カフェ・アストラル
悲しいことや辛いことがあったとき、一人ぼっちで寂しいとき、公園の噴水に行ってみてください。そこでは不思議なお店があなたを待っています。
女神の輝きを一滴
会社を出て、スマホを見た。彼からの返信はなかった。もう二度と来ないような気がする。
派手な大喧嘩をしたことは何度もあったけれど、今回はトラブルはなかった、はずだ。私はスマホをバッグに押し込んだ。妥協点を探りながら関係を延命させるのには、もううんざりしていた。多分、彼もそうなのだろう。だからきっと返信は来ない。最後のメッセージを私の方に送らせたのは、少しずるいと思うけれど。
――惰性で付き合い続けてたら恋愛力を腐らせるよ。
自称・サバサバ女子の、高校からの親友にそう言われたとき、不覚にも私は、本気で彼を愛していると叫んでしまったのだ。彼女が正しかったと理解するのに、私は今までの人生の八分の一もの時間を費やしてしまった。彼女に電話しようかとスマホを探りかけて、やめた。きっと今頃はサバ男ならぬカモ男に、鯖料理でもおごらせていることだろう。サヴァ・ヴィアン、蕁麻疹にせいぜい気をつけやがれ。
これから美容院に行くのも古典的だと思って、気晴らしにいつもと違う駅まで歩くことにした。駅の入口は――もちろん、ある種の人間にとっては出口であるのだ――夜の公園を挟んで反対側にあった。公園の中央にある噴水まで来て、私は見覚えのない小屋が立っているのに気づいた。この間、別の男に振られたときには無かったはずだ。入口らしき黒いドアの脇に、黒板が立てかけてあり、「カフェ・アストラル」と書かれていた。
窓も料金表示もない、うさんくさい店だった。普段の私なら、君子危うきに近寄らずと、すぐに立ち去るところだ。けれど、今は少し冒険をしてみたい気分だった。
店はカウンターで半分に仕切られていて、入口のある側には丸い木の椅子がいくつか置かれていた。カウンターの中では私と同い年くらいの女性が本を読んでいて、ドアが開くのに気づいて顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
女性の私でさえ息が止まりそうになるくらい、魅力的な笑顔だった。例えるなら花の中の花、バラの中のバラ。
張り合うように笑顔を見せながら、私は椅子の一つに座った。よく見ると彼女はウエディングドレスのような白い服に黒いエプロンをしていた。カフェではあまり見かけない格好だ。左胸に名札を着けていて、そこには丸っこいアルファベットで「MIREI」と印刷してあった。
「すみません、メニューをいただけますか」
妙にへりくだって、私は言った。するとミレイは悲しそうな目をして、
「ウチはブレンドしかやっていないんです」
と、答えた。
「そうなんですか、すみません、ではブレンドを」
なぜか謝りながら、私はコーヒーを注文した。
「かしこまりました」
ミレイは深々と頭を下げた。すぐに仕事に取りかかるのかと思いきや、
「それと、ウチには一つ決まりがありまして」
能書きはいいからとっととコーヒーを出せ、なんてことはこれっぽっちも心に浮かばず、私はミレイの話を聞いた。
「お客さまに合う豆の配分を、私が見立てて決めさせていただいております」
もったいぶるわりにありがちな話だ、なんてことは顔に出さず、私は頷いた。
「では、少々お待ちください」
一時間くらい待たされるのだろうという私の予想に反し、ミレイがコーヒーを淹れる手際は鮮やかだった。
「ヴィーナス・ブレンドでございます」
ヴィーナスって私のことかしら。私のコメントを制するように、ミレイは少し早口で説明を始めた。
「東の空にヴィーナス=金星が上るとき、その輝きの滴をいただきながら焙煎しました。そしてもう一つ、この豆の栽培から収穫までを女性だけで手がけているのも、ヴィーナス・ブレンドと呼ばれる由縁であります」
そんな女子寮みたいな所で出来た豆じゃ男運が逃げていくんじゃない。とはいえ、まさか要らないとは言えず、私はコーヒーを一口含んだ。
花の香りがした。
香料が加えられている感じではなかった。コーヒーを口に入れるたびに、体の中を、淡く甘いバラの香りのする風が吹き抜けていくのだ。
「これって」
私はコーヒーに目を落とし、カップを見つめ、コースターに視線をやった。コースターは長方形をしていて、一人の女性が描れていた。
「女帝」
それはタロットカードの女帝だった。意味は確か……
「金星の象徴。愛の美の女神」
そうそう、って、あれ。ミレイの姿がない。では、いま答えたのは。
コースターの女帝が、私を見て微笑んだ。
「びぇぇ」
こういうとき、きゃあと可愛い悲鳴を上げられる女性は男にモテるらしい。私はダメだった。
いや、悲鳴がどうのこうのじゃない。根本的に、全体的に、絶対的に、私はダメなのだ。だから彼も、そんな私を嫌いになって去っていったんだ。
急に悲しくなってきた。彼のことだけでなく、いろいろ我慢していたものが一気にこみ上げて、涙になって溢れてきた。
「ああ、泣かないで」
さすが美の女神、困る姿もエレガントだった。
「あなたにはあなたにしかない魅力があるの。他の人と比べて自分はダメだ、なんて思うことはないのよ」
「だって…だって…」
私は胸に押し込めておいた言葉を、女帝に向かって言った。
「好きだったんだもん。本気で……本気で……すごく好きだったのに」
それから先は言葉にならなかった。
「運命の愛は、生涯にただ一度の運命の愛とは、自分だけの力ではどうにもできないものなの。それこそ宇宙にあまねく運命の力がこの世でただ一人の人を引き寄せる、まるで奇跡のようなものなのよ」
毎週金曜に届く恋愛カウンセラーのメルマガのような言葉を、私はにわかには受け入れられなかった。
「嘘つき。そんなことないよ」
言ってしまってから私は後悔した。こりゃ天罰で生涯独身確定だな。
「まあ多少は本人の努力もあるんだけどね」
女帝はあっさりと異議を認めた。
「とにかく私は恋愛の専門家ですから。私を信じて」
例の恋愛カウンセラーも同じようなことを言っていたけれど、こちらは本物の愛の女神さまだ。
「分かった。よろしくお願いします」
私が頭を下げると、女帝は微笑んだ。それを一目見ただけで、どんな相手も恋に落ちてしまうに違いない。
「ヴィーナス・ブレンドはお気に召しましたでしょうか」
言葉とは裏腹に、ミレイは自信に満ちた目で聞いた。
「まあね。具体的にどうのこうのっていうのはなかったけれどね。でも、さっぱりした」
私は席を立って、代金を聞くと、
「550円です」
なんというか、ありがちな値段だった。私は千円札をカウンターに置いた。
「ねえ一つ聞くけれど、コーヒーに何か変なもの入れなかったよね」
「変なものとおっしゃいますと」
ミレイは私をじっと見つめて、首を傾げた。
「ドラッグとか変なキノコとか」
とぼけているのか本当に無実なのか、ミレイは私を見つめたまま答えた。
「ヴィーナス・ブレンドに加えたのは、ヴィーナスの輝きを一滴、だけでございます」
まあいいか。
「そう。じゃあね、釣りはとっておきたまえ」
私は店を出た。一晩中飲み明かしたような気分だった。
私は腰に手を当てて背中を反らせた。その弾みで月が見えた。そして、その下に輝く星。
「あれは確か」
金星=ヴィーナス。
女帝の愛は、運命の相手を受け入れ育む愛。シャイな私にはぴったりだな、うん。
新月の夜のランナー
「くそっ」
それは言葉ではなかった。俺の心の内で渦巻く感情の一端が、口から洩れただけだった。
なのに、俺のすぐ前を歩いている若い女が振り返って、警戒するような非難するような一瞥をくれた。気にくわないことに、その女は香里に似ていた。
香里は俺の彼女、だった。メールで別れを告げてきたのが一週間前。延々と理屈を並べていたけれど、要するに会う時間がなくなったことが原因らしい。
確かに新しいプロジェクトを任され、ここ半年は深夜まで残業続きで、土日に出勤することも多かった。その分、香里の誕生日やクリスマスには有休休暇を取って、彼女のために最高の計画を立てたのだ。仕事だって、いずれは香里と裕福な結婚生活を送るために頑張っていたのだ。
それなのに。
「くそっ」
気晴らしがしたかった。女の子と遊びに行く気にはまだなれなかったし、酒はそんなに好きではない。なら、思いきり汗を流すしかないだろう。
その夜は家に帰らず、会社の近くのカプセルホテルに泊まることにした。そしてシャツとハーフパンツ、ランニングシューズに着替えて、夜の公園に走りに行った。
意外にも、公園には他にもランニングをする人の姿があった。少し脚の筋をほぐしてから、俺は走り始めた。小太りの中年男を追い抜き、若い男女のグループを追い越した。
香里の顔と最後のメールが頭に浮かぶ。俺はペースを上げた。いきなりの運動が、仕事続きで鈍った体に堪える。心拍数が上がっていき、息が苦しくなる。
けれど、俺はペースを落とさない。香里とメール、雑念が消えるまで、俺はペースを上げる。
限界を突き抜けてやる。
息が苦しい。何も考えられなくなる。自分の意識とは別に、身体が前へ前へと脚を押し出す。これでいい。このまま、突き抜けてやる。
俺と同い年くらいのランナーが、追い抜くときにこちらを見た。少し驚いているようだった。
どうだ、どうだ。だが、まだまだ。もっと突き抜けてやる。もっと、嫌なことなんか忘れるくらいに――。
視界が明るさを取り戻した。俺はランニングウェアのまま、椅子に座っていた。目の前にはカウンターがあって、向こう側に若い女がいた。
――香里?
彼女は俺を見て、微笑んだ。香里のような、見たことのないような笑顔だった。
「いらっしゃいませ。カフェ・アストラルにようこそ」
何かが妙だった。記憶が途切れたことは、極限状態では起こるらしいと聞いたことがあるので、気にはならなかった。けれど、何か違和感を感じる。
俺はその店員を見た。やはり香里に似ている。左胸にネームプレートには「MIREI」と印刷されていた。それから、黒いブラウスに白いカフェエプロン。
「いや、普通逆だろ」
ミレイは首を傾げた。俺の独り言が聞こえたらしい。
「普通は白いブラウスに黒いエプロンじゃないかな」
するとミレイは、ああ、と左の手のひらを右の拳でポンと叩いた。
「普段はそんな感じなんですが、今日は新月ですから」
彼女の中では筋の通った説明のようだった。
「とにかく、注文したいのでメニューを見せてくれますか」
俺が言うと、ミレイは申し訳なさそうな顔をして
「ウチはブレンドしかやっていないんです」
と、答えた。
体が火照っているからアイスコーヒーが飲みたかったけれど、このまま店を出るのも気がひけるので、ブレンドを注文した。
「それともう一つ。お客さまに合う豆の配分を、私が見立てて決めさせていただいております」
俺に合うブレンドか。元カノを忘れられるコーヒーかな。
「ニュームーン・ブレンドです」
ミレイが出したのは、黒いカップに入った白い液体だった。
「だから、普通逆じゃないかな」
俺が言うと、
「今夜は新月なので、すべてが逆なのです」
想像していた通りの返事が返ってきた。
まあ、毒を盛っていることはあるまい。俺は一口、飲んでみた。
間違いなくコーヒーの味がした。それが喉を落ちると同時に、胃の裏側あたりに温かさを感じた。そして、それは全身に広がり、体が浮き上がるような力が満ちてきた。
「もしかして、ブランデーか何かが入っているのか」
俺はカップを持ち上げ、匂いを嗅いだ。
「何を警戒しているんだ」
下の方から声がした。
テーブルには長方形のコースターが置かれていた。見覚えのある絵柄だ。これは確か、タロットカードの……
「戦車」
誰かが答えた。若い男の声だった。しかし、店内には俺とミレイの他には誰もいない。気がつくと、ミレイの姿も消えていた。
「お前らしくもないじゃないか。こんなことでビビるなんて」
喋っているのはコースターに描かれた青年だった。何かのトリックに違いない。そんなことより、そいつの言い草が気に入らなかった。
「お前、俺の何を知ってるって言うんだ」
「ふん……負けず嫌いで、いつも突っ走っているってことかな」
戦車を引いているスフィンクスの片方が答えた。
「まあ、本当に突っ走っているのを見たのは今日が初めてだったけれどな」
もう片方のスフィンクスが笑った。
「悪いか。それが俺の生き方なんだ」
俺はテーブルを叩いた。
「それが悪いなんて言わないさ。俺はいいと思うよ」
戦車に乗っている青年が答えた。
「だけどな。世の中にはそうは思わない人間もいるんだよ。お前の彼女…元・彼女みたいにな」
「いちいち言い直さなくてもいいだろ」
俺はヤツを睨みつけてやった。
「それで、俺に突っ走るのを改めろって説教したいんだろ」
「そうするのが利口だけどな」
「お前にはどうせ無理だろ」
スフィンクスたちは口々に言った。
「説教なんてするつもりはないよ。俺もお前と似たようなもんだからな。ただ、お前の生き方を受け入れられない人間もいるってことを受け入れてやんなよってことだ」
青年は言った。
「なんだかよく分かんねえよ」
俺は頭を抱えた。
「まあ、分かんなくてもいいけどな。変に分かろうとして、お前らしくなくなるよりは」
いや。本当は分かっていたんだ。香里のことも。彼女が求めていたものは、俺が彼女にしていたことと違うってことを。
「だけど、どうしようもなかったんだ。俺は俺なんだから」
誰かに優しく肩を叩かれた気がした。
「だったらさ、意地を押し通して突っ走れよ。お前らしく」
「ニュームーン・ブレンドはお気に召しましたでしょうか」
「よく分からないよ」
俺がそう答えたのに、ミレイは笑っていた。
「まあ、感じ方は人それぞれですからね」
「人それぞれか」
「あ、お気に召さなかったのなら、お代は結構ですよ」
だからって、はいそうですかって訳にはいかないだろ。
「いや、コーヒーはうまかったよ。体の疲れもとれたみたいだし。いくら?」
「550円になります」
代金を払って、店を出た。
「突っ走るしかないか。他にやり方、知らないもんな」
ゴールに向かって、ひたすら突き進む戦車のように。
よし、ホテルまでまたひとっ走りするか。
迷い人
「私ね、告白されたんだ」
美夏からそう打ち明けられたとき、きっかり5秒間、私の息は止まってしまった。私たちのクラスでは以前から、秋山くんが美夏のことを好きらしいと噂になっていたのだ。
「相手はやっぱり……秋山くん」
私が聞くと、美夏は驚き20パーセント、やっぱりねが70パーセントの表情をした。
「千春も知ってたんだ。もう困るなぁ」
美夏の顔は全然困っていなかった。クラスで一番美人の彼女が「美夏ってホント可愛いよね」と言われたときに「そんなことないよ」と切り返すときの、あの顔だ。
「で、美夏はなんて答えたの」
芸能リポーターのように、私は美夏に詰め寄った。
「千春こわいよ。警察の取り調べみたいじゃん」
あいかわらず美夏と私は感性が少しズレている。それでも、というかそれがいいのか、彼女とは高校入学初日にすぐに親友になった。
「まだ返事していないんだ」
「え」
これは親友の私にとっても意外だった。美夏も秋山くんのことが好きだと、そう思っていたのだ。
「だってさ、突然だったから。彼氏とか恋人とか、急には考えられないよ」
美夏の答えに私はホッとした。って、いかんいかん。上手くいかなければ私にもチャンスがあるかもなんて、何てことを考えるんだ。親友ならば美夏の幸せを応援してあげるべきだろ、千春。
「千春って考えてることが顔に出ちゃうタイプだよね」
美夏は少しあきれたように言った。
「そ、そうかなぁ」
それ以上美夏は追及してはこなかった。俗にいう「気まずい雰囲気」という中、私たちは美夏が利用している駅に着いた。私はもっと先まで行くので、いつもここで別れる。
「ねえ、千春だったらなんて答える」
美夏は上目遣いで私を見た。
「え、私だったら」
うろたえて少し口ごもってしまった。不意に美夏に試されているような気がして、不快さがこみ上げてきた。
「知らないよ。私が告白されたんじゃないんだから」
自分でもうろたえるくらい、辛辣な言葉だった。美夏は目を伏せて、
「そうだね。ごめんね、変なことを聞いて」
それから、少し早口で、また明日、と言って、改札に消えた。
最悪の気分だった。
言ってしまったことを悔やんでも仕方ない。けれど美夏にだけ謝らせて、なぜ私は謝れなかったのだろう。
心の中のわだかまりが、それをさせなかったのだろうか。
中学生の頃、私はクラスの男子に告白した。彼はさっきの美夏のように、急だから少し考えさせてほしいと答えた。
放課後、私は彼が友達と話しているのを聞いた。
「千春って男みたいだから、付き合いたいなんて思ったことないしさ。困ったよ」
私はいつものように学校を出た。夜は居間でお母さんとお姉ちゃんと一緒にバラエティ番組を見て笑った。遅く帰って来たお父さんにおやすみを言って、ベッドに入ったとき、初めて自分が我慢をしていたことに気づいたのだった。いつもなら私が少しでも物音を立てると文句を言ってくるお姉ちゃんが、その夜は何も言わないでいてくれた。
それから私は自分の心に、秘密の部分をつくって、本当に大切なものはそこにしまっておくことにしたのだ。
けれど、そのせいで、とっさに素直になれなくなってしまったのかもしれない。
私は駅前の公園に着いた。いつものようにその中を通り抜けようとしたら、噴水のある広場に見たことのない小屋を見つけた。入口のドアには「Cafeナントカ」と英語で書かれたプレートが掛かっていた。
このまま家に帰る気になれなかったので、私はそのお店らしき所に入ってみることにした。危なそうならすぐに逃げられそうな感じだったし。
中にはカウンターがあって、その向こう側に、クラスの男子が大喜びしそうなくらい綺麗な女の人が立っていた。
「いらっしゃいませ」
怪しい所ではなさそうだ。私は椅子に腰かけた。
「ここって、カフェですか」
私が聞くと、
「はい、カフェ・アストラルへようこそ」
その女の人は笑って答えた。カフェ・アストラルって言うんだ。アルファベットだから読めないよ。
「ごめんなさい。そうですよね」
彼女はカウンターにおでこがくっつくくらい深く頭を下げた。
「いえ、そんな」
私ってやっぱり、思ったことが顔に出るんだな。彼女が顔を上げると、うらやましいほど大きな胸の左側に「MIREI」と書かれた名札をつけているのが分かった。ミレイって、これなら私にも読める。それから、なぜか右胸にも同じ名札が。
