スルメあたりめ
黒船がお江戸の空に響かせた砲音によって、お江戸の町が大騒ぎだった頃である。
そんな一大事などしばらくは伝わってはこない、街道とは名ばかりの山あいの細道に寂れた宿場町があった。
なぜ、そんな場所に宿場町が存在するのか、と問われれば、その地には、おおっぴらにはできぬ隠し事があったのだった。
宿場町の外れに元は寺であろう、朽ち荒れた塀に囲まれた建物があった。
本堂らしきその建物は周りを全て塞ぐように戸板が打ち付けられており、何人も寄せつけない空気を纏っていた。
時刻が子の刻になった頃、暗闇の中を浮かび上がる一つの提灯が本堂に近づいていく。
本堂の上がり口を草履ごと踏み登った男は、ふっ、と提灯の灯りを消して引戸を小刻みに叩く。
ーととんととんととんとんー
「・・・・」
何も反応がないまま、男は夜目を凝らして辺りを見回したあとで、もう一度慎重に引戸を叩く。
ーとっとととっとととととととっととー
「・・・・するめ」
低く抑えた声が引戸越しに聞こえてきた。男もすかさず背を丸めて声を沈めるように、
「あたりめ」
と引戸に吐き出した。
「どちらさんで?」
さらに押し殺したような口調で聞いてきた。
「源吉でぇ」
男も短く答えた。
すっすーっ、と引戸が少し開いて、ろうそくの灯りの揺らめきに不気味な陰影を作る彫りが深い男が顔を覗かせる。
「やあ、源吉どん。お入りなすって」
すすー、と半分ほどまで空けられた引戸から、源吉と名乗った男が半身に捻らしながら入っていった。
「草履はそこで脱ぎなせぇ」
源吉の背後から思わぬ声が聞こえ振り返ると、もう一人男が入口の反対側にろうそくも灯さずに控えていた。
眼光の鋭さと傍らに離さず持つ長脇差が居座る男の人柄を語る。
「ああ、わかってるよ」
源吉は脱いだ草履を底同士で合わせると素早く懐に仕舞いこむ。
「邪魔するぜ」
慣れた足取りで源吉は本堂の片隅から障子越しに灯りが透けている先を目指した。
かつて庫裡だった部屋である。
ーたんったんっー
障子は叩かず、少し強く床を拳で叩く源吉。すぐに障子が開き、
「源吉さんかい、懲りずに打ちに来なすったね」
男が中へ招き入れた。
「これは政七どん、悪いが歩きくたびれて喉が渇いてね。一杯もらえないかね」
源吉は招き入れた政七という男に親しげに語りかけた。
蛇が睨むような鋭い眼差しと、頬に傷を残した政七と呼ばれる男が、
「いいともさ。一杯といわず景気づけに、ぐぐいっ、と飲みな」
座るように促し、差し出した湯飲み茶碗に五合徳利を傾けた。
「おっとっとと、盛りがいいねぇ、政七どん」
源吉は一口すすると、満足げな笑みを浮かべながら脇に置かれた小皿に手をかけ、
「するめ頂くよ」
裂かれたするめを噛みしめながら酒を飲み干した。
「源吉さんや、ここでは『あたりめ』、でさあ」
政七が空の湯飲み茶碗に注ぎ直して言う。その時、さらに襖で仕切られた奥の部屋の向こうから、
「ぴん・・ろの・・・う」
途切れ途切れの言葉が聞こえてきたのであった。
「いけねぇ、いけねぇ、この頃つい擦りぐせがついちまって」
「おや、またぞろ源吉さんかえ?」
襖が開き、口を拭う源吉になで肩の女性が声をかけた。
「これは姐さん、いつ見て・・・・」
「世辞は投げなくていいから、早く賽を投げてもらいな」
姐さんと呼ばれた女性は冷たくそう言うと、源吉と政七の間に割り込むように座り、酒を飲み始めたのである。
「これは手厳しぃ。ではあっしはそろそろ遊ばせていただきますぜ」
源吉は額を叩きながらまだある酒を空け、
「もうひと切れ『あたりめ』、もらいやすぜ」
小皿に手を伸ばし、するめの端を噛むと、ご免なさいよ、と右手で手刀を切りながら奥へと進んでいったのだった。
「丁、半、そろいました。勝負」
紺と白の縞柄を着流したまとめ役の調子に合わせて、隣のツボ振り役がツボを開いた。
「ピンゾロの丁!」
まとめ役の確認の言葉を聞いた囲み座る客たちは、一斉に悲喜こもごもの声を上げた。
源吉は合間を見て、
「邪魔するよ」
空いている場所に腰を下ろした。
すぐに、次の勝負が始まる前にと、懐から金子を取り出そうとして、隣の男が目についた。
「見ない顔だが、たいそうな大勝だね、おめえさん」
ずらした髷がいなせな男の膝元には小判が重なっていた。男が横目で源吉を見やる。
「いけねぇや、野暮なことを聞いちまって」
拝むように片手を上げた源吉はツボ振り役の若い男を眺めながら、まとめ役の合図を待っていた。落ち着きなく端で噛んだするめを揺らしている。その時、
「何でぇ!この賭場はイカサマか」
手持ちの金子が尽きたのか、客の一人がわめきだした。
「言いがかりは止しなせぇ」
野太い声のまとめ役は動じない。同時にどこから湧いたのか若い男たちが集まり、部屋は客と交じりざわつき始めたのであった。
