黄泉に吹く風  (うらみはらで・リメーク)

黄泉に吹く風  (うらみはらで・リメーク)

かがりかずみ

 怪談。怖い噺がいっぱいあります。、心優しい善人の主人公は、何らかの理由で悪人からいたぶられ、苛めぬを下ろすかれて命を落としますが、やがてあの世から幽霊となって悪人を懲らしめます。概ねこのような話が多いんですが、いかに怨み晴らしとは言え立場が逆になったとき、人としての良心っていうものはなくなっちゃうんでしょうか?人をあやめることは同じなんだから……

風が吹く。
 ふいに天と地が入れ替わる。
 抗いようのない無力感。
 海溝より百倍も深い悲しみ。
 霊峰より千倍も大きな怒り。
 知る限りの全宇宙よりはるかに陰湿な怨念が渦を巻き……
 やがて
 落ちていくのか、登っていくのか。
 暑さも寒さも、いや、苦痛さえもない。
 ただ漆黒の闇だけが、覆いつくすように広がっていく。
 流れの音。
 低くくぐもった霧笛が遠くに聞こえ、
 ドンドンドンと響いてくるのは発動機の唸りにも似た音。
 またしても闇が重なる。
 闇の中に意識が遠のいていく。
 怨念を抱いたまま、意識が遠のいていく……
 薄らいでいく自我の中で心に誓う。
 ああいつの日か、この恨み晴らさでおくものか。
 また風が吹く……

   第一章 渡し船
      1
 身体を被っていた深く鬱陶しい霧が、少しずつ晴れていく。そんなまどろっこしい安堵感だった。目蓋が重く弛んでいて、気を許すとすぐにまたもとの闇の中に逆戻りしそうになる。大庭加奈子は、それでも気力を振り絞って目を開いた。そしてさらに少しの間をおいて、ようやく自分が広い部屋の中で横になっていることに気がついたのである。
 くすんだ白色の空間が加奈子の身体の上にどこまでも広がっているような重苦しさを覚えていたのだが、目が慣れるとそれは薄鼠色に塗られた部屋の天井に過ぎなかった。
 ゆっくりと上半身を起こして様子を窺う。室内灯の明るさが不十分でぼんやりとしか捉えられなかったが、加奈子がいるのはどうやら内床に藍色のカーペットを敷きつめた、一辺が十メートル四方はありそうな大きな枡席の中だった。さらに観察すると部屋全体は、同じ造りの枡席を縦横二列の計四枡並べて、それぞれの間に幅二メートルほどの通路を通した大広間のような作りになっている。
 四つの枡席にはそれぞれ通路に沿って高さ二十センチほどのフェンスが回され、フェンスの中ほどに通路に下りる切れ込みがある。どうやら枡席の床は通路より三十センばかり高く作られているようだ。
「何処なの、ここは……?」
 加奈子は言いようのない不安を感じた。なぜこんな所にいるのか、何も思い当たることがないのだ。
 頭がぼんやりしているばかりか、身体もゆらゆらと揺れ動いているような不快感があった。
 突然、室内灯が明るさを増し部屋の隅々までをはっきりと照らし出した。そして心地よい音量で、爽やかな朝を思わせるメロディーが部屋に満ちる。
 大庭加奈子は明るくなった室内をもう一度見渡した。そして二つのことに気がついた。
 ひとつは自分が堅めのスポンジに合成皮革のカバーを被せた小さな枕に頭を預け、一枚布の粗末な毛布で身を包んだ格好で、カーペットを貼り付けた床の上に布団も敷かず直に横になって眠っていたこと。
 もうひとつは、やはりわけが分らず戸惑っている男女が、四つの升席それぞれに二十名ほどいるということだった。ざっと見渡しただけなのでみなそうとは断言はできないが、一様に不安の色を瞳に宿しているところをみると、大きく外れてはいないだろう。そう加奈子は思ったのである。

 加奈子は首を傾げた。
 見渡したとおり室内には自分がいて、他の人たちもいる。だがそれらは現実であって、経緯を知る手がかりではなかった。
 大庭加奈子が本当に知りたいのは自分がいるここはいったい何処なのか。自分はなぜここにいるのか。このたったふたつの真相だけなのだ。
 何かが抜け落ちている。加奈子は程なくその理由に気がついた。加奈子の頭の中から記憶というもののある部分が欠落しているのである。不思議なことに昔の記憶ははっきりしているのだけれど、新しいほうの記憶がまったく抜け落ちている。記憶が希薄になってふっと途切れてから今目覚めるまで、いったいどれほどの時間が流れたのか。その間のことがなにひとつ思い出せないのである。無理に思い出そうとすると、とたんに脳髄がきりきりと痛む。
 記憶喪失。どこかで聞き覚えた病名が頭に浮かび、加奈子を混乱させ始めた。

 加奈子はカーペットの上に足を放り出した格好のまま、何とかして記憶の糸口を探し出そうと悶々とした。だが、やがて大庭加奈子はひとつ大きなため息をついた。何もないところから何かを見つけようとしても所詮無駄なことなのだと諦めてしまったのである。
 するとまるでそれが合図ででもあったかのように、室内に流れていた音楽のヴォリュームが絞られ、チャイムの音が響いた。
 チャイムの音に続いて若い女性の明るい声でアナウンスが流れ出した。
「おはようございます。皆様にお知らせいたします。このフェニックス丸はあとおよそ三時間ほどで、対岸のヨミランドに着岸いたします。ヨミウリランドではありません。ヨミランドです。当フェリーではロビーへの階段を下りました所のフェニックスラウンジに簡単な朝食をご用意させていただき、みなさまをお待ち申し上げております。お食事をお済ませの上お席またはロビーにて今しばらくおくつろぎくださいませ。なお皆様からお預かりしております『記憶』は、下船の後入国審査の開始までにお返しいたしますので、どうかご心配なさらぬようお願いいたします」
 優しそうな、しかしどこか事務的な女性の声は、それだけを伝えると沈黙した。
 アナウンスが終ると今度は部屋の左右の壁に取り付けられていたカーテンが静かな機械音を聞かせながら左右に大きく開いていき、やがて明るい外光が室内に満ちた。

 加奈子は床に膝をつき、少し伸び上がるようにして窓から外を眺めた。アナウンスにもあったとおり窓から覗き込むと、遥か下にフェリーが鋭く水面を割って行く水飛沫が上っていた。だが窓外の風景はといえば立ちこめる濃い霧に覆われていて何も見えない。
「フェリー……船の中なの、ここは?」
加奈子は案内放送で言っていたことを問い返すように口にした。すると大庭加奈子の胸の中に、理解できない疑問が次から次へと々と頭を擡げ始めた。
「でもどうして私はフェリーなんかに乗っているの?」
「入国審査ってなに?」
「記憶を返すってどういうこと?」
「ヨミランドってどこ?」
 どのひとつにも答えは見つからない。アナウンスが流れる前と較べて状況は何ひとつ変るところはないのだから当然だった。
 何はともあれこの部屋の中にいつまで座っていても何の進展もなさそうだ。大庭加奈子は行動に移ることにした。
 ヨミランドがいったい何処なのかどのような場所なのかはまったく判らない。しかしアナウンスを信じるならば後で記憶も返してもらえるというのだから、今何も分らぬままあれこれ思い悩むこともないのだろう。そう自分の心に云い聞かせ、加奈子は身繕いを整えようと自分の体に目をやった。
 加奈子は思わず「キャッ」と小さく叫んで自分膝元に丸め置いていた毛布を慌てて引き上げの体を隠すように巻きつけた。身に着けている衣装にはじめて気付いたからだった。いつ着替えたのかはまったく記憶にないのだが、人間ドックで着せられる検査着のような白衣を一枚身に着けているだけなのである。
「なに、これ?」
 締め付けるものが何もない爽やかな開放感に、恐る恐る前のあわせをめくってみる。思ったとおり下着一枚身に着けていない。
 自分で脱いだ覚えはない。それなら誰かに…?
 そんな記憶もまったくなかった。
 加奈子は脱いだ衣服や持っていたはずの荷物がどこかに置かれてはいないか、辺りを見渡してみた。しかし壁に接して置かれているカラーボックスのような収納棚にもカーペット敷きの床の上のにも、私物は一切見当たらない。室内で不安そうにする人たちの間にも衣服のことに気付いてそわそわし始めた者たちも少なからずいるようだった。
「まあいいか」と加奈子は思った。みな同じ格好らしいし、身に着けている白衣も十分大きめで合わせも深く作られているようだ。はだけることもないだろう。それに少しおなかも空いたし。
 加奈子は意を決したように立ち上がった。
 加奈子は升席の隅に置かれた箱にあった備え付けのスリッパをつっかけて通路に降りた。
 となりの升とに挟まれた通路は波の飛沫を置き去りにしていく船の進行方向に伸びている。そしてその突き当たりに一枚のドアが見えた。この船室への出入口はなのだろう。
 両側の升席から浴びせられる好奇の視線を無視して大庭加奈子はドアの前に立った。ドアは軽い摩擦音を立てて滑るように開いた。

       2
 大庭加奈子はドアをくぐり部屋の外へと足を踏み出した。
 見ると五メートルほど先に象牙色に塗られた腰までの高さの手摺がある。加奈子は興味深げに急ぎ足で近寄っていった。
手摺のところ間で来て加奈子は目を見張った。そこはロビーを見下ろすテラスのような場所だった。
 お世辞にも上等とはいえない船室と比べ、ゆとりを持った広いロビーが眼下に望めた。
 左右に目をやると、象牙色に塗った手摺が所々に木彫の小さな水鳥を飾って延びている。テラスエリアは緩やかな円弧を描いて左右にそれぞれ十メーqトルほど延び。そこで船の進行方向へ向かう幅二メートルの廊下と合流する。左側の合流点には木製ゲートが取り付けられた階段口があって、マドロス風の制服を着た若者がひとり微笑んで立っている。案内係か何かだろう。階段口から視線を階下に移動させていくと、階段はロビーの後ろ側の壁伝いに幅広のステップを並べて緩やかな勾配で下りていた。
 ロビーは明るく、広く取った窓にそってベンチがいくつも置かれていて、既にほんのわずかではあったけれども様々な表情で船客達が談笑する姿があった。
 加奈子は階段口に立つ係員に近付いていった。
「お早うございます」
簡単な挨拶をして係員は愛想笑いを浮かべ「階段を下りまして突き当りにレストランがございます。お食事でしたらそちらにご用意させていただきましたので」と階下を手で示した。
 加奈子は案内係が開いてくれた小さな門扉のようなゲートをくぐり、階段を下りていった。階段を降り切ると小さな踊り場のようなフロアがあってマドロス服の係員が云った通りその正面に朝食会場のドアがあった。ぶ厚い一枚ガラス製のドアには『フェニックスラウンジ』とサンドマット加工を施した飾り文字が彫りこまれている。
 踊り場左手に広々としたロビーが広がっているのが分ったが、加奈子は腹が空いては戦はできぬとばかりに、正面のラウンジのドアを開いた。
 自動ドアをくぐってラウンジに入るとすぐ前にキャッシャー風のつくりをしたサービスカウンターがあって、待機していたウエイトレスが皿を乗せたトレイを手渡し「おはようございます。ヴァイキングですのでお好きなものをお選びください。お席はあちらの窓側にご用意いたしました」と右手の客席を示した。
 朝食には少し多すぎるくらいの品数を選びウェイトレスに示された窓のほう向かった加奈子は、そこに『大庭加奈子様』と自分の名前が記されたプレートを乗せたテーブルを見つけた。
 船室の硬い床に長い間横になっていたせいか、加奈子は身体の節々がぎしぎしと悲鳴を上げているのを感じていた。だからクッションの効いた椅子に座り背筋を伸ばした加奈子は心地よさに思わず目を細めた。c
 席について窓外に目を移す。フェリーの中にいることはもはや間違いないと認めないわけにはいかない。いつの間にか霧が晴れて、遥か彼方に陸地が陽炎のように霞んでいる。あれが案内放送で言っていたヨミランドなのだろうか?
 きっとそうなのだろう。それにしてもヨミランドっていったいどこなんだろう?
 そんな地名はいくら考えても思い出せない。ともかく向こうに着いたら記憶が戻るらしいから、それまではなるべく気楽に構えることにしよう。自分にそう言い聞かせて加奈子は食事を楽しむことにした。

 ゆっくりと流れる窓外の景色に目をやりながら食事をしていると「コーヒーのおかわりは如何ですか」という可愛らしい声が聞こえた。
 振り向くとコーヒーポットを持ったメイド服姿の少女が笑顔を見せて立っている。
「ありがとう。いただくわ」
 加奈子が注文すると、ウエイトレスは「かしこまりました」と笑顔を見せ、加奈子のカップに温かいコーヒーを注いだ。
「ねえ」
 立ち去ろうとする少女に加奈子は声をかけた。
「はい?なんでしょうか?」
 ウエイトレスは加奈子に笑顔を向けた。思わずどきどきしてしまうような黒くて大きな瞳だった。
「ヨミランドってどんなところなの?」
 加奈子は思い切って尋ねてみた。
「申し訳ありません。規則で私たちからはお教えできないことになっております」
 少女は本当に悲しそうな表情で加奈子に頭を下げた。
「そうなの」加奈子もそれ以上深く追求のはやめて、「じゃあ、今渡っているのはどこの海なのかしら?それも秘密?」と質問を変えて笑った。
 少女は「川です。海じゃありません」といってにっこりと微笑を返した。
「うそっ。川ですって。こんな大きな川があるの……なんという名前の川なのかしら?」
「リバー・スリーウェイ。スリーウェイ・フェリーという当社の社名もこの名前に由来しています。一度対岸に渡ると二度と戻ることができないという言い伝えがありまして、リバー・オブ・ノーリターンなどと呼ぶ方もいらっしゃるようです。一般的には、三途の川(さんずのかわ)と呼ばれているみたいですけど」
 三途の川?どこかで聞いたことのある名前だと加奈子は思った。物語の中とかドラマにでも出てきたのだろうか?
 いずれにしても加奈子の乗ったフェニックス丸が渡っているこの三途川が、日本国内の河川ではないことだけは間違いのないところだった。日本一長い河川は信濃川だし、流域面積の広さでいえば利根川のはずだ。どちらにしてもフェリーで何時間もかかるような大河ではない。
 加奈子が沈黙したのでウェイトレスは少し心配そうに「もうよろしいですか?」と加奈子の瞳を覗き込んだ。
「ありがとう。もう結構よ」と加奈子が微笑むと、少女は少し寂しそうな顔をして「もし向こうに到着してから何かお困りのことがあれば、仲央商店街に『ネモフィラ』という名前のブティックがありますから行って見て下さい。お役に立つと思いますから……」と、小さな声で言って加奈子を見た。
「ネモフィラね。どうもありがとう」
加奈子は少女がなぜそんなことを言うのか訝しく思ったが、きっと加奈子の物腰に何か感じるものがあったのだろうと解釈して礼を言った。
「では、ごゆっくり」
少女は明るい挨拶と礼儀正しく深いお辞儀をして、自分の仕事に戻って行った。

       3
 ラウンジに入ってくる客が増えはじめ室内が混み合い始めた。加奈子は席を立ってラウンジからロビーへと場所を変えた。
 ロビーは大勢の船客たちで賑わっていた。広い室内の窓際にいくつもの樹脂製ベンチが船の揺れに動かぬよう床にビス止めされていて、各ベンチごとに船客たちが十数名ずつのグループに分かれて談笑している。ロビーの一角にはソフトドリンクのサービスコーナーが設けられていた。
 ベンチサイドに集まっている船客を見ると、年齢の近いもの同士で小集団を形成しているようだった。グループを構成している年齢層を観察すると三十から四十代、そして二十から三十代前半と思われるふたつのグループに分かれているようだった。
「こんにちは」
 努めて明るい口調で言って加奈子は躊躇なく若い世代のグループに合流した。
「こんにちは。若者グループへ、ようこそ」
 集っていた二十名弱の男女を代表するように背の高い男が歓迎すると、他の船客たちも笑顔で頭を下げて見せた。取り繕うような笑顔だったが皆その目に不安の色を宿している。
男はアイスボックスの中から缶入りのアップルジュースを取り出して加奈子に手渡した。
「ありがとう」加奈子は大きな窓を見る形で置かれたベンチに、着衣の合わせを直しながら腰掛けた。
「どんな利害関係があるか今はまだ分からないから、自己紹介は記憶が戻ってからということにしているんだ。どうやら自分が今どこにいて、どこへ向かっているのか理解している人間がひとりもいないようなんでね。勿論、僕もそうなんだけれど」
 男は勤めて明るい口調でいうと加奈子の反応を待った。
「それが賢明かもしれないわね」加奈子は答えて缶入りジュースのプルトップを引いた。
 窓から外を見るとつい先ほどまで遥か彼方にあったはずの陸地が目と鼻の先といえそうなところまで近づいていた。船は思ったより高速度で走っているようだった。
 窓の外には玉砂利を敷き詰めた海岸のような風景が続いている。波打ち際へとなだらかに下る丘の上に、リバーサイド・キンダーガーテンという看板を掲げた二階建ての建物が見える。白い壁に赤い屋根の可愛らしい建物である。建物の横にはピンク色の柵を巡らせた芝生敷きのグランドがあり、滑り台やブランコが置かれていて数人の子供たちが遊んでいた。
岸辺にも所々に白装束を身にまった子供たちの遊ぶ姿があった。石積み合戦に夢中になっているようだった。誰が一番高い石の塔を積み上げることができるかを競うゲームのようなものである。みな石積み遊びに夢中で、すぐ傍を通るこのフェリーに目を向ける子供は一人もいない。
 子供たちの頭上をラグビーボールのような形をした大きな飛行船が、その巨体を誇らしげに見せながらゆったりと進んでいく。飛行船の胴体に染めつけられたコンビニエンスストアのようなマーク入りの広告がフェリーの中からもくっきりと見えた。
『お買い物なら二十四時間営業のヘブンイレブン』
飛行船はやがてキンダーガーテンの上空をゆっくりと横切り加奈子たちの視界から消え去った。
「川らしいですよ。海じゃなくて」
 ラウンジで仕入れた情報を話すと、男は大きく目を見開いた。
「こんな広い川があるものか。がせねただよ、きっと」
「そんな風には聞こえなかったわ」
 がせねたと決め付けられて加奈子は少し不満気に口を尖らせた。
「三途川というそうよ」
「三途の川だって。死後の世界に入るときに渡るという、あの三途の川だと…そうか、ヨミランドは死後の国。黄泉の国ということなのか」
 男が叫ぶように言って加奈子に目を向けたとき、加奈子の横に座って外を眺めていた女性が「あれ、なに?」と浜辺を指差した。
 集っていた若者グループの船客全員が河原の光景に目をやった。

 幼稚園から飛び出してきた女性が何事か叫びながら転げ落ちるように河原に急ぎ、子供たちに急いで建物に入るよう指示している。そのただならぬ様子に子供たちも気付き、大慌てで丘を逃げ登っていく。最後の一人がようやく丘を登り終えたとき、河原の左手に見える森の中から、一頭の獣が現れた。それは牛ほどの大きさで、薄汚れた鼠色の肌をし、
鼻の上に大きなかぎ爪のような角を持った獣だった。獣は牙をむきながら浜辺を突進して子供たちがせっかく積み上げた石の塔をなぎ倒すと、ユーターンして森の中へと消えていった。
「…ちょっとちがうんじゃない?これは」
 加奈子は軽い頭痛を覚えた。

       4
 しばらく他愛も無い話に花を咲かせたあと、加奈子は客室に戻った。
 加奈子がウェイトレスから聞いた川の名称を告げた時、さっきの男は妙に納得して三途の川やヨミランドを受け入れたように見えた。あの男性の受け入れたことがもし事実だとすると、同じフェニックス丸に乗っているのだから、自分も死んだということなのか?
 でも、どうして?
 加奈子は硬いシートに座って目を閉じた。自分の生い立ちが頭の中のスクリーンに蘇ってくる。それはまるでずいぶん前に一度観たことがある映画をもう一度見直しているような、どことなく色あせたはがゆい感覚だった。しかもエンディングが新しく付け加えられたことを加奈子は知っているのだけれど、どんなエンディングだったのか思い出すことができない。今はまだ見ることもできないのである。後で返還するといわれてもそれは加奈子を苛々させるだけだった。それでも加奈子はじっと辛抱してそれほど面白くもない心のスクリーンに集中した。このフェリーに乗った経緯が分かるかもしれないと思ったからである。

 大庭加奈子は父親と暮らしている間、こと男性に関して云うなら無菌状態で育ってきたようなものだった。多くの女性たちが異性への関心を高め、特定の男子に恋心を燃やす十代半ばから二十代初めにかけて、加奈子は男性との出会いがほとんど望めない特殊な環境に身をおいたのである。それは加奈子の周辺に起った著しい変化のため加奈子自身が選んだ環境だった。つまり男性と接触のない環境を選ぶことが目的だったのではなく、その環境に身を置いた結果として男性に対する免疫を作りえなかったというほうが正しいかもしれない。
 加奈子の父親、大庭慶介は大庭産業株式会社という中堅商社の社長だった。持ち前の強引とさえ見える経営力で政界財界にいくつものパイプを繋ぎ、やがては業界を左右するようになるであろうと噂されるほどの人物であった。
 二十九歳のとき五歳年下の房枝という名の女性を妻に迎えたが子宝には恵まれず、加奈子が誕生したとき慶介は四十を越えていた。遅ればせながら訪れた幸せな日々は、しかし長くは続かなかった。加奈子が三歳の誕生日を迎えたその日、房枝が交通事故にあって他界してしまうのである。
 慶介の悲しみは大きかった。だが慶介の加奈子に注ぐ愛情はますます深くなった。きっと加奈子の中に房枝の面影を見たのだろう。
 しかし慶介には仕事があった。いつまでも加奈子の傍にいてやることはできない。
 慶介は郷里である福島県会津若松市に住む七十を過ぎた母親を呼び寄せ、加奈子の面倒を見てもらうことにした。慶介の母、大庭トメもこの申し出を心から喜び、住み慣れた実家をたたんで上京した。加奈子にとってトメは優しいおばあちゃんでもあり、母親代わりでもあった。そして幼い加奈子の中から母親の記憶も日に日に薄らいでいくのだった。
 それから十数年の歳月が流れ加奈子が中学校の三年生に進級した年、トメにも人生の終焉が訪れた。

 父の仕事は順調だった。けれど順調であればあるほど加奈子には淋しい日々が続くようになった。帰宅時間が深夜になることが増えたし、帰宅できないことさえ度々となって行った。
 加奈子も既に分別のつく年齢になっていた。加奈子自身が、社会的に責任のある父の負担になってはいけないと考え、中学を卒業したならF女子学園高等学校に進もうと決意したのだった。
 F女子学園高等学校は開校七十年の歴史を誇る由緒ある名門F女子学園大学の付属高校である。お嬢様学校と揶揄されるだけあって、高校入学から大学を卒業するまでに要する経済的負担は一般人の考えるものをはるかに越える。しかし加奈子は父の収入や資産がそれを問題なくクリアできることを知っていたので、思い切って相談してみることにした。
 加奈子から相談された慶介はF女子学園について調べた。そしてこの学校なら娘を安心して任せられるだろうと確信するに至ったのである。
 慶介を安心させた理由は二つあった。ひとつはF女子学園が大学高校とも全寮制で、寮での面会が可能な男性は入寮生の保護者と保護者が同伴する者に限られるということだった。微妙な時期の娘を任せるのだから入寮生の管理は厳格であるに越したことはない。慶介はそう思った。
 もうひとつの理由はF女子学園大学の理事長を務める金田勇が慶介の大学時代の後輩だったことである。
 仕事に忙殺され最近では思い出すこともほとんどなくなっていたが、秘書に命じて取り寄せた学校案内の中に写真入で載っている金田勇の名前を見つけた瞬間、慶介は大学時代にタイムスリップしたような感覚に捕らわれた。
 慶介は懐かしさを抑えることができず、F女子学園の電話番号を自らダイヤルした。
 突然の電話だから取り次いでもらえないのではと危惧した慶介だったが、電話口に出た女性に大庭慶介と名乗ると、さして待たされもせず金田勇の興奮した声が受話器を通して慶介の耳に飛び込んだ。
 その晩二人はともに全てのスケジュールをキャンセルして慶介が度々使う小料理屋で再会した。娘のことを頼みたいという申し出に金田は心から喜び、決して慶介が後悔するようなことはないと言い切ってみせた。この旧友との再会が加奈子の希望を了承する決定打になったといえるだろう。しかし結果的にはこの決断が加奈子から男に対する免疫を作るチャンスを摘み取ってしまうことになったのである。

 加奈子は予定通りF女子学園高等学校に入学した。
 全寮制といっても各部屋は二人用で、加奈子も勿論特別待遇ではなかった。各部屋のパートナーは抽選によって決められ、幸いにも加奈子とペアになった娘はあまり目立たないがおっとりとした素直な性格の持ち主だった。
 厳格な規律を重んじる学生寮の生活と聞くとなんだか俗世と切り離された閉鎖社会のようなイメージを持ってしまうけれども、部屋のテレビではどんな番組も視聴が許されていたし、書籍などについても購買部に依頼すると取り寄せてもらうことができた。服装もあまり奇抜なものでなければ規制はなかった。
 だから高校大学とあわせて七年間もの長い期間を寮生として過したからといって、一般常識に欠ける心配はまったくなかった。男性との付き合い方以外は…

 七年の年月は瞬く間に過ぎ去った。
 大学を卒業した大庭加奈子は、父の経営する大庭産業の系列会社である大庭エンジニアリングという設計会社に就職し、父一人娘一人の生活が始まった。
 父ももう六十代半ばのはずだ。そろそろ会社も後人に譲って楽をすれば良いのにと加奈子は考えて、水入らずの夕食を食べながら慶介に話したことがある。
 慶介は嬉しそうに加奈子を見つめ、自分にはもうひとつだけしなければならないことがあるからといって笑った。それが自分の結婚のことだと加奈子は察し頬を赤らめた。
 そのとき加奈子はこの幸せな日々がいつまでも続くものと信じて疑わなかった。だが運命は加奈子にもうひとつ辛く大きな試練を用意していたのである。

 一人で夕食を食べていると電話がなった。アメリカに出張中の父からだった。
「台風らしいが大丈夫か?」
 慶介の優しい声が受話器から流れるように聞こえてくる。ニューヨークと東京という距離を感じさせない明瞭な声だった。
 加奈子は点け放しているテレビに目をやった。確かに台風情報を流しているが東京はそれほどではなかった。
「へえ、そっちでも日本の天気、分かるんだ。こっちは大丈夫。いまどこ?」
「ニューヨークのホテルだよ。朝、七時前さ。九時から国際貿易センタービルで打ち合わせをして、終わったら夕方の便で戻ることにしたよ。明日には帰る。お土産は何が良い?」
 父の声は上機嫌だった。どうやら仕事もうまくいったらしい。
「何もいらないから。気をつけて戻ってね」
「わかった。それじゃ、切るよ」
 そういって電話は切れた。加奈子が聞いた父の最後の言葉だった。
 平成十三年九月十一日のことであった。

 加奈子の記憶はここで途切れた。悲しみの多い人生に映るが、客観的に見ると誰しもが心に秘める悲しみと比べ取り立てて大きく深いものではない。自分は確かにお嬢様育ちだったかもしれない。けれども決して心の弱い女ではないという自信がある。
 さっきロビーで雑談した男が受け入れたとおり、ヨミランドが本当に黄泉の国だということも、加奈子がこのフェニックス丸というフェリーに乗せられていま三途の川を渡っているということも、そして自分が死んだということさえすべて受け入れようと加奈子は決心した。
 だが加奈子はもどかしさを感じていた。なぜこうなったのかというラストシーンが欠落した記憶の中にあるということだった。
 重い病気にかかってしまったのか、交通事故にでもあったのか、それとも誰かに殺されたのか…加奈子は自分の死の真相を知りたいと思った。

   第二章 入国管理局
       1
 鈍い振動を感じさせてフェリーは着岸した。桟橋からタラップが伸び、作業員が手馴れた様子で位置を調整して下船口に連結する。
 大庭加奈子は他の船客たちとともにタラップを渡った。桟橋には係員が待機していて全員の下船を確認し、団体旅行の添乗員のように手際よく誘導を始めた。係員が案内する先には明るいクリーム色に塗られた三階建ての建物が見える。
 風が強く吹いている。
 加奈子は着衣の合せを気にしながら、手荷物ひとつ持つわけでもなく行進する自分達の姿が、他人にはどんな風に見えるのかか気がかりだった。きっとその光景は、さぞ薄気味の悪いものに映るに違いなかった。だが幸いなことに下船してから係員に案内された建物までの間に人の気配はまったくなかった。
 一行全員がヨミランド入国管理局と書かれたドアの前に集合したことを再確認して、係員は「中に入りますと右手に記憶返還室がありますので、そちらへ進んでください。あとは中の係員がご案内いたします」といたって事務的に説明した。

