館から

                                                                                                                                                      館 か ら
      
                                                                                                                    館林 圭
                              



 未明に森から飛び立つ鳥の声を聞いた。あれは白鷺だろうか。
天井材を見続け介助員が巡回する足音を数えている。あの足音は、川村介助員のもの。おそらく彼は仮眠の起きがけで全身の眠気を持て余している。足取りにリズムがない。病室のデジタル時計は朝の五時を指しており、窓外にはカーテン越しに赤み帯びた薄明が映えている。木々の影が手の形に見えたが、あれはいつも付きまとう青い幻影だろう。眠りたいにもかかわらず神経が昂ぶって目の奥が痛かった。
放射状になるこの館は昭和四十年代に建てられたとのこと。全体の色調は白だが、どこも色褪せが著しい。一見洋風にも見えるが、屋根の形状はそれぞれの棟が切妻の合わせ屋根だ。玄関のアプローチは石畳が組まれ、頭上には彫刻の施された長押が設えられている。玄関を入ると両サイドは靴箱で名前のイニシャルが表示されている。一階が開放病棟で二階が閉鎖病棟に別れ、一階と二階の接触はほとんどない。
中央棟には円形のホールがあり、ホールの隣りには礼拝堂がある。礼拝堂は天井が木製のアーチ形に設えられ、正面にキリスト像、その背後には手を胸の前でクロスしたマリア像が三枚のステンドグラスに描かれている。
礼拝堂を抜けると、左手に薬局、右手には検査室がある。壁は深い青タイルの草文様が施され、旅行く家族がラクダとともに描かれている。
最初、ホールに立ったときどこを目差して歩けばいいのかとまどった。中央、右、左と同じ廊下が触手のように伸びている。廊下は毎日の患者によるモップがけで鈍色に輝いている。床は茶色のモザイク模様でチェスの板に見える。患者が厚紙を使ったチップでオセロをすることもあった。
病室はほとんどが大部屋で、ホールの遠いところからそれぞれの棟に個室が三室ずつあり、他は二人、四人部屋がそれぞれの棟に十室ずつある。
隣で寝息を立てている天沢兄弟がひとつ呻ると寝返りを打った。エアコンの室外機のモーター音が呻っている。
「まだだよ。ちょっと待って!」
驚いて振り返ると兄弟は寝返りを打ちながら真に迫った寝言をいった。もう一回隣に目をやり、寝入っていることを確かめると音を忍ばせて廊下に出た。敷地内の裏口戸をゆっくりと開け鉄門扉へ向かう。冷ややかな四月の空気が体を包んだ。今、目の前の風景も、手に触れる樹木の枝々もすべて自分のものだという高揚感に浸った。どこにも仕切りのない風景が目前に拡がり、思わず息を飲み込んだ。
高い壁に見えた鉄製の裏門扉を見上げ、力を込めて押すと低い軋み音を立てて開いた。重い扉だと思われた扉はいとも簡単に開いた。この先には限りなく普通(、、)が広がっているはずだ。
一歩扉の外へ出てみれば、エノコログサにたまる滴が朝の陽光を浴びてきらりと光った。歩を進めながら朝もやに包まれた赤屋根の白い建物を振り返り、なぜこの館を出ることになったのかを改めて考えた。  
あの影だ。数年来付きまとうあの幻影は病気からくるものだということは分ったが、一方、それは霊力によるものだとも考えていて、このことをぜがひにでも確かめる必要があった。聞き知った霊媒師、ユタ婆詣で名高いその人に会わなくなくてはと、この館の入館以来考え続けてきた。五百川という名のたった一人の正真だという霊媒師、もしくは宿神と呼ばれている人物。
最近、影の出現する回数が増える一方なのだ。以前、影の出現はあるにはあったが、夢だったのだろうという程度に収めていて、が、今では慥かに人影が濃くなっており、どうやら生死を問わず霊の出没による影だろうとは考えているが、単なる幻影かもしくは幻視かもし知れない。もしそうなら、霊視も霊能も思い過ごしでただの精神疾患の一症状でしかないということになる。
この影に振り回されてやむなく昨年の春に光洋館へ入館したのだったが、今年の二月に入ってからというもの、週に一回の割合で青白い影を見るようになった。前触れに、網膜に白い光が縦に走り、やがて幕が降りたかのような青い背景が現れ、やがて幕の一部がうごめき、青い楕円の形状となって漂いはじめる。あの船酔いの前の刺すような痛みが走るのだった。次に、楕円の形状は細胞の分裂を思わせるように徐々にふえてゆき、やがてそれが鎖のように繋がりだすとゆっくりと緩い渦巻きを作りだす。
そして、円盤状に整った後さまざまに変化していき、影がおよそそれと分かる樹木、建物、人影、などの形を現してゆく。やはりどう見ても何らかの意思によって影が動いているとしか思えない。ともすれば、知り合いの死者、もしくは生者、現代の建物、森、衣服などを判断できることから現世の一部が映し出されているに違いない。もっといえば、身近な友人、親戚か、どこかで知り得た知人なのかと思うが、断定にまではいたってはいない。
M市郊外の館から五キロほど歩き通してM駅につくと都心行きの特急に飛び乗った。窓際のシートに身を横たえたとたん猛烈な睡魔に襲われ、窓外に見える朝もやの町を薄目でとらえていたが、やがて眠りの中へと引き込まれた。夢を見ていた。休憩室で兄弟たちと談笑している。
「自分の未来を見れないの?やはり、人の未来しか見えないわけ?」
ああ夢の中だ、と気づきながら以前百瀬兄弟が来栖に向かって訊ねた質問が甦った。 
「炎が人影に見えるの?幻視じゃなくて」
「ええ、はっきりとは・・・・・・」
「人だとしたら、それはだれ?」
「誰かは知らない」
 もう一人の兄弟、天沢は静かに笑っていた。この館の常連で病棟の隅々まで知り尽くす。いつも耳を押さえているが耳が悪いわけではなく、悪魔に魂を売った堕天使のミカエルが発する誘惑のことばに耳を塞いでいるというのだ。いつも病室から外を眺めてから小さく声を震わせていう。 
「ミカエル天使があそこにいるよ。ほら」
先日は、ミカエル天使が風見鶏の上に立っているところを見たんだ、と院内に触れ回っていた。彼はいつもミカエル天使とともにいる。

昨日、ロールプレイング療法の時間に合わせてミーテングルームに集まるとき、東側の廊下を渡ろうとした百瀬兄弟を呼び止めた。ここでは患者を兄弟と呼ぶ。なんでも院長がカソリック系の神父の資格を持っているとかで、治療者はすべて同盟だというのだ。来栖はこう打ち明けた。
「やはり、この館を出なければ、と思っています」
百瀬兄弟は、礼拝堂のステンドグラスから漏れ出る光の反射を見て十字を切った。百瀬兄弟とは過去に数回同室になったことがある。よく話し、別室のディケアー室でチェスもよくやった。色白で背が高く、動きに品格があり、とても優雅な人だった。
四十歳を越えてはいるだろうが、ほんとうの年は知らない。噂によれば、若いころインドのある川で沐浴していたとき、沐浴中に毒蛇に噛まれて九死に一生を得た、ということだった。いつだったか、それはほんとうの話ですかと聞くと、肩を揺すって、そんなことない、といって笑った。僕が九死に一生を得たのは、向こうの水に当たって、どうも大腸菌ビブリオだったらしくて、激しい嘔吐と下痢を起こして二日間生死の境をさ迷ったよ、あのときはほんとうに死ぬかと思った、という。
入院して以来ことあるごとに支えになってくれた人だった。
「うーん、止めたほうがいいと思うよ。仮にここを抜け出ることができたとしてその先どうするの?」
と百瀬兄弟の声が礼拝堂の壁天井に谺した。 
「一、二日の外出届けではだめなの?君のやろうとしていることは外出ではなく失踪だよね。これでは君の兄さんは身元を引き受けてはくれないでしょう。ここは教会じゃなく病院だからね」
来栖は百瀬兄弟の予測されたことばにいちいち頷いていった。
「どうしてもはっきりさせたいことがあって。最近またあの青白い影を見ます。人影だと思います。病気かもしれないが、霊力かどうかも確かめたい。ある人に会わなくては」
「ああ。影のことは知ってる。予知?それとも霊?けれど君はここの患者であることは確かだよね。君は単に予知の話を作り上げる病気かも知れないし」
百瀬兄弟のいうとおり、精神疾患の一症状といえばいえた。気がかりなのはここ最近よく見る青い炎のような影は、徐々に人の形が多く、何かのメッセージなのかも知れないと思いはじめると影に囚われて何も手につかない。だとすれば、自分の霊力を仲介にして何かを伝えたい生きた人なり、もしくは霊がいるということだろう。
「影がものいいたげに見えたり」
「影が動くの?」
「ええ、そして影が出た後、だるさ、頭痛痛などが襲いますけど」
当初、体内でいったい何ごとが起こったのかと思い、院内の内科医に受診したが胃酸過
多を指摘されたくらいでどこも異常がないとのことだった。
影の揺らぎは、その後も頻繁に現れ、全身を覆う悪寒から病室であらぬことを口走りつ
い介助員を足蹴にしたこともある。それ以来、介助員は拘束帯を隠し持ち、事あらばにこやかに拘束しようと図っていたようだった。自分の中に説明のつかない異界が確かにあると思うしかなく、強引に覗き込もうとすると青い炎が天井付近でさかんに漂った。
「つらいんだろうね。きっと」と百瀬。
「ええ、それはまあ・・・・・」
「やはり、特殊な力をもっているんだろうか」
二年前の寒い日だったと思うが、家のパソコンに向かっていたとき、背後に何やら光るものがあった。青白い色が煙のように漂い、振り返ると淡い光がもう一度光った。しばらく部屋の柱付近を漂い、やがてなノイズを残して消えていった。数秒は起こったできごとに目をしばたいていた。それまでなりを潜めいていた幻影が再び現れるようになったのだ。
公務員の兄を伴ってここ光洋館の精神科を受診したのはそれからまもなくのことだった。入館面接の担当医師には、自分の生活のようすや青白い影についてそのまま伝え、私はどうやら予知能力が備わっているのではないか、ともいった。また、青白い影が見え、決まったように身体が思うに任せない、全身のだるさが襲い前後不覚になる、この不調をなんとかしたいがどうしたらいいか、と訴えた。
医師は大きく頷き、特殊能力かも知れないね、という。カルテにメモをしながら問診をさらに続けたあと、ペンを置いてこういった。うーん、パーソナルの障害?かなと医師は表情を変えずにいった。早々と病名が告げられた。
結局、医師は霊力を否定的にとらえ、およそ誇大妄想の類で、担当医はここから三つ以上の精神疾患名を即座に用意できると来栖に告げた。また、続けて質問した。
「なら、あなたの身にこの先どんなことが起きるのかそれは見えるの?」
来栖は大きく首を振った。ここ一週間ほどだが、自身の先を見ようとすると青い山並みが限りなく続くイメージばかりが浮かぶ。ほんとうにそのようにしか見えなかった。予知能力などと大仰にも医師に伝えたことを後悔した。ここ二、三日なんども黙想をとおして透視を試みたが、先行きの像など見ることはなかった。医師にはそのまま伝えたら、彼は口元を引き上げて笑った。
医師は、来栖の顔を覗き込むような姿勢でさらに聞いた。
「あなたの見えるという影というのはどんな形をしているの?」
いつもさまざまに流れて止まないこの影を、説明できないもどかしさで顔が強ばった。意味もなく両手で雲の形を表した。医師はもう一度笑った。
兄は病院の帰りに、肘を小突いてからいった。違うだろう、霊感などというのはだいたいまちがいだ、何を血迷ったか、影が見えるだの、向こうの世界がみえるだの、違うだろう!
お前の体質が問題なのだ、病気が住みやすいらしい、母親譲りの偏屈はまるで甲羅だ。まずは体質を変えることが早道だ、といったが、おそらく早く入院させたかっただけだろう。そして、家を出てこの病院に然るべき時期に入ることだ、治療するなら早い方がいい、と臆面もなく兄はいった。
反論するつもりで、もっている力なら試してみたい、といったら、ばかが、そんなもんなんの役に立つ?お前の霊視も透視ってやつも全部自己満足の域を出ない、何が試してみたいだ、戯言をいうな、と激しく否定した。
また兄はいう。いきなり奇声を発したり耳をふさいだり、それがお前の病気なんだろうが頭の回路がどうかなっているんだ、ショック療法がいいらしい、やってもらえばいいや、とうそぶいた。
水道局に勤める三つ上の兄、リタイヤして三年になる父の男三人所帯で、日々、何話すことなく、話すことといえば初対面の挨拶のように天気の伺いなどをおもな話題とした。
母は四年前に多臓器不全で他界している。生前、母は来栖の幼少時代を振り返り、あちらの世界が見えるらしかったこの子をできる限り周りに知られないように努めた、と振り返る。街中でいきなり、隣に人が立っている、などと人差し指でも出されたら気味悪がられて、先々が心配になる、ただでさえ、目が青みがかり色白な子どもとして薄気味悪がられているのに、と母は口を噤んだ。そして家にいるとき母は、何でこの子が?どうしてなんだか?と背中を見てはため息をつくこともしばしばあった。
父は父で数年前に、ケアハウスが俺の終の棲家だといって六十三歳の手前で入所の申し込みを出してしまった。母が亡くなった次の年だった。俺は財をお前たちに何も残さん、といっていた父の全財産五百万円を銀行から下ろし一時金として支払ったとのことだった。現在待機中で、まもなく空き次第入居するとのことだった。
兄は人づてに父の入所希望を知り、俺がいるのに相談もなく一人で入所を決めるなんてどういうことだ、と怒っていたが、実のところケアハウスの入所を調べ出したのは兄本人だった。
三十七歳、出版の一会社員が幻視に惑わされて精神病院への入院を余儀なくされた図、たまらなく落ち込んで笑い泣きをしながらなんども自分の頬を張った。
 
