翳踏むばかり/01-01.第一の所感

一番目のノートには、陰翳が少年の姿をとった最初の経緯のほか、数ヶ月ほどにわたって少年を観察した上での雑感らしいものが、切れ切れに書かれてあった。

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(山犬が現れた年の十一月頃と思われる記述)
あの陰翳がああなってから三ヶ月経つ。
元気そうに思われた母が倒れたのが先月であった。病には無縁のはずが、急に頭が痛いと騒ぎ、治る兆しを見せないので、病院へ行く途中昏倒した。診断を見るに卒中である。卒中即ち卒然と中るものであるが、本当に突然であるのには驚いた。打つ手は打っていただいたものの、数日のうちに落着した。最期に聞いた母の声というのが痛がるさまであったのは、何分悪い後味であった。
その数日の間に兄には連絡をつけ、早々に来てもらったのが、そのまま葬儀の段取りも任すことになってしまった。どのみち喪主なのだからと兄は言う。義姉にもずいぶん手伝ってもらった。家を出てからめっきり顔を合わせなかったのが、訃報により今年だけで三度は会う。
父の四十九日からほどないので、焼香に来た客の何人かは、僕や兄を幾分かわいそうがった。しかし僕には何もかも鬱陶しいばかりであった。母の死を悼まないのではないのだが、兄は「お前はやっぱり顔が動かんのだな」と、僕が悲しい顔のひとつもしないのを、呆れて言った。しかし咎める風ではない。父の時といい、昔からのことといい、僕がいつでもこうなのを、兄はよくご存じである。
好隆はいつぞや、あの陰翳を指して「ありゃ死神じゃあるまいな」と言った。あれのことは母には終ぞ知れなかったが、たびたびに訪ねてくる好隆なので、僕の見ないところで鉢合わせでもしたのだろう。庭に金木犀の匂いがまだ残る頃であったが、好隆はこれを嫌がりながらも世話になったからと言って、律儀に通夜から葬儀まで来た。陰翳が見えるところにいないことに、多少安堵していたらしかった。
というのも、何かと客が多いので、家中は疎ましいほど賑やかなのであった。陰翳は大いに嫌がったと見えて、法事の終わるまでの間、蛇の姿すら見かけないのだからよほどである。親戚が引き上げていき、僕の生活の心配をする素振りの兄夫婦が帰ってしまってから、あれは一日と経たないうちに、縁側のあたりへ少年の格好で現れた。
どこにいたかと訊くと「隠れていた」と言う。どこへと訊くと「ここの下」と言う。踏み石の奥などは、確かにどの時間でも暗がりになる。
「線香の匂いがした。誰か死んだか」
「ああ。母が」
「そうか。また葬式か」
陰翳は何ごとか拗ねる様子で、「あんなに人が来るなんて。ああいうのは嫌いだ」口振りは子どもの駄々にも聞こえた。
「仕方ない。親の葬式だもの」
「一体どうしたらあんなに大仰になる」
「さあ。段取りしたのは兄さんだから。お前も付き合いは嫌か」
「知らない。人といえ、お前と喋るばかりだ。けども他所のやつは、嫌だと思った」
「そうか。気が合うな」
「それはそうだ。おれはお前なのだもの」
ふたりきりが清々しい。陰翳は天に大きく伸びをする。
母が亡くなり、今の家主は僕になった。この広い家に独居なのであるが、心寂しく思われることは、陰翳のおかげか、まるでない。それは兄などに言わせたら、薄情と名がつくものだろう。
昔仲良くした従兄は木から落ちたのが元で死んだ。六つの僕は涙のひとつもこぼさなかった。こればかりは、良い遊び相手であったから、いなくなって寂しく思ったのは本当なのだが、心が何ともなくぼんやりしていた。疑問より先に、僕を気味悪く思うらしいのを隠しきれずにいた兄が、それでも僕をひどく突き放しもしなかったのは、僕らがそれなりに歳の離れたきょうだいであったことと、加えて兄のごく寛容な性質が、弟を無碍にするのを許さなかったためだろう。兄は僕に「お前は気質が薄情なんだ」と言うと、せめて周りに知れないように計らうのが良いと勧めて、それ以上僕を悪く言うことはしなかった。
陰翳の顔、少年の姿は、どこかしらあの死んだ従兄に似ているような気がして、そのせいか、昔のことを近頃よく思い出す。少年の姿は家の中にたびたびあり、以前と違っていくらの会話を持つこともできるのだが、少し目を離すとどこにも見えないことがある。消えてはいないが現れてもいない。光濃いところに映る影のようなものだ。日差しが翳るとどことも区別がきかなくなる。そうした陰翳と共にあって、僕は孤独ではないがひとりである。陰翳の姿のないときは、より一層に。思い出されるあれこれのことも、ひとり粛々と考えるうちは、今まで意識もしなかった深いところの、細かい光景があざやかだった。誰ともつかない何ものかを近くに置いて、初めて知れることであった。
陰翳は、初めて人の姿を現して以来、少年の背格好でいることが増えた。しかしながら、あの寸足らずの和装もそのままなので、この頃は見目に寒々しいと思うことの方が多い。首すじに腕と脛とが、秋の陽射しに白く光るのであるが、やはりまるで白紙か雪かに思われ、温度らしいものは一分も見出すことができなかった。
「ところで、服を替えないか」
既に面識を得ているためだろうか、好隆のいるときに姿を見せることもあるので、少しの装いは与えてやるべきか考えていた。陰翳は僕を仰いだ。
「急にどうした」
「丈が足りないだろう」
「不自由はない」
「今を何月だと思っている。見ているだけで寒いんだ」
それでも不可解に首を傾げるので、陰翳に暑さ寒さの感覚は皆無だろうと思われた。せめて着丈を伸ばせないか訊くと、「体が片端になる」との返事。服らしいものは体の一部ということだ。ならば引っ掛けたら痛いのかというと、そういうことではないらしい。
整理しないままの奥座敷の押入には、中学時分の学生服がしまいっぱなしになっている。むろん綺麗なものではないが、そこらの学徒に較べても、僕などさして活発ではない。ほつれはあっても穴はなく、着るだけならば用は立つので、ズボンを先ず宛てがってやった。さすがに襯衣は捨てたので、僕がいくらも持っているものを一枚貸すことにした。着なさいと言うと陰翳は存外素直に従った。
少年の姿は、僕よりひと回り小柄であるから、幾分幼い頃の制服は恰度の丈でも、襯衣は肩と腕とが相当余る。長い袖を振って首を傾げた陰翳は、「捲ればいいんだろう」と、肘まで布を折り上げてしまった。合わないからと新たに買うのは面倒だが、本末転倒な気にさせられた。
しかし、あの寸足らずの和服に較べたら、出来合いの洋装の方が似合うように思われた。顔に落ちる前髪のために印象は陰気ながら、あれの見目が少年なりに、十六、七の若さをしていることが、恰好を変えてはっきりした。
「似合うじゃないか」
僕が言うと、「そうか」陰翳はいかにも不思議そうな目で、髪の隙間から僕を見上げた。
「少しはちゃんとして見える」
「何だ、それは」
「何も着ていれば良いってものではないということさ」
「面倒なことを言うのだな」
陰翳は不服な顔をしたが、僕の言うことに逆らいもしない。それより後、陰翳の装いは貸してやった上下だけになった。
しかし後から気づいたことであるが、以降陰翳は他の姿に化けることがない。衣服はあれにとって不純物であるか、余分なものが周りにあるので変化に難いか分からない。ただあの陰翳は、化けるとき等の折々に、自分の身体を煙様に解くことがあるが、ズボンの布目の荒いところに、これを混ぜ込むことにしたようである。この前など、腿のあたりから陰翳の煙を伸ばし、器用に鼠を獲るのを見た。いかにも器用なことをする異形だと思った。