 ドアをくぐると右手には確かに記憶返還室のプレートをつけた部屋がある。部屋の前で入室をためらっていると、「どうぞお入りください」と女性の係員が顔をのぞかせた。係員の誘導に従って中に入ると、正面の壁際にちょうど銀行のATMコーナーによく似た一角があり、十数台の機械が並んでいた。ATMと異なるのは各装置の前に折りたたみ式のパイプ椅子が一脚ずつ置かれていることくらいである。
「おひと方ずつ空いている機械におつきください。危険はまったくありません。あとは機械の説明に従ってください。およそ一分間で終了いたしますので、終了された方は前方の出口から出られまして、お名前が呼ばれるまで待合室にてお待ちください」
 女性係員のてきぱきした説明に応じてはじめに動いたのは、船内で話をした男だった。男は機械につくとき加奈子を見つけて「どうせ避けて通れないのなら、早いほうがいいからね」と助言した。加奈子もその通りだと感じたので後に続いた。
 加奈子は空いている機械の前に進み、椅子に腰掛けた。加奈子のちょうど目の前に記憶返還装置のディスプレーがあった。
 加奈子が腰掛けると同時に、装置のスイッチがオンになる。『右側にあるヘッドフォンを着けてください』とディスプレーに表示が出る。装置の右を見ると確かにヘッドフォンが置いてあった。加奈子は表示されたとおりヘッドフォンを着けた。『ご利用いただいたフェリーの、あなたの氏名と生年月日を入力してください』と画面が切り替わる。加奈子はキーボードを操作して『オオバカナコ』、そして生年月日を入力した。『しばらくお待ちください』の表示が十秒ほど続き、今度は漢字で『大庭加奈子さまでよろしいですか。』と表示された。
 画面の下部に『YES? NO?』の選択ボタンが表示されているので、加奈子は『YES』にタッチした。その瞬間ヘッドフォンにピッという小さな音が聞こえた。そして加奈子が改めて画面に目をやると『記憶の返還は終了しました。カードをお取りください』と表示があって、ディスプレー横にあるカード出口から名刺大のカードが排出された。カードを抜き取るとディスプレーの表示が再び変った。『カードは入国審査担当官にお渡しください。ヘッドフォンをお外しの上、前方の出口より退室してください』
 加奈子は今引き抜いたカードに目をやった。『入国受入確認・記憶返還確認・氏名オオバカナコ(大庭加奈子)・E015』これだけを記した味も素っ気もないカードだった。
 加奈子はドアをくぐり記憶返還室を出た。そこは女性係員の説明にあったとおり広い待合室になっていた。記憶返還室は銀行のATMコーナーのようだったが、今度は大病院を連想させた。前方に並んだ八つのドアには、第一審査室、第二審査室という具合にプレートが張られている。各ドアに向きあうように長椅子が一列に三脚ずつ置かれており、その後ろはゆったりとしたスペースをとっている。それぞれの列の最後部にアルファベットと数字が書かれた表示板が置かれている。先ほど受け取ったカードにあった番号だろう。どの列で待てばよいのかがすぐ分かった。
 加奈子はE列の審査室のドアに近い長椅子に腰を下ろした。待合室は記憶返還を終えた船客たちですぐ一杯になった。船客たちの目には記憶が戻りつつある安堵感で、本来の光が戻っている。
 加奈子の記憶も少しずつ氷が解けるように形を現し始めていた。しかし記憶が戻るということによる安堵感の代償は決して幸せなものではなかった。

       2
「大庭さーん。オオバカナコさーん。第五審査室にお入りください」
 心の整理がまだついていないときに名前を呼ばれて加奈子は驚いた。
 大庭加奈子はフルネームで呼ばれるのが嫌いだった。敬称をきちんと「サン」と発音してくれればめりはりがつくから問題はそれほどないけれど、呼び出しのときなどは「さーん」と語尾を延ばすものだから間延びして「(大馬鹿な子)さーん」と聞こえてしまような気がするからだ。だから自己紹介などのときなども気。を使って、できる限り「大庭です」とか「加奈子と申します」で間に合わせるようにしていた。
 あの優しかった父が何故自分にこんな名前をつけたのか、加奈子には理解できなかった。その理由がどうしても知りたくて一度だけ父を問い詰めたことがある。
父は淋しそうな目で加奈子を見つめた。
「とうとうその質問を受けるときが来たんだね。お前も成長したものだ」
 父はそういうと目を閉じて少しの間考える素振りを見せたが、やがて優しい眼差しに戻って加奈子に微笑んだ。
「人間の一生のうちにはさまざまな困難が待ち受けている。どんな障害に突き当たっても自分の信念を曲げず、強く生きていって欲しい。そう思ってつけた名前なんだよ」
 そう説明した後、父が一瞬視線を左右に泳がせた。嘘をついたときに父が見せる癖だった。加奈子はそれを見逃さなかった。
「ほんとに?」加奈子は茶目っ気たっぷりにいった「そんなふうに聞こえるなんて気がつかなかっただけじゃないの?」
 父は黙って書斎に閉じ籠りその日一日姿を見せなかった。

 そんなことを思い出しながら第五審査室の前まで来たとき、向こうからドアが開いて看護師のような白衣を来た女性が顔を出した。
「オオバカナコさん? お入りください」
 答えも聞かずに女性はドアを大きく開いて加奈子を促した。
 促されるまま部屋に入ると、法衣のような衣装を身にまとった肥満気味の初老の男がデスクの向こうから加奈子に穏やかな微笑みを投げた。
「カードを」
 加奈子がカードを手渡すと、男は表情の割にはぶっきらぼうに「おかけください」
と目の前の丸椅子を目で示した
 加奈子は勧められるまま、デスクの前に置かれた小さな椅子に腰掛けた。
「オオバカナコさんですね。記憶は戻りましたね」
 確かに先ほどまでは完全に闇の中にあった父の死以降の記憶が、まだ完全にではないが形を成し始めているようだった。
 デスクの上に置いたファイルを開いて、審査官は書類と加奈子を交互に見比べた。
「もうお気付きかもしれないが、あなたは川向こうの世界においては死亡いたしました。三途の川のフェリーボートに乗って川を渡り、かつて黄泉の国と呼ばれたヨミランドの入国管理局に到着したところです」
 審査官は加奈子が記憶を辿ろうとするのを遮るように説明を始めた。
「ヨミランド。……ですか」
「さよう。ここはヨミランドの入国管理局です」審査官は答えるとファイルのポケットから書類を抜き出し、加奈子の前に広げた。書類は転入届と題されている。
「この書類に記名押印をお願いします。入国審査は既に終了していますので、手続きはそれで終了です」
「印鑑は持ち合わせていないのですけれど」
「拇印で結構です。記名はフルネームでお願いします」
 審査官は転入届の加奈子が記名押印しなければならない部分を鉛筆で丸く囲った。
 加奈子が言われるままに記名して拇印を押すと審査官はざっと目を通してから「はい、結構です。向こうのドアを出ますと更衣室がありますので、そこで服を着替えてから支給係の窓口に行き、転入支度金を受け取ってください。これが証明書です」といって、入国審査証明と刻印されたカードと『ヨミランドの暮らし』と題された小冊子を加奈子に手渡した。
「あの」何がなんだか分からず、さらに質問しようとすると、審査官は面倒くさそうな顔をして加奈子を見た。
「まだ何か?」
「着替えも何も持っていないのですけど」
「用意してありますよ。あとは向こうにも係員がおりますので、分からないことがあればそちらで聞いてください。はい、お疲れ様でした」
 審査官は面倒くさそうにいって書類に目を戻し、大きな音を立てて承認印をスタンプすると、加奈子を案内してきた女性に「次の人を」と指示した。
「どの世界でもお役所仕事は不親切……」
 鼻歌でも歌うように呟きながら加奈子は審査官に示されたドアをくぐった。

       3
 加奈子はロッカールームに併設のシャワールームで体を流しながら記憶の続きを辿った。記憶は完全に戻っていた。しかしそれは失ったままのほうが良かったと思わせるほど、加奈子にとって辛いものだった。
 加奈子の頬を涙が伝い、熱いシャワーがそれを流した。けれども加奈子の涙はそれほど長くは続かなかった。悲しみの後を追うように込み上げてきたものは強い怒りだった。怒りが涙に打ち勝ったのである。
 こんな所でいつまで泣いていたって埒が明かない。加奈子は自分に言い聞かせてシャワールームを出た。

 窓口で支度金を受け取り入国管理局のロビーに出る。フェリーに乗っているときからつい先ほどまで身に着けていた検査着のような衣装があまりにも軽いものだったので、更衣室で着替えたスカイブルーのツナギ風の仮着が妙に重く感じられる。スタイル的にはあまりいただけない。それでも裾や前あわせに気を使わずにすむだけでもありがたかった。
 ロビーは明るい光に満ち溢れていた。片面がガラス張りになっていて、いくつもの椅子とテーブルが置かれている。加奈子は窓際の椅子に腰を下ろした。窓の外には石畳の歩道が続き、その向こう側は車道になっている。加奈子がつい何日か前まで暮らしていた世界となんら変わることなく、人々や車が行き交っている。
 加奈子は審査官から手渡された小冊子のページを開いた。それは『向こうの世界とヨミランド』とサブタイトルのついた手引書だった。三途の川の向こうにある世界とヨミランドとの関係に簡単に触れた上で、今から始まるヨミランドでの生活についてまとめてあるらしい。しかし長旅の疲れのせいか、とても今すぐ読んでみようという気持ちにはなれなかった。加奈子は開いたばかりの小冊子を閉じた。

「全部済んだ?」
 ほっとするような明るい声に顔を上げると、フェリーで知り合った男がオレンジジュースを満たしたグラスを二つ持って立っている。
 ジュースをひとつ加奈子に渡し「いいかな?ここに座って」と人懐っこい笑みを浮かべて、男は加奈子の向かい側の椅子に目を遣った。
「どうぞ」加奈子は頷いた。
「うすうす気がついてはいたんだけれどね」
 男はジュースで唇を少し湿らせるようにした。
「え?」
「自分が死んだってことだよ。フェリーの中でも、いや、今だって生きているときとちっとも変わらないじゃない。でも君が教えてくれた川の名前で、ああやっぱりそうかと思った」
「私も同じようなもの。あ、大庭加奈子って言います」
加奈子は名乗った。
「柚木高弘です。よろしく」男は爽やかな白い歯を見せた。
「まだお若いですよね。なぜ?」
「若くもないさ。もう三十六才だよ。こっちへ来た原因は事故。オートバイで山の中を走っていたとき目の前に狐が飛び出してきて。よけ切れなかった。情けない話だよね」
「私こそ格好が悪い最期でした。階段から転げ落ちたんです。足を踏み外して」
 加奈子はすこし笑って見せたが、その原因となったことを思うと笑顔はたちまち消えてしまった。
「嫌な思い出があるようだね」柚木高弘は加奈子の心の中を見透かしたように「できることなら早く忘れたほうがいい」と忠告した。
「これからどうすればいいのかしら?」
 加奈子は話題を変えるように柚木に尋ねた。
「まったくこの入管ときたら不親切で、先々どうすれば良いのか説明不足もいいところだよね。どこのお役所も一緒かな?僕もどうしたら良いものか困って兎に角ここにじっとしていても埒が明かないからちょっと外へ出てみたんだ。そうしたら簡単に呑み込めた。このあたりはヨミランドの特別区のような所らしい」
「特別区?ですか」
「そう。ここを出て道路を渡るとバスターミナルがあって、ヨミランド入口行きのバスが出ています。ほら、あそこから」
 柚木高弘は窓の外、斜め前方を指差した。確かにバスターミナルのような広場が見える。
「歩いてもすぐそこだからターミナルまで行ってみたんだ。ターミナルビルの中に大きなみやげ物店が入っていてね、そこの店員がいろいろ教えてくれた」
 柚木の説明によるとこの入国管理局を含めた周辺地域はヨミランドの中枢機関である政治局が直接管理する特別直轄区で、不正出入国を監視するために設けられた地域だという。そしてヨミランド入口という所がバスで一時間ばかり行った所にあり、加奈子のように入国審査証明を持ってさえいればそこにあるゲートから正式に入国できるということだった。
 本来のヨミランドに入国すると向こうには居住する家なども既に用意されていて、先にこちらの世界にきた人たちが温かく迎えてくれるというのである。
「それじゃ、父も。……母も?」
「きっと楽しみに待っていてくれますよ」
 加奈子は涙がこみ上げるのを覚えた。あの優しかった父や、今はもう顔も思い出せない母に再び会うことができる。加奈子は自分が一瞬にして子供に返ったような気持ちになった。
「それからもうひとつ」柚木は続けた。
「不正出入国の監視のほかにこの特別区にはもうひとつ存在目的というか、意味があるようなんだ。公にされてはいないらしいけれどね」
「………」
「今まで暮らしていた世界で関りあった人に、どうしても言い残したいことがあれば、それに対処する機関があるようなんだ。なんでもヨミランド本国に入ってしまうと、ここには戻ることができないらしいから、それを行う最後のチャンスということらしいよ」
「川を渡ってメッセージを伝えに行くということ?」
 加奈子はなぜかどきりとした。
「そうじゃないでしょう。良く知らないけれど、何か装置があるんじゃないかなあ」
「装置ですか……」
 加奈子はヨミランドに入る前に少し調べてみようと思った。柚木は遠まわしに言ったが、向こうの人間にとっては相当気味の悪いことに違いない。恨みを抱いて死んだ女の怨念が如何ばかりのものであるかを思い知らせてやることができるかもしれない。シャワーで流したはずの最後のときの様子が舞い戻ってきた。
「面白そうですね。私、これからちょっと調べてみようかしら。柚木さんはどうなさるのですか?」加奈子は勤めて冷静に、話しを打ち切るようにいった。
「すぐバスに乗るよ。病気で先に逝ってしまった家内が、首を長くして待っていると思うから」と、柚木高弘はうれしそうに目を細めた。
 加奈子と柚木は立ち上がると連れ立って入国管理局を出た。明るい日差しを浴びながらバスターミナルまで歩き、ちょうどやってきたヨミランド入口行きのバスの前でふたりは握手を交わした。
「向こうでまた会いましょう」柚木はそういってバスに乗り込んだ。
 柚木を乗せたバスは丘陵沿いの道を遠ざかっていった。
、小さくなっていくバスから目を戻したとき、加奈子は道路に沿って立てられた大きな看板に気がついた。
 看板は青空に向かって聳える円塔形の建物の写真を中央に置いたもので、赤一色の太字で『学校法人・ヨミランド心霊アカデミー』と印刷されている。どうやらこの丘陵の上にあるらしかった。加奈子は興味を持ったがそれよりも先にまずフェリーあの可愛らしいウェイトレスから聞いたネモフィラとかいう名前のブティックに行ってみるほうが先だと決心した。
 
  第三章 異世界
       1
 十路線ほどのプラットフォームの向こうにアーケードのかかった商店街が見える。ラウンジでウェイトレスが言っていた中央商店街なのだろうか?
 大庭加奈子は柚木を見送ってから商店街に足を踏み入れた。雑貨屋や青果店、スーパーマーケット、書店に床屋、レストラン、それに小さな映画館までが軒を並べている。少しレトロな趣の商店街である。
『ネモフィラ』は探すまでもなく、すぐに見つかった。ショウウィンドーに洒落たカジュアルウェアーを着せたマネキンを飾る小さなブティックの前で足を止め、店の名を見るとそこが目指すネモフィラであった。
 加奈子は一刻も早く私服に着替えて女性らしい姿に戻りたかった。入国管理局で着替えた衣装が気に入らなかったし、それ以前にあのフェリーに乗ってきた百名ほどの船客全てが皆同じ格好で街を歩いていることを思えばぞっとする。まるで集団脱獄をした囚人の群れ
ではないか。
 それともうひとつ加奈子には確かめたいことがあった。
 管理局で支給を受けた支度金は三十万価だった。キャッシュで五万価、そして既に準備されていた加奈子の口座に二十五万価が振り込まれた。口座に振り込まれた分はいつでもATMで引き出せるようになっている。『価』という通貨単位が慣れ親しんだ『円』と比べてどの程度のものなのか加奈子には分からなかった。三十万価が果たして大金なのかそうではないのかを確認しなければならない。その方法として最も手っ取り早いのは買い物をすることだろう。つまり各種商品に付けられた価格から物価を判断することができるに違いないと加奈子は考えたのだった。どちらにしてもこの店で私服に着替えることができ、通貨の簡単な価値判断もでき、その上羽鳥に対する復讐のについて何らかの情報まで得る事が可能だとすれば、まさに一石二鳥、いや一石三鳥ではないか。
 そんな都合の良いことを考えながら、加奈子はブティック・ネモフィラのドアを開けた

 店内に入ると加奈子と同世代に見える店員が近寄ってきた。フェリーでウェイトレスをしていた大きな瞳の少女と何処となく似ているような気がする。
「フェニックスでお着きのお客様ですか?」
 少女のような屈託のない笑顔がまぶしいくらいだった。
「分かるわよねぇ、この格好ですものね」
 店員が親しげなので加奈子もつい気を許し、笑顔を返した。
「通貨価値がどの程度なのかお知りになりたいのでしょう?」
 店員は気持ちを見透かしたように含み笑いを見せて加奈子に視線を向けた。
 加奈子は言い当てられて一瞬警戒したけれど、すぐに笑顔に戻った。店員が悪意を持って云ったわけではないだろうし、疑ってかかる必要もないだろう。
「その通りよ」と加奈子は認めた
 店員は壁際の棚から淡いピンク色のブラウスを数点持ってくると「このブラウスが四千五百価。向こうにぶら下がっているブルージーンズが八千価くらいからね。それからあちらのショーケースの上に開いているニットのセーターが五千価のサービス価格。それほど変わらないでしょう、川向こうの世界と」
「そうね、同じようなものね。でもすごいわね。客の気持ちが分かるなんて」
「いいえ。実はフェリーに乗っている妹から連絡があったのよ。好奇心の強そうなお客様がいくかもしれないって」
 店員は笑顔で種明かしをした。
「ああ、あの可愛らしいウェイトレスさんね。道理で、似ていると思った」
 なかなか商売上手だなと加奈子は感心した。加奈子が知りたいことを説明しながら、同時に購入したいと思っているものを揃えている。こんな小さなブティックの店員でさえこれだけネットワークを張っているということは、ヨミランドでも活発な経済活動が繰り広げられているのだろう。
「ご試着なさいます?」
「ありがとう。サイズが合うかどうか気になるから…/…」
 店員に案内され試着室に入った加奈子は「ついでに下着も三組くらいいただこうかしら」と、中から店員に声をかけた。
 加奈子は店の中で着替えを済ませると、ほかにウェストバッグと小銭入れのついた財布も購入した。三万五千価程度の出費だった。
「ありがとうございました」という声に送られて店から外に出かけた所で加奈子は、ふと思いついたように店員を振り返って「ちょっと訊きたいんだけれど」と、最後の話題に入った。
「この近くに前世の恨みを晴らしてくれるところが……」
 加奈子がそこまで言いかけると店員は驚いて目を見開き、人差し指を唇に当て「シーッ」と加奈子を制した。
 店員は何がなんだか分からずおろおろする加奈子に「だめですよ。そんなこと大きな声で言っちゃ」と耳打ちした。
「なぜ?」
「まったくミクから連絡あったお客様はいつも手のかかるかたばかりネ」
 店員はそういって少し笑い「警視局の許可なく向こうの世界と接触することは法律で硬く禁止されているの。まあ勝手に行こうとしても無理だろうけど.……。でもね何かしようとしただけで警視局に知られたら逮捕されちゃいますよ」
「ごめんなさい。何も知らないものだから」加奈子は素直に詫びた。
 店員は微笑んで頭りを振った。
「予測はしていたのよ。あなたが何かを探りに着たってことは……。通貨価値のことなんかじゃなくて……」
「ミクちゃんていうのね。フェリーに乗ってたあの可愛らしい妹さん。でもあの子にも何も言っていないわ」
「あの子には霊感みたいなものがあるの。胸の中に強い怨念を抱えた、好奇心の強そうなお客様が行くだろうって連絡があったわ。当りね」ミキは悪戯っぽく笑って加奈子を見つめた。
「で、私がお店に入った瞬間に、それが私だと?」
 店員はこくりと頷き「姉妹ですもの」と、とぼけて見せそのあとで「私、ミキって云うの。よろしくね」と右手を差し出した。加奈子はその小さな掌を強く握った。
「と云うことはミキさん、どうしたらいいか知っているってことね」
「入って」
 ミキは加奈子を再度店に引き入れ、後ろ手にドアを閉めると休憩中の札を出した。
 売り場の奥の小部屋を仕切るぶ厚いカーテンを開けミキは加奈子を中に誘った。小部屋の中にはアンティークな丸テーブルを挟んで籐の肱掛椅子が二脚置いてある。加奈子に腰かけるよう勧め「お茶でも入れるわ」と店の片隅の給湯所で湯を沸かし始めた。
 やがてミキは湯気の立つシナモンティーを運んできてテーブルの上に置いた。ひとくち口に含むと癒されるようなシナモンの香りが小部屋に満ちた。

「いろいろと面倒な決まりがあるの」ミキは話し始めた。「向こうの世界に怨念を残してきたって云うことは、だれかに復讐したいってことよね」
 加奈子はこくりと首を縦に振った。
「それをするには資格が必要なのよ。もし無資格で行動に移したならば犯罪になってしまうの。それも相当重い罪のね」
「資格……」
「そう。それも公式には認められない闇の資格みたいな……実は私もその資格を持っているんだけど」
「まあ、本当に……それでどうすれば?」
「ちょっと待って」急ぐ加奈子を制してミキは「学校に入ってライセンスを取得すればいいわけなんだけれど……」
「心霊アカデミー?」
 加奈子は道路沿いにあったポスターを思い出した。
「何で知ってるの?」ミキのほうが今度は驚いた。
「ポスターがあったもの。……そうか、そこへ行けばいいんだ」と加奈子が膝を打つとミキは笑った。[ポスターを見たわけね、でも、そう単純じゃないわ」
「ちがうの」
「法律で禁止されてるって云ったでしょ。それを犯すような学校が公に存在するわけがないじゃないの。正面から乗り込んだら、あの心霊アカデミーはただヨミランドの歴史を教えるだけの学校って云うことになるんだ。裏のルートがあるんだよ」
「裏のルートって?」
「時間はたっぷりあるよ。教えてあげるからよく聞いて」
 いちいち口を挟むなとでも言いたげに前置きしてミキは説明を続けた。
「……期間的に見ても普通ならライセンス取得には数ヶ月かかるの。学費だって安くはないし、収入もないわけだから、そのうち底をつくでしょ。そりゃあアルバイトでもして工面することはできるさ。でもねこの地区で働き始めたなら、その時点で本国への入国権が永久抹消されてしまうの。折角本国に素晴しい幸せが用意されていて、あなたが来るのを心待ちにしている人たちがいたとしても、二度と会えないことになってしまうってわけ。それに、もし運よくあっという間にライセンスが取れて目的を達成できたとしても、本国に入る時にはこの地での記憶がすべて消去されてしまうのよ。つまりライセンスも学校で学んだことも総て無効。……あなたが怨念を晴らすことができたとしても、そのことさえ心には残らないことになる。ね、無駄なことだと思わない?」
 ミキは一気に離し終えて加奈子の様子を窺った。
 心霊行為によって私怨を晴らそうとすることの無意味さを伝え、諦めて本国への道を選択させること。これがケアマネージャーであるミキがしなくてはならない第一の仕事だった。復讐心の弱い志願者を学校に対して推薦することはできないのだ。それでもなお喰らいついてくるなら……後はミキの判断によっていわゆる裏のルートを通し、真っ当な幽霊候補生として推薦するだけである。そしてミキは加奈子の中にこれまでにない強い適性を感じ取っていたのである。
 沈黙の数秒が過ぎた
「怨みを晴らすのにライセンスが必要なの?」加奈子は消え入りそうに云ってため息をついた。
「そりゃそうよ。フェニックス丸で上陸した人たちは皆心の中に何かを持ってこっちにやってきたわけだから、そんな連中が好き勝手に向こうと行き来して殺し合いなんか始めてごらんよ。秩序も何もなくなってしまうじゃない」
 加奈子が突然弱気になったように感じてミキは少しい苛立たしげな声を出した。
「秩序が乱れるんですか……」
「そうだろうさ」ミキはため息をひとつついて「向こうの世界に行って誰かを呪い殺すっていうことは、何も後先考えないで実行したなら、それは呪い殺したってことじゃなく単に向こう側からヨミランドに連れてきたってことになるわけじゃない……向こうでのいざこざを今度はこっちで始めようとしているだけさ。これじゃ社会秩序も乱れると思わない?」
「乱れるでしょうね」加奈子はあっさりと認めた。
「だから最近はその学校の存在に気がついたとしても苦労のしがいがないといって。見向きもしないでヨミランド本国へむかうほうが主流になってるわ」
「でも社会秩序を乱さないで恨みを晴らすことだってできるわけでしょ」
「それを教える学校だよ」ミキは笑った。加奈子の瞳に再び火が灯るのを見たからだった。
「どうしても試してみたいの。お願い。教えて」
加奈子はミキの瞳を見つめてすがりつくように云った。ミキも加奈子の意志が変わらないことを感じ取って、断念するように説得するのを諦めてため息をひとつついた。
「よほど口惜しいことがあったようね。許せないことが……。わかった。それじゃ仲介してくれる所を教えるから、今夜にでも行ってみて。私から連絡を入れておくから」
 ミキはレジカウンターからメモ用紙を持ってきて簡単な地図を描いた。そして目的地と思われる四角形に丸印をつけ、『ウサン』と書き込んだ。
「このウサンというバーに行って、ただ黙って飲んでいて。向こうから接触して来るから、」
 ミキは少し寂しそうに微笑んでひとこと「がんばってね」と付け加えた。


       2
 ネモフィラから出て加奈子はすぐ近くのコンビニエンス・ストアに立ち寄った。
 時刻が分からなければ何かと不便なので、安物のデジタル腕時計を買うためだった。すぐにビニール袋に入れられた幾種類かのデジタル表示式腕時計が並べられているのを加奈子は見つけて、一番大きな文字盤のものを購入した。
 支払いを済ませて店を出ようとしたとき、一角に銀行ATMが備え付けられていることに加奈子は気付いた。ネモフィラでの買い物で財布の現金が少なくなっていたから、加奈子はATMを操作して現金を五万価引き出した。
 次に加奈子はホテルを探した。船旅の疲れもまだ少しあったし、これからどのような展開になるのか予測もつかないので、休めるうちに休んでおこうと考えたのだった。幸いにもコンビニからほど近い所にホテルは見つかった。直接フロントに行って、予約はしていないけれど泊まることができるかどうかを尋ねると、ツィンルームのシングルユーズということで部屋が取れた。シティーホテルクラスの小奇麗なホテルだった。
 カードキーを使ってドアを開け部屋に入った。カーテンが大きく開けられており、眩しいほどの陽の光に満ち溢れている。コンビニで買った時計を見るとまだ午後二時を回ったばかりだった。加奈子は窓際に立って外を眺めた。十階の大きな窓から眺めるとすぐ下をひっきりなしに車の行き交う幹線道路が横切り、道路に面してホテルのちょうど向かい側に入国管理局が見える。入国管理局の向こう側には加奈子が降り立った埠頭と、三途の川がどこまでも広がっていた。埠頭には加奈子が乗せられてきたフェニックス丸が優雅な船体を見せて今も停泊していた。

 加奈子はバスタブに湯を満たすとゆったりと体を沈めた。体の中心から力が抜けていくような心地よさだった。
 ゆっくりと湯に浸かり人心地ついたところで、加奈子は備え付けのバスローブを身にまとってベッドルームに戻った。ベッドの端にちょこんと腰を下ろしてふと横を見ると、大きなドレッサーが目に入った。加奈子はドレッサーの大きな鏡の前に立つとバスローブを脱いだ。
 透き通るように白い裸身が加奈子に向かって立っていた。肩を隠すまで長く伸ばした艶やかな黒髪。百六十五センチというまずまずの身長。豊満とはいえないまでもバランスの取れた胸。細くくびれたウェスト。長い脚。
 まるでナルシストにでもなったように、加奈子は鏡の中から自分を見つめる加奈子自身を見つめた。しかしこの肉体は心も含めてそれがあるべきところにはもう存在しない。ほんの二十数年という短い歳月を生きただけで三途の川を渡ってしまったのだ。羽鳥浩一郎というたった一人の見かけばかりのつまらない男に騙され、陵辱され、暴力を振るわれ、そして…捨てられたのである。あまりにも自分が世間知らずだったのだろう。
 加奈子は鏡の中から自分を見つめる加奈子の目がきらりと光ったような気がした。その瞬間、加奈子は自分の体の中心を貫いて電流のような衝撃が走るのを感じた。鮮やかに蘇った忌まわしいエンディングが、加奈子に力を与えようとしているに違いなかった。

 加奈子は大好きだった父の突然の死によるショックからなかなか立ち直ることができなかった。いつ何処にいても優しかった父の笑顔が頭の中に浮かんだ。そして今にもすぐそこにあるドアが開いて、「ただいま」と白い歯を見せる父の姿が現れるような幻想に取り付かれたのである。会社の同僚も始めのうちはなにかと気を遣ってくれたが、二ヶ月以上の日が過ぎ、カレンダーが最後の一枚になってもまだ立ち直ることができずにいる加奈子をだんだん敬遠するようになっていった。加奈子もそのことには気がついていたし、支えてくれていた人たちに迷惑をかけるのも本意ではなかったから思い切って会社を辞めた。父が残した家や財産が相続の手続きをした後も相当残ったので、何もしなくても暮らしに困ることはなかった。少し気持ちの整理がついたら何か仕事を見つけてまた頑張ればいい。加奈子は自分にそう言い聞かせて家に閉じこもった。だがそれは悲しみからの逃避に他ならず、加奈子の心は日に日に暗く沈んでいくばかりだった。
 そんな時加奈子の前に現れたのが羽鳥浩一郎という一人の青年だった。
 羽鳥浩一郎は父が経営していた大庭産業の総務部に勤務する青年だった。大庭慶介の葬儀のときも身寄りのほとんどいない加奈子の立場がみすぼらしくならないように、あれこれと気を配ってくれていたのを加奈子は覚えていた。
「加奈子さんは堂々と振舞ってください。加奈子さんが惨めに見えては、亡くなった社長に恥をかかせることになります。それは会社の恥でもあるわけですからね。私に全て任せてください」
 葬儀のとき、羽鳥浩一郎は加奈子を安心させるように笑顔を見せて力強くそういった。
 上司から指示されて動いてくれているのだろうと加奈子は思ったが、羽鳥の行動は頼もしく、加奈子を勇気づけるものだった。