「あの」
私が言いかけると、
「ああ、名札の謎ですね」
私の心を読んだらしいミレイさんが答えた。
「人は生まれてから与えられる名前と、生まれる前から持っている真の名の、二つを持っているのです」
だから名札も二つあるってことかな。でも、
「二つとも同じ名前ですよね。それって偶然ですか」
ミレイさんは謎めいた微笑みを浮かべて、なにも答えなかった。しかたないので、私はコーヒーを注文した。
「ちなみに当店では、お客様に合う豆の配分を私が決めさせていただいております」
「はい、お任せします」
逆に細かく好みを聞かれてもよく分からないし。
しばらくすると、コーヒーが出てきた。それから、小さいカップでもう一杯。
「ええと、これって……」
「ツインズ・ブレンドです」
と言われても、私にはさっぱり分からなかった。
「双子の焙煎士によってそれぞれ焙煎された豆から淹れたコーヒーを、一杯ずつセットでお出ししています。双子とはいえ別の人間。個性の違いをお楽しみください」
ミレイさんは少し芝居がかった仕草で左手を胸の前に当てて、頭を下げた。
私は大きい方のカップに口をつけた。苦味が控えめでほんのり甘く飲みやすい。半分くらい飲んでから、私は小さいカップの方を飲んでみた。すごく苦い。けれど、私はこちらの方が好きだ。もう一杯とは濃さが違うのかな。
「そんな単純なものではない」
声がした。ミレイさんの他に誰かいるのかな。けれど、店には私の他には誰もいない。ミレイさんもいなくなっている。
「私たちならここだ」
テーブルの上から声がした。まさかと思いながら、私は大きい方のカップを持ち上げた。コースターに描かれている絵は、天使と全裸の男女。タロットの「恋人たち」のカードだ。
「愛に迷っているのだね」
私に聞いたのは男の方だった。
「迷ってなんていません。私の心はもう決まっているんです」
美夏を傷つけたりはしない。それが私の決断だった。
「それはお前の心の表の部分が決めたこと」
男が言った。
「けれど、秘密の部分はどう思っているのかしら」
女がはじめて口を開いた。
「秘密なんてありません。私は心の底から、美夏と秋山くんには幸せになって欲しいって思ってるんです」
私はムキになって言った。今更ながらこの二人の、特に女の方が気味悪く感じていた。
「秘密という言葉が気に入らないなら、傷つけられないように大切にしまってある心の一部と言った方がいいかしら」
女が言った。やっぱり心の中を見透かされているんだ。
「私が愛に迷っているって……じゃあ、愛って何ですか」
私はすっかり観念して、二人に聞いてみることにした。
「愛とは選択すること」
男が答えた。
「愛とは真実を見つめること」
女が答えた。
「そのせいで大切なものを失ってしまったとしても」
私は聞いた。
「そもそも愛とは何かを得るためのものではないのだ」
天使が答えた。
「むしろ失うことと言えるかもしれない」
「分け与えることと言うべきかしら」
「よく分からない。分からないよ」
私は目を閉じて、手で耳を塞いだ。
「自分の心の大切な部分に問いかけてみなさい。愛に迷う者よ」
三人の声が一つになって聞こえた。
「ツインズ・ブレンドはお気に召しましたか」
ミレイさんはカップを下げながら、私に聞いた。
「はい、心は決まりました。もう自分の心に嘘はつきません」
私の返事はミレイさんの聞いたことへの答えになっていなかったけれど、彼女は微笑みながら頷いてくれた。
私はお礼を言って、コーヒーの代金を払った
「きっと彼女は、あなたが本当の気持ちを打ち明けてくれることを望んでいると思います」
店を出るとき、ミレイさんはそう言ってくれた。私はもう一度ミレイさんにお礼を言った。
明日、美夏に会ったらまずは謝ろう。そして、美夏が秋山くんと付き合って欲しくないと伝えよう。
「でもね美夏。私が本当に好きなのは、秋山くんではなくて……」
風読みの子
真夜中は、心が浮き立つ。街から人が消え、風の声がよく聞こえるからだ。
私が生まれる遥か前から吹いていて、私が去った後も吹き続ける。命の繋がりの哀しみや喜びを、風は記憶している。それを読むことのできる人間が、この世には存在する。私の一族は「風読み」だった。
たくさんのことを、私は風に読むことができる。たとえば今日この道を通った人たちの声。それらはしばらくこの場にとどまって、やがて風にさらわれてゆく。そして風はこの世界のいたる所から集まり、昔の人たちの笑い声や溜め息とひとつになって、また世界を巡っていくのだ。
――ミレイが、きている
風が語りかけた。ミレイって誰?
――お前を導いてくれる
――お前の望むものへ
分かった。私をその人の所へ連れて行って。
――ついておいで。「風読み」の子よ
今夜はひときわ、風が喜びにざわめいている。きっとそのミレイという人のおかげなのだろう。
それから、どれくらい歩いただろう。濃い草の匂いに、少しずつコーヒーの香りが雑じってきた。それはぼんやりと遠い道しるべから、段々と強さを増してゆき、ついに私の前にハッキリと形をつくった。私は手を伸ばして、ドアノブに触れた。
木に守られた空間に、コーヒーの香りが満ちている。その中心に、凛と立つ人の形。おそらくは若い女性。
「いらっしゃいませ。カフェ・アストラルへようこそ」
彼女は私をカウンターまで導いてくれた。
「あなたがミレイさんですか」
すると彼女は、小さく息を吐いた。名前を言い当てられた驚きではなく、肯定の合図のようだった。
「風が導いてくれたのですね」
私の方が驚いてしまった。「風読み」の存在を知る人間に、今まで会ったことがなかったからだ。
「どうして知っているの」
私が聞くと、
「いろいろなお客さんがいらっしゃいますので、ウチの店には」
ミレイは笑った。私はそれ以上、答えを探るのをやめた。たぶんこの人の心を知ることはできないと感じて。
「それで、ここはコーヒー屋さん、なのですよね」
「はい、そうです。ブレンドしかお出ししていませんが」
私はコーヒーを一杯、注文した。
「かしこまりました。あなたに合った豆の配分を私が見立ててお出しします」
それからミレイは仕事に集中して、何も話さなくなった。かわりに店の中に楽しい音が満ちた。
お湯が湧いて、挽かれた豆に注がれ、プチプチとコーヒーが滲み出す。その滴がサーバーに落ち、ガラスの底で跳ね返って、溜まっていく。
「百年ブレンドです」
え、もう百年も経ったの。思わず口に出すと、ミレイは子どものように笑った。
「百年かけて淹れるのではありませんよ。この豆は、コーヒーの栽培に適していなかったある土地を百年かけて改良して、作られたのです」
冷めないうちに、とミレイは私にカップを手渡して、岩と石ころだらけの島に渡った男が農園を成功させるまでの百年間を話してくれた。コーヒーは温かくて、ミレイの手は陶磁器のように冷たかった。
コーヒーは深い味がした。苦味も酸味も、ほんのりした甘味も深い。
「百年の叡知の味だ」
男の人の声がした。お店にもう一人いる気配は感じなかったのに。
「あの男は知識を得ようと思ったことはなかった。長い時をかけて積もった経験が熟して、男に知恵をもたらしてくれたのだ」
穏やかで思慮深い男の人の声だった。タロットカードの隠者のイメージが私の頭に浮かんだ。
「隠者か、ふさわしい例えだな」
この人は私の心が読めるのかな。
「そうでもあり、そうでもないとも言える。なぜだか分かるか」
隠者は先生のように問いかけた。
先生とは、私が小さい頃から、家に歌を教えに来てくれた人のことだ。いつも優しくて、お父さんのような、お兄さんのような。
「弟のように活発で、そして」
そう、私は彼に恋をしていた。
彼が私をどう思っているのか。私は何度も風に問いかけた。けれど、そこに答えはなかった。直接、彼に聞いてみたことはなかった。初めて自分の気持ちに気づいたときは、私はまだ幼過ぎたし、恋人を持ってもおかしくない年齢に達する前に、彼のあの言葉を聞いてしまったから。きっと彼は、私には聞こえないと思ったのだろう。部屋の外で、小さな声で囁いたのだから。
「教えてください」
私は隠者に聞いてみることにした。
「私は、かわいそうな子なのですか」
時が凍った。隠者は答えてくれない。外では風もやんでしまったのだろう。やはり誰も答えてくれないのだ。
「お前の欲する答えがなぜ風の中に読めなかったのか、分かるかな」
隠者は再び問いかけ、そして私は悟った。その答えはまだこの世に存在しないのだ。
再び時が流れ出した。
「過去を風に読み、未来を拓く力を持つ者が、哀れであろうはずがあるまい。「風読みの子」よ」
隠者は最後にそれだけを、念を押して言った。
「百年ブレンドはお気に召しましたか」
カップを受け取りながら、ミレイは聞いた。
「まるで百年の時を旅したようでした」
私が答えると、ミレイは笑った。
「店を出たら百年経っていた。なんてことはありませんよ。ご安心ください」
けれど私は、彼女がその気ならそうできるのではないかと訝しんだ。
「お家までお送りしましょうか」
ミレイが心配そうに、申し出てくれた。
「大丈夫です。ここまで来られたのだから、一人で帰れます。風が導いてくれますから」
いつでも導いてくれるわけではないけれど。心の中で付け加えて、私は代金を払った。
ドアを開ける前に、私は振り返った。
そこには光があり、ミレイはもう一度、優しく私の手を握ってくれた。
闇より来るもの
「あいつさえいなければ」
今日は中間試験の結果が発表され、俺は学年二位だった。
「いつも通り天才秀才コンビのワン・ツーで決まったか」
担任はご機嫌だった。受け持ちクラスの生徒が成績上位を占めたのが満足なのだろう。秀才とは俺、秀原尚記のことで、天才とは学年一位の天川慶彦だ。
今回の成績も悪くはなかった。今度こそトップだろうという手応えを感じていた。なのに、どうしても天川には勝てない。
おととし亡くなった祖父の顔が目に浮かんだ。祖父は戦時中に海外で築いた人脈をつてに、戦争が終わってから貿易で成功した。とても厳格な人で、孫の俺も優しくしてもらった記憶はなかった。
「信頼できるのは自分だけだ。うまいことを言ってすり寄ってきた人間は大勢いたが、そんな奴らを信用しなかったから、こうして財産を築けたのだ」
祖父に説教をされたとき、締めくくりの言葉は決まって、他人を信用するな、だった。
中学までは、俺はいつも学年トップだった。高校に進学して天川と出会った頃、祖父が倒れ、意識が回復しないまま亡くなってしまった。かなり前から厄介な病気にかかっていたらしい。手術を勧める医師を、珍しい病気を治して実績をつくりたいのだろう、とはねのけたのだ。いかにも祖父らしい話だなと、そのとき俺は冷ややかに思ったのだった。
もし祖父が「万年二位」の結果を知ったなら何と言うだろう? 最善を尽くしたのだから胸を張れ、なんてことは決していうまい。銀メダリストは敗北者だ、と、ある競技大会の来賓祝辞で言い放った祖父なのだ。
「じじいはどうでもいいんだ」
回想の中でもしかめ面をしている祖父の亡霊を、俺は追い払った。学年一位へのこだわりは別としても、天川に負けるのはどうも気に食わなかったのだ。
中間試験前に、俺が密かに憧れていた嶋田英里が、休み時間のたびに天川と話をしているのを見かけた。どうやら勉強を教えてもらっていたらしい。
「天才くんが専属教師ならバッチリだもんね」
嶋田は嬉しそうに言い、その上、休み時間だけでは足らないね、などと休日にも会ったらしかった。健全な高校生男女が休みを一緒に過ごして、勉強だけですむはずがない。試験勉強もそこそこ、デートに出かけたに違いないのだ。
俺は心を乱されながらも、天川のヤツ、嶋田の魅力に翻弄されて、今回のテストは実力を発揮できまい、と、暗い優越感にほくそ笑んでいたのだ。それなのに、結果はいつも通りで、しかも三位の嶋田とはわずか二点差だったのだ。
「私がもっと頑張れば、天川くんとワンツーだったのにね」
俺の気持ちを知ってか知らずか、嶋田は上目遣いで、天川に甘ったれた声で言った。
「嶋田さん、すごく頑張ったよ。次はいけるって」
天川は、スカして受け流している。
「あいつさえいなければ」
俺は改めて、呪いの言葉を口にした。
気がつくと、駅を通り越していた。このまま引き返して家に帰るのも気が進まなかったので、少し散策をすることにした。
午後の三時を過ぎたばかりで日はまだ高く、公園の芝生広場に大勢の人がいた。しばらく歩くと噴水の前に出た。居心地の良い空間なのに、ここには人の姿はなかった。不吉な黒い小屋が、人を遠ざけているのかもしれない。俺はむしろ、呪いのアイテムでも売ってはいないかとその小屋の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで、真っ赤なワンピースを着た二十代くらいの女性が言った。
「ここは、喫茶店ですか」
すると彼女は、そうですと答えて、
「あいにくブレンドしかやっていないんです。アルコールも置いていません」
と、深く頭を下げた。
「いや、高校生なんで、ブレンドを」
つられて俺も頭を下げてしまった。学生服を着ているんだから、未成年だって分かりそうなもんじゃないか。
「一応は確認の義務がありますので」
彼女――コウモリやドクロのイラストの入った名札によると「ミレイ」という名前らしい――は答えた。
「でも、アルコールを注文したのならそうでしょうが、注文していないのに未成年かどうか確認する必要はないのではないですか」
俺はつい口に出してしまった。もしかしたらからかっているんじゃないかと、少しイラっとしてきた俺に向かって、ミレイはクスクスと笑い始めた。
「白黒はっきりさせないと気が済まないタイプですね。いわゆる「デジタル人間」ですか」
ミレイの目は、嶋田英里を思い起させた。もし彼女と同類ならば、あまり関わらない方がよさそうだ。
「ウチではお客様に合わせた豆の配合を、私の方で決めさせていただいて、コーヒーをお出ししております」
俺が黙っていたから飽きてしまったのか、ミレイはコーヒーを淹れる準備を始めた。
「試験でお疲れでしょうから、とびきり刺激的なやつをお出ししますよ」
間違いない、ミレイは嶋田と同系統の人間だ。それにしても、なぜミレイには俺が考えていることが分かるのだろう。
「ブレンド・フロム・ヘルです」
なんじゃそりゃ。俺もそれなりにコーヒーを飲みに行ったことはあるが、こんなふざけた名前のブレンドは聞いたことはない。
「フロム・ヘルって何ですか」
訝しんでいることは見通されているのだろうが、口に出さずにいられなかった。
「from hell――高校生なら意味は分かると思うのですが」
「そういうことを言ってるんじゃないです。「地獄からのブレンド」って、どんなコーヒーなのかって聞いてるんです」
「ああ、この豆の配合は……あ、これは教えられません……企業秘密です」
何かを言いかけてから、ミレイはわざとらしく人差し指を立てて口に当てた。
「なんかヤバいものでも入れたんじゃないでしょうね」
「大丈夫ですよ。お客さんはまだお若いですから、go to hell――なんてことにはならないと思います」
嶋田レベルの危険さを感じながら、頼んでしまった以上、コーヒーを飲むことにした。カップには角の生えた赤い顔が描かれていて、俺を睨んでいた。
一口含んだ途端。罰ゲームでタバスコを飲まされたときのような衝撃が体を貫いた。いや、違う。衝撃的ではあるが、辛さは全く感じない。なんとも形容の仕様のない味だ。
「当然だ。この世のものではないのだからな」
カップの下から、しわがれた声がした。またミレイが腹話術か何かでからかっているんだろう。と、顔を上げたら、彼女の姿は消えていた。
「俺だよ俺。まさか、まったく予想していなかったわけでもあるまい」
カップも悪趣味だが、コースターも勝るとも劣らない。タロットカードの「悪魔」の絵柄だ。
「失礼な奴だなお前、仮にも俺は地獄の使者だぞ」
コースターの悪魔が喋っていた。
「地獄の使者って。いや、俺は何も悪い事してないっす」
とんでもないものが出てきたと、俺は心底恐ろしくなった。
「なんだよ、そんなに怖がらなくてもいいだろ」
「だってあなたは、悪魔……のカード……なんでしょ」
すると悪魔は、大きくため息をついた。
「あのなぁ。悪魔のカードっていうのは、イコール悪ってもんじゃないんだぜ。そんなことを言ってるのは三流の占い師だけだ。もっと違う、欲望とか根源的な活力というかな。人が生きていくのに欠かせないものなんだ」
「そうなんですか。じゃあ優しい悪魔なんですね」
俺はコースターの悪魔を突っついた。
「いや、優しいかって言われると、法やモラルはあまり気にしない方だからなぁ」
やっぱり悪い奴じゃないか。
「ところで、誰を消したいんだって」
悪魔が言った。俺は反射的に頭に浮かんだあいつの顔と名前を追い払った。得体の知れない相手のことだ、心に思った瞬間に契約成立、なんてことにもなりかねない。
「そんな物騒な。消したい相手なんていませんよ」
俺は慌てて否定した。
「そうかぁ。この店に来る前にずっとブツブツ言っていただろ」
確かにそうだった。俺は「あいつさえいなければ」って思っていたのだ。いま悪魔に頼んであいつを消してもらえば、試験の成績は安泰だ。
「試験の成績」
悪魔は鼻で笑った。
「いなくなればいいと思っているのは、たかだか試験の点の競り合いが楽になるからってせいか」
俺は腹が立ってきた。相手が悪魔だろうが鬼だろうが、ひとこと言ってやらずにいられない気分になった。
「たかが試験の点だって。そのたかが試験の点、たかが成績が今の俺の唯一のとりえなんだよ。俺なんて顔は不細工だし、運動できないし、友達もいないし。成績のおかげで、女子だって声をかけてくれるんだ。俺には他には何もないんだよ」
こいつには分からないだろう。こいつの世界には試験も何にもないんだ。
「ははは、いいねぇ」
悪魔は笑った。さっきまでの人を馬鹿にしたような嘲笑ではなく、さも痛快というような笑い声だった。
「あるじゃねぇか、お前には。この地獄の使者の俺様に食ってかかる根性と気合が。それがあれば、人間どもの世界なんて、なんとでもなるさ」
「気合だなんて、そんなもん。きっと、この変なコーヒーのせいですよ」
久しぶりに興奮したら、急に気が抜けてきた。
「そうか。まあ、この先うまくいかないことがあったら、人間やめて俺のところに来いや」
「それは嫌です」
