少年Bと第四の姓
少年Bと第四の性
幸太が十三歳の時、幸太と同じ歳の少年が無差別殺人を起こした。
彼は教室にいたクラスメイトをある日突然、休み時間に鋭利な刃物で五人を殺傷し、三人が死亡、二人が重症を負った。彼はすぐに教師陣に取り押さえられ、連日、マスコミに大きく報道されることになった。彼は事件を起こす前、マスコミに手紙を送っていた。その手紙の内容には、近々、自分は無差別殺人を起こす。と犯行予告が書かれていたが、筆跡はバレないように工夫されており、送り先も不明であった。何処の誰かは分からなかったが、マスコミはこの犯行予告をテレビで大々的に取り上げた。それから数日後、事件は起こった。事件が起きた後、メディアは手紙を公開した。
彼のその手紙の中のある一節にこう書かれていた。
「僕は透明な存在だ」
幸太はテレビ越しにそれを観た時、大きな衝撃を受けた。
それは幸太の心に激しい共感を招いたのだ。しかし、こんな極悪非道な殺人犯に共感を覚えるなど、それだけでも罪だと感じた幸太は、その共感したという思いを頑なに拒んだ。
もう一つ、彼に親近感を覚えてしまったのは、彼の抱えていた性に関してである。
彼に興味を覚えた幸太は彼のことをネットや著書等で調べ上げていた。そして彼は性的サディストだったということが判明した。
小学生の頃に、女性がいたぶられ、殺害される映画のワンシーンを観た時に酷く興奮し、勃起し、自慰をしたというのだ。そしてそれを友達に言った時、彼は変態とあしらわれたということも書かれていた。それは幸太のパターンと酷似しているものであった。
そうして幸太が導いた結論は、彼は自分の自己顕示欲と性的サディズムの欲求を満たすために事件を起こしたということだ。
それから少しして、今度は17歳の少年がバスジャック事件を起こし、二人の人質を殺害した。彼も無差別殺人であり、その動機は不明慮であった。そして彼も幸太と同い年だった。そして次には23歳の青年が繁華街で次々と8人を殺傷した。そして、また……
時代の流れとともに、幸太とほぼ同年代の若者が無差別殺人を繰り返していた。
彼らの大体の類似点は社会と上手く適応出来なくて引きこもっていたこと、そして彼らは、自分が透明な存在だと主張する程に誇大化した自己顕示欲を満たすために事件を起こしたのではないかという結論だった。それはあり得ない程に歪んでしまった承認欲求であるとも言える。彼らの行為のそれは、他人の同情を引くために自分を被害者だということをアピールしたり、周囲の気を引くために死なない程度の自殺未遂を繰り返したりする人格障害や、自慢話や自分のことばかりを話す自己愛性人格障害と根本は同じだ、と幸太は思った。そして、その気持ちが少し理解出来る自分を、幸太は頑なに否定した。
幸太は自分がそんな惨めな人間だとは思いたくなかった。
しかし、彼らは本当にそんなことがやりたかったのだろうか?彼らは自分のしでかしたとんでもないこを、必ず後悔しているだろう。彼らはみんな、本当は、そんなことをしたくなかったのだ。したくなかったのにどうしてやった?追い込まれて?完全に透明になってしまう自分を恐れて?
幸太は彼らのことを懸命に考えてみたが、所詮、彼らは彼らで、自分は自分であり、そのうえ、彼ら自身もどうしてかだなんて明確な答えは分からないのだろうということで、そのことを考えるのを、そのうちにやめた。
――幾ら部屋が汚くなろうとも、布団を畳む習慣だけは守っていた幸太であったが、最近は布団を畳むのさえも煩わしくなり、目が覚めてからは、小便が我慢出来なくなるまで、決して布団から出ることもなかった。
膀胱が溜まり、どうしても小便をしたくなった時に、観念したかのように布団から這い出て、金髪の髪の毛を掻きむしりながら、力を振り絞って起き上がった。
一定間隔で襲ってくる頭痛を覚え、今日は外が雨だということを幸太は悟った。
外に出て寒い中歩き続けたことにより濡れたジーンズの裾を想像し、まだそれは起こっていないし、起こるかさえ分からないのにも関わらず、すでに起こったかのような不快感を覚えた。
覚束ない足取りでキッチンへと向かい、黒焦げのガスコンロの横にある小さな冷蔵庫の上に散らばっているスティックタイプのインスタントコーヒーの袋の1つを手に取り、スナフキンの絵柄が入った黄緑色のグラスにササ、と注ぎ、そこに冷蔵庫の上に載っているポットからお湯を更にグラスにトクトクと音を立てて注ぎ込む。透明なお湯はグラスに入ったと同時に褐色へと変色していく。幸太は並々に注いだそれを部屋に持っていき、ローテーブルの上に置かれてあるノートパソコンの横に置いた。スプーンでかき混ぜるのを忘れていたことを思い出したが、スプーンを持ってくるのを忘れたので、パソコンの横にあったボールペンをグラスの中に入れてかき混ぜた。グラスから取り出した湯気が立ったボールペンを幸太はティッシュペーパーで拭き取った。
一度かき混ぜた後のインスタントコーヒーが付着したボールペンを口に含んで舐めてみたが、余りにも獣じみていて罪責感があったので、その行為はもう二度とやらないことにしていた。起動中のノートパソコンを半覚醒気味の意識の中で見つめていると、幸太は足にひんやりとした冷気を感じ、それは火照っていた足には調度良かったが、火照っていた足は徐々に寒気を感じ始めた。幸太は腰を浮かして1メートル先にある靴下を拾い上げるのが面倒に感じ、その足の寒気を無視していたが、足に痺れを感じ、足の血色が悪くなってきた辺りで、幸太は重い腰を上げ、万年床の隣に脱ぎっぱなしの二重に着込んでいる靴下を拾い上げ、グレーの靴下の中に入っている黒の靴下を取り上げ、右足に装着した。そしてグレーの靴下をその足に装着し、左足もそのようにした。
窓のある所にもたれ掛かっていると、隙間だらけの窓から冷たい風を背中と脇腹のほうから感じた。風が吹く度に、窓は、おどろおどろしい音を立てて揺れた。風の音を聴くだけで寒さが増幅された気がした。風鈴の音で涼しくなる原理と同じである。
十一月が終わろうとしている時期の今の寒さは、去年のそれよりも明らかに寒かった。
コーヒーを一口、二口、五口、十口を啜った後、ようやくパソコンにはデスクトップが映し出され、しばらくジリジリと唸った後にはウゥーンと微かなファンの音だけが聴こえる。ノートパソコンは異常に重くなっていて、ここまで立ち上がるのにすでに十分は経っていた。ファイルを開き、空白のページに幸太は文字を打ち込んでいく。
幸太の頭の中に眠っていた文字は、モニターの中で踊るように反映されていく。
幸太の思想、哲学、秘めたる思い、感情、その全てが文字によって形にされていく。
キーボードを打つその速さには目を見張るものがあった。それもそのはず、幸太にとってキーボードを打つことは一三歳の時から日常生活の一部となっていたのだから、速くて当然である。幸太が唯一誇れる技術であるといっても過言ではない。
しかし、キーボードを打つのが速いだけでは飯は食っていけないという現実を幸太はたまに嘆く。二〇分ほど文字を打っていると、集中力の切れた幸太はそのままワードの画面を小さくし、インターネットブラウザをダブルクリックする。
しばらくネット上の情報の波に身を任せ、ある種の悦楽に浸っていると、動画のワンシーンが映されている、その静止画に目が止まった。
幸太はそこから目が離せなくなり、その動画を再生した。しかし動画の静止画に映っていたセクシーでエロティックな姿の美女はその動画の中にはいなかったが、そのセクシーなエロティックな美女を観たことにより、幸太の下半身が疼き、無意識と意識の狭間で今しがた目覚めた欲を満たすために、次第にそういった動画を探すようになり、そのうちに自分の性的な歪みに合ったキーワードを検索エンジンに打ち込み、一瞬のち出てきた膨大な文字の中から、無料で観覧することが出来る淫らな性動画を探していく、幸太にとってそれは慣れたもので、アダルトサイトに良くある無料動画かと思い、クリックすると別のサイトに飛ばされるようなダミーを見破っていき、効率的に自分が今、性欲の捌け口にもてこいの動画を探していった。
そうしてお目当ての動画が見つかると、幸太はその動画を再生し、その目に飛び込んできた普段の日常では決して見られないような、羞恥心の欠片も無い行為を繰り広げる異性を目の前にし、酷い興奮を覚え、自分の最も求めている行為をしているであろうところまで動画を早送りし、パソコンの隣にあるティッシュペーパーを三枚素早く左手で抜き取ると、ズボンを降ろし、右手で陰部を握りしめ、激しく上下に右手を動かし、自慰に耽った。
やがてボルテージが頂点に達し、濁った白色の粘り気のあるゼリー状に近い精子をティッシュの中に排出し終えると、ティッシュを握り潰すようにして右手でくるめ、ゴミ箱に入れ、キッチンの蛇口で手を洗い、軽い虚無と時間を無駄にした後悔と、女性を自分の性欲を満たすためだけの捌け口にしたことに少しばかりの罪責感を覚えた。そして風俗に行くよりかはマシだと自分を励ました。しかしそれでも自分の性的な歪みは決してマシとは言えないものを抱えていた。
幸太はネット上に無尽蔵に溢れるアダルト動画を観ては、一体世界中にはどれ程のアダルト動画が存在するのだろうと思った。その中には騙されて出演したり、半ば強制的に動画を撮らされた女性もいるのだろう。このアダルト動画が存在する限り、そこにはその動画を通して幸福になった人間よりも不幸になった人間、特に女性は数限りなくいるだろう。
それも取り返しのつかない程の。そのことを考えると、女性という存在を敬愛している幸太にとってこういった行為は辞めたいと思っていた。
女性に対して敬意を払っているにも関わらず、自分の歪んだ性的欲求と言えば、酷いサディズムであることに対して、矛盾の葛藤を覚えていた。そうして自分がそういった動画を観ることで、需要が成り立っているわけで、需要があるからこそ、その動画は存在しているわけで、突き詰めると女性の不幸を作ってしまう動画に自分も加担しているということに対して、酷く責任を感じていたのだ。
幸太が性に対して目覚めたのは5歳の頃だった。それはおそらく、一般的に比べてかなり早いほうなのではないだろうか。シャイな幸太は女の子を追いかけまわすようなことはしなかったが、既にその歳から、同年代の女の子に対して性的な目で見ていたのだ。
マスターベーションを覚えたのは小学校6年の頃だった。
その時から幸太の性的願望というのは酷く歪んでいた。それはいわゆる、サディストというものだった。ある時、幸太が漫画を読んでいると、その漫画に出てきた女性が男性に痛めつけられているシーンが目に入り、そこで幸太はショックとともに、下半身の疼きを感じ、幸太の陰部は徐々に勃起し始めた。しかし、それに対して、自分はおかしいのではないかとは思わなかった。そういうものだろうとは思わなかったが、こういうものなんだろうか?と疑問にも思わなかった。つまり何も考えていなかった。ただ、自分は女性が痛めつけられているのを見ると、女性の裸を見るのと同じぐらい、否、それ以上に興奮するのだと自分を客観的に見つめていた。
その夜から布団の中で、女性が裸にされ、痛めつけられるようなことを頭の中で浮かべ、勃起をし、悶々とすることが度々あった。
明らかにおかしいと感じたのは中学生の頃で、中学生にもなると、盛りが付き始めた男子が多くなり、性的な話も多くなる。そうして中学生特有の下品な性に対しての話で盛り上がっている時に、楽しくなった幸太はふと、女性が痛めつけられて苦しんでいる姿は興奮するといったことをもう少し遠まわしにクラスメイトに言ったことがあった。
その時、そこにいた男子たちは怪訝な顔をして、声を揃えて「変態じゃないのか?お前」と言われた時から、自分が変態なんだということをはっきりと自覚したのだった。
それ以来、自分の性癖は大人になるまで隠していた。
十代の頃はあらゆるものに依存していた。TVゲーム、ネット、マスターベーション、映画、漫画に依存し、そしてその全ては現実逃避の一種であったが、自分が現実逃避をしていたという意識はまるで無かったし、もしそれに気づいていたとしても、あぁ、そうか、と思うだけだろう。現実逃避を繰り返し、ゲームや映画、漫画の主人公と自分を重なり合わせる妄想を繰り返した結果、幸太はあたかもこの世界の主人公だという自意識が非常に高くなり、その膨れ上がった自己顕示は、自分を特別な人間だと思い込ませた。
否、ゲームや映画、漫画の世界に没頭し過ぎたから、そうなってしまったとは一概には言えないだろう。自己顕示欲の大きさと、自分の器、素質の大きさが比例しないために、映画や漫画の世界に現実逃避していたのかもしれない。つまり、映画や漫画を観て自己顕示欲が強くなったわけではなく、自己顕示欲が強いがために、映画や漫画に依存していたということだ。しかしそれはどちらも定かではない。ただ、自己顕示欲が強いというのは確かであった。
やがて幸太は、他の人間と同じ、敷かれたレールを歩いていくのに酷く嫌気がさした。
その結果、受験勉強を怠り、公立の最も偏差値の低い地元の不良がこぞって集うような高校にギリギリ入学し、不良のような力あるものに憧れはするが、完全に不良になることも出来なく、少し悪がった仕草と口調を見せ、咎められない程の悪さをする中途半端な不良ぶった者へと成り下がった。高校に入っても相変わらず幸太の人生のほぼ全てはゲーム、ネット、漫画、映画に費やされていった。友達を作るのも友達と遊ぶのも煩わしかった幸太は、部活へ入って青春をすることや、友達とバカ騒ぎをしたりする青春に憧れはしたが、惰性で生きる幸太にとってそこに一歩踏み出すほどの気力は無かった。ただ髪を染め、ピアスをし、見てくれだけはそれなりの不良だった。
高校を卒業した幸太は、進学はもちろんのこと、就職をする気も無く、フリーターという立場に自分を置き、いつか何かで華開くのだとそれだけが唯一の希望として生きていた。
最初のうちは喫茶店でウェイターをしてみたが、客と接するのに対して異常に緊張をするため、出勤時間が近づくにつれ憂鬱な思いが募り、二か月でバックレることになった。
その後、回転寿司屋のホールで働くが、そこの上司の社員に「動きが遅い」と怒鳴られ続け、三か月でバックレた。次のネジ工場での梱包でのバイトはそれほどまでに人付き合いが無く、淡々とこなすだけで幸太の性格的に向いていて一年程続いた。
その時に、同じバイト先に居た化粧の濃い茶髪の同い年の女が、いつも一人で休憩中にタバコを吸っている幸太に声を掛けてきた。彼女が幸太に声を掛けたのは、幸太の顔の目が切れ長の一重で鼻が高く、顎が細く、それなりの端正な顔立ちで、幸太の髪の毛が金髪でピアスをしてタバコを吸っているということから、不良という、自分と同じジャンルに属していると思ったからだ。そうして幸太は彼女と友達になり、そのうちにメールで幸太から告白をして付き合うようになった。初めてのデートの時、幸太は酔った勢いで彼女をホテルに誘った。しかし、初めての性行為の時、幸太のそれは勃起することが無かった。
その後、男性はナイーブだから初体験の時にそういったことは良くあると聞いて安心し、三回目の性行為の時には挿入までスムーズに行ったが、そこから射精には至らなかった。
そうして何度性行為を試みても、射精することがなく、幸太は焦っていた。彼女は自分のルックスが良くないからだと自分の不甲斐なさを責めたが、幸太は自分が緊張しているせいだと説得した。事実、彼女のルックスはさほど酷くはなかった。
三カ月後、幸太が思っていたような不良のような人間ではなく、それに根暗で面白味が無く、そのうえセックスではいつも射精に至らないという、この人には良いところが何も無いと悟った彼女は幸太をフった。幸太は失恋を経験しショックを受けたが、三日後には立ち直っていた。幸太はまだ、愛を知らなかった。
彼女はすでに仕事を辞めていたので、その点に関しては問題無かったが、普段から仕事の出来の悪い幸太が、それに加えて更に仕事上でミスを連発するようになり、上司から怒られることが多くなり、それに嫌気がさして仕事をバックレた。
数か月程引きこもっていたが、親の小言に耐えられなくなり、何処かの寮に入って独り暮らしをして親と離れることに決めた。
人間関係が酷く煩わしかった幸太は、一人で仕事ができる新聞配達を選び、その寮に入ることになった。幸太が二十二歳の時である。新聞配達は仕事中、完全に一人になれたので、自由気ままに仕事をすることが出来、今までの思い煩いが嘘のように無くなった。
その店では比較的若い者達が多く、彼らはすぐに幸太を仲間として受け入れてくれ、寮生活なので彼らは幸太の部屋に頻繁に遊びに来るので、幸太も四六時中引きこもって仮想の世界に没頭しているわけにはいなかなくなり、彼らと飯に行ったり、酒を飲みに行くことが多くなり、幸太は初めて友達らしい友達を作ることが出来、自分の求めていたような青春に限りなく近い充実した日々を送るようになった。今まで面倒臭がっていた人間関係もそれほど煩わしいとは思わなくなっていった。
ある時、居酒屋にて、酔った勢いで声を掛けた女性の連絡先を交換し、すぐに彼女とデートにこじづけ、そのデートで幸太はホテルに誘った。
その時のセックスで、彼女を愛撫し、そうして挿入に至った時、彼女は「乱暴にして」と言った。その時、幸太の体は、比類無き興奮に包まれた。そうして、彼女の両腕を押さえつけ、彼女が悶えている姿を観た時、幸太の心臓は高鳴り、頭には血が昇り、そうして射精するに至った。それからというもの、幸太が性行為をする時は、少なくともサディスト的な行為を含んでいなければ、快感を得られることが出来ないことを知った。もしくは、「俺は今この女性を犯している。いたぶっている」と頭の中で思い、乱暴にすることによって幸太は射精することが出来た。それもそのはず、幸太がマスターベーションをする時は常にそういう妄想に耽り、それ以外の妄想に耽ることは無かったのである。
自信を持った幸太は積極的に女性に声を掛け、セックスをするようになった。
幸太はまだ、愛を知らなかった。
更に、幸太が一目置いている憧れの先輩のロックバンドを組み、ライブ活動を行っている大介から大麻と危険ドラッグの類を教えてもらい、幸太は現実世界で得られる享楽の中でも、限りなくグレーに近いものや、完全に違法によって得られる悦楽にも手を染め、そしてそれにも依存することになった。しかし、それは大介が二十五歳を機に辞めた途端にスッパリと絶った。大介が25歳の時、幸太は二十三歳だった。
結局幸太の依存しているものと言えば、現実逃避の類に過ぎなかった。
妄想世界で入り浸っている時の現実逃避は、まだ脳は守られていたが、現実世界で手にした酒やドラッグの類は脳にダメージを与え、脳を誤魔化して理性を飛ばすという、妄想の世界よりも遥かにこの現実の世界から意識を抜け出すのに最適な現実逃避であった。
酒とドラッグは幸太の理性を飛ばし、彼を大胆にし、自分が成りたかったような妄想世界での主人公の積極性と大胆さを身に着けることが出来た。
幸太はこの世界と、不甲斐なく弱い自分からいつも逃げていた。無慈悲な世界と脆弱な自分を直視することが出来なかった。いつか何かで華開くと信じていれども、現実と自分から逃げていれば、開くものも開かなかった。
二十五歳の時、後一年で二十六歳、そうしてその次は二十七歳という、三十が差し迫った響きが感じるまでに来たというのに、特別な自分が新聞配達などという地味な仕事を続けることに我慢が出来なくなってきた。幸太は職業に貴賤は無いという言葉も意味も知っていたが、幸太にとってその言葉は建前に過ぎないと思っていた。
幸太が貴だと感じるのは何かを創造するような仕事だ。賤だと感じる仕事は、創造性が無く、ルーチンワークを繰り返すだけのようなものだった。
しかし大介にそれを言うと、「そしたらお前はなんだ、例えば絵描きとかミュージシャンとかやってる奴のほうが工場で働いたり新聞配達してる人よりか偉いと言いたいんだな」と言い、幸太が、まぁ、そうだと言うと、大介は「絵描きやミュージシャンは、もし誰もしなくても生活に困らん。死にはせん。でもな、工場で働いてる人や、新聞配達や、店で働いてる人達はな、誰かがその仕事をしないと、下手したら生死に関わってくる問題になるぞ。絵描きやミュージシャンなんてもんは娯楽に過ぎず、それを仕事にして飯を食うなんてカタギの仕事じゃないね。一見地味な仕事こそ本当は貴があるもんだ。とまぁ、芸術家を卑下してみたけど、芸術家も必要だ。落ち込んだ心を慰めてくれたり、色々なことを気付かせてくれたり、人々に希望を与えるもんだからな。」
と言い、そして最後に大介は「生業に貴賤はないけど、生き方に貴賤はあるな」と言った。幸太はその言葉に打ちのめされ、更に大介のことを尊敬するようになった。
しかし後に読んだ本で「生業に貴賤はないけど、生き方に貴賤はあるねぇ」と勝海舟が言っていたことを知り、大介は勝海舟の言葉をあたかも自分の言葉かのように言って自分の存在を誇示していたと悟り、大介に少し幻滅することになった。
大介に「一緒にバンドやるか?」と誘われ、ロックスターになるのも悪くないと思い、大介の促しによりギターを始めることになったが、五日後にコードを覚えるのがままならない自分の不甲斐なさから挫折し、コードを覚えてなくていいベースに変えるが、リズムキープが出来ない自分に嫌気がさし四日後に挫折をし、ドラムはドラムセットを部屋に置けないので始める前から挫折をし、ロックスターになる夢を諦めることになった。
そうして二十六歳まで残り一か月と近づいてきた時、幸太の心はすでにこの職場には無かったが、辞めると言った後の上司の驚いた顔(もしくは少し困った顔)を想像すると怖くなり、辞めるということを告げられなかった。
かくなるうえは、夜逃げしかなかった。幸太はすでに新聞配達を辞めていた大介の足を借り、夜中に部屋にあった自分の荷物をひっそりと大介の車に積め込み、大介の家へと転がりこんだ。おかげでその日、幸太の区域を配れる者が一人しかいなく、その者は休日だったにも関わらず、幸太のせいで出勤する羽目になり、店と同僚に多大なる迷惑をかけたのは後になって幸太が聴いた話である。しかし、幸太はその全てを理解したうえで夜逃げをしたのであり、それを聴いたからといって、そりゃぁ、そうなるだろうとしか思わなかった。大介は、お前が余りにも俺に頼み込むから今回だけはこんなことを手伝ったまでだけど、次からはこういうのはしないぞ。きちんと辞めますって言えるぐらいの勇気は今のうちに身に付けておけよ、と言った。幸太は、ハイ、すいません、ありがとうございますと軽く頭を下げた。
そうして大介は、お前がちゃんと金さえ払ってくれるんだったらこのままルームシェアでもいいよ。と幸太に言い、面倒くさがりの極地のような幸太にとって部屋を探すという苦労は想像するだけで恐ろしかったので、その言葉に甘えることにした。
そういうことがあり、そして今、幸太は、自分の使い古したノートパソコンをもってマスターベーションを終えたところだ。
大介は新聞配達を辞め、コンビニでバイトをしていた。幸太は新聞配達をしていた頃に貯めていた貯金がそれなりにあるので、しばらくそれで食い繋げようと思っていた。
インスタントラーメンを取っ手の壊れた片手鍋に入れ、お湯を沸かし、食べ、その後、服を着こみ、外に出てタバコを買いに行くことにした。
外に出ようとドアノブに触れる時、静電気が走るのを恐れる余り、一瞬だけ触れて素早く離すということを二回繰り返し、静電気が走らないことを確認してから、しっかりとドアノブを掴む。金属類に触れる時は、必ず幸太はそうしていた。
息が白い、冬の京橋の夕空は京橋の場末感を更に増しているように感じた。
焼肉の匂いのする角を曲がり、そこの隣のコンビニに入った。
「セブンスター、ソフト2箱」
と幸太が言うと、店員は後ろのズラッと並び、番号が振ってあるタバコの中から67番のセブンスターを取り出した。タバコの値上げは留まることを知らないが、タバコの銘柄は微動だにせずにその豊富な数を揃えている。タバコはいくら値上げしてもやめない人はやめないと聴いたが、幸太自身もその類の人間だったが、さすがに1000円までいくと経済的に考えざるおえない。だから幸太は今のうちたくさん吸っておこうと思った。
コンビニの店員が若い女性だったので、幸太は気付かれないように一瞥をするが、その店員の目は小さすぎ、鼻は団子鼻で顎が少しシャクレていて、幸太のタイプとは程遠く、自分の美的感覚からすると醜い方に該当するので、幸太は少し嫌悪感を抱いた。しかし、顔を見て醜いと感じ、嫌悪感を抱くなんて、彼女がまさか嫌悪感を抱かれていたり、勝手に評価をされてるとは思わないだろうし、勝手に評価をされて嫌悪感を抱かれていたりしてると気付くと、きっと彼女は深く傷付くだろうと思い、幸太はこの自分の半分無意識的に行う行動と思いに、ほんのりと罪悪感を覚えた。
ギイと哀しげな声を出すドアを開け、部屋に戻り、幸太はベランダに出てマンション三階から見渡せる京橋の街を眺めながら、無数の星が規則正しく並んでいる模様のタバコのソフトケースの底を指ではじいて、叩き出し、火を付け、ひとおもいに煙を吸い上げ、京橋の汚染された空へ、吐きつけた。煙はタバコから幸太へ、幸太から京橋の空へ飛んで行き、その空と同化し、タバコの煙なんて最初から無かったもののようになった。
しばらくタバコを吐き続けていると、寒さで手が悴み、体が硬くなってきたので部屋に戻り、缶ビールの空き缶をゴミ袋から取り出し、それを灰皿代わりとして二本目のタバコを吸い上げながら壁に持たれ掛かって惰性を楽しんでいると、ギイ!と叫ぶような泣き声でドアが勢いよく開いた。
「お疲れちゃん」
無駄に大きな声が部屋の中に響き渡る。
重力に反抗しているという思いを込めて逆立った髪の毛に、行き過ぎたダメージジーンズと無駄なチェーンやジッパーが付着している皮ジャンを着こなす、目鼻立ちがしっかりとした端正な顔をしているが、右頬に大きなホクロのある大介がコンビニのバイトから帰ってきたのだ。大介は右手に持ったビニール袋を掲げて満面の笑みで幸太に言った。
「今日も飲むぞ。飲まんとは言わさんぞぉ」
お疲れっすと覇気の無い声で壁にもたれ掛かったままタバコをくゆらせる幸太が応答すると、大介はビールとコンビニ弁当が入ったビニール袋を小さな冷蔵庫の横に置き、幸太の傍に行き、幸太を跨いで、幸太の肩を揉みながら言った。
「幸太、俺たちには、やりたくないことをやってる暇も無いし、何もやってない暇も無い。やりたいことやらんと、後で後悔するぞ」
大介が幸太を揺らしたので、幸太の指に挟まれたタバコから、タバコの灰が床にパラパラと落ちた。
「やりたいこと、良く分からんし、何もやる気にならないですね。っていうか、何もやらないことこそが、今やりたいことですよ」
なんか禅問答みたいになってきたなぁ、と言い、大介は豪快に笑った。
「俺、まだ飯買ってきてないから、買ってきます」
と幸太が片膝を付いて立ち上がろうとすると、お前が買ってきてないのはすでに読んでたから、お前の分も買ってきたぞ。と大介は、その女のような綺麗な手を幸太の前に突き出して幸太の動きを制して言った。
自分で食べたいものを選びたかったのだが、大介の有難迷惑に慣れっこの幸太は観念したように、ありがとうございます。と言って頭を掻いた。
大介がレンジで弁当を二つ入れ、温めてる間に、幸太はコップを二つとお茶の入ったヤカンを、茶色の汚れの目立つ白いローテーブルに置いた。
大介はレンジの前でバンドの新曲の歌を口ずさみながらスマートフォンをイジっている。
自分で行け、自分で行け、隠し事は無しにしようぜ、自分で行け、自分で行け、呆れるほどに、自分で生け、生き抜けろ……
パンクロックバンド『プロテスト』はアマチュアロックバンドの中ではそれなりの人気を誇り、地元のライブハウスでは大した集客力を持っていた。
演奏レベル的にはそれ程でも無かったが、メンバーのルックスと大介の書く歌詞の衝撃性と、激しいライブパフォーマンスの賜物であった。むしろ激しいパフォーマンス故に演奏レベルが落ちているといっても過言ではない。
自分の顔を殴りつけたり、酒を飲んだり、酒を被ったり、客に向けて酒を浴びせたりしながら上手く演奏して歌うのはかなり難しいだろう。
「幸太もさ、これだってやつを見つけんといけないよなぁ」
食い散らかした空の弁当箱をそのままに、ローテーブルにはズラっとビールが並んでいて、ビールを片手に大介はそう言った。
「いいですよ、そんなもん」
「いや、いいことないね。自分でもそれでいいやなんて本当に思ってないだろう?」
「どうせ、何やっても俺はダメですし。ダメなやつは何をやってもダメって言うでしょ」
幸太は大介から目を逸らし、ビールをチョビチョビと飲む。
「そんな厭世的になっても、その先には不幸しか待ってない。人間みんな、熱中出来ることがあるんだよ。これをやってる時がすげぇ楽しいってやつ。それこそが才能ってやつよ。最初から人より秀でて出来るっていう才能なんてたかが知れてる。好きこそ天才の極意だ。モーツァルトが愛、愛、愛、愛こそが天才の神髄だって言ってたぞ」
「好きなことが無い人も、いるんじゃないですか?」
「いや、あるね。これをやりたい、これをやるべきだっていう強い思いが遺伝子に刻まれてるんだ。俺たちはそれをするために産まれてきたんだよ」
「誰が遺伝子にそんなん刻んだんですか?偶然の重なり合いじゃないんですか?」
大介は少し唸ってから言った。
「そら神様でしょ」
「神様なんか信じてるんですか?」
「たぶん、いるだろ」
「なんすかたぶんって」
と幸太は笑う。
「絶対とは言い切られないけど、たぶんいるな。そして、いなかったらこの世界は悲惨このうえない。神様という存在自体は絶対的なもんだけど、神様がいるかどうかはアヤフヤだなぁ」
大介は空になった缶ビールを握り潰す。コキャァっと刻み良い音が鳴る。
握り潰した缶ビールを振りかぶって五メートル先のゴミ箱に投げつけるが、ゴミ箱には入らずに、大きく外れ、床に落ちる。ゴミ箱の周りには握り潰された缶ビールの残骸が無残に散らばっている。
「なんか、なんとなく矛盾してるように聞こえますね。存在自体は絶対やけど、神様が存在するか、あやふやって」
「まぁいるって信じたいよね」
無駄に大きい声で大介が言った。
「そんで、神様がいるとして、なんで遺伝子にそんなの、刻み込んだんですか?」
「なんでかという理由は、俺は神様じゃないから分からないけど、それが個々に与えられた使命というのは確かだ。俺たちはそのために生きてるから、それ以外のことをやってたらひたすら虚しいってわけ」
「じゃあ虚しそうに生きてる人ってたくさんいるけど、それはみんな使命を果たしてないってことですか?」
「たぶんな」
大介は新しい缶ビールを開ける。プシュっと音がする。
「俺はこう信じている。みんながみんな、自分の好きで、尚且つ、責任を感じてるっていうこの二つが重なりあってる仕事を就けば、世界は超絶的なバランスを持って、みんなが幸せに生きていけるってな」
「夢想でしょ」
幸太は鼻で笑う。
「理想だバカ」
大介は空の弁当箱を幸太に投げつける。
「どうでもいいって態度してるけどな、幸太が新聞配達を夜逃げのごとく辞めたのは、こんなところで終わりたくない、俺はこのために産まれてきたわけじゃないっていう思いからだろ?」
「違いますよ。ただ、貯金結構出来たからこれを境に少しの間ダラダラしようと思って」
幸太は身をよじって否定した。
「ホントかぁ?」
大介は幸太の心を読んだかのようにニヤつきながら言った。否定したところ、幸太の真意はまさに大介の言った通りであった。幸太は自分の置かれている環境に満足が出来ていなかったのだ。それは彼が自己顕示欲が強すぎるためなのか、それとも自分が本来やるべきことが本当にあり、新聞配達はそれでは無いからなのか、そのどちらかなのか、それとも、そのどちらもなのかは、今のところ、定かではない。これから定かになるのかも良く分からない。
酒の酔いが二人の理性を飛ばし始め、大介の舌はすでにほとんど廻っていなかったが、大介は神の存在性について、科学的根拠から力説していた。
「無神論の根本たる、偶然による進化説だけどな、今の時代、生物学や遺伝子工学の凄まじい進歩でそのダーヴィンの進化論ってのはもうその仮説事態が危ういものとなってきたんだよ。進化論は仮説だよ?仮説。あたかもこれが真実だみたいに学校で教えてるけどな。
ダーヴィンは当時こう言ったんだ。『もしも、最も小さな単細胞が、私が考えていたよりも複雑な機能を持ち合わせているなら、私の理論は成り立たない』ってさ。今ではその最も小さな単細胞はだーびんが思ってたよりもはるかに、それぁもう遥かに複雑な機能を持っているってことが、この五十年間の生物学で分かってしまわれたんれすよ。
進化も何もね、あんた、その生命体は、それ自体ですでに完成されていて、一部分が欠けただけで、全てが、停止してしまう、ほどなんらよ。還元出来ない、故に、進化しようがないってことなの。そんで、その複雑さときたら、人の創る機械ととても似てるんだって。モーターとかそういうのと、ほぼ同じ機能があるらしいよ。DNAとかさ、すごいよ。すんごくね、秩序正しく配列されてるの。情報コードとかもう、超複雑。だからね、理論的に考えてね、いくら、何百億年かかろうとさ、無理なの。二十五メートルのプールの中に時計の部品入れてさ、それをかき混ぜてたら偶然に時計が出来たって言ってるようなもんなの。偶然では出来ないの。デザイナーがいないと、無理なの。っていうのが、今の最新の科学者の説なんだけどさ、でも、進化論が未だに大判振る舞いしてるのはさ、今更さ、すいません、進化論間違ってましたーって言えないれしょ?学校で教えるのが正しいわけじゃないよぉ。だって四十年前の教科書に四十年後に石油は無くなるってはっきりと書いていたぐらいなんらから、なんとか原人とか言うのもね、ほぼ全てがねつ造だってバレてるんらよ。ちょっと骨の歪んだ病気の普通の人間だったり、ただのチンパンジーだったり。その二つを合成したりとか。すごいねー。古墳とかでもそうじゃん。自分で作ったのバレて問題なった人とか多いじゃん。みんな地位と名誉が欲しいがあまり、ねつ造しちゃうんらよね。みんな名前残したいんらよね。わかる。わかるよー。みんな寂しいんよね。分かる。わかるよー。俺もロックスターなりたいもん。武道館行きたいもん。そのためならちょっとぐらい嘘とか誇張したいもん。でもそれしたらもうロックじゃないの。それしたらもう、本物じゃないの。それだったら人知れず、死んでいくほうがいいの。わかる?わかるのー?」
大介は壁にもたれ掛かりながら、据わった目をしながら幸太に力説した。
しかし進化論、生物学、DNAがどうのというのは幸太は既に知っていた。何故なら大介はその話を何度もするし、それにその話の出どころときたら、カタルシスというバーの店長が仕切りに話していることであり、幸太と大介はその店長の話を何度も聴いているのだ。
つまり、大介はその店長の話をそのまま幸太に語っているのだが、大介はあたかも自分がつぶさに調べたかのような発言をしていて、そして大介は店長から請け売りの知識を話す時、自分自身がその知識の出所が店長からだということをすっかり忘れてしまっているのである。諳(そら)んじることが出来るほど大介から聴いているその話を、幸太はウンウン、といつものように頷いていた。それはもう慣れっこであり、その話をする時は大介も幸太もすでに泥酔していて、幸太はうんうんと頷きながらも、酒に酔った時にはいつも幸太はたまらなく人恋しくなるので、女を抱きたいと等と思うばかりで、何もかもが適当であり、幸太も頷いてはいるが、女を抱くことばかりを考えていて、その勢いでウンウンと頷きながら携帯で連絡先を知っている女性に片っ端からメールを送るので忙しく、話の内容は全く聞き流している。
要するに、二人が酔っ払い、大介が何かを力説している時のその空間で起こる世界ときたら、全てがどうしようもなく出鱈目なのだ。
そうして彼らはいつの間にか、どちらかがその場で最初にイビキを掻きながら寝てしまい、もう片方もいつの間にか、そのままその場で寝てしまうのだった。
幸太が目を覚ました時、昨日酔いつぶれた場所で眠りこけていた大介はすでにその場にはいなく、首だけを少し起こし、狭い部屋を見回してみるが、大介の姿は無かった。
昨日の酒池肉林の宴会騒ぎの跡形も綺麗に無くなっていて、机の上にはソーセージと目玉焼きと幸太愛用のスナフキンのグラスに注がれたコーヒーがあり、その横にはご丁寧に醤油差しがちょこんと用意されている。
しかしこれも良くあることというか、いつものことであった。大介のお節介ときたらそれはまるで幸太の母かもしくは幸太の妻のごとくである。服装と発言に似合わず、女より女らしい一面が大介にはあった。幸太はそんな大介の自分に対する繊細な気配りを見て、普段のライブでの全裸になって中指を立て、社会風刺の効いた歌詞を咆哮するかのように叫びながら歌うパフォーマンスを思い出し、そのギャップに思わず吹き出してしまった。
今日は土曜日なので、大介はおそらくバンドのメンバーと集まりスタジオ入りをしているのだろう。そうして土曜は夜勤なのでそのままバイトに行き、家に帰ってくるのはおそらく日曜の朝だ。
それまでの間、幸太は独りで、尚且つ何一つとして責任も義務も約束も存在しない時間を過ごすことを少し想像して、自由と孤独と虚しさのそれぞれを同等に、ほんのりと感じた。
何事もバランスが大事である。責任と義務と約束がたくさんあればあるで煩わしいが、全く無いと、まるで誰からも相手をされていなく、誰からも必要とされていないようで惨めと孤独を味わうのである。『まるで』というよりも、そのまんまその通りなのだ。
幸太は飽くなき徹底した自由を求めていたが、この自由は自分の求めている自由とは違うと感じた。スナフキンのグラスを幸太が愛用しているのは、ムーミンに出てくる自由を愛して放浪しているスナフキンを尊敬し、憧れているからである。
俺はスナフキンが好きだと口癖のように語っていると、昔の彼女からプレゼントされたのだ。そういえば、と、スナフキンが言っていたことを幸太は思い出した。
『自由が幸せだとは限らない』
そうして、次の言葉も思い出した
『大切なのは自分のしたいことを自分で知っているっていうことだよ』
大介が昨日言っていたことも同時に思い出し、おそらくそれが幸せの一面なんだろうなと幸太は思った。スナフキンが実在するのであれば、是非とも色々とご教授いただきたいと思ったが、スナフキンが『おまえさん、あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、 ほんとの自由はえられないんだぜ』と言っていたことを思い出し、スナフキンを崇拝するその時点で自分は不自由なんだということを悟り、スナフキンのことを考えるのをやめることにした。
布団の中で左に右に回転を繰り返していると、再び意識を失い、そうしてまたぼんやりと覚醒してきた。フックが幾つか壊れた窓のカーテンからたくさんの光が部屋を照らし、その光は幸太のピッタリと閉じられた瞼から目の奥に語り掛けてくる。
『起きよ』と。幸太はそれに反抗し、布団を頭まで被り、そうしてまたしばらくすると意識を失った。次に目覚めた時はすでに日が傾きかけている頃で、いよいよ幸太は起きなければならぬと思った。昼を過ぎてから目覚める時はいつも憂鬱な気持ちになっていた。
憂鬱な気持ちというのはなるべく避けたいのだが、それでも怠惰の前では後に来る憂鬱を予測しながらもそれを避けることが出来ないのが茶飯事であった。
幸太は、のそり、のそり、と起き上がり、ゆらゆらとトイレへと行き、長い放尿の末、よれよれとテーブルに戻り、すでに覚めてカピカピとしている目玉焼きに手を付け、冷めたソーセージを頬張り、それをお茶で流し込みながら、今から何をしようかと考えた。
家でごろついてしまうのか、それとも重い腰を上げて、近所の書店にでも行くか、それとも気力を振り絞って近所よりも遠所へ行ってみるか。
全てを食べ終えて、食器を台所へ放り込んだ後も考えがまとまらなかったのでコンビニで菓子パンを買って考えようと決意をした。流し台の中に突っ込んだままの皿を二度見して少し気が引けた。おそらく大介は何も言わずに皿を洗ってくれるだろう。それが当然だと言わんばかりに。そして幸太もそれが当然だと言わんばかりに皿を洗わない。
申し訳無い気持ちと後ろめたい気持ちが交互に幸太の心に過ったが、それでも幸太の良心は面倒くさいという思いに勝つことは出来ずじまいであった。
そうして幸太はいつも大介に「すいません、皿そのままにしてて。僕のまで洗ってもらって。居候のようなもんなのに」と謝ることでなんとか少しでも引け目を押す狡猾さであった。大介は「いいよ。まとめて洗ったほうが何かと節約やし、俺、洗うの好きだし」と言うのである。
幸太は思った。過眠の日は、やけに不機嫌になる。しかしそれは過眠が原因かも分からない。ただ、今のこの頭痛は、過眠が引き起こしたものだろうということは分かった。
今の幸太にとって、街ですれ違うほとんどの人間が煩わしかった。この寒さもうっとおしくて、冬眠がしたいと思った。
真正面から老人が歩いてくる。その老人は、雨が降ってもなく、これから降るわけでも無いのに、傘を持ち、その傘の先を地面に叩きつけ、音をカチカチと鳴らしているのを見ると、その老人の奇怪な行動と、音の煩さに腹が立ち、老人を睨んだ。老人は睨まれたことに気付いていなかった。気付いていたかもしれない。
コンビニでやたらと体格の良い男の店員が、いらっしゃいませと必要以上に大きい声で言ったのと、その店員の恰幅の良さに何故か腹が立ち、その店員を睨んだ。睨まれた店員は狼狽えていた。お前のそのがなり声が癇に障るから睨んでいることに気づけと心の中で念じた。客に対するサービスのつもりが不快感を与えているということは多々あるのだ。
機械的なスマイルや、大きな声の店員の声なんてものは幸太の神経を逆なでするためには最も適切な行為であった。幸太はもっと自分を適当に扱ってほしかったのである。心にも無いことをしてほしくないのである。
心にも思ってもいないくせに、必要以上に不気味な愛想を振り向く行為に、店側のどうしようもない程に頭の悪い狡猾さを露呈しているように幸太には見えた。
幸太は菓子パンコーナーへと足を運び、そこに置いてあるいつものバターを塗って砂糖を塗りたくってあるバターシュガーパンを手に取った。幸太は最近このパンの依存症となっていて、1日に最低一つは食べないと体が疼いてくるのであった。
雑誌コーナーをふと見ると、アダルト雑誌のコーナーで歳が七十近い腰の曲がった老人が、小刻みに震える手と全身で、危なげなく雑誌をパラパラとめくっていた。幸太はそれを見て、嫌悪感に近いが、少し違う、なんとも言い難い気持ちになった後、あの年でも性欲があるなんて、一体どうするというんだろう。相手をしてくれるのは、妻か?しかし、はたして、老女に対して性欲が沸くのか。もし沸かないとすると、妻がすでに死んでいれば、それはもう、絶望的じゃないのか。生殺し状態じゃないのか。
性欲が人一倍強い幸太にとって、それは想像したくないし、信じられないし、信じたくないことであった。だけど、可能性は断ち切られることはない。風俗に行けばいいだけの話だ。という結論に幸太は至った。だけども風俗に老人がいるのを見たことはないので、やはり風俗に行くほどに耐え難い性欲は無くなっているのだろうと気付いた。
恰幅の良い店員のレジの前にそのパンを放り投げた。店員は申し訳なさそうな仕草とさっきの挨拶とは打って変わって拉がれた声で、菓子パンの値段を幸太に告げた。
幸太は行儀悪く小銭をレジに置いた。
ふと、コンビニのレジに当たり前のようにある、募金箱に目が止まった。
一体この募金箱に、はした金をいれる奴はどんな奴なんだろうと幸太は思った。それは全体、何のために投げ込むのだろう。そりゃぁ、遥か彼方にいる不条理な世界で餓死していく人たちのためという思いは確かにあるだろう。しかし純粋にそれだけの気持ちだろうとは到底考えられない。何かの罪滅ぼしのためではないのか。少しでも善な行いをすることで、日頃の行いが少しでも帳消しされて、自分の気持ちが落ち着き、少しばかりの脳内麻薬が出て気持ち良くなり、ストレスの発散になるからではないだろうか。
自分ならおそらくそれで癖になるのではないかと考えられる。
後進国は他ならぬ自分たちの住んでいる先進国が産み出しているのであり、自分たちがこの先進国で何一つ不自由なく暮らせるのは後進国の犠牲によって成り立っている一面もあり、それはつまり突き詰めると、間接的に自分たちは殺人をしているのだということを知っている人であれば、それの罪滅ぼしでしているかもしれない。
しかしそれなら、よっぽどタチが悪いと幸太は思った。それなら一層のこと、日本から出て、後進国で彼らとともに生きるか、国連で働いてもらいたい。
そんなもんで自分の罪が少しでも軽減し、良い人になったとでも思っているのだろうか。
要するに、こういったものに募金するのは偽善者だ。自分は自分を誤魔化したりしない。自分は紛れもない罪人だ。自分は自分に素直に生きるため、募金なんて一切しないと幸太は思っていた。そう考えていると、ふと頭に疑問が沸いた。どうして善いこと、つまり人に感謝されるようなことをすると、脳内麻薬が出て気持ち良くなるんだろう?しばらく考えてみたが、それに対してのはっきりとした答えは見つからなかったのでそのうち考えるのをやめた。
コンビニ前でバターシュガーパンを食べながら何処でもない何処かの一点をぼんやりと見つめながら、パンをかじる。ガリガリと砂糖をかじる音が微かに頭の辺りに響く。
砂糖を齧る音で、今日、自分が何をするべきかが閃いた。
『カタルシス』のバーへ行こう。
カタルシスという名前のショットバーは、以前にも少し話したが、場末感漂う京橋の裏通りにある小さなバーだった。常に60代~90年代の洋楽のロックが掛かっていたりもする幸太と大介の行き着けのバーだ。先に大介がこのカタルシスの常連で、幸太を誘い、それからといふものの、幸太は独りで暇な時は頻繁にこのバーへと通うことになった。ドリンクがオール二百円という安さと、牧師と言うあだ名で呼ばれている腰の低い店長と、このバーの場末感と、常連達がこぞって負け犬ムード漂う者ばかり集っているのが幸太のツボだった。午後六時とまだ早いが、カタルシスはもう開いている時間帯だ。
京橋は夜の時間が始まる準備をしている。嵐の前の静けさというか、朝の通勤者達のラッシュが始まり、昼の暇をしている中年や老年、主婦、少しばかりの青年たちの独特な活気が始まり、そして夕方には買い物途中の主婦や一部の通勤者の帰宅、昼のような暇をしている連中たちの活気があり、その次に午後六時には少しばかりの静けさがある。やがて七時になると、立ち食いソバ等のB級グルメ店が活気だち、そこからネオンと共に、ドロッとした快楽の波が押しては引く夜の時間が始まる。やがて彼らは悦楽の海で自制心を溺死させてしまい、彼らは欲の虜であるゾンビへと化すのだった。
ゲーセンやパチンコ、頻繁に通る電車の騒音がやかましく鳴り響く。京橋という街は、とにかく喧噪が酷かった。ラーメン屋、串カツ、居酒屋等のB級料理の店がところどころにあり、上を見上げれば眩しいほど不健康に輝くパチンコの看板。
ゴチャゴチャとした狭い通りを歩いていくと、女性の客引きが目立つ駅前に辿り着き、そこの左側にある『梅通り』と書かれた狭い商店街へと入っていく。両側には金券ショップ、回転寿司、パチンコ、コンビニ、居酒屋、そして焼肉屋が見えたところで十字路になっていて、そこの裏通りのようなところを左に曲がり、立ち食いソバと居酒屋を通り過ぎると、ゴチャゴチャと何処かで観たような名前の看板が立ち並び、そこの一つに『カタルシス』と書かれた看板がある。カタルシスの壁には、卑猥な英語の言葉が大きくヒップホップ調に赤いスプレーで噴きつけられていて、一見、入口なのか分からないほど寂れた木製のドアを引くと、ギシギシという軋む音とともに、中に入ることが出来る。中に入るとすぐに酒や調味料類がズラっと並んだカウンターに、店長の姿が見える。カウンターのすぐ上には黒板にチョークで店のメニューが掛かれている。曲がったカウンターテーブルにカウンターチェアが五席。奥に四人掛けのソファー席がある。天井は配管が剥き出しだ。
店長いわく、そうしたほうが味があるし、しかも金がかからないからそうしていると主張するが、本音はおそらく面倒臭いからだろうと幸太は分かっていた。オシャレでそうしているのなら、色々と工夫がされていて、レトロな感じで見せながらも尚且つ綺麗にされているものだが、いかんせん、このカタルシスのそれときたら、ただ汚くて惨めなだけだった。しかし、それが店長の狙いかもしれないとも思った。
幸太君、いらっしゃい、とカクテルをシェイクしている、頬骨が浮き出た面長の顔で、うっすらとヒゲを生やした優しい笑みを浮かべている。細身で長い髪に、黒いスーツが良く似合う店長。店にはまだ客が居なかった。幸太は自分だけが相当な暇を持て余している気がして、少しばかりの劣等感を感じた。気がするというよりも、その通りなのだ。
幸太はドアから一番遠く離れたカウンターテーブルに座り、ジンベースのカクテルであるマティーニを頼んだ。席が空いていれば必ずドアから離れた一番端の席に座り、そして最初に必ずマティーニを頼んだ。そうする義務は無いのだが、そうすることによって何らかの安心感、安定感を得られるのである。『いつもの』は日本人の保守性を強く反映していた。そして幸太はどの店でも何処へ行くにしても必ず一番端の席へ座るようにしていた。
それはほとんど無意識に近い状態で選択していることだった。
神経質な幸太は両隣に誰かがいるだけで安心が出来ないのだった。彼は常に自分が安心出来る場所を強く求めていた。それを自分でそれなりに理解をしていたが、何故そうなのかは分からなかった。そうだということは知っているが、何故そうなってしまったのかという理由についてはほぼ全てが分からないし、そこまで分かろうと努めているわけでもなかった。ただ、その行動の原因を知れば自分というものが見えてくるような気がしないでもなかった。
幸太が背中を丸め、テーブルに顔を近づけ、両手でグラスを抱えながらマティーニの味を確かめるようにチョビチョビと飲んでいると、店長は何気なく幸太に話かけた。
「幸太君はいいなぁ、気楽そうで」
幸太はマティーニを飲む手を止め、通称カクテルの王様と呼ばれる透明なマティーニに浮かぶオリーブを見つめながら、少しの間を置いて呟くように言った。
「表面上は気楽そうだけど、頭の中の内面上は色々とがんじがらめなんだよなぁ、これが」
「例えば?」
「例えば、何処にも、何にも縛られない、雲のように自由きままに、誰からの責任も義務も問われないスナフキンのような生き方を夢見るけど、その反面、何処かに根を張って、安定した暮らしをして、誰かに頼られ、そしてその責任や義務を果たしていきたいと思う自分がいる。こういうアンビバレンスっていうの?相反する感情を同時に持つのは何故なんだろう。こんな相反する感情の二つをたくさん持っているんだ。どっちが正しいのか分からないけど。いや、正しいとか無いのかな。でもどっちを本当に自分が求めているんだろうって」
感嘆したように、うーんと頷き、牧師と呼ばれた店長は口を開く。
「それはきっと、誰でも持っているものだと思うよ。幸太君の場合は、人よりも敏感にそのことを知っていて、人よりも深く知っているからこそ悩んで葛藤するんだろうけど。どっちが正しいかっていうのも、一概には言えないけど、でも正しいことと間違っていることっていうのは結構決まっているもんだよ」
「決まってんの?決まってるのってなんか嫌だなぁ。そんなこと無いんじゃなないの」
「まぁ、日本人は、ぼんやりとしているのが好きだからね。それに幸太君は特に決まっていると言われると嫌だろうと思うよ。決まっているのは嫌かもしれない。でも明確なもんってのはあるからね。例えば、レイプはいけないもんでしょ?盗みもいけないもんでしょ?殺人もいけないもんだし。ただ殺人に関しては場合によってはという理屈をこねたがる人がいるからここではパスをしとくとして、でも殺人もいけないよね」
「なんでそういったことがいけないのかな?まぁ、人の体や心を傷つけてはダメだよなぁ。傷つけられた嫌だし、愛する人が傷つけられんのはもっと嫌だし」
「それが答えでいいよ。要するに、人を不幸にすることはダメってこと。自分が不幸になったら嫌だし、人の痛みを考えることが出来る良心が痛むよね。良心が麻痺してしまっている人もいるけれど。人を不幸にするのが何故ダメなのかという無駄な議論は避けて。たぶん自己中心という我儘の欲望から来るものと、良心から来る人の役に立つことに喜びを感じるという健全な欲求から来るものとのせめぎ合いみたいなもんだと思うけどね」
