ、吹き上げる風に微笑んだ。優しげだが、強い笑みだった。
「オリビア?」
びくっとして彼女は肩越しに振り返った。
「あなた……、どこへ行くの?」
オリビアは姉を見て、口をつぐんでトランクを持つ手を強くした。
「彼のところ」
小さく言い、そして玄関から走っていった。
「オリビア?!」
彼女は駆け出し、心から願った。彼が待ってくれていることを。待ち合わせをした。昨日の夜、林で落ち合おうと。彼は頷いてくれた。それは最大限の秘密を共有した二人だけの静かな目の交し合い。
走り続け、息せき切って林にやってきた。
昨日と同じ明るい林。
頬が高潮するほど息を切らして見回し、また走る。金髪に囲まれる額の汗を手でぬぐい、笑顔で呼びかける。
「どこ?」
木々の間を走って行き、またトランクから手を離して落としてしまった。
「もう、私ってドジね」
また急いで拾って彼を探す。
「ねえ?」
走ることで揺れる視界。だんだんと目がにじみはじめて、、笑顔が途絶えていきて、はらはらと雫が流れはじめた。
その場に立ち止まって、泣きながら見回す。
「どこなの?」
不安で張り裂けそうな胸に手を当てて、トランクをしっかり持って見回す。
「名前だって、教えてくれて」
すでに嗚咽に変わり始め、うつむいて地面をぬらした。
「なんで?」
狭い肩を揺らして泣き、しばらくそこから動けなかった。
おぼろげに街を見つめる。歩きながら、けれど魂がどこかに行っているみたいだった。
「あれ。旅行かい」
同い年の青年アルフレッドが微笑んで軽快に彼女に話しかけた。だが彼女はうつむいて首を横に振るだけだった。
「何かあったの?」
アルフレッドは優しく聞いた。だが、彼女は首を横に振るだけで歩いていってしまった。
街を歩き続け、ただただ悲しみが心を占領した。
ふらっ
「あ、」
石畳に足をつっかけ、彼女は転びかけた。
「危ないわ」
腕をつかまれ、オリビアが顔を上げるとそこには美しい女性がいた。
「大丈夫?」
懐かしい、どこかで聞いた声。優しげな瞳。柔和な雰囲気がその女性を包んでいる。
それは、あの幼い日に見た花乙女。憧れの女性だった。
「シルビアさん……!」
オリビアは彼女に抱きついていた。シルビアは驚き、だが微笑んで泣きはじめた彼女の髪を優しく優しく撫ではじめた。
「私、恋をしました。とても素敵な恋。シルビアさんが祝福してくれたように、とても大きな愛情を感じる恋」
なのに、とオリビアは嗚咽をもらした。
「あなたはあのときの少女ね。よく覚えている。ちょっとおっちょこちょいで、愛らしい目をした子」
シルビアはその後、街を離れて嫁いでいき、この街には長いこといなかったのだ。だから、この街での最後の思い出の日に出会った少女のことは鮮明に記憶に残っていた。
「流浪の人に恋をしたの」
「まあ。それは」
泣きそぼるオリビアの頬をシルビアはぬぐい、しばらくして優しく言った。
「さっきね。街に到着する手前である一団を見たわ」
オリビアは顔を上げ、シルビアを見た。
「一人の男の子が酷く泣いていて、街を離れるのを嫌がっていたみたいなの。キャラバンの人たちは困りきっていて、どうしたものかと頭を抱えていたわ」
「それはもしかして」
「私には分からない。けれど、急いで行ってみるのもいいかもしれない。それは、きっとあなたにとって辛い結果になるかもしれない。でもね、きっと行って、そのほうがいいから」
オリビアは涙があふれ、シルビアを見つめた。
お別れの言葉を言うことになるかもしれない。分からない。けれど、刹那オリビアは駆け出していた。街の出口へと。
「待って!」
青年はオリビアを振り返り、目を見開いた。
「オリビア」
一団は顔を見合わせ、彼の断固として言う「運命の人」だという少女を見た。
「私」
オリビアはまっすぐと彼のもとまで歩いていき、そして見上げた。
「私、あなたと共に行きたい」
「オリビア」
だが、それは一団には許されない掟だった。それを青年は分かっていたというのに、彼女のほがらかな歌声に、おちゃめな笑顔に、ちょっとドジなかわいらしさに、一緒にいるそこはかとない安心感に、ずっと共にいたくていつづけた。彼女といると、心が充たされていた。
彼は思い出す。花乙女のあの姿を。愛らしい焦り顔を。それが、洗礼式では崇高な歌声を乙女たちにとともに響かせ、大人びた顔を見せた。女の子は不思議なものだと思ったものだ。
だが、流浪の旅は生半可な気持ちでは出来ないんだ。生活もその日暮し、危ないこともある。それも、分かっていた。
「オリビア」
彼は大きく息を吸ってはくと、彼女の手に手を重ねた。
「僕は、去らなきゃならない。それなのに分からないふりをしたのが、君を傷つける結果になったんだ」
オリビアは揺れる瞳で彼を見つめ続けた。望みは尽きぬほどに大きいというのに。それでもそれぞれの生活がここにはある。
彼はそっと目を閉じ、彼女の頬に始めての口づけをした。オリビアの瞳から涙があふれ、強く包括をしあっていた。
しばらく彼の家族は異なる一族の恋人同士を静かに見守った。
人や人生というものは流れ流離うもの。それらの一粒でしかないけれど、それぞれが河底で強く光り輝く粒なのだ。ここで流れて海へたどり着くのも、耐えて流されずにさらに光り輝くのも、その人次第。
春の野花が風に揺られる路で、恋人たちの別れがささやかながらも彩られた。せめても花乙女を元気つけようとしてだろうか? きっと、そうなのかもしれない。
2017.5.8
春を迎えた石畳の街は『花時計祭り』が催され、街全体が花を纏っていた。甘い薫りが風に乗せて人々に迫りきて、誰もが明るい笑顔で挨拶を交わし、花を抱えて踊っていた。
とある煉瓦の家の窓辺にも花が飾られ、その先の少女の薔薇色の微笑みさえも街の装いの一部となっている。
少女オリビアは今、『花時計』の仕上げに入っている。彼女の白く細い指にも陽が差し込み、愛らしい生花を挿している。
「さあ。完成したわ」
これは十七を迎えた『花乙女』の成人祭事の慣わしだ。祭りの行われる広場の噴水に自分たちで作った花時計が飾られ祭事が行われる。
「ついに私にも、待ち望んだこの祭事が巡って来たのね」
幼いころの記憶に思い出されるのは、とある一人の女性。オリビアの憧れの人だ。
幼かったオリビアは、姉とともに祭事の行われる広場に向かっていた。
街の幼い女の子たちは、誰もが『花乙女』に頭をなでてもらえると、美しく健康に育つと伝えられていた。
いつもと雰囲気を変えた噴水の前で、ひときわ注目を浴びる女性がいた。それはその年で唯一の十七の成人を迎えたシルビアという街娘で、シルビアの晴れ姿は本当の天使そのものだった。
幼かったオリビアは目をきらきらとさせ、満面の笑顔で花乙女のもとへ走っていった。だが、石畳に足を取られてオリビアは転んでしまった。
途端に大泣きした少女を見て、その花乙女はすぐに駆け寄りオリビアを抱え上げ、優しく微笑んで涙をぬぐってくれた。そしてポケットから甘く美しい花を閉じ込めたキャンディーを出し、小さな手に握らせてくれた。
そのとき、オリビアは一瞬で花乙女の虜になり心の底からわきあがる幸福を得た気がした。
そして時は経過し、オリビアは十七の花乙女になった。
これから女性としての時を刻む花時計を祭りで捧げ、街からの祝福を受け、そして幼い少女たちに美と健康の笑顔を分け与える番。
彼女は胸を躍らせて、完成した花時計を掲げた。窓から射す陽を透かして、とても可憐。
「オリビア」
姉に呼ばれ、ドアを振り向いた。すでに彼女は祭りの装いである。彼女もわくわくして共に衣装の支度を手伝ってもらう。
波打つ長い金髪にたくさんの花を飾り、白いヴェールの衣装を身に着け、花時計を手にした彼女を見た姉は、あまりに可憐で驚いた。
「オリビア。貴女を誇りに思うわ。こんなにも美しくなったのね」
姉はぽろりと一滴の涙を流し、オリビアは姉のシニョンにまとめられた髪に花を挿した。
「リリーお姉さん。私もよ」
「さあ。行きましょう」
「はい」
街ははなやいで、甘い薫りに充ちている。
彼女、オリビアは花乙女たちと共に落ち合ってまるで妖精かのように軽やかに広場へと向かっていった。
「きゃ!」
オリビアは花時計を落としかけ、しっかりとレースのロンググローブの手で持ち直し、顔を上げた。
「ごめん。大丈夫だったかい」
ラテン系の青年がいた。心配そうに顔を覗き込んできて、オリビアは頬を染めてうつむいた。
「はい。心配はございません。わたくしこそまるではしゃいでいて」
青年は安心して微笑み、他の友人に名前を呼ばれて振り返った。
「ああ」
再び青年はオリビアを見つめた。
「じゃあ、気をつけて。僕はここで失礼するよ」
「はい」
彼らは去っていき、しばらくオリビアはぽうっとしていた。
乙女たちの成人の祭事にはその周りで成人した男の子たちが民族楽器を奏で輪になって踊る。噴水を囲って乙女たちがおり、花時計が飾られ、この祭りの日にだけ噴水の上に立てられるフェンスの櫓に一人一人登ってゆく。するとその上にいる司祭が祈りを捧げ、彼女たちを花乙女と認めるのだ。
だんだんと夕べとなってゆく。
花時計というのは、実際はゼンマイ仕掛けの時計が花に囲われているのではなく、花に囲われた一本のキャンドルが立っていた。そのキャンドルは花弁と精油から作られたものだ。
花乙女たちがみな洗礼を受け終えると噴水を囲い、キャンドルに火が灯されていく。その蝋燭が時計となり、これからの彼女たちの時間が刻まれはじめるということだ。
神聖な灯火は柔らかな花弁の先に揺れ、空には星明りがきらめき始める。
花乙女たちが賛美の歌を捧げ、祭りは佳境に入った。
深夜。オリビアは楽器の音色に目を覚ました。
年季の入った大人たちはまだ酒屋で酒を楽しみ春風の街を出歩く声がする。祭りの後の静けさはまだ訪れない。
その声を縫い、微かに聞こえる聴きなれない旋律。
オリビアは部屋を出ると、音をさぐるために街に出た。やはり、誰もが浮かれて酒を手に踊ったり歌ったりをしている。
彼女はふと暗がりの路地を見て、そちらへ歩いていく。そこはすでに人々の笑顔を照らしていた街のランプの届かない場所。
石壁に囲まれた路地は静かになっていく。しかし、あの不思議な旋律だけは聞こえる。
「まあ……」
彼女は驚いて昼に見た青年を見た。
「あれ。君は確か」
笑顔で彼は彼女を見た。
「不思議な旋律が聞こえたから」
「ああ……これはアラビアの楽器」
「珍しいのね」
彼女がそこまで行くと、彼は頷いた。
「僕らは西洋を旅して回っている流浪の民なんだ」
爪弾きながら言い、いたずらに微笑し見上げてくる青年の瞳月明かりに照らされは野生的であり、異国の風雅に当てられてオリビアはめまいを起こしかけた。
「それなら、また行ってしまわれるの」
「ああ、そうだね……どれぐらい先になるかな」
青年はまるでその先に青い海が見えるかのように、遠い目をした。
いずれ去ってしまう。そんな寂しさにオリビアは肩を落とした。しかし顔を上げる。
「とっても素敵な演奏だったわ。共に踊って歌いたいぐらいに」
「いいよ。歌おうよ」
彼女は踊り、彼は歌い、そして共に歌い、夜は流れていく。月が姿を隠しても、ランプの明かりに頼りながら。
その後もオリビアは夜になると、彼に会うために家を出てあの広場に向かい、彼と共に踊り歌った。
昼には彼らは街の者に広場で踊りを見せていた。
だが、流浪の民の旅立ちの日は必ず訪れるものだった。
オリビアはその日が迫ることが怖かった。あの青年に会うことが出来なくなるのだ。
一人、オリビアは明るい昼の林を歩いていた。気分は落ち込んでおり、頭は彼のことばかりだ。泉にさしかかり、寂しげな瞳で水面を見つめた。
共に笑い合える時間。楽器に合わせて踊れる時間。二人で歌詞を作りあう時間。マナーの時間がどんなに厳しくても、彼に夜会いに行くと笑顔の内に元気になれた。全てが尊くて、貴重な時間。
「私の花時計は彼のために灯され始めたんだわ。そうならいいのに……どんなにか」
瞼を伏せ、涙が滴り落ちた。
彼からは奔放な心地よさを感じる。共にいるだけで楽しくて、かけがえが無い。
けれど、許されないのだと分かっていた。だから思い悩むのだ。十七の大人になっても決して自由になったというわけではない。自分への責任と街への貢献の役目を与えられたのだ。流浪の民は流浪の人生がある。街娘には街娘の生活がある。
そんなものも脱ぎ去って、自由に羽ばたきたい。
「ああ、空はこんなに青い」
両手を広げた。胸いっぱいで張り裂けそうになるこの小さな胸が、自由に羽ばたきたいと言っている。
彼女は、強く手を握ると腕を下げ、吹き上げる風に微笑んだ。優しげだが、強い笑みだった。
「オリビア?」
びくっとして彼女は肩越しに振り返った。
「あなた……、どこへ行くの?」
オリビアは姉を見て、口をつぐんでトランクを持つ手を強くした。
「彼のところ」
小さく言い、そして玄関から走っていった。
「オリビア?!」
彼女は駆け出し、心から願った。彼が待ってくれていることを。待ち合わせをした。昨日の夜、林で落ち合おうと。彼は頷いてくれた。それは最大限の秘密を共有した二人だけの静かな目の交し合い。
走り続け、息せき切って林にやってきた。
昨日と同じ明るい林。
頬が高潮するほど息を切らして見回し、また走る。金髪に囲まれる額の汗を手でぬぐい、笑顔で呼びかける。
「どこ?」
木々の間を走って行き、またトランクから手を離して落としてしまった。
「もう、私ってドジね」
また急いで拾って彼を探す。
「ねえ?」
走ることで揺れる視界。だんだんと目がにじみはじめて、、笑顔が途絶えていきて、はらはらと雫が流れはじめた。
その場に立ち止まって、泣きながら見回す。
「どこなの?」
不安で張り裂けそうな胸に手を当てて、トランクをしっかり持って見回す。
「名前だって、教えてくれて」
すでに嗚咽に変わり始め、うつむいて地面をぬらした。
「なんで?」
狭い肩を揺らして泣き、しばらくそこから動けなかった。
おぼろげに街を見つめる。歩きながら、けれど魂がどこかに行っているみたいだった。
「あれ。旅行かい」
同い年の青年アルフレッドが微笑んで軽快に彼女に話しかけた。だが彼女はうつむいて首を横に振るだけだった。
「何かあったの?」
アルフレッドは優しく聞いた。だが、彼女は首を横に振るだけで歩いていってしまった。
街を歩き続け、ただただ悲しみが心を占領した。
ふらっ
「あ、」
石畳に足をつっかけ、彼女は転びかけた。
「危ないわ」
腕をつかまれ、オリビアが顔を上げるとそこには美しい女性がいた。
「大丈夫?」
懐かしい、どこかで聞いた声。優しげな瞳。柔和な雰囲気がその女性を包んでいる。
それは、あの幼い日に見た花乙女。憧れの女性だった。
「シルビアさん……!」
オリビアは彼女に抱きついていた。シルビアは驚き、だが微笑んで泣きはじめた彼女の髪を優しく優しく撫ではじめた。
「私、恋をしました。とても素敵な恋。シルビアさんが祝福してくれたように、とても大きな愛情を感じる恋」
なのに、とオリビアは嗚咽をもらした。
「あなたはあのときの少女ね。よく覚えている。ちょっとおっちょこちょいで、愛らしい目をした子」
シルビアはその後、街を離れて嫁いでいき、この街には長いこといなかったのだ。だから、この街での最後の思い出の日に出会った少女のことは鮮明に記憶に残っていた。
「流浪の人に恋をしたの」
「まあ。それは」
泣きそぼるオリビアの頬をシルビアはぬぐい、しばらくして優しく言った。
「さっきね。街に到着する手前である一団を見たわ」
オリビアは顔を上げ、シルビアを見た。
「一人の男の子が酷く泣いていて、街を離れるのを嫌がっていたみたいなの。キャラバンの人たちは困りきっていて、どうしたものかと頭を抱えていたわ」
「それはもしかして」
「私には分からない。けれど、急いで行ってみるのもいいかもしれない。それは、きっとあなたにとって辛い結果になるかもしれない。でもね、きっと行って、そのほうがいいから」
オリビアは涙があふれ、シルビアを見つめた。
お別れの言葉を言うことになるかもしれない。分からない。けれど、刹那オリビアは駆け出していた。街の出口へと。
「待って!」
青年はオリビアを振り返り、目を見開いた。
「オリビア」
一団は顔を見合わせ、彼の断固として言う「運命の人」だという少女を見た。
「私」
オリビアはまっすぐと彼のもとまで歩いていき、そして見上げた。
「私、あなたと共に行きたい」
「オリビア」
だが、それは一団には許されない掟だった。それを青年は分かっていたというのに、彼女のほがらかな歌声に、おちゃめな笑顔に、ちょっとドジなかわいらしさに、一緒にいるそこはかとない安心感に、ずっと共にいたくていつづけた。彼女といると、心が充たされていた。
彼は思い出す。花乙女のあの姿を。愛らしい焦り顔を。それが、洗礼式では崇高な歌声を乙女たちにとともに響かせ、大人びた顔を見せた。女の子は不思議なものだと思ったものだ。
だが、流浪の旅は生半可な気持ちでは出来ないんだ。生活もその日暮し、危ないこともある。それも、分かっていた。
「オリビア」
彼は大きく息を吸ってはくと、彼女の手に手を重ねた。
「僕は、去らなきゃならない。それなのに分からないふりをしたのが、君を傷つける結果になったんだ」
オリビアは揺れる瞳で彼を見つめ続けた。望みは尽きぬほどに大きいというのに。それでもそれぞれの生活がここにはある。
彼はそっと目を閉じ、彼女の頬に始めての口づけをした。オリビアの瞳から涙があふれ、強く包括をしあっていた。
しばらく彼の家族は異なる一族の恋人同士を静かに見守った。
人や人生というものは流れ流離うもの。それらの一粒でしかないけれど、それぞれが河底で強く光り輝く粒なのだ。ここで流れて海へたどり着くのも、耐えて流されずにさらに光り輝くのも、その人次第。
春の野花が風に揺られる路で、恋人たちの別れがささやかながらも彩られた。せめても花乙女を元気つけようとしてだろうか? きっと、そうなのかもしれない。
2017.5.15
薔薇の薫りの貴女
薔薇の薫る……目覚めだった。
私は懐かしく鼻腔を充たすその薫りにしばらくは浸っていたくて、瞼を透かす朝日に包まれたまま横になっていた。これは、夢で薫ったものだろうか。それとも、現実なのだろうか。
貴女が帰ってきたの? そうなの? あのころのようによ。また、いつものように窓際のベンチに腰掛けて、窓の外の緑を眺めて朝日に照らされて。美しかった貴女。どこまでも涼やかな瞳をしていた。今もそうしていてくれたなら。
まだ、そんな幻想の間際に私は漂っていたい。うっとりと微笑んだまま。
あのころ、vapeから燻らす薔薇の水蒸気は、甘ったるくも私の身体を包み込んだものだった。それは、彼女の薫りとして私の心に刻まれたもの。
窓際から立ち上がった貴女は目覚めた私に気づいて、そっと私のいる寝台までやってきた。薔薇の蒸気が空間をくゆって、それは貴女が歩くことで切り裂かれて、黒いシャツを着た貴女の背後からの朝日に煙はとろとろと渦を巻いてほどけていった。
貴女は私の横に腰を下ろして、優しく私の髪を撫でながら微笑んだわ。私もそろりと腕を上げて、貴女のゆったりとした短い金髪を撫でた。いつもそんな目覚めだった。朝日も貴女に遮断され、もう私には貴女と薔薇の薫りだけが残される。
「………」
私はゆっくりと目を開いた。
「イレーヌ……?」
身体を腕で支えながら起き上がって、あたりを見回して彼女の名前を呼んだ。
明るい室内には、彼女はいなかった。影にもいない。
私は落ち込んでうなだれ、彼女の幻影と戯れていられた先ほどまでの時間を取り戻そうと、再び枕に頬をうずめた。けれど、それは目を閉じた暗闇に儚く消えてゆくようで、喉元がぎゅっと苦しくなって肩を揺らして泣いていた。
しばらく泣いていたけれど、ようやく起き上がった。こんなにも甘く薫る薔薇の正体はどこからだろうと、とても気になったから。涙するうちにもその薫りは私を包んで慰めてくれていたのだから。
寝台から降りて、はだしで歩く。ネグリジェの影がくっきりと朝日により床に落ちる。私の身体も透かして。
『蜂蜜のようだ』
私の髪を撫でながら彼女は言ってくれた。
薔薇とはまた違った薫りがして、それも好きだと言ってくれた。そんな彼女のいた面影を探すように、背後の寝台を振り向いても、窓際を見ても、どこにも彼女は見当たらない。
「イレーヌ……?」
ささやくように呼びかけながら、隣の部屋への間口柱に手を掛けた。その指は寂しさに震えた。呼びかける声も。
見回しても居間に彼女はいなかった。
けれど、ローテーブルに美しいものを見つけた。
「まあ、なんて綺麗な薔薇」
思わず足を速め、そこまで来る。薫りの正体はこの大きな花瓶に生けられた大輪の薔薇だった。
私はその一本を手にとり、微笑んでいた。薫りを鼻腔に充たす。ああ、彼女の嗜んでいたvapeの水蒸気の薫りと似ていて、それはまた違った薔薇のもの。
それでも思い出す。彼女が「手入れ」と言っていろいろな工具を机に並べて、ずいぶんと洒落たvapeのアトマイザー器具を分解したり、洗ったり、自作で薬剤と香料を混ぜていた姿。「なんか魔法使いみたいね」と言った私をふと見上げて、彼女もくすりと笑って「それならいつか媚薬でも混ぜて薫らせないと」と言っていた。
けれど、私は今は一人。独り……。
「?」
視線を落とした先、薔薇の陰に見慣れないものを見つけた。手に取る。それは、不思議な象嵌模様のある小さな箱で、小さいわりにずっしりとしたそれは、紛れもないvapeだった。
「イレーヌ? いるの?」
薔薇とそのvapeを手にしたまま私は見回した。
「イレーヌ!」
私は駆け出して、部屋から出た。廊下を行く。
「イレーヌ」
回廊の掃きだし窓からは、満遍なく朝日が差し込んで、庭の緑がスプリンクラーの飛沫を受けてきらめいている。
「!」
その向こうに、背中を見つけた。ゆったりした短めの金髪。白いロマンティックシャツの背。バランスよく立つ黒いパンツ姿。
紛れもない……。
「イレーヌ!」
私の声に彼女は振り向き、私は駆け出した。スプリンクラーの飛沫が視界に光る。それを越えて彼女にしがみついた。髪から雫が落ちる。涙とともに。
「フィオナ」
「どこに行っていたの。いきなり一年前に消えてから、私、殻になったみたいだった」
「ごめん。寂しい思いをさせた」
私は深く頷き続けた。
「もういいの。イレーヌ」
ただただ私は彼女を抱きしめた。朝の小鳥たちの囀りが、心まで弾ませる。
あのころと同じ薫り……だけれど、もっと深みを増した薔薇の薫り。それはあの象眼模様のvapeからの水蒸気だった。
以前の薫りを柔らかなピンク色の薔薇に例えるなら、今の薔薇はこのローテーブルに飾られた深紅の薔薇。
彼女、イレーヌもどこかさらに大人びた風になっていた。出逢った当初は彼女は二十一。私は十七だった。今、私は二十になって、彼女は二十四になっているのだから、それも当然なのかもしれない。一年という隔たりが、彼女を大人にしている。
ローテーブルの薔薇を弄んで、vapeを吸う彼女の横顔を見つめながら私は思った。この一年で、私も何か変わったのかしら。ガーデナーの仕事をしている昼間はまだ私も笑顔でいられたけれど、それも終われば一人。イレーヌの失踪した家に残されて、夜は一人で悲しく泣いていた。
イレーヌ。貴女はずっとどうしていたの?
尋ねられなくて、私は彼女の肩にこめかみをあずけた。彼女は優しく細い指で髪を撫でてくれる。そして、頭のてっぺんに口付けをしてくれる。この安心感、なんとかけがえのない。
「どこに行っていたのって聞いたら、駄目?」
応えはなくて、私は壁の絵画だけを見つめていたけれど、ときどきそれはもくもくと真っ白い水蒸気に隠れてはまたその先に現れる。私は横目で彼女を見上げた。彼女はいつも蒸気をゆっくりとくゆらせるから、薔薇の薫りがゆるゆると広がる。
「言いたくないのならいいの」
目を閉じて、胸部に頬をうずめた。
「……ごめん」
私は頷いて、生けられた薔薇を見つめた。とても、とても大切にしたくなる美しい薔薇。
バンバンバンバンッ
私は驚いて扉を見た。
「いるんでしょう!」
女の子の声。怒鳴っている。
すかさずイレーヌが立ち上がって私を寝室へ向かわせ、激しくノックのされる扉へ歩いていく。
「イレーヌ」
「危ないから隠れていて」
イレーヌがノブに手をかけて回したら、女の子が入ってきた。
「この薫り……イレーヌだと思っていたの」
その女の子はまるで怒り狂ったヘラのような鋭い目をした子で、後ろに恐い男の人を二人連れていた。
「イレーヌ様。お戻りください」
「帰れ」
「貴女様のいるべきはイザベラお嬢様の」
言い終わる前にイレーヌが扉を閉めようとしたけれど、さっと男の人の腕がそれを遮断した。私は震えながら寝室への間口からそれを見ていた。あれは誰なのだろう。
「……っ」
「!!」
いきなりイレーヌが転がって、私は駆け出した。
「イレーヌ!」
腕を押さえるイレーヌの横にしゃがんで私は彼らを見上げて、ぞっとした。イザベラと呼ばれた女の子は鞭を持っていた。そんなもので払われたのだなんて。
「私が見つけたのよ」
イザベラが愛らしい顔に似つかわしくはない低い声で言った。
イレーヌが私をかばうように背後に行かせて、私は彼女の服をしっかりと掴んだ。
イザベラは私たちを睨んでから、まるで心うつろうように微笑んで言った。
「それは一年前だったわ。薔薇園で紅茶を愉しんでいたの。そうしたら彼女が現れてね。私、彼女のことがとても気に入って、お話をしたのよね。香料にする薔薇の精油を採取するために薔薇の選定をしにきたと言うから、私は手伝いをしてさしあげたの」
まるで無垢な少女のように言い、さきほどから鞭だけがゆらゆらと揺れて彼女自体の現実味を表している。
「私もvapeを嗜みたいといったら、共通の趣味を持つのは楽しいと彼女が判断してくれたのよ。彼女を屋敷に招待して、ともに薔薇を蒸留したわ。それでね。私の友人にはあることに詳しい人がいるのよ。そのあること……媚薬に酔いしれて、そのときイレーヌは私に虜だった」
イザベラは蛇のような目をして「なのに……」と白い歯を紅い唇から覗かせた。
イレーヌが私を強く抱きかかえて、途端にうめいた。鞭打たれて、イレーヌの鼓動が早くなるのが分かる。
「イレーヌ」
「これぐらい大丈夫だ」
私は彼女の声を聞き、イザベラを見た。彼女は冷たく目を細めている。
「……彼女といたかったの? だから、媚薬なんかも使って、それで一年間もずっと逃れてこなかったの?」
私が言うと、イレーヌは腕をゆるめて私を見た。
「そんなこと」
「逃げようと思ったら、いくらでも逃げられたかもしれないのに何故?」
私は立ち上がって、イザベラを見た。そして、イレーヌを見つめた。
「………」
歯の奥をかみしめて私は駆け出していた。二人の間から離れたかった。
「待て!」
イレーヌが私に呼びかけたけれど、振り向いたら必死にイザベラが引き止めている。二人いる男の大きいほうがイザベラから逃れたイレーヌを押さえつけた。細身のほうが私の方に走ってきて、私はその場にたたずんで動けなくなって男を見た。青い目をした黒髪の男で、私の腕を引いて角まで連れて行く。私は抵抗しながら肩越しにイレーヌを見る。イレーヌも抵抗していて、その姿は角で見えなくなった。
「イレーヌ!」
男が私の両腕をもった。
「静かに」
「………」
思った以上に思慮深い、神経質な目をした男で、私は口を閉ざした。
「イザベラお嬢様は危険な方だ。イレーヌ様も幾度となくあなたに会いたがり勇ましくも逃げ出したが何度ももう一人の男に引き戻されてきた」
「あなたは、イザベラのところの人なのでしょう」
男は遠い目をしてから、首を横に振った。
「もう僕にはお嬢様のことは分かりかねる。幾度も私も影でイレーヌ様を逃がす手伝いをしてきました。イレーヌ様の苦しむ姿はもう見たくはない。もう……」
「そのうち」と男が言うと、男は私を見た。
「独占したくなるほどに恋焦がれて」
私は首を横にふるふると振り、男の目を見た。
「イレーヌ様は僕のものだ」
「違うわ」
「彼女を何度も手に入れようとしても彼女は僕を避ける。男なんかはイレーヌ様からみたら何の対象にもならないのでしょうね。貴女も!」
私は走り出して男から逃げた。
薔薇の薫りが舞う。廊下でも、どこででも。狂わせてくるような薫り。
走っていく。この薫りにイレーヌは包まれ続けたの? そんな、嫉妬を駆り立ててくるような濃厚な薫りとは到底思えない。大人だけれど、もっと自由で、そしてその果てでなら寄り添えるような、そんな薫り。
私は立ち止まり、その薫りに包まれたままたたずんだ。そして生けられた薔薇を見ると、ソファに座ってその薔薇を見つめた。
その薫りに包まれていたら、私の目から自然とぽろりと涙が落ちていた。
「お待ちください」
男も追ってきて、ここに来た。
「………」
男は薫りに包まれながらやってくると、薔薇を見下ろした。
「この薫り……」
私は一輪手にすると頬に寄せて目を閉じた。涙が花弁を流れていく。
「当初、イレーヌ様に出会ったときに彼女が手にしていた薔薇だ」
私は薔薇を見つめてからなにかを納得して、男を見た。
「あなた……イザベラのところから去りなさい。きっと、あなたは彼らとは性質が違うのよ」
男はしばらくしてから静かに相槌をうって視線を落とした。
「イレーヌ様はあなたとこの薔薇をともに愛でたかったのでしょう。それをイザベラ様に阻害され、それでも命からがら逃げてきた」
私の理由の分からない涙の理由は、それなのかもしれない。イレーヌが少しでもイザベラに心がいったのではないかだなんて、そんなことは一瞬たりともなかったんだわ。
そして、そんな些細なイレーヌの隠された心さえも覚えていたこの人は、きっと悪いばかりの人ではない。イザベラに狂わされただけ。
「離れなさい。今のうちに」
私は薔薇を一輪彼に持たせた。
「しかし。イザベラ様ともう一人の男は魔物のようなものだ」
「ええ」
「許されるならば、僕があなた方を守りましょう。ここを離れることになるかもしれないが」
「けれど、あなたはイレーヌに恋をしているわ」
「見て分かったのです。イレーヌ様はあなたにしか愛をおいてはいない」
「保証はできないけれど、でも今の時点では」
私は部屋を見回し、壁際の台の引き出しから短剣を出した。そして、男のところへ戻った。
「あなたがイレーヌには手を出さないことを、私に誓いなさい」
私は男に短剣と薔薇を差し出した。
男はそれを見てから私を見て、それを受け取り、クラシカルな鞘を落とした。
男は指を傷つけ、深紅の薔薇に彼の血が滴り落ちた。それは花弁を流れ、茎を伝って私の手に落ちた。
私の血に塗れた手を取り、男は口付けを寄せた。
「……お嬢様」
薔薇の薫る……その目覚め。
あの場所から離れて、海の見える別荘にやってきて一年が経過している。
イレーヌの吸うvapeのスイートローズの薫りに、潮風が混ざる。いくらでも形を変える薫り。潮騒と、心地よい海鳥の鳴き声。
私はベッドから起き上がった。
籐椅子の向かい合う窓際では、イレーヌとあの男がいる。いつものようにガードマン兼私の徒然な話の相手をさせられている男、アラン自身の話を、なあなあに聞き流しながらvapeのアトマイザーを組み立てている彼女。
爽やかな青い空が眩しく彼らを囲っている窓際。いつでも、「ふーん」「あっそう」とか、「へえ」「ふうん」しかイレーヌは言わないのに、イレーヌの欠伸もものともせずにアランは話している。私がアランに取りとめもなさすぎる内容を話すときのように。
私はくすりと微笑んで、枕に頬をよせては、しばらくはそんないつもの朝の風景を眺め続けた。
彼らの髪が開け放たれた窓の潮風にそよぐ。その風は私の頬をも撫でていった。そんな、初夏の一日。
2017.7.19
森の底
心地のよい音。
耳を掠める、いいや、その音に包まれているらしい。
私は意識がはっきりしてきたなかで、うっすらと目を開いた。
「………」
思いのほか、眩しい場所だった。視野の全体がゆらめいている。音の正体が目を開けたことでわかり始めた。それは、ここが水中であるということ。
水面の先には木々の緑が風にゆらめき、水色の空を飾っている。私のいる場所は、泉だろうか、鮮やかな水藻が柔らかくそよいでいて、銀色の小魚が身体を光らせ泳いでいく。透明な水面の先には小鳥がはばたき、まるで小魚と小鳥がともに踊っているみたい。
なぜだろう? 苦しさは感じない。ただただ心地よさを感じる。こうやって、水に包まれているというのに。はっきりと耳元や素肌を撫でていく気泡の音がする。
私は微かに首を右横へむけた。視界には、細かい砂を巻き上げて湧き出る水。そして光りの柱で描かれる白い絵が砂の上を流れていく。小魚や水面の鮮明な影も。そして私は、それらの水底に刻まれる溝に身体を横たえているみたいだ。
どうしても、私は自身の身体を見回すことはできない。ひと特有の長い手足も、水中では揺らめくであろう私の髪も見えない。ただ、四肢を動かせないだけだろうか。
だっという音に私は水面を咄嗟に見た。気泡が数箇所で巻き起こっていて、それも落ち着いていくと、すると、それは数羽の水鳥が水面に着いて滑っていったのだとわかった。彼らの描く美しい波紋の四重奏が水面に折り重なる。
「ああ、可愛いな」
足を動かしてすいーと滑っていく。彼らは特に私に気づくこともないのか、気持ちよさげに泳いでいる。
「あなたは変わり者ね」
私は驚いて、首を声のした左横へ向けた。
そこには水辺の生物がいて、岩場にむす苔に咲く花の間に一生懸命透明の卵を産み付けては、前足で器用に膜で覆っていた。名前のわからない小さな生物なのだろうけれど、今の私には私と同じぐらいに見えるから、私自身の身体がそれほど小さくなっているのだと気づく。
「変わり者?」
「ああ、そうさ? オスにも見つけられないように、そんなところに隠れたりなんかして。砂のなかには私らは卵は置けないんだからさ」
私が、今話しているこの生物と同じ姿になっているというのだろうか。
蜻蛉なら水面の藻に卵を植えつけるのだったろうか。
私は夢想した。私が蜻蛉の卵として産み落とされて、そして孵って水中ですごし、そして時が訪れれば蛹から孵って羽根を広げ、あの天に羽ばたくのだ。それはのんびりとした日差しのなかでも、草花の間も、それに、優しげな夕日のさす時間にも。
もしかしたら、この泉から見える山の稜線も望めるのかもしれない。それは、生命の神秘を感じた。この泉の澪から、山の稜線まで情操は羽ばたけるのだ。
ここよりも深い木々の先には、朝陽が昇る連峰が空に影をつくる。
私はそれが蜻蛉の目でならば、どういう風に見えるのだろうかと思った。世にも美しい万華鏡のような世界なのではないだろうか。一枚一枚丁寧に繋ぎ合わされたかのような。色があっても、わからなくても、それが蜻蛉の世界。軽やかに薄い羽根を広げ透かして飛び、緑の世界をゆく。
私は夢想から目をひらいた。
横を見ると、すでに生物は卵を産みつけ終わっていた。背中に気泡をつけているのが見える。細かい気泡が光って足などにもついている。その生物は苔の岩を伝ってこれから水面に上がるようだ。一度身体ごと振り向いて、私を見て来た。
「まあ、ぼちぼちね」
「あ、はい……」
言い残して歩いていった。
とはいえ、私の場合は実は動けない。なぜだろう。もしかして、心を借りているだけなのだろうか? 本来の今のこの生物の身体は眠っているのだろうか。砂にちょっと埋もれてみて遊びたい気持ちだったのだろうか。いや、もしかして動けなくなっているのかもしれない。
そこで、私は自分に念じてどうにか身体をこの水底から動かしてみようと思った。ただ、どうやれば手足が動くのかはわからない。どこに意識を持っていけばいいのだろう。とにかく、一度暴れてみることにした。顔は動くのだから、いけるかもしれない。
まず、首を振る。水にいるから抵抗があってゆっくりと動く。
「あら」
そのたびに、砂が視野の横に巻き上がる。これはいけるかもしれない。
小魚が私を見つけて、口をぱくつかせると身体を返して向こうに行くかと思われた。けれど、あのひらひらとする透明な尾ひれで砂が大きく巻き上がった。そのことで、私の半身にかぶさっていたのだろう砂が、さらさらと解かれるかのように落ちていった。
一気に身体が軽くなる。すると、自然と私の身体は湧き上がる水にぽこぽこと押されてどんどんと水面へ近づいていった。これまで、どうやら湧き水の発する気泡に口元だけでも包まれていたから、苦しさを感じなかったのかもしれない。
ゆらゆらと昇っていくうちにも身体を水藻がなで、魚の泳いでいく流れに揺られ、そしてどうにか水藻につかまった。
やっぱり、私の伸ばした手は、話しかけてきた生物と同じだった。他の手足でも藻を掴むと、身体を柔らかな藻が包む。黄緑の世界だ。その先に、純度の高い泉の世界が広がっている。
「美しい世界」
私は藻を伝って上へと歩いていく。
すると、水面に出てきた。顔だけを覗かせて、眼下に広がる水面の世界は、向こうに水鳥が滑っていたり、今飛び立っていってこちらまで波紋が来て私の小さな身体を揺らしたり、木の葉が滑っていたりしていた。
「あら」
仰ぐと、さきほど話しかけてきた生物が羽根を広げて空を羽ばたいている。もう向こうへ飛んでいった。
心が人だからだろうか、彩の世界は、泉の外にも広がっていた。泉を囲う木々の遥か向こうに、やはり見えたのは山々の連なりだった。
私はそこまで飛んでいきたくて、思い切り羽根を動かそうと思う。
ぴちっと、雫を跳ねさせて私は飛んだ。水が流れ落ちて体が宙に浮かび上がる。そして、不安定だったのが一気に体勢を立て直して高くまで飛んでいた。
起き上がって、私は何度も瞬きをした。
「……?」
あたりを見回す。
そこは真っ暗い場所で、そしてあたたかかった。
横を見ると、暗がりで何もわからないけれど、誰かの鼓動をすぐそばに感じる。ふわふわとしたその誰かは、先ほどまでの自分のように眠っているようだ。
ざあ、かさかさかさかさ
木々の風に揺れるさわめき。私たちの身体を風が撫でていく。
寄り添う誰かが身体を動かして、もっと身を寄せ合った。ふわっとする。もぞもぞと動くと、何かが私の背中を撫でていってまた離れていった。
私はそのことで安心をしたのか、だんだんと深い眠りへと誘われていった。
「ピピピ ピピ」
目覚めは、いつもの小鳥たちの歌声。薄い瞼を透かす淡い光りに、私はその瞼を持ち上げようとした。
しかし、どうやらその瞼から覗く視野は、上からじょじょに見えていく。眩しさに目を一度細めてから、しっかりあけると、そこは森だった。
あたりを見ると、そこは木の幹や葉枝に囲まれたところだった。
「ピピ ピ おはよう」
後ろを振り返ると、そこには美しい小鳥がいた。愛らしいつぶらな瞳で私を見つめている。そして、くちばしを近づけると、私の背中や頬をそのくちばしで撫でた。
ああ、昨日はこのくちばしで夜に目覚めた私の背を撫でてくれたのだ。
「おはよう」
その鳥は頬をふわつかせた。微笑んだ、のかもしれない。
「さあ、行こう?」
鳥が枝から飛んでいき、私は反射神経でその枝から葉を揺らして鳥について飛んでいった。羽根を一生懸命ぱたつかせて、空気を羽根でおすかのように。
朝日はまだ上がりきってはいないようだ。淡い光りが、天を包んでいる。遥か向こう、ぼんやりとした先から光りややってくる。そして、私たちの背後はまだ夜を薄っすらと引き連れて淡い群青だ。上品に光る明けの明星と、細い細い白月。
見下ろすと、私たちのいたのは山々の頂のあたりだった。
他の小鳥たちも朝日を待って空を羽ばたく。
遥か向こうの森に、見つけた。木々に囲まれた泉。
稜線から澪まで、今ならばわかる情景。
これは魂が漂流して、見せてくれているのだろうか? 私はオスの鳥とともに囀る。その囀りは天空に響き渡り、他の小鳥たちと朝の音楽を奏であった。
2017.7.29
闇の森のメリーゴーラウンド
森をランタンを手に歩く瑠璃色のビロードドレスを着た少女。黒いシューズにランタンの明かりが跳ね返り、足元の白い猫は警戒をしながら白いタイツに尻尾を絡め歩いている。調子外れた音に、ランタンを掲げると白いカラーの首筋についた黒のブローチ帯に鮮明に古めかしいランタンが映る。少女の青い瞳は森のさきの何かを捕らえた。
それは、木々の間から見え隠れする彩り。こんなに深い夜の底で、何があるのだろうか。薔薇色の頬は淡く染まる唇とともに震えた。森の先に、誰かがいた。それは、向こう側からの明かりで黒いシルエットになっていたけれど、少女がランタンを掲げて照らすと、ありえない状態で立つ人だったからだ。
真っ白い人で、首のところがジッパーになってぱっかりと開き頭部が向こうに倒れ、そして男のバレエダンサーのように立っている。その首からまるで夜が再び生まれるかのように、水色から青、そして群青がヴェールのように広がって行き、黄金の星がきらめいて、鴉たちが羽根を広げて首のあたりから飛び立っていった。
少女はひらひらと数枚降りてきた黒い羽根を拾い、男の人を再び見ると、あの切れた首は普通に戻り、そこにはゆったりした金髪の憂いげなバレエダンサーが立っていた。格好も、黒のタイツを身につけ、首からはジッパーの変わりに懐中時計を首にぐるぐるに巻き下げている。アンティークなレリーフまでもがくっきりと明かりに照らされていた。肩や横に掲げた腕に鴉が全て止まり、ダンサーがふっと腕をなびかせると途端に腕が黒の羽根と変わって男は自らが作った明るい夜へと飛び立った。
猫が少女の腕のなかに駆け上り、少女はランタンを持ち替えて上目になって森を見る。
歩いていくと、木々の先の明るいものの正体が分かった。
それが調子外れた音を立てていた、壊れかけたレトロアンティークなメリーゴーラウンドだった。ぎこ、がが、と音を立てながらも欠けたり塗装の剥がれたところがある木馬は上下していて、旋律だけはえもいわれぬ美しいオルゴールはクリスタルを打ち鳴らしているようだ。ぱん、ぱん、と時々、ぎこちない音色に拍車をかけるシンバルの音。少女は木馬で回転してきた猿が小さなシンバルを鳴らしているのを見た。猿は木馬に背に、または支柱に足でつかまっては跳ねてシンバルを鳴らしている。
また回転していき、少女はびくっとして木馬に乗った女の人を見た。それは丁寧に波打つ金髪が広がり、赤黒い唇の上の目元が包帯で隠れて血で濡れ、丹念な黒のレースワンピースドレスで木馬にまたがる女性で、鳥篭を大切そうに抱えて頬を寄せているのだが、そのなかには美しい尾を持つ鳥と共に、見たことの無い黒い花が咲いていた。それは、鳥篭の底に沈んだ、いくつかの青や緑の目玉とか、切り取られた耳や心臓から芽吹く花。それらを、上部に停まる美しい鳥の尾で飾られていた。前髪の下の目元は見えないし、耳も隠れているが、女性のものなのだろうかと、少女は不憫に感じて猫を抱えて走っていった。
その人は、ゆっくり回転するメリーゴーラウンドとはまた違う歌を小さく口ずさんでいるようだった。
「月は沈まぬ 沈まぬ永久に ここは常夜 いずれ星が挙がる 薔薇も枯れぬ」
だが、近付いて見上げた途端、その女性は見るまもなく血肉を消失させてがらがらと崩れそうなほどの骨となった。心臓は鳥篭のなかでどくんどくんと脈打ち花の血水となり、鳥はなおも美しく彩る。輝石のような目玉を飾り。少女は驚いて口を押さえると猫が足元に降り、ランタンががしゃりと落ちた。鳥篭の心臓と目玉はハートのクイーンとダイヤのトランプカードへと変わり舞い、鳥が籠から放たれて飛んでいった。ふっと瞼を閉じ開くと、そこには元の女性がいた。そして、緑と青のオッドアイの瞳で少女を見つめ、レースのグローブの手を差し出した。少女は猫が足元に絡まるので、見上げただけだった。
「薔薇は枯れぬ もう星は挙がった ここは常夜 けれど 月は沈まぬ 安心をおし」
まるでその言葉が頬を撫でるヴェールのように優しくて、少女はゆらゆらと眠りの淵へと誘われた。
2017.10.24
僕の街’sブログ
お願いします。
町並みは今日も夕暮れ時だけは優しい。
いつもはそ知らぬふりをして立っている街角のおじさんだって、黄昏に染まってどこかいつに増して世の侘しさをたたえて思える。
僕が古い喫茶店を出て、重いパソコンの入るバッグを肩にかけてとぼとぼと歩いていくと、そのおじさんはいつも一瞥もくれずに微動打にもしない。僕は毎回ぴょこんとえしゃくをして通って行った。なぜなら、深く刻まれた皺には若者の抱える固有の悩みさえも淘汰してきた歴史が刻まれているだろうからだ。
自分にはその年齢までしっかり歩んでいける自信など、これっぽっちも無い。僕は背筋を丸めておじさんの横を通り過ぎて、ふと肩越しに振り返ると、変わり無くいつでもそこに佇んでいる。
若者は大いに悩めば良いのだと、無言で背中を後押ししてくれているように思うのも、僕自身の勝手な思い込みで、おじさんに僕自身を重ねただけのエールに過ぎない。それでも、知り合いのいないこの町で僕はそうやって誰がしかに何がしかを投影しながらでも生きて行かなければ、心寂しくて野たれてしまいそうだから。
それでも、夕暮れの空は優しい。時にカラスの鳴き声さえも、僕にはのんびりとして聞こえる。
「あの、お客さん」
ドアベルの音と共に聴こえた声に、喫茶店を振り返ると、お店のお姉さんが急いで走ってきた。
「席にコードをお忘れでしたよ」
「あ、ごめんなさい。いつもはしっかり確認するのに」
携帯を充電するコードを受け取った。いつも土日は原稿を書くために立ち寄る喫茶店だ。
僕は赤らめる頬が夕日で隠れていてくれと願った。緋色に染まった彼女を初めて見て心がときめいたのだ。こんなに美しい人だったのか。いつも原稿を書くのに必死で、コーヒーを受け取るときも「ありがとうございます。ここに置いてください」と言って、顔を上げずに画面とにらめっこしてきた。会計もほぼ声しか聞いてこなかった。
「ふふ」
僕は瞬きして、お姉さんの背後にいる例のおじさんを見た。初めて、笑った声を聞いた。おじさんはとても優しげな、和やかな横顔をしていた。
そのお姉さんが僕の見た背後を振り返って、また僕を見た。
「何かあったんですか?」
「あ、いえ」
いつもおじさんの横を無言でうつむいて歩く僕があわくっているから、その青二才の心でも見透かしたのだろう、僕は照れて頭をかいた。
「誰かいたんですか?」
「………」
僕は目をまんまるにして、お姉さんからおじさんを見た。そのおじさんは、「わはは」と顎をあげて笑った。そして、一瞬山の稜線に飲み込まれていく夕日の眩しさに目を細めた次の瞬間、そのおじさんは見えなくなっていた。
「え、あれ?」
お姉さんは僕と背後を何度か見てから、首をかしげた。
「もしかして、ここの古アパートの幽霊でも見ました? 私は霊感が無いけど、うちの店の子もよく怖がって辞めていくの」
「早くお店に戻ってきて!」
喫茶店からオーナーのおじさんが顔を出し、お姉さんは慌てて「はーい!」と言った。
「ごめんなさい。仕事があったのに。これ、ありがとうございます」
「いいのよ。渡せて良かった」
お姉さんはやはり綺麗に笑って、小走りで店に戻って行った。
しばらくぼうっとその喫茶店のドアを見ているうちに、空は暗くなっていった。
ぶるっと震えるほど寒くなって、突っ立っていた自分に気づいて腕をさすった。暗がりになって、今度は街灯に照らされたあの角を見た。
もう誰もいない。
思ってみればおかしな話だった。会社のある日も電車から降りてまっすぐ帰宅するときも見かけたおじさん。土日に喫茶店から出てきても見かけたおじさん。ずっと立ち尽くして、ただただ往来する人々を静観していた。
「原稿に書いてみるかな」
<わたしの街’s ブログ>のサークルの新しい原稿の内容になるかはまだ分からないけど。
この社会人サークルも、何の趣味もなければ友人もいない僕が、ネットで見つけて加わった自分の街を紹介するブログの集まりだった。
やっぱり特徴のない僕の書くブログはどうもぱっとしなく、いつも落ち込んでいた毎日だった。
だが実際はどうだろう。顔を上げてみれば、おいしいコーヒーの喫茶店には綺麗なお姉さん、実は幽霊だったかもしれないおじさんの佇む角の建物は、古い煉瓦作りの味わいあるもので、この道のマンホールも独特の変わった趣向を凝らしたものじゃないか。街頭も実は洒落たつくりをしている。振り返って町を見てみれば、明かりの灯り始めた店は夕暮れの優しさを引き連れて、ランタンや灯篭が和みを与えている。
街紹介のブログは地域愛のためにも、果ては自分探しのためにもなるのかもしれない。
僕はバッグを抱えなおして、初めての洋風居酒屋に入ってみることにした。珍しく、新しい出会いと笑顔を求めて……。
2017.11.22
トカゲの曲
トカゲの曲
髪がさらりと風で翻り、私の顔に優しく触れた。
私は視線をそのロングヘアの女性に向ける。ケヤキの黄緑がよく映える静かな町並みに、その女性はとてもマッチして思えた。
「ごめんなさいね」
女性は振り返り、信号待ちをしていた私にあのストレートヘアを耳にかけながら言った。
「いいえ、いいんです」
私ははにかみ、小さなバッグの取っ手を両手でしっかりと握った。緊張気味にはにかむと、私はまた地面を見る。
素敵な女性だ。真っ赤なルージュが、奔放な装いの彼女にはよく似合っていた。黒い細身のパンツから真っ白い足首が眩しく覗く。そしてクールなヒールが太陽の光りをうけて光沢を放っていた。
私はもう一度、彼女を見ようと思った。
そろりと視線を上げる。真っ白い腕はしっかりしていて、さらさらと長い髪が撫で、見え隠れしていた。
「トカゲ……」
つぶやいていた。彼女の上腕に彫りこまれたタトゥーは、ブラックリザードだった。
素肌の見える背中で紐を交差させて結ばれて、片方の肩に流した髪はなおも光りを透かしながら風に揺れる。その先の明るい町並みも、木々も、移動し始めた車も透かすように……。
「ちょっと、大丈夫?」
私は額に手を当て、ふらついて倒れかけたのを支えられて小さくうなづいた。
私は一人ではなくて、友人が横にいた。友人の部屋から町に散歩に出たから。
「昨日はやっぱり飲みすぎたんじゃないの?」
「ちょっとね。ごめんね。ありがとう」
「やっぱり戻る?」
「いいの」
私ははにかんでから顔を上げると、ドキッとして斜め前を見た。
「調子悪いの? あなた」
先ほどの女性が私を見ている。自然と、Vネックに開かれた黒いノースリーブの胸元に視線が降りたけれど、薄手の白いインナーで見えなかった。それは背中には見えなかったから、その服に縫い付けられたデザインらしい。
「大丈夫です。飲みすぎただけ」
「ふうん……」
私は女性の大きな目を見て、視線をそらして心音が体に駆け巡るのを抑えられずにいた。
「青よ」
友人を見てから「ええ」とおぼろげに言った。
ここは北南車両、東西車両、歩行者で通行が分かれているために、時間がかかる。それは、あの女性を見るに充分の時間があるということでもあった。
「あたし、良い二日酔いの薬知ってるの。ちょっと行った先の個人店なんだけど、一緒にこれからどう?」
その女性は私たちに微笑み、私は彼女を見てうなづいていた。
友人と私は、彼女の住む部屋に来ていた。そこは友人の住むマンションの近くで、その女性の営むエキゾチックハーブティーショップの二階だった。
その店は路地裏にひっそりとあって、今まで私たちでも気づかなかった。
その店が先ほど彼女が紹介した店のことで、二日酔いの薬は何種類かのハーブを煎じたものだという。
「あなたたち、名前聴いてもいいかしら。あたしは加野ライア」
「ライアさん、ハーフなんですか?」
「ええ」
「私は木野実(きの みのり)です。彼女は友人の真谷ほのか(まさたに ほのか)」
「私の部屋がこの近くにあるの」
「なるほどね。よろしく。飲んでいたって、この辺りだと<月光>?」
「ええ」
ライアさんがハーブを煮出したカップを目の前に出してくれた。あのルージュの唇が、弧を描く。私は胸を高鳴らせ、そしてほんのりと頬を染めた。彼女の腕に刻まれたトカゲがまるで笑ったように髪に撫でられる。
ライアさんはほのかには違うハーブティーを出した。それはさきほどほのかが飲みたがっていたワイルドストロベリーティーだった。
ライアさんはテーブルの端のレコードをかける。
それはピアノ曲だった。ゆったりした風で、美しい旋律は不思議と頭痛を起こさない。
私たちはそれを聴きながら窓のそとの明るさを見ていた。
「あたし、一度部屋に戻るわね。午後の水を花にあげてくるわ」
そう言ってほのかがドアから出て行った。
ライアさんが途中でレコードを止めて、私はふと顔を上げた。五曲目が終わった辺りだった。
「ああ、三曲目は激しい旋律になるから。レコード変えるわ」
私はレコードを持ったライアさんの手首に手をかけていた。
「………」
ライアさんがふと私を見た。
「それを聴きたいの」
「けれど、頭痛が残っているんでしょう」
多少ためらい気味に彼女が言ったけれど、私はその目をじっと見上げていた。
「心が落ち着くの。この演奏……」
椅子に腰を戻して、手を離した。
「ありがとう。私が演奏してるんだけど、そう言ってもらえるとうれしい」
「ライアさんが? それなら、なおさら聴きたいわ」
「え?」
私は自分で何を言っているのか、理解しながらも実際に言ってしまったことに勢いがついて、口から止まらずに出てしまった。
「お願い。六曲目を聴かせて。それか、その指で聴きたいの。あなたの奏でる曲を」
指から、手首を、そして上腕のトカゲに視線が行って、彼女の目を見た。
トカゲの曲……。彼女の奏でる曲をもっと聴いていたい。彼女の内なる激しさがクールな装いから溢れ出すのなら、その一瞬に包まれたい。
私は立ち上がって、彼女の上腕に手をかけて顔を近づけていた。
「………」
顔を真っ赤にしてうつむいて、また座った。上腕から手を離せないまま。
「え? ライアさんの部屋に? そう、意気投合したのね。じゃ、今日は夕食は一人分でいいみたいね。私、これから輝くんと出かけるんだけど、合鍵は大丈夫よね?」
「うん」
電話を切ると、私は振り返った。
ライアさんはキーボードの前に座っている。窓から射す月光だけが影の世界を白く世界を浮き上がらせた。静かに流れる黒髪も照らす。
ライアさんが小さなボリュームで旋律を奏で始める。
私はソファ背もたれに腕と頬を預け、聴いていた。
静かに流れる時のなかで、心落ち着く旋律が空間をゆったりと流れ、私の体から入って、透き通った闇の水底に沈んでいく感覚。私の体を美しくするかのような。
「恋をしてしまいそう」
口のなかでつぶやいた。こんなにもすぐに人を好きになっているのかもしれないのだなんて。それでもこの胸の鼓動は美しい音を奏でて、ライアさんの旋律と調和を生んで思える。
次第に、曲調は変調を迎えて激しくなっていく。それは、まるで大地を撫でるかのような風。暴風のようなそれ。ざわざわと森の木々をゆらして、きっとトカゲはその間で耐えている。
耐えている。
激しく腕を振り奏でるライアさんがその白い指を上げ奏でが終わったころ、爪の先に月光が落ちて、私は涙を流していた。
まるで、蜘蛛の巣にかかったかのように、いいえ。トカゲに掴まれた蛾のように身動きできない身体は強張って。
そのライアさんの手が乱暴にキーボードに振り下ろされ、きっと彼女が私を見た。
立ち上がったライアさんが私の手を引っ張って引き立たせた。
「!」
仄かな記憶だったルージュは、その花のような芳香をまとった。唇が離れていった。
「耐えられない」
ライアさんが言った。私は髪を撫でられて、そのあまりの手指の優しさに、涙が止まらずにいた。
私はライアさんの背に手を当て、肩に頬を乗せた。
目を閉じると脳裏に残響が渦巻くみたい。髪を撫でるライアさんの曲。私を掴んだトカゲの曲が。
心は雁字搦めにされて、ずっと底へとゆるやかに降りていくみたい。そのまま包まれていたい。柔らかな体に。そっと天井から降りて優しく頬に触れて包まれるかのような。
目を開けると、羽根を広げたような髪が私をも包んでいた。
安堵としていた。目を閉じて、微笑んだ。
<月光>
ドアベルを鳴らしながらライアさん、ほのか、輝くん、私の四人で店に入る。
ここは近場の洋風居酒屋で、この辺りにいる外国人もよくくる場所。
今は港にヨーロッパから渡ってきた船が寄港しているから、その乗客の彼らもいるし、元からこの町には多い。
「へえ。もともとライアさんも家族で日本に来た人だったんですか」
ほのかの彼の輝くんは、すでにほのかと他の場所で飲んできたらしくて多少酔っている。
輝くんは私たちよりも三つ年下で、ライアさんは二つ年上の二十六ということで、美人な大人の女性に輝くんは上機嫌だった。
「客船とかでは無いんだけれど、船に乗って十歳のころにね。親の友人伝いで部屋を見つけて、数年前にこの店を引き受けたわ。親はまた母国に戻ってる」
「どちらかが日本人なんですよね?」
「母がね。親戚は他の県なんだけれど、もともと海外留学のままその国で結婚をしたのよ」
輝くんがライアさんの横の私を見た。
「今日は静かだね。実さん」
「え、あ、そうかな」
「ふ、昨日飲みすぎたんだからあまり言わないであげてよ」
ほのかが輝くんの腕を叩いて止めた。私はお酒を飲むと頬がすぐに染まりやすいから、それい紛れているだろう。
「ライアさん、<月光>であのシンセ、弾かないの?」
私がこの店に来る前に二人に曲のことを言ったから、二人も興味を示していた。このお店はよく演奏ライブを行う。
「ライアさんに今まで会わなかったなんて」
「ああ、<月光>に来るときは二階の個人席に入ってたからね。人に演奏を聴かせようということも今まで思ったことも無かったし」
「俺も聴きたいです」
「無理は駄目よ。輝くんってわがままなの」
「まあ、そうね。店の都合が良ければ」
「ここは演奏会が無かったら結構自由に弾いてOKだから、酔いに任せた人たちもよく弾いてるし」
「確かにそうね」
輝くんがライアさんの背を押す形でシンセサイザーの前に行かせようとすると、私は離れたところにいる男の人を見た。視線に入ったからだ。その人が向こうから歩いてきたからなのもあるし、雰囲気的に何かの感情をまとっていたから。
ライアさんが口を閉ざしてその人を見た。その男の人がライアさんの前まで来ると、私は咄嗟に体が動いて背の高いライアさんの腕にしがみついていた。その外国人の男性を見上げる。
「ライア。やりなおそう」
その人が日本語で無い、スペインかどこかの言葉で何かを言った。
ライアさんがそれに返して、首を振っている。私の肩と腕を持って身を返したけれど、男の人が彼女を振り向かせた。その男の人は横にある花瓶から美しいカサブランカを一輪抜き、彼女に差し出した。
「あなた、二年も前にいきなり一人で旅に出たんじゃない」
「忘れられないんだ」
ライアさんが首をまた横に振って、席に戻った。
「ごめんなさいね。店を出ましょう」
「でも」
「いいの」
ライアさんはテーブルにお金を置くと私の手を引いて、ほのかと輝くんも戸惑いながら店を出た。
男の人は追ってこずに、大きな窓の店内を振り返ると、他の友人たちに苦笑まぎれに慰められていた。彼は肩を落としてカサブランカを見つめている。
私は胸が痛んでライアさんの横顔を見上げた。月光が彼女の瞳をぬれたように光らせる。
私が現れなければ、ライアさんは彼とよりを戻したかもしれない。
私はライアさんの手を振りほどいた。
「実」
「いいの? 彼、ライアさんを迎えに来たかもしれないのに」
ライアさんの顔色は、白い月光に染められて色味が分からない。
私はうつむいて、足元を見た。
「今は答えは出せないよ。いきなり過ぎて」
暴風のような心。それを冷静なライアさんは秘めている。あのトカゲのように、じっと嵐を待つかのように。
「ライアさんと?」
ほのかは私の親友だ。中学のころから、何かとのんびり屋の私の世話をなにかとしてくれる、同年でもお姉さんのような存在だ。何かあって泣いてやってくると相談に乗ってくれて、いろいろな所に連れまわしていつの間にか笑顔にしてくれる。
「きっと、柄にも無く一目惚れだったのね。だから、パウロさんが一ヶ月前に現れてから、やっぱり私は身を引いたほうがいいか、そのままライアさんと一緒にいたいのか、どうすればいいか分からない」
「好き……なんでしょう?」
ほのかは私が恋愛というものに対して疎いことを知っていた。高校で告白されて付き合ったけれど、どうしても好きになれずに別れたいけれど、どうしたらいいかという話も聞いてくれたことがあった。
「実がはじめて好きになれた人とのことだから応援したいけど、パウロさんが何でライアさんを置いて旅に出たのかは、まだ分からないの?」
「パウロさんは彼女のお店に来て、お花とかを置いていくだけで、直接は言わないから」
「ライアさんはどうしたいのかしらね」
「聞くのが恐いわ」
私はうつむいて、膝を見つめた。
ほのかの部屋から戻ると、私は咄嗟に口に手を当てた。ライアさんの部屋のドアを開けると、ライアさんがキーボードに顔をふせっていた。
「ライアさん?」
すぐに駆けつけて、背に手を当てた。
「何でもない……別れを告げただけ。彼ね、他の女と旅に出ていちゃったのよ。風の噂で聞いていたの。そんなドンファンな人だと、安心出来ないでしょ……」
くぐもった声は、ライアさんが顔を上げたことで明瞭になった。
「今は、実のことしか頭に無いの」
ライアさんが立ち上がって私を引き寄せた。
私はうなじに顔をうずめた。
宵も深まる頃、聴いたことの無い旋律をライアさんが奏でた。
「美しい曲」
「野に咲く花が実ったような……そんな小さな悦びを実に送りたかったから」
そんなライアさんの微笑み奏でる横顔が美しくて、私は、ただただ足から上る幸せに身を包まれて、笑顔でうなづいていた。
夢のさき
旋律が聴こえる。
それは、心の落ち着くハープの音色だと気づく。
涼しい風が通り過ぎたことで、私は目を開いた。どうやら、これは夢のようだ。おかしい。こんなにすぐに夢を見ていることを自覚するのだなんて。そう思いながらも、暗がりの森を見渡した。
肌寒い薄手のワンピースを着た私は、自身の格好を見下ろすと腰にベルトのように巻かれた黒いスカーフをほどき、広げて肩からそれをかけて歩き出した。
よく人が多く出てくる夢を見る。そして走り回って疲れ果てて目を覚ますのだ。だから、時々見る暗い夢や、一人しかいない夢は、逆にありがたいのかもしれない。
現実の森ならば、きっと歩くこともままならないほどに闇に占領されていることだろう。けれど、この夢の森は自分の目があるていどきいており、木々の輪郭が読み取れた。
ハープの旋律を追い求めるように、導かれるように、奥へと行く。
「!」
しばらく歩き、背の低い木に指を触れ合わせた途端、鳥が鋭く鳴きながらはばたいた。私は手を引っ込める。鳥を驚かせてしまったと上空を見上げてから、ぎくぎくする心臓を押さえながら再び視線を前方に戻した。
その木の先に、誰かがいる。それは若い金髪の男の人で、黒いベストの背をこちらに向けていた。ハープを爪弾くのはその彼だった。白シャツの捲し上げられた腕先、指は弦を弾き、とても神秘的な音を奏でている。
私は茂みから出て歩いていった。ただ、近づいても大丈夫かしら、とも思っていた。なぜなら、旋律に惹かれはするけれど私は男性が苦手だから。
静かに歩いていくと、私の気配に気づいてか彼は肩越しにサッと振り向いた。驚いた顔をしており、私はまず彼の青く透き通る瞳が印象的だと思った。
品のある顔立ちをしていて、見たことのない人だった。どんどんと顔の印象が曖昧になって行く。私は首をかしげ、目をすぼめた。
「……え?」
その刹那、ハープを奏でていた彼は目の前からフッと消えてしまった。
なぜ? どこ?
私は見回し、けれど視線を下方に落とした。彼が先ほどまで座っていた場所を。
そこには、ジャスミンの低木があった。木々に囲まれた小広い場所に。
途端に私の鼻腔をエキゾチックな薫りが充たした。それは暗がりに純白に花咲くジャスミンの薫り……。
まるで酩酊の底に沈んだかのように、私の身体は重くなり、意識は花の薫りの風に吹かれるままに遠のいてゆく。
私は頭痛と共に目を覚まし、身体を肘で支えてあたりを見回した。
そこは自宅の庭だった。すでに夜で、先ほどまで見ていた夢の続きなのか、現なのかが分からなかった。けれど、これは確かに夢からの目覚めなのだと分かった。なぜならそれは頭が痛いから。
顔を上げると、ジャスミンの花がここまでしなやかに枝垂れていた。
「ああ、この薫りは」
思い出したわ。あまりにも窓から薫ったジャスミンが素敵だったから、外に出てそれを愉しみながらすごしていて、つい眠ってしまったのだと。
「あの青年は、ジャスミンの薫りが人になったものだったね。きっとそう」
ハープの旋律、この上品な薫りは、夢で見た通りの美しい印象……。
ラクアのハート
ピタノが山羊乳を搾り終え、花と草が揺れる丘を振り返った。
爽やかな風はピタノのさらさらの金髪をさらい、白い頬を陽が照らすので、つい少女ラクアは頬を染めた。
ラクアは木の後ろから走ってやってくると、腰まで届くみつあみを揺らしてピタノの横に座る。
「チーズ、作るの?」
「うん。カリーニョさんに今、乳を絞ったよと言ってきてほしいんだ」
ラクアは笑顔で頷き、草原を犬と共に走っていった。牧羊犬は長い毛を揺らしながらラクアと駆ける。
ピタノとラクアは幼馴染みで、どちらもカリーニョさん一家にお世話になって二年目。ピタノは十歳で、ラクアは七歳だった。
ログハウスに来ると、ラクアはドアに入っていった。
カリーニョさんは奥さんのパキーリョさんと、二十歳の娘ケリーヨさんがいる。この牧場の主で、ラテン系の一家だ。何匹もの山羊をつれてここのあたりへやってきた。
牧場の横には花畑が広がっていて、それは染料にもなるので女仕事である花の染物をするのはパキーリョさん、ケリーヨさん、ラクアだった。羊もいるので、今は羊毛で織物もパキーリョさんから習っている。
「カリーニョさん。カリーニョさん」
男が振り返ると鍋を運んでいるところだった。
「ピタノが山羊乳を搾ったって」
「おうそうか。今からチーズ作ってやるからな」
奥ではパキーリョさんが窓際で刺繍をしている。その床ではラグの上に座るケリーヨさんが花にたくさん周りを囲ませて花びらを丁寧にツボに溜め込んでいる。花の香りがここまで届いた。
カリーニョさんがピタノのいつ野外へ歩いていくと、ラクアは頬を染めながら走っていき、パキーリョさんに耳打ちした。パキーリョさんは話に微笑みラクアを見てから、微笑んだ。
「じゃあ、教えてあげる」
夜、ラクアは月明かりにお祈りをしていた。
いつもの習慣である。
微笑むとベッドに戻る。そして今日習い始めた刺繍を見る。
それはまだまだ模様にもなっていない、花で染め上げた羊毛でさされたハート。ピタノにあげるのだ。
それを仕舞うと、ランプの火を絞って夜の色に染まった。
微笑んで眠りに就く。
夢ではピタノが星月夜に山羊に乗って空を駆けている。自分は草原で白い花に囲まれそれを見上げている。ラッパを吹くピタノ。村のラッパ吹き祭りで優勝したのだわ。
ラクアは手を振った。笑顔で。
小鳥は朝日が昇る前の薄明かりにしばらくして囀りはじめる。
その鳴き声で目を覚まして、朝の明ける前のゆるやかな陽に照らされるまぶたを開く。しばらくぼうっとしていたけれど、一言。
「ああ、また夢を覚えてない。素敵な夢だった気がするわ」
けれど気を取り直して起き上がると、また刺繍を出す。にっこり微笑んだ。
まだ霧煙る草原が窓から広がる。幽霊みたいに歩くケリーヨさんを見つけて走って行く。
はだしで歩くケリーヨさんは長い黒髪を背に流したまま、薔薇色の頬を霧に触れさせ、薄絹のネグリジェを湿らせている。
「あら。おはようおちびちゃん」
「おはよう。ケリーヨさん」
「朝は花の香りが露にのって、かおるのよ。朝日に一気に照らされる香りとはまた違った透明な香り。湿ってて、それでいて夜をまだ引き連れたような」
「素敵」
女二人で花畑へ行く。
「わたしね、ピタノが好きなの。だから、今、刺繍でハートを縫ってるの」
その花の素である花びらを撫でて言う小さな頬は、昇り始めて霧を裂く朝日に照らされ始めた。神聖な花の芳しさに囲まれながら。
「両思いだと、いいわね」
二人は微笑み合って、頷いた。
昼は二人で草原で花冠を作りながら過ごす。ケリーヨとラクアの恋話だ。
それが聴こえない丘の下方では、山羊達を集めて男二人が仕事をしている。今は昨日レモン汁と一緒に混ぜて安置してある山羊乳はチーズになるために分離している時で、まだ食べられない。
パキーリョさんが小屋から声をかけた。籠をもってやってくると、ピクニックのために三人で容易を始める。男二人もやってきて昼食の時間だ。
ラッパを吹くピタノ。リュートを奏でるカリーニョさん。妖精のように女たちが歌う。牧羊犬は駆け回った。
そんな日常は優しい陽射しが照らしている。
数日して、試行錯誤してパキーリョさんに習いながらもハートの刺繍ができてきた。
「糸を出来るだけ無駄にしないように、裏側でどこに刺すのが一番糸を節約できるかを考えるの。ここだと、この場所ね。それよ」
「刺繍ってけっこう難しいのね」
悪戦苦闘しながらもハートと、それに男の子と女の子、山羊の刺繍がハートを囲う。ハートは真っ赤。人と山羊は点線の刺繍。
「結構頭をつかうでしょ? けれど、慣れたらわりと大丈夫」
優しく微笑むパキーリョさんにラクアも微笑んだ。ケリーヨさんは後ろで今日もラクアの長い金髪を二つのみつあみに細かく編んでくれていた。
「きっとよろこんでくれるわね」
ケリーヨさんもウインクして、立ち上がると瓶から乳をコップに注いでくれた。
「さ。休憩しましょう」
三人はお菓子もいただく。ラッパの音色が微かに小屋の外に聞こえる。
「聴いた事がないメロディーね」
「ほんとう。ラクア。このあたりの民謡なの?」
「わたしも初めて聴いたわ」
きっと、ピタノが吹き鳴らしているのだろう。途切れ途切れ、間違ったり何度も短いフレーズを練習したりしている。
ラクアがドキドキしながら木の向こうからピタノを見た。
姿を現すと、走って行く。
ピタノは今日も山羊乳を搾っていて、水色の瞳でふとラクアを見た。
「ラクア」
「一緒に休憩しましょう!」
「そうだな。行こう」
二人は丘の上までやってきた。
ピタノは今日、無言だった。いつもいろいろ森の話や妖精の話をしてくれるのに。一方、ラクアも一言もしゃべれないでいた。緊張しているからだ。
物心ついた時から仲が良かった。一緒にブランコに揺られたり、一緒においかけっこしたり、ポニーに乗って森の泉に行ったり、一緒に教会に行ったりした。
ラクアはなかなかポシェットを開けられずにいた。まるで小鳥たちが励ますように囀っている。
おもむろにピタノが立ち上がって、ラクアは見上げた。水色の空を背にするピタノを。
腰にさしたラッパを手にしたピタノがそれを手に、そして緑の山にこだまするほどラッパを響かせた。あの数日前に聞こえたメロディー。
それは完成された曲となって紡がれて、ラクアの耳をとても楽しませてくれた。わくわくして、笑顔があふれた。
ピタノが吹き終わってラッパを提げて、ラクアを見て手を引き上げた。
「すす、好きだ!!」
ラクアは水色の目をまんまるに口を開き、ピタノを見た。紅潮したピタノを。
ラクアも恥かしくてもじもじしはじめ、足元の草地を見つめた。
「……ラクア?」
心配になって覗き込んでくる。ラクアはもじもじとしながら微笑み、ポシェットから何かを出した。
小さな手でピタノに渡されたそれは、ハートの可愛らしい刺繍がされていた。
みるみるピタノの顔が笑顔になり、そして二人は笑いながら草原を手に手を取り合って走っていった。
どこまでも笑い声が響き渡る。小鳥の声も加わって。
二人に気付いたカリーニョさん達は、微笑んで二人を見守った。
潮騒
ざらついた足裏の感覚をしばらくは楽しんでいたように思う。
朝陽を透かすまつげを閉ざしたまま、耳からは潮騒を、頬や腕には冷たい風を受け、髪が触れる唇は光り、微笑んでいた。
彼女が振り向きながら私を見たとき、影に入ったはずの彼女の瞳も光りを収め、私の心を奪った。
「砂にかかれた名前の記憶を、砂たちが憶えているのだとしたら、いったい何層も名前をその身に受けてきたのかしらね」
彼女が裸足で回転して、光るさらさらの砂に円を描きながら言った。
「そして風にさらわれていく名前は、波にもってかれる名は、地球が記憶していくのかしら」
私は砂浜に座って、膝を抱えて彼女を見上げた。
「わからない」
首を振りながら言うことしかできなかった。彼女は薄橙色の朝陽を背に、両手にして落とす砂とともに回りながら、心地よさげだ。
「だから、私の存在もいつか空気になって、記憶された地球の土に戻って、いつかミコと会えるかもしれない」
「私は今ここにいるよ」
私はうつむいて、膝に目元を押し当てた。
「いつでもレイは私を見ていない」
つぶやいて、波音にかき消された私の声は、拾われないまま。私の心は回転して砂に描かれるレイの円にとらわれて動けないというのに、レイは今というときを見ないんだわ。
「わかってる」
レイが私の肩を抱いて、私は彼女を見た。彼女のさらさらの髪が私の頬にも触れて涙に触れる。レイの頬も、涙に濡れていた。
「行っちゃわないで!」
不安になって、抱きついていた。
笑顔のまま泣いているレイに抱きついた。
けれど、レイは転校して行ってしまった。この海の見える小さな小さな町から離れて、山間の学校へ。
私は毎日のように学校から帰ると、急いで電話を抱え込んで会話をした。今日あったこと、今度の音楽会のこと、お習字でまあまあの点だったこと、隣の席の子のこと、なんでもレイに話した。夕食の時間がそれでちょっと遅れそうになると、いつもいい加減にしなさいと頭をぽんと叩かれて受話器を置くことになった。
レイはいつも私の話をくすくすと微笑んで聞いた。休日も会いにいけないの? と何度も言う私に、遠いから無理よと小さな子供を諭すように言う。同い年なのに、レイは私よりも色々と違う。そのたびに私は寂しくなる。
「レイは私と会えなくて寂しくないの? 私はいつも寂しいのよ」
「いつも同じものを見ているじゃない。心の肖像にある風景」
いつものようにレイが言う。
「レイったら!」
いつでも「今」を見ないように思えるレイだから、一緒に海岸で遊んでいても、一緒に帰り道で花を見つめていても一緒にいることに不可思議を覚えていたような気がする。なんではぐらかすのだろう? 私が子供なだけだろうか? 素直に同じ花を可愛いねと言ったり、突然の大きな犬にびっくりして走ったり、セミの鳴き声を真似っこしあったり、そういうことがレイとは無かった。レイはいつでも路地の猫と話のようなものをしていたり、何語か分からない言葉ともならない言葉で唄をつくって歌ったりした。
だから、一度でも言ってもらいたいのだ。「本当は寂しいよ。ずっと気持ちを言わずにいるだけなんだから」って。
レイはもしかしたら、私のことを空気と同じだと思っているのかもしれない。私もレイの言う空気で、地球を巡っているさなかで、生命の箱に収まるまでを旅している同士。それが偶然すれ違って挨拶を交わして、土に返るまでを光りのなかで生きている。微笑んで、共に唄を歌いながら。
「風の唄も葉掠れの音も、よく耳に馴染むのは地球の子だから」
レイはよく言う。
レイの感覚なら、寂しさなんて無いんだろう。
私は夜、布団にくるまってお人形さんを抱きしめた。それはレイの好きな水色の帯をつけている。
「レイはいつもどうやって寝付けるのかしら。私はレイのことばかり浮かんで、ぜんぜん眠れないのに」
私はいつも、帰り道に道端の落ち葉を持ち帰って、それのかおりを思い切りかいで心を落ち着かせる。
レイは将来、西洋に行って仕事をしたいんだと言っていた。だから、今は教師の親について転勤があるけれど、今に独立できる年齢になったら行くんだって。
「レイは大人になったら美人さんになるんだろうな」
そう思うと、私は安らかな眠りに誘われ、微笑んだ。
私はレイのことが大好きだ。
小鳥の鳴き声で目を覚ますと、今日は土曜日だけど、音楽会が近いから休みじゃなくて、合同練習があった。手持ち鍵盤と楽譜、お弁当だけを持って学校に向かう。
通学路に、いつもレイが話しかけていた猫がいた。私はいつも背を撫でてあげるだけの猫。
「最近、レイが転校しちゃったからあなたも寂しいよね」
「何故。わたくしは心で通じ合っているのですもの。今でもご機嫌麗しく声がこの耳に聞こえるのよ」
私は周りを見回したけれど、顔が丸い三毛猫を見て、横の大きな家を見た。そこは和洋折衷の綺麗な家屋で、低学年のときは学校の行事で訪問した明治時代のお宅だった。
「あなた、お寂しいの」
また、猫を見た。細い黄色の目で、いつも「ビャーミョ」と野太い声で鳴く。なのに今はその声の先に違う声が重なって聞こえているんだもの!
