ひとくいの魔女
きっと絶望の始まりなのでしょう
独房の中で赤ん坊を産んだ。男児だった。息はしていない。全体的に痩せ細っていて、
活力がない。それでも、私の腹を痛め産まれてきてくれたひとつの命に違いなかった。
私は魔女だ。人の意思を読み、操り、思いのままに動かすことのできる、悪い魔女。
だからこうして魔女狩りで捕まり、こうして独房の中に入れられた。
錆臭く、いつも湿っている薄汚い牢屋の中。寝るのにも硬い地面の上で、
そこに何か敷かれているとか、そんな気の利いたことなんてありはしない。
壁には拘束するための錆付いた鎖があり、窓はない。これ以上に劣悪な環境はないだろうと、
もはや白く濁りきった頭で、ぼうっと考えた。
何人の男に、この身を弄ばれたのだろう。
最初のうちは数えていたし、仕返しをするために顔を覚えてもいた。
でも、そんなものは数日と持たなかった。
代わる代わる、幾人もの男が、私へと手を伸ばし……。思い出そうとすれば、頭痛がする。
やはりというか、腹は次第に大きくなってきた。それでも男たちは容赦もなく、
むしろ以前よりも激しく、私をせめ立てた。この時ぐらいから、痛みを感じなくなってきた。
こんな環境であっても、腹の中の赤ん坊は育っていっているようだった。
確かに大きくなる腹。ごくまれに感じる、僅かな動き。この胎動が、私を結び付けていた。
食事は定期的に摂らされていた。身体も、どうやらそうとうに綺麗好きな者がいるらしく、
定期的に洗われていた。もちろん、身体を好きにされながら。
十月の間、自由だったことはない。いつの間にかここから逃げ出そうという気持ちさえ、
忘れてしまった。もしくは、自分が忘れさせたのかもしれない。
そんな希望を持つよりも、ただ何も考えないほうがずっとマシだと、
いつかの私が考えたのかもしれない。何も感じぬ人形のほうが、ずっとマシだと。
それも、今となっては思い出せることはない。ただ、出された食事を摂り、
身体を洗われて、弄ばれる、人形のような存在になっていた。
腹は大きくなった。きっと産まれてしまうのだろう、そんなどす黒い絶望が、
少しの希望を持ち始めていた。私も、私なんかでも、子を宿せるんだ。そんな喜びがあった。
そして、男たちも喜んでいる。「産む気だぜ」「楽しみだな」「誰の子なのかねぇ」
嘲笑にも似た言葉。白濁とした意識の中でその言葉を聞き、少しの安堵を覚えていた。
その理由は単純で、腹が大きくなるにつれ、男たちは私に手を出さなくなっていた。
一糸も纏わぬ私の身体を、鉄檻の向こうから眺めるだけで、もしくは……。
ともかく、この子に守られていると感じた。だからこの子を産む決意をした。
守ることができると、思っていた。
そして、その子は生まれた。
「マジで産んだのかおめぇ」
小さな赤ん坊の首筋を、スキンヘッドの男が乱暴に掴んだ。
血みどろの赤ん坊は、しかし生きているらしく、ほんの少しだけ両手を動かしていた。
守らなきゃ。ずっと、それだけを考えていた。
赤ん坊を握る男が立ち上がる。見ているのは、簡単に性別を判断できる、ところ。
「ンだよ、男かよ」
「賭けに負けたなぁ!」入り口から聞こえる、そんな笑い声。
「チッ、まぁ良いわ」
舌打ちをしながら、男は赤ん坊と私と、交互に見ている。男の後ろには、幾人もの男がいる。
その奥に……この場所に決して相応しくはない男が、一人。
ああ、あの人は見覚えがある。お師匠に乱暴を振るっていた、あの教会の牧師ではないか。
なぜここにいるのだろう。そんな考えは、すぐに消え失せる。今は赤ん坊を、守らなければ。
「……返して……」
蚊の鳴くような、ほとんど吐息だけの、小さな私の声。赤ん坊を掴み上げている男は、
その声に気づいたのか私のほうを見ていた。
「ああ、お母さんだもんなぁ、おめぇ」
せせら笑うような表情に、不安を感じた。
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人喰いであることを隠して、しかし魔女であることは隠さず、この町に滞在している。
幸い、この町の人々は魔女に対して寛容だった。
少なくとも、かのように迫害されることはない。その点ではすごく安心できた。
でも、不安もある。私が人喰いだと知ったとき、どのような反応をするだろうか、と。
それでもきっと、許してくれるのだろう。そう思えるぐらい、優しい人々ばかりだった。
アレから一年ほどだろうか。後継者のため町に繰り出し、ここにたどり着いた。
なんとなく、ここで出会える気がする。そんな予感がしていた。
そして恐らくはその予感は的中するのだろう。今までもそうだったのだから。
「おう」
涼しい風の暖かな陽気の中、中央通は今日も人々の活気は良い。
交通の要所であるらしく、酒場を中心にさまざまな店が立ち並んでいる。
この道を歩くのが好きだった。だから今日も歩いていると、後ろから声をかけられた。
生意気な口調。まだ声変わりもしていないくせに。そう思いながら、振り返る。
あまり背の高くない私よりも、ずっと背の低い男の子が、私を見上げている。
「おはよう」
挨拶をすると、その子は笑った。楽しそうに。
「良い天気だな、あんたの表情と違って」
いつも笑顔でいるはずなのに、この子の前では隠せないようで、
容赦のない言葉をぶつけてくる。敵わないな、そう思う。少しの悔しさと、胸のざわめき。
ひょっとして、この子は私の秘密も知ってしまっているのではないか。
そんなかすかな不安を押留め、笑顔はなるべく崩さず、崩さないように、応える。
「大丈夫ですよ、私は」
いつもそう言っている気がする。その度に、この子は言い返してくる。
「大丈夫な奴は自分で大丈夫って言わないんだぜ?」
そう聞いて苦い顔をするのも、日常となり始めていた。
黒白は仲が良く、そのことが少し恨めしく
どうして私なんかについてくるのかと、尋ねようかとも思っていた。
でもその子は、きっとはぐらかすのだろう。それがわかっているから、尋ねなかった。
監視をしているようにも見えた。ただ私に興味があるだけのようにも見えた。
特に迷惑ではなかったし、時には楽しくおしゃべりもできるから、むしろ安心していた。
安心していた? ううん、そんなのは嘘だ。ただ単に、怖かっただけにすぎない。
きっとこの子は私を見抜いている。秘密も全て、知っている。だからこうして私に……。
ううん、それも違う。不安なだけだ。知られたくない。あの秘密を、ずっと秘密にしたい。
しなければならない。まだ私は、人間のままでいたい。
人を喰う魔女だなんて、化け物ではないか。そんな存在になりたくない。
……せめて、この子の前では、ただの人でいたい。ただの魔女を演じていたい。
演じていたい。私は人喰いの魔女なのだ。ただの化け物なのだ。
……まだ、認めていない。認めたら、きっと本当の化け物になってしまうから。
「暗い顔がさらに暗くなってるぜ?」
ウルサイ。
「考え事ですよ」
誤魔化す。
「考えること、多そうだもんな。あんた」
その微笑を浮かべる表情は、はたしてどのような意図があるのだろうか。
単に私に笑いかけているだけか、それとも私の本心を見抜いて、嘲笑っているのか。
……前者であることを信じている。でも……もし、後者ならば。
「そうですね、魔女ですから」
魔女であることは隠すな。師匠の教えに習い、衣装の魔女のそれを着用している。
魔女は確かに迫害される存在である。しかし、その魔女の助けを必要とするものもいる。
その者のために魔女は存在している。そのことを忘れるな。
それこそ、飽きるぐらいに聞かされた。枯れ枝のような手で、撫でられながら。
「魔女も大変だよな」
いつしか、二人の足は止まっていた。
陽気が心地良く、こうして立ち話をするのにちょうど良いぐらい。その子の頭を見る。
ボサボサで、あまり手入れはされてなさそうな黒い髪が、涼しい風に揺れる。
丸い瞳。黒真珠のような光沢で、私をじっと見ている。自然な笑顔が、私には眩しい。
「そうでもありませんよ」
違う。違うの。
「へぇ、そうかい。俺から見るとそんな如何にもな格好で、よく町を歩けるなと感心するぜ」
迫害される存在であるのだから、その言葉は尤もである。
「放っておいて下さい。魔女が必要な人もいるのですから」
でも、そう言い返したいわけではない。私は、私はただ……。
「へーへー。まぁ気をつけな。魔女を憎むヤツはどこにだっているからよ」
そう言い捨てて、その子は私に背を向けた。これ以上は話したくない、そう言いたげに。
自然とその子の背を追いかけようとした足を、意識して止める。
これで良いの。魔女は友人なんか作るべきではないのだから。これで良い。
……これで、良い、はず。
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夜。何気なく、窓から外を見る。ガラスに映る私の顔は、やはり暗く見えた。
これは夜だからだ。そう思うことにして、空を見上げる。
満月になり切らぬ月が、そこにあった。かすかな赤みを帯びていて、しかし綺麗な月だった。
何気なく、もしくは誘われるように、外に出る準備をする。
もう、皆は寝静まった頃合だろう。本来ならば魔女の姿をする必要はない。
でも、いつもの癖で、その日は魔女の服装で外に出た。
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冷たい風が頬に触れ、正気に戻った。血みどろのもろ手。鉄の味がする口の中。
師匠から譲り受けたとんがり帽子は、どこかに落としたらしい。
目の前には一人の死体。服は着ていない。そしていくらか喰われたような後。
ああ、またか。身体から力が抜ける。吐かなければ。
今日は誰を喰ってしまったのだろう。どんな人を襲い、殺してしまったのだろう。
目の前の、血みどろの肉塊はあまり大きくないように見える。
せめて私より若くないことを望みつつ、いつものように耐え難い吐き気を感じ、
しかしこのまま遺体の上に嘔吐するわけにはいかず、その場を後にした。
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雨の音に目が覚める。今のは夢? 身体を起こす。着ているのは、寝間着だった。
口の中にも、あの嫌な味はしない。師匠から貰った、あの大事な帽子も壁にかけている。
やっぱり夢か。胸を撫で下ろし、寝台から降りる。床は冷たく、嫌な感触が蘇った。
夢だとしても、なんと嫌な夢だろうか。悪夢でももう少しまともな気がする。
頭が痛い。寝汗も酷い。今日は寒くなりそうだ。窓の外、淀んだ空を見て、そう思った。
私の部屋は二階にあり、そこから廊下までは三つの部屋の前を通ることになる。
その逆側は窓で、外の風景を見ることができる。ここからの眺めは、それなりに好きだった。
この宿の前はいくらかのお店が立ち並ぶ中央通で、特別活気が良い。
目の前の窓は通り過ぎる。窓は木製の枠にはめられていて、開けることはできない。
二つ目の窓は一つ目から三歩ほどの距離にあり、その間には光る石が飾り付けられている。
まだ隣の部屋のドアにはたどり着かない。そこからもう二歩ぐらい歩けば、丁度だろうか。
次の窓も通り過ぎる。目の端に少し気になるものを捉え、この次の窓で確認しようと思った。
その前に扉が開かれる。滞在しているのは、一組の少女たち。片方は白く、片方は黒く、
とても仲が良さそうに見える。双子だろうか。
それにしては、不自然なぐらいのモノトーンではある。
二人で一緒に部屋を出て、二人で一緒に私を見た。まったく同じ顔。
それなのに、雰囲気は正反対である。まるで、その着こなしている衣服の色のように。
「こんにちは」
最初に挨拶をしたのは、白い服を着た少女だった。その後ろで扉が閉まる。
「こんにちは。もうそんな時間なのですね」
自分が他の人に比べ長く寝がちなことは、自分が良く知っている。
だから何の疑問も抱かず、挨拶を交わした。もう昼なんだなと、なんとなく思った。
「おはようございます、でしょ。まだ朝だよ」
黒い服の少女が白い服の少女をたしなめる。
……騙されてはいけないのは、黒い服の少女のほうがやんちゃということだ。
十中八九、もしくは私がこの子たちと話している限りでは、
黒い服の少女を信じていると痛い目を見ていた。
「……こんにちは。もう騙されませんよ?」
それを聞いて、白い服の少女が笑う。
「慣れられちゃったね」
黒い服の少女は、あまり笑わない。
「慣れられてからが本番だよ。大丈夫大丈夫」
なにが大丈夫なのか。尋ねるのも面白そうではあったが、その前に二人が顔を見合わせた。
待つこと数秒。二人で何か会話したような感じではなかったが、やはり二人一緒に私を見た。
「また今度」「一緒におしゃべりしましょう」
確かに二人の口が動く。でもその繋がりがあまりにも自然すぎて、
まるで一人が続けて話したように聞こえる。不思議な感覚だった。
「ええ、また今度」
ひらひらと手を振ると、二人は私に背を向けて会談のほうへと歩を進めた。
何か話すことがあっただろうか。考えつつ、三つ目の窓へと差し掛かった。
知りたくないことを知るのは苦痛を伴い
窓の外。さっきまでは穏やかな人の流れだったが、いま見ると明らかに異常だった。
全員の足が速い。急いでいるというよりは、何かから逃げているかのように。
何から逃げているのかはわからない。でも、かすかな不安を抱いた。
私も早く逃げなければ。何から? そんなことを考えている場合ではない。逃げなければ。
次第に足が速くなる。あの黒白の二人も逃げているのだろうか。
そう考えつつ、四つ目の窓へとたどり着く。そこから見た外の景色は、
いつもどおりの平穏だった。
「……また……」
それは幻覚というよりは、予知に近い。
何かから逃げるような何かが、近いうちにこの町に出現する。魔女は、たまに予知をする。
しかしそれを皆に伝えることはない。それは決まって、信じられることはないのだから。
だから普段ならば、予知をした者だけがこの町から去っていく。
それがいつ起こるかわからないが、起こることは決まっているのだから。
でも……。
もしかすると、この町の皆ならば……あの子ならば、信じてもらえるかもしれない。
誰にも信じられぬは魔女の宿命。けれど、あの子は魔法を習っていると聞いた。
ならば、この宿命もあの子には……。
左右に首を振る。そんな事はあり得ない。
魔女の言葉は、魔女を信じようとするもの以外に信じられることはないのだから。
だから、そんな淡い希望を抱くべきではない。どうせまた、いつもどおり。
やはりこのことをあの子に言うことは、やめた。
それにもしあの子が私の秘密を知っているのならば……この秘密も知られるかもしれない。
心のどこかに、そんなかすかな絶望がにじむ希望を抱いた。
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「よう」
その子と出会って、いつもの挨拶。
「こんにちは」
昼も過ぎ、ぬくもりが足元から伝ってくる。
予想ははずれ、雲が切れた空から太陽が覗いている。足元からの陽気が、
寒くなりはじめた風に丁度良い。だからか、その子はいつもより楽しそうに笑っていた。
そしてきっと、私はいつも以上に笑っていなかったのだろう。
「……あのなぁ」
ため息まじりの、その子の言葉。
「そう、私は悩みを抱えています~、って顔をされたら俺も聞きたくなるとおもわねーか?」
やはり、そうとう酷い顔をしていたのだろう。自覚もある。
あんな悪夢を見て、あんな予見もして、平気な顔ができるはずもない。
……師匠は平気な顔をしていたっけ。私は師匠ではない。師匠のようになることはできない。
しょうがないのだ。
「……話しませんよ?」
言っても無駄だろう。魔女の言葉は信じられることのほうが稀なのだ。
「じゃあそんな顔をしなさんな。せっかく綺麗な顔をしてるってのによぉ」
おだてたつもりだろうか。私よりも小さな背のくせにして、ませている。
けれども、おかげで少しだけ楽になった、気がした。
それに、少し気になった。この子に魔女の予言を伝えたらそんな反応をするのだろうか、と。
伝えようかと迷った。口にしてしまえば、きっと楽になる。
でももしかすると、他の人と同じかもしれない。嘘と決め付け、遠ざける。
「……相談ぐらいならば、いつでも乗るぜ?」
お願いだから、迷わせないで。
「そうですね」
話すべきか、話さざるべきか。そう迷っている間、その子はずっと私の顔を見上げていた。
その表情は、きっと忘れられるものではない。不安というものはやはり伝播するものだと、
その時に気づかされた。きっとその顔は、私の顔なのだろう。酷い顔をしていた。
「じゃあ、話します」
どこからどこまで伝えようか。私が人喰いであること? それは隠す。
予知から? あのことは伝えても良いだろう。決めた。予知についてだけ、話してしまおう。
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この町は防壁に囲まれてはいない。簡素な木の柵が張り巡らされているだけで、
これといった外敵対策はされていない。それはつまり、その程度で十分だと物語っていた。
地理的な都合で交通の要所となっており、この町には多くの人が集まる。
その中には、腕利きが多数いる。もちろんそうでもない者も多いが、まず武器は持っている。
だから多少の外敵は、むしろ依頼という名を借りて駆除されている。
そうしてその町は成り立っていた。小さな国よりも強大な戦力が、そこには存在していた。
ある意味でこの町の周囲は安全だった。もし野犬が出たとしても、
その首には常に報奨金が出ているがために、近場の者によって即座に討伐される。
だから私たちも、こうして町のそばに流れる小川に足を運ぶことができる。
目的は、なんでもなく単に散歩に行きたかっただけだった。
何気なく町の外へと足を伸ばし、何気なく歩き回り、そして見つけた森の中の小川。
「休んでいこうよ」そう言い出したのは、アーテルからだった。
「ここで? 水浴びでもしたいの?」
確かに多少の暖かさがあるとはいえ、風は冷たい。
なにより、こんな場所では誰かに見られかねない。だから冗談交じりに、そう尋ねる。
「別に。私はアルブムのように、水浴びが好きなわけじゃないし」
嘘ばかり。口に手を当てて、笑う。
確かに私は水浴びが嫌いじゃないし、むしろ好きなのかもしれない。でもそれならば。
「私が好きなら、アーテムも好きだよね」
二人は一緒なのだから。アーテムも黒い髪を風に揺らし、そうかも、と頷いていた。
ひとくいの魔女