 羽鳥浩一郎が淋しい一人暮らしを続ける加奈子を訪ねてきたのは、十二月に入って最初の日曜日のことだった。チャイムの音に気がついてインターホンをとると「羽鳥と申しますが」と少し改まった声が聞こえた。
「あ、羽鳥さん」
 加奈子はチェーンロックをはずし、羽鳥浩一郎を招きいれた。
「その節はいろいろありがとうございました」
 コーヒーを注ぎながら加奈子は葬儀のときの礼を言った。
「とんでもない。社長には本当にお世話になりっぱなしでした。あれくらいのことしかできなくて、自分が情けない」浩一郎は唇をかんだ。
「いいえ、本当に助かりました。わたし何も知らないものですから失礼があってはと、そればかり気にしていたんですのよ。羽鳥さんのお蔭で滞りなく送り出すことができました」
 加奈子は羽鳥の目を見つめた。
「今日突然お伺いしましたのは」羽鳥は照れくさそうに視線を逸らし、持ってきた鞄から簡単に製本した資料を取り出すと加奈子の前に置いた。
「喪中葉書の会社関係の送り先リストをお持ちしました。リストにあります宛先には送り終えました。加奈子さんのほうで、もしリスト以外に送らなければならないところが思い当たるようでしたら、一週間の猶予がありますので、わたし宛に連絡してください」
 加奈子は首を横に振った。「いいえ、全て羽鳥さんにお任せしますわ。家では父も仕事のことはあまり話題にしたがりませんでしたし、親類や知人にはもう出し終えましたので」
「よろしいですか?ではそうさせていただきます」
 浩一郎は加奈子が入れてくれたコーヒーをひと口啜り美味そうに笑顔を見せた。
「ところで加奈子さん。なんだか少しやつれたように見えますよ。まだ落ち着きませんか?」
「ええ」加奈子は小さく頷いた「なんだか今にも父がドアを開けて帰ってくるように思えて…。だめですね、いつまでもうじうじして」
「本当にいけませんね、社長もきっと悲しんでいるに違いありません」羽鳥はたしなめるように加奈子に言って「少し気晴らしに外に出られたほうが良いと思いますよ」
「分かっているんです、落ち込んじゃいけないって事は。でもあんまり突然のことだったものだから」
 加奈子の頬を涙が伝い落ちた。
 羽鳥はそれに気付かない風を装って、何かを考えるように目を上に向けた。
「そうだ、加奈子さん。今晩僕とデートしていただけませんか?」
 羽鳥はタイミングを見計らって加奈子に視線を戻し、楽しそうな声で尋ねた。
「え?」加奈子は突然の誘いに少し驚いた。
 父以外の男性から誘いを受けたのは加奈子にとって初めてのことだった。
「だめ、ですか?やっぱり。僕の友人が最近始めた店が新橋にあるんです。一度顔を出さなくちゃと思っていたんですけど、一緒に行っていただけたら鼻が高いんだけど。だめですよね。ごめんなさい」
 羽鳥は加奈子が言葉に詰まるのを見て、そういっておどけて見せた。
 加奈子は羽鳥の様子を見て、「この人は本当に私のことを気にかけてくれている。優しい人なんだ」と思った。するとなぜか自分の胸の中にこれまで経験したことのない暖かいものが芽生えるのを感じたのだった。
「連れて行ってください」加奈子はポツリとつぶやくようにいって羽鳥を見つめた。

 加奈子の胸に点った小さな恋の炎は瞬く間に燃え上がった。今自分に何が起っているのかということさえ、冷静に判断することができない有様になった。
 男性というものに対する免疫がまったくなかったためといえるだろう。あれだけ心を痛めた父の姿も影かたちなくどこかへ消え去り、ただ羽鳥浩一郎のことだけが加奈子の頭の中に満ち溢れたのである。加奈子はこの幸せな日々がいつまでも続くものと信じて疑わなかった。きっと近いうちに浩一郎の口から結婚の二文字が囁かれる。その日が一日も早く来ることを楽しみに、羽鳥が訪ねてくるのを待つ日々が続いた。加奈子は目くるめく官能の日々に溺れ、ますます自分を失っていったのである。
 しかし加奈子が待ち焦がれる幸せの瞬間は、年が変わり新しい緑が芽吹くときになっても決して訪れようとはしなかった。それどころか羽鳥の振舞いは加奈子が夢見るものとはまったく逆の方向に向かい始めた。ことあるごとに金を無心し、気に入らないことがあれば暴力を振るうようになった。やがて加奈子を訪ねてくることも少なくなり、携帯も繋がらなくなってしまった。
 あの優しかった羽鳥浩一郎が何故そうなってしまったのか、加奈子には分からなかった。自分が羽鳥の気に障ることを何かしたのだろうか? 何でも羽鳥の言うことに従ってきたつもりなのに一体何が悪かったのだろう。加奈子の中の世界には加奈子と羽鳥浩一郎の二人しか住んでいない。羽鳥は絶対的存在だから悪いのは自分なのだ。加奈子の無垢な心はいつもそんな答えを導き出してしまうのだった。

 加奈子が真相を知ったのはもう桜の季節になろうかという頃だった。羽鳥が遠ざかっていくわけをどうしても知りたいと思った加奈子は、初めてのデートのときに連れて行ってもらった、羽鳥の友達が営むリトル・ビットというショットバーに足を運んだ。名前は忘れてしまったがあのときの様子では本当に仲の良い友達同士らしかったから、あのマスターなら何か知っているかもしれないと思ったのである。何ものどを通らぬ日々が、そして眠られぬ夜がここ何日も続いていた。ゆらゆらとふらつきながら雑居ビルの階段を上る憔悴しきった加奈子の姿は、幽鬼を感じさせるものであった。わずか三階までをずいぶん時間をかけて上ったように加奈子は思った。
 階段を上り詰めたその正面にリトル・ビットのドアがあった。
 おそるおそるドアを開け一歩ジャズの調べに満ちた仄暗い店内に入ると、カウンターの向こうに立つマスターと目が合った。加奈子は、「いらっしゃい」と挨拶しながらもマスターが一瞬困惑の表情を浮かべて店の奥に目配せするのを見逃さなかった。加奈子はカウンターの奥に目を向けた。そこには羽鳥浩一郎が加奈子の知らない女と寄り添うようにしている姿があった。羽鳥は加奈子に気がついて、にやりと卑屈な笑みを見せた。ただならぬその気配を羽鳥に寄り添う女も察したようだった。
「浩ちゃんの言ってた馬鹿な女って、あの子?」
 女はわざと加奈子にも聞こえるような声で言うと楽しそうに声を出して笑った。
 加奈子はすがるような視線を羽鳥に向けた。しかし驚いたことに羽鳥の口元にも加奈子に対して嘲笑うような卑屈な笑みが浮かんだのだった。
 加奈子にも全てが呑み込めた。ただ遊ばれていただけだったのだ。羽鳥浩一郎にとって、自分は世間知らずの金持ちのお嬢さんでしかなかったのだ。加奈子の目からとめどなく涙が溢れ出した。
 加奈子は踵を返し、店から飛び出した。そして下への階段に足を踏み出したとき、その足がもつれた。
 加奈子の涙は羽鳥の横で笑う軽薄そうな女に対する激しい嫉妬となり、階段を転がり落ちる痛みは嫉妬を今まで感じたこともないような強い怨みへと変化させた。
「許さない。羽鳥浩一郎も、あの女も…」
 そして、暗闇と虚無が大庭加奈子を包み込んだ。
 これが加奈子の死の真相だった。世間知らずの自分が呼び寄せた不幸。そういってしまえばそれまでだが、加奈子の真心を弄んだ羽鳥だけは許せない。どんな手段をとってでも、あの男に復讐してやる。加奈子はそう決心した。

 加奈子はソファーに腰掛けテレビを点けた。ニュースキャスターが生真面目そうな表情で自然災害のニュースを報じている。
「…国道一号線、サイの河原地区で大規模な土石流が発生し、一部の交通網が混乱しています。運行を見合わせているのがヨミランド入口行きのバス路線全線…」
「柚木さんは大丈夫だったかしら」そんな思いがふと加奈子の脳裏を横切ったが、別に死傷者が出ていると報じているわけではないので心配することもないだろう。きっと今頃はヨミランドの新居で奥様との再会を喜んでいるのではないかしら。加奈子はバスに乗り込んでいく柚木の照れたような笑顔を思い出した。もう向こうの世界には何の未練もないのだろう。まるで子供のような屈託のない笑顔だった。加奈子はヨミランドで柚木を待つ女性が羨ましかった。ほんの一瞬でもそんなことが頭を過ったのは、会ったこともない柚木の奥様に対する加奈子の嫉妬なのかもしれなかった。自分にも柚木のように何の打算もないあのような笑顔がいつか戻ってくるのだろうか? それを思うと羽鳥浩一郎に対する憎悪がますます膨れ上がっていった。

       3
 時計を見ると午後六時を回っている。
 加奈子はホテルに入ったときと同じジーンズ姿で部屋を出た。フェリーで朝食をとってから何も食べていないことを思い出すと、急に空腹を感じた。どこかで食事をしてからウサンに行ってみることにしようかなどとぼんやり考えていると、エレベーターのドアが開いた、
 ホテルロビーは大勢の人々が騒然としていた。何があったのだろうと目を凝らすと、入国管理局で支給された囚人複みたいないでたちの人間が多数いる。先ほど見たテレビのニュースを思い出し、もしかしたらと探すと案の定その中に柚木高弘の姿があった。
「どうなさったの」
 加奈子が声をかけると柚木は驚いたように加奈子を見た。
「土砂崩れでバスが不通になってしまった。無駄足を運んでしまったよ。どうやら開通するのを待つより手はないようだ。二・三日はかかるらしい」と忌々しそうにいって渋い顔を見せた。

 ふたりがバー・ウサンの扉を開いたのは、午後八時を回っていた。
 柚木の背中を見るようにして店に入った加奈子は、まるで既に上映が始まっている映画館にでも来たような錯覚に取り付かれた。照明が極端に抑えられているためだった。
 カウンターの中でずらりと洋酒のボトルが並んだ棚を背にして三名のバーテンダーがカシャカシャと乾いた氷の音を聞かせてシェイカーを振っている。そこだけが明るい照明を浴びている。カクテルを作るパフォーマンスが売りで、カウンターの中がさしずめステージといったところなのだろう。客席はステージからこぼれる光が照らす範囲を見る限り、カウンターに沿ってスツールを並べた席しかないようだ。
 加奈子と柚木が店に入ったときカウンターには三組のカップルがグラスを傾けていた。二人が案内されてカウンター奥の席に着いてもさして興味を持った風もなく、ちらりと視線を向けただけですぐそれぞれの世界に戻っていった。
 チェックのシャツにブラウンレッドのベスト、そして黒の蝶ネクタイを着けた背の高いバーテンダーが加奈子と柚木の前にコースターを置いた。
「いらっしゃいませ。何をお作りしましょう?」
 人懐っこい笑顔をみせて若いバーテンは加奈子と柚木を交互に見た。
「僕は、ジントニックを。加奈子さんは何がいい?」
「お任せします。あまり知らないの」
 加奈子は柚木に救いを求めた。実際、カクテルのことなど何も知らなかった。
「それじゃゴールデン・エリクサーはできる?」
「もちろんです」
 バーテンダーは得意げに言ってシェイカーを手に取った。はじめにアイスピックで荒く砕いた氷をシェイカーに入れる。ドライジン、シロップ、アップルジュース、オレンジキュラソーを入れ、手際よくシェイクしてカクテルグラスに注ぎ、最後に小さなライムの葉を一枚飾って「ゴールデン・エリクサーです」と、加奈子の前に黄金色の液体を満たしたカクテルグラスを置いた。
「こんなこといっては待っていらっしゃる奥様に申し訳ないんですけれど、柚木さんがいてくれてよかったわ」
 ネモフィラのミキに紹介されたとは云っても、カクテルの名前ひとつ知らない女ひとりではなかなか入りづらい店である。柚木は加奈子にとって格好の同伴者になった。
 加奈子は柚木のジントニックができるのを待ってカクテルグラスを小さく掲げた。
「どっちにしても、僕だって夕飯も食べるわけだし、話し相手がいてくれてよかったと思っているよ」
 柚木はジントニックをひと口飲んで「だけど、まあそう長い間不通が続くわけでもないだろうから加奈子さんの計画に協力はできない。悪く思わないで欲しい」と詫びた。
 ウサンに入る前に何か少し腹に入れようと立ち寄った居酒屋で、加奈子は何故ウサンに行ってみようと思ったのかを柚木に打ち明けていた。きっと柚木はそれを気にしているのだろう。
「そんなこと気になさらないでください。私個人の問題ですから。このお店に入ることができただけでもう十分」
 加奈子はゴールデン・エリクサーのグラスを傾けた。フルーツの爽やかな甘さが加奈子の口の中一杯に膨らんだ。
「おいしい」加奈子は思わず小さな声を出した。
 店の奥で電話が鳴った。
「ちょっと失礼します」といってバーテンダーが席をはずした。
「だけど気になることがあるんだ」
 そのタイミングを見計らったように柚木が囁くようにいった。
「え?」
「加奈子さんの計画って言うのは、幽霊になって……」
「ばかなこといわないで」加奈子はきつい口調で柚木の言葉を止めた。
 ミキがいったとおりそのことが本当に法に触れることならば、迂闊なことを言って聞き咎められてはつまらないことになる。
「どんなことになってるのか判らないけど、幽霊になるつもりなんてないわ」と、取り繕うように口に出してから「でもどういうことなのかしら」
「僕がイメージしたのは、奈子君にもきっと選ぶべき選択肢が直感的に閃いたというような経験があるんじゃないかな。第六感みたいなものでさ。あのたぐいの念波きを何らかの方法で伝えるってことじゃないかと……」
「そうかしら。わたしはもっと強いもののように考えているんだけど……」
 ネモフィラのミキからある程度の予備知識を得ていたので加奈子は含みのある言い方をした、
柚木は測りかねて加奈子の目を見つめたが、ちょうどそのときバーテンダーが電話を済ませて戻って来たので話はそこまでとなった。
「お待たせしました」バーテンダーはふたりのグラスが空になっているのを見て「おかわり作りましょうか?」
と訊いた。
 加奈子は頷いて「ありがと。それじゃ同じ物を」と注文した。
 柚木は「僕はもう結構」と、グラスを手のひらで塞いで見せた。
 カクテルのおかわりを作って加奈子が飲み終えたグラスと交換すると、バーテンダーは柚木のほうに向き直って「では、まもなくお時間ですので、お嬢様ひとりだけここにお残り願います」といった。
 加奈子ひとり残して柚木はもう帰れといっているのである。これにはさすがの柚木も少し腹を立てて「彼女に何の用があるんだ」と、強い口調でいった。
「私どもにご用がおありなのはお嬢様のほうですよね」とバーテンダーは低い声で応えて加奈子の目を見つめた。
 そうか、約束どおりミキが段取りをしておいてくれたに違いない。
「柚木さん。大丈夫です。あとはわたしひとりで。今日は本当にありがとうございました」
 加奈子はいきり立つ柚木を宥めるように立ち上がりドアのほうへ柚木をエスコートした。
「本当に大丈夫かい?ひとりで」
「大丈夫です。さっきの柚木さんの話のように、もし私の早とちりだったら、わたしきっぱり諦めますから。心配なさらないで」
 加奈子はドアを開いて柚木を連れ出すと「奥様に宜しく。大切にしてあげてくださいね」と、右手を差し出した。
 柚木高弘はその手をきつく握り返し「くれぐれも無茶はしないで」とひとこといい残して加奈子に背を向けた。

   第四章 心霊学園
       1
 加奈子は柚木の姿が居酒屋の角を曲がるまで見送ってから店内に戻った。
 加奈子が再び席に着こうとすると、バーテンダーがカウンターのくぐり戸から出てきて、「こちらへ」と店の奥を指し示した。
 照明が暗いせいで気付かなかったのだが、そこには小さなドアがあった。バーテンダーがノブを回してドアを開けた。加奈子は他の客の視線が気になってちらと目を向けた。
「身内ですからご心配には及びません」
 その様子を察したバーテンダーは押し殺したような声で云うとドアの横に立ち、手のひらを上に向けて加奈子をドアの向こうへと促した。
 加奈子は背筋が寒くなるような恐ろしさを感じた。「どうぞ」と、加奈子を促すバーテンダーの声に従うよりほかないのだ。もう後戻りはできない。ブティック・ネモフィラでミキの忠告に耳も貸さず、無理に頼みこんで開いてもらった道なのである。加奈子は覚悟を決めてドアをくぐった。
「あとはおひとりで道なりに進んでください」という声が背中で聞こえ、ばたんと音を立ててドアが閉められた。
「えっ!」
 驚いた加奈子は引き返そうと後ろを振り向き、ドアのノブを握ってガチャガチャと押したり引いたりしてみたが既に鍵がかけられていてびくともしない。
 加奈子は一人ぼっちになってしまった不安が胸のうちに広っていくのを必死に抑えながら、廊下の続く先に視線を戻した。
 加奈子の前には二十数段の下り階段が続き、下り切った所から延々と長い廊下がまっすぐに伸びていた。天井に薄暗い照明灯が十メートルほどの間隔で取り付けられているだけだったので、進めといわれた先に目を遣ると明るい部分と暗い部分が段だら縞のように通路を染めている。
 加奈子は諦めたように歩き始めた。コンクリートの床を打つ靴音だけが甲高く響き渡って、まるで何かが加奈子を追ってくるかのように感じられた。得体の知れない不安に歩調が速まるのを、少しでも冷静にならなければと自分に言い聞かせて、加奈子は抑えた。
 何か考えていなければ恐怖に押しつぶされそうだったので、「この廊下はいったいどこへ繋がっているのだろう?」などと考えてみた。だが初めての土地であろ。そんなことは分かるはずもなかった。ミキが書いてくれたメモ用紙の地図だって略図だから当てにはならない。三メートル程度階段で下ったところからこの通路はまっすぐ続いている。つまり今歩いているのは地下通路、すなわちトンネルということになるのだろう。予測できるのはそれだけだ。。
 柚木がいったとおり、加奈子は幽霊になって羽鳥に復習してやることを考えていた。復讐、幽霊、怨念。言葉からはどれひとつをとっても血なまぐさいどろどろしたものを感じる。長いトンネルを抜けると地獄だった。などということにでもなるのだろうか。もしそうだとしたら、なんだか嫌だな。加奈子は少し後悔した。けれども今さら引き返すこともできないのである。余計なことを考えずに、とにかく先へ進めということか。加奈子は自分を奮い立たせようと一歩一歩に力を込めた

 十五分ぐらい進むとトンネルは行き止まりとなっていた。そして突き当たりの壁に一枚の金属製の扉があった。長い廊下を抜けて扉の前に立つとそれを待ち構えていたように扉が音もなく開いた。トンネルを抜けた先の景色が目に飛び込んでくるものと思っていた加奈子はその予想を完全に裏切られた。加奈子の目の前で静かに開いたのはエレベーターのドアだったのである。扉を開けたエレベーターは、早く中に入るよう加奈子を誘っているように見えた。
 覚悟を決めて加奈子はエレベーターに乗り込んだ。加奈子が中に入ると扉が閉まり、エレベーターは上昇を開始した。かなりの速度で昇っているのが耳の中に感じる気圧の変化でわかった。加奈子はごくりとつばを飲んだ。耳の違和感が消えた。
 三十秒ほど上昇を続けて、エレベーターは停止し扉がゆっくり開いた。
 扉が開くとその向こうにはまた廊下が続いていた。しかし今度はバー・ウサンからエレベーターまで加奈子が歩いたような長く暗い通路ではない。ほんの五~六mまっすぐに続き、その先に一枚のドアがある。廊下の左側はエレベーターを出てすぐのところに非常口と書かれたドアがあるのを除けばほかは何もない白壁だった。右側は腰くらいの高さから上を全面ガラス張りにした造りで、その境目の部分には木製の手摺が取り付けられている。その向こう側の吹き抜けのホールを見下ろす観覧窓になっている。加奈子は観覧窓まで行き、手摺に体を預けるようにして下を覗き込んだ。ガラス越しに見えたのはダンスのレッスンをするスタジオのような場所だった。夜遅い時刻であるにも拘らず、照明を弱く抑えた練習場の中でレオタード姿の若い娘たち数名が自主練習をしている。
 普通のダンススタジオと異なる所があるとすれば、レッスンをしている女の子達の表情が全体的に暗いということ。そしてダンサーたちが繰り返し叫ンでいる呪文のような一句くらいのものだった。
「魂魄この世に留まりてェ……」
 呪文にも振り付けにも際立ったメリハリがあるわけでもないので、繰り返される練習を見ていても、加奈子には上達しているのかどうかの判断はつかなかった。

       2
「さあそんなところにつっ立っていないで。見学なら明日だっていつだっていいじゃないか。早くお入りよ。じれったいねえ」
 すぐ先のドアが突然音をたてて開き、赤のジャージーを身につけた女がまくし立てるように言いながら姿を現した。それがあまりに突然だったので、ただぼんやりと練習を見ていた加奈子はびっくりしてその場にへなへなと座り込んでしまった。
「おやおや、困った幽霊志願者さんねえ。ほら、しっかりおしよ」
 見上げると髪の長い女が加奈子に手を差し伸べている。年齢は見たとこころ加奈子よりひと回りほど上だろうか。言葉使いはすこし柄が悪いけれど、その中に温かい人情とでもいうようものがあるのを加奈子は感じた。
「すみません」
 差し出された手を加奈子はすがるように握った。遠く希薄になってしまった思い出の中にいる、母の手を探り当てたような気持ちだった。
「もう大丈夫です」加奈子は立ち上がり、手を離した。
「こっちへおいで」
 女はスタッフルームと書いたプレートの付いたドアから先に立って中に入ると、振り返って加奈子を呼んだ。これからどうなっていくのかは分からなかったけれど、不思議なことに加奈子の心の中にあった不安感だけは、きれいさっぱりとなくなっていた。
 加奈子は急ぎ足で女の後を追った

 スタッフルームは小さな町役場のような造りだった。右側に長い長方形の部屋で、正面の窓を背にして管理職用の少し大きめのデスクが、少し間を空けて四台並んでいる。それぞれの前には一般職員用の事務机が六台でひと島を構成している。
 島のいちばん手前側にはカウンターが並べられ、加奈子を誘導する女が進む方向へ通路を作っている。
 カウンターの上には各島の担当する仕事を書いた表示板が置かれており、加奈子側から奥へと向かって、総務課・実務課・教務一課・教務二課となっていた。室内は明るく照明されていたが職員の姿はひとりも見当たらなかった。職務時間が終わっているからに違いない。カウンターによって仕切られた通路は教務二課のところで終わり、その向こうに階段が見える。
 女は教務二課のカウンターの五十センチほど空いた隙間から中に入った。
 スタッフルームの一番奥には天井までのパテーションで仕切られた応接室が二部屋並んでいた。
「さあ。こっちへ」
 女は窓側の部屋のドアを開けて中に入り、加奈子を呼んだ。
 加奈子が応接室に入りドアを閉めると女は窓を背にした肘掛け椅子に座っており、ガラステーブルを挟んで向かい側に置いた長椅子に腰掛けるよう加奈子に命じた。
 加奈子が言われるまま長椅子に腰掛けるのを見て、女は満足そうに微笑んだ。
 分厚いガラス板を燃せたテーブルの上には加奈子に関する数枚の書類がファイルに閉じられて置かれている。加奈子が到着するのを待ちながら目を通していたらしい。
「あんまり遅いから、もう来ないのかと心配したよ」
「ごめんなさい」
 加奈子は素直に侘びた。さっき廊下から見たスタジオにもスタッフルームにも職員らしい姿はなかった。このジャージ姿の女性は自分を待って残業になってしまったのだ。加奈子は表情を曇らせた。
「気にしなくていいよ。みんな始めはおんなじさ」
 女は少し笑ってふと思いついたように「自己紹介しとくね。サダコです。明日からのあんたの担任の先生だよ。ヨロシク」と、右手を加奈子に差し出した。
 もうすぐ腰まで届きそうなつやつやとした黒髪が握手を求めて少し俯いたとき美しいうりざね顔にふわりと乱れサダコは左手で掻き揚げるような仕種でにそれを直した。赤いジャージーを着たサダコの屈託のない笑顔につられるように、加奈子はその手を握った。
「質問したいことはいろいろあるだろうけどさ、ちょっと待って。まず私からひと通り説明させてよ。一応、担任なんだからさ」と、サダコはいって加奈子の質問を封じた。
「まずここがどういうところなのかってことから説明するとだ……」
 サダコはテーブルの上に置いたファイルを開くと、加奈子の資料とともに挟み込んでいた一枚のチラシを抜き取って、加奈子に渡した。チラシには山の上に建つ円筒状のタワーの写真が載っている。その写真の上に大きな文字で『ヨミランド心霊アカデミー』という文字が読み取れた。
「まあいってみれば、正しい幽霊を養成する学校ってところだよ」
「タダシイ?幽霊?」
「そう」
 サダコは加奈子が首を傾げる様子にしたり顔で頷くと「呪殺ってのはね、前の世界の誰かを恨みつつ死んだ人間がそいつに祟ることで、恐怖によってとり殺す報復行為なんだよ。だから社会そのものに恨みがあるならいざ知らず、呪い殺そうとする相手が不特定多数なんてのは正しい幽霊のすることじゃないのさ。まぁ、現役時代のわたしなんてのは、そういう意味じゃ正しい幽霊とはいえなかったのかもしれないね」
「そうなんですか…」
「そうさ。だから土地とか家なんかに憑いている地縛霊なんていうのは最低だよ。知ってるだろ?ジバクレイ」
「ことばだけは…」加奈子は空間に目を泳がせた。
「せっかく実技訓練の科目があるのに、受けもしないで川向こうに渡ったが最後、戻ってくる気配もないんだからね。呪い死にさせられた人たちだけがヨミランドに入ってくるもんだから、いったいどこの者なのやら、わけが分からなくなっちまうのさ」
「あの…向こうに渡るって…?」加奈子は不思議そうにサダコを見た。
「そりゃあそうさ」
 なぜそんな当たり前のことを訊くんだ? とでもいいたげな顔で「向こうに行かなけりゃ、化けて出ることもできないじゃないか」
「放送か何かで」加奈子が言いかけると、サダコは「バカお言いじゃないよ。仮にも他人様の命を奪おうというんだからね」と大声を張り上げた。
「ごめんなさい、でも、そういう意味じゃないんです。三途の川を渡っていくわけですよね。長い時間、フェリーに揺られて。それなら、やり遂げるまで帰りたくないって思うのも当然かなって…」
 加奈子の言い訳を聞いてサダコは手のひらで自分の額をぴしゃりと叩いた。 
「そうか、まだ何にも説明していなかったんだね。ごめんよ」
 サダコは椅子から腰を上げると、背中の窓際に立って
「ここにおいでよ」と、加奈子を呼んだ。
「この窓には暗視装置がついているから夜でもはっきり見えるだろ。あれが三途の川だよ」
 サダコは加奈子が窓際まで来るのを待って外を指差した。
「え、ええーっ。ウソっ」
 指差されたほうに視線を走らせた加奈子は驚いて悲鳴に近い大声を上げた。
 窓の外には加奈子が宿泊している高層ホテルと、その向こうに川の流れが展望できた。
 加奈子が大声で叫んだのは三途の川のせいだった。
 それは加奈子が知っている三途川ではなかった。加奈子の知っている三途の川は、対岸からヨミランドまで大型フェリーに乗って丸一日かかるほど悠々とした大河だったはずだ。それが今見ると、せいぜい二~三メートルの川幅しかない小川に変わっているのである。
「三途の川の流れなど、それを見るものの心のあり様を写しているだけ。前世に残してきた恨みの気持ちが強くなればなるほど、川幅などはどんどん狭くなっていく。だからもしフェリーを使わなければ向こう岸に渡ることが無理だとすれば、幽霊になって恨みを晴らすことなど端から無理なこと。だから幽霊になろうとする人はそんな自分を見極めるために、みんな歩いて河を渡るんだよ」
 サダコは説明して、加奈子にもう一度長椅子に戻るよう勧めた。
 加奈子が長椅子に腰掛けるのを見て、サダコはテーブルの上に置かれているクリスタルのシガレットケースの蓋を開けてタバコを一本取り出した。
「吸わせてもらうよ。タバコ」と断わってから火を点けると白い煙がゆらゆらと漂った。
「それにしても…」サダコは加奈子のファイルを開いて確認するように目を通し「怨念の内容がイージーだねぇ」とつぶやいた。
「だめですか?わたし、幽霊にはなれませんか?」
「いやいや、そうじゃない。恨みの強さはその原因とは無関係だよ。お皿一枚割っただけで殺された方だっていらっしゃるわけだし。飼い猫が殺されただけの恨みを持って幽霊になった子だっている。そういう怨念が必ずしも弱いものだってことにはならないのさ。個人差があるってこと」
「ですよねぇ」
加奈子はほっとして息を吐いた。
「ただ…ひとつだけいっとかなくちゃならないことがある」
「……」
「力関係は向こうもこちらも一緒だってこと。つまりあんたが一般的に考えられている程度の霊力で本懐を遂げ、向こうであんたを苦しめ続けた男を呪い殺すことに成功したとしよう。男はそのあとどうなると思う?」
「…どうなるんですか?」
「決まってるだろ。向こうで死んだわけだから、三途の川を渡ってこっちへ来ることになるわけだ。こっちであんたと再会することになるわけだよ」
 加奈子は愕然とした。そうか、不用意に呪い殺しても、またこちらの世界で暴力を振るわれることになるのか。
「その辺のこと…。つまりアフターライフに差し障りがないようにしなくちゃだめ。ただ呪い殺すのではなくって、こっちに来られないように抹殺してしまう必要があるんだよ。削除だね、云ってみれば」
「そうですよねぇ」加奈子は少し気が重くなるのを覚えた。
「この心霊アカデミーはそのための特殊霊力の修得を目的としているんだよ。……ごめんよ。ちょっと気が重くなっちまったかい?口直しに面白い怪談話の種明かしをひとつだけ教えてあげようか」
 加奈子の目を見つめると加奈子が興味一杯の表情だったのでサダコは「悪い幽霊の話しさ」と断って楽しそうに話し始めた。
「呪怨の度合いが少し足りない女がアカデミーでライセンスを取った。幽霊になって苛められた憎い男に復讐してやろうと思ったわけだ。しかし怨念が弱くて川幅がまだ五百メートルはありそうだった。普通ならここで諦めるんだけど、悪いことに女は水泳に自信があった。そこで、三途の川を泳いで渡ろうと、飛び込んだわけだ……」
「それでどうなったんですか」
 加奈子は話に引き込まれサダコに先を急がせた。
 サダコは頷いて続ける。
「三途の川の幅は十分に広くて、深かった。それでも女は根性で泳ぎぬいたんだ。だけどもうくたくたに疲れてしまってね。呪い殺したい男がいる家まではまだまだ遠くて歩いてはとても行けそうにない。そこで通りすがりのタクシーを停めて、後ろの席に乗り込んだ。これからのことを考えながら車に揺られていたら、ルームミラーを覗く運転手の目が自分を気にし始めたことに気付いた。その辺りは昔からの心霊スポットだったんだねぇ。まずいと思った女は透明モードになって姿を消した。そのとたんタクシーは急ブレーキをかけた。運転手は口から泡を吹いて失神していた。こんな幽霊話聞いたことがあるだろ?」
「はい。あります」加奈子は頷いた。
「で、この後はお約束のように同じ落ちだろ?」
「女はどこにも居らず、後部シートがびしょびしょに濡れていた……?」
「あははは。それそれ。当たり前ジャン。その幽霊、三途の川を必死で泳いで渡ってきたんだからね。」
 サダコは声を出して楽しそうに笑った。
 加奈子もその笑いを聞いて楽しい気持ちに包まれた。
 サダコは腕時計に目をやった。
「あらあら、もう十二時になるわね。後は明日にしましょう。ホテルまで送るからちょっと待ってて頂戴」
 サダコはファイルや資料を片付け「明日は直接学校へ来て頂戴。入校手続きをします。朝十時までにね。場所はホテルで訊いて」と加奈子に指示しながら帰宅の身支度を始めた。
 サダコの運転する車で送ってもらい加奈子はホテルに戻った。夜中の一時を回っていた。
 加奈子は熱いシャワーを浴びてからベッドにもぐりこんだ。
 何と言う一日だったのだろう? 次々と奇妙な出来事ばかりが加奈子の中を渦を巻いて通り過ぎていったような気がする。明日午前十時までに登校するよう指示されたことを思い出して、加奈子は目覚ましを午前八時にセットすると部屋の明かりを落とした。そのとたんフェードアウトするように加奈子は眠りの淵に落ちていった。

