箸についてと彼女の脳内
「てかお前さ、箸の持ち方が汚いんだよね」
これは、私が彼に言われた最後の悪口であった。
言いたいことは山ほどあった。今さら言うなよとか、ずっと我慢してたのかよとか、それくらいのことで別れるの?とか。しかし、私はもうそんな反論の気力もなく、ただ悲しみと後悔だけをエネルギーにして、その場に立ち尽くすのみだった。後悔というのは決して、箸の持ち方を正さなかった事に対しての後悔ではない。そんなことも受け入れられないような彼と時間を共にしてしまった事に対する後悔だ。
箸の持ち方についての議論は、こと食事においての場面では頻繁に遭遇する。恐らく、それは私の箸の持ち方が普通とは違うからだと思うので、普通の人よりはたくさん、箸についての話をしていると思う。そういった時に、いわゆる箸の持ち方が普通な人というのは、私に対してあからさまに怪訝な顔をしたり、バカにしたような半笑いで指摘したりしてくるものだ。ここではっきり言ってやりたい、正直言ってお前ら、糞食らえ!と。本当に言葉通りに糞でも食らっていてほしい。良かったな、そのお綺麗なお箸のお持ち方でなら糞も多少は旨く感じるだろ、せいぜい食中毒には気を付けろ良識人間どもめ。
話が逸れてしまった。私は暴言ならいくらでも言えるんだ。そんなことはいい。
往々にして世間というのは、特にこの日本という国においては、"人と違うことはいけない"という意識が強すぎる。学校に行かない子供は問題児、仕事ができない人間は社会のゴミ、箸の持ち方が汚い私は人間性や家庭環境まで疑われる始末。もはや理解が追い付かない。なぜわざわざ苦痛な学校なんてところへ出向いて築きたくもない上辺だけの人間関係を築かねばならないのか。
人間なんてみんなバラバラで、どうしても合わない環境やシステムがあって当たり前。偶然、学校や仕事というシステムがその人に合わなかったというだけでなぜ社会からおいてけぼりにされるのか。私は、偶然、箸を使う文化に合わなかっただけだ。それでどうして人間性まで疑われなければならないのか。
こんな事を言うと反論したがる人も居るだろうが、みんな、バカなんじゃないのか?自分と違う相手を認める、という至極簡単な事がどうしてできないのか。(これも、私はそういう人間を認められてないという矛盾になるのだけど)
彼が私に箸の持ち方を指摘するなら、私にだって彼が非良識的な部分があることを指摘できる。咀嚼するときに口を開けてくちゃくちゃと音を鳴らすこと、外から帰って靴下を脱がずにベッドにあがること、専用で用意したものを使わず私の高いシャンプーを勝手に使っていたこと、思い返せばきりがないほどある。それらを私は、心の広い広い私は、"個性"だとして受け入れて彼を愛していたのだ。それに対しての感謝もなく、自分の事を棚にあげて人を貶すところ、これも非良識的な彼への指摘だ。
愛は、与えただけ返ってくるものだと思っていた。実際は違った。愛はお金で買えないと言うけれど、つまりは愛はお金と同じだったのだ。与えれば与えただけ、その人間の蓄えになる。その人間に、愛を貢いでいるに過ぎないのだ。もちろん、例外もあって、与えた愛がそのまま、むしろそれ以上になって返ってくることもある。ギャンブルのようなものだ。今回私はそのギャンブルに負けたのだ。それだけのこと。
箸の持ち方について悪口を言われただけで、こんなに考え込んでしまった。つくづく重たくて嫌な女だ。もういい、もう今日は寝てしまおう。彼の頭皮の臭いが染み込んだ枕に頭を沈める。心地よい香りだと思っていたけど、今はもう不快なだけ。愛なんてそんなものだ。
私は明日、この臭い枕を早急に洗濯して、憎き箸は全部捨てると決意した。
箸についてと彼女の脳内