ある与太話

 トラトラトラ。大日本帝国の、太平洋戦争の開戦を告げる魔法の呪文。リメンバー・パールハーバーとは誰がいった言葉でしょう。兎にも角にも、呪文のもたらした結果というのは大日本帝国の崩壊と財閥の解体、民主化など、劇的なものでありました。ですが、たまには魔法の呪文がもたらした結果というものが真逆だったらどうなのだろうと考えたりはしませんか? 日本は鬼畜米英との戦いに勝ち、見事かのモンゴル帝国を超える亜細亜・西洋の支配……もとい、大東亜共栄圏の建設に成功した。世界で最も恐れられる、世界最古の絶対王政の軍事国家。私見ですが、東条某なんていう首相が指揮をとらずに故昭和天皇陛下が全指揮権を握っておれば、戦争はもっと賢明な形で行われていたでしょう。そもそも、戦争なんてものが起こっていなかったかもしれませんなぁ。変化の結果が今の有様と知れば、昭和天皇は何と仰るでしょうね。思うに、戦前が日本伝統文化の全盛期だったような気もします。三遊亭圓生、芥川龍之介、夏目漱石、滝廉太郎、などなど。民謡・童謡だけでなく、歌舞伎や文学、落語も今とはまったく違った形で盛んでありました。最近のアメリカイズムされた日本とは違った、日の出ずる国である日本の文化。ああ、何と美しきものかな。……
 ま、無駄話はこれくらいにしておいて、私のお話でも聞いてもらいましょう。
今は昔の昭和ウン年、或る処に、たいそう学のない男が居りました。彼はたいそう学がなく、人から「おはよう!」と言われましても何と返せば良いのか解らないもんですから黙っていってしまうような人でございました。普段から饒舌な性格が幸いして笑い話と済まされておりましたが、彼が高校へ進学する折に転校することになりました。これは大変、隣人付き合いもよく解らなければ、見知らぬ土地の見知らぬ人々です。何を話せば良いのか解らぬ男は黙りこくってしまい、友達と言えば野山と小鳥、あと昆虫といった様でございました。それが年を取るごとに多少改善されていき、今では人の友人が幾人かできた次第でございます。二十歳を過ぎたにしては少なすぎるかもしれませんが、それでも男は満足しておりました。
 ――生憎、男の名前を知りませんので、与太郎とでも致しましょう。
これはある寒い冬の日のこと起きた、与太郎とその隣人のお話でございます。
与太郎は、ふと思い立って親類の家に行って泊まっておりました。学がないと言えども人間はしっかりしておりましたから、親類も特に文句も云うことなく、三食の飯を与え、主人は散歩ついでに街案内をしてあげる、そんな日々を送っておりました。与太郎はいつもの通り朝早く起きて顔を洗って縁側から外を眺めていると、隣人も同じ様に外を見ていたのでしょうか、「お早うございます。今朝は格別寒いことですな」と挨拶をされました。それに対してこの与太郎、はて、どのようにして言葉を返そうかと考えているうちに、隣人は怪訝な顔をして奥に引っ込んでしまいました。与太郎頭を抱え、同じように奥に引っ込もうと立ち上がったらつるりと滑って、庭に積もった雪に頭から突っ込んでしまいました。
 朝食の時、与太郎は親類の主人にこの話をしてみました。すると話が終わるやいなや、「かっかっか、こりゃあ面白ェ」と呵々大笑。与太郎はぽかん、とその顔を見ているばかりでございます。人差し指を立てて、まるで唐人の仙人のように与太郎に訓
おし
えます。
 「いいか与太郎、人が挨拶するのに、黙っているということはあっちゃあいけねえ。向うがたいそう寒いですなといったら、左様ですな、山は雪でしょうぐらいのことはいうもんだぜ」
 「へえ、それじゃあさほど寒くない日は」
 「井戸の水も冷たいですな、とでも返すがよい」
 「それじゃあ、水も凍っちまうほど寒い日は」
 「それこそお前、そんな日に人は外に出んだろう」
「なるほどそうか。猫みたいにこたつで丸くなって蜜柑でも食っていますかな」
「違えねえや」また、かかかと笑う。
 「明日はちゃんと言うんだぜ、ご馳走様」
 そういって主人は席を立ちました。与太郎はというと、寒い日に何を言えば良いのか解ったもんですから大喜び。きゃっほう、やったぜぃとか云いながら小踊りしちまいそうな勢いです。と、云ってるうちに与太郎は椅子に足をぶつけて悶絶。そのまま転げ落ちて頭をぶつけ、またも悶絶。奥様は口元をおさえて笑っております。ともかく彼は一日中そんな調子で、明日を待ち望んでおりました。昼頃、こんな会話がございました。
 「なあ姉さん、時間を早くする術はないかな」
 「あら、どうしてそんなことを云うの?」
 「旦那に聞いたことを忘れちまいそうで、早く言いたいんだよう」
 「あらあら、紙にでも書いておけば良いじゃない」
 「あ、その手があったかのネ」
 「うふふ、面白い子」
 まるで赤子をあやすような気分で奥様は話します。そうこうしているうちに日が暮れて夜が来て、与太郎が寝覚める頃は勿論朝日が昇っています。顔を洗う時、井戸水の冷たさが肌に沁みる。ありゃ、どうしたことだろうか。与太郎は首を傾げますが、顔を拭いてまたいつものように縁側に座って、ぼんやりと庭を眺めておりました。彼は昨日話したことなんてすっかり忘れていました。与太郎の悪い癖です。
 隣人は、ぼんやりしている与太郎を見ております。「昨日は無視されてしまったが、今日はちゃんと反応してくれるだろうか。ううん、心配だなぁ、どうしようかなァ」うんうんと決めあぐねている主人を見て、隣人の奥様は「さっさとお行き、洗濯物を干せないよ」と背中をどんとひと押し。おっとっと、とたたらを踏んだと思ったら、縁側でつるりと足を滑らせて落っこちてしまいました。その音に思わず顔を上げた与太郎。「あはは、こりゃお恥ずかしいところを。今日は大変暖かで結構ですな」と隣人は苦笑混じりに云いました。与太郎はまた、ぽかんとしております。頭の中で、こんなことを彼は考えておりました。
「こういう時どう云うんだっけ、そうだ、旦那によると、山は雪でしょう、とでも言えば良いのだ。でも、今日は温かだからなあ。はてさて一体どうやって返したものかな……ア、そうだ、いいのを思いついた」
唸っていた与太郎は、顔を上げるとにこにこ笑顔でこう云いました。
「左様ですな、今日はきっと山は火事でしょうな」

ある与太話

ある与太話

昭和の昔、日本のどこかにいた与太郎のお話でございます。落語風に仕上げた、民話を元にした作品です。

  • 小説
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-01

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