花たちが咲うとき 番外編 二

花たちが咲(わら)うとき (番外編)

月下の章・一 ~兄の偶像~

その日、俺の敬愛する兄が「友達」を連れてきた
兄がこの家に友人を連れてきたのは今日が初めてだ
兄はこの弟妹ばかりで騒がしく、親もいないこの家に人を入れたがらない
それは弟妹が煩いからとか、家庭事情を詮索されたく無いからとか、そんな低俗な輩の思考から導き出されるものとは全く違う
この家に呼んだ友人がこの家や家庭事情を知って気まずく思ったり、申し訳なく感じさせてしまうのが嫌だからだ
兄は優しい人だ
そんな兄が連れてきた友人は ――
―― 不良のような人だった……


※※※


「うー、朝食に味噌汁とか久しぶり……。染みるわぁ」
兄さんだけが出せる我が家一番の味噌汁を啜ったその人は、向日(むかひ) (あおい)というらしい
昨日の兄さん誕生日から家に居座り、図々しくも朝食まで食べている
「口に合うかな?」
「合う合う! マジうま」
「それは良かった
潤、皆のコップにお茶足してあげてくれるか?」
「はい、兄さん」
偶然お茶の入ったボトルが俺の近くにあったことに内心舌打ちをしつつ、しかし兄さんのお願いは聞いてあげたいので素直に頷く
俺はやや乱雑に向日のコップにお茶を注いでやる
少し溢れた
「あ、ごめん。ありがとな、潤くん」
「いえ……」
お前のためじゃ無い。兄さんの頼みだからだ、馬鹿
「ありがとう。潤」
「はい」
待ちわびた言葉をもらえて、自然と声が高くなってしまう
―― あぁ、今日も兄さんの味噌汁は美味い
姉さんは部活で早朝から出て行ってしまったため、セーブ役が減ったぶん俺が出来る限り弟妹たちをまとめなければ
各々のタイミングで食べ終わったら食器を流し台に持っていく
あっという間にシンクが食器の溜まり場になり、全員の片付けが終わったのを確認した兄さんが机を濡れ布巾で拭いている
俺は一足先に流し台に立つ
ふと、隣の冷蔵庫に目が止まった
天井につくほどの大型の冷蔵庫は我が家の伝言板代わりにもなっており、マグネットで貼り付けるホワイトボードが扉にくっついている
だいぶ年期が入ってきているためホワイトボードというよりグレーボードになってきているが……
他にも細々としたメモや、学校からもらったプリントなどで埋め尽くされているため、冷蔵庫の本来の色を覚えている者は少ない
そんな冷蔵庫にふと違和感を覚えたのだ
弟妹達が新しいプリントを貼った形跡もないし、ホワイトボードに追加の連絡事項が書き足されている様子もない
しかし、昨日までの記憶と何かが違う
「……」
じっと目を凝らして隅々まで確認する
なぜそこまでするのかと問われると明確な答えは出せないが、妥当な返答を返すなら何か新しい学校行事や連絡事項を見逃すと後から揉める原因にもなるからだ
この前も三女の千草が授業で色画用紙が必要になったことを前日の夜に言い出し、そのことをホワイトボードに書いたとか書いてないとか揉めた記憶が新しい
結局兄さんが近所の家に頭を下げに行って色画用紙を分けてもらっていた
この辺りは近所にコンビニもないし、夜の出来事だったためバスも走っていなかったのだ
なのでこういうことがあると大変なことになる
―― あ。
そうこう考えながら絶えず冷蔵庫を埋め尽くすメモを見回していると、当番表の裏に小さな紙切れの端が覗いている
こんなもの、昨日はあっただろうか?
そっとその切れ端を指でつまんで引っ張り出すと、乱雑ながらもバランスの良い文字が見えた
「「おめでとう」……?」
たった五文字
しかしこの文字は弟妹の誰のものにも当てはまらない
大人のもののような、しかしその文字に見覚えがあるような気がしてならない
「潤?」
「あ、兄さん……」
咄嗟にメモを元の位置に戻した
なぜか兄さんに悟られてはいけないと思ったのだ
「新しい連絡でもあった?」
「いえ、気のせいです
食器、俺が洗いますから」
「ありがとう。俺も手伝うよ」
布巾をラックにかけた兄さんは腕まくりをして、俺の横に立つ
俺は慌ててスポンジに洗剤を含ませた
一通り磨いたら兄さんに手渡す。それを兄さんが水で流して食器たてに置いていく
そんな単純作業が滞りなく行われていく
そんな最中も、俺は兄さんの向こうにある冷蔵庫が目の端にチラつく
「兄さん」
「うん?」
「この後、一緒に出掛けませんか?」
俺より少し背の高い兄さんだが、食器を洗っている最中は少し身を屈めるせいか顔がほぼ同じ高さにある
どんな宝石にも負けないほどの綺麗なエメラルド色の瞳
憎らしい色だが、美しい
兄さんはその瞳を数回明滅させた後に、にこりと笑って頷いてくれた
「うん。行こっか」
「あ、ありがとうございます」
「あ。でもそうなるとお留守番は若菜か。大丈夫だとは思うけど確認しておかないと」
「はい」
最後の食器を兄さんに手渡して、スポンジを元の場所に戻す
我ながらみっともないくらい浮かれてしまっている
口元が緩むのを抑えられない
兄さんと二人で目的もなく出かけるなんて何年ぶりか
昔は幼い弟妹を家に置いて出掛けるなんて出来なかったし、年長者側の俺と兄さんが一緒に出かける時の大抵は家での大切な買い物などの時だ
しかし、そろそろ弟妹達にも留守番を任せられる
若菜がしっかりしていて良かった
最近は少女漫画とやらの読みすぎか妄想のような夢のようなよく分からないことを言い出すようになったが、基本は常識をわきまえた良い子だ
俺はスキップしそうなほどに浮かれてしまって、メモのことなどあっとういう間に失念してしまった


