少年とセーター
少年とセーター
今朝から変だった。いつも通りに会社に行っても、何か落ち着かない。頭のなかで、将来の不安ばかりが思い浮かんで、苦しくて仕方ないのだ。どうしたらよいのだろう、親が亡くなったら行き場所などないのではないか、もうしにたい。そんな言葉ばかりが頭をぐるぐると回る。
こんなときは、体が疲れているのだろう。でも、布団で休むには、もったいない夕暮れである。少し気分転換に百貨店でもいくか。退社時間になった朝子は鞄を持ち、会社からでて、近くにあった百貨店に歩いていった。
彼女は車に乗ることはできなかった。飲んでいる薬の成分で運転してはいけないことになっている。それは医者から何回も言われていたから、厳守しなければならない。彼女のすんでいるところは、とても田舎で、車がないと何一つできないところである。働く会社と、百貨店が近くにあるということが、不幸中の幸いであった。
百貨店は、空いていた。平日だし、近隣のファストファッションに影響されて、百貨店は金持ちの老婦人のものになってしまっている。所々にちらほらみえる客も、みんなそのくらいの年代だった。
売っている商品だって高額だ。とても朝子の経済力では買うことはできないものばかりだ。それでも、百貨店で売っているものは、ファストファッションとはやっぱり違う気がする。具体的に何々が、と聞かれるとわからないけれど、何か違うのだ。
と、近くの売りだいに、可愛らしいピンクのセーターがあった。50パーセントオフと書かれた看板が隣にあり、朝子でも出せそうな値段だった。思わずほしいな、と思った。お財布を取り出して、持っている金の勘定をしていると、
「ほら、ここじゃなくて、他のところにいきましょ。向こうのお店にもかわいいのがあったでしょ。」
不意に声がしたので、朝子は後ろに振り向いた。向こうのお店とは、ファストファッションである。
「いやだ、ああいうのは、どうしても嫌なんだ!」
後ろには、朝子より五、六歳ほど年上くらいの女性と、十二、三歳くらいの少年がいた。その顔は二人ともよくにていて、すぐに母子であるとわかった。
「でも、ここは高いわ。」
「でも、ものはずっといいよ。」
「そうだけど、高いものは無理なのよ。」
「僕は、あの店のセーターは嫌だ。こっちがいい。」
母子は、そんなことをいっている。
「セーターはウールマークがないと、僕は嫌いなんだよ!」
ウールマークか。確かにそのようなセーターはファストファッションではてに入らないだろう。
「どうして嫌いなの?」
「セーターじゃないからだ!」
確かに、アクリルは、正確に言えば毛糸とはいわない。毛糸は、羊の毛からとったものでなければ。
「セーターってのは、毛じゃなきゃセーターじゃないよ。」
少年はそういった。
「どうしてそんなに毛糸にこだわるのかしら。」
母親は少年を困った顔で見た。
朝子は、この一部始終を聞きながら、この少年はおそらく発達障害なのではないかと思った。発達障害のひとは、普通の人達以上にこだわりが強いことを、通っていた精神科で聞いたことがある。そうなったら、家族をはじめとして、まわりの人は困るだろう。でも、それを理解してやらないと、とんでもない事件に変わっていく可能性もある。それに、一緒にいる家族は、たまらないほど苦しいはずである。誰かがなんとかしなければならない。だって、そういうことしかできないのだから。
嫌だなあと朝子は思った。なんで、こういうことしかできない種族もいるものか。そういう人がいるせいで、朝子をふくめて、まわりの人は多大な迷惑を被る訳だし、本人はそれで当たり前だから、謝罪することだってしないのだ。こういう人達は、いてもいなくてもいいじゃない。朝子はそう思っていた。
「理由なんてないよ。セーターは毛糸が一番いいんだ。」
少年はその言葉をまた繰り返す。
「そんなにこだわるのに、理由がないなんて、我が儘言わないで!」
母親は困り果てたようすで、少年に言った。
朝子は、思わず怒りが生じて、少年に近づいた。
「静かにしてくれませんかね?こんなところで、喧嘩をされると、私も、ほしいものがあるんですから!それに、このセーター、私が最初に見つけたんです!なんで、男の方が、婦人服売り場にいるんですか!」
少年は、幼児のように涙を流して泣き出した。
「泣いたってダメですよ!泣いて免除される訳じゃないでしょ!もっと、ちゃんとしつけていただかないと、困ります!」
「申し訳ありません!ほら、あんたも謝りなさい!」
母親は、謝罪するように促したが、少年は代わりにこんな言葉を言った。
「そうしたら、お母さんへの誕生日プレゼントがなくなっちゃうじゃないか!」
「た、誕生日プレゼント?」
朝子はおうむ返しに返答した。
「自分が、ウールマークがないと着れないのではなくて?」
発達障害のひとは、自分だけしか考えられないときいている。
「お母さんは」
少年は泣きながら続ける。
「お母さんは、僕が3つのとき、セーターを買ってくれたんだ。そのセーターにはウールマークがついていた。それはとてもあたたかくて、どんなセーターよりも暖かかった。だから、僕は、お母さんに同じ思いをさせてあげたくて、ウールマークのついたセーターを探しに来たんじゃないか!」
三歳のときのことをそんなに鮮明に覚えていられるのは、やっぱり発達障害ならではと言わざるを得ないのかもしれないが、朝子はその言葉を聞いて、何か別の感情がわいた。
「いいわ。」
唇がそんな風に動く。
「お母さんにプレゼントしてあげて。私は、また別のところで買うから、大丈夫。」
「い、いいんですか?」
母親が思わずきいた。
「ええ、だって、私にはわからない、彼の愛情ですもの。」
少年の顔がパッと輝く。健常者には絶対できない、特別な笑顔だ。
「でも、あんたの持ってる小遣いじゃ。」
「僕が持っているお金はこれくらいだ。」
と、彼はお財布を出して、目の前で開けた。千円札がいくつか入っているが、あと千円足りなかった。
「これでお母さんに買ってあげて。返済はいらないから。」
朝子は財布から千円札をだして、彼に渡した。
「どうもありがとうございます!」
少年はそれを受け取り、ピンクのセーターを持ち上げた。そして、足早にレジへ持っていき、あっという間に支払いをしてしまった。
「本当に、申し訳ないです、お返しは必ずしますので、名前と住所をお願いできませんか?」
朝子は母親が渡した手帳に自分の名前と住所を書いた。なぜか、清々しい気持ちだった。死んでしまいたいとか、どこかへ吹き飛んでいた。
「いいえ、私も、お役にたてて嬉しかったですよ。」
正直に自分の気持ちを言えた。
「ありがとうございます!」
母親の目にも涙が光っている。
「お母さん、ラッピングしてもらってきたよ!」
セーターをいれた箱をしっかりと抱えて、少年が戻ってきた。
「本当にありがとうございます。」
二人は何回も最敬礼し、
「用事があるので、すみませんが、帰ります。今日はほんとに、どうもありがとうございます!」
と、帰っていったのであった。
朝子も、夕食の時間が近かったので家に帰った。家に帰ると、仕事から戻ってきた父が、テレビを見ていた。
丁度、テレビでは、発達障害の人の特集をしていた。いろいろなことに過敏で非常に困る、なんてことを評論家たちが、話していた。
「全く困るよな。こういう人が増えてしまうと。」
父は嫌そうに言う。しかし、朝子はあの少年の笑顔を思い出した。
「ううん、違うわ、お父さん。」
朝子は言った。
「こういう人は確かに困るけど、すごくきれいな人達なのよ。」
父は、ポカンとしていたが、すぐに我に帰ったようで、
「お前もそれに気がついてよかったな。」
だけいった。
数日後、一枚の葉書が、朝子の家に届いた。あのときの母親からのものと、すぐわかった。裏面には、あの母親が、ピンクのセーターを着て、少年と一緒に写っていたからだ。自分が着るより、あの母親のほうが、とてもよく似合っていた。
朝子は、葉書をもって机に向かった。また何か仕事をしたいと思った。味気ない仕事よりも、こうして弱い人達のそばにいてやりたい。その方が、たんに金をもらうよりもずっといい。朝子は、今の会社に別れを告げる時だと思った。
少年とセーター
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