野良の市物語
※表紙は河鍋暁斎の鳥獣戯画「猫又と狸」
*** 金曜ロードショー「野良の市物語」 ***
https://www.youtube.com/watch?v=wCDiRGUTfq0
*オープニング
https://www.youtube.com/watch?v=wNzIo2xIwwI
https://www.nicovideo.jp/watch/sm1152587(予備)
<キャスト>
野良の市・・・野良ぬっこ
睦五郎・・・ぬっ虎
そば屋のおやじ・・・山ぬっこ
お千加・・・ぬっ子
その他・・・なめぬっ児軍団のみなさん
「おやぁ?」
野良の市は足を止めると、天を仰いでまぶたをしばたいた。杖の先に、なにか柔らかいものがさわったからだ。この感触は、子供がつくった泥だんごだろうか。あるいは、腐った柿か。
「こりゃあ、犬のクソだな」
野良の市は顔のまえで手をぱたぱたさせながら笑った。そのとき、通りの向こう、東橋(吾妻橋)のほうから〝狂犬〟の臭いがただよってきた。
「また臭せぇのが来やがったな」
地回りである。近づいてくる足音はふたつ……いや、みっつ。狂犬は、ぜんぶで三匹。一匹は正面から近づいてくる。おそらく、わざと肩をぶつけてくるつもりだろう。それから肩がはずれたのなんだのとゴネはじめて、銭を巻き上げる。それがやつらの〝習性〟なのだ。もちろん、かわす気になればかわせるが、あえてぶつかってやろう、と野良の市は思った。
「痛てっ!」
思った通り、狂犬はわざとぶつかってきた。
やれやれ。相変わらず芸のねえやつらだ、と野良の市は腹の中で嗤った。
「ばかやろう! どこに目ぇつけてやがるん……がぼ!」
話の途中で悪いと思ったが、狂犬の鳴き声があまりにもうるさいので、野良の市は思わず杖の先を相手の口の中につっこんでしまった。
「がボが……ぼぉエ!」
狂犬が苦しそうにもがいている。
野良の市は生まれつき目が不自由だった。だが、相手の声で背丈もわかれば足音ひとつで体格の見当もつく。そして呼吸や心臓の鳴る音、相手のだすあらゆる音で間合いもつかめる。たとえ物の形は見えずとも。野良の市には〝音の形〟がはっきり見えているのである。
「どこに目をつけてるかって?」
野良の市は狂犬の口につっこんだ杖の先を喉の奥までグイグイと押し込み、そしてグリグリ回した。
「あいにくですがねぇ、そんな物ぁハナからついちゃあいねぇんだよ」
野良の市はそのまま狂犬を杖で突き飛ばすのであった。
「ア、アニキ!」
「こっ、このやろう! 按摩のくせにナメたまねしやがって」
仲間の狂犬どもが吠えたてると、まわりに集まった野次馬たちから悲鳴が上がった。
「ほう。〝ダンビラ〟を抜きなすったか」
野良の市は杖を下ろし、構えを解いて棒立ちになった。一見すると無防備のようだが、このほうが下手に構えるより隙が見えにくいのである。
狂犬どもは警戒しているのだろう。じりじりと二手に分かれて、野良の市を囲むように、ゆっくりと間合いをつめてくる。そして犬のクソを口の中にねじ込まれた狂犬は、地面を転がりながら「ぼえェッ!」と苦しそうに嘔吐いていた。
……ジャリッ……ジャリッ……
一匹は野良の市の右、もう一匹は左。ふたつの殺気が、ジリジリと近づいてくる。
……ジャリッ!