「ってことは自由きままに生きるってのは自己中心の我儘な欲で、義務や責任を果たして頼りにされたいってのは良心から来る健全な欲求ってこと?」
牧師と呼ばれる店長はうーんと汚い天井を見上げながら、言葉を慎重に選びながら、「まぁ、どちらかというとそうだよねぇ。でもまぁ一概に言えないっていうのは、スナフキンみたいに放浪しながら自由気ままに生きつつも、人の迷惑を全くかけないのであれば、ギリギリまぁ、いいんじゃないって言えるよね。でもそれだけならきっと虚しいだろうな」
と言った。
「なんで虚しい?」
と幸太
「そりゃあ、人は人を愛するために産まれてきて、人を愛する時に、本当の充実っていうか、真の幸せってやつを得られるから。欲望のままに生きている時はひたすら虚しくて、人を愛するために生きると充実して、この為に産まれてきたって思えるよ、きっと」
牧師と呼ばれる店長は臆することなく、全く恥ずかし気も無くそう言った。
続けて牧師は、少し興奮したように喋る。
「聖書にさ、イエスが言ったことで、あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさいって言ってるんだ。イエスが地上に来られる前、厳粛な律法学者ってやつたちがたくさんの法律を作って、それで人を縛っていたんだ。しかしそこには愛が無かったんだよね。その最も大切な動機を彼らは見失っていたんだ。彼らはその律法を厳粛に守ることによって、その行為によって、優越感ってやつを味わってたんだよ。イエスはそんな当時の律法学者たちを激しく非難したんだ。神は愛なりって有名な言葉があるように、神は愛なんだ。愛はつまり神であり、神はつまり愛なんだよ」
牧師の声のトーンが上がり、早口になる。
「彼らはその律法の根本にあった最も大事な動機である愛を忘れて、それはつまり神を忘れて、その行いによって自分たちはさぞ、神の前で正しいものだと誇っていたんだよ。彼らは自分の罪に気付かない偽善者だったんだ。みんな罪人なのに、律法学者達は風俗嬢やチンピラを指差してあいつらはとんでもない罪人だと裁いていたんだ。しかし神様の前では律法学者も風俗嬢もチンピラも平等に罪人なんだよ。聖書には義人はいない。一人もいないって書いてある。イエスは自分の罪を自覚せずに、自分を善だと誇っている律法学者達を特に非難したんだよ。だからイエスは、みんな同じ罪人で罪をたくさん犯すんだから、互いに愛し合いなさい。互いに赦し合いなさい。これによって律法は成就されると説いたんだよ」
牧師と呼ばれる店長が喋っている間、その唾が空間に飛び散っているのが何度か見えた。
唾が何処へ着地しているのかは分からない。飲み物の中じゃなければいいが、と幸太は思った。彼が牧師と呼ばれる由来はここにあった。彼はこのバーに来る人達に良くこういった説法をするのである。しかしそれは聴いていると、不思議に、中々心地の良いものだったので、カタルシスの常連はそれなりに増えている。経営も成り立っている。
牧師が説法を終えた後、興奮している自分に気づき、少しバツが悪そうに幸太から目を逸らし、仕事にとりかかった。
幸太はなるほどねぇ深いねぇと言いながら、なんとなく自分の座っているカウンターチェアを反動でぐるぐると回しながらマティーニを飲んでいた。カウンターチェアはキィキィと鳴っていた。牧師と呼ばれる店長は、そんな幸太を観て、はしゃぐ子供を見つめるように優しく微笑んだ。
三回転目に、ちょうどカウンターテーブルと真逆の位置に来た時、幸太はあっと何かに気づき。そこで回転にブレーキをかけた。
そして、前のめりになって、その壁に掛かっている絵をしばらく見つめ、その後立ち上がり、1メートル先の壁に掛かっている絵画の前にいき、マジマジと見つめた後、おぉっと小さく感嘆な声をあげたが、その声は店内で流れているLed Zeppelin の Rock And Rollで掻き消されて無かったかのようになった。
「牧師、この絵、何?前、無かったよな?」
と牧師と呼ばれる店長のほうを振り向いて言った。
「ああ、その絵ね」
その絵と呼ばれたその絵には、おびただしいほどのスーツ姿の人達が交差点を渡っている姿が描かれていた。その人間はこちらに歩いてきていて、それぞれが、ぼんやりと、表情の良く分からない顔が描かれていたが、どの人達も、その全体が不気味なほどまるでのっぺらぼうで、生命体であるにも関わらず、生命体の中でも最も感情表現が豊かな人間であるにも関わらず、彼らは無機質な物体かのごとくに映っていた。それはロボットよりも酷く冷たい金属で出来ているような何かに見えた。しかし、何処からどう見ても人間なのである。しかし、何処からどう見ても無機質な何かのようなのである。
その人だかりが交差点を渡ろうと歩いている中、端っこの方に、同じこちらに歩いてきている、男か女か良く分からない中性的な顔をした、服装はジーンズにTシャツという人間が描かれていたが、彼はそこに描かれているどの(見た目が)男女よりも、はっきりと、何処からどう見ても人間に見えた。
その表情は悲しそうでありながら、怒りに満ちてそうでもあり、喜んでそうでもあった。
喜怒哀楽の全てが詰まっているような顔をしていた。そして他の人間の皮を被った無機質な不気味な化け物は、全員が全員、喜怒哀楽の全てを失ったような表情をしていた。
幸太はその人間を見てホッとするのだが、相手も自分の方を見てホッとしているように見える。この絵にはそんなトリックが隠されているような気がした。
「その絵はねぇ、うちの常連さんの画家が描いた絵だよ。彼女、良く財布を忘れて飲みに来るんだ。すごいよね、財布忘れて飲みに来るって。そんでその時にツケにしといてって言って、次来た時にはもうツケのことを忘れちゃっててさ。僕も忘れててさ、そしてまた財布忘れた時にツケにしといてって言って、そういえば前もツケにしてたけど忘れてたよね、ごめんごめんなんて全く悪びれた様子も無く笑いながら、そして次財布忘れずに飲みに来た時も、そのツケのこと忘れてて、っていうのが何回か重なって、まず先に彼女が飲んでいる時に唐突に思い出したんだ。あ!って大きな声出してさ。御免っツケ払ってないってそれは悪びれた様子で謝って、今お金無くて、でも結構評価高かった絵画あげるからそれで赦してくれない?って可愛く言われて、別に大した額のツケでも無かったからそれでいいよと言うと、また次に来る時は忘れているから今から取りに行くって、走って取りにいってさ、変なとこで律儀な人だよ。そして息を切らして戻ってきて貰ったのがその絵」
「常連なの?画家のねーちゃんなんて、会ったことないけど」
幸太はその絵を観ながら牧師と呼ばれる店長の方を見ずに言った。
「その人は必ず決まって水曜の八時と木曜の八時に来るんだ。ジンクスがどうのって言っていて、その時間に必ず僕の店に来たいみたい。幸太君とはちょうどすれ違いになってたりするんじゃないの。何?そんなにその絵気に入った?いいでしょ。僕も気に入っているんだ。あげないけど」
「今日何曜日だっけ?」
とまだ絵に顔を近づけて見つめている幸太。
「今日は土曜日。水曜に会いに来る?おそらく、ほぼ確実に来るよ。だって僕の店に来た時から欠かさずに水曜と木曜の八時に来ているからね。しかもそれ以外の日には絶対に来ないという徹底ぶりだよ」
「変な奴」
「はは」
と店長と呼ばれる牧師は、短く笑った後に何かを言いかけたが、みなまで言う必要無しと判断したように、その後は何も言わなかった。
日曜日の夕方、幸太と大介は京橋の駅前近くにあるラーメン屋でラーメンを啜っていた。そしてその時、話のネタが尽きた幸太は、カタルシスにあった絵画のこと、その絵画を観て強いショックを受けたこと、こんな絵を描く女性はどんな人なんだろうと気になって今度会いに行くことを話した。大介は幸太の話を聞きながらも表情を全く変えずにウンウンと頷きながらラーメンを啜っていた。
「なるほど、でも気を付けたほうがいいな。俺を含めてアーティストにはロクなもんがいねぇからなぁ」
と大介は鼻で笑った。
「アーティストって個性的な人ばっかりですもんね。個性的ってことはそれだけ灰汁が強いですからね。大介さんも含めて」
「うん。どうしようもない奴ばかりよ。俺も含めて。どうしてこうもどうしようもない奴ばかりなんだろうかね。芸術で自分を表現するってことはそれだけ自己顕示欲強いからかなぁ」
「実は僕も自己顕示欲強くて、それで実は、その、ホントは、作家になりたいんですよ」
と幸太は会話の流れでなんとなく、少し躊躇はしたが言ってみた。
えぇーっと大介は大きな声をあげ、大げさと言えるほど仰け反って漫画のように目を丸くさせた。その時に幸太は、お前が作家になんてと馬鹿にされると思い、ギクリとした。
「めっちゃいいじゃないかそれ。なんで今までそんな大事なこと黙ってたんよ。なればいいよ。お前なら、なれるよ。前、新聞配達一緒にやってた時、お前何件も同じところ配り忘れて始末書書いたよな。あの時、俺に始末書これでいいですか?って聴いてきた時に読んだあの始末書、皮肉交じりでめちゃくちゃ面白かったよ。あの頃からお前、文才あるやつだなと思ってたもん」
と早口で捲し立てる大介。幸太は思いのほか肯定してもらえて安堵した。
「でも、アホみたいでしょ。作家になるなんて。恥ずかしいじゃないですか。なれるわけないってあしらわれると思って誰にも言ったことないんです」
恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。
「アホっ恥ずかしいことじゃない。夢が無いこと自体が恥ずかしいことだよ。そりゃ、途中で何かを挫折した奴ほど、そう言って世の中甘くないなんてほざくよ。挫折も何も目指しもしなかった奴は、難しいんじゃない?もっと地に足がついた考えしたほうがいいよ、なんて言うだろうな。でもな、それに成れるかどうかなんて、人間には誰にも分からんことだろ?それだったらさ、肯定してあげるってのが愛ってもんだろう。理顔で無理なんて否定するのは愛じゃないだろ。やりたいって思ったことやったらいい。そんなことしてたら不幸になるとか後悔するとか言う奴は、不幸や後悔っていうのがどんなことを言うのか分かっていない証拠だ。あいつらは安定こそが幸せだと勘違いしている」
大介は少し語気を荒くして捲し立てるようにそう言った。
幸太は自分を否定する人間を非難し、自分の思いを肯定されたことで心の中が暖かいもので満たされた。
「ありがとうございます」
頭を掻きながら幸太はそう言う。
「別に礼言われるようなことしてない」
手を払いのける仕草の後、ラーメンの器を持ち上げて、ラーメンの汁を飲み干す大介。ラーメンの汁が大介の喉を通り、大介の咽仏はその度に生々しいほど上下に動いていて、なんとなく、まるで、別の生き物のように見えた。
「まぁ、話は後ろに下がるけど、その女がプロの画家でそれで食っていってるのか、それとも食えていないのか分からんけど、その女に騙されてパトロンみたいにならんように気を付けろよ」
大介はラーメンの器を机に置いてからそう言った。苦言を呈された幸太は、そこも肯定してもらいたいと思い、寂しい気分になった。
その後は二人で銭湯に行き、それはいつもと同じパターンだ。大介はいつも幸太のイチモツを観て、相変わらずデカいなぁと言って笑い、それに対して幸太は、大きさなんか変わらないんだから相変わらずも何も無いでしょと言い、あまりいい気分では無かった。
そうして家に戻り、二人で酒を飲み、それからいつものように酔っぱらったところで大介は持論なのか、請け売りの知識なのかは分からないロックの定義やロックと哲学と芸術についてと言ったことを喋り続け、幸太はその時、自分の周りは良く喋る人が多いけど、それは自分があまり喋らなくて否定もしないから喋りやすいからか。となるとそれは自然の法則ってわけか、などということを考えていた。そして二人はそのまま定位置で眠りこけた。
人付き合いが悪い幸太にとって、最近会話をしているのは大介とカタルシスの店長と、そこの常連達と、恋人では無いが、たまに淫行に耽るという、幸太にとって都合の良い女ぐらいだった。幸太は孤独を感じていたが、自分から何かアクションを起こす気力も無く、しかしこのままで良いとも思えない状態だった。画家の女は幸太のそんな虚しさを満たしてくれるかもしれないという希望でもあった。しかしあまり期待し過ぎると、期待が裏切られた時(その女性のルックスがタイプで無かったり、その女性が大して面白くない、本音と建前を使いこなす人間だったり)そのショックは大きくなるので、なるだけ期待を持たないように心がけてみたが、しかしそれとは裏腹に期待は募っていた。
幸太は火曜日の夜に、都合の良い女と寝た。都合の良い彼女はOLで、仕事が十九時に終わり、梅田のHEP前で待ち合わせをし、そのまま都合の彼女が一人暮らしをしている西九条まで電車で行き、スーパーで食材を買い、マンションに付いてすぐに幸太は都合に口づけを迫り、都合は、先にご飯食べようよ、と言うが、おかまいなしに口づけをし、体を弄ると、都合の良い女はその気になり、そのままベッドに雪崩込み、二人は唸りながら肉体を絡ませた。幸太は都合の女には自分のサディズムを遠慮せずに出していた。それは、都合の女がマゾヒスト的な性を持っていた(幸太によって開眼された要素が大きい)ためというのもあるが、幸太には嫌われない自信があったからである。そして嫌われても幸太はあまり傷つかない自信があったためである。
「あんた、あたしのなんなのさ」
事を済ませた後、都合の彼女は、いつもの決まり文句を、冗談めいたように、えくぼの似合う笑顔を振り撒きながら言った。いつも気怠そうで、低血圧な雰囲気の女性だ。本当に低血圧かどうかは定かではない。
「お前はお前で、俺は俺だよ」
と答えになっていない曖昧な決まり文句を幸太は吐いた。
それは嘘ではなかった。幸太はなるべく自分に嘘をつきたくなかったので、本音を言えない時は嘘にならないように工夫をしていた。それは本音の少し手前か、もしくは、本音と建て前と全くかけ離れた答えだった。本音は『お前は都合の良い女』だったが、それを言うと都合の女は傷付くし、もう寝てくれないだろうと思い、それは言わなかった。
都合の女は女で、自分は幸太に取って都合の良い女だという答えを知っていながらも、幸太の口からそれは聴きたくなかった。
都合の女は無地のTシャツを着て、下は下着を履いたままで食事作りに取り掛かった。幸太はベッドの上で仰向けになり、タバコを燻らせながら、何処からともなく現れる、欲を満たし終えた後に必ず来る虚無感のおかげで、これは幸せとは思えなかった。都合の女は今、幸せなんだろうかと考え、おそらく違うだろうと思った。
虚無を抑えるために幸太は食事を作っている都合の彼女を後ろから腰に手をまわして耳たぶを噛むと、都合の彼女はちょっと、包丁持っているから危ないってと少し怒った。幸太はだって寂しいからと言った。それは本音だった。その次に、画家の女の話をしようとしたが、その話はせずに大介の話をした。
都合の女は大介のバンドのおっかけをしいた。幸太のタイプだったので、ある日声をかけ、自分は大介の後輩であり親友であるということをネタに彼女と仲良くなり、そうして最初のデートの日に、ホテルで彼女を抱いた。それから彼女は幸太にとっての都合の良い女となった。
夜、二人でカレーを食べた後、幸太の大好きなデヴィッドリンチ監督の映画、ブルーベルベットを観ながら、都合の女に、この映画のここが面白く、こういうところがシュールレアリズム、ほら、ここ、ここがすごいんだよ。リンチは、壁一枚挟んだ先には、謎で満ちていて、自分の知らない世界は未曾有の何かが想像を絶するほど存在し、要するに世界は謎で満ちているということを強く訴えているんだ、他の映画でも同じようなセリフを言わせてるしね。と都合の女に熱心に話した。都合の女はフンフンと頷き、たまにあたかも感心したかのように、フーンと相槌を打っていた。都合の女は幸太の話を聞くのが好きで、幸太は都合の女に話を聞かせるのが好きだった。大介の前では持論を話すことはあまり出来なかったので、その溜まったものを吐き出しているようでもあった。その後、再び事を済まし、そうして疲れ果てた二人はそのまま眠りについた。
都合の女の方が仕事によって疲弊していたので早く眠りに就き、ニートの幸太は大して疲れていなかったのでシミ一つ無い天井を見上げながら、明日、画家の女とご対面するということを思いめぐらしていた。眠れぬ夜を迎えた幸太は、翌朝、ようやく意識が途切れようとした頃、都合の女が幸太を起こさないようにそっとベッドから起きあがったが、神経質な幸太は目が覚めてしまい、しかし都合の女の気遣いを無駄にしないように寝たフリをすることに決めた。寝たフリをしながら、都合の良い女の生活音を聴いていると、それが子守歌のようになり、そのうち幸太は眠りについた。都合の女は仕事に行く前に幸太の頬にキスをしたが、幸太はそれを知らなかったので、幸太にとってそれは無かったものと同じだった。しかし、都合の女に取っては大切な思い出の一つとして、その心に深く刻まれていた。
目が覚めると、女性のシャンプーや香水、芳香剤等が入り混じったかぐわしい香りがし、辺りを見回さなくても、ピンクや白といった華やかな色が目に入ってくるので、ここは都合の良い女の部屋だということを思い出した。
携帯を見ると都合の女からメールがあったが、テーブルの上にある目玉焼きとみそ汁とご飯がラップしてあるのから想定して、おそらくメールの内容は「先に会社に行ってるね。テーブルのごはん食べてね。食べなくていいけど。鍵はいつものところに隠しておいて」という内容であるので、そのメールは見なかった。それよりも先に携帯で時計を見た。
十二時だった。まだカタルシスに行くまでに充分に時間があると分かった幸太は枕に顔を埋めて、微睡の余韻を楽しむことにした。枕に顔を埋めると、都合の女の香りが鼻につき、それによって下半身に疼きを感じた幸太は、都合の女の香りを、鼻から大きく吸い込んだ。そしてそのまま幸太は自慰に耽った。
幸太はその時、まだ見たことも無い画家の女を思い浮かべながら、一心不乱に手を動かしていた。果てた後は、都合の女が用意してくれた食事を平らげ、その後シャワーを浴び、テレビを観て時間を過ごした。
六時になり、外に出て近所のラーメン屋でラーメンを食べていると、大介から『芸術家の女なんておそらくとんでもない奴だから気を付けろよ。幸太のタイプじゃなかったらいいけど』とメールが入っていて、くどい人だなと思った。
七時にバーに着いた。牧師と呼ばれる店長は、まいど、と言い、幸太もつられて、まいど、と言った。
「彼女、まだ来てないよ」
「うん、待つ。いつものちょうだい」
幸太は先に酒の力を用いて理性を飛ばし、緊張を解そうと考えた。しかし、自分が思っていたよりも酷いルックスの女だったらどうしよう。体重が80キロもあり、どうしようも無いぐらいに下劣な女ならどうしようかと考えると、少し絶望的な気持ちになった。
だけども、一体自分は何を期待しているんだろう。そんなつもりで彼女を会うつもりは無かったのに、いつの間にか幸太はそんなつもりになっていた。
牧師は、カウンターテーブルにミキシンググラスを置き、そこに氷を入れ、水を加えた。
そして手際良く、マドラーでグラスの中をかき混ぜていく。何度も何度もかき混ぜ、その後にミキシンググラスに蓋をし、水を捨てる。
グラス内の水気を切ると、アンゴスチュラ・ビターズを1滴加え、ジンを50m加える。
そしてもう一度ミキシンググラスをマドラーでしつこい程にかき混ぜる。
その後ドライベルモットを10m入れ、再びマドラーでかき混ぜる。グルグルと、そこまでかき混ぜる必要があるのだろうかと幸太はいつも思う。グラスの中で渦を巻く液体を観ていると、そこから何かマティーニ以外の物体が生まれそうな気がした。
そうして程良く冷えると、カクテルグラスにオリーブをサッと入れ、ミキシンググラスに蓋をして、オリーブの入ったカクテルグラスにカクテルを注ぎこんだ。何処から出したのが瞬間的にレモンピールをグラスに振りかけ、香り付けをし、ようやく出来たマティーニを幸太の目の前に綺麗な手でマジシャンのような仕草で差し出した。そこから生まれたのはやはりマティーニだった。その一連の流れをキザな動作で行っているのを見ると、この職業はモテるだろうなと幸太は思った。
バーテンダーってモテるの?と何気なく牧師に聴くと、牧師は俯いて作業をしていたので、その垂れた長い髪の隙間から幸太を覗き見るようにして見ながら、薄っすらと口元に笑みを浮かべながら、ははっと笑うだけで答えなかった。はぐらかされたようだが、それだけでモテているだろうということは理解出来た。
牧師が幸太の後ろの壁に立て掛けてある、プレスリーの壁掛け時計をチラっと見、幸太もつられてチラっと見た。七時五〇分だった。
「彼女、後十分きっかりで来るよ」
「そんなにいつもきっかりに来るもんなの?」
幸太は訝しげに言った。
「ホントホント。賭ける?」
「いや、賭けないけど」
「冗談だよ。賭け事はしないから」
「知ってるよ」
マティーニをちょうど飲み干した時、時計をまた見ると七時五八分だった。
時計を見るやいなや、カタルシスの錆び付いたドアが音を鳴らしながら勢いをつけて開いた。現れたのは、ベージュ色のトレンチコートにニット帽を被ったスラリとした身長160㎝ほどの女性だ。彼女は牧師に向けて右手を挙げて敬礼のようなポーズをして、オッスと言った。
同じくオッスとあいさつをする牧師。来たよ、と幸太に耳打ちをした。
ニット帽を脱いだ彼女の髪型はショートカットで髪の毛は真っ黒だった。ナチュラルメイクで目が大きくてまつ毛が長く、鼻が高く、唇は薄かった。顎は少し尖っていて、脆そうでガラスのような顎だった。瞳がハッとするほどに綺麗な茶色だった。
エキゾチックな雰囲気をした、幸太が想像していたような美人(どういったのを幸太が想像していたかというと、ふわっとした感じの、丸い目をして鼻が低く、唇が厚い、丸みのある頬で可愛いらしいような美人だ。しかし、どうしてそのような想像をしたのかは分からない)とは違ったが、端正な顔立ちの美人だった。
彼女は幸太を全く気にすることなく、幸太の隣の椅子に座った。
「こっちのお客さんが、香帆ちゃんの絵を観てとても気に入ったらしく、会いたかったんだってさ」
と牧師は、意味ありげな笑みを幸太に見せて幸太を紹介した。
「へぇぇ、それは嬉しいなぁ」
とショートカットの女は片肘をついて幸太の方を見て嬉しそうに口を開いた。
幸太はその仕草と、首筋から見える真っ白な綺麗な肌に艶めかしさを感じ、猥雑な欲望が沸いてきたが、気付かれてはダメだとその情欲を制し、ドギマギとして言いたいことを言えなくなり、取りあえず、どうもと言って頭を少し下げた。酒の効力は無に等しかった。
「絵を描くだけで食べていけてんの?」
と幸太は、ぶしつけに質問した。何を言えばいいのか分からなかったのだ。言ってしまってから酷く粗野な事を聴いてしまったことに後悔した。
「うん、最近やっと食べていけるようになったけどね。あ、牧師さん、ソルティドック」
香帆と呼ばれる画家の女は幸太の無礼な質問に何とも思っていなかった。
「凄いな。本物の芸術家っぽいなそれ。良く画家とか作家とか、描いているなら書いてるのなら、それはもう、アマチュアやプロに限らずに、画家だ、作家だ、なんて言うけど、ああいうのって違うと思うけど、食べていけるんなら画家だって感じするね。凄いなー画家かぁ。画家の人とか初めて会ったよ」
幸太は早口でやや興奮気味に途中何度か詰まりながら、そう言った。緊張していると思われないために、片肘を付いてリラックスをしているように見せかけたが、目の前にいる香帆と呼ばれる画家の女が全く同じ格好をしていて、まるで鏡のようで滑稽だったので、すぐに片肘を付くのをやめ、足を組みながら、マティーニが入っていたグラスに口を付けて、空っぽのグラスにさっきまであったマティーニを飲むフリをした。
画家の女、香帆はそんな幸太を観て可笑しそうに少し笑った。幸太は耳に熱を感じた。
「あ、そうそう、俺、幸太って言うんだ。俺、絵とか良く分からないんだけど、この絵は本当になんだか胸にきたよ。いやぁ、凄いなぁ」
ぎこちない口調で後ろの絵を観ながらそう言った。
「あたしは香帆って言うんだけど、幸太君、金髪、素敵ね。絵を褒めてくれてありがとう」
画家の女、香帆は、幸太の金髪を指差して言った。
「金髪を褒めてくれたお礼に、今日奢るよ。髪の毛一本いる?」
幸太は自分の髪を一本抜き、香帆の前に差し出した。抜いた部分の頭皮に痒みを覚えた。
「そんな、初対面の人に奢ってもらってそれに金髪の髪の毛まで貰っちゃっていいのかなぁ。でもまぁ、今日財布忘れちゃったし、お言葉に甘えて」
香帆は愉快そうに笑って差し出された髪の毛一本を受け取り、その髪の毛をバッグの中に閉まった。
「それにしても、いつも時間きっかりに来るほど几帳面なのに、どうして財布という外に出る時に一番重要であろうものを忘れるんだい?」
牧師は全く分からないといった感じ。
「たぶんね、時間に意識し過ぎて、財布を持っていくということを忘れてしまうの。時間のことをほどほどに考えれば頭に余裕が出来て財布も忘れずに済むんだけどね。何分、バランスが悪いからさ」
香帆はソルティドッグが入ったグラスを両手で大切そうに持ち、一口飲む。
「財布忘れても来られるってことは京橋に住んでんの?」
幸太は香帆の横顔を見ながら聴いた。いつの間にか注文したテキーラコークを一口飲む。
「うん。徒歩10分。ずっとそこまっすぐ言って」
手を前にして指を指す。
「焼肉屋の向かいのスーパーを左に曲がって、すぐのマンション」
「ってそんなに正確に場所教えたらマズイか。幸太君がストーカー気質じゃなかったらいいけど」
「えっそれって、スズランってスーパーでしょ?町内一緒だよ。俺が住んでいるマンション、そこから徒歩3分ぐらいだよ」
「おーちけぇー」
大きな目を更に大きくして驚く香帆。
「なんで同じ町内に住んでいて、同じ行きつけのバーに通ってるのに、今まで会わなかったんだろう」
「意外とそんなものかもしれないよ?」
「そんなもんなのかな」
「そんなもんだよ。たぶん」
「ところで、あの絵はどういう気持ちで描いたの?」