※※※


「え、キモっ」
俺はジュン兄の姿を見てついつい口を滑らせる
傍のクロが訝しむように俺を見上げてくるので、頭を撫でてやる
昨日の雨でいつもは外塀の上にいるクロが今日は家の中にいる
今日は俺がクロの餌当番
いっそ飼えばいいと思うのに、キョウ兄は自由にさせている
そのくせ定期的に近所を回ってクロがそこかしこで粗相をしてないか確認しに行っているのだ。そちらの方が明らかに手間だろうに
頭のいいやつの考えっていうのはよく分かんね
先程目にした、あからさま浮かれていたジュン兄を思い出す
きっとキョウ兄とのことでいいことでもあったのだろう
あの人が浮かれることと言ったらそのくらいしかない
「……キモ」
俺はクロにも同意を求めるように頭を撫で回してやったが、クロは我関せずといった風に餌に顔を埋めていた



俺は愛用のギターを担いで家を出た
隣には兄の友人というアオ兄、葵さんがいる
俺的には趣味も近くてなかなか好印象なこの人。耳についたラインストーンのような小さい赤の玉ピアスがよく似合っている
じっと見ていることに気づかれたのか、アオ兄が不意にこちらへ声をかける
「練習ってどこでやってんの?」
「学校。音楽室開けてもらってんの」
「へぇ、すげ。学校公認?」
「ははっ。ないない!
音楽のセンコーが応援してくれてるだけ」
「職権乱用じゃん」
「な」
この人との会話は楽。言葉が近いからかな?
「オレ一人っ子だし、緋汐くんみたいな弟いたら楽しかったろうなぁって思う」
ふと、アオ兄が俺の思っていたことを代弁してくれたものだから嬉しくなってしまう
「あ、俺も! アオ兄が兄貴だったらなぁって思った!」
「マジで!? なっちゃう? 兄弟」
「なるなる!」
なんて冗談だって分かってるけど嬉しい
「じゃあ、香はオレと双子って設定で」
「え?」
続いて出たアオ兄の言葉に俺はうっかり疑問の声を上げてしまった
アオ兄が少し驚いたように俺を見返す
そんなに顔に出てしまっていただろうか?
アオ兄はちょっと困ったように首を傾げた
「え? 嫌?」
「……うん。イヤ」
ここで普通は「そんなことないよ」と言うべきなんだろうけど、この人の前でまで嘘をつく必要はないと思ったら自然と言葉が出た
「へ? 双子ってのは無理あった?」
「そうじゃなくて……」
あ、そうか。アオ兄は俺がキョウ兄のこと好きだと思ってんだ
俺は意味もなく辺りを見回して、ため息を吐くように笑った
「俺。キョウ兄のこと、好きじゃないから」
「へ? でも仲良さそうだったじゃん」
「そうじゃないとジュン兄がウザいから」
俺の言葉に案の定驚いた様子のアオ兄は、パチパチと目を瞬かせている
今更だけど、キョウ兄の友達やってる人にこんなこと言って、イヤな奴って思われるかな?
そんなこと考えている横で、アオ兄は軽いような神妙そうな声で「ふーん」と言って両腕を頭の後ろで組んでいた
「何でか聞いていい?」
俺はちょっと驚いた
大抵の奴は俺がキョウ兄のことを嫌いだと言うと、皮肉れてるとか、そんなこと言うもんじゃないとか言うのに
「俺が、キョウ兄を嫌いなわけ?」
「うん。
オレだって香の全部が全部好きなわけではないし。緋汐くんはどの辺が嫌いなのかなって」
「……」
俺は驚いたの何のって色々な感情がごった返したせいか、つい言葉に詰まってしまう
「俺は……――」
「あ、ヒッシー! おっはぁ!」
不意に前方からの声に遮られて顔を上げる
気がつけば学校の校門前についてしまっていた
ドラム担当の友人が手を振っていた
「おはよ」
「て言うか、隣にいるイカす兄ちゃん誰? 兄貴?」
「あ、こんちは……」
少しどぎまぎしているアオ兄を和ませるべく、俺はさっきまでの話を切りやめた
いや、本当は。明確に言葉にできない感情から逃げてしまっただけなのかもしれない


※※※


兄さんと少し遠出して、賑わいのある所まで来た
来たはいいが、さてどうしたものか
俺も兄さんも大して用もないのに出掛けるという行為に慣れていない
バスを降りたところで一歩も進めずにいた
「どこ、行こうか?」
「そう、ですね。取り敢えず、歩きましょう」
「うん。どっち行く?」
「え、えっと……」
悩んだ挙句、右に進んだ俺たちは賑わいのある街をあてもなく進む
「潤、学校は楽しい?」
「そうですね。授業中、うるさいのが数名います
休み時間に話せばいいようなことを喋っていたり、いちいち大声で「分からない」と手をあげる奴とか……
いっそ寝ている奴の方が好印象です」
「ふ、そういう楽しい人達はいつの時代にもいるもんだな」
全然面白くないが、兄さんが笑ってくれるならあいつらも役に立つものだ
「友達と遊んだりしてる?」
「必要ありません。どうせ三年間の仲など作るだけ面倒です」
「そう? 遊べるうちに遊んでおいた方がいいぞ?
友達だって三年以上のものになるかもしれない」
「……そうでしょうか?」
「言い切ることは出来ないけど……
そんな人と出会えたら、一生ものだぞ」
今こうして見渡しただけで数十人の人がいる
俺の目の届かないところではもっと多くの人が、たくさんの意思のもとに動いている
そんな中から、たかだか俺の一生分の範囲で、本当に出会えるのだろうか……
「俺には、兄さんがいますから ――」
そう、兄さんがいる
それこそこの何千何万という中で、この人が血を分けた兄弟であること以上に奇跡があるだろうか
出会うか否かも分からないような他人より、今ここにいる家族だ
友情なんて馴れ合いよりも強く確実で愛おしいものが俺にはある
それ以上に望むものなどあるだろうか
「そう言ってもらえるのは、嬉しいけどな」
兄さんは嬉しそうな恥ずかしそうな、少し不思議な笑顔を見せた
ついつい、こちらまで照れてしまう
「あ、に、兄さん! そこで少し休みましょう」
「うん」
照れ隠しのつもりで話題を変えたのに、その声が上ずってしまっていたらバレバレじゃないか
自分で自分の不甲斐なさを責めながらも、兄さんがいつもの様子と変わりなく頷いてくれてホッとする
噴水を中央に十字に伸びる遊歩道に、等間隔に設置されているお洒落なベンチに腰掛ける
ジョギングをしている女性に、駆け回る子供。電話をしながら早足で通り過ぎて行くスーツの男性
俺たちの前を様々な人たちが通り過ぎて行く
時折好機の視線を兄に向けてくる奴らを睨み返しながら、ふと脇の花壇に目をやれば色鮮やかな紫陽花が咲き誇っている
「紫陽花の季節ですね」
「そうだなぁ」
兄さんは少し目を細めて俺を見返す
俺は少し胸が痛むのを感じながら、その鮮やかな瞳を見返した
「疲れていませんか? 飲み物、ありますよ?」
「ありがとう。大丈夫だよ」
「これからどうしましょうか? この先に……」
そこまで言ってしまってから俺はハッと言葉を止めた
この先に大きな県立の図書館がある。幼い弟妹でもギリギリ歩いて行ける距離だったので昔はクーラーの無い家にいるよりも良いだろうと、兄弟全員で行ったりしたものだ
子供用に騒げる部屋が設けてあったから弟妹のほとんどがそこへ遊びに行ってしまうなか、俺と兄さんは一緒に本を探しに歩いたものだ
最近は弟妹達も自由に動くようになったし、図書館も言うほど近くのあるわけではないから、最近は疎遠になっていた
何となく懐かしくなって話題に出そうとしてしまったが、俺はその行為が兄さんに対しとても酷な選択をさせると直感した
俺が提案すれば兄は喜んで頷いてくれるだろう
しかし、その後は?
「? 何かあった?」
兄さんが純粋な表情で首を傾けてくる
「あ、いえ。あそこの専門店街は久しく行っていないなと……」
「じゃあ、そこに行こうか」
「はい」
咄嗟に違う場所を挙げられて良かった
俺と兄さんはベンチから腰を上げ、歩き出した



そこは大して広くもないが、スーパーに本屋、雑貨店にと色々な店がこじんまりと寄り添っている
いつの間にか店の顔ぶれが変わっている
俺は少し楽しくなって目新しいお店を見て回っていた
古本屋が目について、なかなか見ない紐閉じの書籍を見つけた時は柄にもなくテンションが上がってしまった
兄さんのレポートのチェック役をしているうちに身についた知識が役に立った。くずし字で書かれたそれをゆっくりながらも読み込んでいるうちに集中してしまったらしい
ふと意識が現実に戻ると、時計の長い針が半分も回っている
慌てて辺りを見回すが兄の姿が無い
兄さんが俺を置いて行ったりするはずがないので、付近の違う店にいるか休んでいるのだろう
店から飛び出し辺りを見渡せば案の定。まっすぐ続く遊歩道の壁になるようにズラリと並んだ店の一つ、店先に置かれたベンチに腰掛けていた
きっと疲れてしまったんだろう
俺としたことが……――
「すみません、兄さん
つい読み込んでしまって……」
兄さんに駆け足で近づいた時、初めて兄さんの横に誰か座っていることに気がついた
成人男性よりも細身であろう兄さんの陰にでもスッポリ隠れてしまうほどに小さい人影は、兄さん同様に白い頭をしたお婆さんだった
顔中の皺に混ざるようにある細い目から覗く瞳は薄茶けており、歳相応のものを感じさせるが何処か品のある佇まいだ。若い頃は美しい人だったのかもしれない
「潤。もう良いのか?」
「は、はい。お待たせしてしまって……」
「気にしないで。それに退屈はしなかったから」
兄の言葉にお婆さんは更に深く皺を刻んで微笑んだ
「ありがとう。楽しかったわ」
「こちらこそ、ありがとうございます。それでは」
「ええ、さようなら」
俺は口を挟むのも忍びなく、去り際にお婆さんに小さく会釈をしておいた
お婆さんは小さな薄っぺらい手のひらを、これまた小さく振っていた
「兄さんは本当にいろんな人と仲良くなれますね」
「そうかな?」
「はい。誇らしいです」
―― 同時に少し、心配です
音にせずに飲み込んだ言葉は、喉に引っかかりながらもなんとか嚥下した
アーケードを抜けた所でパッと視界が開ける
開放感に意図せず呼吸を深く吸った
「そういえば兄さんの大学って、この先でしたっけ?」
「うん。そうだよ」
「行きたいです……。兄さんの通っている大学」
兄は少し驚いた様子だったが、にっこり笑って頷いてくれる
俺が将来行く大学だ。小学校中学校はともかく、高校もその先も俺は兄さんを追いかけるように生きて行く
兄さんのように主席入学してやるんだ
俺はその意気込みを力に変えるように歩き出した