右の狂犬が間合いに入った。しかし、なかなか斬り込んでこない。
「どうしやした? 遠慮せずに噛みついてもいいんですぜ」
「……くっ!」
狂犬は怖気づいて動けないのだろう。だんびらの鍔がカチカチと鳴っている。
「おや? ひょっとして、ふるえてなさるんですかい?」
野良の市が口元で笑うと、狂犬の一匹が「チッ!」と舌打ちをした。
「きっ、今日のところはか かか かんべんしてやらぁ!」
「つつつ つぎはタダじゃ済まねえからな! お お、おぼえてやがれぃ!」
狂犬の足音がふたつ、バタバタと慌ただしくはなれてゆく。
そして最後の一匹も「ボッ、ぼぇエ!」と吐き捨てて逃げて行った。
「おぼえてやがれ、か」
遠ざかる狂犬どもの足音を見送りながら、野良の市は肩をゆらして笑った。
「おぼえるもなにも、アッシにはお前さんたちのツラは見えちゃいないんでね」
野良の市は御家人の次男坊である。目は見えないが、剣術はそこそこ遣えるのだ。父・矢坂源四郎は厳格な人物で、目の見えない野良の市を、けっして甘やかすことはしなかった。剣の稽古でも「よいか、剣四郎。目は見えずとも剣は遣える。相手の気配を読め。殺気を感じろ。心眼を開くのだ」と、いっさい手心を加えることはなかった。しかし、ふたつ年上の兄・源之進は少々気が小さく、優しい性格だった。母のお由美に似たのだろう、と父は言っていた。
野良の市が家を出たのは二十年まえ、十五のときだった。それ以来、矢坂家にはいちども顔を見せていない。父や母、そして兄の顔を見たことはいちどもない。だが、声はいまでもはっきりとおぼえている。目が不自由なことには慣れているが、もし叶うのであれば、父と母、そして兄の顔をいちどでいいからこの目で見てみたい。それが、野良の市の唯一の願いだった。
両国橋の近くまできたとき、野良の市の耳に昼九ツの鐘が聞こえてきた。
「お?」
野良の市はふと立ち止まると、顔を天に向けて鼻をヒクヒクさせた。
「うまそうな匂いだ」
どうやら両国橋の袂に蕎麦屋の屋台がでているようだ。
ちょうど昼時である。野良の市は蕎麦の香りを辿り、屋台のまえで足を止めた。
「おやじさん、熱いのを一本。それと、そばをひとつ。あげ玉を多めにのせ――」
「おい! 勝手にこんなところで商売されちゃあ困るなぁ」
野良の市の注文をさえぎったのは、またしても狂犬の声だった。
「なっ、なんですか、あなた方は」
蕎麦屋のおやじが怯える声で言った。
「赤鬼一家だよ」
狂犬が凄む。
「まさか、知らねえなんて言うんじゃあねぇだろうな?」
狂犬の臭いは、ぜんぶで五つ。
「あの~、そばを一杯。あげ玉は多めで」
野良の市は狂犬どもを無視して屋台の奥に声をかけた。
「おう、按摩。ケガしたくなきゃあ引っ込んでろ」
「そばを食ったら、おとなしく引っ込みやす。へい」
野良の市はニコリと笑ってペコリと会釈した。それから屋台の奥に向かって「おやじさん、まだですかねえ。あげ玉そば」と、もういちど声をかけた。
すると一匹の狂犬が野良の市の胸ぐらにつかみかかってきた。
「この按摩、なめやがって。とっとと消えろってのがわからねえのか」
「あの、ですから、あげ玉そばを食ったら、おとなしく帰ぇりやすんで。へい」
「ほう。そんなに食いてえか?」
「へい。もうあんまり腹ペコなんで、目がまわって目がまわって……」
そう言って野良の市が愛想よく笑うと、狂犬は「ありもしねぇ目玉がどうやって回るんでい」と意地悪そうに笑った。
「おもしれぇ按摩だぜ」
仲間の狂犬どももゲラゲラと笑っている。
「そうかい。どうしても食いてえってんなら、望み通り、うまいあげ玉をたっぷり食わしてやるよ」
野良の市の胸ぐらをつかむ狂犬のこぶしにグッとちからが入った。そして狂犬の頭上で、もう片方のこぶしをギュッとにぎる音がした。