夕刻の雑踏に紛れる。駅周辺に漂う酸味帯びた匂いは飲屋街に似ている。駅構内から西口に向かいガード下に出る。電車、車、嬌笑が混ざり合って雑音の多いラジオのように聞こえる。折から風が吹き上げ、店の幟が音を立ててはためく。商店街に入る。猥雑な店の看板が目に入る。後ろからいきなり客引きの声。確か条例で禁止されているのではなかったか。曇天の舗道は夕刻の鈍い光を受けて乾燥し切っている。ミミズが一匹干からびて固まっていたが、カラスがそれを銜えて飛び去った。舗道に散乱するゴミの一つが巻き上げられ中空を目差して舞い上がるらしかった。
中央公園のベンチに座る中年の男、ああ、ホームレスなのだと納得する。白いスニーカー、黒いナイキのキャップ、黒いラルフローレンのマウンテンジャケット、これは数年前から少しも変わっていないホームレスのユニホームだ。ブルーシートの屋根がいくつか見えた。
一ブロック行った所の右の小路で何かのパフォーマンス。数人の人だかりができている。見れば、確かテレビで紹介されたパフォマーで、ジャグリングをリズミカルにこなしている。時々、いかにもつくったような笑顔を見せて、見物人の拍手を誘う。
皺の目立ち始めた中年の女が、ミニスカートに青いTシャツ、頭にパンダのぬいぐるみをつけ、どう?兄ちゃん私と、と自転車をふらつかせながら呼び掛けている。
一ブロック進むと、最初の小路で人だかりが見えた。喧嘩らしい。それにしてもヘッドギアをつけているのはなんだろうと思う。見ていると、喧嘩ではなくボクシングの練習と思われ、それにしては一人一方的に殴られているのだ。こんな練習があるのだろうか。
周りから声が掛かる。よし、いいパンチ、腹だ腹、次はフックでいけ、などとまるで軍鶏のけんかさながらの光景だった。人だかりの後ろから声が掛かった。いいぞ殴られ屋、しっかりKOされろ!その日、都心の場末で数ヶ月ぶりにうごめく人間の有様を見た。館の夕餉での語らいが懐かしく思い出された。あんなに忌まわしいと思っていた館が明かりの点る家に感じられる。
「ここから出る奴の気が知れない。また、戻って来るのに」
慥か、あれは天沢兄弟のことばではなかったか。
夜を待って、西新宿にある首都高下のマンションを訪ねた。あのユタ婆(霊媒師)になんとしても聞いてみたい、それだけを理由にここまで来て今ドアの前に立つ。表札はなかったが、アクリル性の小さな表示板がある。占い、気功、ヒーリングとある。五百川と書いてある。
違う読み方があるのではないか。チャイムを押すと半開きにしたドアーの奥から女が外を伺った。老女ではなかった。五百川さんをお願いしたいと伝えると、私が五百川ですという。娘かと思った。名乗って予約の旨を伝えると、女はドアを開けてお入りください、といった。廊下を抜けると3LDKの間取りが見通せて、かなり広く感じた、壁の色はどこ部屋も白を基調とした下地に薄く植物画が描かれている。なぜかどの部屋にも電気スタンドがあり、それぞれは高さもデザインも異なっていた。以前にイメージしていた占い師の暗い部屋はどこにもない。リビングのサイドボードに飾ってある2Lサイズの写真に集合写真があった。何かのイベントらしい。
ベージュのショールを肩に掛け麻と思われる素材のロングスカート姿で、ゆっくりとした足取りで来栖を案内する。ずいぶんと小柄だった。茶黒の髪を掻き上げると、ここすぐに分かったかしら、と来栖をねめ回した。九十歳という噂はいったいどこから出たのか、どう見ても五十歳くらいにしか見えず、中背の身体を前に出していったのだ。
「遅かったのね、五百川です」
面会の電話を入れておいたが、そういえば定刻から数分遅れていた。遅刻を詫びながら、今日はよろしくお願いしたい、私の持つ特殊な力について調べてほしい、できるだろうか、詳しく見て欲しい、そう要請する。五百川は頷きながら、コーヒーをいかが?と誘う。頷いて受ける。部屋はツタ類のデザインをあしらった薄いグリーのカーテン、ソファーはオフホワイト色の革製で、出窓のカウンターに熱帯魚の水槽が小さな泡を立てている。床にある茶色のサッカーボールと思っていたものがのそりと動いてぎくりとした。陸亀だった。
五百川は亀を抱き上げ、頷きながらソファーに掛けると来栖にいった。
「あらら、何かしら背中の人影」
「えっ?」
「ええ、あなたの後ろでもう一人いらっしゃるのね」
ああ、いつもの影だろうか。このところ見なかった影が後ろに立っているという。来栖はこの影を、その形状からともしたら女性のものかもしれないと思う。
「女性ですか?」と来栖。
「いいえ、はっきりしないわね」と五百川。
そのとき、他人の姿の影は正面に、自分に関わる影は背後に現れるのではないか、と考えた。そういえば、その影は他人にはいったいどのように見えているのか、鏡か何かに写してみようかと何回か試みた。が、鏡にはなにも映っていなかった。
「で、あなたの霊力を調べればいいのかしら。今日は」と五百川。
「青い影を見るたびに身体がいうことを効かなくなります。この状況から脱れたいんです」
五百川は間をおかずに答えた。
「霊能師はだいたいそうなのよ」       
 五百川は相談者の心情をくみ取ろうと来栖に目を鋭く見据えた。
「青い炎が人の形に見えたり、先が見えたり、例えば先日あった千葉の地震とか、昨日の高速の玉突き衝突とか」  
五百川はゆっくりと頷いている。カウンセリングを施す療法士のように五百川はいった。
「先が見えるということがそんなにいやなの?」  
 五百川はもったいをつけたような口ぶりで、来栖への返事を保留している。来栖は霊力のあるなしだけをはっきりいってほしいと思っている。
「ねえ、来栖さん、何がどう見えるかなんて霊力をはかる目安にはならないの。自分が霊
能師だ、と思えばその時点で霊能師が誕生するのね。あなたにはまちがいなく霊力があるの」
 ここは、なんでも霊力を思い悩む者の行き着く先になっているとか。霊能力を持つものの大半は亡者に苛まれるが、この者たちを救う場所などなく、力尽きた霊力をもつ者どもが最後の頼みにここへやって来るとのことだった。また、このユタの霊力はその世界では広く知れ渡り、普段と変わらない表情で霊の言葉をはっきりと代弁するということだった。
時には霊を呼び出して会話することもあるという。
「私は霊能師?それとも異常者ですか?」
と尋ねる栖来。五百川は質問が終わらないうちにいった。        
「両方。どちらも」
と五百川。さらに続けていう。
「あなた、わたしのように霊を集める宿神になれそうもないわね。できないでしょう。なら、小さく霊力をつかうしかないでしょう。あるいは異常者として病院で生き永えるのも選択肢ね」                        
 五百川にはおそらく来栖の行く末が見えるのだ。来栖の行く末を具体的にいつでも取り出して来るであろう五百川の言葉に警戒した。五百川はこめかみを指で叩くしぐさを繰り返す。何が見えているのかと気に掛かるが、ことばにはしなかった。思いもかけない過去などを指摘されて慌てふためくかも知れない、と思った。
「あなたは、恨んでいるでしょう、向こうが見えたり、先が見えたりね」        
 と五百川がいった。
母が言ったものだった。あんたの性格は父親譲りって思うでしょうけど、そうじゃないのよ。むしろ私ね。お父さんは偏屈で頑な、私は思い込みの激しい方、あなたの場合その短絡的な気性が災いしている、と。母なりの的確な評価だと思った。
 部屋の中でどこからか吹く風が肌にあたり、来栖の髪を逆立て、やがて空気の流れは途絶え、排煙機に吸い込まれるようにわずかな香匂を残して消え去った。
「ごめんなさい」
五百川のいたずらだった。異界を操ることのできる女、唖然として五百川の艶ぼくろを見ていた。
「来栖さん、私たちのように異界を知ることができるのは、いわばマイノリティー。霊力をもつ者はその時点で大きなハンディーを背負っている。そう、まるで妖怪扱い。でもこのことは知って欲しい。霊力など誰でももっている事実だということ」
五百川はさらに続ける。
「誰でも先を読み、異界の影を朝に夕に当然のように日々を過ごす。知らぬは本人だけ。異界あっての今生、私たちは堂々と生きていいのよ」
五百川は霊能の有り様をさとすように話す。
「現に、異界と共に過ごした時代があったわね。つい最近までよ。で、どう今は?不安を抱えた人が蜘蛛の糸に群がる光景ね、頼られるのは私たち。今さらって思うわね」と。
来栖は励ましと受け取り、胸に暖かいものを感じ取った。
五百川の言うとおり霊能師としての道しかないのかも知れないと思う。館の、こともあろうに精神病棟が来栖の定住先だったことを思った時、なんというややこしい定めかと唇を噛んだ。
「あなたは、いずれ何らかの透視をすることになるでしょうね。いったんその力を人に示した後は、あとは霊能師として占いを続けるしかないでしょう。そうね。でもほとんどの霊能師がその霊力に頼るようになる。身体の不調は徐々に改善されるでしょう」
五百川は来栖の腕に手を添えて、同情とも憐憫ともつかない表情をすると静かにいった。
「あなたにはおそらく影が見え続けるから」
いつかはこのユタの元へ来るような予感をもっていたがそのとおりになった。その結果、細々と霊力を活かす方法しかないのだと知り、今、五百川にすべてを委ねている。
「ところで、あなたは最近親しい人と別れたのね。しかも大切な年上の人と」
「・・・・・・」
「あなたの後で薄い色のオーラーをまとい、あなたに替わって先に歩いて行く人、このイメージ。誰かしらこの人」
「ああ、それはたぶん先輩です」
「ああ、お祈りをしている姿も見える」
「朝の祈りの時間でしょう。きっと」
「ここはかなり大きい建物の屋根が見える。かなりの急勾配ね」
「ああ、それは光洋館ですね。病院の」
 五百川は来栖のほとんどを透視できているらしく、しかもその未来も見えているらしい口ぶりに来栖は発することばを飲み込んだ。五百川は本物だと確信する。五百川は窓に近寄り、振り返るといった。
「ねえ、来栖さん、今いったことは私には見えていないのよ。でもあなたがたくさんの情報を持っているので、それを確かめながらあなたに伝えているだけ。コールドリーディングね。知ってた?」
しかし、なんのために今この方法を使うのか。五百川の真意を測りかねた。
「情報を引き出す方法?」
「そうなの。私もあなたもいつもすべてが見えるわけではない。だから、依頼者を観察し、ことばを投げかけ、可能な限り情報を引き出そうとするのね」
顔は穏やかにけれどわずかな険を湛えていった。
「霊能師、占い師、どれもこんな程度。ほとんどがまがいもの。透視などできていないし、彼岸など見えてはいないのよ。まして霊など見えていない」
 告発するように五百川は言い放つ。
「あなたの数年後の将来が見える。オレンジ色の光に見える。いいんじゃないかしら。だから霊力を大事にしてね」
 来栖は五百川の首のしわを見ていた。この先、何がしかのトラブルを抱え、五百川のもとを再び訪ねることがあるかも知れないと思った。ともあれ、職業にはしないとは思うが、霊力をなにかに使い、霊からの囚われにもがく者がいれば少しなりとも手助けになればとは思うが。ただ、霊力を隠し持ち、けれど安穏とした日々が送れるだろうかと首を傾げた。いずれにしても、自分の先行きは波乱含みだと思うしかなかった。
  