※※※


「腹減ったぁ」
誰が言い出したかは定かではないが、俺たちは昼飯にすることになった
アオ兄はここにくる途中で寄ったスーパーの弁当を開けている
今日は調子がいい
俺もだけど、今日はやたらチームの息が合う
アオ兄という存在が適度な緊張を与えてくれて、いい影響をおよぼしているのかもしれない
「いやぁ、皆スゲーわ。ちっとみくびってたわ」
「マジで? やったあ」
アオ兄の単純だけどストレートな言葉に、皆がついつい顔をほころばせ昼食をかき込む
「路上ライブとかやんないの?」
「こんな田んぼだらけのところで?」
「それ以前に無理だろ。学校オッケーくれないって」
「許可とかいらんくね?」
「バレたらヤバイだろ……。俺ら今年受験だっての」
最後の一言が痛かった
一瞬シンとなって、風の音や外の部活動の掛け声なんかが聞こえてくる
アオ兄は少し視線を泳がせて笑って見せた。沈黙に耐え切れなかったらしい
「高校行ったらやめちゃうの?」
「いや、やめるっていうか……。皆が行くとこ一緒じゃないだろうし……」
「学校違くなると難しいよなぁ、やっぱ」
それぞれがネガティブなことを言う中で、俺が
「そう言わずに集まろうぜ!」
なんて言えない。言ってもしょうがないし、空気読めてない
俺も適当に、でもどこか確定した未来を見るように「だな」なんて零した
そんな中で、アオ兄だけがどこか納得いかない風に唸っていた
「じゃあさ、大学では?」
「は?」
俺だけじゃない。他の何人かの声もかぶった
アオ兄はどこか妙案を思いついたかのように歯を見せて笑っている
「高校生はさ、確かに忙しいし難しいだろうけどさ。大学はそうでもないぜ!」
「そう、なの?」
疑問を言葉にしたのは俺ではなかったが、内心同じ言葉を呟いていた
何たって俺たちは中学生だ。高校のことですら分からないことばっかりなのに、大学なんてもっと分からない
学校であることは変わりないし、高校と同じような感じで行くものだとイメージしていた
アオ兄は新しいゲームを与えられた子供のように目をキラキラさせている
「もー、ぜっん全違う!
俺んとこの大学は時間割自分で選べるし、取りたい授業だけ取るとかできるし、一限目の開始時間遅いから寝られるし!
単位とか卒論だけ気を付けとけば自由、自由っ!」
そう身振り手振り説明するアオ兄に、皆の表情が緩む
アオ兄の大学というと、必然キョウ兄の大学でもある
家ではキョウ兄が俺の学校での様子を聞いてきたりするけど、逆は無い
でも確かに、大学生になってからキョウ兄は朝の準備に余裕があるみたいだし、家を出るのも一番最後になった
そのくせ早い時は誰よりも早く帰ってきて夕食の準備をしていたりする
一日を学校で過ごす学生とは、少し違うのかもしれない
「偏差値高いとこはそうも行かないのかもだけど、県外とか行かない限り大学って言ったらあそこ辺りになるだろうしさ、案外うまく行くんじゃね?」
「かなぁ。じゃあ高校の間に俺もっとギターうまくなっといて、皆びっくりさせてやるわ」
俺の宣言を皮切りに、皆が俺も俺もと名乗りをあげる
「よっしゃ! 練習しようぜ!」
「おー! 次はミスしねぇ」
皆がバタバタと昼食の片付けに慌ただしくなってる隅で、アオ兄が晴れやかに微笑んでいた


※※※


キャンパスはどこか静かに佇み、歩道脇の木々が風に擦れる音が鮮やかに聞こえる
今更思えば、用もないのに休みの日まで学校に行くなどとんだ物好きだ
兄さんはそれぞれの学部に別れた校舎内をそれぞれ回りながら案内してくれる
兄さんの所属は人文学部のはずなのだが、他の学部の校舎までやたら詳しかった
幅広く人脈を持つ兄さんなら当然か……
「潤は将来どこの学部に入りたい?」
「人文学部です」
兄さんが所属している学部。当然だ、それ以外の余地はない
しかし兄さんは少し首を傾げて、意外そうに「そうなの?」と聞き返してきた
「変ですか?」
「ううん。でも、潤は経済とかバイオとかの方が向いてそうだから」
「そう、ですか?」
「うん。昔から新聞とか読むの楽しそうだったし、化学の実験好きだったろ? 向いてると思うよ
人文学部はそれとは反対というか、民俗伝承とか神話とかそんなんだぞ?」
兄から授業についてはよく聞かせてもらっているから知っている
近代文学を読み解いたり、地域の祭りに参加したり、書道、陶芸と幅広い授業内容を耳にしていた
最近も日本神話についての授業を受けたと楽しそうに話していた
それはそれでとても楽しそうだと思うのだが……
確かに、俺は実験などが好きだった
仮説を立て、必要なものを準備し、実験。過程も楽しいが得られた結果が自分の仮説と合致した時の快感と充実感は何にも変えがたいものがあった
「潤」
「あ、はい」
ついつい考え込んでしまっていたようで、兄さんは俺を呼ぶ声に顔を上げる
兄さんは慈母のような穏やかな笑顔で俺を覗き込んでくる
「自由の少ない生活を強いてしまっていることは、自覚してる
だから、自分のやりたいことや出来ることまで我慢しなくていいんだ
好きにして、いいんだよ?」
―― 我慢……?
俺が、我慢を? 己を殺して兄さんの後を追っている?
違う。そんな訳がない
俺がそうしたいから、追っているんだ
尊敬する兄さんの辿った道が、俺の進むべき道なんだ
なぜなら、兄さんは全てにおいて正しい。清く美しい
人として真っ当な道を進み、過ちを犯さず、欲に呑まれず、常に他者のためにと行動を起こす
俺も、そんな人間になりたい
兄さんの横に居ても恥ずかしくない人間でありたい
だから
だから……――
「はい。好きにしています
だから、兄さんは心配しないでください」
「……。それなら、良いんだ」
その時の兄さんの表情を、俺は見ることができなかった
その声が。視覚で確認する必要もないくらい、寂しそうに俺の鼓膜を震わせたから
―― ぱたっ
その音に、俺はみっともなく肩を震わせてしまう
―― 嫌なことを、思い出してしまった……
遠かったのか、近かったのか
その音は数を増やし、ついに俺たちの行く手を塞いだ
「雨……」
どんどん強くなっていく雨に、俺たちは無力に空を見上げることしかできなかった