幸太は椅子を回転させて、また絵を観る。
「んー」
香帆はカタルシスの配管が剥き出しの汚い天井を見上げる。
「あんまし、自分の絵について語りたくないの。なんだか、語ってみると、薄っぺらになってしまう気がするから。幸太君が受け取った通りのままだよ。あたしがどういうつもりで描いたかは幸太君にとっては関係無いの。幸太君がそう受け取ったのなら、それが全てなんだよ」
幸太は確かに、と納得し、三杯目を香帆につられてソルティ・ドッグを注文した。
その後、大介をダシにして幸太は香帆の笑いをたくさん取った。
香帆は想像以上に魅力的で、今までに観たことのないジャンルの女性だった。
香帆ちゃんはなんで画家になったの?と幸太が質問すると、香帆は、そりゃぁ、絵を描きたかったからだよ、と言い、これが自分のしたいことを知っている人なのかと思った。
「幸太君は今、何してるの?」
ソルディ・ドッグっていうカクテル飲んでるよと幸太が言うと、香帆はそうじゃないでしょうと言って幸太の肩を軽く叩いた。
「ニートだよ。今流行りの。自分探しの旅に出てるんだ。貯金無くなったらその辺で働くよ」
幸太はその辺を適当に指を差す。
「それじゃぁ、幸太君は何になりたいの?」
幸太はウォッカベースのソルティ・ドッグを一口飲んで考えた。
ソルティ・ドッグはイギリスのスラングで甲板員という意味だ。甲板員が甲板の上で汗と塩に塗れて働く様子を描いた作品だと牧師が言っていたことを幸太は思い出した。彼らはそれをしたかったのだろうか。大介が言っていた通り、みんながみんな、自分のしたいことをやれば、本当に世界は上手くいくのだろうか。
やりたくないけど、生活のためにやっている人がほとんどで、本当にやりたいことをやっている人なんて極一部で、それが出来るのは運と実力と最も肝心なのが諦めない心であり、その三つを兼ね揃えたものが、いや、諦めない心さえあれば、何にでもなれるのではないか。じゃなくて、そのことじゃなくて、本当に、みんながみんな、自分のこれが好きだという遺伝子に刻まれたことをやれば、世界はユートピアになるのだろうか。やはりそれは夢想なのではないか。しかし、確かに新聞配達が楽しいと言う人もいたし、一見、地味で汚くて誰からも褒められない仕事をしている人でも、充実してそうな人もいるし、それとは逆に、こんなつまらない仕事、と嘆いている人もいる。ということはやはり、それもあるのかもしれないが、事の真相は分からない。だけど良く考えれば、ユートピアにならないと、みんながみんな好きなことは出来ないのではないのだろうか、とも思う。
そんなことを考えながら、ソルティドッグを見つめたまま固まっている幸太を観て、香帆が隣で首を傾げて疑問の表情を顔に浮かばせていた。
それに気づき、幸太はピクッと顔を動かせ、香帆の方にその顔を向けた。
香帆の微笑が近くにあり、思わず見惚れてしまい、それによってまた少し固まってしまった。香帆はどうしたの?と含み笑いをした。
「俺がやりたいことは」
大切なのは自分のしたいこと、自分で知っていて、そしてそれを告白することかもしれない。と幸太は思った。何故幸太がそれを躊躇するのかというと、笑う人は笑うからだ。
幸太は笑われて、地に足を着いた考えをしないといけないと言われ、自分が酷く子供じみていて恥ずかしくなったことがたくさんあったのだ。
「やりたいことはぁ?」
と香帆はテーブルを肘に付いて、手の上に顎を乗せて幸太の方をマジマジと見ていた。
幸太の胸は高鳴り、香帆を抱きたいと思った。そして香帆は自分に気があると思った。
「作家になりたい」
幸太は消え入るような声で言った。
「おぉっ」
と香帆。続けて
「いいじゃん、あたし、文章はからっきしだから、尊敬する。っていうか絵以外のことはほぼ全てからっきしだけど」
「いや、才能あるかどうかは分からんから、馬鹿っぽいよ」
幸太は自分で自分の言ったことを必死で否定した。
「でもねぇ、好きっていうのは一番大事なことだと思うけどな。それこそ、才能より」
そう香帆は言って、幸太の真似をして頼んだというマティーニを飲み干した。
「そうなのかな?」
「好きじゃないと熱中出来ないからね。何かで知ったんだけど、一万時間の法則って知ってる?どんな分野においても一万時間そのことに対して費やすと、一流になれるんだって。たぶん、最初から才能らしきものがある人でも無い人でも、一万時間費やすと、そんなものは五十歩百歩になっちゃうんじゃない?よっぽどの天才でも無い限り」
香帆はリキュールベースのアマレットミルクを注文した。
大介が同じようなことを昔語っていたことを思い出し、この二人は似ているかもしれないと思った。
九時半になると、香帆はそろそろ帰るね、と言い、コートを着始めた。
もう帰んの?これからなのにと幸太が残念そうにすると、香帆はいつも一時間半って決めてるからと言いすかさず幸太が、なぜゆえと問うと、ダラダラと飲み始めるとその先はあんまし楽しくないし、後で後悔するし、絵を描きたいからだよと言い、偉いなぁ、財布忘れるくせにと幸太が言い、香帆はそれに対して財布も忘れなかったら完璧だけど、人間だから完璧じゃないからねぇと言った。
香帆は牧師にお金を勘定し、そして幸太に、幸太君、楽しかったよ、またねと言って手を振り、躊躇うことなく出ていった。
幸太はその後来た常連の中年の男と、下品な話で盛り上がり飲んでいた。しかし、下卑た笑みで口を大きく上げながら笑いつつも、本当はこんな話をしたいのではないと思い、香帆のことを想った。そうして自宅へ戻った時、大介はギターを掻き鳴らして歌っていた。
大介は『はっきりしやがれ』という新曲を歌っていた。
またいつか、なんて嘘んじゃねぇ。そのうちなんて、アテにならねぇ、白か黒かはっきりしやがれ、お前がグレーのことばかり言うから、おかげで世界は滅茶苦茶だ。
白か黒か、はっきりしやがれ、白か黒か、はっきりしやがれ。どうでもいいよ、細かいことを気にすんなって、器の大きいフリをして、気がつきゃ、いつやら大惨事。第三次。
日和見主義の事無かれ。お前らの嘘を暴いてやる。お前らの化けの皮、鋭利なロックで剥いでやる。本音さえ持っていない脳タリン建前をぶっ刺してやる。白か黒か、はっきりしやがれ。イエスかノォか、はっきりしやがれ。
幸太はいい歌だと思った。
幸太が戻ってきたことに気付いた大介は、ジャンッと一度鳴らし、それに合わせるように、おっす幸太と言った。幸太がお疲れっすと言うと、大介は疲れてないっつーのと返した。
「この歌、どう?」
大介は幸太に、やや伏し目がちで聴いた。
「いや、かっこいいですよ」
いやなのか、かっこいいのかはっきりしやがれと言って大介は笑った。幸太はちょーかっけーっすと言って笑った。
お茶飲みます?と幸太が聞き、頼むと言いながら大介はギターを奏でつつ、鼻歌交じりにはっきりしやがれを歌っていた。ローテーブルに二つのグラスを置き、そこにペットボトルのお茶を注ぎこみながら幸太は口を開いた。
「今日、画家の女と会いましたよ」
大介は眉を顰めた。
「どんな女だった?」
いやぁっと息を吐きながら大介の目の前に座り込む。大介はギターを抱え、胡坐を掻いている。
「いい感じでした」
「なんじゃそりゃ。はっきりしてねぇなぁ」
大介はギターを無造作に横に置き、そのまま壁にもたれ掛かった。
「惚れたのか?」
「そっすね」
顔が綻ぶ幸太。スナフキンのグラスを意味も無く両手で廻す。
「お前、あの娘、どうすんだよ」
「あの娘、あぁ、あの娘は別に、そんなんじゃないですよ」
「可愛そうじゃねぇか。あの娘、お前のこと好きなんだろ」
「いやぁ」
幸太は気まずそうにしてスナフキンのグラスを廻すのをやめ、ローテーブルに付いているソースか何かのシミをじっと見つめる。そしてそのシミを指の爪で擦り取るかのように掻き始める。シミはきっと、取れないだろう。
お前なぁ、大介は溜息を吐く。
「前にさ、新聞配達時代、吉田の女と寝たろ。あんな乱痴気騒ぎ、もう起こすんじゃないぞ。あん時、どれだけ俺がお前のために……」
「大丈夫ですって」
幸太は最後の「て」を少し大きい声で発し、机を指でトントンと叩き出した。
大介に肯定してもらえなかったのが悲しく、拗ねるといつも幸太はこうなっていた。
「分かった、分かった。もうとやかく言わんよ」
「僕は大介さんみたいに硬派な生き方は出来ませんよ。たぶんセックス依存症とかだし」
幸太は口を尖らせた。
「俺は別に硬派って訳じゃねぇーよ」
「硬派でしょう。バンドやってて、しかも女にモテそうな顔してるじゃないですか
大介はハッと鼻で笑い、幸太にとってそれはなんだか、少し投げやり的な悲しそうな表情に映った。
「まぁ、人それぞれ悩みってもんがあるのよ」
幸太はテーブルに手を乗っけて、大介に顔を近づけ、まさか、インポとかですか?と小声で言うと、大介はアホ、と言い、飲み干した缶ビールを幸太に投げつけた。缶ビールは幸太のデコに当たり、ペコッと甲高い音と共に曲線を描き地面に虚しく転がった。
そうして、幸太は二日後の木曜日、至極当然の如くカタルシスへ赴いた。
獲物が毎日来る場所が決まっており、更にそこは二人きりで会話が出来、そのうえ酒が飲めるなんていう設定は、今までに無い程に口説きやすい環境だった故、既に香帆は自分に興味を持っていると頑なに信じていたので、幸太はほとんど勝利を確信していた。
カタルシスに七時半に到着し、牧師に意味ありげな微笑みをされながらも、香帆と酒を飲み明かし、語り合い、笑い合い、金曜は夜勤明けの大介と昼からカラオケに行き、行きつけのラーメン屋でラーメンを啜り、帰ってビールを飲み、土曜の夕方から都合の良い女の家と体を借り、火曜日にまた香帆とカタルシス、というように時は過ぎていった。
幸太の貯金はめっぽう減っていくが、貯金が無くなるその直前までこの自堕落な生活で粘るつもりでいた。
「香帆って怒ったりしたことあんの?」
次の木曜日に、同じようにカタルシスで香帆と飲んでいる時に、香帆がいつも余りにもあっけらかんとしていて、憤慨したことが無さそうだったのでそう聴いてみた。
「イラっとするようなことはあるけど、怒るまでの気力が無いなぁ。怒ったことはあると思うけど、忘れちゃった。あたし、なんでもすぐ忘れるの」
「若年性アルツハイマーとかじゃないよね?最近流行っているらしいよ」
「大丈夫、小さいころからだから。小児性アルツハイマーとかあるんなら、可能性高いけど。イヤイヤ、それなら既に進行し過ぎていて、あたしはもう、自分のこと分からないし、幸太君のことも五分後には忘れているレベルでしょ。今から五分後も幸太君のこと覚えてるから大丈夫だよ」
自分のことが分からないというのはどんな感じなんだろうか。出生地も名前も年齢も、住んでいる場所も、知人も友人も、恋人も妻も家族も分からないというのは。自分がどういった人間かだとかが分からないというのは。内面的なものは今でもサッパリ分からない。出生地や名前といった外面と引き換えに内面的なものがはっきと分かるようになっていたら面白いし、もしかしたらそれが真の自由を得たことになるのかも。などと、意味不明なことを幸太は考えた。
「一〇年後は?」
幸太は少しあどけない言い方をした。それは香帆に対して心をゆるしてきて、甘えている証拠だった。
「覚えてるよ」
とグラスを両手で持ち、テーブルに肘を付いて含み笑いをする香帆。
「五十年後は?」
「覚えてる。その時に付き合いが無かったら、たまに思い出す。そういえば、あんな可愛い人いたなぁって思い出して、癒される。その時にまだ生きていて本気でボケていなかったらの話だけど」
七杯目を注文したところで牧師のストップがかかった。
「幸太君、そのぐらいにしておこうか。それ以上飲むと、泥酔になっちゃうからね」
牧師は客になるだけ泥酔をさせないようにしていて、いつもそうやってもっと酔わせろと酒に飲まれる客達を制するのである。
「もう泥酔しているから、今更やめても意味ないって」
「どんどん酷くなるからねぇ」
と牧師。
「大丈夫?家近いから送ってあげようか?」
幸太がいつも以上に出来上がっていたので香帆は心配した。
幸太は香帆と今日、セックス出来ると思った。
「幸太君、彼女に送ってもらって帰りな」
と冷やかすようにカタルシスの常連の一人が言った。
「じゃぁ香帆ちゃんに送ってもらってそろそろ帰ろうかなぁ」
香帆の肩に何気なく手を置いた。よーしよしと幸太の金髪な猫毛を撫でる香帆。
「じゃあエスコート代として香帆ちゃんの分も払う」
ヨレつきながら財布を出して牧師に渡す幸太。
幸太は香帆の肩に掴まったまま、香帆がカタルシスのドアを開け、外に出た。
本当は肩に掴まらなくても歩ける範囲だったが、あたかも一人では帰れないというように芝居をした。
〇時をまわった京橋の夜は街全体が酒に酔っているようでドロッとしていた。寒さはピークに達する前だった。冷気を帯びた空気に二人の白い息が一定間隔で確認出来、自分達には温もりがある、生きている人間だということを幸太は感じた。
「知ってる?」
幸太はふいにそう言った。
「知ってる」
すかさず香帆はそう言った。
「テレパシーかよ。違うよ、聴いて」
「うん、聴く」
「寒い時に息が白くなるのは、小さな雲を作っているのと同じ原理なんだって。なんかの本に書いてた」
「へぇ、ロマンチックね。いいね、そういうロマンチック科学的雑学」
「でも、人間の力だと、すぐに消えてしまうぐらいの小さな雲しか作れないってことなんだよなぁ。しかもすぐ消えるし」
幸太は息を必要以上に吐き、出来るだけ大きな雲を作ってみようとした。
「小さい雲を作れるだけでも、凄いよ。ということは、雲を作ったのは、とんでもなくでっかい人ってことね」
香帆は笑ってから続けていった。
「ということは、その大きい人は、今見えてるおぼろ月とかも上手いこと吐く息を調整して雲を作ってそういう風に見えるようにしてるのかなぁ。あたし達が楽しめるように。それで月の形とかも毎日同じ月を見ていたら飽きるから、イロンナ形にして、イロンナ形にしてっていうか、イロンナ形にあたし達が見えるように調整していてくれてるんだよ」
大きな人、幸太は呟いた。
大きな人は全部が大きいのだろうか。それこそ、内面的な器も想像力も半端じゃないほどに、大きいのだろうか。と幸太は思った。
「手ぇ寒い、俺の手、触ってみて」
香帆は幸太の手を何気なく触った。
「ホントだ、あたしの手より冷たいね。あたしも冷え性だけど。大丈夫?生きてる?」
「手が冷たい人は心が暖かいんだよ」
「そういうよね。ホントかなぁ?サイコパスな殺人鬼でも手が冷たい人もいると思うけど」
いい感じの雰囲気だと幸太は思った。
幸太は香帆に寄り添っていた。今までの経験上、手応えがあるはずのに、何故か手応えが無いような感覚がした。確かに掴んでいるのに、実感が無いというか、まるで雲を掴んでいるよなう感覚だった。
「何号室に住んでんの?」
「ストーカーしない?」
「今更、手遅れだよ。ちょっと頑張ったらバレるよ」
「じゃあしょうがないわね。教えてあげる。302よ」
「3階か。俺は1階だよ。どうでもいいけど」
「3階は空気薄いよ」
「いや、そのぐらいの差だと変わらんでしょ」
「ホントだって。ちょっと違うもん」
香帆は真顔だった。
「じゃあ部屋、行って確かめていい?」
冗談交じりに、幸太は言った。しかしこれでほとんど全てが分かるという計算だった。
香帆は少し間を取った。どうして間を取る?今日はセックス出来ないかもしれないと幸太は不安になった。
「いいけど」
と香帆。次に、何もしないでねと言うと幸太は思う。しかし部屋に行くのがいいということはもうすでにOKの許可が出たことだと幸太は考える。
「いいけども」
と繰り返す香帆。
「いいけども?」
「えーっと」
香帆は京橋の星一つ見えない、淀んだ夜空を見上げる。
「え?何?何?」
これは何もしないで、よりも、もっと酷い、彼氏と同棲しているとか、誰かと同棲しているとか、そういった、もう完全にセックスが出来ないパターンではないかと、幸太は軽い絶望感を感じた。幸太は頼むから、ヤらせてくれと念じていた。
「あたしね」
「うん、何?」
「第四の性なの」
「はい?え?第四?」
全く想像しなかった答えに幸太の頭の中は疑問符で埋め尽くされた。わけが分からなかったので、自分がエイリアンか何かなのかという告白をしたのかと、わけの分からないことを思った。
えーっと。香帆は上手いこと喋ろうと、思いめぐらしているようだった。
「異性愛者、同性愛者、両性愛者っているじゃない?」
「うん。俺はホモじゃないと思うと。女大好きだし」
「うん、知ってる」
「あたしは無性愛者、第四の性、アセクシャル、まぁ呼び方なんてどうでもいいけど、とにかく、誰にも、男にも女にも両性具有にも、誰にも恋愛感情を抱かないし、誰にも性欲も湧かないってやつなの」
幸太は足を止めた。流れ的に香帆も足を止めた。街灯が照らされる住宅街で、香帆が幸太の一歩手前にいる。物音一つ聴こえない住宅街は、まるで何処の家にも人が住んでいないかのように感じた。風が強く、風の音が煩わしい音に聴こえる。
「え、マジ?」
「マジ」
「そんな人いんの?」
「あなたの目の前にいるでしょ」
香帆は笑う。
「まだ好きな人が現れてないとかじゃないの?」
「違うよ。明らかに、違うんよ。例えば、思春期になったらみんな少女漫画とか恋愛映画とか観るでしょ?ああいうの観ても、良く分からないの。恋愛のなんたるかってやつが。
それで、一回告白してきた男と付き合ってみて、付き合ってみたら何か芽生えるかなと思ったけれど、何も芽生えないし、手を握られても、不快感しかないし、みんなが言うドキドキとか全然無いし、自分はバイなのかなと思って、十八歳の時に女の人と付き合ってみたけど、男の時と同じで何も感じないし、男とも女ともセックスをしてみたけれど、どっちも同じように気持ち悪いだけで意味不明だし、それで凄く悩んでたんだけど、ある時、あることがきっかけで、無性愛者という人が世界人口の1%存在するって聴いて、それを調べてみたら、ああこれだって安心したの。性欲無いの。恋愛感情も」
すぐには理解出来なかった幸太だが、時間が経つにつれ、薄々と失望の波が押し寄せてきた。
「だから、別に来てもいいけど、まぁそういうこと」
「人を好きにならんの?」
「好きにはなるよ。幸太君、好きだよ。可愛くて、癒し系っぽくて、面白くて。でもそれは、友達として?好きであって、みんなが在るような恋愛感情とか、性的に見るとかいう思いは一切無いってこと」
「マジィ?嘘だろぉ」
ため息を吐き、大きな失望が心の中で渦巻く。もう一息でセックスが出来るという期待を打ち砕かれたそれは、大きな魚を釣り上げたが、網に入れたところで魚が飛び跳ねて網から逃げ出し、海の中へ帰っていったというのよりも更に二回り大きな失望だった。
「マジぃ。ホントだろぉ」
香帆は真似をした。
「どうする?来る?」
ここで行かないと言うと、まるで体目的だし(体目的に違いないのだが)今まで聴いたことのないような話なので、完全に呑み込むことが出来なかった幸太は、まだチャンスがあると思い、それに酒に酔っているので酷く人恋しく、香帆と一緒にいたかったので、幸太はもちろん行くと言った。
しかし幸太は完全に拗ねていた。既に香帆の体にもたれ掛かるという演技をする余裕も無く。俯きながら路上の石を蹴りつけ、トボトボトと香帆の後をついていった。
そして、どうして掴んでいるのに、実感が無い感じだったのかが分かった。
彼女は自分に対して全く性的に意識をしていなかったからである。空回り。
マンションに着くと、大介の住んでいるマンションよりも立派だった。オートロックなのが何よりも証拠だ。香帆が鍵を差し込み、右に傾け、ドアが開く。そしてそのままポストを調べていた。
「バーに行って帰ってきた間にチラシなんかあるはずないのに、帰ってきたらなんとなくポストを開けないと気がすまないんだよね」と香帆は笑った。
拗ねていた幸太は何も言わなかった。
エレベーターで三階まで上がる。エレベーターが開き、幸太と香帆は一緒に乗る。
今から香帆の部屋に行くと想像すると、幸太は急に緊張し、ぎこちなくなってしまい、香帆が乗ろうとした時に幸太も一緒に乗り、エレベーターが狭かったので、香帆にぶつかってしまい、香帆は笑ったが幸太は俯いたままお菓子を買って貰えなかった子供のような顔をしていた。
エレベーターの密室で香帆と二人でいると、胸が高鳴った。酒が入った密室でも香帆はなんとも思わないと言うのだろうか。この感覚を味わったことが本当に無いのだろうか。と幸太は考えた。拗ねている幸太に気付いた香帆は笑いながら、幸太君、機嫌直してと言って幸太の頭を撫でた。幸太は思わずキスしそうになるほどに欲情したが、嫌われるかもしれないという一心でなんとか自制心を保った。人の気持ちが分からないのは罪だと思った。
「三〇二は一番奥の隅っこなの。隅っこっていいよね」
香帆は言った。
それを聞いて幸太は、この人はやっぱり信用出来ると思った。
「どうぞ、いらっしゃいまし」
香帆はドアを開け、片手を前に出し、お辞儀をした。
靴を脱ぎ、中へ入ると女性らしくない殺風景な部屋で、さすが画家だと幸太は感心した。ローテーブルとソファーがあり、テーブルの隣の壁沿いに小さいベッドがあった。テレビは無かった。白いアコーディオンカーテンで仕切りがあった。
香帆は、散らかっている部屋を素早く、それなりに片づけた。
「この仕切りの奥は仕事場?」
「うん、仕事場」
「観ていい?」
「どうぞどうぞ」
アコーディオンカーテンをシャッと開けると、目の前には、その部屋いっぱいにブルーシートが広げられ、たくさんの絵画が壁に立てかけてあり、真ん中のほうにキャンバスを立てかけるイーゼルがあり、絵の具や筆がところどころに散乱していた。
「おおー」
幸太は感嘆の声をあげた。
幸太にとって、その部屋は、まるで、財宝の在処のように映り、その部屋に圧倒的な自由を感じた。この部屋から香帆の頭の中の想像が生み出される空間なのだと意識すると、無限大の可能性を秘めた、何にも代えがたい一つの芸術箱のように思えた。
「汚いでしょ?」
「うん、でもそのほうが熱心な画家っぽくていいねぇ。整理なんて二の次だ、絵を描くことだけに専念みたいな感じで」
「あはは、でも、整理したほうがいいって思うよ。良く絵の具のチューブを足で踏んでブチャッてしちゃうの。ほら、その辺にブチャッの痕跡があるでしょ」
ブチャッの痕跡は部屋のところどころに残っていた。
幸太が香帆の仕事場を熱心に観察しながら、壁に立て掛けられている絵やイーゼルに立て掛けているキャンバスに、今描いているであろう絵を、まるで鑑定人のように顎に手を当てて、感嘆しながら観ているのを香帆は滑稽に見えて含み笑いをしていた。
「まだ飲み足りないでしょ?牧師、口うるさいからね。腹七分ぐらいの酔いの満たされないところで上手いことストップしてくるもん。あの人、バーテンダー向いてないよね」
そう言いながら香帆は冷蔵庫からワインを取り出し、ローテーブルに音を立てて置いた。
「飲む、飲む、」
幸太は犬の真似をして、香帆が座っている横に行き、ワンワンと吠えるフリをすると、香帆は笑いながらムツゴロウさんのように、ヨーシヨシと言いながら、幸太の頭を撫でた。
頭を撫でられた幸太は下半身に疼きを感じたがそれを制した。幸太が二人のワイングラスにワインを注ぎ、乾杯をし、飲みなおしを始めた。カチンとワイングラスの響きが鳴った。薄いワイングラスで勢いよく乾杯をしてワイングラスが割れるのを幸太は良く妄想していた。幸太は香帆に寄りかかっていた。幸太は好意のあり、気をゆるしている女性の前だと、必ず異常なほどにスキンシップを取り、子供がえりをしていた。
香帆はそんな幸太に、ペットのような可愛らしさを感じていた。
「幸太君ってどんな字、書くの?」
「幸せに太いだよ」
「太い幸せって、いい名前だね」
「でも全然、虚無だよ」
「なんだよ、全然、虚無って。まだ若いんだからこれかよ、これから」
幸太が香帆にもたれかかると、香帆の胸の谷間に目がいった。ピッタリとしたTシャツに、香帆の胸の形がくっきりと現れていた。幸太は疼きを我慢ができなくなっていた。
「ホントになんも感じないの?」
幸太は香帆の耳元辺りで囁くように言った。
「可愛いって感じるよ」
香帆はくすぐったいように笑いながら言った。
「したくなっちゃた?」
と香帆。
「うん」
幸太は低い声で言い、香帆の目をマジマジと見つめた。
香帆はまた天井を見上げた。幸太もつられて天井を見上げた。汚れの無い真っ白な天井だった。
「あたし、いつもなら男の人を部屋にいれたりしないのよ。一度、十九歳の時に、面白い男がいて、その男が部屋に行きたいってなんとなく言うから、何もしないっていう約束して、その男ともっと話したかったら部屋に入れたら、案の定、彼はあたしとヤりたくなって迫ってきたんだけど、あたしには性欲が無いし、触られるだけで嫌悪感があるから出来ないよって言っても、もうその男は抑えることが出来なくて、そのまま犯されたことがあってさ、あたしが迂闊だったな。まだ、あまり男というのを知らなかったから。まぁ、軽かったあたしが悪いんだけど」
幸太の胸はナイフで突き刺されたように痛んだ。そして下半身の疼きは萎んでいく。
「そんなの、香帆は悪くないだろう。香帆は約束を信じたんだから。信じたやつが悪いなんておかしい。犯されるのは犯された側にも問題があるなんていう奴いるけど、そんな奴はヒトラーにでもなれるよ」
幸太は声を荒げて言った。
「ありがと。幸太君を部屋に入れたのは、幸太君は本当に優しい人だって分かったからね。あたし、そういうのに凄く敏感なの。第六感ってやつ?昔あたしを犯した男は、優しいフリをしているだけって分かっていた。分かっていたけど、部屋に入れたのは、男というのがどういう生き物か分かっていなかったから。本当は人に触られるのは凄く嫌なんだけど、幸太君はなんだか、嫌な気分しなくて、可愛いから全然触られてもいいし、触りたいよ」
そう言って香帆は幸太の金髪の頭を掻き回した。香帆はまだ男というのを、その性欲の疼きというのを全然分かっていないと幸太は思った。
「でも、エッチは出来ない?」
「全然したくないけど、したかったら、してもいいんだよ?経験あるし」
「したくないのに?」
「だって、幸太君、辛いんでしょ?幸太君を辛くさせたのはあたしの責任だからね」
幸太は香帆から手を離して俯き加減で言った。
「ヤりたくない人とヤるなんて、レイプと一緒じゃん。レイプなんてしたくないよ」