深夜の、どことも知らない街の雑居ビルの鉄階段で行く当てなく時間をつぶしている。先ほどの五百川のことばを反芻している。
わずかながら霊力をもち、必要なら霊能師としてやってやれないことはないと知り、かといって進んでこの特殊な力を試そうという気にはなれず、霊力があるとわかったにせよ、あの忌まわしい倦怠感から解放されたわけではない。医者でも、ユタでもこの体は治せないのだと思ったとき、静かにそして慥かな孤立感が襲ってきた。
もし、この霊力を使うとすればどのようにどこで使うのか、住まいも、伝もないのに、活かしようがない、暗たんたる思いで佇んだ。
ただ、街角に銅像のように立ちんぼで、占いします、などということを思い描いて、あまりにも場違いな感じがして思わず顔が赤くなった。だいたい、自分は異常者なのであり、人の行く末をアドバイスするなどとてもできるものではないと自分を戒めた。
ビル群の底で何かがきらめいたように見えた。ネオンが切れる前の最後の点滅らしかった。天空にはカシオペアの足だけが見える。渦巻きの底にいるような狭いビルの狭間で、少し眠れたらと目をつむるが、ハンマーで頭を打つように眠りを妨げるものがある。身体が、眠ったら死ぬと思い込んでいて、警告を発しているらしい。鉄錆びの階段を通して冷気が腰からせりあがってくる。ここにいる理由をもう一度考えようとしたら、強烈な眠気に襲われたあと、パイルを打ち込むような大きな音が鳴り響いた。 
ビル群にある飲食店の客らしい靴音とドアの音が聞こえる。通りの方から女の声で
「ばかいってんじゃねぇよ。三日過ぎてんだよ、どうすんだよ!」
という声。声に。犬の遠吠えが聞こえた。それにつられるように子どもが泣き出した。なんども頭をハンマーで叩かれている。頭上にひしひしという音が聞こえたが、見えはじめたわずかな明かりに向かって鳩が飛び立つらしかった。
「あいつ今日判決だってよ。しばらく鉄格子の中でマスかいてろ」
 気温がもう少し高ければ少しは眠れると思っている。
鉄階段の下で砕いたハッポースチロールの山が動いた。人だった。なんでこんな所に人が寝ている?ホームレスかと思いつつ足で手を押しのけた。人影はううんと呻いて仰向けになると、酔った後のようなだみ声をあげて もういいよ、もう、といいまた向きを変えて寝始めた。ハッポースチロールの山が上下している。ホームレスといっしょにビルの谷底で夜の底にいる。なにをどうするとも予定は立たず、もともと計画などなかったが、かといって実家へ帰る気はなく、ましてや館へ戻る気は毛頭なく、失踪初日から早々に窮した。
兄がいったものだ。お前は亡くなった母親に気質が似ている、お前の病も母親譲りだろう、見えるはずもない幻視などを見て、それに引きこもる。母親がいっていたが、自分の中の世界は限りなく甘く誘うとか、要は自分の中でおぼれていたいだけ、自意識過剰、いや、未成熟だっていう話だ、と。兄はまるで脈絡のないことばを連ねた。
母が死んだのは父の見通しの甘さがそうさせたと思っている。小太りだった母はどこから見ても健康体そのもの、だが、六十一歳を越えた年、血便が出たと慌てて掛かり付けの医者にいったところ、医大への紹介状をもらって来た。医大の内科で内視鏡検査をしてもらったところ、ポリープの破れによる結腸潜血3だとの検査結果表を突きつけられた。付き添った父は、やはりポリープだった、母の肉食が災いした、食事療法で体質改善すれば治っていくだろう、と家族に知らせた。このころ、母の近くでよく青白い影が揺らめいていた。それはふだん見ない影だった。後に、血便は結腸ガンからくる出血だと知った。
日々痩せてゆく過敏な母を疎ましく思いながら、父と交代で病床看護に付き添ったが、ある日、父子が医師から呼び出しを受けたことがあった。何事かと思うままに医師の話を聞けば、入院が長引きそうだ、長期入院が可能な病院を紹介するが、といった。父はすかさず、それは願ってもないこと、どこですかそこは、と聞くと、医師は一回目を瞑った後、ゆっくりとM市郊外の「さとわ」というところだ、同意いただければすぐにでも紹介状を書くが、と応じた。そこは来栖も聞き知るホスピスだったが、父は先生の申し出はありがたかった、と医師に合掌して礼を述べた。
 うめき声は止んだが、ホームレスはしきりにあっちこっちを掻きむしっている。ジャージーの色、ロゴマーク、まちがいなく午前に見た殴られ屋だった。ハッポースチロールのベットで寝ていたが、野宿はそうとう慣れていると思った。こんな方法があったのだと関心していると、薄明のなかで再び鳩のような呻り声を上げるといった。
「ん、あんたは?」
「終電に乗り遅れて・・・」
「一日一年。寿命が縮む、野宿はよ」
「ええ」
「嘘だと思うかい。嘘じゃねぇよ。一昨日この小路の奥で一人死んでた。まだ五十代だってのによ。野宿すっと身体から生気が無くなるって」
 窓明かりだけの小路の底で、一人の薄汚い男が何かを呟く。それ自体が異様といえばいえるが男はまるで旧知のような愛想を浮かべて話すのだ。
「あんたにあるよ、生気。俺何回も死にかけてるから分かるんだ」
「そうなんですか」
「あんた何者よいったい?」
来栖はこめかみを人差し指でたたきながらいった。
「僕、おかしいんです。ここが。いえほんとに」
「へえ、狂ってんのか?あんた」
「ええ、たぶん」
「ええ、そうかい?そうは見えんけどね。俺の方がよほどおかしいけどな、ここ」
 と、こめかみを突く。男の顔が崩れた能面に見えて慌てて視線を逸らした。
「熱いコーヒーが飲みたいよなぁ。出ようやここ」
 見れば、上下の白いスポーツウェアー、プーマのロゴマークが胸に付いて、背中にはあとでつけたらしいペンテルという白抜きのアルファベットが縫いつけられている。無言で男の後に従う。歩き出して気がついたが、男は少し頭を左右に振る癖があるらしい。そして足が時々もつれた。まだ酔っているらしい。
明け切らぬ朝の誰もいないファストフード店に入り、二百円のコーヒーセットを注文する男。来栖の分まで払い、トレーをもって細長い店内のテーブルを確保する。テーブルから手すりにもたれ掛かって小さな庭を見た。動くものが見えたので注視するとオナガが植え込みの中で羽をばたつかせている。早朝の陽光が眩しすぎた。
庭の周囲はメタセコイヤの木々、中央の池にはヒツジクサ、周辺の灌木はアベリアだと思われ、池の左右には木製のベンチが設えてある。この庭の植栽配置はよくできた箱庭に見えてくる。男は黙々とハンバーグを頬張って、コーヒーを啜る。
上空に何か動くものの気配があり、見上げると龍の形状に似た飛行機雲が現れて、脱皮するヤゴのように変形し始めた。
男は右肩を時々上げてから胸を張る。ゴリラの威嚇行為と似ていた。身長は一七0センチほど、臥体は大きく二の腕に血管が浮いている。ラグビーの選手、いやレスリング?などと男の値踏みをする。顔は何かの事故で手術しただろうか、頬の下に大きな傷跡がある。鼻は右の方にずれていて手負いの獣の顔を思わせた。上下の白いジャージーにナイキのロゴマーク、首には金の太いネックレスが下がっている。
「ああ、これ?この顔はね、殴られた跡よ。喧嘩じゃねぇんだ。殴りっこさ」
「なぐりっこ?」
「そうだよな。分からねぇよね。あのね俺の仕事、殴られ屋」
「殴られ屋?」
「そう、俺の職業。今朝あのビルの脇で寝てたよね、俺殴られてさ。半分気絶しかかってそこへたり込んだわけさ。もうてっきり死んだと思ってた」
「僕もそう思った」
「いつもそうなんだ。あっちの世界に入りかけたり、こっちの世界に戻ったり」
 なんでまた、殴られることが職業なのか、殴った人間は犯罪にならないのか、承諾済みだからいいのか、そんなことを頭で繰り返している。
「殴られるのは悪くはねぇよ。けど、脳内血管が切れるの。いやほんと。血管がもろくなってんだって。俺の脳は八十代だってよ」
「そんな危険を冒してまで殴られ屋?」
「俺にもよう分からん。けど、毎日少しずつ脳が萎縮することは確か。夢も希望もあらしねぇっよ、ての」
 窓外は、数日ぶりで晴れ上がった明るさに溢れ、小さな幸福感を感じはするが、寝不足で目の奥が重く感じられる。こんなときおうおうにしていきなり影が湧き起こることがあるのだが。
「そっちの頭はどうだって?」
「幻が見えるんですよ」
「へぇ、幻ね。俺は毎日だけどね。ほら、見てみな。駅の方に人が流れてさ。で、目を細めると、そうすっとモノクロの川の絵に見えるんだよ。あの世かと思うからさ」
 目を半眼にして試みたら、慥かに浮遊物の多い淀んだ川に見える。眠気のためかもしれない。男のことばが遠くで聞こえる。そのとき、青い空気の揺らめきが始まり、そして人の形となって中空を漂い始めた。
「どっかで眠りたい・・・・」
「ああ、そう?家来るかい?俺ん家ここからわりと近いよ」
 ゴミ捨て場のような小路からJRを使い新大久保の駅付近まで来たとき、男は早朝の電車の中で来栖のとなりで首を垂れたまま干涸らびた魚のように寝入っていた。やがて、来栖も電車の揺らぎの中で襲い来る眠気に誘われた。
船に乗っている夢を見た。船はうねる波に煽られ、上下、左右と揺れる。舳先にいる男は揺れにたじろぐことなく腕組みをして水平線の彼方を見ている。おそるおそる尋ねる。 
この船はまもなく沈むのではないか、引き返すべきだと思うが、というと男は振り向いていった。この船は絶対に沈まん、この船は一本の木からできている、沈むはずがない、と空威張りで笑った。兄の顔に見えた。 意味不明な夢を見ていたが、あまりに現実感のなさに夢が夢であるとすぐに分った。
 兄はいった。子どものころからお前は身体のどこかを掻いていた。何がそんなに痒いのかと母が聞くと、お前は特に痒いところはないが、どこか掻いてくれと身体がいっていると答えたものだった、小学校二、三年の子どもに、身体がいっているなどという台詞などあるだろうか、何を考えているヤツか、薄気味の悪い、未だにお前は癖をもち今では耳の上の頭皮を血が出るまで掻くことを日課にしている。要はお前は神経たかりなのだ、と。
 この霊気質はいったいいつ頃のころからかと振り返ってみたら、中学生のころからはすでに人の背中に人の影を見ていたようだった。もっともそのころは特殊な力だとは思いもしなかった。
 中学校のころ、同級生にお茶屋の次男がいて、次男はいつも付きまとっては来栖をからかっていたが、ある日、あまりにもしつこいものだから、人影が背中に見えるというと襖屋は、いきりたって来栖を押し倒した。たまたま工作道具の袋が頭の後ろにあったので、のこぎりを引き抜いて襖屋の頬に押し当てた。すると、襖屋は腰を抜かして崩れ落ちた。
それ以来二度と付きまとうことをしなくなった。それ以降、来栖は霊の見える男と噂がたった。誰もいじめなくなったが、誰も近寄る者もいなくなった。

いらっしゃいませ、とバーテンが何かの透明なカクテルをつくりながら、来栖とホームレスに笑い顔一つ見せずに迎える。後ろから、女がタバコとライターをカウンターに指し出し、いらっしゃいといい二人の間に割って腰掛けた。ペンテルは片手を挙げてあいさつすると、反対の手で女の尻を軽く掴んだ。女はペンテルの手を掴んで、今日の飲み代高くつくよ、と笑いながら手を離した。この店のスタッフだという。ペンテルはカウンターの椅子に掛けてからなれたようすでいう。
「マスター、いつもの頼むよ」
 ホームレスはこめかみに人差し指を当てながらいう。黒ベストに蝶タイのバーテンがマスターのようだったが、男は口元を左に引き寄せて薄く笑うといった。
「お名前は?」
「ジョー・ペンテル」
「それはニックネームでしょう。本名は?」
「丸子圭介」
「今日は何日ですか?」
「へへへ、五月十二日だよ」
「一〇〇引く六十八は?」
「三十二さ」
「じゃ、生きるって何?」
「自分の足を食うこと」
「天国って?」
「地獄の別名」
「ペンテルさん、合格ですよ」
「いやぁ、昨日もファイトでさ血管二、三本切れて。気がついたらこの人の隣で気絶してた」
 この男は、殴られ屋ペンテルというニックネームだということが知れた。
カウンターの後ろはビリヤード台が六台あり、それぞれの照明が天井から下がり、二台でスリークッションに興じている中年の男が二人いた。ここはビリヤードバーのようだった。カウンターの背後にグラスケースがあり、鮮やかな照明で人影が浮き上がって見えた。ダーツボードに向かって無心に羽を打ち込む若い男がいる。背中に青い揺らぎが見えた。彼の近しい人間が逝ったかも知れない。影が出現するからには何らかの意図があろうが、出現の望みはなんなのか、もしくは伝えたいことはなんなのか聞いてみたいといつも思う。が、これまで何度も影にアプローチしてみたが、影は揺らめくだけで反応らしい動きは一切示さない。
今、傍目では自分の周りに誰も映っていないはずだが、唇が動く光景をバーテンが奇異に思ったらしく、こちらを注視する。
バーテンが聞いた。
「何かおっしゃいました?」
 ペンテルが口添えをする。
「この人ね、どうも向こうの世界の人と話ができるらしいの」
 バーテンダーは聞き返すような仕草をすると首を振ってあり得ないという顔をした。おもしろいですね、と小声で呟く。
「そうだよね。嘘っぽいよね。正直、俺もほんとって思ってんの。どう?」
ペンテルは、詳しく尋ねようとする。ああいってくれたか、黙ってくれればそれで済むものを、と少し悔やむ。バーテンは自分の返事に聞き耳を立てている。
「ぼく、むこうの世界が見えるとはいってませんよ。ただ幻が見えるっていってるだけで。だから、頭がおかしいんですきっと」
「えっ、そう?幻が見えると頭がおかしいことになるんかい?」
「そうなんじゃないですか」
 バーテンが何かを期待して聞き耳を立てている。
「どんな姿が見えるの?」
「はっきりとした像ではないんです。一瞬で消えることが大半で」
「ふうん、映画みたいなわけにいかんのか」
「ええ、不鮮明でほとんど画像を追う間もなくて、それが冥界の人なのかどうかは断言できません」
「そうか、透視とか霊界の世界じゃないんだ」
来栖は、女の白いなだらかな左肩を見ていた。女は、えっ?こちら占いする人なの?と来栖に確かめる。いや、と否定するが女はしきりと興味を示し、私を見てよ、と来栖の袖を引いた。
「いや、だからはっきりしない像が見えるだけだから・・・・」
 構わないから、見てよ、と手を合わせて依頼する。
五百川がいったものだ。
ねえ、どこかの原住民にね、部族の全員がシャーマンになるというんだって、輪番にね。すべての人が部族から尊敬されている。ところが、われわれは異常者扱いよね。なんの差なのかしらね?と。いずれ、あるだろうと思っていた霊視の依頼は簡単に実現し、あっけにとられて女の顔を覗き込む。ここにきても、霊力の行使をためらうものがある。
 ペンテルは、氷の音をたてて水割りを流し込む。時々大きな深呼吸をする。そして、身体のすべてを吐き出すかのような溜息をついた。
「俺の頭も脳がグシャグシャでもう発酵している感じ。俺は物が見えるんじゃなくて、次から次へと見えなくなる。視野狭窄っていうの」
 ペンテルは大きな頷きを繰り返し、そうなんだよ、そうなのさ、と呟き、来栖を上から下まで一見した。
「考えたんだけどさ、あんたの占い、あ、いや、霊視ってぇの?稼げないか?」
 言下に断る。
「勘弁してください」
 ペンテルが何をいい出すかと思えば、霊視を商売にしよう、きっと儲かると思う、とそそのかすのだ。
当座場所は、ビッグフットの上階の控え室、霊視の時は他人は一切入室禁止、一応そのようにオーナーに頼まなくてはならないだろうという。見料は基本料三千円、状況によって十万を上限とする、あんたの服装は黒いスーツに黒いシャツ、壁には黒いカーテンを下げ、リラックスできるカウチソファ、他にテーブルと椅子をセットで、パソコンとプリンターは持ち込みで、これは必需品だよ、あんたはいかにも憂鬱そうに構え、すべてを見通すような顔をつくる、どんな顔かはあんたが考えてよ、さあ、なんていう店名にしようか、占い所じゃ芸がなさすぎる、いっそうのこと霊能師・来栖なんかどう?などとのうのうと計画をまくし立てる。あきれ顔で固く断ったが、ペンテルはその後、性懲りもなく誘いを続けるのだった。そして、こんどはまるで夢物語を語るようにいう。
「少し稼げたら、とりあえず波照間島帰るかぁ。俺の生まれた所。そこでクルーザー借り切って珊瑚の海にダイブだ。海の色、さまざまに変わる。波照間だけだなあの色は」
 沖縄のというより、日本の最南端地域で聞いたこともない周辺の島々を連ねて紹介する。この男の知らない一面を覗き込んだように思った。が、本人のことばなのでそうかとは思うが、老人のように記憶の齟齬がある。沖縄の紹介中もいくつかの記憶の綻びがあった。
ペンテルは鼻を人差し指で一こすりするといった。
「ミロク神だよ。俺の守り神さ。波照間の。なんか許されるんだよな、あの顔見ていると、白い布袋様のかおだよ。おれに似てないか?」
うっとりするような表情を見せる。
「あの島には神の使いのオオゴママダラっていう蝶がいてさ、これはでけぇよ。いちばんでけぇよ。これがゆったり飛ぶんだ、青空をバックにさ。それとサトウキビ畑が続いてさ、別世界だな波照間はな」
 ペンテルは唇を引き上げてかすかに笑った。
「ていうかさ、これ以上殴られ屋、無理だって。いつ死んでもおかしくない状態だよ。この脳。で、早めにこの仕事引退したいわけさ。当座、あんたと占いでくらせたらなぁと思ったわけさ」
 眉を曇らしていう。ペンテルは、薄く笑うと静かに続ける。
「そうだけどさ。俺はさておいて、あんたどうするの?これから」
 とっさに館を思い浮かべたが、勝手に抜け出してきてどの顔をして門を潜るか、少なくとも帰るところではないと首を振った。
 脳が壊れていくことに代価を得て、ペンテルが殴られ屋家業になっていることを思うとき、霊力によって異界へと誘い、そして先行きをまことしやかに告げる。人は怖れおののきすべてを来栖に委ねることになる。人によっては神の使いとして崇めるかも知れない、
 背筋に鋭い寒気が走った。
「なんどもいうようだけど、見える像がはっきりしないですよ。単なる幻視かも知れないし。そんな不鮮明な霊視なんかできっこないですよ」
「そう・・・・でもね、やってやれないことはないと思う。いい加減な占い師などどこにでもいそうだけど。夢も希望もあらしねぇよ、っての」
いつだったか、兄が爪の手入れを続けながらいった。お前は幻影が見えるというが、逆にお前がいちばん見えていないのは自分の偏屈で融通の利かない考え方だろう、なんでそんなに幼いんだ?何しろおまえときたら、先日も、自分の中の子どもの部分が勝手にそういっている、などとうそぶいて、周りの人たちからすっかり呆れられてしまっていた。それに、もう一人の自分が勝手な振る舞いをするが、きっと霊の仕業ではないか、などと知人にいってた、バカかお前は。お前は自分の作りだす世界に閉じこもることがそんなにいいか?ただの引きこもりだろうが、と罵倒するのだった。よく会社がお前を雇い続けると思ってさ、と。
そりゃ、こっちの役所にもおかしげな奴がいる、若い奴に多いな、お前のようにさ、なんでだ?それは、対処能力の欠如、と自己中の狭間で泳ぎまわっている輩だ。ただ、仕事の能力は悪くはないんだ、コミニュケーション力がすこぶる低い、いつも対人関係で悩んでいる、そのことで疲れきっている、いいか、誰でもない自分の迷いの中で溺れている、ああ、いやだ、いやだ、反吐が出る、その偏屈な考え方をやめれば、病気など直ちに治るはずだ、と付け加えた。いっておくが、この家の家系には精神病の気質はないはず、もしあるとすればこれ以降家系は変わることになる、残念だが仕方ないな、と兄はこちらの顔を見ることもなくいい放ち、軽く二度ほど舌打ちを繰り返した。

あれは、いったいなんだったのだろう。幼いころのことではあったが鮮明な記憶がある。晩秋の夕映えが濃くなったころ、家の軒先近くにあるハルニレの根方で一人の少女が盆提灯を提げて立っていた。家の縁側に回りハルニレの根方を見れば、提灯の明かりに浮かび上がったのは隣家に住む左官屋のキイに違いなく、さらに見ると。キイは夏でもないのに薄紅色の花柄の浴衣を着込み、髪には細い花櫛を挿してたたずんでいた。時々、誰かをまっているかのような伸びを見せ、そのたびに肩を落として座り込む。やがて、根方に女が現れ、キイの手を取ると土手道を目差して階段を昇り始めた。あれは母親だったのか、親戚か何かの知人だったのか分からなかったが、二人は土手の階段を昇り切るといったん歩を止めて、それは呼吸を整えているらしかったが、右方向に行く先を定めると歩き出した。 
来栖は軒先から階段の下まで進み出て、どこへ行く? と呼びかけたが、声が通らなかったらしかった。時々、つないだ左手をゆするキイが女の顔を見上げる影が見て取れた。盆提灯が歩くたびに小さく左右に揺れた。
それきりだった。以後キイの姿を見ることはなかった。近隣では、神隠しにあって消えた、人掠いにあった、池に嵌った、などの囁きが拡がったものだった。