なるほど。ふり〝上げ〟たゲンコツ(玉)を食わせようってのか。こいつはなかなかおもしれぇトンチだ、と野良の市は鼻で笑った。
「せっかくではごぜえやすが、こっちのあげ玉は遠慮しときやす」
そして野良の市も狂犬の股ぐらに杖をふり上げた。
「あゲっ!!」
狂犬の口から悲鳴が飛びだした。
「……ダ……」
胸ぐらをつかむ狂犬の手がぶるぶると震えだし、ずるずると着物をつかんだまま落ちてゆく。
「……マ」
やがて狂犬のうめき声は野良の市の足元に沈んでゆくのであった。
「ヤ、ヤロウ!」
「なんてことしやがる!」
仲間の狂犬どもが牙をむいた。
「おう、按摩さんよォ。こんなことしてタダで済むと思ってるのか?」
野良の市を囲む狂犬どもの唸り声。そして鯉口を切る音。
「こりゃあ、どうもすいやせん。まさかあんなに小いせぇ〝あげ玉〟だとは思ってなかったもんでして、へい」
野良の市は面目なさそうにペコリとあたまを下げた。それから人差し指を立てて「ひとつだけ、潰してしまいやした」と、首をすくめて舌をだした。
「こいつ、ふざけたことぬかしやがって。おう、オメエら! かまわねえからやっちまえ!」
「三途の川に叩き込んでやるぜ!」
先に動いたのは正面の狂犬だ。あたまの上で鍔の音をカチャカチャと鳴らしながら躍りかかってくる。
「覚悟しやが――」
狂犬の動きが、にわかに止まった。いや、野良の市が止めたのだ。
「おっと。おめえさんも〝あげ玉〟を潰されてえのかい?」
「ひっ……!」
のど元に杖の先を突きつけられた狂犬は、まるで金縛りにでもかかったように固まってしまった。
ダンビラの鍔が、狂犬の頭上でカチカチとふるえている。ほかの狂犬たちも、だれも手を出そうとはしない。まるで怯えた野良犬のように、じりじりと後退りをはじめていた。
「さあ、どうしやす?」
野良の市は杖の先で狂犬のアゴをグイッともち上げた。
「まだやるってんなら、アッシもこの〝仕込み〟を抜きやすよ?」
「ひえっ!」
狂犬が悲鳴を上げてドスンとしりもちをついた。
「おや?」
じょろじょろ、と水の音がする。
「おまえさん、漏らしなすったな?」
野良の市は声を上げて笑った。
「ちっ、ちくしょう! この借りは、かならず返すからな。首を洗ってまってろよ!」
そして狂犬どもはキャンキャン鳴きながら逃げ去ってゆくのであった。
「へい。おまちしておりやす」
野良の市は仕込み杖の柄を両手で包みながら笑顔で狂犬どもを見送った。
「いやあ、おかげで助かりました。按摩さん」
屋台の奥から蕎麦屋のおやじが礼を言った。
「なあに、大したことじゃあございやせん」
「あの、お礼といってはなんですが」
蕎麦屋のおやじは熱燗二本と天ぷらそばをひとつ、野良の市のまえに差し出した。
「お代は結構ですので、どうぞ召し上がってください」
「そいつはありがたいんですが、その、アッシがたのんだのは、たぬきそばなんでやすが……」
そう言った野良の市に、そば屋のおやじは「どうやら、タヌキがエビに化けたようで」と言って笑った。
「なるほど。こりゃあ、一本取られやした」
と、野良の市も自分の額をぴしゃりと叩いて笑った。
「でも、おやじさん。本当にお代はいいんですかい?」
「もちろんですとも。ささ、遠慮せずにやってください」
「そうでやすか。それじゃあ、お言葉に甘えさしていただきやす」
目が見えないと、いろいろ馬鹿にされることがある。銭のかわりに〝おはじき〟を握らせられたり、となりの客に沢庵をひと切れ失敬されたり……。
されど、世の中、そんな鬼ばかりではない。こうして仏様の慈悲に救われることだってあるのだ。たとえまっ暗な闇しか見えずとも、この世はけっして地獄などではない。温かいそばを舌に運びながら、野良の市はそう思うのであった。
