結果を
「死にたい」とは言うが本当に死にたいわけではない。痛いのもツライのも大の苦手だから死ぬという行為が怖くて仕方がない
今日はインフルエンザの予防接種を打った。痛さに顔をしかめたら、ナースに子供をあやすような口調で慰められた。あぁ、情けない、死にたい、と思ったが、これで高熱に苦しむことはないと思えば、いくらか気持ちは楽になった。
僕は生きていたくない。
こんな恥を晒すだけの人生、続けることに意味はないと思う。むしろ、人様に取り返しのつかないご迷惑をかける前に死んでしまわねばとすら思う。
それでも、首元にナイフを当てて、欄干から身を乗り出して、そこで怖くなってやめる。その繰り返しだ。そんな意気地のなさを人にバレて笑われるのが怖くて、ためらい傷は人に見えないところにつけるようになった。僕の太ももは定規のようだ。
僕は死にたくない。でも生きていたくない。だから、正確には「死んでいるになりたい」のだ。死んでいるのはきっと安らかで穏やかだ。痛いも辛いもない。そこには何もない。
過程をすっ飛ばして、結果にたどり着く。そうして、あぁよかった、生きていないんだと安堵する。そんな日を夢見て、今日も僕は死んでいない。
結果を