俺ははっきりと断った。
「ブレンド・フロム・ヘルはお気に召しましたか」
カップを受け取りながら、ミレイは俺に聞いた。
「かなり刺激的でした。それと、やっぱり名前は変えた方がいいですよ」
「なんて名前がいいかなぁ」
なぜか急にタメ口になって、ミレイは聞いた。
「他の名前か」
俺とミレイはしばらく二人で考え込んで、
「やっぱり元のままでいいか」
顔を見合わせて、笑った。
俺は代金を払って、席を立った。
「ああ、それから、この店内にはこの国の法律は適用されないのです。なのでアルコールでもなんでも、お客さんの思いのまま」
ミレイは悪魔めいた笑いを浮かべた。
「じゃあやっぱり、コーヒーにヤバいものを入れたんだな」
俺が聞くと、
「それは……だから、企業秘密」
まあ、いいか。俺は入口の扉を開けた。
「おおっと」
店に入ろうとしていた男とぶつかりそうになり、俺は謝った。
「あ」
その相手は秀原尚記だった。彼も俺を見て、驚いていた。
「この店ってカフェなのか、天川」
「ああ、それもブレンドしか置いていないんだって」
「そうか」
尚記はそのまま引き返そうとした。
「なあ、秀原」
俺は尚記を呼び止めた。
「もし時間があったら、一緒にコーヒー飲んでいかないか。試験も終わったし、ゆっくり話でもしていこうよ」
尚記を誘ったのは初めてだった。彼は少し考え込んだ様子を見せて、ああそうするよと答えた。
そして俺と尚記の二人で、扉を閉めた。
月よりも冷たく
行きつけの居酒屋に寄った。内装はモノトーンで統一され、テーブル席はそれぞれ薄い壁で仕切られている。奥に四席のカウンターがあり、一番右が私のお気に入りだ。今日もその席は空いていた。
なじみの店員が、今日もお仕事お疲れさまでした、と、冷えたおしぼりを渡してくれた。顔をぬぐいたくなる衝動を抑えて、両手を拭いた。近くのテーブルで若い男女のグループが乾杯と声を発した。ウーロン茶らしきグラスを掲げたのは二人、あとは生ビールのジョッキだった。さて私はどうするか。ドリンクメニューを開き、最初に目に入ったものを選ぶことにした。黒糖梅酒のソーダ割、悪くない。
「四捨五入して二十歳です」
女の声がして、男たちは歓声を上げた。五入して二十歳だったら、生ビールは法律違反だぞ。
飲み物と一緒に、ワカメとタコの小鉢が運ばれてきた。酢の物かなと思って口に入れると、ほんのり辛いごま油の香りが広がった。
「永遠の十七歳です」
別の女の声がした。男たちの反応はいま一つだった。
私もそういう場に参加したことがあった。自分の年齢をダシにパンチの効いたジョークを放つセンスを持ち合わせず、氏名・年齢・職業・趣味を淡々と説明した。男どもの眼中から消えたなと思いきや、席替えタイムで隣に来た物好きがいた。私がサバサバした性格のうちに繊細な部分を隠し持っており、自分がそれを見い出してみせる、というタイプの幻想を抱いていたらしい。彼とは三か月ほど付き合った。私が一向に“内に秘めた繊細さ”を見せず、会話もなくなってきた頃、元カノから「相談したいこと」があるとかで呼び出されていった。後は推して知るべし。
おまかせの刺し盛と揚げたてのマグロのメンチカツが運ばれてきた。まずはソースをかけずにお召し上がり下さい、なんて野暮なことをこの店では言わない。小皿になみなみ注いだソースに、私はメンチカツを浸した。食べたいように食べるのが、最高の食事の流儀というものだ。
梅酒を今度はロックで、ポテトサラダを肴にチビチビとやってから、締めに“魚河岸ソースフライ丼”を注文した。丼飯の上にキャベツを敷き詰め、甘めのソースをたっぷりとかけた上に日替わりのフライが三品のっている。今日はアジとうずらの卵のフライ、ホタテの貝柱入りクリームコロッケだった。
丼を残さず空にして、私は店を出た。少々食べ過ぎてしまったようだ。油っこい胃をすっきりさせようと、コーヒーが飲みたくなった。駅前にある数軒のカフェはすでに閉まって、店を探して私は公園に向かって歩き出した。
木に囲まれた道は人の姿がなく、街灯は頼りなく青白い光を放っていた。自動販売機で缶コーヒーを買えばいいか、と思い始めたところ、広場に出た。噴水が水色とピンクに交互にライトアップされて、その前に黒い小屋が建っていた。「カフェ・アストラル」という看板が扉の横に掲げられている。
扉に手をかけて、私はふと思った。夜遅くにカフェを探しながら、どうしてこんな寂しい所に歩いてきたのだろう。まるでここに店があることを知っていたように。それともこの店には魔女がいて、私を導いたのだろうか。
「お待ちしておりました」
うわ。黒いとんがり帽子に黒いマント。いかにも魔女という格好の女性が、カウンターの向こうで微笑んだ。
「ええと……私が来るって分かっていたの」
たぶん口から出まかせなんだろうけれど、いちおう確認してみた。
「今夜は聖なる日、セント・ヴァレンタインデーですので」
彼女――胸のネームプレートによるとミレイという名前らしい――が答えた。そうか、今日は二月十四日なんだ。すっかり忘れていた。
「で、なんでバレンタインだと私がひとりで来ることになるの」
聞きようによっては失礼な言いぐさではないか。しかしミレイは、
「ヨーロッパのある国には「魔女の心を覗いてはならない」という諺があるのですよ」
などとぬかして、謎めいた微笑みを浮かべるのだ。
「まあいいや。コーヒーを下さい」
溜め息をついて、私は注文した。
「当店ではブレンドしかお出ししていません。豆の配合はお客さまに合わせて、私が見立てさせていただいています」
急に改まってミレイはお辞儀をした。
面白い。この私の心の内を読み取ってみろっていうの。
「アイスブレンドです」
ミレイはコーヒーカップを私に差し出した。
「え、アイスコーヒー」
てっきりホットが出てくるものだと思っていた。でも、あれ、アイスって言ったのに、カップからは湯気が立っている。
「アイスコーヒーではありません。この豆は北極圏の土地で、ある先住民によって古くから栽培されてきた、とても希少な品種なのです」
「コーヒーって暖かい地方にしか出来ないって思ってた」
カップを手に取った。間違いなく、ホットコーヒーだ。
「本来はそうです。これは突然変異種だと考えられています。現地ではシルクララスタと呼ばれています。意味は“月の光の結晶”」
私は一口、コーヒーを飲んでみた。温かいのに冷たい。コーヒーが喉を過ぎた後に、清涼感のような冷たさが広がるのだ。
「ねえ、これってやっぱりコーヒーじゃないんじゃないかな」
顔を上げると、ミレイはいなくなっていた。睡眠薬かしびれ薬を飲ませて、私を拉致するつもりなのかも。私は入口を警戒した。
「根拠もなくやたらに疑うのは、愚か者のすることですよ」
ミレイとは違う、女の人の声がした。見回しても誰もいない。
「やだ、クスリのせいで幻聴がする」
私はカウンターに両肘をついて、こめかみを指で押さえた。
「思い込みのせいで、目の前のものを見ようとしないのも、愚か者のすることです」
コースターのイラストが喋っていた。
「ああ、幻覚まで見えるようになってしまった」
「……人の言うことを聞いているの」
私は混乱していた。その混乱の元凶に対して、不意に怒りが湧いてきた。
「聞いてるかって。コースターが喋るわけないじゃない。ふざけてないで出てきなさいよ、ミレイ」
思いきりテーブルを叩いた。その勢いで、コースターが裏返った。
「早く元に戻して」
少し慌てたような声がした。私は悪いことをした気分になって、コースターを表に返した。よく見るとそれは長方形のカードのようだった。絵柄には見覚えがある。
「女教皇」
タロットの大アルカナの女教皇だ。意味は知性とか秘密とか。以前に本で読んだことがある。このカードには親近感を感じて、覚えていたのだ。
「それは光栄ね。でも、私とあなたのどこが似ていると思うの」
女教皇はまっすぐに私を見つめて、聞いた。
「あなたは、そう……聡明だけど、孤独な人。誰に対しても心を閉ざして、一人で生きるクールな女」
頬杖をついて、カップに残ったコーヒーに目をやりながら、私は答えた。
「へぇ、そんな風に見えるんだ」
女教皇は笑った。
「で、あなた自身もそんな人ってわけ」
「まあね」
と、口には出して、心の中では、違うと答えた。確かに職場ではクールな女だと言われている。仕事は正確で、機械のように効率よく、スマートにこなしていく。まるでデバイスのように。
「クール・デバイス」
そのあだ名を呼ばれて、私はカップを落としそうになった。
「それであなたが満足しているのならいい。でも、そうじゃないなら」
「そうじゃないなら、なに」
私は努めて、冷たい声で言った。クール・デバイスの真骨頂だ。
「そうじゃないなら、どうにかできるってわけ」
冷静に、私は畳みかけた。
「ねえ、言いなさいよ。本当はそうじゃないなら、どうすればいいの。教えてよ」
クールになんて振舞えなかった。今までだってそうだ。自分よりずっと優秀な同僚たちにバカにされないように、必死にクール・デバイスを演じてきたのだ。
「まずは涙を拭くことね。それから、あえて自分のキャラの逆のことをやってみたらどうかな」
女教皇は優しく微笑んだ。
「カードを裏返すなんて、わりと簡単なことだよ」
「アイスブレンドはいかがでしたか」
コーヒーカップを下げながら、ミレイは聞いた。
「寒い地方の豆だからって、冷たい味とは限らないんだね」
独り言のように私は答えた。一口目はクールに感じたコーヒーだったけれど、最後まで飲むと体の中が暖かくなるような味だった。
「カードの表と裏みたいなものですね」
さっきまで姿をくらましていたくせに、こいつはどこまで知っているのだろう。
代金を払って店を出ようとした私に、ミレイは綺麗にラッピングされた包みを渡した。
「今日はセント・ヴァレンタインデーですから。シルクララスタのフレーバーのチョコレートをプレゼントさせていただいています」
私は礼を言って、チョコレートを受け取った。
店を出るとすでに真夜中だった。家に帰って、さっそく味見をしてみるか。そう、普段の私ならそうするだろう。
「いらっしゃいませ。あ、何かお忘れものですか」
行きつけの居酒屋の顔なじみの店員は、小走りに私のそばに来てくれた。
「忘れたといえば、確かに忘れていたんですけれど」
なんと言っていいのか分からず、私はシルクララスタのチョコレートを彼に差し出した。
「今日がバレンタインだってことを」
猫になれたら
学校の国語の時間に「将来の夢」って作文を書いた。僕は「科学者になって、猫になる薬を発明する」って書いた。その薬で猫になるのが僕の夢。
後で先生に呼ばれた。誰かにいじめられていないかとか、辛いことや悲しいことはないか聞かれた。僕が何もありませんって答えると、昼休みに友達と校庭で遊べるようになるといいねって言われた。学校の先生は、生徒が休み時間に一人で本を読んでいるのが嫌いらしいってママが言っていた。だから僕は、はい頑張りますって答えた。
家に帰ったら、やっぱりママはいなかった。今日もお仕事で遅くなるんだと思う。僕は鍵を閉めて、美嘉ちゃんのマンションに向かった。美嘉ちゃんはママの妹で、ママがお仕事で遅くまで帰って来ないときは、美嘉ちゃんと一緒に夕ご飯を食べることになっている。
バスを降りて、僕はコンビニに寄った。いつもいつも手ぶらで行ってはかっこ悪い。昨日、お小遣いをもらったばっかりだから、美嘉ちゃんの好きな高級アイスクリームを買っていくことにした。それからニャン姫にも高級キャットフードを。
コンビニを出ると、駐車場の端っこにニャン姫に似た猫がいた。僕を迎えに来てくれたのかな。僕はそっと、その猫に近づいた。黒い背中に白い毛が星の形に生えている。その星は美嘉ちゃんの赤ちゃんが猫になって生まれ変わった証拠なんだ。だからニャン姫の他に、背中に星がある猫がいるわけはない。
突然、ニャン姫が歩き出した。もしかしたら美嘉ちゃんの家から脱走したのかもしれない。それなら大変だ。ウチのクラスの三川さんの猫も逃げちゃって、三川さんは何日も落ち込んでいた。美嘉ちゃんがあんな風に落ち込むのは見たくない。
サイワイにも、ニャン姫は僕になついている。だから僕ならニャン姫を連れ戻せるだろう。それでも僕が急に走り出したら、ニャン姫は驚いて逃げてしまうかもしれない。
僕は早歩きで、ニャン姫に近づこうとした。でもニャン姫は意外と歩くのが早い。家の中でこんなに早く動くのを見たことがなかった。
ニャン姫は公園に入っていった。僕も後についていった。
暗い道を通って、ニャン姫と僕は噴水の広場に出た。噴水の前には小屋が建っていた。ニャン姫が後ろ脚で立ち上がって、ドアをカリカリとひっかいていると、それが開いてニャン姫は中に入っていった。
あの小屋の中なら逃げ回っても捕まえられるだろう。僕もその小屋に入った。
店の中にはカウンターがあって、女の人がいた。
「いらっしゃいませ」
彼女は顔を上げた。その笑顔は美嘉ちゃんに似ていた。
「ここにニャン……ええと、猫が入って来ませんでしたか」
僕が聞くと、
「いいえ。今日はずっと私一人。あなたが初めてのお客様です」
そう答えて、ありがとうございます、と頭を下げた。
僕が初めての客って、そんなんで店をやっていけるのか。いや、それはどうでもいい。ニャン姫がここに入るのを見たのだから、彼女は明らかに嘘をついている。ここは自分一人の力でニャン姫を探さなければならないようだ。
すると、彼女の黒いエプロンに白い星の模様がついていることに気がついた。
「その星」
僕が思わず声に出すと、
「ああ、これは猫星です」
彼女――胸のネームプレートには「MIREI」と書かれていた――ミレイさんは自分のエプロンに視線を落とした。
「猫星」
「はい。不幸にも生まれてすぐに亡くなった赤ちゃんの魂が昇っていく星です。そこで幼い魂は猫に生まれ変わって、お母さんの元に戻ってくる。悲しくも暖かい星なのです」
美嘉ちゃんの話と一緒だ。赤ちゃんのお葬式の後、美嘉ちゃんのマンションの近くに猫が捨てられていた。美嘉ちゃんはそれを、娘が猫に生まれ変わって帰ってきたんだと、喜んで飼うことにしたのだった。美嘉ちゃんはショックのせいで錯乱しているのだと僕は心配になった。けれど彼女の姉――僕のママ――は、美嘉ちゃんの言葉を否定せず、かといって肯定することもなく、猫を飼うことに賛成したのだった。
「ニャン姫だけじゃなかったんだ」
僕は独り言のようにつぶやいた。それなら、僕が追いかけてきた猫も、ニャン姫じゃなかったのかもしれない。美嘉ちゃんは猫が出て行ってしまわないようにいつも注意していたから、きっと別の猫だったのだろう。
「だいぶお疲れのようですね。よかったらコーヒーを飲んでいかれませんか」
ミレイさんがねぎらいの言葉をかけてくれた。言われてみれば、ニャン姫だと思い込んでいた猫を追いかけて、かなり長い距離を歩いてきた。
「ああ、でも今持ち合わせがなくて」
コンビニでお金を使い果たしてしまったのだった。そう告げると、ひどく情けなくて、恥ずかしい気持ちになった。
「大丈夫です。ウチは年末払いでもオーケーですよ」
ミレイさんは目を細めて、にゃあと優しく笑った。
「そうなんですか」
ツケで飲めるカフェなんて聞いたことがない。けれどそう言ってくれるのなら、かえって断る方が失礼な気がして、僕は椅子に腰かけた。
「ウチはブレンドしかお出ししていないのです。豆の配合はお客様に合わせて、私が決めさせていただています」
そういうとミレイさんはコーヒーを淹れ始めた。
僕に合うコーヒーって、どんな味がするんだろう。
「イリュージョンブレンドです」
ミレイさんが差し出したカップの中で、白い泡のようなものが渦を巻いていた。
「ええとこれ、大丈夫なんですか」
心配になって、僕は聞いた。
「大丈夫です。コーヒー以外のものは一切加えておりませんから。あ、水は入ってますけどね」
ミレイさんの言葉を信じて、僕はコーヒーを飲んだ。表面の渦が、僕の口の中に入って、体を駆け巡った。まるで僕の体が渦を巻いているような感覚になって、段々と気が遠くなってきた。
――あ、やっぱり大丈夫じゃないじゃん。
「ミレイは偽りを言ってはいない。彼女はコーヒーを淹れただけだ」
声が聞こえた。
「ただ、そのコーヒーがただの豆だとはひとことも言っていないがな」
(そんなの詐欺じゃないか)
僕が苦情を言うと、口からは「にゃあ」という声が出た。
にゃあ、だって。僕は何度も言葉を話そうとしたけれど、その度に、にゃあにゃあという鳴き声しか出てこなかった。
「どうだね、長年の夢が叶った心境は」
その声はコーヒーカップの下から聞こえるようだ。僕はカップを倒さないよう、慎重に両の肉球で挟んで脇に置いた。
縦長のコースターには、赤い服を着た男が描かれていた。それは確か、タロットカードの魔術師。
「いかにも。そして僕がこのコーヒーに、飲んだら猫になる魔法をかけたのさ」
魔術師は笑った。
猫になる魔法。魔法だって。薬じゃなくて、魔法。そんな非現実的な。
「薬は現実的で、魔法は非現実的か。では、猫になりたいなんて思うことは現実的なのかね」
(目的じゃなくて、僕は手段のことを言っているんだ。魔法なんて手段が非現実的だと)
必死に訴えても、口からはにゃあにゃあとしか出てこなかった。
「しかしね、君は現にこうして、魔法の力で猫になったのだから、非現実的な手段もなにもないじゃないか。そんなことより、夢を叶えてあげたのだからもっと喜んで欲しいね」
魔術師の言う通りだった。でも、なぜか納得がいかない。自分の夢を他人が叶えてしまったからか。それを施しのように与えられたからか。
「お望みなら遠い未来に飛ばして、科学の力でいったん体を原子レベルに分解して、猫に組み立て直してもらおうか」
なんだかものすごく恐ろしい話のような気がした。
「もっとも、君の心までバラバラになってしまわないという保証はないけれどね」
確かに原子レベルに分解されたら、もう僕は僕でなくなっているような気がする。それとも、僕という存在や意識は原子の一つ一つに記録されているのだろうか。
「それはともかく、ねえ。君は何か大切なことを忘れているんじゃないかな」
魔術師が聞いた。僕はギョッとして、にゃっと声を上げた。
「猫になりたいっていうけれど、じゃあ猫になる前の君は何者なの」
今は猫なんだから猫だ。じゃなくて、こうなる前の僕は何者だったのだろう。人間か。どんな人間か。
人間の、子供。
本当に?
「もう大丈夫です」
激しい渦巻きのような眩暈の後、僕の意識は元通りに落ち着いた。
「よかったらお水はいかがですか」
ミレイが聞いた。
「水にもツケは効くんですか」
僕がにやりとして尋ねると、
「水はタダですよ」
ミレイは目を細くして、氷の浮いた水の入ったグラスを差し出した。
「僕の母は心理療法家でして」
僕は話し出した。
「もつれてしまった人の心を渦の中に入れて元通りにできたら、なんて言うことがあるんですよ。もちろんそんなことは不可能ですし、仮に出来たとしても許されることではない。そんなことは母も分かり切っているのですが」
それから僕はミレイに話した。
高校生のとき、美嘉ちゃんに赤ちゃんの子守を頼まれていた僕は、ゲームに夢中になって長い間目を離してしまった。トイレに行くついでに様子を見に行くと、赤ちゃんはベビーベッドから落ちて動かなくなっていた。
一番辛かったはずの美嘉ちゃんは、事故だったのから仕方ないと言って、泣きじゃくる僕を抱き締めてくれた。誰も僕を責めなかった。ただ一人僕自身を除いて。
「僕は僕自身を責め続けました。それが本当に辛く苦しかった。けれどある日、まるで救いのような考えが僕の頭に浮かんだんです。「僕は幼い子供なのだから赤ちゃんを救えなかったのだ」と」
ミレイは優しく微笑んで、
「イリュージョンブレンドはお気に召しましたか」
そう聞いた。
「はい。あのコーヒーの渦のおかげで、僕は本当の自分を取り戻せましたから。でもあの渦はなんだったのですか」
僕が質問すると、
「あれは……ただのコーヒーですよ」
ミレイは目を細くして、笑った。
「ただのコーヒーですか。まあ確かに、渦がどうこうより前に、この店に入った瞬間から僕の心は癒されたような気がします」
そして僕はミレイに礼を言った。ミレイも、こちらこそありがとうございます、と深々とお辞儀をした。
「では、コーヒーの代金を持ってまた来ます」
僕は入口のドアに手をかけて、ふと立ち止まった。
「ミレイさんって、本当は猫に生まれ変わった赤ちゃんなのですか」
するとミレイは、
「そんな非現実的なこと、あるわけないじゃないですか」
笑って答えた。
「そうですよね。非現実的ですよね。僕はあなたのエプロンの星を見て、てっきり……」
「お願い」
悲鳴のような声。
「ごめんなさい……それ以上は聞かないで……何も言わないでください」
ミレイは泣いていた。
僕は、すみませんでした、と早口で詫びると、カフェ・アストラルを出た。
春の風に
「今日もつまらない一日だった」
私は口に出して確認した。英語、数学、古典は普通。歴史はやっぱり苦手。体育はマラソンだったけれど、私は見学させられた。お母さんから先生に電話があったらしい。信じられない、私はもう元気なのに。
「宮代麻衣の一日は退屈だった」
私はさっきより声を大きくして、改めて言った。6時間目の古典が終わると、鞄に教科書とノートを詰め込んで、教室を出た。私は帰宅部だし、一緒に帰る友達もいない。本当は一人いたのだけれど……とにかく今は特に仲のいい人はいない。
このまま家に帰るのは気が重い。今日はお母さんがいるはずだ。体育のことを問い詰めたい。麻衣ちゃんのことが心配だったから、とお母さんは言うだろう。自分の気持ちを分かってくれないと、私を責めるだろうな。一度スイッチが入ったら、もう手のつけようがなくなる。そうなったら最低でも晩ごはんがなくなるのは確実だ。
「じゃあ、私の気持ちはどうなるの」
さっきよりさらに大きな声で言った。マラソンは嫌いじゃないのに走れない。一人だけずるいと陰口を聞かれる。先生だって呆れた顔をしていた。
だめだ。このまま家に帰ったら衝突は避けられそうにないや。本屋さんに寄って面白そうな本を探すか、コーヒーを飲んで気持ちを静めなくちゃ。今月はあまりお小遣いが残っていないのだけど。
コーヒーといえば、体育の時間に、隣のクラスの女子が変わったカフェに行ったって話すのを聞いた。その店はいま私がいる公園の噴水の前にあるはずだ。私は園内マップを見て、噴水の場所を探した。けれど、どこにも噴水なんて載っていなかった。
「また嘘をついたんだ」
私は叫んだ。彼女は私と話していたわけじゃないから、騙されたと思うのはちょっと違うのは分かっている。でも私は……とにかく腹が立った。そして私は走り出した。学校で走れなかった代わりに、この公園を一周してやろうと思った。そして……
私は噴水の前に出た。
「うそ……地図にはなかったのに」
噴水の前には黒い小屋があり、看板が出ていた。店の名前は「カフェ・アストラル」。確かに体育の時間に聞いた名前と一緒だった。中にはとても綺麗な女の人が一人で働いているはずだ。それを確かめてみたくて、私は扉を開けた。
「そんな、恥ずかしいじゃないですか」
彼女はいきなり、私に向かって言った。
「ええと、なんのことですか」
私が驚いて答えると、
「あ、ごめんなさい。私はつい、ええと、いらっしゃいませ」
彼女は早口で言って、頭を下げた。話の通りとても綺麗な人だった。
「ところで、カウンター席は少し高いですけれど、別の椅子をお持ちしますか」
彼女は私の脚に目をやった。この人もお母さんみたいに言うんだ。
「大丈夫です。さっきだって走ってきたんですから」
私はつい声を荒げてしまった。椅子に腰かけると、気持ちを高ぶらせてしまったことが少し恥ずかしくなった。
「ええと……私に合うコーヒーをください、ミレイさん」
ごまかすように私は言った。
「はい……でも、どうして私の名前をご存知なのでしょう。それにこの店のシステムも知っていらっしゃるみたいですし」
ミレイは答えた。よく見ると、どこにも名札をつけていなかった。
「それは、友達がここに来たことがあるって話していたので」
少し狼狽えながら、私は答えた。
「ああ、そういえば同じ制服の方が以前に見えました。そうですか。あのお客様のお友達、ですか」
ミレイは「友達」という言葉に妙に力を込めて言った。
「覚えているんですか。彼女が来たのはだいぶ前のはずですけれど」
動揺を悟られまいとしながら私が言うと、
「はい。私は今までいらして下さったお客様は全員覚えていますから」
ミレイは微笑んだ。
「すごい記憶力ですね」
彼女の笑顔に私はドキドキしてしまった。
「いいえ。うちにはほとんどお客様がいらっしゃらないので、覚えていられるだけですよ」
冗談とも本気ともつかない調子で、ミレイは笑った。でも、きっと本当なんだろうな。
それからミレイは時間をかけて、コーヒーを淹れた。
「スプリング・ブレンドです」
ミレイは桜色のコーヒーカップを差し出した。
「スプリングって、春のこと」
するとミレイは頷いて、説明を始めた。
「この豆は世界でもっとも早い時期に収穫されたものです。その味わいは春風のようで、心と体のこわばりをほぐしてくれます」
私はコーヒーを、一口含んだ。体の中に暖かくて心地よい風が吹き抜けた気がした。
「これって」
私は続けてコーヒーを飲んだ。春風が私の体を優しく包み、心を安らがせてくれる。
「思い出したかな」
声がした。ミレイ……ではない。男の人の優しい声だった。
「思い出す。何を」
相手が誰だか分からないまま、私は答えた。
「君の本当の心だよ」
その声はテーブルの上からした。私がコーヒーカップを脇に避けると、長方形のコースターがあった。声はそのコースターに描かれている人、タロットカードの法王から聞こえてきた。
「ほう、私のことを知っているのだね」
法王は聞いた。
「知ってます。あの子がタロットのことを教えてくれたから」
私が答えると、
「君の友達だね」
法王は答えた。
「友達」
私は繰り返した。
(あんたなんか友達じゃない)
叫び声が聞こえた。その声は……
「いいえ、友達なんかじゃありません。ただの同級生です」
春風で和らいだ心が再び固くなるのを感じた。
「そうか……まだあのことを許してやる気にはならないんだね」
法王は少し寂しそうな声で言った。
「だってひどいじゃないですか。私にあんなことを言って、それに私を」
私は叫んだ。目から涙がこぼれた。悔しくて、悲しくて、それに……。
「あれは君が頼んだのではなかったのかな」
法王が聞いた。そう、私が彼女に頼んだのだ。片思いの先輩に気持ちが通じるかどうか占って欲しいと。
「でも結果はだめだった。彼女はそう言ったんだね」
私は頷いた。あきらめた方がいいかも、と彼女は言った。
「それで私は、あきらめろだなんてひどい。もう一回占ってよと彼女に言って」
「友達の腕を掴んだ」
痛いよと声を上げながら彼女は私の手を振り払って、はずみで私は後ろに倒れた。
「その時、足首が折れたの。すごく痛かった」
私は自分の左足を見た。
「あの子はわざと君を傷つけたと思うかい」
法王が聞いた。
「そんなこと……わざとやるわけないじゃない」
「でも君は先生にはそうは言わなかった。家族にも友達にも」
「そうだよ。私はわざと怪我をさせられたって言った。だってあの時」
私を振り払ったときのあの子の顔はとても怖くて、私が憎らしいという目をしていた。
「今でもそう思うのかな」
「今は……分からない。ただ腕が痛かっただけなのかも」
私だって足を怪我させられたから恨んだんじゃなかった。ただ、あの時、あの子に手を振り払われたことが悲しくて。それで私は傷ついたんだ。
「それはもしかしたら、あの子も同じかもしれないね。大切な友達を傷つけてしまったことが悲しくて」
私は何も答えられなくなった。
しばらくして法王は再び聞いた。
「私のことを君に教えたのは、君の友達なんだね」
「いいえ」
私は答えた。
「ただの友達じゃない。私の親友です」
「スプリング・ブレンドはお気に召しましたでしょうか」
ミレイが聞いた。
「はい。ミレイさんの言う通り、心がほぐれた気がします」
するとミレイは、それは良かったですね、と笑った。
私はカウンター席から降り、激痛によろめいた。左の足首が痛い。
「やっぱりまだ痛むんですね」
ミレイは心配そうに言った。
「お家の方に連絡しましょう」
ミレイは家の電話番号を聞いた。
「だめ。お母さんは呼ばないで」
痛みを堪えながら、私は言った。
「でも、一人では歩けないでしょ。なら私がお家まで」
私は首を横に振って、電話番号を告げた。
「ここに電話してください」
「麻衣」
美郷が来てくれた。思っていたよりもずっと早く。
「無理をして走ったりしたら、こんなになっちゃった」
私が言うと、美郷は目を伏せた。
「ごめんね。全部私のせいだよね」
私は美郷の肩に手を置いた。
「違うよ。あれはただの事故。それに私も悪かったから。ごめんね、美郷」
美郷は驚いた顔をして、それから小さく、うんと言った。
「外でタクシーを拾うから。そこまで歩ける?」
私は頷いて、美郷の手を借りて歩き出した。久しぶりに親友の手を握ったら、痛みも少し和らいだ。
「お気をつけて」
ミレイが言った。
店の外に出ると、暖かい風が私たちを包んでくれた。
そうか。気づかなかったけれど、もうとっくに春が来ていたんだ。
姫と三人の騎士
高校卒業以来、十年ぶりに再会した三人は居酒屋で飲み明かし、気づいたときには終電の時間を過ぎていた。
「今日は休みだからいいけどな」
ダークグレーのスーツ姿の山田が言った。
「こうなったら朝まで飲むか」
水色のジャケットにピンクのシャツ、白いズボンという出で立ちの田村が声を上げた。
「もしよかったら、僕の家は歩いて行ける距離だから」
紺色のウインドブレーカーにジーンズ姿の村山が、おずおずと申し出た。
三人は交差点に差しかかり、信号待ちの間、沈黙が降りた。やがて青に変わって歩き出すと、三人は再び話し始めた。
「いきなりでは悪いんじゃないか」
痩せて背の高い山田が言った。
「そうだよ。奥さんが迷惑するだろ」
筋肉質の田村は、村山と肩を組んで言った。
「ああ、僕、まだ独身だから」
小太りの村山は答えた。
再び赤信号で、三人は沈黙。そして青信号になって、会話再開。
「それなら俺も一緒だよ。仕事が忙しくてなかなか出会いがなくてね」
山田は人差し指で眼鏡を上げた。
「俺もさ、実は振られたばっかりで」
田村は茶色い髪をかき上げた。
「ああ、彼女ならいるよ」
村山が答えると、信号もないのに三人は沈黙した。
「それはよかった」
山田は少し上ずった声で言った。
「もしかして、俺たちの知ってる子かな」
田村は探るように聞いた。
「うん、三瀬さん」
村山が答えると、今度は間髪入れず、山田と田村が驚きの声を上げた。
高校時代。山田武、田村毅、村山健の三人は同じクラスだった。名前が全員「たけし」なのでなんとなく親近感を持つようになり、すぐに仲の良い友人になった。
揃って本が好きな三人は、昼休みはいつも図書室で過ごしていた。彼らが行くと必ずそこには隣のクラスの女子、三瀬夕花がいた。髪が長くて色白で人形のように整った目鼻立ち。おっとりした雰囲気の夕花に、三人は夢中になった。
「もし俺たちのうちの一人と結婚するなら、誰がいい」
そう聞いたのは田村だった。夕花は黙りこみ、そんなことを聞くなと山田は諫めた。けれど内心では三人とも夕花の答えを知りたがっていたのだった。
「私が結婚したいのは、私を……」
その瞬間、地震が発生し、四人も慌てて校庭に避難した。幸い被害はなかったものの、その話はそのまま立ち消えになってしまったのだった。
「それで、三瀬さんと再会した経緯は」
山田が聞いた。
「三瀬さんもこの近くに住んでいるんだ。で、外で偶然出会って、久しぶりだね、って一緒にコーヒーを飲みに行ったんだ」
村山は言葉を切った。
「で、それからどうなったの」
続きを話そうとしない村山を、田村が促した。
「それだけ」
村山はしれっと答えた。
「それは……付き合っているとは言えないんじゃないかな……」
山田は眼を瞑り眉間を押さえた。
「あ、そうか」
村山は笑った。
「そうだよ。彼女なんて言って、脅かしやがって」
田村はなぜかほっとした顔をして、肘で村山を突っついた。
「そうだ。これから三瀬さんも呼んで、遊びに行こうよ」
山田と田村が返事をする間もなく、村山は夕花に電話をかけた。
「この先の公園にある「カフェ・アストラル」って店で待っててくれだって」
夕花との再会に、山田は緊張の表情を、田村はにやにや笑いを浮かべながら、村山の道案内について行った。
「いらっしゃいませ……おわっ」
カフェ・アストラルの店員は三人を見るなり、驚きの声をあげた。
「ええと、僕たちが何か」
山田は怪訝そうに彼女を見た。
「いえ、こんなに大勢のお客様が見えたのは初めてでして、つい」
胸の名札には「MIREI」と書かれていた。夕花が和人形風なら、この子はフランス人形のようだな、と、田村は内心思いながら、カウンター席に座った。
「ミレイさん、あとで三瀬さんも来るんですけれど」
村山は以前にもここに来たことがあるようだった。カウンター席は四つなので、他の客が来れば一人あぶれてしまう。
「それなら閉店の札を出してしまいますよ、村上さん」
ミレイはさも心得た、という調子で返事をした。不満そうな村山の顔を見て、田村は吹き出しそうになった。
「いいんですか、僕たちのために」
山田は恐縮したように少し体を屈めて、ミレイに言った。
「いいんですよ。もう貸し切りってことにしちゃいましょう」
そしてミレイは一旦店の外に出て、店名の書かれた黒板を持って戻って来た。
「そういえば、どこにもメニューがないんですね」
店の中を見まわしながら、田村が聞いた。
「ここはブレンドだけなんだよ」
ミレイの代わりに、村山が答えた。
「なるほど。あえて一品で勝負するとは、よほど自信があるということですね」
笑みを浮かべながら、山田が聞いた。
「その代わり豆の配合は客を見て、ミレイさんが決めるんだよ」
村山が自分のことのように、得意気に言った。
「代わりに説明していただいてありがとうございます、村上さん」
礼を言われたのに、村山は嬉しくなさそうな顔をした。
「さて、では三瀬さんが来るまで、コーヒーを飲んで待つとしようか」
山田の言葉に、二人も同意した。
「お待たせしてすみませんでした。なんせワンオペですので」
ミレイは深々と頭を下げた。青みがかった黒髪が頬にかかった。
「それで、一人ずつ違う配合なんですよね」
山田は三つ並んだカップを見比べた。見た目や香りは全部同じように感じられる。
「はい。山田さんにはこちら……キング・ブレンドです」
名前を聞いて、田村と村山は小さく、おお、と歓声を上げた。
「それから田村さんには、フォース・ブレンドです」
田村は渡されたカップを覗き込んだ。けれど、やはり彼には山田のコーヒーとの違いは分からなかった。
「村上さんは、二回目ですので、ゼロ・ブレンドです」
二回目なのになんで名前を……村山の不満はミレイには聞こえていないようだった。
「せっかくですので店の照明を落としましょう。その方が香りが分かると思いますよ」
するとミレイは、客たちの返事も待たずに、店内を真っ暗にした。
「いやいや」「いくらなんでも」「これではカップも見えないし」
三人は手探りでカップを取って、コーヒーを飲んだ。
僕の前に男が現れた。白髪で白い髭を生やし、玉座に腰かけている。
「なるほど、だからキング・ブレンドか」
きっとこれは夢に違いない。僕はそう思いながら言った。
「王ではない、皇帝だ」
重々しく威厳のこもった声で、皇帝は答えた。
「それで、王にせよ皇帝にせよ、なぜあなたが僕にふさわしいのですか」
僕はうんざりしたように聞いた。
「なぜ、だと。職場では次々と業績を上げ、部下の信頼も厚く、上司からも一目置かれている。何よりお前自身が、皇帝に相応しい貫禄を身につけているではないか」
「しかし、僕はただの管理職に過ぎないんだ」
至る所で聞かされ続けてきたことを繰り返されて、僕は思わず打ち消すように言った。
「今は好調かもしれない。けれど重役たちの意向一つで、いつどうなるか分からない身の上なんだ」
あの人のように。僕は入社以来、何かと面倒を見てくれた先輩のことを思い出した。彼女もまた、先ほどの皇帝の言葉に相応しい優秀な社員だった。しかしオーバーワークのせいで、少しずつ心身の健康を病んでいった。上司から休職の提案を拒否して働き続けた結果、重大なミスを起こして、彼女は責任を取る形で退職させられたのだ。
「休職を拒否したのは確かに先輩の判断ミスだったかもしれない。だからといって、辞めた途端、誰もがまるで無能だったような言い草はひどすぎるじゃないか」
抗議するように僕は言った。皇帝に向かって言うのは的外れだなのは分かっていた。しかも僕は、責めるべき相手に対しては何も言えなかったのだ。
「本当の皇帝は田村だ。俺じゃなく」
田村は自分で会社を興して、今はかなりの売り上げを上げている。彼が以前の勤め先を辞めることになったのは、後輩をかばって社長と対立したせいだった。
「なるほど」
僕に軽蔑も同情も見せずに、皇帝は言った。
「何かの間違いか、それとも……」
目の前に現われた金色の髪の女性に、俺は目を奪われてしまった。しかし次の瞬間、彼女の横にライオンが伏せているのに気づいて、俺は恐怖で凍りついた。
「大丈夫ですよ、この子は何もしません」
彼女はライオンのたてがみを撫でながら、俺を見た。
「ほら。あなたも撫でてごらんなさい」
「と……とんでもない。ラ、ライオンに触れるなんてそんなこと俺には」
そいつがいつ飛びかかって来るかと思うと、俺は逃げ出したくて仕方がなかった。いや、それがライオンでなくて、大きな犬やガラの悪そうな男だったとしても、俺には立ち向かう勇気がなかった。
「私は力(フォース)と呼ばれる者。けれど私の力とは腕力でも暴力でもありません。強いていえば、勇気や慈愛に近いもの」
彼女は穏やかな視線をライオンに向けながら、彼女は言った。
「それはかつてあなたが後輩をかばったときに現わしたものでしょう」
ああ、その話か。俺はそれを聞かされる度に、軽く笑いながらはぐらかせてきた。そしてその後、深い自己嫌悪に陥るのだった。
「あれは成り行き上かばっただけだ。それにあんなに社長が怒っているとは気づかなかったんだ。気づいていれば俺はきっと、あいつを見捨てていた」
彼女はライオンを撫でるのをやめて、俺を見た。
「本当は今でも後悔しているんだ。会社だって今は好調でも、明日はどうなるか分からない。あのまま以前の会社にいられたらどんなに良かったかって何度思ったことか」
彼女は俺を見つめ続けた。何も声をかけずに。
「君の言う力を持っているのは村山だ。俺たちが高校生の時、あいつは女子生徒にしつこく絡んできた先輩から彼女を守ったんだ。逆上した先輩に殴られながらも、あいつは守り続けた」
そのとき村山が守ってあげた相手が三瀬さんだったのだ。
「そう」
力(フォース)はライオンに視線を戻した。
「では、何かの間違いだったのかしら。でも私は……」
僕の前に、サーカスのピエロのような格好の人がいた。
「僕の名は愚者。どうぞお見知りおきを」
愚者と名乗ったその人は、右の手のひらを胸に当ててお辞儀をした。
「愚者か。確かに僕にぴったりだね。さすがミレイさん」
彼にだけ頭を下げさせるのは悪いように思って、お辞儀を返しながら呟いた。
「ええと、何か誤解をされているようですね」
愚者は顔を上げた。
「愚者という名は、いわば隠れ蓑のようなものです。愚かとはすなわち知恵が芽生える以前のまっさらな状態を意味し、無限の可能性につながるものなのです」
そして愚者は、ゼロは始まりとしての無である、と付け加えた。
「それじゃあ、僕には似合わない。可能性なんてないんだから」
僕は途端に惨めな気持ちになった。
「山田や田村は立派に仕事をしているけれど、僕はアルバイトでなんとか生きている状況だから。見かねた両親が食料を送ってくれるから何とかなっているだけで」
「しかし、君には未来が」
愚者が励まそうと声をかけてくれた。
「未来なんて、才能も何もない僕にとっては意味がない。可能性って言ったら、似合うのは山田だよ。あいつは知らないことがあっても、少し勉強しただけですぐに身につけちゃう。そういう意味では、山田はゼロにぴったりなんだ」
僕は愚者に向かって、立て続けに言った。
「君は自分のことをそんな風に思っていたんだなぁ」
愚者は少し、感心したような口調で言った。
「何かの手違いか。本当にそうかな……」
「コーヒーはお気に召しましたか」
灯りの戻った店内で、ミレイは三人に聞いた。
「キング・ブレンドは、僕にはあまり……」
山田が最初に口を開いた。
「ああ、フォース・ブレンドも僕向きではなかったな」
田村はため息をついた。
「すみません……ゼロ・ブレンドも僕には……」
村山も申し訳なさそうに言った。
「そうでしたか……おわっ」
ミレイは妙な声を上げた。
「どうしたんですか」
山田が聞くと、
「どうやらお出しするコーヒーを間違えたようです。ええと……正しくはどなたにどれだったかな……」
見た目は変わらない三つのカップを目の前に並べて、ミレイはブツブツと独り言を言い始めた。
「誰がどれだったなんて、どうでもいいじゃない」
ドアが開いた。三人が一斉にそちらを見ると、ショートカットの女性がサングラスを額に上げながら、よう久しぶり、と挨拶をした。
「ああ三瀬さん。早かったね」
村山が手を挙げた。
「え……本当に三瀬さん」
田村が驚いて言うと、
「なんだよ。昔とまるっきり変わったとか言うつもりか、田村」
夕花は彼の脇腹に突きを喰らわせた。予想以上の衝撃に田村は、ぐはっと息を吐いてカウンターに突っ伏した。
「ああ、でも。今の感じもいいと思うよ」
山田は緊張気味に言った。
「ありがとう山田くん……って、心にも無いことを言いやがって」
山田もボディブローの餌食になって、田村と並んで動かなくなった。
「さてと、これからオールで遊びに行くんだよな。村上」
夕花が言うと、
「二人が回復したらね」
村山はおそるおそる言った。
「そか。じゃあ、私にもコーヒーちょうだい」
夕花の言葉にミレイは反応を見せず、コーヒーカップを手に取っては置いて、独り言を言い続けていた。
「だから。過ぎたことをいつまでもグダグダ言ってんじゃねぇよ、ミレイ」
カウンター越しでは手が届かず、夕花は代わりに、隣にいる村山にパンチを喰らわせた。
「あ、三瀬さん、いらっしゃいませ。分かりました、コーヒーを淹れさせていただきます」
さすがのミレイも表情が固い。
「おう。あ、それから」
夕花はミレイを手招きして、カウンター越しに囁いた。
「私のコーヒーには、あのふざけたコースターは付けるなよ」
ミレイ
今日は雨。道理でお客さんが来ないわけだ……って、天気が良ければ来るわけでもないか。
うちに来るお客さんは、道に迷って辿り着いた人がほとんどだった。近頃は人に教えられて来た人やリピーターもいる。この店が認知されてきていることに私は驚いている。なぜなら、それは本来起こりえないことだからだ。
道に迷った人が辿り着く場所。抽象的な意味においても。それがこの「カフェ・アストラル」
「そういう風に作ったはずでしょ」
私はオーナーに呼びかけた。返事はなかった。
仕方なく私は、蛇口をひねって布巾を濡らし、棚を拭き始めた。たった四席のカフェには釣り合わないくらい、たくさんの種類のコーヒーカップが並んでいる。ブレンドを入れるためだけに使われるそれは、どこの店にも売られていない。すべて特注品なのだ。
拭き掃除を終えて、棚の下の段に置かれている箱を開けた。中には長方形のコースターが収められている。これもだいぶ数が減ってきた。最後の一枚がなくなったときに……そのことを考えるのはまだ早い。私は裏返しのまま、コースターを一枚抜いた。
「まかない入ります」
どこかで聞いているオーナーに向かって、私はいちおう告げておいてから、自分のためにコーヒーを淹れはじめた。
ブレンドの名前を告げる必要はないか。ただ飲みたくて淹れただけなんだから。なのにコースターを付けたのは、これがないとこの店のコーヒーって感じがしないから。
私はカウンターの向こうに回って椅子に座った。今日は久しぶりに客としてこの店のブレンドを飲みたかった。
私は自分で淹れたコーヒーを口に含んだ。少し酸味が強いかな。苦味はほとんど感じない。コーヒーというよりハーブティーみたいだ。
「それが今の君の気分ということかな」
さあ、そういうあなたは誰のかな。私はカードをめくった。
タロットカードの大アルカナ、吊るされた男がそこにいた。
「よりによって、あなたなんだ」
私はため息をついた。22枚の中で一番見たくなかったカード。
「それは俺が君にそっくりだからだろう」
吊るされた男は笑った。
「そう……きっとそうだね。あなたは木に縛りつけられていて、私はここから離れられない」
私が言うと、
「いやそうじゃない。俺は自由だ。体は束縛を受けていても心は開かれ、安らぎを得ているからな。君ならそのことが分かってるはずだろう」
吊るされた男は穏やかな声で言った。
「私はそうじゃない。体と一緒に心もここに閉じ込められている」
私は手の平を額に当てて俯いた。
「そうか? 君の雇い主は出ていくのを禁じてはいないはずだが」
吊るされた男の声はあいかわらず穏やかだった。
「そうだよ。でもさ、ここを出て元の私に戻ってどうしろっていうの。元の私に戻ってしまったらきっと、もう生きてはいけない」
涙が零れた。だからこのカードは嫌だったんだ。意地悪な悪魔や優しい女帝だったら良かったのに、こいつは……
「君の淹れたコーヒーを飲んだ人たちは、みんな希望を見つけて帰って行ったじゃないか」
あれ、私を慰めてくれるつもりなのだろうか。
「そうやって君は彼らを救ったのだ」
ああ、やっぱり。
「だから、私は誰かを救うとか、そんなことはしたくないの。私はただ、おいしいコーヒーを飲んでもらいたかっただけ」
けれどカフェ・アストラルに来るお客さんはみな悩みを抱えていた。それで元気になって欲しくて、私はほんの少しだけ。
「でも、昨日」
私は吊るされた男に向かって話し始めた。
「女の人が来た。ものすごい早口で、ここのコーヒーを飲んだ同僚に彼氏ができたから、私にも同じコーヒーを飲ませてくれって」
そして彼女は私の返事も聞かずに、自分の好きな人には奥さんがいて、本当は自分のことが好きなのに優しすぎて離婚できないから、彼と結ばれるようなコーヒーを淹れて欲しいと。
「それで君は一服盛ったわけだ」
吊るされた男は静かに聞いた。
「だってしかたなかったんだもん。あのままじゃあの人、何をするか分からなかったから」
私が彼女に飲ませたのは、自分勝手な思いを忘れさせるコーヒーだった。
「本当は私だって、そんなことはしたくなかったのに」
また涙があふれてきた。
「こうなった以上はしかたない。やり続けるか、それともここを出て行くか」
吊るされた男は、もはや悩みも苦しみも超越したような穏やかな声で言った。
ミレイはカップを洗っていた。頭の後ろで束ねている青みがかった黒髪がひと房、頬にかかっていた。それから布巾でカップを拭いて、しばらくそれを眺めていた。
「いま出ていかなくても、あれが無くなれば、私は」
ミレイは棚に置かれている箱を見た。
カップを棚に置くと、ドアが開いた。驚いたように店内を見回している客に、ミレイは微笑んで声をかけた。
「いらっしゃいませ。カフェ・アストラルにようこそ」
私の大切な人
「暑い……死ぬ……」
座椅子に寄りかかって眠ってしまった私は、エアコンのリモコンを探した。パステルピンクのちゃぶ台の上に、発泡酒の空き缶やら食品トレーやら封筒やらが散らかっている。リモコンは役所の封筒の中から出てきた。昨日の私は、いったいどういう心境だったのだろう。
パワフル冷房に設定すると、キンキンに冷やされた風が私の脚に吹きかかる。うんざりするくらいむっちりした太股。私はあの黄色いぬいぐるみのくまさんの膝掛けで、そのむちむちしたものを覆った。
6畳の私の部屋は、クローゼットに収まらない服が床に山を成し、別の壁沿いの一画には本と雑誌が積まれている。ときどき妹が来て片づけてくれるのだけれど、三日も経たないうちに元通りだ。
「せめてさぁ。下着くらいは見えない所にしまいなよ」
きれい好きの妹は大きめのマスクで顔の半分をしっかりと覆って、手際よく私の衣類を畳んでいった。
「いいよ、あんたの他にはどうせ誰も来ないんだし」
私が缶に残ったオレンジジュースのつぶつぶと格闘していると、
「もう、そんなことだから彼氏が出来ないんだよ、お姉ちゃんは」
一番高いブラを妹は私に叩きつけてきた。普段は呼び捨てのくせに私を非難するときに限って、わざとらしく「お姉ちゃん」と呼ぶのだ。それから小一時間、妹は「気持ちの問題」だの「目に見えないところから整えていく」だのとご高説を垂れて、帰っていったのだった。
「さて」
私は意識を回想から現実に戻した。今は朝の8時。朝食をとりたいところだが、冷蔵庫にも食料保存庫にもそれらしきものは何もない。
「ま、いっか。とりあえずエネルギー補給します」
私は冷蔵庫のドアポケットから発泡酒の缶を取り出し、まだ見ぬ恋人に語りかけた。
「明るい今日に乾杯」
昼食までパスしたらさすがにお腹が空いて、私は外出した。すでに午後2時を回ったというのにリーズナブルな飲食店は満席だった。パン屋さんのイートインコーナーに空席を見つけて、卵サンドとアイスアッサムミルクティーのセットにモロヘイヤのサラダを注文した。カウンター席で今日初めての炭水化物にありつくと少し気持ちが落ち着いて、私はスマホを取り出した。未読の着信メールが列を成している。どれも仕事紹介サイトからだった。新しい仕事の案内ばかりで、応募した件への返信は見当たらない。念入りに確かめると1通だけ、選考落ちを知らせる「お祈りメール」があった。
「……ふざけんなよ」
私は指についた卵のペーストを舐めて、店を出た。
外は暑さのピークをむかえていった。次の避難場所を求めて、私は公園に向かった。私はここで……
「え?」
頬に涼しい風を感じて、私は目覚めた。
「気がつきましたか」
女性らしい声がした。私は丸い椅子をいくつか並べた上に寝かされていた。落ちないように気をつけながら、私はそこから降りた。
私がいるのはどこかのお店のようだ。真ん中がカウンターで仕切られていて、向こう側で若い女の人が私を見つめていた。
「ええと、これはどういう状況」
すっかり混乱してしまった私はその女性──胸の名札には「MIREI」と書かれている──に聞いた。
「さて、何から話したらよいものやら」
ミレイさんは顎に手を当てて、考え込む仕草をした。どうやら込み入った話になりそうな様子だ。
「男性が二人、あなたを運んできて、その椅子に寝かせたの」
ミレイさんはポーズを崩さず、一つ頷いた。
「で」
「で、とは」
「あの、それで全部なのですか」
私が聞くとミレイさんは「そうです」とシレっと答えた。
「いや、おかしいでしょ。いきなり見ず知らずの女が運ばれてきて、それをそのまま寝かしておくなんて」
するとミレイさんは、さも意外と言うような目で私を見た。
「だって具合が悪いのかと」
「それなら病院に連れていくでしょう、普通は」
客観的に批判をしているけれど、私自身のことなのだ。そのことを改めて思ったら、何だか気味が悪くなってきた。
「それで、その男の人たちは何か言っていなかったんですか。この人が道に倒れていたとか」
「まあ、それは」
言いかけてミレイさんは言葉を切った。この女、何か隠しているな。
「それはさておき、コーヒーはいかがですか」
「こぉーひぃい」
妙な声が出てしまった。
「はい。ここは病院ではなくカフェなので、コーヒーをお出しするのが筋でしょう」
スジもチクワもあるか。しかし私は無性に喉が乾いていることに気づいた。ついさっきアイスティーを飲んだはずなのに。
「ウチはブレンドしかありません。豆の配合はお客様に合わせて私が決めさせていただいています」
そうね。今日の私にはどんなコーヒーが合うのかしら。
「レメディ・ブレンドです」
ミレイさんは細長い筒みたいなカップを差し出した。
「バランスが崩れてしまった状態を、目に見えないところから整えていく。そういう効能が期待できます」
「じゃあコーヒーじゃないのね」
私は筒の中を覗いた。何やら表面に泡の浮いた液体が溜まっている。
「いいえ。正真正銘のコーヒーですよ」
ミレイさんは微笑みながら答えた。その愛らしさに私の疑いは真夏の氷のように消え去り……
「いや、怪しい」
私の心は真冬の冷たさを取り戻し、溶けかけた疑いは再び結晶となった。
「コーヒーを飲んで健康になるなんて、そんな都合のいい話はないでしょ。だいたい「目に見えないところから整えていく」って言いぐさが気に入らない」
後半はほとんど難癖だけど、胡散臭いのは確かだ。
「これはコーヒー以外の何物でもありませんよ」
穏やかな口調でミレイさんは食い下がった。
「何でそう言い切れるの」
私が詰め寄ると、
「ここはカフェです。カフェでコーヒー以外のものが出てくるわけがないじゃないですか」
どうだと言わんばかりの表情で、ミレイさんは言い放った。
「ああ……そう」
決して納得したわけではない。これ以上押し問答をする気力が萎えてしまったのだ。
さすがに毒を出すことはなかろう、と私は一口飲んで……
「うぐぅ……むはぁ……」
激しい目眩がした。この女やりやがったな。
「どうしました?」
「どうじまじだぢゃないわ」
ミレイさんの顔もグルグル回っている。細長いコーヒーカップも、その下に敷かれたコースターのイラストもグルグルグルグル。
「あれ?」
ほんの数秒で目眩は治まった。ところが、コースターに描かれた車輪は回り続けていた。
「ホイール・オブ・フォーチューン」
運命の輪。タロットカードの大アルカナの一枚。
「このカードをご存知でしたか」
ミレイさんが聞いた。
「あなた何でここにいるの」
私は咄嗟に声を荒げた。ミレイさんは嬉しそうな顔をした。
「運命の輪はあらゆるものを導き、しかるべき所へと誘う。あるものは輪の回転によって天に上り、あるものは地に下る」
地に下る? その言葉が私の頭の中に一つの感覚を呼び覚ました。
「私は……落ちていく……」
ミレイさんは微笑んで、
「しかし、輪の上端に達したものは下り始める。輪の下端にあるものは」
「天に上っていく」
私はミレイの言葉を引き継いで言った。
「思い出したみたいね」
ミレイはカップを下げながら言った。
「落ちてきた私は途方にくれて、目の前にあった小屋に入った。この〈カフェ・アストラル〉に」
そう。私は以前にもミレイに会っていた。その時も彼女は私にコーヒーを出したのだ。
「そうか。あなたの仕業だったのね」
ミレイは何も答えなかった。
「あなたのコーヒーが私の記憶を奪った。自分が誰なのか分からなくなった私は、人間として暮らし始めた」
では、あの妹は誰なのか。
「少し違うわね」
ミレイは私を見た。その目からは先程までの愛らしさは消えていた。
「あなたは別の人間の体に乗り移ったの。まるで亡霊みたいにね」
ミレイは私の手首を掴んだ。彼女の手は恐ろしく冷たかった。
「妹はその肉体の持ち主の正真正銘の妹。あの子は姉が取り憑かれていたことには気づいていなかったみたい」
ミレイは手を離した。あやうく腕の元の方まで凍ってしまうところだった。
「それで。私の今までの肉体の主は」
私が聞くと、ミレイは凍った心を溶かしてしまうような暖かい笑顔で答えた。
「行ってみたら」
家に帰るなり、私はクーラーをフル稼働させ、風が一番当たる場所に寝転んだ。
「暑かった……生き返る……」
私はゴロンと寝返りをうち、それに気づいた。
「ああ、いたんだ。天使さま」
「えっ。私が見えるの」
「見えるも何も、ずっと一緒にいたじゃない」
「私があなたの体を乗っ取って」
「ああ。違う違う」
私は上半身を起こして座わり直した。
「何でかは知らないけど、あなたは元の世界にいられなくなったの。でも、こっちで幽霊みたいだと困るだろうから、私が間借りさせてあげたんだよ。この体に」
「あなたが。自分の意思で」
「そう。まあ、居心地の悪い体で申し訳なかったけど」
私が言い終わらないうちに、天使さまは私に抱きついてきた。
「おかえり、私の天使さま」
美しき放浪者
「どこか遠くへ行きたい」
小さい頃からずっと願ってきたことを、生まれて初めて口に出してみた。それはありふれた、同じ年頃の少年なら誰もが心に抱きそうな願いだった。だから僕は言ってしまったことを後悔した。言葉にして吐いてしまったせいで、その思いに込めてきた切実さは薄らいでしまい……そう、この秋の晴れた空に拡散されてしまった、そんな風に感じたからだ。
どんなに願ったところで、実際には手持ちのお金の尽きる場所までしか行けないのだ。投入金額で行ける最も遠い駅名をアナウンスが告げたとき、僕は電車を降りざるを得なかった。改札を出て、地上行きの階段を上ると、そこは公園だった。ベンチに座って、僕はバッグから飲みかけのペットボトルを取り出した。温くなったレモンティーの酸味が口に広がり、喉を落ちていった。口元からうっかり垂らしてしまったのを、僕はちゃんと動く方の手の甲で拭った。
(また垂らしたりして、ホントに赤ちゃんみたいねぇ……)
「うるさい!」
僕が叫ぶと、あいつの幻は消えた。
「いいか出てくるなよ。二度と出てくるな。今度出てきたら僕はまたお前を……」
思わず出かけた言葉を僕は飲み込んだ。目の前を通り過ぎる大人たちの群れは、目的地に向かって行進し続ける以外に関心を持たないようで、僕は不意にそれが哀れに思えた。つい笑いそうに……
「ねぇ、大丈夫」
悲鳴を上げそうになった。無関心の群れから若い女の人がはみ出してきたのだ。
「え……ああ」
僕は急に不安になった。自分に関心を向ける人が現れたことで、まるでこの場の全てが僕に視線を注いでいるかように感じられて、急に息苦しくなった。
「どこか具合が悪いの」
その女の人は僕の前で屈んだ。明るく染めた緩いウェーブのかかった髪が揺れて、シャンプーの匂いがほんのり香った。僕が顔を上げると、その人が息を飲むのが聞こえた。
(ホントに、綺麗な顔ねぇ)
ああ、あいつと同じ目で僕を見てるな。
「お金が無いんです」
するとその人は、お金、と繰り返した。
「だから家に帰れなくて」
その人は僕の隣に座った。柔らかい肩が僕に触れた。その人は鞄から財布を出して、お札を一枚僕に渡した。
「これで足りるかな。会社に行かなきゃいけないから、送っていってあげられないけれど」
開いたままの財布から、その人が男の人と並んでいる写真が見えた。僕は言葉を飲み込んで、その人を見つめて笑った。
「すみません。見ず知らずの僕にこんな親切にしていただいて」
するとその人は急に慌てたように財布を鞄にしまった。後でお金を返します、と連絡先を尋ねる僕に、それは君にあげるから、と言いながら立ち上がった。
「辛いことがあっても、自分を大切にしてね」
その女の人は、大人の群れに戻っていった。お札をポケットにしまうと、それが冷たく僕の指に触れた。
世界が変わってしまったのはいつだったかな。それまでは上手にいい子をやっていられたと思う。僕が失敗したのか、大人の気が変わったのか、とにかく僕はこのツナサンドの玉ねぎみたいに、それまでの世界から吐き出されてしまったのだ。
最後に取っておいたタマゴサンドを食べながら、この後どこへ行こうかと僕は考えた。このお店でサンドイッチとオレンジジュースを頼んでしまったけれど、貰ったお金はまだ残っている。使い果たしても、またいつもの手を使えばいい。
お店の外からサイレンが聞こえた。いつもの手、だって。それが嫌になって、僕はあいつの所から出てきたんじゃなかったのか。僕はポケットの中にあるそれに触れて、改めて誓いを立てた。
店を出た僕はゲームセンターに行き、だいぶお金を使ってから本屋で立ち読みをした。魚の本を読んでいたら、ふと海に行きたいなと思った。
(海はね、魂の帰るところなの)
窓の外を見ながら、あいつは言っていた。それから、決まって僕を見て、
(いつか一緒にいこうね)
そう言って笑ったんだ。
僕はその本を買って、外に出た。そして、また公園のベンチに座った。夕方になって、大人の群れが朝とは逆の方向に流れてきたけれど、そこから溢れてくる人はいなかった。
「大人はそれが普通なんだよ」
僕は声を出して笑って、無関心の群れがやっぱり反応しないことを確かめてから、立ち上がった。大人たちから離れるように歩いていたら、噴水の前に出た。そこには黒い小屋が建っていた。扉に近づくと、ほんのりとシャンプーの香りがした。
「いらっしゃいませ」
中には今朝会った女の人がいた。
「ええと、あの時はどうも」
僕が頭を下げると、カウンターの中の彼女はニコッと笑った。
「ああ、私は別人ですよ。この〈カフェ・アストラル〉の雇われマスターのミレイです」
そうかこの名札の文字はミレイと読むのか。そして、今朝会った人とは別の人……って。
「えっと、何で僕があなたに似た人と会ったことを知ってるんですか」
するとミレイさんは、少しウェーブのかかった髪を軽くかき上げた。
「人の記憶とは視覚よりも聴覚、聴覚よりも嗅覚の方が鮮明なのだそうなのですよ」
「はぁ」
「つまり、そういうことです」
つまり……ミレイさんはあの女の人と見た目が似ているのではなく、同じシャンプーを使っているから、匂いの記憶と一致して、僕は二人が似ていると認識した、と。
「さっすがぁ」
ミレイさんは軽い調子で笑った。その笑顔はまた別の人間を思い起こさせた。
「いえ、待ってください。それじゃやっぱり説明になってないじゃないですか」
はぐらかされそうになったのに気づいて、僕は言った。やっぱりミレイさんは今朝の女の人で、何かを企んでいるんじゃないかと疑心暗鬼になってきた。
「実は今日、私にそっくりのお客さまがいらっしゃいまして。もしかしたらその方と見間違えたのかなと思ったのです」
なるほど、それならあり得そうだ。僕はカウンターの前の椅子に座った。
「それで、その人は何か言ってませんでしたか」
僕が聞くと、
「会社に行く途中でとびきりの美少年に会った、とかですか」
ミレイさんはフフっと笑った。
「あなたもそんなことを言うんだ」
この人もあいつと同じような人間なんだと思うと、僕は少し落胆した。
「綺麗な顔って言われるのが嫌なの」
ミレイさんはもう笑っていなかった。
「別に」
答える気になれず、僕はカウンターに視線を落とした。するとミレイさんは、ふうん、と小さく言ってから、
「さて、コーヒーはいかがですか。ウチはブレンドしか置いていないのですが、あなたに合う配合を私が見立てて淹れて差し上げますよ」
と、急に声を張った。
「あ、ええ、お願いします」
ミレイさんに圧されるように僕は言った。この人は他の人とは違うかもしれない。興味を持つのと同時に、少し不安になった。
「ソード・ブレンドです」
ミレイさんはコーヒーカップを差し出した。
「体の中のあらゆる悪しきものを切り裂く効果があると言われています」
僕はカップの中を見つめた。
「普通のコーヒーにそんな力があるなんて」
独り言のように言うと、
「普通ではありませんからねぇ」
ミレイさんも独り言のように返した。
「何か薬みたいなものが入ってるんですか」
不安になって僕は聞いた。
「毒も惚れ薬も入れてませんから、ご安心を」
ミレイさんはわざとらしい仕草で胸に手を当てて、深くお辞儀をした。
僕はコーヒーを一口飲んだ。特に変わった味はしない。半分くらい飲み干したところで、急に包帯に包まれた方の腕がうずき出した。
「やっぱり何か変なものを」
腕が段々熱くなってきた。堪らなくなってもう一方の手で押さえながら、ミレイさんに助けを求めようとした。
「案ずるな。それは所謂、好転反応というものだ」
カウンターから声がした。ミレイさんは下にいるのかと身を屈めようとしたとき、カップに敷いてあったコースターに描かれた人物がこちらを見たのに気づいた。
「うわぁ」
僕は叫び、ポケットに手を入れた。
「私を恐れるのは心にやましいものを持つ者だけだぞ、少年よ」
赤い服を着た女の人が、厳しい口調で言った。
「あなたは……誰」
「私は「正義」の女神と呼ばれる者」
女神が答えた。
「それで、僕が何か悪いことをしたとでも言いたいんですか」
すると正義の女神は力強い目で僕を見た。
「それは自分の心に問うてみよ、少年」
悪いことなんてしていない。そう言おうとしたのに、口が動かなかった。
「どうした。反論しないのか」
女神の言葉に、僕はようやく口を開いた。
「僕は、捨てられたんだ」
すると女神は、ほう、と小さく言い、僕は続けた。
「母さんは僕を愛してくれなかった。だから僕は家を出て、本当に僕を大切に思ってくれる人を探した」
僕に声をかけてくれた人。どこにも行きたくないとナイフで体を傷つけると、みんな警察には告げずに家に置いてくれた。そして僕は何人もの女の人に。
「僕は被害者なんだ」
声を絞り出すように僕は言った。
「無関係だ」
ムカンケイ。女神の言った言葉が理解できなかった。
「お前が母親から受けたことと、お前が女たちにしてきたことは何の関係もない」
僕が分かりかねているのを察したように、女神は言葉を続けた。
「無関係って。そんな。だって母さんのせいで僕はこんなことを」
僕は腕の包帯を取った。それは切り傷だらけだった。
「女たちを脅すために、感覚のない左腕を自分で傷つけて見せた。それがお前が無実であることの証明だとでも言いたいのか」
僕の腕を見ても、正義の女神は心を動かされたような素振りは見せなかった。
「だってこの腕は、怪我をしたのにちゃんと医者に連れて行ってくれなかったからこうなったんだよ」
ネグレスト(育児放棄)の証拠だね。あいつは僕の腕に触れて、そう言ったんだ。
「君も分からない子だね」
女神の言葉に、僕を嘲るような色が混じった。
ムカつく。
「それは君の母の罪の証拠だ。君の犯した罪の証拠は女たちの中にある」
ムカつく。ムカつく。
(それは相手が許せなかったということかな。それとも、君自身がイライラしてしまったということかしら)
白衣の女の声。やめろ、僕を探るな。
(私に教えてくれるかな)
ムカつく。ムカつく。
(他者から受けた攻撃に対する怒りと自分の心の不安定さから来る苛立ちを区別できず、全てを「ムカつく」と表現し……)
うるさい。僕を探るな。
「罪を認めるか。少年よ」
正義の女神の顔に、白衣の女と、他の女たちと、今朝会ったの女の人と、母さんと、あいつが重なった。
「お前、ムカつくんだよ」
僕は動く方の手で、その顔にナイフを突き刺した。
「ソード・ブレンドはいかがでしたか」
ミレイが僕に聞いた。
「あんた、僕のことを知ってるんだ」
やっぱり全て仕組んでいたんだな。
「知り合った女性の家にしばらく滞在しては、お金を盗んで家を出ていく。そんな家出少年がいるという話なら聞いたことがあります」
ミレイは微笑みながら言った。
「何でもすごい美少年だとか」
ミレイの言葉に思わず僕は笑ってしまった。久しぶりに心の底から笑って、それからミレイにナイフを向けた。
「じゃあ知らないんだな。僕が人を殺したことを」
あいつの願いを叶えてやったのだけど、それが罪だということを僕は認める。正義の女神に馬鹿にされるのはもうコリゴリだ。
「確かにこの国では自殺幇助は罪に問われるからねぇ」
ミレイがまた笑った。今度は僕は笑えなかった。この女、知っているんだ。
「でもね。この〈カフェ・アストラル〉の中では、この国の法律は適用されないの」
いつの間にかミレイはカウンターのこちら側にいた。
「だから君が私を殺しても、罪にはならない」
やってみる、とでも言いたげに、ミレイは両腕を広げた。誘われるがままに、僕はミレイの胸に飛び込んだ。
「いや……ホントに刺さないでしょ、普通」
そしてミレイは、痛いよう、と子どもみたいな声で言った。
「お前のせいだからな。お前がやってみろって。お前が挑発したんだ」
僕の手が、母さんに奪われなかった方の手が血に濡れていく。自分の意思で動かせる手が、また人を殺してしまったんだ。
「でも下手クソだなぁ。また失敗するなんて」
驚いて顔を上げると、ナイフはミレイさんの腕に刺さっていた。
「また失敗って」
僕が聞くと、
「あなたが刺した人が病院で意識を取り戻したって。あなたは誰も殺していないの」
あいつは生きている。僕はあいつを殺していなかった。僕に殺して欲しいと頼んだあいつは、まだ生きている。
「また……あの人に会えるんだ」
呆然とする僕を、ミレイさんは抱き締めてくれた。
「あなたに謝りたいって言ってるそうだよ。自分のせいであなたを追い詰めてしまったって」
(君ってさ、綺麗な顔をしているねぇ)
ミレイさんの温もりが、あの人と重なった。
僕は……もう堪えきれなくなって、子どもみたいに……
十三夜
扉が開いた。客は無言で入ってきた。その目は虚ろで、ここがどんな店で、自分が何をしに来たのかさえ定かではない様子だった。
「いらっしゃいませ。〈カフェ・アストラル〉へようこそ」
すでに夜中の2時を回っているというのに、カウンターの中の女性ーー左の胸に付けた名札によると、ミレイという名前らしいーーは、疲れを微塵も感じさせない笑顔を見せた。
客はミレイに促されて、カウンターの前の椅子に座った。
「ウチにはブレンドしか置いていません。お客さまに合った配合を私が見立てて、淹れています」
客は相変わらず、無言だった。ミレイは軽くお辞儀をして、コーヒーの缶の並んだ棚の前に立った。そして、右手を胸の前で握ると、特別なそれに手を伸ばした。
ミレイは黙って、客にカップを差し出した。それは二口も飲めば空になってしまうくらい小さい。客はカップを取り上げ、口に含んだ。
……ほぅ
体に暖かさが満ちた。続いて頭も活力を取り戻した。脳が呼び覚ましたのは、思い出だった。幼い頃の両親、友人たち、初恋の人の微笑み、希望と挫折と、困難の日々。
カップには大きすぎる長方形のコースターの絵柄から、黒い服を着た人物が立ち上がった。フードから覗く顔は白く、まるで……
「我が名を告げてはならない」
それは語った。
「禁断の名を口にすれば、我はたちどころに勤めを果たさねばならぬゆえ」
それを恐れたわけではなかった。しかし、カップに残ったコーヒーを惜しんでそれの名を呼ばず、代わりに質問した。
「私のその時はどうだったのですか」
すると、それは答えた。
「皆がそなたを惜しんだ。だが、最後の時には感謝の言葉を口にしていた」
