カナリアの見た夢

 締め切った台所の磨りガラスの窓の向こうから晩秋の乾いた風に吹かれカラカラとウメモドキの葉擦れが聞こえている。かすみはまだ眠気の覚めない自分の頬をポンポン、と軽く叩いて気を入れる風に腕まくりをすると冷たい水道の蛇口を捻った。
炊飯器のチャイムの音を背に聞きながらお弁当カップにお(かず)を分け入れ終えると炊き上がったご飯をボールに移し、娘の好きな鮭のふりかけをかけて混ぜ合わせる。百均で買ってきた型は色々あるが今日は犬にした。食が細く五歳になっても標準よりかなり少ない体重を気にして完食してくれるように毎朝工夫して拵える。
「─よし、できた」自分でも納得の出来映えに思わず声を上げた。
可愛らしい苺の模様の弁当箱の中で上にはお日様をかたどった甘い玉子焼きにタコさんウィンナー、カエルの顔のピックに刺した肉団子、その下には楽しそうに仔犬たちが遊んでいる。蓋を開けた時の菜乃香の喜ぶ顔を想像しながら、
「─なあちゃん。そろそろ起きる時間ですよ─」掛け時計の時間を見ながらそう寝間に向かって声を掛けた。寝起きが良くいつもならすぐに元気な声が返ってくるのだが、その朝は繰り返し呼んでも返答がなかった。妙に思い狭い畳部屋に入ると菜乃香は敷布団の上で正座して(すす)り上げていた。
ふと眼を()ると股間から下を濡らしていてそれは白いシーツにも丸いシミを作っていた。おねしょは初めてではないが高熱に浮かされ朦朧(もうろう)とした麻疹(はしか)の時一度しか記憶にない。
「─どうしたの。お熱でもあるの?」そう言って額に手を当てて見たが別段熱い訳でもない。
「─とにかくお着替えしよう。風邪引いちゃう」そう言って手早く下着を着替えさせた。
「─だいじょうだからね。誰でもするんだから、おねしょなんか。それより早くしないとネコバスが来ちゃうわよ。今日は特別な日なんだから─」外に出そうと布団を捲くり上げながらそう言って笑うと、
「─ようちえん、いかない」まだしゃくり上げながらそう言った。
「─どうして?あのね、可愛いお弁当作ったんだよ。今日はママと一緒に食べるんだよ」そう言っても菜乃香は小刻みに肩を震わせるだけだった。
「─誰かにイジワルされた?」腰を下ろし目線を合わせてそう訊いて見たが首を振り、しかし暫くして、
「─パパが、いないから」と今度は大粒の涙をこぼしながらそう言った。
夫が出張に出てから一週間が過ぎた。七夕で有名な仙台への出張で頻繁に街並みや風景の写真をメッセージに添えて送って来たり名産物を送って来たりして、菜乃香とも毎日電話で話もしているが父親っ子の娘にとっては実際身近にいないことが堪らなく寂しく不安らしかった。
「─パパ、もうかえってこないの?」夫が出掛けた朝、迎えのバスを待ちながら菜乃香が不意にかすみを見上げて訊いてきた。
「何言ってんの?パパはお仕事よ。済んだらまた帰って来るのよ─」そう言って笑ったが菜乃香は今にも泣き出しそうにじっと母を見上げていた。