※※※


「あ、降ってきた」
アオ兄の声に顔を上げれば、窓の外は薄暗くなっていた
練習も終えて既に解散した音楽室には、もうアオ兄と俺しか残っていない
ぼんやりと窓の外を眺めているうちに聴覚に迫って来るような雨音が音楽室内を満たした
アオ兄が口を開けたまま空を見上げている
「すごい雨。こりゃしばらく出れねぇな」
「置き傘あるし、持ってけば?」
「傘さしても無事でいられっかなぁ。これ」
外の雨はザンザカと降りしきっている
まるで世界の全てを洗い流そうとしているかのように、右に左にとひっきりなしに方向を変えて落ちて行く様子に俺もついつい眉をひそめた
「確かに……。楽器が濡れるのはなぁ」
「少し様子見よっか。ずっと居座ってたらセンセが送ってくれるかもだし」
「賛成ー」
それからしばらく他愛の無い話をしていたが、さすがに話題も尽きてきて俺は閉まったギターを再び取り出した
軽く指で弦を撫でて、静かに曲の練習をする
アオ兄は少し嬉しそうにこちらを振り返って、また外の雨を眺めだした
どこか安らいでいるような、こんな状況も楽しんでいるような、そんな顔
それが嬉しくて俺の指もいつもより滑らかに動く
天気なんかよりも強い力を持った気がして、嬉しい
―― やっぱ良いなぁ……
俺は自分の奏でる音に耳を傾ける
すっかり指が覚えてしまった音符の流れは、意識せずとも奏でをやめない
「アオ兄って、どんな中学生だった?」
「……え?」
「いやさ、何かに熱中したりさ。彼女とか?
どんなんだったのかなぁって……」
アオ兄は少しの間俺の顔を見つめた後に、ふと視線を逸らし降りしきる雨に笑いかけた
「全然。青春なんて呼べるもんじゃなかったよ」
「そうなの?」
「おう。何かを好きになれるほど才能も無かったし、毎日毎日、無駄に時間を過ごしてた」
「何かを好きになるのに、才能っている?」
俺の問いに、アオ兄はくしゃっと笑った
「いるぜ。緋汐くんがそうやってギター続いてるのは上手いからじゃん。才能だろ?
下手くそじゃ楽しくねぇだろうし、楽しく無いのは好きになれねぇよ」
なんとなく分かったような分からないような気持ちで俺は頷いた
アオ兄はやっぱり外に視線をやったままだ
「オレ、何やっても中の下でさ。何もかもが楽しく無かったワケ
んで、親ともちょっと壁があってさ。グレて過ぎてっちゃったんだよなぁ、オレの青春」
「……。想像、出来ないかも」
「そう? 俺の頭って結構そっち系に見られるんだけどな」
「見た目は、まぁ。そうかもだけど……」
見た目はともかく、今のアオ兄はとても楽しそうだった
今日もそうだったけど、昨日も、きっとその前の前も。アオ兄はこうやって笑ってたんだろうって想像できる
俺のクラスにもいる。授業中寝ていたり、テスト中ゲーム機を机の下でいじってたり、休み時間にはイヤホンで耳塞いで上の空
教師が何言って怒っても諭しても、その退屈そうな表情を崩さないやつ
周りやクラスメイトには、不良と分類されている
そいつの何もかもがどうでも良さそうで、どこか寂しそうな表情が、雨空を見つめるアオ兄と被って見えた
アオ兄の唇がボソリと呟く
「香のおかげ、かな」
「キョウ兄……?」
「そ。オレ、昔っからブチ切れると見境ないんだけどさ
何もかもが出来損ないの俺にとって最たる欠点だと思ってた事を、あいつはあっさり受け入れて笑ってくれた
それが、凄く。嬉しかったのを覚えてる……」
「……。それが、キョウ兄との出会い?」
「ん? うーん。
出会いってのは違うかなぁ、あいつとはその事がある以前から会ってたし……
強いて言うなら……――」
一旦間を置いて考えるそぶりをしたアオ兄は、少し恥ずかしそうに歯を見せて笑った
「友達。に、なった日……?」
何も言わない俺に、アオ兄はどんどん恥ずかしくなってきたのか金色の髪をワシャワシャと掻き混ぜた
沈黙に耐えきれないと言いたげに話を俺に降ってくる
「そ、そう言えば聞きそびれてたよな。潤くんが香を嫌いなわけ」
「え、ここで……?!
アオ兄からキョウ兄とのちょっといい思い出話聞いた後で、キョウ兄の悪口言うの?!」
「あー、じゃぁ、ほら! 俺から言っていくか!
香の悪いとこ!」
勢いでそう言ってしまったアオ兄は、特に聞いてもいないのにキョウ兄の欠点を指折り数え始めた
「えーっと……。ドジっ子属性だろ?」
「うん」
「押しが弱い」
「分かる」
「運動音痴」
「重症だよね。あれ」
「……――」
「……」
「……」
「……」
あれ、品切れか?
思ったより早かったな。なんて思いながら俺は弦を指で撫でた時……
「……あ! お袋並みに世話焼き!」
「!」
俺の指に弦が深く入り込んだ
―― それは欠点になるのか?
そんな考えがぼんやりと頭をよぎって、指が弦から離れる
アオ兄はそんな俺の動揺を見逃さなかった
ハッと気づかされたように顔色を変えて、俯く
「あ、……ゴメン」
「……、なんで謝るの?」
「いや、だって。潤くん達の親……」
アオ兄が申し訳なさそうにしぼんでいく姿を見て、俺は少し勘違いしているのではないだろうかと首をかしげた
「アオ兄、勘違いしてない?
確かに今俺ん家に親居ないけど、死んでないからね?」
「え? そ、そうなの……?」
「多分ね」
「多分?」
「てか、そう言う事キョウ兄から聞いてないんだ?」
俺の問いにアオ兄は少し考える風に頬をかいた
「んー。昨日聞こうかとも思ってたんだけどさ、聞き逃しちゃって……」
「ウザいよね……、そういうとこ」
「え?」
自分のことを言われたのかと身構えたアオ兄に、俺は笑って返した。きちんと笑えていたら良いけど
「キョウ兄のことだよ。
そういう核心を言わないとこ。ほんとハラタツ」
「でも、さ。そういうのも多分、優しさから――」
「そういうのが腹立つんだって!」
思わず勢いがついて指が弦を弾いてしまった
でろーん。とみっともない音が出る
今の俺みたい
「ごめん……」
慌てて弦を押さえて謝るの俺に、アオ兄の表情は見えなかった
「いや。謝んなくて良いよ……
オレこそゴメンな」
「……、俺は大人ぶったキョウ兄がキライ」
あ、まずいな。と思ったときには遅かった
―― 止まらない
「まるで俺たちの親みたいに甲斐甲斐しく世話焼いて、諭すように出てくる正論がキライ
そんなキョウ兄を誇らしげにしてるジュン兄もキライ
キョウ兄を俺たちの親みたいに扱う家の空気がキライ」
ここまで言うつもりは無かったのに
アオ兄はキョウ兄の友達なのに
分かってる
本当は、本当にキライなのは ――
本当の両親の顔を思い出せなくなっている自分だ
キライキライと嘆くばかりで何も出来ない自分だ
俺はキョウ兄に……
キョウ兄は……――
「親じゃなくて、兄貴なのに……――」
最後の言葉は小さく掠れて、雨音にかき消されてしまった