「ちっ、今日は打つ前から擦った気分でぇ。これのせいか?」
誰に八つ当たりするわけでもなく、源吉は咥えていたするめを手に取って呟いた。
ドン、と不意に源吉の肩に肩をぶつけてきたのは隣の大勝している男だった。そのまま小声で、
「驚かずに聞いてくれ。あんた源吉さんだね、実はわたしはあんたを探していてね。待ってたんだよ、勝負するふりをしながらね」
「な、何でぇ急に」
源吉まで小声になる。
「詳しい話は場所を移して。この騒ぎなら二人抜けたって構わねぇさ。外にでねえか?」
「ここじゃあ言えねぇ要件か?勝負もしねぇうちに去るなんざ何の得があるってんだい」
「その得になる話を持ちかけようってんだよ、あんたに。なっ、まだ荒れそうだぜ、ここ」
まだ収まらない騒動で座っていられそうな空気ではなくなりそうである。
「・・・・分かったぜ。出るか?」
源吉の言葉に手早く懐に小判を仕舞いこむ男。
そうして源吉たちは立ち上がると本堂の入口まで身をかわすように来たのであった。
「源吉さん、もう帰るのかえ?」
入口を見張るように場所を移していた政七が聞いてきた。
「いやいや、政七どん。中がよくある騒ぎでな。ちょっくら外の空気を吸ってくるさ。ささ」
源吉は促すように大勝の男を先に出させ、足取り軽く付いて行く。
「早く戻ってきなせぇ」
政七の呼びかけに暗闇で見えるのか、手だけ振って答えたのであった。
「おい、おめぇさん。まだ行くのかい?だいぶ本堂から離れて、こっちは帰り道じゃないか」
暗闇で目を凝らしながら歩く源吉が、しびれを切らして聞く。
「それよりおめぇさん、名は何て言うだい?どうしてあっしのことを知っている?」
ようやく立ち止まる大勝の男。
「助かったぜ、源吉さん」
そう言いながら男が源吉を振り返った。
「さすがだよ、あんた夜目がきくんだね、よく付いてこれたね」
「何でぇ、おめぇさんが得になる話があるって言うからじゃねぇか?まずは名乗りなよ、誰なんだい?」
「いやね、どうやって遊びを切り上げようか思案していてね」
「はえっ?」
素っ頓狂な声で源吉は首を傾け固まった。
「だから、初めて入る賭場だったのに、軽く遊ぶつもりが大勝してしまってね。そのまま帰るには都合が悪くてね」
ここで大勝の男は片足を少し後ろに引いて、さらに続ける。
「そこへ常連の源吉さんが現れ、ちょうどあの騒ぎだ。ここは騒ぎに紛れ源吉さんの顔で賭場を後にするのが懸命だったのでね。利用させてもらったよ」
「てめぇ!はなから俺をたぶらかすつもりだったな。ってか、なんで、おめぇ俺を知っている!」
「確かに初対面ですよ、源吉さん。でもね、あんたの噂はひっきりなしに聞こえてきてね、あの賭場でも。見たら一目瞭然でしたよ」
そろそろ着物の袖をまくって飛びかかりそうな勢いの源吉に向かって、吐き捨てるように言葉を投げた。
「いつも、するめを噛んでいる『するめの源吉』さん、だってね」
源吉に見えているのか、悪びれる様子もなく舌を出す大勝した男は踵を返すと走り去っていった。
源吉は叫ぶ。
「おっ、おととい来やがれっ、てんだい」
強まった語尾の響きが空しく暗い夜に溶け込んでいったのだった。
慣れたように暗闇を駆け抜けてきた大勝した男が宿場町に辿り着き、歩を緩める。
店じまいで戸を閉ざしている茶屋に差し掛かった時である。脇道から不意に声が飛んでくる。
「磯貝、ここだ。ここにおる」
「こ、これは富樫様、わざわざお出向きになるとは。これからご報告に伺うところでしたが」
脇道の角から富樫と呼ばれた二本差しの武士が現れる。
「うむ、あまりにも遅かったのでな。素性がばれたのかと思ったぞ」
「これはご心配をかけまして。いささか揉め事がおこって抜け出せずにおりました」
腰を折り曲げて答えた磯貝と呼ばれた大勝した男が、上体を起こし続けて言う。
「されど、しかと人相書きの『まむしの政七』がおるのを確かめてございます」
「さようか、さすれば明日にでも捕縛できよう」
袖に手を入れて組んだ富樫なる武士は満足げに頷いていた。
「ところで、その場に『するめの源吉』と人相書きが出ている、ちんけなる盗人も出入りしているようで、ついでに召し捕ってもよいかと」
「あい分かった。疲れたであろう、帰って休むがよい。ご苦労であった」
富樫は再び脇道の奥へと戻っていった。
一人道端に残され磯貝は屋敷に帰るため、宿場街を抜けようと駆け出すのであった。走りながら役目を終えた安堵なのか、自然と言葉が漏れる。
「よかった・・・・。まさか潜り込んだ賭場で試しに賭けたら、勝ち続けて戻るのが遅くなったなんて、口が裂けてもいえねえな」
そうして磯貝は暗闇の中に消えていくのであった。
スルメあたりめ