美偶星肌
人里はなれた山小屋で出会った不思議な少女たち。遭難した青年はどうするか?
奥深い山の中。とある男がいた。秋村という若者だ。下山しようとして、おかしな道に入ってしまった。ふと見ると、赤い屋根に銀色の煙突の付いた山小屋が目に飛び込んできた。近寄って窓の外から中を覗く。
誰もいそうにないぞ。
しばらく山小屋で誰か来るのを待っていた。が、そのうち草を踏み分けた跡を見つけた。辿っていくとしよう。
先を進む。真っ青な湖が広がっていた。
ほとりで二人の少女が水浴びをしていた。秋村は顔を赤らめながら、彼女らの美しさに胸が高鳴った。じっと藪に体を潜め、水浴びを済ませるまで待った。
服を着て帰ろうとしたところへ歩み寄り、彼は声を掛けた。
「こんにちは。ぼく、秋村っていうんだ。君は?」
「玲奈」
「奈美」
二人は秋村に目もくれず、互いの顔を見つめ合って微笑んだ。なにがおかしいのかな? はにかんだのだろうと思い、どうしてここにいるのかと訊ねた。
玲奈が経緯を説明した。人里離れた森の中、彼女らは夏休みにキャンプに来て道に迷った。そのまま遭難してしまい、山小屋に住み着いたと言う。
「誰も助けに来ないの」
玲奈は言った。
「そうなの。ねぇ」
奈美は相槌をうった。その顔は、むしろ楽しげだった。まるで、見つからないのが嬉しいようで、ここの生活自体がキャンプをしているかのような軽い調子に聞こえた。切迫した気持ちが感じられない。不思議だなと思った。秋村は二人の後についていき、そのまま山小屋に入れてもらった。
そこから三人のおかしな共同生活が始まった。奇々怪々の数々が起きた。玲奈は動物と会話ができ、いつも餌を与えていた。奈美は栗鼠や犬に手指を噛ませ、痛みなど感じないかのように、自分の血を啜らせて平気な顔をしていた。
山小屋には風呂どころかシャワーもない。ガス、電気、水、食糧。なにもない。にもかかわらず、二人の少女は朝になればどこからか食べるものを運んできた。不審に思った。これは本当に食べ物なのか。確かにパンの味がする。レタスとキノコの形をしている。キノコは串に刺し、暖炉のたき火で炙って食べた。飲み水は湖に汲みに行った。電気がないので夜になれば、一本のロウソクをつけ、暖炉にくべた薪で暖を取った。
体をきれいにするため、週に何度かは湖に行かねばならない。石鹸、シャンプーの類はない。けれど、二人の顔や体の線は美しかった。肌は、透き通るように白く、まるで星のように光り輝いていた。どんな高級石鹸でもかなわないぐらい、とてもかぐわしい香りを発していた。
一見、幸せそうな暮らしが続き、ふた月が過ぎた。秋村は、二人を疑わしく思い始めた。
なぜ、この少女らは動物たちと仲がいいのか。人間として異性を求めず、町に出ないのか。ここに住み着くようになった本当の理由はどこにあるのか。
秋村は、あまたの旅の男たちがこの山小屋を訪れ、そのたびに少女らに魅せられたら最後、獣に変身させられる。俄に信じがたい仮説を立ててみた。どういう力が働いて、なぜ動物にさせられるのか。それは分からない。ただ、なんとなく、魔力を感じた。何かが二人に宿っている。栗鼠、狐、猿、鳥、犬、兎、……。少女らの魔力で動物に変えられてしまい、森に逃げるか、山小屋に餌を漁りにくるしか生きる術はなく、それゆえ、森の動物たちは妙に少女らになついているとしたら……。森にいる人間は自分を含め三人だけ。あとは動物しか存在しない。
そう考え始めたのは、あるとき訪ねてきた若者が、数日して姿を消した日からだった。久しぶりに会ったよその人間だ。いろいろ話をしたかった。が、数日して忽然と姿を消した。その男がリュックサックに残した走り書きを見つけたとき、仮説は確信になった。
少女らは怪物――。
そのメモに戦いて体中からなんともいえない嫌な汗が噴き出し、唇がブルブル震えだした。背筋が寒くなった。やっぱりそうか。
恐ろしくなった。隙を見てここを脱出しようと決めた。その前の晩、突如、体毛が長太く伸び始めた。既に少女らは暖炉の前で、怪しげな儀式を始めていた。
慌てた秋村は、祖父が好きだった摩訶祝詞の「高砂」を唱えた。
高砂や この浦舟に 帆を上げて この浦舟に帆を上げて 月もろともに 出潮(いでしお)の
波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて はや住吉(すみのえ)に 着きにけり はやすみのえに 着きにけり
四海(しかい)波 静かにて 国も治まる 時つ風 枝を鳴らさぬ 御代(みよ)なれや
あひに相生の松こそ めでたかれ げにや仰ぎても 事も疎(おろ)かや
かかる代(よ)に 住める民とて豊かなる 君の恵みぞ ありがたき 君の恵みぞ ありがたき
少女らは謡いに聞き惚れて床に倒れ、眠ってしまった。それに乗じて、秋村は猛然と走った。走っているうちに、登山道を見つけ、なんとか下山できた。どうしていままで、二人の元を去ろうとしなかったのか。自分を責めた。
秋村は、図書館で文献を調べるうちに、どうやらあの少女らは、江戸時代の『千民蛮行』という書物に記載された、森に棲む妖術使いの子孫らしいと知る。美偶星肌。そう名づけられていた。あの白い肌から名前を取ったらしい。
危うく獣にされかけた。ああ、よかった。
彼は、地元の村人の了承を得てから、山の麓に、「森の山小屋は危険。立ち入り禁止」の看板を作って立てた。
もしかしたら、森にいる鳥獣の一部は、美偶星肌の妖術で変身させられた人間なのかもしれない。
〈了〉
美偶星肌