スタンド・バイ

【後祭#0】 スタンド・バイ

======= 前置きここから。
本作は、競作企画「【後の祭り】After Carnival of "the PISTON"」に参加しています。
企画って何? って方は↓に詳細ありますのでご参照ください。企画とか採点とか興味ない方はスルーOKです。
http://bbs10.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=GOHAN&mode=view&no=44
======= 前置きここまで。

以下、執筆の狙いです。
※ネタバレ含みますので、注意ください。

9

8

7

6

5

4

3

2

1

0

今回、描くのに苦心したのは、上記にある『主要登場人物を一人殺す』ってお題について。
僕的解釈としては、殺人事件だとか殺し合いとかってことじゃなくて、思い入れのある登場人物の消失ってとこに拘りたかった。ストーリーラインは我ながら月並みだなあと思いつつも、読者が「喪失感」を共有できるようにするにはどうしたらいいか?ということを悩みながら描くと、この長さになってしまいました。本当はもっと短くしないといけないのですが、現状コレが限界です。
正直、色々描き足りないなあという思いもあるのですが、とりあえず今の精一杯ですので、今後に向け、忌憚なきご意見賜ればありがたいです。

■1.果たして僕は冷たい人間なのか

 実の姉を不慮の事故で亡くしたばかりだというのに、涙も出ないどころか僕の胸の内には悲しみという感情の欠片もありはしないのだ。
 姉の死因が、自転車で転んで頭を打って、むくれたまま夕飯はしっかり平らげたあとで今日はけったくそ悪いからもう寝るわと日も暮れきれぬ内から寝床へ転がり込み、そしてそのまま目覚めなかった、などというなんとも間抜けなものであるからか?
「おお、アキラ」
 否。それだって一人の肉親の死には違いない。
 死とは何か? 死が悲しみの根源たるゆえんは、亡くなる、という言葉が示す通りに一人の人間の消失なのであり、その事実なくして悲しみという感情もまた生まれないものなのではないか?
「なんと冷たいやつなのか」
 そう、僕は決して冷たいやつなどではない。
 ……だってそこにいるからだ。死んだはずの姉が。

「おお、アキラ、わが弟よ、最愛の姉を失ったというのに、お前の頬には涙の一つも流れぬのか」
 舞台の真ん中でスポットライトを独占する主演女優よろしく大仰な嘆きのポーズをとって見せる姉に僕は一体何をどうしたらよいのか、その答えはまだない。
「そんなこと言ったってさ」
 まあ、早い話が、姉は俗に言う幽霊というやつになってしまったらしいのだが、どう見ても化けて出たって感じはしないのは本人の資質によるものなのか、その答えもまた、まだない。
 話を元に戻そう、事の顛末はこうだ。
 中二の一学期が始まってまだ何日も経たないある日、職員室に突然呼び出しを食らった僕を待っていたのは、姉の訃報だった。
 姉は持病その他、明日にも死んでしまいそうな要素とは全く無縁だったから僕は正直、棺に収まった姉の遺体を見るまで、いや、お通夜が終わって一旦帰宅してからもなんだか半信半疑の心持ちだった。押し黙ったままの両親の態度も何か悪い冗談のような気さえして。
 なんだか気持ちの置き場所を見つけられないまま、とりあえず一人になりたくて自分の部屋のベッドへと寝転がった、その時だった。
「あーやっぱり死んじゃったのかな、私」
「へ?」
「よっ」
 僕の傍らに立つのは死んだはずの姉……生きてる? いやいやいや、さっきまで棺桶の中にいた人は誰?
「ゆ、幽霊?」
「足は生えてるよ、ほれ」
 ……確かに、足は二本ちゃんとある。いや、しかし。
「なんかさ、飛んだりはできないみたいなんだよね、でさ……」
 と言いかけてすうっと薄くなった姉の姿へ手を伸ばしたその刹那、僕の背後にまたすうっと現れる姉。
「なんかさ、気合入れないとすぐ消えちゃうみたいなんだよね」
 唖然としたままの僕が言葉を取り戻すまでには数分の時間が必要だった。

「よーするに、姉ちゃんには死んだという自覚が足りないんだよ」
「なにそれ」
 姉の姿は、どうやら僕にしか見えないらしい。そのことは両親も含めて誰にも言ってない。てか言えない。別に僕が隠さなければいけない理由はどこにもないわけだけれど、死んだ姉の姿が僕には見えると他人に語ったところで頭がおかしいとか思われるだけだろう。いや本当におかしいのかもしれないけれど。とにかく、僕が辿り着いた結論は「とりあえずほっとくしかない」だった。
「こんなところに居ないで、虎兄のところに出てやればいいじゃん」
「ダメみたい、見えてない」
 虎兄というのは姉の彼氏だ。いやもう姉は死んだのだから元カレと呼ぶべきなのか。いやまあ今はそんなことはどうでもいい。
 信じる信じないは別にして僕には姉が見えてるってこと、虎兄には話しておこうとしたのだ。けど、その点については姉は頑なに反対した。
「なんで?」
「消えちゃうかもしんないじゃん」
「わかるの?」
「そーいうわけじゃないけど……なんとなく」
「なんだよそれ」
 正直、僕も虎兄にうまく説明する自信はない。そして言えずじまいのまま、はや三ヶ月が過ぎようとしていた。


■2.虎兄と僕の放課後

 放課後。帰宅部の僕は時間を持て余して校庭を見下ろす土手でダベるのが半ば日課になりつつあった。
 グラウンドでは運動部の連中が練習に汗を流していて、それをただなんとなく眺めているだけの僕。
 別に野球やサッカーに特別思い入れがあるわけでもなく、それぞれのボールを追いかける連中を目で追うだけのことなのに、気が付けば日が暮れるまで眺めていることもあった。
「おう」
「ああ虎兄、おかえり」
 そうそう、もう一つ。虎兄もまたここの常連なのだった。虎兄は近所の植木屋さんに勤めていてここは帰り道からはちょっと逸れてるけど、僕がここに居座ってるのを知ってから、ちょくちょく寄り道してくるようになった。とはいえ、僕ら二人の話にいつもいつも花が咲くというわけでもなく、むしろ二人とも無言のまま夕暮れを迎えることの方が多いくらいだった。
 眼下のグラウンドでは野球部がフリーバッティングを始めたところだ。サードに立ってるのは同級生の斉藤らしい。帰宅部仲間だった斉藤が、野球部の部員不足で引っ張られたというのも僕がヒマを持て余している要因の一つだ。斉藤の一つ上の兄は野球部のキャプテンなのだが、先月主要メンバの二人が相次いで転校するという事態に陥り、弟を半ば強制的に駆り出したってとこだ。
 カァン、といい音がして強烈なライナーが三塁線を襲うや否や、斉藤は横っ飛びでボールを捉える。ナイッ、サー、と声がかかりドヤ顔の斉藤がこちらをチラリと見て親指を立てた。
「あいつ、うまいな」
「うん」
 確かに斉藤は野球に限らず世間で呼ぶところのスポーツ万能というやつで、他の運動部からも勧誘されてるようだけれど本人はどれも乗り気じゃないと断っていたらしい。今回も夏の大会までの期間限定ってことで渋々了解したって言ってたけれど、実力的には三年生レギュラーと遜色ないレベルに見える。
 虎兄は缶コーヒーを掌で弄びながら、ぼそりとつぶやいた。
「悲しくて胸が痛いって言うだろ? あれ、本当にいてーんだな」
「そうなの?」
「おう。時々こう、キューっと締め付けられるみてえにさ」
 僕は何て答えて良いかわからず、さっき飲み干したばかりの缶コーヒーにまた口をつけた。
「あんまりいてーからよ、病院行ってみたんだけどさ、何ともねえとさ」
 虎兄はずっと手に握ったままだった缶コーヒーをようやく開けると、一口啜って続けた。
「てか今でも信じられねえ。笑えるだろ? もう三ヶ月も経つのにな」
「まだ三ヶ月だよ」
 何が「まだ」なんだろう? 
 自嘲的な薄笑いがなんか虎兄らしくないなって思ってつい反射的に口にしてみたものの、自分で言っておいて何だか違和感が残った。虎兄は黙ったままボールの行方を目で追っていた。姉も虎兄が居るときはほぼ無口だ。
 カンと響いた音が奇妙な沈黙を打ち砕いた。打ち損ねられて歪に変形したボールが変な弧を描いてこちらに飛んで来る。ちょうど虎兄の手前へ着弾して浅く跳ねたボールを虎兄が右手でキャッチするのと僕があぶねっと叫んだのがだいたい同じくらいだった。
「痛くねえの?」
 ボール片手にケロっとした顔の虎兄に僕は一応聞いてみた。
「軟球だろ」
「素手だよ?」
「大げさ」
 すみませーん、と叫びながら、斉藤が土手を駆け上がってくるのを手で制した虎兄は、いきまっせぇーと大げさに左腕を振り回すと、斉藤目掛けて投げ返した。
 空気を切り裂くような豪速球が、すっぱーん、と心地いい音をさせて斉藤(弟)のグラブに飛び込んだのを見て、よっしゃあ! とドヤ顔の虎兄。二人の視線が一瞬交錯するのをポカンと見つめてる僕、そして姉。
 斉藤は僕の視線に気が付くと、ありがとーござーまーっす! と叫んで一礼するや否や、ダッシュでグラウンドに駆け戻っていった。