扉にはビッグフットとアラビア文字が刻まれている。ドアノブは青銅の腐食が目立っている。煉獄の扉のように帯の鉄板が十字に貼り付けられている。ドアを押すと、店内はオレンジ色の照明がやや暗めに沈んでいて、グラス棚だけはバックライドが輝いている。カウンターの奥にある丸椅子に腰を滑り込ませると、バーテンが入り口付近を顎で指し示す。
カウンターに近づいて来る女がいる。薄暗い照明が女を小さく見せた。青い色のパンツ、やや高めのヒール、スパンコールをあしらったベージュのセーターにエスニックなネックレスを長々と胸元に垂らしている。肩あたりに青い空気の揺らぎが見えたように思った。一つ身震いすると影は確実な人形を徐々に現し、女の背後で揺れた。それにしても痩せている。腹が突き出ていて、体全体がS字のように歪んでいる。
薄い青い陽炎は女の頭上周辺に燃え、炎を捉えようとすると、人の形はたちまち薄らぎ捉え所のない光の散らばりとなって中空に漂った。
確定はできないが、生き霊か?やがて、地の底から発するような重低音の呟きを発し、小刻みに震える波動となって来栖の側頭部に伝わってきた。ことばにも聞こえるが、ただのノイズともとれ、無理にことばとして聞き取ろうとするとたちまち四方に飛散した。
ペンテルが後ろから声をかける。
「この人、オーナーさんから紹介の人。見てほしいんだって」
「ええっ、ちょっとそれはどうも・・・・・・」  
「来ちゃったんだもん、この人。頼むから見てあげて」
 ダメですって、と手で制したが、相変わらずペンテルは薄笑いを浮かべてしまいには合掌までする始末。指で天井を指して占い室を顎でしゃくる。いうがままに女は案内するペンテルの後に従い占い室に入り、カウチに座った。仕方なく後に従う。この時、小さく霊力を使うという五百川のことばを浮かべていた。これより、霊能師としての試練を試みる。この光景を五百川はすでに見ていたのだろう。
女は青ざめた顔でこちらを伺っている。背後に青い揺らぎが見えた。
女はしきりにショルダーバッグに手をやって中身を気にしているふうだった。女は人差し指を唇に押し当てると、静かにするようにと指示をする。バッグから生き物の動く音がしている。
ぺンテルは黒いショルダーバッグ、右手の薬指には大きなトラ目石の指輪、セットだと思われるブレスレットが填められている。薄い唇に光沢はなく一箇所ささくれが見えた。顔の肌は乾燥してかさついている。首の皺が年令を現していた。五十歳前後と見た。目が細くて弥生人の絵に似ていた。
女は、唇に人差し指を当てながらショルダーバッグに目をやるといった。
「内緒!ここに、お、男の子いるんだよ」
女は吃音だった。ショルダーバッグを指で開き、中で蠢く生き物を見せた。イタチの仲間らしかったが、種類は分からない。
「いつも一緒なの。こ、この子、娘の形見なんだわ」
 そういうと、獣の首と胴体を掴んでバッグから引きづり出した。腕の上に載せた。いきなり引きづり出された獣はあたりを見渡し、腕から首の後ろに回り、肩を左右に走り回る。
さながら芸当を見せられる思いで、あっけにとられて見入っていた。女は肩の獣を押さえ込むとショルダーバッグの中にしまい入れた。バッグから首だけ出ている。
動物の頭を撫でている。女は手を噛まれて小さな悲鳴を上げた。
「この子、ヨ、ヨシユキっていうんだ。いい子いしょ」
シートに座り直したとたん女の背後で新しい青白い空気が揺らいだ。動物を溺愛する女、まるで舐めるようになで回し、いい子、いい子と繰り返す。それに北海道訛りの女。
「今日はね、娘に会いたくて・・・・。み、見てよ先生」
 女は突然涙声になると、手で顔を覆って嗚咽を始めた。
「私、今にもどうかなりそう。ご、五分ごとに娘のことを考えるんだわ」
 お前は霊視ができる、というペンテルの誘惑に答えるつもりはないが、目の前にカウンセリングを待ち、身も世もないほど落胆している女がいる。女は憑き物にでも付かれたような目を上に向けて涙を溜めている。
集中して女の顔を見る。乱れてはいるがどこかの街並みらしい像が背後に現れた。高い建物らしいものも見えた。街灯が見える。街だとすればどこだろうか。実在しない街かも知れない。ただ、風があるらしく街路樹と思しき枝々が揺れた。まもなく像は消えたが、ただ、ミント系の薫り高い草の匂いがした。来栖は、ちょっと失礼しますというと女の左腕触れ、もう見るしかない状況が目の前に広がり、仕方なく女の顔を覗き込む。
女の背後で一本の青白い炎の柱が揺らめいた。娘の霊だろうか。誘引法で対応する。
「街路樹や街灯が見えます」                      
「なに?る、留萌の街でないかい」        
「人影が。娘さん?かな」             
「ああ、恵美子が、子どもが街中をさまよい歩いているって?」
「ええそのようです・・・・」
「ほかには、な、なにが見えるん?」
「子どもが泣いている・・・・・。後ろで男の人の影が・・・」
創り上げたイメージを使って宮坂と話す。
「別れた亭主だ、きっと」
 眉間に皺を寄せると女はボソボソと呟き始めた。
「電話会社で百人使ってた。だ、旦那。よく部下が家に来たもんだ。私、そこでも旦那に怒なられたっけ。あ、挨拶が悪いとか、り、料理がまずいとか。旦那のいうこと逆らえないんだ、わ、私。でも恵美子だけはよく可愛がったね、旦那。恵美子、ち、中学生になっても旦那と一緒に寝てたっけが」
子どもを案じてさまよう親がいて、何の因果か、異常者の来栖にすがりつきわが子の霊を嘆く。霊視をよくする者は他にいるだろうが、偶然とはいいながら見る者と見られる者とに別れて異界を覗こうと試みている。
「なんで一人で逝くんだよ」
女が身をよじってすすり上げ、顔を崩しては涙声を搾り出す。私をなんで一人にしたの、こんな残酷なことをなんであなたはできるの、女は周りも憚らずに顔を天井に向けて咽び泣く。
女の話をまとめれば、恵美子という十七歳の娘がマンションの一室で、首をくくったこと、その死体を降ろすために椅子を使いかろうじて娘を抱き上げたこと、そして、天井にぶら下がった紐を掛け直し、今度は自分自身をくくろうと再び椅子に登り、紐を首に掛けたところでたまたま訪れた娘の友人が部屋に駆け込んで、死にそびれたこと、何が悔しいって、私が死にきれなかったこと、あの娘の友人、ほんとうに余計なことをしたの、といってまた遠吠を始める。
「あれね、に、人間泣けるもんだよ。私三ヶ月毎日泣いてた。で、が、眼瞼下垂症に掛かって、これよ」
 と指で垂れ下がった上瞼をつまんで瞬きを繰り返す。女の後ろでもう霊らしい一本青い柱が立ち左右に揺れた。恵美子なる娘は確かに強い霊と化しているとみた。
来栖は目を閉じ、再度霊視を試みる。青い影は天井の全体に拡がり、雨雲が出たように青い塊がつくられてゆく。やがて、人の形を整えると来栖の前で前後に揺れ、そして形はそのままで影は横たわるようにゆっくりと移動した。
「横たわる影が、泣いている?・・・・・」
「ええぇ、、恵美子はあちらで泣いているんかい」
来栖はゆっくりと頷いた。
「恵美子がいるんだね。私の近くにいるんだ」
娘は亡くなっている、が、死別後一年以上経っても生前と同じように我が子を目にしたい、その姿を見たいと繰り返す。
影をまとめれば、北海道らしいルモイの街と思われる一角で、恵美子は横たわるもしくは倒れているらしい。ここまでは見えたが、正確な情報としては母親に伝える内容は半分もなかった。あれだけ拒んでいた霊視が目の前で意思とは逆にスムーズに進んでいくかに見えた。そして何回もお辞儀を繰り返して礼をする女を前に面はゆさで身がすくんだ。
宝石商、宮坂頼子という名刺を差し出した。女は来栖の手を握ってもう一度ありがとうね、といった。
 
若い女の声がビッグフットの店内に響き渡った。ダーの羽が中心に当たったらしかった。そのときペンテルが、顔を赤くして店に入って来るなり、少しふらつきがらカウンターに倒れ込む。
「いや、いや今日、脳の血管が三、四本切れたよきっと。今日は相手がプロ上がりでさ、いやぁ思い切り殴られた。久しぶりだった」
「だいじょうぶ?」 
 カウンターでへたり込むとペンテルは両手に頭を預けて突っ伏した。日に日にペンテルが壊れていくようだった。ペンテルは鶴のようなうめき声を上げてから、頭を持ち上げて店内を見渡していう。
「知り合いかい?」
 先日もダーツボードに向かってシャトルを打つ男がいたが、同じ男らしい。ショートヘアーは、今時なんの着色もなく白髪交じりの黒髪だった。一見、中年のくたびれた親父に見えたが、ただ、顔に乗っているつやが妙に若々しかった。  
動きをみていると羽は中心からほとんど外れ、時には刺さらないまま、床に転がり落ちる。ダーツは慣れていない。羽の持ち方で分かる。野球のボールを投げるように身体が横向きになっている。そのとき、男とは違うもう一つの影が揺らぐのを見た。無意識に誰の影だろうと呟くとバーテンは男の方向を見て、先日お見えになった方ですよ。頭上に薄い黄色の影が見えた。もう一本の炎がどこからともなくたち現れ、それが重なり合う。
 男がこちらをちらっと見て、わずか視線を合わせ、意味深な笑みを洩らすとまたダーツボードに向き直って羽を射始めた。
「どうしたの?ん?出ているわけね、影が」
来栖は無反応でペンテルを見つめた。ペンテルがいう。
「俺には何も見えんけどな」
バーテンーが男の方を向いていった。
「人を捜しているらしいですよ。あの人。先週、ここでそう話してました」
「へえ、誰を?」とペンテル。
「さあ、だれとは聞いてませんね」
「ねえ、クルス、誰よ?影って」
 バーテンが男を見やる。気づいた男は、もう一度来栖の方を見ると羽を持ったまま近づいて来る。背中にややベージュの色に近い炎が見える。そして時々人影に形を変えて揺らめいた。男は来栖に近づくと前髪を払いながらぼそりといった。
「あなたですか?向こうの世界が見えるって人?」
 男は確かめのことばをかけてきた。来栖はバーテンの顔を見た。バーテンは一つ頷いて
来栖の顔を見る。
「いや見えるとはいってないですけどね。ただ、不確かな影が見えるだけです」
「もし見える影が人ならそれは誰ですか」と男。
「それは分かりません」
「で・・・・。今はいない妻を捜してほしいんですよ」
 この男のやつれ具合はそこに理由があったのか、と納得もし、何やらただならぬ気配すら感じてもう一回男を見直した。男の背中付近から薄緑の炎がもう一本立ち上がり先ほどの炎を抱き込むようにして一つになった。不思議な絵だった。
「消えたんですか?」と来栖。
 男は頷いて続ける。
「あの日、近くのスーパーで買い物をしていたとき、妻は私をおいて突然いなくなりました。私は三日間スーパーの周辺をさがしました。これまで、あらゆる方法で妻を捜しました。けど、未だに不明のままです。妻を捜していただけませんか」
「ええ、できればそうしたいですが。僕はあのテレビなんかで紹介されるような霊力をもつ人間ではないんです。まして不明の人を捜すことなどできません」
 男は静かに力なく微笑むと そうなんですか と頷いてからビールを注文してカウンターの来栖の隣に座り込んだ。
男は来栖の目を確かめる。いやそれはなんとも・・・、と曖昧な返事を返す。男はやや落胆したようすで前面のグラスケースを見ている。
「あれでしょう、人が消えるって簡単ですよね、そう、となりの部屋にいってしまうよう
に、何ごともなく、ある時突然消えるんですよ」
 男は感心したようにいう。
「ただ、見える影の情報だけならいえますけど」
 男と会話を重ねるうちに男の事情が見え始める。話の中で、男は男の知らない妻の姿に怖れ戦いているらしかった。
「ええ、ぜひお願いしたいですよ。妻は以前、友人と確かにこの店に寄ったことがあるというんですよ。半年前」
 男はそういうと妻の写真と捜索ポスターを内ポケットから取り出しカウンターの上に差
し出した。
「拝見します」
といいながら来栖は写真に目をやった。写真に手をかざすと手に微少な電気が伝わった。
エネルギーが感じられる。生きているだろうと確信を持った。エネルギーを感じられる時、それは命の力なのだ。
「ご本人について必要だと思われることをお尋ねしますが・・・」
仕事、住まい、性格、など最低限度、知らなくてはならないことがらを尋ねた。
男は妻ついて語り出した。名は古関 乙(きのと)、年令は四十一歳、仕事は区の公民館職員、先月、スーパーへ二人で買い物に出かけた。スーパーの職員がドアーを出て行くところを見ているがその後の足取りはつかめていない。まるで、ジクソーパズルのピースを一個抜き取ったかのように消えた。
性格的には、物静かだが一途なところがあり芯の強さをもつ。物事にこだわることがあってしばらくは関心を寄せたことがらに熱中する。木に強い関心を寄せネイチャークラフトを趣味とする。家にも妻のつくった木馬や他の動物たちの作品がおいてある。
 身に着けるものの特徴はそうないとは思うが、黒いタートルネックのシャツと緑色のコールテンシャツは好んで着ている。それにいつもノーメークだ。時々唇をステックでなぞるが、唇の荒れ防止だ。
ネイチャーガイドの資格をもち、公民館活動の一環として行われる自然観察会を月に数回近郊の里山をガイドする。確か妻のパソコンには山の写真がたくさん入っているはず。
本人の写真をもう一回見直す。何かに見取れているふうで視線の先が分らない。髪はセミロングで後ろに結んでいる。背は中程度顔を見る限り色白らしく写真全体に浮き上がる。モスグリーンのマウンテンコートに身を包んでいる。
手に何かをもっているようだが、パンフか雑誌の類だろうか。背景に山が見えるが高い
山ではなさそうだ。頂上付近は冠雪らしい。山の専門家に聞けばこの山の所在を割り出すことができるかもしれない、と説明を終えた。
男は口頭で古関左千夫、証券会社の社員と名乗った。
「いきなり消えて。警察、親戚、家内の友人、近所人たち、あらゆる人たちから協力していただいたけれど・・・・。いまだに手がかりもなく。失踪なのか、事件に巻き込まれたのか、あるいは・・・・」
 古関が肩を落として椅子に沈み込む。影がこんどは薄緑が濃い緑に変わっていた。
来栖は、首を傾げながら考える。こんな炎の絡みも見たことがない。色もそうだが、二つ
の像が絡み合う、なんの意味かとメッセージを探るが、相変わらず思い当たることが浮か
ばなかった。ただ、炎の勢いから生きている影なのかとは思うが、もし、生きているのな
らどんな意味なのかと考えた。古関は顔を上げて何かを考えるように上を見て唐突にいっ
た。 
「私は彼女の何を見てたんだろう?」 
「えっ?」
古関は過去を思い巡らすようにいった。
「いやね、彼女が見ていたものは私が思っていた風景とは違うんでしょうね。いちいち違うように思えて。一本の木を彼女は自然の一つと見て、私は舗道の障害物と見ていて。例えばですよ」
「ああ、互いに裏表をみるように違うこと考えて・・・・・」と来栖。
「そうですね。なんかおかしくて。いなくなってはじめて気がついたんですよ。二人して違う風景見てたんだろうなって」
「互いに分かっているつもりになっていて・・・・」
「そうね、そうでなきゃ、二人に溝が生まれないでしょう」 

