夜の鎖骨と踝の羽根

 仕事が終わってすぐ、彼と会う。私と彼は当然のように手をつなぎ、街の隅にあるホテルに向かう。
 彼がよく利用しているホテルである。私の住む街からは遠い場所にあるホテルで、彼の家からは近いらしい。彼の家には行ったことがない。
 彼は幅の広い二重と長いまつげで私を見つめる。一重でまつげの短い私と見つめ合う。ひとつになれぬ確認と、正反対の風景を二人で追い続ける一瞬。彼は私のものにはなってくれない。彼が私の両肩を、ゆっくりと支えるようにつかむ。左手の人差し指を私の鎖骨の窪みに向ける。私が何か言える間もなく、彼に肌をこすられる。鎖骨の上の窪みを、何度も何度もこすられる。
「ねえ」
 私の声は行方がなくて空気だ。彼の指と私の肌がこすれあう音だけが耳に入る。
 いつもはじめは垢のようである。ぽろぽろと絨毯に落ちる。私が少しずつ減ってゆく。彼が会うたびこれを繰り返すので、私はどんどん減っているのである。彼に会う前の私は、もっともっと背が高かった。横幅もあった。
 右の鎖骨の上の窪みから、私がどんどん抜け出ているようだ。絨毯に落ちる、カスのような私の欠片は彼のこすりによって積もってゆく。私の踝までぱらぱらと積もったところで、彼は私を向いた。彼は、少しだけ口を開いた。何かを言おうとしている。私は何気ないふりをして、目をこらして聞こうとする。
 彼は小さな声で言った。

「いたい?」



「血、出てる」
「あ、ほんとだ」
 ユウは自分が血を流していることに気付くのが遅い。いつも私が指摘してから、「あ、ほんとだ」と言って拭う。拭った手は適当に着物の裾にこすりつけようとするものだから、いつも私は止める。
「そんな高価な着物に血なんてつけるんじゃないの」
 私がいつもつれていく場所はおばあちゃんの部屋で、そこは畳と箪笥のにおいがする。おばあちゃんの部屋なのに、たいていおばあちゃんはいなかった。時々お茶を飲んでいたりするけれど、こっそり茂みから出てくる私たち二人のことを笑顔で迎えてくれた。
 茂みを抜けて縁側に上がり、慌ただしく中に入る。箪笥の中から包帯やガーゼを取り出してユウの手の甲の処置をした。もう慣れたもので、すぐにユウの手は包帯にくるまれた。
「ありがとう、アツキ」
「気をつけなさいよ」
「アツキこそ、気をつけないと。僕と一緒にいるとこ見つかったら怒られるよ」
「あのねえ、それはユウのほうでしょ」
 ため息をつく。しっかりした着物も着せてやれないような家の子と遊んでいることは、ユウの親に知られてはいけない。
「とにかく、あんまりさわっちゃだめよ」
「わかってるってば」
 わかってない顔でユウは笑っている。
「こすったりしちゃだめだよ。こすったからって、傷、治ったりしないんだからね」
 ユウは他の子よりも血の流れやすい子だった。なぜか傷はいつのまにかついていて、それは何か難しい病気らしかった。ユウは全然気にしてなくて、時々傷口をこすっては私に怒られていた。



 あの頃の私はユウより大きかった。けれど、もうあの頃のユウと同じくらいの大きさになっていると思う。
「いたいよ」
 私も小さな声で返した。
 私はこすられ続けて、いつか消えてしまうのだろうか。
 私の中の辞書には、「消える」という単語の意味の一つに「ユウ」が入っている。ユウは傷口をこすって、人目のつかないところでたくさんこすって、消えてしまった。人伝に聞いたのは、傷口が化膿したらしい、ということ。実際はもっと理由があったのだけれど、子どもだった私には理解できない病気だったので、その先は忘れてしまって、今も思い出せない。
「私の鎖骨の窪みは、化膿するの?」
 彼の伏した長いまつげはつるりと曲線で、光を浴びている。
「化膿はしないよ」
「私、消える?」
 この先、「消える」という単語には意味がどんどん増えていくような気がして、こわかったり、さびしかったりする。「消える」のいやなところは、あたたかみを感じようとしたら感じられそうなところだ。入りたいと言えば受け入れるよ、とでも言って器の大きさを見せつけられているような気がして悔しい。でも自分が「消える」の意味の中に入ってしまえばそこでユウに会ってうまく生きていけそうな気もする。
「みんな、いつかは消える。俺だってきっと消える」
 私がユウのことを考えている間にも、私はぱらぱらと小さくなってゆく。
 小さくなって消えてゆくことは、幸運なことなのかもしれないと、いつしか私は思っている。
 その先にユウがいる気がして。
「私、トキに会えてよかった」
「最後の別れみたいに言うなよ」
 トキは手を止めて私を抱きしめた。私は抱きしめ返す。
 その間私は、足首に積もっている私の欠片を、片方の足を使ってもう片方の足にすりこんでゆく。私の欠片は、もう羽根のように大きく平たくなっていた。私の輪郭は少しずつ大きく戻ってゆく。トキは、気づかないふりをしてくれる。上司に怒られるだろうに。でも私はすりこむことをやめない。
「消えることと死ぬことって同じことなのかしら」
 ときいてみた。違う、と言われた。
「まったく違う」
 トキは否定した。トキが否定したから、私は頷いた。
「消えても生きてる奴だっている。…だから、ユウとかいう奴だって、元気にやってんのかもしれねえよ」
 私はトキと同じくらいの背になった。私の足首はひえひえしている。私から離れた一部がくっつくと、私の体はひえひえと冷たくなって、そのあと温かさをとり戻す。
「うん」
 トキの鎖骨に唇をつけた。
 足掻かなければ、死ぬ前に消えてしまう。それもいいのかもしれないけれど、私はまず足掻いてみて、その足で、またユウに会いにいきたい。

夜の鎖骨と踝の羽根

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

夜の鎖骨と踝の羽根

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted