殺してやりたい

誰しもが一度は経験する職場や学校での不条理。それを前に新人の後藤はどう感じたか。

 ゴールデンウィーク前のことだった。
 帰りのバスの中、一人吊革を掴みながら、毎日見ている風景が映像として目に入ってなかった。晴磨の頭の中は、今日あった不愉快な事件で腹立たしさに満ちていた。
 運転手も含めた乗客全員の脇腹を食いちぎってやりたいくらい感情が高ぶっていた。闇の中を過ぎる車の光に目が輝き、自分を呼ぶ獣が闇で目を光らせているように感じた。
「あれ? また数が合わないよ」
 恭子が頓狂な声を張り上げる。会議室でコピーした資料を置いた机を前に、その場に居あわせた天音と奈美は顔を見合わせた。
「四百九十五、四百九十六、四百九十七、……四百九十八」
「やっぱり二枚足りないです」
 二人は恭子に報告し、新人の後藤晴磨は思わず顔をしかめた。先週も同じだった。
「そんなはずは……」
「ちゃんと確認した?」
 二つ上の恭子は詰問調で鋭く言う。
「ええ。パソコンの部数は五百にして印刷しました。打ち出しも手で十ずつ五十束数えましたが」
「じゃあ、どうしてこうなるのよ?」
 まるで晴磨を犯人扱いするかのように恭子は突き放し、部屋の空気は淀んだ。
「も一度数えましょうか?」
 天音が恐る恐る恭子のお伺いを立てる。
「じゃあ、天音さんが二百、奈美さんも二百数えて。わたしは百。足りない分は、後藤くんが責任持って刷り直して数えなさいね」
「はい」
 天音を含めた三人は口を揃えた。恭子は腰に手をやり、靴の踵をコンコンと床にぶつけた。こんな単純作業に何分かかるの。そう思っているように見せる仕草なのは全員が分かっている。むしろ、短時間で資料をまとめ上げ、赤の少ないゲラを作り上げた晴磨に嫉妬する先輩からの愛の鞭。
 総務課の仕事の量は、平均して一時間にどれだけと決まっている。早く仕事を済ませてしまうと、雑談したり、トイレに立ったり、私物の雑誌を机に広げる。山倉課長に見つかり、厳しく注意され、入社三年目の恭子が取り締まる役になったのが、晴磨がここに配属される三週間前のことだった。
「さて、始めますか」
 壁の時計を見てから溜息をついた天音は奈美の方を見て、やれやれという顔を作り、二度、三度と気が済むまで資料を繰り出した。奈美も真剣な様子で手を動かす。晴磨は、赤の入ったゲラ刷りのパンフレットを見直した。もっと丁寧に見直すべきだったと反省しつつ、何だか先の思いやられるような嫌な一日を恨みがましく思った。
「どう? わたしは百あるわよ」
 十分ほどして、恭子が他のOL二名に声を掛ける。
「二百ぴったりです」
「こちらもです」
「よし、数え間違いで問題なしね」
 恭子の”迷演”に、天音が良かったねと影で晴磨に耳打ちした。それを聞いて、天音は自分の味方だと胸のつかえが取れた。彼は見ていた。五百に積み上げた束から隙を見た恭子が二枚抜いて、会議机の下に隠したのを。
 それを見咎めれば課内で揉めてしまう。ここは自分が泥をかぶろう。そう覚悟して、次の一言を絞り出した。
「恭子先輩、すみませんでした。僕のせいで迷惑掛けちゃって」
「あら、いいのよ。数は合ったし。ねえ?」
 恭子は同意を求め、天音や奈美の顔を見て微笑む。
「これからは先輩方に報告し、確認してもらってからやっていきます」
 殊勝な弁を述べたつもりだが、軽く顎を縦に振った恭子は、
「さあ、そろそろ三時よ。お茶でも淹れましょう」
 無視するように彼をあしらい、パンフレットを別の机に移動させた。晴磨は席を外してドアを開け、壁とドアの隙間に身を潜めた。三人は密談を始めた。
「後藤くん、なってない。相談せずにバンバン先走る」
「そうね。後藤って新入りの中でも特に、空気読めてないわ。周囲の顔見てないじゃん」
 恭子が天音の陰口に相槌を打っている。本当は後藤を頼りにする彼女も、恭子の前では仮面をかぶる。けれど、誰も責められない。恭子の拗ねる気持ちも無視できない。
 殺してやりたい……。
 バスの中で無性に呼吸が荒くなり、よこしまな感情がもたげる。園子温監督の映画が頭をかすめる。ドロドロした人間絵巻。人類なんて穢れた存在。みんな最期は透明になる。地球はごつごつした岩っころ。草木も生き物も死ぬために生きている。晴磨の心を闇が覆う。本心でなくシーソーのように弾みがついただけで、嫌悪感自体を殺さざるを得ないのが現実だ。己の未熟さからくる恥ずかしい気持ちに覆い被さるような、野性剥き出しの攻撃的感情。サピエンスの理性と動物本能に苛まれるのが人間らしさの証。
 しかし、仕事をする過程で誰もが通る道は手助けを必要とし、相手を頼ることで人同士の繋がりを保たねばならない。
 そう考え直すと気持ちが少し楽になった。窓から見える車のライトを人工の灯と判断できた。闇夜に明るく映えている。
 バスを降りる。明るい看板に吸い寄せられて携帯店に立ち寄った。放置していた操作法の不明点を訊ねて時間を潰し、家路までの道のりをゆっくり歩いた。
                                             〈了〉

殺してやりたい

殺してやりたい

殺してやりたいと思ったときは誰にでもあるでしょう? 平凡な毎日に潜む殺意とそれを否定する理性。

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-21

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