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(年月日不明)
陰翳のことを呼ぶ名がないのが気になった。
しかし呼びつける用もないので、都度「おい」と言ったら事は足りる。
母が死んだことで、家には僕と陰翳とのふたりきりになった。隠れる必要がなくなったので、陰翳は幾分堂々としだして、晴れている日には縁側のあたりで日光を浴び、時々腕や足許を解いては、虫や鼠を獲っている。様子を直接に見たのではないのだが、どうもそのまま食っているようである。
あれが僕から脱けて出たものなのだとしたら、虫や鼠を見境なしに食う異形の側面もまた僕なのかもしれなかった。僕があの陰翳に呼び名を与えそびれたままでいるのも、そもそもはあれが僕と起源を同じくしているからだろうと思われた。僕が表ならばあれは裏である。突き詰めるところ僕はあの陰翳のことも「僕」と称して然るべきであった。
しかしそればかり、どうにも躊躇われるのはどうしたわけか。背格好顔貌まで完璧な同一でないからであるか。

陰翳は、ひとりそこに置いておくと、白痴然として物を語らず、穏やかな無に帰するようである。いつ何時も、何をかも削ぎ落とした顔をすると思っていたが、僕はどうにも、そういう心持ちになることはない。よくよく眺めると、顔貌のそのものも、僕と陰翳はそう似るわけでないようだ。親戚と喩えたら、さしたる違和もなかろうが。
深く考えるに、僕と陰翳との間に、小さな差の何と多いことか。
他人と思えば当然のことであるが、あれは僕の陰翳なので、奇妙であった。
ある折に名のことを話すと、陰翳は「そう要るものでもないだろう」と言う。「名もなしに生きるもののほうが、この世にはうんと多い」
「それはそうだ。しかし、畜生の道理だろう」
「おれとて畜生のようなものだ。そういう形をしていたのだから」
「それとこれとは」
思考するだけ陰翳と獣とは同類には思われないが、あれの考えは違うようであった。
僕を見上げる陰翳の目は、何をどのように見るかも知れないほどの暗闇が占めている。瞳の奥に瞳孔がない。翳のもうもうと煙立つのは、異形ゆえのことと思われた。
「おれに名がないのがなぜそう不都合だ」
「便利って言葉があるだろう。お前と会話したときと同じような理由だよ」
「それこそ、面倒だ。おれはお前のような何かで、畜生なのだから。それで差し支えることもなかろうに」
それとこれとはとまたも言いかかり、しかしあれの言うことも尤もであった。陰翳の確固な暗闇の目を覗いてみると、そこに映るものは何ものもない。
「けども、僕はお前が少々怖いよ」
「そうか。いったい何が」
陰翳は怪訝な顔をするので、僕の思うところとても具には理解されないのだと改めて知れた。
「お前のことのすべてが、さ。僕から出てきた癖をして、僕はお前のことをあまりに知らない」

「おれがお前から生ったとしたのは、他ならんお前ではないのか」
「それはそうだが」
「おれは少なくとも、お前がそうと言ったときから、そうと決まったのだ。おれがお前だとするのなら、お前がおれを分からぬわけがない」
「ではお前には僕が分かるか」
訊くと陰翳は少し黙った。「分からないこともある」眉根を寄せる様子は見目の年頃より幼く見えた。
「前はそんなこと、考えなくともよかった。お前がそうも面倒を言う理由は、おれには分からない」
陰翳とは、僕の思うより、単純にして純粋な思考をしていようか。あれの中で、あれと僕とを繋ぐ等号の、何と頑固なこと。一徹した考えだの、融通のなさだのいうところは、しかし僕の短所でもあるから、似ているところは似ていよう。昔日の自分を眺めているようでもある。
あの獣の姿のうちに、かほど幼い子どもの性が隠れていたとは、何ごとにも奇異であった。あるいは、陰翳は自由なる獣の骨身から少年の姿に圧し屈められて、精神をさえ形に惹かれて少年然としたか。はじめ最も近く寄りついた当時の、鋭く光る山犬の目を思い起こす。今は幾分柔らかい目つきをするようになった陰翳である。どこで何が違えたものか、あれの変化は興味を深長にする。
「そう思うと、お前はずいぶんと僕に盲だね」
そうまで僕に執する理由は何だと訊いてみた。すると陰翳は、「お前がおれに当然としてそこにいろと考えたからだ」と言う。
「言った覚えはないが」
「言いやしない。考えたんだろう。おれの山犬だった頃までは、時に手に取るように見えることもあった」
この異形は心までも読むか、思ったところへ、「しかし今はそれもない」と陰翳は続ける。
「数年を離れた間に勝手が変わった。こんなことなら、着いていってもよかったかもしれない……」
あれはそれだけ言うとまた少しばかり口籠った。本当に少しのことであったが、何ごとか、言葉を選ぶ様子にも見えた。その機微は、きっと僕にのみ分かり得るものだろうと思った。
陰翳は俯きがちに僕から目を逸らす。
「はじめは、お前のことなど、食ってやろうと思っていたのだ」
少年の口許に、小さくも目立つ犬歯のひかりを見た。気不味い告白の気分であろうか、しかし、僕は思いの外、驚いていなかった。どのみちそんなことだろうと、無意識にも踏んでいたのか知れなかった。
「けどもお前から恩を受けてしまった。おれがあの古い罠にかかった時だ」
「ああ、覚えているさ」
「あんなことがあったので、易々と食うには呵責がある。あのまま、お前に見つからずにいたら、おれでも無事に今まで居れなんだろう」
「それは、そうだろうが。それだけのために?」
陰翳は言葉に遜色なく、極めて口惜しそうな顔をする。今までのあれにはない顔だ。もちろん僕にもない顔である。
「恩だの義理だのと、そんなことを気にするのか、お前は」
訊いてもしかし、瞳は揺れない。
「些細と思われようが、おれにとって、大切なことだ。お前はおれを罠という封から解いた。ことの初めにしても、おれはお前によって生まれ、お前という封から放たれたようなもの」
「僕が意図していなくてもか」
「そうだ。お前がどう考えようと、おれにとってはそういう事実なのだから」
それを縁故に、おれはお前に義理を以て縛られた。
おれはお前に、返すべきものを返さねばならぬ。
そうと気づいた時から、おれはお前が戻ってくるのを待っていた。
────陰翳は左様なことを言った。いかにも静かな目であった。曇りも疑いもどこにもない、美しい闇である。
「僕に着いて回るのは、そのためか。そのためだけに」
「当然だ。おれはただ機を窺うだけ。お前にもし身の危機が迫るなら、二度の命に見合うだけは、おれが守ってやるのだ。おれはそのために人に化けた。すべて終わったら、分かっているな」
「僕を食おうと言うのだな」
陰翳は俯く加減で頷いて、「しかし」と眉を寄せる。
「しかしかくも穏やかなのでは、出る手もないので敵わんな。お前には丁度の服も頂戴してしまった。ちっぽけだが、これもひとつの恩だもの」
「返す間もなく積み上がるか」
「そのようだ。況して、名まで享けては気が遠くなる」
それにしても、あまりに気長な話であった。しかしながら僕もまた、永の暇を紛らすに良い対手を得ることになろうので、幸といえば幸いである。
忘れもしない感慨は、見出した時、今までさして浮き立つことのひとつもなかった気が、急に沸き立つ心地がした。少年に姿を変じてより、陰翳への関心は無尽であった。平坦に終わると踏んでいた僕の一生に、あれが強烈な滲みを残したことは事実である。
薄まることを知らないインクの一滴であった。
「しかし考えるに長丁場じゃないか。手頃な呼び名くらいは欲しいな」
「喧しい。まだ言うか」
「僕が欲しいと言うのだ、僕の勝手さ。まあ待て」
僕は少なからず喜ぶのだと思った。得難いものとは他人ならぬ他人、己ならぬ己たる陰翳である。人形らしく精緻な面をした少年らしい何ものか。玩具を手に入れた幼児の感慨であるか、しかしそれとも少しは違うようなので、不思議である。
奇妙なのは、陰翳の白い頸すじの、項は右手の中ほどに、ふたつ小さく連なる黒子を見たことである。僕自身もまた、同じところへ、同じ数だけの黒子を持っているので、少し可笑しかった。
僕とほとんど同じ形の目をした陰翳は、僕に較べると伏しがちの視線で、僕の何か言うのを大人しく待つ。しかし憮然として見える。目つきの良くない子どもであった。偏見なくこれを解釈できるのは、きっと僕に限られるのだと思った。
「山犬だ」
ならば、生意気な犬と捉えよう。躾はならない、しかし噛むことも先ず以てない。少なくとも、それであれば、何の変化も障りもあるまいと。
「悩む割には安直な」
「思い出深い姿の話さ。それに、畜生のようなものだと言ったのはお前だよ」
「それはそうだが」
口では言うが、装いのくだりひとつ見ても、しかし明らかな嫌気を見せる素振りはない。きっとあれは、何をどうしても些かの不服とするのだ。結局は、好きに呼ぶのがよいと、投げ槍になるのが終いである。
「しかし、そういうわけだ。僕はお前を山犬と呼ぶ。そっちも好きに扱うのがいい」
「何をだ」
「名前を。僕のも、好きに呼ぶといいと言うのだ。知らないわけではないだろう」
陰翳は怪訝な顔をした。
「お前って言や、足りるのに」
「世は並べてそんなものさ。お前が名を享けるのを気後れと言うなら、僕を呼べって僕の我儘を、代わりに聞くのが引換で、どうだ」
「何が引換だ。おれが面倒を被るばかりではないか」
一度は嫌な顔をして、しかし陰翳は、最後に「好きに思っておけ」と吐き捨てた。僕が与えたものに見合う分は、本当に自由にさせるつもりのようである。

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(その後のこと/年月日不明)
山犬。
紙ほど白い肌。細い髪。ガラスより無機の瞳。食事せず、眠らず、肌に傷なく、血を見せず。
あれはやはり人形のように見える。

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(年月日不明)
姿の見えずとも呼ぶと出てくる山犬である。
家事の何ごとか手伝わせると素直に手伝う。取り留めもなく会話するにしても相槌を付き合う。母のいる頃に遜色なく口数が増えるのは山犬のあるためである。

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(年月日不明)
僕に向けられる山犬の目は、言葉尻の鋭いののわりに柔らかく見えることがある。
説明がつく類ではない。僕にのみ、直感によって明らかである。僕もまた山犬には、他に抱き得ない一抹の感情を持つのであろうけれども、やはり種類が分からない。易々と解明されるものでもない。
陰翳への第一の所感はこのようなところである。今しばらく長い目で観察に努める。

翳踏むばかり/01-01.第一の所感

翳踏むばかり/01-01.第一の所感

2023-08-01 改稿

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-06

CC BY-NC-ND
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