犬の遠吠えで目覚める。マットレスのベットに俯せている。そうか、昨日ビックフット
で飲み慣れない安物のワインを何杯も開けたんだった、と思い起こしたとたんにこみ上げる吐き気に襲われた。横隔膜を揺すって吐き気に耐える。
 O駅付近にあるペンテルの住まいに転がり込んだのはおそらく明け方だったろうが、おれん家で寝ていけばいいや、というペンテルの誘いを渡りに船と、最終の電車に乗ったところまでは憶えているが、後の記憶がなかった。
 陽光からはほぼ昼近くになっていることが分かる。頭痛をこらえて周りを見渡すと壁の塗料は剥がれ、虫食い材の天井が所々欠落している。むきだしの蛍光灯がぶら下がり、部屋というより放置された空き倉庫に近い。館よりも暗く、窓を少し開けたら、隣の家の壁だった。
 ペンテルの姿が見えないが、ここはほんとうにペンテルの家だろうかと不安がよぎる。頭を抱えながら立ち上がると、もう一回吐き気に襲われた。
ドアを開けて入ってくる足音が、向こうからペンテルの声。返事をしようと息を吸い込んだらめまいが襲ってその場にへたり込んだ。
「俺、仕事。殴られてくる。今日も新宿、ノルマは三人のつもり。千円ってのは安いよね。一万でもいいと思うけどな」
「殴りかえしたらダメ?」と来栖。
「そんなことしたら相手が死んじゃうよ」
「一発で止めとけばどうなの?」
「そんなことできないさ。際限なく殴り続けるからさ」
「そんなものなの?」
「そう、相手が死ぬまで止まらない」
「動物なんだ、あなたは」
「あんた違うんかい?」
「・・・・・・」
「見に来る?」
 ペンテルの誘いにのってみる。人の殴られるところなんか見たくもないが、ペンテルが
顔を崩す理由を知りたかった。
ペンテルは例のナイキのロゴマーク入りの白いジャージーに大きめの青いスポーツバッグにヘッドギアー、グローブを二対押し込むと、池袋の駅へ向かって歩き出した。首や頭をマッサージしながらペンテルに続く。蒸し暑い日だった。
「苛立っているヤツは五万といてさ、ほとんど殺意に近い破壊欲を飲み込んでいるんだ」
 電車のシートで五月の陽光を背に感じながら、ペンテルは、殴られる必然性を説くかのように話す。
「女の子もいたよ。聞けば恋人に振られたとかで、泣きながら打ってくるじゃない。いやぁ、すっかり感激しちゃってさ、避けないで殴られっぱなしにしたよ」 
はっきり分かる目尻の皺を溜めてほくそ笑んだ。
「パンチの後遺症ってあるんでしょう?」
「あるね。手のガードでパンチはほとんど防ぐけど、中にはボクサー上がりの奴がいて、そいつがむきになって殴りかかると、防ぎきれねぇからさ」
「ああ、それがダメージを広げるんですか」
「そうね、脳みそに巣が空くんで、案山子みたいに突っ立って。正確にはパーキンソン病の寡動タイプね。そう、立ってそのままいつまで看板のように立っている。まったく夢も希望もあらしねぇっよ、ての」
 
ビッグフットのカウンターでコーヒー飲んでいる。背中に冷気を感じて振り向くと、ヨシユキを肩の上に載せ、入り口のドア付近で佇むフェレットの女がいた。バーテンはすぐに入店を制止する。が、そのままはヨシユキを伴って店内に入って来ようとした。
「恵美子に、あ、会わせて。ねえ」
 宮坂は頷きながらヨシユキを抱えなおした。腫れぼったいまぶたと目の下にそれと分る
隈が現れて病人を思わせた。おそらく夜通し泣きはらしていたに違いない。昨日は恵美子
とともに夜を過ごし、そして恵美子に生気を奪われたかのように頬骨が明らかだ。宮坂は、
バーテンの指示に従い、店の外に犬をつなぎに行った。店に入るなり、野太い声で宮坂は
いう。
「さ、三年経つのにあのときと同じなのよ。くやしさがよ。見てみたいよ。む、向こうの恵美子」
 以前に一回だけ宮坂の頭上に青い炎見えたとき、ああ、恵美子が現れたと確信したのだ
ったが、その後恵美子と断定できるものはなかった。見えそうで見えず、恵美子の声が聞
こえそうで聞こえない。全体の像は人間の形状というより、揺らめくろうそくの光に似て
いた。宮坂にいった。宮坂は犬を外に出した。
「ともかく、見てみます」
 来栖はボックス席に宮坂を座らせるとできるだけ顔を見ないように首をたれて、沸き起
こる思考を止め、ゆっくりと机の上で指を組んだ。
相変わらず青い炎が宮坂の周辺に揺らめくばかりで、恵美子と思しき像を見ることはで
きない。来栖は考える。宮坂にはその通りに伝えるが、やはり、誘引法を頼りに宮坂から情報を聞き出す以外になさそうだと思う。
 頭を垂れて目を閉じた。うっくりと目を開けてみれば、青い彩色がガスの炎のように宮
坂の頭上で揺らめく。やがて炎はわずかに移動を始め、そして収縮を繰り返す。全体的に
は生き物の動きともとれる。見ようによっては人が本を読んでいる姿にも見え、あるいは
メモかはがき?か何かをもって佇んでいるようにも見える。本かはがきを持っているよう
な像にも見える。
 宮坂はバッグから財布を出すと、中を探って一枚の写真を取り出し、来栖に差し出した。
「ああ、恵美子さんの写真ですね。いつも持ち歩いている」
 宮坂は頷いていった。
「ん?あっ、写真かぁ」  
 来栖が小さく叫んだ。宮坂が怪訝そうに応えた。
「し、写真が、どうかしたかい?」
「ええ、はがきではなくて写真なのかも知れないです」
「そりゃ、た、たくさん撮ってるからね。あの人、し、写真が趣味だもの」
見ようとすると写真をたくさんばら撒いたような光景が映し出され、娘と何かのかかわりがあるかも知れないと思うものの、その先は見当もつかない。宮坂が来栖に顔を近づけて囁く。
「私もよく撮られたからね。は、裸」
ヨシユキの遠吠えが聞こえる。緊急車のサイレンに反応したのだろう。やがて、鳴き声が聞こえなくなった。
宮坂はヨシユキの泣き声に気がかりになったらしく、席を立って外に向かった。
グラスを拭きながらジャズのテンポを首で追っているバーテンがこちらを見る。来栖は掛けた丸いすをゆっくりと半回転させた。宮坂が戻ってきてもう一度聞く。
「え、恵美子いるの?」
「いえ、見えません」
 宮坂は軽く来栖の肩に触れ、手を離しながらいった。
「見えないんだ。む、向こうの世界を見ようなんて無理だかい」
「男と女が重なっている像が・・・」
「だ、誰のことよ、それ。旦那と別の女?」 
母の初七日に観音経の読経を聞きながら、父は、母が早く逝きすぎた、やはり俺のせいか、と一人呟いていたが、親族は聞こえていて聞こえないふりをしていた。背中を丸めた父はこんなに小さかったろうかと改めて父の背中を見た。
読経が終わった時、膝を崩しながら父はいった。あいつは、花が好きでよく家の庭でどこから採ってきたのか山野草を植えていたっけが、昨日、庭のオオキンケイギクが揺れて、あいつがそばを通ったのかと思った、といかにも生きているかのようにいうものだから、親族の数人が目頭を押さえた。そのとき、青い白い煙のように見えた気体が微風とともに流れ出し来栖の頬を伝わった。そして、抹香の煙は急に流れを変え、寺の本堂の円柱にまとわりつきしばらくは停滞していたが、徐々に上昇すると天井付近に漂いやがて雲散霧消した。あれは明らかに母の名残りだったろう。 

数日後、宮坂はビッグフットのドアをけたたましく入ってくるなり、ナインボールに興じる来栖を尻目に、写真を三、四、ビリヤード台にばらまいた。  
「これ。こういうことだったんかい」と宮坂。
 恵美子の写真、旦那が残していった写真の段ボールを整理してたら出てきた、といって宮坂は絶句した。唇がかすかに震えている。バーテンが何事かと驚いて宮坂を見ている。 
写真は十歳くらいと思われる恵美子の写真だった。色彩が全体的に色あせていて部屋の
壁紙が色脱けしている。白いフリルのついた短いドレスをまとい、モスグリーンののソフアーに横たわっている恵美子の姿。そして下半身があらわになっていた。
別れた夫の撮った写真だという。
「知らなかった。ほ、ほんとに知らなかった。こういうことだったのね」
と宮坂は唇を噛む。
「く、悔しい。ほんとに悔しい。あの子がなぜ、し、し、死ななければならなかったのか」
宮坂の頬に止めどなく流れる涙に蛍光灯の光が写っている。
「何があったのさ、いったい?ねえ、せ、先生視てよ」
来栖はゆっくり首を振り、お気の毒です、私が視るよりあなたの想像する絵がもっとも
真相に近いでしょう、そう宮坂に告げた。
「あいつ、あの男、そ、そんな傾向があるなんて、お、おくびにも出さず、今の今までよくぞ、だ、欺し通しもんだ。あの子、夫の、あぐらの中でよく眠った。あの子の居場所だった。なのに・・・・・。ひ、ひょっとして長く間いたぶる行為が続いていたんかい・・・・」
時々、声を詰まらせながら宮坂は続ける。
「恵美子が、ゆ、許せないといっているのよ、む、向こうの世界で。私もだけど!」 
 宮坂は白目がちの眼で、カウンターのグラス棚の一点を見据えていた。あたかも恵美子と通じているかのような呈で、小声で何かを呟いている。時々、見ていて、見ていてね、ということばが聞き取れた。次ぎに右手の親指を折りだし、何かを計算しているらしい。とっさに来栖は頷いた。男の所在を探し当てるための日数と考えた。
「死のうとした理由はこれだったんだ・・・・・、恵美子。あの子はなにを思ってたんだろう」
 と宮坂は洩らした。その後徐々に眉間が曇り、二本の縦じわが明らかになった。棚に置いていた視点は、カウンターの板に落とされ、そして再び大きな嗚咽を漏らすと、やがて顔を天井に向けてむせび泣く。
「恵美子、私が気づかなかった。ご、ごめんね」
 宮坂は両手で腕を抱えると、首を振って小さく咳き込んだ。
「先生、今、恵美子がきっとここにいると思うの。み、見てよ」
 先ほどから薄い炎は見えていたが、人間の形を損ねていて、とうてい恵美子と断定することはできなかった。しばらく宮坂の周辺を注視する。そのとき、炎は横にひろがり宮坂を包み込むと、青い炎は一挙に立ち上った。白い部分だけが中央に蠢き、それはまちがいなく恵美子のドレス姿に見えたのだった。
「恵美子さんですか」
 そう問う来栖に炎は細い一本の柱と化し、天井に軽々と到達すると、燃える炎のように天井全体に広がった。来栖はまちがいなく恵美子の影だと確信をもった。宮坂がいう。
「せ、先生、恵美子が帰ってくる。きっと」
 胸を軽く叩きながらいった宮坂の顔にかすかな笑みが洩れたように見えた。

「呼んだよ。あの男。別れた旦那さ」
宮坂がボックス席に座りタバコをくゆらしながらいった。そのとき、来栖は玄関のドア付近で薄い緑色の影を見ていた。ドアがゆっくり開く音がした。そしてきな臭い一陣の風が外から吹き込んだ。振り返ると、そこには今まで見たこともない渦巻き形の青緑の炎が広がっていた。一種異様な光景と空気が漂っていた。これは尋常な空気ではないと察知する。宮坂は入り口の方向を向いて腕組みしながら目を凝らしている。バーテンはグラスをかざしながら汚れを点検している。入り口付近には一人の男がドアを背にして立っていた。一見してここの客ではないと知れた。直感的に宮坂の別れた夫だと思った。そのとき来栖の目の奥で緑の稲妻のような炎が見えた。男は、所在なさそうにフロアーを行き来する。バーテンダーがカウンターの椅子を進めるが座ろうともしない。
どことなく目元が恵美子に似ている。沈黙の重い空気が流れ、フロアーに停滞している
かのようだった。男の背に緑の炎が立ち上り、生き物が天井をうねるようにゆっくりと動いた。男はやおら組んだ腕を解き放つと、ホールの中央に進み出ようと歩を踏み出した。宮坂は立ち止まって男を見据えると無言で首を振り続けた。
 この光景の中にはこれから起こるであろうできことの予兆めいた空気が見えた。そして
二人がフロアーの中央にある柱へ進み出、しばらく見詰め合った。
 やがて二人に動く気配がした。どちらかともなく右手を出して、握手の形をとろうとし
ているらしかった。二人がわずかに前に進み出、柱の左右で止まった。二人はことばを発
することなく立ち尽くす。ジャズのピアノソロが流れていた。やがて男は宮坂の手を
上下させる。そして男はゆっくり宮坂を引き寄せると宮坂に両手を回し、抱擁に力を込め
た。一瞬男は、抱擁の手に力を込め直したかのような動きを示した。そしてゆっくりと眉
間に皺をよせ、宮坂の髪の毛を掴むと髪の毛を引きちぎり、その手をあげると、宮坂の耳元に何かを囁き、やがて二人はゆっくりとその場に崩れ落ちた。
何ごとかと見れば、男の腹部に細く光るものが見え、それは刃物の鈍い光に違いなく、
黒み帯びた血が噴き出している。来栖はようやく宮坂が男をさしたのだと理解した。男を突き放そうとする宮坂、倒れてうめく男が目の前に決して予知しなかった光景が展開されている。
 マスター、救急車だよ!という声を張り上げ、男の頭を抱きかかえたが、その間男は床に広がる血塊を不思議そうに眺めていた。
「これで恵美子が喜ぶ・・・」
ルモイは果物ナイフをもったままその場に立ち尽し、崩れ落ちた男の仰向けになった顔を無表情で見詰めていた。来栖は抱きかかえるべきか、止血すべきかを迷っている。店内の客が状況を察知し、一人寄り、二人よりする。その中の一人が倒れた男に近寄り、いった。
「なんでこんなに黒い血だ?肝臓か?」
そういった客は男を後ろから抱きかかえ、男の右手を取ると脇腹を押さえるように指示し、バーテンにタオルを要求した。集まった客たちは口々に何かを呟いている。死ぬかな?
バカいえ、そんなわけないだろう、左脇を下にした方がいいんじゃないか、抱きかかえた男が首を振って動かさない方がいいだろう、と返す。
来栖は、霊力を使ってこの事態を事前に止めることができなかったことに、身の置き所がないような自責の念にかられた。弱い霊力とはいえ、この事態を止められてこその力、ただ、指を銜えて成り行きをなぞるしかなかった。黒い血を見ながら佇立していた。
遠くで鳴るサイレンの音を聞いている。

風が生ぬるい。鈴掛の葉は風に煽られて白い裏面を見せては葉陰を舗道に写していた。夜に入ると半袖では薄ら寒い程の気温が伝わってくる。館の扉より重いビックフットの扉を押して中に入ると古関がカウンターでビールを飲んでいた。
 目が合ったとき来栖は会釈したが、古関は待っていたかのようにカウンターに向かう来栖を待っている。古関は近づくと来栖の隣の椅子にかけていった。
「お待ちしてました。その後何か見えますか?」
「いえ、先日もお話したとおりですが、何も見てはいません」
 男はやや肩を落とすとこういった。
「どうでしょう?改めて透視をお願いしたいんですが」
 なにがしか幻影のようなものは見えなくもないが、それが特定の人物を表すかどうかは疑問だし、ましてや現在生きている人間の透視となれば伝える影の情報はなかった。
「いえ、お話しているように私の見る影が透視だという確証はありません。ですからあなたにお伝えするものはないですね」
「・・・・・・そうですか。でも、その影が妻の乙かも知れないんでしょう。あなたの見る幻影は妻である可能性もあるのですよね?今、どんな手がかりでも欲しいですよ」
 古関はここで水割りを注文し、一口含んでは喉を鳴らして飲み込んだ。そして、なんでだよ、と呟く男の差し迫ったことばが胸に伝わってくる。
「お気持ちは分かりますが、私の見る影は当てになりません。どうか他の方法を考えてください」
 古関は天井を仰いで深い溜息をついた。
「そうね。これまであらゆる方法を使って捜したですけどね。あなたに出会えたのは貴重でした。でも、まだね・・・・」
 古関はいう。人を捜すということがどれほど難儀であるのか、その難儀さの大半は待つこと、そして幾度も玄関を振り返るということに尽きる、と。
「最初のうちは、夕刻になると街に出向き、覚えのあるスーパーまでいって店内を右往左往しました。二ヶ月のちスーパーにはいないのだと悟ると、次には電車の駅、バス停をくまなく探し歩きましたよ。そのころ徒労だとは思わなかった。妻は必ず現れるものと思っていましたからね。駅やバス停にはいないのだと知ったのは二ヶ月後でした」
 あと残された方法は、あの日スーパーの木陰で消えた時刻にそこで待つという方法を講じた、という。
「見えるといえば、人が横たわるような像があるにはありますが。ただ、それが奥さんかどうかはわかりません」
古関は大きく頷くとそういった。
「私は私で他に方法がみつからない。ワラに縋る思いでお願いしています」
 古関は声を詰まらせて天井を仰いだ。
 霊力があるなどといわれ、その気になってはみたものの誘引法でも使わなければ、何一つ先に進まない体たらくに、それでは見てみましょうなど、と公言するもはばかられる。
いちど、ユタ婆のもとへ助言を仰がなければ立ちゆかない思った。
 いってはならないことを思わず口にし、自分で呆れかえった。
「約束はできませんが、漠然と見える影の分析ならできるかもしれません」
 古関はいきなり来栖の手を取って強く握って離さない。男の口から小さく嗚咽が洩れた。
「あれは私の分身。いったい何があれに起きたのか。生きててほしい」
再三百瀬兄弟からも先行きを心配され、ユタからは覚悟せよ、といわれ、人の影を見ることはすまいと思ってはいたが男のことばが胸を突く。
来栖は話を頭の中で整理しながら、いくつかを尋ねてみた。
「これまでに行方が分からなくなったことは?」
「いえ、旅行で数日留守にすることはありましたがそれ以外は・・・」
「それ以外に何か特徴のようなものは?どういったらいいか、ハンドバッグ、帽子などの持ち物などはどうでしたか」
「ハンドバックはどこにでもありそうな茶色のショルダーバックだけれど。靴は野外活動に使うトレッキングシューズ、確かモンベルの」
「で、奥さんの体つきの特徴というと?」
 古関はしばらくうつむいて、ああそうね、と前置きするといった。
「中肉中背、野外活動で肌は浅黒いですよ、全体が。ある日いきなり人間が消えて消息が知れず、まるで神隠しですよ。妻が今までいたのは夢だったのか、と思ったりね・・・」
 古関は飲み物をビールに替え、グラスを一挙に煽ると小さく、いったい何がどうなった
んだ、と呟いた。
窓外のシラカシの梢が強風になびく。気温が上がっているらしいのだが、悪寒が背中を
駆け上がってゆく。影の予兆かと思う。

 店のカウンターに古関と二人で座る。その後、会釈した以外双方ともなんのことばもない。背後にビリヤードの珠の音が響き渡った。沈黙が心地よかった。バーテンーが無言で水割りを交換する。二人が同時に目礼をする。
 キューにチョークを塗りつける音が乾いた音を立てた。男が初めて口を開く。
「どうです?妻は、その後。影は見えませんか」
「ええ、残念ながら。ただ、冥界ではなく人の形跡が見えました」
古関が頷く。バーテンが同じように頷いた。来栖は遠いものを見るようにいった。
「もう一度写真を見せていただけませんか奥さんの」
もう昨日見えた青い影を点検する。なんども乙に違いないと思う込もうとしたが、色も形も乙だという印象も確証もない。単なる幻なのかも知れない。
「妻はいないという事実がまだよそ事なんですよ。もう半年もいない。そこにいた人間がある日当然いなくなって、形跡の一つも残さない。そんなことができるんですよ」
 古関はゆっくりと頷きながらいった。 
「昨日、妻の部屋からこれを見つけまました」
 そういうと、翡翠の小さな置石を出し、次ぎに写真を一枚テーブルに置く。どこかの公園らしいが、どこの公園かは知らない。季節は菜の花から春に撮ったものだろうが、春のいつ頃なのかは分からない。どことなくもの憂げな妻のたたずまいに、何かを秘めているかに見えるが、単なる思い過ごしかも知れない。
 古関はカウンターの間接照明をしばらく見詰めながらぽつりと洩らす。
「背景の建物はどこの建物かは分からない。東京ではないのかも知れない」
 いわれて気づいたが、黄色の花の背後にビルの一角が見える。他にも隣接するビルが何棟かが見える。これは調べればビル名が分かりそうだ。
「専門家に見てもらったらどうでしょう」と来栖。
 古関はうーんと腕組みをしたまま黙り込んだ。
カップ棚の上段に見える円筒状のガラス細工から青い水泡が次から次へと沸き立つ。
「妻の足どりが見えたかに思えては消えてね。まさか神隠しでもないだろうに」
 ナインボールのスタートだろう。珠がけたたましく四方八方に散る音がした。バーテン
は顔の表情を変えず、グラスを拭きながらナインボールの行方を追っている。
「顔なんか忘れるはずもないのになぜか輪郭だけが思い出せない」
そう零すと大きな溜息をついた。バーテンがグラスを拭き顔の前にかざして汚れを点検し
ている。
「あれのグラスに写った顔を思い出す」
 ワイングラスで歪んだ顔を見る遊びをよくやった、と古関。今、男は思い出の中にあり、
すべてが妻に見えてくるのだという。
 古関は静かにいった。
「それは仕方のないことだけど。どうであれ、もし場所さえ分かればそこへぜひ行ってみたい。何か場所の手がかりはないでしょうか」
 首を振って来栖は見込みのないことを伝える。古関はもう一回懐を探ると、ベージュの
皮手帳を差し出していった。
「この手帳の中身が妻の所在と何か関わりがあるのかどうか分らないけれど」
 来栖は古関に断り、一通り全部に目を通した。付箋のいくつかはことばであったり、記号であったり、それに何かの略図らしい走り書きがあったが、何を意味するのかは分らない。したがって、所在の手がかりにはなりそうにもない。
 
窓外の激しい夕立を見ていた。舗道の焼けたアスファルトの匂いが充満し、少しずつ暮色が濃くなると夜の気配が目立つ。
ビッグフットのカウンターの奥で木の人形のように小首を傾げて座っている。かすか呻
き声を発している。バーテンが小さく笑って首を振った。そして、小声でいった。だいぶ飲まれているようです、と知らせる。そして、あとで、と声に出さずに口だけでいう。なんのことかと思う。
古関の声を聞き取ろうとすると、わたしではない、わたしでは・・・・。といっているらしかった。来栖は古関からは少し離れた所に座り、ビールを追加注文する。古関は頭をだるそうに起こし、一礼してから来栖向かって酔いのままに話し出した。古関の泥酔を初めてみる。
「少しいただいてます」
 正面のグラス棚の一点に目をこらすと、呟くようにことばを発した。
「いなくなる前、妻が旅行に出たことがありました。彼女はそのころ水彩画を描いていましたが、北国の新緑を描きたいといっていました。その旅行は一週間におよぶというのです」
 いきなり告白を始めた。
「そのとき私はちょうど仕事が忙しく、妻に関わる事がほとんどできない状態でした。心配だったので、旅行が長すぎないか、なぜ一人旅か、なぜ北国か、などと尋ねましたが、そのとき、納得のいく答えをもらうことはできませんでした。あのころ、すでに失踪の考えがあったのかも知れません」
 そういいながら古関はロックのウィスキーを注文し、ストレートで喉に流し込むとこれまでの経緯をさらに続ける。
「だいたい、なんの形跡も残さないでいなくなること自体不可能だと思うが、その不可能ができたんですよね、あいつに。煙のようにいなくなった。笑ってしまう・・・・・」
古関は、そういい終わると、分らない、と軽い舌打ちをしたあと、グラス棚を見つめど
こへいったんだよいったい、と洩らした。そのとき、古関の背中に薄緑の炎が立ち上がり、それはマウンテンジャケットの姿にも見え、ゆっくり部屋の一方向へと移動してゆく。そして徐々に人の形を現すと、天井付近に揺らめいた。すると、ゆっくりともう一つの影が寄り添うように近づき、折り重なった。やがて、白い靄のような色に変わっていき一本の影となって絡み合うかのようだった。
来栖は思う。今回の炎はずいぶんと長くそして人の形がはっきりと、しかも二人と思わ
れる影が見え出した。これはどう考えても古関の妻での何かのメッセージだと思わざるを得ない。だとすれば、この炎は一つは妻の乙で、先ほど以来軽く感じる力は生きている別の命のエネルギーではないか、と思われた。乙は確実に生きていると確信した。
「今あなたの背中で、人の形が立ち上がっています。乙さんかもしれません。それにもう一人の影が見えます」
「ええ、ほんとに!」
古関は、やおらこちらに向き直ると小さく首を振る。信じられないというような顔をし
つつ、酔いで座った目をこちらに向けてくる。来栖はいう。
「乙さんがいるのかも知れません。もう一つの影が寄り添うようについてきます」
男は、ほおぉという表情をつくり、関心を示すがことばを発することはなかった。来栖はいった。
「乙さんはいますね、きっと。そして、間違いなくもう一人の誰かがいますね」
 古関は、薄く笑いながらいうのだった。
「だとしたら、どこですか?もう一人ってだれのことだろう?」
「特定はできませんが・・・・」
「誰?」
 古関は少年の目をして答えを待つ。数ヶ月前にこの世の終わりかと思うような呈で哀願し、妻に会わせてくれと泣き叫んだものだったが、今は失踪という事態を受け入れているかのようだった。
「妻は、私が追えば追うほど遠ざかる。あたかも心を測ったようにです」
 話し終わると男はまたカウンターの奥で突っ伏して呻り始めた。
「どこにもいないんだな乙。二ヶ月も」
キューで床を突く音。スリークッションの連続5回。プレイヤーは相当な経験者だろう。
スリークッション台に人が集まり、拍手が沸き起こる。プレイヤーはまるで銃を構えて、照準を合わせるようにキューの先の白玉を狙っている。
バーテンが離れた所から目配せしている。古関は天井を仰ぎ見て深く溜息をつく。来栖は席を三つほど開けた丸椅子に掛け直した。バーテンは来栖の近くまで来るとカウンターに身を預けて前かがみになるといった。テレビを見たかと聞く。いや、と答えると、バーテンは来栖の耳に顔を近づけると囁いた。
「信濃町の駅前で噂になっている若い女、記憶障害の」
「で、なに?それが」
「ええ、ただ、面白いなぁと思って。考えすぎですかね。古関さんの奥さん」
来栖はまさかという顔で首を振った。噂の女、年がずいぶんと若い。たぶん別人物だろう。
「ちょっと無理なんじゃない。年が若すぎるし」
 と答えるとバーテンは続ける。
「別人ですよね。あれ、古関さんの件、ほんとに失踪事件なんでしょうね?」
と聞く。
「というと?」
「いや、ありがちな話すぎて・・・・・」
「それじゃいけないの?」 
「うーん」
気がかりな折り重なるもう一つの影は古関そして妻の影、だとすれば、妻は案外近くにいるのではないか。バーテンのいうように、二人は失踪ではなくつくり話?と思い込んだとたん自失に陥った。
「まさか。失踪はつくり話?」と私。
 バーテンは首を傾げてどうでしょう、と返す。
「来栖さん、実は失踪サイト検索してみました。ないんですよ、奥さんの名、古関乙さんが」
「えっ、そうなの?」
 バーテンがグラスを拭きながらいう。
「それと、見せてもらったチラシ、あれ、パソコンのスキャナーを使った絵ですよ」
ビリヤードの珠の乾いた音が響く。音のほかに人の気配がまるでないかのように静まり
返るかと思えば、どこからともなくタンを切る咳払いの声が混ざっている。常連の老人連中だろう。来栖はうつ伏せた古関の背中を見ながらいった。
「そういえば先日失踪半年っていってた。二ヶ月?どっち?まちがったにしては」
バーテンは首をかしげて返答に窮している。
「聞くしかないな」 
意を決して古関に近づく。カウンター席の古関は顔を上げてうつろにグラスケースを睨んでいる。来栖はいった。
「古関さん、少しお聞きしたいことが・・・・」
「ん?なんですか」
「今でも失踪サイトありますよね。あなたがいっていた人捜しのページ」
「・・・・・・・・ええ、ありますよ」
 古関に向かって首を大げさに傾げた。古関は視線をついと外し目を泳がせた。
「そうですか。サイトあるんですね。古関さん」
「・・・・・・・・」
「古関さん、どちらにお住まいです?」
「今?・・・・・・旅行中ですよ」
「旅行ですか?」
「どちらから?」
「長野ですよ」
「長野のどちらです?」
「諏訪の方の」
「もう一回聞きます。失踪サイトまだありますか」
「・・・・・・・・・・・」
古関はピクッと身体を反対側に反転させた。狂言だった。バーテンのいうとおり、やはり狂言だった。古関は席を立とうとする動作をする。来栖は古関の肩に手を触れ、動きを制止した。来栖はバーテンにビールと告げた。バーテンはビールを出しながら、緩やかに笑みをつくる。やはりそうでしたね、と目がいっている。古関が頭をゆっくり動かしながらいった。
「あいつ、三週間前にいなくなった、目の前から、いやほんとに。くも膜下出血だったそうです。県立病院のICUですよ、今。いくら捜してもいないんですよ。賢いあいつが」
古関はそういうとうつろな目を宙に泳がせた。古関にすぐにでも事の顛末を聞きたい。
だが、最初に見た背筋の伸びた印象はどこになく、怯えた小動物のように背中を丸めている。
今、妻は慥かに生きているのか、なぜこの狂言を考えついたのか。
「なんで、作り話なんかを?」と来栖。
 古関は、カウンターに再び突っ伏し、軟体動物のような弛緩状態ですべての力を抜いて彼の中の闇に入ろうとしているらしかった。これ以上聞くまでもないと思い、バーテンに目配せして席を外した。
 母の四十九日の法要の日、青い炎が菩提寺の本堂でさかんに飛んだ。長い読経の後、納
骨の儀式を執り行ったが、そのとき父は、なんだ来てたのか、と洩らした。兄が後ろで、なんだって、といったが、父からはなんの反応もなかった。その間、父は骨箱から素手で骨を墓穴に入れていたが、時々、白い骨の破片を口に入れ、わずかな音を立てて噛み砕いていた。墓所から去るとき、父は一人ごとを洩らした。今、ここにはもうあいつはいないな、と。

ペンテルに会おうと思って、ビックフットまで来たが、店にペンテルの姿はなく、付近を一巡したが見あたらなかった。とりあえず店にもどろうとしたとき、店の前で男たちがすれ違いざまにいった言葉にぎくりとした。
「いや、そのうちにああなると思ってたぞ」
いやな予感がした。男たちに聞く。
「何がですか?」
 振り向きざまに男たちは後ずさりしながらいった。
「ペンテルがさ」
「ペンテルがどうしたって?」
「ひっくり返って泡吹いてる」
 駆けつけてみれば映画街の中央広場でペンテルが仰向けに倒れ、口から唾とも泡ともつかない唾液を口から拭きだしてビル群の底で目を剥いていた。やはり脳内出血だろうか。 人の流れがあるにもかかわらず、けっして流れが止まることはなく、ペンテルのもとへ寄るものは一人としていなかった。まるで、障害物を迂回して流が迂回しているかのようだった。周りから、酔っ払いか?いや違うようだ、けんか?じゃないの、などといい合っている。ペンテルは、ときどき頬の痙攣の他何一つ動きらしい動きを見せない。
 ペンテルの首に手を回し、ゆっくりと抱きかかえた。この姿勢がいいのかどうか分らないがペンテルと話したかった。
「ペンテルさん、なにやってんの?こんなところで」
と呼びかけるとペンテルは鼻を鳴らしたような音を発した。耳をそばだてると、それは聞こえるか聞こえないくらいの小さないびきだった。
「なんだ、寝るには早すぎるんだけど。ペンテルさん」
胸の辺りにあった右手がだらりと下へ落ちた。意味もなく、手を胸に戻そうとした。
「波照間に帰るんでしょう。いいのこんなとこで眠ったりして」
子をあやすようにペンテルの背中をさすった。救急車を呼ぼうとしたが、声が出なかった。ひりつく喉でようやく声にすると、叫ぶようにいった。救急車!そのとき、やっと人の流れが止まった。
「ペンテルさん、いわなかったけど、この光景実は見えていたんですよ。まさか今日だとは思いもしなかったけど」
ペンテルは動かず、来栖はペンテルを後ろから抱きかかえたままただひたすら救急車を待つ。
「ペンテルさん、できればこのまま起きない方がいいですよ。たぶん」
 ペンテルとビルの底で出合い、まるでわき出た虫のように動き回り、ほんの数ヶ月を過ごした。ペンテルは返す当てのない借金を負い、タコのように身を削って街の藻くずと化してゆく。ペンテルはよくいったものだ。
「夢も希望もあらしねーよね」
溢れるほどの普通(、、)に囲まれて、けれど館のそれより脆く、現に宮坂はそのまま館の患者となり得るし、古関はいつでも重傷患者そのものだし、ぺンテルは、同僚の一人と似ていて心優しい自己破壊者だ。
霊視だの、透視だのと、結局のところ、何の役にも立たず、指を銜えて人の流れをなぞっていただけだったのではないか。重い澱のようなものが胸に溜まり込み、呼吸の苦しささえ感じた。
館のあのアーモンドのような香りを思い出す。内科で使う抗生物質の臭いだろうが、あれほど嫌っていた臭いだったのに、なぜか懐かしい感じさえした。ペンテルを抱いている手の痺れを意識しながら来栖はいった。
「希望はもとうよ、ペンテルさん」

館から

館から

  • 小説
  • 中編
  • 成人向け
更新日
登録日
2012-09-02

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