ヒト科・分不相応願望属の幸福について

 人類とは。
 おまえはアホかと頭を叩きたくなるほどの、とんちで無謀な夢をいだく愚か者がよく生まれる種族でございます。
 
 かくいうわたしの夫も、かれこれ三歳のころから二十四年の付き合いになりますが、少々おめでたい回路の頭を持っておりまして、いまだにとんちな夢を思いついては、会社勤めの身分を放り投げようとします。はたから見ているぶんには「ばかだなぁ」で済むのですが、なにを間違えたのか、婿にいただいてしまったので、ぼうっと聞き過ごすわけにもまいりません。なにかちらっと、「パイロットになろうかな」とか、「消防士って格好いいよなぁ……」とか、恋する乙女のように目をとろんとさせたら、

「ねえ。いっしょにお風呂入ろうか」

 と、できるだけ魅惑的に囁いて夫をバスルームに放り込み、すぐさま冷水を頭にぶちまけてやらねばなりません。水をかければ大抵の夢は忘れてくれるので、いつもそうしています。色めいたことはしません。子どもはまだ作りません。本能が「ちょっと待て」と言うのです。結婚して二年、色めいた行為は多々ございましたが、不思議と、子宝にはめぐまれませんでした。念のため夫婦で病院にも行きましたが、双方の生殖能力に異常はありませんでした。不思議なものです。
 病院に行った日の夜、こんな夢を見ました。わたしの体内で起きたワンシーンのようでした。むきたてのモモのようにつやつやした壁にかこまれた個室に、夫からの『子宝便』とやらがとことこやってくるのですが、「総員、退避! 退避ーッ!」と、卵のかたちをした受取人が両手をあげて逃げるのです。わたしは飛び起きました。妙に納得している自分が嫌でした。
 あの卵たちの身のこなし。わたしの体内では、日々入念な避難訓練が行われているのかもしれない。わたしは胸に聞きました。
 そんなに夫が嫌いですか? 
 胸は応えました。
 いいえ、嫌いではありません。
 彼は退屈のほうから逃げていくかのように、空白の時間をあっという間に彩ってしまう楽しい人。どうでもいいことを思いついては、新しいことを始めようとする迷惑な人。水をかければ忘れてしまうくらいの夢見なんて、かわいいものではないですか。笑ってゆるしてあげたらいい。子どもをつくり、すえながく一緒に暮らしたい。生まれてくる子どもはきっと全員夢見がちで、想像するだけで気が重いけれど、彼との子どもに振り回される面倒がわたしはほしい。それは紛れもない本心でした。
 ですがひとつ、懸念がありました。
 つねに彼をどこかへ駆り立てる夢見がち病は、大病になって、彼をさらってしまうことがあるのです。水をかけても忘れないし、寝ても覚めても追いかけてしまう本命の夢を、ある日突然いだいてしまうのです。
 そのこと自体はかまいません。夢を抱くのはけっこうなことです。
 ですが「けっこうなこと」と褒められるのは、人生がいまだ白紙の子どもだけ。大人になればなるほど、新たな夢にすべてを賭け、すでに積み上げてある人生から大きくそれようとする人は、あまり「けっこうなこと」ではありません。彼らに対する「けっこうなことですね」は、含み笑いが混じっています。呆れがまじっています。現実逃避をした愚かものへの蔑みが入っています。皆、凡庸な種が、つけるはずもない大輪を咲かせようとするさまを笑っています。種は花や果実を実らせるまで、人のつばを呑んで生きるのです。多くが枯れていきます。踏まれて死んでいきます。こんな茨の道のどこがいいのでしょう。自分の姿かたちなど、どうでもいいではありませんか。やっとある程度の高さまで育ったのだから、もういいではありませんか。ふわふわと心地いい風に揺られていましょうよ。
 ですが、わたしが大輪に興味がないように、彼も心地いい風には興味がないのです。小さなころから、さらさらとした風にうっとりと目をとじることはなく、咲き誇る大輪たちを見上げて、自分もあのように咲こうと躍起になる種でした。「君には秀でた才覚がある」と太鼓判をおされたわけでもないのに、あの意気込みはなんなのでしょう。まったくもって目が離せません。
 