幸太は自分でそう言ってから、自分の矛盾にはっとした。サディストの自分がどうしてレイプをしたくないんだろう。アダルトビデオ等で、レイプを題材にしたストーリーのAVや女性を凌辱するような想像でしか自慰が出来ないのに、どうしてか、と考えてみると、良く考えるとそれはマゾヒストの女性に対しての行為であり、その女性は嫌がりながらも、実はそれは彼女の中の設定であり、本当はして欲しいという、プレイの一環だったので、そうだと分かった。だが、映画等で女性が殺されるシーンや拷問を受けるシーン等でも幸太は興奮し、インターネットで、実際に女性が殺されたりされる本物らしき動画を観た時でも興奮し、それはプレイの一環等ではなく、完全に一方的な殺人や拷問やレイプ等で、彼女は心から嫌がっているのにも関わらず、そういうシーンを観て自慰に耽っていたこともある。さすがにその時は射精した後の嫌悪感というのは大きかった。
しかし、強姦等の性犯罪者に対して、幸太は激しい怒りを覚えるという矛盾があった。
自分が実際に強姦をすることは決して無いと幸太は思っている。だが、そういった女性を凌辱するような行為でしか興奮を覚えない自分がいた。幸太は女性に対して非常に優しい心を持っていた。しかしその反面、女性を非常に貶めたい心がある自分がいる。悪と良心のせめぎ合いの中、幸太は苦悶していた。
どちらが本来の自分なんだろうと思い、そして自分よりも不自由な人間はいないとも思った。香帆が犯されたと聞き、それを想像しても全く興奮はせずに、むしろそれを聞いた後にさっきまでの性的興奮はすっかり興ざめてしまい、非常に胸がシクシクとしていた。
「どうしたの?」
考え込んでいるような幸太を香帆は覗き見た。
「香帆は、寂しくなったりしないの?」
「寂しかったりするよ。なんで?」
「いや、無性愛だったら寂しくなったりあんまりしないのかなって」
「寂しいよ。だから、数少ない友達ともたまに遊ぶし、一番は絵を描いて誤魔化してる。幸太君は寂しい時に恋愛で誤魔化すんでしょ?みんなが言うには恋愛は凄く楽しいらしいから、胸がトキメイて、その人のことしか考えられない程好きになるらしいから、あたしもしてみたいと思って試してみたけど、どう頑張っても恋愛出来なかったから諦めちゃった。まぁ、恋愛は頑張ってするもんじゃないみたいだしなぁ」
「そっか。俺は恋愛で紛らわしてる。女の娘とスキンシップ取っていると寂しくない」
「みんなそれぞれ、誤魔化しかたがあるんじゃない?」
誤魔化す、と幸太は独り言のように呟いてから、言った。
「誤魔化してるのかな?」
「誤魔化してるよ。だって、寂しさという現実はまたやってくるでしょ。現実が孤独だから、みんな現実逃避で孤独を誤魔化すの」
「七十億人いれば七十億人の孤独があるのよ。例え自分と全く同じ人間がいても、それは自分と全く同じに似ているだけで、自分じゃないから分かり合えないでしょ」
幸太はその考え方は寂しいと思った。しかしそれが真実なのかもしれないとも思った。
「俺、今日あそこで寝てもいい?」
幸太は隣の香帆の仕事部屋を指さした。
「いいけど、私、ソファーで寝るから、ベッドで寝てもいいし、その逆でもいいし、幸太君が我慢出来るなら添い寝でもいいよ」
「いや、あそこで寝たい」
「そこで寝たかったらそこで寝ていいよ。幸太君の自由になさい。君は自由だ。あ、でも、寝相悪くない?転げまわってイーゼルの上のキャンバスとか壁に立て掛けてるキャンバスぶっ壊したりしないでね」
「大丈夫だよ。俺、寝ている時、微動だにしないから」
「ならOK。君は自由だ」
親指を立てる香帆。
「ということはもう寝るの?」
と香帆
「うん、もう寝る」
香帆は毛布を貸してくれた。
二人はおやすみなさいと言い合い、それぞれの孤独へと向かった。
電気を消すと、油絵具の匂いが余計に充満したように思えた。しかし幸太はそれが心地よかった。その匂いにはあらゆる想像をキャンバスに創造出来る力を秘めているように感じた。初めての女性の部屋で寝るという感覚は、幸太のアドレナリンを増幅させ、眠気を覚まし、寝付くことが出来ずにいた。毛布は香帆の匂いでいっぱいになっていた。隣の香帆はもう寝ただろうか、と考えると、幸太はまた下半身の疼きを覚えた。そうして、ジーンズの後ろにポケットティッシュがあったことを思い出し、ポケットティッシュから何枚かティッシュを取り出し、香帆の毛布を顔に埋め、大きく鼻から息を吸い、香帆を体の中にたくさん入れた。そしてズボンを降ろし、自慰に耽った。
隣に香帆がいることを想像すると、余計に興奮した。想像の中での香帆は、幸太に犯されながらも、それは演技であり本当は犯されていなく、合意の上であり、プレイの一環であって、香帆は性的興奮を感じていた。幸太は、香帆を凌辱している姿を想像し、すぐに絶頂に達し、射精をした。精子と共に罪悪感をティッシュで拭いさり、精子と罪悪感の混じったティッシュをゴミ箱に投げ捨てた。
しかし、本当はこんなことを想像したかったんじゃない、と幸太は思った。罪悪感はティッシュでは拭えなかった。そして香帆の想像の聖域を汚したことに対しての罪悪感もほんのりとあった。
幸太がすぐ隣の部屋で、自分を犯す想像をしてマスターベーションをしていたことに、香帆はいつまでも知らずにいた。幸太は、もしそれを香帆に言っても、香帆なら笑って赦してくれるだろうと、赦すも何も、しょうがないよ。むしろ現実に犯さなかったから幸太君は優しいよと言ってくれるだろうと思ったが、実際に犯されたことのある香帆は酷く傷付く可能性も高いので、それならわざわざ話のネタにしてまで言う必要は無いと思い、言わなかった。
虚しくなった幸太はそのまま香帆に気付かれないよう、そろりと部屋を出ようとしたが、まだ寝ていなかった香帆が気づき、あれ?幸太君、帰るの?と声を掛けてきた。
幸太は少し気まずそうにしながら、うん、なんとなく、と言った。
今日はありがとう。楽しかったよ、と幸太が言うと、香帆はごめんねと謝った。
香帆が別に謝ることは何もないよと言い、香帆がまたねと言い、そして幸太はドアを開け、自分の部屋、もとい、大介の部屋へと帰っていった。
ドアを開けると大介が飲んでいた。
「幸太、おかえり、カタルシスか?」
すでに顔の赤い大介は手を挙げて嬉しそうな顔をしてそう言った。
「えぇ、まぁ、そんなとこです」
「なんだ、そんなとこって。なんか隠してるだろ?はっきりしやがれ」
大介は幸太を少し睨んだ。大介が新曲の『はっきりしやがれ』を創ったからといふものの、はっきりしやがれと言うのが大介の中の流行となっていて幸太はそれが少しうっとおしいと感じた。うっとおしくなってきたので、最初は共感していたその歌詞も、曖昧なのは優しさと、否定してみたが、その後に本当に優しさかどうかと考えてみたところ、それは優しさというよりも、自分が傷付きたくないからだということに気付いた。しかし自分が傷付きたくないからというのは繊細である証拠で、痛みを知っているが故に相手の痛みも知ることが出来るから優しくなるのであって、それはやはり優しさなのではないかと自己完結していた。
幸太は大介に誘われて、飲みなおすことにした。しかし、このままでは将来の肝臓が危ないと思い、明日から少し酒を控えようと決意した。
「そういや、大介さんって全然、女っ気無いですね。僕と出会ってから一度でも付き合った女の人とかいたんですか?」
「なんだよ、いきなり」
大介は少し眉を顰めて、グラスに入っている残り半分のビールを一気に飲み干した。
「まぁ、最近じゃぁ何かあったとしても一夜限りってもんかな」
大介は正面の壁を見つめながらそう言った。
その落ち着いた喋り方に、幸太は少し違和感を感じ、大介は何か今、嘘を吐いたんじゃないだろうかと、なんとなくそう思った。
「え、大丈夫ですか、それってもしかして無性愛者じゃないですか?」
幸太は覚えたての言葉を使いたかった。
「むせい?夢精?あい?なんじゃそりゃ?」
と変な顔をする大介。
「実は、あの話題の画家の女、香帆とさっきまで彼女の家で飲んでまして」
大介は一瞬、渋面を見せ、大げさに手を額に当ててアチャーと言った。
「あ、でも帰ってきたってことは寝てないのか」
「はい、それが、その香帆は無性愛者って言う、他者に対して恋愛感情も抱かないし、性欲も沸かないんですって」
「ホントか?それ。そんな奴いんのかよ」
「世界中に1%いるらしいですよ」
「結構確率高いじゃねぇか。百人に1人ってことだろ」
「そういえばそうですね。結構確率高いですね」
「でもそういや、恋愛に全く興味無いってやつたまにいるよな。ああいうやつってみんな無性愛者だったのかな」
大介はビールを自分のグラスになみなみ注ぎ、続けて喋る。
「その女の無性なんたらっていうのも、悲しいもんだな」
悲しい、と独り言のように幸太は呟いてから続けて言った。
「悲しいけど、辛い思いも少なくて少し羨ましいとか思ったりします。っていうか、ということは、大介さんは無性愛者じゃないんですね」
「全然羨ましくないし、俺が無性愛者なわけねぇーだろう。無性愛者がラブソングを書けるか。まぁ、あんましラブソングは書かないけど」
「羨ましいですよ。恋愛しなかったら、恋愛で傷つくこととか引きずることが無いじゃないですか。ああいうのって人生でトップ5に入るぐらい辛くないですか?いや、トップ3ぐらいに辛いですよ」
と言ってみたものの、それは幸太が本当に自分でそう思っているわけではなく、みんながそういったこと言うから言ったまでであり、幸太自身は恋人にフられても秒速で立ち直るので、恋愛で傷ついたことなんて無かった。幸太はなんとなくその場の雰囲気に合わせて空気を読んで自分に吐かなくてもいい嘘を吐いた。しかし恋愛が辛いというのは大体の意味で分かっていた。
「ばーか。辛いことがあるからこそ、その先にある幸せも感じるんだよ。辛いに横線引いたら幸せって漢字が物語っているよ。だから辛いことが無いということは幸せも無いってことだぞ」
「おぉ、恰好いいこと言いますね。それは請け売りじゃないですよね」
「いや、牧師からちょっとパクったけど。牧師は辛いという字に十字架を足して幸せ。だから罪があって辛いけど、その罪をイエスの十字架を信じることによって赦されるから幸せ、なんてことを言ってたよ。そういや、最近カタルシス行ってないなぁ」
「じゃあ彼女に幸せは訪れないってことですか?」
「そこまで言わんけど、恋愛って辛いけど、素晴らしいもんだろ?恋愛をすると理性のタカが外れるほど、人を好きになるだろ。それって素晴らしいことだよ。まぁ、それだけ素晴らしい反面、辛いこともあるってこと。辛さと幸せはコインの表と裏で切って離せないからな。特に俺は恋愛に関しては、」
そこまで言って大介は口をつぐんだ。
「恋愛に関しては?」
「なんでもない」
と大介
「なんですか、気になるじゃないですか」
「もういい」
語気を少し荒くしたので、幸太は少し焦り、それでその話はやめにした。
「そういや、お前幸太って最高の名前じゃないか。太い幸せって。最高だな」
「完全に名前負けしてますけどねぇ」
「何言っとんの。これからだろう」
幸太はデジャブを感じた。
「そういや、大介ってなんか意味あるんですか?」
「あぁ、大介って意味はだな……」
どうでもいい話をしていると、幸太は香帆がこの近くにいるという事実を思い出し、胸が高鳴った。そしてまたすぐに香帆の家に行きたいと思った。
翌朝、起きると大介の姿は無く、いつものように机の上にはソーセージと目玉焼きとご飯があり、スナフキンのグラスが用意されていた。都合の良い女とは味噌汁とソーセージの違いだけだと幸太は思った。幸太はその朝食を当たり前のようにいただき、そして当たり前のように流し台の中へ入れ、いつものほんのりとした罪悪感を覚えた。
幸太は香帆に会いに行きたいと思った。時計を見ると十時だったので、時間的には行っても問題は無いが、ストーカーみたいだと思われないか心配した。そして幸太は忘れ物を取りに行くという設定を作り、それを理由に香帆の部屋に行くことにした。香帆はおそらく居るだろうと思った。
三〇二と書かれた無機質なドアの前で幸太は一呼吸おいた。最初に自分を観たその香帆の顔色や雰囲気で、香帆が自分を本当にストーカーまがいなのではないか、と懸念した気持ちか、それとも、なんとも無いような気持ちなのかが分かってしまうからだ。
幸太にとっては少しばかりの賭けでもあった。そうしてまでも香帆に今日、会いたかった。恐る恐るチャイムを鳴らし、しばらく経つが、物音一つ聴こえてこない。
居ないのだろうか。もう一度押すのは少し気が引けた。もしかして、幸太が来たのかと察し、奴はやはりストーカー気質だったのではないかと思って居留守を使っているのかもしれない。
幸太は自分の欲を抑えきれないために大胆な反面、深読みし過ぎるところがあり、臆病なところがあった。焦る必要は無いと思い、帰ろうと振り返り、エレベーターの方へ向かって一歩足を前に出した矢先に、奥の方からガタガタと忙しない物音が聴こえてきた。
そうして、ドアが開いた。ドアからニュッと上半身を出した香帆の姿は寝癖がピンと付いたままで、無地の白いセーターとダメージジーンズを履いていて、その服とジーンズはいたるところに絵の具が付着していた。仕事着なのであろう。
香帆は幸太を見るやいなや、満面の笑みになり、おぉ、幸太、久しぶり、と冗談を言う程までになんとも思っていない様子だった。
「おはよう、絵、描いてたの?」
「うん、絵、描いてたの」
「ごめん、忘れ物したからまた来ちゃった」
「なんか忘れてたっけ?そりゃぁもう、どうぞどうぞ」
香帆は幸太を手招いて、幸太は部屋の中へ入っていく。
「朝食、もう食べたの?」
「いや、まだだよ」
幸太は香帆の手料理が食べられると思い、嘘を吐いた。そもそも、忘れ物を取りにきたのも嘘だ。じゃあ、一緒に食べよう、と香帆は冷蔵庫からシリアルと牛乳を持ってきた。
手料理じゃなくて残念だったが、香帆と一緒に朝食を共に出来るのは嬉しかった。
「あれ?そういえば、忘れ物は?」
幸太はバツの悪そうな顔をした。
「ごめん、あの、あれ嘘なんだ。後、朝食食べてないのも嘘なんだ。おかげでお腹がはち切れそうだ」
「嘘が多いな、こやつは」
香帆は幸太の脇腹を小突いた。ぎゃっと言って幸太は笑う。
「そんな嘘吐いてまで遠慮して来なくていいのに。もっと大胆にお邪魔しちゃってさ」
「いや、昨日の今日また家にきたら、こいつストーカーかよって思われそうじゃん。それが怖くて」
「ストーカーなら問題あるけど、ストーカーと思われるんじゃないかって不安になる人はストーカーになれないから大丈夫よ」
幸太は確かに、と言い、皿に浮いてる残りの牛乳を飲み干した。
二人はシリアルを食べ終え、幸太は俺が洗うよと言った。香帆は、いいよ。お客様なのにと言うと、幸太は、いつも大介さんに洗わせてて香帆ちゃんにも洗わせてたら、さすがに気が引けるよと幸太と言った。香帆は大介さん可愛そうと言って笑った。大介さんは洗うの好きだから大丈夫と言って幸太も笑った。
洗った後に幸太は香帆にここは禁煙ですか?と聞くと、香帆はお客さん専用の灰皿を差し出し、肺が真っ黒になるまで堪能してくださいと言った。
あの、隣、行っていい?幸太がそう聞くと、香帆はいいよ、おいでと手招きをした。
幸太は壁にもたれ掛かっている香帆の隣に寄り添い、タバコに火を付けた。そしてまた下半身の疼きを覚えた。タバコを根元まで吸い終え、灰皿に押しつぶした。
「あたし、今からまた絵を描くから、幸太君の相手をしてやれないけど、でも幸太君が暇だったら居てもいいよ」
タバコをちょうど灰皿に押しつぶしたのを確認して、幸太の方を見て、そう言った。
「絵を描いてるとこ見てていいかな?気が散る?」
「いいよ。あたし絵を描き始めたら、頭が絵の中にいっちゃって周りが見えなくなるの。見てても何も楽しくないと思うよ。あたしが逆の立場だったら絶対楽しくないもん」
だからチャイムを鳴らした時、反応が遅れたのかと幸太は思った。
「俺どうせ暇人だから見てたい」
「幸太君も早く、仕事探さなきゃだね。それか今のうちに、貯蓄があって時間の暇があるうちに小説でも書いてみてどっか送ってみたらいいんじゃない?」
「うん、そうしようと思って、ちょこちょこ書いてるんだ。もっと書いたほうがいいんだけどなぁ、怠惰に負けるぜ」
「怠惰に打ち勝て、青年よ。よし、あたしは絵、描くよ」
と言って立ち上がり、背伸びをする香帆。背伸びをした時に香帆がうぅんと声を出していたのを聴き、香帆がもしセックスで感じることが出来たらこんな感じの喘ぎ声を出すのだろうかと幸太は思い、そして香帆を汚した気がして少しばかりの罪悪感を覚えた。
香帆は聖域へと場所を移した。幸太は後ろから邪魔をしないようにそろりとついていった。後ろからついてきた幸太をチラっと後ろを振り返って香帆は可愛い動物を観たかのように短く笑った。
イーゼルに立て掛けたキャンバスの絵は、まだ描き始めた段階なのだろうか。青色で乱雑に塗りつぶされている。乱雑に見えるだけでおそらく計算されているのであろうと幸太は思った。イーゼルの後ろにある棚には大量の筆や絵の具らしきものが置いてある。
「この絵は幸太君には見せられないんだ」
香帆はその青に塗りたくられたキャンバスを壁に立て掛けて、幸太に見えないように後ろへ向けた。
え?なんで?と幸太が聞くと、へへ、内緒と舌を出す香帆。
そしてその隣に立て掛けてあったキャンバスを取り、イーゼルに立て掛け、香帆は描き始めた。その絵はさっきと違い、すでに絵のようになっていた。幸太はその絵を観て思わず、うお、すげ。と感嘆した。
その絵は、ブルドッグが天使のような美しい翼を広げて宇宙を飛んでいる絵だった。そしてその色使いと言えば、生々しくて、独特だった。
それは不条理で滑稽で、しかし美しくもあった。美しさと滑稽さというのは相反するものだと感じ、そしてその二つの感情を同時に認識すると、気味の悪い感動が生まれることを幸太は知った。。
香帆が画家として食べていけるようになったのは三年前だった。それが芸術大学を卒業し、二年してからだった。
香帆が一度絵を描き始めると、本当にその絵の中へ入ってしまったみたいだった。
その目はただ絵だけを観ていて、口が半開きになり、キャンバスに顔を近づけ、絵の中へダイブしてしまうかのようだった。そして、ひたすら、一心不乱に描き殴っていた。
香帆から見えない熱気が出ているかのようで、近付くことすら出来ない気がした。
幸太は少し離れて、三角座りをして、香帆と、その絵をジッと見ていた。
一時間が経ったろうか、二時間は経っただろう。
香帆が何かを思い出したかのようにハッと後ろを振り向くと、そこには幸太が三角座りをして、香帆の方をじっと見つめていた。
香帆は大袈裟に仰け反り、おぉっストーカーがいると言った。
「いやぁ、凄いね」
「何が?」
と眉を潜めて香帆は笑った。
「なんか、凄かったよ。それで、ここ最近で一番感動した」
「いやぁ、あたしは幸太君がまだ居たことに感動したよ。ずっとそこに居たの?」
「うん、ずっとここに居た。香帆はずっとそこに居なかったね」
「なんで?居たよ?透明人間なってた?それより、昼ご飯でも食う?」
と香帆は幸太に聴いた。
「いや、そろそろ帰るよ。充分香帆を堪能したから」
「そうか、いつの間にか堪能されてしまったか」
香帆は三角座りをしている幸太の傍までいき、幸太の金髪をワシャワシャと撫でた。
幸太は嬉しそうに撫でられるがままになった。
「そういや、幸太君ってどうして金髪なの?いつから金髪なの?産まれる前から?」
「俺は二十歳の時から金髪だよ。生まれた時は黒かった。たぶん。ハゲるまで金髪でいるよ。なんで金髪かっていうと金髪が一番目立つから。自己顕示欲強いから、何かで自分をアピールしていないと俺は死んでしまうんだ」
「なるほど、じゃあ尚更作家は向いてるねぇ」
香帆は適当なことを言って、手を顎に当てて、深くうなずいた。
その日の夜、大介は夜勤で一人だった幸太は、今まで以上に熱心に小説を書き始めた。
そして、幸太は明日、都合の良い女のところへ行くか、それとも香帆の家へ行くかを迷っていた。香帆の所へ行きたいが、香帆の所へ行ってもセックスは出来ない。都合の良い女の所へ行くなら、セックスは出来る。しかしそこに香帆はいない。香帆の所へ行くなら、香帆は居る。絵を描いていたら、香帆はいないけど、香帆は居る。そしてその光景を見るのは好きだ。しかし、セックスは出来ない。
香帆に都合の良い女のセックスと性癖が合体すればいいのに、と幸太は思っていた。
そしてそんなことを考えている自分はとんでもなく罪深い人間だなと感じ、自分の心の中は誰にも言えないようなドス黒いものがたくさん蠢いていると感じた。
しかし、性欲が我慢出来なくなっていたので、都合の良い女のところへ行くことにした。
明日遊べる?とメールをすると、都合の良い女は、いいよ、とすぐに返信をしてきた。
しかし幸太は香帆と一緒に居たことによって、すぐにセックスがしたくなったので、今から行っていい?とメールを再び送ると、どうぞ、と返ってきた。
好きな時に自分の欲を満たすことが出来る環境にいる幸太は圧倒的に自由のように見えるが、それとは裏腹に幸太の心は常に曇っていた。そして幸太は都合の良い女のところへ終電間近の時間で行き、そのまま都合の女と寝た。果てた後、都合の女と添い寝をし、都合の女が幸太の体に絡まっている時、都合の女は幸太をじっと見つめていた。
どうした?鼻くそついてる?と幸太が聞くと、都合の女は、なんでもないと言って幸太に背中を向けた。幸太は鼻の辺りを手で触ってみた。
土曜日は珍しく、都合の女の都合で動物園へデートに出掛けた。幸太は全く乗り気じゃなく、家でゴロゴロしようよと提案したが、都合の女はそれを頑なに拒み、たまには何処かへ出かけたほうが健康に良いし、あんた毎日ゴロゴロしてるんだから、そのままじゃ社会復帰出来なくなるよと言って譲らなくて、いつもなら譲ってくれるのに、その日はいつもと違い、かなり強引だと幸太は思った。
動物園の切符売り場で都合の女は、チケットの買い方を書かれた絵を観ながら、ほら、見て幸太、チケットの買い方書いてるよ。はい、チケットの買い方、一番、お金を入れます、二番、枚数を選んで、三番、チケットの種類を選んで、四番、お釣りを忘れずに、だって。はい、幸太君、できますか?と楽しそうに言った。幸太はなんかいつもと違ってテンション高いなといって苦笑した。
土曜の冬の動物園は、人はまばらで、それなりに過疎化していた。
動物園の中へ入ると、真ん中に花壇があり、アーチ型の建物になっていた。青い空とそのアーチ型の建物に挟まれて、幸太と都合の良い女はその真ん中に立っていた。
「ねぇねぇ、幸太、ホッキョクグマのリンコちゃんとコッホちゃんが誕生日で誕生日イベントやってるんだって。見に行こうよ」
都合の女は幸太の手を引いた。幸太は痛いよと言い、引っ張られるがままになった。
コッホと聴いて幸太は画家のゴッホのことを香帆が語っていたことを思い出した。
「ゴッホは画家になってから死ぬまでの十年間、気が狂ったように絵を描き続けたの」
香帆はグラスを揺らしながら、その中の氷の音色を響かせながらそう言った。
幸太はうん、と相槌を打った。
「九百枚近く絵を描いたんだけどさ、その中で何枚の絵が売れたと思う?」
僕は首を傾げ、うーんと言った。
「一枚よ。たった一枚。それでも彼はひたすらに描き続けたの。どうしてか、分かる?」
僕はうぅんと呻いた。
「それはね、描きたかったからよ。ゴッホから絵を取ったら何が残ると思う?ゴッホから絵を取ったら、そこにゴッホはいなくなっちゃうよ。ゴッホは絵を描くことが使命で、それを彼は知ってたのよ。だから売れようが売れまいが、そんなことは関係無い。使命のために描き続けるの」
そう語る香帆はいつもの香帆と少し違っていた。
「幸太、何ボーッとしてるの」
都合の良い女は地面を足で蹴って怒っていた。ごめんっと幸太は謝った。
「ほら、見てホッキョクグマに誕生日ケーキあげるんだって」
マイクを持った檻の中にいる男がリンコちゃん、コッホちゃん、お誕生日おめでとうと言い、メロンとイチゴが乗っかっている大きなケーキを持ってきて、ホッキョクグマの住処の白い雪の建物の真ん中に置いた。まばらな拍手が起きた。
マイクを持った檻の中にいた男が檻の外へ行くと、ホッキョクグマがみんなの前に出てきて、そして二匹は綺麗にデコレーションされたケーキを蹴り飛ばし、散らばったケーキを無心に食べていた。意志の疎通がほとんど出来ないホッキョクグマにお誕生日おめでとうや、人間の喜びそうなケーキをあげるというのは、はじめから泣きも笑いもしない地球に向かって愛は地球を救うなんて言うのと似ていて、幸太は酷く滑稽に思えた。
幸太がそのことを都合の良い女に言うと、都合の女は頬を膨らませて、そんな小難しいことはどうでもいいでしょ。どうして純粋に楽しめないの。天邪鬼、と言われて、確かにそうだ。どうして純粋に楽しめないのだろうと幸太は考えた。
都合の良い女はその日、動物園で一日中、まるで人が違ったようにはしゃいでいて、それが幸太は痛々しいと思った。それとは裏腹に幸太は一日中テンションが低かった。
「楽しかったね」
帰り道、都合の女は幸太の顔を覗き込むと、幸太は疲れたとだけ言った。
すると都合の女は、俯いて歩く速度を緩めていき、そして立ち止まった。
流れ的に幸太も足を止めた。都合の良い女の一歩手前に幸太はいた。
「どうしたの?」
幸太が振り向いて、聴いた。
しばらくの間の後、都合の良い女は低い声で言った。
「幸太、今日ずっとあたしと居なかったね」
幸太はその意味を察してはっとし、胸が痛んだ。
「ごめん、ちょっと考え事してて。本当にごめん」
幸太は都合の女の手を両手で持ち、都合の女に顔を近づけた。しばらく謝っていると、都合の女は機嫌を取り戻し始め、そして、もう、あんた、私のなんなのさと冗談っぽく言った。お前はお前で俺は俺だよと幸太は笑いながら言った。
何処か近くで原付のコール音が聴こえてきた。今日は土曜日だから、学校休みで行き先も分からぬまま走っている十五歳がいるねと幸太が言うと、都合の良い女はそれに対して笑ってあげた。そして自分も行き先も分からないから、どこぞの彼と変わりは無いと幸太は思った。
幸太はそのまま、その足で、香帆の家へと向かった。大介から着信があったが、幸太はそれを無視した。
「ねぇねぇ、ピカソの本名知ってる?」