       3
 翌朝、加奈子はホテルの予約を一泊延長してヨミランド心霊アカデミーへと向かった。
 フロントで学校の場所を尋ねると距離はそう遠くはないけれど、山の上だからタクシーを使ったほうが良いと進められ、呼んでもらった。確かに急傾斜の山肌をぐるぐる回るように道路が走っていて、徒歩では少しきつそうだった。
 四月も中旬になる。普通の学校ならばもう入学式も終わって、授業も既に始まっているはずである。それともヨミランドというところは川向こうとは違うのかしら。加奈子はタクシーに揺られながらそんな余計な心配をしていた。
 到着するとサダコが校門のところに昨日と同じ赤いジャージ姿で待っていてくれた。サダコに尋ねると、ヨミランド心霊アカデミーは幽霊になる免許を取得するための学校だから、年度という観念はない。決められた単位を取得し卒業試験を受け合格すればライセンスが交付される。言ってみれば自動車学校のようなものらしい。
「河幅だね。強いて入校条件を挙げるとすれば」
 サダコは言って契約書の担当者欄に承諾印を押した。
 サダコは近くにいた若い職員に「お願いね」と書類を手渡し「行きましょうか」と加奈子を促した。
「河幅ですか?」
「あんただって驚いたろ。三途の川の見え方には」
「はい。びっくりしました」
「三途の川の河幅はねその人間が持ってきた怨念の強さに反比例しているんだよ。何もそういう気持ちを持っていない人間なら河幅は海のように広くなるわけだ。そんな人間がアカデミーに入学したいとやってきても、その場合はお断りすることになるね。無駄だからね」
 サダコは加奈子が説明に納得してに頷くのを見て「いい幽霊になるよ。あんたは……」と笑った。

 加奈子は入学手続きと同時に、いつまでもホテル住まいを続けるわけにもいかないので、アカデミーに併設した女子寮への入寮手続きも済ませた。寮生活を始めるんだから身の回りのものをすこし揃えなければならないなと思っていると、加奈子の気持ちを察したのかサダコが「急ぐことはないよ。今日はこれで帰ったら?」と勧めた。加奈子はその言葉に甘え、ホテルに戻ることにした。
 正面玄関前でタクシーを待っていると「ねえ。カナちゃん」とサダコが呼びかけた。
 加奈子が驚いて振り向くとサダコは「いいわよね、そう呼んで」といって恥ずかしそうに頬を真っ赤に染めた。
 加奈子はうれしそうに小さく頷いた。ずっと一人ぼっちだった自分に突然優しい姉ができたような暖かいものを加奈子は感じた。
「今夜、暇よね」サダコも優しく微笑んで、久しぶりに会った妹に話しかけるように「買い物が済んでからでも、付き合ってくれないかな?」と微笑んだ。
「喜んでお供します」加奈子は快く誘いを受けた。

 買い物を済ませたあと加奈子はヨミランド国立銀行に立ち寄って奨学金の申請を行った。アカデミーからの推薦が既に入っていて、加奈子が申請書を出すと驚くほど簡単に承認された。これでしばらくの間は暮らしに困ることはないだろう。何から何まできっとサダコが段取りよく根回ししておいたくれたからに違いない。加奈子はサダコのそんな気配りにあたじゃたさがつ心から感謝した。
 ひと抱えもある荷物を部屋に運んでも意味がないので、フロントで保管してもらえるかどうか尋ねると、明日のチェックアウトまで預かってくれるという。加奈子は荷物を預けることにした。荷物の受取札をもらってから部屋に戻った。
 時計を見るとまだ四時を回ったところだった。加奈子はテレビをつけた。昨日の土石流による通行止めはまだ続いていたが、どうにか明朝には復旧の見通しと報じている。
 加奈子はフロントに電話を繋いだ。
「昨日から宿泊されている柚木高弘さんはまだいらっしゃるのかしら?」と訊いてみると、延泊の予定だが今はバス路線の状況を確認のため外出している。道路が開通すればそれにあわせて出発の予定だが、テレビのニュースで復旧は明日になっると報道があったので連泊するだろうという。フロントではそれ以上のことは聞き出せなかった。きっと復旧したら明朝早く出発するだろうから、自分がヨミランド本国に行くときまで柚木にはもう会えないかも知れない。加奈子はそう思って「幸せに暮らしてください」というメッセージだけをフロントに託すと加奈子は受話器を置いた。

 サダコとの約束は七時にウサンだった。加奈子は約束の時間ちょうどに扉を開けた。サダコはもうカウンターについてカクテルを楽しんでいた。加奈子に気付いて嬉しそうに手招きするので急いで傍までいくと、サダコは隣のシートを手のひらでパンパンと打った。
「すみません、お待たせして」加奈子は腰掛けた。
「ごめんよ。ゆっくりしたかったんじゃないのかい?」
「いいえ。まだこっちのこと何も知らないし」
 昨日と同じバーテンダーが加奈子の前にコースターを置いて、加奈子がまだ何も注文していないのに黄金色のカクテルをその上に乗せた。
「サービスです。ゴールデンエリクサー。入学祝です」
「どうもありがとう」加奈子が礼を言うとサダコが笑って「あんまり感謝しないほうがいいよ。ケンは可愛い子にはすぐサービスするタイプだから」
「ひどいなぁ。どんどん飲んでくださいよ。サダコ先生の奢りらしいから」
 ケンと呼ばれたバーテンダーはそういって席をはずした。その様子が加奈子にはなんとなく不自然に感じられた。きっとサダコは何か用事があって自分をウサンに呼び出したのだろう。加奈子はサダコが口を開くのを待った。

「勘のいい子ね、カナちゃんって」
 そんな加奈子の気配を察して照れ笑いのような笑みを浮かべたサダコは、勢いをつけるようにブラディマリーを飲み干した。
「あなたにお願いっていうか、…訊きたい事があるの」
 サダコは話し始めた。
「女の幽霊にはね、大きく分けると三種類あるの。まずひとつは向こうの世界で虐げられたり騙されたりして死んだ場合の幽霊。カナちゃんもこれに該当するね。次に向こうの世界の誰かに恋焦がれて、その人をこちらに呼びたいというケース。うちの学校で理事をしている牡丹燈籠のおツユさんがこれかな。それから最後に、自分の境遇が恵まれないことを恨んで幸せそうな人間なら誰にでも矛先を向ける幽霊。この三種類さ。私はねどっちかって云うとさ、二番目と三番目の中間ってトコロだったかな」
 サダコはそこまで言うとカウンターの向こう端から時々こちらに視線を走らせているケンちゃんに空いたグラスを掲げるようにしておかわりを注文した。ケンちゃんはすぐ持ってきた。
「加奈子さんはまだ」いいかけるケンちゃんを「いいから、あっちへ行ってなよ」と追いやって、サダコはグラスを傾けた。
「先生。私に尋ねたいことってなんですか?」
 加奈子は言いずらそう荷話を長引かせているさサダコにはっきりといった。
 サダコは観念したように頷いた。
「実はさ、カナちゃんに聞きたいことっていうのはね、昨日カナちゃんと一緒にここへ来た男の人のことなんだ」
「柚木さんのことですか?」加奈子が探るような視線をサダコに向けるとサダコは頷いた。
「とっても親切な方」と、加奈子は素直にいった。
 サダコの瞳に真っ赤な火が灯った。
「でも、良く知らないんです。船の中で始めてお会いしただけだから」
 サダコの瞳に灯った赤い火が消えた。
「名前が柚木高弘って言うことくらいです。知ってることは。でもなぜ?」
 加奈子の問いにサダコはしばらく言いづらそうにしていたが、「笑わないでよ」と断って「わたし、柚木サダコっていうの」
「エッ! まさかァ……」
 加奈子はスツールから滑り落ちそうになった。
「それじゃ柚木さんがいってた病気で亡くなった奥様というのは…」
「それはわたしです」サダコはきっぱりと言い切った。
「でも原因は病気じゃないよ。事故さ。」
「事故?」
 サダコは頷いた。
 サダコはタバコに火をつけて遠くに思いを馳せるように紫煙を追った。
「結婚したばかりだってのにね。無茶やってさ。あれからもう六年」
「そんなに若いときだったんですか?」
「まだガキだったのね。なぜ私だけが何の楽しみも知らないまま死ななくちゃいけないんだって恨んだよ。世の中そのものをね。だからこっちに来てすぐ心霊アカデミーの存在を知って入校の手続きをとった。簡単だった。川幅が一メートルもなかったから。ライセンスもあっという間に取ることができた」
 サダコはいったん話を区切るとケンちゃんを呼んだ。
「私にソルティドッグ。カナちゃんにヴァイオレットフィズね」と追加オーダーをしてからまた話を続けた。
「ライセンスを取ったあとは自分で考えて行動したの。川向こうに渡って、幸せそうに見えるカップルを見つけると脅しをかけた。命までは取らなかったけれどね。よい幽霊のすることじゃないって知りながらね」
「それはひどいことだと思います」加奈子は暗い顔をしてサダコを睨んだ。
「確かにひどいことだよね。幽霊に驚かされた人間にとっては。いい迷惑だったろう。二年前にね、こんなことしてちゃだめだと思って、きっぱりやめたんだ」
 サダコはウサンの仄暗い空間に視線を漂わせた。
「せめてもの罪滅ぼしと思ってさ、心霊アカデミーの教師を引き受けたんだ。そして、一昨日、たまたま実習で川向こうへ行く機会があったものだから、結婚してほんの一年だけ暮らした我が家に立ち寄って見たんだ。高弘が再婚しているならしているで仕方がないと開き直ってさ。そうしたら、ああいうのを虫の知らせって言うんだろうねぇ、葬式の真っ最中だった」
「わかったわ。サダコ先生、入管にいらしたのね。昨日フェリーが到着したとき。そこで柚木さんを見つけたんでしょう。なんだか私と仲良く話をしていたし、このお店にもふたりで来た。だからどういう関係なんだろうと気になって、直接聞いてみようと、今日私をここに誘った」
「その通りさ。さすがね」
 新しいカクテルを運んできたケンちゃんが「昨日、あの男の人を早く追い出せって、電話で、もう大変。でも結局昨晩は何もできなかった。見かけより気が小さいんだから」と、サダコをからかうように指差した。
 カウンターの奥で電話が鳴ってケンちゃんが席をはずした時間がほんの少しだけあったのを加奈子は思い出した。そしてひと悶着あってそのあとすぐ自分はひとりでアカデミーへと向かうことになったのだった。
「あんたは口を挟まなくていいから。あっちへお行き」
サダコに睨みつけられケンちゃんは「はいはい。おかわり欲しけりゃいつでもどうぞ」とおどけながらまた席を離れた。
「でもねケンちゃんの言う通りなんだ。カナちゃんがアカデミーに辿り着いたら聞いてみようと思ってた。だけど聞けなかったのさ。怖くて」
「そうなんですか」加奈子は納得した。
「そういうことなら天地神明に誓ってもいいけど私と柚木さんとは何の関係もありません。手を触れたことだってありませんから。握手以外は」加奈子は一瞬柚木の手のぬくもりを思い出した。
「分かったよ。カナちゃんは嘘をいえない子らしいからね」
サダコはソルティドッグを飲み干して「でも、もういいよ」とため息をついた。
 その一言を加奈子は聞き咎めた。
「なにがもういいんですか」
 加奈子は少しろれつが回らなくなってきたのを感じながら、スツールを九十度回転させ、サダコのほうに身体を向けた。
「柚木さんとはほんの少し話をしただけですけど、もう一刻も早くサダコ先生に会いたいって言う気持ちが熱いくらいによく分かりました」
「でもねカナちゃん。あの人はもうゲートをくぐっちゃったわけだし…一度ヨミランドのゲートをくぐるともうこっちに戻ることはできないの。それに私もそう。こっちで職業に就いてしまうと、もう向こうにはいけないのよ。だから…」
「なにいってるの。サダコ先生」ニュース知らないんですか?」
加奈子は大声を出した。「柚木さん、まだこっちにいますよ。それに積極的に会おうともしないのは何故なんですか?」
「怖いの」サダコはポツリとつぶやいた。
「怖い?」加奈子は身を乗り出した「何が怖いのよ。サダコ先生」
「さっき話したとおり、私は何年間か悪霊として過した。もしあのひとがそれを知ったらどう思うか?それが怖くて」
「ずるいよそんなの。結果が怖くて逃げているだけじゃない。あんなにサダコ先生のことを思っているのに。柚木さんがかわいそうじゃないですかぁ」
 加奈子はそういうとスツールから降りた。
「どうしたの?」サダコが心配そうに加奈子を見た。
「おしっこ」
 ふらふらしながら店の奥に向かおうとする加奈子の腕を、ケンがカウンターから出てきて掴み「こっちこっち」と店の入口のほうへ引っ張った。入口のすぐ横の薄手のカーテンを引いたその先に化粧室と記されたドアがあった。
「ありがと」カーテンをくぐるとき加奈子はケンだけに聞こえるように声を潜めて「柚木さん、ホテルにいるから」といって電話をかける仕草をして見せた。ケンちゃんはその意味に気付いて親指と人差し指で丸い輪を作って了解のサインを送った。

 柚木高弘はぞれから十五分もしないうちにウサンに現れた。何の変哲もないカクテルバーのフロアーにサダコと柚木高弘は向き合って立ったまま、なにも言わずお互いを見つめていた。しかし二人の目から涙が頬を伝って流れ落ちるのを加奈子は見た。
「どうやら今日の私の仕事は終わったみたいね。結果がどうなったかだけでいいから教えてくれないかな?なんだかバカらしいからね、帰るわ」
加奈子はケンちゃんに悪戯っぽくウインクして店を出た。

       4
 翌朝、加奈子はチェックアウトを済ませ、ホテルを後にした。加奈子を乗せたタクシーはアカデミーの正門をくぐると暫く広い芝生広場の向こうに見える六階建ての校舎に向かって走っていたが、やがて校舎の手前五十メートルほどのところで左の森へ分け入る道を選んだ。そして間もなく姿を現した白一色に塗り上げられた瀟洒な建物の前で停まった。
 ボストンバッグ二つに詰め込んだ手荷物と紙袋ひとつを抱えるようにして加奈子はドアへのアプローチになっている三段の石段を上った。玄関の上にはヨミランド心霊アカデミー学生寮と墨書したアンティークな木製の看板が取り付けられている。
 加奈子はドアの横についたベルを押した。待たされることもなくドアが開いて抜けるように白い顔をした初老の婦人が現れた。
「大庭加奈子さまでいらっしゃいますね。お待ちしておりました。さ、どうぞこちらへ」と加奈子から荷物を受け取って婦人は加奈子を招きいれた。
 加奈子は手土産を入れた紙袋ひとつだけをもって婦人の後に続いた。
 正面のロビーから階段を二階へ上がると通路沿いに個室のドアが廊下の両側にそれぞれ十室ほど整然と並んでいた。婦人は今上ってきたいちばん階段よりのドアをマスターキーを使って開けた。
「こちらが大庭加奈子様の個室になります。お部屋の居住権は原則的にライセンス取得日まででございますが、その後申請なされますと本懐を遂げられるまで延長も可能でございます。申し遅れました。わたくしこの寮の管理をさせていただいております、菊と申します。ご不自由なことがございましたら、何なりとお申しつけください」
 薄紫と白の市松模様の和服の上に割烹着を着けたお菊と名乗る管理人は、加奈子にルームキーを手渡した。
「管理人さん」加奈子は立ち去ろうとする管理人に声をかけた。
「お菊とお呼びください」管理人は加奈子を振り返った。
「ねえお菊さん。寮には今何名の方が入っていらっしゃるのかしら?」と、加奈子が質問すると、お菊は少し淋しそうな表情で「たったの六名ですのよ。みんな一人暮らしがいいとおっしゃいましてね、アパートとかマンションとかいうわけの分からないところに越してしまわれましたから…でも私の目から見ますとね、残った六名のほうが優秀な幽霊候補生に見えますわ」お菊は手のひらで口を隠しホホホと笑った。
「そうなんですか。じゃあこれつまらないものですけれど」
 持っていた紙袋をお菊に手渡して「夕食後のデザートのときにでも。勿論お菊さんも一緒に」
 管理人はうれしそうに「あらあら。それはどうも」と喜んで受け取った。

 その晩のパーティーは入寮生にお菊とサダコを交えた九人が出席して行われた。はじめは夕食後に集まって加奈子の持参した菓子を食べながら懇談しようという程度の話だったのだが、管理人のお菊がやたらと張りきって、ちょっとしたオードブルの準備を始めた。加奈子から誘われたサダコも「お、そいつはいいね」と、自腹でビールと焼酎を差し入れた。
 怖い先生で通っているサダコが出席したことで始めのうちかなり緊張気味だった寮生たちも、時間とともに打ち解けて軽口を言い合うまでになって行った。お菊はともかくサダコは教員と云ってもに受講生達とそれほど大きく年齢が開いているわけではなかったので、一度打ち解ければあっという間にまるで姉妹同士のような世界が作り上げられてしまうのかもしれなかった。
「いいですか、先生」
 入寮生の一人が勢いをつけるようにグラスのビールを一気に飲み干して口を開いた。普段はモモちゃんと呼ばれている、桜内百恵という名の、ふっくらとしたおとなしい寮生だった。年齢は加奈子とそう変わらないように見える。
「なんだい?モモちゃん」
 サダコが水を向けるとモモちゃんはビールのせいなのか緊張のためなのか真っ赤に染まった頬をサダコに向けた。
「わたしたち皆向こうの世界の誰かを懲らしめてやるためにこのアカデミーで勉強しているわけですよね」
「ほとんどの場合はそうね」サダコは認めた。
「その目的を遂げるだけなら、なにも呪術学だとか怨念心理学みたいな難しい勉強をしなくたっていいんじゃないかって思うんですけれど」
「というと?」
「ここにいる私たちはライセンスさえ取ればみんな、川向こうへいきたければ簡単に行けるわけですよね?」
「そうね」
 サダコはモモちゃんが何を言いたいのか察しがついた。
「モモちゃんはこう考えてるわけだ。いつでも相手のところへ行けるんだから、武器でも持っていけば簡単じゃないかって。どう?」
 サダコはモモちゃんの瞳の奥を覗き込んだ。モモちゃんはコクリと頷いた。
「でもね、それはできないんだな。どうしてかって言うとだね、私たちはたとえ川向こうに行ったとしても向こうの世界に物理的に存在していることにはならないからなんだよ」
 モモちゃんは首をかしげた。
「つまりね、みんなは今こちらの世界にいるわけだろ。だからこうしてグラスを持つことができるし、モモちゃんの言うように武器だって手に持つことは簡単にできる。ところがね向こうの人間にとってはグラスも武器も存在しないんだ。存在しない武器で死ぬことはないんだよ」
「じゃ向こうに行ってから調達したらいいじゃないですか」
「それも無理。今度は私たちにとって向こうのものは存在しないということになるんだな。金物屋にでも押し入ってナイフでも盗もうと思っても、ナイフはモモちゃんをすり抜けるだけで持つことさえできないんだよ」
「それならばどうやって?」
 今度は加奈子がモモちゃんを引き継いだ。
「心だよ」
 サダコは自分の胸の辺りに手のひらを当てた。
「ココロ?」
「そう。恐怖心というやつさ。向こうの人間はね、恐怖心を蓄える目に見えない心の袋みたいなものを持っているんだよ。その容量は人それぞれだけどね。あんたたちは幽霊になって化けて出ることでその袋の中に恐怖心を流し込むんだ。初めのうちはあんたたちも慣れないだろうから結構難しいよ。だから少しずつで良いんだ。じわじわとね。そしてタイミングを見計らってフィニッシュ。決定打となる恐怖を送り込む。パンパンに膨らんだ風船を針でつつくようなものだね。云ってみれば。これが呪い殺すということなんだ」
「もし失敗したら?」加奈子は恐る恐る尋ねた。
「怖いことになるよ。忘れちゃならないのはあんたたちが呪い殺した相手もこちらへやって来るってこと。そりゃあそうさ。ヨミランドは向こうから見れば死後の世界。呪い殺されるのもひとつの死だからね。袋の中の恐怖心が満杯になってさえいればフィニッシュはほんの小さな恐怖心でも事足りる。だけどね相手だって人間だ。そう簡単に恐れ入谷の鬼子母神ってことにはならないだろ。仕掛けが中途半端なら恐怖心がまだ膨らんでもいないうちにこっちの世界に連れてこられるわけだから、フラストレーションの塊みたいなものさ。こっちへ来てからがまた大変だ。力関係は向こうもこっちも変わらないからね。フィニッシュを鮮やかに決めることができれば相手も恐れ入って、めでたしめでたしってことになる可能性も有るけれどね。ほとんどの場合…」
 サダコは寮生たちの反応を見るように視線を走らせた。
「ほとんどの場合?」美津子という体格のがっしりとした寮生がサダコの言葉を聞きとがめた。
「そう。ほとんどの場合、相手の図太さのほうが上ってことが多い」と説明した。
「嫌だよ、そんなの。呪いたくないよ、もう…」
とうとうモモちゃんがべそをかきはじめた。
「やめたっていいんだよ。ライセンスを取った後は自由行動だからね」
 サダコは寮生たちに最終判断は自分自身にあるということを告げると「ねえ、お菊さん」と隣に座る管理人に何事か耳打ちした。
「はい。わたくしはよろしゅうございますよ」と頷いた。
 サダコは寮生たちを見て、「あなたたち、管理人さんのことをいつも気軽にお菊さんって親しげに呼んでいるようだけど、このお菊さんはね、大変な実力を持った偉い方なのよ」と説明を始めた。
 加奈子も他の寮生たちもサダコとお菊さんを見比べてぽかんとしている。
「お菊さんはね、番町皿屋敷のお菊といってね、呪怨の第一人者なの」サダコはお菊をそう紹介した。
 寮生の中から驚きの歓声があがった。
「スケ番だったんですか?」と、モモちゃんが尋ねた。
「ばかね。番長じゃあないの。番町よ。東京都の麹町…」
「番長・サラヤシキ・オキク……番長サーラね。かっこいい」モモちゃんは楽しそうな笑い声を上げた。他の寮生達も大きな拍手を送る。
「こら、みんな調子に乗るんじゃないよ」
 サダコが寮生たちを窘めるとお菊は優しく微笑んで「いいのよサダコさん。今の若い人たちにはそんなこといっても分からないでしょうから。……スケバン・サーラ。よろしいんじゃございません?」と、満更でもなさそうな声を出した。
「すみませんみんな非常識で」サダコはお菊に詫びて立ち上がった。
「いい。お菊さんはね毎年開催される呪怨コンクールで常に優勝争いをしていらっしゃるすごい方なのよ。よい機会だから、お菊さんから最強の幽霊像を見せていただきましょう」
 サダコに紹介されてお菊は立ち上がった。
「皆さんが傷つくことはありませんので安心してご覧くださいね。危険な状態になるとわたくしの身体が紅蓮の炎に包み込まれるのですけれど、そこまではやりませんから。参考になればよろしいんですけれど」
 お菊はいって首に回していた銀色のペンダントをはずし食器棚の引き出しの中にしまいこんだ。
 お菊は部屋の片隅に踏み台を置き、その上に立った。
「よろしゅうございますか。では始めます」
 お菊は体をはすに構え両手首を胸の辺りで下向きにだらりと折り曲げた。いわゆる古典的な亡霊のポーズである。
 そのとたん…
 部屋の明かりがジジジという音とともに消え、窓の外を稲妻がすさまじい音と閃光を見せて走った。窓がばたんと言う音を立てて開きガラスが砕け散る。
 小柄だったはずのお菊の姿がのしかかるように覆いかぶさり、全員を見据える目が妖しく光った。そして寮生たちはお菊さんの腹の底から絞り出すような怨念に震える恨みの声を聞いた。
「魂魄この世にとどまりて、恨み晴らさでおくべきやぁ」
 雷鳴はますます激しく轟き大粒の雨が破れた窓から情け容赦なく吹き込んでくる。部屋全体がとても立っていられないほど大きく揺れ動き、ありとあらゆるものが乱れ飛び、そして…
 何事もなかったかのようにぴたりと静まった。窓ガラスも割れていなければ、家具も散乱などしていない。全てが元のままだった。

 お菊によるデモンストレーションは加奈子ばかりではなく技を目の当たりにした寮生全てに強烈な衝撃を与えた。受け止めた衝撃の度合いは皆まちまちだったが、どちらにしてもあんな凄いことが自分もできるようになるのだろうかという不安を覚えさせたことは間違いないようで、ただ呆然とお菊を見つめるばかりだった。
「ちょっと強烈すぎたかしらねえ。年甲斐もなく張り切りすぎちゃったねえ」
 お菊は寮生たちの様子を見渡して照れくさそうに頭をかいた。
「さすがお菊さんですわ。私まで怖くなりましたよ。衰えませんねお菊さんも」
「衰えませんねって、サダコさん。あなた、私が婆アだとでも言うつもりかエ」
 揚げ足を取るようにいってお菊はサダコを睨んだ。
「とんでもない。申し訳ありません」
 サダコはお菊につい口が滑ってしまったことを詫びてから今度は寮生たちのほうに向き直った。
「お菊さんは持って生まれた才能に加えて長い年月に及ぶ努力の積み重ねがあるからこそ、今見せていただいたような凄いことがお出来になるわけで、みんなには勿論そこまでは要求はしません。大丈夫ライセンスは取れます。だからあんまり落ち込まないように」
 サダコはそういって励ましたが、同時にショックを受けている寮生たちに少し物足りなさを感じた。
 お菊によるデモンストレーションを見せられ寮生たちはみな叩きのめされたわけで、それは年季が違うのだから仕方のないことだ。少なくともこのアカデミーで真面目に学習した成果を実例として見せてもらえたと考えれば、お菊の霊力を目標に頑張ることだってできるはずだ。そんな期待を込めてサダコは寮生一人ひとりの顔を見た。そして完全にたたきのめされた寮生七名の中で、大庭加奈子と意外にも最も弱虫だと思っていた桜内百恵だけが、その瞳の中に燃える炎を宿していることにサダコは気付いたのである。

     第五章 霊免許
      1
 ライセンスを得るためには学科と実技のそれぞれを履修して所定の単位を取得し、その上で試験に合格しなければならない。合格ラインは八五%以上の正解と、かなりの難関である。
学科は『心霊学概論』『心霊心理学』『呪縛倫理総論』その他、主に対象の心理的誘導に関するもの。実技は『渡川技術』『恐怖演出法』『怨念増幅術』というような現場に対応した実習である。学科科目の選択や履修の順番は受講生の自由だったが、一日に受講する科目数を徒に多くすると実技の教室が少ないため受講定員数をオーバーフローして次回まわしになることもあって必ずしも得策とはいえないらしかった。
 しかし加奈子は混み合うという噂は知っていたけれども、学科の受講は一日に詰め込むことができるだけ詰め込んだ。噂を無視したのではない。単位がある程度まとまる度に教室の空きを探すなら集中してしまうこともあるだろう。そこで加奈子が考えたのはまず学科に関しては単位を落とすことなく、総て一度で通過するということだった。そうすれば実技の受講についても纏めて受講計画を作って申請することが可能になる。この方法なら効率よく現地実習を受けることができるはずだ。そう目論んで加奈子は普通なら三週間はかかる学科の単位を、およそ半分で取得する計画でカリキュラムを組みアカデミーに申請したのである。
 一日でも一時間でも早く三途の川を渡りたい。その熱意が加奈子に味方したのか、計画通りに受講ができる教室を選ぶことができた。

 その後加奈子はひたすら授業を受けることに専念し、時折クラスメイトから誘われることがあっても、外出しての気晴らしなどもライセンスを取るまではと遠慮するようにした。
 学科の授業も内容は思ったよりも難しく、集中的に取り組まなくては予定通り単位を取得できるかどうか案じられたからである。
 しかし加奈子の打ち込み方は、学友達にはあまりよい印象を与えなかったようだ。ひとりだけ抜け駆けしていい子ぶっている。そんな見かたをされてしまったようだ。とくに寮以外からの通学する学生達にその意識が強いようだった。放課後にグループを作って遊び歩く自由が寮生活をする学生達よりも多く、いわゆる仲間意識が自分達と異質な行動をとっているように見える加奈子に、不満の捌け口を見つけたのだろう。
 教室に入ってきた加奈子が横を通るときに、足を出して躓かせてるとか、加奈子の筆記用具などを隠すとか云うような他愛もない苛めだったが、それでも加奈子の気持ちは苛々した。
 しかしこの悪ふざけもそう長くは続かなかった。
 そのような日が五日ほど続いたある放課後、下校しようと急ぎ足で玄関に向かっていると、左右に小柄の女子を従えたいかつい体つきをした女子受講生が加奈子の方へと廊下をやってきた。近くまで来て気がついたのだが小柄に見える左右の女達も、加奈子より上背はあった。
 廊下の幅が十分に広くなかったのと、三人が横に並んで歩いてきたものだから、交わしきれずにすれ違いざま廊下の左側を歩いていた加奈子の右の肩が、一番加奈子側にいた女の肩に軽く触れてしまった。加奈子が軽く会釈して通り過ぎようとすると、女親分肌の受講生が「ちょっと待てや」と、低い声で加奈子を呼び止め、鋭い目で睨みつけた。
 加奈子はおどおどしながら振り返った。
「はい、何でしょうか……」
「おまえなあ、他人にぶつかっておいて一言もなしかい?」
 大きな女はことさらドスの利いた声を出した。
「ぶつかったって……ちょっと掠っただけでしょう」
 またこの手か、と加奈子は思った。何でこうも毎日毎日嫌がらせを受けなくてはならないのだろう。度重なる悪ふざけにうんざりしていた加奈子の気持ちが言葉尻に表れた。
「なんだと。ちょっと表に出ろ」
 加奈子の言い方が癇に障ったらしく、大柄な女が凄んだ。するとそれが合図だったように、両側に控えた女達が加奈子の両脇を羽交い絞めにした。そして加奈子は近くにあった非常口から校舎の外へ引きずり出された。抗おうとしても自分より大きな女に両脇を固められているから逆らおうにも逆らえない。このまま連れて行かれたら相当酷いことをされそうだということは予測がつく。「助けて。誰か助けて」加奈子は必死で叫ぼうとしたが恐怖で声が出ない。やがて加奈子はなす術もなく引きずられ建物の裏手の人目につかない場所に連れ込まれた。
 女達が勝ち誇ったような目で加奈子を取り囲んだ。
「いつも良い子ぶってんじゃねえよ。気にくわねえんだよ。ひとりだけ抜け駆けして全体のバランスを乱すってのは。そのことを教えてやるよ」と能書きを垂れて大柄n女が拳を振り上げた。
 加奈子は諦めて目をつぶった。

「あんたたち、そこで何やってんの」
 覚悟して目をつぶった加奈子の耳に、聞き覚えのあるおっとりした口調の少し甲高い声が聞こえた。
 声の主が大柄の女を押しのけて囲みの中に入り、加奈子を庇うように進み出た。普段は借りてきた猫のようにおとなしい桜内百恵だった。
「大丈夫?」とモモちゃんは加奈子に手を差し伸べた。加奈子はその手に縋って立ち上がった。
 百恵が助けてくれたことは嬉しかったが、喜んでばかりはいられない。加奈子を連れ出した女達と比べて、桜内百恵は頭ひとつくらい小さな体つきである。暴力行使となればどう見たって勝ち目はなかった。
「おやおや、勇敢なウサギちゃんだこと。友達を助けに来たってわけだ」
 ニヤリと嗤って、女は百恵に掴みかかった。
 ところが百恵は女を避けもせず、掴みかかってきたその両手を自分の掌で受け止めた。加奈子は、呆気なく突き飛ばされ地べたに気を失った百恵の姿を加奈子は想像した。だが驚いたことに女の動きがぴたりと止まった。力を込めて押せども引けども百恵の身体は微動だにしない。それどころか、百恵は満面にいつもと変わらない笑みさえ浮かべている。その手に何の力も入ってはいないということが加奈子にもすぐ分った。女の腰巾着たちもただ呆然とつっ立っているだけだった。
「良くお聞きなさい……」百恵が女の動きを封じたまま諭すように語りかけた。「いいこと、お姉さんたち。霊免許っていうのはね、何の目的で必要なのか、それぞれ違うものでしょう。皆で仲良く手をつないで取るような筋合いのものじゃないわよね。だから加奈子さんがどういう勉強の仕方をしたってあなた達に文句を言う権利ないんですよ。だからそれを邪魔しちゃいけません。そんな簡単なこと、誰だってわかりますよねェ」
 大柄な女はまっすぐに突き出した両手を小さな百餌の手で受け止められたまま動くことも儘ならず悔しそうに唇を噛んでいる。
「……それに加奈子さんは私の大切なお友達です。加奈子さんを苛めることは許しません」
 百恵は念を押すように云ってからその小さな掌に入れていた力を緩め、女を解放した。
 女は百恵が云ったことはど十分理解していた。ただこんな小娘にまんまとしてやられた自分自身の不甲斐なさが恥ずかしかった。力を解き放たれたとたん膨れ上がったその気持ちが一気に爆発した。
「チクショウ!」と叫び声を上げて女は百恵におどりかかった。
 百恵は女を哀れむように見て「馬鹿な女……」と呟いた。そして女が百恵を捕まえたかと見えたとき、百恵の姿が女の目の前でふっと薄らいで……消えた。女の手下達と加奈子の目の前でのイリュージョンであった。
 女は掴みかかろうとした相手が突然消えたものだから、大きく空を切り地面に頭から転がって気を失ってしまった。
 女に従っていた二人の腰巾着に百恵の声が響き渡った。
「いいですか、そこで気を失っている馬鹿女に伝えておいてね。まだ免許はとっていなくたって力を持ってる者だっているんだよってね」
 腰巾着たちは何も言えず腰を抜かした。その横で加奈子もいったい何が起こったのか理解できずにただ呆然としていた。

 このことがあった後、加奈子に対する嫌がらせは影を潜めた。

       2
「モモちゃん、あなたいったいいつの間に……」
 備え付けの学習机と一対になったスチール製の椅子に腰かけて、大庭加奈子は桜内百恵の澄み切った瞳を見つめた、桜内百恵は壁際に置かれた加奈子のベッドに腰掛けて脚をぶらぶらさせていたが、加奈子と視線が会うときちんと受け止めて見つめ返し話し始めた。
「わたし、抜け駆けしちゃった……」
 言いずらそうに切り出して百恵は悪戯っぽく舌をぺろりと出して見せた。
「抜け駆けですって?」意味が分らず加奈子は聞きなおした。
 百恵は一度こくりと小さく頷き、決心したように告白を始めた。
「私この寮に入ったのは加奈子さんが来る二週間くらい前だった。人付き合いもへたくそでね、入寮したのに殆ど学校にも行かずにお菊さんに愚痴ばっかり聞いてもらってた。私、生まれたときから孤児みたいなもの。だったから、優しくしてくれるお菊さんのことをお母さんみたいに感じてあまえてたのね。そのうちいつか霊免許とって幽霊になって暴れまわろう……そんなオチャラケた考えだったの。でも加奈子さんが寮に入った日、お菊さんのパフォーマンス見て私ものすごく興奮したの。燃え上がったみたいにね。でもパーティーが終って皆が引き上げてしまうと、たちまち醒めちゃった。私にはあんな怖いこととてもできいって思ったわ。私が向こうの世界に残してきた恨みってそんなに大きいものじゃないから。それでね、あとでこっそりお菊さんに話したの。そうしたらね……」
 百恵はまるで何年も昔を思い返すように視線を漂わせた。
 加奈子は百餌の話の続きを待った。
「そしたらね、お菊さんもモモちゃんは優しすぎるし怖がりやだから幽霊になっても目的を遂げることは難しいかもしれないっていうの。だから私すぐにでもアカデミーをやめようと思った。そのことを云うと、お菊さんに引き止められたの。これは私にもよく分らないんだけど、私は普通の人よりはるかに強い霊力を持っているんでっすって。だから幽霊になるのは難しくてもその能力を無駄にしてしまうのは如何なものかって」
「どういうこと?」
「これは以前にもお菊さんに言われたことがあるんだけど、アカデミーでは今教師不足なんですって……」ももえは恥ずかしそうに下を向いた。
「エッ、どういう意味。モモちゃん先生になるってこと?」
百恵は下を向いたまま頷いた「私の力を素直に利用することを考えると心霊アカデミーで教師になるのが最適じゃないかって。お菊さんが……」
「でもこっちで仕事に就いてしまえば本国にいけなくなっちゃうよ」
「いいの、それでも。だって向こうで待ってる人もいないしね。それにこっちだってなかなかいい所だし」

 そういう選択肢もあるということを加奈子は初めて知った。教師になる。そんな道があることなど考えもしなかったし自分の場合には選ぶことができない選択肢だった。
 どことなく自分と重なり合っているような百恵の身の上だった。だからと言って選択肢まで同じになるほど類似しているわけでもない。決定的に違う点がひとつあった。
 加奈子は母のぬくもりも朧げながら覚えているし、父親の深い愛情に包まれて暮らしてきたことも間違いはない。加奈子の怨念は父親の死までの出来事とは直接の係わりはなく、その後ふらりと現れ加奈子の人生をめちゃくちゃにした男、羽鳥浩一郎に向けられたものだけなのだ。だから加奈子にはまっすぐ本国に入るか、アカデミーで霊免許を取得して本懐を遂げるか、このふたつの選択肢しかなかったといえる。
 百恵の場合はどうだったかといえば、百恵が生まれて何日もしないうちに母親が産褥で亡くなり、父親も百恵が生まれる三月ほど前に身重の母を捨てて行方をくらましている。
 親戚などもおらず、百恵は生まれるとすぐ慈善団体が営む孤児院に引き取られ、成長した。だからきっと百恵の怨念は自分を孤児として産み落とした両親に対するものというより、むしろ幸福とはいえなかった孤児院での暮らしというような社会とか機構とかいうものに向けられているのではないかと加奈子は思う。恨みの対象が見ず知らずの両親や社会そのものといった捉えどころのないものだから成功は疑わしく、仮になれたとしてもアカデミーの言ういわゆるいい幽霊になれるかどうかは疑わしい。だから百恵が幽霊になるという選択肢を放棄したことは満更間違いではないのかもしれないと加奈子も思う。それにだれも待つもののいないヨミランド本国へ直行というもうひとつの方法も、百恵にとっては簡単には受け入れ難い道であることはすぐに分る。だからそんな百恵にさりげなく手を差し伸べたお菊の勧めは窮地に陥りかけていたはずの百恵に救いの手済を差し伸べたことになるのかもしれない。そうか、お菊さんが総てを見通して打った一手なのだ。加奈子はそう直感した。なるほど。考えてみると百恵には良く似合う職業かもしれない。加奈子は想わず口元をほころばせた。

「それで私、毎晩お菊さんから心霊技術の特訓を受けてたのよ。アカデミーで霊免許を取ったらすぐにでも教職に撞けるように。抜け駆けよね、これって……」
 百恵は申し訳なさそうに加奈子の顔色を伺った。
「おめでとう。良かったね、モモちゃん」
加奈子がそう言って百恵に笑顔を返したとき、寮の廊下に取り付けられたスピーカーからチャイムの音に続いてお菊の声が流れた。
「夕食の支度が整いましたので、どうぞ」
「さ、ご飯だ。いきましょ」」
 嬉しそうに立ち上がってドアを開けようとする百恵に向かって「今日はありがとうね。助けてくれて……」と声をかけた。

       3
単位を取得し終えた加奈子は実技のほうもあとは渡川技術の実習を残すばかりとなっいた。
「これが三途の川の渡り口だよ」
 木造の質素な建物の扉をサダコはノックした。扉の上に『政治局認定・三途川渡り口』と看板が出ている。鍵を開ける音が聞こえ扉がゆっくりと開いた。
「ああサダコ先生。これから講習かい?ご苦労様」
 満面に優しそうな笑顔を見せて、薄汚れた一枚皮のベストを着たごま塩頭の小柄な老人がサダコをねぎらった。
「今日は受講生十七名です。スクールバスは駐車場に待機させています」
サダコは受講生リストを老人に提出した。
「了解」老人は建物の中を指差して「教室を使うなら三番教室へ。時間は三時間も有ればいいじゃろ」とサダコに三番教室のキーを渡した。
「ありがとうね」
 サダコは守衛室に戻る老人の背中に礼を言ってから「さあ、こっちだよ」と、講習生たちを三番教室へ誘導した。
 三番教室は黒板代わりのホワイトボードを置いた教壇と二十ほどの机を並べただけの、殺風景な教室だった。三途の川の流れにそって並んだアルミサッシの滑り戸から射し込む外光教室いっぱいに満ちていた。
 サダコはホワイトボードの前に立つとがやがやと騒々しい学生達に向かってパンパンと手を打って「はい、席について!」と、全員を静まらせた。
 サダコは受講生たち全員が黙るのを待ってホワイトボードのトレーから赤色のマーカーペンを手にとった。
「今日はいよいよ渡川実習だよ。みんなここまでよく頑張ったね」
 サダコはホワイトボードに大きな赤文字で“渡川実習注意事項”とタイトルを書いてから受講生達を見渡した。席に着いた受講生達ははみな真剣な表情を見せていたが、その中にはほんの十日ばかり前、お菊の霊力に腰を抜かした寮生たち七名も含まれていた。寮生のほかはみなのんびりと日数をかけてこの実習を選んだ学生達だから、寮生たちの頑張りようがサダコには良く分かった。入寮したのはそれほど日数に差がなかったはずだ。逆算するとみな十日そこそこで学科を終えたということになる。どうやらあのデモンストレーションが良い刺激になったのだろうとサダコは少し誇らしかった。

「はい、それでは確認しまーす」
 サダコは受講生たちを注目させると「アカデミーを出るとき一応データを確認させてもらったんだけど、川幅レベルが一メートルを超える人はいないね? もしいたら手を上げて」と、受講生たちを見た。
 手を上げた者は一人もいない。
「よし。それじゃこれから仮ライセンスを渡します。あくまでも仮免許証だから有効期間は今日一日だけ」
 一人ひとり名前を呼んで仮ライセンスを渡し終えたサダコは、タイトルに続けて三点の注意事項を箇条書きした。
 1、仮免許有効期限……今日いっぱい(十七時まで)
 2、渡川時……流れに注意
 3、実習の工程……認識まで
「説明するからよく聞いて」
 緊張した面持ちの受講生達に視線を移動させながら、サダコは穏やかに話し始めた。
「さっきライセンスの有効期限は今日一杯だっていったけど、勿論教務時間内だから夕方五時までってことだよ。なあに、それほど面倒な実習じゃないから、三時間もあれば十分さ」
 時間の短さに学生達から不満の声が沸きあがった。
 サダコは受講生たちのブーイングを無視して腕時計を覗き「今ちょうど午後一時だから、
四時までに戻ること。いいね、向こうの時間じゃないよ。気をつけて」
 みなが渋々了解するのを見てサダコは次の説明に進む。
「次の“流れに注意”ってのは一体何のことだろうと思うかもしれないけれど、水に落ちてしまった場合、所によっては思わぬ深みもあるし、流れの急な部分もあるんで十分注意してよ、ってこと」
 受講生の一人が「はい。」と大きな声で言って手を上げた。みなが注目する。
「でも、先生。みんなせいぜい七十センチかその程度でしょ。川幅レヴェル0。簡単に跨げちゃいますよ問した受講生に優しげな視線を送った。
「みんな今はまだ正式なライセンスを取ったわけじゃない。呪詛の方法なんかは勉強したけど、経験はまだまだゼロだろ。だからもし向こうに渡って憎い相手にあって、そして憎さが薄れてしまったとしたらどうなると思う?」
 教室の中がざわつき始めた。
「川幅がまた広くなって……」質問した学生が恐る恐る口に出した。
サダコは真顔で頷いて「だから今日の実習は、相手の前にさりげなく出現する所までにすること。それ以上の接触は禁止します。危険だからね……」と諭すように云った。
 みなの沈黙が教室の空気を重くした。
「でも大丈夫だよ。もしそんなことになったときには二つの方法がある」
 サダコは再びホワイトボードに向かい、先ほど書いた文字を一度総て消した。
 マーカーペンのキャップを外しホワイトボードに腕を伸ばしかけたサダコは、思い直したように手を止めた。この仲のいったい何人がライセンスを取得して生前の恨みを晴らすことができるのだろう。ふとその事を思ってしまったのである。この実習後に行われる本試験にパスして、ライセンスを取得できる確率はといえばおよそ四十五%。不合格者の失敗の理由を見てみるとこの実習に参加しての失敗に起因するショック、すなわち自信の喪失が大きな割合を占めていた。
 ホワイトボードの前で突然すくんだように動きを止めたサダコを気遣って大庭加奈子が「サダコ先生だいじょうぶですか?」と声をかけた。
 その声に我に返ったでサダコは手にしたマーカーペンのキャップを閉めると、ラックへと戻し「やめたやめた。そんなに面倒なことじゃないから、まず向こうに渡ってしまおう。緊急時の対応については向こうに渡ってから現場で説明するよ。いいね」笑いながらサダコは十七名の受講生たちの覚悟を探るように、ゆっくりと視線を移していった。その顔はどれも今ようやく切り込みのときを迎えたように鬼気迫るものが感じられた。
「そんなに緊張しなくたっていいよ。さあそれじゃバルコニーに出てその先に階段があるだろ。あれを下りて川原へ出て」
 全員、サダコの指示に従ってアルミサッシの戸を開けてバルコニーに出た。バルコニーの端に手摺が途切れてそこから四・五段の階段を下りれば三途の川の川原に立つことができるようになっている。受講生達はまるで遠足にでも来た子供のように、嬌声を上げて階段を駆け下りていった。その様子を見る限り、心に深い恨みを抱いている者の姿にはどうしても見えない。
 サダコは苦笑して「時代かね」と呟き、傍らの機材箱からハンドスピーカーを手にした。
 受講生達はみな川原の中をチョロチョロ流れる川幅五十センチほどの小川が、それこそがあの三途の川であることになどだれひとり気付かないまま、あっさりと飛び越して向こう側の川原で走り回っている。
 サダコはバルコニーの中央に木製の手摺に左手を軽く添えた格好で立ちハンドスピーカーのマイクに口を寄せた。
「はい。その場にこっちを向いて整列して」
 サダコの透き通った声は三途の川を渡り対岸に集う学生達の所まで明瞭に聞こえた。みなその声に素直に従った。
「みんな、さすがだね。私が何にも教えないのに、簡単に向こうに渡っちまうんだからね」
「それって、どういう意味ですかぁ?」
 代表するようにモモちゃんが、バルコニーに立ったサダコの目を見つめて元気な声を出す。
「何云ってんの」サダコは笑って「あんたたちがいる場所は、もう向こうの世界だよ
「えっ、ウソ……。じゃ、そこの流れが?」
 モモちゃんはさっき皆で飛び越してきた小川の流れを指差してから、もう一度サダコに視線を向けた。
サダコはゆっくりと頷いた。
「今はせいぜい五十センチくらいの川幅だろうからね……。だけど帰りも晃だとは限らなサダコはその様子を見て苦笑した。いからね。一応安全のために伝えておくよ。」
「……」
 受講生達は静まった。
 一言ひと言気を配って説明するサダコの言葉は、ハンドスピーカーから流れ出し受講生たちの耳に届いた。
「出現訓練を終えて今いる川原まで戻ってきたとき、もし川幅が異常に広くなってしまっていたら、まずやるべきことは“怨念増幅の術”教わったろ……。これで川幅がまた元に戻って十分に狭くなったなら、ついさっきと同じように飛び越して戻っておいで……。これが一番目の方法」
 サダコは少し辛そうに顔を曇らせて「もしも怨念増幅術の効果もなく、川幅が広がったままだったり、ますます広がっていくようなときには、すぐためらわずに救援の念法を使うこと。レスキュー隊が速やかに駆けつけ、フェリーまで運んでくれる。……これがふたつ目の方法。……ただしこの方法はフェリーを使うことになるので記憶が一度消されることになる。そしてヨミランドに来てからの記憶は消去される……。つまりアカデミーで取得した単位や知識はなかったことになるわけだよ」
「ええーっ」とか「そんなー」という悲壮な叫び声が受講生たちの間に広がった。
「まあ、あんたたちが前世での恨みをどれだけ真剣に捕らえているかって事だから、きっと大丈夫だろうさ。さぁ、あとは心の中に出現場所とタイマーをセットして念じるだけだよ。さあ、行っといで。あんたたちの本懐を遂げるために」
サダコはバルコニーの上で腕を振り上げ叫んだ。

 川原に立ってサダコの話を聞いていた受講生たちの中から、まず大庭加奈子の姿がふっとかき消すように、見えなくなった。その後ひとりまた一人と空気に溶け込むように姿を消して行き、バルコニーで三途の川原を見渡サダコの前にはやがて誰もいなくなった。

      4
 新橋駅の烏森口からガード下の飲食店街に沿って十分ほど歩き、ビルとビルの隙間のような狭い道を少し入ったところにリトル・ビットはあった。古めかしい雑居ビルの三階である。エレベーターはなく、細い階段の上り口に小さな電飾が点滅する看板を置いただけのショットバーだった。場所が分かりずらいことに加え、きらびやかな繁華街から二本も三本も奥にはいった薄汚れた感じのビルだったので、どう見ても繁盛している店には見えない。特にあの事故があってからというもの客足は完全に遠のき開店休業に誓い日々の繰り返しになってしまった。
オーナーの松沼和夫は一人も客のいないカウンターの中で事故のあった日のことを思い返していた。
 気の早いサラリーマンたちが花見の席だけでは物足りず新橋周辺の飲み屋街にもどっと繰り出し、あの日はリトル・ビットもめずらしく五組ほどの客が入っていた。
 松沼の古くからの友人である羽鳥浩一郎もカウンターの一番奥の席で高い椅子に腰掛けてジンライムを楽しんでいた。ただその横に座ってソルティドックを飲んでいる女は、年末に羽鳥が連れてきたお嬢様ではなく、少しけばけばしい化粧をした安っぽい女だった。
 大庭産業の社長の娘だと羽鳥が言ったあの娘はどうしたのだろう。確か加奈子とかいったっけ。羽鳥に弄ばれた挙句捨てられたのだろうか。可愛そうに。マスターの松沼がふとそんなことを思ったとき、店のドアが開いた。
 入口に立った客の顔を見た松沼は思わず背筋に悪寒が走るのを感じた。
 げっそりとやつれた加奈子が抜け殻のようになって立っていた。
「いらっしゃい」
 松沼は挨拶しながら羽鳥に目配せしたが、加奈子はそれを見逃さなかった。羽鳥が知らない女といるのを見て、加奈子は少し驚いたようだった。そしてその眼から大粒の涙が溢れ出すのを松沼は見てしまった。
「浩ちゃんの言ってた馬鹿な女って、あの子?」
 わざとらしく羽鳥に寄り添って、女が追い討ちをかけるように勝ち誇った目を加奈子に向けた。
 加奈子は逃げ出すように店から飛び出した。そして次の瞬間、ドアの外から悲鳴と何かが転げ落ちる音が聞こえた。
 松沼は何が起ったのかと驚いて外に出した。店にいた客たちと羽鳥も松沼に続いた。
 階段の中ほどにある踊り場に女が倒れていた。
 首が不自然に折れ曲がり、頭と口から鮮やかに赤い血液が流れ出していた。

 あれから幾日が過ぎただろう。半月か一ヶ月か思い出すことができない。大庭加奈子という女の死は事故として処理された。リトル・ビットも現場検証のため店を閉めざるを得なかったのは一日だけで、結局雑居ビルの管理者に階段での事故防止に配慮するよう改善命令が出て一件落着となった。
 しかしエレベーターもない古い雑居ビルだったのでリトル・ビットへ来るにしても、他の店へいくにしても事故のあった踊り場を通らなければならない。事故のあと業者を入れて清掃はしたのだが、コンクリに滲み込んだ血液の痕跡を完全に洗い流すことはできなかった。自然に風化して消えてしまうのを待つよりないようだった。幽霊が出るという根も葉もない噂が乱れ飛び、気味が悪いものだからおのずと客足は遠のいた。リトル・ビットより上階のテナントから客の入りががた落ちとなっていく責任がリトル・ビットにあるとして松沼に苦情が殺到した。だが他人事ではなく、まだ常連客がほとんどいないリトル・ビットの痛手が最も大きかった。そしてついに客入りがゼロの日が来てしまったのである。

 松沼和夫はレジスターを空けて現金を専用封筒に入れため息をついた。客入りがゼロだから釣銭用に準備した現金もそのまま残っている。だが営業時間中は電気も使っているわけだし、収入がゼロでも借りているスペースの賃借料もかかる。松沼自身の給料だって確保しておかなければならないのだ。もしこんな状態が今後も続くなら死活問題だ。何か方策を講じなければならない。
 噂どおり、もし幽霊が出るなら出て欲しいものだ。オカルトブームのこの世相なのだから、それを売り物に客を呼び戻すことができるかもしれない。ついそんな馬鹿なことを真剣に考えてしまう自分に腹が立った。
 松沼は気が重かった。時計を見るとまだ午後九時半だったが客は誰も来そうにないので店じまいしようとレジを閉めた。店内の照明を落とすと非常口の場所を示す緑色の弱々しい光が届く部分だけはかろうじてかすかな明るさを残したけれども、そのほかは闇が支配した。あんな事故のあとだから、暗い部屋に一人残されると松沼にしてもあまり良い気持ちにはなれない。
 大急ぎで身支度を整え、松沼が店から出ようとドアに手を伸ばしたとき、ドアノブがカチャと音を聞かせた。
「すみません。今日はもう閉店です」
 まさかこんなに早く閉店になるとは思いもせず、わざわざ足を運んでくれた客なのだろう。せっかく来てくれた客に詫びようと松沼は大きく扉を開けた。薄汚れた雑居ビルには不相応に思われるほど強烈な光が差し込んだ。
 事故のあと安全に気を配ってビルの管理者が通路の照明を驚くほど明るいものに付け替えていたので、通路も階段もまぶしいくらい明るかった。当然誰か客が立っているものと思ったのだが、店の前には誰もいはしなかった。
 リトル・ビットは階段を上って三階のいちばん最初のテナントだった。リトル・ビットの奥には二店テナントが入っている。松沼は店から出て奥に目を向けたがやはり姿はない。
 何だ、気のせいか。松沼はドアを閉めてバッグからキーホルダーを取り出し扉の上下二ヶ所にある鍵をかけた。
 戸締りを済ませ、松沼は帰宅しようと振り返った。目の前に階段がある。その明るすぎる照明に照らされた階段の踊り場に髪を肩まで伸ばし白のワンピースを着たひとりの女がいた。まぶしすぎて顔を上に向けることができないのだろうか、じっと俯いてゆらゆらした足取りで立っていたいる。
 さっき店の扉をガチャガチャした客なのだろう。
 松沼は階段を下り擦れ違いざま「リトル・ビットなら今日はもう閉店ですよ。ごめんね」と、声だけかけた。
 後ろから「そうですか~」と、か細い声が聞こえたような気がした。

 サダコはバルコニーに立ち川原に視線をめぐらせては、腕時計の時刻を気にしていた。
 午後四時半。指定した集合時刻まであと三十分である。
 実習に参加した受講生の内五名がフェリーで戻ることになる。レスキューからの情報を、そうサダコから聞かされた受講生達は、みな暗い顔をして押し黙ったままでいた。
 学生達の翳りの原因が五名の仲間達が脱落したことに違いなかったが、それに対してサダコの心配事は大庭加奈子がまだ戻っていないということだった。ほかの寮生達は六人とも既に三番教室に集合している。加奈子ひとりだけがまだ姿を見せないものだから、サダコも寮生達も心の中に不安を抱き始めていたのだった。
 サダコはちょっと心配したが、まだ時間は十分にあるし頭のいい娘だから取り越し苦労だろう。もうしばらく待ってみようと自分に言い聞かせたとき、突然それまで晴れてい。た空が黒い雲をかけ、雷光を呼び寄せた。
 サダコは案ずることもなかったことを知った。霊力が強いものが移動すると周辺の磁場を乱すことがあり、そのために天気が乱れるのである。
 案の定加奈子の姿が川原に現れ始めた。
 しかし帰ってきた加奈子の様子を見たサダコは驚いて立ち竦んだ。大きな目からあふれ出る涙でその頬が濡れていたからだった。
 加奈子はサダコの胸に飛び込んで泣きじゃくった。
「なにがあったんだい?」サダコは優しく尋ねた。
「せっかく幽霊になって向こうへ行けたのに、……」
「何があった?」
「シカトされたんです……」加奈子は号泣するばかりだった。
 そのとき加奈子の背後を流れる三途の川の川幅が軋むような音を立てて縮まった。

       5
 ついに加奈子はライセンスをとった。入校して四週間弱。記録的に短い期間での取得だった。本当はこんなに強行なカリキュラムを組んでの受験は認められないのだが加奈子の気迫に負けてサダコが理事会に働きかけて許可を取り付けた。柚木高弘との再会のときいろいろ手を尽くしてもらったという気持ちがサダコの心の中にあった。それに教師としての目でみたときにも加奈子の素質が相当高いことに気付いていたので、それを確かめてみたいと思ったのも事実だった。
 加奈子にしてみても出現実習の折リトル・ビットのマスターに無視されたという思い込みによってプライドが大きく傷付けられ、逆に意地のようになって何が何でもライセンスを取るという決意を強いものにしたのだった。

 加奈子はサダコにひとことお礼を言いたくて交付されたばかりの免許証を持って教務課へ出向いた。加奈子に気付いたサダコは急ぎ足で近付いてきた。どうやらテストの結果は既に報告が来ているようだった。
「おめでとう。カナちゃん」
「どうもありがとうございました。いろいろと」
 加奈子は取り立ての免許証を誇らしげにサダコに見せた。
「カナちゃんは少し突っ走るところが有るから注意するんだよ」サダコはそうアドバイスして「ところでカナちゃん。今日夕方から時間が取れないかな?」と声を潜めた。
「別に予定はありませんけど。なにか?」
「実はこっちもちょっと良いことがあってさ。内輪でお祝いをしようと思っているんだ。わたしの家でね。もしカナちゃんが参加してくれたらもっと盛り上がると思ってね」
「そういうことでしたら喜んで伺います。ご主人ともしばらくお会いしてませんし」
「よかった。主人もきっと喜ぶわ。それじゃ夕方六時ごろ、寮に迎えに行くよ」
 サダコが嬉しそうに話を終えようとするのを加奈子が引き戻した。
「サダコ先生、久しぶりに町の中でもぶらついてみようと思うんです。時間を決めていただければわざわざ迎えに来ていただかなくても私のほうから伺います」
「そう?それじゃ七時に自宅に来てもらおうかな」
「必ず。ところでサダコ先生。いったいなんのお祝いなんですか?」
「それがね、ようやく就職が決まったんだよ。柚木にね」
「わっ。すてき。どこなんですかお勤め先?」
「それがさ、笑っちゃいやだよ。スリーウェイフェリーの旅客係なのよ」
「へえ。良かったじゃないですか。大きな会社なんでしょ」
「らしいけど……先週から試採用ってことでね、もう通い始めているの」
 授業開始のチャイムが話の腰を折った。サダコは「それじゃ、今晩必ず来てね」サダコは念を押すようにいって仕事に戻った。

 加奈子は一度女子寮の自室に戻ると外出着に着替えた。出掛けに管理人室へ立ち寄って、「お菊さん。合格したよ」と声をかけ、外出先記入表に行き先『不明』帰寮予定『未定』と記入して外へ出た。いつもならタクシーを使う道のりだったが呼ばなかった。一度くらい自分の足でしっかりと踏みしめてみたいと思ったのである。
 道は黄泉国神社の山肌をぐるぐると回りながら続く一本道である。加奈子は眩しいくらいに晴れ渡った空の下をのんびりと歩いた。歩きながら考えていたのはいうまでもなく羽鳥浩一郎に復讐することだった。ライセンスも取れたし、技術面でも練習を重ねた。デモンストレーションに感動した加奈子は、お菊に頼み込んで放課後に個人教習を受けたりもした。お菊も加奈子のひたむきな姿勢に応え真剣になって教えてくれた。
 羽鳥浩一郎の前に幽霊になって現れ、羽鳥をとり殺すだけなら十分可能だろう。加奈子が気に病むのはサダコが言っていた本懐を遂げた後のこと、つまり死んだあとの羽鳥のことだった。いくら一生懸命練習したといってもたかだか三週間だ。お菊さんは「ほぼ完璧だね」といってくれたけれど、まだまだだと思う。自分が悪かったと羽鳥に認めさせ、心を入れ替えらせることについてはまったく自信などなかった。
 羽鳥が現在のままの心でこっちへやって来たならばまたしても自分がいじめられることになるのが目に見えている。それは絶対にいやだ。あんな男を盲目的に愛していたのかと思うと虫唾が走る思いがする。だから復讐を成し遂げたならばきっぱりと縁を切って晴やかな気持ちで父母の待つところへ行きたい。ならばきっぱり縁を切ることだけを考えることにして、羽鳥に対する復讐を諦めるか。これもだめだ。思いとどまることができるくらいなら、はじめからそうしていただろう。加奈子の心にある復讐とは羽鳥を呪い殺して三途の川流域まで連れてくること。そして決して三途の川を渡ることができない環境に置き去りにすること。この二点を満たさなくてはならないのである。
 加奈子は歩きながら思わず大きなため息をついた。
 ライセンスを取得してまだ幾時間もたっていないのに加奈子は早くも暗礁に乗り上げてしまったような腹立たしさを感じ始めた。

「そんなの簡単なことじゃない」
一笑に付したのはネモフィラのミキだった。柚木に就職祝いの記念品を探そうと立ち寄ったブティック・ネモフィラに立ち寄った加奈子は、久しぶりに顔を合わせたミキに悩みを打ち明けた。するとミキが応えたのは、加奈子にしてみれば思いも着かぬほど単純な答えだった。
「改心させるだとか更正させるとか悠長なこと云ってるから、七面倒くさいことになっちまうんじゃないか。呪い殺すってことは死を与えることだろうさ。それでおしまい。あとは火の粉が自分に向かって降ってこないことだけを考えりゃいいことでしょう」
 ミキは香り高いハーブティーをふたつのティカップに注いで、一方をテーブルについた加奈子の前に置いた。
「そうだけど……」加奈子は節目がちに膨れっ面を見せた。
「そうだけどじゃないよ。抹殺してしまえばそれでおしまいじゃない。だってその羽鳥とかいう男とこれから先ずっと付き合っていくつもりもないんでしょ」
「あたりまえよ」加奈子はきっぱりと言い切った。父を裏切り、そして自分の肉体も心までも弄んだ男である。今となってはどうして許すことなど考えられようか。
 ミキはハーブティーで喉を湿らせて
「加奈子さんは優しいからね。でも時と場合によるんだよ」ミキは諭すように続ける。
「リトル・ビットのマスターにシカトされたことだってそうさ。せっかく怨念の応用ぷ方法を勉強して向こうへ渡ったんだから、もう絶対にぶち殺すって云うくらいの希薄がなくちゃだめよ。このまま弱気でいたら呪力はますます減っちゃうよ。そうしたら呪殺することすら難しくなってしまうじゃない、攻めて攻めて呪殺の瞬間までに相手の胸の内を恐怖でいっぱいにしておかなくてはね……」
「……」
 加奈子はミキの云うとおりかも知れないと思った。確かに記録的な短期間でライセンスを取得したけれども、その期間加奈子の頭の中を占めていたことといえば合格することだけであって、羽鳥に対する怨念についてはどこか遠くに置き忘れていたような気もするのだ。
 あの実習のときも、川原に戻ると川幅はずいぶん広くなってしまっていたではないか。なんとか怨念増幅法を使って川幅を縮めて戻ったのだった。
 これでは本懐を遂げることもおぼつかない。
「攻めて攻めて呪殺の瞬間までに相手の胸の内を恐怖でいっぱいにしておかなくてはね」
と、アドヴァイスしてくれたミキの言葉が頭の中に何度も何度も繰り返され、加奈子はその声に励まされた。自分の弱い部分を補強する。そう決心すると心の霧が晴れたような気がした。
 加奈子は柚木へのプレゼントを選ぶと、ミキに向かって深く頭を下げた。
 ミキは背中を向けた加奈子に「がんばって。それじゃ、また」と声をかけた。

       6
柚木高弘とサダコの新居は市街地からタクシーを使って二十分ほどの住宅街にあった。遠くに三途川を望む高台で、川に面して広い庭を置いた平屋の家屋だった。白い壁に鉄錆色の屋根を乗せた洒落た洋風の姿が可愛らしい。
 加奈子が玄関のチャイムを押すとジーンズ姿の柚木とエプロンをつけたサダコが笑顔で出迎えてくれた。
 居間に通された加奈子は「ご就職おめでとうございます。これ、安物ですけど使ってください」と就職祝いのギフトを渡した。すこし若すぎるかなと思いながら購入した若草色のネクタイだった。
 柚木は鏡の前で首に当て白い歯を見せた。
「ありがとう。遠慮なく。それより君もライセンスがとれたんだってね。おめでとう」
「ありがとうございます。なんとか」
「すごいのよ。短期取得記録を塗り替えたの。私も鼻が高いわ」サダコは少し頬を高潮させて柚木に説明した。
「それでねカナちゃん、これはお菊さんからあなたにって」
 それは小さな紙袋だった。
 加奈子は受け取り「なにかしら」といって取り出してみると小さな宝石箱で、箱を開けると一辺が五ミリくらいの小さな金属性のキューブをつけたネックレスが入っていた。
「サダコ先生、なんですか?これ」
「毎晩練習していたんだってね。お菊さんが言ってた。もう完璧だって」
「まだまだです・・・」
「そのペンダントは事を起こすときには必ず身に着けてね」サダコは意味ありげにいって「さ。それじゃあ食事にしようか。ガーデンパーティーと洒落てみたの……庭のほうへどうぞ」と立ち上がって居間の大きなガラス戸を明けた

 満天の星の下。三人だけのバーベキューの集いだった。それは暖かい優しさで加奈子を包み込んだ。
 早くに他界した母、仕事で留守がちな父。兄弟もいない。向こうの世界で過した二十数年の歳月が加奈子に与え続けたのは孤独という環境ばかりだった。そんな加奈子にとってこのパーティーは、まるで柚木とサダコの子供にでもなって楽しい団欒のひと時を過しているような幸福感に満ちたものになった。
 でもこれは自分の感傷なのだ。加奈子はそう思うことにした。本当の幸せは、ヨミランド本国で首を永くして待っているはずなのだ。それを手に入れるために自分にはすべきことがある……

 慣れない酒のせいで少しぼんやりし始めた頭を大庭加奈子は小さく振った。
 ネモフィラのミキの忠告は確かに的を射ており、ミキが云うとおり羽鳥の抹殺だけを考えるなら、問題なく実行できそうに思える。標的が憎んでも憎みきれない羽鳥なのだ。その方法について思い悩み、仮に改心させることができたとしてそれに何の意味があろう。ただの憐憫か、もしくは羽鳥に対する未練としか考えられないではないか。あらためて心の中を整理して考え直して見らと、そうとしか結論が出せないのである
 あのときもなぜ自分はリトルビットのマスターの前に出現しただけでやめてしまったのだろう。加奈子の死を心ならずも演出したリトルビットのオーナーという立場でしかないのだから、羽鳥浩一郎の友人とは言え加奈子の出現に気が付かないことだってありうることだろう。気付いていながら無視したわけではないはずだ。羽鳥本人なら受け止め方も違ったはずなのだ。加奈のほうがむしろ羽鳥の前に出ることが怖くて、逃げ出したかったといえるのではないだろうか。。加奈子は顔から火が出るほど恥ずかしかった。
 ネモフィラを出てから柚木の家までの車の中で加奈子はひとつのシナリヲを考えた。羽鳥を抹殺してしまうことが大前提となると、わずか三十分足らずで浮んだ計画だったが、それで十分な気がした。
 ただひとつ、三途の川が加奈子が思うような働きを本当にしてくるならばである……
 シナリオの現実性についてサダコと柚木の意見を聴いてみたいと加奈子は思った。しかし計画そのものが安易すぎるようでなんだか気恥ずかしく、なかなか切り出せないでいたのである。
 そんな加奈子の気持ちを察したように柚木は自分のほうから「ところで加奈子くん、僕たちに何か噺があるんじゃないかな?」
水とを向けた。
「え、どうしてそれが……」
「そりゃあ判るよ。君の顔にそう書いてある」
柚木が加奈子をからかうのを引き取るようにサダコが「かなちゃん。あなたもしかすると実行の計画を作ったのね」と、探るように加奈子の瞳を覗き込んだ。
 加奈子は恥ずかしそうに小さく頷いた。
「どんな作戦なの。ねえ、教えてよ」
自分のことのようにはしゃぐサダコを「ちょっと待ってください。その前に柚木さんにお聞きしたいことがあるんです」と加奈子は抑えた。
「ぼくに訊きたいこととだって?」
柚木は少し不安げに加奈子を見た。サダコも聞きたいことがあればそれは自分に向けられるものと思い込んでいたので、意外そうな目をした。
 加奈子は腹を決めて話し始めた。
「それじゃあお伺いします。柚木さんがなさるお仕事のことなんですけど、フェリーで渡らせる人の審査って云ってましたよね」
「そうだよ。ヨミランドで受け入れる人たちの中からフェリーに乗せるメンバーを審査して登録するんだ」
「それで升席ちょうどの人数が決まるわけね」
「なのがいいたいんだい」
「ね、柚木さん。私気が付いたんです、こっちに着いて入国管理室で記憶を返して貰ったわよね。それですっかり記憶は戻ったように思っていたんだけど、死んだ瞬間から船の中で気がつくまでのことがわからないままなの。つまり柚木さんがさっき仰ったような審査を受けた記憶や、船に乗り込んだときの記憶がまったくないのよ」
「本当だ。僕も同じだよ。云われてみて初めて気が付いたけれど」
「それからもうひとつ分らないことがあるの。私達が乗ってきた船は、せいぜい二百人ほどの客船だったわよね。乗って来たのは百名くらいに見えたけど、そもそも一日に亡くなる人が百人そこそこなんて妙ですよね。」
「百名? そんな人数なら苦労はしないよ」
「だってフェリーが一日に何便も到着している風もないし。……そうかフェリーのほかにも方法があるのか。ヨミランドに入る方法が」
「ご明察。僕も会社に入って初めて知ったんだが、いってみればヨミランドに入ろうとする人たちのアクセスゲートを決定することがぼくの仕事なんだ。フェリーにするか空便にするかをね」
「空便って……。飛行機なんて飛んでいるの?」
加奈子はいいかけてあっと息を呑んだ。「気球船か」
「その通り。フェリーから見えたあのツェッぺリン型の飛行船だよ。」
「そうだったの。私もぜんぜん知らなかったわ」と、サダコも呆れ顔を見せる。
「向こうの世界で何の問題もなく人生を全うしてきた人はこの直轄区を跳び越して空路で本国に入国する。ぼくや加奈子君のようにいわくつきの人生を終えた者達がフェリーでの直轄区入り名簿に登録されるんだよ」
 柚木は噛み砕いて説明した。
「それじゃ飛行船で渡る人間っていったいどれくらいの人数なんですか
「そうだなあ……フェリーに乗せる者たち百名に対して、およそ二千人くらいだろうか」
「二千人ですって!」
 加奈子は叫び声を上げた。サダコと柚木はその叫び声が、加奈子が考えてきた自作のシナリオに対して、確信とでもいえる強い手応えを掴み取つかんだのではないかと直感した。
   
    第六章 うらみはらさで
       1
「あの時は本当にぞっとしたよ」
 松沼和夫はカクテルグラスを洗う手を休めて遠くを見るような目をした。
「そんなばかなことがあってたまるものか」羽鳥浩一郎はカウンターごしに鼻で笑って見せた。しかし羽鳥の瞳の奥には気味の悪い話を聞いたときの不快感が宿っていた。
「考えても見ろよ」羽鳥はジンライムをあおるように飲んだ。「幽霊が、ああそうですか~、なんていうか?」馬鹿にしたように羽鳥はいってから、空いたグラスを掲げて松沼が最近雇い入れたハルオという名の若いバーテンに目配せした。
 ハルオは待つまでもなく新しいグラスに入れた薄緑色の飲み物を羽鳥の前に置いた。
「仕方ないだろう。そう聞こえたんだから」
 松沼はカウンターの中で不満そうに口を尖らせ、「おれは踊り場で女とすれちがったときに、今日はもう店じまいだと声をかけた。一瞬ぞくっとするような悪寒が走ったので、二階まで下りて二階まで下りて気になって振り返ったんだ」と思い起こすように説明した。
 羽鳥は鼻で笑って「ふん。そうしたら女はもういなかったというんだろうが。よくある話だ。振り返ってみると女はおらずその場所が水でぐっしょりと濡れていた。だろ?」と勝手に話をまとめ、蔑む用な目で松沼を睨んだ。
「そんな話なら俺も気にしないさ。どこか他の店にでも入ったんだろうなと合理的に考えるよ。ところが違うんだ」
「なにが?」
「振り返ったとき、まだ居たんだよ同じ場所に。そして、おれが見ている前ですうっと透明になって、消えた。……あれは幽霊だ。間違いなく幽霊だよ」
「いい加減にしろよ。この科学万能の時代に、なんだそれは」羽鳥は語気を荒げた。
「おれに怒ったって仕方ないだろうが。おれだってある意味では被害者なんだからな。なんだか薄気味悪くってひとりになりたくないから人を雇ったり……」
「えっ。思いっきり俺まで関係あるんすか? カンベンしてくださいよぉ」
 聞き耳を立てていたらしくハルオが目を丸くした。
「幻覚だよ。幻覚。心にやましいものがあるからそんな幻覚を見るんだよ」
羽鳥は機嫌の悪そうな表情のままいった。
「心にやましいところ?おれが?」松沼は自分を指差した。
 そもそもことの始まりは羽鳥の加奈子に対する理不尽な仕打ちから始まったことだ。それを棚に上げて、張本人から悪人扱いされるのはごめんだ。
「俺じゃあないでしょうが。恨み買ってるのは。……俺はただお前とあの女の人に場所を提供しただけだろう」
 松沼はきっぱり言い切った。
「それじゃあ俺が加奈子を殺したとでも言うのか?」
「そうはいってないよ。あれは確かに事故だ。誰もが認めることだ」
「そうとも。事故だったのさ」
「だがね死んだほうはどう思っているのかねぇ。少なくとも俺に対してはもう終わったようだ。あの日からもうかなり日がたつけど、その後現れることもないしな。店のほうにも少しずつだけど客も戻ってきている」
 松沼は店の中を見回した。確かに二組だけだが客が入っていた。
「俺に何が言いたい?」羽鳥はグラスを空けた。
「十分注意したほうがいい。それだけ言っておきたかった」
「ありがとうよ。持つべきは友人だな。結構脅かしてくれるじゃないか」
 羽鳥は大声で皮肉たっぷりに笑って見せた。
 羽鳥におかわりを作って運んで来たハルオが店の奥のほうに誰かを探すような視線を送って「あれっ」と小さな声を出した。
「どうかしたか?」
 松沼は怪訝な顔をハルオに向けた。
「あの、一番奥にいたお客さん、もう帰られたんですか?」
 ハルオは言って首を傾げた。
「お客さんって誰も出入りしていないだろ。この羽鳥と、向こうにいる二組のままだよ」
「いいえ女性の方がひとりでこられてたじゃないですか。ゴールデンエリクサーを注文してましたよね。ほら、あそこに座って」
 ハルオは松沼の返事に戸惑いながら一番奥の席を指差した。
 そこにはハルオが言うことを裏付けるように、カクテルグラスがひとつだけ置いてあった。
「あれ?」ハルオは置き放しにされたグラスを見つめて不思議そうな声を出した。
「ひと口も飲んじゃいないっすよ。これ」
 ハルオは黄金色のカクテルを満たしたままのグラスを手に取って松沼に見せた。確かにグラスは綺麗なままで口をつけた痕跡もなかった。
 羽鳥と松沼は思わず顔を見合わせた。ふたりとも顔色が一瞬にして真っ青に変わり、だらしなく開いた口からカチカチと小刻みに歯のぶつかる音が聞こえる。
 松沼は何か言おうとしたが適当な言葉が見つからなかった。
「そこにいたって?どんな女だった?いってみろ」羽鳥がハルオに詰め寄った。
「何で俺が叱られなきゃならないんすか?わけ分かんないっすよ」ハルオは口を尖らせた。
「どんな女だった?」なだめるような口調で松沼がいいなおした。
「ずっといたじゃないっすか。早くから。綺麗な女の人で、髪を肩まで長く伸ばして……」
 ハルオの記憶は完璧に加奈子の特徴を捕らえていた。
「あの女の人が幽霊なんすか?まさかそんな」
 震えながら黙り込んでしまったふたりを見てハルオは笑ってみせた。いつまでもこんな重苦しい空気のままではたまらないと思ったからだった。だが奥の席に女を見たのはハルオ自身なのだ。だからその笑いはどこかへ虚しく消え去ってしまった。

「すみません」大きな声が聞こえた。
 あまりに突然だったので三人はそれぞれの場所で飛び上がった。三人とも自分の心臓が早鐘のように脈打つのが分かった。恐る恐る声のほうに顔を向けると二組のカップルが帰り支度をして立っている。
「帰るよ」と客の一人がいった。しかし恐怖が頭を支配しているので客たちが何を言っているのか判断できない。松沼はどう返答したらよいか判らず「帰れ!」と怒鳴った。向こうが帰るといっているのだから問題あるまい。
「だから、帰るよ」
「今すぐ帰れ」
「なんだとこの野郎」ついに客のほうが切れた。
 ハルオが一番先に正気に戻り、気色ばむ客をなだめて
「マスターお勘定ですよ」ととりなした。
 二組の客たちが店から出て行くのを見送って、ハルオがドアを閉めた。
「幽霊なんて初めて見ましたよ。何があったんすか?」
 ハルオの質問に答える代わりに「今何時だ」と松沼が聞いた。ハルオは腕時計を覗いた。
「十一時過ぎです」
「店じまいにしようか。片付けを始めてくれよ」
 治夫に指示して松沼はレジを閉めた。
「暇なんだろ。居酒屋にでも行って飲みなおそうや」
羽鳥が松沼の背中に向かっていうと松沼は「いいね。ハルオもどうだ」と誘った。
「いいっすね。ご馳走になります」
 幽霊を目撃したことについても単に珍しいものを見たという程度にしか受け止めていないハルオが一番早く立ち直ったようだった。ざっと掃除を済ませカジュアルウェアーに着替えると「おまちどうさま」とおどけて見せた。
「それじゃ行こうか」
羽鳥が先に立って店のドアを開いた。相変わらず明るすぎる光が流れ込んできた。
 羽鳥はそのまばゆい光に満たされた階段の踊り場に佇むそれを見た。
「ウワッ」
 声にならない声で叫んで羽鳥は店の中に戻った。
「だめだ。あの女俺たちを待ってやがる」羽鳥は頭を抱えてしゃがみこんだ。
「本当か?」
 松沼は閉めたドアを細く開けて隙間から覗いてみた。踊り場がかすかに見える。誰もいない。
「気のせいじゃないのか。だれもいないぜ」
松沼は思い切って大きく扉を開けた。そこに加奈子が立ちはだかっていた。落ち窪んだ眼窩の奥に恨みの光が宿っている。その口元から赤いものが糸を引くように流れていた。三人は悲鳴をあげその場にへたり込んだ。加奈子の亡霊を外に残したまま、扉がスプリングの力で閉じた。
「何とかしろよ、羽鳥」松沼の声がほとんど悲鳴のように反響した。羽鳥とハルオは閉じた扉を必死で押さえハルオが震える手で何とか内側からドアロックをした。非常灯の緑色のぼんやりした明かりしかない暗がりの中に三人は取り残された。誰一人もう一度扉を開けてみようという勇気はない。三人とも押し黙って扉の向こう側の気配を探っているばかりだった。
「とにかく明かりを点けてくれよ」羽鳥の声で我に返ったようにハルオが立ち上がった。
 ハルオはスイッチボックスに手を伸ばした。スイッチを入れようとしたときハルオは何かを感じてカウンターの奥に目をやった。
 この世のものとは思われぬハルオの絶叫がリトル・ビットの店内に満ちた。腰が抜けてその場にへたり込んだハルオはただ奥を指差している。
 羽鳥と松沼はハルオが指差す先を見た。叫び声が上がった。その場から何とか逃れようと扉をぐいぐい引っ張ったがロックされているから扉は開かなかった。
 カウンターに座った加奈子の亡霊はゆっくりと三人のほうに顔を向けた。

「うらめしや浩一郎さま……」
加奈子の亡霊は怨念のこもるエコーの効いた声で囁くとゆっくり立ち上がった。
「松沼さん。それからそこの坊や……あなたたちには何の恨みもありません。さあ、もうお帰りなさい。ごめんなさいね驚かせて」
加奈子が言うと扉のロックが音を立てて外れた。ハルオと松沼は腰を抜かしたままいざるように店から逃げ出した。羽鳥もあわよくばついでに逃げようとふたりを追って出口へと向かった。
「なに考えてるの。お前はだめだァ。お前だけは逃がさんぞ」
 羽鳥の目の前で扉がゴーンという鈍い音を聞かせて再び閉じた。羽鳥は閉じた扉に背中を預けるようにして加奈子のほうに向き直った。その顔が血に染まっている。ゴーンという音はどうやら羽鳥が閉じる扉にしたたか鼻を打ちつけたときのものらしかった。
「俺をいったいどうしようって言うんだ」羽鳥は泣き声を出した。
「黄泉の国へと連れて行く」加奈子の亡霊はそういうとヒヒヒと笑った。
「俺が悪かった。許してくれ。ごめんなさい。もうしません」
「だめだよ。もう遅いんだよ」
 加奈子は恐怖に包み込まれ叫ぶことさえできなくなってしまった羽鳥を嘲笑うように歩み寄った。
「マスターもバーテンも逃げ出してしまったわよ。あの女も、私が手を下すまでもなく自ら命を絶った。もうお前を庇うものは一人もいないのさ」
 加奈子はおびえる羽鳥に恨みの視線を投げた。
「嫌だ。やめてくれ」
 羽鳥のその声は加奈子には聞こえなかった。
 加奈子は精一杯の怨念をこめて唱えた。
「魂魄この世にとどまりて、恨みはらさでおくべきや」
その声は店中のあらゆるところに反響し羽鳥に襲いかかった。胸にかけた小さなキューブが、恨みの炎を宿したように赤く燃え上がった。炎はやがて加奈子の体全体を包み込んだ。全身から真紅のオーラが放たれているようだった。
 地鳴りが地の底から轟き始めたかと思うと、それは地震のような揺れを伴って立っていられぬほど激しいものになっていった。
 ビルの外には耳を劈くばかりの雷鳴が轟き渡り青白い光が絶え間なくフラッシュした。
 リトルビットは加奈子が作り出した怨念の領域に入り込んだ。棚に収めていたボトルが全て飛び出し床に砕ける。ナイフやフォークなどが空間を飛び交い壁に音を立てて突き刺さる。カクテルグラスやシェイカーなども例外ではなく、なぎ倒されるように棚から払い落とされ乱舞した。

 扉が突然外側に開いた。扉の前で頭を抱えて屈みこんでいた羽鳥は見えない力に突き出されたように店の外へ放り出された。羽鳥は両手両足で踏ん張り、下り階段の際でかろうじて転落をこらえた。しかしそっと目を開くと踊り場に立って恨めしそうに羽鳥を見上げ、おいでおいでと手招きする加奈子がいた。羽鳥浩一郎の身体から全ての力が抜けたように見えた。羽鳥は階段を転げ落ち、踊り場の床に思い切り頭を打ち付けた。ぐきっ、という嫌な音が聞こえた。最後にリトルビットの中から飛び出した果物ナイフが倒れた羽鳥の胸に狙いを定めたように一直線に落下し、深々と突き刺さった。血しぶきが舞い上がり、階段の下から心配そうに見上げていた松沼とハルオに降り注いだ。

      2
 加奈子は計画の第一段階を終えて三途川渡り口に戻ってきた。実習のとき使用した木造の掘っ立て小屋のような建物である。授業では教室ひとつを利用しただけだったので気がつかなかったのだが、中に入ると教室や休憩室などがまずまず整っていて、入浴や簡単な食事などもできる施設だった。
 加奈子が計画を実行に移すというので、何かあったときのためにとサダコとお菊が休憩室に待機していた。
 ちょうど時計の針が午前零時を指したとき、少し乱暴にドアが開いて加奈子が上気した顔を覗かせた。
「どうだった」サダコが聞いた。
「終わりました。第一段階は」と加奈子は報告した。
 それは加奈子にとってうれしい報告のはずだった。しかし加奈子の瞳は宙を漂っていた。
「それにしてもお菊さん、あのペンダントはすごいですね。全てを実体化してしまうんですね。迫力がありすぎて怖いくらいでしたよ。それに」
 加奈子は興奮しているようだった。
「それに、あの男の惨めさって言ったらなかったわ。腰を抜かしちゃって……這いずり回ってた。お皿やナイフが飛び交う中で許してくれ、許してくれって気がふれたみたいに叫んでいたわ。挙句の果てに扉から飛び出して。悪いことばかりした報いですよね……」
 加奈子はそういってけらけらと笑い出した。興奮で自分が何をいっているのかさえ分からなくなっているようだった。
 サダコとお菊もそれに気付いてお互いに顔を見合わせた。いつもの加奈子の様子とは明らかに違っていたからである。
「カナちゃん。カナちゃん。しっかりおしよ」
 サダコは加奈子の肩を押さえて声をかけた。すると驚いたことに加奈子の両方の大きな目から大粒の涙がとめどなく流れ出した。
「どうしたの?カナちゃん」
 サダコは優しく行って加奈子を抱きしめた。加奈子は今はもう忘れてしまったはずの母のぬくもりをサダコの胸の中で感じていた。
「サダコ先生。わたし、ひとを殺めてしまった。しかも楽しみながら……許されないことです」
加奈子はサダコに抱かれながら「わたしどうしたらいいんだろう。わたしどうしたらいいんだろう……」と泣きながら繰り返すばかりだった。
「カナちゃん。気にしなくていいんだよ」サダコは加奈子の頭を優しくなでながら「カナちゃんは誰も殺してなんかいないよ。ただちょっと懲らしめて、こっちの世界につれてきただけの話さ」
サダコは加奈子の辛い思いが少しでも軽くなればと願った。
 その言葉が加奈子に聞こえたのかどうか。それはサダコにも分からなかった。肩の震えが止まったので様子を見ると、加奈子はサダコの胸に顔をうずめたまま穏やかな寝息を立てていた。
「おやまあ」サダコはお菊を見た。
「よほど緊張したんだろうねぇ」
「そうですね、きっと。でも明日もうひとつ大仕事が残っているのに。大丈夫かしらね」
「よろしいじゃございませんか、失敗しても」
 お菊はしばらく加奈子の眠り顔をいとおしげに見つめていたが、やがて何度も自分の首を縦に振ってサダコに視線を戻した。
「心が綺麗なのでしょう。そこに俗世の風を突然入れたものだからこんなことになったのでしょう。でもねサダコさん。こんなにあどけない顔しているけれど、もう立派な女ですもの。ちゃんと自分で納得のいく答えを出すでしょうよ」
 サダコはお菊の言葉を聞いてにっこり微笑んだ。

 加奈子は休憩室の窓から差し込む暑い日差しに眠りの淵から引き戻された。壁にかけられた時計の針はもう八時を回っている。休憩室の床は板張りだったがサダコかお菊が気を利かせてくれたらしく、敷布団が二枚重ねて敷いてあった。
 いい人ばかりだと加奈子は思った。
 昨夜は自分でも理解ができないほど興奮してしまった。人を殺してしまったという罪悪感が加奈子の胸の内に満ちて、冷静に物事を判断することができなくなってしまったのだろうか。そうではないことに加奈子は気がついていた。加奈子をパニック状態に陥れたのは罪悪感ではなかった。それは惨めに泣き叫ぶ羽鳥の姿を目の当たりにした優越感と満足感、言葉を変えるなら喜びといってもあながち間違いではない心の動きだった。そこには楽しみながら羽鳥浩一郎をいたぶっている自分の姿があった。善であるはずの自分の中に残酷な悪が同居しているのを加奈子は知ってしまったのである。それは人として軽蔑されてしかるべき愚かしい行為に違いない。しかし他に対して圧倒的優位に立ったときいじめる喜びとでも言えそうな感情がおのずと生まれてくるのもまた人間なのかもしれない加奈子は背筋がぞくりとするのを感じずに入られなかった。

 枕元に封書が一通置いてある。加奈子宛で差出人はサダコとお菊の連名だった。
 加奈子は封書を開け、中から三つ折にした便箋を取り出した。便箋には筆文字で次のようにしたためられていた。

『加奈子様
 昨夜はお疲れ様でした。
 本懐を遂げられた由伺いました。まことにおめでとうございます。
 私ども両名明日の仕事がありますので帰ります。
 あとは加奈子様の思うとおりに実行してください。
 心から応援いたしております。
 最後に昨晩加奈子様の心中お聞きいたしました。
 でも決してご心痛のようなことは無いと理解しております。
 物事はそれを見る角度によってまったく異なった見え方をするものであることを十分心にお留め置きください。
 吉報をお待ちいたしております』

 手紙を読み終えた加奈子は熱いものがこみ上げるのを覚えた。手紙には加奈子へのねぎらいと思いやりに溢れたものだったが、同時に彼女がこれからしなければならないもうひとつの大仕事についての期待と激励がその文面のそこここに読み取れるように加奈子は感じていた。

       3
 もう少し機能的に出来ないものだろうか。
 不快指数満点の蒸し暑さだ。ヨミランドへの入国手段はフェリーよりも航空機のほうが圧倒的に多い。職員なら誰でも知っていることだった。それならなぜ空調設備もしっかりしていないこの建物に受付を置くのだろう。職探しをしていたとき一度見学させてもらったが、エアターミナルは実に近代的な建造物だった。何故機能的に改善しないのか理由を問うたことがある。会社は太古からの伝統を守るためと説明するのだが柚木には何のことやらさっぱり分からなかったし、限度って言うものがある。だから伝統にかこつけたような答えを返されると腹が立った。
 しかし何分にも新入社員の身である。あまりしつこく意見することもできない。
 柚木高弘はうんざりして額の汗を拭った。
 今日もまた二千五百人を越す旅客の受け入れをしなければならないのだろう。三畳間ほどの個室と這った受入審査は五部屋あり、それぞれに係員がついている。ドアを開けるとカウンターの向こう側に審査官が座っていてので窓口一ヶ所当たりおよそ五百人。旅客一人につき一分の手続き時間がかかるとして五百分。もし一人でこなすとすれば休みなく働いても計算上たっぷり八時間は必要になる。
 実際には三交代の勤務で、朝九時に受付を開始して正午に午前の受付が終了する。ここで係員が交代して午後の受付は一時から四時まで。再度係員が交代して夜の受付が五時分から八時と一人当たりの窓口勤務は三時間。
 時間数だけを聞くと随分楽な仕事のように感じるが、何の達成感も得られないような単純作業が途切れることなく続くのである。
 それにもし夜の受付でも処理しきれない旅客が出た場合には全て終了するまで残業とる。
 翌日に繰り越すことは出来ない。
 向こうの世界で死亡した人間の個人データはおよそ半日遅れでヨミランドの受け入れデータベースに登録される。死亡者たちはこの受け入れ所前の広場に次々と集まり、そこで自分の名前が呼ばれるまで待つことになる。
 いさあさかうんざりした顔で柚木高弘は目の前の旅客から預かった死亡証明書と入国受付syp所案内sypきょああ書類に大きなAのスプを押し、「Aのドアから入ってください。待合室になっていますので中でお待ちください」と告げて送り出す。Aのスタンプは、入国受付証に押される空路を使用する承認印である。フェリーで直轄区へ入る場合は、Fのスタンプが押されることになる。

 柚木は単純な仕事に飽き飽きしながらも手を止めることなく続けていたが、頭の中ではつい先日自宅で開いたガーデンパーティのときのことを思い出していた。あのとき加奈子から明かされたシナリヲはは実に恐ろしいものであった。
 フェリーに乗せられて向こうの世界から三途の川を渡り、ヨミランド直轄区に入った人数が異常に少ないことに気がついた加奈子は、遥かに多くの旅人達が別の方法で入国しているはずだと確信したという。柚木はその加奈子の洞察力に驚いた。ここにきたときの柚木には考えも着かないことだった。確かにこの会社に入ってから、フェリーと飛行船による移送の仕組みを知ったのだが、それでもこの仕組みが加奈子の復讐のシナリヲに一役を買うことになろうとは夢にも思わなかった。
 フェリー組百名に対して空路を使うものはおよそ二千人だと告げたとき、加奈子は「それじゃ混雑してるでしょうから、ひとりくらい行方不明者がいても気付かれることもありませんよね」と嬉しそうに目を輝かせた。この加奈子のひと言は、柚木に羽鳥浩一郎を川
こうに足止めしてほしいと頼んでいることになる。
「カナちゃん、あんた羽鳥を……」
 サダコがその言葉の奥にあるものに気付いて加奈子を見つめた。
 加奈子も目を逸らさなかった。
 数秒間の気まずい沈黙のときが流れ、加奈子はついに目を伏せた。
「だって、改心させるだけの力もないし。もう決めたの。同じことでしょう。きっぱり縁を切るなら……」
「川向こうで対決するつもりなの?同じ土俵なのよ」
サダコは心配して尋ねた。
 加奈子は笑みを浮かべて頷いた。
「はい。策があるんです。絶対に負けません」
 加奈子はきっぱりと言い切った。加奈子の意志の固さに、サダコもそれ以上何も言うことができなかった。
 サダコはすがるような目を柚木に向けた。

 柚木は精一杯の笑顔を見せて男を気球搭乗者用の待合室へ案内するとすぐにまた審査員席に戻り、かうんたあーの内側の棚に置かれた端末のディスプレーに目をやった。
 ディスプレーには十名の氏名と生年月日、予定の入国手段が表示され、それらの内ライム色にフラッシュしていた柚木が対応していた男の情報を記した行が、登録終了と同時に消去される。そのほか四名分のデータがワインレッドの色で点滅しているが、これが他の審査員が処理中の旅客である。
 壁に取り付けたデジタル時計は十一時半を指している。
 加奈子が計画を開始する時刻は午後十一時である。首尾よく事が進んだとすると羽鳥のデータもそろそろディスプレー上に表示されるだろう。ふとそんなことを思いながらディスプレーに表示されたいくつかのボタンのうち『ENTER』を選びクリックする。すると送り出した旅客の名が消え、新たな旅客名として羽鳥浩一郎という文字がせり上がってきた。柚木は他の窓口係員に先んじてカーソルを移動させ、羽鳥の名前をクリックした。

       4
「羽鳥浩一郎さん、一番の窓口へどうぞ」マイクに向かって羽鳥の名前を呼び出す。
 ディスプレーには羽鳥の氏名や略歴などありきたりの情報が表示され、その下に死亡時の特殊事情として大庭加奈子の呪怨に起因する心臓発作により死亡という記載がある。この欄に記載のある人物は原則的にフェリーによる渡河となる。
 原則的というのは出国の受付で審査担当官による聞き取り調査の際、担当官が特殊事情に当たらないと判断すれば変更しても良いことになっているからである。
 要するにヨミランドへ渡る旅人の希望でどちらでも良いといっているのと同じことだった。フェリーはおよそ百名の乗船定員にならなければ出帆しない。
 国から運行補助金が出てはいたがスリーウェイフェリーの台所は厳しいものがあった。だから会社としても運行経費削減のためなるべく空路を薦めるように職員の指導をしている有様だった。一言で言うと形ばかりの受付業務だった。
 羽鳥が姿を見せないので柚木は再度「羽鳥さん。一番へどうぞ」と呼びかけた。
 ドアが乱暴に開いて男が入ってきた。年齢は柚木より少し若く見える。女好きのする甘い面構えの細身の男で、上背は柚木とほぼ同じくらいだが痩せている分小柄に感じられた。グレーのスーツを着ているがノータイで、ワイシャツのボタンを二つ目までだらしなく外している。
 羽鳥は両手をズボンのポケットに突っ込み、なで肩を精一杯いからせて柚木の待つカウンターに歩み寄った。
 柚木はその格好を見て羽鳥浩一郎が気の弱い臆病者であることをひと目で見抜いた。
「ここはどこなんだ」
 羽鳥は柚木の前に来るなり怒鳴った。
 柚木は挑戦的なその態度に、鋭い視線を羽鳥に返した。しばらく睨み合いが続いたが羽鳥のほうが先に目を逸らした。
「あなたはもう死んだのですよ。羽鳥浩一郎さん」柚木は穏やかに言った。「ここは死後の世界の入口です」
「何をばかなことを」羽鳥は小さく笑って柚木が進める前に椅子に腰掛けた。「こうして現に生きているだろうが」
「こちらの世界で生きているということならば確かにその通りです」
 柚木は冷たく突き放した。今、何も知らずに目の前で訳もなく牙をむいている羽鳥浩一郎という名の臆病者に、辛く悲しい思いをさせられたのはきっと加奈子ばかりではないだろう。柚木は直感し、よく知りもしない羽鳥浩一郎というこの男に敵意を持った。可南子から得た情報を心の中で幾度も幾度もこねくり回しているうちに、無性に腹が立ってきたのである。怒りは時間とともに膨れ上がった。しかし自分が可南子と協力して書いたシナリヲによって羽鳥がこれから受けるであろう仕打ちを思ったとき、その怒りがいつか心地よく楽しいものへと変化していることに柚木は気付いてにやりと口の端をゆがめた。
「どういうことだ、それは」
 感情のない柚木の言い方が癇に障ったらしく羽鳥は大きな声を出したが柚木はまったく動じず、冷ややかな目で羽鳥を見た。
「じきに全て分かってきますからね。心配なさらなくていいですよ。私にできることは、羽鳥さん、あなたに三途の川を渡る方法を選んで差し上げることくらいしかありません」
「三途の川だと?それじゃ何かい、俺は本当に死んだのかい?」
「いったでしょう」
「加奈子のやつ、どこにいるんだ。ふざけやがって」
「加奈子?だれですそれは」柚木はディスプレーを覗くふりをxzして「ああ、なるほど。加奈子という女に取り殺されたわけですか、格好悪いですねぇ。あははは」と声を出して大笑いして見せた。
「だまれ。加奈子のやつめ、今度会ったらただじゃおかない」
「その方でしたら川向こうの幽霊居住区にいるでしょうね」柚木は嘘っぱちを並べた「それじゃあ、羽鳥さん、船にしましょうか。その女に仕返ししたいのならそれしか手はないですから」
「そうしてくれ」羽鳥は軽率に答えた。
「分かりました。では死亡確認証と入国受付証をください」柚木は羽鳥がスーツの内ポケットをまさぐるのを見ながら「でも覚悟してくださいよ」と、意味ありげな口調で付け加えた。
「なにを?」羽鳥は手を止めて柚木を見た。
「幽霊居住区に一度入ってしまうと一生その町から出ることはできませんからね。一生といっても今度は無限の長さですし、それに……」
「まだあるのか?」
「船といってもねぇ、遊覧船に毛の生えたような船だからね。川の流れも速いし、度々消息を絶ったりするんです……」
「失敗したらどうなるんだ」
「わかりません、そんなこと。新聞なんかにはよく遭難、行方不明なんてね。出ていますよ。川にはピラニヤ見たいな魚も住み着いているらしいし……処分されてしまうんでしょうねぇ、きっと。」
 柚木は一度言葉を切ると羽鳥の様子を窺った。思ったとおりその視線は不安と恐怖で空中を漂っている。
「確認証と入国受付証を出してください。水路使用のスタンプを押しますので」
「ちょっと待ってくれ」羽鳥は慌てふためいて「一般的にはどうなっているんだ?」と、確認する。
「ほとんどの入国者は空路を使いますね。ヨミランド行きの大型飛行船ですが」
「ヨミランド?」
「もとは黄泉の国といってました。国名変更にオなったんですよ、最近」
「それにしよう」羽鳥はもっともらしい顔でいった。
「えっ。でも加奈子とかいう女のほうは?」
「いやもういいんだ。彼女には何の恨みも未練もないからね」
「分かりました」柚木は笑い出したいのを必死になって押さえ、羽鳥の死亡確認証にAのスタンプを押した。
「Aのドアから入ってください。待合室になっています。空港行きのバスが来ると思いますが、あなたは乗らないでください。十二時二十分になりましたら私が空港までお送りします。確認証に特殊事情の内容記載があると原則としてヨミランドに直接入ることはできない決まりなんですよ。結構難しい入国試験があって、パスしないとその時点で船便確定ナのです。空港で私が試験免除の手続きをしてあげます。ただ、確認証をもし誰かに見られたりしたなら厄介なことになりかねない。バスに乗るなというのは確認証を見られないための用心です。だから羽鳥さん。あなたも十分注意して間違っても他人に覗かれたりしないように」
 柚木は口から飛び出す思いつきを並べて、いじめっ子のように羽鳥にぶつけた。

   第七章 抹消作戦
       1
 柚木高弘が午前の受付から解放されあらかじめ駐車場に入れておいたマイカーを待合室横の送迎バス乗り場へ回すと、羽鳥は不安そうな顔をして柚木を待っていた。
 計器パネルのデジタル時計に目を向けると十二時二十分ちょうどを示している。約束した時間になったばかりだというのに、羽鳥の身体は落ち着きなく揺れ動いて気の弱さをさらけ出していた。
 柚木は車を羽鳥の目の前に停めると助手席の窓を開けて「後ろに乗ってください」と声をかけた。本来なら一度車を降りて外からドアを開けてやるのがマナーなのだろうが、そこまで礼を尽くす必要もないと言わんばかりにあごをしゃくって見せる。羽鳥が後部座席に乗り込むや否や柚木は車を発進させた。
 道は右手の大河と左側に広がる裸地との境界線のように三途の川に沿って続いていた。
 海のような川と荒涼とした荒野という味気ない風景の中を貫く道路だけはきわめて立派ものであった。

 一時間ほど走ると荒野の中に白い建物が見え始めた。
「あの建物は?」
目敏く見つけた羽鳥浩一郎が指を刺す・
「あれが空港です
羽鳥と柚木の声が重なった。出発してから押し殺したような沈黙に呑みしない込まれていた車内の空気が一気に軽くなった。話題がなかったわけでも会話を避けていたわけでもない。二人ともただきっかけを掴みかねていただけだった。
「今一時半です。羽鳥さん、あなたが乗るのは夕方六時の便です」
「まだ随分時間があるじゃないか」
 羽鳥は近付いてくる白い建造物に目をやったまま不満そうな声を出した。
「腹、空いたでしょう」「
「そうだな」
「とにかく空港で何か食いましょう。空港だけですからね、食事ができるのは」
やがて『空港方面左折』の案内標識が現れ、あっという間に後ろへ流れ去った。交差点が近付き案内表示の通り左へハンドルを切ると空港はもう目と鼻の先だった。

 地下駐車場へ車を入れてエレベーターを使って空港ビル三階まで上がるとレストラン街になっていた。エアグルメという洋食の店に入りランチメニューをふたりは注文した。
「三時の便が取れればよかったのですが生憎満席でしてね。次の便になってしまいました」
 柚木が申し訳なさそうに言うと羽鳥は少し笑った。
「何時の便だっていいさ。どっちにしたって右も左も分からないんだ。少し気持ちを整理する時間があったほうがいい」
「ここから車で三十分ほど行くとこの地域の観光名所で三途の川展望公園というところがあるんですよ。良ければ時間つぶしにご案内しましょうか」柚木は水を向けた。
「そうかい。それじゃお願いしよう」
 羽鳥は躊躇なく誘いに乗った。
 食事を済ませ羽鳥と柚木は再び車に乗り込んだ。
「それにしても」柚木はいった「最近ではめずらしいパターンですねぇ」
「なにが?」
「こっちに来ることになった原因ですよ。亡霊によって命を絶たれたなんて本当にめずらしいことです。最近では二千五百人に対して三人か四人くらいしかいませんからね。大笑いですよ」
「大きなお世話だ」羽鳥は不愉快そうに口をゆがめて見せた。
「こっちの世界で暮らしていると存在するっていう事は生きているっていうこととイコールだと分かっているでしょう。世界が違うだけでね。ところが向こう側の世界では幽霊や亡霊を含めて魑魅魍魎に関しては死んでいるのに存在しているような変な扱いをされています。そんなばかなことがあるわけがないのに誰も気付かない。だから向こうの世界の人間が亡霊という田舎芝居みたいなものに恐怖する姿って言うのは実に滑稽なんですよ」
「どうせ俺はお笑い者さ」
「ところで羽鳥さん。あなたその何とか言う女性にいったい何をしたんです」
「そう特別ことは何も……・惚れていると思わせといて遊ぶ金を少し頂戴しただけだよ」
 羽鳥の言葉に加奈子を苦しめたことに対する後ろめたさはまったくなかった。加奈子が死んだことだって階段を転げ落ちた事故だったではないか。俗っぽく言うなら世間知らずの女が勝手にのぼせ上がって甘い夢を見た。これが原因なのだ。非は加奈子のほうにあるのに一方的に自分だけが責められるのは納得できない。羽鳥の口調には加奈子に対する怒りさえ感じられた。
 柚木は運転を続けながらもし羽鳥がこのままヨミランドに入って加奈子と同じ世界で生活することになれば、間違いなく加奈子にとって辛い日々が続くことになると思った。柚木の就職祝いのパーティーを催したとき加奈子はひとつの策を柚木とサダコに示した。それが上手くいけばいいけれども、万一失敗したならば……。だがそれは加奈子自身が決めることなのだだ。これ以上手を貸すことはできない。加奈子がそれを決断したからには、柚木にできることといえば加奈子が仕事をし易い環境をつくってやることしかない。柚木が加奈子にしてやれることはそこまでなのである。その仕事もあと僅かで終了するいう所まできているのだ。
 やがて柚木と羽鳥を載せたワンボックスカーは上り坂に差し掛かった。かなりの急勾配を車は喘ぎながら登り続け、上り詰めたところに三途の川展望公園の駐車場があった。

      2
 コンクリートで舗装した駐車場には利用している車も見当たらず、荒んだ空気を漂わせていた。少し先に公園の入口ゲートがある。近付いてみると駅の改札口のような改札機が三台並んで設置されていたが、その前には閉鎖と記された立看板が置かれている。入場券売り場もシャッターが下ろされていた。
 柚木と羽鳥は無人の改札をこじ開けるようにして園内に入った。雑草が石畳を押し上げていたるところに煤けた緑色の群生を作っている。二人はアーケードの下の十メートルばかりの通路を抜け正面広場に出た。
 そこはそれほど広くもない正方形の広場で周囲を高さ三メートルほどの煉瓦塀で取り囲まれていた。中央には円形の花壇があって、四季の花が美しく咲き乱れている。
 柚木も羽鳥も忘れかけていたフルカラーの世界に戻ったようなほっとした気持ちを覚えた。
 しかしせっかく和んだその気持ちも長くは続かなかった。
 柚木は花壇に近付き一番手前の燃えるように赤いサルビアの花に手を触れた。
「造花です」柚木は残念そうな顔を羽鳥に向けた。
「ここはヨミランドでもなければ貴方が昨日まで住んでいた世界でもなくてその中間地帯です。かつてヨミランドではここに観光公園を造って財政収入を増やそうとした。そして失敗したんです。それ以来閉鎖されたままなんですが、国は権限を三途の川の向こう側までに決めてしまったので、現在は勝手に入園してもお咎め無しなんですよ。羽鳥さん、向こうに三途の川を見渡すことができるところがありますよ。行って見ませんか?」
 柚木はそういうと羽鳥の返事も聞かずに歩き出した。
 羽鳥はこんな廃墟のような場所にひとり残されるのは嫌だったから仕方なく柚木の後を追った。
 柚木は造花の花壇に沿って回り込むように進んだ。
 先ほどまで話をしていた場所のちょうど向かい側まで進んで柚木は足を止めた。
「ここが入口です」
 柚木は腕を伸ばして煉瓦塀の一部を指差した。煉瓦塀の向こう側には岩肌に腰を少し屈めれば何とか通ることができるくらいの小さなトンネルが穿たれていた。近付くとトンネルの奥から強い風が吹き出している。
 羽鳥は中を覗いてみた。トンネルは少しの間緩い勾配で奥に向かって下っていたが、その先に外光が差し込んでいることからそれほど深いものではないことが知れた。
「足元が悪いので気をつけてくださいよ」
 柚木は躊躇することなくトンネルに入っていった。羽鳥は渋々柚木の後を追った。

 緩勾配の坂道は入口からの見かけどおり羽鳥の身長ほど下ると、ほんのわずかの平坦な通路の向こうに空があった。トンネルの出口に立つ柚木の姿がシルエットになって空中に浮かんでいるようだった。
 羽鳥が追いつくのを待って柚木はトンネルの外へ出た。
 柚木に続いて羽鳥がトンネルから出ようとするのを見て「気をつけてください」と柚木が大きな声でいった。
 一歩踏み出しただけで、羽鳥はその意味を理解した。煉瓦壁から続くトンネルは断崖絶壁の頂上付近にできた天然のテラス状の場所に抜けていたのである。
「うっ」声にならない声を発して羽鳥は思わず後ずさった。
「凄いところでしょう。実は私もつい最近知ったんですよ。どうです、あれが三途の川です」
 柚木が手のひらを上に向け指し示す先には無限の広がりを見せる大海原ならぬ大河原が広がっていた。
「イメージとまったく違ったよ」
「私もこっちに着たときにはそう思いました。向こう岸で先に逝った懐かしい人々が手招きをするなんて話も聞いていましたからね。向こう岸なんてどこにも見えやしません」柚木は笑った。
 羽鳥は再度、しかし今度は慎重に、テラスの際まで進み、下を覗き込んだ。目もくらむ高さだった。おそらく二百メートルか、いやもっとあるのかもしれない。
 テラスはトンネルを中心に半径三メートルほどの半月形で安全対策の手摺すらなく、そこに立つと羽鳥ならずとも引き込まれるような恐怖を覚えるに違いなかった。
 このときになって羽鳥の胸の内に一つの疑問が芽生えた。それは何故この柚木という男が自分をこんな危険極まりない場所へつれて来たのだろうかという単純な疑問だった。観光名所だと柚木は言った。こんなところが観光地であろうはずがない。そう思うとこの疑問はたちまち膨れ上がって、不安から恐怖へと形を変えた。何の疑いも持たず誘いにのってしまった自分の軽率さを羽鳥は悔いた。柚木を見る羽鳥の視線に警戒の色が混じった。

 柚木はそんな羽鳥の心の動きをたちどころに見抜いた。
「そんな怖いものを見るような目で見ないでくださいよ」
「こんな場所に俺を連れて来て、いったいどういう魂胆なんだ」
 羽鳥は柚木に警戒の目を向けたままトンネルの中に身体を戻した。
「魂胆ですか。安心してください。羽鳥さん、別にあなたをとって喰おうなんて思っちゃいませんからね。ただあなたにぜひ会って欲しい人がたった一人いるだけで、それ以外にはなにもありませんから」
「だれだ。それは」
 羽鳥が詰め寄ると柚木はそんなことは分かっているだろうという視線を羽鳥に返した。

「わたしよ、羽鳥さん」
 加奈子の声が聞こえた。声は入口の方からではなくトンネルの外から風に乗って聞こえてきた。羽鳥だけではなく柚木も驚いてテラスのほうに目を向けた。そこには純白の法衣に身を包んだ加奈子が立っていた
「いったいどこからテラスに……」
 そんな疑問が柚木の脳裏をかすめたが、すぐにその答えは分った。加奈子にとって三途の川の川幅は小川のせせらぎにも満たないほどなのだから……。
「何でもできるわ」
 羽鳥を見下したように加奈子はその口元に薄笑いを浮かべた。それは加奈子によってこっちの世界に引きずり込まれた羽鳥にとって、大きくプライドを傷つけられる笑いだった。
「そんなことより柚木さん、本当にありがとうございました。この場を作っていただいて」
 加奈子はさらに羽鳥を無視した。
「役に立ててよかった。それじゃあ僕は一度空港に戻って羽鳥さんの入国手続きをしてくるよ。五時には駐車場に戻るから待っていてくれ」
「わかったわ」
「羽鳥さん。確認証を預かります」
 羽鳥はしぶしぶ内ポケットに入れた書類を柚木に手渡した。
  
  3
 柚木が空港へと引き返し、三途の川を見下ろす断崖のテラス上には加奈子と羽鳥の二人だけが残された。羽鳥にとって加奈子は幽霊であり自分をこの黄泉の国へ引き込んだ張本人である。死んだといわれても意識も感覚も完全にもとのままなので、ああそうですかと素直に信じることはできない。羽鳥の頭の中には自分はまだ生きており加奈子は幽霊だという観念がそのまま残っていた。だから加奈子がまた幽霊になって自分を呪い殺すために現れたのだと考え付いたとしても不自然ではない。羽鳥の身体は恐怖のためにがたがたと震えた。
「学習能力がないわね、羽鳥さん」
 加奈子は軽蔑のまなざしで羽鳥を見た。「ここは中間地域といっても死後の世界よ。あなたも私も対等の立場。生きてる人間と幽霊の関係じゃないわ。もう少ししっかりしたらどう? 男ならね」
 まくし立てるように加奈子は羽鳥の心を突き刺す言葉を並べた。
 加奈子に一喝され羽鳥はようやく震えが収まるのを感じた。しかしまだ幽霊コンプレックスとでもいうものがあるのか、少しおどおどしている。
「俺をどうしようっていうんだ?」
「抹殺します。あなたを」加奈子はきっぱりといった。
「抹殺だと」
 羽鳥の目が光った。
 羽鳥がテンションの上がりやすい男であることを加奈子は知っていた。もうじき決着がつく。加奈子はそう確信した。
「またあの魔法を使うのか? それに……」
「それに? 何なの?」
「今、俺は死んでいるわけだろう。それをまた殺すっていうのは矛盾しちゃいないか?どういうことだ。死んでいる俺をまた殺すってのは。元の世界に戻すって事か?」
「最低。発想の貧困もここまでくると笑うしかないわね」
加奈子はフンと鼻を鳴らし「抹殺って言うのはねこの世界からも向こうの世界からも永久に葬り去るっていうことよ。分かりやすくいうなら削除するってこと。ゴミ箱を空にするって言ったほうが分かりやすいかもね。それから何でしたっけ……そうそう魔法ね。あなたには魔法なんて要らないわ。もったいないから」
 加奈子は羽鳥の頬がピクリと引きつるのを見た。その目が赤く充血している。よし、もう少しだ。加奈子は緊張した。
「ねえ、羽鳥さん」加奈子はにやりと笑った。
「あなたが私を騙して付き合っていたあのバカ女のことだけれど。どうなったと思う?」
「自殺したとお前が言っていたじゃないか」
「ばかみたい。あんなの嘘っぱちに決まってるでしょ」
「なんだと」
「私ね、あの女のこと許してやろうと思ったの。あの馬鹿女だって結局あなたに遊ばれてるだけに違いないって思ったから。でもあの女のほうが上手だった。羽鳥さん。あの女ね、あなたがこっちへ来たとたんもう新しい男と仲良くなって、楽しそう旅に出たわよ。可哀想に、あなたもとんだ三枚目ね」
 加奈子はできるだけ羽鳥を挑発するように大きな声で笑った。羽鳥の瞳の奥に殺意の炎が燃えあがっている。
 加奈子の心も極限まで高揚していった。向こうの世界から引きずり込んでこの場に立たせた羽鳥という歯向かうこともできぬ弱者を、まださらにいたぶって追い落とそうとしているのだ。絶対に負けることのない勝利を確信した上での振る舞いに違いない。羽鳥が恐れれば恐れるほど、乱れれば乱れるほど加奈子の精神は昂ぶっていった。しかも羽鳥には救いの手はどこにもないのだ。快感が笑いとなってこみ上げてきた

 加奈子は断崖の際まで進むと無防備にも羽鳥に背中を向けたまま笑い続けた。
 来る。加奈子は感じた。
 加奈子は全神経を背中に集中させた。タイミングを間違えたらそれで終わりだ。

 どこまで馬鹿にすれば気が済むんだ。羽鳥は全身の血液が逆流するような憤りを感じた。確かに俺はお前を利用し弄んだ。しかし騙されたお前のほうにまったく非がないといえるのか。お前が呆れ果てるほどの世間知らずだったこと。それこそがあんな悲惨な結果を生み出した原因になったと思わないか。俺は報いを受けてこっちへ連れてこられた。俺は全てを失ってこの世界に来た。十分じゃないか。
 崖っぷちに立って背中をむけ笑い続ける加奈子に羽鳥は強い殺意を覚えた。俺を抹殺するだと?やってもらおうじゃないか。お前が仕掛ける前に俺がお前の息の根を止めてやる。
 羽鳥はトンネルからテラスに出ると両腕を突き出すようにして加奈子の背中めがけて突進した。

 来た。加奈子は羽鳥が自分を突き落とそうと突進してくる気配を感じた。
 確かに加奈子は自分が世間知らずだったと思う。だdからと云ってそんな人間を弄ぶ権利など誰にもないのである。しかし物事は見る角度を変えればまったく別物になる。もしこのまま羽鳥がヨミランドに入ったとすれば自分は何をされるか分からないし、社会的にどんな評価をされるかだって果して加奈子に好意的なものばかりとは言い切れない。それを避けるにはこうするしかない。何もなかったことにする。それが加奈子の出した結論だった。挑発され見境をなくした羽鳥が加奈子をテラスから突き落とそうと突進してくる。まさに加奈子の計画通り羽鳥は動いたのである。
 加奈子は羽鳥の両手が背中に触れたその瞬間を逃さなかった。羽鳥の両腕に力が入るや否や、加奈子はテラスから思い切って跳躍した。
 加奈子を突き落とそうと力をこめた両腕が突然心張り棒が外れたように宙に突き出された。
 羽鳥はたたらを踏んだが既に遅かった。必死にテラス上に止まろうと足を踏ん張ったが身体の重心は既に崖の外にあった。羽鳥浩一郎は勢い余って絶望という虚空に身を躍らせたのだった。
 まさか加奈子が飛び降りるとは予想もしていなかった。羽鳥は自分の体が宙に舞うのを感じながらそう思った。しかし加奈子が身を投げたというその判断すら正しくないことを羽鳥は知った。三途の川に落下するのではなく影も見えないほど遥かな対岸に向かって飛翔していく加奈子の姿が見えたような気がしたのである。それはどんなに考えても羽鳥の常識では理解できるものではなかった。

 全てが終わったことを感じ取って柚木は車を停めた。ダッシュボードを開け柚木は一枚のファックスを取り出した。今朝早くサダコがフェリー会社の自分宛に送ってよこした私信のファックスだった。加奈子との昨夜のやり取りを報告した上で、加奈子が多少ナーバスになっているかも知れないからよろしくフォローしてやって欲しいと書いてあった。
「物事はそれを見る角度によってまったく違う見え方をする、か……」柚木は呟いた。
 この三途の川にしても羽鳥には海のような大河だが、加奈子にとっては川幅わずか一メートル足らずの小川なのだ。それにしてもそれを直ちに応用して行動に移すとは加奈子という娘も怖い子だ、と柚木は思った。
 いずれにしてもこれでもう迎えに戻る必要も空港に行く用件もなくなったわけだ。まっすぐ職場に戻ることにするか。柚木は羽鳥の死亡確認証とサダコからのファックスを小さく引きちぎり、車の窓から紙吹雪のように外へ投げ捨て再び車を発進させた。

   第八章 黄泉に吹く風
       1
 加奈子は大河を難なく飛び越えてヨミランド側の川原に無事に着地した。
 いつの間にか空一面に厚い雲が広がり、まだ夕暮れと呼ぶには早すぎる時間にも拘らず辺りは暗さを増している。今にもひと雨来そうな空模様だった。
 大河を飛び越したと云っても、加奈子にとってその川幅は一メートルにも満たないものなのだから、跨ぎ越すようなものだったはずだ。それなのに加奈子は苦しそうに肩で息をしていた。その上顔中が引きつって痙攣している。その口元からは笑い声とも泣き声ともつかない呻きが零れ出ていた。
 暫くして加奈子は気持ちを落ち着かせようと数回深呼吸をしてから、ゆっくりと周囲を見渡した。見咎めるものはひとりもいない。目の前に建つ三途の川渡り口の掘っ立て小屋もひっそりと静まり返っている。ただ受付室の小窓にはもう灯りが点いているところを見ると管理人は詰めているのだろう。加奈子は念のため透明モードになった。取り巻く光が一瞬きらめいてその全身を覆ったとか思うと、加奈子は光の中に同化したように透明になって姿を隠した。
 加奈子はゆっくりと小屋に近付いて、管理人がいると思われる受付室の小窓からそっと中を覗くと、窓口の椅子に腰かけてジーンズに皮ベストを着た老管理人はこくりこくりと居眠りをしている。
 加奈子は正面口へ回り、ドアのノッカーを強く打った。
「はーい。ただいまー」と、眠たそうな返事があって、やがて鍵を明ける音がした。
 ドアが内側から開かれ管理人が顔を出す。
「どうもご苦労……あれれ」
 管理人の挨拶は尻切れトンボになった。加奈子が透明モードになっているから、目の前に立っていても気付かないのだ。
「おかしいなあ」
 首をかしげてドアから一歩外に出、老管理人は誰かいはしないかと周囲を見渡した。道路を挟んで向こう側の駐車場周囲に植えられた立木が、三途の川から吹き上げる風にゆったりと揺れているだけである。
 加奈子は老人に気付かれない様に注意して足下足落ちている小石をひとつ拾い上げ、建物の一方の角に置かれたドラム缶に向かって放り投げた。小石は見事に命中して甲高い音を立てた。
「誰かいるのかい」管理人は腰に手を当てながら振り返り、そちらのほうに歩を進めた。
加奈子はその隙を見計らって小屋の中に滑り込んだ。足音を忍ばせながら休憩室の前まで来ると、音を立てぬように気を配ってノブを回した。
 休憩室の中は、加奈子が昼近くに出発したときのままだッた。畳んでおいた布団の位置も、着替えを入れたァファスナーつきの手さげ袋も、三途の川を越えるとき部屋に置き放したままになっている。加奈子が戻っていないので、管理人もまだ掃除もできないたのだろう。
 老管理人が戻ってくる足音が聞こえた。どうやらこちらへ向かって歩いてくるようだ。加奈子が透き通った姿のまま部屋の片隅に身を寄せじっと息を殺していると、ドアが開いて老人が入ってきた。しかし室内を一目見て誰もいないことを確認すると「やっぱり気のせいかのう」と寂しそうに呟いて管理人室に引き上げて行った。
 加奈子は透明モードを解いた。法衣を脱ぎ普段着に着替えて鏡台の前で着こなしを確かめる。手さげ袋は幽霊用の衣装である法衣を普段着を入れてきた手提げ袋に入れた。これはここに残しておくしかない。透明モードになれるのは加奈子が身に着けているものまでなのだ。だからバッグなどは手に持っているうちは透明になっているけれど、うっかり手を離したりするとたちどころに姿を現してしまう。それは自分の居所を悟られてしまうことに繋がるわけで甚だ都合が悪い。
財布だけはウエストバッグに入れ替えて腰に回し、次に加奈子は備え付けの電話でタクシーを手配した。駐車場で待つと告げると十五分ほどで来られるという。了解して受話器を置きほっと一息ついた加奈子は、再び透明モードに戻った。足音を立てないように忍び足で廊下の突き当たりにある非常口から外に出て駐車場へ向かった。
 駐車場に沿って並んだ立木の陰に隠れるように立って加奈子は透明モードを解除してタクシーの到着を待った。

       2
 ヨミランド心霊アカデミーのスタッフルームで、サダコは不安と苛立たしさに取り付かれていた。明日の朝までに昨日行った模擬試験の採点を終了させ、午後には希望する学生がいたら今後の対策を指導しなければならない。だからその他のことになど関わりあってはいられない忙しさなのだ。ところが遅々として仕事が進まない。時計を見るともう午後四時半になる。
 サダコが気にしているのは加奈子のことだった。もう連絡があってもよい時刻のはずだ。それなのに何の連絡も情報も入ってこない。時々寮のお菊に電話を入れて、そちらに連絡がないか確かめてもいるのだが、お菊の返事も「残念ですが今のところは何も……」を繰り返すばかりだった。サダコの胸の中に不安が膨れ上がっていく。
 失敗したのではないか、という最悪の結末が脳裏を過ぎる。
 こんな気持ちのままで仕事を続けても中途半端で生徒達に対して無責任極まりないものになってしまいそうだ。加奈子の守備を見届けてそのあともう一度学校に戻って仕事を続けたっていいじゃないか……。サダコは意を決して立ち上がった。
 職員出入り口のスペアキーをウエストバッグに入れ、サダコは自家用車で飛び出した。
目的地は三途の川渡り口である。
 何かこちらに戻ることのできない事態が発生しているのだろうか。失敗して返り討ちにあったのでは……。ハンドルを繰りながら考えるのはそんなマイナスのことばかりだった。
 二十分ほど走ると三途の川沿いの長い直線道路に差し掛かった。道路の右手に玉石を敷き詰めたような川原が広がっている。あと十分も走れば小屋に到着するはずだ。サダコはアクセルを踏む足に力を入れた。
 はるか前方に小さく車のヘッドライトが見えた。こちらに向かってくる車のライトである。
 三百メートル程まで近付いた所で、サダコはその車がタクシーであることに気がついた。
「カナちゃんかも……」
 サダコは急ブレーキをかけて停車させ、タクシーに向かって激しくライトをパッシングさせる。。
「お願い。止まって」
 サダコは祈るような気持ちだった。
 近付いてくるタクシーはサダコの願いが通じたように速度を落とし、サダコの車の真横まで来て止まった。
「どうかしたの?」
 タクシーの運転手が窓を下ろして親しげな言葉をサダコに投げた。
サダコも窓を下ろす。
「すみません。この先で若い女性を見ませんでした?」といいながら後部座席を覗き込む。
 客は乗っていない。
「いるはずだったんですがねえ……」運転手は困惑した顔でサダコに答えた。
「どういうこと?」
「今朝九時ころ、その方かどうか知りませんけど、電話もらいましてね。夕方四時にこの先の駐車場に来てくれって……。迎車の予約ですよ。で、迎えに来たんです。」
「いなかったの?」
「一時間待っても来やしません」
「ありがとうね」サダコは窓を閉めて車を発進させた。ルームミラーの中のタクシーが見る見る小さくなっていく。

 やがてサダコが運転する車は三途の川渡り口の駐車場に到着した。
 掘立小屋のような事務所まで全速力で走り、ドアを強くノックする。
顔見知りの老管理人が「おや、これはサダコ先生」とドアを開いて怪訝そうな顔をした。
「カナちゃん、戻ってない?」勝手に休憩室へ歩を進めながらサダコは聞いた。
 管理人はサダコの足の速さについていけずぜいぜいと片で息をするばかりだった。
 休憩室に着いたサダコは部屋の中を見渡して愕然とした。加奈子の手提げ袋が置き放しになっていたからである。思惑通りことを成し遂げて戻ってきたならば、着替えを済ませバッグを持って出るはずだろう。
「戻ってないんだ……いったいどうしたの。カナちゃん」」サダコはひとり言のように呟いた。悪い予感がして心臓が苦しいほど高鳴っている。
 管理人がようやく追いついて休憩室に入ってきた。
「顔を見せんから心配しとったんだが、学校にも戻っとらんのかい。わしはあのとき戻ったものと思っていたんだがなあ……」と、管理人はサダコの背中に声をかけた。
「えっ」サダコは驚いて振り返り老人の目を見つめた。
 老管理人はまだ息をぜいぜいさせながらこの日の夕方の奇妙な出来事のことを話した。「誰か来たようだと思って戸を開けたんだが、だれも居らんかった」
 老管理人の話にはっと閃いたように、サダコは加奈子が残していった手提げ袋を手に取りファスナーを開いた。中にはには白い法衣が入れられていた。
「そうか、やっぱり戻っていたんだ」サダコはひと安心してほっと息をついた。


       3
 三途の川渡り口の駐車場で呼びつけたタクシーに乗り込んだ加奈子は、運転手に中央商店街へ向かうように告げた。
 達成感でもなければ後悔とも違う、自分でもなにがなんだかよく理解できない気持ちの昂ぶりが加奈子を支配していて、今は一刻も早くサダコがやってくるであろう場所から身を隠したいと思った。
 確かに羽鳥浩一郎は自分の人生を滅茶苦茶にした男に違いない。しかしそれが羽鳥を亡き者にして良いという理由になるのだろうか。物事は角度を変えてみると全く別のものになる、とサダコは云うが本当だろうか。葬られる立場の羽鳥にしてみればどちらでも同じことなのではないだろうか。
 三途の川を見下ろすあのテラスの上で、羽鳥には万に一つの勝ち目もなかったろう。あったのは加奈子が命を落としたときと同じように、ただ恐怖と口惜しさと混乱だけだったはずだ。
 加奈子はそれでも実行したのである。しかも喜びと楽しさと興奮を身体全体で感じながら……。
 どんなに角度を変えてみても変わりようがないではないか。何の抵抗もできない者を自分はいたぶり抜いて抹殺したのである。自分は凶悪な殺人者なのだ。
 呼吸ができないほど重苦しいものが加奈子の中にとりついていた。

 一度深呼吸をしようと頭を上げたとき、はるか前方にこをらに向かってくる車のヘッドライトが見えた。車は三百メートルほどまで近付くと突然激しくライトをパッシングさせた。
 サダコ先生に違いない。加奈子は咄嗟に透明モードになった。
「私ここにいるから安心して」
 透明のまま運転手に声をかけると、「あっ。透明モードだ。スゲー!」と運転手は喜んだ。
「あの車の人の話を聞いて。でも私は乗っていないことにして。お願い」と手短に言って加奈子は息を潜めた。
「任せときな」運転手は胸を叩き、車の速度を落とした。

 パッシングで合図を送ってきた小さな自動車が路肩に寄せて停車した。タクシーの運転手は運転席を並べる位置で道路の反対側に車を止めてウィンドウを下ろした。
「どうかしたの?」
 努めて親しげな言葉を探して呼び止めた相手に投げた。
 小さな車を運転していた女性が窓を下ろす。
「すみません。この先で若い女性を見ませんでした?」といいながらさりげなく後部座席を覗き込む。
 やはりサダコだった。加奈子は身を硬くする。
「いるはずだったんですがねえ……」
 運転手は困惑した表情を作って膨れ面をサダコに向けた。
「どういうこと?」
「今朝九時ころ、その方かどうか知りませんけど、電話もらいましてね。夕方四時にこの先の駐車場に来てくれって……。迎車の予約ですよ。で、迎えに来たんです。」
「いなかったの?」
「一時間待っても来やしません」
「ありがとうね」女性は窓を閉めて車を発進させた。ルームミラーの中で女性が運転する車は見る間に小さくなって行った。

 タクシーもまた走り出した。
「あれでよかったですか」鼻歌交じりに運転手が自慢げに口を開いた。
「完璧よ」加奈子が煽てる。
「いや、お恥ずかしい。ところであの女性いったいだれなんです。ずいぶん心配そうな顔してましたけれど」
 確かに後部座席を覗き込んだサダコは心配そうにしていた。川向こうに渡ったきり戻るべき時刻が過ぎても一向に返ってくる気配を見せない教え子がいる。何か予期せぬ災いが降りかかったのではないか、計画が失敗に終ったのではなかろうか。優秀な成績でライセンスを取得させた可愛い教え子である。その生徒が行方知れずになっているというのだから心配するのも当然だろう。
 羽鳥の件が決着を見たときには、何を差し置いてもまずサダコに報告を入れるのが筋であることは加奈子にも良く分かっている。
 それではなぜそれをせず、姿を隠そうとしているのか。加奈子は混乱して自分でもそのわけを理解することができなかった。思いつくことはただサダコの前に顔を出すのが怖いという理由だけなのだ。
 自分は紛れもなく何も抵抗ができない者を楽しみながら葬った、残虐非道な殺人者に違いない。
 羽鳥浩一郎に受けた口惜しい思いを晴らすだけならば、向こうの世界からヨミランドへ誘うだけで十分だったのではないか。
 恐怖に転げまわりながら加奈子に許しを乞う男の姿を、あのショットバーで見たことで良しとすべきだった。
 同じヨミランドにいては災いが降りかかるからというだけの漠然とした理由で、羽鳥の存在そのものを無くしてしまうというのは、加奈子の傲慢で身勝手な思いにすぎない。
 サダコは例免許を取得できるよう指導して恨みを晴らす方法を教えてくれた。けれどもヨミランドからも抹消することを進めたりはしなかったはずだ。ネモフィラのミキは確かに羽鳥の抹殺を進めた。しかしあのときは加奈子の決意が揺れ動いているときで、見かねたミキが気持ちを強く持てと激励した格好になる。
 現在の混乱の原因をミキのせいにするわけにはいかない。事を起こしてしまった責任は皆加奈子自身にあるのだ。
 このように混乱して昂ぶった気持ちのままでどうしてサダコの前に顔を出すことができるだろうか。サダコだけではない。お菊にも柚木にもミキにもそれから桜内百恵にも合わす顔がないのだ。

「お客さん。到着ですよ」運転手の声が聞こえた。
 我に返って目を明ける。
 加奈子の目の前に、すっかり見慣れた中央商店街のアーケードが見えた。
  
     4
 加奈子は観光土産店で野球帽を買い、つばを下向きに目深にかぶって俯き加減でホテルへと向かった。もう寮には戻らないつもりだった。ヨミランド入り口行きのバスは最終便が午後四時と早く、もう出てしまっている。だから一晩ホテルで休んで、明日朝一番のバスに乗るつもりだった。加奈子の荷物などはお菊のほうで時が飽きたら処分してくれるだろう。そんな身勝手なことを考えたのも、加奈子の心が揺れ動いているためだったのかもしれない
 ホテルのロビーは、驚いたことに加奈子が到着した日のような大混雑を見せていた。耳に入ってくるのは何でも大きな災害があり、不慮の死亡者が多数出た。当然怨みつらみを持ったものも多くなり、この直轄区経由の移住者もふえているという噂である。
 これではホテルも空室はないだろう。そう考えた加奈子は踵を返し、バスターミナルへと向かった。明日朝のバスの発車時刻を確認するためである。
 ターミナルの案内書で尋ねると明日は乗客が多いと思われるので通常の始発便の前に臨時便を運行させるとのことだった。臨時便は朝五時四十分はつと五十分発の二便で、それぞれ定員になり次第発車するとのことだった。今夜一晩どこかにもぐりこんで休み、明日この臨時便で発とう。加奈子は腹を決めた。とはいっても、どこにもぐりこんだら良いのか。サダコやお菊が待ち構えているだろうから、寮に戻るわけにも行かない。ホテルは満室だしこの案内所のベンチで一晩明かそうか。あれこれ考えた末に、加奈子が思いついたのはウサンだった。閉店前に姿を消して店に紛れ込み、ボックス席でも使わせてもらって夜を明かせばいい。そうと決めたらいくらか気持ちが落ち着いた。
 加奈子は近くの喫茶店で軽い夕食を済ませ、コーヒーと店に備え置きの女性週刊誌出時ランを潰し、九時過ぎになってウサンに向かった。
 加奈子がウサンの前まで来たとき入り口の前に置いた行灯の灯りが消えた。
「え、もう閉店?」
ドアが開く気配に慌てて加奈子は透明モードに入る。ケンが外に出てきて店の中にしまおうと行灯に手をかけたとき、中から電話の鳴る音が聞こえた。ケンは忌々しそうに店の中に戻っていく。すれ違いに若いアルバイトのバーテンがふたり、普段着に着替えて出てきて「お先に失礼しますー」とケンに声をかけて、帰って行った。
 加奈子はケンの後に続くように、忍び足で店内に入った。
 カウンターの中で鳴り続けていた電話のコール音が止まり、「はい。ウサンです」というケンの声が客のいないウサンの店内に響いた。
「あ、先生。はい。いいえここにはまだ何も……」
 どうやらサダコかららしい加奈子は聞き耳を立てた。
「いえ。今夜はぜんぜん客こなくって早じまいしたところなんです。先生これから来られます? え、テストの採点。徹夜ですか。お疲れ様です……はい。分りました。ここで待ってみます。連絡が入ったら電話します。学校のほうですね……」
 ケンは受話器を置くともう一度表に出て行灯を引きずるようにして戻ってきた。壁際に身を摺り寄せるようにして息を潜めている見えない加奈子の前を通るとき、ケンは気配を感じたのかほんの一瞬足を止めたがすぐにまた歩を進めた。
 ケンはリモコンを使って有線のライトミュージックを入れてから、カウンター中央部分のライトだけを残してその他の灯りを落とした。
 音を立てぬように注意して、ゆっくりとスツールに腰かける。それでも加奈子の体重を乗せたスツールは小さく軋む音を立てた。
 ケンは手際よくグラスにジンライムを作り、コースターに乗せてカウンターに置いた。その澄んだ瞳は加奈子にしっかりと向けられていた。
「いるんだろ、そこに?」ケンは囁いた。
 加奈子の緊張が一気に解けて、大きなため息に変わった。
「ばれちゃったか……」加奈子は透明のまま素直に返事をした。
「薄めに作ってあるよ。飲んで」
 ケンはビールの栓を抜いてグラスに注いだ。
「サダコ先生、今夜は徹夜だってさ」
「そう。……」
「姿、見せたら?」
「いやよ。できるわけないわ」
「どうして?」
 ケンは一気にグラスを空けた。するとケンの手元においてあったビール瓶が。ふっとかき消すように消え、ケンが手に持ったままの空いたグラスの中に中空からビールが注ぎ込まれた。ケンは「あ、どうも」と見えない相手からの酒を受けた。
「だってわたし、殺人者なんだよ」
 加奈子のグラスが消え、空中に氷が転がる音がした。
「おいしい」
「そうか。そうだよな。しかたないか……」
「そうだよ、しかたないよ」その声はかすかに震えていた。
 カウンターの上に野球帽がふっと出現した。ケンは野球帽を手にとって「へえ。こんなダサイのかぶってるんだ」と笑う。
 加奈子もつられて笑い声を立てた.

「でもあのときのサダコ先生、可愛かったよなあ……」
 権が遠くを見るような目をして話題を変えた。
  あの時とはもちろんサダコと柚木高弘とが再会したときのことに違いない。つまり加奈子がサダコと店に来たときのことだ。
 確かにあのときのサダコ先生は少女のような表情をしていた。加奈子はケンの目を見て思い出した。あの日からおよそひと月。いろいろなことが加奈子に起こった。総てが終ってみればそれらのどのひとつをとってみても、サダコが手助けをしてくれたからこそ成し遂げることができたのだと思う。今、目の前に立つケンの純朴な目を見ていると、それらの出来事が走馬灯のように加奈子の頭の中を過ぎった。加奈子は自分の身体が抑えきれぬほど震え始めていることに気付いた。お願い、誰か震えをとめて。加奈子は胸の中でそう叫んでいた。

 ケンは加奈子が急に押し黙ったのに気がついてふと見えない加奈子のほうに視線を向けた。
「震えが止まらないの。怖くて……。ケンちゃんお願い震えを止めて」
 加奈子のそんな心の叫びが聞こえてくるように、ケンは感じた。ふと見るとカウンターに置いた野球帽の横に加奈子のジーンズとTシャツが湧き出すように現れた。ケンはその意味に気がついた。
 ケンはカウンターからゆっくりとフロアーに出て、見えない加奈子の方へ近付いていった。

「加奈子さん……」
 それしか言葉にならなかった。
 加奈子が身に着けていた最後の薄布がふわりと舞い降りた瞬間、ケンの身体は前のめりに引き寄せられ、かき消すように見えなくなった。

   終章  それぞれの別れ

 地下駐車場に車を入れたサダコは後部ドアを開くとリアシートに腰かけたお菊に「急いで」と声をかけた。
 徹夜して何とかテストの採点を終了させ、寮でお菊を乗せてバスターミナルに辿り着いたのである。
 ちょうど開いたエレベーターに飛び込み地上隗へと向かう。
 ひと月ほど前、土砂崩れによる障害で足止めを食った客でごった返していた『ヨミランド線』の待合室は、何故かまた大勢の人達で埋まっている。だが考えてみればあの交通障害がサダコと柚木高弘の間を取り持ったのだから、何に感謝すべきなのだろうと、サダコは苦笑いを浮かべるしかなかった。
 サダコは待合室内意を見渡した。しかし混雑で加奈子の姿を見つけ出すことはできそうになかった。
 壁に貼られた出発時刻表を見てサダコは驚いた。『混雑のため臨時便を通常の始発時刻の二十分前及び十分前に増便いたします』と書かれた紙が張られている。どうやらつい今しがたヨミランド入り口行きの臨時バスは発車したばかりらしい。
 サダコはお菊の手を引いたまま自動ドアを開いてバス発着所に出た。プラットフォームにバスは既になかった。
 サダコもお菊も諦めがつかないように悔しそうな顔をして肩を落とした。
「行ってしまいましたね……」と、サダコは呟いた。
「そのようですわね」お菊も囁いた。
 すぐ傍に備え付けのベンチがあった。背もたれに広告を印刷した合成樹脂製のどこにでもありそうな硬いベンチが、あまり使うものがいないと見え埃をかぶっている。
 サダコとお菊はどちらからともなくハンカチで軽く椅子の上に被った埃を払い、並んで腰かけた。
「寂しくなりますね」
 サダコは昔を懐かしむように遠い目をした。
「そうね。いい子でしたしね。でも、いろんなことがありましたけれど一緒に過ごした期間は、そんなに長いことでもなかったですわね……」
 お菊は少し意外そうな顔をし「せいぜいひと月くらいのものですのにね」と日数を数えるように指を折った。
 サダコは頷いた。お菊が云うとおり、記憶を辿って指を折っていってもほんの一ヶ月間ほどの付き合いでしかないのである。それなのにこの寂しさはいったい何なのだろう……。
「でもどうして挨拶もせずに、ああして逃げるように行ってしまったのでしょうね」
 サダコにはそれがどうしても理解できなかった。
「怖かったんでしょう」お菊が遠くに視線を向けたまま静かに答えた。
「怖かった? 私たちが?」
「いいえそうではなくて、きっとあの子自身がですよ。なにしろ初めて人様を手にかけたと思い込んでいましたからね。だからそんな自分の周りにある総てのものが、あの子にとって不安と恐怖の対象だったのでしょう」
「優しい娘でしたものねえ」サダコはひとつため息をついて「でも本国に入ったら、私たちのことなどきれいさっぱり忘れてしまうんでしょうね。そう考えるとなんだか寂しくて……」と、声を詰まらせた。
 しかしお菊はそんなサダコに、意外にも穏やかな笑顔を返した。
「同じことじゃありませんか。そんなことはどちらでも」
「えっ」
 サダコはお菊が何を云おうとしているのか分らず、怪訝な表情でお菊の瞳を覗き込んだ。
「だってそうじゃありませんか。サダコさん。あなたの胸の中の加奈子さんの思い出も加奈子さんの記憶が消えてしまうように一緒に薄らいでしまうのですか? そうじゃないでしょう。いつでもサダコさんが呼びかけさえすれば必ずやってきて答えてくれるんじゃないでしょうか。そりゃあ、怒っているか、泣いているか、それとも笑っているのか、そんなことまでは知りませんけれど、とにかく加奈子さんは決してサダコさんのことを忘れたりするものですか。いつまでもサダコさん、あなたの胸の中に生き続けますわよ。私の中でもね……」
「そうですね。ありがとうございます。お菊さん」
 サダコは目頭が熱くなるのを感じてお菊から目を逸らした。ハンカチで涙を押さえたが
椅子の埃を払ったハンカチだったので、涙のあとがうっすらと黒くなった。

 お菊の話に納得して行き交う車の流れに目を戻したとき、サダコの視線はターミナルから出て道路を走り出した一台のバスを捉えた。遠ざかっていくバスの中ほどの窓から、一人の女が大きく身を乗り出すようにして手を振っている。サダコは驚いて立ち上った。しかしそれが加奈子かどうか確認するには、バスは遠く離れすぎていた。
 お菊がベンチに腰かけたまま、サダコを驚いたように見上げている。
「どうなさったの?」お菊が尋ねる。
サダコはただ首を横に振って笑顔を見せ「さあ、そろそろ帰りましょうか」とお菊に手を差し伸べた。

 ターミナルから一般道へ出るためのブースで順番を待っているとき、ふとターミナルのほうへ視線を走らせた加奈子は、建物のガラス製のドアが開いてサダコとお菊が急ぎ足で出てくるのを見た。わざわざ見送りに来てくれたのだろうか。
 バスが走り出してしまったことに気付いて、肩を落とす二人の顔が哀しそうに曇っているのが加奈子にも良く分った。
 加奈子の大きな黒目勝ちの目から停まることを忘れたように涙があふれ出し頬を伝った。
 サダコ先生もお菊さんも本気で加奈子のために尽くしてくれた。それなのに自分はただの冷血な殺人者になって、世話になった多くの人たちに礼を尽くすことも忘れて逃げ出そうとしているのだ。
 ヨミランド本国へ入るとき、この直轄区で過した日々の記憶は消し去られるという。加奈子はそのことに心の救いを求めていたのかもしれない。
 素直に報告に戻ったとしても、加奈子の行動が咎められることなどあるはずもなかった。
 全てが終わったならもう何もいわないから安心して甘えに来て。あの手紙はそれだけを言いたかったのではなかったのか。もしそうだとすれば加奈子の取ったこの逃避行は、人としてあまりに情けない最低の行為に違いなかった。
 バスはようやく一般道に出、スピードを上げ始めた。サダコとお菊の姿がどんどん小さくなっていく。
 ひときわ強い風が三途の川方面から吹き上げて、通行人たちが身体をすくめている。
 加奈子は窓をいっぱいに開いて身を乗り出し、大きく手を振った。
「サダコ先生。お菊さん」加奈子は声を振り絞って叫んだ。
「ごめんなさい。わたし……忘れないから。わたし、絶対に忘れないから」
 その叫び声はヨミランドの朝の喧騒と、風の唸りに飲み込まれた。


                              了

黄泉に吹く風  (うらみはらで・リメーク)

黄泉に吹く風  (うらみはらで・リメーク)

大庭加奈子は黄泉の国の心霊アカデミーに入学寮生活を始める。加奈子を弄び、その人生をズタズタにした羽鳥に復讐するためだった。加奈子は担任となったサダコ先生と柚木との再会に力をかし感謝される。女子寮に入った加奈子は寮母お菊の霊力のすごさに魅せられ、一刻も早く心霊ライセンスを取ろうとハードなカリキュラムを組んだ。 先生から贔屓されていると陰口を叩かれ苛めに遭いながらも、加奈子は負けん気を発揮してライセンスを取得した。加奈子はすぐ計画を実行し羽鳥を葬ることに成功する。だが、加奈子胸の中には後悔の渦が巻いていた。極悪人とは言え、、葬り去る権利など加奈子にあるはずもない。 旧作『うらみはらさで』に大幅に加筆したリメークです。、

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  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-11

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