「俺はロックスターになる!」

 フレディ・マーキュリーを聞いて彼は言いました。音痴がなにを歌えましょう。ですが、ギターを覚えました。

「俺は画家になる!」

 ピカソのゲルニカを見て、彼は言いました。あなたは、棒人間しか書けないではありませんか。ですが、デッサンを覚えました。

「俺は映画監督になる!」

 黒澤明の『生きる』を見て、彼は言いました。さすがにこれは呆れました。テレビに映った女性アナウンサーのパンツを覗こうと畳にはいつくばっていた子が映画監督。テレビのトレンディドラマを生放送のドキュメンタリーだと思っていた子が映画監督。なんとまあ無謀な。皆、てきとうに聞き流していました。どうせいつもの夢見がち病です。
 これが大病だとわかったのは、彼が十八歳の時のことでした。
 彼はいきなり地元を飛び出して上京し、まっさかさまに、業界に飛びこみました。初めから監督は無理ですので、助監督の下っ端として現場に入りました。カチンコで何度も指をはさみ、監督に尻を蹴飛ばされて「邪魔だ」と怒鳴られるのが仕事であるかのようなど素人でしたが、根性だけは買われるほどあったようです。いろいろな現場に足を運び、業界の知り合いを増やして、フリーランスとしての人脈を作りました。やがて、小さな芽を出しました。自主制作で一本、監督をしたのです。みずから脚本を描き、自分で主演しました。制作費のためにいくらか借金も作りました。その後もコンスタントに作品を作り、賞もいくつかいただいたようです。そして、つぼみをつけました。新人監督として、短編映画のオファーが来たのです。その作品がきっかけで、商業映画の依頼がひとつ、舞い込みました。彼は今までにないくらい生き生きとしていて、やっと自分に自信が持てたと、わたしにほろりと零しました。意外な言葉でした。彼のあらゆる挑戦は、子どもの全能感のような自信の塊が胸にあるからこそ、成せるわざなのだと思っていました。すべての分不相応な夢は、彼なりの、精一杯のあがきだったのでしょうか。
 彼は小さなころからずっと、自分になんの才覚もなさそうなことに、焦っていたのかもしれません。
 なんの才覚もなさそうなのに、なんにでも飛び込んでいくところが、たぐいまれな才覚だと思うのですが。自分のことはわからぬものなのでしょうか。
 
「いい風が吹いてきた」

 彼は目を細めて、笑っていました。
 
 その商業映画の製作中に、彼は監督をおろされてしまいました。
 プロデューサーとの諍いに加えて、スタッフとの不和が原因だったと、彼は言葉少なに言いました。上映された本編のエンドロールに、もちろん彼の名前はありません。スタッフの方に話を聞いてみたところ、「経験不足」「監督に向いてない」「背中に目がついているような奴じゃないと勤まらない仕事ですから」「今までは、監督のふりがうまかっただけじゃないですか」 
 つまりは「役不足なので干しました」という総評でした。ひとり舞い上がった昇り龍は頭をたたかれ、尾を引っ張られ、ひゅるひゅると落ちていったのです。
 その後は、鳴かず飛ばず。正月の賽銭のように自然と投げ込まれていた仕事も、賞も、ぱたりと途絶えて、彼は次第に気鬱になっていきました。もう一度スタッフをかきあつめて短い映画を撮りましたが、完成には至りませんでした。組の空中分解が原因でした。

「あの監督ね、『おれはこう撮るんだー!』って、凡人なのにイメージが凝り固まってるんですよ。スタッフの意見を全然聞こうとしない。だったらひとりで撮れよって思いますね」
「なんていうかさ、この人の役に立ちたい! って気にならないんだよね。不思議だよねー、悪い人じゃないんだけどさ。仕事だから、ちゃんとついていこうとはしてるんだけどさ。人望がないのかな。彼の書く脚本は面白いから、乗りたくなっちゃうんだけどね。泥船でも」
「とにかくリハが長い。俳優が疲れるまでリハやって、本番ボロボロの演技させるのがうまい。あんなの演技指導とはいえませんよ。自分が納得するまで、俳優で人形遊びして、みんなヘトヘトです。演出プランは家できちんと練ってこいと言いたい。天才ぶって、フィーリングでやってないでさ。そんなに才能ないんだから。本当、監督向いてないんじゃないかな。あの人」 
 