※※※


痛くない
それが一番に思ったこと
次に自分の体が何かに包まれてあったかいことに気づく
「に、ぃ……さ……」
今まで聞いたこともないほどに震えたジュン兄の声
―― ぱたっ
俺を包む何かのせいでほとんど塞がれた視界の端で、何かの落ちる音がした
水。かとも思ったが、それは異質なまでに鮮やかな色を持っていた
ジュン兄は先程振り上げた拳を解くこともできず立ち尽くしている
キョウ兄の声が頭の上から何か言っているのが分かったが、それを言葉として認識できなかった
途端にジュン兄が泣きわめき始めたので聞き取れなかったのかもしれない
あのジュン兄があそこまで子供のように泣きじゃくるのを見たのは、後にも先にもこの時だけだろうと思う
あの時、キョウ兄はなんて言ったのだろう
俺は何を言ってしまったのだろう
思い出せない
俺が今よりもっと、ガキの頃のことだった


※※※


兄さんが傘を借りてくると言ってどこかへ行ってしまった
俺が行くと言ったのだが、知り合いもいるし土地勘がある方が行くべきだとやんわり制されてしまい、俺は廊下の端に設置されたベンチに腰掛けている
しかし、兄さんが心配だ
雨を避けて行けるルートがあると言っていたが、おっちょこちょいの兄さんのことを思うと不安だ
やはり付いて行くべきだったか
―― ぱたっ。ぱたたっ
雨垂れの音がする
どうしてあんなことを思い出してしまったのか
別に、雨の日に限って毎度思い出すようなものでもなかったのに
どうして、今……?
あれは、俺の記憶の中で二番目に嫌な過去だ


※※※


「ねぇ! 写真でもいいからさ、そういうの無いの?」
 中学に入学して二年目だったろうか、学校から帰宅したばかりの俺に緋汐が両親について聞いてきたのは
両親が家を出て行って一年くらいが経とうとしていたころだ。小学校卒業を控えた緋汐が学校から帰ってきた途端、そんなことを言い出した
俺が中学校に入学する時も、両親は帰ってこなかった
きっと緋汐の時もそうなるだろうと、何となく懐かしい悲しさに胸を打たれたのも束の間。
スクールバックを置く猶予も与えられず、緋汐は食って掛かるように俺に詰め寄った
「ねぇ!」
「無いんじゃないか? 兄さんにでも聞いてみたら?」
「ちっ」
「おい、舌打ちするな。なんなんだ急に」
「……」
何も言わず踵を返して箪笥などを物色し始めた緋汐の代わりに、若菜がそろそろと近づいて小声で声をかけてくる
「あの、ジュン兄さん」
「若菜。あいつはどうしたんだ?」
「あの、それが。学校の授業で六年生は卒業の感謝の気持ちを込めて、両親の絵を描いて贈ろうということがあったらしくて……」
「なるほど。お前、描けなかったのか」
投げて寄越すような声に、引き出しを漁っていた緋汐の手が止まる
「私はキョウ兄さんの絵でもいいんじゃないかって思うんですけど」
「そうだな。兄さんを描けばいい」
「うるさいな! 親の顔描けって言われてんのに何でキョウ兄なんか描かなきゃいけないわけ? 変な奴って思われるじゃんか!」
バンと大きな音を立てて引き出しが閉められる
若菜は小さく悲鳴を上げて、俺の腕にしがみつきながらも強張った笑みを緋汐に向けた
「ま、まぁまぁ兄さん。私だって、その、もう覚えてませんし……
キョウ兄さんは私達の育ての親も同然ですし……」
「若菜の言うとおりだ
それに「なんか」とは何だ。兄さんのおかげで生活出来てるくせに偉そうにするな」
「金は親からの仕送りだろ。キョウ兄に生かされてるわけじゃねぇし」
ふいと首を反らせた緋汐の態度は、まだ幼かった俺に異様なまでの怒りを沸き起こさせた
「生かされてるわけじゃない? じゃぁお前は飯も洗濯も、身の回りのことは全て自分でやれ」
「はぁ? 何でそうなるわけ」
「そうなるだろ。誰のおかげで何苦労なく生活できてると思ってるんだ、お前は
金だけで人並みに生活できてると思うなよ」
「苦労無く? 何基準で言ってんのアンタ?」
お互い掴みかかりそうなまでに距離が詰まり、一触即発の空気に若菜は少しずつ後ずさる
ついに緋汐が俺の首元を掴んだので、俺も負けじと掴みかかった
「お前だけが不幸だと思い込んでんじゃねぇぞ」
「思ってねぇし」
「お前の態度がそう言ってんだよっ」
思いっきり緋汐を突き飛ばせば、首元を掴まれていた自分も前方によろめく
尻餅をついた緋汐は、怒りと羞恥にカッと顔を赤くして掴みかかろうとしてくる
掴み合いの喧嘩に関しては得意としていない
俺は意地と、微かな恐怖に教科書の詰まったバックを思いっきり振り回した
手に、衝撃 ――
ぶつかった勢いに握力が負けて、バックが重い音と共に床に転がっていった
いつの間に目をつぶってしまっていたのだろう
次に視界が戻った時、俺は一瞬自分が何をしていたか思い出せなくなった
想像していた結果的状況があまりにも違っていたために、一瞬思考が止まってしまったのだ
「に、ぃ……さ……」
誰の、声だ?
俺の、声?
どうして。俺は緋汐と言い争っていたはずだ
どうして。そこに、兄さんが、いるの……?
―― ぱたっ、ぱたたっ
一瞬、兄さんは化粧をしているのではないかと錯覚した
しかし、よくよく見ればそれはそんな美しいものではないと分かる
兄さんの片頬は赤く腫れ上がり、唇は口紅を落としたように真っ赤に染められ、その赤が顎を伝って滴っていた
「ごめん、な
頑張る、から……」
兄さんの開いた口から覗く白い歯は、ザクロを噛んだように赤く染まっていた
「仲良く、して……。ね……?」
緋汐を胸に抱きしめたまま、兄さんは痛々しい顔に優しげな笑顔を浮かべて俺を見上げた
俺だ
俺が……
兄さんを、傷つけた……――
もう、何がなんだか分からなくなっていたと思う
気づいたら目一杯に兄さんを抱きしめて、自分のものとは思えぬ奇声を発していた
視界が激しく歪んで、いつの間にか弟妹達が集まっていたことすら気づかなかった
姉が一番下の双子の弟達を保育園から連れて帰ってくるまでその状況は続いたと思う
兄さんは奥歯が折れる大怪我だったが、幸いにも折れた歯は乳歯だったため、しばらく食事に不自由した程度で済んだ
それでも、あの出血量は今思い出しただけでも冷や汗が出る
俺と緋汐は二人仲良く姉に説教され、二人仲良く兄さんと全く同じ赤い跡を頬につけられた。といっても兄さんほど酷いものではなかったが……
その頃から剣道をしていた姉さんが本気で殴っていたらこの程度では済んでいなかっただろう。平手だった時点で相当手加減してくれていたはずだ
それでも、俺たち二人。いや、兄さんを含めて三人の頬の腫れは、しばらく引かなかった
そういえば、それからだったか
表面上で、緋汐と揉めなくなったのは……