「あなた、喋れ、」
「あっははははは!」
私は驚いて煉瓦と黒い鉄格子の塀を見た。緑の木々の先に例の屋敷が見えて、柵の先に女の人がお腹を抱えて立って笑っていた。
「私よ、私。驚かせてごめんなさいね」
同じ声で、さっきの上品な言葉はどこかに行ったみたいだった。
「あんまりあなたが最近うつむいて学校に向かってるものだから、あの女の子が猫に聞かせていた言葉を言っただけ。ちょうど真横に毎朝過す場所があるの」
私が少し柵から広い庭に顔をのぞかせると、円卓の上にお茶のお菓子が置かれていた。
「ちょっと食べていく?」
私は頬を染めてうなづいていた。
「日本語上手ですね」
その人は長い金髪に緑の瞳をした白人さんだった。
「生まれたときから日本にいるわ。ずっとね」
「それで上手なんですね」
猫は庭を歩いていった。私は紅茶は苦くて飲めないから断って、お菓子をいただいた。何のお菓子か分からなかった。
「今度から遅れないようにするんだぞ」
「はい」
お辞儀をしてから皆の列に戻った。
「寝坊したの? 珍しいのね」
「ううん」
隣の子に今朝あったことを言おうとした。
「こら! もう演奏が始まるぞ。遅れてきたんだから私語はつつしめ」
「はい」
私は慌てて手持ち鍵盤を構えた。
ひそひそと隣の子が聞いてくる。
「屋敷の異人さんと話してたの」
「えっ」
先生が音合わせをしていた男子の方から、驚きの声が上がった女子側を見た。
「それって、噂のおばけのこと?」
「おばけじゃないわ。だってしっかりお菓子だってもらったもの」
「けど女の人のでしょ?」
私は瞬きを続けた。みんなは「何何?」と見てきている。
いつもレイは魂の話をしていた。あの屋敷の猫に話しかけていた。私に話していた。そう思っていた。
けれど、もしもいつも三人でいたのだとレイが思って話していたのなら? 私と、彼女に話しかけていたのだとしたら。
先生が怖い顔をしてここまで来たから、私たちは手持ち鍵盤を構えた。先生が指揮棒を操って女子が吹く。
男子二名と女子三名が手持ち鍵盤を奏でて、男子四名と女子五名が歌う。
<追憶>の唄。
歌うと、奏でると、きら、きらら、と音楽が光りとなって上がっていく。そう見える。
目を閉じて、空を、緑を、海を、レイに重ねて奏でると、きらきらと眩い光りがレイを包むわ。
帰り道、皆であの女の人の住む大きなおうちに来た。
「どこ? おばけ」
後ろの後ろの三年生と二年生の男子が、五年生の後ろに隠れて見て来ている。手持ち鍵盤を抱えた男子と女子の三人は、おばけについてひそひそ会話をしている。
私も緑の葉枝を掻き分けて、庭を塀の外から見る。遅れてやってきた手持ち鍵盤を持った女子の二人と合唱の四人は、きゃあきゃあ騒いで、みんなに口に指を当てられた。
「こうやってみると、昼下がりだから明るいのね」
合唱の一年生の男子と女子二人は怖がって、着いて来なかったみたい。もう帰ったのかここにはいない。
「あ、猫!」
小さな声で振り向くと、庭の木の上から猫が下りた。
すると、あの女の人が向こうから来た。まだ明るい緑の庭で、女の人の金髪も、白い綺麗な薄手の長袖も、長い下衣装も透けていた。
「ほら、あの人よ。お菓子をいただいたの」
「おばけじゃないみたい」
「でしょ?」
私たちは顔を見合わせて、うなづきあった。まだ、怖がりの二年生は後ろのほうで隠れて女の人を見れないでいる。
私たちは門のほうに歩いていって、鉄格子から庭を見た。
「あら。可愛いお客さんたちが来たのね」
彼女がここまで来ると、門が開いた。みんな緊張して固まっている。
「いらっしゃい。午後の紅茶をいただこうと思っていたの」
肩のあたりからきら、きらきら、と光りが流れて庭へすすんで行った。
「ねえ。異人のお姉さんに練習したお唄を聞かせてあげましょうよ」
「そうね」
「さあ、座って」
椅子とベンチは合わせて十個しかなかった。女の人はお菓子を出してくれて、お茶も出してくれた。私と隣のパートの子は顔を見あせてから言った。
「私たち、お礼に合唱を披露します」
「まあ、本当?」
手持ち鍵盤を出して、みんなも並んで演奏を始める。
あれ。音が足りないな、と思っていると、さわさわと吹く風と光りの間を、また唄に合わせて、きらきら、と、きらきらきら、と輝いた。一生懸命みんなで歌って、奏でた。
演奏が終わって、目を開いた。
「素敵だったわ。それはスペイン民謡ね。確か<月見れば>」
手持ち鍵盤の男子が私の腕を引っ張って言った。
「ほら。古い方の題名で言ったから、やっぱり」
私は、微笑んでお茶をいれる女の人を見た。きらきらと金髪が光って、綺麗な形の白い薄手長袖も眩しい。
振り返ると、三人が同じように女の人を見上げていた。
「………」
私は女の人を見上げる。三毛猫が歩いていて、鳥が羽ばたいたのを見上げた。
はっと見ると、庭には私と女の人だけだった。
「はい。今日はお砂糖を入れたわ」
貴重なお砂糖を入れたお茶が一つ。私は女の人を見上げた。
彼女は、寂しそうに微笑んでいる。どこか、それはレイの微笑みと似ていた。
私は不思議に、涙が流れていた。
女の人が、綺麗なお庭で、きらきらと光りになっていく。その向こうに、毛づくろいをする三毛猫が透けた……。
電話で、今日見た白昼夢の話をレイに必死に話していた。
「とても不思議な体験をしたの。きっと、帰り道で疲れて眠ってしまっていたのね。あの猫の飼い主の女の人、とても綺麗だったわ」
「もうその人もなのね」
私は受話器を持ち替えて、また夕飯前に呼ばれる前に襖を見た。まだ大丈夫。私はセルロイドの筆箱から筆を出して、絵日記に女の人の顔と猫と庭のある屋敷と、合唱をしたみんなを描いた。恐い先生は木の横にかいた。
「光りに乗ってみんな唄と共に返っていく。巡っていくの。明日ね、日曜日に、会えるわ」
「本当?!」
私は喜んで、また口をおさえて座りなおした。
「うれしい! また、海岸で待ってる」
私は微笑みが止まらなくて受話器をおいて、日記を付け始めた。
『十一月九日土曜日
本日は、学校で行われる音楽会の練習があるので、お弁当を作っていただいて、朝から学校へと出かけて参りました。
すると、通学路にあるとても大きなお宅のお庭があんまりステキだったので眺めておりますと、女性がいらっしゃって、とても美味しいお菓子をいただきました。
学校へは遅刻をしてしまい、先生様からお叱りを受けました。一生懸命に合唱と手持ち鍵盤の練習をみなさんとしておりますと、その内に、「帰りにそのお宅へお邪魔しまいか」ということに決定いたしましたので、私たち生徒はその女性のお宅へ伺いました。
そこには可愛らしい可愛らしい三毛猫さんがいて、女性と猫に私たちはお唄を聞かせました。とても喜んでいただけて、とってもうれしかったです。』
私は筆を置いた。今日は早く眠りにつけそう。
海岸で待っていると、私は波間の音とレイの走ってくる足音を、すでに聞き分けられるようになっていた。
振り返って、立ち上がった。
「レイ」
向こうから走ってくるレイは、私のところまで来ると両手で握手をしあった。
「もう何年も離れているみたいだった」
思い切り抱きしめた。
「今日は鍵盤を持ってきたの。一生懸命練習したのよ」
私はレイから微笑んで離れた。今日は曇り空。潮騒も悲しい。私は吹き始めた。
一生懸命、何度も何度も、レイとずっと離れたくなくて、吹き続けていた。
顔を上げると、いつの間にか星空。暗い海に、雲が全部流れていて星は輝いていた。
「澄みゆく心に しのばるる昔
ああ 懐かしい その日」
レイが歌うと、星がきらきらきら、と光った。
私の頬に、冷たい涙が滴った。
私の手から鍵盤がきらきらと砂のように変わって行った。私の手を見ると、星のように光る。
レイを見た。
「いつか、私も土に帰るときに、また会いましょう」
私の目から熱い涙がどんどんこぼれて、初恋の彼女の顔が星明りだけじゃ見えなくなっていく。
「好きなのに……なんでさよならなの」
レイは光る私の体を抱きしめて、彼女の体も光りに包まれた。背中が見える。髪が流れる背中。私の爪先だけ、光って薄れていく。
レイが私の髪を撫でてくれた。
「会えるのは、きっと近いわ」
レイの声がさざなみのように聴こえて、海馬の優しい唄にする。
この物語は、昭和十五年の十一月秋を題材にしたものになった。
主人公の女の子は実は幽霊で、昭和十五年という追憶のなかで生きていた。
その魂を鎮めるために現れたのがレイであり、海岸で語り合ううちに、自分が幽霊であるのだと思わせるような言葉を紡いでいく。
だが気づくことは無く、追憶のなかで幽霊の女の子は日常を過していた。洋館の異人さん、学び舎の先生やみんな。
彼らの魂は、<追憶>の歌や緑の輝きが増すごとにきらきらきらと天へと昇華されていく。
ついには一人だけとなった幽霊の女の子は、海岸に訪れてレイと再会する。
そして星の輝きと共に、レイに見送られ天へと昇華していく。
蝶のよう
ねえ 私の瞳に映ったあなたが酔いしれてゆく
孤独を分け合う 薔薇の吐息
夜の狭間で揺れる 月の翳りのよう
ねえ 声を聴いた刹那に鏡みたく似たあなたは
心を透かす泉 三日月も映ってる
惑わす香りは百合になる 蝶の舞う夜は
時を忘れて ヴェール脱がせて
黄金の月は灯火になるの
ねえ 迷宮で彷徨うあなたは
過ぎし日の面影を落とした
いつものダンスを舞う私は孤独になる
置いてけぼりの森で 独り踊るの
ねえ しばらくは月に揺られて
森を訪れて
ねえ あなたと私まるで蝶のように
舞うわ 夢のように
星のきらり
君には曙の薔薇を。
そして君には月夜の雫を。
その小箱におさめて、微笑みながら眠るといい。とても良い夢が見られるのだろうから。
芳しい薔薇の薫りに充たされて、または清らかな雫の記憶をとどめながら。
私は君らに星を贈ろう。数多に広がるこの天は、まだ名も無い星がある。幾重にも折り重なる時空の先にも星はきらめく。そんな、まだ誰も発見していない微かな輝きを手繰り寄せて、朝霧の薔薇から滴る雫にしたような、数多の内から一つの粒を、星に代えて君らに贈ろう。
名前は何がいいだろう?
名前は何がいいだろう。
私が決めてもいいし、君らの好きな名前でいい。
どの星にしようか。
梢の先に輝く星の遥か先にある見えない星でもいい。泉に光るなかの一番小さな星の先にある見えない星でもいい。そんなささやかな、それでも存在する星。確かな愛情のように心にある、そんな星。
柔らかく微笑むような星。
さあ、目を開けてごらん。
君はシルクに転がり蓋からこぼれた薔薇を見つめて目覚めるだろう。朝日に柔らかな影を落として薫る薔薇に微笑んで。
君はビロードに横になり蓋から転がったガラスの小瓶を見つめて目覚めるだろう。それは月明かりにそっと輝き、透き通っている薔薇の薫りに充ちた雫。
昼の世界に生きる君は白い月を見上げる。
夜の世界の君は二つの星を夢想して見上げる。
そうして時空は絡み合い、薫りとともに結ばれる。
君は唄を歌うだろう。
君は竪琴を奏でるだろう。
そして時空の森で重なり合い、えに言われぬ神秘の唄が紡がれる。
心とこころの語り部。それが君らだ。
森をかけゆく生命と共に。
秋の風情
青空を一片一片が切り抜くように紅葉が舞い降りる。頬に影を落としながら、そして、唇に触れながら。
秋の空は雨か晴れか。葉を橙色に染め上げて、高く鳴く動物たちは山をゆく。
瞼を透かすほどの陽光。柔らかな落ち葉の森。鷲もリスもカモシカも野うさぎも、いろいろな動物たちがこの秋をそれぞれが過している。木の実を集めたり、悠々と空から地上を見たり。
もうそろそろ、この山にも冬がやってくるから、木々も数ヶ月後には完全なる眠りにつくまえに、山の生命たちを見守っている。
霧に待つ
暗い森を抜けた先には、どんよりと陰鬱な沼地が広がる。
濡れ羽根を震わせる鴉が、があがあと鳴いては梢に羽ばたくと、鈍色の雲を映した水面に波紋が広がる。
この沼は、季節も変われば蓮が淡い彩を放ち森を彩るというのに、今の冬間近の季節には、それはそれは寂しげな雰囲気を漂わせた。
あすかは体にこびりつく鈍い霧を縫うように、木々の間に来た。
そして、静かに幹に背をつける。ごつごつとしたその幹は、細身の彼女の皮膚にも伝わる。ひんやりとした空気は、薄い衣を凍みさせた。
あすかがしばらく暗い目で沼地を見つめていると、どんどんと霧が濃くなっていった。足元にも流れ込み、彼女は静かに地面を見てはうつむき、目を閉じる。
今日も、来ないのかもしれない。
帰ってくると伝え聞いていた恋人が、あすかの心を寂しくさせる。いつまでも待ち続けても仕方がないと言われるというのに。
まるで莫迦な少女のように、こうやってあの日と同じ、薄い格好をして、恋人の腕のぬくもりを一心に受けたくて立ち尽くすことの悲しみが、どんなに愚かでも構わない。愛の気持ちは変わらないから。遠く離れていた、連絡さえ取れなかった時間が長すぎて、こうやって待ち焦がれる時間の尊さが、あの頃よりはぬくもりを与える。
パキン
ふと、物音に彼女は咄嗟にそちらを見た。小枝が踏まれた音。もしかしたら動物かしら?
霧で見えない。
「涼?」
踏み出す。
重苦しい喉。最近、悲しくなると喉がぎゅっと痛くなる。それをこらえて声を出した。
「ここよ。涼」
歩いていった。
「きゃ!」
ざぶん、と鈍い音と共に途端に片足が冷たさに包まれ、顔に飛沫が飛んだ。咄嗟に足を上げて、また草に足を滑らせたものの、地面に片足を戻した。
「大丈夫?」
どんっと肩をぶつけて、さまよった手が胴や腕を触れると、そのままその腕と胴体が包まれた。
「あすか」
「……涼」
顔をくしゃくしゃにして泣いていた。顔が見えない。鈍い霧は感覚を鈍くなどしてくれない。辛さも、寂しさも、そして待ち焦がれたあとのこの計り知れない喜びさえも、体当たりするかのように心に迫ってくる。
「ずいぶんと遅れちゃったから、もう駄目かとおもった」
私の震える体を抱きしめる涼が囁いた。外套のあわせを開いて包み込んでくれて、熱い涙とともにあたたまる。
だんだんと、心と共に霧は同調して薄れていく。そして、木々の黒い影が、そしてしまいにはあの深い深い沼が現れる。
しばらく目を閉じて抱き合っていると、一瞬寒さに涼が震えた。
目を開けると、すでにあたりは暗い。
「見上げてごらん」
私は顔を上げた。
すっかりと晴れた霧は、星月夜を天体に輝かせていた。
「まあ、綺麗……」
涼の胸部に頬を寄せながら、視線を落とすと、湖沼の水面は星座を麗しく湛えていた。
涼の顔を見上げて、微笑んだ。涼の頬も、薔薇色に染まっている。微笑むと睫毛がくるんと可愛くなるのが好き。
もう、鈍い霧は過ぎ去っていた。また、どこかで森を潤しているころなのだろう。
私の心は涼が潤して、沼地の水鏡は星が潤して、そして、いつまでも私たちは抱きあい心を映しあっていよう。そうしたら、寂しさなどはすぐに風が持って行ってしまうのだろうから。
彼女の百合
黒い窓枠には、灰色の服を着た彼女がいた。
暗い目をして私を見つめ、そして彼女の白皙の肌を囲む黒髪だけは光沢を受けている。曇り空でもなお。
私は森に囲まれた草地に咲く白百合の群れから、一輪手折った。彼女のところまで歩き、そっと差し出すと、彼女はそれを虚ろな目で受け取り、そしてすっと薫りを鼻腔に充たさせた。
彼女の魂は百合に忍んでいたかのように、あでやかな笑顔になり、光る瞳で私を見る。
「クリスさんは、優しいのね。私を哀れんでいらっしゃる……」
「そのようなことは」
私は頬を染め眉をしかめてうつむいた。彼女を連れ出すことなど、小作人の私には出来ない。ひっそりとしたこの灰色の土壁の小屋は彼女の砦として、主人が閉じ込めている。
「それでもね、私は晴れの森も、曇りも森も、雨の森も、好き。小鳥が挨拶をくれる。ときどき動物が私を見てくれる」
「私も、私も貴女を、カリエラ様」
百合を細い手にしながら、彼女は森からふと私を見た。
そして、ふと花のように微笑んで、藍色の瞳をふせた。
「そうね。それがもしも叶うなら」
再び遠い目をして、屋内へと歩いていく。黒い襟と黒髪に囲まれていた彼女の細い顔は、さきほどまでは百合と笑顔が飾っていたものの、今は表情も分からない。灰色のワンピースの裾から覗く白い脹脛が、私の心を雁字搦めにした。
あの細い足首は、白銀の百合の枷が似合った。音を鳴らして足を揃えていた姿が、悲しげだった。私が主人の目を盗んで助け出したのが間違いだったのか。再び連れ戻され、こうやって城から森の小屋へ彼女は監禁されてしまった。
それでも、私だけの彼女の微笑みを見ることが出来る。
彼女の主人であるリザー男爵は、現在不在だ。他の爵位の城を管理を手放す理由で引き受けることとなり、それをシャトーにするのだという。すでに八十年も前からその侯爵の先代の時代が過ぎ、時代とともに利用法を変えることは言われていたようだが、次代の当主が一族の面影を残しておきたく思い、管理をし続けていたのだそうだ。だが、その彼女の子供であり、現在の侯爵が爵位としても形式的なものになりそうな昨今を、シャトーに変えるか、ワイナリーに変えるかしないと、城の保持自体に関わると判断した。
そこで、リザー男爵他、数名の爵位を持つ者等を介して、連盟を組む上でシャトーにする契約をこれから結びに行くために朝方から馬車で移動していった。
それらの話は一小作人である私が何故知るのかといえば、カリエラ様を連れ去ったことにより、位を落とされた為でもある。お咎めが無かったかといえば首を縦には触れないほどに鞭をもらいはしたものの、カリエラ様を開放して差し上げたかった。
「クリスさんは」
私は彼女の背から、振り向いた横顔を見る。
あまりものの置かれていないこの場所でもよく美しさが映えるお方だ。なおのこと引き立つのだ。百合の花のようなものだった。
「何故、私を助け出したの? いつも何を考えているのかも分からない顔をして、冷静を崩したことなど無かったわ」
「分かっておいでのはずです。これ以上はもう」
「他の危険を侵してまで救われたくはなかった」
「カリエラ様」
暗い目は静かに私を見つめ、そして離さなかった。
「リザーはあれから試しているの。あなたが私をどうするのかって。こうやって私にボディーガードを付けさせないのだってそう。長期留守にするときは、絶対に私には護衛がついてあなたに私を触れさせなかったのに」
「………」
私は目を見開き、彼女が百合の花の裏から出した短剣を見た。
彼女が泣きそうな目で歩いてきて、その短剣を差し出してきた。
「お願い。私は自由になりたいの。けれど、今のままでは無理よ。あなたにだけ頼めるわ。私をもうここで自由にして欲しいの」
「そのようなことは出来ない」
「一瞬よ。もう、一時間前に睡眠薬を飲んだわ。だから、そろそろ……」
虚ろな目は、そのまま伏せられた。
「カリエラ様!」
窓を乗り出し体を支え、短剣が彼女の足元に落ちた。百合も落ち、彼女の足首を装飾する……。
私はきつく縛った腕を押さえながら、彼女を抱え上げ森を走っていた。
馬のいる場所までくると、彼女を背に乗せて私も乗る。
腕が痛む。先ほどは多く血を出した。くらくらする。私の下がった体温が彼女を冷えさせてしまわないように、早く出る。
馬が走り、私は彼女の体を支えながら掛け声をあげた。
目を覚ますと、そこはどこかの床の上だった。
「目覚めたのね。クリス」
柔らかな感覚は、彼女の膝だった。頭を預けていたようだ。
「馬鹿よ。自らを傷つけてまで……あなたはそんな不器用な考えの人のはずじゃ無かったのに」
「私は、貴女を手に入れるためなら馬鹿にでもなんにでもなる」
「え……?」
ずっと手に入れたかった。救い出したいなどとは、そんな英雄めいた気持ちなど、いらない。ただ奪いたかった。いつも鞭打たれる彼女の美しすぎる涙が、私の心を傷つけ続けた。男爵の目を盗んでいつしか、涙で無い、笑顔だけを彼女に与えてあげたいと思ったことが馬鹿で愚かなのだとしたら、いくらでも傷などつくる。救いたいというそれを愚かなだけだというのなら、この世の何が善悪なのかなど、問うことすらもあまりに悲しくなるではないか。
「大丈夫です。あれほどの血を見れば、男爵も諦めるでしょう。貴女と私は同じ血液型だ」
裏手の底なしまで血を流しておいた。世を哀れんでそこに沈んだと思ってくれればいいのだが。
あまりにも咄嗟のことで、そんな考えしか浮かばなかった。ただ、遠くへ逃げたい。
「まだしばらく目を閉じていた。ここは目の見えない老婆が一人暮らしている所なの。古い馬小屋よ。私は一人だと言っているし、あなたは気絶していたから」
「しかし」
「ふふ。大丈夫よ。声を凄く低く変えていたの。私だと、年齢も何も分からないぐらい。快活な風でね」
「ふ……浮かびませんね……」
「でしょう」
私は微笑んだまま、また再び重いまぶたを閉じた。
目を覚ますと、血が多少は巡ったのか、体が軽くなっていた。
「ここは一体?」
「州の北部よ。覚えてないのね。割と長くあなた自身で走らせたのよ」
「そうですか……」
私たちは身支度を終え、老婆に挨拶をしてくると言い、静かに彼女が厩を出て行こうとした。私はその手首を掴んでいた。藁や枯れ草が絡まる足首を返して、彼女が私を見上げた。
そんなことが、私は心の底からうれしかった。枯れ草でも、藁でも、それらがいいのだと思った。あんな冷たい枷など、彼女に二度と填めさせはしない。
柔らかく、色も穏やかな藁でいい。
「心配をおかけして申し訳ございませんでした。気絶など」
「いいのよ。男性は女より血を流すと良くないから」
彼女がどこか力強い笑顔で言い、そして歩いていった。
そんな強い微笑みを見て、芯を感じた。
「ああ、彼女は変われる」
私はつぶやいていた。
「お婆さん! ありがとうね。もう充分休めたから、そろそろ行くわ!」
「ああ、そうですか。それは良かったことです」
細身の上品な雰囲気をかもす背の彼女から発される言葉に、私は微笑んだ。
彼女が戻ってくると、静かに馬に乗り込んだ。
私も馬に乗り込む前に、穏やかに微笑む老婆に深く頭を下げた。
州を越え、葡萄畑の広がる風景から処変わり、丘が低い山に囲まれるところまで来た。ここの山を越えれば、私たちのことを知りはしない者の村に来る。
「まだ少しの知識しかありませんが、小作人として働いたものはあります。大丈夫ですよ。教わりながらやっていけることでしょう」
「小麦や野菜を作るのね。もしかしたら、私にも向いているかもしれないわ」
彼女には我慢強さがある。きっと大丈夫なはずだ。
馬はもう足並みを遅くし、優しい風の吹くにまかせて歩いていった。
頭を寄せ合い、私たちの微笑みに淡い陽がかかる。
月の夜
眠れませぬ
月が漫ろに明るくて
月は出てなどおりませぬ
どこに照っているのです?
心に照っておるのでしょう
この身体の内側の海を照らす、月の揺らぎなのでしょう
それは肋骨の檻のなかで明かりをくすぶり海面に路をつくり
そして心臓を照らしているのでしょう
月が明るうございます
眠れぬのでございますね
あの月を落としてくれはしませぬか
それは出来ないことではないけれど、貴女の内の月の波動は
そろそろ落ち着きを見せるころなのでしょう
眠りの淵を照らして眠らせずにいた月の小悪魔も、星のいたずらっ子も
みんなみんな降り注ぐ明かりに隠れてまた仮面をつけて夜の闇の振りをする
眠れませぬ
眠くはないのでございましょう
もう半刻もすれば、ぐっと下がる気温とともに眠気が襲い
血潮は鎮まり陽の照るころには眠っていましょう
月の傾き
黄昏の月は寂しげな三日月。
夕陽の魂を染ます輝きはそれを隠すけれど。
闇の底では夜に花咲く花びらがそっと、気温が下がり行くのを待っている。夜露を纏いながら薫らせ咲く刻を、そっと待つ。
今はまだ、宵暮れの空は優しい。月を薔薇色の頬に滴る涙に飾る。それは空の描く何色の心だろうか。
窓から月を見つめていた彼女は、悲しげに頬に涙の雫を滴らせ、レースのハンカチはそれをすっと吸う。だんだんと夜の色に染めてゆくハンカチは、彼女の頬もその色にする。
「まるであの三日月が琴なら良いのに。心で奏でて、そして天から旋律が降っては届くのよ。マルチェロの処へと、悲しみの月が奏でる美しの哀歌は」
彼女は腕に頬を乗せ、白腕に伝う涙が、心の河に繋がればいいと思う。そうしたら、マルチェロも流すだろう涙の河と交わってくれる。そうしたら、繊細な瞼のような小舟に私たちは運ばれて、月の路を櫂で漕いでゆく。秘密の愛情を、マルチェロとの時を紡げる深い森へと入っていく河へと、きっと優しい風が運んでくれる。
重い鎧戸がノックされる硬い音が、この石で出来る円柱の室内に響く。
「レイチェルお嬢さん」
「はい」
彼女は振り返り、窓際のカウチベンチから立ち上がる。ネグリジェなので、「少々お待ちください」と言い、上に羽織物を召した。
「どうぞ」
ドウジロウ・カイバがやってくると、慇懃に礼をした。彼は日本人の音楽家で、一家に気に入られ城にやってきては、生徒を持ち一角で音楽を教えたり、作曲をしたり、依頼された場所への演奏へ向かう友人だ。十七の年齢で日本からヨーロッパへ音楽の勉強にやってくると、二十一の年齢で頭角を現し、二十五の年齢ではすでに安定した音楽活動を行って、その頃から演奏会で彼女たちと懇意になり城へ呼ばれ、この三年間をここを拠点としていた。
(カイバの外見と装い。二十八歳。百八十二。黒髪の襟足を縛って前髪を少し垂らしている。細身の顔にしっかりした鼻筋と鋭い目つき。群青ビロードの燕尾。グレーシルクのスカーフ。胸元に紅珠のピン。黒いパンツ。革靴。古くは元武家の血筋なので居合いもする)
「この様な時間に申し訳ない。ぶしつけだとは思ったが、どうしても貴女様の手を借りたく思う」
「ハープでしょうか」
彼は刹那的に作曲したものに関して、すぐにでも音を合わせをしたくなるという一面を持っている。ピアノとハープ、フルートの演奏ができるので、作曲家にしてヴァイオリン奏者である彼と一番刻を共にするのも彼女だった。日がな一日音楽について家族みなで話し合うこともあれば、その後は二人で演奏をしてみなに聞かせる。彼女もよく演奏についてを彼に相談する。
ホールに来ると、円を描く窓壁から均一に月光が差す。先ほどまでの月は今、さらに大きく天に挙がって細長く並ぶ窓の向こうから見え、静かな庭を浮き上がらせている。きらきらと、白い石の馬の彫刻が光り、その上に乗る騎馬兵が双方から四角い噴水の水を見下ろし、その姿も映っている。そして星も。その周りを薔薇が紅く囲っている。そして、兎やリスの彫刻や狐の彫刻があり、噴水には指に小鳥を乗せ座る女性と白孔雀の彫刻がある。左右に段をつけて水は流れるが、今は噴水は停まり、水面は彼らを静かに映して、普段はまっすぐからは見えない下向きの表情を垣間見ることができる。
彼女は庭からハープに向き直り、美しい手指を置き、そして眼を閉じる。
カイバは月光に光る弦の先の庭と、深く想いを寄せる彼女の美しい横顔を見つめた。薄絹をまとうそのしなやかな身も、その背を長く流れる蜂蜜の如く金髪も、弦と指の運びを見つめる水色と黄緑の瞳も。
彼女のハープの旋律は、いつでも悲しげである。惹かれて心奪われ、そして見つめていなければ消えてしまいそうな繊細さの音律。音階を移るごとに醸し出される独特な侘しさは、母国日本での風景が重なるのだ。
ふと、カイバは自身の頬に涙が伝っていたことに気がついた。涙もろい性分だが、女性の前で不覚にも流すとは。咳払いをして染まる耳をそのままにピアノ椅子に座る。
「とても素敵な曲。まるで、心地よく風が吹き抜けていく林のようだわ。宵の気配もあるのに、優しい」
柔らかな微笑みをカイバにくれながら彼女は彼を見た。
「今宵の夕刻の月が、どこか寂しげだったのだ。なぜかこの様な曲になっていた」
「まあ……それでは慰めの曲だわね」
カイバは彼女を見つめ、鍵盤を見ては首を横に振った。
「いいえ。私に慰められるものなどは、無いのかもしれない」
「そのようなこと、ないです私はいつでも寂しい心を癒してもらいましたよ。こうやって楽器の演奏に声を掛けていただくことだって、お優しいからなのだわ」
「ぶしつけであるのに」
カイバは立ち上がっていた。多少、彼女は身を反らした。カイバは彼女を安心させるためにそっと椅子に腰を降ろした。
「私は貴女に想いを寄せている」
単刀直入につぶやく言葉に、彼女は瞬きをしてカイバを見た。カイバはピアノに体を向けうつむき、項に両手を当ててから言った。
「いや、それには言葉に語弊がある。まだお嬢さんは二十歳になられたばかりの年齢で、世に同じほどの若い男がいるのだから」
彼女は罪悪感からうつむいて、自身の膝を見つめた。窓枠の影と月光の絵が描かれて、絹の波の陰影も柔らかい。
「お嬢さん」
その膝の上の細い手指にカイバの手が重なった。虚ろ哀しい瞳で彼女は片膝をつき見上げてくるカイバを見た。
「いいえ。私には、想う女性がいるのです」
「女性……?」
カイバは短く息を吸い、顔を戻した彼女の横顔を見つめた。
「マルチェロをご存知でしょう。あなたの生徒さんだったのだもの。彼女は私の心を奪った」
マルチェロ。あの奔放でマニッシュなヴァイオリン弾きの少女。ショートの黒髪と、ラフなシンプルブラウスに、細身のパンツとブーツ姿の、悪戯な視線を寄こしてくる子だ。魅力的なイタリア美女であって、さばさばした性格をしている。この城にいたのは夏の間だけ。その間に彼女はマルチェロに恋をしたのだ。
「そう、ですか……あの可愛らしいお嬢さんに」
カイバは平常心を保つために床を見てから顔を上げた。彼女に微笑んでうなづいた。
「安心なさってください。冬にも、彼女はこの城に来る」
彼女はその言葉に笑顔になったが、すぐに口をとざした。
「ごめんなさい……」
「いいのです。恋は自由です」
カイバははにかんでしまわないようにもう一度微笑み、そっと離れて行った。
「共に奏でましょう」
二人はどんどんと小さくなっていく三日月の元、ハープとヴァイオリンの旋律を響かせ始める。
カイバは部屋に戻り、眼を閉じた。
マルチェロは確かに魅力的な少女だ。あの性格では同じ少女からも人気があることだろう。だが、マルチェロが教室の少年と仲を良くしていた姿を知っている。他の女生徒たちからも親しまれていた。カイバはどちらかというと、守ってあげたくなる乙女らしい女性に惹かれるので、思いもよらなかった。
冷静になれずに背にしていた鎧戸から離れ、キャビネットの横に来た。
飾られた日本刀を手にする。
どうせ気が散漫になって眠れなくなるんだ。彼はジャケットとスカーフを放り、開襟して素振りを始めた。小窓から差し込む月光に飛ぶ汗が光る。その鋭い眼は、やはり彼を見知らぬ人間には一種殺気立つものに見える。余計に今は。刃は鈍く光り、こめかみに張り付く黒髪は散った涙を隠した。
月は哀歌を乗せたままに傾いていく。
他の音楽家の友人の話では、ヴァイオリンと素振りの筋肉は違うのだから、あまり頻繁にやるのは好ましくは無いと言ってくる。確かに筋肉の硬直はヴァイオリンの柔軟な筋肉とは相反する。家系に代々伝わる血筋はそれでも血を騒がせる。
空を斬る音。冷たく響く。
素振りを止め、静かに刀を収めた。
カイバは他人の恋を邪魔立てする外道などしたくは無いので、気を鎮めるためにも眼を強く閉じて真っ暗な頭をただただ無にする作業に入った。一律の音さえも浮かばなくなるまで。
髪をまとめていた紐を落とし、髪をかき乱してベンチに座り顔を覆った。
トントン
「何か」
顔を上げた。その顔は暗かった。背を月光が照らす。ちょうど背に木の陰が重なり、彼の心を持ち去ってしまいそうだ。
「います?」
声からもニコニコしたものが響き、ここに短期で泊まらせてもらっている双子の男女の生徒が顔をぴょこんぴょこんと覗かせた。二人とも十三歳の年齢で、思いもよらないやんちゃな目をきらきらさせる子達だ。ヴァイオリンもそっちのけで、親がこの城に閉じ込めてでも習得させろと言って彼らだけここに残っていた。顔が同じで髪形と服装が違う二人は声まで同じで、歌の方が得意と見えてよく声を響かせている。
「さっきのエレジーは何の曲ですか? 僕らの部屋にも聴こえてきましたよ」
「弾く気が起きてきたか?」
「ううん。私たちにはあんな感情のある音は出せないわよ。先生のヴァイオリンがあんなに悲しかったのに驚いちゃったの。ハープも悲しいけれど」
カイバは耳を真っ赤にして口を閉ざした。
「そうかな?」
「うん」
「よろこびの曲なんだがな」
わざと大げさな表情で言い、双子はにこにこと顔を見合わせてからカイバを見た。
「どうせレイチェルに振られたんでしょ」
「のの、な、」
わかってるんだからと言わんばかりの二人の顔にカイバが焦るので、二人は「あははは」と笑って走って出て行った。
「大人をからかうものではないぞ!」
「はーい!」
廊下から走っていく音と声が響き、そして開けられたままの扉をただただ見ていた。
普段は恐い顔をしたカイバだが、このときばかりは焦っていた。
まさか双子が余計なことを言わないだろうなと思って、鎧戸を締めに行った。
「全く、子供というのは大人で遊びたがるものだ」
室内に戻り、布で顔をぬぐってから髪を再びまとめた。窓から月を見ようとしたが、すでに傾いた月は望めない。今はどんな色をしているのかさえも、不明だった。そんな月の下で、レイチェルの想い人のマルチェロがイタリアの地でどのように過しているのかも不明なまま。
彼女は昼の林で木々の横でたたずんでいた。
カイバは泉を見ている。水鳥が羽根を水面にかすませ広がる長い波紋を見つめていた。それは岸辺に辿りつく前に凪いで行く。
「マルチェロはきらきらした瞳をしていて、声もとてもしなやかなのです」
今日も頬を染めてうれしそうに話す彼女の話をカイバは静かに聴いてあげていた。カイバ自身は心苦しいのだが、やきもきしているよりもそれを受け入れ、彼女のためにマルチェロへの曲を作ってあげてはどうかとレイチェルに提案し、その手助けをすることを言い出したのもカイバ自身だった。どうせ叶うことは一生無いこの気持ちなどは、こうやって諦める糸口の全てを手繰り寄せて、今度愛することになる女性に向ける優しさの練習としようとも思っていた。仁義を欠くことなど出来ないまっすぐな性格なので、愛するレイチェルの恋を大切にしたい。男として女の幸せを願いたい。だが、それが許されるはずは無いのだ。
彼女はいずれ、このマルチェロとの恋を終わらせなければならないのかもしれない。そんな不安を昼に覗かせることは無く彼女はマルチェロのことをたくさん彼に聞かせた。
彼女は作曲のハミングを止めたカイバを見た。
ふと見ると、その横顔は静かに泉を見ている。
「……ごめんなさい」
彼女は言い、林を走っていった。
すぐ向こうの庭の噴水の淵に座る姿が見える。カイバは俯いた。
叶わない恋ばかりはどうしようもない。これ以上彼女の恋を応援しようと、彼女を結果的に悲しませるだけだというのに。こんな行為はさらに互いの悲しみを加速させるだけ。
「ああ、そこにいたのか」
庭の向こうの城側からこの城の主人の声がよく響いた。もともとオペラ歌手でもある。
「カイバはいるかね。レイチェル」
「はい。先生なら森にいらっしゃいます」
カイバはすでに歩き出していて、林から出ると彼を見た城主人が呼び寄せた。
二人を並ばせると交互に笑顔で見て、そして言った。
「お前たちはよく似合う。どうだ。カイバ。君ももう三年間この城にいるし、よく共に演奏をしあっているんだ。互いのこともよく分かってきていることだろう。私はレイチェルが二十歳になるのを待っていたのだ。どうだ、カイバ。レイチェルは」
どんどんとレイチェルはカイバの目から見るも明らかに沈み俯いて行き、城主人は二人の背を叩いて来る。
「いや、私は未だに音楽活動を優先したく思う。国の両親も結婚は日本でと言っているのです」
「しかし君は末子だろう。恋愛に自由が利くのではないかね」
「私は……」
明らかに沈んだレイチェルに今更ながらに驚いた城主人は目を開いて彼女を見た。
「どうした。喧嘩でもしたのか」
「いいえ。そうではございません。カイバさんは確かにとても素敵な方ですが、私にはまだ恋とか愛とかいうものの真実などが分からないのです」
「そんなものは後から分かってくるものだ。お前たちの仲の良さはよくわかっている。友が愛に変わることもあるだろう」
「しかし、私は……」
彼女は顔を上げ、涙を流して走っていってしまった。
「おや。どうしたんだあの子は」
カイバは髪に手を当てた。
「まだ早い話なのでしょう」
「そうか?」
走っていくその背を見送り、城へと消えていった。
彼女は思いのまま悲しみのままにハープを奏で、涙を流した。その姿に城主人は項をかき、カイバを見た。
「私は仕事柄感情や恋愛には多くを学んできたが、あの子はまた気質が違うのかなあ。家内とは電撃的な結婚だったんだが」
「まあ、そうでしょうね……」
彼女は膝につっぷし、泣き続けた。
彼女はマルチェロに二ヶ月も前に渡した手紙の返事が来ないことに落ち込んでいた。
月の形も分からない重々しい曇り。
彼女はため息をつき睫を伏せた。
コンコン
「お嬢様。お便りです」
「はい」
顔をさっと上げる。扉まで行き、手紙を預かった。
ベンチに座り、封を切って手紙に目を通す。
「………」
マルチェロから。冬にこちらに来る。そして……。
婚約の話をしたいと書かれていた。
婚約者……。マルチェロの頭は真っ白くなり、明暗が目の前を繰り返してめまいに眉間に指を当てた。頭痛。こんなことって。
読み進めるのがつらくなる。けれど、涙に埋もれながら続きを読む。
『レイチェルが好きよ。そのために婚約も蹴っちゃってね。ほら、夏季の演奏練習会に一緒にいた男の子いたでしょ? 彼。けど、やっぱり夏を越えても恋愛にまでは行かなかったのよね』
「夢……かしら」
『月を見上げながらよく夢想したわ。三日月にはレイチェルが腰掛けてそれで夜空に揺られているの。そんな日の夜風はなんだかとても冷たくて、鼻も痛くなるほどつんとしたものよ。そんな時、決まってあなたに会いたくなったわ』
月の力が作用したのだろうか? 冬に逢うのが楽しみだと彼女は書いてある。
レイチェルは手紙を抱き、窓の外を見た。うっすらと雲が流れて、おぼろげな月が見えた。
夢のなか
眼
夢の淵で何かに抗いながら闇君に手を伸ばす。何かを掴んだ途端に手を離した。
ばっと眼を開けると、そこにはほんのりと闇に光る何かがあった。
ララは怪訝な顔でそれに顔を近づけた。
細い茎から、大きな眼球が生えている。その眼球に先ほど触ってしまったのだ。
それは、ララと同じ色の瞳だった。
「!」
ララは自分の顔に手を当て、右目の眼帯に今更ながらに気がついた。
眼球の咲く植物を見下しながら、恐る恐る眼帯を外し、足元に落とした。
そして、眼をあけようとした。うっすらと、光りに慣れない右目は花を確認した。
「ああ、あった……」
安堵の息を漏らし、ララはその花を摘んでみることにした。
しゃがんで、白い指を伸ばす。
だが、それはまるで視神経かのようにしっかり大地と繋がっていて摘めなかった。
ララは諦め、辺りを見回す。
「?」
天から細い金のチェーンがぶらさがって、そしてその一番下に真っ赤な唇がついていた。
ララは無意識に自身の唇に触れ、それがあることを確認していた。
そして左右を見ると、真っ白い巨大な腕が闇に浮かび上がり、からくりのように前後に回転している。
ドン
驚いて地面を見ると、それは硝子張りの床だった。
その下で、金色の巨大な歯車のからくりが動いていて、その中心に脈打つ巨大な心臓があった。
「ああああああああ」
不気味な女の子の声が響き渡り、ララは耳を押さえながら見回した。
上方から金髪が空間に降りかかるようで、闇に浮かんだあの唇が何かを喋り動く。
ララは上からパラパラと細かい金のネジや小さな歯車が落ちてくるのを、腕で庇いながら見上げる。
「ああああああああ」
からくり人形のような巨大な、バラバラな女の子は声を出して叫んでいる。
ばっといきなり夜色のビロードに彼女たちは囲われ、その紺色がゆらゆら揺れるのが見える。
すると金の鳥篭の格子が囲うように伸びて、そこに収められてしまった。
ララはその端の格子のところまで走り叫んだ。
「出して!」
いきなり大きく動き、ララはその隙間から転げ落ちた。
「………」
柔らかな上に落ち、ララはその灰色の、毛並みだったのだが、それにうもれながら見上げた。
ここはどこかの室内だった。そして、毛足の長い猫の背に降り立ったのだ。
紺色のビロードを掛けられた鳥篭が卓上にある。とても大きな女性がいて、そのビロードを捲り上げると、黒いシルクのリボンで捲り上げた部分を留めた。
鳥篭にはからくり人形が収められており、静かに座っていた。
それでも顔を斜めにうつむく瞳はララと同じ深い水色。哀しげに見える。それが今のララには分かる。
「きゃ!」
いきなり猫が動き、ララは長い毛につかまった。毛の森で猫は飼い主に飛びつき、卓上の鳥篭の横に来た。
ララはそこに気づかれないように降り立つ。
女の人は猫を一度抱きかかえてから頭を撫で、一人部屋を出て行く。
ララは人形を救い出すために、猫に話しかけた。
「ねえ、あなた!」
猫は耳をぴくっとさせ、卓上のララに気づいてすぐに横に来た。そして動くララで遊ぼうとしてくる。
ララは動き回り、格子を行き来すると上手に猫の爪が籠の扉を開けた。
いきなり人形の眼が動いて、そして動き出してその鳥篭から出てきた。
猫は驚いて走っていき、ララは人形の手に救い上げられた。
人形の少女は嬉しそうに目を光らせ、そしてララを口のなかに落とした。
ララは叫び、ころころとまたあの体内を滑っていく。
硝子張りの体内は金の額縁に様々な臓器がある。そして硝子の空間に降り立つ。
「駄目よ。悪戯したら」
女の人の声が聞こえる。猫が短く鳴く声がして、またララの収まる人形が動いた。
再び鳥篭にでも収められたのか、ぼたぼたとララの上から水の雫が落ちてくる。
ララは上から吊るされる金のチェーンを掴んで、叫んだ。
「ああああああああ」
がばっとララが起き上がると、そこは自分の部屋だった。
横を見ると、人形。
ララはそれを抱き上げてナイトテーブルの鳥篭に押し込んでいた。
「……また、一緒にいる夢、見ましょう」
夜の差す人形の頬に涙を見た気がして、ララは途端に急いで人形を出して抱きしめた。
「横にいるのに寂しいのね。そんな顔をするなんて、罪な子」
ララは抱きしめながら再び、眠りに落ちた。
今度は人形と野原で遊ぶ夢を見ながら。
また目覚めれば、人形がどんな顔をしているかも分からない夜のまま。
寒空
バイオリンケースを手に、秋の暮れの風景を見つめていた。
紅葉の季節はもはや過ぎ、あと半月もすれば雪が梢に舞い落ちる季節となるだろう。
柔らかな落ち葉の下から枯れ草色の丈の長い芝が見え隠れし、その間に松ぼっくりやどんぐりが身を寄せ合って転がっている。
それもいずれ雪に埋め尽くされ、土を凍てつかせて土に眠る生命を包み込むだろう。
今は大地を踏みしめ、ブーツを少し土に濡れさせた。黄色や橙色の湿った紅葉が張り付く。
曇った空に、びゅううと寂しげな風が吹き流れて、空行く鳥は急いで冬支度にいそしみ羽ばたいていく。
もう一羽加わり、番となって飛んでゆく。こことは違って、向こうの針葉樹の暗い林の方へ。
「響子」
「ルイス」
演奏会のパートナーのフルート奏者を振り返り、ルイスは寂しげにはにかんだ。灰色の空と、何枚か色づく葉を残す木々を背にした彼は、とても痩せて思えた。
心は空を飛ぶあの美しい鳥の恋人たちのようにはなれればいいのに。
空は心を映したまま薄墨のように広がり、どんどんと記憶が落ちてゆくかのように枯れ葉は舞い落ちていく。そして、あとは林のように暗い暗い思い出だけが横たわる。
その私の思いからまるで逃れるかのように、二羽の番は林から舞い戻り、また広葉樹に囲まれるこちらのほうへとやって来ては梢に停まった。そして枝先の木の実をついばみ始める。
風や小鳥や葉掠れの音に癒されたくて耳を澄ませる。
彼の緑の瞳も、うなじで縛られた黒髪も、骨ばった頬も、美しい唇も全てが愛しいのに届かない。今日の演奏でよく分かったわ。
パートナーという関係性で、諦めるほかないこの恋心だけでルイスをここに留めさせることなどできない。
ルイスはル・メイ嬢との婚約が決まったのだと昨夜のセッション後に私に告げた。だから、これ以上はもう共にいられない。明日の公演が最後の演奏になるだろう、と。
十一月も末には、彼は母国へ帰ることは半年前から分かっていた。だから、一日一日を確かめ合うように、音を合わせあっては刻を共有してきた。
ずっと諦めなければと思う気持ちと、国に帰るだけならばまたフランスに会いにいけるという気持ちとが反芻しては交じり合うようだった。
でも、ル・メイ嬢との婚約の話が突如私のもとへ舞い降りてきた以上、ルイスは本当に私のパートナーではなくなってしまう。
その胸に手を伸ばしたい想いを、強い想いを、うつむくことで必死に抑える。ケースを持つ手に力を入れていた。不自然なほどに。
「響子」
気遣わしげな声。私は顔を上げられずに、しばらくしてふわっとしたぬくもりに顔を上げた。
黒のタートルネックの彼が目の前にいて、私の肩から焦げ茶ビロードのジャケットがかけられていた。ルイスは悲しげな目元をし、泣きそぼる私の顔を見た。
「ぼくは……」
私は首を横に振って、バイオリンケースを抱えて微笑んだ。
「大切な演奏だったのに、二回もミスをしてしまったわね。あんなこと初めてで、本当になんて言えばいいか分からな」
ゲランの夜間飛行の薫りに包まれて、彼の細身の腕が巻きついた。
「しばらく……こうしていて」
静かな嗚咽で言っていた。もう共にはいられない、演奏パートナー。恋の終わり。
今だけ、今だけは別れのためのぬくもりを、この優しい抱擁を許してください。
そしてルイスは長い間を越えて、そっと私を離した。
私は彼を見つめ、微笑んだ。崩れそうな心を拾ってくれた、まるで落ち葉をそっと拾い上げるかのように。
「また、いつか……」
月の顔
月の輪は月の女神に恋をした太陽の神が贈った指環。
星の瞬きはまぶたの瞬き。夜風は彼女の流れる髪。夜の海は彼女の衣装。
美しい夜の世界を太陽は知ることは出来ない。
昼の月は白皙の顔。太陽神をそっと見つめている。
太陽は白月を楽しませるために緑を鮮やかにし、河を輝かせ、山々を照らす。
夜の月は花々を照らし、梢の先に星を飾らせ、夜風で泉の水鳥を包みこむ。
彼女の瞳
欅の下の街角で小さな椅子に座り、ペンタブでストリートアーティストをする僕は、コーヒーのカップをちょうど置いた視線の端で、目の前の椅子に誰かが座った気配を感じた。
甘い百合が薫り、コーヒーの薫りが塗り替えられた瞬間だ。
視線が吸い寄せられた先、木漏れ日がちょうど揺れる白く狭い肩口には、奇妙な<二本線>が入っていた。
木陰に入る顔をふと見たが、一瞬の眩しさになれた目ではその人物も翳って判別できなかった。
しばらくして目が慣れると、そこには百合のままの女性が座っていた。現代風でもある白いヴィクトリア調のドレスと帽子。巻かれた金髪に、水色の瞳。薔薇色の唇は柔らかな花びらのように弧を描く。
肩と共に、腰元から後ろ下がりのレースでガーターベルトの脚が覗く。
そして、その彼女の肘も、手首も、指も、吊るされたストッキングの膝にも、例の二本線が刻まれていた。
「えっと……」
目を凝らさなくても分かる、間接を繋ぐ球体の一部が見える。
彼女は、人形だ。
知らぬ間に、等身大の人形を置かれていたのだろうか。
「あの」
僕は驚いて喋った人形を見た。
「私をお描きいただけないでしょうか。時間が無いのです」
「あ、えっと」
人形は美しく作りこまれた顔で言う。だが、口はやはり動いていなかった。
僕は戸惑いながらも、タブレットでスケッチを始める。狂った場所の無いその人形は、スケッチのしやすさと共に、自身の力量の試されるものでもある。人間のような狂ったバランスは微塵も無く、完璧な形態だ。
苦手といえば苦手でもあった。なぜなら、その魅力に吸い込まれてしまう。そうすると、僕は人間を描けなくなるからだ。不均等の美しさこそがいいのだから。
感情で泣いて怒って不機嫌で暗くなって笑って微笑んでちゃめっけのウインクをくれる、感情のある人。
だが、その人形は寂しげな顔をしていた。木陰に座る彼女は、明らかな人形の痕だけを克明に光らせて、木の下では泣いて思える。
「何かあったの」
僕は描きながら聞いた。
「私はもう少しで、とある姉妹のもとへゆくことになったのです。人形作家のもとを離れるのです」
水色の瞳は瞬きこそはしないが、丹念に埋め込まれた金の睫毛も、ほんのりと乗せられた薄薔薇色の頬も、今にため息のためにふるっとふるえそうだ。
「私の思い出を、作家の手元に残しておきたいのです」
これは人形の作家への恋なのか。だんだんと昼の陽が彼女を斜めから照らし始める。
「喋れるのなら、その時間までをその人形作家さんの横にいて喋って、写真を撮ってもらえばいいのに」
「作家は私の声は聞こえないのです。何故なら、様々な構想を練る間には私のことを見て、心の声を聞いています。けれど、それも作り終えて唇に筆を滑らせたときにはもう完成しているのです。すると、もう伝える時には作家は次の構想に入るのです」
「一つの作品に目を向けないのかい? 君を作った作家は」
「心の目は向けないのです。魂が宿ったときには、作家の心がすでに私の箱に入っているので、一心同体となって作家の宇宙の一部に取り込まれるから」
スケッチを終えると、タブレットを操作してその上に重ねて描き始める。
「あなたもそうですか? 絵を描き終わって、データを依頼者へ送れば、もう他の人の顔を描き始めて描いた絵の人物を忘れてしまわないですか」
「僕はね……」
ペンタブを操作しながら言う。僕の持つタブレット画面に描かれる彼女にも、同じように木漏れ日が射す。とても、和やかな顔をして。
「あらゆる作家の心はそれは分からない。けれど、こうやって描いて自分もデータに保存して、HPで紹介して、一枚一枚にその時のエピソードを加えるよ。どんな気持ちを読み取ったか、どんな会話が印象に残ったか、素敵なところも、思ったことも。画家も、作曲家も、職人も思い入れがあって作るはずだから、今は君を見てくれない哀しさはあっても、絶対に忘れることなんか無いはずなんだ。ふと、思い出すものなんだと思うよ」
僕はちょっと悲しくなって微笑み、彼女を見た。
半身を陽に照らされて、人形は座っている。
慰めにはならないかもしれない。自分の考えを言ったところで、他人の感情などは違ってしまうし、酷い人間もいる。そんなものを知らない人形もいるのに、それを読み取ってしまっては可哀想だ。
だから、僕が出来ることは、彼女を柔らかく美しく、感情のままの純真な姿で描き、作家のデータに残してあげること。
二時間して、描きあげたものを人形の目の前に見せる。
「素敵」
「メールを教えてくれる? データを送信するよ」
人形は作家のアドレスを僕に伝える。僕はメールフォームを開き、完成した絵のデータを送った。
顔を上げると、彼女はすでに光りに包まれていた。
彼女は微笑んでいた。
ピピ
僕はふと顔を向けて受信ボックスを開いた。すると、先ほどの受信者である作家から返信が来ていた。
『あなたは表の路地の絵描きだね』
向こうから青年が走ってくる。辺りをきょろついていて、僕は人形を見た。彼女はだんだんと、光りに紛れて行く。
「姉妹に大切にしてもらうんだよ」
人形は光りとなった。
青年が僕の前まで来た。
「何故彼女を知って?」
「さきほど、僕の前に来たんです」
「魂が……?」
青年の目からは、涙が一筋流れ落ちた。
「どうしたんです」
僕は戸惑って、彼が人形の座っていた場所に重なるように座った顔を見た。
「今さっき、メールが届く直前に連絡が来たんだ。人形を運んでいる列車で誤って箱を倒してしまって、それで」
僕はあの美しかった人形をすぐに思い出せた。木漏れ日の下の彼女。完璧な美。そして儚げな微笑みを。
「修理は出来る。けれど、同じ人形じゃなくなってしまう」
僕は落ち込む彼を見て、瞬きした。光りに紛れて、顔や腕に傷を負った人形が腕を作家の肩から回し、微笑んで彼を包んだ。
それは、陽に包まれる作家がふと顔を上げたときにさらさらと溶け込んで光りのヴェールに変わって行った。
「さっき、百合の薫りがした気がした」
作家はずっと、肩越しの木陰を見つめつづけ、涙が光っていた。
僕は、自然とその横顔をタブレットにスケッチしていた。
「彼女はここにいたんだね」
作家は言い、微笑んで僕を見た。僕は微笑み返してうなづき、スケッチを続けた。
初めての不思議な一組のお客様の二枚の絵は、僕の心の想い出の箱に一つの彩を添えた。
2017.12.8
マリーの林檎の木
第1章 丘のおうち
マリーは丘の上に住む五才の女の子。
彼女は草原に寝転がり、緑の風を受けて青い空を見つめています。真っ白い雲が流れて行くさまをいつまでも見続けることが大好き。いつだって飽きることはありません。
草原を風が撫でていくと、小さなマリーのほっぺたも優しく撫でていくのです。この季節の息吹はさまざまな薫りを乗せてくるみたい。
草原は丘になっていて、その周りを林がぐるりと囲っています。なので、その林に咲く木の花の薫りは時々ここまでやってきて、彼女を楽しませました。パパが馬に乗って帰ってくる週末は、いつだってマリーを連れて行ってくれて花のなる木の場所を回ってくれます。彼女はまたパパが帰ってくることを心待ちにしているのでした。
彼女はざわざわという包み込む音で身体を起こし、白いおうちの横にあるリンゴの木を見上げました。太陽があがっているので、眩しそうに目を細めて。木の葉枝の向こうに白い太陽がまっすぐの光りをよこしてきて、ゆらゆらと揺れ動きます。
彼女は立ち上がると、草によっては腰あたりまである草原を走っていきました。
リンゴの木のところに来ると、彼女はにこにこと微笑んで見上げました。
初夏のこの季節は、リンゴの木は真っ白の花を可愛らしくつけてくれます。そして夏を越えて秋から冬にかけると紅色の実が木々を飾ります。
今、風によって純白の花弁が木々から離れて飛んで行きます。青い空に弧を描いて吹かれていきます。それと共に、とても素敵な薫りがするのです。
マリーは幸せになってからだを抱きしめ、リンゴの花の薫りをおもいっきり吸い込みました。
「なんて良い薫り!」
水色の目を開いて、金髪はきらきらと風にそよぎます。
「ねえ、リンゴの木さん! あなたにはとっても素敵な精霊さまがいらっしゃるのね! こんなにも素敵な薫りを身にまとう精霊さまが!」
マリーはうれしくてリンゴの木に触れました。
ただ、マリーはこのリンゴの木の実をじかに食べたことはいままでありませんでした。なぜなら、このリンゴはとても酸っぱい品種らしくてとてもじゃないけど普通にかじってたべることが子供のマリーには無理だったのです。
ママはママのお父さんの時代からこのリンゴの果実を収穫する時期は、甘い甘いお砂糖をたくさん使ったジャムにしてくれたり、このリンゴの花で取れたミツバチの蜂蜜をたくさんいれたリンゴパイをつくってくれたりしたのでした。
それは今でもママがそれを引き継いで、マリーに甘い甘いリンゴジャムを乗せたパンを焼いてくれたり、パイ、ジュース、コンフォートを作ってくれるのでした。
リンゴの木を見上げていますと、今年も蜜蜂がとんでおり白い花のまんなかから黄色い花粉をたくさんつけて踊っています。マリーは蜜蜂を見上げ、微笑んで空へ飛んで行く姿を見送ります。マリーも蜂蜜採取の時期になると造った箱から蜜をもらいました。そして蜜蜂たちが冬を巣のなかで越せるよう、いただいた大切な蜂蜜の変わりにたくさんの砂糖水を巣のなかに入れてあげるのです。
この時期はママがリンゴの花から香水をつくってくれます。その時はママのお姉さんもやってきて、一緒に花を蒸留するのです。そしてリンゴの花をバスタブにうかべてお歌をうたいながらのバスタイムも彼女のお気に入りでした。
マリーは飛び跳ねてリンゴの木の周りを踊ります。
ふと気づいて、立ち止まって木の横を見ました。
「こんにちは」
マリーはにこにこと微笑んで挨拶をしました。
それは黒髪に青い目の男の子で、マリーよりも背が高く、少しおにいさんのようでした。
「こんにちは」
その少年も挨拶をしました。
「あなたはどこから来たの?」
マリーが首をかしげて問いました。
少年はリンゴの木を見上げて、その先の青い空を見ました。
「お空から降りてきたの?」
彼は微笑むだけでした。マリーは心が躍って手を取り合って一緒に走って行きました。
少年は夜になると再びやってきたようです。
マリーが眠りへといざなわれるかと思われたとき、窓をこつこつと何かが叩く音がしたのでした。
目を開いて、暗いお部屋から少しは明るい窓の夜を見ました。
ベッドから置き、窓を開けました。
すると、あちらから淡いピンク色の灯火がてんてんと灯っているのでした。それはちょうど、リンゴの木の場所です。
彼女は一気に笑顔になってパジャマのまま外へ躍り出ます。夜の草地を走り、リンゴの木の前まで来て見上げました。
それは枝にピンク色のガラスのランタンがいくつもかけられてぼんやりと光っていたのでした。優しい光りはまるで雲の向こうに見るおぼろ月みたいで、とてもロマンティック。
純白だった花は淡くピンクに染まり、そして夜もリンゴの花が薫るのです。とても幻想的なさまにマリーは頬を染めてうれしげに見上げます。
「とても素敵な贈りもの!」
マリーは木々を見上げていると、あの少年が枝に座って微笑んでいる姿を見つけました。白い頬はリンゴの花の様にピンク色に染まっていまして、瞳もこうこうと光っています。どこかそれは神聖な瞳の光りに思えます。
「まあ!」
マリーは手を振ってくる少年に手を振り返します。
マリーは少年の名前を知りませんでした。なので、なんと呼べばいいのか分かりません。
少年が木から下りてくると、マリーのところへ来ました。彼からは甘い薫り、リンゴの花が薫ります。
「約束とおり、また遊びにきてくれたのね!」
「うん」
昼下がり、別れる前に言い合ったのでした。
マリーは木の下に座り、彼と一緒にリンゴのクッキーを台所から持って来て食べたのでした。
「一緒に林にいこうよ」
マリーは驚いて少年を見ました。
なぜなら、やはり林は夜になると真っ暗になってとても怖いところだからです。
少年の横顔を、彼が一つ下ろしたピンクガラスのランタンが照らします。ちょっと、妖しげに……。
第2章 林の夜
少年は「大丈夫だよ」と言ってマリーの小さな手をにぎりながらもう片手にはピンクに灯るランタンを下げ、歩いていきます。
夜の梟がときどき鳴いているのが聴こえます。
マリーは丘を歩きながら、背後を振り返りました。闇につつまれたおうちは黒いシルエットです。そしてリンゴの木はいぜん優しげなピンク色に光っていました。
マリーは少年について歩いていき、林が近付いてくるのでした。
どこからか、やはり林に生える花のなる木の薫りがします。それはやはり週末に帰ってくるパパとともに馬に乗って散歩にくるときと同じ林の薫りです。
少年は闇を臆することなく歩いていきます。前に掲げるランタンは少しだけ先を照らしますが、少年の目にはまるで林のじょうけいがもっと分かって見えているかのように進んでいくのです。なので、少女はどこか安心してついていきました。
初夏の林の夜。
それはいろいろな植物があります。花も草も木々も。夜でも生命はみなぎって思えるのです。それは植物達からまるで光りの玉が生まれ漂って発されているかのように感じるのでした。それが昼の明るいときには、溢れんばかりの輝きとなっていつでもマリーの心をよろこびとして奮わせるのでした。
静かな林は、時々夜行性の動物たちの鳴き声がします。それごとにマリーは興味深げに、しかしやはりちょっと怯えながら少年の腕に巻く手を強くしました。
「僕がいるからね」
少年が言い、マリーは見上げて頷きました。
「もうすぐだよ」
二人が夜の林を歩いていくと、少しひらけた場所に驚くような大きな木がありました。
今までこんなに大きな木は見たことがあったでしょうか? マリーの記憶にはありませんでした。
「まるで林の神様みたい!」
マリーは首が痛くなるほど見上げて、そして気づいたのでした。少し広場になったところなので月の光りでそこいらは明るく照らされ、木の全貌が見渡せていることと、そしてそれにはなんとも美味しそうなリンゴの実が黄金にそっと光っているのだと。まるで金の月光がリンゴの実に映って光っているかのようですが、それは一つ一つが光っているのでした。今の季節になる変わったリンゴは、とても甘く思えるのです。巨大な木からは爽やかな薫りが充ちています。
マリーは少年を振り返りました。
彼はマリーと手を繋ぎながらランタンを下げ、ただただ佇んでいます。どうしたというのでしょう。
「マリー。僕はリンゴの妖精なんだ」
マリーは見上げたままリンゴの木と少年を見比べました。
「昔、君のおじいさんが僕のママの木の横にあった苗木を持って帰ってね、君のうちの横に植えたんだ」
横にいるマリーの顔を小さく微笑んで見下ろすと、しゃがんで金髪を撫でてくれました。それは安心するものでした。
「僕はいつも薫りになって風に乗ってママの木のあるここまで来ることが出来たんだ。こうやって僕がこの姿で生まれることが出来たのは、マリーが僕の木の横で毎日のように願ってくれていたからだよ」
優しく微笑む少年の顔は、どこかマリーを悲しくさせました。だって、どこかにお別れが待つような感じに思えましたから。
「淋しかったからあなたは甘くなれなかったの?」
あどけない声がマリーから降ってきます。
「もうこうやってしっかりと会いに来れたから、頑張って甘いリンゴになれるかもしれないよ」
少年がにっと微笑み、マリーの頭を大きく撫でました。
マリーはうれしくて微笑み、彼の背後に聳え立つ大きな木を見ました。まるでそれは彼を優しく迎えてくれたかのようです。
「僕はママから離れて、マリーに出逢えてよかった。いつも楽しい歌をきいていたんだよ。マリーのママもとても綺麗な声でリンゴの歌をうたってくれていたんだ。だから、直接言えなかったけど、マリーのおじいさんにも『ありがとう』って、言いたかったんだ」
マリーがにっこり微笑んで頷き、共に木を見上げました。おじいさんが彼女も大好きでした。黄金に光るリンゴは不思議な果実で、その一つが落ちてきて二人のあしもとに転がってきました。
少年はそれを拾いました。
「マリー」
リンゴは光って彼の手や顔を照らします。とても頼りある光りでした。マリーのおうちのよこにある木が少年のように優しい光りに充ちていたことと同様に。
「僕の変わりにこのリンゴの種を君のおうちの横に植えてくれる? そしたら、僕に弟が出来るんだ」
マリーは少年からリンゴの実を受け取りました。厳かに光る果実を持つ笑顔を照らして。
第3章 緑の萌黄
マリーは十七才の乙女になっていました。
彼女のわき腹で支える籠には、とても美味しいリンゴの実が。
彼女は微笑みながら収穫します。
丘の上の青い屋根の白いおうちには、リンゴの木が一つ、それともう一回り小さなリンゴの木が一つ。
どちらも甘い甘い実をならせるのです。新しいリンゴの花と、今まであったリンゴの花の花粉が蜜蜂によって交配されて甘くなったのです。
「あら」
マリーは微笑み、リンゴの木の下にリンゴの苗木を見つけました。
美しい乙女はゆるく三つ編みに結われた長い金髪がさがる肩に十分な陽を浴びています。そして、振り向くとそこにはリンゴの薫りのする青年がいて微笑んでいました。そしてマリーが視線を戻したその先、若いリンゴの木の横に、少女のころよく遊んだ少年とそっくりの男の子がいて二人に微笑んでいます。
しかし、その青年と少年は、マリー以外には見えません。彼等三人は秋の日差しに微笑み、青く高い空を共に見上げたのでした。
いつまでもしあわせのリンゴの実がなる丘のおうちで、過ごしてゆくのです。
脳裏によみがえります。昔ママと歌ったリンゴの唄。少女のころ、金髪をかえしながら踊り歌った唄を、今は少し大人になった声で歌うのです。リンゴの精の彼らと共に……。
おわり
2014.10.17
村雨
一人の男が蓑を高い背にまとい、こうべを垂れて歩いていた。激しく降りしきる村雨は、先ほどまで竹林を歩いていた折には微塵も感じることのなかったものだった。しかもこの時期の冷たい雨には極力ぬれたくなかったためにまとっている蓑や笠でさえも横から吹く風に雨はさらされ、ぼろの着物はぬれてしまった。
旅人である男は息を抑えて口を締め一歩一歩水のはね続ける地面を見ながら進んでおり、遠くをいかずちが幾つも轟き駆け抜けていく。視線だけを笠から覗かせ向けると、霧煙る遠くの山々の上を大蛇のようないかずちが走っていくのだ。ざんざんと降る雨。いきなりの事だったから、今に雷神様の気も治まれば止んでくれることだろう。
とにかく、ここは少し急ごうか。わらじをじゃぶじゃぶとさせながら男は小走りで路の先にある木の下へと向かっていった。一、二軒ある農家の間を走り抜けながら。
娘は既に軒から干してあった柿をざるに乗せ仕舞い終えており、木の戸を雨が入らないように閉めたところだった。
「すぐ止むじゃろうか……」
少し隙間を空けて灰色の空を見る。腰で支えるざるの上の柿はまだ昨日干し始めたばかりだった。この民家の横にある柿の木にはこの風に煽られて一、二個の柿の橙色の実がごとりと落ちたところだった。そちらから顔を戻し、もう一度空を見てから戸の横にある瓶の上にざるを置き、しっかりと戸を再び締めようとしたときだった。
見かけない背の高い男の影が疾走していく。
「!」
娘はひいっと叫んでとたんに戸をびったりと締めた。
「あ、ああ、」
背を震わせたまま、ごくりと息を飲み口を引き締める。
「どうした」
「うわあ」
娘は土間から父のいる背後を振り返った。必死に首を振り、見間違いだと言い聞かせる。
大きな樫の木の下に来た男はようやく一息つき、固い葉の裏から空を見上げた。外には誰もおらず、どこか淋しい村だ。人っ子一人他の旅人さえすれ違わなかった。確かに、どこか秘境の湯治場があるでもない、都を結ぶ村でもない、どこにでもある穏やかな村だ。
「………」
「いいですかな」
男が背をつける大木の裏から声が聞こえた。男は蓑の水気を払いながら振り返る。
「いやあ、驚くほどいきなりでしたな」
どこか上品な顔をした男が現れ、彼も随分と濡れそぼっていた。どうやら男とは逆の方から走ってきたらしい。のんびりとした山々がその背後に広がっている。
「ああ、本当に」
男も小さく口端を上げて微笑み、笠も取って足元に置く。
「すぐに止みましょう。村雨でしょうから……」
妙に白い肌が目につく。男も頷き、しばらく二人は雨を見ていた。
この村ではこの時期の村雨には妖かしが出るといわれている。そのためもあり突然の雨が降り始めると誰もが屋内へ引っ込み、静かに過ごした。
娘もそれを当然の如く知っているわけだが、先ほどの様に誰かを見たことは初めてだった。向こうのところの若夫婦の夫には到底思えなかったし、蓑をまとってどこか不気味だった。曇ってたからだろうか?
夕餉をつくる刻になる頃にはすっかり止んでしまうだろう。井戸から水を汲んでこなければならない。納屋にも大根を取りに行かなければ。娘は柿を屋内につる下げながらそれらを考えていた。
村雨に現れる妖かし。それは村人から怖がられていた。正体も分かりはしない何者かの影は、雨音に紛れてやって来て見たものを闇へと引きずり込むという。
旅人は自分よりは少しは若いだろう青年がほっかぶりを取ると、随分長い髪をしていると知った。どこかの宮司だろうか。神聖な風も先ほどから感じるが、まるでその目は鋭くてただただ雨を見つめている。
男がこの木の下から見える農家を見渡した。路をはさんで二軒ある。どちらも硬く戸は閉ざされていて、一瞬戸を叩こうと思ったのだがどうも隙が見られなく陰鬱な気持ちになってきた。寒くて震えるし、先ほど竹林で通った村で買ったヒエ饅頭を食べてしまったばかりだった。竹の水筒の茶でも飲もうと思ったが、横の青年を見上げる。
「もし。あんた、都のものかい」
「いいや。わたしはここの者だ」
そろりと青年は見てきて、まるで鈍い銀の様に黒いはずの瞳が光った気がした。男はその能面の様に冷たい顔をみてぞくりとし、前を向き直った。
どこか不安になり男は民家へ向け早足で歩いていった。
「へえ。なんだぁ?」
囲炉裏から顔を戸へ向けた娘はトントンという音に応えた。
「もし」
「………」
父は娘と顔を見合わせた。
「もしもし」
「?」
どうやら相手は二人いるらしい。
「どうやら違うらしい。とっちゃん」
妖かしが二人ということは今まで聞いたためしは無かった。父は首をしゃくり娘は頷いて框から草履を引っ掛け戸へ来た。
「へえ」
どこかの旅人が雨に困ってるかもしれない、と思いながら戸をあけた。
「………」
娘は低い背から暗い陰を見上げた。さっきの気味悪かった陰だ。
「あ、ああ、」
だが、その蓑の大男は青ざめた顔をして、横を見ていた。
男はすぐ横にいた青年を見て、その本人は灯りの漏れる屋内を感情の無い顔立ちで見ていた。
男はこの農家の娘を見ると、その奥にいる老人を見る。
「実は、いきなりの雨に打たれてしまい寒くて仕方が無い。申し訳ないが、どうか身体だけでも休ませてはもらえないだろうか」
「まあまあ、それは大変でした」
娘は二人をぎこちなく迎え入れた。
「ただいま夕餉の支度もしとりますだで、あがってくんなまし」
男と青年は土間から上がった。
父は元が無愛想な顔なのでじろりと二人の旅人を睨みはしたが、追い返すほどの性格ではない。彼も立ち上がり背を向けると瓶から漬物でも取りに行って小皿に乗せて出した。娘は沸いた湯で茶を淹れて出した。
「どうもありがたい」
「充分温まってくだされ」
男はようやく落ち着き茶を傾け笑顔になり、しかし青年は微動にもせずに見下ろしているだけだった。
雨は止んだが今日一日休んでいかれるといいとの好意の声に、疲れていた旅人は感謝して床を借りることとなった。
夕餉のときも、父との晩酌のときも男は陽気な性格だと知って父子はすっかり安心しその話にまで至ったのだった。だが、依然青年はというと無口なままだった。
木の戸の少し開けられた格子からは、窓の向こうを三日月が明るい。横になる青年の白い顔はすでに青白く思えた。とても静かな夜で、男は朝が明けたらとっとと逃げるようにでもこの村から離れようと思った。既に久し振りの旅人によろこんではしゃぎ酒に酔った娘は眠っていたが、しっかりものなのだろう、父の方は目を綴じながらも起きているらしい。
男は故郷に帰るまでに初めて立ち寄ったこの村の名前さえ知らない。ただ路を聞くうえでこの場所があり、越えてから路を左にそれて真っ直ぐ行くといいと聞いたので通った村だった。
男は旅の疲れもあり、結局はうとうととし始めてしまった。
娘は暗がりをどうやら歩いているらしかった。竹林はよく通る場所であり、その先には小さな社があることを知っている。だが、暗闇に沈みかけるここを歩いていてもどうもたどり着けない。昼にはよく遊んできた路で陽が笹から射すと明るいのだが、夜だと怖いのはどこも同じだ。月もあまり明るく照らしてくれないが、おかしい。あんな形にまで月は充ちていただろうか?
ふと気づいた娘は振り返った。
「旅人の方」
あの面白い旅人の男がわらじで歩いてきていた。だが、ちょっと惚れてしまいそうなほど顔表の良い若い人の方はいなかった。面白い旅人様は気強くてどこか恐い顔をしているが、豪快に笑うと血色の良い顔になったものだ。
だが、おかしい。確か器も洗ってしまったら杯も下げて皆で床に入ったというのに出歩いているのだなんて。
そしていつもとどこか違う竹林の様子に、もしやこれは夢なのじゃないかと気づいたのだった。
青年は夢に誘き寄せた若い娘と旅人の男を闇の先から見ていた。もう既に雨は止んだというのに、男の足元にだけは水に浸されている。向こうを歩く旅人の股引も脚伴(きゃはん)も夢のなかでは乾いているというのに、青年の着る灰色の着流しの裾も黒い鼻緒も濡れていた。青年は喉を鳴らし静かに微笑み、美味そうな二人のところへ歩いていく。
ゆらりと長く尾を引いて髪が流れて、歩くと共に足元の水溜りも移動していく。地面の上を。
ずっと村雨のあの日に社に封印されてからというもの、腹をすかせ続けていた。それはもう何十年も。
今だ美しい表をしたままの鬼は静寂を進んで行き、一寸闇の先から姿を現した。
始めに男が振り向き、やはり青白い顔をして自分を見てきた。不気味なものを見るかのように険しい顔をして。
「なあに。案ずることは無い」
青年は歩き、娘は振り返り男に肩をひかれて後ろへ連れて行かれたのを顔を覗かせた。
微笑する青年を見る。それはどこか、人を離れた何かがありすぎた。
父は静かに眠る娘や旅人の男、それに全く動きもしない青年の寝顔を目を開け見ていた。月光は滑っていく。娘は奥まった場に眠っているので明かりに眠気を邪魔されることなく安眠し、時々旅人は目元に月光が流れてくると寝返った。どうやら浅い眠りらしい。青年はというと、まともに明るい所にいるというものを氷の様に動くことが無かった。突然の雨にまだ体は冷えてでもいるのだろうか。
彼が生まれるもっと前から伝わる言い伝えの内容を知るものは既にいない。なので、社と村雨の妖かしが繋がろうとも知る由もなく、道祖神か延命の類だと村人は思い団子や饅頭を供えて過ごしている。
だが実際、人食い鬼が封じられた社である。その社が鬼から村人を護っている事は事実だった。
今その社は現ではさやさやと揺れる竹林の先で月光と笹陰を受けていた。静かなものとして。だが、夢の足跡は近付いていた。
遠い昔、平安の時代にさかのぼる。
宮に使えていた神社の宮司がいた。その妖艶な男はただ正しい宮司ではなく、夜な夜な人を喰うのだという妙な噂が宮を占めた。あまりに神秘的な雰囲気はすぐに宮の者たちに気に入られはしたが、目をかけた者たちが姿を消していくという不気味なことが置き始めたので、疑われたのがその青年だった。
若くして勤め上げる職務に青年はまじめに取り組む昼の顔を見せるが、裏では巫女達の手玉を取っているのだろうだとか品の無い噂が立ち始めると、ついには宮殿では青年をひとまずこの場から騒ぎが収まるまで遠ざけさせなければならなくなった。それでなければ放っておいていることで貴族達から怪訝の声が広がるばかりで宮の上に立つ人間でさえも繋がりをはばからずにいつのではと思われる。
そんな濡れ衣を着せられた若き宮司は家系からも破門されるのではと懸念を持ちお上の方に弁明を試みたが、噂が強くなるにつけて攻め立てられる声が強くなり、ついには都すらも追い出されてしまった。
青年は上等なものばかり喰う貴族共の肉を身近で食えなくなると分かり、都を暗い目で見ては去っていった。
娘は暗い夢の先、青年を男の背後から見た。それはどこか今にも人をとって喰いたそうな冷たい顔をしている。表情もなく、薄い唇は閉じ、そして目元は感情なく見下ろしてくるのだ。
「お小枝。この者はどこか妖しい」
娘は男の腕を掴み、いきなりざっと進んでくる青年を目を見開き見た。その目は静かに光り、そして夢と現がゆらめくのか厚い雲間からゆらりと月光が覗き始めた。早く満ち欠けが始まり三日月へとなっていく……。
青年はあの時のことを思い出す。幾つも山を越え村に逃れてきたとき。鬼退治の男まで追ってきて空腹に耐え切れずここの村人を食べた。激しい風が吹いていた。髪がうねり顔に張り付き肩になにかを感じた。札の圧力を。そして、目を見開き鬼は人間を見たのだ。
「ひええっ とっちゃん助けてくろ!」
青年がざっと妖しく微笑しそこまで歯が近付き、いきなり何かに腕を掴まれて娘は目をぎゅっととじて旅人の腕にしがみついた。
うなされて叫んだ娘の腕を引っ張った。
「目を覚ませ!」
「うううー、」
男は青年の胴を蹴り退かして、青年はばしゃんとその場所だけ現れた水溜りに音を立てた。夢から引き起こされた娘は幻の先へと現を帰っていき青年は水溜りに身体を捕らえられて再び動けなくなった。
「………」
男はその足掻く青年の向こう、竹に左右を囲まれた路の向こうに現れた石の社を見た。それは周りが水溜りになっておりだんだんと青年の半身の浸かる水溜りに近付いてくる。
男は意味も分からずにただただ瞬きを続け見ていた。能面のようだった青年の顔は今どうにか抜け出すために腕を伸ばしたり見回しており、先ほどの一瞬の恐ろしかった陰も感じない。
「手をこちらへ」
青年は男を見た。
「………」
だが、その声よりも札のある社から伸びた水路の方が早かった。
「!」
長い髪を引きつれ青年は社へまるで引き戻されていき水しぶきが舞い、男は驚いてカッと光った社を見た。
巨大な山伏のような男が陰影となって一瞬現れ詞を唱えて竹が振動し、青年がその下の社の扉へ消えていった。
「………」
不気味な風がゆるく流れて行き、何事も無かったように三日月を竹笹が撫でている……。
社で青年は閉じ込められ、暗がりからじっと定規縁付扉の先を見上げていた。暗い目元で。
竹がさやさやと幾重にも波の様な音となり社に響き渡る。それはすでに小夜曲ともなっていた。まるで水溜りの底に沈む音の様に。
闇の内側で青年から鬼の姿へ、その姿から青年へ変わりゆらめき、格子から入る光りが照らす。
「………」
幼い頃から社に花や団子を備えてきてはその社の前で走り回って遊んだり、トンボを追ったり、転んで泣いたり、肩車でつれてこられたり、おむすびをおいていったり、だんだん娘になっていくお小枝の姿が何故かその月光の先に浮かんで浮遊した。
『宮司様は本当、澄んだ目をしておられる』
巫女がいつだか言っていた。食べようと目を光らせた刹那だった。意味不明なことを言ってきて命乞いかと思ったが、そこで宮の者に呼ばれ追放された。その巫女はどんと構えた目をしていた。他の者のように逃げなかった。意図をさぐる前に都を追われた。
『お社の神様は、どんな顔したお方じゃろか』
澄んだ目をした小娘は太陽を背にたんぽぽをたくさん手にしていた。それを社に供えてきた。そんな喰えもしないものを。澄んだ目と言うのはあれをいうのだ。
巫女の言った真意など知らん。ただただ、何かを真っ直ぐに求める瞳がそれを思わせたのか……ただ、青年はどうせこれから閉じ込められる日々が戻り、娘もだんだんに年齢を重ねていく風を見ていくのだろう。だがその娘の瞳が曇るなど一生無いのだろうとも、ふと思った。澄んだままに。
夢から覚めると旅人は辺りを見回した。
青年は見当たらない。父は娘の横にいて起き上がった男を見た。
「あの大蛇か何かの化身のような青年は……」
「あの若人かや」
父が背後の明るいほうを振り返ると、何時の間にやら青年の床は空っぽになっていた。娘のうなされる方へ駆けつけ背を向けたうちに。
男は完全に雲が流れて行き晴れ渡った夜を格子から見た。
「雨の幻だったんだろうか……」
霧さえも流れていったのか鮮明だ。
男は戸を開け、静かな外を見渡した。まだ地面は濡れている。それでも気配は無く遠くの山々はやはり月光がくっきり照らして霧の気配は去っている。
「この時期の村雨は妖かしと出くわす……」
男は背後を振り返り、老人を見た。
「旅の方。次回ここを通るときは、充分気をつけなされや」
男は頷き、再び美しい夜に挙がる月を見上げる。
また明日の朝にでもこの村を発つのだ。
たしか、ここの娘はほの字の目であの正体不明の青年を見ていたものだった。
夢でははじめおぼろげだった月の様に男はおぼろげに思い、今は繊細な三日月を見上げている……。
2014.1019
愛の懐(あいのふところ)
心の奥はあたたかい
愛とリオ、ふたりの日々
秋の季節はホットミルクに溶いたミロがおいしくなる時期
夜
今日も椿クラブを終えて自宅へ帰ると、リオは微笑んでリビングで迎えてくれた。観葉植物のたくさん飾られる室内は開放的だ。
その手にはマグカップがもたれていて、リオは柔らかな微笑みを称えたままに言った。
「はい。ミロ。今日もおつかれさま」
「ありがとう。いただくわね」
ココア味のドリンク、ミロはいつものように牛乳で溶かれされていて、あたしの体にしみこんでおいしい。
それはリオの存在みたいなもので、心に安らぎも、それに微笑みもあたえてくれるもの。
「今日のクラブはどうだった」
「ええ。楽しかったわ」
椿クラブというのは、一定の趣味を持つ女性達が集って会話をしたり、コスメを習ったり、時に乗馬、お花の美しさをめでたりするクラブ。この夏の時期はハーブティや冷たい紅茶、夏草の観覧を楽しむけれど、今の時期は肌にやさしいハンドクリームつくりや自然石鹸つくりを楽しむ。次回は生成り毛糸で帽子をつくるのだというから、明日はリオに手伝ってもらってカフェを巡りつつも生成りの毛糸を買いに行く予定だ。それに、蚤の市もあるから何か可愛らしいアンティークのものがあれば欲しい。
「これよ。今日作ったの」
あたしはローテーブルの上にシマシマ柄のエコバックから出した石鹸を見せた。
「まあ。可愛い」
「これはね、保湿にいい材料で、ハーブもそのまま入っているの。薫りもいいのよ」
「本当。これから乾燥する時期だものね。助かるわ」
「あとでバスルームに置いておくね」
「うん」
リオはあたしの横に座り、微笑んで頬を寄せ合った。彼女もミロを飲んで、二人でローテーブルに置かれたその石鹸と、春に椿クラブでつくって今の秋の薔薇の時期にもあう薔薇の香水の瓶をみつめた。
「もう少しリオが元気になったら、また二人で行きましょうね」
「ええ」
髪と髪を寄せ合うときの薫り、それに安堵する息遣い。こうやって共にいるって、なんでこんなに涙が出るほどうれしくて、しあわせなのだろう。
窓の外は宵が夜に変わって行く。マグカップから薫るココア。
ずっとこうしてリオといたい。何度もいつでも思う。
一つだけ木々の先に黄金の星があがってる……。
深夜。
ベッドで目を開くと真っ暗な夜の窓は星が光っていた。
今の時期は空が澄んで美しくて、紅葉が始まっている公園や街路樹をくっきりと映えさせる。夕映えの光りも差し込んで美しかった。
今は暗がりは頬を冷やした。柔らかな毛布に再びくるまれて、横に眠るリオを見た。彼女の寝顔を見ると、もしどんな夢に怯えたとしても心がほっと和む力をもっている。
まぶたを閉じてしばらくしてから再び窓の星を見た。
既に月は見え無い角度。星は宵の明星のように孤高に輝いているのではなく、みな寄り添って光っていた。だから、天は寂しくなかった。金星は地球では独り輝いて見える時間もあるけれど、その横には夕陽があり、そして朝陽が昇る。不思議だとおもう。こうやって寄り添っているリオと自分は地球から見える金星と天体みたいだ。離れているみたいで、決して離れてなどいない、宇宙に内包されてる。
彼女はゆっくり起き上がって、リオを起こさないように静かにベッドを離れた。
寝室を出るとリビングまで歩く。壁には和紙にハーブやラベンダー、葉を入れてすいた作品がそのまま漆喰に貼られている。これは去年リオが椿クラブでつくった作品で、今も鼻を近づければハーブが薫った。時々夜に起き上がったとき、この薫りを暗がりでそっと楽しむとよく眠れる。月光や星明りが頬にさしこんで。
リビングキッチンに来ると、棚からミロを出した。詰め替え袋から毎回、蚤の市で見つけたレトロな瓶につめてある。
マグカップにミロの粉をいれ、牛乳の真っ白が注がれてくるくるとココアが混ざっていく。そしてリオの瞳の様な色に変わって行くのだ。どことなく、微笑みが浮かぶ鳶色の瞳の色に。
元々、リオとは椿クラブで出逢った。彼女は北欧から二年前に日本に来た詩人の女の子で、今では友人以上の心をお互いにもっていた。
リオは時々彼女の国の言葉で独特の北欧楽器を奏でながら歌をつくって歌い、そしてどんどん覚えていく日本語でも歌をつくる。それを麻素材で彼女がつくる麻用紙に刷って詩集としてちょっとしたお店に置かせてもらって販売している。
それはテーブルの上にも置かれていて、今も目を通し始めた。
彼女の全ての詩が好き。読んでいると彼女の心にふれることが出来る。言葉に出来ないほどのやさしさを受け取れる……。
朝
目を覚ますと、白い朝陽がやわらかく差し込んでいる。窓にうっすら目を向けると、木々の先から光りのヴェールがやってきて小鳥が何種類かさえずっている。そのハーモニーで目を覚ます毎朝のこと。
秋も深まるとそろそろ小鳥達のさえずりは種類が変わることもある。冬に備えて山へ移動していくのだろう。
横に眠る愛は艶の黒髪に頬を囲わせ、美しい顔立ちで眠っている。
「愛、おはよう」
そっと囁いて髪に唇をよせた。
小鳥達のさえずりを聞きながら、今のはあの鳥、さっきのはあの鳥、と心で思いながら窓のそとを見つめる。時々それらの小鳥が空を翔けていく。
愛が起きるのはいつも七時半だから、まだ起こさないように静かにベッドを離れていった。
窓まで来ると、空を見てから木々を見渡す。すっきりとした朝だ。彼女は微笑んだ。木々の前にある草地の庭には花のなる木や花が植えられていて、露にきらきらと濡れ光っていた。
「美しいわ」
向こうの林には小さな小屋があって、既に5時には目を覚ます森川さんが林を歩いているのが見えた。いつもウルフズドッグを連れていて、椿クラブでも行く乗馬クラブの会員でもある森川さんは現在56歳の男性だ。
彼は気づくとこちらに顔を上げ、会釈をした。微笑んで返す。ウルフズドッグは木々の薫りをかいでいたり、大きな耳を動かして辺りの気配を探りながらも彼の横にいる。
森川さんとウルフズドッグは木々の先へ歩いていき、彼女はベッドに座って愛の髪を優しく撫でた。
愛が振り返って、庭に水撒きに出ていた彼女を迎えた。
「まあ。良い薫りがするわ」
愛はちょうどミトンで鉄板を出していたところで、それを青や白のタイルの敷き詰められたキッチンシンク横に置いた。
「ミロのクッキーを焼いたから、食べて」
「おいしそうだわ」
よろこんでそちらへ行くと、十時のおやつにはそのミロクッキーに生クリームをしぼりはじめた愛に微笑んだ。
「ホットミルクにこの前つくったバナナコンフォートを溶くわね」
「ええ」
いただいたチョコレートをお皿に盛ったものがローテーブルに置かれていた。
「そのお花、綺麗ね」
愛がポットからマグカップにミルクを注ぎながらちらりと見て言った。
「でしょう? グラスに飾るわね」
「うん」
それは青紫とピンクの花は、ヨーロッパの花だ。
「たくさん花をつけてくれたの」
透明のグラスに花を飾る。一緒に草や猫柳も揺れる。
それを見つめて、猫柳をゆらした。ふらふらと揺れてまるで心みたいだ。今、少し精神的に疲れてしまって自宅療養しているけれど、愛が傍にいてくれて本当に良かった。時々浮かぶ詩はふさぎこんだものになってしまうことがあると、愛は無理しなくていいのよ。歌いたい心を聴かせてと微笑んでくれる。不安もすべて受け止めてくれる。元気になるまで。
微笑みは救いだった。
やさしい笑顔は宝物……。
大好きな言葉だった。それを実現できるようになってうれしい。愛がいてくれたから。大好きな愛。
青紫の花とピンクの花はそれぞれが共鳴しあうみたいだ。やさしさと落ち着き。深夜と夕時。自分と愛。どこか、似ている……。
「さあ。いただきましょう」
愛がにっこり微笑んで座り花を見る。
「リオ。花は綺麗ね。リオも花の様な人だとあたしは思うの」
ホットミルクを傾けてから言った。
「まあ。何故?」
「ふふ。わからないわ。なんでかは……でも、理由もわからずただただ花に例えられるあなたって、素敵よ」
彼女はドキドキして愛の微笑みに頬を染めた。
「ありがとう」
照れてしまってそれ以上言葉にならない。クッキーはまるで愛みたいなやさしさが詰まっていた。
つづく
2014.11.23
密かな海の気泡
生け贄もの
深い瑠璃色の海の底の底。
一人の少女が沈んでいく。
舟の上から海に捧げられた生け贄だった。
黒く長い髪をゆらゆらと揺らめかせながら、沈んでいった。
舟の上の男達は青い世界へ飲み込まれていく姿を見送ると、オールを漕ぎ引き返していく。
すると、彼女の体はどこからともなく現れた細かい気泡に包まれ始めた。
そして、不可思議な巨大な泡に包まれていく。
その生け贄の少女の体は、泡によって空の広がる海面へとあがっていくのではなく、沈んでいく。まるでその泡の内部が濃密な酸素をためすぎて重さを伴い、地球の底へと導かれている風なのだ。
少女はその歪みに受け入れられたのだった。受け入れられなければ、ただ沈んでどこかで食べられてしまうだけ。
青はどんどんと濃い青に、そして暗がりが占め始めると、太陽の光がなめらかに上方から射すのみとなって、次第にそれも届かなくなって来た。
深海にまで降りて行く。
不思議な泡は闇をどんどんと降りていく。
重圧で泡はゆらめくだけで、少女は何事もない。
それを初め、不思議に思った発光体の深海魚達は取り囲んだ。少女の包まれる泡や少女を照らして彩っていた様々な光。それもどんどん自分達の体では潜っていけない深さと悟ると、深海魚達は引き返して行く。
大きな気泡に光を跳ね返さなくなって行って、常闇の占める渓谷へと沈んで行く。
幅の狭い海底渓谷は、沈んでいく体を崖と崖にかこませて、渓谷入り口で魚達の微かにたてるごぼぼという音さえ響かなくなっていく。
闇なので、彼女の姿は実際には目に見えない。
どんどんと巨大な気泡は降りていく。
そして、ようやく砂地にたどり着き、少女はゆっくり横たわった。
何も見えない世界。気絶したままの少女。何の音もしない世界は、海流さえ動かない。
だが、何かが近づいてきていた。音がじゃり、じゃりと耳に響く。ごぽぽと水を進む音も。
向こうから青い光が近づいてくるのだ。光を持った何かが、少女のつつまれる泡に近づいてくる。
光はその場所の岩場を照らす。
その何かは渓谷の壁に開いた洞窟から歩いてきていたことが分かった。そして少女の降りてきた崖と崖の間は、五メートルほどの狭さだと判明する。
岩場や少女を照らす光は、青い鉱石の発光物だった。
それを掲げここまで来たのは、純白の体に触覚が何本か細く映えた、縦に長い何かだった。
目は退化しているのか見あたらない。背面にひらひらと、三メートルはたなびくだろう透明な鰭が天辺から足下まで一枚生えている。その縦に長いものの体はまるで縦に細長い輪になったようにくり抜かれた部分が透明な膜が張り、臓器など血管の管も透けて動いているのが見える。
真横からは純白で鰭を持った細長い生物に見えるが、前からは純白の細長い輪に見えた。
それは縦に二メートルもあって、横に三十センチの体、発光石を持っているのは細い細い三本の手指だった。
くぐもったザリ、ザリ、という音が止まると、少女の入った泡に青い光が反射する。
少女は眠ったかのように瞼を閉じている。生け贄に捧げられた時点で、儀式で草をせんじた薬で眠らされていたのだが、本来ならそのまま沈む内に息は奪われるものだ。この不可思議な泡が出現しなければ。
純白と透明の長い生物は、魔法使いだった。
触覚が泡を探る。すると、その触覚が増えて泡を包んだ。それが持ち上がり、生物は洞窟に戻っていく。
白い線のような触覚に包まれた泡の内側の少女も、魔法使い自身も、洞窟の岸壁も青い石に照らされ進んでいた。
今運ばれているのは、渓谷の底に時に沈んでくる何かの魚の死体では無いかと思われたが、それはかつて純白と透明な生物である……自分達の姿だった。
この細長い物体は、なんとかつてのアルカナの住人である。
しばらくすると、青の光の届かないほど広いドームに出た。
所々、青く石は闇に灯っていて、まるで青い星空のようだ。
それはあの生物達が持つ石だった。高い者では十メートル、低ければ三十センチの高さの者達。手にする石はその高低差で遠近もあって、この場所を星の渦巻く宇宙のようにするのだ。
ここが現在のアルカナ。失われたかつての国である。
黒い岩などは所々穴が空いているが、それが彼らの住処だった。
言葉は彼ら同士のシグナルイメージで送られる。
つられて、泡を連れた魔法使いの周りに彼らは集まってきた。シグナルの届く範囲内の者達が、高低差さまざまに青い石を持って集まるので、透明な体内を透かして背後の青い石がぼやけて重なったり、鰭がひらひらと光を淡く広げてその場を少し明るくする。
すると、今まで純白の膜に閉ざされていた大きな瞳が上部に現れ、魔法使いの触覚がさらさらと解かれていった泡の少女を見下ろした。
それは彼らの記憶遺伝子に記憶された形態をした少女。
そこで魔法使いの目も開かれた。
瞳を覆う膜は、一定の光量がなければ開く機能がない。
彼らは少女を見ると交信を取り合った。
運び込むことになった、
少女を魔法使いが運んでいくと、連れ立つ光も移動した。その少女の入る泡を先頭として、純白が浮かび上がる青い光の行列は、ゆらゆらと、ゆらゆらと進んでいく。短い足を持つ者はじゃりじゃりと、まだ成長していない、または年齢により退化した者は上下に揺れ浮かびながらも進んでいく。
なので、魔法使いはちょうど成人青年と同様の年齢でもあった。
闇に青い光の線が流れていく。
海の上では生け贄が捧げられるこの地点。その生け贄がもしも受け入れられれば、この場所へとこさせた。
そして幾度か交配が行われて、この身がきわめて保たれてきた。
黒い岩場の穴に入っていくと、ここの王である七メートルの高さのアルカナ人が例の目を開いて青い光の群に包まれる少女を見下ろした。
彼が泡を発生させ、連れてこさせたのだ。王であると同時に多少不思議な力を持つ。海の物質に含まれる酸素などを調節することが出来る魔法使いの長でもあった。時々シケを起こして海を鎮める儀式を行わせ、交配の為の生け贄を落とさせるのはなんとこいつ等だったのだ。
七メートルともなると幅が一メートルになり、横に少女を連れてきた魔法使いが並ぶと親子に見えた。
「………」
少女が動き、細長い四肢が曲げられて寝返った。黒い髪が体を包んで瞳が開かれた。
年齢のほどは十七歳。
生け贄に捧げられる年齢の乙女である。
「!」
叫びかけたが少女は驚き見回した。
自分は息が出来ている。儀式で煎じた草を思い切り吸わされた後に本来は一生闇に意識は閉ざされたままとなるはずだった。
だが実際は現在彼女は、青くて、それに純白の物体に囲まれている。ひらひらと広いヴェールのような鰭を有する不可思議な生物に。透明な臓器などは青い光で脈動が見て取れる。
「ここはどこ」
だが相手はただただ見てきているだけだ。黒い目のような物があると気づく。口は見えない。透明だからだろうか。
すると、脳裏に何かイメージが浮かんだ。それは旋律のように美しいイメージだった。形は無い。ただただ、感覚だった。掴めないけれど脳裏にしっかり浮かぶイメージ。彼らが送ってきているのだった。
「美しい感覚。『安心して』ということ?」
少女は名前をエポカポ。海信仰をする部族の少女だった。小さな島が酷い嵐に見舞われたりすると生け贄が捧げられてきた。
少女は立ち上がれないで横座りしていた。立ち上がると自分を囲う膜が壊れると思って怖かった。
彼女の脳裏には、いつもエポカポを守ってくれてきた少年ドレドレの顔が浮かんだ。それほど膜は優しい雰囲気と強い雰囲気があった。それに包まれていた。
彼女は悲しくなり、うつむいて涙が流れ始める。それを見ると、背後にいる王は泡に酸素を継ぎ足した。泣くことで酸素が減って泡が小さくなるからだ。
「ドレドレに会いたい」
酸素が濃い泡の内部で、再び少女は眠くなっていく。
ドレドレへの記憶に脳裏は占めながら。
どうやら記憶が夢に現れたようだ。
ザザン、ザザンという波の音が響く。
エポカポの暮らす緑の島。白い砂浜に、少年と少女が立ち尽くし瑠璃色の海を見つめていた。
椰子の葉を重ねて作った小屋が見えかくれしている。それもその浜辺の近くにいくつかあるだけで、他は手つかずのジャングルが鬱蒼としている。
浜辺の二人の瞳はきらきら眩しげに細められ光っていた。浅黒い肌。浜辺に黒く落ちる影。少女の髪は長く風に揺れていた。
ドレドレは短い黒髪を爽やかな潮風になびかせ、エポカポの手を引いて走っていった。白い太陽が彼らの肌を焼き、焦げ茶の目を光らせ、こだまする笑い声を縫う。白い砂浜でドレドレは側転をしてエポカポは踊り、砂をきらきらと舞わせた。
水色の波打ち際は純白のしぶきを上げて、ヒトデや白い貝殻、珊瑚の欠片が飾って、蟹が何匹か歩いていく。色抜けた流木は不思議な形をしていて、なだらかな石で美しいものを見つけると、ドレドレはよくエポカポにくれた。彼女は微笑んで受け取り、抱き寄せられた。
夕日の時間にもなれば、彼女の髪に花をさしてはその島の花が紅の陽を透かした。それは燃え上がる愛の色で、彼らにとって夕日は渦巻く血潮の色だった。彼らや木々の影は色濃く射すが、それほどに夕陽も、愛情なども浮き彫りにされてひときわ眩しい。
いつかは来る別れの時を恐れて、その涙が輝く様に。
夜にもなれば、ただただ年々と増え始めたのは、エポカポの心の不安だった。
ドレドレと別れたくない。
儀式の少女は村から五年に一度、選ばれる。
エポカポは愛する海を二人で見続けたい。
昼の青い海も、夕方の紅の海も、星の渦巻く空のもとに広がる黒い海も。
イルカ達は悠々と跳ね、鯨が飛沫をあげて、そして海に潜れば多くの魚達が珊瑚の森を住処に生き生きと生命を輝かせている。どこまでも青く澄んだ海。岩礁から顔をのぞかせるウツボ。その近くで色を変えてじっとしているタコ、珊瑚の周りに卵を植え付ける魚、それらは大きかったり小さかったりする。エビがハサミを振り上げていたり、尾でびょんびょん泳いでいたり。大きな魚、小さな魚、ヤドカリは砂地を歩き、ヒトデは少しずつ移動していく。遙か上の海面の方ではウミガメが泳いでいたり、イルカが群れて行ったり、タコが膜を広げて降りてきていたり。ウミヘビは体をうねらせ泳いでいって、その間を気泡が細かくあがっていく。
海は生命の美しい住処。
そして生まれたこの島。
緑はどこまでも島を覆い尽くし、白い砂浜は昼は眩しく、夜は青い月光を受けて光る。夜行性の動物達が移動し始める時間になれば、甲殻類も月の満ち引きにあわせて浜辺を移動していく。
ツタをつたってサルが南国のフルーツをとって行き、幹を蛇が這い上がって枝にやってきては、クモの親子が月の光でも浴びるように静かに止まっている。獣達は静かに静かに移動していき、時々鳥が鳴きながらはばたく。
海が凪の時間には、天の川は海にまで映り込むのだ。
エポカポとドレドレは、その時間になるまで小舟に揺られて、星に包まれることが好きだった。島は黒い影となって浮き上がり、動物達の鳴き声を時々上げる。それを聞きながら、ずっと一緒にいた。
「………」
エポカポは目を開いた。
一瞬、それらの青い光の渦がドレドレと見ている星の大群と思って、彼女は微笑んで横を見た。ドレドレと手をつなぐために。
しかし、エポカポは一人だった。
自分が生け贄として選ばれ、十七の年で海の一部になったのだと思い出す。これまでも、五年前にもエポカポのよく知っていた女性が生け贄に捧げられ、そして現在十二歳の年齢の少女も五年後には自分と同じように生け贄として捧げられることになるのだ。
いきなり、脳裏にイメージが流れてきた。
それはとてもすーっとした涼しげな感覚のもので、そしてきらきらと光っていた。
視線で見回すと、あの例の不思議な者達がいた。
彼らは黒い目で見てきている。エポカポの脳裏に、何かの具体的なものが浮かんだ。それは、エポカポの見たことの無い風景だった。硬質な、白い石で出来たものがたくさんあって、人が往来している。笑ったり、泣いたり、怒ったりしている。聞いたことがない言葉を話している。しかし、黒い髪と焦げ茶の瞳、そして浅黒い肌はよくエポカポ達に似ていた。誰もが白い長めの服を着ていて、女性は髪を結い上げている。髪に飾られたあの紫色の花と同じ色の飲み物を飲んだりして男たちは笑っていた。女たちは舞を魅せたり、紫の飲み物と同じ色の布を振り踊っている。その色の実をたくさん乗せた籠を頭に乗せて歩く女性もいる。
エポカポはその紫色の実はいったい何だろうと不思議に思っていた。エポカポのいた島では見かけない。小さな実がたくさん鈴なりに連なっているもので、それを子供は食べている。
不思議に思っていると、脳裏に浮かぶイメージの場所が変わった。同じ実が成った木があるのだ。それはエポカポの知らないブドウの木だった。房は木々から垂れ下がってゆらゆら揺れていて、その先の青い海と青い空がとてもよく映えるのだった。
この場所にも緑があった。それは、エポカポの生まれた島と同じ植物だった。そして白い鳥が羽を広げて高い声で鳴いて群を作っている。
彼女は目を開いた。
それは、古のアルカナだった。
暗がりに浮かぶ者達。月の様に純白で、それで島の奥へ行くとある澄み切った泉の様に透明で、そして緑や実が覆う岩場から落ちる滝の様に高い高い者達。
エポカポははじめ、彼らが魚や海の生物の仲間、それか動物だと思っていたが、こうやって脳裏に何かを送ってきたり、光る石を持って群れている姿は、どこか身近なものを思わせる。
「あなた方は、先ほど頭に浮かんだ場所に居たの? その人たちは私たちに似ていた。けれど、あなた達と私は似ていない。私の島にある植物は生えていたのよ。だから、さっきはね、懐かしい気持ちになったの」
二メートル程の者が少女が入る泡の前に来た。
大きさ以外では彼女には見分けがつかないが、それはここへエポカポを運んできた魔法使いだった。
いきなり、強いシグナルが貫く。
[アルカナ」
それはエポカポ達の持たない文字というもので、エポカポにはそれが模様に思えた。よく舟の縁にお守りとして彫る絵もこんな感じだ。儀式に使う人骨にも彫られているのも。だが、その形の模様は初めてだ。
音は聞こえないまま。
「ここはどこですか。何のために私はここに? これが生け贄となった乙女達のたどり着く場所?」
エポカポは自分の脳裏にしっかりと五年前生け贄となった女性を思い浮かべた。すると誰もが顔を見合わせて青い光がさざ波のように揺れて、胴の前の小さな手を振った。
彼女は驚いて通じたのだと分かってうれしくなった。
「これは私の生まれた島よ」
強く思い浮かべた。すると先ほどの紫の実のなる島が送られてきた。
エポカポは彼らを見回した。
時がさかのぼっていくイメージに彼女は目を閉じる。
この闇の不思議な場所から海をどんどん上がっていって、そしてその先に大きな島が見えた。まるで鳥になったように海面を進むと、その島に来た。紫の実、それに、白い石の群、多くの人々。だけれど、人々が逃げていく。何かを見ながら恐ろしげに。そして、いきなり暗転した。
海の上に特徴的な岩山が浮かんだ。それはだんだんと時が経過して緑が生え始める。そこには人がいた。エポカポ達に似ていた。
今思えば、その山は似ている。島の奥に行くとある滝が落ちるあの岩山に。
「あなた方は私たちの先祖様なの? 私たちの島は、昔はもっと大きくて、あなた方が住んでいた島だったのね。それならば、ここは天国なの?」
自分はあの世に行ったのかという恐怖を念じると、また胴の前で手がひらひらひら、と動いた。
青い海がイメージで現れ、エポカポの島が現れた。そして海を潜ると海の生物達の世界。島から離れるごとにどんどんゆるやかに深くなる。そして深海に亀裂が入りここに戻った。
「ここは元が島の一部だったのね」
あの大きな島が沈んで一部だけ海上に残ったのだと分かった。
ライトノベル作法研究所での昔の秋の企画もの。
・エポカポ達 ;アルカナ
・純白と透明の生物 ;アルカナ
・儀式 炎 舞い
時系列
アルカナの暮らし
アルカナ滅びる
海に沈んで一部だけ覗く小さな島に
その小さな島ではエポカポ達が
沈んだ方は洞窟で退化しながら純白と透明の深海生物に
生物は元々ヒトだったがその姿は退化の一途を見せるので定期的な交配が必要
シケを起こさせる
島の者達は海神を鎮めるために儀式を行い生け贄の少女を捧げる
少女が海底に連れてこられて交配する
ある年、エポカポは恋人ドレドレと生き別れて生け贄になる
深海洞窟に来たエポカポは魔法使いの青年に出会って恋をする
その魔法使いと交配すると三ヶ月後に産卵
その間もドレドレは毎日夕陽を眺めながら恋人エポカポを思っていた。
魔法使いはエポカポを離したくなかったが送り届けることに
胴に抱きつかれながら上っていく魔法使い
だが深海から上がっていく内に、魔法使いは風船の様に散ってしまった。
エポカポは号泣、ドレドレは驚いて声も出ない。
そしてその年1、二匹の卵の誕生とともに一匹のアルカナが散った。
なんだそれ……(-_-;)
生け贄海に沈む
泡出現連れて行かれる
目覚めると純白と透明の生物
エポカポ回想
生物が以前の風景を送ってくる
アトラ
青空を風が駆け抜ける。
ザラはそちらを髪を翻させて見た。遙か遠くの海をこの緑の崖から。
太陽の射す瞳は細められ、勇ましい頬は引き締まっている。
膝と腕がにゅっと出る白い薄衣は風ではためき、紐で胴を絞っているが、その紐とは違って黒髪のなびく影は乱雑に彼女の眩しく白い衣の胴に落ちている。
目元には青と赤の民族化粧が施され、黄色い斑点が描かれている。髪には織られた帯と共に綺麗な羽根が飾られていた。
彼女は魔法使いの一人である。
総勢二十名の魔法使い団は現在、一つの創世を任されていた。
それは海の上に柱を一本立て、その上に陸上を作れということだ。
なので、大地、植物、動物、微生物、水をそれぞれ司る者達が一斉に集まっていた。
風と光は流れてくるものなのであとはそれを操る魔法使いがいる。
まずはすり鉢上の巨大な岩盤が彫刻の施された石柱の上、海面から三十メートルの高さに現れ、その上に砂がさらさらと山を形成して土と成っていく。植物の魔法使い達は種などを持ち寄り撒いていくと、草が広がり始める。茂り始めると水を呼び込む魔法使いは地下に水脈を作っていき今度は低木の種を花の種と共に撒いていった。すると地下や土の水を吸い上げ成長していき、高木を成長させる準備に入る。木々が多くなると霧が発生してそれらがいずれ雲となり、雨が降って山のわき水から滝に、そして河となって行く。植物が動物を司る魔法使いと生物を司る魔法使いで昆虫を食べる小鳥、小鳥を食べる小動物、小動物を食べる大型動物という風に発生し、そしてバクテリアを決める魔法使いが落ち葉や生物の死体を微生物で分解を助けさせて大地の栄養に変えていく。
池には草が揺れて小魚達の住処にし、そして藻や葦は水を浄化する。
霧と雨が虹を作って、光が射し込んだ。
「ここをアーティス大地と名付けよう」
魔法使い達はそれぞれ、小さな島からそれらを見上げた。すり鉢状の岩盤の上部からはツタが生い茂り枝垂れて、海の水面へと河の水が細く落ちていく。
「アーティスの淡水魚がこれでは海の塩水に流れていってしまうわ」
ザラが言うと、その声は風の魔法使いが水と生物の魔法使い達に伝えた。風に乗ってやって来たそのザラの声に彼らはうなづいて、それぞれの小さな島からそれをみる。
「風の魔法使いさん。大地と植物の魔法使いに言って、河の水が落ちる場所に一つの大地を作らせておくれ。草原の大地よ。そこに深い池を作って、魚の受け場所を作るのさ」
「それなら溢れた水に魚はついてかないと言うことだね」
「それです」
大地の魔法使いがそれを植物の魔法使いと共に作ると、ちょうどいい具合に流れていった魚達がその青く深い池で泳ぎ始めた。
「この大地はトーティス大地と名付けよう」
ザラがざっと目を向けると、大陸からやってきた大きな鳥がアーティス大地の様子を見に大空を飛びやってきた。
「見てごらん。鳥がやってきている。上手に融合してくれるかしら」
「見守ろう」
鳥は様々なものを運ぶものである。フンからは分解されなかった種や時に小動物など。
悠々と大空を羽ばたいている。何か獲物を見つけたようで、急滑空して行った。
その内にも、大地の魔法使いの内の土と石の弟子達はアーティス大地の地下洞窟を作り始めていた。そこでは植物の魔法使いの苔の弟子達がそれらを作っていっている。洞窟は二カ所ほど、すり鉢状の一部に洞穴を開けた。
するとカモメ達が首を傾げてやってきて、その岸壁の部分を様子を見にくる。今に巣にし始めるかもしれない。
アーティスから流れ出る水はさらさらと風に煽られて虹を作ってトーティスに落ちていく。その下の池の周りに、水しぶきに伴って露が発生して花を咲かせ始めた。
風が潮風と共に吹き付けると、トーティスを縁取る様に木々が高く生え始める。植物の魔法使いはその上に小鳥が巣を作れるようなうねうねと大きくうねった木にした。
「今のところは、大地は二つ」
ザラが背後を振り返ると、大魔法使いがやってきた。
「あとはアトランティス大地を作るだけだな」
「はい。しかし、どの辺りが宜しいでしょうか」
大魔法使いはアーティスとトーティスを見渡してから、アーティスの端、そしてその大地から離れた上空を長い指で指し示した。
「高い柱を立て、アーティスから離れた場所に作りなさい」
「大きさは」
「あの小さなトーティスの二倍程の狭さでいい」
「分かりました」
ザラはそれらの指示を風の魔法使いから皆に伝える。
海にどんどんと高い柱が二本立てられると、その柱を繋ぐアーチの橋が出来た。高さがそれぞれ異なる柱だ。小さなトーティスと同じ大きさの大地がその上に一つずつ乗る。
「こういうことで宜しいでしょうか」
ザラは振り返った。
「まあ、よい」
「はい」
そのまま作らせていく。片方は背後に高い緑の山と木々があり、白い石の神殿を作らせる。緑がそこも多いので虹がかかった。
下の方は土壁の洞穴のような住まいがうねって形成された。その上にも草や花が生い茂り、実の成る木々が間に生えている。
草原部分に羊と草原豚が置かれた。その草原は季節によって草が食べ尽くされないように四つあった。
「これで、羊毛で花染めした衣服が作れますね」
「豚でも食べさせて、果物を食べさせれば良い」
「もう一つ小規模な大地を作りましょう」
ザラが指示すると、橋とアトランティスの間に一つ大地が横付けされた。
種の魔法使いが小麦の種を撒く。
「アトランティス人はどうしますか」
大魔法使いは顎をさすってしばらく考えた。
「くちばしが生えていて」
「え」
「角が生え、透明の羽を持っていて鋭い爪とともに毛に覆われた」
「分かりました」
ザラが本当にそれを作ってしまった。
「………」
大魔法使いはそれが奇声を上げて背後の緑の島の丘を駆け回っているので、顔を戻した。
「どうしますか」
「そうだな。上限三十名でいいだろう」
「わかりました」
ちょうど、木々の間で昼寝をしていた人間を呼び込んでからアトランティスに来させた。
未だ、ザラが、大魔法使いが作れっていうから作った何かが後ろを駆け回っている。あれでも心に透明の羽をもった生き物なのだ。
春の息吹と共に生まれたそれら三つのアーティス、トーティス、アトランティスは、夏の盛りを迎えていた。
あの大魔法使いのペットの怪獣は彼が首輪をつけて鎖で連れ、海に浮かぶ三つの大地全てが見渡せる宮殿住まいであり、二十人の魔法使い達もそこから監視をしている。
「葡萄を成らせましょう」
植物の魔法使いが言うと、ふうっと粉を吹いた。すると宮殿の白く太い石柱の間からきらきらと光る粉が葡萄の種になっていき、しゅんっとアトランティス人の住む大地の木々に葡萄の蔓が這い始め、それが庇の広い樹幹がしっかりした枝から垂れ下がると思われる。
大魔法使いは暴れる怪獣を押さえつけるのに必死だった。
「大魔法使い様」
弟子達は振り返る。
「本日もアーティスもトーティスも美しくございます。アトランティスの者達も日々の糧を心に得ています」
怪獣は鎖を引きちぎり、獰猛にホールを駆け回ってまた宮殿の間口から飛び出して下の森を駆け抜けて行った。
「ああ。どれどれ」
彼が縁まで歩いていくと、本日はアーティスに三連の虹、トーティスに二連の虹、アトランティスに大きく一つの虹がかかっては、晴れ晴れと太陽の陽が植物や水辺に差し込んで、飛ぶ鳥の羽を透かしたり、花々を風にそよがせている。
これは夜にもなれば、トーティスの青い池はさらに深さを増した蒼になって滝が霧を伴って青く染まり、辺りの花々を生き生きしみ入らせる。その青は実に心を引き付けて神秘的であり、夜空の星がうねるようなのだ。甘く神秘的な香りをさせる花は、木々で眠る鳥達の心さえも癒しているのかもしれない。
アーティスの夜は様々な動物達の鳴き声がしんみりと闇に染みむ。星があまり出ない夜は黒い陰となって巨大な怪物にも思える大地だが、星月夜には明るく木々の葉や泉が照らし出され、夜に飛ぶ鳥達さえも鮮明に、そして山々の木々一本一本さえも迫るかのように視覚に飛び込んでくる。澄んだ夜は、海に包まれるそれらの風景をまるで浮き上がらせるかのようである。
いつの間にかそれらの夜に突入していたので、彼らははっとして我に返った。
「いつも見ていると時間も忘れてしまうね」
「時間を示す砂時計か、影時計を作りましょうか」
ザラは物質のない所から何かを作り出す魔法使いなので、時間を表す何かを作り始めた。それは玉が転がっていくごとにレールが傾き下のレールに玉を一定速度で転がしていき、一時間ごとに一番下部のケースに収まっていく仕掛けのもので、玉は二十四色。レールは六本あった。十分に一本のレールを石の玉が転がっていくことになる。そのレールにはそれぞれ、十の数字がエレガントに記されている。
それはホールの広い壁の一部に天井か床までの高さで作られた。
「それで、三十分ごとにレールの端に来たら玉が他の小さな玉をついて、ここにいる我々の所まで来て、転がってきた小さな玉がこのクリスタルの器につるされた鉄の棒をならすようにしましょう」
「ピタゴラスだね」
これなら風景を見ながらクリスタルの音も楽しめることだろう。美しい刻の告げ方だ。
「あまりに綺麗な音だと、眠ってしまう」
「それでも良いではないの」
「今は月は海に路をおろしている。きっとそれらが月の光りの階段なのなら、どこへつながるだろう」
大地の魔法使いの土の弟子が光りの魔法使いに訪ねた。
「宇宙のことですからね。太古から続くこの月の恵みは我々の精神をどこへでも連れ去っていく魔物でもあるんだよ」
光りの魔法使いは青年を見て言った。その横顔も、月光に冷たく照らされていた。微笑む口元はどこかぞくぞくさせるものがある。
「私の精神はそんな月の満ち欠けで揺らぐほど繊細でも無いからいいが、ごらん。アトランティスの者達を」
彼らは満月を見上げながらも何やら儀式を始めていた。何の祭りだろうか?
歌声がここまで風に乗せてかすかに聞こえる。夏の夜は涼しくて。
「多少、魔的なようですね……」
まるで輪唱のように声が重なっていく。大人十五名の輪唱が。それは月を表す十五の充月で、風のように涼しげでもあって、そして地の底からわき上がるような声でもあった。それに反応してか、アーティスの夜の動物達も遠吠えを上げ始める。
土鈴が鳴らされ、そして彼らは舞い始める。
「葡萄で酒を作り始めたら、これは儀式も様相を変えるかもしれない」
植物の魔法使いは心配になって来ていた。
基本的に彼らはアトランティスの者達の様子をうかがっている傍観者だ。
「下手なことにはなりはしないといいんだが」
ザラは今日もあのどうしようもない怪獣を探しに宮殿のある大地の森を歩き回る。
昨日の昼に逃げていったまま、夜も時々声を上げてガザガザ駆け回る音が聞こえ、そしてそれが見えていたのだが。
「まあまあ」
湖の横で丸まっている影を見つけた。合わせた手のひらを頬の下に、巨大な図体で眠っている。やはり無垢な心をしているのだろう、愛らしい寝顔ではないか。
ザラが近づいていくと、木の後ろから見た。あまり刺激するとこいつは危ない。
「おい」
声をかけると寝返ってそのまま湖に入っていった。怪獣はごろごろと水の底で転がると、事態に気づいてばしゃばしゃと四つ足で戻ってきた。
「お前は名前を付けなければね。知能も付けようかな。必要ないかな。何も分かってないところがかわいいのかもしれないけれど」
怪獣がザラの長い髪に頬を寄せてから、やはり何も分かっていないのでまた二度寝に入ろうとした。それをとどめさせて連れていく。作ったザラにはこうやって慣れ始めているのだが。
だが、後にこの怪物がアトランティスだけを柱を崩して海に沈めさせるようなことになるとはザラも思ってもみなかった。それをさせたのがアトランティス人達に怒った大魔法使い様であり、そのままアーティスは大陸になり、トーティスは島になって行き、アトランティスを支えていた柱がバラバラになった場所に小さな島が転々と散らばり緑を生やさせていった。渡り鳥達が落としていった種で。そして宮殿のある大地まで続いていた橋はそのまま落ちて、その上に白い砂を寄せさせて諸島の端と青い海を伝いつながる砂の路となった。
今はまだその雰囲気は、昨夜見た儀式に匂わせる異様な雰囲気に留めていた。
ここはアトランティスのある大地。秋は葡萄の収穫を一斉に始める。
彼らはまだ葡萄酒を作る知識は思い浮かばずに、葡萄をただ食べたり、それを収穫の祭りで捧げたりしている。それらがまたもしも瓶に集め出して、砂糖も入れて甘く食べようとしはじめたら、今に自然発酵をして「液体が何やらいい気分に酔い始めるぞ」と知ったら、葡萄酒の出来上がりだ。
時々ザラは植物の魔法使いと共に植物に紛れて彼らを近くで見守る。
赤子が二人。幼子が五名。子供が三名。成人男女が十名。壮年が五名。老人が五名。それらは順々に成長と共に寿命を迎えてバランスが良く三十名が保たれている。
赤子を背負った女二人も加わって葡萄を採取しており、頬に瞳にと、葡萄の葉影と太陽の光が射していた。薔薇色の頬に。笑顔は輝いていた。なので、ザラはうれしくなってそれを見ている。乙女達は美しくほがらかで、男達はチャーミングで健やかだ。満月の夜をのぞいては。
五人の子供は草原に座り、撒いた羊毛をくるくる解きながら、草木染めや花染めの瓶、そして葡萄の煮皮で染め上げるためにどんどんと壮年の大人達に渡していた。萌葱色の羊毛、いろいろな優しい花色の羊毛、そして紫の羊毛。
特に、紫の羊毛は糸を細く細くして、薄衣を織りましょうと女達が言っている。五人の老人はそれぞれ幼子達に童歌を教えたり、手元の遊びを教えていて、仕事も済めば子供達は老人達の面倒をみる大人達をよく手伝った。
「ザラ様は何故、アトランティスが作られたのか分かりますか」
植物の魔法使いが草地に座り、ツタの葉う木の幹にこめかみを預けながら訪ねた。その瞳は反射する光りで輝き、木漏れ日を肩に受けている。ザラはその幹の横で勇ましく腕を組み立って居たので、彼女を一度目を細め見下ろすと、顔をアトランティスの者達に戻した。
「さあ……何故かな。私は、アーティスとトーティスだけでも十分だったのだが」
「これも大魔法使い様のご所望されるところ」
「ええ。彼も人の同行をみてみたくなるのだろうと思いますよ」
「光りの魔法使いが」
その言葉に、ザラもうなづいた。
「何か悪戯をしでかすかもしれないね。ちょっと月の力を強めさせているようだから」
「それをザラ様もお察し」
「何やらね……。彼は大魔法使い様の子供。何か刃向かいたい年頃なのかしら」
「まあまあそれもまた、どうしたことかしら」
子供達が今度は休憩にと母達に持ってこられたレモンジュースを読みながら草原で追いかけっこを始める。それを見て、ザラはつぶやいた。
「光りの横には闇がある。光りが強い程に闇は暗黒を称えて、我々から心を隠してしまうわ。夜の差し込む月があるならいいけれど、月は悪戯に人を惑わすもの」
夜の鏡の様な湖に、上弦の月が差し込んだ。どうやら、光りの魔法使いが何かをしているようだ。ザラは静かにそれを観察している。上弦の月は解放の月。力が解き放たれてその場を浄化させる。逆に、下弦の月は様々を淀ませて吸収していく。
「あら」
光りの魔法使いは美しく微笑んで指先からきらきらと星屑を出し始めた。そしてそれが湖に映る上弦の月の周りを渦巻き始めて、そして夜がどれほどか明るくなったので本物の夜空をザラも仰ぎ見る。
月の出る夜に、星光りが共に光る。それを細い首筋を反り見上げる彼の横顔は、とても優しさに充ちていた。
ザラは微笑み、そこに座るとしばらく星月夜を楽しむ。
ちょうど、クリスタルが時を告げて、緑の木々に覆われる丘の上の白い宮殿から崇高な音が鳴り響いた。宮殿は蒼い夜に染まり、秋の星空はとても美しく澄んでいる。
いきがりがざざっと音が鳴り、怪獣がまた現れた。ザラは心臓部を押さえていたのを手を離し、緊張を解いた顔をした。怪獣がザラに気づいて歩いてくる。
「まあ、あなたは」
星月夜に現れた怪獣の影には、まるでクリスタルを透かして影にしたような羽根が大きく生えていた。怪獣自身にはそれは生えて見えない。
ザラが腕を伸ばすと、怪獣は頭を下げた。角を撫でて上げてから、ふと顔を上げた。
「………」
光りの魔法使いが彼女を見下ろしていて、ザラは頬を染めた。
「悪いわね。黙って見ていたことを詫びるわ」
「いつもお堅いな。別に気にしてないさ。どうせ、何か考えてるのではないかって見張りを立ててるんだろう」
ザラは眉を上げさせてから怪獣が背を草に撫でつけ始めたので起こさせた。
「怪獣、あなたにも懐こうと考えているのかしら」
「どうかな」
「思うのだけれど」
怪獣の腹を撫でる光りの魔法使いがザラをみる。
「大魔法使い様は始め、この子をアトランティス人にしようとしていたの」
「え」
「きっと知能もつけて」
「え」
大きなくちばしを開けて欠伸をして爪で毛繕いをしている。
「何かの力を吸ってか、この子、日に日に体が大きくなっている気がするわ」
「何か考えがあると思って?」
「わからない。でも思うの。何かが起こるのではないかと。何かの力が加わって、我々にも見えないような力よ。それはとても大きくて宇宙とか、星から来る力」
「ザラ」
光りの魔法使いは星光りの写り込む湖と枝垂れる木陰を背に言った。
「それは俺も感じ取っているよ。それはきっとね……」
光りの魔法使いが再び微笑した。
「俺たち人によって作り出された物を宇宙や地球の法則に従わせようとしているのでは無いかな。君は俺が月の力を強めていると思ってるみたいだけれど、そればかりでは無く、弱めてもいるんだよ。大魔法使い様に反発して宇宙の法則に倣って創造物を自然に返すこともまた一興と思う心もある」
「やっぱり」
「光りはまっすぐとしか差し込まないものだよ。鏡で屈折しても、まっすぐと屈折する。淡く広がりもするけれど、それも元は霧や有機物を媒体としたことであるだけ。その間接部分を外せば、力はまっすぐと来る。宇宙の力も、俺の心も。それを、今は大魔法使い様のご所望事が霧となって光りをまっすぐとは降ろさせなくしているだけなんだ」
彼は花を一輪つむ。そしてそれをザラの髪に飾った。
「でも、これらは本物の草花だ。だから、僕はアーティスやトーティスは好きだよ。この子も同じさ。森が好きなんだよ。人工物の場所では無く、森が住処だと思ってるんだ」
ザラは湖の横で眠っていた時の怪獣を思い出していた。宮殿ではいつでも暴れていた。それは彼本来の住処では無かったからだ。森ではしゃぎ回って、疲れて眠って、そして自分の好きな所で目覚める。そういう者達を作りたかったのだろう。大魔法使い様も。
「私たちが勝手にいろいろアトランティスを用意しすぎてしまったのかしら」
ザラが幹に肘をかけ、手を組んでその指を見下ろした。星明かりで光る水面がゆらゆらとザラの美しい顔立ちを光らせた。
「今はもう見守ってみることさ。俺は何かいろいろ裏で光りと月の魔力の操作はするけれどね……」
彼は肩越しに言って歩いていった。
ライトノベル作法研究所の昔の秋の企画もの
森の魔女
膝を抱えてアトランティスは頬を乗せていじけていた。
視線の先には鳥かごがあって、それは蓋が開かれ鳥が逃げてしまっている。
深い森。どこからともなく、本当に不確かなところから鳥の鳴き声が静かに響く。
空色のドレスに、空色のリボン、髪だけが黒く長くて草地に渦巻き、水色の瞳が視線を上げた。青い月に感情を強めて光って思える瞳を。
鳥の影が木々の葉影を飛び、そして枝に停まると見下ろしてくる。アトランティスを。
「戻っておいで。また太陽が昇る時刻になったら、光りに紛れて見えなくなってしまうのだから」
その鳥は普通の鳥では無かった。アトランティスが魔法で作った光りの鳥だ。籠に入れて光らせて歩く。しかし、魔法の鳥籠から逃れて行くと、たちまち黒くなって闇に紛れてしまうし、そして朝になれば光りを取り込んでまったく見えなくなってしまう。それも機嫌を直して籠に戻ってくれば、白い鳥になる。
アトランティスは十四歳の少女であり、魔法使いだ。いつも師匠のお使いで森を越えて小屋から洞窟へ向かうのだが、この鳥の明かりが道案内になる。
魔法のかけられたこの深い森は、刻々と木々は場所を変え、そして花々も種類を変えていく。泉もいろいろな所にわき出しては吸い込まれていき、鳥いなくば迷ってしまうし、夜になれば光ってくれて辺りを照らしてくれる。
「洞窟へ向かわなければならないのよ。分かるでしょう?」
鳥が少女アトランティスを見下ろしているのを、月がまるで丸い鳥籠になったように背後を占めるので、彼女は言った。
「さてはお前、月の光りに囚われて動けないんだね?」
アトランティスは籠を掲げた。
そして唱える。それは言葉ではなく、不思議な旋律だった。
すると月の光りの加減を変えた魔法使いの籠のもとに、ひらりと鳥は帰ってきて収まり眠った。純白に、光っている。
「私も今日はここで一休み」
アトランティスも鳥籠を抱えて、眠り始めた。
停まればその場所を記憶させる働きのある鳥は、森の木々や草花がてけてけ歩いていってもその場に残った。そして抱えて眠る限り、安全だった。
翌日、洞窟にたどり着いたアトランティスは深く枝垂れるツタのカーテンを手で押しのける。これは扉のような働きもしていた。
「ごめんあそばせ」
「アトランティス。お使い今日もありがとう」
「遅れてしまってごめんなさい」
「いいのさ。毎回大変だね。さあ、こっちへおあがり。あたしはあんたが来ることが楽しみなんだよ。お茶とお菓子だよ。作っておいたから食べましょう」
「どうもありがとう」
鳥籠を提げて歩いていく。
この老婆は魔女で、アトランティスの師匠である魔法使いの老人の別れた妻で、それでアトランティスはその橋立でラブレターを届けたり、いろいろしていた。また戻って来てもらいたいらしいけれど、奥さんはこの通り森に魔法をかけたりして駄々をこねている。
なので、師匠の魔法使いは弟子のアトランティスを作り、使いをさせていた。
元々は美しい人形だったアトランティスだが、今はまるで生きた女の子である。
今日も一文字も読まれなかったラブレターをアトランティスは森で気によりかかり座ってから見る。
『覚えて居るかい
僕らが海を見つめていた時代を
君はこんなに深い森で一人ではいなかった
一緒に同じ海を見渡していたんだよ
アトランティスの青いドレスはあの頃の海の色
アトランティスの見上げる瞳は空の色
あの頃の風の音を、アトランティスは話して聞かせてくれる』
アトランティスは二枚目を見た。
『君がいずれ再び僕の横で歌ってくれるなら
僕のこれまでを捧げよう
君といつまでもと夢見た頃には分からなかった心を
今なら描けるはずだから』
彼女はそれを見つめ、そして肩に鳥が乗ったので顔を向けた。
鳥籠がまた開けられている。首を傾げてアトランティスを見ている。
「私は海の色なのだというの」
黒い鳥に言う。
「師匠は彼女
続く
ライトノベル作法研究所の昔の秋企画もの
小夜の月
小夜の月
碧い海の臨むこの緑の丘は、空の色をした小さな家がある。それはよく晴れた日には天にとけ込むかのようなので、透明の家と呼ばれている魔女の館である。
夜、満月の明るい日にはこの透明の家に女たちが訪れる。
その彼女たちに一人、小夜という少女がいる。十九の年齢になる彼女は日本からこのヨーロッパの美しい土地にやってきた子で、夢見の相があった。
アネモネとペガサス
それでは、花のアネモネも、それにペガサスも大地に流れた血から生まれたというのですか。
なるほど。アテネ神殿に連れ去られた美しい乙女メドゥーサが、海の神ポセイドンによって乙女を奪われ、その血で神殿を汚された女神アテネが彼女を恐ろしい蛇頭に変えてしまい、後に勇者に討たれたメドゥーサの血液から生まれたそれが、美しいペガサス……であったと。はてさて、それは初耳。美と生命と操を奪われたメドゥーサの悲しみが伝わります。
アネモネに関しても、傷ついた美の女神アフロディテが、愛の矢の力で愛し合っていた美少年アドニスを死の淵で失ったとき、その彼の血からアネモネが咲いたと。それもさらなる喪失感を浮き上がらせた悲恋ですね。
はあ! あなたがそのアドニス。わたくしは先ほどからあなたが美しい方だと思っていたのです。
この薄紫に染まる夕暮れ時に、風に揺れるアネモネ畑にたたずむ幻なのか? と思わざるを得ないほど、あなたは体を透かして遠くの緑の山々を見せているのですからね。それも、今に春の風をそよがせて夕闇とともに消えてしまいそうなはかなさを持っておられる。
今から、ですか?
あなたの愛する美の女神アフロディテがやってくると。それはどんな愛らしいお嬢さんなのかちょっと気になりますよ。あなたに会いにここまで来るのですか。
今来た?
え? まあまあ、本当。
あちらからピンクの夕日を背景に何かがやってくる……。とても美しい薔薇の香りだ。そして、夕日と溶け込み透かして影を落とす薔薇の花びらが舞いながら、彼女を囲ってやってくる。
この夕暮れ時に風が吹くなんて、不思議だと思っていたのですよ。彼女がついにここまでやってきましたね。
これはこれは、あなたが女神アフロディテ。なんともはや、言葉にならないとはこのこと。生きた肌を夕日のピンクに染め上げて、影などは空と同じ薄紫色のグラデーションをみせて、薄衣はそれをも透かしている。そしてその瞳は光っているのですから。その長い長い髪はなんと見事なことでしょうか。
さあ、彼があなたが会いたかったアドニスですよ。わたくしは水入らずのお二人を拝見することが出来て、こちらまでしあわせを分けてもらう感覚です。
あら、不思議。アドニス少年の手は透けているのに、薔薇の乙女の頬に、そしてその髪に指を通しては微笑んでいる。あなた方はとてもしあわせなのですね。その透明な愛を、しかとこの目に受け止めました。
これはアフロディテさんに見つめられると、つい照れ笑いを浮かべて仕舞う勢いです。
え? アドニスさん。あなた、もしかしてそれはわたくしのことをおっしゃっているのですか。はあ、ふむふむ……。
実は生まれた当初のことを誰も覚えが無いことと同じでして、わたくしも覚えがなかったのです。ですから、先ほどおっしゃったメドゥーサの話をわたくしにしてくださったのですね。それで、同じように自らの血で生まれたアネモネの花になぞられた、このあなたご自身の生きてきた人生も、わたくしに語ってくださったと。
やはり、わたくしのことでしたか。そのメドゥーサの苦心と絶望の悲しみから生まれたというペガサスは。ええ。初耳だったのです。
まあ、それはどうもありがとうございます。わたくしはアフロディテさんの言うように、メドゥーサの魂の解放された姿だと思うと。そんなに優しく毛並みを撫でてくださるとうれしいですよ。お優しい方だ。羽根も温かい? それはあなたの心も温かいからですね……。
今は刻々と暮れゆく夕日に染まる白い毛並みも、このアネモネの揺れる草原も、風が撫でては薔薇の花びらがアネモネの花にひとひらふたひら、そしていくつも舞い降りて重なる風情も、なにもかもが尊い。繊細な花びらの影と光りの間際に、多くの魂が宿っていると思われるほどです。
あら、それの証というように魂の宿り主が蝶の背に乗り舞っているかのようだ。ゆったりと、そして移ろうように。夢のような風情ですね。今し方、蝶がアネモネに羽根を預けて蜜を吸い上げ始めて可愛らしい。
何故、血から我らが生まれたと言い伝えられたのでしょうか。
悲しみは美を生むのでしょうか。それが心理なのでしょうか。それを、現と夢を蝶が繋げてくれているかのよう。
さあ、お二人揃って、わたくしの背にお乗りください。
いいえ、いつもは乱暴者の主人ペルセウスを乗せてあんな固い甲冑のスネ当てでお尻を蹴られつつ飛び回る暴れ気性の馬ですから、優美なお二人を一挙に乗せることなどいとも容易いこと。
え? 自分の体ときたら透けているから体重も無いのだろうと? ははは、アドニスさん、それはあなた自分が幽霊だと言ってるようなものですよ。メドゥーサさんの血から生まれたわたくしでさえも真っ青ですよ。あっ、アフロディテさんまでくすくすと。自分は幽霊に恋をし続ける幻想乙女だとおちゃめにもご自身を茶化されるのですね。しかし、お二人を見るにわたくしには素敵に映りますよ。それはとても。
さあ、たてがみにでも掴まって。そんなにたてがみが立派ですか? それはお褒めいただいて、雄名利につきます。わたくしの飛び立つ背から、夕日に照らされるあなた方の愛の滴で咲いたアネモネ畑をご覧なさい。
ああ、夕日がまぶしくって、目から涙が止まりません。なんてお二人は美しく微笑まれることでしょうか、そして、悲しくも強く抱き合うことでしょう。そのアフロディテさんのアネモネの如くこうべを垂れる姿のなんとも儚げなものか。
一年でこのアネモネの時季しか会えないとおっしゃるのですか。
ああ、それでは一気に春風とともに駆け抜けてゆきましょう。アネモネの草原を。どこまでもゆけますよ。
一番星もほら、綺麗……。
夕日を背にするアドニスさんの影に抱かれるアフロディテさん。胸に頬を添えられて、しっかり手を握りあって。不思議と、今はアドニスさん、あなたが透けては見えないのです。それは、アドニスさんが死して昇った天界に近くなったからなのですね……。
どこまでもゆきましょう。もしあなた方を優しく照らす星の群に届きそうになっだとしても、どこまでも。
金魚
プロローグ
なんで、昼下がりはこんなにも光りが透明なのだろう……。
あたし、ずっと、ガラステーブルの下に仰向け。
移ろう視線は金魚を捉える。
尾をひらめかせて、身を返すその美しい金魚は、大振の鉢に三尾泳ぐ東錦。
それは透明テーブルに置かれたガラスの金魚鉢。
「だから あたしも 泳いでるの
忘れたふりして 貴女去ってった姿
その尾で優雅に 掻き消すように
気泡でそっと 包み込むよに
だから 貴女も 泳いでるの
帰ったふりして あたし残ったここで」
泣き嗄れた声よ。突如、前触れも無しに恋に破れた。頬は涙を流しすぎて痛いのよ。
この拙い歌もそのまま金魚が食べてくれたらいいのに。それで翌日排泄されれば掃除しておしまい。
そんな都合良くいかない。既に終った恋心は、金魚のお腹で完全消化されてしまったことでしょう。
そして体内を巡って、気泡の唱歌を聴かせるんだ。あたしに。『もう終ったのね……』と何度も呟いて、慰めてくれるような金魚の舞い。
テーブルの下、床にずっと転がっているあたしは、きっと今に金魚にも呆れられるでしょう。金魚は彼女のだから。
彼女が別れを告げて部屋を出て行った二日前。世界が三色金魚のように点滅するような眩暈を覚えた。白、黒、紅色、三尾の丸い体に描かれた模様は恋模様のキャンバス。どう足掻いたって一色には収まらない複雑な心境と同調した。
白だけなら二人の世界。黒だけならうすら悲しい失恋の世界。紅ければ声を出して泣き崩れた一人っきりの世界。紅と黒、似てる。それは、混ざり合ったらいけない感情になる。
だから、水を漂う金魚達がなんとも羨ましく映ったの。
だから、こうやってずっと眺めつづける。
今や、三色の想いに親近感を覚えて見つめ続けた金魚の姿は、落ち着いてくれば癒しを与えてくれるもの。
頬の上を、顔の上を、金魚の影は滑っていく。閉じた瞼に、唇に、撫でるように滑ってゆくのだろう。それはあたしが彼女の手腕に、耳たぶにふれた指と同じ。
目を綴じて、ひりひりする頬に手の甲を当てた。冷たく濡れる手の甲は、いつしか他の誰かがあたためてくれるのだろうか。
揺らめく金魚。彼等だけがあたしの心と共に踊ってくれてると思えば、今は寂しくはないかもしれない。
コンコン
あたしは部屋のドアを見た。
「カナエ」
澄んだ声。
「え……」
愛しい、声。
あたしは肘をついて、危うく天板に打ちそうになった頭を下げた。だから、まるで何かに狙いを定める格好になっていた。
ドアが開けられて、彼女が姿を現した。
「ナミコ」
彼女は罰が悪そうにあたしを見て、いつもの下駄を脱いでやって来た。
あたしはテーブル下から出て来てナミコに抱きついていた。泣き顔なんかとうに互いが見慣れていたから、どんなに泣きはらしていても構わない。辛い事があるとあたし、いつも泣いてた。ナミコは一緒になって泣いてくれる人だった。ナミコの紅い耳を見て、あたしはまだ彼女の気持ちがここにあると期待した。なのに、ナミコは全てを無かった事にするかのように抱擁するあたしの腕を掴んで、引き剥がして来る。
「いやよ」
あたしは首を横に振って、ナミコがロングヘアを揺らして顔を見て来た。
「戻って来たんじゃないの。金魚……よ」
「何故? あたしだって連れてって」
ナミコは巾着からビニール袋を出して、水と金魚を移してしまう。
あたしはそれを視線を揺らし見た。この唇をふるふると戦慄かせながら。
ぽた、ぽた、と白い手から、透明のビニールから光りを伴って滴る水滴が、あたしの心の涙みたいにテーブルを塗らす。さっきまで見上げてたガラス面に。手馴れたナミコがタオルで吸い取る。ナミコは涙なんて流さないのに。あたしの涙を拭ってなんかくれないのに。
そして残りの一尾も掬おうとする。
「だめ、駄目よ。ナミコとの記念なのに」
三尾目も入れてしまったそのレトロな帯の結われる背を見て、ふと、湿ったタオルに目を移した。
「………」
あたしは背後から、タオルでナミコの口を覆っていた。あたしの腕にじゅわっと水が流れて冷たさにビクッと震えたけれど。
「!」
ナミコがビニール袋を持ったまま、抵抗する。
なんで?
金魚の入った袋はナミコの着物の袖元にずれて、白い腕に食い込む。背後のあたしの腕に手を回して引っ掻いてきた。
なんで、そんなに逃げようとするの?
理由も言わずに「別れたいの」だなんて言わなければ、こんなにはしなかった……。しなかったわ。
そうよ、しなかったのに!
「う、うう……っ」
あたしはあまりにも悔しかった。悲しみが強まって、行き場がなくなると怒りになってしまうのだわ。怒りで歯を噛み締めていた。怒り、悲しみ、怒り……そして残った深い悲しみは、あたしの瞳から熱い涙を流させる。
しばらくして、ゆるゆると手が下がる。ナミコの腕に掛かった金魚の袋を、あたしの指に引っ掛けて、それで力を失ったナミコは長い髪を引き連れたままあたしの胴を崩れて行った。左右にしどけなく崩れて行く足袋の爪先。その態は美しくも、色香を感じて……。
1
「ええ。だから、ナミコさんのご家族にはなんと言えばいいか」
私は妹のカナエの様子を小窓越しに見ながら連絡を取っていた。
一ヶ月前から連絡が取れなくなっていたけれど、私がカナエの部屋を訪れる為にエレベータを降りるとすぐに異常に気付いた。
カナエのいた階は他に誰も利用者がいなかったし、エレベータ式で上がる場所。誰かが通るわけではない。
それで、発見に遅れたことになる。
ハンカチで口を覆って、鍵をあけて進むと、異臭は人の型をしていた。
宵の室内。まだ開けられたカーテンから外の薄明かりが広がる室内。変色した人、それは黒い髪が長々とした人だった。
テーブルの下に、痩せ細って動かないカナエがいた。
金魚だけが、活き活きしていた。
ぎょろついた目をするカナエは何かを歌っていた。しゃがれ声で、金魚だけ見ながら。周りは金魚の餌袋だらけ。
震え続けていた私の足は、とうとう耐え切れずにガタガタ震えた。そして、妹から視線をしっかりと横たわる人に移した。
『だから ふたりで 泳いでるの
忘れたふりして 貴女笑った姿
その尾で優雅に 包み込むよに
気泡でそっと 包み込むよに
だから あたしも 笑ってるの
笑ったふりして あたし笑ったここで』
生きた声だけのカナエ。形容しがたい人の横で、手だけを繋いで。
耐え切れずに部屋を出た私は全てを口から出していた。しばらくその場に膝を着いたまま動けなかった。それで、しばらくして警察に連絡をした。
極度の栄養失調のカナエは、胃には金魚の餌しか入っていなかったらしいことが検査で分かった。今は病室で金魚の縫い包みを抱えてずっとゆらめくカーテンを目で追いながらあの歌を歌いつづけている。まるでそのカーテンが金魚の尾かのように。
カーテンが金魚に見えるというの? 金魚とナミコさんと踊っている夢でも見ているの?
ナミコさんのご家族は随分離れた県に住んでいて、連絡は大して取り合っていなかったみたい。カナエとはバイト先の料理店で知り合って、そこから付き合いだした。
カナエもここには実家から離れた県に一人暮らしをしていたから、たまに私とは行き来しあって姉妹でショッピングやカフェでお茶をする程度だった。だから、二ヶ月連絡が無い事は割とあった。けれど、私が一度でも連絡をすればその日の内に返信が来るのがカナエだった。
一ヶ月間は私もあれこれと忙しくて。
ナミコさんから以前聞いていたご両親。なんと言えばいいのか分からない。カフェで美しく微笑んだナミコさん。
けれど、ナミコさんのスマホには自宅連絡先が無かった。
それで、今は警察の人が本籍を調べてくれている。免許も持っていなかったし、履歴書のナミコさんの住所はカナエのマンションから二駅離れたマンションだったから。そこから付き合いだしてカナエの部屋で暮らしていた。
「おかしいなあ」
俺は殺人課のパソコンの前で唸った。
やはり先日遺体で発見されたナミコという少女の身元は分からず仕舞い、全てデタラメ。以前住んでいたマンションを借りるときの住所もデタラメだった。それに、仮名だったのだろう、阿咲ナミコという名前で調べても実在しない。
指紋など既に取れる状態では無いが、部屋に残っていた指紋は二種類だった。その片方で調べても犯歴は無い。綺麗な歯型は治療の痕は一つも無く、医者がよいしていた記録もなさそうだ。薬も一切見つからなかった。保険証も持っていないようだった。料理店でもバイトは社会保険では無かったらしい。でも、何か病気で阿咲ナミコが休んだりしたことも無い。
奈美子、浪子、那美子、波子、なみこ、何にもヒットしないまま、今は毛髪をDNA検査に出していた。簡易的な検査では薬物反応は無く、やはり何らかの薬の常用も見られない。栄養素は健康的だった。一ヶ月前までは。
共に、気が触れている相加カナエも毛髪や血中から薬物反応は無い。
「愛情の縺れってやつは怖いね。若い女の子同士なんていうのは全く」
先輩刑事が電子ファイルを流し見ながら顔を歪める。ナミコは生前相当の美形女子で、カナエも健康だった頃の写真では可愛い子だ。料理店でもそれは見栄えがしただろう。その二人の恋仲というのは、どこか儚げにも思える。
「じゃあ、俺等は生前の写真を手がかりに身元捜索だ」
「ええ。行方不明届けもこの顔ではヒットしませんでしたからね」
一体この子はどこの誰だったのやら。
まずはナミコが言っていたという出身県に行くことにする。その街の名前が本当ならの話だが、いろいろデタラメだから期待は出来ない。
車両を降りて小さな街を見渡す。被疑者の姉からの聞き込みでは、〇〇市××町にある▽▽公園で子供時代から遊んでいたという。その周辺から聞き込みだが、やはり住所録を調べてもこの一帯に過去と現在、阿咲姓は住んでいない一軒家ばかりだ。
だが、この辺りには大きなバスターミナルがあり、方々からこの大きな緑地公園に家族連れや子供が来ている。駐車場も設けられており、県外ナンバーも見られる。
やはり写真で聞き込みをしてもヒットせずに、この地区の学校を一通り回っても卒業生にはヒットしなかった。
俺達は公園のベンチに座って電子ファイルの少女を睨むように見た。綺麗な子だ。純和風にして二重、上品な唇が紅い。
きっと、和装で金魚でも提げていれば、様になっていただろう……あの、例の金魚……。
「……?」
俺はふと顔を上げて、林の先に見える小屋を見た。横の池から水車が回っているのだが、蕎麦屋か何かだろうと思っていた。周りは何人か人が行き来している。山の紅葉を映す池も奥と手前にアシが生える河が繋がり水流があるのだろう。何種類課の水鳥がいた。
「行ってみましょう」
「茶屋か」
「分かりませんが、なんとなく」
俺達は歩いて行った。
林は奥は常緑樹らしく鬱蒼として、手前は広葉樹林で明るい。その内に小屋はあった。
俺達が入って行くと、そこは茶屋や蕎麦屋では無いと分かった。
水車が巻き上げる水路が屋内を回っている。そして、各水筒が大きさや形もそれぞれに設置され、綺麗だった。模様障子を一部張られたもの、建具先のもの、それらはまさに……。
「金魚だ」
「ええ」
子供や大人もそれを鑑賞している。古民家を移築して再生したのか、実に洒落ている。
俺は三色の金魚のいる水槽前に来た。
先輩刑事がスタッフに聞く。
「ここのは販売してる?」
「ああ、この子達はここでは売ってません」
「養殖もして?」
「ええ。森の奥ですが」
先輩が俺を見て、俺は頷いて電子ファイルを見せる。
「彼女はこの店に来ましたか」
「………。アミコ。場字アミコですか?」
スタッフは言い、先輩を見て続けた。
「二ヶ月だけいましたよ。去年ですけれど、森の方から現れて、店に入って来てしばらく見回すと、声を掛けて来たんです。ここで働けますかって。それで、人手にも困っていた頃だしすぐに雇って、その時は綺麗な子だし店に出そうと思っていたのに、彼女自身は養殖の方をやりたがって裏方ばかり」
「履歴書は?」
「いいえ。住み込みのようなものだったので。始め森のハイキングコース方面から現れた以外では養殖所の二階にある住居で共に暮らしていました」
「彼女、他の街で阿咲ナミコと名乗ってたんだが、誰か他の人間を連れてこの店に来たことは」
「いいえ。去年の夏辺りに三匹可愛がっていた金魚を連れて、他に移ってからは一度も見かけません。家族の話もしなかったから、地元も知らないし」
俺達は金魚を眺める。長く綺麗な尾を棚引かせて、友禅かのようだ。
養殖所はやはり古い民家をリフォームした小洒落たつくりをしていた。周りに何箇所か蜜蜂用の箱があり、蜜蜂養殖所。と書かれている。それに尾がとても長い鶏も高い場所に停まっていた。いろいろとやっているようで、錦鯉もいる。
玄関から入ると、綺麗なビードロが色とりどりで並んでいた。
一階部分の土間は金魚の養殖所だ。何人もの若者がいる。
先ほど川が背後を流れていたが、そこから水を循環させているらしい。
思いもかけぬほど幻想的な場所で、巨大な筒型の水槽があったり、水路が張り巡らされて泳いでいる。平面の水槽もあったし、巨大なシャーレのような水槽も目の高さにあり、通路の上や下から様子が見れるようになっていた。
「これは圧巻だな」
俺はしばらく見惚れた。踊るような金魚達を。
「え、」
俺は目を疑って、大振の筒型水槽を目をこすって見た。
さっき、黒髪を翻させて、阿咲ナミコが金魚達と共に泳いでる姿を錯覚した。
だが、その向こうから女の子が現れて、見間違えたのだと思う。
その子は普通に餌袋を抱えて他の若者の所に行って共に会話をしながらカップに餌を分け始める。
「……」
ナミコは金魚だったのか? ここで生まれて、愛を探しにあの街まで泳いできた、正体不明の美しい少女。
俺達は一時街に戻り、へんてこな結果をDNA鑑定士から聞いた。
「人のDNAじゃ無い?」
「まさか金魚か?」
俺の横で先輩が口許を笑わせた。DNA鑑定士が言った。
「それだよ」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
丁度ドアから入って来た警部補も言った。
「金魚」
俺達はその結果をまじまじ見た。[newpage]
2
「東錦……」
やっと反応したカナエは、金魚のぬいぐるみを抱えたまま、病院の芝生に座っていた。
東錦が大量に飼育されている巨大な水槽は、刑事さん達がナミコさんの故郷と思われる街のとある場所で撮影したという。
「ナミコ」
写真をいきなり手に取って微笑む。目が危険な程光っていて、すぐに顔を覗き込んだ。栄養失調と筋力低下で顔が青い。だから膝に乗せた丸々太った朱色の金魚のと対比が病的で心配だった。
ずっと歌っているから、唇なんかはかさかさになって、舌にも何か食べさせるとはじめはスプーンがくっつきかけて危なかった。まさかずっと、金魚の餌で生きてたのだから。
「ナミコ」
夢見るように写真を抱える。
「ナミコさんの三尾の東錦は、私の部屋で元気よ。近所に熱帯魚屋さんがいてよかった。いろいろと難しい事を分かり易く教えてくれていたの」
あのとき、暗がりで水槽だけが鮮やかに美しく光っていた。カナエは自分で箱から餌を掴み食べて、金魚にも餌を与えて、時々トイレに行く以外は動かなかったようだった。
そして、ナミコさんは……。着物鮮やかに、髪もしなやかに、彼女自身だけが肉塊と化していた。腐敗の様相は、思い出したくないし、あの匂いはまだ鼻腔にこびりついて、あれから私は毎日アロマオイルをハンカチにたらしてかいでいる。
「カナエ」
「ナミコ」
写真を見て金魚をナミコさんに例えているのか、それとも写真にはナミコさんが見えるのか、分からない。そこにはスタッフだという人間は映っていない。
「ね。あなた、ナミコさんから聞いていなかった? 彼女自身と金魚のこと」
「ナミコ」
ずっと今度は歌の変わりにナミコしか言わなくなってしまった。
私は髪を撫でてから、立ち上がった。遠く、ケヤキの木の横に刑事がいる。
そちらへ歩いた。
「DNAが?」
私は瞬きを繰り返した。
「金魚と、ナミコさんがですか?」
「はい。似ているのでは無く、同じだったんです。それに、僕等経験してるから分かるんですが、ナミコさんを発見した時のにおいは、人のそれとは異なっていた。もっと生臭くて、違った匂いだったんですよ。なんとも言えないものだったのは同じですが」
「魚の腐ったにおいだったとでも?」
「まあ、それでしょうね。解剖結果も、骨が継ぎ合わさっていて、魚のような骨だったんです」
「そんなばかな」
人魚ならぬ、金魚女だったのだと?
カナエを振り向く。同じく精神病棟の服は前合わせの白い長衣で、その下にゆるいズボンをはいている。今はカナエが出ているだけで、窓からは興味深げに笑って窓に張りつく患者や、ずっとくるくる廻っている患者、ベッドで動かずに布切れになっているような患者や、出歩いて椅子に座ったり立ったりしている患者がいる。
「僕等も異例の自体に驚いています。もう少しナミコさんの過去を調べてみますが、状態がよければ妹さんにも聞きたい」
「ナミコさんの名前をつぶやくばかりで」
「そうですか……」
金魚を抱えて、丸まり転がって眩しい芝生の上で眠り始めたカナエを見た。
私達は刑事さんから聞いた場所に、カナエを連れて来ていた。私服の婦警さんもついていた。
腐敗が激しすぎて、ナミコさんの死因は謎のままだ。鍵が掛かっていたから外部から誰かが来たわけでも無いし、発作があったのかも不明だ。ただ、カナエは起きた事がショック過ぎて記憶を失っている状態で発見されたとされている。
それでも、金魚に餌を与え、自分もスナックのように餌を食べていたから、記憶喪失か、それとも最低限のことしか出来ない幼児返りに陥っていたのか。あんなに仲が良かった二人がもめあう理由も無い。
「悲しかったでしょうに、カナエ。ナミコさんのことが分かればいいんだけれど」
車を降りて、カナエを連れて行く。すぐに疲れるので、公園にはベンチが置かれていて助かった。
カナエは少し歩くと、白くなってすぐにベンチに座った。それでしばらくしてまた歩き出す。
「話では、この奥の湖の先に水車小屋があるというの」
女刑事は言う。本当にどこかで服を買おうとしている街人のようで、刑事だなんて思えなかった。けれど、一瞬でまとう何かのオーラは覗かせることもあった。
カナエのリハビリも兼ねて歩かせると、しばらくして湖が見えて来る。緑が多い公園は、山々や森を背景に、自然の一部だった。
「……ああ、ちえさん」
緑揺れる風景に映える風車を見ると、カナエが人の名前をつぶやいた。
「ちえって、誰?」
「ねえ、タカエさん。ちえさんをご紹介します」
「え?」
カナエを見て私は驚いた。ナミコさんの口調で、カナエが私を名前で呼んだなんて、初めてだったから。いつも姉さんと呼んで来ていたのに。
「川野ちえは、ナミコさんが働いていた場所の人です。水車小屋が高級金魚を扱っているお店で、そこの店長だと」
「あなた、誰? 何故、知っているの?」
カナエが女刑事、舞さんを見て、その時頭痛を抱えたように頭に手を当て背を倒した。そんなカナエの肩を持って覗き見た。
「大丈夫?」
「カナエ、……ああ、ナみ、……こ、あずま、」
すぐそこのベンチに座らせる。頬が冷たい。真っ青だ。腕をさすった。
発見当時から伸ばしっぱなしの髪。ずっと綺麗なボッブヘアを貫いていたカナエは、目元だけ前髪から覗いていつも光っていた。それが、肩につくまで伸びて発見された。また少し伸びて来ていて、前髪の無いカナエは、思った以上思慮深い顔をした大人になっていた。今は頬もこけているからかもしれない。発見時よりは丸くなっている。
「駄目よ、もう、泳げないわ、私は、だから、離れたの」
「カナエ」
まるで、ナミコさんが乗り移っているみたい。
「……ねえ。ナミコさん」
私は舞さんを見上げた。舞さんは私を視線だけで見て、続ける。
「ここで、あなた何があったの?」
「私は、ここで……」
カナエは湖を見て固まったまま、手を固まらせている。頭を抑えていた手を。
「石碑を、山の、入り口の」
そこでカナエがふっと意識が途絶え、私は支えて頭を抱いた。
3
「ええ。ハイキングコースには石碑があります。古いもので、苔も蒸していて、後で行ってみるといいわ」
「はい」
美しいお店には金魚が泳いでいて、その店長、ちえさんは写真で見た養殖所の古民家に連れて来てくれた。カナエはその端のベンチで横にさせてもらっている。男のスタッフが運んでくれた。
「この水槽の金魚は、珍しいんですか?」
「東錦は昭和初期に交配が成功した品種だったんですけれど、オランダ獅子頭と三色出目金を掛け合わされた金魚だよ。紅い肉瘤が綺麗なのばかりだろう? 餌のたんぱく質も脂質の瘤に回る様に考えてるんだ」
それだから金魚の餌だけでカナエは大丈夫だったのだろうか。しばらくはずっと藻のにおいがきつかった。
「ううん……」
時々寝返るけれど、カナエは眠ったままだった。
私は首を傾げて、先ほど「タカエさん」と言った言葉や、刑事さんから聞いたナミコさんと東錦のDNAの一致についてを思い返していた。そして、水槽をただ餌を食べるとき以外は悠々と泳いでいた、東錦の姿を。
「まさか」
「どうかしたか?」
スタッフが餌のバケツを持ちながら、私を見た。
既に部屋で発見された時はカナエはナミコさんでもあって、東錦でもあったから、金魚の餌を食べつづけていたというの? カナエであって、金魚であって、ナミコさんであって、あの閉ざされた部屋という水槽で、ただただ漂い生きていたカナエと、東錦たち。
カナエではなくなって、金魚になって。
「石碑って……」
カナエを見ながら、呟いていた。
「何の石碑なんですか?」
スタッフを見ると、ちえさんが言った。
「慰霊のためらしいです。昔、多くの女子供が山を登った村から花街や奉公に売り出されていたそうで、それ毎にその村娘達は金魚の装いのように着飾って、湖を舟で渡っていったそうです。その時、変わりに金魚を村娘の分だけもらってきていたらしいのですが、その金魚も寿命が来たらそれを売った娘達と思って埋めて、そこに石碑が立ったのだと。村娘達は二度と村の故郷に帰ることは許されなかったのだと」
「その村は今は?」
「いいえ。もうすでにありません。しかし、昔から金魚に関しては歴史がありましたから、ここはその名残でもあって、最後の村人が山から降りて来た時に金魚養殖を続けたのだそうです。それが元々は水車のある小屋の場所だったのですが、代が何度か変わるごとに森へ来たり、建て替えたりと。今はその古民家を養殖所にして、水車小屋のほうをお店にしたのですが。ただ、私はその村の関係者の末裔ではないので、資料を見た限りの話しかわかりません」
舞さんが金魚達を見回すと、私に言う。
「カナエさんが目を覚ましたら、やっぱり向うべきね」
「はい。でも、何故東錦なのかしら。だって、昭和になって掛け合わされたんでしょう」
「場所が重要なのかも」
舞さん自身もDNAの件を信じられずにいる。もし、金魚塚からナミコさんの魂が生まれて、人となってカナエと出会ったのだとしたら、何故カナエと出会ったのか、養殖所から町へ降りて来たのか。それは、村娘達同様に出稼ぎに出ることが彼女達の存在意義だったからなのかしら。
「金魚……」
カナエを振り向くと、起き上がっていた。
「起きたのね」
顔を覗き込むと、幾分顔色が良くなっていた。
「石碑があるところ、行きましょう」
名前は呼ばなかった。どちらなのか分からなくて。
ハイキングコースは、緑が鮮やかだ。平坦な路で、どこまでも森が続く。不思議とカナエは森に入ると速足になって、それまでとは違って森を見回しながらずんずん歩いて行く。まるで路が分かるかの様に、何度か分かれ道があってもすんなりとためらわなかった。
「タカエさん」
カナエが指し示した先に、大きな石があった。
そこは大きな木の間に石が飲み込まれそうな勢いで、そしてその横に大きな湖が広がっている。山に囲まれた湖は、公園の湖とはまた違って、遠くには緑の山から滝も注いでいた。
縦長の石は、苔がやはり蒸している。文字は古い文字で難しい。
「こっちよ」
ふらふらとカナエが歩いて行く。湖では無い、路が続くほう。舞さんも歩く。まさか山を登るなんて思わなくて、靴のセレクトに多少後悔した。カナエはどんどん歩いて行く。何度か路を曲がって、滝の裏側を通って、それでまた上がって行く。木々が深い。
いきなり、視界が開けた。私はぜえぜえ息をして汗を拭う。
「……野原」
山に囲まれた開けた場所。岩が所々ごつごつしていて、そして特徴的な石と大木があった。石碑を包んでいた木と同じ種類。古めかしい石は、石碑とまではいかなくても、それらしかった。
「村が……あった場所?」
カナエは頷き、風に吹かれた。
「カナエと別れなければならなくなって、最後はここに来たかったの」
「……え?」
私は風に翻るカナエの髪を見た。
「私たち金魚は、人より寿命が短いの。だから、ここで生まれて、摂理のままに村を出て、町に売られて、金魚となって帰って来る……ここで、魂が眠るために」
木を見上げた。
「木も長生きよ……。人よりも長生き。ここで、いろいろ見守って来てくれた」
木の幹に触れて見上げるカナエ……今は、ナミコさんであって、金魚たちに乗り移った村娘達の魂なのね。彼女は、微笑んでいた。
「帰ってこれた……本当は、カナエと、別れること、辛かった、けれど……」
声が途切れ途切れになって行く。
「けれど、もう、分かったの。カナエの横で最後にいれたなら、いいかと……愛していたから」
幹に手を当てたまま、頬を当てて髪を引き連れてカナエの体がずるずると幹に寄りかかり下がって行く。
「楽しかった……意地悪な下郎もいなかった……カナエは優しかった……遊女にあたる男達なんか目じゃないぐらいに、綺麗だった……何も痛いこと、してこなかった……カナエが好きだった……恐い旦那様に木刀で殴られることも無かった……カナエといれて幸せだった……井戸に連れてかれて脅されることも無かったし……逃げて下男が追ってくることも無かった……カナエの柔らかい笑顔だけが……私たちの……望みだった」
いきなり、糸が切れたようにふつっと倒れて私はカナエの体を背から支えた。舞さんがすぐに確認すると、大丈夫と言った。
「……眠っているわ」
舞さんが言い、私はカナエの体を強く抱きしめた。
カナエはあの後、正気を取り戻した。
いきなり自供しはじめたから私は驚いてしまって。
カナエがナミコさんに手をかけたんだって、言った。別れ話をいきなり切出されて、理由も教えてもらえずに、ついカッとなって、悲しくて、別れたくなかったんだと。
刑事さんはその展開に、頭を抱えていた。
確実に人の形をしていた検死体は、だんだんと日を追う毎に小さくなって行って、最後には小さな金魚のなきがらだけが残っていたのだと。
カナエは罪を償いたいと言って、異例の状態で逮捕をどういう形ですべきかを法律上で検事が調べているらしい。写真には証拠となる写真も、物的証拠だというタオルもある。
私はそれらのことを、あまりに現実離れしていて、どう受け止めていいのか分からずにいた。
カナエは、至極冷静に受け答えを続けている……。
エピローグ
ゆらゆら
ゆらゆら揺れる
カナエという
水槽で私たちの魂は
ゆらゆら揺れるの
緑の木漏れ日受けるよに
その尾を翻すよにして……
カナエとずっと
一緒にゆれる
つらいことなど無い世界で
ゆらゆら
カナエのものに
なれたから
蜘蛛
蜘蛛~あたしと私~
泉花夏月(いずはな かげつ)あたし
花貴美夏(はなき みか)私
1
★
十五の時、年齢を偽ってヨーロッパで蜘蛛のタトゥーを手に入れた。
あたしはその時、その手の甲を見つめながら高揚していた。彫り師は専用の機械を構え黒い墨壺に針を沈め、そして手の甲にトレースされた蜘蛛の下絵の筋を、ジジジとなぞり墨を真皮層の下へ入れていく。まずはくすぐったさを感じて、そして骨張ったところに針がなぞると微かな痛みを感じた。タトゥースタジオは他のゲストのくゆらす紫煙がこもり渦を巻き、まるでドラゴンか大蛇が空間をのたうつようで、まだ若く半人前なあたしの体も未完成の蜘蛛も飲み込み食べ尽くそうとする様に感じた。その男をちらりと見て、私はニッと、微笑したのを覚えている。同じ笑みを、男が返したことも。まるで鏡を見るようにおなじに思えた。
十五分もすると線の蜘蛛はあたしの手の甲に息づいた。それは足の一本一本、模様に至るまで。紅く腫れた肌を牙で刺している様だった。
針の種類を変えた彫り師は黒い墨壺から蜘蛛に色味をつけていく。筋彫りの時とは違う感触は、肌の張ったところに今度は鈍痛を伴う。けれどどちらも心地良いぐらいの小さな痛み。
濃淡がついていく毎に蜘蛛は血流を共にすべく熱を持ち始めて、あたし、泉花夏月(いずはな かげつ)と一体化しようとする。皮膚に入り込もうとする。蜘蛛があたしになろうとするかのように。余所からやってきて、体を制そうとする。
三十五分すると、蜘蛛はあたしのものになっていた。手の甲という骨の格子越しに、私の体内を見つめ、狙っているような蜘蛛。
肉体とは檻なのよ。白く美しい格子を有した檻。その内側で心臓がうごめき、臓器たちがそっと顔を覗かせているんだわ。主人のことを見ているのよ。そして頭蓋骨という白い独房で、人の感情を司る脳は思い悩む。主人が侵してきた様々なことがらをタナトスまでの刑期を生きながら、そこに鎮座している。あたしが世を静観する間も、脳は思い悩む。
それを手の甲の蜘蛛は、あたしのものになった、とあたしが勘違いするそばで、見守っている。この手であたしが何をして行くのかを、看守のごとく見張る蜘蛛なんだわ。
あたしの内面を監視する蜘蛛は、いつかはあたしに飛びかかって牙を剥くのだろうか。この瞳に、この唇に。
☆
「美夏(みか)さん」
私はN女子大学のキャンパスで呼び止められ、同じサークルの波子さんを振り返った。
「金曜日の夜七時から、サークルの飲み会を【bella luna】で開くの。今回も参加するでしょう?」
それは毎回女子会ともいうべく飲み会の開かれる恒例のワインバー。ワイン蒸しの料理もおいしい。
「えっと……」
私ははにかみ、すぐに応えていた。
「出るわ」
「じゃあ、伝えておくわ」
「どうもありがとう」
★
あたしのことを「夏月(かげつ)を昼に見た」と知人から聞かされ始めたのはいつからだったか。
夜の静寂をかき分けるように縫い歩き、あたしは生活してきた。だからそれらの情報はあたし自身にとって、不可解なものだった。夜の七時から深夜十二時までレコードショップで働いて、自分がデザインする服の制作費とアクセサリーデザインに当てて、深夜に突入すればバーに流れ着いてシェイカーを振ってきたあたしが、太陽が降り注ぐ昼に行動したのはどれほど前だったろう。十三の時、生き方に雑念をもつ同世代に辟易したあたしは馴染むことが苦痛となって、黒い部屋でバロック音楽ばかり聴いてきた。ゴシック系の裁縫は好きだったけれど、趣味を共有する友人はその時代見あたらなかった。数ヶ月して中学を中退してすぐに漂着したのは西洋ハードゴシックが専門のレコードショップだった。オーナーと知り合って始めは裏方のレコード整理をして働かせてもらって、オーナーと一緒にヨーロッパにレコードを買い付ける内に語学を学び始めた。まだ十代も半ばだった頭にはよく入っていった。ご飯付き、旅費はオーナー持ちでお小遣い程度だった給料も少しずつ年齢と共に上がってくると、自分のデザインした裁縫服やアクセサリーの小さなブランドを立ち上げたくなって、サイトを作ってもらって受注で少量ずつ作るようになった。二十歳も過ぎると、オーナーが連れて行ってくれたバー[cabarero]で店長に気に入ってもらえて、バーテンダーになる修行も始めた。
だから、十三歳の年齢からあたしは日本では比較的夜に行動をし、ヨーロッパでは開放的な空気を吸ってきた。十七歳にもなれば、あたしは一人でもヨーロッパの地を訪れるようになっていたし、その空気に触れていることが心を充足させてきた。
『夏月さん、表参道で見ましたね。珍しく、エレガントな装いしてましたけれど』
『自由が丘であんた、用事でもあったの? 別人かと思ったけれど』
『お前、どこででも現れるな。まさか「オペラ座の怪人」観るような性格だったか?』
『歌舞伎座で何か観ていたのかい。君の作るお酒もわびさびがあるよ。心が導き出すものかな』
身に覚えのない事だったから、時々その「昼のあたし」とやらを見るみんなの事が不思議に映る。奇妙で、それでどこか不安に陥る現象。初めのころは、それはそれでわくわくした。昼に行動するその女のことを、夜に行動するあたしとは正反対の存在と捉え始めて、いつしか応えるようになっていた。
『よく見かけるらしいわね。彼女は昼を征する勝ち子ちゃんよ』
『夜を征する君も勝ち子に見えるけどな』
他の人にも経験があるのだろうか。
分からない。
けれど、あたしはあたしよ。
あたしはあたし……。
☆
私はじっと見つめ続けていた。
女の病的に真っ白い手の甲。皮膚に刻まれたその黒々とする大きな蜘蛛と私は見つめ合っていた。
実にリアリスティックなタトゥーで、八つ並んだ蜘蛛の丸い目は、八個のボディピアス。本当に私のことを見ているみたい。
「………」
その瞳に引き寄せられるような眩暈を覚えたので……私はそっと、蜘蛛に唇を寄せていた。
ツと、手の甲の冷たさが唇に伝わる。
「毒蜘蛛なら刺されてるよ」
驚いて背を伸ばす。てっきり眠っているのだとばかり思っていた。女の顔を見る。冷たく不思議な色をした瞳と鉢合わせた。ボリュームあるロングの黒髪を片方の肩に流し腕を組んだ女。横目で見てきている。
電車内。
私達だけが揺られている。揺れる瞳で女の目を見ていた私は、電車が立てた甲高い音でハッと目を瞬いた。
これは終電。三十分間、ずっと気になっていた女の手の甲に注視していた。
「ごめんなさい。いつもはこんな事、しないの。見ず知らずの人だし、人に不用意に触れようなんて失礼に当るから」
女は予想に反して好意的な微笑みを向けた。それはどこかおちゃめに。私の胸の辺りがその笑顔でいきなり鼓動を打つ。
「ふ、いいのよ。あんた、N女子大生?」
「ええ……」
怒っているわけではないようで、安心した。
私の通うN女子大というと、一見してその特徴が判別できる服装や髪型をしている。体よく言えば落ち着き払った女性の身なり。品のあるウェーブ、白いブラウス、ストール、膝丈のスカートにオクスフォードパンプス。それがN女のよくする装い。その首元には繊細なネックレスや、指には微かに輝く指輪をそれとなしに填めている。
私は唇を寄せた蜘蛛を、また見てしまう。未だ、生命を持ち息づいて思える女のタトゥーを、ずっと唇は求めるように喉をならし見つめていた。さっき、タトゥーに口づけて、一気に心はざわざわと騒がしく高揚した。
唇を寄せた途端に言葉では言い表せないほど脳天を貫いていった、目に見えない蜘蛛の歯牙。
視線だけは、彫り込まれた蜘蛛の挙動を追い続ける。
「名前、なんて言うの? あたしは夏月」
「カゲツさん……」
蜘蛛の目となる黒いボディビアスに跳ね返る光沢を見ながら、おぼろげに女の名を口ずさむ。
そして、視線を上げていく。だんだんと。女の体を締め上げる革製のビスチェから、腰まで届く髪を辿って、死刑台……十字架。肩、首筋、美しい顔立ちを見る。
さばさばとした雰囲気の彼女には≪カゲツ≫という名が似合う。ゴシックアイメイクの鋭くも美麗な目元をしていた。
何故か、女性と名指すよりもクールに「女」と名指した方がよほど似合う風なのだ。
「私は美夏と申します」
「へえ。ミカ。どう書くの? カゲツは夏の月」
彼女の病的に真っ白な肌を見ると、冬の情景が浮かぶのは何故だろうか。
「美しい夏で、ミカ。母が夏が好きで健康的な女性になってもらいたいからって」
「逆ね。あたしは、月の様に静かに、夜の夏虫の様にささやかな子になってもらいたかったって」
「素敵な由来。私なんかは本当は秋生まれのカナヅチ」
「マリンスポーツどころじゃないね」
お互い全く夏の全く似合わない顔を見て、ふふっと可笑しくて笑った。
「その蜘蛛、綺麗」
夏月は美しく覗く背で紐が交差した革ビスチェの胸部に、西洋的なアンティークシルバーの大振な十字架を提げている。しっかりした左上腕には蛇が彫られ、ショートスカートから出る長い脚はガーターベルトに吊るされた黒いストッキング。編み上げヒールを履いていた。彼女にはヨーロピアンゴシックの雰囲気がある。
彼女が組む腕が解かれて、右手甲の蜘蛛が膝に当てられた。脳裏に想起させられる。その先の鋭いヒールで蹴られたら、蜘蛛に刺される痛みを伴うのではないかしらと。だって、鋭いヒール先はまるで蜘蛛の持つ針や牙に見えた。刹那、私に蜘蛛は跳んでこの身を毒牙で浸そうと狙っているかのよう。
ちらりと夏月の瞳を見た。彼女自身が毒を持つ雌蜘蛛に見えて、何故かしら……、私は、微笑んでいた。
スーッと、指を夏月の組む細長い脛に滑らせ編み上げをなぞらせながら。
何が私をそうさせるのだろう?
ここが電車だと忘れてしまう程、彼女だけを見て、他の景色などぼやけてしまう。夏月だけが息づいて思えて、その夏月の持つデカダンスな雰囲気と、闇を駆け抜ける電車の殺風景な音が、私を夏月に捉えさせて大胆にさせているのかもしれない。
まるで水分を掻き分けるような音で夜の電車は進み、時々甲高い音を響かせる。
夏月の目は、鏡のような色のカラーコンタクトが嵌め込まれていた。私を見ていて、そして、微笑んだ。
「あたし、あんたみたいな目をする子、好きよ。悪戯な目、するんだ」
一瞬、白い手指が迫ったかと思うと私の巻かれた髪に指を差し入れた。黒いマニキュアの鋭い爪はブラウスの襟元を撫でて行き、髪に蜘蛛が張って行って微かにボディーピアスが髪に絡む。それは、まるでわざとかのよう。項を撫でられたことで私は咄嗟に首と肩をうねらせてしまい肩からベージュのストールが落ちる。
いきなりの事で首を仰け反らせた。
夏月が酷く私の後ろ髪を引っ張って来たから。目を開けて視線を落すと、似つかわしくない可愛い笑顔が待っていた。
「綺麗。涙の浮ぶ瞳も」
「酷いわ。離して」
「悪いわね。あんまりに美夏が可愛いから」
手がぱっと離れて行き、私はそっと手を差し入れ髪を整えた。
その離れて行った手の動きを見詰める。それは、まるで一度毒を排出したか獲物の生き血吸ったかの様に活き活きして見えた。
★
やっぱり……。
あたしは思った。
この女だ。みんなが揃って『昼に夏月を見た』と言って来た正体は。
確かにメイクは違うけれど、顔づくりは同じだ。それを素顔を知るあたしは分かっている。よくよく見ると、元の瞳の色も、顎下の微かな小さい黒子も、耳の形も、同じ。だから、きっとその纏っている衣服もはぎ取ればある筈。あたしや男しか知らない場所にまるでハートの片割れかのような痣が。
さっき美夏の髪を鷲掴んだあたしの手はその途端にズンッと重さを伴った。彼女の頭蓋骨を指に感じて、確かな存在感をあたしに知らしめる。あたしも存在する。こいつも存在するということを。
『あんな上品な格好もするのね。いつのまにその路線に乗り換えたのかと思ったわ』
違う。あたしはその昼の女では無い。乗り換えですって? あたしを乗っ取るの間違いなのだと、思ってしまう。不安げにあたしを見つめる美夏の瞳があまりにも滲む涙とともに光るから、その光りにあたしは弱さではなくそこはかとない可愛らしさ、守ってあげたくなるような使命を感じた。
電車はカーブに差し掛かって、美夏の体がかしいで私に傾く。髪からは薔薇と白百合が混ざり合った香りがする子。上品な装いはあたしがしたことも無い格好。イヴサンローランやラルフローレンのライン、シンプルなエルメスが好みなのだろう。所作はどれもゆったりとして優雅で、重いものなど持ったこともないだろうその手は、美夏という女をエレガンスに思わせた。
まっすぐにしか歩かないあたしとは似ても似つかない。それは、似ていても内面が似つかない証拠。美夏の優柔不断に揺れる瞳の光りは、あたしが感じる不安さえも照らす灯りに見えた。
☆
私達は深夜、ゆったりと流れていく夜風を縫うように歩いた。
あとはもう路線を走るのは深夜特急や貨物列車になだろう。
「あんた、何かのサークルの飲み会帰り?」
「ええ。あまりいつもと代わり映えが無い顔ぶれだけれど、最後まで居残る癖が出来ているのよ」
「幹事に任せて良い頃合に抜ければいいのに」
「なんとなくよ。のんびり話している内に、そんな感じ」
夜が目を覚ます時間なのか、私は眠いけれど夏月は目がまだ強い光を放っていた。
「夏月はこれからどこかへ向かう所だったの?」
「バーにね。来てみる? 飲み直すのもいいんじゃない?」
裏路地を行くと暗がりを猫達が歩いていく。まず一人では、波子さんがいても歩くことのない種類の細い路地。換気扇からは料理の匂い、壁には装飾的に留まったペイント、飛び交うヨーロッパの多国籍な言語、暗がりからあげられる鋭い視線。静かな目で見下ろしてくる彼ら。風に乗ってやってくるベルガモットの香り。それに、移り変わったお香の香りにあてられて、頭がくらくらさせられる。暖色の照明に彩られたラテンの踊りをする男女があまりに魅力的で、一瞬立ち止まって見とれる。彼らがキスをして、私はすぐに目を反らしていた。「フフ」と笑った夏月が私を見つめた。何故か頬を染めてしまう。間近でウインクする夏月に、一瞬踊っていた白人男性の顔が重なった。彼女の奔放な瞳に心臓は落ち着かなくなって、私が早足で歩いていったから背後から夏月の笑う声が聞こえた。
そこを抜けると、空気さえも澄んで静かな路に出て安心した。
その向こうに紫色の看板を見つける。それは白い漆喰壁にぼんやりと広がっている。
紫の看板には、染みるような黒いローマ字で細く【camarote】と記されていた。スペイン語で【船室】ということ。
「あなた、時々、どこかへ船出したくなるの?」
「旅は好き。もちろんスペインも廻った」
彼女なら確かに一人でもどんどんどこにでも出かけていくだろう。
「冬だけね」
付け加えて、黒いドアを潜って行った。
クラシカルな店内だった。女性がカウンターに立ち、数名の女の子がグラスを傾けている。
「ハアイ。ゴッドファーザー」
「いらっしゃい。ゴッドファーザーね。彼女は?」
「えっと……サングリアで」
「分かったわ」
ボックスに入ると、心地良く耳を打つぐらいのラヴェルの曲で他の会話は遮断される。
夏月の肌も、黒い蜘蛛も暖色で染まってまるでエジプト女の様にこわく的にさせる。彼女は微笑んでいて、甘い香りのお酒、それはアマレットとウィスキーのカクテル、ゴッドファーザーであって、それが夏月の前に、そして酸味のある赤ワインと柑橘系のカクテル、サングリアが私の前に置かれると彼女の笑顔からバーテンの女性を見た。夏月もその人を見上げたから。
「N女の子? 珍しいのね。うちのバーに来た子はあなたが初めてよ」
「素敵な雰囲気のお店ですね。落ち着き払っていて」
それで、女性ばかりだから心もほっとしていた。飲み会では周りの席に男客も多くて声で疲れる事もあったから。
「充分楽しんでいってね」
「どうもありがとうございます」
バーテンダーはウインクして戻って行った。お通しで出されたチーズを頂く。とても美味しい。サングリアにも合った。
「何となくだけど……」
夏月はソファの背もたれに背を預けていて、その横顔を私は見た。彼女はテーブルのグラスを、伸ばした腕の先に持っている。表情の無い横顔だけれど、瞳は光って、厚い口許のルージュが今にも薔薇と見まごうほどあでやかに見えた。
「見た目は違っても親近感が沸くのよね」
また、あのボリュームあって長い髪が一瞬彼女の顔を囲い、微笑んで来た。
「あたしとあんた、よく似ているのよ。顔立ちも、元の背も、声も、どこかサバサバした何かも」
夏月はラヴェルのアレグロモデラートに合わせる様に言った。
★
あたしはコンクリート打ちの部屋に帰ってきた。
ふらりと洗面所に来て、メイクなど取るために顔を洗う。髪もまとめずに、しばらくしてぽたぽたと水滴が落ちていく。だらんと洗面台に手が降りる。
薄ら寒くて灰色の空間。色味なんかは無い。そんな部屋で、あたしは顔を上げて鏡を見た。大きな上目。息を吸うために開かれた唇。肌を光らせ顎から流れ落ちる水滴。
同じ顔をしている。黒いアイラインも、黒と灰色の猫のようなシャドウも、つけまつげも、紅いルージュも、メタルグレーのカラーコンタクトも外したあたしの顔。美夏と同じ顔の女は、この部屋の鏡には実に不健康に見える。人工的な光りを瞳に宿して、ただ考えている。どこかへ旅にでること。いつでも突発的なものだった。強い不安に駆られて、心は、この身は蜘蛛の繭に閉じこめられそう。
あたしは身を返し、黒いシーツのマットレスにトランクを出して服と下着を、メイクポーチや七つ道具を積めていった。
体に身につけるのは薔薇レースでタイトなノースリーブ、すり切れたジーンズのミニスカート、焦げ茶で柄物のカラータイツ、牛革サンダル、ティアドロップサングラス、あとは髪をエキゾチックな簪でまとめる。旅するときは身が軽い服装が良い。それに、現地についたらその街のファッションをすること。これは自分で決めた自己防衛でもある。サングラスさえ填めていればあたしはあまり日本人には見えない。それにその街のちょっとした方言を収得しておくと良い。腕っ節は一応はある。
メイクは飛行機での移動時はナチュラル系が良い。肌をマットに仕上げたら、オレンジ系の濃いチークと同系のルージュ。それに薄いアイラインと、睫毛はビューラーだけ。
パスポート、それをバックポケットに差し込む。
今から飛行機で一人旅に出る。
イヤホンからは好きなハードゴシックミュージック。
キーを手に、部屋を出た。
タクシーの乗り込む。
車窓に流れる朝の弱い光。ヴェールが軽やかに雲を裂いて、ここまで降りてくる。手の甲の蜘蛛から毒を打ち消そうとするかの様に思えて、その白い手の陰が窓に映っていた。膝に乗せられた手。指輪がいくつもはまり、それらが蜘蛛が糸を巻き付けた獲物に見えた。美夏の目が重なった。窓に反射する指輪に。
それが今に蜘蛛のタトゥーが忍び寄って、彼女の唇を刺して、深く刺して、体内に入って彼女の体を乗っ取ろうとするんだわ。
手が呼吸と共に動くと、指輪も動いて光りの反射を変えるから、美夏の目も閉ざされて涙を流したように見えた。それが蜘蛛の体に流れ落ち、朝の光りと共に毒を浄化していこうとするんだわ。あたしの存在も全て消し去るかのように。目を閉じた。簪など抜き取って、長い髪が崩れて肩に柔らかく落ちる。ああ、頭に立てた爪が痛い。不安など消し去ってもらいたい。朝の光はあたしを不安にさせる。美夏なら、夜に不安を覚えて、そして朝にはそれが打ち消されるのでしょうね……。朝はあたしは苦手……。
イヤホンから流れる夜だけが救いだった。昼の陽に焼け尽くされそうになる前に、飛行機で離れよう。
何があたしを不安にさせるの。何があたしの心を奪っていくの。解らない。
☆
私は頭痛のまま、大学への通学のための電車に揺られていた。
本来、誰もが門限が決まっている子達ばかりだから、私の様に一人暮らしをして門限が自由なのは、変な理由を付けて夜更かしをすることに繋がる。
昨夜出会った夏月は、とても不思議な存在に思えた。あの笑顔はとても魅力的で、引き込まれそうになった。あやうく、蜘蛛の彫られた手の甲だけでは無い、彼女の唇に吸い寄せられてしまいそうだった。それが今なら分かる。
電車から見渡す朝の光に、頬を染めていた。眩しくて目を閉じる。
「美夏さん」
私はもう少し夏月のことを考えていたかったけれど、声をかけられて視線を向ける。やはりエレガントな立ち姿と品のあるバッグを提げたサークル仲間が優しげに微笑み、そこにはたたずんでいた。
「まあ。波子さん。こちらへどうぞ」
N女では、さん付けで呼ぶことや貴女と名指すことが義務づけられている。なのに、昨夜は夏月に対して「女」というフレーズを使っていた。性別というカテゴリーよりも、生物学的な方面で言っていたのかもしれない。不可思議な親近感、同一性のなにがしか。引き寄せ合うシンパシー。
「どうもありがとう。昨夜はお疲れさま」
波子さんが座ると、昨夜のサークルの飲み会の話になった。いつもはクラシックの流れるワインバーでの飲み会なのに、昨夜はそのバーに騒がしい男客が集って疲れてしまった。
「元気? もしかして、飲み過ぎたの?」
「いいえ。大丈夫よ」
「よかった」
のぞき込んできた波子さんに微笑んで、膝に視線を落とした。やはり、昨日は何かの魔力にあてられていたのよ。あんなに夏月に対して高揚したのだなんて。同じように顔をのぞき込まれても、波子さんには特別なにかを感じない。
「……?」
私は首を傾げて手の甲を見た。一瞬、うっすらと濃い影が降りたみたいだから。顔を上げても、誰もいない。再び見ても、細いリングがはまっているだけ。
電車の音に耳を澄ませながら波子さんの話を聞いていた。耳から流れて通過していくだけの言葉。形だけの会話。明日には忘れ去られること。人は、ただタナトスの瞬間までの暇つぶしのためだけに話をつづけているのだろうかと、おぼろげに思うことがある。体は漂流して、魂の在処も探せずに、時を流れる器。
夏月の強い光りを発した瞳に、私は惹かれていたに違いない。心の動く彼女の強いまなざしが、私には焼け尽くされるほど欲しくてたまらない物だった。
★
美夏が言ったからかしら。
『あなた、時々、船出をしたくなるの?』
あたしはスペインの海で船に揺られていた。
ええ。ごもっともよ。あたしの心は浮遊したくなる。漂着場所も不特定な心よ。ただただ何かに出会いたいのよ。あたしを変えてくれる美しい物事に、包まれて驚かされていたい。そして涙を流したいのよ。ダイナミックな自然や、得に言われぬ風景や、人々の心、それに輝いている生物たちの姿と声に充たされていたくなるの。
不確かな心は、わりとどこにでも漂着する。自由すぎて足下もおぼつかない。体がここには無い、そんな感じ。でもそれがたまらなく心地が良い。
"Es muy raro"
男の「珍しいね」という言葉にあたしは振り返り、スペイン語で返す。
「何が?」
男は指先で海の青の彼方を指す。
「ほら。今日はいつもよりたくさん鳥が海上に群れている」
「魚がいるのよ。いつもより」
「青と白の対比は好きだよ」
男が微笑んであたしを見た。視線を合わせるとよく分かることがある。一瞬のことで、その男と関係を持つことになるだろうことが。それを自制するのは自分だし、酔っていれば勢いで過ちを冒してしまい、自分を罵ることもある。だけれど、それが心と体が自分の内側で唯一つながり、結び合う瞬間でもある。自分の体などを軽んじているわけでは無い。ただ、確認しておきたくなる。感情と体がしっかり手を結んで活きているのか。それを男達は容易に関係を持つことで理解させてくる。こんな不安定な感情など、ただただ侘びしいだけだ。大切にするべき操の前に、もっと深い傷のところでくすぶっている。不安げな自分が、闇からのぞき見上げてきている。
いつの間にか、一つの船室で男の厚い胸板に頬を乗せて丸い窓の外を見つめていた。
愚かで馬鹿なあたし。そんなあたしを男も含めてカモメたちも大笑いしてくれればいいのに。なんて女だと。でも、今はただ目を閉じて体と心をここに留めておきたい。
きっと、美夏が知ったら軽蔑するだろう。あたしはそれでも構わないよ。
なんで、こんなに自棄になるんだろう……。
関係を持つこと自体は好きでは無い。すぐに嫌気がさすことも多い。自虐なのかもしれない。決して心と体の繋がりを理由に男に身を任せるわけでは無い。きっと、それを言っても他の人は分からないことだろう。
一瞬を情熱が燃え上がって男の魅力に囚われて、望む全てを確かに男は叶える。でも一言も言ってはくれない。良い意味の言葉だけしか男は囁かない。心では思う。あたしはこんなあたしを少しは罵ってくれればいいのに。なんて軽い女なんだと。心では男も勝手に思ってることだろう。けれど言ってはくれないから、あたしも同等に軽い男の彼らに対して、良い意味の言葉しか囁かない。同類なのよ。どうせ、あたし達は。綺麗な言葉だけ並べて、一瞬の愛情だけ分かち合った振りをして、心と体が繋がった途端に自己嫌悪に陥って、嫌悪が現れた瞬間に良い方に都合よく解釈しようとする。ただ自分は愚かな女だと片づけてしまうその浅はかさ。それは明らかな逃げ。そんな自分が嫌だ。
ああ、今は空だけを見つめていよう……。
そして時に悲しいことに気づくんだわ。
男などはそんなこと、何にも思ってもいないこと。ただ望むままに可愛がって向かってくるだけ。大切に扱いながらも、明日には忘れ、そんな無神経が私の心を壊していく。いいえ。愛情という言葉で壊してくれる。感情と激情が重なるところで、全てどうでもよくしてくれる。その力が情熱には秘められている。
「愚かなあたし……」
涙を流していた。全て浄化していく水分。体から、地球の海に少しずつ同化すれば心は青くなってくれると信じるのは、おかしなことなのだろうか。
男が頭に手を乗せてくれた。見ず知らずのあたしなのに。
「馬鹿だな。君はこんなにも美しいのに。君の心は瞳に現れてるんだぜ」
「……マルコ。ありがとう」
何故男はこうやって、あたしを慰めてくれるのだろう。一時だけでも、流れていく魂の漂着地点はいつもどこかで出会ってきた彼らでもあるのだろう。
空がどこか青さを増す。込み合っていた心が帰ってきたからかもしれない。
「……甲板に出ましょう」
「いいよ」
甲板まで歩いて、共に同じ方向を見つめた。
「心が殻に感じる時、必死で人はそれを埋めようとするでしょう。何故かしらね。ちょっとは、そっと立ち止まってその殻の隙間を楽しんでも良いと思うのよ。そこにはゆるやかに風が吹き込んだり、光りが差し込んだりするの。そのときに、ふと見つけた花が美しくて……私は全く自分が殻なのでは無いのだと気づく。人としての感情など、それで脱ぎ去りたくなるのよ。時間としては一瞬かもしれない。けれど、人生でたびたびその心の狭間を持てば、それは輝く瞬間を垣間見てきた人生になるのよ。身は生きながらにして、心が活きている」
心地よい風を受けていると、マルコが私がまとめずになびかせるままの髪を弄びながら言った。
「俺は甘いものを朝に食べて心を充たす」
太陽を背にするマルコの目元は逆光で陰に入って、私はランニングの胸部に抱きついた。不安に感じたわけじゃない。陰のなかでも瞳や白い歯は光ってた。優しい笑みを浮かべていたから、甘えたくなった。朝の人が目覚め始める時刻、あたしは眠り始める。マルコが目を覚まして甘いものを食べる時間は、あたしは時に悪夢にうなされているのかもしれない。眠りをむさぼって、そして時にこうやってエキゾチックな気風があたしの体をしっかりとした人としての目覚めを取り戻してくれる。本来、夜行性ではないあたしという人間と、昼に活きるマルコが出会って一瞬の愛を共にして、そしてまた別れて行くんだわ。互いの生活に。彼は甘い生活に帰り、あたしは不安の底へ落ちていく。
何故不安など感じる必要などあるの? きっと、「昼のあたし」美夏には無い感情。
☆
波子さんが私に男性と付き合ってみてはと声をかけてきた。
大学のテラスの隅。高木の緑がさわさわ揺れている。小鳥達の声がするけれど、他の人たちは今ここにはいない。
「私の弟の友人なの。貴女のことを以前から気にかけていたというのよ。年齢は貴女の二つ上よ。弟の先輩でもあって、中学の頃から部活の関係で弟を可愛がってくれていたの。美夏さんが数度、我が家へいらした時に見かけてから気になっていたというのよ」
私が返答をせずに曖昧な笑みを浮かべて困っていると、波子さんは言った。
「今、お付き合いしている方が?」
「いいえ。今はいないの」
何故だろう。何もわくわくもしなければ、これから会うかもしれない男性にドキドキもしない。波子さんの弟さんの友人は三度ほど見かけたことがあった。彼は爽やかな微笑みをした人で、ラフカジュアルな衣服もよく似合っていた。私にいつでも黙礼と共に笑みを寄越してくれた。確かに素敵な人。
けれど……。夏月の顔、それにあの声、近づいて来る時の香り、全ては未だ私の体をまるで細い足で包み込んでくる蜘蛛の様に閉じこめている。彼女に会いたいと思う気持ちは、なんと飾り気のないものなのだろう。ただただ、純粋に求めているのだ。何も無いというのに、横にただいるだけで不思議な高鳴る感情を抑えきれない。もう、身を浸されたのかもしれない。
「今……好きな人がいるの」
ドキリ、と、突然降ってきたその自分の言葉に一瞬をおいて、私は唖然とした。え? 今、なんと言ったの? 自分で、夏月を想いながら「好き」だなんて。口元に指を当てて視線を落とした。ずきっとした手の甲に。うっすらと浮かんだ蜘蛛に眉を寄せる。
「まあ、まるで分からなかったわ。あなた、いつでも浮遊しているから」
波子さんがはにかんで、視線を落として細い指を重ね合わせたり開いたりを繰り返した。
「え?」
手の甲から顔を上げた。「浮遊している」という言葉だけが私の耳に入って、この殻のような体にカラカラと溜まって足に落ちたようだった。
まるで、私の体はもとから空瓶だったのではないかと思う事がある。コルク栓も麻紐で繋がれただけでゆらりと揺れている瓶。全てが入ってきてはそのまま抜けていく。けれど、「浮遊」という言葉はそのまま瓶底に沈んで、透明な硝子はそれを皆に隠すこともできずに、見せている。
人から、私は「浮遊」していると見られていたのだ。自分が感じるままの私を恥ずかしげも無く見透かされていたんだわ。曖昧な、そして周りと心が浮いた気がするこの不安定さを。私はふいに足下を椅子の下に入れていた。私の体という瓶底に沈んだその「浮遊した美夏」という文字を隠すかのように。
「いやだわ。恥ずかしい。浮遊して見えるのだなんて」
「私は嫌いじゃないわ。静かに漂っている美夏さんが、それなのに、時に覗かせる目の魅力的な風に惹きつけられるから」
私は手の甲に乗せられた波子さんの手を見た。
「貴女の気になる方、誰?」
波子さんの目は私をじっと見ていた。まるで私の感情を探り尽くしたいかのように。
彼女はとても美しい子で、まるで積み上げられた白い薔薇砂糖のような人。長い黒髪を縦巻きにしているのだけれど、他の人たちとは一風違う雰囲気をしている。白のシルクシャツの胸元に黒いスカーフを挿して、グレーのカシミアストールを掛け、細身の黒い膝丈スカートで腿の綺麗な形がすぐに分かる。頬に薔薇色、唇に紅のルージュを乗せているから、クールな装いながらもあでやかな顔立ちが引き立つ。背も高いからとても様になる。
とても美しい分、どこか近寄りがたさがあるのに、好意的な性格なので共にいても会話に困ることは無い人。
「弟が言っていたの。きっと美夏さんはお付き合いの話を出しても、頷かないのじゃないかって」
「何故……?」
当てられ重ねられた手は柔らかいのに、ゆっくりとした言葉と視線は私を貫いた。まるで問いつめるように。プラチナの指輪がまるで今に冷たい手錠に変化して掴んできそう。
「その稀に覗かせる瞳が夜を思わせるのよ。不思議ね。美夏さん、この前同性愛者の集うバーに入っていった」
「要領が掴めないわ。夜とか、弟さんが私の性質を語ってたとか、それに……」
「私、レズビアンなの。貴女のこと、気になってた」
「え? いきなり……いろいろなことを言ってこないで」
波子さんはエスカレータ式で学園を幼稚舎から付属大学まで来た人、中学からずっと女学校。小学生時代はヨーロッパの寄宿舎に入っていた話を聞いていた。電車で乗り合わせる内にサークルに誘ってくれたし、今では大学での友人だった。
蜘蛛の巣はどこにでもあるのかもしれない……。私はなんとはなしにそう思った。私はまるで蛾の様にとらえられて様子を見られていたのかもしれない。ただ大学生活を心ここにあらずで送っていただけの私。
「知らないのね。貴女の瞳が男性を見るときと女性を見るときでは違うこと。自分のことは自分が一番分からないものよ」
『好きよ、あんたみたいな目をする子』
夏月が私に言った。でもそれはレズビアンとしての言葉じゃ無いわ。分からない、けど……、私はとてもドキドキしていた。波子さんの優しい手に。夏月の言っていた言葉に。
二人の笑顔の種類が重なって見えた。
そこで私は気づいてしまったのかもしれない。今まで、自分というものをどこにも置いてこなかったのだと。だから、夏月のような人が現れて、気づいてしまった。恋という激しい想いが存在する世界を。
「私……、お話は受けられないわ」
「………」
波子さんが私を、初めて真顔で見た。それは電車で微笑みかけてくるときも、女子会で見つめてくるときも、サークルでふと肩にふれて顔を覗かせてくる時とも違う顔だった。だから、分かってしまった。私に好意を寄せてくれていたからサークルや女子会や飲み会に誘ってくれていたのだと。恋人のような感覚で登下校し、デートの感覚で波子さんがいたのだと。
「何故? 貴女、誰にいったい恋をすることを覚えたの? いつでも美夏さんは私の想うとおりになる可愛い人だったのに」
揺れる波子さんの瞳。麗しすぎて、私は怖くて目を反らした。手の甲に当てられた手が動揺ににじんでいる。汗で。波子さんは口をきゅっとつぐむと、うつむいた。
「本当なのね。好きな人がいるって」
波子さんが走って行ってしまい、すぐに追いかけようとしたらラインが来た。
そのメッセージを見て、座ったまま私はiPhoneを見つめた。
うつむいて、目を閉じた。
『来なくていいわ。泣き顔なんて見られたくないの。本気だったから』
2
☆
私は夏月に再び会いたくて、夜の路をさまよっていた。
思い出す夏月の姿。目を閉じると闇に浮かんでいる。髪を翻してステップを踏んでいる夏月。
「ベッラドンナ……」
その単語が脳裏にふっと現れた。
目を閉じる私は、夏月に手も伸ばせずに、ただただ幻の彼女を見つめていた。
「美女……美しい女という意味のラテン語」
何故それが分かったのだろう。まるで夜空から降ってきたように脳裏に染み込んでくる言葉。
夏月は私の前で、髪に紫ピンクの花を絡ませはじめて、そして舞う彼女だけ一寸先の闇へと染み込んでいく。花だけが目の前に回転して残った。
「沈黙……、夜の影、致命的な……」
私の口から紡がれた言葉が脳裏で合致する。
「どうしたの? 夜の影は致命的な沈黙……それが、ベラドンナ」
幻聴に目を開くと、夜気に包まれた私は探し求めていた。瞳が夏月の姿を。路地裏はまるでさすらってきた者達の漂流場所。聞き慣れない言語が私の耳を打つ。
「美夏」
咄嗟に振り返った。目の前に、夏月の顔があった。
「ベラドンナの花が好きなのね。美夏」
「私が好きなのは……」
夏月が私の髪に指を絡ませて、顔を見つめてくる。流れるような視線で。今日は少し高めのヒールの私は、夏月のイメージとしては低いヒールを履く彼女と同じ背だった。そして、カラーコンタクトが填められてはいなかった。
「薔薇? 百合? ジャスミン?」
私の使う香水の香りをなぞって言う。
私は夏月に重ねていた。ベラドンナという言葉を。花の名前とも知らない私に夏月は教えてくれた。
「いらっしゃいよ」
★
「ナイトシェードってね、ベラドンナの別名でもあるのよ」
あたしはカウンターでバーテンダーとして美夏にカクテルを振る舞う。
バーボンのボトルを手に取り、スイートベルガモット、ハーブ酒の黄色い方のシャルトリューズ・ジョーヌ、そしてオレンジジュース、氷をシェイカーで振る。
「それとも、薔薇の品種のベラドンナかな。今の秋の季節に丁度咲く薔薇は、まるで二人の出会った記念の花よ」
「どんな花なの」
「薔薇には詳しいんだと思ってた。あんた、そんな雰囲気してるから。薔薇のベラドンナはね、このカクテルみたいに青い系統のピンク色の薔薇。ベラドンナの花に似た色よ。その名の通り、美しい淑女のような姿をした薔薇」
カクテルグラスに注がれるナイトシェードカクテル。
「でもね……エッグプラント科のベラドンナは悪魔の花よ。その目を大きく開かせて事実を露呈させようとしてくる悪夢。運命さえも断絶するほどの」
指で挟んで差し出す。美夏はその悪魔の花の色をしたカクテルをぼうっと見つめていた。
「ベラドンナの真っ黒い実の様な瞳は、悪魔の目なのかもしれない」
「私は、入れ墨の蜘蛛に悪魔の目を感じたわ。見入られたかのような、今まで感じなかった高揚感を」
また手の甲がふわっと浮くような感覚に囚われる。視野の端に映るその手の甲の蜘蛛は、黒い目で美夏を見ていた。
「蜘蛛の猛毒に浸されるかのような……それを、私は望んでいるのかもしれない」
あたしは思ったよりも挑むような目をする美夏の目を見た。外見からはそうは見えない。弱々しく見える。媚態を備えた小さな花に見える。それはベラドンナと同じ。けれど口にすれば体は植物の毒に浸される。見た目からはわかりはしない妖しげな心など、きっとあたしでなかったのなら分かりはしない。
手首を掴み引っ張っていた。美夏が体を乗り出してボトルが彼女の胴体で倒れていき、恐怖におびえた美夏の顔を間近で見ていた。
この時間は誰もいない店内。
片方が欠けたハートをそれぞれが補い合うのに時間などかからなかった。
何故だろう。こんなに自棄になったのは。美夏の動向の全てを封じ込めたくなってくる。これは、捕獲なのだわ。蜘蛛が美しい蝶を捕らえるかのように、あたしは今、美夏を捕らえている。それは完全なる支配のために。ベラドンナの毒に麻痺した身体を大切に扱いながらも、牙を剥いて、そしてあたしという存在だけにしたくて。だからもがくように、愛しさに似た複雑な感情で、確固とした恐怖を感じる。
あたしは耐えきれずに美夏の腕に噛みついていた。甘い香り、あたしが捕らわれているのかもしれない。不動の美夏という籠に収まるために、その白い骨という格子をくぐって体内に入りたいのかもしれない。だから噛みついて、痛がっても、髪を掴まれても離さずに歯を立てた。爪を立てて、そして一瞬を頭がクラッシュしかけて鈍い痛みを感じた。歯の奥に我を忘れたあたしの歯が噛み取ったイヤリングがガリッと音を立てる。
「………」
顔を離して、瞬きをした。
カウンターに倒した美夏の横にベラドンナカクテルのグラスが倒れて、美夏が高揚して瞳孔を開かせた目であたしを見ていた。息を継いで、そして首やブラウスが剥がれた肩、それに腕時計の上のまくられた下腕は歯型……。
「美夏……ごめん。痛かったでしょう」
涙もなく美夏はただただあたしを凝視している。どこかそれは、敵を見つけて警戒する目に似ていた。いいえ、違うのだあと気づく。獲物を捕らえようとする美夏があたしが動くのを威嚇する目なんだわ。
正直、その強く光る目にゾクゾクした。それは明らかな正気とは異なる、美夏が初めて強くのぞかせた〈あたし〉。
渦巻くあたしの長い髪は美夏を繭のように包んで、手で優しく髪を撫でた。蜘蛛の手の甲は、何故かずきずきと痛む。
「夏月」
美夏の今にとぎれそうな声は空間を伝って私の耳に届く。あたしの鎖骨に唇をつける美夏は鼓動を読みとれるほど近くにいる。それでもどんなに抱き合っても融合出来ないまま。
美夏があたしの肩に手を当てて息を深く、深くついた。
何故だろう。美夏の安堵とした吐息に、あたしまで安心して目を閉じていた。美夏の身体は籠なんだわ。あたしが収まる籠。魂を一体化させる器。この船室に吊された鳥の籠。
けれど、目を開いた。
あたしはあたしだ。その事実。美夏の腕に手を当て離れると、一瞬視野にかすめた美夏の手の甲に、黒い物が見えた気がした。
二度瞬きをした後には白い手の甲に戻っていた。
「………」
あたしが美夏を補食するの? 美夏があたし〈蜘蛛〉を籠に入れるの?
分からない。あたしはあたしなのに、揺らいでいく肖像。
☆
「ドッペルゲンガーって、知ってる?」
「え……?」
「あんたとあたし、あたしはよく全くこの姿と違った格好で、あたしの行動しない昼に見かけると昔から言われて来た。いろいろな知人や友人、職場の人からね。でも誰もが、言うのよ。歩いていった姿や移動している姿で、直接話してはいないって」
「私は無いわ」
「あんたの知り合いが夜に行動しなければね」
どういう事なのかしら。ドッペルゲンガーだなんて、どこか不安定で怖いわ。
私の手に、夏月は蜘蛛の入墨の手を乗せた。そして、いきなり痛みが走って、爪を立てられたのだと思って目をさっと見る。けれどそれとは違う痛み。夏月が強く手を握って離してくれない。ずっと。
思わず強引に手を引っ込めた。
「!」
手の甲に何故か黒い線だけで描かれた蜘蛛。まだ全体は出来上がらずに、半分の蜘蛛……。
「え?」
振りほどかれた夏月の手の甲は微笑するの夏月の顔横。蜘蛛が半分、姿を消していた。黒いボディピアスの目が揃ってこちらを見ているみたい。
あの電車で口付けた瞬間を思い出す。まるであのとき、魅入られたかの様に光った黒い蜘蛛の目。
「そんなの、ただの噂よ。ドッペルゲンガーだなんて、よく似た顔というだけよ」
夏月の影は、彼女の横に明りがあるから私に重なっていた。まるで影にまでこの身を浸蝕されそうで怖くて目を閉じた。
「雰囲気はどんなに違っても、本人同士ならいずれ引き合うのよ。あんたが忘れている夢での行動する自分はあたしだったかもしれない。その夢の世界はあたしにとったら昼の世界」
首を振って顔を俯け髪で周りが見えなくなる。
「船出って、言ったでしょう。あんた、いつスペイン語を習ったの? いつから?」
「え……」
確かに、何故あの時スペイン語だと分かったのかしら。それは私の知識にないものだった。だけれど淀みなく口から出て、そしてまるで船長室のような落ち着き払ったバー店内で二人はいる。
まるで魂自体が旅に出るみたいに。それは二つの魂が交差して代わり合って、そして片方は本当に船出をしてしまって戻っては来ないのだわ。
耳を塞いでいた。曲さえ聴こえなくなっていく。一番近くにいる、真横に寄り添う夏月の声も聴こえなくなるほどだから。彼女の脳裏に浮ぶ微笑み、どこか無垢な心象で、鏡に毎朝微笑む自分と似てた。
「いい子ね……美夏」
優しく髪を撫でられる。耳を押さえる手の甲に、痛みが走る。
脳裏は困惑する。このまま、どこかへ離れて行ってしまう前に怖くて夏月に抱きついていた。そして無我夢中にその背に手を当てていた。
夏月が、はじめてほっと息をついた気がして……。
「!」
ふっと倒れて、髪を掻き上げ肩にベージュのヴェールを戻した。
「え……?」
夏月は見当たらない。
「おはよう。今日もよろしく」
颯爽とドアから入ってきたバーテンダー。私は咄嗟に彼女を見た。
一方、バーテンダーも瞬きをして私を見た。
「夏月。あなた、珍しい格好をしてるのね。エレガンスな装いで、まるで、この前見かけた昼のあなたみたい」
『かげつ』?
私は激しく瞬きをして、髪を触る。自分の髪。長さも巻き方も。それに服も。
「……蜘蛛」
手の甲だけは、蜘蛛が震え息づいていた。
「私は……」
けれど、その後の言葉が出なかった。自分の美夏、という名前の文字が脳裏で崩れていく。そしてどんどんと、当たり前かのように夏月という文字が脳裏を占領していく。
何故だろう。紫の看板に照らされて言った『時々、何処かへ船出したくなるの?』と聞いた時の彼女の横顔が脳裏に広がった。現実から逃れてしまいたかったの? 分からない。私も心浮遊して生きていた。それは何故なのかしら。自分たちの体と心が一体化していなかったから?
やっとで、一つになれたというの?
心だけで行動して、体は冬の様に休んでいた夏月と、心あらずで体だけ取り次いできた私というものが。
だけれど、私はぞっとして腕をさすった。私の恋する夏月が、私に取り込まれてしまった。
その事実。二度と会えないのではないか、という果てしない恐怖。
夏月の笑顔。夏月の光る瞳。近づく身体。すべて思い出して、ドキドキしてきた感情が駆けめぐって涙が溢れそうになった。
それでも……ほっと安心した息をつく夏月の囁きは、ずっと私の耳に残りつづけた。
喪失感。会って間もないというのに。夢でも見ているのではと思うのに。彼女はその私の悲しみを残して行ってしまったのだろうか。
「あの……」
「どうしたの?」
冷えた夜気のしみこむコートや帽子を脱ぐバーテンダーの背に呼びかけたら、こちらを見た。
「私は何かを奪ってしまったかもしれない。自分を手に入れる為に」
私を彼女の名前で呼ぶバーのオーナー。本当は私のことなど知らない人。だけれど、ずっともう片方の〈私〉夏月と関わってきたはずの人。
「え?」
何かを失いたくないから自分を守って生きてきたのよ。
ここまで来ると、バーテンダーがテーブルに手を置き、微笑んだ。
「魂が帰って来るのも、船で戻ってくるものよ」
「帰ってくる?」
バーテンダーは頷いた。
「帰ってくる場所があるから人は旅路にでるのよ。もしも、戻らないのならそれは流浪の旅人になるでしょう。しかしそれは生活が放浪を続けるロマの人たちもいれば、流れ者やならず者のようにその日暮らしでさすらう人もいる。夏月の魂はいつでも居場所を求めて旅をしていたけれど、この一つの居場所にも必ず帰ってきていたじゃない。ここでもあんたの心と体は一体化するために、戻って来ていたのよ」
「気づかない内に、人は安堵とする居場所を本当は身近に持っているものなのね」
私は頷いた。手の甲を見た。
それが私には今まで不特定だったのかもしれない。波子さんに甘えて、自分は自分の居場所を探さなかった。波子さんの居場所に甘んじて横にいただけ。だから、ただ浮遊していたんだわ。本当の自分じゃなかったから。
だから、蜘蛛が繋げてくれた。糸をたぐり寄せて、美夏と夏月を。
「?」
あんなに黒々としていた入墨が、消えていた。夏月と繋がっていた証のもの。今ではあのボディピアスの目の具合さえ思い出せない。ただ、強く微笑み見つめて来た夏月の姿が脳裏に占領する。
私も、彼女の様に挑みながら生きていくこと、きっと素敵に違い無い。無理して生きることも無いわ。私は私。夏月がそうして自分を生きたように。
大学を出ても、社会に出ても、彼女の光っていた目をこの瞳に宿せる様に。
目の前にあったゴッドファーザーを、傾けていた。甘くて、彼女の残していったジュールの跡の香りと混ざりあい、心躍るようなそんな味。
きっと会える。再び、夢、夜のどこかで誰かが、私と夏月を結びつけるのだわ。存在という蜘蛛の糸に捕まった私達は。
「スペイン……。大学の卒業旅行は、スペインに行こう」
ふと、夏月の言葉を思い出して言っていた。
自分を変えるため。今なら、何かが出来る気がする。
スペインでなら、夏月に会えるのかもしれない……。それは約束されたことではなくても、彼女の感じ取ってきた感覚をこの手に出来るということは、彼女と再会することと同じと考えても、いいのではないかしら。
手の甲に走った幻の痛み。それを忘れない。あの人がいた記憶でもあるから……。
★
それはどこか懐かしい音だった。音……という種類の内にも、それはもっと身近で馴染みやすいもの。
声。
それだった。
はたして誰の声だったのかを思い出すにはまだ輪郭がはっきりしない。 丁寧にたぐり寄せていく記憶を両手で探りながら、声の主を導きだそうとしている。
自分の声が重なった。
「誰だっけ」
その声は光りに溶けていく。
それは幼い声。自分の声が幼くて、そしてあどけない口調。
光りの先に、誰かがいた。
「………」
ああ、そうだ。思い出した。
これは、小さな頃によく見ていた夢。
見知らぬ公園は、夢でだけ現れたいつもの公園だった。
「カゲツちゃん」
あたしの名前を呼んだその子は、夢を見始めたころ、名前が無かった。よくイマジナリーフレンドだなんて言葉を聞くけれど、夢の友達はそれだったのかもしれない。そして小さな子にしては二人はいろいろなことを話し合ったものだ。
「あなたに名前つけなきゃね」
それを言ったのはいつだったろう。それで、似てる名前が良いと言い出したのはあの子だった。あたしは夏の字がついているから、夏が良いと思った。それで、そのころには小学校で国語を習い始めていたから、「美しい」をつけたいと言った。
「美夏にしよう」
小学校のクラスメートに美千(みち)という子がいたから、美を「み」と呼んだのだった。
夢で、あたし、夏月と、あの子、美夏は毎晩の様に明るい公園で遊んだ。
その夢を見なくなったのは、いつ頃だっただろうか。きっと、日常の生活に埋もれて行った夢と幻の友達。
あたしは今、光りが差し込むその懐かしい公園で立ち尽くしていた。
「カゲツちゃん」
少女が振り返る。同じ顔。同じ声。服装だけは違う。同じ髪の長さで、微笑んでいる。
「ミカちゃん」
あたしが小さな背で歩いていく毎に、まるで現実へ引き戻されるが如く二人の体も大きくなっていく。そして、どんどん遊具は子供サイズになって行き、目の前に来た頃にはミカちゃんは美夏になっていた。
「美夏……」
夢ではミカちゃんは文字を読めなかったから、いつのまにかミカになっていた。いつでも自分が鏡で見るのと同じ笑顔を湛えた子だった。
今、目の前の美夏はあたしに大人びて微笑んで、手をさしのべてくる。
「不思議なものね。夏月。私、小さな頃の夢を今思い出したの。さっきまであなたと一緒にバーで飲んでいたのに、あなたが見あたらなくなって、酩酊の淵で見つけた……私の片割れ。イマジナリーフレンド」
美夏があたしの背に腕を回して、顎を肩に乗せた。
「ね。夏月の言ってたドッペルゲンガーって、もとは夢から紡ぎ出されたものだったのかもしれない。自分の理想の感情が突出して具現化されたものなのかもしれないわ。あなたが今ここで一人で立ち尽くしていたように、これからあなたはどこかの現実世界に帰って行くのよ。きっと、そうなんだわ。私とは違う世界に」
大きな木の上から、また、蜘蛛が糸を垂らして降りてきた。
これは二人の見慣れた風景だった。蜘蛛の糸は光りを纏って線を引き、あたし達の目線まで降りてくる。見上げると大きな蜘蛛の巣があった。
はじめこそ蜘蛛を見てミカちゃんは泣きわめいたけれど、それもなれてしまえば二人、見上げていた。いつしか夢で蜘蛛はどちらかの肩や手の平に乗り移るようになっていた。そして、肌を張って手の甲に乗った蜘蛛。
そして二人で顔を見合わせて、何故か妖しげに、子供らしからぬ笑みで微笑しあったもので。
「何故、今まで夢を忘れていて、現実世界で出会ったのかしら」
「小さな頃に感じたお互いの不安感が、夢を紡いで二人を引き合わせていたあの日々と同じだったのよ。成人してまた違った不安を感じ合った私たちは、すでに同じサイクルの時間帯に夢を共有できなくなった。だから、現実世界で出会って、そして、私はあなたに恋をしたのよ」
「え……?」
美夏は悲しげにあたしを見つめる。
「きっと、あなたの世界と私の世界は次元が違ったのね。二人が出会ったこの数日間は夢の世界だったのかは分からない、けれど、それと似たようなものだったのよ。小さい頃、同じ世界にいて、夢だけを共有していた私たち。けれど、違う次元はふとした場所に本当は転がっているのかもしれない。いつの間にか私たちの生きる次元は変わっていて、そのパラレルワールド同士で生活をしていた。そして、ある日突然、何かが同調して引きつけあって再会を果たした。双子でもない、似ているだけでもない。お互いがお互いを作り出した張本人であって、夢の住人。だけれど、互いは自分が目覚めて生活している世界があった。世界などという物の肖像は見る面で変わるもの」
「あんた、あたしがこの夢から目覚めたらいなくなってるっていうの?」
なおも悲しげに微笑むから、頬に手を添えた。その手に美夏の手が重なる。
「きっと、互いに大人になって再会したからこそ得られたものがあったはずよ。それは今すぐには分からないとしても、人生を行く上で判明していくと思うの。物事をどうやって自分と糧と捉えるかは自分次第だもの」
「あんた、意外としっかりした考え持ってるのね。あんなに優柔不断で周りに合わせてた感じの女子大生だったのに」
「夏月の夢だから、考えが影響されてるのよ。きっと。私が無知のはずのスペイン語が分かったのと同じ」
「ああ……」
手の甲に美夏の体温が優しく伝わる。
「蜘蛛……懐かしいね」
手の甲に彫られたもの。きっと、深層心理は分かっていたんだ。蜘蛛を自分が彫った理由を。心が現世に留めるように巣とがっちりした脚でつなぎとめるその為。それは、ミカちゃんとの夢での思い出もかねていたんだわ。
「私……」
光りに包まれる美夏は涙をぽろりとこぼした。
「恋にもっと早く気づいていればよかった」
「あたしは……」
「いわないで。分かってるの。あなたは男性に愛を置く人。それも、強くて、頼りになって、あなたのことを受け止められる人……」
涙で埋もれていく美夏。顔がだんだんとくしゃくしゃに紅くなって、手の平がふるえた。
「ミカちゃん」
息が詰まって引き寄せていた。蜘蛛の彫られた手の甲で。
彼女を強く抱きしめた力は、あたしを安心させてくれる男達と同じ様な包容力があったのかもしれない。
誰かを守ってあげたいと思う感情。今、美夏に向けられたその気持ち。どうしてこんなに愛しいのだろう。自分の分身だから? それも言えているかもしれない。互いの足りない部分を補い合うような二人。
心を求めてどこにでも飛んでいく体を持つあたしと、心が浮遊しているけど安定した暮らしをする美夏。
美夏を離すと、優しく微笑んだ彼女がいた。
ふっと、顔が近づいて、頬に柔らかな唇。
「………」
視線で離れて行く美夏の横顔を追う。だんだんと、光りに埋もれていく……。
大木から糸を垂らす蜘蛛を残して。あたしを残して。
「………」
………。
「うう、」
目を覚ました。
いつから眠っていたのだろう。確か、美夏とまたバーで飲んでいて、いつのまにか美夏がいなくなっていた。そして、何故か店長があたしを美夏と呼んだ。
「美……夏?」
しっかりと起きあがって見回す。長い長い髪を手でどける。
そこは自分の部屋だし、夜の雰囲気がよくしみこんでいた。
電話を引き寄せる。
「もしもし」
バーの店長だ。
「あたし、夏月だけど」
「カゲツ? 声は美夏だけど」
「え?」
どういうことかを一瞬考えた。
『パラレルワールド』
本物の美夏が言っていた。彼女は女子大生で、おしとやかな雰囲気で、そして顔はあたしと同じだった。その彼女はいつの間にか見あたらなくなっていて、バーの店長はあたしを「美夏」と呼ぶ。
船出の後に戻ってくる場所だけが、美夏との接点かのように。
ドッペルゲンガーに出会うと、片方がいなくなる、その通説は、互いの人格が互いの次元世界で出会ったあとに何らかの内面変化をもたらして別々に生きていくということなのだろうか。夏月に美夏が取り込まれたように、今頃美夏も夏月に取り込まれたのかもしれない。
「何でもないわ。ごめんなさい。切るわね」
「ええ。またバイトの時間に」
「ええ」
あたしは電話を置いた。
大学……か。
もし、安定した生活をすこしでも省みるとしたら、それは一生のパートナーが必要だということになる。美夏は少なからず、将来のために大学に通っていたということは、安定した生活や結婚を得るためとも言える。それはあたしとは今まで無関係な言葉だった。浮かぶことすら無かったもの。
あたしは愛を知っている。だから、その先の安住を求めることで魂の漂流を独りの時間ではなくして、出逢った新しい人や大切な人との旅路にすればいいいんだわ。
浮かんだのは、おかしなことにレコード屋のオーナーだった。適当屋で、独身で、旅行好きで、若い子好きでどうしようもなくて、だけれど最高に男前で、いつもひょうひょうとしているから見てみない振りをするものの割と良い人だ。十代の頃から普通にいたから全く恋愛対象にしてなかったけれど、少しは意識してみようか。結婚がどうのは分からないし、今の生活のままだけれど、愛情を分かつ人がいるのといないのでは全く違う。それが身近な人となると安心感が加わってくる。オーナーの人間性は分かっているつもりだし、結婚したらいろいろ出てくる性格もあるだろうけど。
なんだろうか。思ったら行動、その癖が出始めて、早々にあたしはレコード屋のバイトの支度を始めていた。おかしい。メイクなんかはいつもより丁寧さが増している。ドキドキすらしているじゃないの。顔がゆるんでしまって自分にあきれる。あの適当男のオーナーなのに改めて思い浮かべると意識してしまう。女に生まれたサガだろうか。正直悔しいけれど、このドキドキはちょっと癖になりそうなものを持っている。
鏡の前から離れていって、ふと、振り返った。いつものあたし。だけれど、きっとこれからは皆から美夏と呼ばれるんだわ。
あの子が気づかせてくれた。恋や安心は身近にあるということ。
あの子があたしに寄せた不思議な恋心は、あたしの内側で形を変えて息づいて、そしてこれからは外へ向かっていく……。
きっとあたしがいきなり告白すればオーナーは吹き出して、大笑いし始めることだろう。それでもいい。それがオーナーらしい。
鍵をかけて、部屋を後にした。夜の世界へあたしは流れていく。
明るい宵と月
それは青い鳥も瑠璃色にひときわ輝くような、蒼い宵のことでした。
空に小さな羽を羽ばたかせて、月の明かりを見上げます。
その月光を見上げて青い鳥は下方を見渡しました。月明かりが蜜柑畑に万遍なく降り注いでいます。
すいーっと空を滑空していき、黄緑の葉を潜って枝に細い脚で停まりました。
そこには蜜柑がたくさんなっています。どれもとても美しい橙色の実がなって、まるで宝物みたいです。
青い鳥は甘い薫りのするそのまあるい蜜柑を、くちばしでつついて瑞々しい果実をついばんんで食べました。それはくちばしからするすると喉を潤してくれます。青い鳥はしあわせそうに頬をふわふわさせて、その穴のあいた蜜柑を枝から口に挟んで空に飛び立ちました。
すると、鳥がくちばしで実を食べた穴から月光が差し込み、蜜柑をまるでランタンのように光らせます。
それを加えて青い鳥は宵を飛び、だんだんとそれを目印に他の小鳥たちが月夜に飛び立ち始めました。蜜柑ランタンの青い鳥を先頭に、たくさんの小鳥たちが宵の空を横切ります。
まるで蜜柑の実は鮮やかに光ってジュエリーのよう。
鵯食いランタンに月光を集め飛ぶ鳥の影を見上げて、緑の丘で草笛を吹いていた少年は、立ち上がってそれを見上げました。大きなお月様がその小さな影を飲み込むようです。
横切る前に、本当に小鳥たちが光りに飲み込まれていき、そして目印のように一つだけ光っていた、まるで夕日の忘れ物のような瑪瑙の小さな光りも、飲み込まれていったのでした。
少年は首が痛くなるほど見上げていましたが、手から草をはらりと舞わせました。
青い鳥はあたりが闇に包まれたのを、まだ月の力をため込んだランタンをくらえながら飛んでいきます。ぱたぱたと他の小鳥もそれを目印にやって来るのが音でわかります。
月の力が弱まる前に、彼らは早く夜のお城につかなければなりません。そのお城に近づけば、そこには常に不思議な明かりがともっているのですから。
だんだんとランタンがうっすらとした明かりになってくると、それまで青い羽毛や黒いつぶらな瞳を光らせていた蜜柑色の明かりは弱まっていきましたが、その時に、ようやくお城が見えてきたようです。遙か遠くではありますが、ぼんやりとした明かりが細かくと持っているのです。それは青い澄んだ光りで、昴の形をしています。
近づくに連れて、彼らを星が包み始め、いろいろな星座が彼らを出迎えます。衣をきた者はそれを広げお辞儀をし、甲を被った者はそれをとって、武器を持った者はそれを肩につけて背を伸ばしました。
ぴよぴよと小鳥たちは挨拶をして通り過ぎていき、青い星へと近づいて行きます。滑空していき、青い鳥が引き寄せられるように飛んでいきます。夜の城が近づいてきて、その黒い城に小鳥たちが飲み込まれていきます。
するとお城の左右に角をいただいた甲を被った
続く
移ろう夢で会えたなら
ゆらゆら、ゆらゆら……。
私の体は夢の世界で揺れている。
どこからともなく、全身を風が撫でつける。さわさわと音が響く。
ああ、くすぐったい。気づくと、何かが体を這いあがってくる。
それは細いもので撫で上げられるかのよう。この細い身を。夢でも私の体はずいぶんと痩身だった。
目を閉じた闇には、そのくすぐったい感触が私を困らせてくる。
首筋に、そして、仕舞いには私の口元へ伸びてくる何かの触手。
……ゆらゆら、ゆらゆら……。
私の体は揺られる。
「わっ」
声を出して、起きあがった。
辺りを見回すと、太陽のまぶしさに顔を歪める。
「起きたの?」
リエナがソーダを飲む横顔。彼女は私を見下ろした。
彼女は芝に白いロングワンピース姿で座り、黒い帯の麦藁帽子をかぶっているから、まだらに陰になる目元と素肌の肩。でも瞳もソーダ水のボトルもよく光っていた。
「夢、みていたみたい」
「へえ」
私は気がつくと、さっと腕や脛を払った。
また蟻が体を這っている。蟻たちは緑の芝に飛ばされて、また縦横無尽に歩いていった。また私を求めるかのように。
「蟻は女の子ばかりなのに、おかしなの。女の私に寄ってくるだなんて」
「ハハ。智紗(ちさ)がきっと甘いんだよ。それに、ビアンの気風でもフェロモンで出してるんじゃないの」
小さい頃から低い声で笑うリエナが言い、私はまた体を這い上ってくる蟻を見てから「そっかあ」と息をついて青空を見た。
私たちは恋人同士。小さな頃から一緒にいた。公園で遊んで、走って、転んで、泣いて笑って、悲しいことがあれば芝生で揃って座って一日過ごして肩を寄せ合う。それでそこにはいつでも蟻がいた。私の体を這う蟻が。
それはリエナが微笑んで私の頬を撫でる時の指の爪先と同じ感覚だった。純粋な好意が及ぼす愛情。甘くて切ない心の通い。
「智紗は甘いんだね」
少女の頃のリエナは私の頬の涙にキスを寄せて、言ったものだ。「頬はまるで猫が撫でてくるみたい」「いつでも、智紗からは爽やかな香りがする」リエナのそれらの愛につながる告白は、いつも唐突に彼女の口を滑った。そして私の頬をわずかに染めさせるには充分の微笑みをたたえて。
「蟻もリエナと同じこと、思ってるのかな」
「え?」
リエナが首を傾げて私と、今指の先にたどり着いた蟻を交互に見た。
おもむろに頬をふくらめた。
「それは嫉妬するな。同じ女の子にそんなに自由に智紗の体を行き来させるなんて、まるで私がそれをただただ手も出せずに見てるみたい」
頬にキスをされて彼女を見た。
「でも智紗の頬にキスできるのは、私だけだよ」
近くの瞳。悪戯な鳶色の瞳。ドキドキして仕方がなかった。
「智紗が人で生まれてくれて良かった」
「蟻なら、蟻が好むような花で生まれたら、愛し合えないでしょ?」魅惑的なことを付け加えるのね。
想像してしまう。リエナが黒い鎧をつけた女騎士で、鋭い目をしてやってくる。花となった私の蜜が欲しくてやってくる。
そこにはすでに花粉にまみれたテントウムシやコガネムシがいて、彼女も蜜を吸う蟻となって花粉にまみれる。そして白百合の雌しべへと辿ってきて、いつしか私は蟻をも捕らえる食虫植物となっている。
その食虫植物は、雌しべの蜜で彼女の細い足を捕らえ、体を捕らえてその白い花びらを閉ざしてしまう。そして、彼女を独占してしまう。身の栄養を取ってしまうのではない。彼女の愛情を奪い尽くすかのように、むさぼるのだわ。彼女の心を食べるのだわ。
私はゆらゆら意識が揺られて、夢と現の間で芝に背を戻してまぶたを閉じた。
「素敵な空想……」
昼の芝生に見た夢の続きを想像していた私はつぶやいて、今はまどろみの内に眠りをむさぼった。
黒と白のボーダーのノースリーブの腕に這い上がる蟻。その蟻は私を寝させてはくれない。それでも眠くて揺られる意識。白い膝丈のワイドパンツ。
眠ることを今は諦めて、夢の正体を模索する。
それなら、私が花なら、どんな花なのだろう。空想と同じく白百合だろうか?
でも、時々夢に現れる闇を揺られるあの感覚と、くすぐったい感覚は不可思議だった。いつでもリエナを横にみる夢は、そんな不確かなもの。
「もしかして、私は蟻が好きな香りがでてるのかもしれない」
「小さな頃なんて、蝶に追いかけ回されて泣いてたものね。可愛かった。初夏の明るい山で、緑がきらきらしてるのよ。智紗、大きな蝶から逃げて黒髪を揺らしながら走って、涙をきらきら流して、蝶は美しい羽根をひらめかせてまっすぐ智紗を追いかけて、とても綺麗な情景だった」
「リエナったら、少しも私を助けずに見ていたのよね」
いじけてしまうわ。その時だって肩に蟻が乗っていることもあった。
「きっと、智紗は何かを引きつけるのよ。私があなたを放っておけなかったのと同じで」
「うん……」
背を上にした私は横目でリエナを見つめて、リエナは私の髪を撫でてくれる。爪先は時に項を撫でた。蟻かなと時々思うぐらい、くすぐったくて。
クラシカルな自転車で帰ってくると、白い家の前でリエナと別れる。
リエナの家はこのブロックの角を曲がった向かいの家で、ここからは見えない。けれど、この辺りは子供が少ないから、近くの広い公園に集う者達がだいたいは幼なじみとなって、仲良く面倒を見合ってきた。
リエナに手を振って見送ると、まだ明るい陽光の先に籐のカゴを下げて滑走する自転車。白いロングワンピースをはためかせて眩しく透かす。ピクニックは私たちの日課だから、この日常の風景もよく目になじんだ。
微笑んでから向きを変えて、白いフェンスの門を潜る。
今日はよく寝られたら良いのに。見るなら、花になる夢がいいわ。明るい日差しに透ける白い花の夢。甘く香るのよ。リエナの為だけに。そんな夢が見られたなら。
流れるような意識。
私は揺られてる。またあの夢。
涼しい風が吹いている。ここはどこ? いつも、この夢の世界ではリエナはどこにいるの? リエナは私の体を這う蟻になっているの?
青い香りがする。植物の香りは、懐かしい香り。
また頬をくすぐる感覚。そして、瞼に沿ってその触手が伸びる。
私は初めて、目を開いてみた。開くことが出来た。
涙が不思議と流れた。
ああ、目からぽつりと何かが落ちた。視野に蟻が、いる。
蟻が何かを持っている。それは何か、丸いような尖ったような黄緑色のものだった。何かの種かしら?
その種が入っていたから、目が開けられなかったのね。
蟻は種を持って行き、私の長い長い睫毛を歩いて去っていく。
リエナじゃ、なかった……。
視線で蟻の行方を追った。
「……?」
視線を蟻に沿って落としていくと、細長い緑の草が目に入る。それはすらりとして、風にゆらゆらなびいて、さらさらと音を立てあう。視線をあげて見渡すと、それらの正体がようやくわかった。
エノコグサ……黄緑色の草、猫じゃらし。
私は、あの猫じゃらしだったのだ。
これは記憶? 私の前世? 本来の遺伝子だろうか?
猫じゃらしの種を一つ一つ、蟻たちが抜き取って巣へと運んでいく。
私は黄緑色の猫じゃらしだったのね。だから、風に揺られてゆらゆら、ゆらゆら揺れていたの。
私は夢を見ながらに夢想した。リエナがその爽やかな草の香りをかぎ取り、頬にキスを寄せて、そして……私の目玉を取るがごとく種を抜き取っていく。いいえ。種を抜き取るがごとく目玉を柔らかな手に収める。リエナしか見なくするためによ。
私は初めから、リエナだけよ。蟻に嫉妬しなくたって、彼女だけ。
私はそんな夢を夜に見ていた。
「智紗」
姉に揺り起こされて、私は目を覚ます。
「うーん」
暗がりなのに、なぜ起こして来たのだろう。
昼はリエナと公園でお昼寝をした。そして、夜は公園での夢の続きを見たらしかった。珍しく、一人の部屋で。
まさか、その夢で自分が猫じゃらし草だったのだと判明したのだなんて。
「リエナが来てる」
「え?」
私たちが恋人同士だと家族は知らない。親友と言っているから。よく昔から互いの家に寝泊まりをしていたから、家族ぐるみでのつきあいも長い仲だけど、こうやって真夜中にいきなりやって来るのは珍しかった。
階段を降りるとリビングがあって、リエナがいた。
「泣いているの?」
慌てて横に座ると抱きついてきた。
「ごめんね。もう十二時なのに」
「いいのよ。友達でしょ?」
姉も心配して横にきた。
「何か飲み物でも持ってくるわ」
「ありがとう。姉さん」
「いいのよ」
二人だけになると、リエナがまっすぐと私を見た。
「嫌な夢を見たの。智紗が巨大な蟻に連れて行かれるのよ。小さな小さな智紗が。それで真っ暗闇に閉じこめられて、肌を裂かれてピンクの内蔵を取り出されて、それを並べられるの」
リエナはいつもサバサバしているし、気が強い方だ。いつも私を守ってくれていた。なのに、夢に泣くだなんて驚いてしまった。
「大丈夫よ。リエナったら」
「普段夢なんて見ないし覚えてないのよ? なのに、あんな怖い夢を見て、あなたが無事かどうか心配になって胸が張り裂ける想いだったわ」
「リエナ」
肩を抱いた。震えている。
もしかしたら、ずっとリエナはこうやって震えてきていたのかもしれない。本当は。私が不安にゆらゆら揺られるように、いつでも怖かったのかもしれない。世間が。恋仲が。いつか壊れるかもしれない、引き裂かれるかもしれない愛情が。
私たちはあの猫じゃらしのように、一緒に揺られていたい。それが一番いいのよ。蟻と猫じゃらしでは無い。同じ肩を並べる同じ種類の植物で、同じ風に揺られていたい。そんな願いが、夢でなら叶えられたに違いないのだわ。だって、リエナが見た夢は猫じゃらしの持ち去られた種になった私ということ。殻を歯で剥かれて巣に貯蓄された時の夢。それを見ていたということは、リエナも猫じゃらしの種として他の蟻に運ばれて、同じ巣に来たからなのよ。夢を辿ってやってきたのよ。
きっと、蟻たちが私たちの夢を歩いて辿って繋げてくれたのね。
「安心して。共に……一緒に目覚めましょう」
肩を抱いてささやいた。
「二人で同じ夢を見ましょう」
私のささやきで、リエナの肩の力が抜けていく。眠りへと落ちてゆく。
目を開いた先の姉が、お盆にカップを乗せて私たちを見ていた。
なぜだろう?
……ゆらゆら、ゆらゆら、姉が揺れて見える。お盆を持ったまま、おぼろげな先に。
視界もゆったりたわんでいき、私と抱き寄せるリエナだけの視野になっていく。世界がゆるやかに闇に落ちてゆく。
ああ、これが望みなのよ。リエナと猫じゃらしになって揺られること。夜風にゆられて、虫の音も共に聞きながら、優しく涼しさに包まれながら……。
意識は完全に失われていくみたい。人としてのそれはどんどんと揺らいでいき。だんだんと植物の感覚へと落ちてゆく。
もう心配することなどいらない世界へ。私たちは猫じゃらしになっている。
目を開くと、どこまでも続くエノコグサの世界だった。風に撫でられていく白っぽい黄緑色の草の世界。闇に揺られて、私たちのような同性の愛をささやくものたちだけが、同じように揺られている。安心しなさいと、風が言ってくれているみたい。そんな、同じ背丈のしあわせな世界……。
白い花の情景
月光に染められた清純の白い花を見ていると、僕は彼女のことを思い描くのです。
彼女は名前を礼子と言って、深窓のお嬢さんでした。
彼女が許嫁に当てられたのは僕の少年時代だったけれど、随分と会ったのは後のことです。父と母と共に馬車を乗り継いで二日。静かな田舎の子でした。
当時、家に囲われていた礼子さんは十五歳。男の人と喋ったことなど無く、庭師とも話すことも出来ないほど内気だったようで。その整えられた庭で初めて見た印象は、一気に僕の心を引き付けたのです。
あまりにも白い頬。それなのに鮮やかな瑠璃色の着物。小さな声は挿された小さな紅から漏れて、一言。
『ご機嫌麗しく……』
彼女は視線をしばらくはあげなく、僕も緊張をして言葉を詰まらせていたけれど、父が咳払いと共に肘で軽くついてきたので咳を切ったように言っていた。
『僕は松乃居の英治郎です。浦下川の学校に通う十七の年齢で、今回に至りましては礼子さんを紹介頂いて、至極しあわせの限りに……』
変なことを言い出す僕に両親は天を仰ぎ、礼子さんのご両親は青空のように笑って、僕でさえも口べたなのだと知られてしまった。当然女性との付き合いなど一度も無く勉学に励むばかりで、日々を過ごしてきた結果がこの失態だ。
礼子さんはただただ目を丸く僕を見て、口をぽかんとあけていた。
僕はまっすぐと初めて見た彼女の麗しい顔に目も反らせずに、手を取りかけてしまった。慌てて手を背後で組んで学生帽の頭を俯かせた。
『まあ、うふふ……』
礼子さんが笑い、僕ははにかんで彼女を見た。
それが彼女との初対面だった。その時から、きっと僕は彼女の全てを手に入れ得ると幻想を抱いていたのであろう。ぼうっと脳髄が麻痺するほどに眩い礼子さんの瞳は、控えめに光っていたのに、僕には眩しすぎた。瑠璃の魔力か、それだけでは無い。
だから、僕は全てを手に入れたくなったのだ。礼子さんの全てを。
揃って着物と着流しで出歩くその日の夜。秋の風が充分に流れ始めていた。
虫の音は静かで闇に沈んで足下から響いてくる。
笹の草むらは月の影を二つ伸ばしていた。もちろん、僕と礼子さんの。
その時、白い花を見つけた。それは白いサザンカだった。
僕は立ち止まり、礼子さんも止まった。黒い髪が流れる彼女の淡い色彩の着物の背。俯く無言の礼子さんの唇は、昼の時よりも濃い色で、僕はその白いサザンカの様な肌に咲く唇に引き寄せられていた。伏せられた睫毛が繊細な影を頬に落とすほど明るい月。困惑するほど綺麗な子だ。
髪ごと背を引き寄せていた。僕の肩に紅が彩ってもかまわない。ひしと抱き寄せて、彼女の肩にサザンカの花々が濃い緑の葉と共に彩り乗った。香りは無い花だけれど、それは純真無垢な礼子さんの印象と同じに思える。
青を着ている時とは違って、不安げに見える礼子さん。それがいじらしくて可愛くて、僕は焦がれた。
『さあ、行こう』
彼女はこくりと頷き、僕は一房サザンカの花をつみ取った。木は揺れて、彼女の肩に花びらが数枚落ちる。金の花粉も降りかかって、それが、花粉が僕の心を確固としたものに変貌させた。得体の知れないものに。
震える指で彼女の髪にサザンカを飾った。なんと馨しい顔立ちだろうか。暗がりに浮かぶ彼女は。僕の可憐な許嫁は。
そして、僕の心に生まれ始めた異常性は消えることはなかった。
「………」
後悔が僕の心を占領する。
「ここならよく見えるでしょう」
「はい……」
座敷で正座をする僕は、母に感謝をしてそれきり口を閉ざした。
一輪挿しに飾られた白い花は椿で、なんの汚れも知らない花びらを広げてくれている。
それを見つめていると、障子から椿に射す月光が恨めしくなる。それさえもうらやましくなる。
僕は駄目だと分かってるのに、母の去った後にその椿の花を手に握って、ぽろりと親指の先から花顔が落ちた。僕の拳となった白い手だけを月光が照らす。
全てが妬ける。何もかもが。彼女の髪が触れた着物も、彼女が脚を通した下駄も、触れた縮緬のハンカチも、頬を眩しく照らした陽にも僕は適いはしない。だから僕の心は彼女の全てになってしまいたかったんだ。
自らの肌さえ彼女に着せたかった。皮として。彼女の滑る唇が愛しくてその紅になってしまいたくて、引き裂いて血をたむけたあの遠い日。
その時、礼子さんが叫んで気を失う淵へ逃げていったとしても、僕は彼女の着る着物。彼女の引く紅です。何故逃げるのか。僕は彼女が日々着飾るものではないか。
だが、僕の心は白い花のような礼子さんの心を恐怖に陥れただけだった。婚約さえ破棄されて、彼女はノイローゼになって男性不信に陥ったという。初めての恋は互いの初さを礼子さんは加速させ、僕は変質を伴って行った。
婚約破棄に至った僕は父に大いに叱られて、しばらくは屋敷から出るなと言われてしまった。母に白い花を所望して、それでおきながら僕は花顔を落としてそれに礼子さんを重ねる。なんという事だろうか。いくら文をしたため許しをこうても彼女の恐怖は消えはしないようで。
「こうやって僕は一人反省して君の様な花を愛でている日々なのだ。まだ僕の未熟な愛は変わってなどいないよ。だから、君に会ったら、また笑顔を見せておくれ。君が笑ってくれるときが来たら、今度は礼子さん、君と結ばれよう。それが僕らの添い遂げられる条件なのであって、僕らが愛を紡げる血潮の一端なのだ」
そう手紙を送っているのに、彼女は愛を返してくれない。
僕の筆の文字はだんだん日に日に震え出し、和紙ににじみ始め、僕の恋情と同じようにどんどんと黒くなっていく。白い花は白いだけだったのに、和紙に落ちた椿は黒い墨に染められて、悲しいかな、美しいほどにそれでも汚れ無き情景。僕の愛の言葉だけが激しい波にもまれている。
忘れることなど出来ない。
礼子さん。
「英治郎。もう文を書くことは辞めるんだ。礼子さんは精神を困憊して、心を患ってしまうよ」
父が襖の向こうから僕に問いかける。僕は椿の影を見つめたまま、何も言わなかった。
滲んだ文だけが僕の言葉。僕の心。
半年前が、彼女に対する異常を望んだ瞬間だった。
礼子さんが僕との愛情を確かめ合うために言葉を交わし、僕は彼女の所へ通い続けた二ヶ月間。何度も僕は礼子さんの全てを奪う好機を見ていたのだ。何気ないキャフェーで過ごす時間も、共に乗馬をする時も、湖で語り合うときも、だんだんと彼女の心を浸食する術を探ることに心はむしばまれていた。それは突如と始まる月食が月を蝕むようなものでは無い。ゆっくりと欠けていく月の巡りの様に奪っていこうとした。
そして二ヶ月後、日常の間にふと現れた僕の心が牙を剥いた。日傘の先に揺れる黒髪。からりと鳴る下駄。袂を引き寄せる細い手を見て、今この時に彼女の着物、彼女の今は傘に隠れる紅になろうと決めたのだ。僕は自らの肌を傷つけ、血が流れ、礼子さんの白い日傘に赤い飛沫の絵を描いた。そして戦慄いた礼子さんの唇は日傘を落としたことで現れ、僕は言っていた。
『君の肌に、君の唇になれるのは今だけなんだろうね、礼子さん、今だけなのだろうね』
『ひ、』
まるで異常者を見る目で見上げる礼子さんが、途端に叫んで気を失って、屋敷から番頭が走り寄た。そこから僕の記憶は無かった。
そして『反省しなさい』と父に言われて四ヶ月。一度も恋文に応えない礼子さんを諦めろと父は言う。
僕は肩を振るわせ、正座する膝に俯いた。
「何故ですか……。礼子さんだって、夜僕の眠る振りをする間に僕に接吻をするお人だったのに、僕の肌に頬を寄せて異常なほどに囁く人だったのに、僕だけがおかしいんじゃないのに、僕だけが愛してるんじゃないのに、そんなの変じゃないですか、僕だけが変なんじゃないのに」
ぶつぶつと言い続け、その晩の夜気が冷たくなって来る。
「僕だけおかしいなんて、そんなの変じゃ無いですか……」
また涼しい夜は礼子さんは僕が眠った振りさえすれば、頬を寄せて執拗な接吻を降らせるんだ。僕の肌になったように。僕の唇になったように、それは白い花びらが触れることと同じぐらい、可憐な動作……。
夕美の薔薇
[香水]
香水……それは、女を惑わす男の様だ。香水、それは、何処から現れたのかも判らない幻の悪戯。
夕美(ゆみ)は窓辺で紅茶を傾けながら影の内で視線を上げ、蔦の先の男を見た。噴水のある庭は緑が氾濫し、一人の若い紳士が女性と談笑している。紳士は石の縁に座り、女は横に立つアーチ柱に身を預けていた。彼らはフレンチで会話し、ゆるく流れるシャンソンの音色の先に聞こえている。夕美は白い円卓にカップを戻し、ふとこちらを見た紳士に気づいた。
「………」
蔦の蔓延る壁に切り抜かれたような窓、日が差し込まない暗い室内にいる日本女を見た男は、ふと彼女にも微笑んでは再び連れ合いとの会話へと戻っていった。
影が濃くなっていくと共に陽は天の上へと差し掛かり、影事態はなりを潜めていく。彼らは中庭から屋内へと移動して行き、夕美は彼らが向こうのフレンチ窓からサロンへ入ってきたので一度だけ視線を向けた。もう一度紳士がウインクしてきては、女をエスコートしてカウンタへ進んでいく。その背を彼女は見つめてまぶたを伏せる。イヤリングが揺れ、完全に目を綴じた。
翌日の朝、美術館へ向かう為に彼女はこのホテルのエレベータに乗りエントランスフロアへ向かっていた。エレガントな文字盤を見上げている。乙女と月の間を花の蔦が伸び階数を示し、針がだんだんと一階へと移動していくさまを見ていた。
「あら……」
フラワーフェンス先のドアの向こうに、昨日の紳士がいた。三階で停まったエレベータは彼を乗せる。
「ごきげんよう」
「昨日はどうも」
「失礼します」
「ええ。どうぞ」
彼が横へ来る時、ふっと美しい薫りが鼻腔を充たした。
それは、彼女の知る薫りだった。ラ・レーヌ・ヴィクトリア……。
彼女の愛する薔薇の薫り。
彼女は途端に昨日の情景に、緑の蔦の囲った中庭に佇む彼があのディープカップ咲きの愛らしくも薫りに惑わされるアンティークピンク色のラ・レーヌ・ヴィクトリアに囲まれる姿へと立ち代って思い出された。むせ返る、あの薫り……微笑む彼。
「おっと……」
立ちくらみを覚えた夕美はどこか白くなって肩を支えてくれた男をおぼろげに見ては、途端に頬を染めて慌て姿勢を正した。
「もうしわけございません。ムッシュ。お恥ずかしい限りでございます」
「お気になさるまい。キャフェで落ち着かれたほうがよろしいかと存じます」
「でも、あたくし……」
エレベータの扉が開き、彼らは進んでいった。傍でなかば寄り添われながら進む毎にあの薫りが柔らかく彼女をつつみ、そこはかとないしあわせを感じる。ベンチソファへそっと座らされると彼はキャフェのものに飲み物をオーダーしてくれた。
「何から何まですみません……」
「いいのです」
彼は彼女を見てから顔を覗き込んだ。
「何かの体の思わしくないことがあるんじゃ無いのです。本当に」
彼はうつむく彼女に優しく微笑み、運ばれた飲み物に感謝をして彼女に渡した。
「どうもありがとう存じます」
彼女はありがたくいただくと、頬を染めたまま彼を見ることが出来なかった。
「あの、あなたのご予定もございましょうから……」
顔を上げ薔薇の君を見ると、目が離せなくなり口ごもってしまい、その瞳をまじまじと見つめていた。
「あ、ごめんなさい。あたくしと致しましたらはしたない」
「君はもしかして、僕の影に誰か思う人の影を見つめて?」
「え?」
夕美は紳士を見て、彼ははっとして顔を戻し、あちらの床を見た。膝に乗せる手がきつく固まり、その笑顔では無い横顔がどこか厳しげに思えた。深く物事を思うかのように。
「いいえ。なんでもないんですよ」
男ははにかみ、彼女も小さく微笑んだ。
「僕は毎朝、このキャフェで朝食を済ませるのです。なので、どうかお気になさらずにいて頂きたいのです」
彼女にゆっくりと落ち着くまでを僕でよろしければ付き添わせてくださいと願い出て、夕美は小さく頷いた。
クラシックは静かに流れ、窓からは銀の朝日が流れ差し込む屋内は神聖な程にその光に充たされていた。
正直、彼女の状態は傍目からは何か悪魔憑きにでも心を囚われたかの様に儚げに、とても危なっかしく見えたのだ。あの目を開いた瞬間の真っ青な顔は。もしも今一人にすれば、どこかへ駆け出していってしまうかもしれない。
彼女の滑らかな黒髪から薫るハーブが彼の神経を不安定にしたのかもしれない。自立した強い印象を受けるハーブの薫り。それは、ふと見せた弱い女性の部分をなおのこと強調して思えた。
「あの」
夕美は顔を上げ、彼を見た。
「はい」
彼は優しく微笑んであげ、彼女は小さく言った。まるで、吐息を吐き出すかのように。
「お名前をお伺いいたしておりませんでした」
「僕はクラウス・レトイオと申します」
彼女は彼の名を繰り返した。
「貴女は」
「あたくしは、ユミ・タカジョウと申します。名乗り遅れまして申し訳ございません」
「いいえ。こちらこそ。ああいった場です。気もお互いに急いていたのですから」
彼女は小さく頷き、多少気分が落ち着いてきて一度目を綴じると、再び開いた。
「……ラ・レーヌ・ヴィクトリア……」
彼女は膝元に視線を落としながら囁き、目を綴じた。
「………」
クラウスはうつむく彼女のまぶたを見て、口元を閉ざした。
「あたくしの夫が薔薇の好きな人で、毎年愛でて参りました。しかし二年も前にとある女性と……」
悲しみ。それを癒したのはあの薔薇だった。絶え間ない愛を注ぎあった七年間の全てを台無しになどできずに、どうしても忘れられない愛しすぎる薫り。目まぐるしくて、甘く切ない……濃密な薫りだった。
「それはお辛かったでしょうに……」
夕美ははっとして顔をあげ、青くなり首をふるふると振った。
「あたくしとしたことが、この様な私事を」
「いいえ。いいのです。悲しみは一人で抱え込んでは辛い。僕でよければあなたの気の済むまで」
「いいえ……それは」
彼女は涙を頬に流し、クラウスはいたたまれずに肩を引き寄せていた。
「ああ、僕はなんと罪なことを……貴女が否とおっしゃるのに無理にお尋ねして申し訳ないことを」
彼女は彼の薫りに包まれながらも声も出さずに静かに泣いた。
しばらくして気を落ち着かせ、彼女はクラウスから離れた。
「さきほどからあたくしはあなたに甘えてばかりで、お恥ずかしいわ」
「どうかお気になさらずに」
「本当にどうもありがとうございます」
彼女は頭を深く下げ、クラウスは視線が揺らいでゆるやかにまた姿勢を戻っていく様を見つめてしまっていた。
彼はしばらく言葉も失い見ていて、ふと顔を反らしては店のものを見る。
「僕は朝食をとります。あなたはどうされますか」
「実は、どこか出先でいただこうと。全く持ってあたくしってば、こんなに迷惑を掛けておきながら空腹がこれでもかと訴えてきておりまして」
お互い顔を見て、ふっと笑い、くすくす笑ってから彼女も朝食を注文することにした。
朝食をいただきながら、彼は笑った。
「ああ、彼女は僕の仲間なんです。我々は音楽をやっていましてね。彼女は歌を、もう一人はチェロを、僕はピアノを。舞台の巡回では毎年一ヶ月このホテルを借りている」
「そうでございましたの。あたくしは二年に一度、パリへは美術館巡りの為に滞在をするのです」
「それは素敵だ」
「あなた方の楽団は、どちらの劇場にご出演をなさるの」
「来て頂けるのですか。ぜひともご招待致したい」
舞台の場所を告げ、彼女はそれを受けた。
「これより、僕も美術鑑賞のお供をしても?」
「ええ。もちろん……よろこばしいかぎりです」
それはまるで自然の流れかの様だった。
夜、薔薇の薫りに包まれながら肌と肌を寄せ合って素肌に汗が流れていった。微かな風は薄いヴェールの天蓋をそよがせ、彼らの感情をだんだんと落ち着かせていった。
夕美はクラウスの胸部に頬を寄せ、落ち着いた室内を見つめていた。明かりの映る黒い瞳で。クラウスは髪を抱えながら口付けをし、安堵の息をついては目を綴じる。
「その薫り……あなたは何ゆえ纏ってらっしゃるの」
「……それは」
彼は目をあけ、彼女と同じ室内を見つめながら静かに言った。
「僕の愛する薔薇だからです。生まれた家はプロヴァンスの片田舎にあるのだが、様々な植物が生い茂る庭がありましてね……一角にラ・レーヌ・ヴィクトリアがひっそりと咲いているのです。まるでその愛らしい顔を葉という手腕で隠すかの様に。僕は小さなころそれを見つけ、浮かれた気分になって踊り明かしたことを覚えています。何故なら、その時その小さな女王様に一目惚れをしていたのでしょう。人は女の子や女性を初恋の相手にするというが、僕は……違った。薔薇に、恋をしてしまったんです。罪深くも悩ましげなこの心を、どうすればいいのかも分からずに、まさかその薔薇が散るものだとは知らずにいた少年時代の僕は恋する乙女の変わって行く姿を見て随分と泣きました。しまいには季節も変わるとあの焦がれた手腕までもが葉枝として剪定され、ぼくは恋の相手の居所までわからなくなり庭の内側で迷子になったかのように泣き暮れました。……ヴィクトリア女王の薫りを纏うこと……このことこそが僕の愛の達成されたとき」
彼女は彼の見つめ続け、そして自分達でできる影に視線を落とした。
「あたくしは、あなたの恋する愛情のお方の内側であなたを奪ってしまったのね……」
「いいえ、ユミ」
彼は彼女の手を握り、彼女は彼を見た。
「この薫りに包まれた女性こそが、僕の愛のむくままに僕の女王となった方」
夕美は頬をだんだんと染め上げ、そして再び感情の波へと取り込まれていった。深い深いディープカップの内側で揺れる二人かの様に。
眠る夕美は夢か現かわからぬままにその魔力に惑わされていた。
クラウスの枕物語に聞いた緑の庭園。あの女王は、ラ・レーヌ・ヴィクトリアは愛らしくその隅で咲いている。だが、その横にいたのはクラウスではなかった。別れた夫だった。元夫、加賀美条(かがみ じょう)は彼女を鋭くまっすぐ見つめ、丸い薔薇を指で撫でていた。妥協を許さない加賀美。彼は夕美に隙を与えさせなかった。彼も完璧だった。一片の乱れも何も無かった。だから、彼女はいつかは崩れるだろう間柄を心の隅に追いやることも出来ずに過ごしていたのかもしれない。彼女は彼だけを愛してきた。そしてあの薔薇も。なのに、彼は夕美を捨てた。その哀しみは深く、どうしたらいいのかが判らなかった。彼の館へは心の鍵を鎖しもう二度と向かうことは叶わないだろうと思われて、完全にシンクロしたのだ。庭の隅でひっそりと咲く可憐な女王に愛を捧げたクラウスの心に、同調したのだろう。だが、今夢の加賀美は薔薇を一輪手で摘み揺れて、その薫りを筋の通る鼻元へ持っていく。彼女を上目で鋭く見つめながらも。そして鼻腔に充たし、ふわっと、エレガントに微笑む……その時が、彼女は好きだった。彼の唯一微笑む顔。その瞬間。それはどこまでも上品でいてうらはらに艶美で、ディープカップの奥底でもたらされるエロスをはっきりと彼女に根付かせる。それごとに彼女はうつむき、目を伏せた。だが夢の加賀美は進んできた。
「条さん」
手首を掴み上げられた事で驚き夕美は目を見開き彼を見上げた。その顔はクラウスに揺らめきそして再び加賀美に戻りそして落ち着き、引き寄せられてどんっと胸部に頬が当たった。薔薇ごと抱かれる背。立ち上る薔薇の薫り。涙が出るほど辛くて、彼女は泣いていた。
クラウスは眠りから目覚め、横に夕美がいないことを知ると窓辺を見た。
「起きていたんだね」
「ええ……」
アームチェアに腰掛け、静かに星を見つめていたのだ。
「ユミ……」
横顔が涙も無いのに泣いて思え、彼はそっと立ち上がり彼女の元まで来て膝を付いた。
手を取り、頬を当てる。
「クラウス」
彼女は彼を見つめ、ゆっくり背を折り彼の背に髪が広がった。落ち着いて、目を綴じる。彼の薫るラ・レーヌ・ヴィクトリアには、彼だからこそ安堵の薫りがした……。
「君は聡明な人だ」
クラウスは彼女の手を取り言った。
夕美は美術館の庭で彼を見つめ、うつむいた。
「うつむかないで」
「でも……」
「君はよくうつむく。それでその美しい顔を隠さないで」
「クラウスったら……」
頬を染めて顔を上げられなくし、彼は彼女を引き寄せた。
「日本へはいつ戻ってしまうの」
夕美は顔を上げ、彼を見た。美しい空を背にする彼を。クラウスは心の透明な人で、そして、どこまでも愛情が深かった。このまま、離れてしまいたくない。一時期を許しあった間柄なだけだなんて思いたくは無いのに、夕美は彼から離れていった。
「ユミ」
彼は彼女の背を見つめ、柱に囲まれる彼女はまるで女神の様だと思った。静かに佇む哀しみの女神。別れた愛に打ち嘆く乙女。同情などではない、彼女の澄んだ心に惹かれているのだ。出会ってからまだ半月。それなのに彼の気持ちは彼女に囚われていた。全ての絵画の女神が、女性が、女王が、乙女や娘達が二人をまるで夫婦と認めてみてきているように微笑むと見えて、彼は石畳の地面を見て顔を上げた。
「ユミ、こちらを見て」
「………」
夕美は彼の言った日本語に顔を上げ、彼を見た。フレンチで彼は言う。
「君は僕の心の泉、そして僕の薔薇の女王だ」
目の前に来てそっと彼女の手をとり、そして彼女の揺れる黒い瞳を見た。潤むその瞳を。
「だから……」
夕美は恐れて首をふり走って行った。
「!」
クラウスは彼女の背を見て、回廊で曲がった彼女の顔が真っ赤になって戸惑い去っていったので追うことさえ出来ずに足がその場に留まってしまった。
夕美はこの荒くれるほどのときめきをどうしても抑えきれずに一点の絵画の前まで来ていた。
「………」
いつでも悲しくなると、夕美はこの絵画を眺めにやってきた。
ヴィクトリア女王の血族に関わる奇病の変、と題された悲しき王族の歴史を表した絵画だ。蔓薔薇の花の内側がそれぞれ人の顔になっているものが薔薇と共に幾つも咲き、その周りで光る魂の灯し達が舞踏しているのだ。春色の宵の天には星が、遠くには白があり、ただ一人少女が一回り大きく描かれ背を向け薔薇の前に足を投げ出し座っている。その絵画を。血友病というヴィクトリア女王から発症されたとされる病気であり、遺伝子の突然変異から母体から生まれる病気ということだ。それを薔薇で例えられた絵画は、夫との別れで哀しみ未だにラ・レーヌ・ヴィクトリアの薫りを忘れられない彼女の心を叱咤するかのようにも、慰めてくれるようにも、共に悲しんでくれているかのようにも、自分の情けなさをただただ見てくれているようにも思えた。こんなに心が弱い自分を。
夕美は絵画をしばらくはじっと見上げていた。
「薔薇は無垢……ただただ無垢なのだから」
顔の一つ一つを見ていく……。
「ユミ……」
彼女は振り返り、彼を見た。
彼は静かにここまで来て、彼女を見た。
「僕のぶしつけを許してほしい。君に、なんというか……」
「ううん、いいの。あたくしこそ、逃げ出してしまって……」
一度うつむき、彼を見上げた。
「あたくしね……」
「うん?」
「いつかは、過去を乗り越えなければって、判っているの。充分によ。別れによって心が疲れてしまっているのね。でも、前にいかなきゃなんないの」
「その時は」
手を取り見つめあった。
「どうか、僕が横にいさせてほしい」
「クラウス」
彼女を一度引き寄せ解放してから小さく微笑んだ。
「いつか君が元気に笑えることが僕の望みだ」
クラウスは彼女の肩を一度抱き寄せてから促し、絵画を見上げた。
「ヴィクトリア女王はね、
どれどれそういうひとでぼくはかのじょがどうなんだというはなしで夕美をすこしでもげんきづけるクラウス
「ラ・レーヌ・ヴィクトリアを愛した人との終わりを、同じ薔薇を愛する僕で埋め尽くしたいだなんて思わない」
「クラウス。あなた、どこまでもお優しくてあたし」
続く
秘密の月と黒の騎士
秘密の月に 愛を見る何者かが蠢くから……
私が窓の月に秘密の声をかけたなら、何時でも呼び覚まされる異世界の地は水を湛えることでしょう。
もしも鏡の泉に風吹くならば、その森は蒼く澄んだ瞳をした妖精達がたちまち光り集まり水面を照らし踊るのでしょう。それは映し出された満天の青い星群を囲い戯れるように。
あなたは聴こえるかしら? 彼女達が唄う声は花の香り。その旋律は月光。そして薄羽を透かした先の森に、悠久の時から紡がれる唱歌が響くのです。
ひそひそと、ひそまれるその声に耳を傾けて、精霊は頷くのです。蜜を含んだ白い花の群生に佇み、星月夜を見上げて微笑むのでしょう。
私は鏡と向き合い、そして白く浮くその顔に光るあなたの琥珀色の瞳に微笑む。そして鏡面の唇に指を触れ、閉じ込められた愛に言い知れぬしあわせを見出す。まるで白百合。まるでそれに停まる蝶。
黒く濡れたような髪は波打ち体を包む。そして腕を抱えてじっと私を見つめる。いくら出して欲しいと言っったって、それは駄目よ……。
窓を見る。あなたも見る。亜空間の部屋の窓を見つめて、微かな蒼い月光を足許に受けるあなた。それはまるで凍て付くようで、そっと震えている。
闇を司る悪魔であるあなたが泣けば、闇の世界に咲き乱れる黒い薔薇は美しく薫るでしょう。私が奏でる竪琴にあわせて歌えば、それらは蔓を伸ばしてあなたの配下達をがんじがらめに。そして黒い夜は暮れて行く。秘密の月は見え無いままに、移動して行く流離い人のよう。声を出して月は宇宙から空に発するのでしょう。月虹の羽根を広げて、飾るのでしょう。その天を。
黒薔薇は蜜を薫らせ、緑の蛇が地を這えばその毒を共有して配下達を麻痺させる。痺れた舌も、唇も指先も、そこにいないあなたに差し伸べられて。
このクリスタルの砦で鏡に閉じ込められたあなたを見守る私は番人。
ある日、鏡が月に共鳴して暗い雲が窓の外を渦巻いた。たちまちに月は姿を隠され、この部屋が闇に満ちる。
カパ、カパ
暗黒の室内に馬の蹄が響き、背後までやってくる。見上げると、闇でだけ光る瞳をして、黒い甲冑。黒馬の毛はッ光沢を受ける。不思議な微風にそよぐ黒く長い髪と鬣。
私は白い衣の裾を翻し、クリスタルの剣で悪魔の家臣に迎えうつ。
彼は鏡を割って悪魔を連れて行くつもり。
黒い焔を揺らめかせ、現れた剣を手にして迫り来る。私は波打つ銀の髪を翻した。
鋭い音が闇に響き白い火花が散り、馬が嘶き前足を上げる。
回転して剣が交わり、白の光りを出して檻を形成する。鋭い音を立てて閉じ込める。檻は自らが光り悪魔の家臣を照らす。手綱を引き檻を見回し、そして私を見下ろし、微笑んだ。
さらさらと粒子となって消えて行き、そして私の横に佇んで現れた。
私は横目で見上げ、体を向ける。
私たちの間の鏡は、今は悪魔が丸くなって眠っている。
刹那、剣と剣が交わって攻防が始まった。
窓の月は現れて雲はどんどん引いて行く。
息吹を頬にも感じる。
そして、ふっと月を見上げた横顔から、うっすらと闇に溶け込んで行った。
私は窓辺までゆき、月を見上げる。
そして精霊に感謝を捧げる。
草原を白馬で駆け抜ける。棚引くように広がる遠くの森の先、丘の上に古城。
私の首からさげるクリスタル珠には悪魔が閉じ込められ、丸くなって眠っている。
森を狼達と駆け抜け、城へ辿り付く。
ここは精霊の女王が住まう城。私は彼女の指先にキスをする。
クリスタル珠を差し出した。
この地の精霊である女王は、異世界の精霊王とは対となる存在。この地へは闇の者は近づけない。
彼女は珠を受け取り、箱に仕舞った。
チーズの冒険
ピーナッツ王国の端に位置するちゅーちゅーランドは、僕らの敵であるネズミが人間の城、灰被りが輿入れした城が鎮座する王国に巣食っている島であって、奴等は言葉も口にできずにいる僕ら……チーズの塊のチーズーズを食い荒らす大敵である。
僕らチーズーズを食べるのが人間共だけならまだしも、奴等ネズミの極悪カップル、例の二匹に食いかじられてチーズホールから顔をこんばんわさせたとコック長に知られたとなった次の瞬間、僕らは人間共の口に入ることすら無く、あの馬鹿みたいにドレスとか頭に羽根とかつけた人間共の前に現れることすらなく、ぐつぐつの鍋に入れられてスープにされることも叶わずに、ドシャッと何かの箱に入れられてしまうのだ。
ちゅーちゅー共は城の片隅にこしらえた愛のちゅーちゅータウンでちゅっちゅしあって、それで敵の国から時々、現代の人間の服に乗って襲来するあの無表情で能天気な子女等から「顔が怒って見えたり、悲しんで見えたりするの」と目をとろんとさせながら言い張る白猫の対象、僕らの間では口が無いわりにネズミ共を追い掛け回してくる「恐ろしい奴」で世界中にいる噂のネズミの敵をどうすればもっとこのちゅーちゅーランドに呼び込んで、外来種であるあの黒耳のちゅーちゅー共を追い払って我が国の内陸の国が誇る枕に似た純真無垢な国が在来種として世界を圧巻するのかを研究するものである。
まず、僕はお盆のときの飾りもの改め、チーズの体にグリッシーニで足と手をつけて森に行くために城を飛び出た。何故森に行くのかって? 僕らの助っ人になってくれる老婆がいるからだ。
僕は駆けてゆく。そのグリッシーニ……細長くて硬質なパンのようなものの足で走って行く。いつもはこのグリッシーニはドロドロに溶かされた僕につけられて人間共に食べられるんだ。これって本国由来の食べ物じゃないけれど、グリッシーニなのはいいんだ。いいんだ。いいんだ。ピッツァとかが美味しいかの愛国はチーズ大国、僕らのいわゆる母国なんだから。
まずはネズミに出くわさないようにお肌が真っ白けで髪が真っ黒けで林檎ばっか喰ってる姫がいた森に行く。
あの姫は灰被りが嫁いでったまともな王国とは別に、トチ狂った王子に拾われた中学生一年生ぐらいの姫で、今は生き返って生気溢れる姫に悔しがっているネクロフィリアンの王子と一緒に暮す目に見え無い透明な城にいるようだ。この灰被りが嫁いでった城以外に、このランドに城は無い。なぜか。眠りこけている内に百年経ってた姫も、林檎喰ってぶったおれた姫もここに遊びに来て、まだ魔の森で老婆に追いかけられつづけていたり、歯車のある部屋で眠りつづけて王子とちゅっちゅし続けていたりして、お分かりだろう。あの灰被りの姫は、姉妹二人を牽制して城に鎮座してまともな王子と暮らしているだけにあきらたず、他の姫まで幻惑を見せたり睡眠薬で眠らせつづけながらも第一の姫と呼ばれ続ける陶酔に浸っている姫なのだ。
その城にいる奴等、ちゅーちゅー共もそれはそれは性格も……。
しかし、あの在来種の白猫だって実は油断が出来ない。あの白猫、口が無いことをいいことにネズミのお友達ジョーイがいいることを僕に黙っていた。しかもそれはそれは実物のネズミっぽい色形をしたお友達だったのだ。僕の仲間が見た。現代人の服に刺繍されてのっかった例の白猫とそのネズミが真横にいたのを。
そんなことを思っていると、森に到着だ。
お婆さんの真っ黒いローブの裾を引っ張ると、相手は振り返って前を見ている。
「ここ。ここ」
老婆が僕のいる下方を見ると、途端に美人に変貌した。というよりも姿を戻した。一番初めの頃なんて、僕は老婆に籠の林檎を驚きついでにぼこっぼっこぶつけ投げられて、チーズに林檎がめり込んだりぶちあたったりして酷い眼にあってその場に崩れ落ちた。だが相手はもう慣れたことで、紫の袖と黒い裾のビロードドレスで僕を見下ろすと、真っ白く細長い手で僕を持ち上げた。
「お前、よく食べられずにいたね。灰被りの城は乗っ取れそうなのか」
女王は城での権利を失っていて、あの灰被りに同じ様に魔法を掛けられ、未だに継子を追いかけて林檎を持って老婆の姿にさせられている人なので、その呪術を解くチャンスを狙うことを条件に、僕らをネズミ共から少しでも回避できる小さな魔法を授けてくれている。
「今日も落としてったガラスの靴にチーズを詰め込んでやったよ。あれで灰被りも宴でガラスの靴がはけずに王子に『君は誰なんだい』と困惑の時を与えられるのだろうね」
それをする時に灰被りの味方のネズミ共まで裁縫糸も放り投げてそれを阻止しようとしてくるから困る。
「僕は優しい貴女が城にあがるのを期待してるよ」
「ええ。ほら。カビに塗れてブルーチーズ化する前にまたお戻り。またネズミ避けの魔法をかけてやろう」
どろんどろんと魔術を掛けられて、僕はグリッシーニの手を振って走って行こうとした。
「お待ち。あの女好きの魔法の鏡はまだあの灰被りにおべんちゃらを言って姫の部屋で大切に匿われているの」
「はい」
「あの浮気者。城に上がって今度会ったら……」
僕は最後まで聞かずに走って行った。
そろそろ今日も城でダンスパーチーが行なわれる時にチーズが鍋に突っ込まれる時間が迫る。
帰りがけ、現代人の頭に乗っかった白猫と目があった。その背後から、このちゅーちゅーランドを動かしているスタッフのくらーい目が黒く光って、その白猫をかぶる女子高生の背を微笑み見ている姿を見た……。あれがあの巨大ネズミだったらと思うと僕は恐ろしくなってとっとと城へ戻ったのだった。魔法はどうやら利いてるようだ。
城に着くとコック長は長い硬質のパンが突き刺さったホールチーズを持ち上げた。
「なんでグリッシーニがつきささっとるんじゃい。稀に見かけるが、まあ、ええわい、ええわい。ネズミにゃ食われとらんな」
さあ! これから僕はぐつぐつ煮だった生クリームとコンソメのスープに投入されて、あれよあれよと言う間に溶かされて、その魂は次なるチーズーズへと受け継がれこの身は昇華されるのだファイヤー!!
調理された僕は、今宵のパーチーのチーズシチューやらフォンデュとして長テーブルに並べられ、そして灰被りの城の迎賓の間で煌びやかな蝋燭の光に照らされている。アーチ窓の外では今日も人間のカップルも含めて数匹の僕らの敵であるネズーミーが花火と共に打ち揚げられていく姿が見える。それをあのあくどいちゅーちゅーカップルは笑顔を顔にはりつけて悪魔の舞を踊りながら見ているのだ。そしてパレードを見る城下町の民草バカップル共の嬌声も聞こえる。
ハッ! と気付いて僕は打ち揚げられている花火から、シャンデリアを見上げた。そこには灰被りのお針子であるネズミたちが僕を見下ろしているじゃないか。だがあいつ等には既に調理されてあっつあつになった僕らには手なんか出せないんだ。へっへっへ。奴等は遠くを見ていて、警戒している。僕が宴ゲスト達に食べられた後に始まる舞踏会で、灰被りが足を通すガラスの靴に他のチーズーズ達がチーズを詰め込まないかを見てるんだ。おのれ、監視などさせるもんか。僕は銀のカップに刺されたグリッシーニパンにとろとろチーズをゲストに絡ませられると、真っ暗い口に運ばれて行った。
僕の意識はゆらゆらと喉を通って行くごとに魂となって宙に浮く。これからまた他のチーズに憑依する。暗い亜空間を通って、それで人間共の談笑だけを聞きながら流れていくチーズ魂。
目を覚ますと、三日ぐらい経ってたみたいだ。他のチーズーズが棚に並べられえる保管庫。九時の鐘の音を聞いてドンッと棚から転げ落ちた。夜の九時! 舞踏会の時間が迫っている。僕は新しい体で転がると今度は束ねたパスタを手足に走って行った。
仲間のチーズーズが虎視眈々と灰被りの座る椅子を幕から見ている。僕も駆けつけると一緒にガラスの靴が乗ったクッションを見た。頷き合って静かにころころ転がっていく。そしたら灰被りの座る椅子の下から針を持ったお針子ネズミたちが現れて僕らを突付いてくる。だがこれが狙い目なのだ。ネズミは威嚇してきて僕らの仲間をかじってチーズがバラッバラの欠片になる。それをすかさず僕はガラスの靴に仕込んでほくそえんだ。お針子ネズミがハッと向き直って、王子に手をとられ立ち上がった灰被りのドレスの裾に糸針を突き刺してそれに捕まってターザンの如く移動していき、ガラスの靴を履く前にチーズを抜き取ろうという魂胆だ。僕はパスタの手足を放って絨毯を勢い良く転がっていって灰被りのドレスに入ってお針子ネズミとの決戦を繰り広げると、足元を取られた灰被りが「きゃっ」と叫んで転がって、皆の目の前にホールチーズとネズミが転がった。
「ネズミ!」
誰かが叫んだ。
「ち、違うわ! 彼女はわたくしのお針子で」
王子は驚いてネズミを見て、灰被りはネズミを手で掬った。そこに現れたのが黒いローブの老婆だった。さっきの声の持ち主だった。女王だ。
「お嬢さん、あんたの悪事はもうそこまでだよ。見ない間に鏡におだてられて美しさに磨きをかけおってからに、またここのNO.1の姫に君臨するために皆に呪術をかけてるんだからね!」
「な、なんの事かしら」
「どういうことなんだい。聡明な君が呪術だって?」
王子は困惑していて、僕は文字通り今は手も足も出ないから転がっていた。
そこで老婆がどろんどろんと女王の姿になると、灰被りは驚いて声を荒げた。
「なんですって! あの子からはあなたは熱した鉄の靴を履かされて踊り狂ってからは、このランドでは老婆の姿でしかいられなくなったし、迷路の森から出られなくしたというのに!」
「え?」
「あ、……しまった」
灰被りは口許を押さえ、そしてその途端、何かの魔法が溶けてしまった。引き裂かれた服、裸足、そして乱されてしまった髪……。彼女は咄嗟にガラスの靴に足を通した。だが、やはりチーズに気付かずに入らない。その場に涙が流れて崩れた。
「うう……」
しかし、そんなボロボロの灰被りを見た途端に王子は異常な程に頬を染め、そして手を引き上げて灰被りを見た。
「美しい! 僕は今まで何を見ていたんだろう。何故君のことが今までに無い程に綺麗に見えるのだろう」
灰被りは僕らがどろんどろんに溶けちまいそうな程王子とちゅっちゅし始めやがって、女王も一瞬白目を向いて口を歪めた。
「そうだ。飾ることなど、なんと愚かしい事だったのだろうか! 君の涙のなんときよらかな事だろうか。ああ。今日から僕も灰をかぶって生活して民草共と共にゆくよ!」
「な、何を言うのです」
妃が驚いて王子の頬をバシバシやるが時既に遅し、僕らの見上げる場で王子は自分の服をばらばらに髪をぐちゃぐちゃにハハハハハと笑いながら灰被りの手を引っ張って走って行ってしまった。そして城下の花火打ち揚げ場所へ狂い走って行ったらそのまま二人は花火で打ち揚げられてどかーんとなってしまった。驚いた僕はごろごろ転がっていってあっという間に花火の筒に勝手に職人に仕込まれてどかーんと夜空に打ち上げられてしまった。そして下方から民草カップル共の悲鳴が聞こえる。どろどろに溶けたチーズが雨の如く降り注いで奴等を攻撃し、そしてちゅーちゅーランドは僕らチーズーズの思惑通り、カップル共の叫びが響き渡ったのだった。
ピーナッツ王国の端に位置するちゅーちゅーランドは、別名ネズミーランド。僕らの敵であるネズミが、灰被りが輿入れした城が鎮座する王国に巣食っている島である。奴等は僕らチーズの塊のチーズーズを食い荒らす大敵である。
僕らチーズーズを食べるのが人間共だけならましだ。奴等ネズミの例の極悪カップルに食いかじられて、チーズホールから顔をこんばんわさせたとコック長に知れた瞬間、人間共の口に入ることは無い。あの馬鹿みたいなドレスや頭に羽根とかつけた人間共の前に、ぐつぐつの鍋に入れられてスープにされることも叶わず、ドシャッと何かの箱に入れられてしまうのだ。
ちゅーちゅー共は、片隅にこしらえた愛のちゅーちゅータウンでちゅっちゅしあう。時々、現代の人間の服に刺繍されて敵国へ襲来する白猫がいる。子女等が「顔が怒って見えたり、悲しんで見えたりするの」と言い張る無表情のあの白猫。僕らの間では口が無いわりに、ネズミ共を追い回してくれるネズミの敵。どうすればもっとこのちゅーちゅーランドに呼び込んで、外来種である黒耳のちゅーちゅー共を追い払ってくれるか。我が国の誇る枕に似た純真無垢の国が、在来種として世界を圧巻するのかを研究する者である。
まず、僕はお盆のときの飾り改め、チーズの体にグリッシーニで足と手をつけ、僕らの助っ人になってくれる老婆がいる森に行くために城を飛び出た。
細長くて硬質なグリッシーニパンの足で走って行く。グリッシーニなのはいいんだ。いいんだ。いいんだ。発祥のピッツァとかが美味しいかのチーズ大国は、僕のいわゆる母国なんだから。
ネズミに出くわさないよう、お肌が真っ白けで髪が真っ黒けで林檎ばっか喰ってる姫がいた森に走る。あの姫は灰被りが嫁いでったまともな王国とは別だ。トチ狂った王子に拾われた中学生一年生ぐらいの姫で、今は生き返って生気溢れる姫に悔しがっているネクロフィリアンの王子と一緒に、目に見え無い透明な城にいる。この灰被りが嫁いだ城以外、ランドに城は無い。なぜか。眠りこけている内に百年経ってた姫も、歯車のある部屋で眠りつづけて王子とちゅっちゅし続けたり、林檎喰ってぶったおれた姫も、まだ森で老婆に追いかけられ続けたり、お分かりだろう。あの灰被り姫は姉妹二人を牽制して城に鎮座し、まともな王子と暮らすだけにあきらたず、他の姫まで幻惑を見せ、睡眠薬で眠らせ続けながら第一の姫と呼ばれる陶酔に浸っているのだ。
その城にいる奴等、ちゅーちゅー共もそれはそれは性格も……。
しかし、あの在来種の白猫だって実は油断出来ない。あの白猫、口が無いことをいいことにネズミのお友達ジョーイがいいることを僕に黙っていた。僕の仲間が見た。現代人の服に刺繍された例の白猫とそのネズミを。
そんなことを思っていると、森に到着だ。
お婆さんの真っ黒いローブの裾を引っ張ると、相手は振り返って前を見る。
「ここ。ここ」
老婆が僕のいる下方を見ると、途端に美人に変貌した。というより姿を戻した。一番初めなんて、僕は老婆に籠の林檎を驚きついでにぼこっぼっこぶつけ投げられた。チーズに林檎がめり込んだりぶちあたったりして酷いめにあってその場にくず折れた。だが相手はもう慣れたこと、紫の袖と黒裾のビロードドレスで僕を見下ろすと、真っ白く細長い手で僕を持ち上げた。
「お前、よく食べられずにいたね。灰被りの城は乗っ取れそうなのか」
女王はあの灰被りに魔法を掛けられ、未だに林檎を持って老婆の姿で継子を追いかけさせられている。その呪術を解くチャンスを狙うことを条件に、僕らをネズミ共から少しでも回避できる小さな魔法を授けてくれている。
「昨日もガラスの靴にチーズを詰め込んでやったよ。あれで灰被りも宴でガラスの靴がはけずに、王子に困惑の時を与えられるのだろうね」
その時に灰被りの味方のネズミ共まで裁縫糸も放り投げて、阻止しようとしてくるから困る。
「僕は優しい貴女が城にあがるのを期待してるよ」
「ええ。ほら。カビに塗れてブルーチーズ化する前にまたお戻り。またネズミ避けの魔法をかけてやろう」
どろんどろんと魔術を掛けられて、僕はグリッシーニの手を振って走って行こうとした。
「お待ち。あの女好きの魔法の鏡はまだあの灰被りにおべんちゃらを言って、姫の部屋で大切に匿われているの」
「はい」
「あの浮気者。城に上がって今度会ったら……」
僕は最後まで聞かずに走って行った。
そろそろ今日も城でダンスパーチーが行なわれる時に、チーズが鍋に突っ込まれる時間が迫る。
帰りがけ、現代人の頭に乗っかった白猫と目があった。その背後から、このちゅーちゅーランドを動かしているスタッフのくらーい目が黒く光る。その白猫帽子をかぶる女子高生の背を微笑み見ている姿。あれがあの巨大ネズミだったらと、僕は恐ろしくてとっとと城へ戻ったのだった。魔法はどうやら利いている。
十二時まで時空の歪められた魔法の城。一歩踏み入れば今は中世。コック長は僕を持ち上げた。
「なんでグリッシーニがささっとるんじゃ。まあええわい。ネズミにゃ食われとらんな」
さあ、僕はぐつぐつ煮だったスープに投入され、あれよあれよと溶かされて、その魂は次なるチーズーズへと受け継がれこの身は昇華されるのだファイヤー!!
調理された僕は、今宵のパーチーのフォンデュとして長テーブルに並ぶ。城の迎賓の間で煌びやかな蝋燭に照らされている。アーチ窓からは今日も人間のカップルを含め数匹のネズーミーが、花火と共に打ちあげられ、それをあのあくどいちゅーちゅーカップルが笑顔を顔にはりつけ悪魔の舞を踊りながら見ているのだ。パレードを見る城下町のバカップル共の嬌声響く。
ハッと僕は花火からシャンデリアを見上げた。灰被りのお針子ネズミが僕を見下ろしてるじゃないか。だが、既に調理された僕に手なんか出せないんだ。へっへっへ。奴等は遠くを警戒している。僕が宴ゲストに食べられた後始まる舞踏会で、灰被りが足を通すガラスの靴にチーズーズ達がチーズを詰め込まないか見てるんだ。おのれ、監視などさせるものか。僕は銀のカップに刺されたグリッシーニにとろとろチーズを絡まれると、真っ暗い口に運ばれた。
僕は喉を通って魂となる。暗い亜空間を通って、談笑を聞きながら流れていくチーズ魂。また他のチーズに憑依する。
目を覚ますと、チーズーズが棚に並べられえる保管庫。九時の鐘の音を聞いて棚から転げ落ちた。舞踏会の時間が迫っている! 僕は新しい体で束ねたパスタを手足に走った。
仲間のチーズーズが虎視眈々と、灰被りの座る椅子を幕から覗く。僕もガラスの靴が乗ったクッションを見た。頷き静かにころころ転がっていく。すると、椅子下から針を持ったお針子ネズミが現れ、僕らを突付いてくる。だがこれが狙い目。ネズミは威嚇して僕の仲間をかじってチーズがバラッバラになる。すかさずそれを僕はガラスの靴に仕込んでほくそえんだ。お針子ネズミがハッと向き直った。王子に手をとられ立ち上がった灰被りのドレスの裾に、糸針を突き刺して掴まりターザンの如く飛ぶ。ガラスの靴を履く前にチーズを抜き取ろうという魂胆だ。僕はパスタの手足を放って、絨毯を勢い良く転がる。灰被りのドレスに入ってお針子ネズミと決戦を繰り広げた。足元を取られた灰被りが「きゃっ」と叫んで転がって、皆の目の前にホールチーズとネズミが転がった。
「ネズミよ!」
「ち、違うわ! 彼女はわたくしのお針子で」
王子は驚いてネズミを見て、灰被りはネズミを手で掬った。そこに現れたのが老婆だった。さっきの声の持ち主。女王だ。
「お嬢さん、あんたの悪事はもうそこまで。見ない間に鏡におだてられて美しさに磨きかけおって、NO.1の姫に君臨するために皆に呪術をかけてるんだからね!」
「え、君が?」
王子は困惑する。
老婆がどろんどろんと女王の姿になると、灰被りは驚いて声を荒げた。
「あなた熱した鉄の靴で踊り狂ってからは、老婆の姿で迷路の森から出られなくしたのに!」
「え?」
「……あ」
灰被りは口許を押さえ、その途端、何かの魔法が溶けてしまった。引き裂かれた服、裸足、そして乱されてしまった髪……。彼女は哀しげな目で、咄嗟にガラスの靴に足を通した。だが、やはりチーズに気付かずに入らない。
「……うう」
涙で崩れるボロボロの灰被りを見た途端、王子は異常な程に頬を染め、そして手を引き上げた。
「美しい! 僕は今まで何を見ていたんだろう。何故君のことが今までになく綺麗に見えるのだろう」
灰被りは僕らがどろんどろんに溶けちまう位、王子とちゅっちゅし始めやがって、女王も一瞬白目を向いて口を歪めた。
「そうだ。飾ることなど、なんと愚かしい事だったのだろう! 君の涙のなんときよらかな事だろう。ああ。今日から僕も泥に塗れて民草共と共にゆくよ!」
「な、何を言うのです」
妃が驚いて王子の頬をバシバシやるが既に遅し、僕らの見上げる場で王子は自分の服をばらばらに髪をぐちゃぐちゃに、ハハハハハと笑いながら灰被りの手を引っ張って、走って行ってしまった。それで城下の花火打ち揚げ場へ狂い走って行ったら、そのまま二人は花火で打ち揚げられてどかーんとなってしまった。驚いた僕はごろごろ転がって、あっという間に花火の筒に勝手に仕込まれどかーんと夜空に打ち上げられてしまった。そして下方でカップル共の悲鳴が聞こえる。どろどろに溶けたチーズが、雨の如く降り注ぎ奴等を攻撃し、そしてちゅーちゅーランドは僕らチーズーズの思惑通り、カップル共の叫びが響き渡ったのだった。
知覚の届かない花
大人達は言う。だが、子どもとは残酷なものだ。自分達と違う者を見つければ、驚くようなことを言って心を傷つけて来る。
悲哀がリンクした時から、心情はどんどんと孤独を生きて来たミーロライアーの浸蝕されていったのかもしれない。
彼女が同じ色のその目でどんな悲しい心を見て来たのだろうかと知りたくなった。
もしかしたら、一番人間らしいのではないか。無機質な鏡なんかじゃない。
その美しい瞳で自分を見て、食される自分の姿、それがだんだんと、礼の望みになってゆく。
だから憂鬱に花を見おろし、口に運ぶ。
黒い台の上。
白襦袢(じゅばん)が開かれ、台からもれる。
すうっと、流れて肌を血色に染めて行く。
彼女は泣いていた。
血の味がするだけだった。肉は血の味がした。彼女にとっては普通の食卓と同じ。花を食べさせても、蜂蜜でおぼれさせても、初恋の礼でも、花びらにうもれさせる日々であっても。味の変革など起きなかった。恋する気持ちが彼女の知覚を変えてくれると信じていた。
夢にも見たと言っていた。花の咲き乱れる草原の夜を、月光を頼りに飛ぶ蝶になったようだと礼は言った。その頃には花と蜂蜜だけで意識はもうろうとしていた礼は、彼女には実に美しく、そして美味しそうに映った。
今はもう静かに動かない骸(むくろ)。水色の瞳をうっすら開いたまま。虚ろをただ、捕らえたまま……。
彼女の水色の瞳だけ、いまだ絶望を残したまま。それしか無かったのだ。絶望しか。
「もう、嫌よ……」
愛する者も屈折した欲望で失った。愛を知る知覚の届かない味覚だけが残った。彼女の世界に。
「もう……」
礼の血にぬれた短剣は最後に彼女の白い喉もとを映した。
涙にうもれて瞳の色だけぼやかした。もう、何も映さない。
青のルミール
ルミールは深い森でその鈴なりの木を見上げていた。
その青い瞳は白い頬のうえに光り、神秘的な音を奏でる風が耳をかすめる。それは水晶と水晶がしんとふれあうかのような音。
それがこの不思議な鈴なりの木のならす音。
ルミールがビロードのスカートを広げて立ち上がると、美しく波打つ金髪が揺れることなく背を飾って、つま先を伸ばして手を差し伸べた。
枝垂れる連なる花はとても薄くて、青白くてくっきりと浮かんで、月の光を一つ一つに宿しているかのよう。
ルミールの瞳にもしんみりと広がる。小さな指を触れさせると、風とは違う揺れを受けてその花は音を立てあった。
「とても不思議。なんて綺麗なのかしら」
薔薇色の唇は微笑んで見回した。
青い星はこの花からもしかして生まれているのかしら? そうとさえ思うほど。光りと影をうけて花弁の繊細さはまるで薄い硝子を重ねたみたいで、その青に取り込まれてしまいたいとさえ思う。
森はとても涼しくて、頬を撫でる風は花の神秘的な香りを乗せてやってくる。彼女を優しく包んで、そして心地よくステップを踏ませた。
草地に彼女が回転する月影が落ちる。艶めく緑の草と、静かに閉じてこうべを垂れる花。
夜が深まるごとに、月は銀色になっていく。
鈴なりの木は花をしんみりと光らせた。彼女は近づいて木にお辞儀をした。スカートの裾を広げて。彼女の群青のビロードにも、襟や手首の丁寧なレースにも、そっと光沢を受ける。
静かな音に振り返ると、純白のペガサスのお迎えがきた。優しげな瞳でルミールを見つめて静かにこうべを垂れる。長いたてがみはまるで河の流れのように銀の月光にさらりと揺れた。
ペガサスのところまでやってくると首を優しく撫でて、そして鈴なりの木を振り返った。
森で鈴なりの木はまるでサファイアのように輝いている。銀の月は空を飾って、ロマンティックな夜。
ルミールは羽根を下げ膝をついたペガサスの背に乗り、そして夜空へ飛び立つ。
調香師
それははじめは、まるで闇で純白の蚕の繭玉から絹糸の一本を紡ぎだされたかのように細く、そして上品にして繊細な香りだった。
そしてその香りが一気に彼女の鼻腔を充たす。まるで視覚に現れた香りが薫風となって彼女に襲い掛かってきたかのように。
玲花(れいか)は悦として瞼を開け、そのクリスタルの器から発された香りの鍵となる素に感嘆の息をそっと、そして長く吐く。
ここは香水舘。
アンティークな硝子の小瓶や蒸留器、フラスコや真鍮の秤、香水が所狭しと置かれたレトロな空間だった。
ランタンから燈るその明りは千年前から燈るように錯覚させ、古めかしいショウウインドウの奥にいる老婆は、まるで深海に潜む静けさで鎮座していた。
「これは、とても珍しいものですね。いままで、体験した事の無いものです」
「ええ」
老婆はゆっくりと顔を挙げ、皺にうもれる顔でもかすかに分かる微笑みをみせた。
「誰もその香りの正体を当てたことはないんでございますよ。お嬢さん、すでに香りの伝承を伝え聞いた夫も亡き今、それを探る手立ても無い。挑戦してみなさるかしら?」
「香り探訪の旅……でしょうか?」
玲花が再びその透明な器を見つめると、その内側にある香りの素が、まるで生きたもののようにくゆり燻った気がした。
なんとも判別しがたいそれは、こげ茶色の硬質な欠片だった。
「香水の起源は、古くはヨーロッパに伝えられるより以前、サラセンや古代エジプト時代に発祥しております。もしもその香りを探し当てるとなれば、それは製法を謎とする蒸留酒を探るより難しいことでしょう。今までも脱落した方は多いのよ」
「そうですね。蒸留酒の伝えられた製法を知りたくば内に入って知ることが必要だし、名だたる世界の酒類はまず何が本当は隠し味としていれているのかなど、造られている修道院や酒蔵に入らないからには不明ですものね」
「引き換え、この香りの謎は誰も既に知りはしないもの。浪漫を感じるではございますまいか」
それほどに、どんな不気味な物の正体を探る事になるらやら判りもしない。
この空間で語り継がれてきたその香りの浪漫話。その会話の幾つも声は重なり合って、香水たちや壁や器具に浸透していき、時代と共に塗り固められてきた。けれど、道具たちはそれを語らないし、人はそれらを感じ取れない。だから自身の足で探しに行く。
ここでは幾度となく、老婆に探訪者が旅から帰ってその土産話を置いて行ったことだろう。誰もが熱心に歩き回って履き崩した靴で、古ぼけた鞄をひきさげて。
今では、老婆の顔は微笑み顔でしかなかった。元から微笑んでいたのだろう。いろいろな言葉を受け取って来た老婆は、そんな彼等に果てしない希望を感じていたに違い無い。
「私も是非、この香りの根源を探し出したいです」
玲花が香水舘を出ると、そこは林に囲まれた美しい庭園。
白い石が眩しく緑の芝は手入れが行き届き、高木の糸杉が立ち並ぶ。
同じ調香師仲間の美夏(みか)が馬上から彼女を見下ろした。凛とした顔立ちで。
彼女とは同じ大学を出た就職先の研究所で知り合った。学科が違ったことで在学時に出会うことは無かったけれど、どちらもヨーロッパに出て調香師になるための目標を持って香りの研究所に入ったのだった。
「林で薬草を摘んできたの」
「本当。たくさんね」
白馬に乗る美夏は手綱を持つ革手袋の手に握られた緑の様々な草を彼女に見せ、そして鼻先に近づけて香りを嗅いだ。そして、微笑む。その時の美夏の顔立ちが玲花は好きだった。あくまでも涼しげで、そして真っ直ぐと見つめてくる瞳の色が静寂で、虜になる。
「先ほどね、お婆さんから素敵な話をもらってきたわ」
「それは気になる」
現在彼女達は、玲花が二十八歳。美夏が二十七歳だった。
もう研究所を出てヨーロッパで調香師としてそれぞれが働き初めて四年目。少しは様々な国のことも分かってきていた。玲花はフランスを拠点にしており、美夏はスペインとイタリアの両方を拠点としている。
バカンスの時にこうやって二人で会って過ごすのだが、古い香水やお香の伝承のあるギリシャやペルシャ(イラン)、エジプトにも幾度も足を運んで来た。
「貴女も記憶の海馬に留めて置くといいわ。ある香源の正体を探るのよ」
「え? 一体、どんな?」
美夏は腰にくくりつけたカンバス地の袋に薬草を入れながら聞いた。
「硬質でこげ茶色の欠片。四角く切り分けられていたわ」
「まあ。もしかしてミイラの欠片?」
「美夏ったら。それは香りというより、薬効にならなるけれど」
もしも数ある香水やお酒などの主原料にヒト由来の欠片や脂が使われていても不思議では無いけれど、あの初めて感じた香りはヒトという動物性の香源ではなかったと思う。すっとしていて、上品だった。
「もしもそれ自体が練りこまれた幾種類もの練棒の欠片なら難しいわね」
「貴女も嗅げば分かるわ。とても純粋にして、混じりけの無いものだったの」
「それは楽しみ」
美夏が馬を降り、馬を繋ぐとわくわくして振り返った。まるで一気に少女が顔を現したように。
彼女たち二人はクラシカルな船に揺られていた。その向こうにはアフリカ大陸が見える。あの香りの正体を求め、エジプトへと降り立つつもりだ。心地よい風を帆は受けながら青い青い海を行く。
今にも神話の神々が踊り、幻獣達が姿を現すだろうと思われるほどに、美しい天空と海原。遙か太鼓からの青さ。軽やかにして古の風が吹く。まるで手が届くと思われるほどに爽やかな空。
そして向こうにはまた違った風景を見せる目的地があるのだ。そちらにはナイルの川の緑の先からちらちらとエジプトの神々が覗くのではないだろうかと思われる。
彼女たちはレトロな望遠鏡で遠くを見た。すると、深い深い緑の木々が横に棚引く姿が見える。風を受ける髪が翻る。
「あなた方は、日本の方?」
彼女たちが顔を向けると、搭乗口でも見かけた白人女性がいた。黒いランニングに幅の広い白の木綿パンツ、牛革のサンダルに、黒い帯の鍔広の麦わら帽子をかぶっている。エレガントな空気があり、大降りのサングラスをはずした顔を始めてみた。帽子からはまとめ上げられたのだろう金髪が少し風に弄ばれ、緑の瞳がまだらな陰の下で光り微笑んだ。
「はい。日本の者です」
「私はフランジェスタ」
二人もフランジェスタに自己紹介した。
「日本へは以前、北海道、那須高原、湯布院、屋久島、沖縄に行ったことがあったから、ずっとあなた方のことが気になっていたのよ」
「そうだったのですね。それらの場所は日本でもとても良い場所なので」
「ええ。実に素敵」
彼女たちが日本語で会話をしていたので、日本人だとわかったのだろう。今は英語で会話をしていた。
「どちらへいらっしゃるの?」
「エジプトです。ある目的のために。私たちはイタリア、スペインでそれぞれが調香師をしていて、その香りの探訪のために」
「まあ、勉強熱心ね。エジプトの香水の紀元は古くからあるものね」
「はい」
「私もエジプトまで絨毯を買い付けに行くところなの。ご一緒してもかまわないかしら。ナイル川も下ってみたいと思っているの」
「もちろんですわ。ご一緒できるなんて光栄です」
彼女自身は上品なオレンジの香りがし、風がこちらへ吹く毎に香る。こちらもわくわくして来るようなスパイシーさも上品さもあった。
そうして三人は連れ立つこととなった。
「不思議な香り?」
「はい。
〈2〉
「<神秘の香>と呼ばれていた」
玲花と美夏が振り返ると、そこには美しい女性がいた。雪のような肌に、漆黒の髪、同じく黒い瞳が月光を映したように光る。しかし、随分と足が長いので背が高いのだろうし、ゆったりとした髪も男の様に短かった。声も低いし、装いは見かけの純白と漆黒をそのまま衣服にも取り入れた色彩。そこはかとなく気品を帯びている。
「専属の調香師も言っていたよ。どうやら、その秘密を究明できなかったようだが」
イタリア語を話すその白人は、やはりイタリア人なのだろう。香水舘の隅にあるホールチェアセットにいて、モノクロームの彼だけが切り抜かれたように感じる。暖色照明でもその肌が染まることは無い。彼は花細工の硝子瓶を手にしており、香りを楽しむと栓をし、こちらに微笑んだ。
老婆が言う。
「彼は天然由来の基礎化粧品や香水、薔薇酒などを製造するお家柄の系統の方なの」
「母方でね」
彼が立ち上がると、彼女達は握手を交わした。柔らかな手に、正直玲花は心が高鳴る。イタリア男はやはり魅力的だ。一方、そんなチャーミングなイタリア男に慣れているはずの美夏さえも、緊張気味に小さく微笑んだ。
「貴方も共に探しませんか」
「まあ、美夏ったら何を言い出すのか驚くわ」
「今は俺もバカンスの期間だ。君達の楽しげな話に乗ることにするかな」
ここは様々な香水の香りが混在して染み付いた場所だが、その男の発する香りは独特なものを感じた。それは、白い花が浮んだ。闇に浮ぶようなその花の香り。どんな香水を使っているのだろうか? 彼の言う専属の調香師の仕事だろうか? それとも、彼の母方の家柄の香水だろうか。まず二人はそれに強い興味を持った。
「私は蛇谷玲花(へびたに れいか)」
「私は泉花美夏(いずはな みか)です」
「日本人には名前に意味があるんだってね。どういう意味なのかな」
「蛇の谷に、<玲>は美しく鳴る音。それに花。まるで谷底で蛇が花の間を縫うようにのたうちながら、その先の小さな鳥居の洞穴から鈴の音が鳴り響くかのような名前なのではないかしら。美夏は、花の咲く泉。それに美しい夏」
「風景的で目に浮ぶようだ」
「貴方のお名前を覗っても?」
「これは失礼。名乗り遅れてしまった。俺はルティカンダ。通り名と取ってくれていい」
身分のある人は時に通り名で呼ばれている。本名は名乗らないものだ。そういう人を相手にすることも多い仕事なので慣れていたが、正直まだ四年目では代々伝統的な家系を深く受け継ぐ者たちの家元は分からない。まだこちらでは彼女達は新米も同然。個人での顧客や用達人も少ない時期だ。
そういったわけで、女二人と男一人の<神秘の香>の源の探訪が始まったのだった。
「へえ。美夏も通り名なのか」
「ええ。数年前まではね、花貴美夏が本名だったんだけれど、泉花夏月と呼ばれるようになったわ。社会人になってから名前だけでも美夏に戻したの」
「日本特有の法則でも?」
「いいえ。特異な例よ。一言では表せないような」
今はルティカンダと美夏は二人でいた。
そこは列車の個室で、麦畑に囲まれた丘を走っていた。何処までも夏空は抜けるような青さを湛え、心まで爽やかにしてくれる。それでも車窓を開けた風にも吹き消えないルティカンダの花の香りは不思議なものだった。
「貴方、素敵な香水を香らせているのね。先ほども思ったところよ」
「香水は本日はつけていないんだ」
美夏は意外に思って彼に一言断ってから手首を借りた。鼻を近づけても首を傾げる。もっと、それは香りの元が発散されている場所が違うようなのだ。その香りを辿っていた。腕、肩、首元、それに黒いシルクスカーフの胸元。
「分かったわ。貴方は全身から香らせているのよ。衣服でもない、何か花のエキスのカプセルでも飲んで……?」
顔を挙げた美夏はとたんに目の前の顔に驚き、そして自分が彼の手首にそのまま体重を掛けて身を乗り出していたのだと気付いた。彼女は頬を紅潮させると、すぐに色褪せたベルベットの背凭れに背を戻した。
「ごめんなさい。つい。悪い癖なの」
「いいんだよ」
多少驚いた顔をしていたルティカンダもはにかんで頷いた。
「まあ、驚いた」
びくっとして美夏は玲花を見上げた。ドアのところでお盆にカップを乗せて戻って来たのだ。
「野暮だったわね。もう少し後で来れば良かったかしら」
「いいの。入って」
「ふふ。珍しいのね」
意味ありげに玲花が男気の無い美夏に言い、ルティカンダに微笑んだ。
「飲み物を持ちに? 言ってくれれば俺が持ってきたというのに。どうもありがとう」
「ついでだったのよ。さあ、何がいいかしら。茶葉の香りから当てた者勝ち。そんな香り合わせはどう?」
「いいな」
ルティカンダの瞳がきらりと光り、こういうゲームが好きなのだろうと読み取った。
しばらくして、その紅茶葉の産地や製法まで言い当てた二人はそれぞれ気に入ったカップに指を通した。
「性格が香りの好みを表す物だけれど、それは必然的に心理状態でその効力を必要としているからなの。だから、時に人はその香りのもたらす効力の中毒や依存になりうる事があって、自身の抱えるそれらの悩みから開放されないことがある」
「へえ?」
「例えばカモミールが好きな人は不眠を感じる人で、その睡眠を促してくれる効力の虜になってしまうわ。リラックス効果のあるラベンダーは安らぎを求める性格の人が好むのか、食欲促進の働きのあるバジルは痩せ型の人が好むものなのか」
「なるほど」
「だから、時に香りに関る者は専門的なアドバイスが必要なの」
「ふうん……」
変わらずルティカンダは微笑んで優しく受け応えていた。美夏が少女の様にはしゃいで話す姿を見ることが彼にとってはうれしそうだった。
「ルティカンダの奥方は貴方の香りの抜けられぬ虜になるような方ね。どんな効力があって、どんな症状をもつ人が惹きつけられるのかしら」
「美夏ったら、また始まったわ。この人は一種、香り狂なの。ごめんなさい」
「はは。研究熱心だね」
苦笑する玲花が続けた。
「だから<神秘の香>の話もすぐに乗ると思ったら、この通り。今はもっぱら、貴方の香らせる花の香りと<神秘の香>で頭が一杯なのね」
「研究所では様々な薔薇の品種の香りの成分表を自分でも独自に作ってみたわ。新しい薔薇はどんどん生み出されるものだし、きっと尽きることは無いのよ。その人の好む薔薇の香りはその人のイメージに合うのかも研究していたの。人が好む色、香り、味覚で性格が分かれるものだから」
「ね」
「成る程。何かに一所懸命に取り込む子は好きだよ」
「貴方はどんな色や香り、味覚が好きなの?」
もう玲花は放っておいた。短く受け応えていたルティカンダもどうやら興味があるようだったので。
「俺は色は青紫や黒紫が好きかな。香りはナチュラルな物を好むし、味は淡白なものを選んでいる」
「それなら貴方の性格は混在した二面性があるのではないかしら」
ルティカンダはぱちぱちっと瞬きをして、微笑んでいた口をつぐんだ。
「冷静沈着にして美的感覚が優れている。少年時代は笑顔が可愛いらしい子だったとか。忙しいことはあまり好まないけれど、体が勝手に動く性質。動き出したらどこまでも行くし、脳裏では常に物事を客観的に捉える面もありながら、何より情熱的な面も兼ね備えた愛情の人」
「……えっと、うん……」
視線をそっと落としたルティカンダに気付かない美夏は話し続けた。
「その愛情を自分の美的感覚で当てはめようという心もあるけれど、それは心を許さなければみせない秘密主義者だし、一度開放されたら止まらないんじゃないかしら」
玲花が止めようとすると、丁度ホームに列車が流れ込む。
「駅だわ。美夏」
「さあ。用意をしよう」
ルティカンダが話を切り上げるようにトランクを棚から降ろして行く。
はっと気付いた美夏は視線だけで玲花に諌められて、恥かしさに顔を俯けた。そんな美夏に鞄を降ろし終えたルティカンダは可笑しげに微笑んでから言った。
「あまりにも言い当てられて、占い師かと思ったんだ。さあ、君のハンドバッグだ。行こう。お嬢さん方」
彼等は颯爽と歩いていった。個室には白い花の残り香……。
「ふふ。疲れた? ちょっと、怖かったんじゃないの?」
玲花はベンチに座るルティカンダに甘いお菓子を差し出して微笑んだ。
「はは。美夏はもしかして香りで人の性格を見抜くんじゃないかと落ち着かなかった」
「実はね……」と、ルティカンダが続けた。
玲花は向こうで馬車を待つ間に木々の枝葉を見上げている美夏を一度見て、ルティカンダを見る。
「俺の先々代が同じ様に不思議と白い花の香りをさせる人だったんだ。俺はどうやらその彼の若い頃に生き写しの様に似ているらしくてね。写真や肖像画を見ても自分で鏡を見ているようだよ。その人は立派な人で、様々な身分も持っていた。だが、裏では恐れられていた。二面性、というのか……思い当たる部分が俺にも存分に含まれているとしたらと思うと」
「………」
玲花は彼の横顔をしばらく見つめた。
途切れることなく、彼からは花の香り。決して甘くはない、神秘の……。
『ミイラの欠片』
美夏が言っていた。
玲花は多少腕をさすって自身の影を見た。
もしも、あのクリスタルの器に閉じ込められた何かの欠片が、彼、ルティカンダの先々代の神秘的な花の香った肉片だったのだとしたら……、と行き着いて、玲花は口さえ閉じられなかった。
見つかる筈もない。その本人は彼の口振りからは既に寿命を迎えたのだろう。
馬車を引く激しい蹄の音にびくっとして顔を向けた。彼女を白い花の香りがそれでも優しく包む。
彼にそっと手を取られ彼女は立ち上がり、馬車へと導かれていく。
<危険>を感じた。
何故だろう。素敵に微笑むルティカンダ。まるで悪魔のように弱みを見せて、そして誘ってくる二面性を持つかの如く、その迎えの馬車は恐ろしいものに見えた。
美夏がやってきて、鞄を持ち上げる。
玲花はまるで罠に嵌る子羊たちのように、美夏は気付かないまま、玲花は恐怖を背筋に冷たく感じながら抗うことも出来ずに馬車のステップに足を掛ける。彼女達のサイドにいて陽を背に立ち影が降りる怜悧なルティカンダの横顔を、ちらりと上目だけで見上げる。
「………」
あの香水舘で、彼は狙っていたのだわ。こうやってあのクリスタルの器に秘められた香りに導かれる人間を。自身の香りに惑わされる蝶を。こうやって連れ去ろうとしている。
目を覚ますと、そこは見慣れなくて薄ら寒い場所だった。
美夏は首を傾げて強張った体をさすれないと気付いて、顔だけを上げる。
石の台に寝た自分。拘束されていた。
横の石台には、玲花が眠っている。髪で唇しか見え無いけれど、ゾクゾクする程色っぽくて、そして美味しそう。
いつでも綺麗な人だと思っていた。さばさばした風と、優雅さが不思議と混ざった玲花。多少好意を持っていた。玲花自身には言わない種類の好意だったが、今はそんな壁など要らなく思える空気が漂う。
美夏は彼女の初恋相手を思い出す。淡い恋は実る事はなかった。相手は異性が好きだったから。そしてそれは玲花も同じだった。
もがいていると、手首の拘束が解けた。背に目を向けると、それはシルクのスカーフ。
ルティカンダの首元を飾っていた黒のスカーフだった。
固い場所で寝ることは慣れていないので、均してから体を起こすと、そのスカーフを手に取った。ふわっと、あの神秘的な白い花の香りがする。美しくて、そして神聖な……悪魔の薫り。
美夏は狂気の心が静かに目を覚ましたようで、そのスカーフを手にしたまま玲花の前まで来ていた。繊細な香りをより分けてきた感覚が告げる。なんと魅力的なのだろう。
玲花の首元を花の香りのシルクで飾っていた。細い細い、白い首を。頤が反らされて目元だけを玲花の髪が隠す。眠ったまま。夢でも見ているのだろうか。
台に手をつけて、顔を近づけた。この花の香り、なんて人の体に合うのだろう。
彼女は口を開け、玲花の首筋に近づき、噛み付いた。
歯に首の筋が当ってガガッとずれ、肉と薄い皮膚を共に噛み込んでいた。しかし、所詮は人の力、噛み切れはせずに歯がぶるぶる震えてシルクに透明な唾液が流れる。
一度唸ると、歯を外して小さな歯型がついた玲花の首筋を見つめた。まるで自分が少女になったように高揚する風情だった。
「美夏」
声が響く。ルティカンダの声だった。
「貴方はヴァンパイアなの?」
玲花の首筋を間近で見つめたまま美夏が言った。まるで蜘蛛のように黒く丸い瞳で見つめている。四肢で玲花を今にとらえんとするかのように。
「古い祖先からね……人の血肉を好んできたそうだよ」
美夏は脈打つ白い首筋から、ルティカンダを見た。着崩した白いシャツに、黒いベスト。紳士パンツ姿で、今しがた美夏が拘束されていた台に腰を降ろした。それには鉄枷のついた鎖が黒蛇のように渦を巻いている。
「その花の香り……、分かったの。あのクリスタルの器の欠片に似ている。貴方は香りで人を誘き寄せて、そして餌食にしていたのね。そしてその香りにはもう一つ、周りの者までをも血肉を欲させる効力がある。まるでフェロモンを発する食人花のような人」
「その事を、先々代は思い悩んでいたようだけれどね……。俺は自身の欲望を抑えることは好きでは無いんだ。普段はこの香りを隠す為の香水を調香させているんだが、君達からは甘美な香りがして狙っていts」
「好みでは無かった人には協力してはこなかったのね」
「俺にだって好みき嫌いはある」
ここまで来たので美夏は警戒し、そこでいきなり玲花が背後で起き上がり肩でどんっと美夏を背後に行かせて彼女の盾になってルティカンダを睨み見た。
実は噛まれた時点で痛くて目覚めていた。様子を覗っていたのだ。美夏の手が玲花の腕を持ったまま強張ったので危険を察知して起き上がったのだ。美夏は即刻玲花の手首の拘束を解いた。
ルティカンダが太股にベルトで括り付けられた短剣をそっと手にしたので、二人は途端に手を取り合って走って行った。
「逃げるのよ! 美夏!」
玲花がぐんぐん手を引っ張って走り、美夏の方が足が速くて玲花は二度見した。彼女も必死で走り逃げて行った。この人食い館から逃げ出さなければ。柱が立ち並ぶこの広い石の空間の向こうにアーチ柄の黒い観音扉。それを必死に開けて振り向くこともせずに暗い廊下を走る。
「ねえ! 罠だったの?! あの老婆も」
階段を駆け上がりながら言う。
「分からないわ! それは老婆の旦那さんしか知らなかったんだわ! きっと、美味しそうな人間を今までルティカンダに引き渡していたのかもしれない」
息を弾ませながら言い、走ることで視界が乱暴に揺れる。とにかく広い建物で、どこもかしこも石で出来ている要塞のようだった。
玲花も美夏も立ち止まる事すら怖くて走って行く。アーチ状の間口が並んだ廊下の先は月が綺麗な夜が広がる。風が冷たく流れ込む。外へ出られる間口を見つけた彼女達は我を忘れたように走って行った。
そして庭に抜けると森に囲まれた場所だと分かった。走って行く。
森の入り口に差し掛かる。振り返った……。
「………」
テラスの欄干に手を掛けて、彼が白い月光に照らされ、逃げていく彼女たちを見下ろしている。
あまりにも、ぞっとする美しさで、見つめてきているその能面は、悪魔そのものに感じた。
「ええ。まるでドラキュラみたいだったわ」
「また可笑しな土産話しをお持ちね」
「あら、それなら、毎回彼は餌を捉え損ねていたのね」
「俺はね……」
「きゃ!」
香水舘。老婆から顔を上げて肩越しに見上げると、またあのヴァンパイア……かは分からないルティカンダが彼女たちの座るアームチェアの背もたれに革手袋の手を当てながら言った。
「恐怖に震えるときの香りが好きなんだ」
「変な人!」
美夏が心臓部を抑えながら言い、首を傾げた。今日はすずらんの香水が香るルティカンダを見上げた。肌も極力覗かせないかのように嵌められた黒いグローブ。
「また可笑しなことを言って、この子は」
老婆は毎回、ルティカンダや土産話を持って来る者達の言葉を信じてもいないようだった。
「こんにちは。香水を新調したい」
背後の小さなドアが開き、紳士が入って来た。
彼等は振り返り、老婆が言う。
「まあまあ、いらっしゃい」
紳士がカウンターまで来ると、ことんと男性的な黒い香水瓶を置く。
「本日はどういった香りになさるの?」
「そうだね……」
紳士は香源の材料が入る透明な瓶を見回す。そこから抽出されて混ぜられるのだ。
「あれ。この器は何かな。何かが入っているようだけれど……ちょっと、拝借しても?」
「ええ。よろしいですよ。誰もまだその香りの正体を当てたことはないんでございますよ」
玲花と美夏は、微笑む老婆の差し出すクリスタルの器の動向を目で追った。それは、紳士の前で蓋が開けられ、その向こうにただじっと、狙いを定めるように無表情のルティカンダが男を見つめていた……。
オリエンタルにしてフローラルなその香りを秘めて。
翠煙の森
緑蒸すこの森の深くには、神聖に保たれた空気が存在する。
岩場を縫った木々の間から霧が充満し、動物たちが姿を隠す翠煙の森。
その先にある羊歯の密集する岸壁の洞窟には水が滴り潤う。そこから流れるせせらぎは泉を森につくり、水煙を流れさせ森の風景をさらさらと映している。
白い頬
僕はあの少女のことを思い出すと、心が弾んでつい焦ってしまう。
まるで鼓みたいに。
僕の心を高鳴らせるために、手の平ぐらいの太鼓叩きがバシバシと左胸を打ち鳴らして来るみたいだ。その鼓で臍の辺りに隠れている白狐や般若のお面をつけた者たちを呼ぶつもりだ。ドクドク脈打つ左胸の周りを、彼等が踊り回るために。そうやってこの心音を加速させるんだ。
これが恋の乱舞、愛という名の悦びの舞なのだろうか。
夏祭り。絢爛な屋台御輿の間で微笑み振り返ってきたあの子。
紅い鳥居が堆く、その左右奥には金襴御輿が光っていた。少し見上げれば夜空は星がきらめいて、その下を堤燈が並び揺れて柳並木の下を露店が並んでいた。
その露店では普通の縁日では見られないような物が売られている。白に淡い青緑色の袴姿の露店の人たちは誰もが神秘的な顔をして、目元は崇高だ。まるで柳から憑依した者達みたいに。
その間を風が流れて来て、爽やかな、そして甘い香りを漂わせた。それを振り返った女の子の印象にした。
彼女はオカッパ頭を揺らして、白い頬を青、緑、白の堤燈が染め上げた。毛先がふわっと黒い影をその頬に落とした。蓬色(よもぎいろ)の帯も、縞模様の浴衣も、全てが揺れる緑色と青と白い堤燈に映えた。青ざめた様に見えた頬を、笑顔が純粋なものにした。それは、夜にひっそりと咲く白い花を少女にしたみたいだ。
『京太郎くんは、このお祭初めてなんでしょう?』
『うん』
僕はずっと視線を落して青白い光と影が揺れる足許を見たり、さらさらと音を立てながら幽玄に揺れる柳の先の闇を見たり、飾られた御輿を見たりしていた。それで、回りながら歩く彼女の蓬の葉みたいな絞め帯を、ちらりと見ながら歩いていたんだ。
僕の短い丈から出る真っ黒く陽に焼けた脚も、下駄も、彼女と全く違った。
この刈り上げた頭に斜めにかけたおかめのお面も。彼女の頭には鬼の仮面が乗っていた。「何で真逆を買うのだい」と露天の人が可笑しげに、上品に笑った。
分からない。何でだろう。ただ、僕はこの姿で彼女とずっといたかったから、アヤカシを現す鬼ではなくて、全く逆のおかめを手に取っていたんだ。そしたら、面白がって彼女は鬼のお面を手に取って僕ににっこり微笑んだ。
そして二人で歩いていった。青や水色や碧色が揃う水ヨーヨー、白い鳥ばかりの飴細工、黄緑色の鼈甲飴、黒い出目金釣り、涼しい草木の絵付けされた団扇屋、季節の野花が和紙に閉じられた手持ち行灯屋、青い硝子のビードロ……。
『このお祭は、草や花や野に咲く薬草を祀っているのよ』
『変わってるんだね』
少女は名前を名乗らないけど、いろいろな事を教えてくれた。どんな薬草にも詳しくて、この先のお寺に奉納されるそれらの由来も教えてくれた。
『草の神様?』
『そうなの。私ね、薬草のかおりって大好きよ。お姉さんも妹も爽やかなかおりが好きなの。よく風に吹かれているとね、青空の蜻蛉が教えてくれているみたい。季節の訪れや、去り行く時間を』
少女が僕の横に来ると、僕がもう泣いていないから微笑んだ。
さっき、鳥居の向こうに咲くような露天に笑顔になって走っていて、足許を見ていなかったから、鳥居の前の階段で転んでしまった。その時、縁日に来るまでにたくさん見つけて一緒に持って帰ろうと袂に入れていた茶色くて僕そっくりのマツボックリをいっぱい転がしてしまって、痛くて泣いていた。
その時、僕を引き起こしてくれたのが彼女だった。
それで、一緒に手を繋いで階段を上がると『一緒にお祭を回りましょう!』と、絢爛な御輿に囲まれて振り返って笑顔で言ってくれた。そのとき、生きてきて始めて心が躍った。
それから、僕等はお面を買って露天の間を歩いた。
露店の先の神社に来ると、乾燥した薬草や生の新鮮な山菜、可憐な野花がそれぞれ奉納されていた。風の香りも、神社に飾られた香草が香って来ていたんだ。
楠に囲まれた社には、白と黄緑の草木染めがされた幕が掛けられている。社の内側では、淡い黄緑色の袴の巫女達が玉串や大幣(おおぬさ)を持って、連鈴をしゃんしゃん鳴らして舞っている。薬草を載せた神榊台を囲い弧を描く様に。長い黒髪がしゃんという音と共に揺れて、つと伸ばされる足袋が影を引く。
『人や動物は、薬草の力を神秘の力ととって自らの滋養に変えるのよ。私はその素敵な役目を担う草達を誇りに思うの』
女の子が優しい目で薬草の束や舞いを見詰める横顔に、僕は見惚れた。堤燈の明りの届かない場所で見る彼女の頬は、なおのこと白くて、それでも瞳の光の強さはそこはかとない彼女自身の愛を感じる。
何もかも初めてだった。僕がこういう姿で出歩くのも、他の植物のための祭に出るのも。
少女と別れて、すぐにでも思い出す彼女の笑顔。
僕が少女を化かしているみたいだけど、もしかしたら彼女だって何かの化身かもしれない。鬼のお面を被ったおちゃめに微笑む姿が浮んだ。それなら、少女はどんな草の化身だったんだろう。
僕は夜空を見上げていた。細い葉が針のようにいくつも天の星座を突き刺そうとしている下で。柔らかい地面の上で。
今はもう京太郎の姿じゃない僕は、元のマツボックリに戻っている。
他のマツボックリ達が、僕に話し掛けた。
≪今日はどこまで子供に蹴り飛ばされてきたの≫
≪祭の縁日≫
すると、うねった幹が黒い影になる松の木が落ち着く声で言った。
≪よく戻って来たね。普通なら、どこかに蹴飛ばされたままになったり、どこかの御宅で飾られたりするのに。ここからはようくそれが見える。縁側から、いろいろな所から持っていかれたマツボックリが和紙の着物を召して飾られてたりするんだから≫
僕は松を見上げた。
≪少女が戻してくれたんだ。きっとその時は、松のおじさんはカラスが針葉の上に巣を作って羽根をばたつかせていたのを見ていたから、女の子と一緒に戻って来た僕のことを見ていなかったんだね≫
≪ハハハ。さっきまで騒いでいたカラス達も、今はようやく落ち着いたんだろう。巣で静かに寝ているよ≫
僕はまた星を見る。
この星明りに照らされたら、あの少女の頬はもっと白くなるのだろうか。今も、どこかで草に白い星明りを乗せて光っているかもしれない。そして、僕達みたいに他の草たちと会話をしているのかもしれない……。その時、「その男の子に恋したのよ」なんて言っていてくれたら、どんなにうれしいだろうか。「京太郎くんと言ってね、まるでマツボックリみたいによく陽に焼けた男の子」って。
『京太郎』。咄嗟に思いついた名前だった。僕等には本当は名前はないけれど、以前僕等の仲間を蹴って行った男の子が呼ばれていた名前だった。『京太郎、ご飯よ、帰ってらっしゃい』って。そして松のおじさんの見下ろす何処かの家へ、ヒトの「京太郎」は帰って行ったんだ。
きっと、あの少女にも名前は無かったんだろう。
あの子の前で泣いていたこと、恥ずかしかったな。マツボックリの時なら痛くないんだ。でも、時々子供と遊びたくなると、子供の姿になれるんだ。だから、転んで痛かった。けど、それだからあの子に出会えて、うれしかった。
僕の小さな恋のお話。
蓬の葉が密集するとある一角に、鬼のお面が落ちている。今はそよ風が草を撫でる。囁き声のような音が聴こえる。それは草たちの声だろうか……。まるでそれは優しい葉擦れの音で、乙女達が語り合ってでもいるかの様で……。
青の処
白い鳥が心から羽ばたいていくように、それらがどんどんと夜の空を埋め尽くして朝にしていった。そして染め上げていく頃には、青い鳥となって昼の爽やかな空へと変えていく。
夢で私たちはそれを見上げて、ぽっかり空いた胸のあたりを笑顔で押さえて太陽を浴びている。
白い鳥を放ったなら白い服を。青い心を放ったなら青い衣。
黒髪が風に揺られて、この風は誰の紡いださみしさだったろう? この一陣の風は誰のつぶやく愛だったろう? それらが解放されて、今はその誰かは空を見上げている。
足下を見ると草がそよいで、いろいろな季節の野花。
季節には、それごとに、つくし、露草、アザミ、
続く
秋の雨
秋の雨
晩夏。
しとしとと降り続く雨は、緑の木々を優しく打っている。その柔らかな音は、ずっと聞き飽きることはないの。
畳に伸びる影。空は曇りで、重く垂れ下がっている深い色の雨雲。一面に降り注ぐ優しい雨は、今も彼の頬を打ち付けているかしら。
彼、九松さんは雨でもかまわなく出かけていった。
花や植物、それにこの辺りの水に由来するものを意気揚々と研究している人で、昆虫や小動物にも詳しい人。
蘭学を学び始めてからというものを、いろいろ研究というものに興味を持ち始めたみたい。
彼が少年の頃に良くしてもらっていたオランダ人の学問者ルークさんのことを慕っていて、ちょっと心では妬いてしまう。
ルーク・ドゥ ヨングさんはとても立派な明るい色の髭を蓄えた男の人で、大和語の達者な人だった。
戸口よりも背が高かった。いつでも十歳だった少年の九松さんに手を引かれて走ってくると、寸出の所で屋敷の間口を壊しかけて、欧州衣裳の腕で九松坊の胴を脇にすくい上げ、帽子頭を下げて入って来たわ。秋には秋の染め模様の暖簾を潜って、深緑の目の笑顔をのぞかせて。
毎回、ルークさんが黒いビロウドの上着ポケットから私のためにと可愛いらしい花を出して、手渡してくれる事と来たら、頬を染めてしまって仕方なかったのよ。
私はルークさんに憧れていたから、九松坊やが彼を困らせて懐いてばかり居るのを少しばかり妬いていたのよ。けれど、こちらときたらまた十四歳の少女だったし、ルークさんはただでさえ二十四の大人なお人。
今では、少年だった九松さんは二十歳の立派な大人になって、このお屋敷の婿養子。
ルークさんはお勤めをおえて五年前オランダへ戻っていって、今はもう三十代を謳歌してるのでは無いかしら。絵画もたしなむと言うから、あちらのお国を描いて過ごしているかもしれない。一度は西洋へ行ってみたくて、焦がれてしまう。
まめな所があった私だから、ルークさんからもらったお花の一つ一つをしばらく飾って、それで今でも押し花として和紙に閉じこめて、今のこの座敷の障子下方を飾っている。それを一撫でして、雨の情景を見た。
ぴしゃぴしゃぴしゃ
音と共に、霧煙る向こうから影がやってくる。
九松さんが帰ってきた。
蓑と笠をかぶった彼が頭を下げながら走ってきた。
一度お天道さまのように私に笑いかけた。
そして、格子の向こうへ走っていった。
随分して顔を向けると、九松さんは手ぬぐいで顔を拭きながら入ってくる頃には蓑も笠も納屋に掛けて、着物の裾をおろしていた。
「やあ、見てくれよメイ。この草は羊歯の変わったかんじだよ。須田乃縁の近くで見つけたんだ。亜種って奴じゃあないかな。その辺りだけ一種変わった風のが生えていたんだ」
「本当、模様がついているのねえ。ここの辺りのは、山のも川近くの林のも、緑一色だものね」
「ルーク殿の話では、羊歯は何百も種類があるっていうから、これもきっとその一つ」
「ふうん。けど……、あら」
横に並んだその模様は、しっとりと雨に濡れた羊歯の裏でざらざらとして、模様と言うよりもちょっと様子が違うみたい。
「これは何かの卵ね」
「ええ?」
まじまじと九松さんは羊歯を見る。
「ふふ」
もう少しは頼りある風だともっと惚れるのに、間抜けた声で羊歯を見回して、私を見つめるより必死に確かめている。
けれど、こうやってよろこんで子供みたいに植物を持ってきたり、お天道のような笑顔でやってくると、落ち着き払ったルークさんとはまた違う大切さを九松さんには覚えるの。
つい、可愛いのですねと男の人に言ってしまいそうになる。『子供扱いはいけねえや』と年下の彼をいじけさせるから、私は微笑んでいるだけで訪ねた。
「どう? 何の虫の卵かしら」
「葉の裏に密集する奴に似ているねえ。きっとあの辺りに住む奴らのかな。いろいろなのが居るから、きっとこれらは目を覚ましたら羊歯の栄養でもとって成長して、さなぎになって冬を越えたら何かになるんだ」
こういった曖昧な所もなんだかおかしくって、私は頷きながら一緒に見つめた。
「しかし、こいつらはきっと羊歯が地下茎と離れたから持たないかもしれない」
私は歩いていくと、一輪挿しをもってやってきた。
「挿しておくだけ挿しておいてみましょう。植物だもの、栄養はないけれど、水分があれば少しはもつわ」
彼は笑顔で頷いて羊歯を挿した。
少女の時から使ってきたお気に入りの一輪挿し。
これは九松さんが蚤の市でいきなり買ってくれた。『ルーク殿がおまえに神のご大切みたいに花をあげているから、これが必要なんじゃねえかって』だなんて言って、私にばっと差し出してきた。きっと、この彼と将来をともにするんじゃないのかしらと、その時は思ったの。
「メイ! 文が来たよ!」
よく晴れた日の山は錦の様に色とりどりに美しくて、秋こゆる空の深い色は心にしみる。九松さんが駆け込んできて、私にそれを見せる。
まさか、文をびらびらと広げたまま走ってきたから、さっきは棚引く雲みたいに真っ白くて目を細めていた。
私の膝に文を広げると、それはジパング人よりきれいなのではと錯覚する文字でしたためられていた。
「ルークさんがいらっしゃるの」
私は驚いて文を何度も読んだ。
九松さんがうれしそうに何度も頷いていて、飛脚からルークさんの文字を見た途端、奪い取って走ってきたみたい。
「ほら、これは半年前の文だよ。だから、もうこの国にいて、すぐにでも来るに違いない。おまえは懐いていたものな。ああ、懐かしいなあ」
九松さんが腕を組んで天井を仰いで、涙ぐんでそれを拭った。
「まあ、九松さんったら、早いのね」
「だって、うれしいじゃないか。もうあれから十年も経っているんだよ」
「ええ、ええ。本当に」
きっとまた何かの研究のためにやってくるのでしょう。はるばると船に乗って多くの海を越え、オランダの地から大和へと。
胸が高鳴るとはこういう事で、私の伸びた背は少しは彼に近づいて、ルークさんはあの頃と変わらないままの素敵さ。
私を見ると颯爽とやってきた。まっすぐと。
「まあ、ルークさん」
「メイさん」
黒い衣の長い腕が伸びて、私は強く抱きしめられた。
息が止まるほど驚いた私は、しばらくオランダ衣裳の肩に顎を乗せたまま固まった。こんなに強く抱きしめられたのは九松さんだけだったから、ルークさんへの激しい恋心をどうしたらいいか分からなくて脳天が真っ白になった。
「会いたかったです。とても、美しくなって」
私も二十三ときたらもういい年の女ですから、まさか美しいだなどと言われて胸の鼓動が抑えきれずに困ってしまって……。
「ああ、ごめんなさい。僕は貴女をいきなり抱きしめてしまって。オランダでもこのような無礼は婦人にはそうはしないのです。しかし、逸りを抑えることなどはとても出来ない」
ルークさんは手を握って、私に言った。
「とても好いていた。僕と、オランダへ来てくれませんか」
「えっ」
ガシャン、と何かが地面で壊れた音がして、咄嗟に後ろを振り向いた。九松さんが、ずっと『ルーク殿に見せるんだ』と言っていた薬草の壷を落とし割ってしまっていて、瞬きを続けている。
「九松」
ルークさんが驚いて「怪我はないかい」と駆け寄っていった。
九松さんは俯いて拳を振るわせて、走って行ってしまった。
「九松さん!」
ああなると九松さんは町一番足が速くて、夕方になっても見つけられなくて私達は山で途方に暮れてしまった。
「山小屋がありますから、行ってみましょう。いるかもしれないし、夜は狼や猪が多く出歩くと思いますから」
提灯を揺らして頷き、歩いていく。狼の遠吠えが月に静かに聞こえる。それは心に沁みる声。
山小屋はこの奥にもいくつかあるから、九松さんもどこかにいると思うけれど、やはり不安だった。
小屋は無人。いろいろな山道具が並べ掛けられている。提灯から蝋燭を出して二つ並んだ。
私はルークさんと二人きりで無言になってしまって、床に座りながら静かに夜の獣達の声を聴いていた。
まだ、「私は九松さんとすでに夫婦の仲なの」と言えずにいて、こわばった口さえ動かせない。
恐る恐るルークさんを見ると、彼は微笑んで腰元の水筒を出してくれて飲み物をくれた。
「沢の水ですが」
「まあ、どうもありがたいです」
歩き疲れていたからさすっていた足首から手を離してそれを頂いた。
土間に降りてルークさんが私の足袋の足をさすってくれて、私は「まあ、よろしいのです」と遠慮したけれど、「お疲れでしょう」と甲斐甲斐しくしてくれたから、疲れが和らいでいった。
「ごめんなさい。九松さんはまだ、子供っぽい所があるから一度いじけ虫がつくと山を出てこないかもしれなくて」
「僕が悪かったんです。僕は……」
Ik hou van jou,Ik wil trouwen Mei,Kom naar Nederland...
何かオランダ語でルークさんが言ったから、私の足を撫でてくれているその帽子の頭を見た。鍔の広い帽子を置いて、ルークさんが私を見た。
「………」
「貴女が許すのなら、」
ぴかっと言う音。私はそれでも彼の目から目を離せなかった。
雷鳴が轟いて、突如強い雨が屋根を叩いた。バババババという音を小さい小屋に響かせて、私はもうルークさんの声がそれで紛れて聞こえなくなって、うつむいた。
横まで来たルークさんの口元をみる。十年前とは違って、口の上だけに整った髭が細くあるだけ。昔『紳士は成人したら大人の証で髭を蓄えるから、十代のように若く見える僕はこうやってたくさんはやしてるんだ』と言っていた。元から若く見えるから年齢も変わって思えないのね。
私は秋の雨の勢いを知っている。ただただ彼の目を見つめてから心を偽ることに必死になった。これ以上ルークさんに心を奪われてはいけない。初恋の相手でも。
余りに強い雨風は周りに大木がたくさんある山だから、それらに風をしのがせていて案外平気なもので、それでも山を下った町では大変でしょう。しかと戸締まりをしてしまわないと、風にとばされてしまう。九松さんが羊歯を取ったという縁下の川も激しく流れる。幸い、川の水が氾濫するような所に町は無いからいいけれど、九松さんのことが心配だった。
その風は数刻して、すっかり雲を連れて行ったのか雨音は遠のいた。
私はずっと手を合わせて九松さんがどうか無事なようにと願っていたから、肩の強ばりを降ろした。
格子を開けると、木々の間に見える空は星。
「まあ、雨が止んだ」
私はあつらに座るルークさんを振り返り、そして頬を染めて俯いた。
くっきり星明かりで明るくなった場所で見る姿がやはり落ち着き払っている。今し方、蝋燭が尽きて消えていった。外套も向こうに掛けられていて、長い足を解いて彼が立ち上がる。
彼が歩いてきて、微笑んで何かを出した。
「望遠鏡」
彼が頷くと、一緒に星を見た。
「貴女が願っていたからきっとお星様は願いを受け入れてくれている。九松は無事のはずだよ」
私はそこで、無事を思うと本当に安心したくて涙がながれかけて必死に抑えて頷いた。星はきれいに瞬きをしていて、優しく言ってくれるルークさんは私に触れないようにしてくれていた。
さっき、顔を染めてどついてしまったから。腰を抜かしてしまった私を咄嗟に謝りながら起こしてくれた。一瞬、心が張り裂けそうになった。蝋燭に揺られる雨風の小屋で腕を強引に引っ張られて。
「私も……好いているのです」
星明かりが射して、口だけで言うと、うつむいた目元が滲んだ。
九松さんが心配なのと、ルークさんが好きなのと、その心がせめぎ合い葛藤して肩がふるえる。
秋の虫の音が、一時さわさわと鳴ってから、夜もまだ深いと気づいたのか、合唱は成りを潜ませていった。
九松さんが帰ってきたときは、町の人が呆れかえるほどぼろぼろに泥にまみれていた。
「ああ。足を滑らせちまってよ、そこにいた猪が必死に掘っていた穴に落っこちちまったのよ。
そしたら猪、俺に気づかず土掘りまくって俺は埋められるんじゃないかって泡くってさ、俺の横に猪お目当ての山芋があるんだよ。それをひっつかんで腕を上げて、見えるか見えないか分からないが猪に見せてから遠くに投げたんだ。そしたら見えるわけ無くってよ、確か鼻が良いだけだったか、俺に気づいて追いかけて来てさ、必死になって大木によじ登って難を逃れたが猪ときたら木の幹に頭をぶつけて威嚇してきやがる。
俺は木登りにかけちゃ一丁前だから、太い枝に掴まって奴が諦めるまで待ってたらよ、狼の声がした途端に猪も辺りをぐるりと見て、音も立てずに茂みに突進して行ったんだ。ほっとしたのも束の間、木の下を狼が三匹ぐらいで通っていって俺は身を潜めてたから、通り過ぎていったんだ。狼は神経がしっかりしてるからな。勘が鋭くて俺は音も立てなかった。
それでまた一人になったと思えばいきなり稲光が走って雷神様がよ、男らしくねえいじけた俺をお叱りの勢いで雨風を俺にぶつけやがる。かぶった土が泥になって染みこむし、雨打つ肌は痛いしで目もすぼまるし、体は冷えるしで、必死になって幹と枝の丁度いい案配の所に掴まり収まって、さすが大木だから揺れずにすんで大野次が行きすぎるのを待ったんだ。
で、俺の目の前を嵐の灰色と共にいろいろ飛んで行くんだな。真横になって。鳥がばさばさびーびー鳴きながら二尺ばかり先の巣と一緒に飛んで行ったり、いろんな染まった葉っぱが紅とか黄色とか橙色でそこだけ彩って飛んでったり、それに紛れてルークのすっとこどっこいも飛んで流れてやこねえかって思ってたらよ、俺の顔にびしっと大きな葉っぱが覆い被さってきやがって仏様が叱ってくる。
必死にはぎ取ってよ、きっとこれじゃあ奴は無事で、今頃かわいいメイと共に俺をぬくぬくと家で心配して待ってて、あったかい汁でも用意してくれてるに違いないって思ってよ、大木降りて帰ってきたわけだよ。
そしたらあの猪、まだ俺を諦めず求婚の勢いで追っかけてきて俺をどっかの球根かと勘違いしやがるんだな。そんで俺は泥に転びながらいかつい山娘から逃げてきたってわけよ」
と、真横のルークさんも含めた近場の人達に呆れ笑われられながら言って、九松さんは泥まみれの肌を手ぬぐいで拭う。
「良かったじゃねえか。猪に球根頭引っこ抜かれなくて」
「安心したわ。九松さん。良かった」
「おう。ようやく雲がどろんどろんと流れて一気に天をのぞかせ始めて、そしたら星がきらきら大層明るいんだ。なんだかおまえの顔が浮かんで、いきなり涙ぐんじまったよ」
ルークさんと顔を見合わせて、くすりと笑って九松さんを見た。
「それは良かった。祈りが通じていたのね」
ずいっと九松さんがルークさんを見た。ルークさんは瞬きをして九松さんを見た。
「ちょっと来てくれ」
私はルークさんと共に手首を引っ張られて間口に入って行った。
しばらく九松さんは私を見ていた。じーっと、穴が空くぐらい見ていた。私もその瞳を見ていた。
なんと、一刻ばかりも彼は黙って私を見続けていた。
ルークさんが動こうともせずにいるのを、九松さんは胡座の膝に掛けていた手を離して、腕を組んでそっぽを向いた。
「これ以上預からないぞ」
「………」
九松さんが耳を真っ赤に言う。今に泣き始めるときなのだと分かっていた。それを耐えている時、耳が真っ赤になる。
「どうせおまえ、ルークが好きだったんだろう」
「えっ」
私は九松さんの反らす顔を見て、口元を抑えた。
「今じゃ、俺のめちゃくちゃな知識でちょっとはこいつの事、研究に詳しくしといたからよ、ルーク、とっととメイなんかオランダにでも連れてっちまって良いんだ」
ボロボロ横顔が涙を流しながら言う。
「ちょっと気がつかない点もある奴だが、向こうでも何かあんたの力にでも励みにでも助手にでもなれるぐらいにはなってるだろう」
九松さんは私が口を開く前に、まるで嵐のように裸足で走っていってしまった。
「ま、待って、九松さん!」
すでにまた山の方へ秋晴れの元を走っていってしまって、ただただ空を鳶がぴゅーろろろ、と旋回している。鹿の高いきゅーうという声が響き渡って、私はおろおろとして涙があふれて、ルークさんが肩に手を当て落ち着かせてくれた。
「これはあいつの駆け引きかな」
ルークさんが何かを言って、友禅を召したような山錦から私を見る。
「僕は正直に言うけれど、貴女を迎えにやって来た。婚姻を結ぼうと、十年を待っていたんだよ。向こうでは僕はもう認められた身分もあるし、九松を助手に、貴女を妻に迎えるために、はるばるやって来たのです」
「なんだって!!」
私は驚いて障子のある方を見た。明るい外へ続く座敷奥の障子は九松さんの影。今回ばかりはぐるりと回ってそこに居たみたい。九松さんが駆け込んでくると、ルークさんの肩をぐらぐら揺らして叫んだ。
「三人の事情がこんがらがってもか! 俺はメイと結納を済ませているんだぞ!」
ルークさんは困惑して言った。
「ジパングとオランダは、キリシタンと仏神崇拝をしている。重複した婚姻は結べないだろうね。エジプトとは違うんだ」
「えじ、ぷつ?」
ルークさんは九松さんを落ち着かせて、横に座らせた。
「君たちを夫婦として……オランダに連れて行っても構わないんだ」
深酒をしていたルークさんが、蝋燭に揺られている。
既に九松さんは座敷に転がっていびきをかいている。
私は頬を染めて、ちらりとルークさんを見た。
黒ビロウドの上着を向こうに置いて、白い薄手衣の片肘を畳について横ばいになり、長い脚を横たわらせている。その釦の外されのぞく首もとも、肩も、金髪も、緑の透ける目も灯される。蘭物の琥珀色のお酒を硝子器で揺らし傾けて、蝋燭が照らす。
ちらりと、鋭く強く……、彼の上目が私を射抜いた。
なんという目力だろう、心が荒波をひっくり返して囚われる。私は咄嗟に目を反らして、瞼に彼の野性的な眼差しが焼き付いて身を焦がす。
心は灼け尽くされてしまう。危険をはらんだ想いのもつれ合いが続くのだわ。キリシタンの彼は結納を済ませた私に手を出すことは無いでしょうし、私もそんなことなど出来はしないでしょう。
だから、視線はいつでも、どこででも、向こうの国ででも、お酒の力を借りてでも強く一瞬だけ向けられて、一生叶いはしない大切な心の牢に私たちは三人囚われて、その坩堝の内で脈打ちながら生きていくのだわ。
十年前は見せなかったルークさんの恋情の強いまなざし。囚われてしまいたくなるそのまっすぐな好意。
触れてしまえば、いけない感情。それを持て余し続けるのでしょう……。
「メイさん。遂げられてしまえば……」
畳に視線を静かに落とす彼の横顔を見つめた。
「冷めるものと心に言い聞かせた方が、いいのです」
「わかっております……」
私の声は震え、それでも垣根のないこの場所で、涙が落ちたと共に黒い影を落とし伸びた腕に包まれていた。
彼の胴に衝突し乗って抱きすくめられて、すぐにわかった。冷静に見えて深酒は彼を既に酩酊させ、なんの心の格子も取り払って今、ただ純粋な十年間の愛だけを互いに交わそうとする。
私もルークさんを好いているわ。九松さんには悪いと何度だって思っているけれど、結納を済ませたってずっと忘れられずにいた人だから。
涙が白い薄衣に落ちて、ただ、ただ私は心を白くした。
*
九松は呆然としていた。
彼がいるのは丘の上。
あんな浮気事を見てしまったのでは、世間の目も冷たくなるだろう。メイを追い出す形でルークに任せて、大和の国から船に蹴り入れた。蹴り入れたのはルークの背だけだが。
海を船が帆に風を受けて走っていく。
九松はわかっていた。はじめからルークからメイを奪い返すつもりでいた。幼なじみで好きだったのに、余所者にメイを奪われるぐらいなら、自分も草に詳しくなって博識のルークみたいにメイに認められたかったが、結局それは回り灯籠と同じ様なルーク投影というだけ。自分は体力こそはあるが他の勉強も数学も不得意で、だからってメイを思う心は負けてなんかいなかった。年齢なんて関係ねえ。年下だからって、関係ねえ……。
女の心がそこでどう出るかだ。これは九松の賭でもあったんだ。
きっと、もうメイは帰って来ないんだろうな。
メイにはいろいろな草を見せておいたから、恋敵といえど少年時代から尊敬していたルークの役に立ってくれるだろう。あとは自分が羊歯の卵も枯れさせないように育てて、いつかは孵化と共に心切り替えてメイと恋心を諦める他無いんだ。だが、オランダとジパングの草は違うんだぞ。また基本は分かったろうから、ルークから学び直せばいいんだ……。
「畜生……」
ボロボロと涙がこぼれる毎に海が鮮明に現れて、船がくっきり現れる。
「ばかやろー!! 二度と帰って来るんじゃねー!! 達者でなあー!!」
まるで御仏の心になっちまったわけでは無い。はじめから分かっていたのだ。それを、いつか迎えに来るならとしあわせな猶予を与えられていたと思って、今の気持ちを誤魔化した。本当はルークを蹴りつけても足らないぐらい悔しいし、くれてやるつもりなんか無かったし、メイがはじめてあんなきれいな微笑みをルークに見せなければ、九松は諦めもつかずに彼女を放しはしなかっただろう。
割れた壷から拾って集めた薬草、腹に利いたり滋養にいい草をルークに押しつけ渡して、メイが知らない土地で腹を壊しても、心が疲れてもどうにかやっていけるように言って送り出した。蘭学で学んだその滋養薬効っていうのを駆使して集めた和の薬草は、やはり慕っていたルークや好きなメイのためだった。
十年前初めて会った南蛮人に九松は怯えていた。その夜腹を壊してしまった背の高い異人を見て九松は医者に駆けつけて、薬をもらって来て男に感謝された。その男がルークだった。医者が蘭学で得た薬効知識だと言って、そこから彼はメイの屋敷に泊まる異人ルークになつき始めた。それが始まりだった。
薬草のにおいは、まだメイとルークと自分の思い出の残り香のように、この大人になった九松の逞しい手に残っていた。
「どうかあいつ等を無事に、無事にオランダに渡してやってください」
九松の逞しい手はがっしりあわせられて、いつまでもいつまでも祈り続けた。
メイの本当のしあわせを願うなら、それが本望なんだ。
*
九松さんが屋敷を出て寺院に入った報せを数年後の文で受けて、彼のおちゃめな笑顔が浮かんだ。
すっかり私もネーデルラント……ジパングでいう所のオランダ語に詳しくなって、ルークさんのお手伝いもしている。何度か心病でお腹を弱くする毎に九松さんの薬草をルークさんが煎じてくれて、とても和らいだ。
私にとって九松さんはずっと放っておけない子供のように思っていたのね。たくさん背伸びをする九松さんに愛着を持っていたのでしょう。
ルークさんへの愛情と、いつも必死の九松さんへの身内に向けるような心。それは結局は相容れずに九松さんだけを苦しめて、私はルークさんを選んでしまった。
今私はしあわせで、オランダにも少しは慣れて、メイ・関原・ドゥ ヨングの名で日々を過ごしている。気候も違えば植物も違う。丸いジャガタライモが米代わりで美味しくて、それでもまだカース(チーズ)と言われる食べ物はジパング人のお腹にはなかなか慣れないの。恐ろしいほど寒くなるから体調変化も起こるし、誰もが背を見上げるほど高くて、なのに可愛らしい建物ばかり。同じく見上げるほど大きな風車もあるのだけれど、山があまり見あたらないから錦の山が懐かしいわ。ここからは山錦に霧煙って降る大和の秋の雨も見えないの。彼等とは考え方も物事の捉え方も違って困惑する点もあって、きっと妻として認められるのも十年後だろうと言われているけれど、様々な文化が花のよう。彼等の民族舞踊も可愛いのよ。
いつでもルークさんは私を守ってくれる。
優しくて、偉大な方。
九松さんだって、それは素敵な人だったわ。お天道の笑顔は元気をもらえたから。きっと、お寺での修行も慣れれば元気にお経を詠むのでしょうね。
大和の国からの懐かしい香りがする便りに、望郷の心を一時にためて、共に添えられていた香りの良い押し花を私は透明の瓶に閉じこめる。これが、大和の香り……。こんな私のことでも大切に思ってくれた人のくれた香り。
九松さん。私はこの地で元気でやっているわ。愛するルークさんもいてくれる。だから、あなたもどうかお元気で。
鏡便り
なるほど。それは驚きです。
あなたがかの≪ウボエルテッキの鏡≫から出て来たと有名なジェッペルさんですか。
はあ、それは驚きますよ。私はあなたがてっきり男性だとばかり思ってたのですからね。それというのも、見聞するどのお話にもあなたは端正な顔立ちの好青年だと聞いていたのですから。
そうしたら、あなたと来たら勇ましいに変わりないけれど、黒装の制服を召して黒馬で颯爽と現れ、その冑を外したらばそれは見事な長い黒髪を翻して私に微笑みなさる。
ですから、その腰に携えたサーベルの柄に填まるかの≪エテッキのサファイア≫がきらりと光ったのでなければ、あなたがジェッペルさんかなどと、声をお掛けすることもございませんでした。
いやはや、なんともお美しい……。私は今まで見た女性であなたほど整った方は見ない。エルセーネ伯のご令嬢エムラ様も美丈夫でらして、エジプトから贈られた鮮やかな生地で作られたドレスを召し、アルカンタ公の皇女エナエル様の涼やかな美しさは限りない泉を称える美貌。さながらジェッペルさんは、あなたの愛馬であるその猛々しくも優しい目元をした黒馬を人にしたかのようでございます。特にその鬣の如く長い髪ときたら。
その長い脚は天までも駆け抜けてゆくことでしょう。その瞳は≪ウボエルテッキの鏡≫の様に全てを映して見透かし、その称えられる微笑は私のみならずエムラ嬢やエナエル様さえも虜にするのでは?
いやいや、そんなことはございません。そんなにお顔をお背けになられないでください。お怒りでございますか? 出会い頭に不躾にそうも褒め称えられたのでは、落ち着かないと。それは男勝りなお方だ。その素敵な装いを見ても充分覗えますよ。ええ。はにかんだ微笑みもなんと実は可愛いことか。
この辺りにでございますか。と、いいますと、それはあなたが≪ウボエルテッキの鏡≫からお出でなされた一辺倒の理由の≪幻の霧城≫をお尋ねですね。
はい。よく聞いておりますよ。お婆さんの少女だった時代から誰もが探しつづける虚像なんですからね。私が? いや。こちらは到底そんな浪漫主義などではございませんから、これから話すこの村の言い伝えがジェッペルさんの望むとおりの物かどうかは……。
六十年前のことになります。霧に包まれた常闇の森というのがございまして、そこは夢を辿ってでしかたどり着くことは出来ない子供の国だといわれておりました。それも、一度行ったら何度も行かずにいられない魅惑の国。この村はどの村とも離れてますからね、人攫いでもあったら帰らない事も多いものだから、子供達が口を揃えて言う幻の城とやらは、ずっと大人達に畏怖されていて神の領域なのではないかと囁かれていたのです。
その城の王座の間にです。あなたのその真っ白いお耳によく聴き馴染んだことでしょう、≪ウボエルテッキの鏡≫が据え置かれていたのは。
少年、少女達は誰もが夢で独り、その城の王の間に訪れ、ただただ向かい合うというのです。巨大な姿見に。それはそれは大きな鏡だったようで、見ればホールの全てが映りこむほどだったとか。なので、お部屋がそれは広く見えたのだと。
それでその鏡を見ておりますと、夢の世界だと気付かない子どもは鏡遊びをするんです。話し掛け、鏡の自分を友達と呼び、笑ったり怒ったりをしはじめる。頭に思い描いたものが本当に現れる。踊る様にね。それで、あまりに自分がおままごとのお話で怒ったりすると、いきなり鏡がもくもく黒くなって巨大な影が現れて子供を飲み込んで鏡に取り込んでしまおうとする。
おや、確かにあなたの出て来た鏡という噂は聴きますが、自分はそんなことはしない。と。それはご尤も、あなたのお顔立ちも真っ直ぐな目もどこも屈折する事の無い正直を称えております。愛を知る目をしていらっしゃいます。しかし、その魔の鏡は私が生まれた二十八年前には既に城の噂ごと耳に聴かなくなりました。
丁度三十年も前のこと、霧城の王子様であった者が閉じ込められたというその大きな鏡が倒れて割れた夢を見た少年がおりました。その少年は随分とその後を寝込んでしまい、今ではその恐ろしい夢を忘れるために村を家族で離れて行きました。
その辺りからでしたか。ジェッペルさん、あなたの噂を聴き始めたのは。なので私も他の者達と変わらず、ジェッペル青年が鏡に若くして閉じ込められた霧城の王子様であり、子供達の夢を辿って夢から出現する時を狙っていたその人ではないかと思っておりました。
それは何故か、それも聞いております。あなたを閉じ込めた魔術師の孫を探し出すことが目的だったんだとね。この村でひっそりと暮すその魔術師の孫は魔除けで守られて夢に浚われる事は無い。と悟ったあなたは、鏡ごと倒れて決死の覚悟で夢から紡がれ現れた。
それを、あなたがここ最近、その鏡があった幻の霧城を探していると言う。それも、まさかの姫だったのだとも今の今まで、ええ、私以外は知る事はなかったでしょう。今となっては。
それだと、子供を浚う悪魔とも思えなくなりました。なぜあなたは幻の城を常闇の森の奥へ霧と共に出現させ、閉じ込められたのか。
えっ、その魔術師に騙された。本当は子供達に助けを求めていたと。そうしたら、生涯忘れられそうも無い良い子供にめぐり合って、もっと話をしたいがために鏡を割って出て来た? それで訪ね歩いているがそのジェッペルと名乗った子供がいつまで経っても見つからないので、そろそろ城に引き上げたい。
それもそうでしょう! 子供は親から鏡の城にいったら絶対に偽の名前を名乗って、本当の名前は鏡に教えちゃいけないよと言われているの、ですから……ああ、なんと恐ろしい顔をなさるものか、震え上がってしまいますよ、ジェッペルさん。そんなに白いお顔を真っ青に怒っては美人も叫んで逃げて行きます。
あ、ちょっと待って下さいジェッペルさん、え? あの子供を浚って食ってやる? それでまた閉じ込められても骨の髄まで鏡のなかで食い尽くしてやる、魔術師の名前をちらと出したから気になっていたものを、って、そんなおっかない話はしていずにお待ちなさいよ。
もうジェッペル本人もいい歳したおっさんになっていますよ。一緒にあなたと遊んだ純真無垢な少年の心などもう微塵も吹っ飛んでいるでしょう、だから、そんなお怒りに馬に乗ってしまわずに、僕と付き合ってください。そんな者など忘れてしまわれませんか。美しいです。好きです。可愛らしいはにかみがたまりません。常闇から紡がれた夢と現を駆け抜けるその闇色の馬でお去りになられないで。やっぱり子供を食べる姫だったから魔術師に閉じ込められたんですね……。
あれ。そういえばもうひいひいお婆さんの作った百年の魔除けの効力も途切れてしまう頃合だったのではないのかしらん。
あ。しまった。だから姫が見えるのか。これはまずい。ついあまりの美貌に告白してしまった。逃げなければ。ああ、怒り狂った成りでサファイアの嵌ったサーベルを振り回して黒馬で追ってくる。まさか伝え聞いていたのが女だっただなんて。あれは鈍器だな。
これは霧の森にでも紛れ込んで逃げるぞ。すたこらさっさ。
ちょっとばかり振り返って……ひええ、鬼。
ベラドンナ
Bella Donna
ベラドンナ。それは薔薇の名前。
俺はその薔薇を赤子の頃から贈られたベラドンナ様を知っている。
その名の通りの美しい女性に成長した彼女は、俺の女神だ。
彼女は現在、城の庭に咲き誇るベラドンナに囲まれて過ごしていた。
豊かなダークブラウンの髪を腰まで流し、薄絹は体のしなやかさを浮き上がらせる。
長い睫の伏せられるなめらかな瞼。微笑みを湛えるベラドンナルージュの唇。
美しく細い手腕がその先でずっしりとする薔薇のこうげを受け止めて、朝露に光る雫をも薔薇と彼女を装飾する。
霧の舞い
1
「メアリー……」
暗がりで振り返る。森の香りが蒸す。ここはアンボワーズの城から離れた鬱蒼とした森林。
「……メアリー」
まるで霧のような声。木々の間に木霊して、小さなメアリーの耳に届いた。
それは小さな男の子の声。メアリーと同じ程の年齢なのではないだろうか。
今日のメアリーは森に溶け込むような深い緑のビロードをふんだんに使ったドレス。真っ白いシルクの部分が白い肌と共に浮んでいる。
闇に残像を残すように動くその白く小さな手は、声の正体を確かめるように彷徨った。
「だあれ?」
しかし、その不思議な声は返ってこなくなった。
「あなたは私の友達になってくれるの?」
その声は、あの快活なアンリ王子では無かった。もっと静かで、それでも気弱なフランソワ王子とはまた違う。それに彼等はアンボワーズの城からここまでは来ない人達だから。
「あなたも森の香りをめいっぱい吸い込むといいわ。そしたなら、あなたも大きな声が出るわ」
メアリー自身の声は、ちょっと今は震えていた。自分を勇気付けるために言っていた。
「もうどこかへ行ってしまったの? 流れる霧と共に」
小さな耳をそばだてる。ふわりと頬にも乗りそうな霧。
「こっちだよ」
「いたのね!」
うれしくなって声のする方へ駆け出す。
「夜の森によく来たね。僕の声についておいで。お転婆さんを外までしっかり導いてあげる……」
消え入りそうな声。青い星明りを透かして、霧は流れていく。
「あなたは霧なのね」
薔薇色の頬を微笑ませた。彼女が回転すると、霧も巻き込んで廻る。
「こうすると、あなたに抱きしめられているみたい」
夢見る様に歌って、メアリーは声に着いて歩いていった。
「本当なのです。わたくし、神秘を目の当たりにしたようでした」
ほとほと教育係は勉強の合間に聞かせてくるメアリーの話しに受け応えることを諦めて、聞き手に回る事にしている。饒舌な分、頭の回転も速いのか学の覚えと来たら良いもので、これで出来そこないだったらいい加減にしなさらんかと喝を飛ばすところだが、本人は憎めない性格と小さいながらに明晰な頭脳を持ち合わせたメアリー。
「<霧の君>と名付けまして、また会いに行きとうございます」
「フランソワ様が聴けば卒倒されるでしょう。どうも彼は貴女様をお気に召して、壁からじいっと頬を染めて微笑み見つめておられますよ」
「王子達の母上メディシス様には内緒です」
シーッと愛らしい顔の前で小さな小指を立ててメアリーがぱちっと片目を閉ざすので、教育係りはくすりと笑った。
メアリー・スチュアートはスコットランドの城から来た小さな王女だった。カトリーヌ・ド・メディシスの三人息子とここで教育を施されるためにフランスのこの地に来たのだった。
「しかし、お目付け役は忘れずに。殿下に何かがあっては大変です」
「心得ております」
そろそろ甘いものが食べたくなって来た。頭を使うとお腹がすく。そして満腹になれば眠くなる前に野でも走り回りたくなってくるのだ。
ここはフランスのロワール地方。ロワール河が横たわり、彼女のいるアンボワーズ城の城下町にはロマンティックな家が並んでいる。
メアリーが草地にやってくると、風をめいっぱい体に受けた。
青い空には雲が線を引いたように幾筋も走っている。上空でも風が強いようだ。弧を描いた猛禽類の羽ばたきを見上げて、メアリーは心地良さを感じて笑った。
じゃじゃ馬なところがあるメアリーは、何しろどこにでも行こうとする。キラリと光るその瞳はまるで草陰からひょっこりと顔を挙げた野生の兎のようで、くすくすと笑ってまた引っ込んでいくかのようだ。
まだ少女のメアリーは、飛び跳ねる様にアンボワーズの城下町からあっちにこっちに駆け回る。
「お待ちください!」
お目付け役は小さな少女に着いていくのもやっとで、ドレスの裾を引き上げて草地を必死で追い掛けて来る。
「本日は森へ行くの」
どんどんと彼女は行ってしまう。身が軽いのか風の様に駆けて行き、そしてメアリーを太陽がさんさんと照らしているのだ。
光りに恵まれた子。それがメアリーだった。
草原の緑も風も味方にして元気に走る。まるで周りの蝶もうれしげにはためくようだ。
ようやく、あの森に来た。
「馬車からあまり離れないでくださらなければ、困りますよ」
遠くから聴こえる声を背に、メアリーは走る。背の高い木々を見上げる。
ここは実は比較的明るい森なのだが、夜と霧があのとき森を鬱蒼とさせていたのだ。
今、遠くまで見渡せる昼の森に、霧の君はいなかった。
「………」
メアリーは立ち止まり、息を弾ませたまま頬を薔薇色に染めて見回した。
勉強が得意といえど、小さなメアリーにはまだ気温の涼しい変化がもたらす霧の現象までは知識にもなく、体感的にも経験が少なかったので、森に来れば霧が蒸しているものとばかり思っていたのだ。
「どこ?」
鈴の様な声が響く。小鳥が驚いて啼き羽ばたいていった。メアリーは見上げて、そして走って行った。お目付け役はせっかく追いついたのにまた走って行く彼女を追いかける。
「お待ちください」
メアリーはどんどんと走って、霧の君の気配を探った。けれど、少年は見当たらない。
メアリーが疲れきったお目付け役の所にしくしく泣きながら帰って来たので驚いた。
「どうなさったのです。お怪我はございませんか?」
「霧がないの。ずっと探しているのに」
「霧……は、この時期に昼にはまず見かけませんよ。雲も見当たらずに、太陽が昇っている時間ですもの」
「そうなの?」
メアリーはぽろりと涙を流しながら見上げた。
「さあ、とにかく、もうそろそろお城へ戻らなければ」
早々にお目付け役はメアリーを馬車に乗せて走らせた。
教育係りはまた聞き役に徹していた。一人でいれば窓からの陽光で眠くなるものを、メアリーが寝させてくれなかった。不真面目な教育係りというわけでは決して無いのだが、冗談交じりに眠い顔をしてもメアリーには通じずに、瞼を小さな指でこじ開けさせてまで聞かせてくる。
「だから、霧の出る夜、森を出歩こうと思ったのです」
それを聞いていた彼の視線がメアリーの頭上に上がり、眉を両方上げて面白い顔になったので、メアリーはくすくす笑って小さな手をお口に添えた。
「そんなにお転婆では、ロワール河を蜂蜜酒(ミード)の河に変えて貴女を沈めてしまいますわよ」
「メディシス様!」
メアリーはフランソワやシャルル、アンリの母上メディシスを肩越しに見上げた。厳しい顔つきで腰に手を当て、彼女を見下ろしている。
「貴女には夜間、お外へ出てしまわないように筋肉ムキムキの看守をつけますからね」
「いつでもメディシス様は表現が大げさでございますこと! メディシス様の魔女!」
「口の減らない!」
メアリーは「きゃー!」と走って逃げて行った。ほとほとメディシスは呆れて息をつく。あれはメアリーをかち割って片方でも貧弱なフランソワとシャルルにぶちこまない事には、三人は普通にならないのではないか。
その夜は筋肉ムキムキでは無い兵隊が一人ついて、扉から一度出て横を見上げると、その兵隊を見て、くるりと回って引き返したのだった。
高い窓の前に置かれたビロードのベンチとクッションに膝をつき、星や夜を見た。
ここからは霧煙る森は見え無い。ずっと、静かに見つめていた。
2
スコットランドの森。
王女メアリー・スチュアートは目も見張るほどの乙女になっていた。
馬で駆け抜けるその姿は誰の目をも引くもので、太陽の美貌と名高い。
「やあ!」
声高らかに鞭払う昼のメアリーは、草原を疾走させて行った。
そして彼女は森へ入って行く。
それは、慣れた筈の森だった。
だが、馬で駆けて行くごとに様相は見慣れない深い深い森へと変わっていき、彼女は馬を常歩にさせた。
「妖精に化かされているのかしら……」
凛とした声でメアリーが息を弾ませ見回す。時に彼等は悪戯をしてくるものだから。何か彼等を怒らせるようなことでもしただろうか? しばらくしても思い出せなかった。
森はとても静かで、ひっそりと息をしているようだ。
馬を降り、歩かせる。ここで主人があまり不安な風を見せるとすぐに馬も察知して、どんな行動にでるか分からない。なので落ち着き払って手綱を引いた。
メアリーの今日は、群青と金を基調とした色味の衣装で、ドレスは先ほどまで白馬を飾っていた。
彼女の足許を、ゆらゆらと霧が流れはじめて、ひんやりと水気を含み始めた。ドレスに細かな露がつき始める。馬の毛並みにも。
「あら……泉」
この辺り、リンリスゴーの城の近くは巨大な湖があるけれど、この森でこの泉を見つけたのは初めてだった。
それは深い木々に囲まれた泉であり、そこから水煙が立ち上って流れて来ていたようだ。昼なのに、見上げる木々は幾重にも折り重なって水滴がきらり、きらりと滴り落ちてきて薄暗い。
苔むした地面を歩いていくと、シダとシダの間からリスが顔を覗かせ、大きな人間を見てしばらくしてすぐに顔を引っ込めて走って行った。蔦(ツタ)の覆おう湿った木の幹を駆け上がって行く。その葉枝から幾本も垂れ下がる蔦のカーテンの先には、流れ行く霧と幹の陰、そして鮮やかに濃い緑の苔むす岩場。
それらはだんだんと霧が優しく包んで、肌寒さを視覚的に和らげた。
彼女が霧を掻き分けるように歩いていくと、いきなり現れた雫を飾った蜘蛛の巣にしばらく見惚れてしまう。完璧なその形は、同じ女がせっせと作ろうものなら自分に真似出来るとも思えない自然界の技術だ。
馬が気付かずに蜘蛛の巣を壊す前に、離れて行った。
「?」
視線の先に、何かが倒れている。少し蠢いて、またうずくまるように丸まった。
馬の手綱を丈夫そうな枝にくくりつけてから、霧がどんどんと流れては現れていく泉の辺を歩いて行った。
「まあ、仔兎ね」
馬の匂いがする手袋を取ると泉で手を洗い手を合わせて温め、そっと仔兎を包み上げた。動物は他の動物の臭いにはことさら敏感だ。つぶらな瞳をあけてメアリーを見つめて来た。
「お前、母はどうしたの」
離れてしまったのだろうか。それとも、何かに捕まったところを逃げたのかもしれない。
そっと見回すその小さく柔らかな軽い体には傷は見あたらない。脚も触るとぴょんっと蹴って来たので大丈夫だと分かった。しかし、お腹でも空いているのか、元気が無い。
普通、野生の兎なら草を食べるのだが、まだ小さすぎるのだろうか?
メアリーは見回すと、高いところにベリー系の実を見つけた。それを手で幾つも摘んでいく。この大きさなら乳のみでは無いだろう。
「お前の母はきっと心配しているよ」
言いながら自分が食べてみて、甘くて美味しかったので実を兎に与えた。しばらく鼻をひくつかせていたが、それを口に含みはじめた。
「お腹が空いていたのね。よしよし」
彼女は微笑んで見守っていた。しばらくすると、ようやく元気を取り戻したのかぴょんっと跳ねると、その仔兎は草花の間に飛んでいった。
「良かったわ」
メアリーはそっと立ち上がり、ドレスの裾を正した。
振り返ると、泉から立ちこめる霧が手招きしているように思えた。
一度兎の去って行った草むらを見てから、泉へ近づいてその霧に包まれた。
「ああ……懐かしい感覚」
目を閉じて腕を広げ、顎を上げた。この優しいさらさらとする感覚。どこかで彼女はこの霧を知っていた。
「また迷い込んだのかい」
メアリーは目を開けた。青年の静かな声音は、霧の壁にまるで反響するかのようにこだました。
「あなたは、霧の君」
メアリーが見回した。まるで踊る様に回って。
「どこ? あなたはあの時の少年なのでしょう。今、はっきりと思い出したわ」
うれしげに頬が薔薇色に染まった。落ち着き払っていた顔立ちが一気に少女のころの様に意気揚々とする。
青年は黙り込んでしまった。まるで、それは息を詰めたかのように。
「どうしたの? また、かくれんぼね?」
「……君が美しくて」
「え?」
「………。僕が外まで案内してあげる」
メアリーは悲しげな声に応えた。
「あなたとしばらくいたいわ。そんなことを言わないで……あまり、城にはいたくないの」
気持ちが塞がりそうになる時は、こうやって思い切り馬で駆け抜けた。誰も彼も大人達は彼女からは込み合って思えてならないので。
「僕に連れ去られてもいいの?」
静かな声。それは、メアリーの心に染み込んできた。あの少女のころのように、ただただ森に迷い込んだ小さな子を送り返すのではない。青年になった霧の君の声は、確かな情念を滲ませていた。独占したい、というその感情が霧の先に隠されていた。
「ごめん。そんなことは出来ないよ」
霧にくるくると回って彼と舞いを踊る気持ちで回転してたメアリーは、ドレスの裾に霧を巻き込みながらも立ち止まり、見回した。
「何故?」
彼の幻の姿を、その先に見たくてメアリーは悲しげに声のするほうを見つめる。
「君は優しい子だ。霧に迷った仔兎を助けた君に、霧のある所では加護がありますように……さあ、こちらにおいで」
メアリーは声のするほうへ歩いて行った。馬は手綱を解かれて、引かれて歩いていく。
「こっちだよ……」
声に導かれていく。幻の彼とまるで踊るように、歩いていく。袖や裾を揺らめかせて。頬を優しく霧が撫でて行く。
「……メアリー」
3
目を覚ましたメアリーは、くしゃみをして見回すと、そこは相変わらず同じ室内だった。
ここはイングランド。
メアリー・スチュアートは現在成人をしていたが、閉じ込められていた。エリザベス一世に。
「………」
彼女は気落ちし、長い髪を整えながら寝台に起き上がる。
「エリザベスには何か考えがあるのよ。彼女はいつでも沈着冷静だから、何かの考えが」
スコットランドのメアリーと、イングランドのエリザベスはライバル同士だった。
この度、メアリーが様々な国の陰謀から命を狙われることになり、スコットランドからエリザベスを頼ってイングランドまで来ると、彼女はメアリーを屋敷に隠した。
それはメアリーへ向けた表向き。エリザベスはメアリーに王位継承権を取られてはいけないと悪代官に唆されて、メアリーを幽閉したのだった。それをメアリーは薄々感づいていた。
自由も許されずに不安ばかりが募る一方で、どんどんと空想ばかりがメアリーの助けになっていた。
少女の頃や若い頃に出会ったあの不可思議な霧の君の存在。それが、人への鬼神暗鬼を持ち始めたメアリーにとっては、彼の存在が純粋にして透明な記憶になっていた。
彼女だけが知る霧の君。霧の精霊だったのかもしれない。森に住まう青年だったのかもしれない。
姿さえ知らない。声しか分からなかった彼の、だからこそ誠実に信じられるものがある青年だった。
メアリーは身支度を終え、鏡に向うと髪を整えた。
静かに椅子に座る。ここには霧はない、形だけは整った部屋。見つめた。
既に誰を信じればいいのか分からなくなっていた。それでもあの森で出会った霧の君、彼への淡い恋心がただただ彼女の闇の心をほんのりと優しく包む……。それは霧のよう。
心に思い描けば、森に行けるのだわ。彼のいる霧の森へ。
その心に、安らぎという加護が降りた気がした。
少女のころの様に野を駆け回った記憶。いつでもおっかなかったメディシス様の時に笑った顔。へとへとに追いかけて来て岩に突っ伏して伸びたたお目付け役の姿。教育係の自室で巻物をだらんと伸ばしてぐーぐー眠った姿。それに、森の霧に包まれいだかれた感覚……。
大人になったメアリーの瞼を閉じた微笑みには、それらの涙が美しく光り流れた。
夜の猫
夜の猫
その黒猫は僕の目の前に現れ、そして高い声で鳴いた。
それは三日月が巨大な夜だった。僕はケンカをして家を飛び出して、林の横を歩いているところだった。走り疲れて、秋の風は冬をはらんで冷たくなり始めていた。息も白く上がりそうだと思って夜空を見上げていたら、それまで気付かなかった月が、意外に大きく夜空を占領していた。
歩みも止めて立ち止まって見上げていたけれど、何処からともなく聴こえた鳴き声に見回しながら歩いたら、林の木々の上からその黒猫が飛び立った。
青い首輪をした黒猫は、青い瞳を光らせて僕を見上げた。僕の顔がすごく怒っていたからかもしれない。月に照らされて恐ろしかったのだろう、猫は短く鳴くと、耳を倒して背を丸めたのだった。
僕は冷たい頬を包み撫でてから、表情を和らげた。
「どうしたんだ? お前」
猫に話し掛けると、どこかの飼い猫だからだろう、肩に飛び乗って来た。黒い長袖に黒いストールで締めている僕の肩に乗った黒猫は、きっとこのまま闇の染む林に入れば見えなくなってしまうのだろう。
夜に行動をする猫の世界でもあるのかと思い、木の幹に手を当てて覗き込んだ。ここは広葉樹と針葉樹、植物が約五百種類程ある広い林で、昼間は明るいのだが、夜はこの通りだ。
「仲間が今の時間は魔女と一緒に踊ったりサバトでもしてるのか?」
猫は僕の頬に胴を押し付けてくる。柔らかい。視線を向けても、魔女の飼い猫でもないからだろう、言葉が通じていないのかニャンとも鳴かなくなって、ただただじっと林を見つめている。
僕の肩から猫が飛び降り、歩いて行った。林を。僕は自然と追いかけていた。柔らかい土を歩いて、時々長い脚で草花をかきわけるとズボンに露が湿る。猫は時々それらの草花から見え隠れして、次第に月光も届かなくなると、自分の姿さえ見えにくくなる。見えなくなる前には柔らかい毛に水滴を乗せて湿り始めていた。猫はそれまでをずっと木の上にいたからさきほどまでは濡れていなかったらしい。
カサ
物音に木々を見上げる。葉の折り重なる上には月がレースになったかの様にまだらに覗いていた。そこには数匹の猫の陰。
「まただ。あいつ、ヒトのオスを連れて来て」
「仕方ないよ。あいつはヒトの心が切羽詰ってるとそれを読み取ってしまう飼い猫特有の力を持ってるんだから」
え。と、僕は思って、彼等こそがヒトの言葉を話しているので変な気がしてくすくす笑った。
確かに僕は同居している友人とケンカをして出て来たけれど、林まで足を踏み入ったのは、猫の癒しがあったから気が向いたのだと思う。
「ヒトの言葉が話せるんだね」
「ヒト科のシグナルや交信方法っていうものは、脳の働きと音の振動で出来上がってるから、俺等はそれを真似てるんだ」
変な事を言い始めるので、本当に魔女が影に潜んで陰から猫が喋ってでもいるように錯覚させてきているのだと思って、辺りを見回す。
「あんた、何で林に迷い込んだんだ? よく餌食にされないって思わなかったな」
木の上の猫達は目を光らせて僕を見ている。というか、陰の猫は目が光っているだけだ。しかし、本当に猫だろうか? もしかして、他の何かの妖怪かもしれない。インコがヒトの言葉を真似られる様に猫も流暢に話せるなんて聴いた事も無い。
「ただ、相棒が酒に酔って帰って来て大騒ぎし始めて、せっかく掃除した居間もまた散らかしっぱなしで寝始めたからさ、嫌になって怒って出て来ただけ。一日掛けて掃除したのに」
大学生の僕等は、友人のリトと見つけた空家を不動産で借りて二人で暮らし始めた。まだ越して三ヶ月目。忙しい合間にしていたボロ屋の掃除も今日一気に行なったというのに、リトときたら昼前には抜け出して、深夜に帰って来たと思えばあれだ。それで叩き起こしたら、『女みてえに怒ってるんじゃねえよ』と言われてバシバシ叩いて出て来た。
今思えばそんな些細な事なのだが。今頃リトの奴は大の字で眠りこけているんだ。
明日はリサイクルショップでいろいろそろえようと言い合っていたのに、それも僕一人で回ることになるだろう。リトは二日酔いでぐだぐだになってればいいんだ。
「ヒトのするケンカは呆れて見てられないと聞くよ」
猫が言う。
「ああ。そうさ。どんな内容でも、君等から比べたら呆れるようなものだよ」
「俺等はその日暮で生き抜くからな。ケンカだってするけど」
僕が猫になったら、どうなるのだろうか。不明だった。
ガサガサ
「?」
猫達が物音に咄嗟に隠れて見えなくなった。
ここからは見え無い方で音がする。きっと熊笹のある辺りを歩いているのだろう。そのガサガサいう音は聞こえなくなって行った。
猫がいきなり一匹僕の所に飛び降りてきた。そして言う。
「またあのヒトのオスだ。昼もやってきて何か飲んでたけど、臭くて近寄らなかったよ。あいつは穴のある木の内側にそれを隠して置いてあって、よく飲んでるんだ」
それはまさかリトが酒瓶でも隠してそこで僕とケンカしたら隠れ飲んでいるんじゃないだろうか。酒の臭いをぷんぷんさせて帰って来たのが林からなら、もうこの三ヶ月間、慣れた場所なのかもしれない。
呆れて行ってみる事にした。
「本当に喋ってるんだね。君」
「不思議か? 音なんていうものは、いくらでも操れるものなのさ」
「よく分からないけど」
猫達がかさかさと音を立てて地面を歩いていく音を辿って僕も歩いていく。
「?」
池のある場所は明るい。リトを探す。それがリトかは不明なのだが。第一、あんなに酔いつぶれていたのだから歩けるかも不明だ。
あの黒猫を見つけた。青い首輪と青い瞳の猫。その向こうに、やはりリトがいた。今しがた、草むらに隠れた場所から木の横に折畳式の椅子を立て、それで座ると背後を探って瓶を出した。やはりラベルはワイルドターキーだ。バーボンどころか酒が飲めない僕にはきつい。猫達も僕の足許に擦り寄って、訴えかけるかのようだ。奴をとっとと引き取ってくれと。
だが首輪の黒猫だけは慣れているのか、リトの膝に飛び乗った。
リトがその毛並みを撫でながら、僕についてをブーブーぶーたれている。僕は目を半開きにしてリトを見た。猫はそれを黙って聞いていた。
それと相反して池は月を映して綺麗だった。
なにやら色々言っているけど、僕は歩いていこうか迷った。何も息抜きの場所にまで行くこともないだろう。同居してればそれは一人になりたい時もあるわけだ。しかし猫達は僕の脚にすりよって促して来る。
僕は猫を見下ろして頷いてから歩いて行った。
「それであいつ、俺が苦手な蛇飼おうとか言い始めるんだぜ。明日水槽飼いに行こうとか言って、だがまさか俺が蛇が怖いなんて言えねえからよ、びくついてんの見られたらたまったもんじゃねえや」
「蛇飼わなければいいんでしょ」
「うおおっ」
僕は歩いていくと横に腰掛けて池を見た。
「それでスネて出てったの?」
リトは見た目は顔が恐そうだし、僕とは全くつりあわない友人同士に思えるのだが、僕の性格の面で合うみたいだった。
猫を引き連れてやってきた僕に驚いたリトが、顔を赤らめて瓶の蓋をした。
「林にだって蛇は出るのに、よく夜にいられるね」
「えっ」
リトがびくっとして辺りを見回して長い脚を挙げると猫が降り立って彼を見上げた。
「夜の林は夜行性の動物が出てくるし、蛇だっているし」
リトが無言で立ち上がって椅子を折りたたみ、酒の瓶も僕に二本持たせてきて自分は三本持って心持ち白くなってどんどん歩いて行った。
向こうでガサガサ音がする。
「ちょっと驚かせてやろう。もう夜に俺等を臭いで邪魔しないように」
猫がくすくす笑って歩いて行った。しばらくして「ぎゃあ! 蛇か!」と声が聴こえてガサガサガサと走って行った音が聴こえた。
「まあ、あれで本気で夜に蛇に噛まれて帰ってくる危険性もなくなったわけだ。ありがとう。猫君たち」
「あいつはさみしそうだけどな」
猫が言った方向を見ると、黒猫がリトのいた場所に背を撫で付けてごろごろしていた。
「飼い猫はあの猫だけ?」
「半数かな。野良猫の俺等ほど自由に林を行動しないし、テリトリーも決まってるんだが、あいつはヒト自体が好きなのさ」
「へえ」
黒猫は気が済んだのか毛づくろいを始めて、他に首輪を嵌めた猫がやってくると一緒にまったりしはじめた。
僕は言った。
「リトが今頃、また別の居場所を見つけるためにさまよい歩く前に捕まえに行くよ。いつかは小学校のグランドで瓶を片手に大の字で寝てるのを通報されて、えらい恥をかいたんだ。それでも同居を止めようとしないんだけどね」
変な奴だと思いながらも林を歩き始めた。
いつの間にか、猫達は話さなくなっていた。ニャアと一度鳴いて、林の出口まで見送ると、まるで何ごともなかった様に木に駆け登って見えなくなった。
「………」
僕は木を見上げて、三日月がまるで微笑んだ口許に見えた。星の瞳でウインクしながら。
僕も帰ろう。
夜道を歩き始める。夜風はどこか、冬の香りがした。
スターナイト
青い雫。わたしの懐へ降りて来た。それは星の欠片と、地球が発する光りよ。
雪の街は静かで、わたしはいつでも耳を塞ぐ。分かるかしら。静かな音って、あるのよ。だから、目を綴じずに耳を塞いで、そして思い知るのが好き。本当に静かなのだということを。そこでわたしは安堵として、白い息を吐いて微笑む。
針葉樹林が乗せる雪の姿、厚い雲、犬も出て来ない路は建物と地面の区別もつかずに雪が吹き流れてカーブになっている。鳥は今見当たらなくて、わたしの微かな溜め息だけが聴こえる。風さえ凪いでいる。
静寂の安堵。何故かは自分がよく分かっている。
静かだからこそ、眠る生命が安心しているから。底の底で吸い上げる水脈は生命の内側をゆっくり流れている。秋の内に凋落した雨は土から根っこで吸い上げられて、そして雨は冬に雪となって地面を覆う。
わたしは立ち止まっていたけれど、歩く。雪を踏みしめるざく、ざく、という音が静寂をくぐもった音で響かせる。すると、塀の向こうから犬の啼く声が聞こえる。それで、ウインドチャイムが鳴って、そこの主がしばらくして出て来て犬に話し掛ける。そうやって、音は連鎖して重なっていく。
ザクザク、バウバウ、朝飯だぞケン。そして息をハー。音もなくあがって行く白い息を見上げて、ザクザクの音だけしなくなる。
元気だなケンは、バウバウ、よく食べろ、バウウ。
「あれ。おはよう響子ちゃん。日曜なのにお出かけかい」
「おはよう。健太おじさん」
犬のケンの御主人は健太おじさん。この小さな街は子供が十人の街で、家がどんなにはなれていても見知った仲だった。
「バウ!」
「おはよう。ケン」
ザクザクと歩いていくと、除雪車が通った路を横切って、おじさんが除雪した私道を歩いた。すると足許には固く白い地面。
「これから、星を観るために葵ちゃんと凛太の家に行って、支度をするの」
ここはどこにいても壮大な天の川が見渡せるんだけど、特別な日には、林の先にある丘で見上げるのだ。
「おやつを作るのよ。それで、夜まで話し合ってるの」
「そっか。行ってらっしゃい」
「はい。行ってきます」
毛糸の帽子を目深に被って、歩いていく。元気なケンが振り向いた視界にくるくる回って空になったお皿を掲げる健太さんに吠えていた。
またわたしは歩いていく。
どんどんと静寂は戻ってくる。心はわくわくから、凪いでくる。
「昴。今にも天から落ちてきそう」
葵ちゃん達と見上げる夜空は眩しいぐらい。マフラーで口許を覆った凛太は、鋭い目だから鋭い星みたい。けど決して冷たいわけじゃない。
「おい。響子。あまり遠くに行くなよ」
「ちょっとだけ」
丘は広いから、夜は晴れていれば遠くまで見える。
丘を囲う針葉樹林は今、鎮静の森と化していた。
続く
横顔のあの人
鋭い眼差しの向こうには、いつでも誰かを見ていたようだ。
その凛とした横顔も、瞳が光るその姿も、俺には遠い人物に思えて、仕方が無かった。彼女の視線に射抜かれるのが自分だったなら、どんなに良かったろうか。しかし、それは叶わぬ故の恋の燻り。
パンッと音が弾け、僕はおぼろげに見つめていた彼女の横顔から、的を見た。
弓道場。誰もが正座をし、腰元に手を揃え当て、彼女を見ている。まっすぐとした目で。揺らぎも無く物厳しい雰囲気の空間。緊張が辺りを包んでいた。
射られた矢は見事に当り、俺は現在、慇懃とした謝意をする彼女の姿を見る。
若く美しい彼女。十六の年齢で、この弓道部の星。
真海恋花(まかい れんか)は俺の憧れの人だ。
転校と共に中等部三年からこの学園へ入った俺は、初日から高等部の真海先輩に一目惚れしていた。柳が揺れる校門で、一人佇む女生徒。美しいロングヘアを天辺でまとめて肩に流し、黒一色のブレザー姿。白いブラウスの首元に、細身の黒いリボンを巻いた制服姿。揃った前髪から覗く光った瞳。紅い唇。紺色のハイソックスの脚でバランス良く立ち、ローファーの先は光沢を乗せていた。その肩には、背よりも遥かに長く、細い棒が布に包まれ添えられていた。同じ肩に、筒が紐で掛けられていた。
俺はしばらく見惚れていて、転入手続きに共にきた親父に小突かれて我に返ったのだ。
『きれいな子だな。早くも惚れたのか』
俺はただただ思春期の子供への遠慮無い質問に顔面を強打されたような衝撃を受けて、紅くなってただただ歩いて行った。ずんずんと。
それで、校門横で佇む柳の君……女に対しては姫というのかは分からないが、その美少女の方へ歩いて行き、近づくごとに爽やかな香りを感じながらも、ちらりとだけ一回、横目で見た。
幽玄に揺れる柳に飾られた、その美しい人を。
まるで雅楽が鳴ったかのような衝撃を受けたのは言うまでも無い。その名も知らない女生徒は、ふっと、愛らしく微笑んで、そして一陣の風になびいた髪を白い手で抑えて俺を見たのだ。光りに射されて。
俺は無我になって校門から出て走っていた。親父が背後から呼ぶ声も聞かずに校庭の塀の横を走りまくって、角まできたら膝に手を当ててこうべを垂れた。逆さの路を親父が走ってくる。逆さになって。
『おーい! お前、四十代男の走りを考えろっ』
学生時ずっと運動部だったくせに親父は言って、ここまで来るとゼイゼイ言って俺の肩に手を置いた。
『可愛かったな、あの子、ぜい、ぜい、』
『あーもー!』
肩の腕を払ってずかずか歩いて行った。背後から親父が笑う声がしたのを覚えている。
それで、俺は高等部になったら弓道部に入ると決心して、結局親父にもそれを報告した。中学卒業まではずっとやってきた部活を続けた。
「涼太くん」
「はい!」
俺はいきなりトリップしていた所を真海先輩自身に声を掛けられ、横をザッと見た。彼女は俺の横に戻って来ていた。
誰もが大きな声を出した俺を睨んで来るので、俺は口を引き締めて真っ直ぐを見た。
「ごめんね。いきなり」
「いいえ」
すまなそうにする先輩に、耳を紅くして応えるが、揃え置かれた手の平は汗がびっしょりだ。仕方ない。一目惚れにして初恋の相手だ。
「次、落ち着いてがんばって」
「はい」
俺は姿勢をまっすぐ正したまま袴姿で片脚を出してからもう片脚でスッと立ち、片手に弓、片手に八本矢を束ね持ってす、す、と足袋の足で歩いて行った。
弓道というのは精神統一の武道だから、無心にならなければならない。座位から始まって、矢を打ち、終った後、残心を越えて、その後の動作ひとつひとつに神経を滞らせずに切り詰めて、取り組むのだ。
だから、だから俺の様に恋心から弓道部に入った軽率な考えを持った部員などは、余計な気持ちを捨てて当らなければならないのだが、それが割といろいろ考えてしまうから困ったもんだ。
先輩の視線の先に見え隠れする相手は誰なんだ。果たしているのか。存在するのか。俺が勘違いしているだけか。それは恋の相手か。逆なのか。
嗚呼、何故俺は彼女の矢を射る姿にそれを感じるのだろうか。恋しているからだけでは無いはずだ。わからない。恋は全て分からなくさせる。
まさか、だからってその相手が理由がなんにしろ自分なら良いなあと愚かにも思うなんて。
ザクッ
しまった……。なんという事か。
俺はスレンダーだが運動部をずっと続けてきて体力には自信がある。コツを覚えるセンスも持ってるだなんて自負していて、弓道もわりかし他の一年より上達が早かった。だが、気があっちにこっちに行って、この通り、ありえない場所に行く事もある。無我になれば的もいい場所を狙えるのだが。
だが変な意地こそ持って無いし元来プライドも無い方だから、他の部員に妬まれることもある。一貫教育の学園っていうのは、公立から来た俺から言わせると割と閉鎖的な所があって、お行儀が良いし口では何も言わなくても、態度や視線が冷たいときたら無い。奴等はプライドを持っているんだろう、目の色は強かった。
だから、優しい真海先輩は心でも俺を救うオアシスだ。
折角、全て的に射られたら、今日の放課後こそは告白を! と思っていたのに……。毎回失敗する。ああ。そういう雑念があるから自分という物にやられて負けるんだ。弓道は自分との闘い。自分に勝てなくて先輩にも男として告白など出来るもんか。
「うおおあっ」
変な声が出た。
「……先輩」
部活が終って校舎を出た俺は、黒い二つの背を見た。眩い夕暮時。グランドも染まっている。陽炎がゆらゆら向こうに見える。
男さえ上下黒いブレザーだから、同じ色の影でそれが恐ろしく大きな存在に思える。顔は分からない。だが先輩男子生徒だろう。
俺の脳内に完全にインプットされた真海先輩のシルエットが、長身の男子生徒に手首を引かれて振り返った。あの長い髪を揺らめかせて。そして振り返って強く光ったあの瞳。
「真海」
それは三年生、しかも部長の声だった。俺はただ動けずに、向こうへ暮れて行く巨大な夕陽に目を細める事も出来ずに見ていた。遥か遠くの、陽炎のような二人を。
部長が彼女を抱きしめた。
「えっ」
パンッ……、と、俺の脳内で何かの衝撃音が響いた気がした。初めて、矢を射られたのでは無い確実なる「ショック」の音。
俺の紅の世界が、俺の心だけが暮れて行く。どんどんと、強引に闇へと先に落ちていこうとする。抱き合った二つの影が、陽炎に揺らめく。
だが。
ドンッ
部長が弾かれて、パンッと、実質的な音が痛く響いた。俺の耳にも。
カア、カアと、凄いタイミングでカラスが夕暮を飛んで行く。
「ごめんなさい。でも、いきなり抱きしめられて驚きました」
「……駄目なんだな」
真海先輩は夕陽に美しい顔を照らされながら、哀しげな顔をして、そんな表情に俺は心が締め付けられた。
「私は人を愛せません。分かってください」
俺は「え……?」とつぶやき、「失礼します」と走って行ってしまった狭い背を見た。
思い出される、矢を射ぬく先輩の横顔。誰かに切ない恋でもしているのかと思わせるほどに静かで、荒波さえも一瞬で収めてしまうだろうその射ぬかれた時の音。それは全て、人に対する鋭い視線だったのか?
優しく微笑まれた笑顔を思い出せるのに。平等に後輩とも接して慕われる人なのに。愛情だけが置き去りにされた優しさではないはずだ。
俺は、走っていた。
部長が俺を二度見して、その横も通り過ぎて走った。校門を出て走る。角も越えて走る。ずっと走る。帰る方向なんか知らない……。
先輩は、見つからなかった。俺は、涙が溢れていた。走っててずっと。先輩の哀しげな横顔を見た瞬間から。
初恋の相手が、愛を恐れる人だなんて、そんな悲しいことがあるだろうか。
それでから、翌日からも何ごとも無かった様に部活で後輩たちの指導を優しく施す彼女の横顔を見ることが、苦しくて辛くなった。
俺の心はまだあの日から暮れたまま。先輩の心だって同じだろう。
いつか、初めて会ったあの時の様に、光りに包まれる日が、くるはずだ。
蒼い月影
四季が巡るならば
花は季節を振り返り
首をもたげて眠りに就く
春なら冬を振り返り
夏へと変わり行く季節へと土に還る
凋落する雨と共に秋の実りへと移り変わり
全てが鎮静の森と化す冬に凍て付く
季節が移り変わるとき
雪は空を振り仰ぎ
再び土へと吸い込まれゆく
深い山奥は冬将軍を出迎え、純白世界である。針葉樹の森も雪を纏い、風の先で冬将軍を前に舞踏する白い衣の村娘達のよう。
ここは森と山に囲まれた雪原。今から独り、森の奥に向かう必要があった。村に伝わる古い剣を持って。
「……?」
私はその雪原でふいに、何者かの白い背を見つけて、見上げた。その足下から、遙か高くを。
ソレは山の様に巨大なマントを纏っていた。白馬の尾をつけた白銀の冑姿で、いよいよ吹雪いてきた風に馬毛を揺らしている。そんな後ろ姿。
まさか、本当に冬将軍でもあるまい? だが、確実に居るのだ。巨大な真っ白の人影が。
この目の前の不可思議に、これは吹雪の見せる幻かと思った。私の着る鮮やかに色染めをされた防寒の民族衣装は、祭りで集えば可憐だけれど、今の私は一人。そう思っていたのに。目の前にこの何者かが現れる先ほどまでは。
私は羊の毛皮をしっかり体に引き寄せ、強い風に耐えながら見る。
私の深く被った帽子の飾りが、風にあおられる。その先に広がる灰色の暗い空と、横に棚引く森、そして、今しがた振り返った巨大なヒト……。
私は両腕に抱えた古めかしい剣を更に強く抱きしめ、心なしか震える。
それは美しい顔立ちをした男だった。涼しげな瞳と白い頬、青い唇をしていた。静かに私を見下ろし、マントを棚引かせる。バサバサと、低い音を立てて。
まさか、彼は我々の村が行う儀式の神なのだろうか。
毎年冬の儀式の巫女に選出される村娘は、たった一人。古の剣を持ち、森の洞窟まで行き、十日間そこで禊を行なう。そして神聖な力を集めた剣を、再び村の守り神として持ち帰る。
その剣に力を与えてくれる正体……それが彼なのだろうか。彼が村を守ってくれていたのだろうか。
私は言葉にもならず、ただただ彼を目前にして佇むことしか出来ずにいる。
まるで、星のようなささやかな光りを湛える瞳を有する彼。
それとも……。
冬将軍よろしく、豪雪がこの一帯を襲うのを知らせてくれているのだろうか?
私はただ動く事も出来ずに見上げていると、彼はふっと微笑み、雪と共にその影も形も吹かれて行った。
さらさらと彼の姿がどんどん暗い空の雪に交ざってゆく。
だんだんと、まるで、吹き溜まりが移り変って行く雪原の雪絵を見ているように。
そして、すでにもとの雪原と空が横たわる風景に戻っていた。
彼が吹かれて去って行った方向を見る。
風向きは乱暴に変わり、まるで私の視野を雪が襲って来る。目を細めた。
ああ、視野が真っ白に埋め尽くされる。頬を心地良く叩く雪。そして凍てつく程に頬をなぶる。
緊張が解けたことで、腕に抱えていた剣の重さを思い出し持ち直した。再び歩き出す。深い雪を。既に風の唸る音だけ。振り返っても、うねり唸る吹雪の雪原。
先ほどまでは楽しげに踊って見えた森の木々達は、樹齢何百年の大杉達の森で、幹は真っ白く雪に覆われている。それらの木々は近づく程に巨大になっていく不動の態で、鎮座する魔物達に代わったように思えた。冬将軍の目を楽しませる舞踏娘たちから、彼の配下として一気に私に迫り来る寸前かの様に。
だけれど、やはりどの大杉も森に入れば風の勢いを砕いて、どしんと構えた姿で小さな私の体を風から守り、どこまでも遙か遠くまで立ち並んでいた。
どの杉も大人が何人も腕を広げて囲える程に巨大だ。
私はゆるやかに背を森を通る風に押され、木々の間を歩き始める。背後から雪がふわりと舞う。
洞窟まではまっすぐ。急がなければ。
また剣を持ち直し、歩いて行った。
洞窟は入り口がまだ雪では塞がってはいない時期。
それも一月、二月にもなれば、完全に雪が降り積もって洞窟の姿も見えなくなる。
奥はどこまでも暗い。
私は息を飲んで、背後を振り返った。
どこまでも広がる純白世界。不動の大杉の森。私の視野の端に映るのは、この彩りのある厚手の衣装。腰には魔除けの草で染められて、固い実が飾られた編紐が巻かれている。それは毎年巫女に選ばれる娘の親族が作ってくれるもので、十日間の禊を無事終えられる事を祈って腰に巻かれる。
意を決して洞窟を見る。そして、速足で歩いて行った。
松脂がつけられた松明。それにしばらくして火をおこしてから壁に掛けると、漸く洞窟内部が明らかになる。
奥は広い。岩壁の上部に自然に出来た台場があって、そこまでは岩場を削った階段が続いている。もう一本の松明を手に、剣を持ち直して階段を上がる。一歩、一歩行くごとに真っ黒い私の影はごつごつした壁とすべすべした階段に緋色の明りに囲まれて揺れる。その黒はそのまま地の底までおっこちて行くのではと思える程黒くて、明るい場所を見つめていた。
雪を纏った山羊皮靴や分厚いズボン、山羊皮と羊毛のマント付きの長い外套。分厚い手袋に、耳を覆う帽子。どれにもキレイな編み柄と色で様々な動植物を現している。それが厚く纏う雪の先に見え隠れする。
自然と魔除けの腰紐を見つめていた。
「大丈夫よ。恐がる事ないわ」
私の影は頷き、台までついた。
藁を敷き詰め山羊皮を乗せ、毛皮と羊毛の詰まった毛布を乗せた小さな寝台、十日分の食料になるチーズと、凍乾パンと、発酵練り果物。
私は帽子を取り、真っ黒く長い髪が顔を覆って背に漏れ出した。
私は剣を台の淵にある祭壇に静かに置いた。
そこには左右に神草を挿された丸い御鏡があって、私が映る。
寒さで真っ紅に染まる頬と唇に、恐怖で強張った黒い瞳。
「あの人は……誰だったのだろう?」
一人になって広い場所にいると、そのことばかりが気になって仕方がない。
過去、三人の村娘が帰って来なかったことがあった。十四歳で成人して選ばれる私達は、誰もが帰ったその後は一生を神に捧げる身として寺院で生きることになる。どちらにしても、恋だなんて、出来ないのだ。
けれど……。
私は頬が熱くなる事に気付いた。雪が衣服に染み込む前に払うことも忘れて、視野にちらつく。先ほどの人の顔。あんなにしゅっとした顔の人は初めて見た。
何者だったのだろう? こんな恋心を始めて抱いた私は不純なのだろうか? 巫女として十日間、やっていくことを許されるのだろうか? それとも、そんな心を持つことで、帰る事が出来なくなるのか。いいえ。これは畏怖、畏敬。正体も不明なあの美しい方への。冬を司るかのような方の。
それとも、幻だったのだろうか。吹雪と私の心が見せた幻。分からないけど、とても素敵な幻。
祭壇で行なわれる行程。
神酒、雪解け水への入水、枝の舞い、横笛、神呼びの詞、聖なる食事、祈願、剣の舞いと唱歌、雪喰い、本日の神を見送る祈り。
その行程を一日で行なう。
私は儀式の為の衣装に着替える。寝台の横にあるお櫃を開ける。衣服を用意する。
私は一糸纏わず祭壇の前に膝を着き、お神酒を捧げて傾けて飲んだ。一気に喉を通って体がかっかする。
静かに、一歩ずつ入水すると爪先から肌を刺す冷たさ。目を綴じて、入って行った。この森の濃い緑の葉枝が浮く水に。この日の為に二週間、寺院で入水の儀をしたのだ。
出ると唇は色味をなくしていた。体を拭くと衣服を着けてゆく。
髪飾りは光りを反射する。麻と羊毛を混ぜて編んだ黒い衣を着て、腰布を巻き、魔除けをかける。袷と袖の縁に柄物の帯をつけ、木綿のズボンの裾を紐で絞って足首に鈴をつける。長い髪が腰に揺れる。
浸されていた葉枝を両手に、空間を清くするために雫を舞わせながら舞を捧げる。横笛でその場を静寂にしてゆく。祭壇の上には鏡と古の剣。神の光臨を促すための神呼びの詞を膝をついて捧げる。そして神と共に聖なる食事をいただく。そして村の祈願を行い、神と一体化するために剣の舞と唱歌を行なう。体内に神が通るために雪喰いを行い、本日の感謝を捧げて神を送り出す。
その一日の行程は十二時間に及ぶ。それを十日間続け、神との親睦を深めていく特別な儀式。
冬の凍て付く針葉樹を現したというこの「冬の剣」は、神が形を変えたものだと云われている。
二百年前、大地と四季に大切な冬の時期を称えた祭りで樹齢千年を越える一本の木が寿命を迎えた。その木が自然に倒れると葉傘で天井を覆われていた広い草地になり、村人はその木を神と称えてそれで建てた。
けれど、その草原は現在に至っても草原のままだ。
他の場所の木は寿命で倒れても、すぐに陽が当たれば芽が成長して二十年すれば森に戻る。
百年前から冬の神をもしかして怒らせたのではないかと儀式が捧げられ始めた。森は大地にとって大切な場所であるからだ。森は風を防いでくれるし、水を与えてくれる。多くの生命もはぐくむ。
それが、今年が丁度百年目の儀式の年。
私は産まれたときから村巫女二人衆の一人で、十日に一度、酪農と農作業を家族に任せて巫女の舞を踊ってきた。百年祭で自分が選ばれた特別を思うと感慨深かった。光栄なことだった。だが過去に三人戻らなかった巫女がいる事実をよく考える事もあった。
神に気に入られて連れて行かれたのだろうか?
冬将軍として現れたあの草原で見た巨大な彼が、神だったのだろうか。
五日目の儀式。
私は剣の舞を踊っていた。それは鋭く、そして艶美であって、激しくもゆったりとした舞い。
「!」
いきなり驚いて剣を持ったまま地面に跳び転がった。
祭壇の鏡が強烈な青で光ったから。
地面に手をついて、髪から覗く鏡を見る。
「美しい舞いだ……」
私は瞬きをしながら、随分高い場所を見上げた。白水色の半透明なマント衣に身を包んだ巨大な人。その裾のあたりで祭壇がやはり透けて見える。その人は、五日前吹雪の雪原で見かけた彼だった。銀の冑に美しい顔が囲まれ、天辺から肩に真っ白い馬の尾が流れている。白く長い髪が冑から漏れ、たおやかだった。
「あなたは、神ですか」
私は震えながら小さく言っていた。我ながらなんという愚問だろうか。神秘を目の前に、神かなどと。
私は不思議な力で背後から押されてふわっと起き上がった。剣を下げながら見上げる私は、咄嗟に膝をついて頭を地面についていた。
「よい。面を上げなさい」
しばらくして顔を上げると、驚いて今度は身を引いていた。
目の前に長身の彼が片膝をついて、手を差し伸べ微笑んでいた。なおも、氷のような美しい微笑み。その肌は水色の影を頂く氷そのもの。氷柱のようなその手指。けれど、なんとも優しげなのだろうか。
私は手を差し伸べていた。指が触れ合った瞬間、青い光りが視野を埋め尽くして途端に体が軽くなった。
「明くる年の原に初夏になれば三本の苗木が芽を吹き生長を始めるだろう」
白い意識の内側で彼の声が告げる。
「三名の巫女が姿を代えて、やって来る。木となって再び森を形成しはじめるだろう」
柔らかなものに包まれた感覚で、声が降りてくる。
どんどんと意識は薄れていく。まだ、声を聞いて存在を知っていたいのに。
意識は蒼い光りを見つけて、追いかけるとまるで夢を歩く時のように感覚がおぼつかなくなって、深みへ嵌る。気絶しかけていくのだと、分かった気がした。
「………」
目を覚ますと、遠くにかがり火。それが鏡に小さく映っている。
祭壇の前に崩れていた。起き上がると、剣を見る。
儀式は数日後には覚醒状態に入るというけれど、それだったのだろうか?
「!」
体に毛布がふわっとかけられた。
咄嗟に振り返ると、彼がいた。冑を取っていて、目に蒼い光りを集めたのか、青い瞳をしている。まるでそれは冬の雪が降らない夜に見かける青い星のような。
「驚くことは無い」
まるで粉雪のような声。静かで、どこから聞こえるのかも分からない様な。目の前にいると言うのに。
「あなた様は、何者なのですか」
問うことは愚かだというのに、問わずにいられない。
知りたい。それが心を占領したのかもしれない。
「私に名は無い」
名の無い者。名を必要としないもの。それが自然世界なのだ。ただ存在し在って成り立つ美しくも厳しく、そして尊い世界。
「何故、人の姿となり私の前へ現れていただいたのですか」
彼は「伝えるべき事を伝えるためにやって来た」と言った。
「老木は寿命で倒れれば本来その場所の養分となるものだったのだ。それを伝えに来た」
私はその倒れた老木が養分となる前に持ち出され神殿になったいきさつを思いめぐらす。
「人々はその後、今まで原に村人の死の儀式で遺体を与えてきた。そして巫女が夏の儀式と秋の儀式で謝肉を捧げて来た。そのことで養分を得て、百年の時を土を豊かにしてきた。それも、三名の巫女が私に命を捧げ、土に眠る三つの苗の命を目覚めさせるようになったのだ。私はその芽の眠る場所に巫女を誘い、人柱としその場の養分となった」
今は雪に深く閉ざされた原。
「冬は木々の冬眠に入る時期。そして新しい芽吹きの生命力を蓄える大切な時期。三人の巫女はそれぞれが人知れず初夏にその場所で土を起こし土となった」
私は促され、洞窟から出るように言われた。
分厚い民族衣装を纏っていき、彼の後を歩く。
森は、見上げると青空が広がっていた。雪は今日は降っていないようだ。
雪の上を歩いていく。
外に出ると、彼の姿は雪に紛れた。時々振り返ると、青い瞳がきらりと光って、淡い色味の唇が微笑む。
私は頬を染め微笑んで、着いて歩いていく。
重い雪を被った針葉樹たちは、まるで彼にこうべを垂れているかのよう。巨大な木々の間を黙々と歩きつづける。足が雪に埋まるからゆっくりと。
雪原に出ると、きらきらと光っていた。風が吹いて青空を背景に雪が舞い上がると、
衣装に乗って、綺麗な雪の結晶が姿を現す。
向こうでは、原で雪兎が顔を覗かせた。そして原を足跡をつけ走って行く。
凍て付く空気は肌に心地良い。
彼は腕を掲げて三つの方向を指し示した。
「初夏には針葉樹の芽が三つ、芽吹くだろう。今年から六年間、その周りにむしろや冬季の囲いを施すといい」
私は頷き、その方向を見た。
そして振り返る。
「………」
見回し、見渡す。白と水色の世界には私が佇む他は、森があり、鳥が駆けてゆき、山は横たわり、あとは風が吹く。
彼は姿を隠したようだった。見あたらない。
私はしばらく動く事を止め、青空を見渡した。雪には自分の影が水色となって映る。どこかしら、一人だけでぽつんといると、洞窟では感じなかった寂しさが巡る。
家族はここからは離れた村にいて、ここにはいないからだろうか。さきほどまで彼がいてくれたからだろうか。
それとも、雪の下に眠る三人の魂や、多くの骨の魂が寂しいと歌を歌っているのだろうか。風は雪の表面を撫でて、さらさらと舞わせる。私の体もどこかへ連れ去られるなら、彼とともにどこかへ行ってしまいたい。寂しいだなんて、それまでこの雪原で思ったことだと無かったというのに。
「名前を教えて欲しいの!」
声は澄んだ空が飲み込んでいく。
「名前を私がつけてあげたい!」
梢に乗った雪が揺れること無く、不動のままに私を見つめているよう。この恋心をずっと静かに聞いてくれているよう。
私は立ち尽くした。
夜の星が明りを灯し始め、ただただ満天の星を見つめる。
「一日の儀式を怠ってしまった……」
つぶやきは頬を撫でる凍て付く風が連れ去る。
目を綴じて、森からの梟の声を聴く。じんわりと涙が目尻に溜まって開いたと共に流れ星が横切って頬に涙が下っていく。
星雲に重なる彼の頬を思い出す。
私は振り返り、洞窟へ戻る事にした。
「……?」
森の向こうに、澄んだ蒼い光りがぼうっと、広がっている。
それはまるで神殿で満月の夜に社から年に一度出される剣が一瞬月光を浴びて光る青の様に思えた。
あの剣は青銅の剣。寺院を建てた時に使った巨大な倒木から見つかった不思議な剣だ。神聖なものの証、森の神の化身として寺院に祀られ、それをご神体とした。その事で巫女達が舞を踊るときもそれを手に踊るのだ。神との交信を図るために。
私はその舞を踊ることを許された巫女として、この青銅の剣を片腕で振り回すに至る鍛錬を積んできた。元々、村の娘達も例外ではなく畑仕事で重い荷を運ぶので鍛えられてはいるのだけれど、雅に心打つ舞を魅すには、やはり専門的な試練が必要になる。
その剣がもしかして今、蒼く光っているのかと思った。
月光が満遍なく降り注ぐことは無いこの森だけれど。
村では、木が剣を生んだという人もいる。木に宿る生命が具現化したのだと。
だから、儀式で月に照らされる剣は、寺院の「月舞の舞台」で誰の目をも奪った。そして誰もが言う。木に生命が新しく宿る、と。
「……洞窟に置いて来たはずの剣が蒼く光っているのかしら。姿を見せない彼が運び込んだのかしら」
私は草地を歩き進みながら、青い光りに近づく。黒い影となる巨木の群生の先。それは近づく。濃い緑の草にもまるでサファイアの粒が如く光りを乗せて、そして木の幹に蔓延るツタの一枚一枚をも蒼く染め上げている。
ほう、ほう、と梟が頭上で鳴く。危険を知らせるような声では無いわ。落ち着き払ったもので、それは神の使途なのかもしれないと思う程。
しんと染み渡る蒼。
暗い木々の天井を見上げる。深く葉が折り重なった庇になって、所々、雪は山の如く堆い。
「何故、この辺りは草が生えているのかしら」
雪に覆われているはずの冬の大地と森。ここだけは異世界めいているのかしら。
私は巨大になって行く光りに辿り付くと、それを見上げた。
自然と膝を付き。
突然、胸が高鳴ってひれ伏していた。
それはあの、例の名の無いお方が座っている姿だった。数日前、雪原に見た冬将軍のままの巨大な彼。彼がその彼と見合うほど大きくなった青銅の剣を手に、涼しげな瞳で鎮座している。
「舞を……」
私は視線だけを挙げて言う。
羊毛などで出来た分厚い長上着を放っていた。肌を凍て付く寒さが刺す。舞を踊り始めた。
そして唄う。
「嗚呼 月の御代に
我の舞を見んとすれば
出る神よ 青剣に代え
御前に我は 賛美しましょうぞ
影に入りずんば その前に その先に
育まれし 悠久と 新たなる生命を
木に宿したもう 大地に芽吹かせ
雪の元へ 御命を 宿られよ」
彼は優しく微笑み、そして蒼い光りを溢れさせながらも剣を天へと掲げた。
あっと私はそれを見た。
まるで矢の様にその剣は光りを盛大に伴って天を駆けてゆくのが木々の上にも見えた。
草原の方まで、一瞬にして彼の持っていた青銅の剣が蒼い一直線の流れ星の如く走った。
私は走った。
いつの間にか元の通り、雪の降り積もる森を走り、そして雪原に来る。
雪が蒼く光っている。それは、あまりにも美しくて、声も出ないほどだった。あの剣が刺さって、内側から照らしているのだわ。
雪は真っ白くて密度が高いから、雪原の一箇所だけがしんみりと光っているのだけれど、その表面はまるで透明度の高い水晶が青に染まっているみたい。そしてふわふわと雪の結晶までもが青に染まって舞っている。とっても小さなその結晶たちが。
私は微笑んで、そして涙を流していた。
「きっと、新しい木の生命は芽吹く」
私は目をつぶり、そして祈りを捧げて感謝した。
洞窟に戻るまでに、彼の姿は再び見当たらなかった。今度はもしかしてとても小さくなっているのかもしれないと思ってもいたけれど、見当たらなかった。
松明を壁に掛ける。
強い眠気。雪の上を歩くのは体力が要るから、何往復もして疲れたのかしら。冬は村は通常、家も雪で閉ざされるから、共同の大きな家屋に村人が集って冬ごもりをして過ごす。じっと家屋の内側で手元の仕事をしながら待つのだ。一歩も外には出られないから、ずっと日がな一日眠っている者も多い。冬眠状態のようなものだった。
唯一、積雪の量も踏まえて建てられた寺院だけは雪には埋まらない設計になっていた。今でも儀式進行の男達が数名、寺院で待っているのだ。ただただ静かに、静かに。
そうこう思っていると、瞼はしっかりとふさがれ、口許も綴じきり、意識は深い深い眠りの底へ落ちて行く感覚。髪を頬に、布団を引き寄せてこんこんと眠りに落ちた。
夜空を見上げていた。
ちらり、ちらりと、白い雪が降ってくるのだと分かって、そして、不思議に思った。自分が何故か浮んでいる感覚だから。首を傾げて足許を見た。すると、雪が一部窪んでいて、そこに針葉樹の葉がうもれている。まるで幼木の頭が見えているみたい。
私は浮んだまま、その針葉の先に一つ、二つと、雪の結晶が舞い降りる様を見ていた。それはどんどんと降り始めた雪に一気に隠れて、これからまた幼木も眠りに就くのだろうと思われた。
そして顔を挙げると、景色は変わっていた。
古い格好をした男の人の背がある。
それは季節が変わった明るい森。
けれど、私の知らない森だった。
畏怖すら感じる程に大きな壁がそびえていた。だけれど、それが実は木の幹なのだと分かったのはしばらくしてからだった。周りには夏場に森で見かける動物や昆虫、鳥がいる。上を見上げると、針葉の揺れ動く先から、まるで針の穴のような光りの粒が見える。それほど頭上を折り重なった葉なのだ。
男の人は私達の民族の古えの人たちがしていた髪型をしていた。それは黒髪を八つの連なった八の字にして飾りをつけているものだ。そして、男の人が腕を掲げると、見慣れたものが姿を現した。
それは剣。しかも、彫刻までもはっきりとした。長い年月でそれは削れて滑らかになっていたみたい。私が知る剣よりも、精巧な作りをしていた。
胴体で見えなかった剣が天高く掲げられた時、男のしなやかな腕の筋肉もあいまって、なんとも逞しく惚れ惚れしてしまった。
男はそれを幹の間に入った溝に目掛けて、振り提げた。グウン、という鈍い音を立て、剣は縦に突き刺さった。溝にしっかりとはまるかの様に。そして、その剣は微かな木漏れ日を浴びて、きらきらと光った。
意識は遠のいていく。まだ、見ていたいというのに。
私は体が浮いた感覚のまま、強制的に目を閉ざされた。
あの男は何者だったの? 村の昔の人だったの?
ハッとして私は目を開いた。
そこは洞窟。寒さが頬を嬲る。視線を移動させると、遠くで松明。まだそんなに眠っていなかったみたい。
息をついて、頬に髪がなめらかに降りる。
あの男の夢、覚えている。剣を壁ほど大きな木の幹にある溝に突き刺していた。けれど、木からみればそれは針ほどしかない程の大きさだった。だから木もびくともしない不動の態で、そこにあった。
男の顔、最後まで見えなかった。
あの人が洞窟に再び姿を現してくれたら、何か聞けるのかしら。
私は起き上がると、一度しっかり座ってから気を統一させるために目を綴じ、しばしじっとした。
これから日々の儀式に入るので、精神統一をしなければならない。冷水にも浸かる。
目を開くと、歩いて行った。
いつもの行程を経る。
衣服を置き、冷水に浸かり、儀式の衣を纏い、葉枝を取り出し、それを鏡に降り掛け、そして、剣にも振り掛けるはずだった。
私は目を見開き、あるはずの剣が無かったので言葉を失った。本当はこれから舞を踊り、祈りを捧げ、剣を手に舞い、唄を歌い、儀式を進めなければならなかった。
しかし、半ばで止める訳にはいかない儀式。私は気を落ち着かせて行程を踏んだ。心臓は変な音を立てている。気を落ち着かせるなどといっても、どうすればいいものか。
あの雪原や森で見た蒼い幻想は、すぐにでも思い出せる。冬将軍が現れて、蒼く光る剣を雪原へ流し飛ばしたわ。そして追ってみると、確かに雪原の一部が光っていた。そこに剣が刺さったのだという証だと認識した。
だから、ここには無いの?
私は舞う。葉枝から滴る水。雫は弧を描いて宙に舞う。一粒一粒が光って。
「!」
私は踊りの足を止め、彼を見た。
鏡の向こうにいる。
「冬将軍様」
その私の言葉に、彼は意外そうな面持ちで私を見ては、微笑んだ。
「続けるといい」
私はしばらくして礼をし、舞い始める。
それを見ながら彼が言う。
「疑問に思う事は無い。剣は願いを聞き入れた。そして、あるべき場へと戻ったのだ」
「あるべき、場所」
回転する私の視野に映る彼は、静かに頷く。
「私は四季を司る者。春の花を、夏の作物を、秋の青空を、冬の凍て付きを。そして生命の巡りを」
背を反る私は葉枝を掲げ、そして体を戻して跳んだ。足首の鈴がしゃんっと鳴る。
「姿を、四季の移り変わりと共に変えられるのですか」
「春は花の内側に、夏は作物の畑を肥やす道具に宿り、秋は青空に、冬は吹雪となって現れる」
「だから、名が無いのですね」
「冬の力は、秋の季節に抱き寄せた高い青の空から連鎖して得られる。そして春の力は、冬の雪の下で育まれた大切な命が芽生える」
爪先で立ち地面をなぞり、そして背を折り、葉枝を振りかざした。
彼は私の髪が体を包む毎に瞳を光らせ微笑んだ。まるでそれは今現在、多くの生命たちが雪に包まれ眠る姿を間近で見守っているかのように。
「蒼い光りは秋の実りの生命が成就したことで生まれた生命の光り。それが百年の祈りを宿した剣に宿り、ついに解き放たれたのだ」
彼が鏡の向こうから現れ、踊る私の横まで来てあわせるように回転した。目と目を合わせながら。彼の伸ばす背筋と、視線を落としてくる涼しい瞳に、胸がきゅっと焦がれる。
手を重ねられ、共に葉枝を持ち舞う。
「私も他の巫女達の様に、共に連れ去ってください」
私は彼の瞳を見上げた。真っ白い頬は、雪のよう。
ふっと体が軽くなり、気が遠のく。
目を開くと、あの雪を纏う森で彼と共に踊っていた。
そして吹雪き始めて、視界を奪う。
三つの場所に成る針葉樹の苗木のほぼ三点を繋ぐ場所に剣が突き刺さった場所があるという。
私はその場所へ行き、そして昼の陽に背を照らされていた。
ここが、かつて神木となった巨木が立っていた場所。
私はその場所の雪をすくい取る。そして、唇を寄せた。
昨夜、冬将軍様は私の願いを受け入れなかった。
『そなたの役目は、三つの苗木の新しい生命が成る行く末を見守る事』
だから、私はそれを受け入れるつもりだ。巫女として、彼に一生の愛を誓いながらも。
雪を掘り下げても、掘り下げても到底あの剣は姿を現さない。手袋は雪が白く固まるので、外して素手を見た。指は陽に照らされて光る。
「私は、人なのだ」
当たり前の事。無力で、そして尊い一時のみの命を辿るもの。雪に深く刺さる剣など探す事などできずに、ただただ雪の上に、膝を付くのだ。
神に祈りをささげて、百年の重みと村人の死人の儀式の行いで漸く果たされた芽吹きの営み。
私個人の力の小ささなど、元の昔から分かっている。だから、みなで力を合わせてその営みの一部となってきたのだ。
真っ白い雪の上に立つ。
ただ、待ち望むことを村人達に伝えることが役目。約束はなされたのだと。それを巫女として伝えるのだ。
雪をサラサラと誘う風。雪原の先の水色の空にまるで舞うよう。白い花びらは凍てついて、どこまでも冬を伝える。
彼が、この場の季節が何を望むのか、それを知ることが大切なのだと、分かった。
身を清めるための冷水に、膝を抱え座っていた。真っ白い膝。映る陰。私は水面に映った陰を見た。
顔を挙げると、彼がいる。何を言うでもなく葉枝の浮く湯船から私は腕を伸ばしていた。
そして彼の腹部に頬を寄せる。彼はこうべを垂れて、白い馬尾の甲冑が揺れる。そしてそれが激しい音を立てて地面に落ちた。
「……冬将軍様」
彼は私の黒く長い髪を指ですきながら撫でてくれた。
「私はそなたの魂の横にいるだろう。愛と共に。季節と共に」
「三つの新しい神木と共に」
「ああ」
私は安堵とした。こんなに心が惑っている私。巫女としては不合格でしょう。恋を知り、愛を心の内に叫んでいるだなどと。それでも、神に唯一ささげる御大切の心。この心に間違いなどは無い。きっと、三人の巫女とも並ぶだろう彼への愛情。
彼自身との交信を深めた私は、儀式よりも重要な時間が重なった事を伝えられた。なので、これから森を歩くのだと言う。
雪原の間際まで私達はやってきた。
「古の時に、一人の男が剣を立てた。それは巨木に空き始めた空洞を塞ごうとしていたらしいが、それを教授した村の占い師はそのために古から東欧に伝わるアンチ・モンの剣を作らせた。神聖なものとして。そのことで樹木は生命を再び謳歌した。その剣をも木は飲み込んで、木喰いの虫もそれ以後寄り付くことはなく、寿命を迎えて倒れたのだ」
「では、夢に現れた剣の男は虫による木の病気を治したのね」
今日は、儀式の最終日だった。
私が洞窟から出る日。村へ戻る日。
彼が横にいる。その雪原の向こうは冬の凍て付く水色の空。厳しい冬の砦。
その向こうから、男たちが私を迎える為に歩いて来た。それでも、きっと彼等には冬将軍の姿は見え無い。私を見ると、驚きの表情をする村人たち。本来は洞窟にいるはずだから。
私は雪原を歩いた。男たちがやってきて、私だけを見る。私が背後を見ると、やはり、彼は雪に一体化したみたいだった。私は男たちに「十日間、よくやった」と頭を抱えられ、離されてすぐに村へ戻る事になった。
あれから五年が経過していた。
冬将軍様の言っていたように、草原には夏、三つの針葉樹の苗木が発見され、村人達が管理を続けていた。
五年もすると、幼木からまた大きくなってどんどんと背を高くしていく針葉樹。
これから、草原を再び大きな木の三本柱として成長して行くのだろう。
月の晩も、冬も、私は巫女として舞を捧げつづけた。三本の木の間で、元々神木があったその場所で、あの青銅の剣を手に。その剣は三本神木を繋ぐ場所に石の社が建てられ、そこに普段は納められて病知らず、魔除けの役目を果たしている。
草原で私は剣の舞いを魅する。その時、私にだけ見える彼が現れる。春は薄衣を纏う春王として花に乗って現れる。夏は私も振るうクワに宿って力をかしてくれる。秋は青空に溶け込んで、私に聞こえる唄を空に響かせてくれる。冬は、雪に埋まる雪原で私と彼は静かに月に照らされ歩く……。
私が彼に穀物の実を連ねた首飾りを贈ると、うれしげに微笑んでくれる、そんなことが、尊い。
そして年を越えるごとに針葉樹は成長を遂げ、私は妙齢となって行く。
きっと、老婆となって時を過ごすまで、ずっと若いままの彼を横に、草原が森にもどる姿を見守ってゆくのでしょう。
若かりし日の儀式の舞いも、脳裏に鮮やかに浮かべながら。
ライトノベル作法研究所の昔の冬の企画もの発表物
恐怖”煉”愛
どうやらお前は嵌っちまったようだねえ。
えぇ? そうだろう。この”れん愛”に。
なあに、ちょっとしたことで誰しも見つけて嵌っちまうもんさね。
先刻も、ふって闇に魅入られた何処ぞのお嬢さんが、黒紅の夕時に江戸傘も落として、まるで桔梗でも見つけた時みたいに陰に見入って、落ちて来たんだ。
ここは、それらの何かに囚われちまった心を集めた檻。だあれも出て行きたくはなくなっている、まあるい、棘が一杯の、鎖に雁字搦めにされた、だからこそ誰も触れられやしないし、囚われた煉愛人等も出てきたがらないような、眼下に紅い花畑の広がる居心地のいい場所なのさ。
膝でも抱えていなよ。そうすりゃ、夜空と原で鎖で繋がれてる宙の丸い檻の上に停まる鷲も、お前さんを見下ろすだけで、わらわらと笑って飛んでいっちまうんだから、なあんにも恐れることなどない。
集めて着物の袷に溜め込めばいいさ、舞い降りた鷲の羽根、鴉の羽根、どれも、あんたが忘れて行った記憶を辿るための札のようなもんさ。
憐愛、廉愛、漣愛、煉愛、様々なレン愛をして来たのだろうさ。
そんなもの等に疲れちまった人間が、ふと、ここに嵌っちまうんだとさ。
若い頃、アタシもついと嵌っちまったもんだよ。今じゃ、ここの看守みたいに花の下で女郎蜘蛛やっては巣を張ってるがね、元は蜘蛛じゃなかった。前の魂の女はね。
それじゃ、アタシの若い、人間だったころの記憶でも話そうかね。
それとも、あんたが嵌った恋の巣を聞かせておくれよ。
今はアタシや、あんたの方に興味がある。
わたくしは、夜ヶ観 アイ子と申します。
今ではこんなに視野に花を戯れ、爪先で鴉の羽根を花札のように集めて数えていますが、それまでは列記とした奉公人、たった一人の屋敷の女中でした。
夜ヶ観は、明治の今の世に細々と血を受け継いでは男は屋敷へ婿に、女は大きな所へ奉公に出ることで、どうにか夜ヶ観は名はアイ子とわたくしも受けて生きておりました。
女郎蜘蛛さんが教えてくれたように、この煉愛檻に嵌るちょっと前、お屋敷の庭で箒を手に掃き掃除をしていたんですけれど、古い女中が畳で座って縫い物をする姿を端に、彼女から見え無いところで、わたくしはお屋敷の奥様を、ただ見つめていたのです。いいえ。未亡人なのですよ。けれど、このお屋敷でお生まれになったのです。婿養子に入った旦那様は、わたくしの知る範疇ではなく、既にいなかったのです。
古い女中はわたくし等を取り仕切る役目もあって、もの厳しい人でしたから、恋愛なんぞはご法度。彼女に聞けば、わたくしも知らない旦那様のことも知れるものですが、何しろ興味はなかったもので。
女が女に恋をするのかと? ええ。なんにもおかしい事ではございません。夜ヶ観家のいた村は、町へ降りてくるまではその村の地主だったのですが、そこでは村人調節の為に女同士だって恋愛は許されたんです。子を産んでいいのは村で決められた女数名、二人まで。それ以外、皆が家を手伝ったり、手分けして老人や子供の面倒を見るんです。
ええ。お山の狼と同じですね。狼は一匹の雄に数匹の雌がいて、その一匹の雌が子供を産む事を許されて、他の雌が餌を持ってきたり、子供の面倒を見るんです。お山で節度を守るためにね。
わたくしの村も節度を守っていたのです。
それで、町に出てからも、夜ヶ観家は村の風習を守っておりました。
わたくしが生まれたのもその町にある屋敷で、例に習って奉公に出されたのです。それまで、愛だ恋だ御大切は、稚児のお遊び程度もございませんでした。毎日お裁縫の練習、竹笛とお琴の練習、お唄やお花のお稽古を姉としてたんですけれど、わたくしは儀式に選ばれずに姉が選ばれましたので、わたくしだけが奉公人。それが数え十のころでございました。
それからもう、五年が流れたのでございますが、それも、奥方が未亡人になられたんで、お相手で話をする聴き子が欲しいとのことで、わたくしが入ったの。
奉公先のお屋敷は、合川家といって、江戸から続く織物問屋さん。今じゃ、百貨店に大きなお店も構えて、西洋のお客様や大使様方に大層に気に入られて、ちょっと名も知られてるのですよ。
分家が色染めをして、そして織って、独特の絵柄もたんと考案して、江戸の時代はお殿様にも献上されていたのですって。なんだか難しい独自の染め方があるようで、友禅も、それに織る色の絹や仕様も素晴らしいのよ。
けれど、それを奥方はいつもは最低限に地味なお色ばかりを召しているの。
それは、社交にお出でのさいはそれは見事な、合川の奥方に相応な美しい合川の着物をお召しになるのよ。それに、お店に出られる時は、また上品なもの。
なのに、お屋敷では「そんな派手なのは好かないの。こちらで充分」と、草で染めたものを着てらっしゃるその清楚さ。それがね、かえってとってもお色があるのよ。彼女自身の色香が、じかに現れて、なんともいえないなまめかしさを観ぜずにいられなくて。
わたくしのことなどは髪結いなど解かせて、今の女学校のお嬢さん方のように髪を下ろさせることを奥方はお好みで、わたくしは頭に紫のリボンが似合うからと、特別に染めさせてあるもので飾らせていただいて、とても光栄に尽きるのだけれど、女中の一人でしょ? 他の方々には申しわけなくて。
いいえ。わたくしだけが可愛がられてるんじゃありません。他の女中も、撫子色のリボンや、結い髪に朱鷺の形の簪や、桔梗の愛らしい帯留めを頂いて、いつも身につけているの。ただ、紫といったら高貴な色なのだもの。それは、わたくしも心くるしいことお分かりでしょう?
それを聴いて、お分かりかもしれませんけれど、そうなの。奥方は若い女中たちを集めて、離れで鑑賞することを好んでらっしゃるの。合川の着物を着させて、おのおのにあう小物をつけさせて、所有して。お人形の様に思ってるのね。
だから、わたくしたちの間でも自然と優劣がつき始めていたの。わたくし達のような奥方のお人形は皆、紫、撫子、朱鷺子、桔梗と呼ばれていました。ええ。わたくしが紫。ゆかり、と読むほうの、紫。撫子とあわせて、むらさきとお呼びになることもあるんですけれど、お供して馬車や歩きで出かける外ではいつもゆかりとお呼びになるの。そのほうが、名前らしいでしょう?
わたくしがお話の相手、撫子がお花、朱鷺子がお唄、桔梗が日本舞踊を奥方に見せる役目なのだけれど、桔梗が何しろ性格が一にきついのと、色香があるので、大人しいわたくしのことがおいやだったみたい。奥方に一に気に入られているのがいけなかったのね。撫子はほがらかな子で鈍感で、いつでもコロコロ笑ってるちょっと変わった子。お花の腕前も変わってるのよ。朱鷺子さんは何かいつも世間などはどこ吹く風でひょうひょうとした静かな方で、一番上品な顔をしているの。わたくしはどちらかというと、目鼻立ちが深いものだから目立ってしまうのかもしれないけれど、桔梗さんの色香のあるあでやかな顔立ち、紅も合うし、引き締まっていて、それはまた美人なのよ。
きっと、わたくしがただ静かにお話を聞くことが奥方はお好きなのね。
母屋でお話やお花、お唄や日本舞踊を楽しまれるんだけれど、離れでも時にお楽しみになるのよ。その時はお茶や、お琴をわたくしは嗜んで奥方にお聞かせするんだけれど、他は貝合わせや、だいだいはちょっと、妖しげなお香ね。それをみなで楽しむの。お聴香をしている内に、だれも良くなってきてしまうの。
その時に、一夜ごとに増すのが女の闘い。奥方は知らないのよ。なあんにも。
その日もたくさんの友禅や織り物、美しい帯にわたくし等は離れで囲まれて、奥方があれやこれやとわたくし等の着せ替えをゆったり楽しんでらしたの。衣紋掛けや衝立に掛けられ、畳に流れ横切る帯など着物の柄の美しいこと。蝋燭に揺られて、障子にも孔雀の襖にも影が鮮やかに揺れるの。
そこで、桔梗さんがわたくしに呟いたの。何だったかしら。けしかけられたのよ。いつものことですけれど、わたくしははたと真横の彼女の微笑する紅を見て、蝋燭に光る目を見たの。
その時ね、閉じ込めていた感情というのが一気に菜種の油に火が誤ってそのまま落ちて小皿がぼっと明るくなった様に、心が言うに言われぬものになったの。桔梗さんの向こうにある鏡台に彼女の美しい友禅姿が見えて、わたくしはまだ何も召さずに白い身体が浮く状態。それは着せ替えのときのいつものことなのだけど、自棄にその時は、桔梗さんの背腰の絢爛な黒と金の花帯が恨めしくなったのね。
翌日のお庭の掃き掃除をして、奥方が母屋のお座敷にいらしたお姿を視野におさめている時だったの。
ふと、桔梗さんがなんともいえない人だと思ってしまったのは。
上手に言い表せないのよ。言葉を知らないものだから。
ただ、胸の辺りの心地のざわつきと言ったら、ええ、あれは、焦りというものなのだと思います。そんなこと、みっともないと思ってわたくし、すぐに心から打ち消そうと思ったのです。
奥方をふいと見つめると、彼女はふと顔をおあげになって、それはそれは、とてもあでやかに微笑みなさるの。わたくしは胸のあたりがぽおっとなって、いつでも心囚われてしまう。彼女のみが生きる自分の価値と。
だから、桔梗さんに取られたくない。
わたくしは箒を持ったまま佇んで、それを視野の端に映る古い女中が視線を上げ、厳しい目つきで静かに見て来るものだから、すぐに奥方から視線を反らして、仕事をしなければと思ったのですけれど、動けなくなってしまったの。
奥方の視線。独占されたい願望。それが足枷となって、明るいお庭で雁字搦めになって……。
と、思えば、わたくしはここの檻に囚われていたのです。
札を一枚一枚覗けば、ええ。奥方との愛情だけが思い出されるのです。他の誰もいない、素敵な思い出。それを、要る思い出だけ左の袂に、要らないのを右の袂に入れて、そして再び降ってくる札を手に、袷に仕舞って、まあるくなって眠りに就いて、花の香りで目覚めたら、また札を数えて……。
ああ、わたくしは、まだ奥方の離れで戯れているのね。
きっと、そうなのだと思うの。
すやすやとまあ、眠っちまったね。
ここは紅の花の原に、星の天まで幾つも鎖に張られた丸い檻が点々と宙を飾ってる煉愛。
なぜ、恐怖煉愛といわれてるかって? そりゃ、こいつ等が自分のほんとの怒りに気付いちまった途端に、始まっちまうからさね。檻からドザッと落ちて、それで般若のなりで髪も振り乱してこの紅の花の原も駆け抜けていっちまうのさ。恋という幻想をまだ見てたいから、怒りで汚れちまいたくないから、ここの檻にい続けるのさ。
けれど、恋愛のその後の恐怖なんて、すぐそこに転がってるんだ。ここに閉じ込めておいてるだけでね。そして、それがどっちかの結果になると、この原にもう一輪、紅の花が咲くのさ。ここはそれらの怒りに触れちまった者等の紅さ。
しかしね、天を見上げるといい、あの星は一つ一つ、気持ちに折り合いをつけて、この檻を抜け出せて昇天してった者等の汚れ無い純真の砦。死しても星。
だからね、囚われたらいけない。
そりゃ、生きてる内に激しい怒りもあるだろうさ、許せないほど汚い人間にであっちまうこともあるだろうさ。そいつ等はまた他の煉獄に落ちるんだよ。
だから、そいつらの穢れなんかに付き合ってちゃいけない。女一人でも抜け出すんだよ。囚われないために。
わたくしは目を開きました。
眩しくて、目を細めました。いつもの小鳥の囀り。緑から木々に飛んで移る小鳥。
ふと顔を上げて、見慣れた木々を見回しました。
わたくしは佇んでいたのを、ふと顔を向けました。
座敷では奥方が立ち上がって、襖から出て行きます。
「紫さん」
「はい」
わたくしは箒を持ったまま、古い女中に体を向けました。
「心ここにあらず」
「今、ここに」
ふと胸の辺りに手を添えました。
古い女中はそんなわたくしに微笑んで、縫い物を再びいたしました。
ふと、もしかしたらあの時見た女郎蜘蛛は古い女中だったのかしらと、変なことを思うのです。彼女だって老いてはいますが、美しい人なんですよ。若い頃はそれは恋波の一つや二つは心揺らしたことでしょう。
何故か、こんなに天気のよろしい場所にいると、ふと心が軽くなったのでございます。
花びらに落ちる光りと影、岩に蒸す苔の緑、白い砂利を飾る光り、松の鋭い影や、ユキノシタの葉、池を泳ぐアマガエルなどを見ていたら、心が和んで、木々が香ることが心を美しくするのです。
奥方がいらっしゃって、今日もみなで馬車で出かけて、和菓子を買いに出かけましょうと、お声を掛けていただいたので、わたくしもお供することになりました。
先ほどまでの箒も仕舞いまして。さっさっと。
パルファン
あの香炉から立ち上る薫りはどこか懐かしいものだった。吾が幼い頃に日常的に横にいた女中の……ああ。その女の項から立ち上ったもの。湯のみを差し出す着物の袂からや、そっとこうべを垂れるときに首筋から薫ったもの。
どうやらあれは今一筋に煙るお香と似た、または同じ材料なのだろう。一瞬にして呼び戻される記憶は吾の視野さえもその情景に立ち戻らせたのだ。蝋燭の灯り。障子に広がる橙色。畳は張り替えて時間がたっているわけでもなく光沢があって、夜は風音が伝えるだけ。だから、片胡坐をかく親父の酒を注ぐときも、正座をする吾に茶を出すときも、いやに女中のしぐさはなまめかしくて仕方が無かった。ゆらめく蝋燭は不規則で、向こうの影に腕を組み座る伯父貴のまぶたは動かないままだったのも、ふと開けばなよついた肢体をかもす女を見る瞳を静かに光らせたのだ。
一瞬の追憶のあと、息を吸い込み目を開くと現代に戻っていた。
そこにはもちろんあの和室は見当たらなく、美しかった女もいない。その女は名前をルイといった。列記とした大正の日本人だが、父と母が出逢ったパブの名前がルイといったらしく、ホステスだった母がそこの女将さんに世話になっていたとかで同じ名前をつけられたようだ。ルイ自身はその名を気に入っているとは女中という立場では私事の感情は述べなかったが、隠しきれない色気は何かを物語っていたものだ。名の由来に関しても伯父貴が雇い入れる時分に訪ね応えたことらしい。日本人でなければ作法や言語が完全に通じないときもあるからだった。
「要さん」
吾は名を呼ばれ、静かに顔を向けた。西洋風の店内は落ち着き払ったレトロな空間であり、どこぞのぼっちゃんやらなんやらが若い彼女を引きつれ上品に見回っている。
「こちらの懐中時計、よろしいんじゃないかしら」
「どれ。見せてご覧」
ガラスの先にはビロードに乗せられたその丸い金細工が置かれている。吾は手袋をはめた店員にそれを出させ、確かめる。
説明などは先ほどからの香炉の匂いに脳裏はぼやけて聞き耳などは半端なもので、視野には肩越しに微笑する女中や静かに急須を傾ける横顔が印象的に浮かんでいる。
「要さん。これ、素敵ね。妾これが欲しいわ」
ふと深緑の着物がよく似合う許婚の零子を見ると、横にそれを掲げてにっこり顔を傾け微笑んでいる。彼女の父親に贈るものを見に来たのだ。いきなり零子は吾の顔を覗き見てきて、黒い瞳が揺れる。
「どうか、なさったの?」
「いいや。何でもないよ」
手に手を当て微笑んでから、店員を見る。
「見繕ってくれ」
吾達はその間、紅茶をブースで出されながら会話をしていた。
「まあ。香炉で女中を思い出して?」
「遠い記憶さ。まだ吾が七歳ぐらいの頃でね」
「それは……一目惚れかしらね」
頷くとカップを傾け、店内のレコードクラシックに紛れる零子の心地よい声音に応えた。
「毎日ね、庭の落ち葉を掃きながら唄を歌っていたんだよ。それはシャンソンで、それを彼女が日本語の歌詞をつけたものだった。どうやら母親が育った場所はフランス人のピアノ奏者と歌い手がいたとかで、えらく堪能でね」
「唄ってくださる」
吾は思い出しながらそれを唄った。
ざー、ざー、という、葉や砂が竹箒にかすれる音も記憶に蘇る。吾はよくその背後から飛び石も無視して駆け出し、足元にしがみつきに行った。邪魔しようとかではなかったが、女中はよく驚いて見下ろしてきた。あの落ち着く焚き染められた香の薫りが鼻腔をくすぐった。いつでも伯父貴に見つかると叱られてとっとと算盤を習いに部屋に戻りなさいと言ってくるが、それまではずっと唄いながら掃き掃除をする声を聴き続けた。
馬車に乗り込み、扉が御者によって閉ざされる。
零子は車窓から空を見上げた。
「降りそうね。雨か、雪」
雨は薫りを絶つが衣服に染み付いた薫りを体内にしみこませるかのようで、頷きながら目を綴じた。馬車が静かに進んでいく。蹄の音は響かせながら。店から離れれば、再び降り出した雨の匂いに占領されてあの女中の記憶はヴェールを被って行く。あのシャンソンも馬車の音に混ざり合って軽快に。
今に、雪に変わってゆくだろう。
庭園の椿の横に横たわったルイの横顔と、伯父貴の背中の記憶も雪に包まれていくかのように、その場所だけ静かな愛情が舞うように。白の上の椿のこうべが彼女の簪を落とした黒髪を彩った全ても、包まれてゆく……。
揺らめきの先で
揺らめきの先で……
一
「美夏お嬢さん」
障子を開けて庭園の望む回廊を歩いていた私は、番頭さんの声にすっと足袋の足で振り向く。
古くから続くこの花貴酒造は、父の代で八代目。姉の旦那である冬壱(とういち)さんが将来は杜氏頭になる後継ぎを育て上げるために、現在私達の父と共に修行を積んでいる。甥っ子である耶麻(やま)は現在六歳。番頭さんの幼い息子さんとも同年で、よく座敷で二人で遊ばせている。奥様が息子さんを産んだ後に亡くなられたので番頭さんは若いながらの男寡。一人息子のために毎日必死に屋敷を駆け回っている。
「番頭さん」
短く刈り上げた髪に手を当てて、恥かしげに微笑んでくる。彼は高校生の私にもいつでも頭を下げてくるので、私はどうしたらいいのか分からずにいつでもはにかむ。爽やかな目元はキラキラと光って、今は枝だけの枝垂れ桜や濃い緑の松、それにさらさら揺れる竹や、蕾をつける梅の木を背にして、それらがよく似合う人。
「こちらの匂い袋はお嬢さんのではなかったですか」
「あら、まあ」
彼の大きな手に、小さな貝の匂い袋。紫色。
「どうもありがとうございます。これをどちらで?」
「へえ。玄関口、下駄の横に隠れてございまして」
「それはうっかりしていたわ。さっきね、御味噌を御用に頼まれて出ていたの。その時ね」
それは微かに香る気品あるもの。手に受け取ると、帯に差し込んだ。
「すっかり、冷えて来ましたね」
「ええ。本当……」
白石の敷き詰められた庭園は、今は陽が差し込んで玉砂利がキラキラと光っているけれど、吹く風の涼しさ。それは刻々と冬を告げて私たちの間も行き過ぎる。番頭さんの白い頬にも陽を射させて。
「息子さんも風邪を引きやすいから、もう温かくさせとかなきゃならないわね」
「ええ。あいつは女の子みたいに弱いから、もう少し大きくなったら野球でもサッカーでもやらせようと思ってるんです」
息子さんは大人しくて真っ白い肌に真っ黒い瞳と揃えられた髪で、いつでもお行儀良くお手玉や手まりをしている。お歌を歌ったり、庭で三毛猫の背を撫でたりしている。その反面、利発でいたずらっ子な耶麻はたまに御爺様に呆れられるほどで、お神酒を飲もうとし始めたり、榊を振りまわして踊り始めたりなどするから、もしかして動物に憑かれてでもいるんじゃないかと、御婆様に連れられいそいそと出て行ったこともあったけれど、それを知るやいなや耶麻は大驚きして注射を嫌がる猫の如く御婆様を引っ張って戻って来たのだ。これは姉の旦那さんも手を焼いて耶麻の躾に泡を食う姿をよく見ている。
私は、また葵、ユキノシタの横から出て来た三毛猫を見ていると、番頭さんが体を私に向けて来た。縁側には私たちだけ。猫は見てきてから、また向こうへ歩いていく。
「俺はお嬢さんに……」
「………」
瞬きを続ける私は手をもたれていて、今に自分の瞬きの音まで聴こえそうだった。微かに風が吹き上げて、鼻腔に匂い袋の香りがくゆる。
「す、好おかぱぴぷあ」
「へ、へ……?」
いきなり彼はずるっと滑って縁側に倒れ、その彼の横にあった青銅の吊るし行灯が、不気味に、焔をくゆらせた。
「……え」
彼の手を握ったまま私は崩れた番頭さんから震えつつ行灯を見て、動けなかった。脚は震えて、そして蒼く燈る行灯の光りが一瞬大きくなる。向こうの青空と同じ色味の光りで。頭では番頭さんを助け上げなければと思っているのに、明りから目もそらせないし、視野の下方に映る番頭さんは私に手をがっしり握られたまま、まるで生まれたての山羊かのような体勢だった。
行灯の明りはうつろいはじめると、ゆらゆらと行灯から離れ始めた。そして空の色とは交わることもせずに、庭をゆらゆら、ゆらゆらと流れていく。三毛猫はただ一度見上げただけで、何ごとも無く歩いてそして柘植の木の向こうに隠れた。柘植の向こうには椿があって、その先にはここからは見え無いお社がある。猫はよくそこにいて、番頭さんの息子さんもそこにちょこんとしゃがんでいるのだ。
私はその息子さんの顔が浮んで、ようやく体の強張りが解けてしゃがみ、番頭さんの頬に手を当てた。横顔は眠っていて、凛とした眉は潜まれてもいない。
「どうしたの?」
おちゃめな声に振り向くと、耶麻がいた。
「え!」
すぐに驚きの声を上げて、手に持っていた竹トンボを握り締めたまま走って来ると、番頭さんを見る。
「おーい!」
ばしばしと背を叩いて起こそうとするけれど、私よりも声が大きいのに目を覚まさない。
「!」
一瞬、視野の向こう、庭の奥であの蒼い光りが強くなって、私は無意識に二人を隠すように腕を掲げた。なんなのかしら? 光りはゆらめいている。
「パパ!」
ぐーぐーイビキをかきはじめた所で番頭さんの息子さん、静也(しずなり)くんが三毛猫を抱えてやって来た。
「パパ!」
「うーうん」
番頭さんが目を覚ますと、ぼんやりと静也くんを見た。三毛猫がいきなり番頭さんの顔面に前脚でとんっと降りて彼が「フギャ!」と言ったので、皆してつい声を出して笑ってしまった。
庭を見ると、あの蒼い光りは消えていた。
「………」
行灯も、ただ静けさを湛えている。
二
床について私はずっとあの蒼い光りのことを考えていた。
一体、あの光りは何だったのかを。
暗がりで天井の木目を見つづけていると、襖を叩く音が聴こえて顔を向ける。
「どなた?」
「僕だよ」
「あら。いらっしゃいよ」
甥っ子の耶麻が襖の間からくすりと笑った顔を覗かせて、それでから戸をしっかり開けた。その向こうに広がる畳に一面の障子から蒼い月明りが鮮やかに差し込んでいた。
「見てよ! 父さんも母さんも起きてくれないけど、凄いでしょ! 僕、明るくてすぐ目を覚ましたよ!」
私は肘をついて起き上がって、体が勝手に動いていた。すぐに布団を出て耶麻の腕を引いてこちらにこさせる。後ろにやると、肩に羽織りを掛けて寝襦袢で立ち上がった。
「どうしたの?」
まだあどけない声で見上げて来て、腕に両手を当てて来る。
「綺麗ね。けど、お外に誰かいないか見て来るわ」
「もうちょっと見てようよ」
確かにとても神秘的なのは確かだ。何だろう、崇高な物を感じるわ。だから、それほどに……恐い。
「僕、お話聞いたんだ。お庭に青いちょうちょが出て来るって」
「誰に?」
「静也だよ!」
うれしげに言う。蒼い光りは強さを増して、ここまで届いて私の白襦袢や、それに耶麻の無垢な笑顔の頬も染め上げる。やはりどんなにやんちゃでもまだまだ純真な子供なのだ。だからこそ、守らなければ。その正体の分からない何かからは、今は。
「静也ちゃんはいつも、夜は叔母さんのおうちへ戻るものね。きっと、もっとお庭で遊びたいのよ」
「じゃあ、一緒にお庭に出よう」
手をぐいぐい引っ張って来る。
「……え」
私の手を引っ張って前を行く耶麻の背に、尻尾がうねった。
「なん」
強く握られる手に、私は恐れをなしてその場に座る。
「どうしたの?」
振り返った耶麻は、やはり三毛猫の耳が生えていて、そして黄色の鋭く大きな猫目に、鋭い口許、そしてひげの生えた猫鼻……。
声が出ずにがたがた震え、障子が向こうで開かれた。自然に。
私はぞくっと震えて、その先を見る。
青に充たされる日本庭園が、雪に包まれていた。寒くて自然に震えて、そしてきらきらと美しく青い月に光る雪がやわらかな曲線を描き、広がっている。松も、竹も、静かな雪を乗せている。吐息が白く凍え吐かれて、そして蒼い光りがふらふらと移動していく。それに気付いた。それは、蒼い蝶。とても美しくて、蒼い鱗粉をキラキラ舞わせながら舞っている。
耶麻を見上げた。「ニャア」と言って、そして手を引っ張って来る。耶麻の大きさの浴衣を着た三毛猫が。
「耶麻、なの? なんで猫の尻尾が生えてるの?」
「一緒に早くお庭に行こうよ」
ぐいぐいと引っ張られて、膝手を突きながら引っ張られて行く。畳まで出ると、その畳はひんやりとしていて、私は立ち上がった。
歩いていくと、縁側の前まで来る。
「まあ……」
庭では、何人かの……、何匹かの、耳と尻尾のある白襦袢の白髪達が、とん、とんと跳びながら舞っていた。ちょうちんを手に、とん、とん、と、雪の薄く積もる部分に。真っ白い耳と大きな白い尻尾。誰も雪のように白い頬をして、とん、っとんと跳ぶ毎に白髪も艶を受けて揺れる。
一斉に、地面に片脚で降り立った彼等が私を見て来た。
「………」
既に耶麻が私の手を繋ぐその手は六歳児のものでは無い、猫のものになっていた。
耶麻猫が手を離して歩いていく。それで、その彼等の先に、お社だけが浮かぶ様に雪をかぶってはおらず、そして蒼い光りが灯っていた。
耳と尻尾の生えた彼等が歩いていく。それは、誰もが純白の猫の耳と尻尾だった。
私は用意されていた雪駄に足を通して、雪の日本庭園を歩いた。その途端、見上げる闇の空から白い雪が降ってきた。風にあおられて斜めに。
髪を押さえて、羽織りを引き寄せながら歩いていく。
お社の左右に彼等が立ち、私は背が高いと知った彼等をそれぞれに見上げてから、蒼い光りを見た。
それは雪にも広がっている。
こうやって見ると、とても優しげな光りをしている。とても、とても。
いつでも耶麻がまるでまたたびを得たかの様に執拗に遊ぶ榊が左右にいつもの様に飾られている。いつでも本物の三毛猫もここにいて、静也くんもここにいた。柔らかな猫の背を撫でながら。
「静也が生まれたのも、こんな雪の日だった」
何処からとも無く、声が振って来る。私は見上げると、誰もが目許の隠れているから、誰が声を発したか分からない。
「白椿様が社に戻られたのも、その日だった」
私は静也くんのお母さん、椿さんの名前に、それを言った人を見た。
「蒼い蝶や、青の光りに姿を代えて、いつでも見守ってた」
「ゴロゴロゴロ」
耶麻が三毛猫の顔で手の甲で頬を撫でていて、尻尾をうねらせていた。
「椿さんは……」
何者だったの。その言葉は、まるで雪が降り積もるごとに見えなくなっていく言葉のように、体の底へと沈んでいく……。
視野がまるで眠りの淵から夢を見るときのように、揺らめき始める。雪は吹雪き始め、どんどんと社もうっすらと雪を纏い始めて、そしてなおも、優しく光りがその先からぼうっと光る……。
三
目をパチッと覚ますと、私は床に就いていた。
「……夢?」
起き上がると、横で耶麻が眠っていた。また猫の様に丸まっているので、微笑んで布団をかけてあげた。
静かに布団を出ると、襖を開ける。
「朝」
明るい陽射しが射していて、障子は閉ざされたまま。
振り向くと、猫では無い耶麻がむにゃむにゃ言っていた。まだ眠りたい時間だろう。今日は幼稚園は休みだから、また厳しく躾の時間が始まるまでは寝かせて置いてあげよう。やはり叔母心なのか、甥っ子が可愛くてついつい甘やかしてしまう。
静かに襖を閉ざすと、畳を歩いた。そして、障子を開ける。
「あら。おはようございます」
番頭さんがいつもの様にお庭をホウキで掃いていた。まだ秋も深まった冬間塚のこの季節。昨夜、一瞬雪になったのは幻か。とても美しい、えにいわれぬ夜だった。
「おおはようございます。美夏お嬢様」
少し噛んだので、私のほうがつられてはにかみながら庭を見渡した。この時期は朝露がきらきらと光って、庭を飾っていた。爽やかに笑う番頭さんも、白い歯を光らせている。
今になって襦袢姿に気付いて、すぐに口許を羽織りの袖で押さえた。私ったら、こんな姿で。
「それでは、私はちょっと……」
すぐに引いていき、襖を閉ざすと額に手を当てて「しまったわ。はしたなくも私ったら」
「美香ちゃーん」
欠伸をしながら起き上がった耶麻を振り返ると、こちらを眠り眼で見て来た。
「僕、厠に行ってくるー」
「ええ。行ってらっしゃい」
とことこと歩いていく、その背に、一瞬尻尾がうねった気がした。瞬きすると、すぐに普通の耶麻に戻って錦の掛けられた鏡台の角の間口へ見えなくなっていった。
私は身支度を終えると、既に庭は掃除を終えている時間だと分かっているので縁側に出て回廊を歩いて母屋へ向うことにする。女衆は朝食の準備だ。
障子を開けると、やはり番頭さんは次の仕事に移っていた。耶麻はいつもそのまま両親のいる場所に向かい、既に起きている祖父と祖母の部屋に三人で挨拶に向かい、そのまま躾の時間に入るので、ここへは戻って来ない。
庭を見渡す。きよらかな庭。
ここからは見え無いお社。
小さな頃、お婆様から聴いた事があった。私が、あれは誰が祀っているお社なの? と。
『あのお社にはね、緒猫様が祀られてるのよ』
すると畳に『緒猫様』と指で描いてくれた。
『むかしむかし、三代目が絹の緒に絡まれた純白の猫を酒蔵で見つけたというの。鼠捕りにしては細いし、珍しいので、絹に絡まれて動けなくなっているのを助けてあげたのね。そうしたら、その白猫は感謝の気持ちか、その時代はまだ小さかった小川から銀魚をとってきたり、鼠をとってきたり、蛇をとってきて三代目の前に置くの。あんまりに綺麗な糸だったから、それを奥方が結って紐にしてあげて、それをいつき始めた猫の首に結わえてあげたのよ。それでから、白猫は酒蔵の猫になって、よく鼠を捕らえてくれるようになったのね。三代目も奥方も大層その猫を可愛がって、あまりに綺麗な毛並みに惚れ惚れしていたの。招き猫だったのか、花貴の酒はその年から地主様にも大いによろこばれるまでになって、城にまで献上される程になったわ。彼等はとても白猫に感謝をしていたそうよ』
それで、白猫のための社が建てられたのだという話を聞いた。
朝の明るい庭を見つめながら、しばらくしてハッとした。
椿の木の下から三毛猫が現れて、歩いていく。
「おまえ」
猫は声に気付いて私を見た。
「おいで」
猫がやってくると、私を見上げてくる。
「おまえ、耶麻にもしかしてとりついてなどいないわよね?」
三毛猫はまるで呆れ返ったような顔をして目をいつもの様に伏せさせ、歩いて行った。骨太でがっしりした三毛猫なのだけれど、いきなり二本足であるくこともせずに向こうへ行く。スズメを見上げて耳をぴくぴくさせ、じっと見始めた。なので、私は「まさかね」と言って、急いでお勝手へ向った。
四
「あら。静也ちゃん」
昨日の事が気になり、お社へ来た。今日も静也くんがおはじきを猫に見せてあげている。それを並べて、きらきらと太陽に照らされて、透明な影が落ちているのが眩しくて目を細める。
静也くんも目を細めて太陽を背にする私を見上げた。私はしゃがみ、微笑んだ。
「おはようございます。美夏さま」
「おはよう。もうちょっとで、耶麻もお習字のお時間が終るわ」
「はい」
静也くんはこくりと頷き、猫の背を撫でる。
「でもこうやって遊んでるから」
それが、まるで普段は耶麻に乗り移っている三毛猫と遊んでいるから、という風に聞こえたのは、私の思い凄しだろうか。
私は今は彼岸花が揺れる先にあるお社を見上げた。
「?」
蒼い光りが、扉の向こうに揺れた気がした。静也くんが立ち上がり、その前まで来ると私を見上げた。まるで、蒼い光りを守るかのように。
「何もしないわ……」
私はつぶやき、まっすぐと、そして睨むように見上げてくる静也くんを見た。
「僕たちは、美夏さまが相手でも、負けないもん」
いきなりそう言った静也くんは、大きな目に涙を浮かべて猫を抱きかかえて走って行ってしまった。
咄嗟に振り返って、秋の庭に走って行く小さな背を見た。抱きしめる三毛猫の尻尾がうねったのではない、白い尻尾がうねって影を落として柘植の木の向こうへ走っていってしまった。
背に温かい感覚を感じて振り返ると、青銅で出来た鏡が蒼い光りを灯らせた。その鏡の前には、古びた絹の緒が置かれている。
「静也くんのママは、白猫なの……?」
誰にとも無く言ったのでは無い。光りに問い掛けていた。緒は蒼い光りを染み渡らせていた。格子先のそれらは、現実にあるものなのに全ては青の色味が幻想を導く。それが揺れて格子を越えて、私の横を揺らめく。着物を染めて、そして庭を行く。私は追いかけた。
静也くんを探しに行くんだわ。あの光りは。
離れを横切り、蔵を横切ると母屋まで来た。廊下を歩き、陽の伸びない暗がりを蒼い光りを追いかける。床にも反射するその色を。漆喰の壁をぼうっと染めて。
角を曲がって、その先に青銅の重々しい扉がある。横には箱庭。獅子脅しがいきなりカンッと鳴り、私はビクッと肩を震わせた。扉の前にいる静也くんの背を見る。茶室障子とこの廊下に囲われた小さな庭の軒先に吊るされた青銅行灯に蒼い光りは入り、静也くんが振り返った。
驚いて、その顔を見た。猫の顔だった。
「パパに言っちゃ駄目。ママが、椿という名前のひとが、猫だったんだって」
蒼い光りがぽうっと強くなると、常緑樹の揃う箱庭に女性が現れた。白い着物。それは、椿さんだった。
「椿さん……」
明らかに透けている。静かな笑みを湛える顔立ちは変わらないまま。私に絹糸で刺繍を教えてくれたり、あやとりを教えてくれた人。お世話になった人。それで、ずっと番頭さんの好意を私は避けつづけた。
「怒っているの?」
「いいえ」
変わらぬ鈴声で、椿さんは言った。
「静也くんを心配しているの?」
「ずっと、見守っているの」
すーっと、ここまで来た椿さんは蒼い光を宿して、胸がきゅっと苦しく成る程美しい。私はずっと彼女に憧れていた。
「私は、美夏様が静也によくしていただいていることを見てきていたのです。彼があなたを好いてらっしゃるなら、それでいいんだけれど……けれど」
私は俯いて、床を見つめた。
「私はまだ、恋というものは知りません。番頭さんが寄せてくれる好意も、何も」
「お顔をおあげになって」
透けた足袋がここまで来ると止まった。白い長靴下の静也くんの足も並んだ。
蒼い光りの影は、床に二人の白い尻尾の陰を落す。
私は顔を上げると、静也くんだけだった。尻尾も、白猫の耳も生えていない。蒼い光りも姿を隠したかのよう……。
「行こう。美夏さま」
静也くんが手を繋いできて、廊下をまた歩いた。
青銅の扉を引く。
暗がりが暗澹と広がる。左右箪笥に囲まれ進んでいき、階段を上がっていた。意識がそこから言う事を聞かないと気付き始めながらも。
五
階段を上がり、床に立ち尽くす。
猫。みんな白い。同じ顔をしていて、私を振り返った。静也くんが白い子猫になって、そちらへ行く。
「静白様は、白椿様のお子だ」
夢で聞いた声が響く。とても静かに。
屋根裏は明り取りから秋のよく晴れた青空が覗く。
「白椿」
「三代目にお世話になった白猫の末裔だよ」
一匹が、昨夜夢に現れた青年になった。
「僕らは代々、このお屋敷にいる人間と僕ら白猫の間に生まれてきた」
また違った猫が人に変わった。
そして二人の、顔が同じ女性が現れた。
「白猫からは白猫しか生まれない」
その四人が夢に現れ舞っていたのだと分かった。
そして、細身の猫が子猫を抱き上げた椿さんになった。
唯一、彼等に囲まれた猫だけが猫のままだった。
「彼女も三代目の夢枕に女性の姿で現れ、子猫を宿し、我々を生んだ」
その白猫は、首元に絹の緒を巻いている。静かに私を見つめて来ていた。
「静也くんはいずれ、猫に戻るために番頭さんの前から去ってしまうの?」
椿さんは首を静かに横に振った。
「我々は妖猫。ご安心を」
子猫のふわふわの頭を撫でながら椿さんが続けた。
「元々、わたくしは彼の元を去るつもりでいたの。何故なら、魂を宿した我々は力を地階果たして人の姿でいられなくなるから。しかし、こんなに愛らしい子が生まれて、彼を見つけた甲斐があったわ。わたくし、あんまりに彼が不憫だものだから、あなたが彼と静也のところへと来てやくれないかと見ていましたけれど、どうも恋愛にはあなたは疎いようで」
私は頬を染めうつむいた。恋愛だなんて、そんな大それたこと。
「私は、番頭さんを素敵と思うけれど、恋愛には行かないわ」
椿さんが微笑み頷いた。やはり安心する微笑み。姉のように慕っていた。だから、とても哀しかった。
私は耐え切れずに彼女の白い肩に泣きついていた。髪を撫でられて、言葉もなくずっとしばらくそこにいた。
六
「お嬢さん」
番頭さんが汗を腕で拭いながら笑顔で釜から顔を上げた。蔵は熱気が渦巻いていて、向こうでは父が冬壱さんと共に巨大なしゃもじとうちわで、蒸しあがった白飯を返している。
「お昼の用意が出来ましたよ」
「ありがとうございます」
私ははにかみ、番頭さんが奥の人たちにも声を掛けて皆が笑顔を向けて来た。
明り取りから湯気が流れていく。その先は蒸気煙る先に緑。
「!」
目を丸くして、そのゆらめく先に三毛猫の耳が生えた悪戯顔の耶麻くんがパチンコを持っていて、冬壱さんにぴしっと草玉を当てた。
「ん?」
すぐに引っ込んで見えなくなって、冬壱さんは首を傾げて向き直った。
「さ、さあさあ、まだ料理のあたたかいうちに」
私は彼等を促し、父がさらしをご飯にかけたところを引いていった。
私は庭に来ると、祖父に耶麻が首根っこを猫の様に掴み上げられ運ばれていたので、つい口許に手を当てた。むこうでは祖母がくすくすと微笑んでいる。縁側まで運ばれた耶麻が降ろされた。パチンコを手に持っている。
「大人しく飯を食べてきなさい」
「はい!」
急いで耶麻は走って行き、二人はやれやれと言った。
母屋にあるこの庭は、いつでも御爺様が手入れをしているので、すぐに異変に気付くのだろう。足許に草玉がたくさん転がっていた。私もくすくす微笑んで一つ拾う。
「今に蛇でも捕まえてきかねないわい」
耶麻が蛇を振り回す姿は容易に浮び、きっとこの庭にもいるでしょうからきょろきょろ見回した。
私たちも三人でみなの所へ向う。
もしかしたら、薄々と二人は孫が猫に憑かれて悪戯をしていると気付いているかもしれない。
戻って来ると、既に静也くんの横で耶麻はお行儀欲ひざに手を置き、御爺様が席につくまでを待っていた。お婆様も座る。みなが手を合わせると、静かな食事が始まった。その時だけはしっかりしつけられた耶麻は静かに食べる。花貴家の食事はお喋りは厳禁だ。
何度か、番頭さんが遠い席から私をちらちらと見て来た。
これはしっかりいわなければならないという意味なのではないかしら。
きっと私が半端でいるから、椿さんも静也くんも私の気持ちを確認しておきたかったのかもしれない。もしも私が自分の気持ちを伝えたのなら、彼は静也くんのためにも他の新しい女性を探すかもしれない。
お社の前でいつも静也くんがいたのは、きっと椿さんの魂があったからでしょう。
私は一度、番頭さんを見た。慌てた番頭さんは咄嗟に顔を戻し、静也くんは静かに食べつづけていた。
七
「お話というのは、何でございましょう」
私は番頭さんを近くの茶屋に誘い、個室でお茶ときな粉蕨もちをいただいていた。
甘い物が好きな番頭さんは抹茶アイスに小豆を乗せたものをいただいている。
同じ様に緑茶から二筋の湯気が上がっている。漆塗りの上のお菓子はあでやかだ。
私はどう言葉を選ぶべきか、悩んでいた。変なこちら側の勘違いならいいのだけど。
「来年は耶麻と一緒に静也ちゃんも小学生ですね」
「へえ。準備もいろいろ忙しくて」
笑いながら背を伸ばして言う。
「入学式の時、泣いちゃうかもしれません。妻も草葉の陰で見守ってくれてることでしょう」
うつむきはにかむ番頭さんはしばらくして、顔を上げた時には真剣な顔になっていた。
「俺は、お嬢さんのことを正直、気にかけています。まだ十六という年齢でいらして、将来のことはまだ考えていなくてもしょうがありませんが、静也の奴も懐いてることですし、是非、将来共になることを考えて、大旦那様と旦那様にもお許しをえられないかと思っている所存です」
「………」
私は真っ直ぐの目に気圧されて、目を反らせずにいた。ただ、どうすればいいのか分からないだけで、適当な音場が浮ばない。
そんなこんなで、しばらくはただテーブルを挟んでいたものの、ふと言った。
「アイスが……」
「あ、これはいけない」
慌てて番頭さんがアイスを食べて、既に湯気も上がらないお茶をぐっと飲んだ。確かに、彼には支えになってくれる女性が必要だろう。しかし、私は見合わない。そう思う。
冷静になっても考えはどうしても変わらなかった。
「……できる限り、私たちで協力はいたします。静也ちゃんや聖さんのためにも。しかし、申しわけ無いのですけれど、私はあなたの言葉には応えられなくて……」
今に脳天から何かが湧き出してしまいそうな程だったけれど、言ってしまった。
「なので、ごめんなさい」
深く頭を下げた。しばらくして、声が聴こえた。
「あ、その、ああ、いや、分かってたんです……」
デタラメに上擦った声で番頭さんが言って、顔を上げた私は互いに困惑して、互いにまた俯いた。
「どうか、気になさらないでください。俺も無理を言ったんです。いきなり子持ちの男に言われたら、それは驚きますよ」
「いえ、静也ちゃんのことは私も大好きなんです。それに耶麻もとてもあの子を可愛がっているわ。だから、どうか謝らないでください」
はにかんだ番頭さんが段々といつもの顔に戻って言った。
「お嬢さん。俺達を気遣ってくださってありがとうございます」
彼が深く頭を下げて、私も慌てて深く頭を下げた。
八
高校の宿題が手につかずに、私はパソコンから視線を障子に射す光りと葉陰を見た。
溜め息が漏れて、ぼうっとしてしまう。
「美夏」
「はい」
姉の声に私は入ってもいいことを言う。姉が三毛猫を抱えて入って来た。
「聖さんと何かあったのね。ちょっとしょんぼりしながら階段を拭いてるわ」
きっと姉は気付いていたのだと分かって、私は頬を染めた。
猫が下りると座布団に丸まった。
つづく
紅のルージュ
十四になったばかりの静(しず)は紅いルージュに憧れを抱いていた。
それは幼い時代に隣家に住んでいたお姉さん、小夜子の唇の色。
長く黒い髪が色香のある頬を包み、白い肌に熟れたその唇が突如現れ、幼い静に微笑みかけた。一瞬にして小さな静の心をぐわっと鷲掴んだのだ。それが、静には忘れられなかった。
小夜子はいつも隣家の白壁の窓辺で閑かにたたずむお姉さんで、哀しみを湛える目元は常に涙を潤ませきよらかに光っていた。
何を失くしたのか、何を想うのか、子供の静には何もわからなかったけれど、彼女は毎夜の夢に現れるほどに静を悩ませた。夢では夜の緑蒸せる庭で、悲しげに座る小夜子お姉さん。いつでも触れられずにいた。夜虫が静かに鳴く庭でのこと。綺麗に光る夜空は小夜子お姉さんの昼間に見せる瞳と同じ光りだった。
その悲哀に充ちた表情が、まさか愛する女性と決別したことによるものだったとは、静は知る由もなかった。
一度だけ、静は小夜子お姉さんの邸宅に招かれたことがあった。いつもは彼女たちは鉄フェンスに隔だれていた。頭上を蝶や風、花吹雪が舞うことや、挨拶が交わされることはあっても、直接庭に入ったことはなかった。
小夜子は静を庭でのお茶に招き、その時期の薔薇の紅茶をいれてくれた。ハーブのパウンドケーキは幼い静には初めての味で、大人を感じたのを覚えている。ただただ会話はなく、静はこのお宅から見える庭の様子を眺めていた。自分の家から見える風景とはずいぶんと違う。いつも静のいる庭もまた印象が違って、まるで知らない世界に足を踏み入れたかのような不思議な感覚だった。知っている場所なのに、何かが違う。まるで鏡に隔たれた世界に感じていた。
だから、夢心地の静にいきなり体を寄せてきた小夜子お姉さんが、静の髪を優しく撫でてきた動作に一瞬驚いた。それでも、現から感覚が隔絶されたかのように静はおぼろげに受け止めていた。妖艶な小夜子の微笑を。まるで、心の底をえぐるかのような鋭利な、それでいてそこはかとなく色香漂うものだった。
そんな種類の微笑みを静は初めて見た。
この小夜子お姉さんからは初めてのすべてを見せられる、そんな感じだった。
『可愛いわね。静ちゃん』
優しい指は静の黒いボブヘアを撫でて、真紅の唇がそっと頭のてっぺんに寄せられた。その時、ゆるやかな恐怖はさらさらと足元の芝生に崩れていったかのように力が抜けた。膨張するような声。ゆっくりと収縮を繰り返す視野。しびれる手指。
静は小さな頭をうなづかせて小夜子お姉さんの瞳を見た。
『静ちゃんが大きくなってから、お姉さんのお人形さんになってもらえるかしら……』
『お人形さん……』
まるで反復を仕込まれるしゃべれる人形のように、静は言っていた。
不可解な微笑みを浮かべて、小夜子お姉さんは静から体を浮かせ離れていってしまった。
『二人目のお人形さんよ。やくそく』
その「やくそく」という言葉は、いつもママやパパ、お友達とする約束という言葉とは、まるで違ったものに思えた。
ここはおとぎの国なのかしら。小夜子お姉さんは魔女のお姉さんなのかしら。木陰から、何か不思議で幻想的な生き物が出てくるのではないのかしら。幼い心で静はおぼろげに思った。その日から夜の夢で小夜子お姉さんのこれまでの哀しげな表情は見なくなり、代わりにあの薔薇のような微笑の夢を見続けることになった。
静は紅いルージュに憧れを抱いている。
七歳だったころに胸を射抜かれた紅いルージュのお姉さん、小夜子。
彼女はその後、隣家を離れてどこかへ引っ越してしまった。
静はよく小夜子お姉さんの夢を見た。夢でなら逢える女性。
もしかしたら、初恋だったのかもしれない。
十四になった静は現在、美術部である。
美術室で毎日描くのは紅いジュールの神秘的な美女。それは小夜子お姉さんだった。深窓の御嬢さんだった女性。隣家の一人娘だった人。たまに聴こえていたハープの音色の正体は、今思えば彼女の奏でた旋律だったのかもしれない。
カンバスに描かれているのは、自然体な緑の庭で黒蝶に囲まれハープを奏でる小夜子お姉さんの絵画。
静は筆を慎重に滑らせながら、愛しげに描く。その黒髪を。あの、愛しい唇を。
「小夜子様」
静はそっと微笑んだ。
夕方の美術室はすでに静だけ。夕暮れの染む空間は、このまま身を完全に包ませていたくなるほどに濃い。めまぐるしく色づいて行った空の色は、今に夜へと突入していく。夢の小夜子お姉さんの待つ時刻へと。
静は立ち上がり、美術室を後にするためにドアへ歩いて行った。
振り返る。暗がりの影が浸食し始めた室内。あの小夜子お姉さんの絵が、斜めに陰に入って静かに微笑んでいる。それは、夕方に見ると哀しげに見えた。それを見て、静は妖しげに微笑んでいた。まるで、あの日の小夜子お姉さんのように。
「手に入れて見せるわ……わたしの女神」
八年ぶりのことだった。
静はとある施設へ招かれていた。
そこには数多くの声楽の生徒たちの集う教室があり、そして森に囲まれたこの白い建物はまるで美術館のようだった。
実際、多少不気味なことにはガラスでコーティングされたマネキンのような美少女たちの置物がたくさん佇んでいる。触れれば鼓動がその手に届きそうなほど、繊細に作られたドールだった。
「………」
静は一瞬息を止め、自然に足が動いていた。とあるドールに。
どのドールもここの生徒と同じ、上品な白と灰色を基調としたセーラーを着て、エレガントなたたずまいをしているのだが、そこに一体、静の脳裏に今も残ったままの面影を見つけた。
「小夜子様」
静の薄紅色の唇からこぼれた名前はドールに向けられた。掲げた小指に小鳥を乗せたドール。顔立ちは微笑み、まるで歌っているかのようだ。丁寧なプリーツの膝丈のスカートからすらりとした黒いタイツの足の先から、その陶器の毛先まで、すべてが淡く色づけされたドールは、あの光る真っ黒い瞳と紅い唇だけが濃く色づいていた。
静は甘やかなしびれを唇に感じた。震える指でそっと触れていた。
「ああ、お姉さま」
光沢を受けるドールの頬に触れる。白い壁の向こうには、この施設を囲む緑と庭が眩しくて、静は目を細めた。
しばらくは動くことが出来ずにただただ見つめていた。あの時、十四の年齢だった小夜子お姉さん。こうやって同じ年齢になってみても、とても大人びた人。同じ背丈になっても届きはしない彼女の思想は、静にとっては迷宮に思えた。
ふと、静は小夜子ドールの横にいるボブヘアの少女のドールを見た。水色のリボンをつけたその少女は小夜子お姉さんと同い年くらいなのだろう、切れ長の目の美しい顔立ちをしている。静かに微笑んでいて、きっと、アルトの声なのではと思わせる。
「小百合よ」
「………」
静はどきっと胸が高鳴り、振り返った。
「小夜子……さま」
静の視線の先に、待ち焦がれた女性がいた。
ああ、なんということか……。静は打ち震えて動くことさえできなくなっていた。
あまりにも、そう。それは白い花の化身かのようなその人を目の前にして。
あのころとは違う、黒く長い髪をエレガントにカールさせ、ドールよりもすらりと背の伸びた女性は静かにヒールを響かせて静の前までやってきた。あのルージュの唇は、静に向けて下弦の月のごとく引きあがっている。
「お久しぶりね。静ちゃん。綺麗になって……」
再び、あのときのように小夜子お姉さんの細い指は静のボブヘアを撫でた。今度は、どこか猫を撫でる飼い主かのように。それはとても心地の良いものだった。静は瞼を綴じまつ毛を震わせ、そしてゆるゆると瞼をあけた。
「誰……。貴女のいう小百合さんという方は」
まさか、と静は思った。「一人目の人形なの?」その言葉は小百合の印象には不釣り合いだった。どこかさばさばとした気風を感じるドールが脳裏をかすめる。
「小百合は……私の初めての恋人。けれど、彼女は心が壊れたの。私が、虜にしたから」
どれほど振りに見たのだろうか。哀しげな小夜子の表情を。瞳だけはやはり光っている。
「私のことも虜にしたわ。私の心はまだ壊れていない。小夜子様との愛に狂って夢で溺れてみたい」
小夜子の瞳は小百合ドールから静を見つめた。
「いいの……? 私だけの人形になっても」
「それを望んだのは私。そして小夜子様」
静はそっと背伸びをし、可憐な唇を小夜子の白い頬に触れ合わせた。
中学部から大学部まである女子声楽学園の敷地では、大学部では誰もが品のある私服であり、それだけにセーラー姿の生徒たちとはまた違った雰囲気を醸していた。
小夜子は声楽とともにハープ奏者でもあるのだという。静が美術室で毎日見つめるあのハープを奏でる姿が脳裏に浮かぶ。
今、静は小夜子の入る個室にいた。そこにはハープが設置されている。
「静ちゃん、あなた、将来の夢はあるの」
「私は」
静かにハープを奏で始めた小夜子を見つめながら言った。
静の心は彼女の声がこだました。「小夜子様の人形になることが私の夢よ」と。
けれど、現実には美術大学へ行くことを考えている。それは小夜子お姉さんの存在が導き出したことだった。
「美術の大学へ行くの。絵を学ぶために」
「嗜んでいるの?」
「美術部で」
優しく小夜子は微笑み、うなづいた。
「それじゃ、わたしが大学を卒業したのちにはわたしの部屋に来るといいわ。そこからあなた、学校に通いなさい。ね……」
旋律の響く室内。静は佇みながら、小夜子の視線を受け止めた。
静は手を伸ばし、ハープの弦に触れて膝を崩して小夜子の膝に頬を乗せた。
「静ちゃん」
「ずっと、一緒にいたい」
静のまつ毛から涙がぽろぽろこぼれ、膝を濡らす。小夜子は新しい愛のお人形の髪を優しく優しく撫でた。
「今度は……壊さないわ」
「壊れたっていいの……小夜子お姉さまの愛になら」
優しく撫でられるボブヘアは、小夜子の脳裏には壊れて動かなくなった日の小百合の面影が揺れた……。
詩
綴ら織り詩
人は誰だって、哀しみに触れ、直面し、それでも祈りに変えて歩いて来たよね。
嫌なことだってあるさ。逃れ難いことにも苦しむさ。
けれど、あなたが来た真っ直ぐの純粋な路を、また光りで照らしながら前を見て歩いて。
あなたの背を照らす月光は見守ってくれている。
太陽に顔を向け輝けることを。
天の尊い者達が、光りの内にあるように。
漣
南風 愛の漣とその揺れる髪影が
夢カモメ 時の行く心から飛んだ刹那に
ああ 彩りの愛の眩むあの時
ねえ 海辺の馳せる思い
でも 取替えたあの記憶の砦
もう どこにもいない 探してみるの
北の海 愛の引き下がるあの季節から離れ
吹き抜ける 風の撫でる崖から見渡せれば
ああ から回る愛 夢流離いが
ねえ 曇りの空に揺れる
もう 溶け込んでく気持ちだけのこと
でも ここにある 信じているの
Titan
その恵を
その感情を
そのよろこびと
大地と空を形成する力を
その衝動を
その天地創造の真理を
誠の光を
海原のその遥かの
生命の雄叫びを
大きな地球の
ガイアの力を
その夜明けと夜と太陽と光
そして感情よ
触れる事の無いあの目を
その口を
血肉を
そして骨と
あの脳天を駈ける感情の爆破と
あの天を駈ける馬を
目覚める宇宙を
そして不変の宇宙の進みよ
宇宙と空を結ぶ馬よ
大地の草を踏みしめるあの音と
声と
艶やかな瞳が見詰める先の
青の海を
オリンポス山脈を駆け上がるときも
タイタンの者達の感情を
万物の一部ずつを任された宇宙と地球の上にいる神よ
冷静とよろこびと怒りと豊かと悲しみとそれらの
隠された無表情と笑顔を
あなたの腕から
あなたの顔から見えた
笑顔がうれしくて
あたしの腕から離れた
その体 今に消えるの?
どこからか流れる河
あなたへと向ってく
あなたの手の平こぼれた
水のきらめき受け止め
あたしの頬に落ちる光
あなただけに見えるもので
いつの間にか流れる河
二人だけ泳ぎ着く
さえぎるもの無く漂う
花弁みたいな桜の色
頬の染まる熱は真実で
木を見上げ先の空に
どこまでも羽ばたくのよ
桜の花踊り舞うのよ
朝焼けの桜色は
桜の花と静かに交わり
白い月は最後の星と光ってる
プラチナの光は
ダイヤモンドの光は…愛
月と雲
たなびくあの雲は飛んで行く飛行船を
それとなしに囲っていく
月を隠した雲は星を光らせて星座を描き
それらを柔らかな袂で覆っているみたいな
そのくもの姿の女神
星の瞳をめぐらせて飛行船を見守って
金のスコープ掲げる船員
雲の上に来て月光受けるそのスコープは
幻想的な夜の海
そして夜に更ける緑の島をうつして
まどろむ
薄い雲間からさらさらと
いずる
女神の腹部を流れる船は
月の小舟となって進む
地球という名の宙を
花の香り
月の姿が隠れている
そして白い花染まる夜の色
芳しい香りを放った月の光は
巡る季節の花添えて
もう小鳥は眠ったか
あの記憶を残して
さざめく風のきよらかさが
瞳を奪う
闇に浮く彼等の影は
闇に浮くあの時間を
留めることを知らせて
それで流れて行く
闇に浮ぶ月の丸は
どこからともなく流れて行く星を乗せて
それでさまよって
輪になって飛んで踊る
花の季節を待ちわびて
長い髪も翻し笑う
笑って香り楽しんで
深夜
深夜
ひっそりと
静かに
囁く
頭のなかの
声
静かに
氷みたいに透明な
その声
脳に浮び呼びかける声は
冷静で
うつせみの
心を確固として見ている
白い花の純白さで
闇に咲く
そして
大河の流れへと
瞳を
瞼と睫に心を
耳を傾け目を閉ざす
いずれ鋭い牙を剥き
薄皮を爪で破り誕生する
白い花弁を積らせて舞わせ歩き
そして囁きを耳にする
素敵なその囁きに
微笑む
静かな時間は
星の瞬きさえ凍る
心の語りかけのままに
腕を上げて指し示す
瞳上げてあの星を
薔薇の色に佇む
陰の内に立っては
風がそよぐ
夜風が
角が突き刺すオリオンが
プレアデスの心臓見てる
薔薇星雲の先まで
その先まで
だから小舟に揺られて
傾ける
囁く頭のなかの声に
耳をそっと傾ける
静かで
ひっそりとした
心の語り掛けを
追悼
心の花を海に供え
心の花を天に捧げ
光の花を被災者の方々の魂にたむけ
多くの人々の祈りが魂を輝きに変えてくれることを祈ります
蠍と薔薇
泉の水面を艶やかになで
蒸せる緑の陰に焦げ茶の瞳光らせて微笑を
水の潤いは続く
水の潤いは永遠に続く
薔薇の舞
蠍のダンス
水の潤いは永遠
蠍のダンス
薔薇の舞
愛の雄叫び
情熱の鼓動
薔薇の声
扉は開かれた
誘いのオアシスへ
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クレオパトラの宴に花開いた
薔薇の香りとオアシスを歩く蠍
月はどこかに落とした羅針盤
それと秤に乗せた心情
ちくたく
それとゆらめきながら動かす
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ほのかな蝋燭は灯っているか
心のうち 瞳の前
そっと当ててみる息吹
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そっと手の平から滑らせるたたえた水
月の煌き
それと湖沼に映る満天の星
蠍は毒
薔薇が棘
コブラが牙
泉が潤い
君だけがいざよいを
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シンドバッドの瞳に青映した
海の彼方から吹く悠久の息吹
鳶色の瞳は言った
夜のランタンにも負けない心
エジプシャンマウの手から飛んだ
スカラベが命と太陽のたたえと共に
クレオパトラは足先を浸した
噴水は金の首飾り光らせ
その瞳はローマの記憶
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薔薇は舞い落ちる
蠍のダンス
薔薇が薫り咲く
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毒のステップ
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猫は悪戯のケラケラ笑い
金の水瓶から流れたのは
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潤いは?lr?wb? ?l??bdy?
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水の潤いは永遠に続き
水の潤いは永遠に続く
薔薇の舞
蠍のダンス
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泉の水面を艶やかになで
蒸せる緑の陰に焦げ茶の瞳光らせて微笑を
水の潤いは続く
水色の空
青い恋を実らせるそのため
あたしずっと灰色を生きてた
閉じる心震わせて求める
愛の全てあなたに捧げるの
甘いその予感
素敵な花みたいで
鳥は飛んだ 太陽を受け止め
青い花で灰色など消すの
きよい水色の
空に吸い込まれる愛
ただここに居る その事がしあわせ
物足りなくなったりなどしないわ
だから抱き締めて
胸の高鳴るままに
花刺繍 冬と春
紅椿(Camellia)
愛暮れた
雪の上の情熱は
今にも絶えた首みたく
死して尚美麗なあの女の
紅色した唇に
よく似て思えて目を綴じる
愛恐れ
黒い髪をば引っつかみ
彼等も熱を限らせて
死して尚も薄暗き
心持ったあの雪が
女の体を隠してゆくなら
愛暮れて
愛を求めて尽きた俺
匕首当てた首筋に
人の世の憐れをここに
夜空に舞った俺の血は
お前の着物と雪染めて
二人で雪に埋もれ行く
人とはいかに死に行くもの
枝垂桜(Weeping cherry tree)
あなたの背がこうやって
しなっているから美しくて
頬は染まるのよ
唇は香り
そしてほんのり唇寄せる
雛罌粟(Poppy)
雛罌粟だから春に揺れ
禁断の白じゃ無しに良い
風に温かく結果して
風に嬲られ花びら揺らす
あの花はわりとお強くて
どこにでも咲きますのよ
路の横で「今日は」こうべ垂れ
「お天気良くございます」
「ええ。だからあたし嬉しくって」
これで時季へと眠れますわ
蒴果は実となり甘くなる
花刺繍(Flower embroidery)
あの花は 美しく肌を飾ってた
あの花は 甘やかに香り漂わせ
その色で 可憐な蝶を引き寄せた
彼女 花の詩集を 詠いながら
そしてあの骸 囲う花を
季節の花を微笑み見ては
花は死臭を秘密に隠す
腐食の肌を縫うみたいな花びらは
刺繍の態で艶やかなれば
死は生命の始まりになるサイクルで
骸のそら美しきこと
花刺繍 初夏と秋
菖蒲(Iris)
あの池に映る僕らの幻想
想い出に
紫の花がよく映えたっけ
君は縞の着物 僕は消し炭
皐月の時期には緑は眩しく
二人の愛も輝いて
輝いて そっと瞬いて
夜には蒼の空見上げては
共に金の星数えてた
菖蒲の影が夜の池に
カエルと共に鳴いて恋う
白梅(Plum)
着物の袂を引き寄せて
日本舞踊を踊ります
扇子は凛と構えては
微笑む目じりが芳しい
梅の花が舞う季節
目白や鶯啼いて停まるは
愛のためか 賞賛のため
紫式部(Murasaki-sikibu)
あの目をご覧よ
ほら 可愛らしい顔をして見てる
花瓶に昨日ね 紫式部をお庭から
手を引き連れていけたのよ
今宵はそれだから寂しかないでしょ
今宵はそれだから可愛くさせてよ
あの色ご覧よ
あなたのどこにも似合う実をして
あたしがいるより似合うかしら
紫式部 花になり それでも惑わす魅力あり
金木犀(Fragrant Orange-colord Olive)
惑わされて引き込まれ
微笑むあなたが金木犀の力を借りて
指をそっと触れ合わす
黄色い花のその先に瞳を交わしあい……
夕暮の色に染まってゆく
そして香りが際立って
木にも垂れ座り握る手は
袂に宵の風入れて
冷えた身震いは微笑みよと言って
甘い香りの先に夜の星
金木犀の香りが近づけた
あなたと私のその頬を
~FLOWER EMBROIDERY~花刺繍
薔薇(Roses)
君の唇薔薇の色
それはとても甘いだろう
だからいつでも見つめては
つい顎を取らずいられない
ほら
あちらから聴こえる
ハープの音色
ほら
こちらから鳴らす
クリスタルの音
ね?
僕は黄金の君の髪をば手に
優しく撫でて 微笑んで
百合(Lilly)
あの優雅な河を背にする君は
涼んだ窓辺で微笑んだ
白百合の花を細い手に持ち
茎ほど細いその指は
百合ほど白いその頬は
僕の心を香りの様に追いかけず
芳しさを風に乗せ
僕こそは君を追う蝶になる
金木犀(Fragrant orange colored olive)
誰をも引き寄せ
彼をも惑わす
あなたが微笑み
僕らは近づく
金木犀の力を借りて
黄色い花の先で指先
触れ合わせれば幸せで
ジャスミン(Jasmine)
神秘の愛が夜紡ぎ
駱駝の背中
蛇の目と
あなたが華麗に踊るから
私はこの花香らせて
サシャの向うに透ける月
それらに照らされ舞うのです
紅けし(Poppy)
誰だい毒をお混ぜになったのは
私は誰そを及ばずに一人でやってのけたのかい
悪魔の目に似たその芥子は
充血した目で見てきてる
だた一本の純白の芥子がこちらを見ているわ
清純の態をして引き寄せてあなたは狂乱して惑う
紅の野で花揺れて蛇が伝ってゆくけれど
私の足許すり抜けて あなたの方へ進んでく
幽玄の先のあなたへと 白い微笑みをしていて
染まる私の心はすでに あなたの毒牙に掛けられて
蛇が言付けしたんだって あなたに私が引っ掛かるため
葡萄(Grape)
疑惑無く訪れる
夕陽に染まる君と僕
葡萄の色が心解き
仄かに香る指先に
「無の心を」
暮れてゆく
私の心
それと過去
愛の行方も定まらぬまま
哀の何とすいかりさえ
紛れてく
ふららと揺れる
あれらの詩
唄の嘆きも溺れ行くさま
いつの日にかは笑顔さえ
取り戻す
取り戻したら
日が昇る
また、美しい悦びを愛でていいのだ
淡い爽やかな香りに飛び思い出し
感情のままに心を 緑を 素晴らしさを
ロクサーヌ
ロクサーヌはいさよいの感情持て余して惑った。
窓辺で銀の月光に照らされ頬を寄せる白い腕には涙が流れた。
風に触れて冷たくなる髪を、これ以上冷えてどうするのかとカーテンがさらりと撫でた。
「ほら。星が落ち着かないと瞬いている。君が落ち込んでいては適わないよ」
壁這うツタは言っているみたいだ。
蝶の羽根の様にロクサーヌは瞼をとざし、涙が途切れた。
「例えば別れが待つとして、誰が愛を始めるだろう。
例えば終わりがあるとして、誰が生まれを受けるだろう。
私は知らずに生き愛し、終ることで死んで来たのかもしれない。
心が。精神が。感情が。魂を置き去りにして……ねえお星様。
いつか再び始まる時、心が鋼になってますといいのに」
水色の瞳が月を映すほど潤んでいる。
たゆたう心が秘められた悲しみを今は露にされて。
あなたを好きでいられて
幻想的な世界の中で
あなたのこと想うたび
胸焦がれるの
あなたのこと見つめるたび
幸せになる
あなたの姿確認すると
笑顔が溢れる
手も 視線も 髪も 頬も 瞳も
胸が高鳴る
あなたを見つけたから
体熱くなる
あなたがいてくれるから
幸せになる
あなたを好きでいられて
声は 歌は 感情は 普段は あなたは
綺麗な風景の中で
クリスタル
水の流れる空間は
澄んだ音が鳴り響き
ピアノの旋律響いては
あなたの指が象るは
愛の煌き 世の美麗
硝子の壁先緑揺れ
白樺林が宵の中
ハープも重ね響かせて
私の瞳見つめるは
歌う貴女の その姿
私の心は躍りながら
今にも青の鳥になり
天へと飛んでいくだろう
水の様なソプラノで
愛らしく歌う子供達
背に羽根をつけ舞っている
そこはかとない優しさを
受けて育む 純粋さ
聖域の様なこの世界
銀高杯のその葡萄
彼女へ差し出し微笑んだ
私の心も紫に
彩られては 世の幸福
胸の奥から思うのは
もしもこの愛終わらずに
いるなら私は何になる
薔薇の世界
白の世界を教えましょう
それは馨しき純真の薫り
悪戯な赤の薔薇ならば
秘められた先へ妖精が行く
朝露の降りる蒼い空の下は
たとえば秘密の憩う場所
白の世界はるゆやかに
花開いては云うのでしょう
愛らしいピンクの薔薇には
あの妖精が隠れてる
色観
緩やかに歩き出す
その季節は心も軽やかにステップして
私達は 自己を薫らせながら生き
花は 魅惑の微笑を香らせ春を往く
心は 雰囲気の風を感じて目を見張り
そして和やかに笑う
白は何に染まることもありえて咲き美しく
夜は宵色にしんみりと
朝は曙の優しさに包まれ
昼は純白を楚々と染み入らせ
夕べは紅の中に居る
人はなんともいちどに多くに染まるだろう
恋に 愛に 情熱に
この日の空は何に想って染め上げよう?
温かな陽射しに凛とした木立は
どこまでも澄んだ空に手を伸ばし
どこまでも繊細な枝を受け止めて……
飲み込まれるのだろう 遥かな時に
悲しげな風だろうか
いいえ 護りの風
そして町を包んでは戻って来る
葉を乗せた風 花びらを乗せた風
自然の恵みがもたらす美
夕陽は優しいヴェールを伸ばす
染井吉野の咲き乱れた空は
百花繚乱の美
咲き乱れる花の季節から
雫の落ちる季節でございます
潤う地球のこの時季は
夏への紡ぎにあればこそ
純白の花
鎮まって あなた達よ
温かく 魂を
恐怖を拭い去って
輝いて 命よ……
温まって魂よ
光に その中に
安らいで頂けたなら
幾億もの涙に変えて
手を合わせて想う
多くの命が遺された人々の中に
どうか鎮まるように
花の喜び
清らかな純白
蒼に染まり
神秘の群青
夜の鳥が 美しく啼く……
輝きの 青の星
静に夜空に煌いて
想う 想う 大切なことを
ひとたび想う
貴方の影
「貴方にだけ見詰めて」
貴方にだけ見詰めて
貴方にだけ愛して
貴方にだけ心開いて抱きしめる
貴方にだけ見つけて 愛し合うの
*
「貴方の瞳 見上げて」
あなたの瞳が 鳶色に輝いて
貴方の声が 緑の風をかすめて
雲の彼方から太陽の光が
差し込むように笑ってる
*
「貴方と歩く」
前だけを見て歩いて
貴方と手を繋いで 進んで 行くのだろう
その手を伸ばして
鳥のごとく心飛ぶの
*
「見上げれば銀の波」
空の彼方から 星が流れて来る
銀色の波に乗る月光の先よ
心の故郷は何処にあるというのか
透明に潤い輝く 水の様に
清らかに貴方は
星の輝きとともに瞬いて
夜の月に雲の錦
昨夜、月を見上げていたのですけれど
薄くたなびく雲の先、光る黄金色が美しくございました。
なので、眠りへ入る前に思い浮かんだ言葉をこちらに。
灰色の夜、優美な曲線を描く橋から、月光が差し込み鮮明に光る河、両翼の静かな町
それがこの詩を読んでいる時に浮かんだ情景です。
その上には、まるで錦のような雲が月光に光っているという情景。
優雅にながるる時 さやか
夢かうつつの間際がゆれて
風吹くわが身はまぼろしか
重なりますは一見の妖
艶美なる白 純粋の
惑わしたるはあなたの気持ち
されど越えねばならぬ光は
偶さかの月のもとに広がる
扇のごとく銀波金波の百景かな
いずる星影 雲ちぎれひかる
あたかも錦か 天ゆく金箔
静寂の時
眠る小鳥を照らすのは星
葉陰に隠れておやすみなさいね
夜風もそっと吹くでしょう
星座も移動しますでしょう
木の下の花もこうべを垂れて
静かに眠って夢のうち
梟と蜘蛛は獲物を捕らえて
蛇はとぐろを巻き眠る
声が聴こえる? 小夜鳥の
恋しくて闇に響く囁き
静かな閨で 窓の深みで それでも明り降り
私の内側
おやすみなさいね
希望を捨てないで。
心を失わないで純粋なままで。
四季が巡り続ける美しい地球とともに微笑んで。
笑顔になれたら、歩きましょう。
あなたの信じる人と。私の信じるべき人と。
真綿の心
江戸紫の女
紅を引く。
つ、と、女は丸い鏡台に映る唇にさす。その小指。それはまるで桜貝が飾るような小さな爪で光っている。
黒い着物は下方は群青と薄ら白に染まり、まるで障子で見えない一番星を乗せる宵を召し物に変えたかのようだ。それにはちらちらと、絵が挿されている。座布団からしだれるその裾も、袖も、そして足袋も、妖艶だ。袷から丁寧に覗く白い襦袢だというのに、その微かに見える鎖骨も、柔らかな肌も明らかにそれらを艶美に、色っぽく見せているのだ。乱れていないのに、乱れている……。
絵付けされたアサリの貝殻の容物の紅。その横にはおしろいの蛤の器。だが、今宵の女の肌は生(き)のままのたおやかな女肌。
「だから、しっかり先生には言っておくんなまし」
あでやかな黒目を肩越しにくれる女は、座敷に座る侍に微笑んで言った。
「あたしの芸者魂なんてものが、先生の一言で木っ端にされたぐらいじゃ、あたしはどうもなりはしないのよ」
女に強迫は利かない。女がこの生まれ育った町から離れ、先生、東香吉衛門の屋形船での芸者になれというのは、彼女からしたら侮辱意外の何者でもなかった。屋形舟のことを何も言っているんじゃない。屋形舟の芸者だった母をはらませておきながら捨て置きながら身重のままに随分な苦労を強い、この町に流れ着いて独り身で娘を育て、立派な屋形へ頭を畳へつけながらもいっぱしの舞子へと育て上げさせ、そして世を離れていった美しかった母。その無念を思えば、噂を聞きつけ今更ながらやってきた男など……。
「そんな先生の言うようになるんじゃ、おっかさんのとこへ行った方がまし」
微笑みながら言い、そして黒に金六角の帯が飾る背は、あちらへ顔を戻して高島田の鬢から覗くあのうなじに侍の視線は吸い寄せられる。
彼女は座布団で身を美しく返し、そしてそっと立ち上がるとその足袋のつま先で畳を愛撫するかのように障子の場所まで来ると、その丸い窓の障子を開けた。
庭園に広がる宵の微かな明かり。それは優しい。だから、よけいに侍の言葉に女は口惜しくて悔しくて、先ほど引いた紅の唇を白い歯で噛んだ。だから、侍は女のそんな心など知るよしも無い。
庭園は池に天体の淡い移り変わる色を移していた。暗くなって陰になりゆく木々。そして草木たち。椿の花だけ、紅い、紅い……。
障子にかけるその白い手に、小さな手の甲に、侍の大きく日焼けた手が重なった。
「かたじけなかった……。お前の苦しみも知らずに」
泣いていた女の涙が嗚咽を抑えて頬を光り、女は男に甘えたくなどなくてふりほどいたが、侍が一度肩を引き寄せるとその逞しい肩に手を掛け涙を湿らせた。
そのふるえる細い肩を、本当はか弱い、守ってあげたい身を大切に傷つけないように引き寄せた。
侍、大谷玄二朗は雇われ女を屋形舟まで口説きに来たが、それ毎に東への反感が募っていった。あの強情で非情な男になど、彼女まで苦しめさせてたまるか。そんな毒牙など引き抜き真綿でも詰めてやりたくなった。それも、柔らかな香りしかしないような。それで、少しは人の優しさを知れば良い。幼子時に吸ったであろう女の暖かさを思い出せばいい。
女は芸者屋形筆頭の舞子になっていた。それも母の無念がさせた魂が真横から乗り移っての娘としての心だった。娘を見守り続けた彼女。だが一言も東のことを悪くなど言わなかった。東を恨んではいけないと、心を誇りを保ちつつも怨みで汚されてはいけないのだと、それが母の口癖だった。苦しい想いをする毎に悔しくって娘は東が嫌いになった。だが、それでも泣いて娘を抱きしめ叫ぶように言った。どうか怨みの心などは持ってはいけないと。
その分、舞に全てを捧げた。厳しい舞も、難しい舞も、物にして手に入れた。また、娘も人に口外することなど無く、耐えた。大人になれば、気丈に振る舞ってきた。
それを、ここに来て侍が来て言うのだ。東から使わされ、貴女を彼の屋形舟の筆頭芸者として金で買いたいのだ、と。その時、女はそれまでの穏やかな顔を消し去り侍の顔面に酒の入った杯を叩きつけた。それは彼の瞼に血を流させ、他の芸者たち誰もが姐さんのいきなりの鬼のような行いに真っ青になって彼女をはたと見ると、その形相はたちどころに崩れ口惜しく泣きそうな程に唇をふるわせ、そして座敷を出て行ってしまった。
その日以外で彼女のあの様な姿など見た者は誰もいなかった。なので、理由さえ誰も聞くことなど出来なかった。
「姐さん。お座敷が入りました」
「ええ。どうもありがとう」
彼女は月光の照らす縁側をそそと歩いていくその姿はまことに優雅だ。灯りの灯らない吊るし灯籠も、回廊を支える角柱も、そして庭園までの彫り込まれた低い欄干も彼女の陰を滑らせていく障子も、全てが彼女を彩るためのもののようだ。
階段を上がって二階へ。談笑が聞こえる。すっと背筋を伸ばして膝を突き、背を丸めてそっと語りかける。凛とした通る声で。
「紫江辰でございます」
「ああ。入れ。待っていたぞ」
客は彼女を招き入れ、彼らの気分を先に入って高揚さ褪せていた若い芸者たちが姐さんを見た。どれも美しいが愛らしい顔が揃っている。
夜も更けてゆく。
白み始めた空は、凍てつく夜気を少しずつ変えさせていく。
女は驚いて体を起こし、向こうに座る侍を見た。襖に寄りかかっていた。だが、彼は眠っていた。肩に刀を立てかけ。
「……もし。愛乃信様」
しばらくは目覚めなかったが、その薄い瞼が開き、ふと女を見ると頬を珍しく染めて背をただした。
「これは、申し訳ない」
「いえ……。しかし、何の御用向きで」
侍がここへ来るまでに、東の抱える刺客を見たので用心して無礼を承知で入ったのだ。
女の部屋で入ってきたぐらいだ。何かあったのだろうと、無理には聞かなかったが彼女は無言で相づちを打ち侍に言った。
「何か用意させましょう」
彼女はすぐに勝手口まで向かい侍に飲み物や食べ物などを用意させた。
「それで、今回は」
朝の天道が鋭く二人の朝餉の席に差し込む。
「私は、東から離れるつもりです」
「おやめください」
「あなたの用心棒になっても」
「おやめくださいまし!」
女は器から、きっと侍を見た。
「命をこちらに売るなどと、そんな事などされては母が浮かばれません。お逃げになればいい。お侍様が東にかしずき続ける理由などござんせん」
「私はあなたを……」
耳を紅く俯き、きっとまだ恋などしたことなど無かったのだろう、女は諭すように、優しく言った。
「分かっているのです。あなたの優しさを。それを私共のことに巻き込む心苦しさをこれ以上、この身にしたくなど無いのです。あなたの為ではございません。これは身勝手な、愚かな私のための言っているのです」
そんな事を言っても偽りの言葉だと分かる。すぐにでも。侍は女に顔を挙げて言った。
「このままでは私は……」
女は首を振った。
「いけません」
朝の光は男の横顔を清浄に照らすというのに、彼の強い光りを発する眼差しは複雑に輝いていた。
「想いは口に出てしまい良くない行動を起こしてしまうもの。いけません」
「なんでも……お見通しなのですね」
侍は奮え俯いた。
女の心も同じだからだ。これ以上の無情を尽くすようでは、切り捨ててしまいたいと。仇をこの手で。
女は表情をなくし、女将が言ったその名前に体が冷たくなっていった。
「東様がいらっしゃっている。お前を高く買いたいと言うんだよ」
まさか女将にまで口を通し初め、そしてまさかこの屋敷の敷居を潜ろうなどと。
「追い返してくださいまし」
「しかしね……」
女はざっと立ち上がり、女将が見上げる横を座敷を出てざざざと歩いていった。
タンッ
襖が開き、手に強く握っていた匕首の忍ばせる袂の内側でその手が固まった。
そこには青白く、そして細くて今にも消えてしまいそうな男が一人、庭を見ながら座っていた。現れた女に横から視線を向け、その目を昼の日にだろうか細めていた。
「……紫江……かや」
「………」
何故か女は膝が崩れ、そのめくらだろう、男を見た。はたからも分かる。視線は何も見ておらず、瞳孔はこのまばゆい陽にさえも開ききったまま。静かに、静かに庭に集うすずめの声を聴いていたのだ。
「何故……」
女の頬が涙に埋もれ、あふれて紅の唇を押さえて立ち上がることさえ出来なくなっていた。
縁側の端には杖を持った若い男が頭を下げ座っていた。付き人だった。
「何故母を……」
男はしばらく何も言わなかった。
だがその薄い口が開いた。
「若い頃の判断を詫びさせてもらいたい」
女は余りに男が、何故か不憫でしようがなくなり涙が止まらなかった。
侍は彼から聞いていたのではなかったか。母を捨てた男が今度は娘を引き戻させるなどという事を。
女は若い付き人から話を聴いた。
男は女の母と出会ったころには既に目が不自由だったという。
付き人以外は彼に直接会うことは無く、障子越しの会話で侍も男と対峙し、顔自体を知らなかったのだ。
少年時代に男は芸者の息子として母を慕い彼女の日本舞踊を見ることを好んだ。だが、青年時代に熱病に冒され目をやられてしまう。男の母を慕った芸者等が後に彼を主人様と慕って舞い、着いていき始める。彼が成人するまでには屋形舟を手に入れられるまでになり、独立すると芸者を雇い始める。目が見え無いが、少年時代から聴きつづけた声と足並みの音、布擦れだけで全てを耳で判断してきた能力は素晴らしいものだった。
そこで、紫江の母である芸者に初めて恋をしてしまった。舞の気配もさることながら、障子の先から聞こえる楽しい話、知己にとんだ発言にも。だが、障子を隔てた恋。しだいに、芸者もまだ見ぬ主人様に焦がれ始めた。だが、姿をみることが叶わない日々に、芸者は悲しみを持ち始める。それは男も同じだった。だが、ある夜、彼は彼女を障子のこちら側へと引き入れたのだ。
その後、紫江の母をはらませたことで無下に捨てたのでは無い。その時代の彼の世話役であった下男が、裏で主人に知られないよう、秘密裏に女の母を屋形舟から追い出したのだった。それを紫江は知る由も無く、男に母が捨てられたのだと思い続けてきたのだった。
下男が何故、旦那様と芸者を引きはがしたのかと言うと、美しい優雅な旦那様に下男が思いを寄せていたからだった。
いきなり失踪した愛する芸者を追い、男が彼女を探し求め彷徨い歩く日々が続いた。だが、歩き慣れない彼にはそれは危険なことだった。それを毎回下男がすぐに見つけ引き戻してきた。逃げた者など忘れましょう、などと虚言を言いくるめて。
だが、事の真相を知った男は初めて激昂しその下男を解雇する。下男は何度も食い下がったが、男は当然首を縦には振らなかった。
そして新しい付き人を手に入れ、多くの侍を雇い、愛する芸者との忘れ形見、娘である紫江を捜し始め、侍たちに日本行脚をさせ始める。
ようやく発見し、男が自ら会いたがり、遥か遠くからの長旅は危なかったが、ようやく彼女のもとへたどり着いたのだった。
紫江は、縁側に座る男の足を桶に張った水で洗い始めた。
よく、長旅に耐えた細い足は、豆が爆ぜ、タコが出来、痛々しかった。
紫江は、ずっと手拭いで彼の足を洗いながらも、顔を歪め無言で涙と洟を流し続けた。優しく、優しく水を含む手拭いで流し続ける。
ああ、このような苦労を掛けさせてしまって。
その二人の姿は、午の明りに光っていた。静かに跪く付き人は、じっと静かにそんな二人の美しい姿を見守りつづけていた。
綺麗になった足を硬くしぼった手拭いでしっかりと拭い、紫江は微笑んで顔を上げた。
見上げる彼の表情は、とても静かに微笑んでいた。
「屋形舟の芸者になるのかい」
「はい。そのお許しを得たく、参りました。ずっと女将さんの言葉にも背き随分勝手を言ってきたわたくしですが、真実を知った今、わたしの為に会いに来てくだすった、母をこよなく愛していた彼の面倒も近場でみとうございます」
「それが、あんたの望みなんだね」
紫江は頷き、座敷を静かに見渡した。
「ここは、母との思い出の場所です。この場を守りたい気持ちも強い。同じ気持ちの強さなのです」
女将はずっと彼女を見つづけ、しばらくしてから頷き、優しく微笑んだ。
腕に手を置く。
「良かったよ……。あんたはずっと、何かに憑かれた顔をしていた。怒りに塗れて、裏切りに耐え忍ぶ目をしていた。それはね、あたしからは、本当に辛そうに見えてたんだよ」
「女将さん」
「でもね、あんたがそれら全て真綿みたいな心で包んで、今笑顔が見られるという事は、なによりもうれしいことだ。あんたの母さんも、それをずっと待ち望んでいたことだろうよ」
紫江の目に涙がひかり、つうと流れて頷いた。
「女将さま、本当に、お世話になりました」
彼女は深深と頭を下げ、畳に涙がぬれた。
侍は東様、紫江、付き人の護衛として、屋形舟まで付き添う事となった。
だが、侍は侍である。女を引き戻した以上、もう役目は終わったのだ。だが、往生際も悪かろうが侍は紫江からは離れたがらなかった。それをずっと考えつづけていた。
河の通る近場のどこかの武家に奉公に出ることは出来ぬものかと考える。
「お侍様は、いつも気難しい顔をなさる。つまらないかしらねえ? 行脚は」
「いや、はや滅相も無い。こんなに心躍る旅路は」
それを聴き、向こうの茶屋の椅子に腰掛けていた東は、おや、と思い、口許で静かに微笑んだ。なにやらいつも紫江が近くに居ると足取りが違うと思えば、やはり恋をしていたようだ。
侍はくすくす笑う付き人を見て耳まで染め、紫江も「うふふ」と小指を添えて笑ったのだった。
皐
手を伸ばしてふれあえれば愛を語った記憶に埋もれる
生命分かつ海と空と大地を撫でる風よ
花がほころぶように笑顔も開くなら私は愛を続けられるの
あたしとあなたの時を紡ぐ羅針盤を世界に羽ばたかせる愛の緑の手
花を咲かせる愛の時
旅路は続くの 地球の上で
空の高みに見つめ合ったときが踊る
空にかかるあの虹は一つ一つの花の色
愛を込めた言葉のひとつひとつを呼び覚ますの
心の灯火を乗せたようなあの夕日の沈み行く終焉は夜に続き闇となって
悲しみを広げて朝日にとかす
求め合って消え去る魂一巡り生まれる生命
空の下で輪廻は踊る
あなたと私のダンスが見える
地球の声を聴いて
コーラスしてるのがきこえる
風とさざ波とせせらぎと梢の先の雨の音
木々の揺らめき 鳥の鳴き声 動物たちの愛の声が聞こえる
星の踊る夜空
月の沈み行く朝
太陽の輝く昼
夕日の沈み行く宵
青い夜に包まれて白い花は青く染まる
ハープを弾き鳴らしながらあなたは歌う
白い衣を翻しあなたは月の踊るでしょう
白い花弁上弦の月にひらひら舞わせて
黄金の月はあまたのうねる星座が見える
初夏の星のダンスを踊りましょう
紅葉の舞い
華麗なるクラシックバレエの世界に、和の息吹が流れ込まんとしている。
舞台美術は囲うように紅葉が彩り夕刻の空が紅から橙、黄へと広がっている。
左日本琴、横笛、鼓の演者が。右にはリュート、バグパイプの演者が。
その彼らの間にいるのが、絢爛な錦織りとレースの施されたチュチュのバレリーナである。
紅の唇は微笑み、黒漆に羅蒔のアイマスクが妖しげだ。黒と金糸レースにブロンズのタッセルの扇子を構えている。
そして黒衣と黒頭巾をまとったバレエダンサーが短刀を手に現れ、二人は舞い始める。
本日舞う演目は、西洋の舞いと和の融合を図った創作幻想バレエである。
その舞われる物語をここで語ってみましょう。
江戸の時代。平安の時代に深い山奥に立てられた立派な神社がある。そこは戦国時代の占領も免れ、ひっそりと祀られていた。一説には神社の背景で平安貴族の誰がしかが隠れ住み、密かに代を重ねているという。
そう、密やかにそれまでのそこにだけ絢爛な狭き生活を営み。だが、一番に近い村人さえもその者等の姿を見たものはおらず、神のご加護をと毎年米や野菜を収めると、彼らが山のおおかみを人里に下ろさせないようにしてくれるのだった。
紅葉に囲まれた神社からもっと奥には、様々な広葉樹の色づきに囲まれた屋敷が確かにあった。そして、牛舎小屋も。神聖な神社から先は村人は立ち入れないことと、おおかみが棲むほこらが近くにあることで近付くことのない山間である。
牛舎は深夜、闇の深まったころに蝋燭を焚いて走って行き、月光のある日はおおかみを先導として山道をゆき、村を越え、すすき野を横切り、山を越えては用済ませをしに行く。
そんなとある年、男女の双子が生れ落ちた。
それはなんとも美麗な双子であり、珍しくも片方は淡い金髪に淡い瞳を、片方は黒髪に水色の瞳を持っていた。彼らは京の俳句の会へ向かった姫が都で出会った舶来人の血が入っていた。
双子はこれまでの如く山奥の屋敷で静かに暮らしてきたわけでは無かった。舶来人は屋敷で双子に西洋の芸術を教えた。彼らは舞い、歌い、奏でた。そして、その性分は子供時代は実に悪戯にやんちゃが目立ち、闇夜も昼もおおかみの子供を引き連れ山を駆け回った。十三の齢にもなると、二人勝手に黒頭巾をかぶり着物のままに村へ飛び出していった。村人たちはその二人の不思議な子供をそれは不可思議な存在として、神社から飛び出てきた童神と見ていた。村を通じない言葉と驚くほどの美声で歌い横笛を吹き風のように走って行くのだ。それは子供錦と黒衣装の二つの風が螺旋を描くようにゆき風景と溶け込むように去っていくのである。まるで鴉のようでもあり、鷲のようでもある。
「今日は村を越えた森へ行こうぞ時姫」
「夢殿は子供よ。あの風車に悪戯してしまうおつもりだろう」
「否! そのような子供ではすでに無い。あの小屋には俺の秘密があるのじゃ」
「どのような!」
二人は勢いをつけて走っていった。野原を越えて山を背にする森へ来る。
小屋は今の時期、村人たちの来ない物静かな場所だ。夢は時姫を静かにさせて水車小屋へ入る。今水車は動かないように板が挟まれていた。
それをまるで階段のように夢は上がって行き、太い梁伝いに歩いていく。時姫は見上げていた。端まで来ると、そこから吊るされた縄を引き上げて、向こうの梁まで投げつけた。合図されて時姫はその梁から縄を下ろさせ、丁度下にある漬物樽用の石に縄をくくりつけた。結びなども船乗りだった舶来の父から教わり巧みなものだ。
「これで良いか?」
「充分だ」
すると、夢が手をぱんぱんと叩いて縄伝いに梁と梁の間まで来た。そして、丁度小屋のまんなかの明り取りの丁度見える桟に手を掛けた。
小窓用の屋根に隠れて見えなくなった。
「夢殿」
顔を覗かせると、何かを黒い衣の懐に入れて、桟に再びぶら下がってから勢いをつけて地面に降りた。
「これを見ろ」
それは錦に包まれた小さな笛だった。そして、怪しい刻印のされた文面は、とても村のものたちの書けるものではなく、教養あるもののそれだった。
「しかし、見たこともあらじ」
「ああ。代々の屋敷の誰がしかの、何かのまじないごとに使われる代物に違いないものよ」
「何故知っている」
「夢に出た。この古文書を広げ、呪術とともに笛を唱える影じゃ」
夢は石から縄を解き、棹で掛かった縄を戻してから錦包みの笛を懐にしまって時姫と小屋を出た。
森の奥にある小山を一つ越え、屋敷横のほこらとは違う他のおおかみの塒まで来ると、この村のものたちがお供え物をしてある。
そこの横に座って笛を出す。
「吹いたら聴こえる」
「ここからはさすがに問題ないこと。山びこで他の山に響くだけよ」
古文書を広げ、夢が横笛を吹いた。
時姫はその音の不思議に聞き入る。まるで静寂に野太く響く音。
時姫が影に見上げると、そこに一人の人間がたたずんでいた。
「………」
いきなり時姫は手首をつかまれその人物の衣の胴の渦へ飲み込まれてしまった。
「時姫!」
だがすぐに渦は消えた。夢は笛を握ったまま男を見上げた。
「妖術の笛から再び出ることが出来た。神社へ閉じ込められたはずがなぜに見知らぬ場所へいるのか」
祖母から神社は悪しき者を閉じ込めてある場だと聞いたような気がした。まさか奏でることで出てくるなんて。誰かが持ち出し隠し音に魅了されていたのだろうか。
「時姫はどこだ」
袷をひらくとそこには男のみぞおち辺りの皮膚の下に時姫の顔があった。そして折り曲げられた膝と膝小僧に当てられた手までが男の腹部の皮の向こうに輪郭をはっきりと存在させているのである。
「夢」
時姫の声が聴こえる。皮膚の下で時姫の指が動き、胴から出たがっていた。夢はいきなり男の胸部に両足飛び蹴りをかまして吹っ飛んでいった。
「うげ、夢ー!!」
時姫のくぐもった怒鳴り声が聞こえ、夢はもうその倒れる男に飛び掛って黒い頭巾でばしばし顔を叩いた。長い黒髪から覗く水色の険しい目元が今に狂気の沙汰になってしかも腕や肩や手に噛み付いてくる。
「時を出すのだこやつ!」
男はたまらずに腹の渦を発生させ時姫が地面に転がった。淡い金髪を頭巾から漏れさせ、怒り立って立ち上がり地面を踏んだ。
「何奴だ!」
夢は笛を構え、時姫は怖かったので怒った涙目で男を睨んだ。夢の脳裏に夜の夢で見た影の呪文と旋律が思い出されて、それを奏ではじめようとした。男は再び笛に閉じ込められる呪文に体を吸い寄せられて、勢い良く夢の吹く笛の穴という穴に黒い粒子となって飲み込まれていくが、それは夢と時姫の口や耳や目にまでもどんどんと吸い込まれていった。
時姫は叫んでそのまま尻餅をついた頃には笛を背に立ち尽くす夢の黒い背を見ていた。そしてその背がくず折れて笛もろとも床に転がった。時姫もふらっと背後に倒れ、気絶した。
目覚めた時には、周りにおおかみが数匹いた。それはいつも遊ぶ群れのおおかみではなく、森のほうのおおかみだ。社にそなえられた食べ物がいると、おおかみは子供を狙わずに時々迷い込んだ子供を森の外まで案内する。おおかみは目を覚ました人間を見ると、その人間たちからこの人間の作った社に置かれている食べ物を一つその倒れた腹に乗せた。
時姫は見回し、それを手にしておおかみに微笑んだ。
「ありがとう」
まだ夢が眠りこけているので、その腕を揺らした。うなって夢が目を覚まし、時姫とおおかみを見た。おおかみがくれた食べ物を分けた。
おおかみはまた小さな社の奥の森へ歩いていき、何度か二人を振り返ってから戻っていった。
「また明日、お礼の新しいお供え物もってこよう」
「うん」
夜の村を歩く黒頭巾の二人は、錦や黒絹に月光を染ませ歩いていた。森からはおおかみたちの遠吠えがする。森から、それに屋敷のある方向からも。
夢の懐にはあの笛と、腰には自分の笛を持っていた。
「俺たちの体に確かに黒いのが入ってきた」
「覚えている」
時姫もこくりとうなづきながら、自分の形の月影を見ながら歩いていた。
「夢殿の吹いた笛にも」
夢がその笛を月に掲げると、時姫と頭巾の顔を見合わせて、影を引きつれ村を走っていった。
神社にやってくるとその戸を開け廊下を走った。
「もし!」
宮司を任されている者が双子を見てさっと頭を畳につけた。
「時姫。夢殿」
「この笛を得たのだ」
宮司がはてなと顔を挙げると、目を丸々とさせ伝えられる笛を見た。そして背後の神棚の桐の箱の紐をほどいて開けると、笛の納まるはずの錦が無かった。背後の夢が持っているものだ。
「何故それを」
「夢で見て小屋を探したら隠されていたのだ。奇妙よの、まさか男が現れ体が吸収しようとは」
驚いて宮司は夢の口を手で覆い時姫は言った。
「私も。さきほどからそれだからかあまり力が入らぬ」
確かに二人の顔は元気が無く、いつものように夢の目も悪戯に光っていない。いいや、光ってはいるのだ。ゆらゆらと蝋燭に揺れるように、淡い瞳が不可思議に。
「その妖魔は京の都に現れたものであり、呪術師が笛に納め都から離れたここへ祀ったのです。峰殿から伺ったことでしょう」
二人がうなづくと、宮司の十七の息子志陰が静かに来てあたたかい茶を出した。時姫には、いつも以上に静かな視線をくれる志陰が魅力的に見え、志陰はその妖しげな纏いに気づいて言った。
「父上。彼らを祓って悪を出させますか」
それを聞いた双子は体の内側からの何かの感情に、顔を見合わせて笛を構えた。宮司と志陰は咄嗟に身構え、吹かれた笛で黒い粒子が双子を包んで宮司と志陰に襲い掛かった。
ぐったりした二人は目を蝋燭で光らせ瞼に伏せられ目を回した。
妖魔は二人の体のなかで久しぶりの自由によろこんだ。月に照らされるもとで二人は笛を吹き踊り舞った。
宮司がうなって起き上がり、よろめきながら柱に手をつけ縁側から月光の庭を見た。美しい二人が華麗に舞を踊っている。
「………」
宮司は呪文を短く唱え、その韻を送った。
「!」
双子の背にそれぞれの韻が光り刻まれ、その場に吸収されていった。青い月より白く。
二人が十七の年齢になると、美貌は目覚しかった。背にして包まれる御簾の如き紅葉が鮮やかに彩る。
志陰が二人のなかの妖魔を祓おうと陰から狙おうが、毎回身軽な二人はかわしてするりと飛び二人が鼓を笛を構えて飛び舞う宴をからかわれるだけだ。黒衣と脚の覗く錦衣とが舞う。屋敷の楽者たちが琴や大鼓を奏でた。
妙齢の時姫はいつもの如く志陰に妖しげな淡い瞳の微笑をくれる。
夢は腰に差した短刀を構え刀の舞いを時姫と華麗に舞う。青く高い空はゆらゆらと紅葉が風に舞う。
まだ宮司の封印が効き目を表し妖魔は下手なことはせずに二人の箱に納まっている。
2017.12.9
続く
箱