 仕事において多くの人間に見捨てられると、どうしても気が滅入るものです。他人からの失望が、自分への失望にすりかわって、自分は無能で使えないクズで、誰にも必要とされず、なんの価値もない人間なのだと思えてくるのです。死にたくなってくるのです。生きていてもしょうがないと思えてくるのです。彼はこの世の終わりのように沈んでいました。俺は使えない人間なんだと、陰鬱な思考に呑まれていました。わたしは心配で、それは違うと、彼に言いました。
 たしかに今日は、「おまえ使えないな」と言われたかもしれません。けれど仕事上の「おまえ使えないな」は、「この仕事上の、今日のおまえは使えないな」であって、あなたの人間性や、未来すべてを否定しているわけではないのです。明日のおまえはかなり使えるかもしれないし、プライベートのおまえはわりと優しいかもしれないし、夫としてのおまえはとても素敵かもしれないのです。彼らはあなたの、仕事上のたった一面を指摘しただけなのです。逆に、それ以外のことまで全否定されたのなら、そこは「ハア? うっせハゲ。調子わるかっただけじゃボケ。今日の仕事と関係ないところまで悪く言うなハゲ、産毛むしるぞ」とでも言って、反面教師を示してやるべきところなのです。落ち込みすぎるのは、ただの毒です。今日はよくおやすみになって、明日また立ち向かえばよいではありませんか。
 わたしは本心を言いました。ですが、外野になにをいわれたところで、「だよな」とさっぱり割り切れるものでもありません。彼は頷きましたが、やはり目は曇っていました。一週間に一冊書きあげていた脚本用のノートも、筆がにぶっているのでしょうか。一ヶ月たっても、同じノートのままでした。

「そろそろ、新しい夢を見たら」

 わたしは気分転換になればと、いつも気休めにもならないことを言ってしまいます。
 彼は淡々と、わたしに見向きもしないで、

「嫌だよ」

 と、底冷えするような声で呟きました。
 映画監督業という本命を見つけた彼の打ち込みようは、ふだんの適当な態度からは想像も出来ないほどに、執念深いものでした。無名の監督業だけでは儲かるどころか金が出ていくばかりなので、昼はアルバイトや他の現場に出向き、帰ってきたら徹夜で脚本を書き、映画制作会社に売り込んでは、相手にされなかったと言って家で号泣しました。脚本を突き返されるたび、業界から突き放されるたび、スタッフに切り捨てられるたび、彼は我が身を切られたようにどんどん憔悴していきました。彼は自分の脚本が、作品が、すこしでも世に認められることを望んでいるようでした。映画監督として認められた自分を求めているようでした。誰かの「次回作が待ち遠しいよ」を、渇望しているようでした。
 おまえには価値がある。
 おまえには、他の人にはない才覚がある。
 そのたった一言を求めて、あがいている。わたしにはそのように見えました。
 それも、わたしの言葉では駄目なのです。
 わたしが「あなたには価値がある」と言っても、彼は満たされないのです。
 彼が憧れ、焦がれた大輪たちから、「おまえには価値がある」と言われなければ駄目なのです。
 わたしの評価は彼にとって、価値がないのです。
 彼に人望がないというのなら、わたしはどうなのでしょう。
 たった一人の、愛した人間にすら、認められていない。安心ひとつ与えられない。
 あまりに、ちっぽけな存在だったのです。

 急いた気持ちが悪循環を生むのでしょうか。商業映画からはじきだされてから、二本ほど自主制作で短編を撮り切りましたが、一本目の作品の打ち上げはお通夜のようで、二本目の作品の打ち上げには、大人数での撮影にもかかわらず、スタッフはほとんど顔を出しませんでした。宴会用の大部屋で、ぽつんと酒を呑んでいる彼の姿は、痛々しい以外の何物でもありませんでした。
 彼はこのつれない仕事や、作り上げたすべての作品に、魂を注ぎこんでいました。自分の作品がいまだ無名で、凡庸で、商業性も普遍性もなく、誰にも待ちわびてもらえない現状であると知りながらも、すがらずにはいられない衝動があったのでしょう。これを成さねば生きている意味がないという、鬼気迫る焦燥があったのでしょう。痛々しい執念は、いつかわたしのもとから、彼をさらってしまう気がしました。
 悪い予感は、当たるものですね。
 一年前。彼は風呂場で、自分の首と腹を裂きました。
 わたしが見つけた時は、彼は血の湯船に両足をつけて、気を失っていました。
 まわりは自殺だと騒ぎましたが、あれは自殺ではありません。
 心中でした。夢との心中でした。彼だけが、幸いにも、この世にとどまっただけのことです。
 その日を堺に、彼は映画業界から姿を消しました。
 結果的に彼は、己の血をもって、監督業にどっぷり浸かっていた足を洗ったのです。
 夢に潰えた人は時に、自分で自分の身を裂いて、自分ごと終わりにしようとするのですね。
 思い出すたびにわたしは、心臓が止まりそうに成るのです。
 