※※※


「あれ? 月下?」
「?」
不意に名前を呼ばれ、俺は咄嗟に顔を上げた
当然と言えば当然だが、そこには見知らぬ男が立っていた
「やっぱ月下だよな? いやぁ、頭が黒くなってたから一瞬わからんかった」
「あ、いや……――」
「ちょうど良かった! レポート手伝ってくれ! 頼む!」
「……」
昔から兄さんとよく間違わられたし、それ位自体は苦でも無くむしろ嬉しいくらいだった
しかし俺の目の前で合掌のポーズのままへラッと笑うそいつに、俺は異様に腹が立った
―― 自分でやれよ
今週にはテスト週間があり、最終日はレポートの提出日でもあることを俺は兄さんから聞いている
兄さんは主席と言うことが関係しているのか、授業内容を記憶しているかを試されるテストよりも、自分の主張や考えを要求されるレポートの方があからさまに多かった
だから数週間前からコツコツとレポートを書き上げ、誤字脱字がないか俺に最終確認まで頼んでくるほどの熱心ぶりだった。それほど今の兄さんには期待がかかっているし、それに応えようと努力しているのだ
それをこいつは大した努力もせず面倒な事と先送りにした挙句、期日が迫ってくると人のいい兄さんに縋ってなんとかしてもらおうと目論む
こういう兄さんの親切心をさも当然のように欲張る輩が俺は大っ嫌いだった
黙っている俺をどう思ったのか、未だ兄さんと勘違いしているこいつは縋るようにへつら笑う
「頼むよぉ、これ出さないと単位落としちまうんだよぉ。」
―― それを知っていながら今まで手をつけなかったお前が悪い
―― 俺が、いや。兄さんが知ったことか
そいつの「結局最後は頷いてくれる」といった笑みが俺の何かをぶち切った
「俺の知ったことじゃない。自分のことは自分でなんとかしろ」
「……、え ――?」
そいつは笑顔を浮かべたままの顔で固まった
同時に俺は、しまったと思う
こいつは俺を兄さんだと思っているのだ。こんなことを言ったら兄さんの心象が悪くなってしまうではないか
俺は内心慌てつつ、冷静を装って適当な言葉を探す
その間にそいつは貼り付けた笑顔をさらに醜く歪ませて俺に、兄さんに迫る
「ご、ごめんな。なんか機嫌悪い? 相談乗るぜ? 友達だろ?」
―― だからレポート手伝ってくれ。
俺にはハッキリそう聞こえた
取り繕おうと見つけ出した言葉が一気に沈んでいって、俺は再び口をつぐんだ
―― もう知ったことか
兄さんのイメージは悪くなってしまうかもしれないが、こんな奴の評価など兄さんにとってなんの役にも立たない。それにこれ以上こいつが兄さんの友人ぶるのが我慢ならない
俺は思いつく限りの罵詈雑言を頭の端に思い浮かべながら口を開こうとした
「何を騒いでいるの?」
凛とした女性の声が静かな廊下に響いた
俺はその声に聞き覚えがあり、思わず言葉を飲み込む
自称兄の友人が少し動揺したように身じろぎした
「え? と、利根さん!?」
「声が聞こえるから何事かと思ったら。貴方、月下 香の弟の……、潤君。だったわね」
この女性は昨日会った。兄さんの同回生で友人だと聞いた
利発そうな女性だとは思っていたが、あれだけたくさんいた兄弟の中から俺の名前を言い当てるとは中々だ
少し性格がきつそうであるが……
「へ? 弟!? 月下の?」
「そうよ
ところで、貴方たちの会話が向こうからでも丸聞こえだったのだけれど……」
未だに驚愕の眼差しで俺を見ている男の前に立ちふさがった彼女は、腰に手をやって睨みあげた
「レポートくらい自分でやりなさい
月下 香は貴方以上に多くの課題を課せられているの。貴方に手を貸している余裕はないはずよ。少しは相手の立場と気持ちを考えて物を言いなさい
友人を名乗るのはそれからよ」
彼女の言葉にたじろいだ男は、バツが悪そうに俺たちに背を向けた
そのみっともない背中が完全に失せたのを確認して、俺は彼女に礼を言った
「気にしないで。私は思ったことを言っただけよ
全く、なんの為に大学に来ているのかしら。理解出来ないわ」
「同感です
……、ただ。少し訂正させていただきたいのですが」
「何かしら」
「兄はあの程度のレポート、余裕で終わらせています」
「でしょうね」
あっさり頷いた彼女を見返すと、彼女はしれっとした態度で言い払った
「ああ言う相手には、ああ言ったほうが効果的だと思っただけよ」
「そうですか」
「そうよ」
「なら良いです」
少しの沈黙は雨音が埋めてくれた
「一人で来たの?」
「いえ、兄さんは傘を借りに少し外に……」
「そう。まぁ、ちょうど良かったわ」
「?」
彼女は手に持っていたお洒落な紙袋を差し出して来た
不審がっている俺に簡単に説明を添えた
「昨日は急にお邪魔して申し訳なかったわね
お詫びと、一日遅れだけれどお祝いを兼ねて渡しておくわ」
彼女の流暢な言葉の羅列に感心しつつ、俺はその紙袋を受け取った
理事長の娘ということだから、こう言った礼節を持った言葉や態度をわきまえているのだろうと思う
普段の生活では決して手に入れることのできなそうな包装紙に包まれたものは、兄さんの尊さを体現してくるようだ
「ありがとうございます。兄に渡しておきます」
「お願いするわ。それじゃ、失礼」
そう言って廊下を戻る彼女の背中に俺はついつい声をかけてしまった
「あの! 外、雨ですけど……」
大丈夫ですか。と問う前に彼女は少しこちらを振り返った
「心配無用よ。濡れずに帰れる道があるから」
先程の兄さんと大方同じようなことを言った彼女は、長い髪を翻して美しい姿勢のまま歩き去った


※※※


「ま、香ってしっかりしてるもんな」
その言葉はどこかあっさりしていた
「ついついお袋ポジションに持っていっちまうのはしょうがねぇのかもよ」
アオ兄はどこか達観した様子で俺を見返して来た
その表情が大人のそれで、俺は少し戸惑ってしまう
しかし、そんな俺に気付いてか否かすぐに人懐っこい笑顔に戻った
「でも、潤くんの気持ちも分かる気がする
オレも親があんなんだったらちょっと腹立つ」
「え」
「理想の母親像ってさ、実は他人の視点で見て出来上がってんだと思うわけよ」
少し首をかしげた俺に、アオ兄も困ったように頬をかく
「うまく言えないんだけどさ、潤くんが香に腹立つのって香が家族だからだと思う」
「? 母親って家族のことでしょ?」
「あー、まぁ。そうなんだけどさ。そうじゃなくて……
理想の母親像って大体みんな一緒じゃん。優しいとか包容力があるとかそんなんだけど、血が繋がってて、帰る家も一緒で、そうやって一緒に生活している人間が実際そんなんだとウザったいと思うよ」
俺はアオ兄の言葉を聞きながらボンヤリと過去に想いを馳せる
キョウ兄には確かに他人から見て理想なのかもしれない。優しいし、正しいし、文句のつけようなんてない
しかしそんなところが腹立たしいのかもしれない
他人に気を使うのは当然なことかもしれないが、家族にすら気を使われているようなあの態度は、俺には優しすぎて気を許してもらっていないような感覚に陥ってしまうのだろう
きっとアオ兄が言いたいのはそういうことなんじゃないかなと、俺はそう思っておくことにした
「だからさ、他人の俺からしたら香みたいな奴ってすごくありがたいんだよ
オレの親が別に冷たかったとかそんなんじゃないけど、どこか頼れない感じがあってさ。そうなると周りの他人なんて案外冷たいぜ?」
「?」
俺は友人たちを思い出しながら少し首をかしげた
アオ兄はそんな俺を優しげに、少しキョウ兄に似た笑みで見返した
「潤くんはいい子だし、周りもいいやつに恵まれてるんだろうな
オレはダメ。オレもクズだったし、周りもクズだったから
本当に困った時に、親にも頼れねぇ。ダチも使えねぇってなった時さ。本当に寂しくて、不安で今なら死ねるんじゃね? って思ったんだよ
……そんな時に香がいた」
まるで夢の出来事を話しているかのように、アオ兄はどこか現実味のない物を追うような目で雨の降り続ける空を仰いだ
「オレも最初は香のことは苦手だったし、偽善者くらいにしか思ってなかったけど、あの時ばかりは嬉しかったんだよ……
正論でも、偽善でもなんでもよかった
あの時の俺は……。ただただ、心からの優しい言葉をくれる奴が欲しかったんだ」
「……」
「ま、本当に底抜けにいい奴だったんだなぁって納得したのは大学入る前。ホントに最近なんだけどな」
それまでは本気で口だけの偽善者と思ってた。なんて笑ったアオ兄はいつもの子供のような表情だった
「……。潤くんさ」
「え? あ、何?」
急に呼ばれたものだから一瞬言葉が詰まった
「口とか態度とか心の表面ではさ、いくらでも香のこと嫌ってていいと思う
……でも、一番奥では好きでいてやってよ」
「……」
「あんな奴、生涯でそうそう出会えねぇ。
そんな奴が家族としているんだ。態度に出さなくていいから、大切にしてやってよ」
アオ兄の態度が何処と無く生徒を思う教師のようだと思った
一つ違うのは、教師はそれが本心でも嘘でも仕事上で言う言葉だということ
でもアオ兄は違う。本当に心からの、兄の友人としての言葉なのだと思った
気付いたら俺は首を縦に振っていた
アオ兄が嬉しそうに笑う
それが俺も嬉しかった


※※※


その日、キョウ兄が「友達」を連れてきた
キョウ兄がこの家に友人を連れてきたのはいつぶりだろう
キョウ兄は、この弟妹ばかりで騒がしく親もいないこの家に人を入れたがらない
それは弟妹がうるさいからとか、家庭事情を詮索されたく無いからとか、そんなことではないと思う
この家に呼んだ友人がこの家や家庭事情を知って気まずく思ったり、申し訳なく感じさせてしまうのが嫌だからだとジュン兄が言っていた
キョウ兄は優しい人に分類されるのだろう
そんなキョウ兄が連れてきた友人は不良みたいな人で。でも ――
―― ソウ兄と同じで、やっぱり優しい人だった……

花たちが咲うとき 番外編 二

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花たちが咲うとき 番外編 二

恋愛、友愛、親愛、他愛、自愛、家族愛 ―― 「愛」以上に、数多の状(かたち)をもつ心緒(しんしょ)無し 「心緒」…… 心が動く糸口、思いの端々 「状」…… ものの様子や姿、ありさま、おもむき = 『感情』

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-22

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