■3.関中野球部の明日はどっちだ

 次の日の朝一、僕は斉藤に呼び止められた。なんだか顔が赤くて息も荒い。よせ、僕にはそういう趣味はないぞ。
「あの人誰だよ?」 
「え? もしかしてお前も見えるの?」
 姉のことかと勘違いした僕の抜けた返事に一瞬怪訝な表情をした斉藤は、じれったそうに言葉を改めた。
「ほら、すげえ球。投げてた人!」
 ああ、虎兄のことかとようやく理解できた僕は、興奮気味の斉藤に、俺の渾身の一球を初見でキャッチするとはなかなか見どころのある野球少年だと絶賛していたぞと伝えると、斉藤はチラッとまんざらでもなさそうな顔をした後で自分の質問の答えが得られていないことを思い出した。
「で、誰だよ?」
「姉貴の彼氏だよ。近所なんだ」
「コーチ頼めないか?」

 斉藤の申し出は唐突ではあったが、野球部の実情を考えるとまあわからなくはない。野球部の顧問だった(と言うか今でもそうなのだが)香川のじーさまは腰痛で入院したままもう半年になる。復帰の目途は立っていない。
「野球部って今顧問どうしてんの?」
「一応代理はオバちゃんらしいけど」
「……ああ」
 国語の尾畑、通称オバちゃんは野球どころかそもそもスポーツになんか縁はなくて図書館で毎日赤毛のアンとか若草物語とか読んでそうな文学少女がそのままオバちゃんになってしまったような風情のまごうことなき由緒ただしいオバちゃんだ。オバちゃんは確か文芸部の顧問のはずだけど、今は部員らしい部員はいないからじーさまの代理を押し付けられたってとこだろう。
「完璧ドシロートだし、話にならねえよ。てかそもそもグラウンドに来ねえし」
 斉藤いわく、実情は主将たる斉藤(兄)がプレーイング監督兼ヘッドコーチ体制ってことでなんとか凌いでいるものの、それでいーじゃんというわけにはいかなくて、当然ながら主力メンバの一員である斉藤(兄)自身の練習ができないってことがチームとしてはかなり致命的なことだってのは、素人の僕にも何となく想像できる。
「兄貴、自分では言わないけどさ、結構気にしてるっぽいんだよな」
 斉藤(兄)は、学校でも指折りの有名人だ。文部両道、成績は学年十傑の常連で品行方正、野球部主将で生徒会長、ついたアダ名はサイボーグ。文部省推薦はまだもらってないが、教師陣どころか保護者連にまでその名が轟いている。寡黙というより無愛想なのと野球バカ過ぎるのが玉にキズか。
 弟たる斉藤も決して出来は悪くないのだが、まあ絶大に評判の良い兄(しかも在校生)と比べられるのは嫌なものだろう。帰宅部だった弟を半ば強引に野球部に入れたのは、それまでバッテリーを組んでた二人が揃って転校したからその穴埋めだ。本当は学習塾に行かせたい両親に「武の勉強の面倒は俺がキッチリみる」とまで言って説得したそうだ。
「なあ、頼むよ」
「うん、まあ」
「ってか、俺でダメなら次は兄貴が自分で来るぞ多分」
「げ」
 半ば脅すような口調になった斉藤の顔と、弟と寸分違わぬ形をした斉藤(兄)の三角眉毛とか脳裏で重なり、僕は一瞬背筋が凍りそうになる。
「い、いやわかった。とりあえず話してみるよ」
「頼んだぞ」
 始業のチャイムが鳴り、斉藤は自分の席に慌てて駆け戻った。

 その日は、虎兄は仕事が忙しかったのか日が暮れても遂に姿を現さなかった。半分ほっとしたようなすっきりしないような気持で帰宅した僕の後ろを当たり前の様に部屋まで付いてくる姉と、なんかすっかりそれに慣れ切ってしまった僕。まあどのみち夜半には適当にどこかへ「外出」してしまうから、僕としても邪険に追い払う必要もないのだけれど。
「そう言えば、姉ちゃんって居ないときってどこに居んの?」
「わかんない」
「意識がないってこと?」
「うーん、意識がない、ってわけじゃないんだよね」
 姉の話をまとめると、なんというか、何も見えない。強いて言えば白い霧に包まれているようなそんな感じらしい。
 何も見えないってのもそれはそれで何か嫌だよね、と僕は聞く。
「正確には、それでいて、なにか緩い風というか穏やかな力の流れ、みたいな感覚があるんだよね。それに身を任せるとなんだかほんのり心地よくて、ああどうやらこれがあの世とこの世の狭間にある緩衝地帯みたいなものなのかあとか考えながら居眠りしそうになるわけ」
「そしたら、ここに着いたってこと?」
「逆。なんかね、遠くの方で聞き覚えのする声とか音とかして。あんただけじゃなくてお父さんとかお母さんとか虎ちゃんとか。でもウトウトしてるとそれがどんどん遠くなっていって、それでなんかもういいやって気分になってきて、そこではっと気が付いたわけ」
「何を?」
「あ、これ、流れに逆らってみたらどうなるんだろう? って」
 ああ、わが姉ながら死してなお飽くなきその探求心には脱帽してしまう僕。
「で、さ、いざ逆らおうとすると地味になかなかしんどいっていうか重いのよね」
「ほうほう」
「するとさ、コッチもさなんだか『負けるかよっ!』て気分になるじゃん」
「……そういうことにしとくよ」
「で、だんだん声が聞こえやすくなると、白い霧だったところがちょっとだけ薄くなったみたいな感じがあってさ、そこをくぐると」
「ここに出る、と」
「そう」
 姉の言うことが本当なら(まあ嘘をつく理由もないけれど)、それってこの世に未練があって成仏できないってやつなのでは? と僕は少々心配になったのが、当の本人が言うにはそういう意識はないらしい。
「そうは言ってもさ、親とか彼氏とかに心残りとかってあるでしょ?」
「まあ、ないって言えば嘘になるけどね、お母さんが位牌の前で泣いてたりするのはちょっと申し訳ない気もするし。でも、もう死んじゃったんだし、ゴメンねって言ったところで何にもならないし、化けて出るほどのこととまでは思わないよ」
 ちょっと淡泊すぎるような気もするけれど、姉の淡々とした語り口からは作為的なものは感じなかったから、まあそういうもんなのかな、と僕も抵抗なく頷けた。
「ほかの場所には出られないの? 別のところを潜ったら虎兄の部屋に出たりしないの?」
「何度か試してみたんだけど、今のところ無理っぽい。ここに出て歩いて行くのはできるんだけどな」
「なんか色々面倒くさいね」
 まあね、とため息ついて姉は僕が開けたままのドアから部屋の外へ出て行った。別にドアでも壁でもすり抜けられるらしいけど、僕がドアを閉じたなら姉は朝まで部屋の中には来ない。それが彼女なりのお作法なのであるらしかった。


■4.獲得交渉

 翌日、夕暮れ前に現れた虎兄に僕は例の話を切り出した。
「あ、あのさ」
 虎兄に気が付いた斉藤(弟)が、僕に向かって手を振って急かす。僕の不穏な態度に虎兄も何かを察したようだった。
「どうかしたか?」
「野球のコーチしてほしいんだって」
「だめだ」
 ケンもホロロに即答、これはなかなか予想外だ。僕はそもそもダメモトで聞いてみる以上のつもりも予定もなかったのだけれど、ちょっとばかり面食らった僕は、思わず食い下がった。
「な、なんでさ?」
「なんでも」
 連れなく首を振る、こんなに愛想の悪い虎兄は初めて見た。交渉が難航している様子を察したのか、斉藤が土手を駆け上がって来……いや、あれは斉藤(兄)!
「不躾で申し訳ありません、関中野球部の主将、斉藤と申します」
 脱帽と同時にスパッと一礼しつつ、斉藤(兄)の声には毅然とした精神とか魂のようなものが宿っている。大抵の人間はこの時点で萎縮しそうな切れ味の声色だ。
「大井です。大井虎獅狼と言います」
 しかし、虎兄も全く動た様子は見せない。
「大井さん、失礼ですが、野球のご経験者ですよね?」
 単刀直入というかストレートど真ん中の斉藤(兄)。
「ああ、高校までやってたよ」
「どうか俺たちにコーチつけてもらえないでしょうか! おねがいします!」
「いや、悪いけど」
 斉藤(兄)の息を付かせぬ速球ど真ん中攻撃をサラッと返す虎兄。
「おねがいできませんか」
 なおも食い下がる斉藤(兄)、しかし虎兄の表情は崩れない。
「俺、もう野球はやめたんだ」
「……」
 虎兄の有無を言わせぬ迫力に、あの野球サイボーグもとい斉藤(兄)が気圧されている! ……いや感心してる場合じゃないか。
「いや、ほんとにすまねえ。堪忍してくれ」
 そうですか、とついに折れた斉藤(兄)に虎兄は軽く会釈すると、じゃ俺帰るわと自転車に跨り去っていった。
 一人になった帰り道、考えようによっては当初の目論見通りの筈なのに何故か不安でたまらない僕は藁にも縋るような気分で姉に助けを求めた。
「姉ちゃん、どうしよう?」
「ばーか、人にはそれぞれ事情ってもんがあるでしょ。本人がやりたくないって言ってるんだからしよーがないじゃん」
 そう、あなたは名うてのアッサリストでした。忘れていました。ごめんなさい。
「まあ、でも」 
「え?」
「なんでもない、じゃおやすみ」
 姉は何か言おうとしたかのようにも見えたが、そのまま部屋を出て行きその日は戻って来なかった。


■5.鬼コーチと豆大福

 翌日の夕方、まだ明るい内、幾分バツの悪そうな顔をした虎兄がグラウンド……を見下ろす土手にやって来た。
「昨日の今日で、なんなんだが。俺で良ければ、やらせてくれないか?」
「やめたんじゃなかったの?」
 そのつもりはなかったけど、言った後で少し意地悪に聞こえたかも知れないと思いちょっと後悔した。
「いや、いいんだ」
「いいんですか?」
 虎兄の姿を目ざとく見つけて土手上まで猛ダッシュしてきた齋藤(兄)が、期待を込めた眼差しで虎兄を見つめる。
「ああ、よろしく頼むよ」
「ありがとうございます!」
 気色悪いほどの満面の笑みを浮かべる齋藤(兄)。……こんな顔するんだ? と実の弟が呆然としていた。

 虎兄のコーチはちょっと独特で、齋藤(兄)をはじめ野球部の連中はしばしば呆気にとられているようだった。
 まあもちろん、腕はこうやって捻って捻り戻すんだとか、体重移動がどうとかそういう技術的な指導もそれなりにあるのだけれど、走り込みとかの基礎練を一切しないことと練習時間が短いことは素人目にもかなり異質だった。まだ全然明るいうちに今日はこれまで、と切り上げてしまう。さすがに三日目、齋藤(兄)が恐る恐る異議を唱えたが虎兄はそれを一蹴した。
「走り込みや筋トレは暗くなってからでもできるだろ?」
「そうですが……」
「やりたい奴は好きなだけやれ、けどな、そんな体力を残そうと思うな、もっと死ぬ気でやれ」
 あ、という声が漏れそうな顔をした齋藤(兄)の顔と、似たような顔でぽかんとしている野球部員たちを見比べながら、にこりともせずに虎兄は口を開いた。
「わかったか」
 何と答えてよいのかわからず沈黙する野球部員たちに、虎兄が吠えた。
「わ か っ た か?」
 ハイッ、と飛び上がりそうな声がグラウンドに響いた。

 しかし、あんなにツレなかった虎兄が、一夜にして態度を一変させたことに僕は合点がいかなかった。……そう、心当たりはひとつしかない。
「何にもしてないわよ。でも、ちょっと興味あったからさ、覗いてみたんだよね」
 姉の答えは期待外れだったが、僕は一応念を押す。
「それで?」
「なんか昔のビデオとか見てたわよ。野球の詳しいことはわかんないけど高校野球の試合みたいだった。ずいぶん熱心に見てた、ずっと」
「それで?」
「そんだけ」
「そんだけ?」
「うん、そんだけ。私も隣で一緒に見てたけど、何がどうとかって感じじゃなくてふつーの試合に見えたけど」
「そのビデオは姉ちゃんが見せたりしたとか? 棚から落っことすとか」
「まさか、私、何も触れないし、動かしたりもできないんだってば」
 うーん、謎は深まるばかりだ。まあいいか、野球やってるときは虎兄も元気だし。

「おい! ボールが落ちてくるのは1km先じゃねえ! 勝負は10m先のボールが取れるかどうかだッ! チンタラすんな!」
 今日もグラウンドには虎兄の怒声が響き渡る。内心、たかがコーチ一人で何か変わるのかとも思っていたのだけれど、虎兄の存在はそれまでただグラウンドに居るだけの集まりだった連中を、なんだか本気で部活に打ち込む野球少年たちにすっかり変えてしまった。
 斉藤(兄)は火の出るような打球に飛びつき泥だらけのまま嬉々としてもう一本! とか催促してみたり、その弟に至ってはゲッツーの練習に余念がない。部外者面して見ているだけってのがちょっともったいなくなるような。いや、わしはその手には乗らぬぞ。と思いつつも結局毎日最後まで練習に付き合ってしまうのだった。
 練習帰り、斉藤がボソッとつぶやいた。
「でも、部外者がコーチって、いいのかな」
「オバちゃん、グラウンド来ねえじゃん」
「だから余計にさ」
 要は、顧問はグラウンド不在のまま、どこの誰かわかんない人間が野球部のコーチとして毎日グラウンドに通ってくるってことに他の教師たちや親たちから何か言われたりしないのかな、ってことを心配しているようだった。
 僕は別にそんなのどうでもよくね? くらいにしか思ってなかったけれど姉はそれを否定した。
「あ、それは先手打っとく方がいいかもね。オバちゃんはともかく、白木とかにばれたら面倒かも」
「白木って教頭の?」
「げ、あいつ教頭なんだ? ますますヤバいじゃん」
 あいつほんとどーでもイイことばっかりチクチクガミガミうるさかったのよね、おお神よ迷える野球の子羊達を守り給え、と姉は瞼を閉じ天を仰いだ。
「どうすんの?」
「正直に話せばいいじゃない、近所の兄ちゃんに野球のコーチ頼みましたぁ、て」
 天上の神への祈りをささげたまま、姉はあっさりと言い切った。
「ダメだって言われたら? OBでもなんでもないし」 
「そーならないように速攻でオバちゃん懐柔しろってことよ」
 お子様ねえ、と姉は鼻で笑うと、ようしそなたに秘策を授けよう、と尊大に踏ん反り返った。
「オバちゃんとこにね、虎ちゃんが、手土産とか持ってってさ、ヨロシク頼んます! ってそれでイチコロよ」
「手土産って?」
「んー、やっぱ大福星の豆大福かな」
 そんなもん? と訝しがる僕に姉はそんなもんよと胸を張り、オバちゃんには抹茶と普通のと二個ずつにしなよ、と釘を刺した。

 翌日、僕の進言という形で姉の入れ知恵を受け入れた虎兄は、よしじゃあ速攻だと言うが否や、ノッカーを斉藤(弟)に押し付けて自転車ですっ飛んでいった。
 十五分ほどで戻った虎兄は、部員たちの顔をざっと眺め回して、斉藤(兄)をオバちゃんへの伝令に指名した。
 ハイッと返事も歯切れよく職員室へ駆けていった斉藤(兄)が、しばらくしてオバちゃんをグラウンドに連れて来るのが見えると、皆は笑いを噛み殺すのに必死になった。意気揚々と歩いてくる斉藤(兄)と、その後ろを不安そうにうつむき加減でトボトボと付いてくるオバちゃんはまるで鬼軍曹と捕虜みたいでひどく滑稽だ。
「オバちゃん、兄貴みたいなタイプ苦手なんだよな」
 斉藤も口の端を噛みしめ、込みあがる笑いを堪えている。
 まあ確かに押しが強い相手に萎縮しちゃうってゆっか、逆らう術を知らない、そんな感じではある。
 ベンチ前で、オバちゃんを出迎えた虎兄が鬼コーチの顔のまま、はじめまして大井と申します! と声を張り一礼すると、オバちゃんはビクッと背筋を伸ばした。心臓が止まりそうな顔で硬直しているオバちゃんに、虎兄はつまらないものですが、と例の秘密兵器を差し出す。そして鬼コーチはどこへ行った? と言いたくなるような人懐こいスマイルでの追撃。えっ、あっ、まあこんなものまで、と一気に顔が綻ばせたオバちゃんが籠絡されるまでにはさほど時間はかからなかった。


■6.遅れて来たルーキー

 キャプテンと話があるから先に帰っとけと言う虎兄を残して、僕は斉藤と一緒にグラウンドを後にした。
 まだ夕暮れというには浅過ぎるくらいの明るさだけれど、これがすっかり当たり前になっている。
 斉藤もグラウンドを存分に走り回って、口先ではあーキツイわ疲れたと言ってはいるものの、その顔はいい汗かいたなあ系の充実感に満ちており、僕は眺めているだけの自分にちょっとじれったさを感じるほどだった。帰宅部こそが健全な中学生の放課後の過ごし方なのだと力説していた斉藤はどこに行ったのだ。
「オバちゃん、最近よく来るよな」
 僕の問いに、斉藤は、自販機で買ったスポドリを一気飲みした後で、え、知らねえの? と言いたそうな顔で答えた。
「オバちゃん、職員会議で教頭のツッコミをキッパリ撥ね付けたらしいぜ」
 あのオバちゃんが白木に噛みつくなんて、それは確かに事件であるな。
「いまどき、あ、あんな素晴らしい青年いませえん! みたいな感じじゃね?」
 斉藤のモノマネがオバちゃんの口調に激似すぎて腹を抱えて爆笑する僕をどうどう、と宥めて斉藤は三角の眉をちょっと寄せた。
「あとさ、練習試合やるらしいぜ」
「そうなの? いつ? どこと?」
「今度の日曜。青葉中」
 まじかよ、と僕は一瞬斉藤が冗談を言っているのかと疑った。青葉中は割と近所だが県大会でも優勝候補の一角を占める私立の強豪校だ。
「監督がウチのOBってか、オバちゃんの元教え子らしいぜ」
 これだから素人は困るんだよなあ、喜んでるの兄貴とコーチだけじゃん。と口を尖らせる斉藤。
 いや、そもそも君たちにはもっと切実な問題があるではないか。
「てか、人数足りないだろ?」
「お前が入れば九人ギリだよ」
 えっ、とその展開は予想してなかったので僕はうろたえた。
「公式戦は? 九人じゃ登録できないだろ?」
「足りねえ分は、適当に名前貸してもらうってさ。兄貴がクラスで声かけたら何人かは集まるだろ」
 まあ確かに。じゃなくて。
「だからいーじゃん、やろうぜ」
「気楽に言うなよ」
「どーせ暇じゃん、毎日見に来てるし」
「まあそうだけど」
 図星を突かれた僕が窮すると背後でジリリとベルの音がして、振り向けば満面の笑みを浮かべた虎兄と背後でその場駆け足の斉藤(兄)。やだこの二人コワいとか軽口を漏らす隙もなく、虎兄が言い放った。
「うんよしお前もやれ」
 まじかよ、と言いかけた僕の視線を躱すように、虎兄は傍らの斉藤(兄)に目配せした。
 焦った僕は姉に救いを求めたものの、この姉と来たらニヤリと笑ってサムアップ。なんだその笑顔、くっそ覚えてろと胸の内で僕が毒を吐くのを気にも留めずに虎兄は念を押した。
「いいよな? キャプテン」
 斉藤(兄)がその場駆け足のままウッスと短く応え、それで話は決まった。


■7.ワンダーウォール

 日曜、ろくすっぽ練習もしないまま九番ライトで絶対強制問答無用でスタメン出場した僕だったが、勝負どころでエラーでもしたらどうしようかなどという心配は全く杞憂に終わった。
 僕が素人離れした意外な活躍を見せたから、ではもちろんなくて、そんなもんは全く関係ないとばかりの勢いでわが関中の自称唯一無二の不動のエースケミさんこと検見川さんは心が圧し折れるほどの連打を浴び、コテンパンにボロ負けしたからだ。
 三回裏ノーアウトで20対0となったところで、名目上は監督であるところのオバちゃんを置き去りにして虎兄は相手ベンチへ小走りで駆け寄ると、それがまるで二人の間の約束ですらあったかのように青葉中の監督と二つ三つ言葉を交わしただけであっさりとコールドゲームとなった。
 もちろん僕のところにもそれなりに打球は飛んできたのだが、結局僕がボールに触るのはそれが僕の頭上を高く飛び越えてフェンスに跳ね返った後のことだったし、一度しか回って来なかった打席も、三振するまでに何球かかったか程度の違いしかなかったから、僕のヘタクソ加減を責められる心配はする必要がなかった。
 青葉中の監督はグラウンド整備が済んだ早々に部員を集め何かを少し話していたものの、数分もしないウチにさっさと引き上げて行った。

「全然食い足りねー、って感じね」
 姉は、そのままランニングで帰って行くらしい青葉中の連中を口笛交じりに見送ると、無言で素振りを続ける虎兄の背中を興味深げに見つめた。
 不安気な顔で虎兄を遠巻きに囲んだ僕らは、虎兄の真意を測りかねてただ沈黙を守ることしかできない。
「落ち込んでるヒマねえぞ。実力はようくわかったろう」
 怒鳴るとか愛想突かすとかそういうやつではなく、虎兄が楽し気に笑ったのを見て、姉も満足そうに頷いた。
「うっし、じゃあやるか」
 虎兄は、斉藤をキャッチャーに指名しマウンドに立つと、肩慣らしに何球か投げた後で、斉藤を座らせ徐に振りかぶって渾身の速球を叩き込んだ。スパーンといい音をさせてキャッチャーミットに飛び込んだボールを握ったまま、斉藤がウわいってェと情けない声を漏らすと僕らもつられてクスクスと笑いを漏らしたが、虎兄はそんな僕らを一瞥してピシャリと言った。
「ヒトゴトじゃねえぞ、お前ら順番に受けるんだよ、次! 検見川!」
 ケミさんは突然のご指名にビックリして飛び上がったが、さっさとしろと目で促す虎兄に気圧されすごすごと斉藤と交代しキャッチャーミットを構えた。ケミさんは二球弾いて三球目になんとかキャッチ成功したところで交代。結局僕らのうちでまともに虎兄の豪速球を取れたのは斉藤兄弟だけだった。僕に至っては五球連続でミス。ミットに当てるのが精いっぱいという有様だった。
 一巡したあとで、虎兄はニコリともせずに言い切った。
「明日からフリーバッティングは止める」
 えっ、と言いかけた僕らを目で制して虎兄は、説明を続けた。
「代わりにシートバッティングにする。カウント付きで一人二打席ずつ、全員俺が投げる。キャッチャーは全員持ち回りだ、いいな」
 有無は言わさんという顔で皆を頷かせると虎兄はよし今日は解散と言ってそのまま自転車に跨り帰っていった。

 翌日から、虎兄の剛速球を相手に僕らの奮闘が始まった。最初はこんなん打てるわけねーよと皆不平タラタラだったのだけれど、二三日もすると少しづつではあるがそれなりにバットが追いつくようになり、十日もしないウチにほぼミスせずに捕球できるようになっていた。僕を除いては。
「コーチさ、あれタダモンじゃねえぞ」
 帰り道、ちょっと嬉しそうに話し始めた斉藤へ、たしか、高校では一応エースだったとか言ってたと僕は告げた。
「そういえば高校ってどこなんだろ? 地元じゃねえだろあの人」 
「九州の……隈なんとか実業って言ってた」
「隈部川実業?」
「ああ、うん、確かそれ」
 隈実のエース? まじかよ? と斉藤は目を丸くしていたのが、最近の高校野球では見かけない名前なので昔は強かったんだろうなくらいに僕は考えていた。それよりも、そんな強豪校でエースだったはずの虎兄がなんで野球をやめたなどと口にしたのか、そのことの方が気になった。
 本当に止めたのなら、あの時だって斉藤へあんな球を返さずに素人のフリしたって良かったはずだし、何といってもグラウンドに居るときの虎兄はとても楽しそうで、ドッグランを駆け回るワンコ並みに溌剌としている。まるで姉のことなんか忘れてしまったみたいに。

 ある日、僕は遂に我慢できなくなり、練習の帰り道、斉藤と別れたタイミングを見計らって虎兄に声をかけた。
「なんで、もう野球はやめた、なんて言ったの?」
 後ろから姉が、やめなさいよ、と口を挟む。だが僕は聞こえないフリをした。もちろん虎兄にもその声は届かない。
「それ、答えないといけねえか?」
 虎兄の表情がさっと曇って僕は一瞬躊躇したけれど、よくよく見ればそれは何か不機嫌な顔というより何か改まった儀式にでも臨む時のような顔に見えた。
「じゃ、……てゆっかさ、なんでコーチ引き受けたの?」
「やめなってば」
「野球やらねえってのは俺の都合だもんな、お前らにも野球にも責任ないよな」
 イマイチよくわかんないな、という気持ちで黙っている僕に、まあいいか、と軽くため息をついた虎兄は誰にも言うなよと釘を刺して昔のことを話してくれた。 
 虎兄は所々話しにくそうではあったが、要点をまとめると、タバコを吸ってた下級生が実は不良グループに脅されていてそれを庇って暴力沙汰になってしまった、ということらしい。
「それって虎兄が悪いの?」
 ばーか、理由は何にせよ手出したら悪いに決まってんだろ。と虎兄は一蹴した。
「不祥事により、出場停止。隈実野球部の夏はそれでオシマイってわけだ、そりゃ立つ瀬ねえよ」
 でも、と言いかけた僕に虎兄は言葉を続ける。
「確かに、アイツが何かタバコ臭えな、と気が付いた時にだって俺が知らねえフリ決め込めば、何も起きなかったかもしれねえ」
「でも、見過ごせなかったんでしょ?」
「そうさ、だから俺は後悔してねえっ……て言い切れたらもちっとラクなんだけどな」
 と苦笑いをした虎兄をじっと見つめている姉。何か言いたそうだけれど、もう何も言わなかった。少しの間奇妙な沈黙が続き、僕はそれを無性にかき消したくなり言葉を続けた。
「……なんで殴っちゃったの?」
「まあ俺も最初は我慢してたさ、でもまあなんちゅうか」
 と言葉を濁した虎兄に焦れて僕は、でも? と問いただしてしまった。
「グラブ、蹴られた」
 叱られた子供みたいな声でボソッと呟いた虎兄の言葉の奥には怒りの残り火がまだ在った。
「ウチの親父さ、野球なんかやってねえで勉強しろ、の一点張りでさ、お袋がよ自分の出稼ぎ分からコッソリ買ってくれたんだよな。結構イイやつなんだぜこれ」
 確かに、使い込まれてはいるけど丁寧に手入れがされてるグラブだってことは僕にもよくわかる。
「だからって、俺が手を出したってことは事実で、それで他の奴らも巻き込んだってことも事実だからな、それは言い訳できねえ」
「ごめん」
「いいんだよ、昔のことだ。グラブも磨いてばっかじゃかわいそうだしな」
 何か俺もちょっとスッキリしたわ、と笑う虎兄。黙ったままの姉と僕。
「ところで、お前こそなんか隠し事してねえ?」
 いや、そんなことないよと言いかけた僕を遮って、虎兄は断定した。
「時々、響さんと話してるだろ」
「気付いてたの?」
 姉が慌てて首を振ったけれど、もう遅い。
「やっぱそうか、目線とかなんか変だから気になってたんだよなぁ」
「そんなあっさり信じられるもんなの?」
「ほんとにそこにいるのか?」
 いかん、すっかり昔の虎兄の顔に戻ってしまっている。
「信じるか、信じないのか、どっちなんだよ」
「だって信じられないだろフツー」
 そりゃまあそうだけど、と僕が言葉を濁すと、虎兄は急に真顔になった。
「でも、いるんだろ。そこに」
「いるわよ」
「いるよ」
 僕越しに姉の姿を見ようとする虎兄の目線を外すかのような勢いで虎兄の背後に回り込む意地の悪い姉。もちろん虎兄は気が付かない。
「なんか変な感じだけど……まあいいや」
 そりゃそうでしょうよ、と言いたいのをぐっとこらえたら、僕は何だか可笑しくなった。つられて虎兄が笑うとその背中で姉も笑った。三人で笑い転げながらいつの間にか涙が止まらなくなって、通りすがりのオジサンとワンコが僕らを怪訝そうな目で見ながら早足で去って行ったこともほっといて僕らはあたりがすっかり暗くなってしまうまで泣きながら笑い続けた。


■8.はかなさのしくみ

「練習の前に、来月の大会に向けたオーダーを発表する。見直しをするかもしれないが、まずはこのオーダーを意識して各自練習に臨め」
 いいな、と虎兄が区切るとすかさずハイ! と声が揃う。だいぶ仕上がってきた感じはあるよなあと僕は上から目線でいい気分に浸る。
 発表されたオーダーで、僕が九番ライトなのはまあ順当として、ちょっと意外だったのはキャッチャー一筋のフクさんこと福田さんを一塁にコンバートしたことだ。どうみてもキャッチャー体形だよなと疑ったこともなかったが、虎兄いわくキャッチャーはガタイじゃねえ、ということらしい。代わりは、
「キャッチャーは斉藤(武)。打順は二番だ」
 やっぱ俺っすかみたいな顔をしながら斉藤がちょっと大げさにハイと声を張ると、虎兄は頼んだぞと声をかけた。
「次、大会の抽選結果だが、キャプテン」
 虎兄がちょっと勿体ぶって斉藤(兄)に振ると、一斉に皆がそちらを向いた。
「相手は、青葉中だ」
 一瞬、ざわっとしたものの斉藤(兄)が相手に不足なし、と口端を吊り上げるとなんだかよーしいっちょやったるか的な気分が皆の間に広がった。ここ一月、虎兄の剛速球を打ち込んできたっていう自負もある。以前の僕らとは違うってとこみせてやろうじゃねえの、っていつの間にか感化されてしまってる僕。まあいいか。

 練習の帰り道、斉藤と別れた後で虎兄がボソッとつぶやいた。
「響さん、いまそこに居るのか?」
 前を歩いていた姉がぎょっとして虎兄を振り返る。もちろん虎兄には見えない。
「いるけど、どしたの?」
 まあ成り行きで通訳するしかない僕。
「いや、響さんが成仏できないのって、もしかして俺のせい?」
 ぶんぶん、と首を振る姉。どう訳したらいいのかわからない僕。
「もしそうなら伝えてくれ、俺のことは心配すんな、って」
 更に激しく首を振る姉。
「いや、聞こえてるっぽいけど、なんか違うっぽいよ」
「じゃあ何なんだよ? 未練があるから幽霊なんだろ?」
「未練とかじゃないってば」
 痺れを切らしたのか姉が口を開いたが、もちろん虎兄には聞こえない。
「未練ではないそうです」
「私のことは早く忘れて、いい人探せよっ」
「私のことは早く忘れて、いい人探せよって」
「えっ、そんなのいやだー!」
 舌の根も乾かぬ内にダダをこねる姿は、鬼コーチと同じ人物とは思えない。
≪ねえ、虎兄と話する方法とかないの? ≫
 僕は声に出さずに姉に問いかける。そう最近分かったのだが、姉と会話するのに声を出す必要はないのだ。
「さあ? そうそう、どうやらあの世は存在するらしい。大発見!」
「あの世は存在するそうです」
「は? 何だよそれ」
「彼岸、ってやつね」
「ヒガン、ってやつだそうです」
「ヒガン?」
 まあ、要は川を渡った先ってことでそこを越えるともう元には戻れないらしい、って話をしたところで虎兄はそんなのイヤダーと地団駄を踏み始めたが、姉は無視して話を続けた。
「とはいえ、一方通行なら声は届くらしいのよね。もちろん返事はできないけど」
「彼岸にも声は届くそうです」
「えっほんと?」
 僕は意図的に後半を省略したが、まあ良いだろう。
「やり方は色々あるみたいだけど、結局は本人の意思次第ってとこね。アイコンまあ遺影とかお墓とかそういうのがあると良いんだって」
「遺影とかお墓に向かって強く念じれば届くそうです」
「そうなんか?」
 まあ、本人の意思が強まれば対象は何でもいいらしくて、月とか星とかでも良いってことらしい。
「つまり、星に向かって叫べは話ができるってことだな!」
 違う……と思ったが、意気揚々と去っていく虎兄を引き留めるだけの気力は僕には残っていなかった。

 帰宅後、僕は気になっていることを姉に聞いてみた。
「彼岸、の話って」
「なに?」
「何でわかるの?」
 お、なかなか良い質問だな、と笑った姉は丁寧に教えてくれた。
「こないだ、他の人に会ったのよね。オジさん……って言ってもまあ普通死なないよね、くらいの歳だったけど」
 その人いわく、彼岸はこの霧のさらに奥にあり、三途の川越しに現世もよく見渡せるらしい。彼岸への渡し舟はそれなりには混んでいて、待ってる間に聞いたところによれば、一旦渡ればももう戻れない、ってことらしい。大抵の人間は得体のしれない白い霧を彷徨うのに疲れ切っており、今更引き返そうって人の方はまず居ないらしいけれど、その人はどうしても自分の妻と娘に会いたいからと流れに逆らい戻っていったそうだ。
「ま、一言で言えば現世への執着ってやつなんだよね。そーいうのまあなんだか理解できなくはないけどさ、わたしはちょっとそれとは違う気がするのよね。化けて出たところで何もできずにオバケ扱いされるのが関の山だし」
 そう言いながらも姉は、自分でも腑に落ちない、そういう顔をしているように僕には見えた。
「たぶん姉ちゃんさ、自分が執着しているものが何なのか、それ自体がよくわからないんじゃないかな」
「うん、そうなのかもしれない」
 ふう、と深いため息をついて、また明日、と腰を上げた姉を僕は引きとめた。
「虎兄ってさ」
「虎ちゃんがどしたの?」
「本気で信じてるのかな?」
「何を?」
「姉ちゃんが見えてるってこと」
 ああ、そんなのわかんないわよ、と姉は笑い飛ばした後で不意に黙り込み、しばらく考え込んだ後で割と真面目な顔をして言葉を続けた。
「きっと、それはどっちでもイイことなんじゃないのかな」
「そうかな?」
「そうよ」
「あのさ」
「どしたの」
「なんだかさ、姉ちゃんとこんな風に話したことってなかった、なって」
「なにそれ、ま、死んでからの方が身近に感じるって皮肉よね、じゃ、オヤスミ」
 姉が出て行った後のドアをぼんやりと眺めながら僕は、当たり前のことだと思っていたものがある日突然簡単にはじけ飛んで消えてしまうってことの意味を少しだけ分かりはじめた。


■9.決戦

 ついにその日はやって来た。県大会の一回戦。相手は因縁の青葉中。
 緊張した僕は集合時間の一時間も前に球場へ到着してしまったが先客がいた。虎兄だ。
「まあ、やれることはやったさ。自信持て」
 虎兄はそう言うものの、正直僕の胸の内としては不安がないわけじゃない。それを察したのか虎兄は口笛でも吹きそうな調子で軽口を叩いた。
「確かに、相手のピッチャーもそこそこいい球投げてたけどな、俺の球よりマシだろ?」
 たしかに、と僕がうなずくと、虎兄は、だろ? とニカっと笑った。

 斉藤(兄)はいつも通りにジャンケン無双っぷりを発揮し、先攻を取った僕らの試合の滑り出しはまずまず好調と言えた。先頭の高橋が開始早々センター前にクリーンヒットを放ち、ニ番の齋藤も三遊間真っ二つの当たりで続く。ノーアウト一、二塁。
 三番のケミさんもいい当たりだったけどショート真正面でゲッツー。四番はわれらがキャプテン斉藤(兄)。四球狙いと見せかけて一二塁間をキレイに抜いた。ツーアウト一、三塁で五番フクさん。フルカウントからファールで粘るも最後はピッチャー強襲から惜しくもアウト。
 ドンマイ、と声を掛けたキャプテンに無言で会釈したフクさんは、足早にベンチに駆け戻るとファーストミットをひったくるようにしてまた一塁へと駆けていった。
 一回の裏、自称絶対無敵不動のエースケミさんの立ち上がりは上々。緩急織り交ぜなんと三者凡退。
 二回表、遂に僕へと打順が回って来た。ツーアウト、ランナー二塁。
 初球からガツガツ行け、って虎兄のアドバイス通り、僕は思い切りよくフルスイングしたものの豪快に空振り。ちぇっなんだかカッコ悪いなと思いつつピッチャーを睨むとあれれなんだか渋い顔。なんか気に障ることをしたかなと思いきや、今度はキャッチャーとのサインがなかなか決まらない。首を振ること四回にしてようやくまとまり、二球目は外角へのボールになる緩いカーブ。僕だってこんなのに釣られるほど素人じゃないぞ、とばかりに悠然と見送る。うん、前回と違って球が見える。まあ虎兄の剛速球に比べたら確かに打ち頃の球でしかない。
 三球目、露骨にカウント稼ぎに来たような甘いボールに僕は遠慮なく食らいつく。カキンと音がしなければ空振りしたのかと錯覚するほど感触は軽かったけれど、ボールは打った僕自身がびっくりするような鋭い弾丸ライナーで三遊間を抜けていった。夢中で一塁を駆け抜けた僕は調子に乗ってガッツポーズなんかしっちゃたりして、歓声に沸くベンチに応える。
 ランナー一人帰ってなおツーアウト一、二塁。続く一番の高橋はちょっと力んだかショートゴロに倒れたものの、二回にしてまさかの先制点だ。これはなかなかの展開だ。いける、活気付くわれらが関中ベンチ。監督のオバちゃんもキャプテンが生徒会から引っ張ってきた追加メンバーの女子二人と一緒に大はしゃぎだ。もっともオバちゃんは試合開始からスゴいしか言ってないし、書記の佐伯はスコアブックつけるのにいっぱいいっぱいで邪魔するなと言わんばかりだし、副会長の小西センパイが一人でしゃべりまくってるってのが実情ではあるけれど。まあ細かいことは気にしないでおこう。

 序盤の快進撃もつかの間、追加点をなかなか稼げないままイニングは進んでいった。五回に斉藤のタイムリーでやっともう1点取ったものの、裏に逆転され2対3。
 くっそ、皆そこそこいい当たり出てるんだけどなあ、と斉藤が漏らす。
 確かに毎回ヒットは出るものの、なかなか点数にはつながらない。ベンチに広がる焦燥感。
「残塁、多すぎです」
 佐伯が焦れたような口調でぼやくと、スコアブックをひったくるように奪い取った小西センパイが不甲斐ない僕等にハッパを掛ける。
「そうよ、アンタたちしっかりしなさいよ!」
 うむ、と短く答えた四番キャプテン斉藤(兄)一言のみでいやーな沈黙に支配される関中ベンチ。へーいわっかりましたあ、と痺れを切らしたケミさんが軽口を叩くが不発に終わる。まだ勝負はこれからだ気を抜くんじゃねえ、と虎兄が諭したものの嫌な感じの汗が拭っても拭っても止まらない。

 七回表、ワンアウト一、二塁から七番の松木が意表をついてスリーバント狙いってのが裏目に出てツーアウト、八番の長谷部はカットで粘ってフォアボール。二死満塁で僕に四回目の打席が回って来た。ここまでの成績は初回のヒットのみであとは凡打。今度こそ最後のチャンスだ。これはなかなかおいしい場面だなあと冷静を装うも僕の小心はそれくらいではごまかされないのであった。
 ラクニイケー! と斉藤がフォローしてるのは耳には届いたがそのまま頭を素通りしていく。いや、まいったなどうやら僕はアガっているらしい。落ち着け、と自分に念じながらバッターボックスに入るものの胸の動悸ばかりが気になって仕方がない。
「でんれーでーす」
 突然背後からの間の抜けた姉の声にビックリした僕は、思わずタイムを取りボックスを外す。
 何だよ急に、と僕はスパイクの紐を直すフリをしながら、声に出さずにうつむいたまま姉を問い質す。
「息してないぞ、って」
 はあ? という僕の心の声を掻き消すように姉は吼えた。もちろん僕にしか聞こえない。
「ちゃんと呼吸しろ! 吸って、吐けッ!」
 ああ、先日虎兄に習った呼吸法のことだと僕はようやく思い出し、言われたとおりに息を大きく吸い込み、ゆっくり吐いて止める。うん、確かに動悸は止んだ。
 気を取り直してボックスに戻った僕は、もう一度呼吸をやり直しピッチャーを睨む。向こうだって苦しそうな顔には違いない、根性の悪さなら負けないぞ。ねらい目は? コイツは苦しくなるとカーブで誘いに来るクセがある。ボールになるかならないかの際どいコースに投げ込んで来るけど、その気になれば打てない球じゃない。誘いに来たら初球から思い切り行こう、と心に決めた直後、来た! カーブだ。僕は迷わずバットを引き絞った。
 やや振り遅れ気味だったか感触が悪いのも構わずにボールを擦るように振り抜くとボールはへしゃげたまま弧を描きながらセカンドの頭上を越えライト線ギリギリに着弾した。そのままスライス回転で外跳ねしてファウルエリアを転がるボール。線審がコールしたのがフェアなのかファウルなのか聞こえないまま僕は夢中で一塁を蹴る。二塁の手前で三塁へと滑り込む長谷部がチラリと目に入り僕は二塁へと滑り込む。三塁で塁審がセーフと声を上げ、関中ベンチも歓声が爆発した。満塁からまさかのタイムリーニ塁打で同点。続く一、二番も連続フォアボールで押し出し逆転。七回裏を迎えて四対三。打順は六番から。これはいける、勝てる。この時、皆が等しくそう思った。
 よっしゃオレの時代が来た! と鼻息荒くマウンドに登ったケミさんは先頭をセカンドフライに打ち取ってワンアウト。続く七番、ファウルで粘った後引っ掛けてサードゴロだったのを勇んでカットしたケミさん、だがこの後がいけなかった。気が焦ったのかファンブルして内野安打。続く八番も初球をピーゴロに仕留めておきながら、ファーストへの送球が逸れワンアウトでランナーニ、三塁。絶対絶命の大ピンチを招いたのが自分の独り相撲だってことに流石のケミさんも動揺したらしく、遠目にも心なしか足取りがフラついたように見えた。
 ショートのポジションからキャプテンがタイムと叫び、内野陣がマウンドに駆け寄る。外野からは遠くて聞こえないけれど、キャプテンがケミさんに何か声を掛けているように見えた。交代するのかどうか決めかねているようにも見えたけど、突然キャプテンが声を上げ手招きをした。外野陣も来いってことらしい。
 僕らがマウンドに駆け寄ってもうなだれたケミさんとキャプテンを中心に皆口を閉ざしたままだった。
「検見川。どうするか、自分で決めろ」
 沈黙を破ったのはやっぱりキャプテンだった。
 ケミさんは、しばらくうなだれたままだったけれど、やるよ、最後まで任してくれと言い切って顔を上げ、キャプテンはよし、お前に任した。と笑った。
 キャプテンが駆け出すや否や僕らも一斉に散り、皆が自分のポジションへと戻ったのを見届けてキャッチャーの斉藤がしまっていくぞぉ! と声を張り上げた。
 落ち着きを取り戻したケミさんは九番バッターを三振に取り、ツーアウト。
 迎える一番バッターは今日四の三と当たっている。斉藤が、ベンチの虎兄とショートのキャプテンをチラっと見たが二人とも顎を短く縦に振っただけだった。
 ツーアウトぉ! とコールした斉藤はど真ん中にミットを構えた。ケミさんはサイン一発でそのままストレートを叩き込む。バッター見送りワンストライク。二球目、外角低めに外れそうなボールに手が出てファウル。あと一球! と斉藤が叫んで頷くケミさん。しかし続く二球は何れも外角へのボールを見送られカウントははツーエンドツー。
 徐にタイムを取った斉藤はマスクを外して額の汗を拭い、再び構え直してよっしゃ来いと叫んだ。主審からプレイ、の声がかかり小さく頷いたケミさんは突然大きく振りかぶると、渾身のストレートを叩き込んだ。
 刹那、キィンと高い音が響き、鋭い打球が横に飛び込んだキャプテンのグラブの先を掠めるように左中間へ抜けていった。


■10.We are such stuff as dreams are made on.

 ナイスゲーム、と虎兄が笑顔で出迎え、口惜しさで胸を一杯にする筈だった僕らの出鼻を挫いたのは、仁王立ちのまま号泣するオバちゃんのブサイクな泣き顔だった。いや、まあ一応監督なんだと思い出してはみたものの、いやいやだからってそんなに泣かなくてもいいでしょうと皆が心を一つにするほどの豪快な泣きっぷりに、完全にタイミングを逸した僕らは込み上げる笑いを必死に堪えつつキャプテンのテキパキとした指揮のもとさっさとグラウンド整備を済ませて撤収した。
 終わってみれば結局一回戦負け。でもなんか終わったって感じはしない。むしろこれから楽しいことが始まるみたいな。いやいや、僕はこの試合限りの助っ人なんだけど、でも何か名残惜しいようなまだ物足りないようなそんな不思議な気持ちでいっぱいになった僕は、しばらく球場に居残って観客席からグラウンドを眺めていた。
 帰らねえの? と声をかけてきた斉藤に僕はうんまあとあいまいに返事をしただけで、斉藤が差し出したスポドリを半分ほど一気に空け、はあーっと大きく息を吐いた。
「なんだよそのため息」
 呼吸しただけだ、と僕は言い張った後で、気になっていたが皆の前では口に出せずにいた言葉を口にした。
「野球部は、解散すんの?」
「だろうな」
 意外と素っ気ない斉藤の返事に僕はちょっと怪訝な顔をしてしまったらしく、斉藤は弁解するみたいな口調で話を続けた。
「だってさ、三年生が抜けたら残り六人しかいねえし、一年もゼロだし」
 今時、野球部ナシとかありえなくね、と僕が毒づく。
「まあ狭いグラウンドの取り合いが減るって、サッカー部と陸上部は手ぐすね引いて待ってるだろうしな、なるようにしかならねえよ」
 僕はきっと不満げな顔をしていたはずだが、僕が口を閉ざすと斉藤もそれ以上続けようとはしなかった。

 次の試合をほぼ無言で見届けてから岐路についた僕らは、駅で斉藤(兄)を見かけた。試合後に何やら虎兄と話し込んでいたようだったけど、既に別れたようだ。プラットホームのベンチで一人ボールと戯れている斉藤(兄)に、正直、なんて声をかけていいのか躊躇したのだけれど当人はそんな僕らの気持ちを知ってか知らずか、ようお疲れと涼し気に話しかけて来た。
「野球っておもしれえだろ?」
 真意を測りかね、ええ、まあ、と僕はお茶を濁した。
 だろ? と笑顔満面の斉藤(兄)はよし俺に任せとけ、と胸を張った。
「要するに、人数が足りればイイわけだ。俺が責任持って頭数揃えてやる」
 え、と声が漏れたかもしれない。
「だから野球部はなくならねえ」
 あ、いや、僕は今日限りで、と言いかけた僕を斉藤が肘で小突く。無駄だ、あきらめろ。その目が全てを語っている。
 驚くことに、一年どころか来年の新入生にまで目星を付けているらしい斉藤(兄)のマスタープランを小一時間ほど聞かされたあとで、当然ながら自宅でもみっちり続きを聞かされるらしい斉藤の恨めしそうな目線に僕は気が付かないフリをして、二人と別れた。
 玄関のドアを開けるや否や、お風呂沸いてるよと家の奥から母の声がして、僕は遅ればせながらただいまあと一言返すと汚れ物を洗濯機に放り込む。シャワーを浴びながら自分の気持ちを整理してっていうよりか、体を拭いて部屋のベッドに倒れこんだ時にはもう気持ちは決まっていた。と、思う。
「悔しい?」
「まあね」
 僕の机(椅子ではない)に腰かけて僕を待っていた姉は、何か言いたそうな顔で僕を見た。
「どうするの? これから」
「負けて悔しいけど……また試合やりたいかも」
「野球部続けるんだ?」
「まあ、そういうことだね」
 そっか、と一言頷いて姉は部屋から出て行った。僕は姉の背中がちょっとだけ寂しそうに見えた気もしたけれど、すぐに襲ってきた睡魔に負けそのまま朝まで目覚めなかった。


■11.スタンド・バイ

「おーい、姉ちゃん、どこだよ?」 
 機嫌直せよ、お供えの大福食っちゃうぞ、と僕が嘯いても姉は姿を現そうとしなかった。
 あれから、もう十日になる。まあこれまでも一日二日出てこない時はあったけど、こんなに長く留守(?)にするのは今までなかったことだ。
 まさか、とうとう成仏してしまったのでは、と心配になったというか本来それは心配する方がおかしいコトなのであるけれど、僕は結構な焦燥感に堪えかね虎兄にそのことを打ち明けた。
「いないんだ。もう十日も出てこない」
「そうか」
 失意のあまり錯乱するのでは、と密かに期待……ではなく心配していた僕の予想に反して、虎兄はわりかし落ち着いているように見えた。
「なあ、このことって俺以外の誰かに話したか?」
「いや。頭おかしいって思われるだけじゃん、意味ないよ」
「ま、そらそうだよな」
 いつも居て当たり前だと思ってた姉が、突然いなくなる……ってなんだよそれ。どうやら姉の失踪(?)に動揺しているのは僕らしい。
「なあ、もういいんじゃないか?」
 え? と声を漏らした僕に虎兄は、もう出てこなくなったんだったらそれでいいじゃんか。ともう一度同じことを諭すように言った。僕の胸の中に急速に広がる黒い雲。ああいやだこんな気持ちに支配されるのはいつだって。
「……もしかして、虎兄ってさ、信じてなかったってこと?」
「いや、まあ、その」
「信じてないんじゃん」
「うん、まあ、……正直言えばちょっと信じがたいことではあるよな」
 ほらやっぱり、とむくれる僕にまあ聞けよと促す虎兄。
「たださ」
「ただ?」
「お前がそんな事で嘘付く訳ねえじゃん、お前がそうだって言うなら誰が何と言おうが俺はお前を信じるよ」
「は?」
「ありがとう」
 そんな殺し文句で懐柔される僕ではないぞ、と思う間もなく声の方を振り向くとそこには姉が居た。
「姉ちゃん!」
 なんだよどこ行ってたんだよ、虎兄にも説明してやってくれよ、と叫びそうになったけれどその必要はなかった。
「ええっ? ひひひ響さん!」
「あ、見えるんだ」
「うん、いや、マジか」
 目を白黒させている虎兄に、姉は申し訳なさそうな顔で言った。
「……せっかく会えたけど、もう行かなきゃいけなくて。……ゴメンね」
「えっそんな」 
 情けない顔をして狼狽える虎兄の姿には同情を禁じ得ないほどだったけれど、僕も話が急すぎて置いてかれそうになる。
「シャキッとせんかい! 男だろッ!」
「はいッ」
 姉の一喝に反射的に背筋を伸ばしてしまう虎兄、そして僕。
「虎ちゃん、ありがとう。短い間だっけど一緒に居られて楽しかった」
「え、あ、うん」
「あ、そうそう、アキラのこともよろしくね」
 なんだ僕はオマケなのかよ、いや、そうじゃなくて。なんで急にいなくなるの、と僕はやっとのことで姉を問い質した。
「うん、うまく説明できないんだけどさ、いつまでもココに居ちゃいけないかな、って」
 そんなことない! って泣きそうになってる虎兄に姉はちょっと困ったような顔をして、でもそっと突き放すような感じで話を続けた。
「ココに来ること、自分でいつまでもコントロールできるわけじゃないみたい。だんだん戻り方がわからなくなって来てるっていうか、正直今回も結構焦ってやっとこさ探し当てたとこなんだよね。まあ虎ちゃんにも会えるとは予想外だったけど、これからもそうできるかは約束できない。ってかたぶん無理」
 でも、と言いかけて割り込めない僕。虎兄は黙り込んだまま姉の話をじっと聞いている。
「傍に居ても見えないし何もできないっての、なんか中途半端でさ」
 黙ったままの虎兄。
「わたしはもう終わっちゃったけど、あんたはまだ始まってない」
 虎兄は黙ったまま唇を噛んでいる。
「あっちで待ってるからさ。やることやってさ、ゆっくり来てよ、ちょっと遠くに行っちゃうけどきっとずっと見てるから」
 うん、留守番を言いつけられた子犬みたいな顔でようやく頷いた虎兄。僕は目の淵がぼうっとして何だかよくわからない。
「彼女できたら、私にも紹介してよね」
「えっ? いや、わかった」
 虎兄の顔がちょっとだけ綻ぶと、ちょっと安心したような顔をして虎兄と僕を見る姉。
 一呼吸おいて、姉はじゃあまたと言いかけフッと消えた。あっと叫びながら虎兄と僕の手が空を切る。

 それきりだった。

 そして僕らは時々姉のことを思い出しては星を観る。大福星の豆大福を頬張りながら。

(了)

スタンド・バイ

スタンド・バイ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted