杏月記
心にも あらでうき世に ながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな
三条院 「後拾遺和歌集」より
第一夜
私が、この世に降りたった時のことをお話しましょう。生まれる時までも、あの尊い御方の衣が頬をかすんで私を包み込んでいて、そして、この人間の二つの眼ではっきりとあの御方の色を見たのです。その美しさに、私は気がなくなったように、ただその消えゆくぬくもりを感じながら、私は名も知れない村で身を隠していた女の子供として生まれました。
その女は、柊の君といい、生まれた私の姿を見るなり、「すずや、すずや」と泣いていました。私に"すず"という名をつけ、しばらく柊の君と乳母と暮らしました。
しかし身を追われているという柊の君は、私を連れてあちこちと住処を変えました。私が生まれた家から、時には山の社、風の吹き抜ける納屋まで、身を置くには過酷な場所での暮らしもありました。
そんな暮らしで、激しい落雷の中、河内の川のそばあたりにたどり着いた時、たった一人付き添っていた年老いた乳母が疲労で死んだのです。
「これほどまでに己の命運に振り回されるとは…」
雨の中、私を背に隠しながら乳母を抱きしめ泣いている柊の君の姿をよく覚えています。幼かった私は、母の背にしがみついて腹がすいたと喚くことしかできずにいました。
雷が轟くなかで、私に
「お前だけは不幸にさせはしない」
とたしかそのようなことを言っていたように思います。
雨が上がると、冬の初めの冷たい夜風が私たちを容赦なく突き刺し、柊の君は自分の僅かな熱を私に分けようときつく抱きしめていました。
私はそんな母の胸からかすかに、空に登る月の光を感じて、虫が治まったようにスヤスヤと寝てしまったのでした。
杏月記