香帆が作ってくれた、茹でたパスタ麺にレトルトのミートソースをかけただけのミートパスタを香帆がフォークで麺を必要以上に絡めながらそう言った。
「ピ・カソでしょ」
幸太はタバスコを振りかけながらそう言った。
「違うよ、本名はね、今から言うから、ちゃんと聞いててね。ピカソの本名は、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダット・ルイス・イ・ピカソ。って言うんだよ」
香帆は言い終わると息切れをする真似をした。
「凄い、馬鹿みたいな名前だね。それ香帆、頑張って覚えたの?」
「うん。覚えた。ピカソは自分の名前覚えられなかったんだって。だからあたしがピカソの名前覚えたら、ピカソに一つ勝ったような気がする」
香帆はガッツポーズをした。凄い、馬鹿だ、馬鹿がいる、と言いながら幸太はタバスコをさらに病的なほどに振りかける。
「っていうかそれ、かけすぎでしょ、おい。あたしの新品のタバスコ三分の一ぐらい減ったぞ。すげぇーな」
香帆は目を丸くした。
「ミートパスタは大好きなんだけど、タバスコを馬鹿みたいに振りかけてこそ大好きであって、タバスコをかけないミートパスタは、それはもうすでに俺の中でミートパスタではないんだ」
「わけがわからん。イタリア人が聴いたら憤怒するよ」
フォークにこれ以上は絡められないほどの厚みのある層が出来たミートパスタを大きな口を開けて放り込んだ。
「あ、っていうか、あたしが折角手作りで作ってやったというのに、君はそんなことするか」
口を手で押さえ、モゴモゴとそう言い、香帆はフォークを幸太の前に突き出した。
「レトルトじゃん」
「レトルトだけども」
香帆のフォークが白い陶器の皿をキィキィと音を立てた。
幸太はうぇっと言い肩をすくめ、顔を皺くちゃにさせた。
「ん?どうしたの?」
「その音、ダメなんだ。ちょっとでもその音聴くと寒気がするんだよ」
「えらい繊細だねぇ。味覚はえらい鈍感なのに。あぁ、それでバランスが保ってるのか」
香帆は納得し、大きく頷く。
その後、断る香帆を手で制して幸太は皿を洗い、カタルシスへ行こうと言い、少しうーんと迷ったが、賛同し、二人でカタルシスへ向かった。
その日は香帆がカタルシスへ行く日では無かったので、なんかジンクス的なルール的なもの、俺のせいで破ってしまってごめんと幸太が言うと、そんなこと気にしなくていいよと言って幸太の背中を勢いよく叩いた。叩かれた幸太は痛いと言って笑った。
寒さは変わらずに京橋の街を支配していた。
カタルシスのドアを開けると、そこには背中を丸めて酒を飲んでいるツンツン頭の、大介がいた。幸太は少しギョッとしたが、すぐに大介さんと大きな声で言った。
「おぉ、幸太。やはりここに来たか。待ってたぞ」
大介はテキーラコークの入ったグラスを遠くにいる幸太に乾杯をする仕草をした。
「なんか久しぶりですね」
大介の隣の椅子に腰かけて大介の方に向いた。
「お前が家に戻って来ないからだろ」
大介は幸太の頭を軽く叩いた。
「この人、いつも言ってる画家の香帆ですよ」
幸太は少し仰け反って、隣にいる香帆を手を差して紹介した。香帆は笑みを浮かべている。
「初めまして。いつも幸太君から噂で聴いています」
「初めまして。おいおい、どんな噂聴いてんの?」
「例えば、新聞配達の時に、朝五時に、いつも家の前で待っているおじさんの所に新聞配るの二十分遅れて、おじさんに遅いと怒られた時に、新聞を手に持って渡そうとした時、感謝の気持ちが無いのかと言って新聞にライターで火を付けてクビになりかけた話とか」
「お前普段から俺のことそんな風に言ってんのか」
と大介は言って幸太の首に肩をまわしてチョークスリーパーをした。
「香帆さんとお近づきになったしるしとして、今日は俺が三人分出してやるよ。ん?お近づきになるしるしだっけ?なんだ。分からんけど、まぁそういうこと」
幸太がお近づきのしるしですねと指摘すると、大介はうるせぇ分かってるわと言って幸太に再びチョークスリーパーをした。
「あ、それはそうと、香帆さん、あんまし幸太を惑わさんでくれよ。こいつ皮肉屋だけど純粋なところがあるからな」
大介は冗談めいて笑いながらそう言い、幸太はモヤッとしたものが心の中に立ち込めた。
えぇーっと言って香帆は、惑わしてないですよおっと言って笑った。
「そうですよ、それにいつも俺が香帆ちゃんの家に勝手に言ってるだけで、香帆ちゃんから来てって言ったことはないですよ」
幸太は自分でそう言ってから、確かに香帆から誘われたことは無いという事実に気付き、香帆は自分のことをどう思っているのだろうと思った。
「それがすでに惑わされてんだろぉ」
大介は幸太を小突いた。それに対しても幸太はの心の中にはモヤッとしたものが立ち込めた。香帆は笑いながらジントベースのカクテルのエメラルドクーラーを注文した。
「大介さん、パンクバンドやってるんですって?あたしも昔パンク好きでしたよ」
「ああ、そうだよ。俺からしたらロックバンドも芸術なんだ。だから香帆さんは芸術仲間だな」
大介は香帆に乾杯をする仕草をした。
「バーテンも職人みたいなもんだし、職人は芸術みたいなもんだから、牧師も仲間だな」
牧師にも乾杯の仕草をした。牧師は空のグラスで乾杯をし返す仕草をした。
「お前は……違うなぁ」
幸太の方を向いて大介は言った。
なんすかー俺も作家志望ですよーと情けない声で幸太は言った。それに対してはモヤッツとしたものは無かった。
「まだ作家になってないだろう。作家として本を世に出してからが作家だ。俺はアマチュアだけどCDを世に出してるからOK」
「でもまだプロじゃないじゃないですか」
「プロじゃなくてもライブの集客力がそれなりにあるからOK」
やれやれといった仕草をして幸太はバーボンコークを注文した。
三人は盛り上がった。大介が馬鹿をやった話を幸太が話し、それに反撃するように大介は幸太のヘマを話し、そして香帆は自分がやった馬鹿の話とヘマをやった話をして、大いに盛り上がった。
出来上がってきた大介はふいに言った。
「芸術家なんてもんは、アコギな商売だよ」
香帆はそうねぇと言った。
「芸術家なんて、娯楽をやって金貰ってるもんで、余裕のある者が創作したものを余裕のある者が買って成り立ってる富裕層達の宴に過ぎない」
それに対して、悶々としたものを吐き出すように幸太は反論して言った。。
「でも、貧しい者達の慰めのために役に立ってますよ。貧しい者達のための希望になっています」
「どうだかなぁ」
大介は幸太を見ずに言った。
「っていうかそんなこと、香帆の前で言わなくてもいいじゃないですか」
幸太は眉を顰めた。
「俺は香帆さんに言っているわけではなく、全ての芸術家に言ってるんだよ」
大介は幸太を見ずにグラスを見ながら言った。
「まぁまぁ、幸太君。大介さんは自分を含めて、あたしと牧師さんにも言ってるのよ。でも幸太君には言っていないってことになるよ」
香帆は幸太の肩に手を置いた。
幸太は香帆をフォローして言っているのに、香帆はどうして大介をフォローするんだろうと腹ただしくなった。
「香帆のこと悪く言わないでくださいよ、大介さん。俺のことならまだしも」
大介は幸太の方を向いた。
「どうして、お前はそんなに香帆さんのことをフォローするんだ」
「それは、香帆は大事な、」
そこまで言って幸太は口を噤んだ。牧師は口を挟まずに、何も聴いていないようにグラスを拭いている。香帆は一口、ジントニックを飲んだ。店内にはIggy Pop - Lust For Lifeが流れている。黒い沈黙のような空気が辺りを侵食し始めた。
「大事な?」
大介はまだ幸太を見ている。
「大事な、」
大介は幸太から目を逸らし、真正面にある酒がズラッと並んでいる棚の所辺りを見つめていた。大介は少し気まずそうな顔を浮かべたように、幸太は見えた。
「俺のこともフォローしろよ」
と大介は幸太の方をみながら、笑って言った。
牧師と香帆は胸を撫で下ろしたかのように笑った。
「お、そろそろ帰ろうかな」
香帆は椅子に掛けられた上着を手に取る。
「え、香帆、もう帰んの?」
「うん、締め切り迫ってるのがあるから、描かないと」
「そっかぁ。またね」
残念そうな声で幸太。
大介は、香帆さん、楽しかったよ。またな。と、わずかに口角を上げて言い、香帆は、大介さん、楽しかったよ。またな。と、わずかに口角を上げて言い、大介の真似をした。
大介はそれを見て笑った。彼女には嫌味が一切無かった。
店内にはRolling Stonesの Angieが流れていた。
Angie, Angie, when will those clouds all disappear?
(アンジー アンジー あの雲はいつになったらなくなるだろうか)
Angie, Angie, where will it lead us from here?
(アンジー アンジー ボクたちはこれからどこへ行くのだろうか)
「お前、あの女といると、不幸になっていくぞ」
カタルシスの帰り道、大介は小石を蹴ってからそう言った。
「なんでそんなこと言うんですか?」
幸太は悲しい顔を浮かべて言った。
「あの女は恋愛感情を持てないんだろう。でも幸太はあの女が恋愛感情として好きなんだろう。辛いだけだぞ」
「あの女なんて呼び方やめてくださいよ。彼女は香帆っていう名前があるんです」
苛立った声で幸太は言った。言った後に、都合の良い女のことを名前で呼んだことを一度も無い事実を思い出した。
「とにかく、友達としていられないなら、やめとけ。決して思いが届かない恋は辛いだけで何の意味も無い」
「なんすか、大介さん、しつこいですよ。僕が最近家に帰らないからって妬いてるんですか」
幸太は冷やかしてからかうように鼻で笑ってそう言った。
幸太の少し前を歩いていた大介は立ち止まり、幸太の方を向き、幸太の胸倉を掴んだ。
「お前のために言ってんだろう」
「僕のために言ってたとしても、それが僕を苦しめることがあるでしょう。大介さん何も知らないくせに放っておいてくださいよ。僕は香帆の家に行って、香帆が絵を描いているのを見ている時が、一番幸せなんです。大介さんに関係ないでしょう。僕は自由なんですから。っていうかなんでそんなに香帆とのことで口を突っ込むんですか。別に前のように、僕が女を寝取って問題になったわけでもないのに」
怯むことなく、幸太は淡々とした口調で反論した。
大介と幸太はそのまましばらく、見つめていた。どちらも一歩も引かないでにらみ合った。
「そうか、じゃあもう何も言わん。好きにしろ」
大介は幸太を離し、レザージャケットにポケットを突っ込み、肩で風を切るように幸太を放って歩いていった。途中で傍にあった小石か何かをおもいっきり蹴飛ばしていた。
幸太はしばらくそこに立ったまま、ぼんやりと大介の背中を見ていた。寒さで体が少し震えた。街灯の光で照らされている自分が、酷く滑稽のように思えた。隣の自販機の光がうっとおしく感じた。自販機からはウゥンという音が聴こえていた。何処かで猫の泣き声が聴こえた。幸太は顔が冷たいと思った。
大介が居る場所に帰るというのは、それはまるで、目に見えない恐ろしい程大きな壁が目の前に立ちはだかっているかのごとくに不可能であり、締め切り間近の香帆の家にお邪魔するのも気が引け、そうなると都合の良い女のところしか無いと思い、そこへ行くことにした。すぐにその場で電話を掛けると、うん、いいよ、と都合の良い女は言った。声のトーンがいつもよりも少し下がっていたが幸太は特に気にすることもなく。
終電間近の電車の中は混んでいて、顔の赤いヨレた男と女が複数いた。車内の中は酒の香りがたまにツンと鼻を刺激し、座席に座っている者は、顔が地面に付くのではないかという程に頭を垂れた者や、一番端にいる者は、手すりに体を預けるようにして眠りこけていた。眠っているか、携帯をタップしているかのどちらかの者しかいなかった。
それぞれが、それぞれの孤独の中に居た。
都合の良い女のマンションへ行き、インターホンを鳴らすと、上下ピンクのスウェット姿の都合の女がドアの隙間から顔を出し、幸太は、さっきぶり、と手を軽く挙げて言った。都合の良いパジャマ姿の女は、少し陰のある表情で、うん、と言った。幸太は入るやいなや都合の女にキスをして、そのままベッドまで強引に連れていき、都合の女を押し倒した。
そして、いつもより乱暴に事を済ました。
「大介さんと喧嘩でもしたの?」
ベッドの中で、幸太の横にいる都合の良い女は、幸太に体を絡ませてそう言った。
「うん、まぁ。帰りずらくなって。でも俺は悪くないよ」
幸太は天井を見上げながら、そう言い、俺は悪くないと言ってから、隣にいる都合の良い女を見て、引き目を感じていた。
都合の女は幸太に絡ませた腕にギュッと力を入れて言った。
「しばらくここに居てもいいんだよ?なんなら、いつまでも」
幸太はタバコに火を付けて、煙を吐き、頭の中にある答えをどう伝えるか、答えを思いめぐらしていた。
「好きな人、いるの?」
都合の良い女は力を入れていた手の力を抜き、電話の時のような下がった声のトーンでそう言った。
その時に、動物園でのデートの時から感づいていたのだろうと幸太は悟った。
幸太はさっきまであった頭の中で考えていた言葉を全て取り去らないといけなかった。
そして再び頭の中の答えを再構築して言った。
「うん、いるよ」
都合の良い女は、絡ませていた腕と足を幸太から離して俯いていた。。しばらくそうして何十秒後か、何分後かに、幸太に痛々しい笑顔を見せながら言った。
「あんた、あたしのなんなのさ」
幸太はちょうど、タバコの火だねを消すために、灰皿にタバコを押し付けてひねり潰しているところだった。
幸太はこれ以上自分に嘘を吐くことが出来なかった。
彼女に嘘を吐くことが出来なかった。
幸太は都合の良い女の方に向きなおし、彼女の目を見ながら柔らかい口調で言った。
「君は、都合の良」
「どうしてあたしの名前を一度も呼んでくれないの?」
香帆は幸太の言おうとしたことを打ち消すかのように声を荒げてそう言った。最後の方は声が震えていた。目には涙が溜まっていた。
幸太は名前で呼ぶと情が沸くような気がして、そうなるともう、都合が良くなくなるので、名前で呼ばなかった。
「いつも、君とか、お前とか、ねぇ、とか言って誤魔化して。あたしにも名前があるんだよ」
都合の良い女は今まで聴いたことのないほどに、大きな声でそう言、言ったと同時に、溜まった涙が流れ、それはベッドのシーツを濡らしていく。都合の良い女の鼻を啜る音と、しゃっくりの混じった泣き声が部屋の空気を沈ませていく。
そして、大介に対して自分が言い放った言葉を思い出した。
『あの女なんて呼び方やめてくださいよ。彼女は香帆っていう名前があるんです』
幸太は自分の正義を気取った偽善ぶりに吐き気がした。
「ごめんね、君にも、名前があるのに」
幸太は抑揚の無い声でそう言うと、静かにベッドから起き上がり、服を着ようとした。
すると都合の良い女は、幸太の腕に自分の腕を絡ませて懇願するように吃逆交じりに言った。
「知ってるよ。あたしが、都合の、良い女、だって言う、こ、こと、ぐらい、知ってたもん、いいよ、それ、で、それで、、いいから、ず、ずっと、それでも、いいから、だから、いか、いかないで」
Angie, Angie, when will those clouds all disappear?
(アンジー アンジー あの雲はいつになったらなくなるだろうか)
Angie, Angie, where will it lead us from here?
(アンジー アンジー ボクたちはこれからどこへ行くのだろうか)
幸太は都合の良い女の顔を見ずに、腕を振りほどき、服を着てベッドから離れ、ドアの方へ向かって歩いていく。都合の良い女は諦めたようにベッドにうずくまり、鼻を啜る音だけが聴こえていた。彼女が泣いている声を初めて聴いたと幸太は思った。
そして、どうしようもなく自分が罪人だと思った。言い訳の材料は残されていなかった。
幸太の胸は激しい後悔の念に駆られ、それはまるで今まで彼女の心をナイフで突き刺してきたその全てが自分に返ってきたようだった。こんなに胸が痛いのなら一層のこと、食事を作っている都合の女を後ろから手を腰をまわして耳たぶを噛み、ジャレあっていたあの時に、包丁で刺し殺されたほうが随分とマシなような気がした。
終電の無くなった肌に痛みを感じるほど、寒空の夜中、幸太は香帆の家に行くことにした。駅前のタクシーに乗り、香帆の住んでいるマンションまで向かった。香帆のマンションに到着した時にはすでに三時をまわっていた。なんて長い一日だと幸太は思った。
何度も手を引っ込めてはインターホンに近づけを繰り返して躊躇をしたが、やがてインターホンを、ゆっくりと、鳴らした。一度鳴らすと躊躇いは消え、反応が無かったために、二回鳴らし、更にドアポストを開けて、そこに口を入れ、香帆っと、少し大きめの声で言ってみた。すると奥の方から、はいよぉっと、まだ三分の一ぐらい夢の中にいてるかのような寝ぼけた声で香帆は応答し、すぐにドタバタと音が鳴り、ガタンと何かを倒した音が響き、ドンッと壁に何かをぶつけた音とともに、いてぇという擦れた声、そうしてようやくドアが開いた。香帆の目はほとんど閉じていて、それはまだ寝ているかのようだった。
「おはよ。どしたん」
自分が見えているのか見えていないか分からないような表情で、香帆は目を擦りながら言った。その声には刺が無く、全く怒っている様子では無かった。こんな夜中に目を覚まされても怒らない香帆はまさか人間ではなく、天使なのではないかと幸太は疑った。
「ごめん、実は、大介さんとあの後喧嘩して、それで家に帰りずらくなって、そんでその後、いつものあの娘の家行ったんだけど、喧嘩しちゃって、行くところなくなって」
香帆はまだ眠そうだったが、とらぶるめーかーさんだなぁと言って愉快そうに笑っていた。香帆は家に入れてくれ、あたしは、眠いからこのまま寝るから、後はまぁ、適当にその辺で寝るか、起きるか、独りで遊ぶか、しててね。と言って、ベッドに倒れ込むようにして寝た。幸太は香帆に貸してもらった毛布を持って聖域へ行った。油彩具の臭いを吸い込み、そこにある自由を感じ取りながら目を閉じた。
こんなにも気ままに暮らしているのに、自分が酷く不自由に感じた。しかしそれは自分だけに関わらず、大介も、都合の良い女も同じように不自由に見えた。自由なのは香帆だけのような気がした。
朝、隣の部屋から聴こえてくる色々なガタガタとした音を微睡の中、幸太は聴いていた。それは優しい目覚まし時計のようだった。
死力を尽くして重すぎる瞼を開けて携帯の時計を見ると9時だった。まだ酷く眠いから寝ようと思ったが、しかし良く考えればここは香帆の仕事場だということに気付き、纏わりつく見えない縄を引きちぎるように、必死で体を回転させ、大きな呻き声とともに渾身の力で起き上がった。すると、香帆がアコーディオンカーテンをシャッと開けた。
「なんだ、うなされてるのかと思ったら、起き上がる掛け声か」
香帆はため息交じりにそう言って笑った。
「おはよう、昨日はごめんね。真夜中に。やっぱしストーカーみたいだね。っていうかストーカーの定義に当てはまるのかな、俺の行動って」
「おはよう、ストーカーさん。警察に通報はしないから安心して。朝食、食べる?」
「うん、食べる」
あどけない声で甘えるように幸太は言った。
香帆がテーブルに並べたものは、相変わらず牛乳とシリアルとインスタントコーヒーだった。大介の朝食か、香帆の朝食が食べたいと思った。
「香帆は料理作ったりしないの?」
「うん、しない。絵以外のことはからっきしだから。ごめんね。手抜きな朝食で」
舌を出してそう言う香帆にまるで悪意は感じなかった。
幸太はあつかましいことを言ってしまった自分が情けなくなった。夜中に起こし、泊まらせてもらって、朝食まで頂いているのに、自分はどれほど我儘な人間なのだろうと、自分を心の底から責めたてた。
「いや、違うよ。朝食に文句を言っているわけじゃないよ。ふと思ったことを言っただけ」
あたかも、違うと言うように首を横に力いっぱい振ったが、しかし、その言葉は嘘だ。
真意は朝食に対して文句を遠回しに言ったのだ。嘘吐いた自分に更に嫌気がさす。
「大介さんと仲直りしなきゃ、だね」
と言う香帆に、幸太は何も言わず、皿にシリアルを入れ、牛乳を注ぎ込み、スプーンですくってシュルリという音を響かせながら胃に流し込んでいく。
香帆も同じくシュルリという音を立てながら胃に流し込んでいく。
二人のシュルリの音だけが部屋に響く。
「あ、そうだ。幸太君にプレゼントがあるんだよ」
朝食を食べ終え、二人でコーヒーを飲んでいる時に香帆思い出したよう手を叩いてそう言った。
香帆はドタドタと聖域へ行き、青いふろしきに包まれた、絵画らしきものを抱えながら、ニンマリとしながら、幸太の元へ走り寄ってきた。
「はい、どうぞ」
その青いふろしきに包まれた絵画らしきものを幸太に差し出した。
「おぉ、何?」
幸太は、ほころんだ顔で青いふろしきに包まれた物を受け取り、青い風呂敷を解いた。
ふわりと青いふろしきは地面に落ち、中から出てきたのはやはり絵画で、その絵をまじまじと幸太はしばらく眺めていた。
その絵は、大きな輪郭がぼんやりとした、肌色の、端正な顔つきの男のような人が、青い空に向かって頬を膨らませ、息を吐きかけていた。その息からは白い雲がシューっと出てきて、そして青い空には素晴らしい出来の真っ白な入道雲が広がっていた。
「おぉ、すげぇ」
幸太は感嘆の吐息を二、三度洩らす
そして何度もうぅんと言い両手で持った絵画を近づけたり、遠ざけたりしながら、香帆がそこで頭の中で描いていた想像の産物をさぞ感服したかのように、すげぇなぁと何度も言った。
「幸太君との友情の証として頑張って描いたよ」
香帆は照れ笑いを浮かべながらそう言った。
友情、と聴いた時、幸太はナイフで心をチクリと突かれた気分になった。
口元を動かしただけの、声にならない声で友情、と幸太は呟いた。
しかしその心の中を全く表情に現さず、幸太は笑顔で、ありがとう、めっちゃ嬉しいよ。ありがとうと言った。それは香帆には出来ない芸当であったが、その芸当が出来ない香帆を幸太は羨ましいとも思っていた。
その後香帆は、今から仕事に取り掛かるから、幸太君をあやしてることは出来ないけど、居てもいいし、外行ってもいいし、好きにしてていいよ。君は自由だと言った。
幸太は、香帆が絵の世界へと没入している姿を、体育座りをしたまま後ろから見ていた。
たまに香帆が後ろを振り向き、幸太の側まで走り寄って来て、幸太の頭を撫で、そして満足したように、また定位置へ戻り絵を描いていた。
それを何度か繰り返しているうちに日が暮れていた。朝から描き始める香帆は、昼食を食べずに描き続けていた。そして幸太も昼食を食べずに香帆の姿を見つめ続けていた。
幸太は香帆の頭の中の想像が創造される現場をじっと見つめていた。香帆はそこには居たが、そこには居なかった。幸太の頭を撫でに来る時だけ、香帆はそこに現れているように幸太は思えた。香帆はまるでその絵の中、その絵の中の世界、自分の頭の中の世界に行き、そしてそこでチョコマカと自分で動き回り絵を創っているかのような感覚を幸太は覚えた。
ふぅっと一息を吐き、香帆は後ろをワザとらしく恐る恐る振り返った。そして、うおぉっまだ居やがった。と大袈裟に驚くフリをした。幸太はフヒヒ、と怪しく笑うフリをした。
「ストーカーさん、ご飯食べにでも行く?」
「うん、食べに行く」
近くのハンバーガーショップへ二人で足を運び、向かいに座っている香帆に幸太は気まずそうな顔を浮かべて言った。
「あのさ、しばらく、居させて貰えない?大介さんと会うの、気まずくて」
ちょうど香帆はハンバーガーを一口大きな口を開けてかぶりついたところだった。
「いいよ、おいでおいで」
香帆は口をもごもごとしながら、なんでもないようにそう言った。
「宿泊代は払うよ」
「何を水臭いことを、気にすんなって、おれたちゃぁ、友達ぢゃないか」
香帆は幸太の肩に手をまわした。友達という言葉を幸太は頭の中で反芻した。
「そうだった。ストーカーなのに、何を遠慮する必要があるんだ」
「そうだよ、ストーカーが遠慮したら既にストーカーじゃない」
二人は笑いあった。
「でも、近いうちに大介さんにちゃんと謝って仲直りしなきゃダメだよ」
香帆が真顔に戻ってそう言った。
「なんで俺が謝らなきゃいけないんだ。大介さんが悪いんだよ」
幸太は口を尖らせる。
あのね、と言い、香帆はハンバーガーのレタスだけを引き抜き、口に放り込み、続けて言った。店内に居た十代の四人グループが手を叩いて馬鹿笑いをしている。幸太はそれに少し気が障り、香帆はそれに何の気にも留めず、少し静かになってから続けて喋る。
「どっちが悪いとか、どっちのほうが悪いとかじゃないの。喧嘩をするってことは、ほとんどの場合お互いに何かが引っかかって、それを引き金に起こるから、それを紐解いていくと、どちらも何処かが悪かったってことになるの」
香帆は人差し指でデュクシッと効果音を付けながら幸太の頬を突いた。幸太は、はーい頬を突かれたまま、はいはいと返事をすると、香帆は、ハイは一回と言い、幸太の頭にチョップを食らわせた。
それから2日間、幸太は香帆の家で過ごした。基本的に香帆は絵を描いていた。たまに仕事上の付き合いの誰かと電話をしている。
幸太は香帆の後ろで体育座りをして香帆の絵を描いている姿を見つめ、飽きてくると外を徘徊し、何かを探しているようだったが、幸太自身も何を探しているのかは全く分からなかった。
三日目の朝、香帆は画廊のパーティに行くと言った。それを機に幸太は大介の家へ戻ることにした。香帆は、偉い、ちゃんと仲直りするんだよと言い幸太の頭を撫でる。そうして香帆はドレスアップをし、画廊のパーティへと向かい、幸太は大介のマンションへと向かった。
平日の昼下がりに幸田は平和を感じる。しかし、安らぎは感じない。平和はあるが、そこに平安は無い。今この時間帯にこの住宅街に居る二十代の男の自分にとって、なんだかとても色々なことから取り残されている気分で焦燥感を駆られていた。気分だけではなく、実際に取り残されているのだと幸太は悟った。その思いはとても自分を惨めな気持ちにさせていく。大介の、部屋の、ドアの、前は、なんともなしに、いつも見ていたドアと全く違っていて、とても重厚のある扉で、一体これをどうやって開ければいいのだろうと考えてしまうほどだった。