 ねえ。
 手に負えない、分不相応な夢だったのでしょう。
 叶わぬ夢だと、膝を折るしかなかったのでしょう。
 もう手放せたのですか。心中しようとまでした夢を、捨てられましたか。
 あの割腹は、あなたの大病を、ちゃんと殺したのですか。
 
 あなたはこれから、風に揺られながら、ふわふわとした夢を見るだけで、あの大病を再発することはないのですか。
 
 

「外交官って、格好いいよなぁ」
 
 午後十時のニュースを見ながら、彼はとろんとした目で言いました。彼の帰宅を待って、一緒に遅い夕飯をとっている時のことでした。
 今度は外交官ですか。年齢的に無理だと思うけど、いちおう水をぶっかけておこうかな。わたしは箸を置き、すぐに風呂場に行けるようにスリッパを脱ぎながら、テレビを見ました。なにか外交問題があったようで、某国から召還された大使が風をきって歩く映像が流れています。国を背負った外交官。ザ・仕事人という感じがして、彼が憧れるのもわかります。契約社員として会社に勤め、年下の上司にこき使われる今の毎日は、やはり彼にとって不幸なのかもしれません。ですが、また身を切る思いをしながら夢を追うことが、はたして幸せでしょうか。彼はテレビを、とろんとした目で見つめています。パシャパシャと浴びせられるフラッシュ。フレームに上から下から差し込んでくるマイク。彼は皮肉っぽく笑いました。

「マイクばれてる。下手くそ」

 その憧憬の視線は、外交官に向けられたものだったのでしょうか。
 『ばれてる』とは、カメラのフレームの中に余計なものが映ってしまっている、という映画業界の用語だそうです。彼は時々、撮影現場での言葉をちらと口にすることがあり、わたしはそのたびに話を広げるべきか、流すべきか迷います。「報道映像なんだから、ばれていてもいいじゃない。現場がなつかしい? もう一回、あの業界に戻りたくなった?」 ……わたしの口からそういった言葉が出るかどうかを、試されているように思えるのです。

「ねえ。お風呂入ろうか」

 わたしは水をかけることにしました。
 彼はそしらぬ顔でビールを呑みました。

「まだメシの途中なんだけど。おかず、まだ残ってるし」
「これ明日のお弁当に詰めるから、もう食べないで。夜遅いし、ごはんは終わり」
「ええ? ヤダ」
「ヤダじゃない。おわり。お風呂いくよ」
「あー待って、じゃあ風呂のまえにさ。一曲だけ」

 彼は右手で宙を掻き鳴らしながら寝室に向かい、ブルーのアコースティックギターをかかえて戻ってきました。十五年目の愛用ギターは、ロックスターの夢の名残です。十五年前の夏休み、ロックを夢みて楽器屋に行ったのに、立派なギターケースに入れて持って帰ってきたのは、このブルーのアコースティック。しかも、ギターを使って最初に練習した曲は、美空ひばりのリンゴ追分でした。ねえあなた、ギターは必要ですか。まったくどこまでも適当な人。
 
「新しい曲を練習したからさ。聞いて聞いて」
「ふーん。なんの曲?」
「聞いてからのお楽しみ。時間も遅いから、一回だけな。……その前に、ちょっと話があるんだけど。いい?」

 彼はギターを膝に置いて、真摯に言いました。
 嫌な予感がしました。
 わたしは彼の、傷が癒えたはずの腹をかすめ見て、慎重に聞き返します。

「……どうして許可をとるんですか。気まずくなる話をしたいってこと?」
「そうだな。夫婦仲に関わるかも」
「あんまり聞きたくないですね」
「聞いてほしいんだけどな。今後に関わることだから」

 ますます、嫌な予感がしました。
 彼はギターの腹を、赤子をあやすように叩きながら、こちらを見つめています。適当なくせに、こういうところは我が強いのです。他人に意見を求めながらも、実は腹のなかですべてを決めている。頑固で、わがままで、意志の濃い色合いが、瞳にはっきりと灯っていました。なにを言われずとも、分かります。長い付き合いなのですから。
 彼が業界から足を洗って一年。
 短い春でした。

「いいよ。どうぞ。なんでも言ってください。そしてどこへなりとも行って下さい。わたし、適当についていきますから」
「え。行くって、どこへ」
「業界に戻るつもりなんでしょう。それとも本気で外交官。外交官の採用試験の問題を見たことがありますけど、あれを解けるのは天才じゃなくてきっと異星人ですよ。星をたがえる必要がありますよ。つまり超難しい」
「え。ちょっと、違うって。外交官にはなれないよ。業界には……いや、本題はそうじゃなくて」

 彼は頭を掻きました。なんだか歯切れの悪い。めずらしいこともあるものです。

「なに。なにかしたいことを決めたんでしょう」
「うん、まあ。改めて言うのも、おかしな話なんだけど」
 
 彼はわたしの手をとって、言いました。

「今までありがとう。って思ってさ」
「……なにがですか?」
「全部。俺は、業界やスタッフから毎日のようにやられて、つらくてたまらなかったことを、そのまま、ずっと、おまえにやっていたんだろうなって。そういう懺悔」

 彼はわたしの左手の、薬指を撫でました。指輪はまだ買っていません。指にまくプラチナより、明日の生活費のほうが大事です。わたしはこれでいいのです。彼はぽつぽつと続けました。

「俺はずっと、おまえがどんなに励ましてくれても、大丈夫だって言ってくれても、本気にはしなかった。しょせん素人の気休めで、おまえの言葉には『価値がない』と思っていた。俺の脚本や、俺の作品が、他人に『価値がない』って言われて毎日傷ついていたのに、認めてくれる相手のことを平気で無下にしていたんだ。自分を信じてくれる人間を馬鹿にしていた。自分を信じない人間は、もっと馬鹿にしていた。これじゃ、人望がなくて当然だな。だから、懺悔。今までありがとう、って」
 
 今まで、ありがとう。
 今まで自分を信じてくれて、ありがとう。
 あなたの言葉には価値がある。
 自分を信じてくれたという、価値がある。
 彼は伏し目がちに、優しく微笑んでいました。
 わたしはとっさに、机に顔を伏せました。
 どうしてか、涙があふれてきたのです。 

「……そでだけでずが」
「なに」
「懺悔だけでずか」
「いや、まあ。ここからが本題で」

 彼は苦笑しました。足を組み、ギターの弦を確かめていて、こちらを見ようとしません。なにを照れているのだろうと思った矢先に、彼は言いました。

「そろそろ、子ども作ろうか」

 わたしの涙が、さっと引きました。
 彼はようやく、こちらを見ました。赤みと青みの混ざった、不安そうな顔でした。

「子どもは、いらない?」
「いえ」

 わたしは自然と、自分のお腹を撫でて、答えました。

「ください」
「あのさ。その言い方、エロい」
「いいじゃないですか。たくさんください。卵の避難訓練も、きっと落ちつくと思います」
「卵の……避難訓練?」 

 つい口を滑らせました。彼は怪訝そうにして、二回ほどせっつきましたが、『子宝便』から逃げ惑う卵の夢を話すのは断固おことわりしました。話さなくても、もう心配はいらない気がしたのです。
 わたしが大丈夫というのだから、大丈夫なのです。

「そういえば、業界には戻るのですか。さっき言いよどんでいましたけど」
「ああ、うん。前に組んだことのある監督が、今週末から二週間かけて、本編を撮るらしくてさ。それで『暇なときに、現場に顔を出してみないか』って。誘ってくれたんだ。それだけ」
「やっぱり、好きなんですね。映画」
 
 彼は目を細めた。

「うん。好きなんだ」

 彼はリズムを軽く取り、有名なイントロを鳴らしました。いつのまに練習したのでしょうか。夢破れたギターなのに、なかなかに美しい。彼は歌をくちずさみました。もとはとても音痴なのに、今日はきれいに歌っています。人はいつのまに、成長してしまうのでしょうか。時折声の調子が狂うのは、照れのせいということにしておいてあげましょう。

「Baby if I could change the world……」
 
 もし僕が、世界を変えることができたなら。
 
 その願いを種に、世界はこうして、変わっていくのかもしれません。



 

ヒト科・分不相応願望属の幸福について

ヒト科・分不相応願望属の幸福について

ヒト科・分不相応願望属。 「いや。おまえには無理だろ」という夢を無謀にも追いかけてしまう、ヒト種族の中でもきわめてとんちで、無謀な根性を持った人間のこと。 そんなおろか者を夫に持ってしまった、とある若妻の物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-01

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