この言葉、わたしに必要なこころ
この子、本当に踊ることが大好きなんだな。ダンス教室で踊っている悟理(さとり)の姿を見て、和樹はそう納得した。確信したと言ってもいいかもしれない。彼女は額に汗を浮かべて、笑いながら踊っている。インストラクターとして彼女を見ていたのが、彼女のことを愛してしまいそうだった。もう遅いかもしれない。そう、彼女のことを愛してしまっている。悟理は芸能人養成学校の生徒として、このダンス教室に通っている。迂闊(うかつ)なことはできない。つまり彼女を手に取ることはできないということだ。自信があるのか?そう、彼女を守って、幸せにすることができるのか。今の俺には彼女を豊かに、豊富な、かけがえのない人生を歩ませることができる。和樹はそう実感している。しかし彼女の夢がある。彼女は芸能人として、みんなに、人々に喜びを与える為に生きる必要があるのだ。でも自分はいったい何を求めているのだ?彼女がいなくては生活していけないだろうか。よく、そこを見極めることが必要だ。たぶん、彼女を失っても、俺の生活に支障はないだろう。だから悟理のことは諦めることにしよう。和樹は彼女が踊っている姿を見つめながら、そう、自分に言い聞かせた。これで、ジ・エンドだ。しかし、未練が残った。切ない思いだが、これで終わりにしょう。今日はベッドを涙で濡らして夜を過ごそう。また、いつかは良い恋愛をすることができるさ。生徒に手を出すことを考えるなんて俺はどうにかしている。今日はススキノで一杯飲んでマスターに話を聞いてもらおう。それが一番だ。きっと、彼ならこのくだらない話を理解してくれるだろう。
和樹は札幌駅から歩いてススキノのマツナガというバーに向かった。街は帰宅するサラリーマンやOLで溢れかえっていた。雪が降り始めていた。観光客がその雪を見つめて幸せそうだった。俺も若かった頃は雪が静かに降る様子を眺めては感動していたんだな、とそんな感慨を思い出したのだった。
バーは静寂でバックグラウンドミュージックが微かに流れていた。
「いらっしゃいませ、富永さん」マスターの加治木は心地よい優しい声で言った。
「今日はとても恥ずかしい話があるんだ、聞いてくれるかい?」
「富永さんはいつも恥ずかしそうにお酒をのんでいらっしゃる。でもその仕草が愛おしくてね。きっと恋愛関係ですね」
「そう、そのとおりなんだ。実は大切にしていたものを手放さなければならなくてね。一人、生徒の子がいるんだけど、その子に恋をしてしまって、でも、彼女は芸能人を目指しているんだ。だから彼女を諦めなければならなくてね」和樹は椅子のクッションの厚さを確認するように腰を沈めた。
「彼女の気持ちは聞いたんですか?」
「いいや、聞くまでもないよ。彼女は芸能人を目指している。それが答えさ」
「なるほど。富永さん、あなたは勇気があるお方です。それだけではない、人の幸せを願って自分を犠牲にする度胸もおありだ。わたしだったらどうしていたでしょうか、きっと彼女を犠牲にしてまでも望むものは手に入れるかもしれません」
「ほんとかな?君もきっと俺と同じように振舞ったんじゃないだろうか。そんな気がするよ」
「同じ性格の人がここには集まるのでしょうか、きっと強力な磁石が働いているのかもしれません」
「そうだな、なんだか切ない感じがするよ。でもなにか感傷がなんとも居心地よくてね。思いっきり泣いた後、清々しい気分になったような感じがする」
「弱音を吐くことも大切です。富永さんの弱音はわたしにとって粉砂糖のようなものです。そう、とっても甘い」マスターはにっこりと笑って、ラガヴーリン16年のスコッチを和樹の前に置いた。そのスコットの匂いを嗅いで思わず喜びが溢れた。
「ほんと良い酒だ。なんて言うのだろう、スコットランドのアイラ島の大地の、空気の匂いがする」
「長い旅をして、その先にある大自然の香りです。まるで絵画のようです」
「きっと、このスコッチを醸造した人たちは、我々の笑顔を浮かべた姿を夢見て作っているのだろうか?そうに違いない。まさか遠く離れたこのジパングに、このスコッチが流れ着くなんてね、なんだか飲んでいて幸せを感じるね」
「はい、まるで夢のような幻想を覚えます。遠くに僅かな光が見えます。それに向かって手を伸ばしてその光を掴もうとするかのような感覚です」
「うん、なんだかこのラガヴーリンを飲んでいると、恋なんてどこかへ飛んでいってしまいそうだよ。そっか、俺はこの為にここに今日来たのかな」
「そうですね、良い機会になったと思います。富永さんとラガヴーリンは似た者同士なのでしょう。とても香(かぐわ)しい。とてつもなく複雑です」
「なんだい?それは言い過ぎだろう。俺は素直なものさ、とても利口なもんだよ。純情でね、いつも恋をしていないと寂しいものさ」
「それはわたしも同じです。そう、理解しておきましょう」
和樹はゆっくりとスコッチを飲みながら、静寂の中に聞こえてくるオールディーズに耳を傾けた。店内に聞こえてくる、グラスに氷が当たる音に、目を閉じて、なんて素敵な仕草なんだろうと思ったり、静かに語り合う人々の囁きを聞きながら、その語り合いには本当に恒久的なものが含まれているのだろうかと、疑問に思ったりした。しかし穏やかな酔いが身体を包んできた。マスターに相談したことにお礼を言って、店を出た。雪は強さを増していた。頬に当たると微かに体温が下がってくるようでもあった。札幌駅に向かって歩いていて、信号待ちをしていると、女性がら声をかけられた。
「すいません、ひょっとしたら、富永さんじゃないですか?」一瞬、誰かなと思ったけど、知り合いではなかった。
「はい、そうですが‥‥」
「テレビで拝見しました。ダンス教室で踊ってらっしゃるところを、とても特徴的な踊りだったので記憶に残っていたんです。ほんとに才能がありますね」
「ありがとうございます。踊ることしかできなくてね。わたしから踊りを取ったら、何も残りませんよ」和樹はにっこりと微笑みを浮かべて言った。
「頑張ってください。成功を祈ってます。怪我をしませんように‥‥」
「ありがとうございます。お元気で」和樹は右手を挙げて、挨拶をした。
札幌駅に入ってお土産コーナーを見て周り、札幌名物のお菓子を買ってプラットフォームに立った。五分ほど電車を待っていると、和樹と同じように酒を飲んだらしい人たちが和樹の後ろに並んだ。
「しかし、あの恵美ちゃん、ほんと愛想が良いよなあー。俺ほんと、全てを貢いでもいいよ」
「そうだよなー、でもきっと彼女、彼氏がいるよ。お前の片思いだよ」
和樹は一瞬、悟理のことを思い浮かべたが、目を閉じて、彼女の思いを脳裏から削除することに成功した。そのことに満足した。
電車が到着して乗り込むと、ソファーに座って、酔っ払いたちのくだらない戯言をなんとなく聞きながらも、そのトーンに軽く巻き込まれながら、心地よさを感じていた。なんだか、世間はほんと平和なんだなと思い、吸う空気がとても純粋なものに感じたし、穏やかに顔の筋肉が弛緩して、思わずため息が出た。ほんと日本は幸せなんだなあ、こうやって、生きているんだなあ、と祈りにも似た思いが心の中に住みはじめたことに、自分でも微かな驚きというか、穏やかな感慨を抱いた。
自分の姿が真正面のガラスに映っている。ゆっくりと電車は動き始めて、カタンコトンという線路を車輪が叩く音が聞こえてくる。俺はこれから何処へ向かっていくのだろうか。このまま、一生ダンス教室のインストラクターとして生涯を過ごすのだろうか。いいや、たぶんそうではないという気持ちが自分の中で浮かび始めていた。俺も人々に喜びを与えたい。と、いうことは、俺も芸能人になりたいということなのか?そうなんだ。俺もみんなを楽しませたいという思いがあるんだ。これは驚きだ。まさか、ダンスの先生が芸能人を目指すなんて。でもそれは自分にとって劇的で、とてもやりがいのある生き方に思えた。明日から演技指導を受ける為に、悟理の通っている芸能人養成学校に行ってみようか。まずは悟理に話しかけてみよう。彼女にアドバイスを受けることができるかもしれない。
電車を手稲駅で降りて、西友の総菜売り場で値引きされた食材をカゴに入れて、レジに持っていく。支払を済ませて店を出て、道路を渡るとアパートはすぐそこだ。部屋に入ってテーブルの上に買い物袋を置いて、ソファーに座ってテレビをつけた。バラエティー番組がやっていて、複数の芸能人やアイドルたちが司会者とトークを交わしていた。大した面白いことは話していなかったが、それでもテレビ番組に出て、一つの商品として自分を売り出していることにはちがいない。それは尊敬してしかるべきことだと思った。しかし、ここに映っている芸能人のどのくらいの人たちが十年後、生き残っているのだろう。同情を禁じえなかった。俺がその場面にいるとしたらいったいどんな話をするだろうか。自分を襲った面白い体験、そんなものはなかった。だからきっとダンスの話をするのが一番だろう。しかしバラエティー番組は俺には向いていない。ドラマの俳優を目指すことに決めていた。しかしダンス教室の先生が俳優になったことはあるのだろうか。あまり聞いたことがない。しかし、俺が道を拓いていく。そう、それくらいの自信がないと芸能人としてやっていけないだろう。ふと、テレビでお笑い芸人が登場して、持ちネタを披露した。なかなかしっくりいく様だったけど、その芸人はたぶん、その持ちネタを使い果たして、あと半年もすると、もうテレビ画面から消えて誰からも相手にされなくなっていく。でもその時にもその芸人はきっとほっとして、肩から荷が降りたというふうに思うのではないか。期待に応えることができるのか、本当に人に夢を与えることができるのか。俺は人を喜ばせることに心血を注ぐことを今、ここで誓わなければならない。それは一人の人間としてやらなければいけないことだ。俺は人々を楽しませ感動させたい。この思いは本物だ。これからが本当の勝負が始まるんだ。明日の朝、悟理が通っている芸能人事務所に行ってみよう。
この言葉、わたしに必要なこころ