今、大介は居るのだろうか。仕事へ行っているのだろうか。何処かへ出かけているのだろうか。寝ているのだろうか。全く想像がつかない。このドアの奥がどうなっているのか、予想は出来るが、真実は絶対に分からない。たった壁一枚の差に限界を感じる人間のちっぽけさを感じた。もし居るとするなら、最初になんと声を掛け、どんな表情を作ればいいのだろう。幸太は考えた。おはよーっす。おつかれっす、と元気で明るい声では、なんだか白々し過ぎるし、かといって、あ、こんちわ、と低いトーンで入っていっても、空気が一気に重くなり過ぎるし。確率的に言うと、居ない可能性は高い。夜勤だとしても、そろそろ起きる頃合いだ。あらゆることを思いめぐらしてみたが、何一つはっきりとしなかった。仕方なく、ドアノブに手を掛けてみた。ドアノブに体重をかけ、ゆっくりと確かめるように下に降ろし、そして神経質過ぎるほど慎重にドアを引いてみた。ガチャリと大きな音が鳴り、ドアが開いた。っということは居る。幸太の胸が高鳴った。
ガチャリという音は大介の耳に届いただろう。ということはもう大介は自分が戻ってきたことを察したに違いない。緊張が走った。先に謝るんだよ。香帆の声が頭の中でリピートされる。中に入り、そっと辺りを窺ったが、大介の姿は何処にも見当たらない。おかしい。すると、すぐ目の前にあるトイレから水が勢い良く流れる音が聴こえてきた。
それと同時にトイレのドアが開いた。大介はまだ自分が帰ってきたことを気付いていない。トイレから大介が出てくると、外から吹いてきた風によって、大介はドアの方、幸太が居る右の方へ顔を向けた。大介は一瞬驚いた顔を見せ、そして気まずそうな雰囲気を見せながらも口元に微笑をたたえ、おう、幸太、おかえりと言った。幸太はタダイマッスと消え入るような声で言い、俯いたまま靴を脱ぎ、部屋へと入り、そこで立ち止まった。
しばらくの、沈黙。大介はトイレから出てすぐのそこに立ち止まり、幸太は玄関に立ち止まっていた。幸太は何かを言おうと思ったが、それが何かも分からないので声に出なかった。大介も同じだった。
数秒後、大介は動き出し、キッチンまで行き、蛇口を捻り、手を洗っている。幸太も同じように動き出し、そのままローテーブルの方へいく、そこにあったクッションに腰かけた。シンとした張り詰めた空気がその空間を覆っていた。
「コーヒーでも飲むか?」
と大介が言った。優しい声のままだった。
「あ、はい。ありがとうございます」
幸太は顔を見ずに俯いたままそう言い、テーブルの上にある茶色いシミを伸びた爪で引っ掻いている。大介は手を洗った後の出続けている水道水をヤカンの中に注ぎ、ヤカンの蓋を占め、ガスコンロを点け、ヤカンをそこに置き、グラスを二つ用意し、使い捨てのドリップコーヒーの端を折り曲げて、それぞれのグラスにセットし、そしてヤカンの前でお湯が沸くのを待っていた。幸太はそれぞれの音を聴き、それによって大介の今の動きの大体が把握することが出来た。その音以外には、何も無く、お互いは無言のままだった。
数十秒後、ヤカンが高い音で叫びだし、大介がガスコンロを閉じ、ヤカンは無言になる。
コーヒーが入ったグラスを二つ持ち、左のスナフキンのグラスを幸太の側に置いた。幸太は軽く頭を下げた。大介はうん、と言い、幸太の向かいに座った。
湯気が立ち、コーヒーの湯気が鼻孔に入り、その香りがふわっと広がった。
ここ数日は香帆の家でインスタントコーヒーばかりを飲んでいたので、ドリップコーヒーの香りを久しぶりに嗅ぎ、その心地よさに幸太の胸は少し踊った。
今度、香帆にドリップコーヒーを飲ませてやろう。そうするときっと、もうインスタントコーヒーは飲めなくなって、この簡単に飲める使い捨てドリッパーを今度から買って飲むようになるだろうと幸太は企んだ。
「幸太、なんか色々ごめんな」
そんなことを考えていると大介がふいにそう言い、幸太は顔を上げた。
うっかりとしていると、先に謝られてしまった。やはり大介の方が一味上だと幸太は思った。
「いや、僕の方こそ。すいません」
幸太は消え入るような声でそう言い、テーブルの上にある茶色いシミをひたすら擦る。 重度の意地っ張りで無い限り、謝られると謝るしかなかった。というよりも、謝られると、謝りたくなるものであった。それはなんだか、相手から降伏しているのに、自分が負けてしまったような気分だと幸太は感じた。
「香帆さんの家、行ってたんか?」
そう言ってコーヒーをズズッと啜る大介。
「はい、そうです」
そう言ってコーヒーをズッ啜る幸太。
しばらく沈黙し、ズッとズズッの音だけが部屋を包んでいた。
「このまま戻って来なくなったら寂しいなと思ってハラハラしたぞ」
沈黙の後、大介はテーブルを挟んで向かいにいる幸太を拳で小突いて笑った。
張り詰めていた空気がパリンと音を立てて割れ、柔らかで優しい空気へと一変した。
「こんだけ長いこと一緒につるんでて、そんなわけないじゃないですか」
幸太は笑って平手で小突き返した。
「そうだなぁ、お前が二十二歳の時で今二十六歳だろ、ということは四年になるのか」
大介は指を折りながら言った。
「そうですね。僕は人付き合い悪いから、みんなすぐ離れていくんで四年も続いてるのは大介さんぐらいですよ」
次に続いていたのは都合の良い女で、かれこれ二年間も幸太にとって都合の良い付き合い方をしていたことに気付き、罪悪感を覚えたが、しかしもう彼女とは会うことは無いだろうと幸太は思った。幸太は真剣に謝りたいと思ったが、もし真剣に謝ったところで彼女は余計傷付くだけなので自分にはすでに彼女のために何もすることは出来ないと気付いた。
「そういや、香帆さんは何歳なんだよ?」
そういえば、香帆の年齢を知らないことに幸太は気付いた。おそらく二十代の後半だろうと予想したが、何歳でも良いと思った。
「そういや、知らなかったですね。でも何故だかあんまし気になりませんね」
「それで、お前は香帆さんがやっぱり好きなのか?」
大介は静かに、優しく言った。
幸太は少し間を置いて、好きです。今までに無いぐらい、好きです。と静かに、しかし力強く言った。
「でも、どうにもならないんだろ?」
大介は幸太の方を優しい目で真っすぐ見ながらそう言った。
「たぶん、でも、どうにかなるんじゃないかっていう期待があるんです」
「俺が、思うにはな」
大介はタバコに火を付け、煙を長く吐いてから続けて言った。
「性的なことに関しては、人は変わらんよ」
「でも、分からないじゃないですか」
幸太はテーブルの茶色いシミを爪で再び掻き出した。カリカリと小さく音がする。
「俺はな、お前が辛いと、辛いんだ。何故だか分かるか」
そりゃぁ、と間延びした声で言い、幸太は宙を見上げる。タバコのヤニで汚れた天井のクロスが見える。
「僕のこと、後輩として可愛がってくれてるからでしょ」
幸太はまだテーブルの茶色いシミを爪で掻いている。それが無意味だと分かっていながら、幸太はそうしていた。そのシミは決して爪で掻いても落ちないだろう。それを知っていながら幸太は掻き続けていた。
「いや、お前は……分かってない」
「え?どうしてですか?後輩として可愛いからでしょ?」
幸太はテーブルの茶色いシミを掻くのをやめて、大介の方を見た。大介は俯いていた。今までに見たことの無い表情をしていた。
「俺は」
幸太は大介を見つめている。大介は俯いている。
大介は次の言葉を中々発しようとしない。幸太はキョトンとしていた。
「俺は、お前のことが、好きだから」
それを聴いて幸太は笑った。
「なんすか、それ、僕も大介さん好きですよ」
「違うんだよ。そういう好きじゃない」
幸太は笑うのをやめ、目を少し大く見開き、えっと短く発した。
「こんな時に冗談言わんでくださいよ」
幸太は再び笑ったが、大介は俯いたまま沈痛な面持ちだったため、その笑顔は次第に引き攣っていく。幸太の頭は白で塗り尽くされてきた。スコンと言った聴こえない音が頭の中で響き、今自分が見ている景色が良く分からないものになってきた。
「え、嘘でしょ?それって」
「俺はゲイなんだよ」
幸太は再び笑ったような表情になり、何言ってんすかと震える声で言った。
「ずっと幸太が好きだったんだ。恋愛感情として」
「ちょっとまってください。俺はゲイじゃないですよ」
幸太は大介の言葉を制するように言う。
「知ってる」
「知ってる、って、さ」
そこまで言って声が詰まり、続けて言った。
「知ってるなら、なんでそんな告白するんだよ!ふざけんなっ」
幸太は怒鳴り、テーブルを叩き、立ち上がった。テーブルの上の二つのグラスが激しく揺れ、大介は自分のグラスが倒れそうになったところを右手で立て直し、幸太のスナフキンのグラスは倒れ、コーヒーがテーブルの床に零れ、広がり、テーブルにあった茶色のシミはコーヒーの液体に覆われ、それは無かったかのようになった。
今までの大介の行動が頭に過る。スキンシップがやたら多かったこと、銭湯に良く誘われ、かならず自分の性器を見られ、相変わらずでかいなと言われたこと、朝起きるとたまに大介が自分のことを見つめていたこと。その全てが自分を性的な対象として見ていたと言うのか?幸太は並々ならぬ嫌悪感を大介に抱いた。何よりも、裏切られたという気持ちが幸太の心を支配していた。
「今まで俺をそんな目でいつも見てたってことか?」
大介は今まで見たことのない程に小さくなっていた。そして挙動不審に目を泳がせていた。
「いつもじゃないよ。後輩として可愛いとも、」
「うるせぇっ可愛いなんて言うな」
うわずった声で幸太は怒鳴った。大介は肩を強張らせた。
幸太はテーブルの上で倒れているスナフキンのグラスを奪い去るように取り、ふざけんな、ふざけんなよ、騙しやがって、騙された、マジふざけんなと呟きながら、怒り任せに自分の荷物をスーツケースに詰め込み始めた。荷物が少ないのが幸いだった。すぐに出ていけると幸太は思った。
「おい、幸太、待て」
大介は立ち上がり、幸太の腕を取った。
「触るな気持ち悪ぃっ」
幸太は大介の腕を勢いよく振りほどき、大介を突き飛ばした。
力が入っていなかった大介はおもいっきり壁に直撃し頭をおもいっきり打ち付けた。ドスンと部屋全体が揺れた。幸太ははっとし、頭を手で押さえて蹲った大介の方を振り返り、手を、大介の前に、少し出し、そして、引っ込めた。幸太の口は少し開き、唇が震えていた。その目はただ、悲痛だった。どうして。幸太の頭にはっきりと浮かんだ言葉はそれだった。どうして、と一言声に出して言ってみた。どうして。どうして。なんで。頭の中はそれでいっぱいだった。
再び幸太は荷物をまとめ始める。大介は頭を押さえながら声を殺しながら泣いている。
しかし大介の全ての行動は今の幸太にとっては嫌悪以外の何者でもなかった。
荷物を全てスーツケースに詰め込み、スーツケースを抱え込み、逃げるようにして部屋を出ようとした。キッチンの方まで走り、そこで幸太は立ち止まって振り返り、泣きそうな声で尊敬、してたのに、と言い、幸太は玄関まで走り、靴のかかとを踏んだまま、ドアを勢いよく開け、勢いよく閉めた。自分でも驚く程大きな音が鳴り、ドアが壊れるんじゃないかと思った。外は雨が降っていた。そんなことも知らなかった。壁一枚隔てた先にあることさえも、人間は分かることが出来ない、と幸太は思った。
Angie, Angie, where will it lead us from here?
(アンジー アンジー ボクたちはこれからどこへ行くのだろうか)
幸太は当然と言わんばかりに香帆のマンションへ向かった。雨が容赦なく幸太の服を濡らしていく。雨は激しさを増し、雨の滴が幸太の髪の毛から頬へと伝っていく。アスファルトに打ち叩かれ弾ける雨は、小魚が水を無くし、のた打ちまわっているように見えた。
雨の音とスーツケースを転がす音だけが幸太の耳に聴こえる。それ以外は、何も聴こえなかった。
香帆の家まで来た時は、すっかりとズブ濡れになっていた。この季節にここまで雨に濡れたのは初めてだった。だけど、今の幸太にとってそんなことはどうでもよかった。
ドアを開けてみたが、ガコッと音が鳴り、ドアは寸とも動かず、堅く閉ざされていた。
そして自分は壁一枚隔てた先にも行くことは出来ないと幸太は思った。白い息がたくさん溢れ、消えない雲が作れる気がした。
香帆は何処にでも行ける気がした。香帆には壁が無いように見えた。だから絵の中にも自由自在に入っていくことが出来るのだ。幸太はそう思った。
幸太は堅いドアの前で、体育座りをして、香帆を待つことにした。十二月の寒さが幸太の体を蝕む。悴む手を見ながら自分が冷え性だということを思い出した。
しばらくすると、マンションが起動するウゥンッという音が聴こえる。香帆かもしれない。体育座りをして膝と膝との間に挟んだ顔から、横目でエレベーターを見る。エレベーターは三階まで上がらなかった。そういうことがしばらく続いた。日が暮れて、京橋の空は夜に包まれた。幸太には時計を見る気力さえも無かった。今日、香帆は帰ってくるのだろうか。明日かもしれない。明後日かもしれない。それでも自分は香帆を待っているだろう。ここ以外に行くことが幸太には出来なかった。ここから立ち上がる気力さえ残されていなかった。
またエレベーターの起動音が聴こえる。そしてそのエレベーターは三階で止まった。エレベーターが開く音が聴こえ、次にレジ袋のカサカサという音が大胆に聴こえる。横目で見ると、スーツ姿の若い男だった。ドアの前で三角座りをしている幸太をと目が合うと、すぐに目を逸らし、幸太の前を通りすぎ、隣のドアの前まで行き、鍵を開けて中へ入る前に幸太の方を一瞥してから部屋へ入っていった。ストーカーと思われたかもしれない。しかし、ストーカーと一緒のようなもんだ、と幸太は思った。
何時間待ったろうか。今が深夜なのか、夜の九時辺りなのかも分からない。再びエレベーターが動き、それは三階で止まった。また幸太は横目で見る。ヒールのカツカツという音と共に中から出てきたのは香帆だった。香帆はおぉっと驚き(それは冗談じゃなくて本当に驚いていたように幸太は思えた)
幸太君、と心配そうな声で言い、早歩きで体育座りの幸太の前まで駆け寄り、幸太の前にしゃがみ込み、幸太の肩を摩った。幸太はずっと目で香帆を追いかけるだけだった。
「ビショビショだね。雨に濡れた子犬みたいだよ。プルプル震えて。いつから居たの?」
香帆は幸太を哀れみの目で見つめる。
「夕方、くらいから」
擦れた声の幸太。
「馬鹿ね。風邪引いちゃうよ。大介さんと仲直り出来なかったの?」
香帆はそう言ってため息をつく。
「厳密に言えば、仲直り出来たし、厳密に言えば、出来なかった」
「そっか、良く分かんないけど、取りあえずお入り」
香帆はドアの鍵をガチャコンと開けた。スーツケースをガタガタと鳴らし、部屋へと入っていった。体が尋常じゃないぐらい震えていた。香帆はすぐにタオルを持ってきて、シャワーで体を目いっぱい温めなさいと言った。幸太は拗ねた子供のような顔で頷いた。
シャワーから注がれる熱いお湯は幸太の全身を刺激し、体の奥からジワッとした温かささがやってきて、冷凍された幸太の体は、一気に湯気とともに溶かされていく。熱い震えが体を巡り、巡る。シャワーから上がると、香帆がホットミルクを用意してくれていた。
幸太はありがと、と言い、ホットミルクを啜る。香帆はテーブルに片肘を立て、顎を乗せ、テーブルを挟んで正面の幸太を見ている。
幸太は香帆が自分を見ている目を見つめる。瞳の奥に、自分がうっすらと映っている。
自分の瞳にはきっと香帆が映っているだろう。香帆はそれに気付くだろうか。それに気づいてくれるなら、香帆と一つでも通じ合えることが出来、香帆は自分に、自分は香帆に近付ける気がする、と幸太は思った。
しばらく経ってから幸太が口を開いた。
「大介さんが俺に告白してきたんだ」
香帆は口を窄めてコ・ク・ハ・ク、と言った。
「それって、何の告白?」
「愛の告白」
アイノコクハクと香帆は再び口を窄めて言った。
「ゲイだったってこと?」
「ゲイだったってこと」
香帆は幸太をじっと見つめている。幸太も香帆をじっと見つめている。
「それで、気持ち悪いとか酷いことを言って、大介さんを突き飛ばして、荷物まとめて、出てきた」
香帆は表情を変えずに、細い顎に手を乗せて、テーブルに肘を付いた姿勢のままだ。
「そっか。それは、仕方ないね。どうしようもないことだね。でも、もうちょっと優しく別れることも、出来たかもしれないね」
「うん。今は、酷いことをしたって悔んでる。大介さん泣いてた。大介さん泣いているの、初めてみたんだ」
「幸太君も、辛いよね」
「うん、辛い」
「誰も、悪くないよ」
「誰も悪くないのに、どうして悪いことが起こるの?それじゃ、元々悪かったってこと?」
香帆は片肘を付くのを辞め、そのまま後ろに寝っ転がって言った。
「強いて言うなら、みんなが悪いんだよ」
「どうしてみんなが悪いの?」
「なんとなく、そんな気がするんだ」
「みんなが悪いなら、俺たちもその中に含まれてるじゃん」
「そうだね、でも幸太君と大介さんだけじゃなくて、みんなが悪いの。あたしも悪いの」
「みんなってどの範囲?身内ぐらい?町内ぐらい?カタルシスぐらいまで?京橋ぐらい?」
「もっと大規模なみんなだよ。世界中に至るまでだよ」
「それは規模が大きいね」
「うん、大きい」
「まぁ、そうだね」
幸太はホットミルクを啜る。
「幸太君、行くとこないんでしょ?ずっと、という訳には行かないけど、住む所、決まるまで、居ていいからね」
香帆は大の字のまま、天井を見上げながらそう言った。幸太がどう返事をしようかとまごついていると、香帆の寝息が聴こえてきた。
ローテーブルから身を乗り出して香帆を見ると、香帆は静かに眠っていた。
きっと画廊パーティで疲れたのだろう。本当はああいうパーティ的なの行きたくないと。でも、仕事だから行かなきゃ。仕事、描いているだけならいいのにな、と口を尖らせて香帆が言っていたことを幸太は思い出した。
幸太は香帆に毛布を被せてあげた。それが今幸太に出来る香帆に対する精一杯の愛情表現だった。
翌朝、幸太は、ぱちりと目が開いた。油彩画の匂いが最初に来てここが何処かを把握した。しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいてから呻き声と共に起き上がり、アコーディオンカーテンを開けると、香帆が昨日と同じ場所でコンコンと眠り続けていた。
ローテーブルの上の自分の携帯がチカチカと光っていた。携帯を手に取ると『大介さん』という表示があった。大介から一通メールが来ていた。
幸太は香帆を一瞥してからメールを開いた。
「幸太、ごめんな。言うべきじゃなかったことは分かっている。でも、どうしても言いたかった。想いが伝わらないのも分かっていた。こうなるっていう結果も分かっていた。なのに、どうしてだろう。言わないと、もう、どうしようもなくなっていた。自分の気持ちをずっと抑えていて、もう抑えきれなくなっていた。今よりお互いが不幸になって、亀裂が走り、もう俺たちは会えなくなってしまうのも分かっていた。でも、どうしてだろうな。寂しさに負けたのかな。お前が俺と居ても、お前を想う気持ちと俺の思う気持ちは全く違うものだった。俺はそれを知っているけど、お前はそれを知らなかった。それがどうしようもなく、辛かった。俺は分かって欲しかった。俺の気持ちを分かって欲しかったんだよ。
例え幸太に届かなくても。幸太を恋愛感情として見ていたところもあったけど、そうじゃなくて後輩として、掛け替えのない友達としても見ていたよ。それだけは知っていてほしい。でも、恋愛感情の部分を、分かって貰えないと分かっていながらも、分かって欲しかったんだ。知って欲しかった。それが絶対に届かないと分かっていながらも、知って欲しかった。分かってもらえないということを知っているなんて、こんなに辛いことってあるか。俺は京橋から引っ越すし、カタルシスに行くことも無いから、安心してくれ。幸太、ごめんな。今までありがとう」
幸太はしばらく大介のメールをぼんやりと、読み返していた。そして、携帯をタップし、メールの本文を打ち込んでいく。
「大介さんは今でも、これからも、誰よりも尊敬する人です。いつかプロテストがメジャーデビューを果たして、テレビで観られる日を楽しみにしています。今までありがとうございました」
大介が自分の人生の中に居たことを、幸太は感謝し、携帯をポケットに閉まった。
――自分で行け、自分で行け、隠し事は無しにしようぜ、自分で行け、自分で行け、呆れるほどに、自分で生け、生き抜けろ……
大介の歌声が頭の中でこだました。
大介は酒に酔うと必ず語る癖がある。いつものように家で飲んで居た時、大介が言っていたことを思い出した。
「ベートーベンの交響曲第9、歓喜の歌ってあるだろ」
既に大介は既に酔っていて、呂律が少しまわっていない。
ああ、はい、正月に良く聴きますよね。と幸太は言った。続けて大介は言う。
「あれは音楽史上最高傑作と言われてんだぞ」
へぇ、そうなんですかと相槌を打ち、幸太はテーブルの上に散らばっているスルメを噛む。大介はビールを飲み干し、ビールの空き缶をゴミ箱へ目がけて放り投げる。ゴミ箱から大きく外れたところに空き缶は転がる。それを確認してから再び大介は喋りだす。
「ベートーベンがこの曲を作曲し始めた時、実はすでに聴力が完全に失われていたんだ。つまり、聾唖だってことだよ。すげぇよな。聴力無いのに曲書けるのかよ。しかも最高の。それに、それ以外にでっかい問題を抱えていてな。ベートーベンが一番絶望していた時だよ。音楽家にとって命より大事な聴力を失ってさ、人生のドン底にいた時にあの壮大で壮絶な曲が出来上がったんだよ。心理学者のフロイトって奴がこう言っていた。
『芸術とは抑圧された性欲により表現されたものだ』ってな。岡本太郎は芸術は爆発だって言ってただろう。あれと似ているよな」
大介は次のビール缶に手を伸ばし、そのフタを開ける。プシュと音が鳴り、そしてまた口を開く。
「抑圧されたものが爆発したもんが芸術だよ。苦しめば苦しむほど、最高傑作が出来るんだよ。ロマンチックだよなぁ」
大介は遠くの方を眺めながら奇妙な笑みを浮かべていた。幸太は大介を見ながらスルメを噛み続けた。
大介は今、人生最高の曲を創るかもしれない、と幸太は思った。
その日から幸太は仕事を探すことにした。香帆は偉いぞ、青年と言って幸太の頭を撫でた。それと同時に、幸太は熱心に小説を書き始めた。そうして、すぐに倉庫内作業のバイトをフルタイムで始めた。平日は仕事をし、帰ってくると香帆と夕食を食べ、たまに香帆と酒を飲み、水曜と木曜の夜八時から九時までは香帆とともにカタルシスへ行った。
香帆と共にいて、香帆と幸太のそれは、はたから見ると恋人と同じだった。だけど、明らかに恋人のそれとは違っていた。香帆、俺は仕事を初めて何でも一生懸命するようになったんだ。そうしたら、なんだか充実しているよ。仕事仲間とも上手くやっているんだ。それは初めてのことなんだ、そして小説も頑張って書いてるんだ。俺は作家になるんだと、幸太は言った。そっか。それは良かった。偉いぞ、幸太。君なら絶対に作家になれると香帆は言った。そういうやり取りが、何度かあった。幸太は何かに没頭し、そして何かを忘れようと懸命だった。だけど、幸太は次第にそれでは埋めることも忘れることが出来ないものを心に抱えていた。そしてそれは既に爆発寸前になっていた。
夜、香帆に寄り添い、共にドリップコーヒーを飲み、二人で沈黙を楽しんでいた。
「幸太君のおかげで、インスタントコーヒーを卒業しちゃった。もうドリップコーヒーしか飲めないね」
自分の横にいて自分の肩に寄り添っている幸太に言った。幸太はそれに対して返答をせず、香帆に言った。香帆、俺は香帆のことが好きなんだよ。
香帆は幸太の頭を撫でて、私も幸太君のこと、好きだよ。と言った。
香帆、違うんだよ。そういうのじゃないんだよ。恋愛感情として好きなんだよ。香帆はテーブルに置いてあるグラスを持ち、コーヒーを啜り、グラスをテーブルに戻してから言った。あたしには、分からないの。ごめんね。謝らないでくれ。幸太は声に出さずにそう言った。胸が切り裂かれそうになった。大介と都合の良い女の気持ちが痛いほど理解出来た。風で窓がガタガタと揺れている。風の強い夜だった。外はきっと全身を縮こませるほど寒いだろうと幸太は考える。雲を掴んでいるような感覚だった。そこに確かに在るけど、触ってみても感触が無い。
幸太は静かに立ち上がり、ベランダを開け、外に出た。今の自分には寒さが必要だと思った。何も考えられなくなるほどの寒さ。肌に痛みを感じるほどの寒さ。肌に痛みを感じれば、心の痛みは少しでも楽になって少しでも忘れることが出来るかもしれない。外は案の定、寒かった。それは肌に痛みを感じる寒さで、求めていたものだった。しかし、心の痛みは何一つ取れやしなかった。京橋の夜に、無数の光が灯されている。
しばらくすると、香帆がベランダに来た。自分の後ろの居る香帆は、腕を擦り合わせて寒がっているような仕草をしているだろうと幸太は予想した。香帆が隣に来ると、やはりそういう仕草をしていたことが分かった。
「夜って静かで、悲しいね」
香帆は、ぽつりと言った。
幸太はしばらく、無数の光の点を見つめながら、そして口を開いた。
「だから歓楽街があるんだと思うよ。でもそこにいっても余計悲しさは募るだけなんだよね。どうしてこんなに無数に光があるんだろう。どうしてこんなに寂しい街なんだろう。どうしてこんなに寂しいんだろう。独りは嫌だな。でも独りなんだ。嫌だけど、独りなんだ」
「泣かないで、ごめんね」
「君は悪くないよ。どうして謝るの」
「幸太君、涙を拭いて」
香帆は自分のセーターで幸太の涙を拭った。セーターの繊維が少し煩わしかった。
おいで、香帆は幸太の手を引っ張った。香帆に引っ張られて幸太は部屋に戻り、ベッドの上で香帆と座った。そして香帆は幸太の顔に自分の顔を近づけた。香帆の顔は聖者のように美しく幸太は見えた。幸太は香帆にそっと口付けをした。何も感じない?香帆の耳元で囁いた。香帆の顔を見てみると、香帆は微笑を浮かべていて、幸太の金髪の髪の毛を優しく撫でた。香帆の顔に鳥肌が立っていることを幸太は知った。そして、大介に触られた時のことを思い出した。
「何も、感じない?」
耳元で幸太はもう一度そう囁き、そして香帆の顔を見た。香帆は微笑んだまま、優しい顔をしていた。香帆の全身には鳥肌が立っていた。幸太は泣きそうな顔を浮かべた。
赦せると、言うのか?