「─あのね。今日はお遊戯会だよ。お魚さんの役をするんでしょう?ママ、ビデオも借りてきたんだよ。帰ってきたら皆で観れる様に─パパも楽しみにしてるんだから」そう言うと漸く泣き止み、小さく頷いた。
 正面にネコの顔が描かれたバスが『ニャーッ』と奇声を発してお迎えに来る頃には菜乃香の機嫌もすっかり良くなっていた。ホッとして手を振って見送っていると手元のスマホが着電を伝えた。確かめると憶えのない番号だった。最近どこで調べるのかセールスの電話がしばしば掛かってくる。少し考えたが何か大切な用件ならば留守電に入れてくるだろう、と思い取りあえず無視することにした。
お遊戯会はあと一時間程で始まってしまう。家に入り手早く身支度を整え髪を整えながら何気なくスマホを開くと留守電にメッセージが入っているのに気づいた。再生してみるとメッセージは無言で最後に吐息の様な息遣いが入っていただけで数秒で切れていた。間違い電話だろうと思い直ぐに消去した。幼稚園までは自転車で二十分は掛かる。かすみはテレビのデジタル表示を見ると電源を落とし靴を履くと施錠し慌しく自転車に(またが)った。
時間ぎりぎりで園に着くと駐輪場は既に埋め尽くされていた。何とかスペースを見つけようと辺りを見回しているとすぐ後ろで突然、
「─あらやだ。もう一杯一杯ねえ」そう声が聞こえた。振り返ると柔和な笑みを浮かべて派手目な化粧をした女が立っていた。
「─早いですよね、皆さん」かすみがそう言って苦笑を返すと、
「─そうね。よし、」女はそう言って腕まくりをすると並べられた自転車をかき分けるようにして駐輪場の奥に向かい一台一台整理し始めた。
「─あなたの自転車、何とか押し込んどくから早く教室に入りなさいよ。もう始まってるわよ」少しずつ自転車をずらし詰めながら女が言った。
「─あ、そんな。わたしも手伝います」そう言って中に入ろうとすると、
「─いいからいいから。早く行って上げないとお嬢さん待ってるわよ。あたしは今日、ただの見学なんだから。気にしないで─」女はそう言ってかすみを制した。
「ありがとうございます。じゃ、お言葉に甘えさせてもらいます─」そう言って深く一礼すると小走りに教室に向かった。急ぎながら一瞬、何故女が子供を娘だと知っているのか不思議に思ったがその時は別段気にも留めなかった。
 お遊戯会の最初の演目は「キラキラ星」と「虫の声」の合奏だった。菜乃香はトライアングルを担当していて真剣になった時の癖で口元をギュッと結んで小さな身体全体を上下させリズムを取りながら時折トンチンカンな所で音を鳴らしていた。
寸劇は「スイミー」だった。おでこに自分で描いた赤い魚の面を着け、整列した一番前に菜乃香はいた。緊張した面持ちでキョロキョロしていたがやがてビデオカメラを構えている母を見つけると、安堵した様に少しだけ微笑んだ。レンズの向こうに見えるわが娘の可愛らしい笑顔にかすみは小さく手を上げて応えた。台詞はほとんどないが皆に混じって教室に設けられた狭い舞台を懸命に動き回る姿をファインダー越しに追っている内に感情が(たか)ぶり思わず涙が(こぼ)れそうになった。
 菜乃香は生まれつき心臓に小さな穴が開いていてそれは乳幼児の頃に塞がるケースが多いと医師に聞かされていたのだが五歳を過ぎてもまだ塞がることなく毎月の検診を余儀なくされている。
赤ん坊の時はミルクを飲んでももどしてしまう事が続き、今も疲れやすい様でちょっとしたことですぐぐったりしてしまう事が多かった。
今、隣の女の子が床に(つまづ)いて転び菜乃香が手を差し出すと助け起こした。クラスの中でも小さいがそれでも間違いなく成長している娘の姿に感慨深いものが胸に込み上げて来る様だった。
劇が終わり皆がまた整列すると一斉に拍手が起こった。今にも泣き出したい気持ちを抑えて手を叩いていると目の端に先刻の女の姿を認めた。女もまた潤んだ眼を園児たちに向け懸命に拍手をしている。暫く見遣っていると視線に気づいたのかこちらを向いて微笑んだ。かすみは慌てて会釈するとぎこちなく笑みを返した。

 子供たちはイベントがある時もネコバスで送り届けられる決まりになっていて、お昼ごはんを食べて会が終わると父兄たちも三々五々(さんさんごご)帰って行った。駐輪場に行くとかすみの自転車は一番手前に置かれていた。ずっと奥から一人で並べ替えるのはかなり骨だったに違いない。改めて礼を言いいたくて暫く待ってみたが女はいつまで経っても姿を見せなかった。
間近に落陽を想わせる秋の午後の陽射しの微かな温みを背中に感じながら、かすみはペダルに足を掛け家路を急いだ。