浅草鳥越町から蔵前一帯を縄張りとする赤鬼一家の元締めは、名を睦五郎と言う。年の頃は五十五、六。残忍酷薄な性格だが、その顔は仏のように穏やかな笑みをたたえているところから、世間では彼のことを「笑鬼」と呼び恐れていた。
ひと月ほどまえ、こんなことがあった。
鳥越町にある口入れ屋「きじ屋」の裏手を野良の市が通りかかったときのこと。
「よ~しよしよし」
板塀の向こう、きじ屋の裏庭のほうから睦五郎の声が聞こえてきた。そう。きじ屋は赤鬼一家の店なのだ。
「よ~しよし。はい、おすわり!」
どうやら睦五郎は、愛犬の黒い柴犬「シロ」と戯れているようだ。それにしても、黒い犬にシロと名付けるとは、いかにも悪党らしい趣向だ、と野良の市は鼻先で笑った。
「親分」
子分だろうか。若い男の声だ。
「おう、戻ったか。で、どうだった?」
「親分、申し訳ねえ。あのやろう、どうしても首をたてにふらねえんで」
たぶん〝ショバ代〟の話だろう、と野良の市は思った。
「なにぃ? よく聞こえねーなあ」
睦五郎は子分の返事が気に入らないようだ。
「や、やつは、どうしても払わねえそうです。しまいには、奉行所に訴えるとかぬかしやがって……」
すると、睦五郎はうんざりしたように大きなため息をついて「ぁあ?」と不機嫌そうな声で訊き返した。
いよいよ睦五郎は癇をたてたようだ。
野良の市は板塀のまえにしゃがみ込むと、草鞋を締めなおすふりをしながら、じっとふたりのやり取りに耳をかたむけた。
「……で、ですから、やつは払わねえ、って……」
「あんだって~ぇ? ちかごろ、めっきり耳が遠くなっちまってえよぉ。もうちっとでっけー声で言ってもらわねぇと、よく聞こえねぇだあよ」
睦五郎が怒気をはらませた声で言った。
「いや、だから、そのぅ」
怯んだ子分は歯切れがわるい。
「はあ? なんですかぁ?」
睦五郎は、まだとぼけている。野良の市は睦五郎が片方の耳に手を添えている姿を想像していた。
ふるえる声でどもりながら子分が言い訳をつづける。
「あ、あのぉ、やや やつぁ……」
「ヤツがどうしたってえ? さっぱり聞こえねェ~なァ~」
「ですから、や やつぁ……」
子分が言葉に詰まってゴクリとつばをのみ込こんだ。
「やつぁ……」
と、言いかけて、子分が「すーっ」と大きく息を吸い込んだ。
「もしも~し! どぉしました~? なんにも聞こえませんよ~?!」
イライラした声で睦五郎が急かす。しかし、子分は息を止めたまま、なにも言おうとしない。
いったい、どうしたのだろうか。不思議に思った野良の市が板塀に耳を押しつけたときである。
「――びた一文払わねえそうです!!」
と、いきなり子分がカミナリのような怒鳴声を弾かせた。
江戸中にひびき渡らんばかりの雷鳴は大地をグラグラと揺るがし、ビリビリと空気をふるわせた。そして野良の市の鼓膜もキンキンとしびれていた。
「痛てて、耳の中にカミナリが落ちたみてぇだ……あっ?」
ついでに腐った柿も野良の市のあたまに落ちてきた。
さて、子分にカミナリを落とされた睦五郎はどうなっただろうか。野良の市はキンキンとしびれる耳を、もういちど板塀に押しつけた。
「……ああ~。そうか、そうか」
睦五郎は静かに朗笑している。
子分も「えへへ」と、控えめに笑っている。
そして鯉口を切る音がした。
「鼓膜がやぶれるでしょうがぁ!! このバカチンがアッ!!」
激怒した睦五郎は、子分を一刀のもとに斬り伏せたのだった。
暮れ六ツの鐘が鳴った。
野良の市は按摩笛を鳴らしながら、黒船町あたりを流して歩いた。
「ちょいと、按摩さん」
女の声に呼び止められた。声の調子からすると、おそらく四十過ぎの大年増だろう。
「背中を揉んどくれよ」
「へい」
野良の市は女に促されて部屋に入った。
「おかみさんは、商売のほうは、なにをしてなさるんで?」
「常磐津の師匠さ」
女の名はお千加。弟子の数は三十人ほどで、そのほとんどが大店のお内儀や武家の奥方だという。
野良の市は、布団の上にうつぶせになったお千加の背中を揉みはじめた。
「商売繁盛。けっこうなことじゃあございやせんか」
「それがね、そうでもないんだよ」
と、お千加がため息交じりに笑った。
「ちかごろ不景気でねえ。先月は三人、今日も一人辞めちまったよ」
「お武家さんは、自由に商売ができやせんからねえ。なにかとやりくりが大変なんでございやしょう」
「おフジさんは、お武家じゃないよ」
「おフジさん?」
「樽屋の女房さ」
「ああ、蔵前の酒問屋の」
蔵前の酒問屋・樽屋。野良の市も知っている。
「ねえ、按摩さん」
「へい?」
野良の市はお千加の背中を揉みながら返事をした。
「そこの煙草入れ、取ってくれないかい?」
「さあ。そこ、っていわれても、アッシにはちょっと」
野良の市が困った顔で笑うと、お千加も「ごめんごめん」と、おかしそうに笑った。
「あたいの足のそばに転がってないかい?」
「足のそば、でやすか」
野良の市は右手を伸ばして布団の上を探った。人や動物なら気配でわかるが、物を見つけるのはいつも苦労していた。
「見つかったかい?」
笑いをこらえたような声でお千加が言った。
「へい。もうちょっとだけ、おまちを」
こんどは両手で畳の上を探る。
「そっちじゃないよ。もっと右」
含み笑いを浮かべるお千加の顔が野良の市のまぶたに浮かぶ。
「こっち……でやすか?」
「そう、そこ。あ、もうちょっと左」
いよいよこらえきれなくなったお千加はくすぐったそうに笑いだした。
「スイカ割りじゃねえんですぜ、お千加さん」
野良の市も畳の上を探りながら肩をゆらした。
「おっ、これかな?」
布団のそばで、指先にコツン、となにかが当たった。
「どれどれ」
野良の市は畳の上にあったものを掌にのせると、指で形をなぞってみた。どうやら煙草入れにまちがいなさそうだ。
「おや?」
煙草入れから、なにか硬い小さなものがぶら下がっている。根付だ。どうやら象牙らしいが、どんな細工が施されているのだろうか。野良の市は根付を掌にのせると、指で転がしながら細工をたしかめた。
「サル……だな」
不幸が去る。困難が去る。厄除け、か。
「あったのかい?」
からかうような口調でお千加が言った。
「へい。たぶん、これだと思うんでやすが」
野良の市はひざを折って姿勢を正すと、両手で高く差し上げて献上した。
「あい。ありがとう」
野良の市の手から煙草入れをもち上げると、お千加はくすくすと笑った。
「ところで、お千加さん」
野良の市はお千加の背中を揉みながら訊いた。
「なんだい?」
「さっきのおフジさんの話でやすが、どうも気になりやしてね。いや、樽屋といやあ、江戸でも指折りの大店だ。それがどうして……」
「おフジさんはねえ、あたいの幼馴染なんだよ。若いころは苦労してねえ。ようやくつかんだ幸せだってえのに……」
いったん言葉を切ると、お千加は「ふーっ」と吐息をついた。煙草のにおいがする。野良の市は、お千加が枕にもたれかかって煙管をふかしている姿を想像した。
「おフジさんの亭主、樽屋惣右衛門さんは、そりゃあ、まじめでいい人だよ。でもねえ、番頭の与吉って男が、飲む打つ買うの三拍子そろったロクデナシでね。赤鬼一家の賭場にゃあ、よく顔をだしてたらしいんだよ。ほんと、マヌケなやつだよねえ。あんな〝穴熊〟やってるような賭場でいくら張ったところで勝てっこないのにさ。ああいうのを〝ネギを背負ったカモ〟って言うんだろうねえ。やっこさん、とうとう二千両もの借金までこしらえた挙句、店をおん出されちまったのさ。でもね……」
そこまで言うと、お千加はうんざりしたように「ふーっ」と重いため息をついた。
野良の市はお千加の背中をさすりながら、だまって耳をかたむけていた。
煙草のにおいを吐きだしながら、お千加がつづける。