嘘だろ。そんな奴、いるのか?
受け入れると、言うのか?
馬鹿言え。馬鹿言え!
香帆は嘘が吐けない故に黙っていた。幸太はその沈黙に耐えられなくなり、香帆を押し倒し、香帆の胸を揉み、服を強引に引きはがし、その下着も強引に剥ぎ取った。
幸太の目は、野獣のそれになっていた。香帆は相変わらず優しい目で幸太を見つめていた。香帆はずっと何も言わないでいた。幸太の頭と下半身には血が昇り、下半身はまるで別の生き物だった。幸太は香帆を強引に弄り、ただ強引に、痛めつけた。しかし、香帆を犯しているような感覚にはならなかった。香帆は、ただ無言だった。だけど、幸太は香帆を犯してやろうと必死だった。香帆に挿入した時に、香帆は少し痛がる声を上げた。しかしそれ以外は、ひたすら無言だった。幸太が果てるまで、香帆はただ、無言だった。
幸太が果てた後、香帆は幸太を胸の中でしっかりと抱きしめ、幸太が眠るまで、幸太の頭を撫で続けた。そうして二人はお互いの孤独へと向かった。
Angie, Angie, where will it lead us from here?
(アンジー アンジー ボクたちはこれからどこへ行くのだろうか)
幸太は夜の明ける頃、目が覚めた。香帆は幸太の隣で優しい顔をして眠っていた。
幸太は荷物をまとめ、静かに外を出た。香帆は幸太が出ていったことを気付いていたかもしれないし、気付いていなかったかもしれない。どちらにしろ、幸太は香帆とはそれっきりだった。自分より最低な人間は滅多にいないだろうと幸太は思った。
朝の寒さは夜の寒さと違っていた。朝は始まりの寒さで、夜は終わりの寒さだった。
スーツケースのタイヤがゴロゴロとまわる音は、いつも何かの終わりと何かの始まりを感じさせた。何年も使われていないような古びれた公園のベンチに座り、タバコに火を付けた。空を見上げると雲がうっすらとかかっていた。飛行機が飛行機雲を作りながら真っすぐに飛んでいた。飛行機は幸太の目から見えなくなるまではっきりと存在した。
飛行機の行き先も存在もはっきりとしているが、自分の行き先はまったくはっきりとしていなかった。自分の考えの存在もはっきりとしていなかった。それはタバコの煙と似ていた。タバコの煙は、口から吐いた直後ははっきりと目に見えるが、掴めない。そしてすぐに消えて周りと同化する。目に見えていただけで、掴んだ感触も無い。そしてそのうち消える。存在していたのかも怪しくなる。掴むことさえ出来れば、もっとはっきりと存在していることが分かるのに、と幸太は思った。
ただはっきりと残り、はっきりと分かることは、誰を愛しているかということと、その愛故に生じる痛みだけだった。その中で痛みは何よりもはっきりとしていた。
幸太は携帯を取り出し、都合の良い女の連絡先を表示し、そしてしばらくしてジーンズのポケットに携帯を閉まった。
京橋の商店街をスーツケースの音を鳴らしながら練り歩いた。どこへ行くのかはアンジーにでも聴きたい気分だと幸太は思った。コンビニで肉まんとホットコーヒーを買った。店員の女が美人でセックスがしたいと幸太は思った。その後に携帯の電話が鳴り、そして仕事を無断欠勤したことに気付いた。肉まんを食べながら商店街を歩いていると、真正面から傘を持った老人が歩いてきた。この界隈で良く見かける、雨も降っていないのに傘を必ず持っている老人だった。杖代わりにでもしているのだろうか。
老人は傘の先を地面に叩きつけ、音をカチカチと鳴らしながら歩いてくるのを見ると、幸太は無性に腹が立ち、老人とすれ違い様に立ち止まり、声を掛けた。じいさん、なんでいつも傘持ってんの?杖を買う余裕が無いのか?老人は立ち止まって、皺にまみれた顔をゆっくりと幸太の方を向けて言った。
「もし、通り雨でも来て、傘を持って無い人がいたら、この傘をあげようと思ってね」
顔の皺と同じぐらいしゃがれた声でそう老人は言って、笑顔のようなものを見せた。申し訳なさ程度に残った歯が3本だけ見えた。この老人は自分よりもよっぽど偉大だと幸太は思った。もうこの老人と会っても腹が立つことはないだろう。
それにしても、三人もの身近な人を深く傷付けてしまった自分とは一体何なんだろう。
どうして、自分と相手が傷付いてしまう方を選んでしまうんだろう。そっちを選びたくないのに。誰も傷付けたくないのに。みんなが幸せであってほしいのに。みんなが幸せであって欲しいと願うのに、いつもみんなが不幸になる方を選ぶ自分とは一体何なんだろう。
幸太は街をうろつき、疲れると近くの腰かけられるところに腰かけ、そして携帯を取り出し、都合の良い女の連絡先を表示して、しばらくしてまた携帯をポケットに戻すということを繰り返していた。そのうち、昼になり、ラーメン屋で昼飯を食べ、そうしてまた同じことを繰り返し、夕方になり、夕飯をファミレスで食べ、また同じことを繰り返した。
馬鹿じゃないのか、俺、と思った。商店街のクリスマスのイルミネーションが煩わしかった。同じところばかり徘徊しているので、たまに出くわす傘の老人はやはり、もう煩わしいと思わなくなっていた。それにしても、商店街のイルミネーションときたら、コストを気にしてなのか、そこまで力を入れる気力が無いからか、それとも、その両方なのか、非常に中途半端な装飾となっていて、それではまるで無かったほうが良かったんじゃないかという出来栄えだと幸太は思った。
白か黒かハッキリしやがれ。おかげで世界は滅茶苦茶だ。大介の歌が頭を過った。
何十度目かに都合の女の電話番号を表示し、また携帯をポケットに戻すと、幸太はネットカフェに行くことにした。コンビニのATMでお金を降ろした。金にはまだ困らないと思った。しかし金があっても無くてもどうでもいい気分だった。ネカフェのフラットシートに潜り込み、幸太は体を折り曲げで横向けになり両手で枕を作ってしばらく眠ることにした。空調とマウスのクリック音だけが聴こえていた。
何処かの誰かの携帯が鳴り出し、幸太は目が覚めた。その時に、今何時かは分からなかったが、カタルシスへ行こうと思った。大介はおそらくもうカタルシスへ来ることは無いし、香帆は水曜と木曜の八時からしか来ることはない。しかし香帆はもう、カタルシスへ来ることは無い気がした。
ドアをギィと開けると、グラスを拭いていた牧師が、それに気づき、おや、幸太君、いらっしゃいと言った。
U2 の Where The Streets Have No Name Live At Slane Castleの曲がちょうどサビに入ったところだった。幸太は何も言わずに入口から一番近い椅子に腰かけた。
牧師は幸太を一瞥し、そしてグラスを拭きながら、何かあった?と柔らかい声で何気なく言った。色々、あったなぁ、と言って幸太はタバコに火を付け、煙と一緒にため息を吐いた。そしていつものマティーニを注文し、牧師に事の顛末をゆっくりと話し出した。
牧師はフンフンと頷きながら、一言も逃さぬように聴いていた。香帆が無性愛というのは知っていたようで、知っているよと言った感じの頷きようだったが、大介はゲイだったというところでは牧師も知らなかったようで、フンフンと頷いてからすぐに、えぇっと目を丸くして驚いていた。
「そうして今、ネカフェに泊まってて、さっき起きて、なんとなくカタルシスに行こうと思ってここに来て、牧師に事の顛末を話終え、そして今からこのマティーニを一気に飲み終えたら次はテキーラトニックを飲む」
と幸太は言い、顔を天井に向けるほど上げて、グラスに入ったマティーニを一気に飲み干した。店内ではGreen Day の American Idiotが流れていた。
「そりゃぁ、中々凄まじい話だなぁ」
牧師は呟くように言い、言葉を探しているようだったので、幸太は言葉を待っていた。
言葉が見つかった牧師は喋りだす。
「 ドストエフスキーがさ、人類を愛することは簡単だけど、隣人を愛することは容易ではない。って言ってたんだけど、同性愛がいくら認められてきたとはいえ、身近な人にそうだと告げられて、そのうえ告白されたら、ショックが大きいよねぇ」
牧師は喋りながらテキーラトニックを手際良く作っていく。
幸太は牧師の忙しなく動く手を目で追っていた。
「どうして、大介さんはゲイで、香帆は無性愛なんだろう。なんで普通じゃないんだ?俺もどうしてサディストなんだろ」
牧師はテキーラコークを幸太の前に置き、そして口を開いた。
「性については、一番デリケートな部分だからね。みんな隠すんだと思うよ。結構みんな色々歪んだ性を持っているんじゃないかな?いや、正確に言えばみんな歪んでいる。でもみんな結構隠していたり、気付いていなかったりするもんだよ。性癖ってたぶん人に知られたら一番恥ずかしい部分だと思うよ。聖書の創世記でさ、最初の人間であるアダムとエバが神様の前で罪を犯して、ある部分での目が開かれて、自分達が裸であることを知ったんだ。その時にアダムとエバは自分の性器の部分をいちぢくの葉で隠したんだ。恥ずかしいと思って。その時から僕たちの性は歪んでしまっているんだよ。アダムとエバは罪を犯したから、全てを曝け出すことが出来なくなったんだ」
牧師は次に喋ることを考えていたようなので、幸太はテキーラコークを飲みながら待つことにした。
「最近、考えていたことなんだけどさ」
牧師の説教が始まると幸太は思った。
「日本なんて、日本に限らず、ほとんどの人が浮気をしている。それが当然だと言わんばかりに。テレビに出演している人達は、まるで浮気はして当然かのような発言を繰り返している。性というのは乱れきっている。そして性の乱れ程、人を不幸にするものはない。日本では結婚前のセックスなんて当たり前だ。しかし、理想はやはり、そして正しいのはやはり、結婚するまで性行為をしないということだよ。そうすると、性病も守られ、異性間での嫉妬心からも守られる。誰でもみんな、昔の恋人というのを意識するものだ。
ある時、ふとしたことがきっかけでそのことを思い出し、妬み心が芽生えてくるものだ。
そうしてその嫉妬心はお互いを不幸にする。しかし、相手が処女ならば、そんな妬み心の根っこが無いもんだから、生まれることもない。お互いがお互いを初めての異性だったならば、色々な辛いことから守られるんだよ。男はたくさんの女と寝たがり、まるでそれを武勇伝のように語り、たくさんの女と寝たほうが幸せで勝ち組の人生だと思いがちだが、それはまるで違う。見栄を張ってみたところで、その先に幸せなんて無い。三千年前のソロモンという王様は千人の妻を持っていたんだ。千人だよ。
男の憧れる全ての享楽をし尽くした、歴代の中で最もお金もちの王様なんだ。
そんなソロモンは死ぬ間際に「全てが虚しい」と言ったんだ。全てが虚しいってね。
それは自分の享楽的な生き方を完全に否定する言葉だよ。悦楽の果てには虚無しか無い。悦楽の先に幸せは無い。それは一時の快楽という幻想を与えてくれるに過ぎない。人を愛するというその先に本当の幸せってあるもんだよ。千人の女と寝るよりも、1人の女を愛する方がどれほど幸せでイカしているか。
今の時代、性というのをオープンにし過ぎた。なんでもありの先に幸せなんて待ってやしない。自然には秩序がある。秩序があるから守られている。自然の法則、宇宙の規律の中で生かされて、生きている僕たちにも、秩序というのが根本にしっかりとあるんだ。そりゃぁ、この宇宙で産まれてきたんだから当然だよね。なんでもありってのは、秩序を壊すってことだよ。僕たちに根付いて、息をしている秩序を否定して壊すってことだ。なんでもありが自由なんて大間違いだ。僕たちには正しいことと悪いことがはっきりとしていて、正しい中で生きているから守られて、守られてるからこそ自由があり、幸せがあるんだよ。正しいことと悪いことというのは、はっきりしてるんだ。。その境目を無くそうなんて、とんでもないことだよ。人に迷惑をかけていなければ問題無いってことではないんだ。自然の法則を歪めるのなら、結果的に迷惑をかけることに繋がるんだよ。
なんでもありで間違ったものや悪を肯定していくならその先は不幸と不自由で、その果ては滅びだということは考えてみれば分かるはずでしょ。なんでもありのほうが楽だからそっちに流れてしまうんだ。
だからね、僕は歪んだ性を正しいとは言わない。ただ、歪んだ性を持つその人を否定することはしない。でもそれで正しいんだよとは言えない。何故なら正しくはないんだから。
サディストも、マゾヒズムも、ペドフィリア(少女性愛)も、(ニンフォフィリア)(小児性愛】も、(ネクロフィリア)【死体性愛】も、(エクシビジョニズム)【露出狂】も、(インセスト)【近親愛】も、レズビアンも、ホモセクシャルも、バイセクシャルも、間違っている。間違っているけど、そういった性癖を持つ彼らを間違っているからやめなさいなんて言わない。まぁ、サディスト、マゾヒスト、レズビアン、ホモセクシャル、バイセクシャル辺りなら、やめなさいとは言わないね。彼らはパートナーを探そうと思えば探せるから。けれども他のあげた性癖はちょっとやめないと、とんでもないことになるから、辛いだろうけど、やめなさいって言うだろうけど。はは。
今の時代、同性愛は認められてきて、同性愛を否定すると逆に叩かれるでしょ?「キモい」なんて言えば差別主義者だって袋叩きに合いそうだよね。
でもロリコンやサディストやマゾヒズムはどうだろうか。結構「キモい、変態」って平気で言えたりするし、そう言っても、差別主義者だとも思わないよね。人間の基準、正しさなんてそんなもんだよ。
例えば国際基準では同性愛等は性的倒錯ではなく、性的思考だなんて言うけど、あれは国際基準が決めただけであって、本来は同性愛もサディズムもペドフィリアも同じ性的倒錯なんだよ。性の歪みに変わり無い。まぁ、性の歪みなんて多かれ少なかれ、みんな持っているものだしね。性が歪んでいない人なんていないよ。アダムとエバの時代から僕たちの性は歪んでるんだ。 要は自然界の法則的には正しくないってことを知っているのが大事ってことだよ。だけど大きく歪んでしまったものはしょうがない。彼らがそうなったのは彼らの責任だけだとは言えないんだから。先天的なものだったら間違いなく彼らに責任は一切無いよね。それは環境や社会に大きな責任だろう」
幸太は香帆が『みんなのせい』だと言っていたことを思い出した。
「社会を形成してるのは僕らだから僕らに責任があるってことだ。歪んだ性癖を持っていると、辛いことが多くなることだろう。現に、幸太君も香帆ちゃんも大介さんも苦しんでいるでしょ。何故ならそれは自然界からは受け入れられていないものだから。
僕は彼らを赦すよ。赦すなんて上から目線かもしれないけど、赦さないということは彼らを否定して『そんなことはやめなさい』と言うことだからね。
僕にそんなことをやめなさいっていう権限は無い。選択するのは彼ら自身だ。
ただ、その性癖に対して、正しいか正しくないかと言うと、正しくないと言うだろう。それは正しくないってことを知ってもらうためだ。認識しているのは大事だ。そしてそれ以上歪まないように、少しでも努めたほうがいいだろうね。どう努めんのかは分からんけど。はは。そうすることで次世代に大きな良い影響を及ぼすと思うよ。それがみんなの幸せのためだ。僕は保守的なクリスチャンだから、もし自分が同性愛者だったら、おそらくやめるように努めると思う。保守的なクリスチャンはなるだけ聖書の通りに生きようとするんだけど、そこには同性愛は罪だって書かれているからね。そして浮気や結婚前のセックスも罪だって書かれているんだ。だからそれもしない。後、酒は飲んでもいいけど、酔ってはいけないって書かれてるから、僕は酒を飲むけど泥酔するまでは飲まない。聖書で罪だって書かれていることは、それを行っていると自分と周囲が不幸になっていくから罪だって書かれてるんだよね。かと言って、僕を含めて全ての人間は毎日罪を犯し続けてるんだよ。聖書の基準の罪って膨大だからね。だから聖書には義人はいない、一人もいないって書かれてるんだよね。70億人いれば全員罪人だよ。マザーテレサでさえも罪人なんだよ。そしてイエスは、その罪のために十字架にかかってくれたって書かれていて、それを信じると全ての罪が赦されて、それを信じるのがクリスチャンなんだ。だから僕の全ての罪は赦されているから、何をしてもいいんだよ。でも、しないんだ。何故なら、本当にイエスの十字架の意味を知っているなら、本当に信じているなら、その罪を犯し続けることが出来ないんだ。この罪のために自分を無条件に愛してくれてるお方を十字架にかけたんだって思うと、出来ないでしょ。もし自分が同性愛なら、同性愛をやめるなんてことは、それは死ぬほど辛いものだろうけど、それが自分の十字架だと思ってそうするかもしれない。しかし僕も弱いから分からない。そこまでの信仰は無いかもしれない。どちらを選択するにしても、僕は赦されていることに変わりは無いんだ。ただ、他の人には決して、やめなさいなんて言わない。
そんな死ぬほど辛いことを押し付けるなんて、それこそ、歪んだ性癖を持つものよりも、よっぽど大きい罪じゃないか?僕らは全員、罪人だ。その罪人の僕らがまるで神様にでもなったかのように、押し付けがましいことを言うなんて、あってはならないことだ。ましてや突き詰めると、歪んだ性を持っていない人なんていないしね。みんな、どうしようもない何かを抱えているんだよ。
そんな罪が赦されるために、キリストは十字架に掛かってくれたんだから。それを信じているのがクリスチャンだからね」
何処かで救急車のサイレンが鳴っている。
一息つき、再び牧師は口を開く。
「大昔、ヒエロニムスっていう偉い神学者の人がこう言ってたんだ。
『私たちは壊れた世界に住んでいます。ですから、他人の壊れた姿を指摘するより、私たちがどうすれば回復される者になれるかを、主に尋ね求めなさい』ってね。要するに、そういうことだよ。例外なく、みんな平等にぶっ壊れてるの。性的倒錯に限らず、色んなところがぶっ壊れてるんだから、指摘するんじゃなくて赦し合うのが大事だよね」
壊れた世界、と幸太は呟いた。その言葉は自分以外の誰にも聴こえずに、宙に消えていった。幸太はなんとなく、大介が歌っている『おかげで世界はメチャクチャだ』のフレーズを思い出した。サイレンは近付いてきて、やがて止まった。
「この辺で止まったねぇ。急性アルコール中毒かな」
牧師は見えない救急車を見るように、ドアの方を覗き込む。
幸太もつられてドアの方を覗き込んだ。
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」
牧師が独り言のようにそう言った。
「何?」
幸太はそう問うて、まだドアの方を見ている。
「ヨハネの福音書の一章にそう書いてるんだ。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。って」
「うん」
幸太はドアの方を見ながら、グラスに入った綺麗な、透明に近い、赤みのかかったオレンジの液体を見つめながら、それを飲み干した。口に入ってからそれがテキーラコークだということを思い出した。グラスの中で揺れた氷がカララと音を鳴らした。幸太は今、最高傑作の芸術が出来そうな気がした。
カタルシスから出る時に、牧師が何かを言った気がしたが、何を言ったかは酒がまわっていたし、頭が酷く疲弊していたせいで、良く分からなかった。
スーツケースを横に置き、公園のベンチに再び腰かけた。腐った木の椅子は腰かけるとギシリと音が鳴り、もう少し体重が重ければこの椅子は砕け散るだろうと思った。酒が入っているおかげで寒さは感じなかった。
何処からか、微かにきよしこの夜が聴こえてきて、今日はクリスマスだということに気付いた。そして牧師はあの時、メリークリスマスと言ったことが分かった。夜空を見上げると、相変わらず星は一つも見えないが、暗闇の中、半月がくっきりと浮かび上がり、その半月はこの街の闇と自分を僅かばかり照らしていた。
いくら夜空が汚染されようと、月は変わらずに吹き溜まりの街を照らしていた。
確かに、光は闇の中で輝いていた。タバコに火を付け、煙を吐き出した。煙と白い息が入り混じっていた。白い息は雲になるが、タバコは雲にはなっていないだろうと幸太は思った。タバコを吸い終わると、幸太はえずき始めた。
吐しゃ物は出なかったが、唾液がしばらく込み上げていた。幸太はタバコを辞めようと思った。酒の酔いでは凌げないほど寒さが増していた。悴む手を両手で揉み解した。
――幸太っ夕陽が沈んでるよ!
まるで大事件でも起きたかのように、都合の良い女は言った。都合の良い女は普段は冷めているが、何かしらの強い感動があった時に人が変わったように興奮するところがあった。
夕陽が沈むのは、毎日欠かさず繰り返されていると言うのに、そんな当たり前のことも知らないのか、どうだっていい事実じゃないかと幸太は呆れた。
そして、ベランダに出て、身を切るような寒空の下、都合の女が満面の笑みで指を差すほうを見ると、オレンジの光が、京橋の街全体を覆うほどの勢いで、はっきりと照らしていた。
それは、その光景は、どうだっていい事実ではなかった。幸太はそれを見て、本当だ、と呟いた。
ね?と都合の女は嬉しそうに言った。それはただ、美しかった。それ以外の言葉は見つからなかった。何故なら、それはただ美くしかったのだから。
幸太はその時初めて夕陽が沈んでいるという事実を知った。
そして隣にいる、エクボの似合う女が、夕陽が沈んでいると言うことを教えてくれたことに幸太はありがとうと言いたくなった。
沈んじゃったね、と都合の良い女は消え入るような声で言った。幸太は光の消えた京橋の街から、都合の良い女の方へ顔を向けた。
百合、幸太は都合の良い女の名前を口に出した。百合と呼ばれたエクボの似合う女は、驚いた顔をして、幸太の方を見た。幸太は、百合と結婚をし、仕事に精を出しながら作家を目指し書き続けている自分を想像した。そしてその想いを頭の中できつく縛り、逃さぬようにした。その想いは頭の何処かに根を張った。
幸太が泣いている百合の頬っぺたを両手で抓り、左右に伸ばすと、百合の顔はとてもひょうきんな顔になり、百合は泣きながら含み笑いをして幸太の頬っぺたを抓り返した。
ふと、香帆に貰った絵をどうしようかと考え、次にタバコを吸いたくなった幸太は、ジーンズのポケットに手を突っ込んだが、いつもあるはずのタバコはそこに無く、そうして自分はタバコをやめたことを思い出し、ポケットから手を出し、行き先を失ったその手で百合の手を握っでやろうかと考えた。
〈了〉
少年Bと第四の姓