すると客は満足そうに、そうですか、と繰り返して言った。
「時間だ」
それは手にした冷たい煌めきを客に向けた。客は頷き、コーヒーを飲み干した。
ミレイはコーヒーカップを片づけた。このブレンドに名前はない。凝った名前を付けたところで意味がないからだ。
「週に何回かは淹れるけれど」
ミレイは客が座っていた椅子に目をやった。
「やっぱり慣れないな」
それからミレイはカップが収められた棚に視線を移した。そこには今夜、客に出したものと同じカップが置かれており、中にはコーヒーが半分ほど、飲み切らずに残されていた。
懐かしい闇
歩道橋の真ん中で私は屈んだ。走り続けたせいで息が上がってしまい、しばらく動けなかった。その間、誰も私を追いかけてくる様子はなかった。
やがて呼吸が整うと、私は目を開けて、耳を塞いでいた両手を離し、ゆっくりと立ち上がった。車が群になって絶え間なく流れていく。白い光と赤い光のどちらに身を委ねれば天国に行けるのだろう。ふとよぎった心の内の声に、私はまた耳を塞ぎたくなった。
「そんなことをしても無駄だ」
グロスを塗った唇から漏れたのは、確かに私の声だった。その声は私に、この世のどこにも私が逃げ込めるような場所はないのだと告げた。
「今はそうでも」
私は自分自身の言葉に抗った。そう、あの場所。教室の後ろから二番目の席。同級生たちと共有しながらも隔絶されていた空間。そこは私にもっとも相応しい場所だった。
高校一年の春。始業式の後に入院してしまった私が久しぶりに学校に来ると、すでに「ムラ」が出来上がっていた。私は他のみんなと適度な距離を保ちながら、そこに自分の場所を作り上げた。いわば村外れの魔女のようなものだった私と「村人たち」とは穏やかで良好な関係を築けていた、と思う。授業でグループを作るように指示されたときも、私はどこかに潜り込み、先生の指導の対象にならない程度にコミュニケーションをとった。そんな状況に私は不満はなかったし、「村人たち」も干渉してくることはなかった。あの教室には穏やかな無関心に依る秩序が保たれていた。
あの時までは。
少し元気を取り戻した私は、駅に向かって歩き出した。歩道橋を下りて、しばらく歩くと公園があった。道路との境に並んだ木の隙間から、緑色にライトアップされた噴水が煌めいて見えた。私は低い石垣に上って、噴水に向かって歩いた。すぐ近くに見えたように思えたその場所になかなか辿り着かず、引き返そうと思ったそのとき、目の前が開けた。噴水の色は赤く変わっていた。その手前に、黒い小さな建物があった。入口の扉の脇に置かれた黒板に書かれた「カフェ・アストラル」という文字が赤い光に染められていた。近づいてみると、中からコーヒーの香りがした。午後からほとんど何も飲んでいないことに気づいた私は、扉を引いてみた。中は真っ暗だった。
「あれ」
するとランプの明かりがぼうっと点り、若い女性の顔が周囲の闇から浮かび上がった。
「うわ」
滅多なことでは動じない私も、思わず声を上げてしまった。
「お化けじゃないですよう」
彼女は笑った。
「すみません。もう閉店でしたか」
本当に死人ではないのだろうか、と少しばかり疑いながら私が聞くと、
「いいえ。心を込めて営業中です」
その女性は気合いの入った居酒屋さんみたいなことを言った。そしてカウンターにもう一つランプを置いて、こちらにどうぞと私を招いた。
「じゃあ、なんでこんなに暗いんですか」
私はランプの前の椅子に座った。
「いま焙煎している豆は光に弱いんです。だからなるべく照明を落としているんです」
彼女──近くに寄ると胸に「MIREI」というネームプレートを付けているのが見えた──は答えた。
「明るいとダメになっちゃうコーヒー豆なんてあるんですね」
私が言うと、ミレイさんは意味ありげに笑顔を浮かべた。
「明るさというより、光の意思によって味が劣化してしまうのです」
また予想外の答えだ。私はどうリアクションをしたらいいのか、段々と不安になってきた。
「光に意思なんてあるんですか」
するとミレイさんは、
「もちろんです。むしろ人間にだけ意思が存在すると信じ込んでいることの方が不可解だとは思いませんか」
私の目をじっと見つめて言った。その目からはついさっきまで感じられていた愛らしい光が消え失せ、私は何と答えたらいいのか分からなくなってランプに視線を落とした。ガラスに閉じ込められた光がからかうように揺らめいた……ように見えた。
「よかったら焙煎したてのコーヒーを淹れましょうか」
ミレイさんの声に暖かさが点った。私が顔を上げると、
「お客様に合った豆を私が見立てて淹れることになっているのです。ちょうどこの豆があなたに合いそうですので」
そう言うと、お前もそう思うんだね、とミレイさんはランプに話しかけた。
ミレイさんがコーヒーを淹れている間、私は彼のことを考えていた。
彼は高校二年のときに転校してきた。父親の仕事で長い間ヨーロッパで暮らしていて、あとで知ったことなのだが、両親が離婚して母親と日本に帰ってきたのだった。そんな厄介な事情を抱えながら、クラス替えのなかった集団に途中参加するのは難しかったようだった。同じ場所に「村外れの住人」が二人。口を聞くようになったきっかけは、休み時間に私が読んでいた小説に彼が興味を示したことだった。
「漢字の勉強に読んでるんだ」
海外暮らしが長かった彼は、漢字の読み書きが苦手だった。なら私が教えてあげるよ、と本から目を離さずに何気なく言うと、
「よかったぁ。ぜひお願いします」
頬杖をついていた私の手を握って、彼は心底嬉しそうに言ったのだった……
「ベルティージュ・ブレンドです」
ミレイさんは巻き貝の殻のように捻れたカップを差し出した。
「ベルティージュ」
その素敵な響きを味わうように私が言うと、
「はい。フランス語で「めまい」の意味です」
その感慨を打ち壊すようにミレイさんは言った。
「何でそんな変な名前なのですか」
およそ飲食物にふさわしくない名前だ。
「「失神」ではさすがにお客さまにお出しするわけにはいきませんので、薄めてあるんですよ」
なぜか嬉しそうに笑いながら、ミレイさんは言った。
「それで。どうして私にめまいだの失神だのがお似合いだと思ったんですか」
私が聞いてもミレイさんははぐらかすように笑いながら、
「まあ騙されたと思って、まずは一口飲んでみてください」
胡散臭いことこの上ない台詞を吐きながら、ミレイさんは私に向かってカップを押した。
「危ないものじゃないですよね」
念を押してからコーヒーカップに口をつけた。その途端、私はめまいに襲われた。
(私としたことがこんなにあっさりと)
いつも過剰なくらい疑り深いくせに肝心なところで軽率なんだ、と、どこか冷静に自己批判をしながら、私はカウンターに突っ伏した。
「的確な判断ね」
耳元で声がした。顔をそちらに向けると、カップの下に置かれていたコースターに描かれいる顔のついた月が私を見つめていた。
「うわわ」
滅多なことでは動じない私も、さすがにこれには息が止まりそうになった。逃げ出そうにもめまいがひどくて立ち上がれない。
「無駄よ。この世のどこにもあなたが逃げ込めるような場所はないわ」
月は冷たく言い放った。
「今はそうでも」
私は月の言葉に抗った。
「思い出に逃げ込むつもりなの。そこから逃げてきたくせに」
月は私にそっくりな声で言った。月から青みを帯びた光が溢れだし、その中に歩道橋の上でうずくまる私の姿が映し出された。
「私は……逃げてきた」
月の見せる映像は逆再生を始めた。私は後ろ向きに走り出し、一軒の店のトイレの鏡の前に戻っていった。
「鏡に映った……私の……髪」
私の好きな黒くて長い髪を、彼も好きだと言ってくれたんだ。彼とは休み時間に話をするようになって。帰りに一緒に本屋さんに寄るようになった。
「これがあなたの自慢の髪」
月が見せたのは、茶色い短い髪だった。
「違う。そうじゃない」
私は目を閉じて、両手で耳を塞いだ。
周囲と馴染めなかった彼は、陰ではクラスの女子に人気があった。その恋人になった私は「人気者の彼女」という立ち位置でムラに迎え入れられた。私は望むわけでも拒むわけでもなく流されるようにクラスで一番華やかなグループに加わった。
(ホントはすごく可愛いんだから、地味にしてらもったいないよ)
夏休みになって、私は髪を切って染めてみた。私も彼も好きだった長い髪を。
ああ、めまいがする。
「でも楽しかったんでしょ。ずっと影の中にいたあなたが、キラキラしたところに出られて」
イメージチェンジした私を彼に見せるために、彼女たちが集まりをセッティングしてくれた。
「楽しかった」
私を見た彼は何も言わずに、私を見つめながら立ち尽くしていた。
「楽しくなんかない」
私は月に向かって言った。
「私は、光の中になんか出たくなかった。私はあの場所にいられれば良かったのに。休み時間の間は好きな本を読んで、お気に入りの黒くて長い髪をそのままにして」
「変わりたいと望んだのはあなた自身よ」
月は私の声で言った。
「そんなこと思っていない。私はずっとあそこにいたかったの。誰からも声をかけられない、光の当たらない闇の中に。今でもそう思ってる。あの闇……懐かしい闇に帰りたいって」
私は両手で耳を塞ぎながら叫んだ。
「ベルティージュ・ブレンドはいかがでしたか」
カップを下げながらミレイさんが聞いた。
「最低の気分だった」
彼女と目を合わせずに言った。ミレイさんは何も答えなかった。
「でも、自分が思っていたよりずっと流されやすい人間だって知ることはできた」
私はそう続けた。ミレイさんはカップを洗い始めた。
「月は人を惑わすもの。危険に導くとも言われています」
ミレイさんは話し始めた。
「でも、物事は危険と安全で割り切れるものかしらね」
私はミレイさんを見た。彼女は少し微笑んで、私に向かって言った。
「惑いには、本人の知らない一面を照らし出す力もある。私はそう思います」
私は店を出た。家に帰ろうと来た道を引き返して、歩道橋の上で彼を見つけた。
「ごめん」
私より先に彼が謝った。
「そのう、ちょっとビックリしちゃって。そうしたらみんなから、俺のリアクションのせいで君が傷ついたんだって言われて」
「そんなことないよ」
私の気持ちも知らないで勝手なことを。けれど、黙って店を抜け出した私が一番自分勝手なんだ。私は彼に謝った。
「家まで送っていくよ」
私は彼と手を繋いだ。
「ところで、何でここにいたの」
私が聞くと、
「ああ。ここから一番良く見えるから。きっと君はここにいたんじゃないかなって思って」
彼が目を向けた先を、私も一緒に見上げた。
そこには月が青みを帯びて、闇の中に浮かんでいた。
マダム・ソラル
僕がこの場所を見つけたのは、母さんと叔母さんと一緒にこのビルに来た時だった。その時は買い物と食事をして、館内図に「屋上庭園」と書かれているのを見ただけだった。何日か後、学校の帰りに一人でここに来た。屋上には花壇とベンチがあった。一回りしてみると、さらに上に行く階段を見つけた。それを上ると、僕の背くらいあるバラの植え込みに囲まれた空間に出た。真ん中にベンチが一つあって、僕の他には誰もいない。僕はそこに座って、30分くらい空を眺めて過ごした。
それから僕は、ときどきここに来るようになった。親も先生も友達もいない。僕が一人でいられる場所だった。だからここで思い切り泣いても、聞いているのはバラの花だけなんだ。
「ロマンチックなことを言うのね」
女の人の声がした。顔を上げると、黒い服を着た若い女性がいた。僕より十歳くらい年上だろうか。派手めのメイクをしていて、そのせいか芸能人のように見える。
「隣に座ってもいいかな」
僕は急いで一人分のスペースを空けた。「ありがとう」と言って、その人は僕の隣に座った。
「それで、何か悲しいことがあった?」
そう聞かれて、僕は恥ずかしくなった。誰もいないと思って、つい口に出していたのだろう。
「いえ……ただ、バラが」
綺麗な人に見つめられて、まともに頭が働かなくなって、思ったことを考えなしに口に出してしまった。
「薔薇がどうかしたの?」
その人は少し首を傾げた。
「あの……バラが泣きたくなるくらい綺麗だったから」
すると、その人は笑い出した。それまでの雰囲気と違って、子どもみたいな笑い方だった。
「……ごめんね。あなたがすごく素敵な感受性を持ってるって分かったから、嬉しくて、つい」
そして、今度は大人っぽい微笑みを見せながら、
「私はソラル。マダム・ソラルよ」
そう名乗った。
「あ、僕は桐山大志といいます」
僕も自己紹介した。
「それで、タイシ君は、気に入ったこの子を連れて帰りたいと思っているわけ?」
ソラルさんはバラのうちの一輪を、僕が特に目を引かれていた花を見ながら言った。
「いえ、勝手に折るなんていけないことですから。下の花屋さんで買って帰ります」
僕が答えると、ソラルさんは、ふうん、と言って、
「でもそれでは、別な子を連れて帰るってことでじゃない?」
まるで花泥棒を唆すように僕を見つめた。
僕は言葉に詰まってしまった。ソラルさんの言うことも一理ある。バラの話に絡めて、ものの考え方の本質的なところを問われているようにも感じた。
「なら……学校の帰りに毎日会いに来ます」
少し考えた末に答えた。ソラルさんはまた笑った。
「タイシ君って本当に純粋なのね。良かった、私の想像した通りの子で」
そして、ソラルさんは僕の耳元に口を近づけた。
「あなたがここに座っているのを見て、お話をしてみたくなったの。それで来たのよ」
吐息にバラの香りが微かに混じっていた。そんなはずはない。周りにここより高いビルはないから、僕の姿が他の場所から見えるはずないのだ。
「嘘だと思ってるのね、タイシ君」
ソラルさんの手が僕の頬に触れた。
「そう考えるのが普通だけどね、そうじゃないの。私は嘘をつかない」
ソラルさんは指先をあのバラに向けた。僕がそっちに目をやると、彼女は……僕にキスをした。
「私は「嘘」を「真実」に変えることができる。やりようによっては願いを叶えることができる、とも言えるかしらね」
ソラルさんは僕にバラの花を渡してくれた。
「あなたの願いはなあに? タイシ君」
気晴らしに外に出てみたものの、頭の中から目下最大の悩みごとは消えはしなかった。買い物をして、ハイパーチョコレートパフェを食べて、ヘッドスパを受けてみたけれども無駄だった。諦めて帰ろうと駅に向かう途中、公園の噴水の前に怪しい小屋があるのを見かけた。入口のそばに「カフェ・アストラル」とチョークで書かれた黒板が置かれている。パフェが想像していた以上に胃に重く、消化促進とお口直しにコーヒーを飲むのもいいかなと、私はお店に入った。
狭い店内は真ん中をカウンターで仕切られていて、こちら側に椅子が4つ置かれている。カウンターの向こうでは白いドレスを来た女性が本を読んでいる。ドアが開いても、私が目の前に座っても気づいていないようだ。
声をかけようと思ったけれど、大きな目を潤ませて、しきりに指で目尻を拭っている姿を見たら、邪魔をするのが悪い気がした。胸に「MIREI」という名札をつけたその女性は最後まで読み終えて、ティッシュで鼻をかんでから、
「うわ」
ようやく私の存在に気づいた。
「ええと、こんにちは」
私はミレイさんに挨拶した。
「はい、こんにちは……じゃなくて、すみませんでした……ああ、いらっしゃいませ」
カウンターにおでこを擦りつけるくらい頭を下げながらながら、ミレイさんは早口で言った。
「それで、コーヒーを頼みたいのですが」
私が言うと、
「はい。やっぱりそういう展開になりますよね」
ミレイさんは笑った。
「ええと、それじゃ、メニューを見たいのですが」
するとミレイさんは右手を自分の胸に当てながら言った。
「大切なものは目には見えないのです」
なるほど。若干無理やりではあるけれど、読んだばかり内容を突っ込んできたわけか。では、私はその大切なものを心で見ることにして、ブレンドを一つ注文した。
「ちなみに当店では、お客さまに合わせた豆の配合を私が見立てさせていただきます」
へえ、私の場合はどんなブレンドになるんだろう? 聞いてみたかったけど、返答は薄々想像がついたので、
「それじゃ、お願いします」
そう言うと、一瞬当てが外れたと言いたげな顔をしてから、ミレイさんは、しばらくお待ち下さい、と、愛らしい笑顔を見せてくれた。
「エトワール・ブレンドです」
羊の形をしたカップに、何の変哲もないコーヒーが入っている。
「パリの伝説の名店、カフェ・エトワールの定番です。これを一口飲んだ人はたちまちその虜となり、毎日のように店に通ったと言われています」
それはなかなか興味深い話だけど。
「それで、なんでそれが私に合っていると思ったの?」
私がカップを持ち上げながら聞くと、
「まあ試しに一口どうぞ」
ミレイさんはまた、愛くるしい笑顔で答えた。
客に合った配合を見立てたなんて話に、そもそも科学的な根拠はないのだから、あまり突っ込んでも納得のいく答えは得られないだろう。そう合理的判断を下して、私はコーヒーを口に含んだ。
懐かしい味がする。なんだろう、ずっと昔に口にした何かのような味。
「ねぇ、ミレイさん、これって……」
しかし、カウンターの向こうには誰もいない。
「味というより、人が外の世界に生まれて初めて感じる印象のようなものね」
どこかから声がする。カップの下からのようだ。ソーサーかコースターに音の出る仕掛けがしてあるのだろうか?
「合理的な考えねぇ。激甘のパフェを食べたら悩みが消えるだろうなんて思う人間の思考とは思えない」
その声にバカにするような色が混じった。誰だか分からないけれど、許せない。私は長方形のコースターを裏返してみた。
「ボンジュール、お嬢さん。ご機嫌いかがかしら?」
そこには大きな星と小さな星がいくつか、そして裸の女性が描かれていた。
「エトワール(星)」
思わず口からその名がこぼれ出た。
「ウィ、セ・モワ(そう、私よ)」
女性は私に向かって微笑みかけた。
「あなたがって……エトワールってその星のことじゃないの?」
薄型スクリーンか何かだろうか? カードの仕組みが気になりながら聞いてみると、
「ここに描かれているすべてが〈私〉なの。全てにしてひとつ、ひとつにして全てみたいな」
エトワールは答えた。
「そう」
私の興味なさげな相槌に、エトワールは不満そうな顔をした。
「あのねぇ。今あなたは生涯で二度と起こらないような神秘体験をしてるのよ。ちょっとリアクション薄すぎない?」
変に今風の口の聞き方をする女の人だな。女なのか、人間なのかさえ分からないけれど。
「ごめんね、冷めた性格で。ところで、さっき妙なことを言ってなかった? このコーヒーの味が、人間が最初に感じる世界への印象だとか何だとか」
ミレイさんの見立てと何か関係があるのかもしれない。そう推測して、私は聞いてみた。
「あなたは生まれてきた時、この世界をどう感じた?」
エトワールがまた妙なことを言った。
「生まれてきた時って……そんなの、何も考えてるわけないじゃない」
きっとエトワールは私の言葉に反発して嫌みったらしいことを言い返すだろう。そう身構えていると。
「人はね。生まれた瞬間から周りの世界を感じることができるの。生まれた時だけでなく、自分が生きてきた一瞬一瞬の世界の有り様をすべて」
人間ではない、何か神秘的な存在のような語り方だった。
「あのね……私はまさに、神秘的な存在そのものなんですけどね!」
エトワールは急にまたフランクな物言いに戻った。
「いえ、そんなことを言われても、生まれた時にどう考えたかなんて、やっぱり思い出せないんだけど」
私は苦情を申し立てた。
「だから、どう考えたか、じゃなくて、どう感じたかって聞いてるの。もう、分かんないヤツだなあ……」
素っ裸の女の人が腕組みをしながらプリプリ怒っている姿はおかしくてしょうがない。
「なに笑ってるのよ……もういいや。とにかく人はね、生まれた時に周りの世界に〈希望〉を感じるの。これから自分の生きていく世界に希望をね。そして、それを生涯胸の奥底に持ち続けるものなの」
にわかには信じがたいけれど、それじゃ私がコーヒーを飲んで感じたのは希望の味だったわけか。それはなんというか……
「納得はできないけど、そうであったらいいなって感じる」
心に浮かんだことが、いつもみたいに熟考を経ることなくそのまま口から出てきた。
「そう。その感覚、感じ方こそが〈希望〉」
人間は生まれながらにして希望を持っている。素敵な考えだな。私もそう考えられるようになりたい。だったら、彼への片想いも少しは……
「え?」
エトワールが微笑んでいる。
「思い出した?」
思い出すも何も。私は……
「エトワール・ブレンドはいかがでしたか?」
ミレイさんは私に聞いた。
「私はいつも希望を感じていた。なのに頭でいろいろ考えて、それを否定してしまっていたんだ」
私の独り言に、ミレイさんは何も答えなかった。
「私には好きな人がいるの。彼は同じクラスで、優しくて、笑顔がとても素敵な男の子。でもね」
「それは不幸なことだわ」
入口のドアが開いた。その言葉を放った黒い服の女性は、ミレイさんに似ていた。
「ソラル……どうして」
ミレイさんの顔が青ざめている。
「久しぶりねミレイ。相変わらずそんな子供だましみたいなことをしてるの?」
ソラルと呼ばれたその人は私の隣に座った。
「ねぇあなた。あなたは知っていたんでしょ? その子は楽しくて笑っていたんじゃないってことを」
「やめて、ソラル」
ミレイさんはソラルの言葉を遮った。
「知ってました」
だけど、私はソラルに答えた。
「悲しいときも、寂しいときも笑わなければいけないなんて、不幸なことよね。そんな嘘にまみれた人生なんて、私なら耐えられない」
ソラルが「嘘」という言葉を発した瞬間、ミレイさんが息を飲むのが聞こえた。
「ソラル。あなたまさか……」
ソラルはミレイさんに向かって微笑みながら、テーブルの上に置かれている、水の入ったグラスに花を挿した。
それは真っ赤なバラと、寄り添うように同じ茎から生えている青いバラの花だった。
真実の価値は
(出かけるわよ。早く支度しなさい)
お母さんの声だ。少し腹を立てているみたい。本気で怒り出す前に着替え終えて、階段を下りた。
(またその服ばかり着て。ああ、もういいわ。今から着替えてたんじゃ、いつまで経っても出かけられないから)
結局、怒られた。バスの中でも電車に乗ったときも、お母さんは口を聞こうとはしなかった。けれどデパートに着いたら機嫌が良くなった。私たちはエレベーターに乗って、子供服売場の階で降りた。
下を向いたまま手を引かれて行った。名前を呼ばれて顔を上げると、お母さんは二着の服を見せた。
(どっちがいいの?)
コーヒーの匂いがした。気がつくと目の前に、綺麗な女の人がいた。
「カフェ・アストラルへようこそ」
カフェ・アストラル? ああ、じゃあこの人はミレイさんだ。
「当店ではお客様に合った豆の配合を私が見立てて、オリジナルのブレンドをお出ししています……が」
が? なんだろうと思っていると、ミレイさんはカップを二つ置いた。
「どちらがよろしいですか?」
どちらかが当たりで、どちらかが外れ。片方に手を伸ばして、お母さんの顔を見た。それからもう片方を選ぼうとして、さっきの顔と比べる。考える時間はあまりない。早くしなさい、と怒られる前に、正解を選ばないといけない。
(こっちがいいな)
答えると、
(本当に? 本当にこっちじゃなくていいのね)
お母さんは念を押すように言った。
(うん、こっちがいい)
するとお母さんは背を向けて、
(こっちも可愛いのに)
ブツブツ言いながら、選ばなかった方を棚に戻した。
正解を選ぶことができて安心した。もし外れを選んでいたら、お母さんはたちまち機嫌を悪くしていただろう。
(いつも正解が分かれば、お母さんに怒られずに済むのに)
レジに向かうお母さんの後について行きながら、思った。
(どっちが正解だと思う?)
ミレイさんに気づかれないように、そっと言った。返事はない。自分で選ばなきゃいけないのか。
ミレイさんを見た。どちらが正解なのかを読み取ろうとした。
大きくなってからは間違えることはほとんどなくなった。正解を読む力が身についたおかげで、先生に叱られることは一度もなかった。友達とも仲良くやってこられた。
それなのに。
ミレイさんからは答えが読み取れなかった。
「赤いカップの方を」
すると彼女は、こっちですね、と軽くカップを持ち上げてから差し出した。
「ありがとうございます」
僕は笑った。彼女も笑いながら、
「どうしてこちらを選んだのですか」
そう僕に聞いた。
「カップが……僕の好きな色だから」
微笑みながら、僕はそう答えた。
「そうでしたか」
彼女はもう一つの青いカップを見た。
「でも、私はあなたに聞いたのではなかったのですが」
彼女はもう笑っていなかった。
失敗した。
その声は冬のすきま風のように冷たかった。
間違えたのだ。なんて迂闊な……もっと手がかりを見つけてから答えれば良かったのに。まるであの時のようだ。
あの夜、お母さんは聞いた。
(お母さんとお父さんのどっちと一緒に暮らしたい?)
お父さんにはずっと会っていなかった。お母さんと暮らしたいと答えようとして、それは正解でないことに気がついた。
「それであなたは、父親と暮らしたいと答えたのね」
ミレイさんとも彼とも違う声がした。カップに敷かれていた長方形のコースターが、いつの間にか裏返しになっていた。そこには白い服を着た女の人の絵が描かれていた。
「それが正解だったから」
そう答えると、女の人は目を上げてこちらを見た。
「正解とはどういう意味」
絵が動いている。悲鳴をあげそうになるのを堪えて、質問に答えた。
「お母さんがそう考えているのが分かった。だから正しい答えだった」
女の人は私を見つめ続けていた。
「本当にそうなの」
「そう……分かった」
お母さんはそう答えると、それきり何も言わなかった。正解を選んだおかげで、やっぱり怒られなかったのだ。
それから私はお父さんと暮らし始めた。お母さんと会うことはなかった。三年が過ぎたある日、学校から帰ると、家にお母さんがいた。
「あなたのお母さんが急な病気で亡くなったの」
その人はお母さんの双子の妹だった。お葬式にはお父さんだけが行った。しばらくして、叔母さんから私に宛てて手紙が届いた。
「本当のことを打ち明けようか悩みました。けれど、あなたももう大人なのだから、知る権利があると思ってこの手紙を書きました」
「それには何と書かれていたの」
白い服の女の人は穏やかな顔で聞いた。
「お母さんは……」
話そうとしたけれど、言葉が出なかった。いくら息を吸って声を出そうとしても、叔母さんが知らせてくれた本当のことが話せなくて。
私は悲鳴を上げた。
「やめてください」
白い服の女性に向かって僕は言った。
「彼女は苦しんでるじゃないですか。もうやめてもらえませんか」
僕は微笑みながら訴えた。
「けれど、あなたは笑っているじゃない」
彼女は僕と同じように笑いながら答えた。
「だってそれは」
その笑顔が恐ろしく思えてきて、僕は目を反らした。
「それは」
彼女は聞いた。いつもならその場を切り抜ける言葉がすぐに考えつくのに、何も浮かんで来なかった。
「なぜあなたは笑っているの」
彼女はゆっくり繰り返した。顔を見ると、もう笑ってはいなかった。まるで僕が可哀想だとでも言いたげな、悲しげで暖かい目だった。
「僕が悲しい顔をすれば、みんなは面白がってもっと悲しませようとするから」
僕は初めて本当のことを告げた。
(私のために自分を苦しめないで、大志くん)
赤いコーヒーカップの前に置かれたバラの花が、大志を見つめるように、花弁を彼に向けていた。
「だけど……こんな……」
大志は顔を伏せた。
(叔母さんの手紙には、お母さんは自殺したのだと書かれていました。叔母さんが駆けつけたときにはまだ息があって、こう言い残したそうです。「私はあの子に捨てられてしまった」と)
「それが「真実」?」
白い服の女性が聞いた。
(多分、私は間違ってはいなかったと思う)
大志は顔を上げて、バラを見た。
「どちらと暮らすか聞いたときに、お母さんは私をお父さんに預けたかったのだと思う。自分の力で私を養うのはもう無理だと感じていたのだと」
「だけど、お母さんが君と一緒にいたかったのは嘘じゃない。そんな嘘をつく必要なんてないじゃないか」
大志は叫ぶように言った。
(私はね、大志くん。選ぶことを求められたときは、どちらかが正解でどちらかは外れなんだと思っていた。友達とどこに遊びに行くか聞かれたときも、男の人から告白されたときも)
声が途絶えた。大志はいつものように笑って場を取り繕おうとして、やめた。
「それで、真実は?」
白い服の女性は聞いた。
(絶対に正しい答えなんてものはない。いえ、ほんとはあるかもしれないけど、正解を見極めようとすることに心を砕いて、人の言葉や気持ちにちゃん向き合わないなんて馬鹿げてる)
白い服の女性はバラの花に両手を伸ばした。
「なら、正解が分からなくても、そんなものを探すよりも、分からないままで他の人達と一緒に生きたいと、あなたはそう願うの?」
彼女は答えた。
「そう。だって私は人間だもの。美しいだけのバラの花ではなくて、人間だから」
「エンジェル・ブレンドはいかがでしたか」
ミレイは聞いた。
「ミレイさん、聞いていいですか」
大志が言うと、ミレイはどうぞ、と頷いた。
「結局、赤いカップと青いのの、どっちが当たりだったんですか」
「まだ分かんないの、大志くん」
大志の隣に座っている赤い服を着た女性が答えた。
「三花さんは気にならないの」
大志は不満そうに言った。
(あらゆるものは調和の上に成り立っている。節制を心にとめて生きよ)
あの白い服の女性はそう言い残して消えた。
「考え過ぎるのもほどほどにってことだよ」
三花は大志の頬をつついた。
「ちょ……やめろよ」
大志が顔を背けるのを見て、三花は笑った。
「けれど、コーヒーに関しては絶対不変の真実があるのですよ」
ミレイは独り言のように言った。
「それはなに?」
三花は聞いた。大志も知りたいと言うように頷いた。
「それは、ですね」
ミレイは焦らすように咳払いをして、答えた。
「美味しいのが一番、ということです」
カフェ・アストラル