「もう、与吉と樽屋はなんの関係もないんだけどね。問題は、与吉のやつが赤鬼一家との間にかわした証文なんだよ」
「証文?」
「自分が借金をはらえないときは樽屋の鑑札を赤鬼一家に下げ渡す、ってね。もちろん、そんな証文に爪印は押せない、って与吉は拒んだらしいよ。最初はね。でも、相手は、あの赤鬼一家の睦五郎だ。はいそうですか、って、おとなしく引き下がるわけがない」
「もし爪印を押さなきゃあ、簀巻きにして大川に叩き込む、って脅されたんでやすね?」
野良の市がそうつづけると、お千加は「そんなところさ」と皮肉っぽく鼻で笑った。
「博打で負けた二千両、あと二日のうちに返せなきゃあ、店の鑑札を赤鬼一家にとられちまうんだ」
「なるほどねえ」
野良の市は顔をしかめてうなずいた。
「……あいつら、鬼だ」
低い声でお千加がつぶやいた。
「按摩さんだって知ってるだろ? あいつらぁ、表向きはまっとうな口入れ家業をしながら、裏じゃあお役人とつるんで汚ねぇクソをたれてやがるのさ」
恨みごとを言い終えると、お千加は忌々しそうに「ぷーっ」と煙草のにおいを吐き出した。
「鬼が吠けば民が泣く、か」
野良の市も、重いため息をひとつ吐きだした。
与吉は大の博打狂いで、赤鬼一家の賭場には毎晩のように通っていたらしい。そして以前から樽屋の鑑札に目をつけていた赤鬼一家の睦五郎は、与吉をイカサマでハメたのだ。二千両、三日のうちに耳をそろえて返せなければ、借金のカタに樽屋の鑑札をよこせ、と。
「鬼は内、福は外。世の中、あべこべじゃないか。ねえ、按摩さん」
「おっしゃる通りで。へい」
はすっぱな女だが、お千加は心根のやさしい女だ、と野良の市は思った。
「それにしても」
と、野良の市はこっそり笑った。
「お千加さんは、いいお尻をしていなさる」
「ちょいと。そんなところを揉んでくれなんて言ってないよ」
お千加はおかしそうに笑いながら野良の市の手をぴしゃりと叩いた。
翌日。
野良の市は旅籠を出ると、鳥越町に足を延ばした。きじ屋の様子を探りにいくのだ。
「今日も、天気がいいみてぇだな」
野良の市は天を見上げてほほえんだ。ものは見えずとも、光を感じることはできる。柔らかい陽のぬくもりも。
野良の市は、ときどきふと思う。お天道様は、いったいどんな顔をしているのだろうか。雲は、どんな形をしているのだろうか。そして空は、どんな色をしているのだろうか。野良の市が唯一知っている色。それは、まっ黒な夜の色だけだった。
――よ~しよしよし!
ふいに睦五郎の声が聞こえてきた。どうやら愛犬のシロと戯れているらしい。
野良の市は懐から手拭いを取りだして頬被りをすると、裏庭の板塀のまえでそっと耳をそばだてた。
――親分。
子分の声だ。足音が五つ、裏庭のほうへ近づいてくる。
「親分」
「おう、早かったな。で、どうだった?」
「へ、へい。それが……」
子分の返事を聞きながら、睦五郎は無邪気にシロと戯れている。
「よ~しよしよし。ほら、煎餅食うか? まて。まだだぞ~。はい、よし!」
「ワン!」
と、シロの返事。同時に睦五郎が「痛たっ!」と悲鳴を上げた。そしてすぐに「……くないよ~」と、穏やかな口調で訂正した。
「やっこさん、煎餅と一緒に手も食われなすったな」
野良の市は口もとを抑えて「くくっ」と笑った。
「お、親分。平気ですかい?」
子分が心配そうに言う。
「ああ大丈夫、大丈夫。痛くないから」
と、睦五郎は陽気に笑ってやせ我慢した。
「よ、よ~しよしよし。いい子だからはなしなさい」
どうやらシロはまだ睦五郎の手に食いついたままらしい。それでもやせ我慢を通そうとする睦五郎は、穏やかな声で「よ、よ~しよしよし。よ~し……よ……し」と、歯を食いしばりながら必死にシロをなだめている。だが、シロの興奮は一向に収まる気配はない。シロは「ウウウ~、ウウウ~」と、怒ったように唸りつづけていた。
板塀の中が気まずい沈黙に包まれる。聞こえてくるのはジャリッ、ジャリッ、と土の上で鳴る睦五郎の草履の音と、興奮したシロの唸り声だけである。
はたして、彼らの格闘はいつまでつづくのであろうか。
「よォ~し よ シ」
睦五郎の声も、しだいに殺気を帯びはじめてきた。
「今日……は……お馬鹿さんっ!!」
ふいに睦五郎が優しい声で怒鳴った。と同時に「ゴツン」という大きな鈍い音が板塀の外まで聞こえてきた。つづけて「キャイン、キャイン」と、シロの切ない鳴き声が板塀の中にひびき渡った。
「ゲンコツでも食らわしたか」
野良の市は気の毒そうに頭をふった。
「で、もってきたのか?」
睦五郎がゼエ、ゼエ、と荒い息を弾ませながら子分に訊く。
「へぃ?」
調子っぱずれな声をだした子分に、睦五郎は「鑑札だよ! か ん さ つ!」と声を荒立てた。
「樽屋の鑑札はもってきたんですか?」
丁寧な言葉遣いだが、睦五郎の声には怒りがこもっている。
「へ、へい。それが、明日までまってくれ、って……」
「じゃあ、明日になったら鑑札をよこすんだな?」
「いえ。明日までには、なんとか二千両、工面するそうで」
「なっ、おま……」
睦五郎は舌打ちすると、あきれたようにため息をついた。
「それじゃあ意味がないでしょうがァア!」
睦五郎がイライラした口調でつづける。
「狙いは樽屋の鑑札なんだよ。だから、与吉の野郎をイカサマでハメたんじゃねえか。わかるぅ? オレの言ってること、おまえらわかるぅ?」
「へ、へい。それじゃ、利息を千両、上乗せいたしやす」
子分が慌てて取り繕った。すると睦五郎はようやく機嫌を直して「そうよ。はじめっからそうすりゃあいいんだよ、ったく。バッカだなあ、オメェらは」と、満足そうに高笑いをするのであった。
「鬼は外、か」
野良の市はグッと杖をにぎりしめた。あまり殺生は好まないが、もはや退治する以外に道はなさそうだ。
「風が……冷てえな」
風に追われて、落ち葉がカサカサと逃げてゆく。野良の市の耳元で、秋の風が空しく泣いていた。
その夜。
野良の市は、きじ屋の賭場へもぐり込んだ。顔を見られないように頬被りもしている。赤鬼一家の子分の中には、自分の顔を知ってるやつが何人かいるからだ。そして、賭場にもぐり込んだ目的は、ただひとつ。睦五郎の〝始末〟である。
「さあ半方ないか、半方ないか」
中盆の威勢のいい声が野良の市の耳にひびく。
「それじゃ、半」
野良の市は半に賭けた。
「丁半、駒そろいました」
そして中盆は咳ばらいをひとつしてから「勝負」と声を張った。
(さては〝穴熊〟が巣を作ってやがるな)
野良の市は片方の耳をツボに向けた。
……コツン……
サイコロをつつく音。
「二・六の丁!」
中盆の声が弾けた。
やはり、盆茣蓙の下に穴熊が巣を作っているらしい。
「じゃあ、つぎは丁に賭けてみるかな」
野良の市は持ち駒をすべてつぎ込んだ。
「ツボ、かぶります」
中盆が咳ばらいをふたつする。
「勝負」
ツボ振りが開ける直前、またツボの中でコツン、と音がした。もちろん、ふつうの人間には聞こえない。だが、野良の市の耳はごまかされない。たとえ蝶の羽音のようなかすかな音でも聞き逃すことはないのである。
「四・三の半!」
中盆の掛け声。そして歓喜の声とため息が混ざり合う。儲けたやつもいれば、損をしたやつもいる。だが、いくら儲けたところで、けっきょく最後は胴元にぜんぶまき上げられてしまうのだ。このキジ屋の賭場には穴熊が住んでいるからだ。その穴熊は盆茣蓙の下に巣を作っており、ツボ振りが咳払いをして合図を送るとサイコロにイタズラをするのです。こっちが丁を張れば半、半を張れば丁というように、盆茣蓙の下からサイコロを針でつついて動かしてしまうのだ。なんとも天の邪鬼な穴熊である。
「ちょいと厠へ」
野良の市は杖をもって立ち上がり、そっと中庭のある部屋のほうに向かった。赤鬼一家の賭場は、まえにいちど来たことがある。野良の市は、睦五郎の部屋がどこにあるか知っているのだ。
耳に神経を集中しつつ、落ちついた足取りで廊下を進んでゆく。突き当りのカベを右に曲がり、二、三進んだところで、ふと足を止めた。
「……ここだな」
風のにおい。そして、サワサワと木の葉のこすれる音。野良の市は、一歩もどってカベに身を隠した。じっと耳を澄まし、中庭をはさんで向かい側の部屋の様子を静かにうかがう。
――やだよ、おまえさんったら。
女の声。睦五郎の女房だろうか。野良の市は、女が部屋を出るまでじっと待つことにした。
――ちょいと、ひとっ風呂浴びてきますよ。
部屋の障子が開いた。
――早く戻るんだぜ?
――あいよ。
「それじゃ、鬼退治といくか」
中庭を〝コの字〟に囲む廊下を、睦五郎の部屋を目指して静かに進む。酒のにおいがする。障子の隙間からさけのにおい、かすかに漏れてくる酒のにおい。野良の市は、酒のにおいをはなつ障子のまえで足を止めると、ひざを折って廊下の上に杖を置いた。
「あの、ごめんくださいやし」
部屋の中におとないを入れる。
「だれだ?」
「へい、按摩でございやす」
「按摩ぁ? オレぁ、按摩なんか呼んだおぼえはねえぞ?」
「へい。あの、こちらの若い衆から、親分さんはだいぶお疲れのようだから、と頼まれまして」
「そうかい。それじゃ、ちょっと揉んでもらおうか。おう、入えんな」
「へい。失礼いたしやす」
野良の市は杖をもって部屋に入った。
「どこをお揉みしましょうか?」
「背中を揉んでくれ」
「へい」
野良の市は睦五郎がよこになっている布団のそばに杖を置くと、さっそく彼の背中を揉みはじめた。
「こりゃあ、だいぶ凝ってやすね」
部屋の近くに人の気配はない。睦五郎の女房らしき女も、さっき風呂へ出ていった。
「おう、もうちっとつよく揉んでくれ」
「へい。こんなもんで、いかがでしょうか?」
殺るなら今しかねえ。野良の市は背中にある秘密のツボに親指をつよく突きさした。
すると、睦五郎は「痛い!」と背中を反らしながら「……くない」と、またしてもやせ我慢をするのだった。
「かかっ、からだが……う ゴ か ね エ」
睦五郎が苦しそうに呻いている。
「て、てめえ、ナな ナニをしやがっ……た?」
「なにをしたかって?」
野良の市は眉間にしわを寄せた。
「そういうテメエは、樽屋の番頭さんになにをしなすった?」
「な な なん だ と お~ォ?」
「鬼が吠けば、民が泣く」
野良の市は〝笑鬼〟の背中に跨った。そして笑鬼のあたまを両手でつかみ、うしろに引き起こした。
「よ、よせ! なな、な にを……」
「ここは鬼の住む世界にあらず。おとなしく地獄に帰ぇりなせえ」
野良の市は笑鬼の首をゴキンと横にひねった。
「オにっ!!」
笑鬼はぐったりとして動かなくなった。
野良の市は笑鬼のあたまを〝あおむけ〟に寝かせ、そっと手を合わせた。
「もう、戻ってくるんじゃねえぜ?」
杖をもって立ち上がると、野良の市は口の中で念仏を唱えながら静かに部屋を出てゆくのであった。
―― おわり ――
野良の市物語
*エンディング
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https://www.youtube.com/watch?v=vAadi8NHqFQ(予備)
*提供クレジット(BGM)
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・野良の市のテーマ「野良の市が行く!」
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