利き腕の恋人 #1
佐藤くんは今日も練習している。昨日も練習している。たぶん明日も練習する。
練習ばっかり。汗いっぱい流しちゃって。タオルなんか、いつも汗くさくて。
ふつうの人はそんなに汗かかないよ。汗かかないように気をつけてるよ。
でも佐藤くんは汗を気にしない。
私も佐藤くんの汗を気にしない、ようにしたいと、いつかそうなれるかな、と思っている。
高校での佐藤くんはふつうの人だ。目立たない。名前が「弘樹」だから、影で「くうき」って呼ばれてる。私も影で「くうき」って呼んでる。
でも、他の人がそう呼ぶのは、少し違うって思う。
バスケは下手くそ、サッカーは下手くそ、野球もたぶん下手くそ。短距離は早い、長距離も早い。握力が強い。たぶん反復横跳びも早い。でも、なんだか目立たない。
毎日汗ばかりかいているから、体育ではぜんぜん汗をかかない。わたしは両手で双眼鏡をつくって、佐藤くんを見ている。誰よりも見ている。だから、見てなくても分かる。
佐藤くんの「さ」は、最近頑張っているの「さ」。
佐藤くんの「と」は、とにかく頑張っているの「と」。
佐藤くんの「う」は、うんと頑張っているの「う」。
「ねえ、アキちゃんって、サトウとつき合ってるんでしょ。この前、一緒に帰るの見たって、ねえ。」違う、断じてそのようなことはない。たぶん、今のところ天文学的確率ぐらい無い。でも、そうなりたいと思わないでもない。
「あ、佐藤くん。こっち、なんだ。わたしもこっち。あ、あんまり一緒になったことないね。」
声がなんだかカタカタしている。
「あ、佐倉さん。お疲れ。こっちなんだ。ぼく、家は反対方向なんだけど、ちょっと用事があって。」
むむむ、用事って?———とはきけないので、「そうなんだ」、と受け流す。そういえば、佐藤くんって部活入ってないの?———足は早いし、握力強いのに———とは言えないので、質問の語尾が気まずそうに消えてった。
「うん、ここって入りたい部活がなかったから。去年まではあったみたいだけど、廃部になっちゃって。」
わたしは心のリマインダーをさっとクリックしてメモする。「キョネン ハイブ ナニブ カ?」。メモしながら、それと察せられないように、社交辞令をチョイスする。———そうなの、運動系、文科系?———ぜったいに運動系、しかも目立たないやつ。
———「卓球って、俺らの親父の頃はダサくて暗いイメージだったらしいぜ。今はすげえカッコイイのにな。野球とか、サッカーとかもすげえけど、来世はやっぱピンポンでしょ!」
男子はみんなテキトーだ。ううん、佐藤くん以外は。
佐藤くんがピンポン玉を天高く放り投げるのは、なんとなく想像できない。それに、バスケもサッカーも苦手な人が、他の球技が得意なんてあるのだろうか。うー、あるかもしれない。なにせ球の大きさが違う。———
「一応、運動系だけど、なんか話すと「引かれ」ちゃうんだ。なんでそんなのやるのって。両親も猛反対だったし。」
え、何それ。引かれる、する理由が理解されない、両親反対。そんな禁断なスポーツなんてあったっけ。
「じゃあ、ぼく急ぐから、佐倉さん、バイバイ。」———
あ、あの、そのスポーツとは……
———「アキちゃん、何そのなぞなぞ?「周りから引かれて、理由が理解されなくて、反対されるもの」って。田舎でオネエなのをカムアウトするみたいな感じ?え、違うの?分かんないよー、なんかヒントないの、ヒント!」
オネエ的なスポーツ?まさか!というか、ヒントなんて、分かってたら出してるし、そもそも分かってたら聞かないよ。
その夜、わたしは風呂上がりに、お兄ちゃんがたまたま観ていた深夜番組を眼にしてしまったのです。タイ、「きっくぼくしんぐ」、スポーツ用の水着みたいのをつけて、オネエ様たちがけったり、たたいたりするのを。これは、たしかに「引かれて、理解されなくて、親から反対される」———佐藤くん、まさか……
ベッドに入って灯を消したばかりの青い天井を見てました。短い期間でした。思えば、どうして佐藤くんだったのだろう。シーちゃんも、スイッぴも、めぐりんも、みんな野球部の先輩や、サッカー部の後輩にきゃあきゃあ騒いでたのに。まさか、まさかのまさか、なんて……
———「というわけで、爬虫類の中には「ぎたい」と言って、天敵に発見されないように、周囲の色や形に合わせて身体を一時的に変える能力を持つものがいる。昆虫の場合だと、進化の過程でその形のままになってしまった種も多い。」
「ねえ、今日の生物のあれって、なんかスクールカーストっぽくない?自分に与えられた階層が、ホントは嫌だけど、露骨にいじめられるのも嫌だから、「ぎたい」しちゃう、みたいな。」
女子は———あ、わたしも女子だった———ときどきすごく残酷だ。
佐藤くんも学校では「ぎたい」してるのかな。本当にタイの「きっくぼくしんぐ」をしてるのかな。み、水着で。
定期試験も近いから、最近ダイエットがうまく行かないから、お兄ちゃんと喧嘩したから、昨日お母さんが「今晩すき焼きよ」って嘘ついたから——って、口実を考えても、やっぱりもやもやするから、っていうのが本当なんだよなあ。
それに、なんかこんなのしてると、ストーカーっぽいんだよなあ。誰にも相談できないし。って、あれ、佐藤くんだ。
「あ、佐倉さん、また一緒になったね。塾とか通ってないの?そうなんだ、ぼくもあんまり時間ないから、練習終わってから家で勉強してる。疲れるから途中で寝ちゃうけど。」
ん、今日の佐藤くんは何だか様子が違う。こんなに話すキャラだったっけ(心のリマインダー情報によると、これは未曾有の異常事態だ!)。ええい、きいてしまえ!
「ねえ、佐藤くん、練習って、その、な、何の練習?」———「きっくぼくしんぐ」ではありませんように———
「ええっと。うーん、佐藤さん知ってるかな、ボクシング、なんだけど……」佐藤くんが少し恥ずかしそうに言った。
ぼぼぼ、ぼくしんぐ!あああ、おわたー!まさか、まさかのまさかでした。
「だよね、ふつうに見たら喧嘩みたいなもんだもんね。親からも「そんなことしてないで、勉強しろ」って言われるんだ。今でも。才能もあるかないか分かんないけど、今度初めての大会だから、頑張ってみようって思ってるんだ。」
じゃあ、お疲れーという言葉を、わたしのそばに残して、佐藤くんは自転車を立ちこぎして行ってしまった。———なぜ佐藤くんなのか謎なまま、なんか一方的に失恋した……まて、失恋って、恋してたわけでもないのに……とにかく、試験がんばろ。
「お、アキ、本格的に勉強する気になったか!お兄ちゃんを見習って、ばしばし良い点を取るんだぞ!ん、どうした、元気ないな、お前、やる気なの、それともやる気ないの?」
ねえ、お兄ちゃん、一個だけきいていい?いや、一個だけでいい。昨日のさ、「きっくぼくしんぐ」と「ぼくしんぐ」って同じだよね。
「はあ、お前何言ってんの?タイのあれは、キックボクシングって言ってたけど、本来はムエタイって言うんだ。蹴りが主体で、とくに脛を鍛えるんだ。ビール瓶でこんな風に叩いてな。そんで、ハイキックに見せかけて、ひねりながら膝の関節を狙うんだ。ムチみたいにしなるんだぜ———」
いや、だからお兄ちゃん、「ぼくしんぐ」と違うの?
「当たり前だろ、ボクシングはパンチだけで勝負するんだ。これがジャブだろ、これで距離を測って、こうストレートーをばしっと、フックは下半身に重心をかけて、こう腰を軸に回転させて———おい、お前、聞いてんの?」
「きっくぼくしんぐ」と「ぼくしんぐ」は違うんだ!ありがとう、お兄ちゃん。じゃあね、ありがとう。もう邪魔しないでね。わたし勉強するんだから。」
どうやら、わたしはツイテいるらしい。翌日も帰り道で佐藤くんと一緒になったのだ。「きっくぼくしんぐ」でない以上、佐藤くんはオネエではない。———
「ん、佐藤くん、顔どうしたの?」
「佐倉さん。あ、これ?昨日、練習でスパーリングやって、ちょっとパンチもらっちゃった。ヘッドガードしてたんだけど、取ってみたら腫れてた。痛そうに見える、ごめんね。」
「いや、そんなこと、ないこともない。って、大丈夫?」
「うん、痛みはないよ。みんなも大会が近いから、一生懸命なんだよね。つい、こう力が入って。え、佐倉さん、どうしたの、気分悪いの?ええ、ぼく何か傷つけるようなこと言った?ごめん、これ見て気持ち悪くなったの?」
なんか涙が出てきた。いろいろぐるぐるしてきた。気づいたら、保健室のようなところで制服のまま横になっていた。外から何かに当たるような、何かを叩くような音がする。それに、汗臭さい。
「あ、起きた。大丈夫。佐藤くんが連れて来たときは何かと思ったけど、貧血かな。も少し寝とく?」
あ、あの「きっくぼくしんぐ」のような格好のお姉さん———こちらは「ホンモノ」だ———が、ベッドを覗き込んでいる。で、汗臭い。後で佐藤くんから聞いた話では、わたしが倒れそうになったのは、もうジムの近くだったので、先輩(この人)を頼って、連れて来たとのことだった。
「だ、大丈夫です。ここは……あの……」
「ああ、佐藤くんから聞いてないんだ。なんだ、カノジョじゃないのか、てっきりそうだと思ってたのに。まあ、せっかくだから、佐藤くんの勇姿、見てったら?」
お姉さんに無理やり押されるように、「医務室」を出て扉をあけた。ぷんとすっぱい臭いが鼻をつく空間。とにかく人が多い。真ん中にリングがあるけど、その周りで縄跳びする人や、誰か目に見えないものを相手にパンチを出している人、巨大なソーセージのようなものをバシバシ叩いている人、とにかく人人人。
「ほら、あそこ、見てごらん!あれ、あのリングの真ん中にいるの!」
あれは!!!佐藤くんだ!頭に青いのを被って、赤いのを被った人と試合みたいなのしてる。あ、佐藤くんがパンチした。赤い人の頭にあたった!赤い人もパンチ!あ、佐藤くんよけた、すごい!
「でしょ、佐藤くん、このジムではけっこういい線いってるんだよね。毎日毎日、学校帰りに寄って夜遅くまで練習してる。すごく真面目、で、センスもいい。そこだと邪魔にならないから、も少し見ていきなよ。」
ボクシング、見るの初めてなのに、すごくワクワクする。いや、ドキドキする。———佐藤くん、学校と全然違う。こんなスポーツする感じじゃないのに。なんかすごく速くて、カッコイイ。———スパーリングが終わるまで、わたしの眼はずっとリングに釘付けだった。
「佐藤さん、大丈夫?ごめんね、こんな汗臭いところに連れてきちゃって。近くだったし、ちょっと混乱しちゃって。———」
佐藤くんは軽く息を切らしながら、汗でびっしょりになりながら、青い被っているのをとった。髪も汗でくしゃくしゃしていた。さっきのお姉さんが、さっと横に来て、肘で佐藤くんをつついた。
「佐藤くんもスミにおけないねえ、こんなに可愛い子、ジムに連れてきちゃって。あ、それはそうと左ストレート、引き際にボディとの間に隙ができるから、なるべく引き手を速くね。できたら重さも変えながら。」
「あ、ありがとうございます。少し力をいれると、タメができるんですかね。あとで、鏡で確認してみます。」佐藤くんは、こうかな、こうかな、って感じで左手をしゅっしゅっと前に何回か出した。
「ひだりすとれーと?」何気なくわたしは口にしてしまった。
「うん、これ!ストレートって文字通りまっすぐなパンチなんだけど、ぼく左利きだから、こっちの方が右よりも強いんだ。うまく当たると、相手にけっこうダメージを与えられる、はずなんだ。」
わたしのなかで万年雪が溶けた。一年生の時、一緒なクラスで、たまたま席が隣になった。ある日、わたしが教科書を忘れて机を引っ付けて見せてもらったことがあった。そのときに、ノートに板書しているわたしの右腕が何かにあたった。あれ、と思ったら、佐藤くんのシャープペンを持つ手だった。
———「ごめんね、ぼく左利きだから。ちょっと、横にずれるね。」そうか、あのときから佐藤くんのこと、何となく気になってたんだ。
汗だくの佐藤くんが、わたしのために出した左ストレートの、しまうところを無くして、ぽかんとわたしを見ていた。
利き腕の恋人 #1