「─おかえり。なあちゃん、今日は頑張ったね」そう言って出迎えると、菜乃香も嬉しそうに満面の笑顔を上げた。ふと見ると幼稚園バッグのポケットから可愛らしいウサギの小さなぬいぐるみが顔を覗かせている。
「あら、可愛い。どうしたのこれ。幼稚園でもらったの?」そう訊くと菜乃香は首を横に振り、
「あのね、しらないおばちゃんにもらったの」笑みを向けたままそう応えた。
「え─どんな人?」もう一度そう訊いてみると菜乃香は首を傾げ、
「あのね、とってもやさしいひと。おべんとうもほめてくれたよ。とってもかわいいって。おかあさん、おりょうりじょうずねって─」そう応えた。
「─お弁当を?」かすみは口の中でそう呟くとお遊戯会での散会までを思い返してみたが思い当たらなかった。数人いる近隣に住む同じ園に通う子どもの母親達は皆違うクラスで今日は遠目にちらと見かけ会釈を交わしただけだった。
 
 考えもしなかった夫の陰にいる女の存在を報らされたのはその翌週明けの朝だった。お遊戯会のあった日と同じ番号からの着電に(いぶか)しげに思いながらも応じてみたのだった。あの日無言のメッセージを残した女だった。
「─どこでわたしの番号を」 そう訊くと、
『ご主人の携帯を盗み見しました』通話口の向こうで女は悪びれる様子もなくそう答えた。咄嗟(とっさ)に返答に詰まり黙っていると、
『とにかく、お会いできませんか』 そう言って来た。唐突で無遠慮な物言いに腹が立ちまた応えないでいると女は待ち合わせ場所と時間を告げいつまでも待ちますから、と言って一方的に通話を切った。
 指定されたのは駅前にあるまだ出来て間もないカフェだった。
木製の重いドアを開け中に入ると途端に芳醇な珈琲豆の良い香りに包み込まれる様だった。平日のまだ早い時間の店内は客もまばらで大きなウンべラータの鉢のある奥の席にそれらしき女は座っていた。遠目に見て直ぐにその顔に見覚えがある気がして小首を傾げ佇んでいると視線を感じたのか女は(おもむろ)に立ち上がり、こちらに向かって小さく頭を下げた。その頭を上げた時、漸くその顔に記憶が行き当たった。女は幼稚園で会った女だった。

「─奥さんは今、幸せですよね」香ばしさの漂うコーヒーの入ったカップにミルクを流し込みかき混ぜながら馴れ馴れしい物言いで女が口を開いた。濃い化粧と香水を匂わせ明らかに自分より歳上と思われる女はカップに口をつけ美味そうにコーヒーを一口啜った後、
「─優しい旦那さんよね。(うらや)ましいわ」 そう言葉を重ね左の掌で頬杖をつくと小さくため息をついた。許されざる浮気相手本人のくせにまるで(おく)しもしない女の態度に憤りが募り始めた。オーダーを訊きにウェイトレスが来たがかすみは何も注文しなかった。信じ切っていた夫の不貞を突然露呈(ろてい)された上にまさかの浮気相手本人である女と向き合っていること自体が信じ難く苦痛で今すぐにでもこの場所から逃れ出したい気持ちで一杯だった。
「─(ろく)でもない男だったんですよ、あたしの前の夫は─産まれたばかりの赤ん坊とあたしを置いてどっかの水商売の女と一緒に逃げちゃって─」女のその言葉尻を待たずに、
「何が(おっしゃ)りたいの、あなたは─どう言うつもりなの。この間もわたしだと知ってて、娘だと知ってて近づいて来たんでしょう─?」不快を(あら)わにしてかすみが声を発した。脱色した様な赤茶けて艶を失った巻き髪にちぐはぐな色の組み合わせの野暮ったい服を上下に(まと)い、どう見ても色香があると云う表現には程遠い風采の女が、よりによって何故夫の目に留まったのか首を傾げるより仕方なく思えた。
『─どうせ浮気されるなら自分より数段見映えのする女じゃないとねえ。絶対納得できないわよ』いつかそう言っていた友人の言葉が思い返された。
「─ああ、ごめんなさいね。旦那さんの携帯に入ってた写真、無断で転送させてもらったの。一度じかに会ってみたくなってね。奥さんと娘さんに─随分変な女だと思ってるんでしょうね」 女はそう言うと自嘲するような笑みを浮かべ、
「─煙草、吸ってもいい?」そう言って返答を待たずに細い煙草を(くわ)えた。火をつけゆっくり煙を吐き出すと少しの間の後、
「─あたしにはもう、あの人しかいないのよね」目線を灰皿に落として呟くようにそう言った。
「何言ってんのあなたは─冗談じゃないわよ。ストーカー(まが)いの事までして」かすみが憮然(ぶぜん)と見返して間を置かず吐き出すようにそう言うと、
「─奥さんは十分幸せじゃない。可愛らしいお嬢さんがいるんだもの。─あたしの子も娘だったんだけどね、一歳の誕生日も迎えられなかったの。─添い寝してて気がついたら呼吸が止まってて─丁度お嬢さんと同い歳なんだ。生きてれば、ね─それにあたしはもう、女じゃないのよ。─子宮がないから、ね─」 そう言って上目遣いでかすみを見つめた後、不意に横を向いた。
「─そんな話されても困るわよ、─」わたしには関係のない話だもの、そう言い掛けて思わず言葉を呑んだ。横を向いた女の眼に揺らいだ光るものを見たからだった。
 結婚して間もなく大きな筋腫が見つかり子宮を全摘出した友人を見舞ったのは今年の春の事だった。
『─別れて欲しい、ってあの人にお願いしたんだ─産めないから。もう一生、どんなことをしても、あなたの愛を形に残してあげられないからって─』病室で半身を起こしぼんやり窓外を見つめるようにして呟いたその眼に揺れていた涙が不意に目の前の女の横顔に重なって見えた。
「─あなたたちから盗るつもりなんてないから、本当に─だからもう少しだけ、ね、もう少しだけあの人を、─一緒にいるだけでいいの。その時間を許して─」女はそう言って目元に浮かんだ涙を右手の人差し指の先で拭うと(すが)るような眼を向けて、
「─あなたに黙ってるのはとても辛かったから。─自分がそうされたら堪らなく辛いと思ったから。だから今日、話して置きたかったの」そう言葉を重ねた。

 その晩、いつもの様に掛かってきた夫からの電話にかすみは出なかった。取り次ぐことなくすぐに菜乃香に携帯を渡した。何食わぬ顔で言葉を返す自信がなかった。交際して暫くした頃、
「浮気は駄目だからね」冗談混じりにそう言うと、
「─うん。俺は器用じゃないからね。浮気じゃなくてきっと本気になっちゃうんだろうな」そう笑いながら交わした会話を思い返していた。目の前で嬉しそうに父親と話している娘を見つめている内に今にも泣き出したい気持ちが胸に迫り上がってきた。
「ママ、パパがでんわかわってって─」菜乃香がそう言って携帯を差し出してきた。
「─ママちょっと忙しいからって─言ってね─」かすみはそう詰まりながら言うと振りをして立ち上がり、娘の目線から顔を背ける様にして台所に向かった。
『─今から同じように女の所にも電話するの?どんな話をするの─これからどうするの?わたしたちはどうしたらいいの─?』声を聞いてしまえば感情に任せそんな言葉が口をついて出てきてしまいそうな気がした。

 ここ数ヶ月確かに急に残業が増えたと言って帰宅が深夜に及ぶことも珍しくなかった。
二人は一体いつどこでどんな形で知り合ったのだろう、果たして夫は本当にあの女を愛しているのだろうか─。女と関係を持ちながらも変わらずに家族を愛し続ける。そんな器用な事が本当にあの人に出来るのだろうか─。女の言葉とは裏腹にともすれば直ぐ先にピリオドが待ち受けているのではないのだろうか─。微かでもあった筈の変化に気づくことの出来なかった自身が腹立たしかった。
天井にぶら下がったナツメ球の橙色の灯りをぼんやり見上げながらまんじりともせず取り留めもなくそんな事に考えを巡らせていると隣で菜乃香が寝返りを打った。蹴飛ばすように退けた布団の下からパジャマがはだけ小さなお腹がぽこん、と出ている。思わず笑みを浮かべ下着を直し布団を掛け直してやっているとふと、
『─幸せじゃない。可愛らしいお嬢さんがいるんだもの』そう言った女の声が耳に蘇った。

 明け方、かすみは指先の湿った感触で目覚めた。布団を上げると菜乃香がまた下半身を濡らしていた。この一週間で三度目だった。まだ白々と明ける前の時間だったが何とか着替えさせようと身体を揺すると薄っすら眼を開け、かすみの手をまさぐりしがみつくと途端に声を上げて泣き出した。
「─どうしたの、怖い夢を見たの?だいじょうぶ、だいじょうぶよ─」そう言って泣きじゃくるその顔を両手でぎゅっと抱きしめ髪を撫でてやりながら畳の匂いのする狭い寝間にぽっかり空いてしまった一人分の隙間を見つめていると、どこからか入り込む冷たい風が心細い自分の心の中を音を立てて吹き抜けていくように感じた。

「─菜乃香の方から、ですか─?」上目遣いでかすみが口を開いた。
「わたしも驚いてるんです。初めて見ましたから、あんななあちゃんは─」園の先生は頷くと眉を寄せてそう応えた。
昼前に掛かってきた緊急の電話でかすみは幼稚園に来ていた。午前中の砂場での遊びの時、友達のおもちゃを取り上げて泣かせた上顔に向けて砂を投げつけたのだと言う。相手の子は眼に砂が入ってしまい園長が付き添い今病院に行っているという事だった。
「─申し訳ないことをしました。本当に」かすみはそう言って立ち上がると深く頭を下げ蒼白に眼を上げた。
後に謝りに行きますから、と相手の家を教えてもらって園を後にした。早退させた帰り道、菜乃香は手を繋ぎながらスキップを踏んで上機嫌だった。
「─なあちゃん、どうしたの?どうしてお友達とけんかしの?」(なだ)める様にそう訊いてみると急に立ち止まり(うつむ)いて暫く黙った後、
「─いつもまいにち、パパとあそんでもらうって。そういったから」小さな声でそう応えた。

「─なあに。お宅はご主人が帰って来ないんですって?」詫びに言った玄関先で先方の母親が腕組みをしたまま親娘を(にら)みつける様にして言った。
「─あ、いえ。あの今は出張でして」差し出した菓子折りの手を宙に持て余したままかすみはやっとそう応えた。母親の横にいる女の子は左の眼に眼帯をしていた。
「─あ、あの、ごめんね。眼、痛かったよね─このお菓子、食べてくれる─?」そう言うと女の子はばっと奪い取るように菓子折りを受け取ると部屋の奥に逃げるように入ってしまった。
「なあに、何でお宅の子どもはわたしを睨みつけてるわけ?悪いことしたのに謝らせもしないの、あなたは」あらたまる様に憮然と母親が親娘を交互に見た。
「─なあちゃん、ちゃんと謝りなさいッ─」かすみがそう言っても菜乃香は横でスカートの裾をギュッと掴み相手の母親を睨むようにしたまま口元を結んでいた。
「─本当に呆れた子ねえ。─あのね、お宅の事情なんて知った事じゃないわよ。とにかく迷惑掛けないようにちゃんと監督してちょうだい」母親は吐き捨てるように強い語調でそう言うと追い払うように二人を外に出し音を立てて施錠した。閉じられたドアの前で悄然(しょうぜん)と立ち尽くすかすみの横でスカートの裾をギュッと掴んだままの娘に、
「─ねえ、なあちゃん。パパが帰って来ないなんて言ったの?」そう訊いて見下ろすと菜乃香はその眼に一杯涙を溜めて頷き、
「─まいにち、ゆめでみるの。パパが、とおくにいっちゃう、ゆめ」小さな声で訥々(とつとつ)とそう応えた。
 翌朝も菜乃香は布団を濡らした。
ここ数日曇天が続いていて大きな布団は干しても乾き難く、来客用にしまっておいた布団を使わざるを得なくなっていた。思わず出そうになる叱責の言葉を危うく抑え園に送り出した後暗澹(あんたん)たる気持ちでいるとスマホの着信音が鳴った。相手は美里と云う学生時代からの(ふる)い友人で暇があると時々電話を掛けてくる。五年前に離婚し独りで三人の男の子を育てていた。男勝りの性格をしていて一度切りだったと云うが夫の浮気が許せず離婚したのだった。
『─そうかあ。おねしょねえ。今まではなかったんでしょ?だとしたら精神的なストレスからかなあ。何か思い当たることない?』通話口の向こうでのんびりした口調で美里が言った。
「─ストレスかあ。─子どものくせにそんなのあるかなあ」直ぐに夫の顔が浮かんだが思わずそう(うそぶ)いた。
「─あ、そうだ。ねえ─離婚って大変?」何気ない調子に気をつけそう訊いたつもりだが美里は直ぐに何かを感じ取ったようで少しの間の後、
『─止めときな。寂しいよ。(たと)えようもなく』きっぱりした語調でそう言うと、
『─あの子たちがいるから何とかやってるけどね。強がりだけじゃ生きて行けやしないし、頑張る気持ちが時々溜め息をつくからこうしてあんたに電話したりするんだよ。─いつも何かに追い立てられてるみたいに感じて、どうしようもなくなる時もあるんだ。─未だに時々夢見るよ。家族五人で笑ってる夢─認めたくないけどさ、きっと心のどこかで後悔してるんだと思う─』と言葉を重ねた。

夫が出張から戻ったのはその翌週だった。土産だと言って大きな包みをぶら下げていた。中から何やら小さな音が聞こえている。
「─ほれ、プレゼント。なあちゃんの欲しがってた物、なあんだ」満面の笑顔でそう言うと急いで迎えに出た菜乃香の顔が見る見る歓喜に(ほころ)んだ。
「カナリア─!?」そう叫ぶと同時にそれに応えるように中の(さえず)りが大きくなった。以前テレビで放送された動物の特集の番組の中で奏でる様な美しい声のカナリアを観て以来、事ある毎に強請って(ねだって)いた。小さな両腕一杯に抱えるようにして受け取り待ち切れずに狭い玄関先で包みを開けると綺麗な黄色い小鳥が二羽、こちらを向いて可愛らしい(くちばし)を突き出すようにして懸命に鳴き始めた。
「まだ二羽とも小鳥だよ。ペットショップの籠の中でも仲良しでね。オスメスの見分けが難しいそうだけどどうやらカップルみたいでね。引き離したら可哀想だから番い(つがい)で飼った方が良いと思って─」そう言って向けてきた夫の笑みをかすみは思わず逸らす様に顔を俯けた。

その晩、菜乃香は興奮した様子で遅い時間まで愉しげに鳥篭の中を見ていたがやがて父親の腕に縋りつくようにして眠りついた。
「─可愛いなあ、菜乃香は」薄闇の中で夫がそう呟いた。
「─本当にそう思うの?」天井を見上げたまま不意に言葉が出た。
「─うん。どうした?帰ってから何だか様子が変だけど─何かあったのか?」半身を起こしてそう言いこちらを窺い見る気配に寝返りを打つ振りをして反対側に顔を背けると暫くの間の後、
「─本当に大事?─わたしたちが本当に─」そう繰り返した声が思わず震え上擦(うわず)った。
「─当たり前じゃないか、どうしたんだ。何があったんだ」心配そうに重ねるその言葉を背に聞きながらかすみは込み上げてくる感情に必死に耐えじっと眼を閉じた。その耳に、
『─まいにちゆめをみるの。パパがとおくにいっちゃうゆめ─』そう言っていた娘の潤んだ声が不意に蘇ると同時に、
「─なら、どうして─?どうして浮気なんて─」そうやっと言った言葉に夫は応えなかった。長い沈黙の中、身動(みじろ)ぎもせず繰り返す微かな息遣いと部屋の掛け時計の秒針の音だけが聞こえていた。

