二つの私論の補てん(3)

得る

得る(2017/06/29)

さて前章では、「祈り」と題して、ある意味このような私見を述べ続ける者として究極の分野に踏み込んだが、だが今私に後悔はない、ここに踏み込まなければきっとこの私論は最終的には説得力を長期にわたって維持し続けることはできないであろうことはわかっていたからだ、「祈り」とは生産に従事している者がにもかかわらずその手を一旦休めて昨日から今日までの自分の行為について思いを馳せることだ
過ぎ去ったことは振り返らない、なぜならば終わったことから何か利につながるものは生まれてこないからだ、利はすべて明日を見据えることからのみ生まれるという考え方は高度成長期のみに有効な行動様式であり、我が国日本のように高度成長期をすでに脱した地域はそれの復活を試みるのではなくまったく新しい価値観に基づく新しい社会秩序の形成を模索するべきだ、奇遇にもミレニアムの世紀である、何か新しい価値観を模索するには偶然ではあるが適切な時期ではあるまいか?
僭越ながら「祈り」はその言葉を記憶しておくだけでも20年後、30年後の自分にとって何か有効なものを無意識のうちに獲得することにつながるかもしれない、祈りとは無為であるにもかかわらず精神にとってはそれが連なれば最終的には大きな一歩となる、なぜならば祈りとは物理的には非生産的であるが故にいったい自分は次の世代の人々に何を残せるのだろうかという根源的な問いをその主体に想起させるからだ
カネでもない、モノでもない、では何か?
言葉である
聖書がそれを教えてくれる、2000年以上たっても古びない言葉の数々がそこにはある、伝道師の言葉は即ち祈りの言葉、なぜ彼は祈るのか?それは祈りの言葉にこそ最大の普遍性が宿るからだ、皆いつか死ぬ、だが平和で安らかな日々が今以上に実現されることを願いながら死ぬのだ、自分が死んだ後のことなど知らないと宣う者はついに「目覚める」ことのなかった者であろう、彼は大病を患わなかったのであろう、また彼は憎悪の対象にも幸運にもならなかったのであろう、だがそういう人はきっと少数派だ、人生は厳しく故に人は皆いつか目覚める、そして皆「次」を想うのだ
だから「祈り」とはまず言葉なのである、伝道師たちはそれを知っている、だから偶像崇拝は禁止されているのだ、宗教のすべてが目指すものは魂の救済、しかしそれは「利」を意識すればするほど遠ざかっていくものでもある

神の使者は皆痩せた旅人のようにバックストリートを歩む

ではこの章のテーマ「得る」に入ろう
「得る」とはやや奇妙なタイトルだが、すでに述べた「待つ」同様、この私的幸福論の性格も持つ私論においては重要な言葉の一つである、なぜならばすでに述べたように「得る」は「失う」と常にセットで論じられるべきものであるからだ
すでに「祈り」とは失われたものたちに対する真摯なる思いが生み出すものだと書いた、「もうそこにいないものをまるでまだそこにいるもののように扱う」は人間にしかできない行為だ、そしてここでは「得る」と「失う」が逆転している

何かを失ったが故に何かを得たのだ

万物は対象を求める、「得る」⇔「失う」であり、そこでは実は漂うエネルギーは常に一定である、だがそう思えないのはこの「失う」の最大のものが「死」であるからだ、そう、相変わらず解釈の仕方によっては真逆に捉えられかねない微妙な発言が続くことになる、だが私は時々こう思うこともある、「死」とは「見えなくなる」ということだけなのかもしれないと、もし彼が「祈り」を知るのであれば

「祈り」とは物理的には非生産的な行為であるとすでに書いた、だがそれとイコールであるのが他ならぬ「死」であるのだ、若くして死を迎えることはただそれだけでこれ以上はないほど悲劇的である、さらに言えば遺された者を襲う悲劇は時に連続する
なぜ神は人に知恵を授けておきながら人がその知恵故の想像力を用いて自らの幸福を探し求めることを時に悲劇をもって遮るのか?
そう思いたくなるほどこの世は悲劇に満ち満ちている
このように考えると私的にはこういう結論になる

この世に失うだけの人生などない、「失う」⇔「得る」である

それは彼をまたは彼女を長期間見つめ続けた人だけが到達しうる境地、したがって憚りながらそこに衝撃はなく、昨日と同じ風景がただ広がっているだけだ、だがそれをずっと見つめ続けた人だけはわかる
そこにある微かな違い
それは0.1ミリの違いだ
そしてそれはやや大げさに言えば永遠の真理のための最小単位の種子
幾千の涙だけがその後で彼に彼にしかわからない暗号で何かを伝える、その信号とはまるで凪のようなものであり悲劇を知らぬ者はどんなに目を凝らしても見つけることはできない
悲劇が幸福の絶頂にある者を襲うのは「今なら耐えられる」と神が判断したからであろう
何と残酷な!
だが神は彼にこそ伝道者になってほしいと判断したのだ、彼ならそれができると
永遠の沈黙を貫く神はすべてに平等でなければならない、その神が理想の成就のために選択したのが悲劇である
僭越な表現が続くことを何卒ご容赦いただきたい
神はすべてを救う、だからそこには犠牲が必要になるのだ
何のために?
善のために
だから神には悪意がないのだ
ホモサピエンスが誕生して30万年である
なぜこのような長い期間において私たちは絶滅の危機を免れ得たのか?
なぜこの30万年の間に小惑星などがこの地球と私たちが呼ぶ惑星に衝突して私たちホモサピエンスが絶滅しなかったのか?
それとも私たちはそれほどまでに神の期待に副った存在なのか?
もしそうでないならば、なぜ私たちは絶滅しないのか?
その答えを導き出す一つのヒントとなりうるものが「失う」のなかにある、なぜならば「失う」を知る者はその後必ずや「信仰」に触れるからだ
果たして悲しみのなかにある一縷の希望を長い旅路の果てにようやく見つけた者がどうして大言壮語してそれを発するであろうか?
彼は短いセンテンスをその後継者に告げるだけだ、だがそこから始まるのだ
何が?
善が、である
なぜそう言い切れるのか?
善とは衝撃とは無縁だからだ
だから真実に触れた者こそこれを知るのである

沈黙

そう、沈黙とは神のことだ
そして沈黙とは永遠のことだ
だから私たちは真実を追い求めるのだ、それが最終的には人類の幸福につながると歴史から学んでいるからだ
「追う」は「利」のためではない、「和」のためだ
沈黙、永遠、そしてもう一つがこれである

調和

ならばこの世に地獄などは存在しないと言い切ることができる
果たして地獄から連想される「滅」が「調和」とその性質において僅かでも符合しているだろうか?
すでに30万年もの間私たちは神の期待に必ずしも副っていないにもかかわらず赦免され続けているのだ
なぜか?
神がいないからではない、もし神がいないならば偶然が私たちを滅ぼしていたかもしれないからだ
なぜ偶然さえもが私たちを滅ぼさないのか?
天文学的に見ても30万年という時間は長いものではない(天の川銀河の隣のアンドロメダ銀河まで230万光年である)にしてもしかし決して短いものでもあるまい、事実恐竜は絶滅しているのではないか、あれから6600万年である、そろそろ次の小惑星の衝突があってもいいころだ、ではなぜ私たちは絶滅しないのか?
そこに神の意志があるからだ
そしてきっと私たちはこの地球以外では生き延びることができない、もし他の惑星への恒久的な移住が可能ならば、私たちは「回帰」を経験する必要がないということになる、だが「得る」と「失う」が二つで一つである以上私たちはこれまでとは逆の道のりを経験する必要があるということになる、無論、2000年以上先ということになれば皆目見当がつかないが、ここ数百年で見れば火星移住は現実的な選択肢ではないように私には思える
この世の真理は「相異なる役割を担った二つの要素の間の飽くことなき永遠の往復運動」であるのだから、私たちが地球という器を脱することはあり得ない、もちろん地球と火星の間を行ったり来たりするということはあり得るかもしれないがそれは相当先の話であろう
だが「得る」にはなく「失う」だけにあると言い切れるものが少なくとも一つだけある
それを私はすでに述べている
それは「信仰」である
無論「得る」だけの人生などありえないが、人は大切な何かを失って初めて人知の及ばぬ地点に達した現実にはもはや為す術がないということを知るのである、それは天命を悟るこということであり、また再会を祈るということである、共に過ごした時の長さを知る者だけが触れることのできる瞬間、きっとそれこそ奇跡であろう、なるほど奇跡もまた真実と同様、衝撃とは無縁の平地を流れる空気のようなもの、わかる人だけにそれはわかる、そして失った結果もっとも衝撃の少ない天からの信号、つまり奇跡を経験した者だけが最終的に神の意志を理解する、そして一本の細い糸のような真実が世代を超えて受け継がれいつか大河のような流れになる
社会は常に0.0001ずつ進む、間違いあるまい、慟哭を知る者がついに真実を知るのである

私たちは然るべき理由のもとに生まれてきた、だから私たちは滅ぶことなく今日を迎えているのである
最大に失った者が最大に得る者である、そして「最大に得る」は大方の予想に反して凪のように彼を包む、富とも栄光とも無縁のたった一度きりの奇跡の瞬間、
最後に何卒もう一言だけ付け加えさせていただきたい

彼こそ真の幸福者、神に選ばれた者である

完璧からほど遠いでもよい

完璧からほど遠いでもよい(2017/07/04)

さて前章では「得る」と題して、前々章から引き続いて人間だけが到達しうる境地、そして悲劇が語るものについて述べた、最大に得る者は最大に失った者であるということがその結論である、彼(彼ら)は神によって選ばれたのだ、だが神は万物に対して公平、平等でなければならない、だから神は自らの意志を明確に示すためにも彼に人から見れば残酷でしかない犠牲を強いたのだ
だが彼こそ真に救済される者でありまた彼こそ伝道師となりうる人である、もう明日を信じることができないという経験をして初めて理解できるものがある、きっとそこでは多数の無理解と不寛容が時に彼を苦しめたであろう、訴えても誰も耳を傾けず、それどころか尊大に振る舞う敵対勢力がスポットライトを浴びるという風景さえしばしば目にするという始末、そのような状況を潜り抜けることのできる言葉はほんの僅かしかない、しかしだからこそその言葉にたどり着けた者は人生にはそのような人にしかわからないものではあるが奇跡が存在するということ、そして360°どこから見ても真実といえる瞬間をついには経験するということを極めて冷淡に知るのである
私たちは常につながっている、しかしそれはツールによってではなく信仰によってである、これは「通常の」を一度も逸脱したことのない人には終生理解することのできないことである、すでにこう書いた、「神は慣習を踏襲するだけの決してチャレンジをしない人には踏み絵を踏ませることはない」と
ここには厳粛なる神の選別がある
なぜそのようになるのか?
神には理想があるからだ
そうでなければなぜホモサピエンスがいまだに絶滅しないのか納得いく理由を見つけることができない、私たちには少なくとも生理的善意とでも呼ぶべき習得する努力なしに備わっている道徳心がある、だからテロリストを形容する時でもしばしば「~によって洗脳された」という表現を用いるのだ、生まれつき彼がテロリストであったわけではないということを皆知っているからだ
悪に走る者はある意味「得る」を知らず「失う」だけの青春期を過ごした者ともいえるのかもしれない、極少数の例外的な存在を除いて、生まれつき正と負のバランスが大きく狂っている者はいないとここで言い切ってもそれほど支障は生じないであろう、もしホモサピエンスがそれほどまでに不完全な存在であるならばこのような短期間に宇宙の真理を解き明かすことができるかもしれない地点まで文明を進歩させることはできなかったはずだ
そういう意味では私たちは偶然の結果ここに存在しているのではなく然るべき理由の結果ここに存在していると考えるべきだ、もし個がその対象を見つけることができるのであれば、この辺りは一旦信仰とは切り離したとしても理解可能な部分ではあるまいか?
そのように考えるとテロや大災害の犠牲者とは偶然の犠牲者ではなく、然るべき役割を天より授かった人々なのだと定義することもできると思う、つまり永遠に記憶されるべきその瞬間の、歴史を左右する証人たちとして、極めて重要な役割を人類史において担っているのだと
祥月命日には遺族たちが示し合わせたかのように「その場所」へと集う
何のために?
確認のために
何の確認のために?
私たちが生きる上で最も大切なものが何であるかを確認する、またはさせるために
一年に一度のその瞬間には目覚めない者には想像もつかないような真実のかけらが蓄積されていく、すでに悲しみを知る者こそが目覚めるのであると書いた、私は思う、再会の瞬間は必ず訪れるのだと、もしそうでないならばなぜ彼らは「その時」に「その場所」に集まるのか?そこに確認がないのであれば彼らが結果的にせよその場所にほぼ同時に集うということはないはずだ、きっとそれは何かに導かれるようにしてそうなるのであろう、弔うとは表面的には慣習に過ぎないものであるがしかしそこに悲劇性を強く帯びる時、弔いは真実の一端に触れる
死とは彼または彼女が「見えない存在」になるということであり「なくなる」ということではない、だから私たちには「祈り」が必要になるのであり、また時に信仰に目覚める者も現れるのである
神が死後の世界を人類の知恵でそれを推し量ることができないように覆い隠したのは、命というものがいかに厳粛でかけがえのないものであるかという認識を遍く人類に悟らせるためである、だから宗教にはすべて儀式が必要になるのだ、命というものがわずかでも相対的な価値しか持たないものと見做すことができるのであれば、儀式も祈りも成立しないであろう、死という壁が絶対であるからこそ命とはすべて等しい価値を持つものと定義されるのである
儀式と何か?
それは「捧げる」ということである
何をささげるのか?
祈りを、である
なぜ祈りを捧げるのか?
自分もいつかは死を迎えるからだ
私はすでに書いた、人間の最大の特徴は弔いをするということであると、したがってここに”I love you”と少なくとも同じだけの価値を持つ言葉が想起されることになる
それは、”I remember you”
なぜならばいつかは死が二人を分かつからだ

たとえ死が私たちを分かったとしても、私は彼(彼女)を忘れません

“I love you”はきっと誰でも言える、だが”I (always)remember you”を言えるのは深い悲しみつまり人生の真実に触れた経験のある者だけだ

ではこの章のテーマ、「完璧からほど遠いでもよい」に入ろう
さてこの「完璧からほど遠いでもよい」はすでに述べた「距離感」と同様、人生の幸福とは何かを考えたときに、私が試行錯誤の末ようやく到達した精神的な境地であると言える、ただこの辺りはこれまで以上に僭越な表現が続くと予想される箇所でもあり、私はいつも以上に気を配りながら文言を綴る必要がある
私はすでに書いた、人生を苦しいと思うのは100点を取ろうとしているからであると、またこうも書いた、人生が苦しいのは自分ではなく社会を変えようとしているからだと
この「完璧からほど遠いでもよい」はこの両者の解決策を導くための一つのヒントをその主体に与えるものとなる
先に言っておこう、この「完璧からほど遠いでもよい」は二つの憂いをその主体から取り除くことをその目的としている
その二つとは「逡巡」と「後悔」である
そしてこの二つを取り除くことに成功すれば、その主体の認識可能な安全かつ円滑な時間の流れの獲得は格段に容易になる
ここでのキーワードは「時間」と「経験」である
まず時間である
「完璧からほど遠いでもよい」は第一に挑戦の機会を増やす、逡巡が減るのだから当然である、ここはすでに述べた自由の定義「自己を理想的に規律する」と厳密にはやや抵触する個所なのだが、『「逡巡」と「後悔」を減らし、安全かつ円滑な時の流れを獲得する』がその目的なので、「自由の獲得」のためのその途上においてこのような考えが必要になるということをどうかご理解いただきたい
この私論は私的幸福論でもあるので、このような考察は僭越ながら非常に有効である、また先に述べた100点についても、必要なのは「共通」の高得点ではなく「個別」の高得点であり、故に「自分が何を好きで何をやりたいか」がある程度わかっている必要があり、したがって14歳から21歳までの最も感受性が豊かな時期にいわゆる「自分探し」を一定量行っている必要がある、そして「個別」の価値観を確立することができたのであれば、それは精神的な意味での裁量権の増大を意味する、なぜならば自分は変わらなくても時代は変わるからだ
何度も述べているようにこの21世紀初頭、時代は大きなうねりの中にあるといってよい、「共通」の価値観は今現在はともかく20年後、30年後の担保とそれがなり得るかどうかは極めて微妙な状態にある、またこれもすでに述べているように成功の形はそれほど多くないが、幸福の形はそこに一万人いたら一万通りの幸福の形があるのである、そういう意味でも「自分を見つめる」作業は未来が不透明感を増せば増すほど重要になるのである

さてここからはさらに私的な故に内省的な表現が続くが何卒辛抱の上読み進んでいっていただきたい
この「完璧からほど遠いでもよい」はその言葉が私の脳裏に閃いて以降実に奇妙な現象を私の認識上に起こしつつある、というのも私は概ね安全かつ円滑な時間の流れの獲得に成功しているにもかかわらず私の周囲の現実はそれ以前よりもやや悪化していると思えるからである、つまり早い話、気に障るような(些末な)トラブルが減るのではなくむしろ増えているのである
ところがここが重要なのだが「なぜ、ここでこうなるのか?」が増えているにもかかわらず、私の意識下においてそれは「にもかかわらず納得のいくもの」として処理され、記憶され続けているのである

即ち、納得のいくトラブル

「完璧からほど遠いでもよい」を受け入れた結果、それ以前よりもはるかに「納得」が増えているのである
「納得」は善を必ずしも担保していないためこの私論では登場機会の少ないワードであるが、その主体が明確なる善的な対象を得ているのであれば無論例外扱いされるべきである
これは実に不思議な現象である、無論、偶然の結果と一笑に付すことは可能だが、私がすでにこのタイトルを決めたことからしてもおわかりのように、私にはある種のインスピレーションがあるのである
つまりこれは単なる偶然の結果ではない
すでに「今なら耐えられるでしょう」と書いた
だからこそやや大げさな表現になるが試練のようなものが私を見舞っているのである
神のシグナルとはこうだ

今なら理解できるでしょう

負は単体では何も意味しないが、それが複数連なると法則になる、それは当初は自分にしか通用しないものだが、幸福の絶頂にあるときにこそトラブルに見舞われることから何かを学ぶことができればそれは『それでも尚「信じる」を選択する』を経て普遍に至る、そして普遍に達した者だけが奇跡を経験する
人生は厳しく、当然そこには紆余曲折を経たうえでの精神的境地がある、「老い」が間違いなく訪れる以上、最後は心の問題なのかもしれない

私は思う、人生で一番素晴らしいのは五十代ではあるまいかと、だがかつては平均寿命も短く、医療も今ほどには進歩していなかった、しかしその一方で社会保障は充実し(また我が国日本では1989年3月末まで消費税は0%であった)、再就職も容易であったためなかなか気づかなかったのだ、私たちは今人生百年の時代の扉を開こうとしているにもかかわらずその一方で社会保障、つまりセーフティネットは瓦解寸前である、だがそのような状況にあるからこそ、「自分を見つめる」作業が必要になるのだ、保障が充実しているならば多くの人はかなり高い確率で「皆と同じ」を選択するであろう、だが『「皆と同じ」を選択していれば少なくとも食いっぱぐれることはない』という時代は終わろうとしている、だからこそ「次」の人々に残すべき言葉を1960~70年代生まれの人々は模索しなければならない
新しい時代には新しい言葉が必要になるのだ
変革期においては時間は安定期よりも速く流れる、多くの試行錯誤が繰り返されるのだから当然であろう、したがって変革期において目的達成の確率を上げるためには「自分が何を好きで何をやりたいか」をある程度理解したうえでの対象の選別と「完璧からほど遠いでもよい」の手段の選択を適時行う必要がある、変革期なので前例を踏まえるという方法論はあまり意味がないかもしれない
過去にこだわればこだわるほど未来の先取りには失敗する確率が高まるであろう、そして未来について語れば語るほどその青春期における経験が重要になる
その「経験」については次の章で述べる

完璧からほど遠いでもよいPart2

「完璧からほど遠いでもよい」Part2(2017/07/08)

さて前章では「完璧からほど遠いでもよい」と題して、すでに述べた「距離感」と同様、私的幸福論に近い内容をここ数章の流れを踏まえて論述を試みた
前章でのキーワードは「納得のいくトラブル」であろう
「完璧からほど遠いでもよい」が閃きの結果脳裏に刻まれたとしてもそれでむしろトラブル、つまり都合の悪いことが増えるというのは何とも不思議な感じであるが、しかし事実であるのだからそう記さざるを得ない
そしてその結果「完璧からほど遠いでもよい」→「納得のいくトラブル」であり、それが「逡巡」と「後悔」の減少につながるという不思議な現象の結果、「時間」と「経験」という二つの要素において精神面での新たな局面を迎えようとしているという次第である
すでに述べたようにこの辺りは極めて私的なつまり内省的な内容となっているため、私的幸福論という文言自体に戸惑いを覚えていらっしゃる方はおおよそ理解不能な状態に陥っているのであろうが、しかしそのような読者は皆無であろうと私は想像する、なぜならばそうであればここまで読み進んではこられなかったはずだからである、したがってこの章においても私は十分言葉の運用については気を使いながらもしかし一方では安心して論考を進めることができる
僭越ながら感覚的に鋭敏でありまた読書などにより一定の知性を身に着けているが故に多くの心の傷を負っている人以外はこの私論をここまで読み進むことは困難であろうと想像する、精神的に新たな分野に切り込んでいくということはたとえ四十代以降の人であったとしても、漫然とした日常を送っている人(不景気故そういう人は明らかに減少傾向にあるが)にはおおよそそのための糸口さえ見つけられないものであり、「なぜ?」という思いを禁じ得ない「負」を多く経験しているからこそ、その人、いやその人たちだけが、その多くはたそがれの扉を開けて以降であろうが新しい時代に相応しい言葉の発見に到るのである
文明とはそれが普遍性を意味するものである限り少しずつではあっても私たちを真実へと導く
真実とは何か?
それは最終的には魂の救済
私たちは最終的には皆救われる、だが現世的に考えた場合、貧富の格差問題を取り上げれば容易にわかるように、苦しみはむしろ増している、なぜ、医学が発達し、様々な分野でより便利になった今、にもかかわらず私たちの苦しみは減ずる方へと向かわないのか?

電灯は暗闇を征服した(a)
電信電話は距離を征服した(b)
そしてITは暇を征服した(c)

今、私たちの目の前には誰でも選択可能な「充実感」が広がっている、だがそれは一方で情報の格差を生んでいるのかもしれない、もしツールの発達が私たちを一つにするのであれば、テロはむしろ減少していかなければならないはずだ、もしこの文章を2030年以降に読んでいらっしゃる方がいるのであれば年表をめくってほしい、2015~2017年とは実にテロの多い時代だったのである
上記した三つの征服のうち、(a)と(b)にはあるが、(c)にはないものがある、それは「恐怖」である、暗闇は不安を、距離は孤独を強める、前者は「襲われるのではないか」と思わせ、後者は「二度と会えないのではないか」と思わせる、だがITにはそれがない、暇がそこにあったとして、それは必ずしも恐怖を喚起しない、それどころか暇の征服は時にツールへの過度な依存の結果であるかもしれない、ここには絶対必要と相対必要の違いがある、「絶対必要」とは生活がより便利になるためだけでなく、より安全になるために必要ということであるが、「相対必要」の場合は後者が抜け落ちている、確かにスマートフォンによって治安をめぐる状況が前進することはある、だがそれが拡大解釈されれば少年少女の夜間外出は間違いなく増えるであろう、このあたりはスマートフォンを子供たちに与える大人たちは十分に用心しなければならない、「いつでも連絡がとれる」は安心材料にはならないのだ
逆に(a)と(b)にはないのに、(c)にはあるものがある、それは「完璧」である、「網羅」でもよい、スマートフォンの登場によって私たちの意識からフロンティアは消えた、確かに第五世代スマートフォンがあらわれれば、それを上手に使いこなせる人の仕事量はそれ以前に比して倍増するであろう、そしてそのような人の年収も倍増するであろう、それはマスコミなどで大きく取り上げられ、You Tuberを上回る衝撃となるであろう、ついに私たちは人間の意識をも征服したのだ
これは私にとっては恐怖以外の何物でもないが多くの特に若者たちにとっては歓迎すべきことと受け取られているようだ、隙間のない日常と脈絡のない行動、前者は時間(大都市においては空間も指す)のことであり後者は経験のことである、だが支持率100%であるために誰も警鐘を鳴らすことがない
私はすでにビートルズを例に、支持率100%からは何も新しいものは生まれてこないと書いたが、その考えに今も迷いはない
前章では時間について書いたがこの章では経験について書く

「完璧からほど遠いでもよい」にあってスマートフォンにないものは何か?
それは「旅」である、さらに言えば「一人旅」である、「冒険」でもよいがここでは「旅」に絞ろう
「つながる」はそこに安心しかない場合、認識可能範囲内における未開拓の分野への切り込みはかなり限定的になるものと推測される、またコンビニエンスストアなど「物」の利便性が1980年代以降、地方都市においても向上していることもそのような傾向に拍車をかけるその一因になっているのであろう
このことはグーグルマップで南極の地理的情報をも得ることができる今、地理上のフロンティアの消滅と相まって私たちの日常から急速に隙間を奪っていっている
すでに隙間から「想像力」も「創造力」も生まれるのだと書いた、おそらくAIが認識上におけるフロンティアにとどめの一撃を加えるのであろうが、塵一つ落ちていない完全禁煙のオフィスで同時に三台のPCを操る2001年以降生まれのビジネスマンたちはまるで純粋培養された植物のようにリクエストされた項目のすべてを実に手際よく埋めていくのであろう、だがきっとこのような傾向は長続きはしない、なぜならばここにはこの21世紀を考えた場合、極めて重要な言葉が欠落しているからだ
それは多様性、diversityである

確かに機会の平等は必ずしも結果の平等を意味しない、だが私は思う、そこに「普遍」という概念が共有されている限り、人類が目に見えない世界の主人になることはできないと、なぜならば長寿が保障されたとしても死そのものが消えてしまうわけではないからだ
人生百年はすでに決定済みであろう、がん克服ももしかしたら近い将来達成されるかもしれない、しかしだからといって不治の病が完全消滅するわけではない、また地球温暖化以外の環境問題が私たちの生活を窮屈なものにするかもしれない、生活のごみや産業廃棄物の問題に終着点はあるのだろうか、人類は人生百年を許容することはできても人口百億は許容できないのではないだろうか?
スケールの大きな話はここまでにして経験に論点を戻そう

「完璧からほど遠いでもよい」は時間をキーワードにすればこういうことになる

高度情報化社会が一方的に進行する現代において、私たちは幸福感を充足させるためには以下のことを認識する必要がある

安全かつ円滑な時の流れの獲得

僭越ながらこの論点は人生百年の時代が差し迫っている現在実に重要な精神的到達点に辿り着くためのその糸口となる、さらにすでに述べたように都市からは隙間が、私たちの意識、認識からは未開拓の分野が急速に消えつつある、だからこそそこではオリジナルの人生設計が必要になるのだがそれには条件がある
第一に「自分が何を好きで何をやりたいのかがある程度明確にわかっていること」、第二に「感受性の強い14歳から21歳までの間に、《夢=なりたい自分》の発見にある程度成功していること」、第三に「夢または目標などの対象の存在の重要性に気付いていること」、そして最後に精神の柔軟性の担保でもある「《豹変》の必要性について歴史から学んでいること」の四つである

では経験をキーワードにすればどうなるのか?
ここで認識しておかなければならないワードが二つある
「旅」と「読書」である
何れも上記した時間をキーワードにした場合の四条件をある程度踏まえていることが必須となるが、スマートフォンが爆発的に短期間に普及したことからもおわかりのように、行動とはイコールリスクである、この「行動=リスク」はすでに善を実践するにあたっては95%くらいの確率で「ハートブレイクの甘受」が避けられないと述べているのである程度諸君らにもすでに伝わっている部分ではないかと思う、行動自体にリスクが伴うのだから善を実践する場合は尚更であるということになるのである
日常のリスク回避のために今スマートフォンがある、だがスマートフォンに興じている人々を観察すればすぐに分かるように彼らには共通の性質がある
それは外界の遮断
逆に言えばそれだけスマートフォンとは万能に近いツールなのであろう、「つながっている」はずの人々が外界を遮断するとは誠に不思議な現象だが、スマートフォンが万能に近いと思わせるほどの機能を有しているにもかかわらず彼らの視界は360°どころかその10分の1にも満たないであろう、このことが意味するものは何か?
経験可能な行動範囲の著しい減少
なるほど映画館に行かなくても手軽に今年の映画を見ることができる、またCD shopに行く必要もない、また雑誌を買いに書店やコンビニに行くこともない、究極の利便性がそこにあるからその分経験が減少するのだ
だがこれは成功ではなく幸福を考えたときに実に重大な精神的危機を結果的にせよ彼らにもたらすかもしれない
ここであの言葉が復活してくる

負の肯定

すでに最大に得る者は最大に失った者だと書いた、そこにあるのは奇跡と真実と呼べる瞬間、そして負とは概ねリスクのことでもある、また失敗を恐れる者はそもそもチャレンジすらしない
負の肯定に気付かない者は究極の善に達することもない、そこではただ慣習を踏襲することだけが何にも増して優先され、ほぼ常に「数えられるものの価値」が「数えられないものの価値」を上回っている、だが何度も述べているように自分が変わらなくても時代が変わる、自分がしっかりしていればよいのだという話ではない、ではどうすればよいのか?
ここで新しいワードが登場する
相関関係
これは言うまでもなく自分と対象との相関関係である
対象とは?
すでに記した四条件をクリアして初めて見えてくるものであり当然人によって異なる
それは何?
一言でいえばオリジナル
ということは?
「完璧からほど遠いでもよい」からオリジナルを探せ

これもすでに述べている、課題は与えられるものではなく自分で見つけるものだと、なぜならば課題が与えられるものならば答えも限られたものになるからだ、だが実際には人の数だけ答えがある、このような傾向が明確に見られるのは人間の世界だけであろう、だから人間だけが食物連鎖の頂点につまりこの世の動植物すべてのチャンピオンのように君臨していられるのだ
人間は特別である、故に特別な責務を負う
なぜ夢や目標が必要なのか?
人は千差万別であり、たとえ同じ夢でもそこに至るルートはそれぞれの人がそれぞれの努力で開拓していかなければならないからだ、そしてその過程における曲折のすべてが最終的には言葉となってその後継者たちに受け継がれていく、また客観的に見れば同じ夢を叶えたように見えたとしても、それぞれの夢を叶えた人には外観はそっくりでも実はその裏には外観とはまったく異なる世界があり、それは同じような犠牲を払った人しか感知することができないものだ
そしてそのような経験(ズバリ過程のことだ)をした者だけがこれに辿り着くことができる

オリジナル

「注目していただけるのはありがたいが、しかしこれは通過点に過ぎない」果たしてイチロー選手がこのように語るのを私たちは何度耳にしただろうか
振り子打法、一本足打法、そしてトルネード、またラグビー日本代表五郎丸選手のPK、GKの際のローテーションなどもまたそうであろう、すべて彼らのオリジナルだ、間違いないであろう、オリジナルは天賦の才をも上回る、故にきっとこう結論付けることもできるであろう

優劣ではなく相違が重要

彼(彼女)は私たちと少し違っている、だがそこから個性が生まれ、四条件をクリアしてオリジナルへとつながる、これは多様性の肯定であり均一、均質の否定である、そしてオリジナルを確立できた(成功するか否かは関係ない)人はこれを獲得できる

安全かつ円滑な時間の流れ

だからそのような人には迷いがないのだ、そしてこのような人こそ真にスマートな人なのである
だがここには21世紀を生きる日本人が最も苦手とするものが横たわっていることも併せて認識しておく必要がある
それは孤独
そしてもう一つ、21世紀の日本人が好むものもここでは否定されている
それは予定調和
孤独を受け入れ、予定調和を排す
おそらくこれを避ければオリジナルには到達しない、したがって後継者に託すべき言葉も生まれないであろう、栄光ではなく真の満足は「誰からも何も言われないその瞬間、瞬間」が積み重なることによって生まれる、最初から確信があるわけではない、だから参考書はあくまでも参考にしかならないのだ
努力に勝る天才なし、しかしこれには条件が付いている、もし彼が以下の言葉を意識の外に追いやることができたならば、彼の努力は彼に成功よりも重要な何か(それは自分で見つける)を告げるであろう

比較

無論少数の例外はあるであろう、だが天才とは概ね私には内省的な人であるように思える、天才とは成功した人たちだけを指すのではない、天才とは併せて自
分のみの道をついに見つけることに成功した人も指す、これは妥協の排除に非ず、それよりははるかに理想の追求にこそある
いい機会なのでもう少しこの考察を続けよう
ここで記しておかなければならないワードがもう一つだけある
このワードがこの私論に記されるのはこれが初めてである
それは骨格
確かにこれは個性と多分に重複する、だがここで個性とは別に扱わなければならないのは個性では必ずしもつながらないのに骨格というと必ずつながるものがあるからだ
もうおわかりであろう、それが「安全かつ円滑な時の流れ」である
そしてこれによって逡巡が消える
何も考えないことによって逡巡を消すのではなく、骨格を維持することによって逡巡を消すのである、ここにはすでに少しだけ「信仰」が顔をのぞかせているがここではそれを横において話を進める
対象は神である必要はない、夢や目標でもよい
しかし骨格とは単に目標の達成を意味するのではない、これはもっと本質的な部分の話である、しかしにもかかわらず17歳でも十分理解できる次元の話でもある
ここでは「合理的」が「完璧」を上回っている、故に厳密には結果は二の次である、そして「人はいかに生きるべきなのか?」という人生の根本課題が二割くらい混じってくる、もう一度だけ確認しておかなければならないのかもしれない
前々書「曇天の日には収穫が多い」のあとがきを思い出していただきたい
そこにはこのように書かれていたはずだ
人生究極の選択として
① そんなことをやるくらいなら死んだほうがましだ、なのか
② 人生は厳しい、故に生きていくためにはそれもまたやむなしなのか
これは僭越ながら人生の能動的な疑問である、ここにあるのは「分析」ではなく「実践」のためのかなりの決断を伴った精神的な運動の最初の一歩である
そして骨格とはこのような人生の究極の選択時においても僅かたりとも揺らぐことのないものである、これは一個性のカヴァーできる範囲を明らかに超えている
骨格とは言うまでもなく精神的なものであり、肉体のそれを指すものではないが、しかし一方で骨格とは、単なる私益によるものだけではない目標の実現のために悪戦苦闘する人々にとっては実は決して譲れないものの一つなのである、ここには決して大げさな意味ではなく哲学が関係してくるのだ
物理的には「より便利」になり、また非物理的にも明らかに「より安心」していられるようになった、事実、私たちは常に何かに「つながって」いる、しかしだからこそであろう、「数値化」や「可視化」が重視され、また動態調査などによって、つまり大枠によって多くが判断されるようになってきているのだ、哲学とは時間やそれ故の経験の一断面を切り取ってそれを細分化することで見えてくる真実の断面のようなものを、言葉を巧みに用いることでそこに明確な形を与えようとするものだ、そしてそれは骨格を意識するすべての人に共通してみられる精神的な現象なのである、きっと彼らは若くしてそのことに気付いていたのであろう、骨格の維持によって後悔と逡巡を排することができると
なぜ後悔と逡巡を排することが重要なのか?
それは高い目標の達成のためには時間の猶予がないからだ
これは天才であればあるほどそうであろう、なるほど天才とは夭折するともよく聞く、「天才故に急ぐ」ということはあるのかもしれない
天才であればこそその0.01秒の超瞬間的な経験にこだわる
それは天才だけがわかる真のインスピレーション
だからそこには彼だけのオリジナルが生まれるのだ、そしてそれは他との共有は不可能である、きっとモーツァルトやまたアインシュタインなどもそうだったのであろう、彼だけが(少なくともその時点では)所有可能な恍惚の世界
また神=普遍が出てきそうだが、それも横において話を進める
ここでは時間が信じられないほど無数に裁断されている、故に経験もまたそうである、言ってみれば贅肉を削ぎ落として、削ぎ落として、さらに削ぎ落とす
そしてそのエッセンスだけが残る、純度99.999%の彼の分身の世界
これはただ骨格を維持し続けることによってのみ保たれる
だがきっとその最初はこうだったのだ

完璧からほど遠いでもよい

そう、楽しむことが当初はその目的だったはずだ、だが幸か不幸か彼には才能が有り、したがって道が開かれた、ここは17歳でも理解できる論理だ、なぜならば17歳では誰も彼または彼女に可能性がないと断じることは決してできないからだ
骨格とはオリジナル、相違、そして比較の意識外への追放
そして彼はこれを得る

自由

だから彼には迷いがないのだ

この続きは次の章で述べよう

骨格

骨格(2017/07/18)

さて前章では、「完璧からほど遠いでもよい」Part2と題して、前々章に引き続き幸福感を得られるための精神的な処方箋とでも呼べそうな文言を多く組み合わせることによって、「今なら耐えられるでしょう」以降の論理的な考察の一連の流れの深化そして拡大を試みた、そしてそこでこの補てんにおいて重要な意味を持つことになる象徴的な文言が生まれた

安全かつ円滑な時の流れの獲得

ここに理性が大きく関係していることは論を待たないが、人間の理性への依拠はその対象として神の沈黙が存在し続ける限り、一定の説得力を持ち続けるものであると私は確信する、おそらくどのような形であれ幸福論というものを考えたときにもそこでは経験が一定の範囲内で理性により拘束を受けると判断する方がより広範な文明の進歩を肯定する意味でもより理に適っているであろう
そして最終的にはどのようなものであれそこに幸福があったか否かを判断するのは本人だけであり、そこでは文字通り他の意見は入り込む余地はない、彼の選択と決断そして実践が彼の人生のすべてを決するのである、無論何度も述べているように納得は善的なものでなければ意味がないため、このような考察を深めれば深めるほど信仰の重要性が浮上してくるわけである(認めたくないがテロリストも納得してあの世へと旅立ったのかもしれない)が、そこに善がある限りにおいて幸福は以下の言葉から自由になることはできない

オリジナル

何度も述べているようにそこに一万人いたらそこには一万通りの幸福があるのである、そしてそれが善の要素を十分持っている場合誰もそれに対して干渉することができない、ここには結果的にせよヒューマニズムが関連してくるものと思われるがそれについてはその都度触れるという形にして、この章では主に前章で初めて登場した言葉、骨格について述べる

骨格とはオリジナルが重要であると規定した以上、間違いなく避けては通れない言葉であるが、ここではより多くの人々の理解を得るために「信仰」をあまり強調しすぎない範囲でその考察と定義を行いたいと思う
骨格とは個性と多分に重複するものであるにもかかわらず、自分自身で判断するしかない幸福感をより確かなものとするためには個性よりも重要なものであり、そのように定義することによって幸福のための重要な要素「安全かつ円滑な時の流れ」を得ることができる、ここには《ヒューマニズムや多様性、そして比較の排除故に直線的ではなく曲線的な人生観の肯定など様々な幸福論故に避けられない要素》(この章ではAとする)を見て取ることができるが、もし私たちがこの骨格というものを一つのキーワードとしてそれぞれの人生のなかである意味根本的なモチーフにすることができるのであれば、僭越ながらそれは「より安心でより障害の少ない社会の実現」に最終的にはつながるのではないかという気がするのである
ここで個の確立という言葉を使えば何とも凡庸な印象を持たれるのであろうが、だが上記したAを精神的なレヴェルで獲得しているのであればこの確立された個は間違いなく何か肯定的であると判断されるべき言葉をその後継者たちに残すであろう、そういう意味でも個の確立とは多分に客観的な要素が入り込むべきものでありまたそれは必ずしも数値化されたものを含まない、無論、善の要素をまったく含まない個の確立もあるのであろうが、それがdiversityに反しないという意見がそこにあったとしてもそれはきっと民主主義には反しているであろう、なぜならばこの2017年時点では民主主義とは「より良い」を実現させるための最も現実的な方法であり、また「より良い」社会の実現を支持する意見の方が善を必ずしも包含しない個の確立を優先させるような人の意見と比した場合明らかにより多くの支持を得られる可能性が高いことは論を待たないからだ、またそのような善を必ずしも包含しない確立された個が民主主義を基盤にした社会において万が一多数派を形成した場合でも、それが長続きするとは私には思えない、文明の進歩の基本は「漸進」であり、急進的なもの、時代にそぐわないものは結局その反動を受けるからだ、なるほどこのように考えてくるとこのネット全盛の時代、私たちは扇動者と呼ばれても仕方ないような人の甘言に惑わされないようにスマートフォンだけでなく他の媒体のチャンネルも常に確保したうえで、その都度最も適切な判断をした方がよいということになるのであろう、しかしこの点では日本人のバランス感覚というものは確かに世界標準を上回っているのは間違いないであろうと私は思うが

「完璧からほど遠いでもよい」は逡巡と後悔を遠ざけるとすでに書いたが、この「完璧からほど遠いでもよい」を挟んでそれ以前の段階に「今なら耐えられるでしょう」がありその後の段階にこの「骨格」があるとも考えられるのかもしれない
「今なら耐えられるでしょう」→「完璧からほど遠いでもよい」→「骨格」
この一連の流れはこの私論を私的幸福論としてみた場合のその中心に来る考えであると判断しても差し支えないであろう、そしてそれは僭越ながら上記したAをその付帯条件とすることで時に個を超え一定の普遍的価値を帯びるものであると言い切ることができるのかもしれない、ここを私はやはりあまり強調しすぎるべきではないのであろうが、しかし多様性社会そして超高齢化社会さらに言えばこの21世紀初頭の二つの人類に突き付けられた課題、つまり貧富の格差問題と環境問題をそこに加えた場合、人間にとっての幸福は20世紀以前と比べた場合、明らかに相対化されつまり混迷していくことが考えられる、これまではそこには絶対的ではないにせよある程度の判断の材料となるべき基準のようなものが社会全般を覆っていたはずだが、その影響力が全体的に弱まり、幸福感については個でおおよそ判断する、つまりすでに書いたように「その人がそれでよいと言えばそれでよいのだ」という状態が現出することになる
このことはいわゆるminorityの存在意義を相対的に高めると考えられるので個人的には憚りながら歓迎されるべきことと考えているのだが、従来の価値観にこだわる人にとっては相当に大きな精神的衝撃となるであろう、よく考えてみれば自分の人生設計を自身で考え自身で判断するというのは当たり前のことだが、我が国日本では太平洋戦争後、昭和20年代前半を除いて経済が最近まで順調であったせいか、この当たり前のことがやや蔑ろになっていたような印象がある、つまり個人の判断よりも社会(実際には大人たちだけ、若者の意見はそれほど反映されなかった)の判断が優先されるような社会的合意の形成が長年にわたってされてきたのではあるまいか、確かに経済とは数字であろう、そうでなければただの自己満足である、だがこの数字が拡大解釈されてきたのも事実ではあるまいか、勤勉であるかどうかを測る物差しはないが、偏差値という物差しはあった、だからであろうかこの二つは混同されていたような感がある、また上から下への情報や知識の流れを重視した少年少女たちの方が、限られた範囲内ではあるのだがより良い結果を残したのであろう、そしてこのような基準を維持することがなるほどジャパン・アズ・ナンバーワンを生んだのも事実であろう

だが時は流れ自分は変わらなくても時代が変わるという当然の帰結が今面前に迫っている、おそらくそれから私たちは目をそらすことはできまい、なぜならば私たち日本人はすでに十分20世紀の果実を受け取っているからである、確かにそこには日本人ならではの勤勉と倹約、そして「高い共通の目標のために」という労使双方の協調性があった、したがって私たちは未曽有の経済的繁栄を遂げたがしかしその一方で楽をしていたというわけでは決してない、だが贅沢を目標にしてきたわけではなくまた楽をしようとしたわけでもないにもかかわらずトップにはトップとしての責任が課されるのであろう、ここでまた民主主義の三条件が登場してもそう不思議ではあるまい
① 主権在民
② 思想、信条および表現の自由の権利の保障
③ 直接普通選挙の定期的な実施
私たちは今曲がり角にある、だがそれ故に幸福とは何かを考えることができれば、私たちは平和、繁栄の次に来るべきものを今度は世界から付与されるかもしれない、それは評価または尊敬
これは憲法の問題ではない、私たち一人一人の認識の問題だ、この72年間の日本人の少なくとも平和に関する考えには嘘はなかった、たとえ一部にそれがあったとしてもそれは社会的に認知されることはなかった、これは実に誇らしいことである、日本の戦後はついに報復を選択しなかった世界史上稀なケースといえるであろう、だからこそであろうこの逆風は今はともかくいつか日本人にとってはプラスに働くと考えられる、だがそう思えないのは、政治的な意味での拮抗の欠如と、豊かさというものが日本人が期待していたほどの幸福感をもたらさなかったことのある種の「期待外れ=喪失感」故のことであろうか?
だがそのように考えれば考えるほど、私たちは「個」に帰っていくのであろう、すでに書いた、軌道を逸れたときにこそチャンスが訪れるのだと、長い間順調であったものがそうでなくなることはそれまでの方程式が通用しなくなることを意味するためそこには当然かなりの混乱が生じる、だがすでに書いたように幸福とは本来それぞれの個が自身で判断すべきものだ、財を成した者が、または国家的な栄誉に浴した者がそうでない者より幸福であるなどとは誰にも言えないのである、ならば私たちの目の前にあるものは実は幸福のための変化のチャンスであって、minority、つまりこれまではノーチャンスに終わっていたであろう地域に住む者にも新たな局面が開けるかもしれないという未知故に開拓すべき分野の多い世界ではあるまいか
すでにオリジナルを確立できた者は安全かつ円滑な時の流れを獲得する、そこに成功したか否かは関係ないと書いた、そしてオリジナルを確立できた者が個性とは別に骨格を得る
ここには組織、団体を基準にした場合であればきっと到達できないであろう最終的には悟りの境地にも達するかもしれない精神の境地がある、そしてそこにはあるのはプラスではなくマイナス
贅肉を削ること、そして焦点を絞ること、そして「あれも、これも」の排除

この章に関してはこの辺りでよいだろう

失敗は吉、後悔は善

失敗は吉、後悔は善(2017/07/20 )

さて前章では、骨格と題して、「今なら耐えられるでしょう」以降のこの私論を私的幸福論と捉えた場合その中心に来るであろう考えをこの数章の流れを踏まえて論じた、骨格とは個性と多分に重複するがそれは《ヒューマニズムや多様性、そして比較の排除故に直線的ではなく曲線的な人生観の肯定など様々な幸福論故に避けられない要素》を備えたときに、普遍性を帯びるものであり、それは最終的には「より安心でより障害の少ない社会の実現」にもつながりうるものだと書いた、ここにある理念の中心をなす要素は「付加、加えること」ではなく、「削減、削ること」である

贅肉を削る

これはすでに述べた「拡大」から「循環」への望ましい精神の運動の移行にも通ずるものがある、これは価値基準の逆転を意味するがその一方で結果的なストイシズムを肯定することで日常生活における選択と実践を個々人の能力に適したレヴェルにまで下げて調節することができるといういわゆる精神の「余裕」を生み出すことに成功するであろう、この精神の余裕こそが幸福を考えたときに重要な役割を演ずるのであって、だからこそ人生もまた直線的ではなく曲線的であると定義することに意味があるのである、ここは「曇天の日には収穫が多い」で述べた「捨てる」や「待つ」につながる概念であり、これは21世紀以降におけるdiversityやminority’s powerを考えたときに僭越ながら外すことのできない精神的概念なのである
ここをもっと単純に言えば「量」ではなく「質」こそ重要ということになるのであろうが、つい数日前に2024年、または2028年の開催が決まったロサンゼルス・オリンピックでもUSOCは新しいスタジアムやアリーナは一切造らないと言明している(2017年9月ロサンゼルス市は2028年の夏季オリンピック、パラリンピック開催地に決まったが、97%の施設を改修で対応すると発表した)、これは量より質、つまり「レガシーではなくメモリー」に沿った発言であり、かなり高い確率でこの21世紀の文明の進歩を担う人々のスローガンになっていくと解釈されるべきものであろう

再び骨格である
削って、削って、そして削る
そして個のエッセンスだけが残る
これは数値化すれば限りなく0に近いものとなる(0ではない)ために、おそらくすべての数字を基にした価値基準を駆逐する、そこでは時間において「何を為したか」ではなく「如何に過ごしたか」が問われている、一見結果がすべてとも思えるオリンピックの誘致活動においてロサンゼルス市とUSOCが下した判断は、様々な意味でこの21世紀の指針のようなものとなっていくのではなかろうか?

0に近づけば近づくほどその精神は力を得る

以下述べる「失敗は吉、後悔は善」もまたこれを度々想起させるものとなるであろう
私はすでに述べた
「待て、まだ次がある」
これはどのような事象でもそれが終わりではなく、必ずそこには「次」があるためそこでは「一喜一憂せずに継続する」が重要になるが、これは同時にチャレンジの推奨であり、また「諦め」の排除でもある、計算を否定しているわけではないが、それ以上に「試してみる」の肯定である
ここではその行為の開始時点において積極性がその主体である個の意思に認められることだけが唯一の条件である、後は精神の運用だけで事足りる
ここでは二つの仮説を立てることができる
① 当初の目論見通りいかなかったが、想定の範囲内に収まった
② 当初の目論見通りにいかず、また想定の範囲外の結果に到った
何れもチャレンジの結果であるために批判の対象とはならないはずであるが現実には結果責任が生じるために実は辻褄の合わない攻撃に晒されることにもなるのであろう、そういう意味でもこの「失敗は吉、後悔は善」は一定の条件が整うまでの間は個々人の内側においてのみ有効なものであると見做すべきであろう
好奇心をキーワードにした場合、「する」は概ね「しない」を上回るが、ここでその主体に必要なのは実は「善」ではない、では何なのか?
これである

面白いと思う気持ち

この「面白い」はこの私論において神が強調されていた前半部分においてはあまり重要視される言葉ではないが、ここに来て私的幸福論的な性格が強くなり始めた途端、意味を持ち始めた言葉でもある
そしてここではすでに何度もこの私論において否定的に使われていた言葉がやはり引き続き否定的な意味で再登場することになる
それは損得勘定

彼はただ奇麗な蝶を追いかけていただけなのだ、そこに打算と呼べるようなものはまったくと言っていいほどなかった

これは何かの小説の一片ではない、これはただ「失敗は吉、後悔は善」と「面白い」を結びつけるうえで最も都合の良い譬えである
私はすでに書いた、時代は「同化」から「分化」へと移行しつつある、したがってもはやNew YorkもLondonも関係ない、今いる場所が彼にとっての中心となる場所であると、それをクラウドソーシングやAIが証明していくであろう、そこにあるのはただ「彼がそれでいいと言えばそれでいい」であり、それがMade in Japanであるかどうかなどもほとんど関係がない

望ましい時に、望ましい量を、然るべき人に、然るべき報酬で

ここには多様性の尊重の概念が確かにある、だからインタラクティヴになり、一方通行は減る代わりにこれまでノーチャンスだった人にもチャンスが生まれるわけである、だがこれは当然既得権益にこだわる人には決して譲れない一線でもある、したがって改革派と守旧派との権限をめぐる争いはきっと2020年以降さらに激化し、例えばオリンピックなどは改革派からは「(従来の基準にこだわるのであれば)開催の必要なし」の烙印を押されかねないであろう、むしろ相対的に見て経費のかからないしかも多様性の尊重の理念に沿っているパラ競技の方が需要があるかもしれない、パラ競技は特に健常者たちに「私たちは私たちだけで生きているわけではない」というつい見落としがちな現実の一断面を見せつけるが故に「より安心でより障害の少ない社会の実現」のための一定の動機の喚起をそこには見込めるかもしれない、僭越ながらこれは100年を超える超長期的な視点で現実を見つめ直したときに、民主主義の基本概念のようなものを多くの感受性豊かな者たちに思い起こさせるかもしれない

私はすでにこう書いた
出自やその属性に一切関係なくその素養及び能力によってのみその人物を判断しまた評価する

ここにあるのは明らかに「レガシー」ではなく「メモリー」である、つまり数値化困難な要素をにもかかわらずまず個人の内側において評価し、その後それを社会的な規模にまで時間がかかってもよいから押し広めていく、そしてその時初めて「メモリー」は「レガシー」になる
戦場カメラマンの記録は撮影されたその時点ではメモリーであるのかもしれない、だがその記録が世界中に発信され、私たちがそこにあるにもかかわらず見落としていた何か重要なものに気付いたときに初めてそれはメモリーからレガシーになる、そしてそれが多くの感受性豊かな人によって共有されてようやく悲劇はその解決のための第一歩を印すことになる

ここで私がこのように記すのは甚だ僭越なことであろう、だがそこにこの章で強調されている文言がもしまったくなかったとしたら「メモリー」はいつまでたっても「メモリー」のままなのである
綺麗な蝶を追いかけていた少年はいつしか大人になりもっと大きな視点から現実を捉え直すようになった、そしてそこにあるほんとうにそれを面白いと思える人だけが到達できる真実の一端を偶然にせよ垣間見てしまった
そしてこう思った

こう(私が望んでいるような結果)なれば皆が幸せになれるかもしれない

「面白い」とは愉快であるということではない、「面白い」とは「こうなればいいな」ということである
そしてこの言葉が出てくるのだ

失敗は吉、後悔は善

「より良い」のために何か自分にできることはないかと考えたときに、彼は数えきれないほど挑戦し、そして数えきれないほど失敗した、そしてまた数えきれないほど後悔し、数えきれないほど「もう一度だけやってみよう」と思った
そこにあるのは思考の選択や方法ではなく哲学である、ここには前章で述べた骨格に通じるものがある、すべてはその蝶を「美しい」を思ったその瞬間に始まっている、「面白い」は時に「合理的」を上回る価値を有する、理に適ってはいないがそれは「より良い」の源泉になりうる、戦場に斃れたカメラマンやジャーナリストの記録は彼らが命を賭して行動した、つまり危険を顧みなかったことの結果であろう、だが彼らの一見非合理的な行動がしかし一方で戦争の真実を世界に伝え最終的には戦争継続を訴える者たちを糾弾することに成功した、無論彼らが納得して亡くなったかどうかはわからないのだが、彼らがシャッターを切るその瞬間に、「私が伝えるこの悲しい現実の一断面が、もしかしたらいつかこうなればいいなを叶えるかもしれない」と考えたのではないかと想像することは十分可能だと思う、またそうでなければなぜ彼らが危険な戦地へと赴いたのか、理解することができない

石を積み上げ、積み上げ、積み上げる
なぜそんなことをするのか?
それは私たちが知るべき真実を明らかにするため

だが石は三つも積み上げれば忽ち崩れ、また最初からやり直しになる
しかしそれでも諦めずもう一度挑戦する
この章では内省的な事柄とスケールの大きな事柄とが混在しているように思えるがそうではない、植物の根と先端とがつながっているように土の中にある部分も陽を浴びている部分もそこには重要な関連性があるのだ、そしてこの私論でいわゆる水の働きをしているのが「知恵」または「信仰」である
負はすべてそこに理性的な働きがない場合、それは単なる負で終わってしまう、だが理性がそこで然るべき役割を果たすための、その始点となりうるのが「面白い」である

この章では「失敗は吉、後悔は善」をある意味主体的に捉えたが、次の章ではもっとこれを客観的に捉え分析していきたいと思う

失敗は吉、後悔は善Part2

失敗は吉、後悔は善Part2(2017/07/22)

さて前章では「失敗は吉、後悔は善」と題して、人間が生きる上で決して避けて通ることのできない失敗と後悔について私的幸福論の立場から考察を試みた、そこでキーワードになったのが「面白い」であるが、この「面白い」は一切の損得勘定を排した純粋に彼の理想の追求(こうなればいいな)から生まれ出でたものであることを今一度確認していただきたい
当初の目論見通りにいかないことは、最終的には①にもかかわらず想定内に収まったと②想定外の結果に終わった、の二通りに分かれるが、そこに彼が「面白い」の断片のようなものをすぐにではなくとも見つけることができるのであれば、彼の挑戦は無駄ではなかったということになる、むしろ既存の方程式を駆使することで短期的な結果を出し続けることの方が長期的な人生設計を考えたときには「損(ここでは負と区別したい)」が生じるのではなかろうか
ここは前々章で述べた骨格以降の結果的なものも含むストイシズムを感じ取れる部分であるが、僭越ながらこれはこの21世紀初頭のグローバルな課題、貧富の格差の問題と環境問題の二つをもしかしたら何らかの解決に導くかもしれないその糸口のようなものを包含しているのである
「面白い」とは「こうなればいいな」ということであり(私の場合どうしても信仰や善がキーワードにならざるを得ない)、それは結果的にせよ「万人のための幸福に寄与する」でなければならない、そしてそこではいわゆるtry and errorが延々と繰り返されていくのであり、またそこに善があるからこそ然るべき後継者が生まれ、その後継者たちが彼の遺志を継いでいくのである、したがってここではしばしば負が生まれることを避けることはできない、無論偶然にも一回目で成功することもあるかもしれないが、そうでない場合の方が圧倒的に多いであろう、1+1+1+1+1は5だ、だがここでは量ではなく質が問われている、したがって4以下であったとしても、5を上回る価値を持つものが現出することがあるということになる、確かにここは経済の原則に反する部分でもある、しかし一方で経済の原則に反しないようにした結果、上記した二つの問題、貧富の格差問題と環境問題が生じたのも事実だ、もし5がいかなる状況下においても4を上回るという価値判断(基準)が固定化された場合、世界中の人々はこれまでと同じような行動をとり続けることにやがて一切の躊躇を感じなくなるであろう、そこでは「結果がすべて」であり、「(赤字ではあるが)この数字には意味がある」などといった論理はさらに通用しにくくなるであろう、だが単刀直入に言えばあくまでも現時点での経済の論理がそのままの形で通用し続けるのであれば、世界は徐々に今よりも不幸になるであろう、そして私たちはいつしか精神の抑制に欠けるしばしば無軌道な後継者たちを生み出すだけになるであろう、なるほどそういう意味では私たちは今瀬戸際にあるのかもしれない
すでに「拡大」から「循環」へ、「より速く」、「より多く」から「より寛大に」、「より慎重に」へと書いた、また「効率性」は「多様性」を同時に担保するものでない限り価値を持ちえないとも書いた、おそらく二十世紀とはそれまでとは様々な分野で異なる時代であったのであろう、だが二十世紀の記憶を持つ者が減じていくにしたがって私たちは二十世紀の価値観をそのまま踏襲していくことに抵抗感を感じないようになってきているのかもしれない
確かに二十世紀とは、政治、経済、芸術、科学技術すべての分野において傑出した人物が現れまた功績を残した時代であった、すでに記した民主主義三原則が概ね定着し、人類の悲願であった平和と平等がその後半においてはその前半よりははるかに実現した、だが平和と平等の次に来るべきものは物の豊かさと同時に人間としての尊厳が来なければならなかったのだが、後者は抜け落ちたどころかもはやそれについて語ろうとする者さえ稀有という状況である、だから「次」の人のために、ということになるのであるが、この私論が多くの支持を得られないように、信仰や抑制(信仰はそれ自体が精神的に抑制的な性質を持つ)は先進的でもなければ根本的でもないと見做されつつあるようだ

私はすでに書いた
データ・インフォメーション+メッセージ・ストーリー=インテリジェンス・タクティクス、であると
だがデータとインフォメーションだけでやや強引に意思決定と行動を行おうとする人々が増えてきているように思える、果たして幸福とはすべて数字に置き換えることができるのであろうか?
私はそうではないと思っている、だからグレートターン、つまり私たちは回帰していくとなるのであるが、この2017年前後ではそうは思えない状況が続いているようだ

さてこの章のテーマは「失敗は吉、後悔は善」を前章とは別のつまり客観的に説明したらどうなるのかということである
ここからは一転して内省的なつまり細かい描写が増えていくことになるが、ここでの私の論点は「失敗は吉、後悔は善」を時間を軸にした場合それとどのように接していくべきか、ということである
すでに「面白い」を一つのキーワードに「失敗は吉、後悔は善」について論じてきたがtry and errorはそこに善の要素がある限り有効なものであると論じた、だが個がそれを時間的にどう処理していくべきかについてはまだまったく論じていない、したがってこの章でそれを試みることする
「後悔」は「失敗」とほぼ100%セットになっているものと見做すことができるが、だがチャレンジの重要性を説いている以上それは肯定的に捉えられるべきものである、ここで時間を軸にした場合の経過説明が必要になるのであろう
それは以下のようになる
① それ(行為)を行おうと考える
② それを行う
③ 失敗する
④ やらなければよかったまたはタイミングが悪かったつまり時期尚早だったまたは遅すぎたと考える
実はここまでは誰にでも共通していることなのでチャレンジの重要性を肯定できているのであればそれほど問題視する必要がない
問題はこの後である
多くの人は④の後に①の前に時間をずらしてしまうのだ、つまり①の前に失敗の原因があったのだ、と
無論それは間違いではないのかもしれない、なぜならばうまくいくときもあるのだから、だが私がここで強調したいのは④の後、①の前に戻ろうとするのではなく⑤を作ることにある
⑤ とはつまり「誰にでも共通の」ではないオリジナルの対処方法
つまり「いや、これでよかったのだ」と考えること
ここで負の肯定が頭をもたげてくるがここはここ数章の流れにおいて登場したキーワードを使って処理することにしよう
この「いや、これでよかったのだ」つまり「にもかかわらず、これでよい」はすでに記した「納得のいくトラブル」にも通じるものである、そこでは骨格と同時に精神の柔軟性が必要になる、それは「完璧からほど遠いでもよい」であり、また時に「今なら耐えられるでしょう」である、そこでは行為そのものが成果を上回っている、これは商業的な価値観を基準にした場合はとても受け入れられるものではないがすでに「幸福のすべてを数字に置き換えられるわけではないと私は考える」と記している、したがってここは商業的な活動とは別の次元で捉えられるべきものであると読者諸君には解釈していただいて次に進もうと思う
「にもかかわらず、これでよい」が増えれば私たちは以下のものの排除に概ね成功する
後悔と逡巡
そうここで一周して数章前の「完璧からほど遠いでもよい」に戻ってきたことになる、ここで、「完璧からほど遠いでもよい」、「今なら耐えられるでしょう」、「骨格」、「失敗は吉、後悔は善」そしてこれらの前にすでに述べていた「距離感」までのすべてがつながったことになる
どうやらこの私論における私的幸福論の分野の一つの頂点をここで見ることができるようだ
おそらく「にもかかわらず、これでよい」を上回る幸福のための精神の運動は他にほとんどないであろう、なるほどこの私論すべての最初にあった言葉も「にもかかわらず」であった、「人間にとって幸福とは何か?」を考えたときにきっと「にもかかわらず」よりも重要な言葉もそうはないのであろう
そしてこれは容易に数値化されたものの価値に対する疑問を呈することに成功する

数値化されたものの価値が必要以上に絶対視化されていないかどうか

ここでまた貧富の格差問題と環境問題が来る、もし数値化されたものの価値を重視するのであればここにある問題に目を止めないというのはどういうことか?
数値化された価値を重視するにもかかわらずこの上記した二つの問題に目を配ろうとしないということは、人類を待っているものが混沌と無秩序めいた競争の世界であることが上記した二つの問題からは容易に想像される以上、数字にこだわる人は貧富の格差問題と環境問題にもっと積極的にかかわらなければならないのではないかと私は考えるが、諸君、どうであろうか?
しかも混沌と無秩序は理性的に幸福の追求を「次」の人の利益も考えたうえで行おうとしている人の行動にも何らかの影響を与えるであろう、ということは貧富の格差の問題と環境問題は、「数えられるものの価値」を重視した場合にも「数えられないものの価値」を重視した場合にも何れにおいても受け入れられないものとなるのではなかろうか?
おそらく数字に対する欲望とはそれを叶えれば叶えるほど天井知らずとなるのであろう、セシル・ローズの「できることなら惑星をも併合したい」という帝国主義の時代を象徴する有名な言葉があるが、きっとこの言葉はまだ死んではいない
ならば尚更のこと、「人間にとって幸福とは何か?」に思いが到るはずなのだが、「共通」が「個別」を上回る時代はついに終わることはないのであろうか?

これらの疑問に関する答えの模索は次の章で行おう

二つの私論の補てん(3)

二つの私論の補てん(3)

二つの私論の補てん(2)の続きです。ぜひご一読ください。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 得る
  2. 完璧からほど遠いでもよい
  3. 完璧からほど遠いでもよいPart2
  4. 骨格
  5. 失敗は吉、後悔は善
  6. 失敗は吉、後悔は善Part2