 翌朝、菜乃香は目覚めも良く布団も濡らしていなかった。飛び起きるように身を起こすと直ぐに鳥篭に被せてあった毛布をめくり上げた。途端に唄うように鳴き出す二羽を見ると満面の笑みを浮かべた。
食卓を囲んでも夫婦は言葉少なだった。かすみは密かに泣き腫らした目を伏せるように俯いて箸を動かしていた。カナリアの可愛らしい囀りに懸命に応えるように話し掛ける娘の明るい声が救いだった。
「─あ、今晩は少し遅くなるんだ。会議があってね」夫が気を取り成すように明るい口調で口を開いた。その言葉に女との逢瀬を直感し上目遣いで夫を見つめたが直ぐに目線を手元に落とし、
「─そう」とだけ応えた。ふと見遣った壁に掛けた幼稚園バッグにぶら下がった女から貰ったと云うウサギの人形が目に入ると指を伸ばしむしり取ってやりたい衝動が湧き上がってくるのを感じていた。
無言で夫を送り出し辛うじて苛立ちを抑え迎えのバスを待っていると、
「ママ、きょうはおもらしもしなかったよ。こわいゆめもみなかった。パパがかえってきて、よかったね」菜乃香がそう言って邪気のない笑みを浮かべかすみを見上げた。咄嗟に返すべき言葉に詰まっていると手元のスマホの着信音が鳴った。件の女からだった。
 
 悶々(もんもん)とした気持ちを抱えて過ごした週末明け、かすみは街の雑踏を歩いていた。立ち並ぶ駅前の店舗のウィンドウに目立つようになってきたクリスマスのディスプレイを目の端に見て歩きながら今日こそ女に向けて言い放つべく言葉を模索していた。最後に話がしたいと言っていたその言葉の意味と真意も分からなかったが、この前の様に一瞬でも境涯に同情し然る(しかる)べき憤りの出鼻が(くじ)かれないよう気持ちを構えて待ち合わせ場所のカフェに向かった。
昼時を過ぎ空いた店内の同じ場所に女は座っていた。

「─もうじきクリスマスね」寝不足なのか泣き腫らしたのか女は赤く虚ろな眼を上げて呟くように口を開いた。かすみが徐に怒りの眼を向けると、
「─クリスマスからお正月にかけてね、死にたくなる女がたくさんいるんですって。寂しさに耐えられなくなって─家庭持ちの男はみんな家族の元に帰っちゃうから、ね」そう言葉を重ねた。
「─なに?今度はどんな都合の良い事を言いたいわけ─?」睨みつけそう返すと女は自嘲する様に笑みを浮かべた後、
「─ごめんね。もう大丈夫そうだから、あたしも何とか。─郷里(くに)に帰ることにしたのよ。年寄った母親が独りでいる郷里─。旦那さんからしょっ中家族の話聞かされててね。羨むような話を─大丈夫、あの人の心はいつもあななたち家族の処にいたよ。あななたちを何より大切に、愛してる。やっぱり優しい人だった─。あたしのことは同情の先にあった(いた)わりだから。─あたし同じ会社で経理の仕事しててね。色々相談事に乗ってもらってる内にあたしが一方通行で好きになったの。─一度切りだったのよ、本当は。酔って具合が悪くなった振りしてあの人に送ってもらってね。断り切れなったのねきっと、優しい人だから。その後はただ話を聞いてもらってただけ。本当よ─ついこの間ね。いいのよ、もう構ってくれなくて。郷里に帰るから─そう言ったの。そしたらあの人じっとあたしを見て、ごめんって─正直よね、ほんの一瞬だけどほっとした顔してた─愛情じゃなかったの。─だから許してあげて、ね─」女は寂しげにそう言い顔を俯け煙草を取り出し咥えると火をつけ、
「─この前ね、幼稚園の前通ってね。どうしてももう一度だけ顔を見たくなって─。そしたら駆けっこの練習してて、その中にお嬢さんがいたの。走ってるお友達に向かって、がんばれ、がんばれって立ち上がって─本当に一生懸命応援してた─何だか亡くなった娘が、あたしに向けて言ってくれてるみたいでね、─がんばれ、がんばれ、って─」女はそこで言葉を切るとゆっくり煙を吐き出した。その指先と唇が心なし震えていた。
かすみはまた返す言葉を失い、ただじっと女を見つめていた。暫くの間の後、
「─ねえ、いつか現れるよね。こんなあたしでもいいって、優しい男が。あんたの旦那みたいな─」そう言って笑い掛けた顔が不意に(ゆが)むとその眼から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「─ママ。カナリアもゆめもみるの?きのうのよるね、このこたちがきゅうになきだしたんだよ。ゆめみたのかな」菜乃香が不安そうな顔で振り返った。
「生き物はね、多分みんな夢を見るのよ」かすみが応えると、
「─ふうん。どんなゆめかなあ。このこたち、こいびとどうしだってパパがいってたから、きっとけっこんするゆめかなあ」ケージ越しに鳥たちを指先で構いながら菜乃香が言った。
「─そうかもね」応えながら笑みを向けると、
「─ねえ、ママ。ママはどうしてパパとけっこんしたの?」円らな瞳を瞬かせてそう問うてきた。咄嗟に返答に詰まったが、
「─そうね。パパは優しい人だからね」そう応えると、
「うん。パパ、すっごくやさしいもんね」そう言ってにっこり笑い、
「─このこたちのパパとママは、どこにいるの?」籠の中に眼を戻して訊いてきた。
「きっと優しい人たちに飼われてるわよ」またそう応えると、
「─そうかあ。─でも、きっとあいたいよね。パパとママに」そう言って労わるような眼差しを鳥たちに近づけた。
「─なあちゃんがママになったじゃないの」笑みを向けてかすみが言うと。
「─そうか!よし、あなたたち、これからなあちゃんがママだからね。どんなことがあっても、まもってあげるからね」囀りに呼応する様にそう話し掛ける菜乃香の声が、
『─すまなかった。本当に─俺はこの先どんなことがあってもお前たちを守るから』そう言った昨夜の夫の言葉に不意に重なった。
昨夜、二人は夜半過ぎまで話し合った。心から信じ愛していたからこそきちんと向き合いたかった。溜飲を下げる云々ではなく、またこれから先手を取り合い共に暮らして行くためにお座なりにしてはならない事だと考えた。
まだ学生の時に両親を事故で亡くし寄る辺のないかすみにとって夫と築いてきた家庭だけが居場所であり全てだった。菜乃香を出産した直後、ひどい産後(うつ)に陥りその時周囲の(そし)りを尻目に育児休暇を会社に申し出半年以上に及んでサポートしてくれたのは夫だった。
「─ごめんね。本当に─会社に居場所なくなっちゃうね」慣れない手つきでまだ赤子の菜乃香を抱きあやす夫に力なくそう言うと、
「─大丈夫だ、仕事の代わりなんていくらでもある。お前たちの代わりはどこにもいないんだ。いざとなったら、何でも出来るさ─」そう言って笑っていた。その言葉の通りにひたむきに自分たちを想い行動し本当に大切にしてくれている夫との絆が、日を追う毎に心からかけがえのない深いものになっていった。間もなく乳幼児健診で心臓に疾患が見つかり茫然と立ち尽くし涙に暮れていた時も、
「─これはきっと試験だよ。俺たちが親として、家族としてこの子を守り通せるのか─きっと天が試してるんだ。一緒に乗り越えて見せよう」そう言って励まし支えてくれたのも夫だった。
今迄を振り返り話しながらかすみは泣いた。まるで子どもみたいに泣きじゃくった。泣きながら懸命に手を差し伸ばした。夫にその手をまたしっかり掴んで欲しくて必死に差し伸ばした。

 バスを見送り暫くすると、どうした事か夫が帰ってきた。
「─今日は休むことにしたよ。たまには夫婦でゆっくりしようと思ってね」そう言うとコートを脱ぎかけた手を止め、
「─そうだ。久しぶりにデートでもしないか。─罪滅ぼしじゃないけど何か美味い物でも食べながらさ」思い立った様にそうつけ加えた。まだ(くすぶ)っている昨夜の気まずさと唐突な提案に少し戸惑ったが、
「─うん。じゃ、支度するね」思わず頬を赤く染めかすみが頷くと夫は顔を近づけて、
「─あのさ、こんな時だけどそろそろ菜乃香も妹か弟が欲しいんじゃないか」耳元で声を顰めてそう囁いた。驚いた眼をあげ更に頬を染めると、夫はコートを脱ぎかすみの肩からそっと掛け優しく抱き締めてきた。不意に切ないくらい愛おしい気持ちが迫り上がりその胸に身を預けると、カナリアたちは遠慮する様にその囀りを止めた。


                 了

カナリアの見た夢

カナリアの見た夢

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted