人の想像出来ることは全て起こり得る現実

僕の魂は底知れぬ深淵に存る。一体誰がそれを見つけることが出来ようか。
一体誰がそれを救い出すことが出来ようか。
朝、起きると窓一枚を隔て、カーテンの隙間を潜って、太陽の光が、この部屋と僕をわずかばかり照らす。だけども、太陽の光は僕の心までには届かない。
小鳥の囀りも煩わしいだけだ。朝も夜も視界とは関係無しに僕の目で見えない心は暗澹としていた。
なぁんてことを思うのだが、こういうことを書き殴ったり発言したりすると、今では俗に言う「中二病」なんて嘲笑されてしまうのだ。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃポイズンだとは良くいったものである。
どうして共に感情や痛み、喜びを共有しようとしないで、その感情や痛み、喜びを否定して小馬鹿にするのだろう。そこには一片の愛も無い。例えば僕は母に「不眠だ」と訴える。そうすると母は「運動したら寝られる。運動していないから。一日二日寝れなくても死にはしない」というが、これは僕を否定することに繋がる。
「運動したら寝られる」
それはつまり
「精神的な要素ではない。あなたの精神は至って健康であり、眠れないのは自分の責任であり、慰めの言葉は必要ありません。甘えるな」
と言うことだ。そう言わないでも、心の中でそう思っているのだ。
「1日2日寝られなくても」
 なんて言葉は日々快眠出来ている健全な者の口からしか聞いたことが無い。
 果たして不眠症の者が「1日2日寝られなくても」なんて、目の下の大きなクマを抱えながら笑顔で言う姿を見たことがあるだろうか。
 痛みを知らない者には痛みを共有することは出来ない。されども、痛みを知っている者でさえ、他人事になるとその過去の痛みを忘れたり、自分の痛みを棚に上げて
「甘えるな。大丈夫だ」
などと言う、ヒトラー顔負けの殺し文句を謡う場合が多々ある。
 そうして自分でも自分を責める。
「ダメなやつ。クズ。社会不適応者」
 自分さえも自分を殺し、敵になる。僕は生きるうえで救世主を待たざるおえない。
 奇跡を待ち望むしか術が無い。叫んだって何も変わらないじゃないか、ヒロトよ。
「いつまで寝てるの?ご飯よ」
 母の多少の苛立ちが混じった声が聴こえる。僕は部屋から出て、のそりのそりと階段を降りる。朝からセカセカした母にとって、その僕のスローな行動の一つ一つが気に喰わないらしい。
「早く食べよ」
と僕を急かす。
 僕は焦げたパンにイチゴジャムをべったりと付け、コーヒーという名を借りた別の飲み物であるインスタントコーヒーをごくりと飲む。だけど僕は焦げた食パンもイチゴジャムもインスタントコーヒーも全然好きじゃない。好きじゃないけどこの家ではそれが毎朝出るので、反抗することなく、無心に食べて飲むだ。それに、朝に本当は何も食べたくないし、コーヒーなんて飲みたくない。でも朝は食べないと脳がボーっとして授業も頭に入らないからと、不確かな科学的根拠を持ち出して強制してくるので、食べるし、飲むのだ。
 一度「イチゴジャムは余り好きではないし、コーヒーもどちらかというと嫌いだ」
 ということをなるべく癇に触れないように、やや冗談交じりに、気を使いながら、遠回しに言ってみたが、
「じゃあ飲むな!食べるな!誰のおかげで~何様~出ていけ~」
と酷い言われようだった。だからもう、何も言わない。
 何故なら、それは正論なのだから。しかしながら、せめて義務教育を終えるまでは
『産んだ責任』というのもあるのではないか。と言いたいところだが、責任転嫁をしたところで何も変わらないどころか状況が悪化するのは目に見えているので、僕はもう何も言わないことにしたのだ。
 リアルは傷付くことが余りにも多い。だから僕は家ではネット、若しくは小説、漫画の世界へ。学校での授業中は夢の中へ。休憩時間は小説の世界へ逃げ込むのだ。
 そっちのほうが、灰色の世界より幾らか色がある。
 そうして僕は食べ終え、部屋に戻り、学校の準備をする。
 外に出るとすかさず太陽の光が僕の目を攻撃してくる。手をかざし、歩き始める。
 閑静な住宅街をしばらく歩いていき、歩道に出ると、じわじわと同じ制服を着た男女と遭遇し始める。一人で居る者もいれば二人組の者もおり、三人組以上の者もいる。
 三人組以上になると、虚勢を張って急に騒がしくなる。そうしてしばらく歩いていると、周りはほとんど制服達で埋め尽くされていく。
 校門のところまで来ると、先生とその仲間達の風紀委員が身体、および荷物検査をしている。夏休みを開けてすぐの今だと、もれなく1週間はこの検査が続くだろう。
「スカートが短い」「髪の毛がどうだ」「カバンがどうだ」
と、それぞれの趣味嗜好、個性を指摘され、校則に則って強制されていく。
 僕は指摘されることを理解していて、指摘されるのを嫌うので、校則のお手本通りのスタイルなので、指摘されることはまず無い。時間の無駄のうえに嫌な思いをするなんて馬鹿なことはしたくない。
「おはよう、西田。カバンの中身、見せてもらおうか」
 とゴツゴツした手の平を僕に差し出してくる、体育の井岡先生。
 僕は素直にカバンを差し出すと、井岡先生の手が僕のカバンに侵入し、物色する。
 僕のカバンと、その中身は、井岡先生の手とその思いで侵される。そうして、侵されたカバンとその中身は僕に返される。一時の嫌悪。
「よし、行っていいぞ」と井岡先生。
 僕は少し頭を下げる。
 錆びが目立つ校舎へ入っていき、2年3組の教室の扉を開ける。
 僕に声を掛ける人はあまりいない。何故ならそれは僕が声を掛けないからだ。
 かといって友達が一人もいないというわけではなく、現に今机に座ってカバンから教科書類を出している僕の方へ向かってくる山下がいる。
「たっちゃんおはよ」
と言いながら山本は、前の、席の、人の、椅子を取り、僕の、机の、方に、向けて、その椅子に、腰を降ろした。いつもそうしているかのように。いつもそうしているのだから。
「うん」
と僕は言う。
「なんでいつも『うん』なんだ?」と山下。
「おはように対しておはようと返すのが、なんだかありきたり過ぎて、嫌なんだ。僕は天邪鬼だから、分かるだろ」と僕。
 山本は、ははっと渇いた声で笑い、大げさに少し仰け反りながら僕に指を指し
「分かる」と言った。
「これ、面白かったよ。すげーグロくて滅茶苦茶で。ありがとう」
 と山本は僕に「ザ・ワールド・イズ・マイン」という漫画を返してくる。
「この漫画の言いたいこと分かる?」と僕。
「何?わかんねー」
「この漫画は人が、主要人物までもが呆気なく死んでいくけどさ、それでもその死んでいく人間それぞれに個性があるだろう。キャラが際立っているだろう。この漫画はヒューマニズムを否定した人道主義の漫画なんだ」
 と僕は熱く語りつつ、最後に「分かるか?」と山下に促す。
 すると山本は「わかんねー」と言いながら頭を掻きながら笑った。
 その返答は予測していたが、僕はそれで満足だった。あまり高望みはしない。
言いたいことを言えればそれで。ポイズン。
 山本は僕の右隣の席で突っ伏して寝ている木下に話かける。
「キノ(木下)、この漫画面白かったよ。お前も読んでみろよ」
 と木下を揺する。えぇ、そうなんだぁと気怠そうな声とともに、「じゃあ貸して」と僕に手を差し伸べてきた。僕は取り合えず、1巻と2巻と3巻を貸した。
 僕は自分の感動した漫画や映画を人の紹介するのが趣味といっても過言ではない。
 そして、僕の読んでいる漫画や観ている映画はマニアックな作品ばかりなので、ほとんどみんな知らないものばかりで、そのディープな世界に興味津々で読んでくれたので、僕は「なんだか気持ち悪いけど面白い漫画を貸してくれる人」として一部(ごく)の人間から好評だった。
そうしていると、チャイムが鳴る。チャイムが鳴ると、みんなは名残惜しそうに雑談を続けながら、各自の席へ着く途中まで雑談をし、席へ着くと周りの連中と雑談をする。
そうして大抵の女子は先生が来るまで会話をしている。彼女達はおそらく朝起きて寝るまで喋り続けているのだろう。寝ている時は夢の中で喋っているのだ。きっと。
教室のドアが開き、眼鏡をかけた白髪交じりの短髪で中肉中背の男性教諭がおはよーうと笑顔で入ってくる。
「規律―」と学級委員が言うとみんなは気怠そうに立つ。
 椅子を引く音がガタガタと鳴る。
「おはようございます」と学級委員。
「おはようございます」と僕達
「着席」
 椅子を引く音がガタガタと鳴る。
「それでは出席取るぞー」と講壇に両手を置きながら津山先生。
 あ行から順に出席を取っていく。
「西田」
 と僕の名前が呼ばれる。僕は小さい声で「はい」と答える。
「村上」
 と名前が呼ばれた時、僕は後ろを振り返る。
「来てませーん」と女子。
「また遅刻だろう」と津山先生。
「しょうがないやつだな」と呟くように津山先生。
 僕は机に突っ伏したまましばらく村上と言う名の女子の机を横目で見る。 
出席を取り終わり、津山先生が何かを喋っているが、僕は微睡の中にいた。
すると突然、教室のドアが勢いよく開き、津山先生を含む僕達生徒は一斉に驚く。
「オィッスー!」と大きな声が教室に響き、手を可愛らしく斜めに上げ、村上遥香が教室に入ってきた。
 みんなはドッと笑う。
「こら、村上、ふざけんな。遅刻だぞ」と津山先生。
村上遥香はミディアム程のストレートな綺麗で、それでいて少し寝癖のある髪の毛を
描きながら、大きな瞳を津山先生の方に向ける。
彫りが深く、目と鼻と口のパーツが大きい、エキゾチックな彼女の出で立ちは、そのルックスだけを取っても他の女子とは何か違うものを感じさせた。
「津山先生、おはようございます」
 そう言ってから僕達のほうを向き、言う。
「みなさん、おはようございます」
 みんなはクスクスと笑う。
「村上、ふざけていると帰ってもらうぞ」
 と津山先生は軽く言う。
「ふざけているので、帰ります。また来ます。すみませんでした」
 と言い、村上遥香は両手を合わせて、深々とお辞儀をし、ドアを閉めて帰ってしまった。津山先生は面食らった顔をしていた。周りから声を押さえる笑い声が聴こえる。
 僕もクスッと笑った。
彼女はまるで自由人だった。
 ある時は、昼休みに廊下でシャボン玉を吹いていたり、ある時は、飼っている犬を連れてきて、先生がビックリして怒ると、
「毎朝犬の散歩をしているのですが、間違えてそのまま来てしまいました」と言ったり、ある時は、貯金箱を持ってきて、それを教室で割り、中にぎっしりと詰まった小銭を窓から校庭にぶちまけたり、放送ジャックをして、キング牧師の「I have a dream(私には夢がある)でおなじみのスピーチのパロディで演説をしてみたりと、やりたい放題である。青陽中学始まって以来の問題児で愉快犯であり、パフォーマーであった。
 もちろん中学校からは最要注意人物としてマークをされていたが、先生もたまにそのパフォーマーを楽しんでいたりと、そこまでストレスになっている訳でもなかった。
 ただ、保守的で厳格な先生達からは、ひっきりなしに彼女をマークしていた。
僕は、もう、察しているとは思うが、彼女に酷く恋をしていた。
まず第一に、彼女は美しかった。何よりもあんなにもパッチリと輝いた瞳を拝見したことが無い。そして彼女は博学で頭が良く、哲学や純文学といった類のジャンルの本をたくさん読んでいた。と分かるのは、彼女がたまに昼休みにそういった類の本を読んでいるからだ。文学青年の僕から言わせると、アニメや漫画、映画、ゲームといったサブカルチャーに侵された今の時代に文学青年なんてものは珍しいが、文学少女というのはより一層珍しく、僕にとってそれだけでも崇拝の対象となり得る。
なにより、僕が彼女に一番惚れていたのは、その性格だ。
自由奔放で、やりたい放題。掴みどころが無く、こんな個性を無くして束縛をされる世界においても、彼女は圧倒的に自由だった。しかし、それでいて、何処となく陰がある。  
内に秘めた陰鬱なものを感じる。それを行為によって吐き出して笑い飛ばしているようだった。彼女に隠された何かに最も魅かれていた。
村上遥香の瞳で見つめられると、もしかして全てを見透かされているのではないかという気がして、先生もたじろいでしまうほどだ。
彼女はまるで、異次元だった。僕は彼女と話がしたかった。彼女の世界へ行きたかった。
そうすれば、こんなモノクロの世界に色がパッと付き、僕は現実逃避をしなくてもいいのかもしれない。
いくら現実から逃げようとしても、本当の意味でこの現実から逃げるには死ぬしかない。
しかし、僕はまだこの現実に希望を置いているが故に、それは出来ない。
それならこの現実に少しでも色を付けて楽しくしたい。それが本望だ
だからこそ、彼女は僕にとっての救世主だ。
だけど、救世主は僕のところへは来て救いの手を差し伸べてくれはしない。
僕の存在を知っているのかも危うい。
彼女の世界へ行くには彼女に話かけるしかない。
どれだけこの世界を皮肉ってみたところで、それでも僕はこの世界に希望を持っている。
「希望があるところには、必ず試練があるものだから」と何かの本に書いてあった。
今の自分の試練は、殻を破って彼女に話かけることだ。
叫んだって何も変わらないじゃないかって言ってみたが、叫んだことが無い僕にそれを言う資格は無い。つまり、アクション。
社会を皮肉り、自分を卑下して、何もしないままくたばるなんてゴメン被る。
そんなことを考えながら、50分の国語の授業を過ごした。
国語の授業、なんと無意味な時間だろう。英語の授業と同じでこんなのを学んだところで文章力も読解力も、おそらく身に付かないだろう。
先生の語尾を延ばす癖と、えー、でー、の乱立により、余計に眠気を誘う。
眠気が来たのなら、眠るまで。僕は床に突っ伏して夢の世界へ。
以前、社会の先生が大きい声で喋っている生徒達に対して叱責して、こう言った。
「喋って授業妨害するぐらいなら西田のように寝ているほうが全然マシだぞ!」
 僕はその時、微睡みの中にいたのでそれを聞き逃さなかった。
 どうしてあの時僕の名前を使ったのか。僕のほかに授業中眠っている奴はいるのにな。僕がダントツで眠っているということか?まぁ、寝ていない時は、ほぼ無いし。
 なんだか寝ているだけなのに褒められてしまい、他にいる喋らずに黙々とノートを取っている生徒達に申し訳ないなと思った。
 2時間目の数学が始まって5分後にドアが開いた。村上遥香だ。僕はどきりとした。
「えらい遅刻だな、村上」
と先生は笑う。数学の先生は村上に対して好意的だった。
「先生、三角定規じゃはかれないものがあります!」
 と村上が叫んだ時も先生は
「偉い!その通り!人の心とか測れないしな。でも数学も大事だぞ!」
と言いながら豪快に笑っていた。
「先生、すみません。津山先生に、ふざけてるなら帰りなさいと言われて、一度帰ってから心を新たにしてカムバックしてきました」
 と真顔で村上。
「ん、じゃあ席に着きなさい」
 とニコニコ顔で数学の先生。村上遥香は早足で席に着き、すぐに机に突っ伏して寝てしまった。
「心新たにしてそれかい」
 と津山先生が含み笑いで言った。みんながそれに釣られて笑った。僕も笑った。
 村上遥香は、基本的に一人でいる。女子のグループの何処にも属していない。
 話しかけてきた生徒には普通に話す。休み時間は大体本を読んでいるが、誰かが話かけてきたり、たまに女子グループ総出で話かけてきたりして、その時は楽しそうに会話をする。村上遥香はなんだか面白いことを言い、女子達は爆笑する。女子だけじゃなくて男子も話かける。昼休みは一人でご飯を食べようとするが、女子が
「遥香ちゃん、私たちと食べない?」と言われると、「食おう食おう」と言って、そのグループと交わる。
 人気者なのだ。つまり、人が嫌いなわけではないし、喋るのも好きなようだ。しかし、基本的に一人で居る。何処かのグループに入ろうとしたり、自分から誰かに喋りかけようとしたところを見たことが無い。
 僕は本を読んでいる時でも、山下と木下と会話してる時でも、常に村上遥香に気を取られていて、彼女を観察している。まるでストーカーだ。僕はストーカー気質があるだろう。理性によって危ない行為をしないだけで。
 何度かインターネットで「村上遥香」と検索したこともある。
 しかし案外、好きな子の名前を検索するなんてことはみんなやっているのではなかろうか。それはただ自分がやっているから「みんなもやっているに違いない」という思い込みなのか、はてさて。
3時間目、社会の授業の時だった。
「えー、石油は後40年後には渇望すると言われています」
「先生!」
 村上遥香が手を挙げ、立ち上がった。
「40年前の教科書にも同じことが書いていました。一体何が真実なんですか?学校で学ぶことは真実ですか?」
 先生は困った顔をして言った。
「うーん。あくまでも仮説なので……」
「あてにならない仮説ですね。寝ます。おやすみなさい」
 と言って村上遥香は椅子に座り、そのまま寝てしまった。
 先生はその後、必死に弁明していた。村上遥香は寝ながら「あー言えばこう言う」と呟いた。4時間目の英語の授業。先生は授業前に言った。
「いつものことだけど、夏休みが終わってから服装の乱れや、髪の毛をイジっている人が多くなっているので、しばらくの間は校門前でチェックを行います。規則はきちんと守りましょう」
英語の先生は風紀担当なのだ。
 昼休み、僕は山本と木下と共に、何を話したのかはすでに忘れてしまったぐらいどうでもいい話をしながら昼飯を食べ、そして僕は読書に耽っていた。
 村上遥香は教室の窓辺にもたれかかり、本を読んでいた。開かれた窓から風が吹き、カーテンが優しく舞っていた。村上遥香はそのカーテンに何度もふわりと包み込まれていた。
 僕はそれを見て胸が苦しかった。恋だ。根暗の僕も思春期真っ盛り。それはそうと、彼女は一体、何の本を読んでいるのだろう。
 僕は背伸びをするフリをしながら、全神経を集中させたチラ見で、何の本か確かめる。
 なんと、坂口安吾の『白痴』ではないか。坂口安吾と言えば、デカダンチックな文学としてのスターではないか。まだ読んだことは無いけど、僕は太宰が大好きで坂口安吾もそのうち読もうと思っていたのだ。
 一人でいる彼女、読んでいる本からしても話しかけるタイミングとしてはドンピシャだ。
 チャンスは、今だ。他には無い。もうこんな絶好の機会は無いかもしれない。
 分かっている。分かっているにも関わらず、僕の足は動かなかった。
 もしかしたら誰かが彼女に話かけるかもしれない。そうなればもうおしまいだ。
今は一刻を争う。行け、僕よ。明日に向かって話せ。
 僕は無理矢理に肉体を動かしたかの如く、ぎこちなく席から立ち上がり、ロボットのように歩き出した。ウィーン。ガシャッ。ガシャッ。
 そうして、真っすぐに村上遥香の元へと向かっている時に、教室にいた、ほとんどの生徒が、不思議そうな顔で僕の方を見ていることに気付く。
 しまった。想定の範囲外ってやつである。生徒達の目を気にしていなかった。
 そりゃぁ、洞察力のある人間達が気付かないはずがない。
 いつも本を読んでいるばかりで誰のところにも行こうとしない僕が、学年の、いや、学校中の、否、学校始まって以来の異端児であり有名人である村上遥香のところへ歩み寄っているのだ。みんな何事が起きたのかという目で僕を見ている。
 残り5メートル付近で、村上遥香が僕の存在に気付き、本から目を離し、涼しげに僕を見つめる。2メートル付近で僕は止まった。口は渇き、頭の中は真っ白だ。
 少し遠い、もう少し間合いを詰めよう。1㍍30cm程に間を詰めた。
 近すぎたか?いや、この頃合いが自然だろう。緊張していることを悟られるな。平常心だ。しかし、周囲の目が気になる。気になりすぎる。まったく、予想外だ。
「何?」
 と村上遥香は透き通った声で囁くように言った。無関心でもなく、驚いた様子でもなく、嫌悪感も無く、ただいつもの日常のごとく、平然とそう言ってのけた。
「やぁ」
 と言ってぎこちなく右手を軽くあげた。やぁっておかしいか?
「やぁ」
 と村上遥香は言って、僕の真似をするように右手を軽くあげた。
 相手に呑まれるな。遥香は呑んでも呑まれるな。とわけの分からない言葉が思い浮かぶ。
「それ、坂口安吾の白痴だよね」
と僕は言った。
「うん。本のカバー見たら分かるよね。ちょっとごめん。今いいところだから、後にしてもらっていい?」
 と村上遥香は何の悪びれた様子も無く、まるで長年の知り合いと日常の会話をしているが如く軽く、そう言った。
「ご、ごめん」
と少しドモリながら 僕は顔が真っ赤に染まる前に、逃げるようにしてその場から立ち去り、教室からも立ち去り、男子トイレに入っていき、その個室に逃げ込んだ。
大失敗だ。言わんこっちゃぁない。何も高望みせずに、いつも通り、味気の無いガムを噛み続ける日常に我慢しながら過ごして、家に帰って自分の部屋に篭り、そこで現実逃避をしていれば良いものを。
しばらく気を落ち着かせてから、平常心を装って、教室に入っていた。
さっきの一連の流れを、他の生徒達はそこまで気にも留めていないようで、僕が入ってきても誰も全く気にしていなかった。良かった。しかし、さっきまでそこに居た村上遥香が消えていた。僕に気味悪がって何処かへ行ってしまったのだろうか。だとしたら大変だ。
僕は席に着き、精神的に限界がきていたので本は辞めて机に突っ伏した。
「さっき村上に話かけてなかった?」
 と山本が僕の肩を揺すって聴いてきたが、僕はうるせーと言って顔を上げなかった。
 チャイムが鳴り、昼休みの終わりを告げ、5時間目がいざ始まろうとしていたが、村上遥香はまだ教室に戻ってきていなかった。
 しばらくして先生が入ってくる。出席を取っていく。
「西田」と言われて「はい」と言う。小さい声で。

「村上遥香」

 と先生が呼んだ時、教室のドアが開いた。勢いよく。
「はいっ」と元気良く聴こえ、にゅっと入ってくる村上……遥香?
そこには、なんと。一瞬目を疑った。髪の毛を真ピングに染め上げた村上遥香がいたのだ。生徒からざわめきが起こった後、少し押し殺し気味の歓声と笑いへと変わった。
「うおー」「えー」「おもしれー」という声が笑いと共に巻き起こる。
一瞬にしてその場の渦中となった。
僕は村上遥香のこの、愉快犯的パフォーマンスに賛辞を惜しまない。
 それと同時にさっき僕が彼女に声を掛けたことなんて、彼女にとってなんの印象にも残っていなかったことに、安心と失望のアンビバレンスが引き起こった。
「村上、一体何をしている」
 と物理の先生は動揺を隠せない。
「出欠には間に合いましたよ?」
 と彼女はシラッと答える。
「あ、でも出欠までに着席していないと遅刻というのなら、すいません」
 村上は頭を下げる。ピンクの髪の毛達が一斉に地面に吸い付くように垂れ下がる。
「違うだろ。その髪型はどうしたんだ。校則違反だぞ。明らかに」
「え、この髪型ですか。実は地毛なんですよ、これ。今まで黒に染めていただけで」
「嘘つけ!」
 物理の先生が少し恫喝した。
「すいません、嘘です。でも校門前の検査ではパスしたから、その後は良いのかなと思って」
「そんなへ理屈通るか!ちゃんと髪の色戻してから出直してきなさい」
「分かりました。すいませんでした」
 と頭を深々と下げて、教室から出て言った。
 みんなは顔を見合わせて愉快にしていた。先生は、静かにしなさいと語気を荒くして言った。
 彼女は名前を呼ばれるまでの間の約1時間程でブリーチをして、ピンクのヘアカラーで染め上げたということだろうか。女子トイレでそれをしたのか?それにしても1時間で間に合うのか。始めからブリーチとヘアカラーを買っていたのなら、ギリギリ間に合いそうだ。ということは英語の先生に言われてからの突発的犯行というよりも、今日それをやると決めていた計画的犯行なのだろうか。
 何にしろ、やはり彼女はこの無味乾燥な世界においての救世主だ。
 
「今日も村上面白かったね」
 と木下が呑気な声で言った。帰り道、山本と木下と僕はいつも途中まで一緒に帰る。
「村上が居ると学校楽しくなるよなぁ。でもあいつ、内申大丈夫なのかな」
 と山本は言いながら、小石をオーバーリアクション気味に蹴り上げた。
「前に、同じ質問を村上本人にしていた女子がいて、村上は通信制の高校行くとか言ってたよ。僕、ちょうどゴミ箱にゴミ捨てようとして側通った時にそう聴こえた」
と山本が蹴った小石をさらに蹴る木下。
 通信制の高校なんて、よくもまぁ、そんな進路を決定する度胸があるなぁと僕は感嘆した。空気的にいって、次に小石を蹴るのは僕だが、僕は蹴らなかった。
 翌朝、いつものようにイチゴジャムを塗りつけた焦げたパンを齧ってはコーヒーで流しこみ、胃の不快感を覚えながら登校した。
それにしても、昨日は村上遥香に全く近づけなかった。
 もう一度話しかけたら少しウットオシイと思われないだろうか。さて、どうしたもんだろう。全くもって、どうしようもない事態だ。
 重い足取りで、無気力な動作で上履きを履き替えようとした時に、女性特有の良い香りのする風がふわりと吹き、僕の目にかかった長い前髪が少しだけ浮き上がった。
「で、なんだって?」
 と透き通った、抑揚の無い声。村上遥香だ。僕の胸は高鳴った。そう言いながら彼女は上履きをさっさと履き替えて、僕の方を見つめた。
「え、な、何?」
不意をつかれて身構えていなかった僕はおもいっきりキョドってしまった。
「昨日、言ってたでしょ。坂口安吾は白痴だとかなんとか」
「いや、坂口安吾が白痴じゃなくて……」
僕は速やかに上履きに履き替え、彼女の前を向いた。
下駄箱から牡丹餅といった気分だった。なんとなんとなんと、彼女から話かけてきてくれるなんて。しっかりと覚えていてくれてたなんて、律儀な人だ。
正面から見ると、女子だから当然と言えば当然だが、僕よりも背は低いが、腰に手を当て、足を少し広げた、凛然たる立ち振る舞いとそのエキゾチックで綺麗な眼と見つめると、僕はもうどうにかなりそうだった。圧倒的に彼女の雰囲気に呑まれてしまってもはやどうすることも出来ない。 
「坂口安吾読んでたから。僕もああいったデカダンス的な文学好きだから。村上は坂口安吾好きなんだ?」
「全然」
「え、好きじゃないの?」
「うん。むしろ哀れんでる。この人何にも分かってないなぁ可哀想って」
「分かってない?」
「うん、分かってないのに分かっているフリして、勝手に絶望してる。坂口安吾が白痴だって言うのなら賛同するよ」
 と何気に酷いことを言う村上遥香。
「村上は分かってるの?」
僕は何が分かっていないか分からないけど、とりあえず聞いてみた。
「分かってないよ。分かっていると言い切れる人はいないと思う。だから分かっているフリをして気取ってもいない。ただ、私は信じている者があって、彼は何も信じていないから。いや、何も信じられるものなんて無いと思っている。何も信じられるものが無いっていうことを信じてる。だから可哀想。でもあの本は面白かった」
「ふむ」
 と僕は手を顎に当てて、考える人になってみる。
「たっちゃんも、本とか、シュールな漫画とか良く読んでるよね。あんまし難しいことばっかり考えたら憂鬱になっちゃうよ?」
「た、たっちゃん?」
「西田達也だから、達也と言えばたっちゃんしか無いでしょ?それ以外のアダ名を付けたら逆に失礼でしょ。あはは。君、中々面白いね。じゃ、またね」
 と早口で言い放ち、笑顔を一瞬見せて、村上遥香はさっさと教室に向かっていった。
僕はしばらくその場で立ち尽くした。夢にまで見たあの村上遥香と会話が出来た。しかも何故かアダ名付きで。
モノクロの景色に色が付き始めた。
「何ニヤ付いてんだよ。きもちわりぃ」
 と、机に肩肘をついて、顎に手をつけている僕を山本が小突いてきた。
 小突かれてバランスを崩し、僕は机に頭をぶつけた。
「何すんだよ、バカ」と僕は冷静を装う。山本はそのまま何処かへ行った。
 不覚。一人でニマニマなんぞしていれば、「変な人」に拍車がかかってしまう。
 変な人から変態に格上げしてしまう。それは困る。僕の心は天まで昇る気持ちだが、この心の内側を見せるわけにはいかない。表面はいつも通り冷静を装っていないと。
 それにしても、僕は意外と単純なんだな。もっと複雑な人間なんだと思っていたが。たかが自分が恋をしている女性に話しかけられたぐらいでこんなにも心が晴れ渡り、景色が冴え渡るとは。なんだか、自分に失望した。なんて思いながら、また体勢を整えて机に肩肘をついて、顎に手をつける。と右の方から肘をパシッと払われ、僕はまた机に頭をぶつける。
「お前、いい加減にしろよ!」
 と怒鳴って横を振り向くと、そこには村上遥香が含み笑いをしている顔があった。
 僕はうおっと言ってのけ反った。
村上遥香は腹を抱えて笑っている。
「2回も同じことされて頭ぶつけてる。面白い」
 と言いながらヒィヒィ言っていた。
 僕はどういう対応したらいいのか分からなくて(昨日今日、初めて会話したぐらいなのだから)取り合えず、や、やめろよーと言って頭を掻いてみた。
 村上遥香は唐突に僕の机を勢いよく叩いた。と思うと、その手の下に単行本が2冊ほどあった。
「たっちゃんも、ややこしい本とかいっぱい持ってるんでしょ?貸し合いしようよ。昔ながらの本を読む人って活字離れの現代人にいないからね。是非交流を深めようではないか」
 と僕の肩をバシバシと叩いてくる村上遥香。知り合ったと思ったら既にこの距離感である。彼女の辞書には人見知りという言葉は無いのだろうか。
「ありがとう!僕は取り合えず……」
 とカバンの中をごそごそと探り、1つの本を手に取る。
「最近、これ読み終わったんだけど、面白かったから。良かったら読んでみて」
 僕は安倍公房の「壁」という本を渡した。
「ありがと。じゃ、またね」
 と言って村上遥香は席に着き、早速読み始めている。なんとも超スピードで仲良くなっている気がする。
 彼女は一体何を貸してくれたんだろう。本のタイトルを観ると、『燃えよ剣』と『きれぎれ』と書いてあった。『燃えよ剣』は司馬遼太郎の名作ではないか。なんと渋い本を読んでいるんだろう。もう一つの本は知らない。町田康という作者だ。ジャンルはなんだ?
 僕も早速読み始める。とりあえず『きれぎれ』なるものから読み始める。
 すると、なんだこれは。ぶっ飛んでいる。これはユニークだ。面白い。まるでコントみたいじゃないか。僕は思わず吹き出しそうになったが、授業中だったので堪えた。
 僕は授業中ひたすら読み耽っていた。
 そのまま4時間目の授業まで没入した。
「こら、西田と、それに村上」
 と二人して名前を呼ばれたもんだから僕は胸がドキリとした。え、なんで。
「本を読むのはとてもいいことだが、今は授業中だぞ」
 と先生。
村上遥香が、即答した。
「今日からたっちゃんと二人で本の貸し合いを始めたんです。それで、この本、中々面白かったのでつい」
 生徒達が一斉に僕の方を見て、一瞬ざわっとなった。
 何を言い出すんだこの人は。しかもたっちゃんって。めっちゃ仲良いみたいじゃないか。
 僕は俯いた。
「もう少しで読み終わるので、ちょっと待ってください」
 と言って村上遥香は堂々とまた読み始めた。
「こらぁ」と言ってため息を吐き、諦めた先生はまた黒板の方を向いた。

「おい、西田。一体どうやって村上と仲良くなったんだ」
 昼休み、3人のスクールカースト上位組みの奴らが、窓際にもたれかかって安倍公房の本を読んでいる村上遥香のほうをチラっと見ながら、尊敬の眼差しを僕に向けて話かけてきた。
「いや、ただ、村上の読んでいる本に自分が興味あったから、それで話しかけてから……」
3人はすげーっみたいなこと言い合い、「お前、すげぇな。あの村上遥香と。マジかー」
と言いながら、悔しがったり喜んだりしている仕草をして悶えていた。

今まで僕は木下と山本と、山本の友人数人ぐらいとしか交流が無く、本貸し業もその辺りだけだったのだが、それからといふものの、たくさんの人が僕に本や漫画を借りるようになってきて、僕はそれぞれに見合った本や漫画を貸してあげ、そうして、僕のお勧めする本や漫画はとても好評だった。読んでもあまり分からなかったという疑問符を浮かべた顔の人には何処がどう面白くて、凄いのかということを熱意を持って解説してあげると、半分分かったような分からないような、しかしながら、なんだかこの人は崇高なことを言っているといったような表情を浮かべて感心をするのであった。
約2週間の間に僕の周囲には人の気が出来るようになっていた。そして、村上遥香とも本の貸し合いをし、感想を言い合う仲となっていた。それはもう、唯一の友達というか知り合いであった木下と山本がこの先登場して来ないんじゃないかというほどに、僕の人生は充実していた。村上遥香と仲が良くなっただけで。人というのは、そして人生というのはなんて単純なんだろう。

「最近、食欲あるし、顔色良いじゃない。学校で何か良いことあったの?」
と母が言ってきた。
「まぁね。なんだか楽しいんだ」
「あら、彼女でも出来たんじゃないの?」
 と母は笑いながら言った。
「そんなんじゃないよ」と僕は咳き込む。
夕食のハンバーグを箸で細かくし、口に運びながら思った。夕食の時にこんな風に楽しく母と会話をするのは一体いつぶりだろう。
 いつもの食事の時と言えば、夜のスナックの仕事に出向く前というせいなのか、いつもヒステリック気味で口を開けば文句を言っていたものだった。小2の時に離婚した父は何処にいるかも定かではなく、一人っ子の僕にとっては、母の小言を訊くだけが食事においての家族の交流会だとさえ思っていたが、一家団欒というには数が足りないが、その裾ぐらいに触れたような気分だった。
 どうしてそのように雰囲気が変わったのかというと、僕の雰囲気が変わっただけなのだ。僕が明るくなって、母に対する返答や、僕の表情の変化がその場の空気を変えたようだった。
 相変わらず村上遥香とは本を交換し、感想を言い合う仲だった。
 僕が1冊読み終わるまでに、彼女は裕に4冊以上の本を平らげていた。
 彼女の読解力と速読、そしてその洞察力には度肝を抜くばかりであった。一体この娘は将来何者に成るのだろう、と期待せざるおえない。
 そのうちに、昼食までも一緒に食べるようになっていた。時には村上遥香を含む女子達と、時には村上遥香を含む男子達と。
 そして、時には二人で。高校生が男女二人っきりで昼飯を食するなんていうのは、はたからみれば、最早付き合っているも同然に映るはずだが、村上遥香と僕のその距離感や「まさか、冴えないあいつと、そんなはずはないだろう」という僕と彼女のレベルの違いから、周囲の堅実な予想で、僕と村上遥香が付き合っていると思っている者は一人もいなかった。 
もちろん、付き合っているわけがない。

「村上ってさ、自分のこと全然話さないよね」
 前から思っていることをズバっと言ってみた。いち、恋をしている僕としても、彼女のことを知りたいのだ。
「何?あたしの事知りたいの?なんで?」
 と少しニヤつきながら彼女は言った。僕は見透かされている気分がしてドキリとした。
「いや、せっかく仲良くなったんだし、知りたいなって思うのは当然の欲求だろう」
 と僕は彼女を見ないようにして、弁当のソーセージを1齧りした。
「なるほど、欲求ね。知的好奇心は大切だ。偉いぞ、少年」と村上遥香。
「でも、たっちゃんも話さないでしょ?」と続けて言った。
「うん、そうなんだけど、それはなんだか、空気だよ。村上が壁を作っている気がするから僕も壁を作ってしまうんだ」
「じゃあ、たっちゃんのこと、5つ教えてくれたら、1つ教えてあげる」と村上遥香。
「え?それは不公平じゃないか」
「だって、たっちゃんが、私のことを知りたいんでしょ?先に要求してきたんだから、犠牲は大きくなるでしょ」
と言って村上遥香は箸で僕をピッと指してきた。
「分かったよ」
と僕は少し眉をひそめてみたが、しかし、内心は嬉しいのだ。何故なら僕は彼女のことを知りたいし、僕は彼女に自分のことを知ってもらいたいのだから。
僕は自分のことを話した。まず、好きな食べ物は寿司で、嫌いな食べ物はニンジンだということ、小学生の頃は結構ヤンチャで活発で足が速くて人気者だったこと。しかし、中学に入って急に根暗になって、陰鬱な雰囲気が漂う小説や漫画が好きになったこと、将来作家になりたいこと、家に電子ピアノがあり、最近ピアノの練習を初めてドピュッシーを弾けるようになるのを目指していること、そして最後に小2の時に親が離婚して、それ以降父とは会っていなくて、母と二人きりで生活をしていて、母はいつもヒステリック気味だけど最近マシになってきたことにより、ネットや本の世界以外のリアルにも少しばかりの平和を望めるようになったこと等を話した。
 最後の、母と二人きりで生活をしているというところを話した時だけ、村上遥香が僕をじっと見つめていた。あの透き通った目で。それが何を意味するかは分からない。それ以外の話をしている時はふんふんと頷いているだけで、自分で作ったという冷凍食品を適当にぶち込んだだけの弁当をパクパクと食べていた。
「これで5つぐらいだろ。じゃあ、村上もなんか一つ教えてよ」
と僕はおそらく目がりんりんと輝いて、ニヤけていたであろう。
 何故そこまでワクワクするのかというと、誰一人として、何一つとして、村上遥香のプライベートを知らないのだ。それはつまり彼女は誰にも心を開いていないことを意味する。
「そうねぇ」
と村上遥香は食べ終えた弁当と箸を横に放り出し、足を伸ばして、椅子に持たれ掛り、教室の天井を仰ぐ。「うーむ」と言いそしてそのまま「うーん」と大きく背伸びをする。
僕はその全ての仕草に恋をする。
そのまま数秒が経ち、呟くように言った。
「お父さんが、牧師」
村上遥香は照れた様子も無く、ただ、平然とそう言った。
「ぼく、ぼくし?」
 僕は少し前のめりになって聞き返した。
「うん」と村上遥香。
「牧師って教会の、キリスト教の?」
「うん」と、僕の目を見て、村上遥香。 
意外でも無いし、なんというか。変わった職業の父を持つ、この村上遥香ということに関しては意外でもなんでもない。ただ、牧師の娘と言えば、もっとこう……まぁいいや。
「そっかぁ。牧師かぁ」
「うん。牧師」
 村上遥香は、自分のことなんぞ、まるで興味無さそうに500mmペットボトルのコーラをカバンから取り出し、音を鳴らしながら飲み始める。
村上遥香のプライベートを1つ知れたことで僕は嬉しかった。乙女か。
 それからといふものの、機会があれば僕の個人情報5つと引き換えに彼女の個人情報1つを聴いていった。
訊く度に「ストーカーめ」と彼女は笑う。僕は「友達のことは知りたいんだよ」と挙動を抑えながら冷静を装って言う。
そんなこんなで僕の甘酸っぱい青春時代は過ぎてゆく。
ある日、いつものように登校していた。そしていつものように本を貸し、「土曜日に映画借りようと思うんだけど、おすすめの映画は?」と尋ねてきた生徒に誇らしげに「ではジャンルは?暗い話?明るい話?感動する話?」と言った感じにあたかもどんな映画でも、あなたに合った素晴らしい映画を教えて存ぜようといった態度で映画を紹介し、そして村上遥香と読了した本の批評を行い、弁当をみんなで食べ、そして下校時に、僕は書店に行こうと思い、一度家に帰宅してから書店に向かっていた。書店は、平谷1丁目交差点、JR線の高架をくぐってすぐのところを右折し直進し、ファミレスのある交差点を右折してすぐにある。黄色い大きな看板が目印で、この辺りで一番大きい書店だった。
平谷1丁目交差点に入る手前に公園がある。ベンチと木とブランコがあるだけの、一体何処の誰が使うのだか良く分からない、オプジェのような公園だ。
その公園を通り過ぎる時、ふと僕の学校の制服が右目にチラっと見えた気がして、公園の方に首を傾けてみると、なんとそこに村上遥香が居た。
20メートルほど先で、視力が少し悪かった僕はなんとか村上遥香だと確認することしか出来なくて、何か膝に乗せているような姿勢に見えたので、、近づいていってみた。
「村上―」と声を出し、近づいていくと、村上はゆっくりと僕の方を見た。
 僕はギョっとした。近づいていった時、村上遥香が何をしているのかが分かったのだ。
 彼女は、自分の膝に血塗れで内臓がはみ出している猫を乗せて、血塗れの猫を優しくなでていたのだ。彼女の表情はまるで透明だった。僅かばかり慈愛のような悲しみが見えるが、まるで全てを受け入れたかのような、それでいて全てを否定しているかのような。
「たっちゃん、元気?」
と抑揚の無い声で透き通った目で笑みを浮かべて言ってきた。
「村上、何してんの?」
僕は村上が座っているすぐ側まで行き、血塗れの三毛猫を目を丸くして見た。
「この子、もうすぐ死ぬんだ。そこの交差点で轢かれたまま独りでいたから」
 と村上遥香は、僕と一番最初に喋った時と同じような口調でそう言い、猫の方に目をやり、優しく撫でていた。彼女の制服はスカートと制服の下の方に猫の血がべっとり付いていた。白い手は赤く染まっていた。
 猫のお腹からは、苦しそうに呼吸をしているのが確認出来る。
僕はなんと声を掛ければ良いのか分からなかった。
すると、彼女が淡々とした口調で喋りだした。
「ある映画なんだけど、その映画の出だしが、高層ビルが乱立して大きな高速道路がはりめぐされている夜景が映し出されるの。そして隣の住人が殺されても気付いていない隣人。そんな大都会。その映画は殺し屋が主人公の映画なんだけど、その主人公が、ある人に
「この街は好きか?」って聞かれて殺し屋は「嫌いだ」って言うの。
 そして次に殺し屋はこう言ったの。
「ロスの地下鉄で死んだ男が6時間発見されなかった。その男の隣に何人もの人が座ったのに」ってね。
 最後、この殺し屋は、銃で撃たれて致命傷を負って、地下鉄の電車の中で、座席にもたれかかり、こう言って死ぬの。
「なぁ、知ってるか。ロスの地下鉄で死んだ男が6時間発見されなかった。その男の隣に何人もの人が座ったのに。俺もそうなるのかな?」
 彼女は喋り終えて、しばらく無言。僕は彼女の横に静かに座った。
夕焼けが一段と赤く見えた。血だまりの猫を見たせいかもしれない。
「ねぇ、この子、死んだらあそこの木に埋めるんだけど手伝ってくれない?」
「うん、もちろん。そのために今僕は君の横に座ってるんだからね」
「そうか、そのためか」
「うん、そのため」
胸の奥がチリチリとしていた。やがて猫のお腹は動かなくなった。
 猫は彼女の腕の中で暖かさを覚えて死んでいった。愛のある中死んでいった猫は、この世での勝利者だ。
 
「なぁなぁ、達也ってさ、村上の事なんか知ってんの?」
授業の合間の休憩中に、スクールカースト上位のグループ達と喋っている時、ふと彼らの一人がそう訪ねてきた。
「あぁ、まぁ、そりゃぁね。毎日話しているし」
と僕は両手を頭の後ろで組み、なんとなく当然のごとく言ってみせた。
「どんなこと知ってんの?」
興味津々と僕に顔を近づけてくる。
「まぁ、例えば村上のお父さんは牧師なんだよねぇ」
 何気に自慢めいて言ってしまったが、言った後になんだか罪悪感を残した。
「えーっ?牧師?なんだそれー!おもしれー」
 と彼らは村上遥香の方をチラッと見て興奮していた。
 彼女は、誰にもそのことを言っていないのだから、言わないほうが良かったのではないだろうか。しかし、口止めされているわけでも無いし、まぁ別にいいだろう。それに村上も何かこう隠すように言うわけではなく、平然と言っていたし。悪いことはしていないなと僕は自分で自分をそう言い聞かせた。事実、そうである。道理に外れてはいない。

 それから数日後のことである。いつものように、学校に到着し、机に突っ伏してぼやっとしていると、村上遥香が片手で前列の机の椅子を、僕の机の前に引き寄せて、何も言わずに座り、机に突っ伏した僕を見ている。透き通った、いつもより冷ややかな眼で
「あ、やぁ。おはよう。どうしたの?」
 僕は突っ伏した姿勢から起き上がり、彼女を観る。彼女は冷酷な視線を僕に向けていた。
 僕はドキリとした。いつもの恋心的な甘く苦しいドキリではなく、何かを責められる、苦く、苦しいドキリだ。
「あたしのお父さんのこと、話したでしょ?後、あたしの事、色々」
 矢で刺し通すぐらいに鋭く、それでいて冷淡な口調だった。僕の心臓はその矢に突き刺さったかのごとく、萎縮する。
人の口に戸は立てられぬとは良く言ったものである。
「ごめん。つい、村上のこと聴かれたからさ。でも言ってしまってから、言わないほうが良かったなと思ったんだよ。言わないでとも言ってなかったから、言いかなって、ごめん……」
 と僕は消え入りそうな声で言った。
「色々陰で言われるでしょ。お父さんが侮辱されるのは嫌なの」
 と目を逸らして縮こまっている僕に鋭い視線を送ってくる。
「あ、でも、人のうわさも七十五日って言うし……」
 大きい音が僕の目の前で炸裂して僕は仰け反った。村上遥香の、細く、白くて綺麗な手が僕の机を勢いよく叩いたのだ。クラスメートたちが僕と彼女の方を振り向き、ざわついていた教室が、シンと静かになった。
「嫌なの」
 と、少し震えた低い声でそう言い放つと、彼女はすかさず立ち上がり、カバンを持って教室を後にした。
 僕はそのままの姿勢で呆然としていた。頭が真っ白になるとはまさにこれ。 
   
 その日一日、異常なぐらい物憂げに時を過ごした。
 ため息を付いては、過失を嘆いた。そうすることの意味の無さを知りながら。
 途中で家に帰ろうかと思ったが、早退をしたことの無い僕にとって、体調不良でも無いのにも関わらず、早退をするというそれは非常に勇気のいる行為で、その勇気を僕は持ち合わせていなく、椅子に座ったまま、耐え難い苦痛をなんとかやり過ごした。
 その日、誰も僕に話しかけてくるものはいなかった。理由は色々あるだろう。
 食卓にて、半日で病人のように欝々とした雰囲気を醸し出す僕に母が
「どうしたの?」
と聞いたが僕は何も答えなかった。そうすると母は
「食べたら皿洗ってよ。今日仕事早いから」
とキツめの口調で少しばかりのヒスを起こした。
 翌日、教室に着き、机に肘を立てていると、村上遥香が教室に入ってきた。
「おはよーっす」
と誰かに対してというより、その場の空気に元気よくあいさつをすると、何人かの女子と男子が「おはよー」とあいさつをし、その場の空気が一層明るくなった。そして村上遥香はその後にいつも僕の方を見て「よったっちゃん」とあいさつをするのだが、それをせずに、まるで僕が見えないかのように、僕なんていう存在は万物の初めから存在していなかったかのように、一瞥もくれず、僕を素通りして席に着いた。
 僕は耐えられなくて机に突っ伏した。なんて言うと、僕が女々しい奴だなんて見下すだろう。ならば一度、恋をした異性に存在を否定されてみるといい。
村上遥香はその日一日本を読んだり、話かけてきた女子や男子と楽しそうに談話をしたり、みんなで何処かへ行ったりしていた。僕は独りで過ごした。たまに誰かが貸していた本を「返すよ、ありがとう」となんだか気まずそうな顔をして返しにくるだけで、誰もx僕と会話をしようともしなかった。
 翌日もその翌日も、同じように過ごした。一つ違ったのは本を貸していた人達全員から本が戻ってきたので、「返すよ、ありがとう」の一声さえも無くなったことだ。
 翌日も、その翌日も。相変わらず村上遥香の人生から、僕という存在は消滅し、それによって、みんなの人生からも僕という存在は消滅したようだ。要は彼女と知り合う前に戻ったってこと。否、それ以前よりも酷い。何故なら山本と木下さえも、僕と接しなくなったのだから。
 僕は存在の透明さに耐えられなくなり、木下と山本と、もう一人なんとかという3人が喋っているグループのところへ行き、「やぁ」と山本に声をかけた。
 椅子の背もたれを前にして、そこに両手を乗っけていた山本が僕の声に反応して僕のほうを振り向いた。しかしその眼は白かった。
「おぅ、どうした?」
とそっけない山本。
「いや、特にどうしたわけでもないけど」
と精一杯の笑顔を作ってみせた。
「お前、みんながお前のところに寄ってきてた時は、俺達のところなんて来なかったくせに、誰も相手してくれなくなった途端、俺達のところに来るなんて、卑怯な奴だな」
 とズバリと山本は言った。3人とも僕に冷ややかな眼を向けた後、またすぐに雑談に戻った。僕は何も言わずに青い顔をしてその場から立ち去った。
 山本の言う通りである。僕は卑劣このうえないエゴイズム溢れる人間だ。だけど、みんなそうじゃないか。村上遥香と僕との付き合いが無くなってから、みんなが僕から離れていくのもエゴイズムの極致じゃないか。みんなエゴイストであるが故、この世は凄惨なところだ。それでも、村上遥香だけは、そんなエゴイストと違うところを感じていたのだ。
 しかし、そんな村上遥香を僕は失ったのだ。
 翌日も、また翌日も。僕は圧倒的に独りだった。母のヒスも昔に戻った。どころか昔よりか酷くなった。
 一度、彼女に謝ろうと思い、彼女の席まで近づいていくと、彼女は僕が近づいてきたのを察して席を立ち、教室から出ていった。もはや修復不可能である。それにしても、何もそこまで怒らなくても。女性と言うのはみんなヒステリックなものなのか。
 そしてやはり、僕の逃げ込める先はやっぱり虚構の世界。僕は生粋の虚構の世界の住人で、虚構の世界の住人達が僕を「戻っておいで」と言わんばかりに、事が進んでいるのかもしれない。と、既に思考回路が妄想ワールド真っ只中である。
 なんとも三日天下ばりの青春だった。
 その夜、悪夢に魘された。真っ暗闇の中から抜け出そうと無我夢中で走っていると、周囲から楽しそうな声が聴こえるのだ。声の主はクラスメートだった。
 僕だけは暗闇を右往左往して、抜け道を探している。みんなの楽しそうな笑い声がこだまする。朝起きて、すっかり諦めた僕は、ならば一層のこと、虚構の世界に浸かり切ろうと決意した。潔さだけには自信がある。そうと決まれば、そうするまでである。
 教室に入り、誰とも目を合わせずに真っ先に本を開き、読み耽る。
 そうして放課後になるまでひたすら読み続けた。まるっきり本の虫である。
 その僕の異様に読み耽る様に、クラスメートの何人かが怪訝な顔をしている気がしないでもない。おかげで夏目漱石の『こころ』を読み終えた。どうだ。お前達が何の為にもならない無駄話をしている間に、僕は名作を一つ読み終えてやった。と心の中で彼らを見下し、悦に浸る。そしてお前達こそ、人の『こころ』そのもの、業を抱えた罪深い者ども。 
まぁ、僕もそうなんだけど。僕はそれに気付いているが、彼らはそれに気付いていない。
そしてホームルームが終わると教科書類を無造作にカバンに詰め込み、誰よりも早く教室から出ようとして立ち上がると、女性特有の良い香りが僕の鼻に少しかかり、目の前には村上遥香が居た。彼女との距離が近く、驚いた僕は、そのまま椅子に着席してしまった。
「たっつぁん、一緒に帰ろうぜ」
 村上遥香は少し気まずそうに伏し目がちにそう言って、頭を人差し指でポリポリと掻いた。
 きょとんとした。
「どうしたの。急に。っていうか方向一緒だったっけ」
 と僕が言うと、「いいから、行くよ」と彼女は先に早足で歩いていったので仕方なくついていく。僕と村上遥香は校門から出るまで、てくてくと無言で歩いた。僕は村上遥香の数歩後ろをついていった。今さら、なんなんだよ。僕の気持ちも知らないで。と、男のプライドとしてその気持ちが芽生えたが、それよりも声を掛けてもらった喜びが強かったあまり、恥ずかしながらそのプライドはすぐに消滅した。 
 季節はすっかり秋の色に染まっていた。校門を出て歩道を歩いていると、近くにある公園が紅葉に染まっていた。銀杏の臭いがツンとする。
 いつの間にか僕は村上遥香に追いつき、二人並んで歩いていた。
「たっちゃん、ごめん。仲直りしよう」
と前を向いたまま、前方を見つめたまま村上遥香が言った。唐突の謝罪だ。
「え、いや、僕の方こそ、ごめん」 
 僕が村上遥香の方に顔を向けて、無理矢理な、おそらく気味悪いだろう笑みを浮かべてそう言った。
 真横から見た彼女の鼻の高さとその形状の美しさ、そのまつげの長さ、そしてバックの秋の色に、まるで一枚の芸術的な絵を見たような感覚に陥った。そして僕の心には歓喜が戻りつつあった。一喜一憂する自分の感情の敏速なまでの変化に愚かさと恥ずかしさを覚える。人間とは、その感情とは、かくも複雑そうに見えるその様、実のところ、なんとも単純に出来ているものだ。

「信用出来ると思ってお父さんのこととか私のこと、話したんだけどさ、別に他の人に言ったからと言って、内緒にしてとも一言も言ってないし、会話の流れの中でそうなるのも当然だし、別にたっちゃんは悪いことしてないわけで、ただなんか勝手にあたしが裏切られたという感情が強くなって、別に裏切ったわけでもなんでもないし」
と早口でそう言った村上遥香。
 僕は髪の毛をゴシゴシと強く描き、言った。
「でも、僕もなんか言った後に罪責感があったんだ。村上が誰にも言ってないってことは言うべきじゃなかったって。だから僕の心に責められるところがあったってことは、やっぱりそれは村上を裏切ったんだと思うよ」
村上は急に立ち止まり、僕の方をジッと見つめて、少しはにかんで言った。
「ありがと」
 僕の胸は良い感じの痛みで締め付けられる。この痛みなら、もっと締め付けてくれても構わない。そのまま心臓麻痺を起こして死ねるなら、それは本望だ。
そうして、村上遥香はおどけた仕草をしてみせて
「たっつぁんに見せたいものがあるんだ。だから、そこに行こう」
と言った。僕たちはそこに向かって歩いた。歩調を合わせて。

「たっちゃんがね、最初あたしに話かけてくれたでしょ」 
「うん」
「あの時、嬉しかったんだよ。何故だか分かる?」
「分からないなぁ。だってみんな村上に話しかけてくるし、僕なんかスクールカースト下位の人間に話かけられて、どうして嬉しいんだろ」
「自分を卑下しないで。自分に謝って」
「うん、ごめん、僕」
「何故嬉しかったかというとだね、みんなはあたしの表面だけを見て話かけてくるんだ。あたしのやっていることが面白いからとか、色々。でも、たっちゃんは、あたしの読んでいる本に何かしらの共感を覚えて話かけてきてくれたでしょ。それはつまり、あたしの内側に興味があって話かけてくれたってことなの。あたしはそれが嬉しかった。あたしの内側に興味を持ってくれた人は今まで誰もいなかった」
 僕はどうしてだか分からないけど、涙が出そうになって空を見上げた。
空には手で無造作にちぎったような雲がいくつもあった。
太陽はその雲から覗くようにして、僕達を照らしていた。
 しばらく歩いていると、村上遥香は立ち止まり、ある空地を指差した。
 その空地には、草が大いに茂っていて、何年も手入れをされていない状態だった。
 その空地の奥は竹藪になっている。竹藪を少し入っていくと、小さな山になっている。
 彼女はその空地に入り、草を搔き分けて進んでいく。僕も彼女に続いていった。草で皮膚が被れないか心配だった。彼女が草を搔き分けて進む度に、小さな虫がピョンピョンと跳ねまわり、何かこう、寒気と痒みを覚えた。
 そして竹藪に少し入っていく。竹は、乱雑に地面に刺さっているようだった。倒れている竹もいくつかある。ほとんどの竹は斜めに地面に突き刺さっている。地面は枯葉で埋まっていて、少し湿っていて滑りそうになる。
「これ」
 と彼女は枯葉に塗れた地面の中で、不自然に石が積まれている場所を指差す。
 彼女はその場でしゃがみこみ、大きい石を横にどかしていく。
 すると、大きい箱のようなものが出てきた。彼女はその箱を両手で持ち上げ、僕の方に向けた。
既に木が腐りかけていて、くすんでいて、ボロボロであったが、良く見ると、アンティーク風に作られた、木目がおしゃれなカギ付の木箱だった、留め具もレトロチックだ。
村上遥香はその箱を僕に渡してきたので、僕は受け取った。
「裏見て」
というので、木箱を裏返しにしてみた。その箱の裏には、後から誰かが鋭利な刃物で刻んだような文字が、こう入っていた。

『人の想像出来る全てのことは起こりうる現実』

「この箱は、一体何?」
と僕は村上遥香に問う。
村上遥香は立ち上がって遠くを見ながら言う。
「この空地と竹藪は10年も前からあるんだよ。たぶん、もっと前からある」
「あたしは、今のお父さんに引き取られてこっちに来た頃、よくこの竹藪に来て、店で万引きした玩具とかお菓子を持ち込んで、ここで、独りで食べたり、玩具で遊んだりした。あたしのお母さんは育児放棄をして、あたしが餓死しそうになっていたところを、近隣の人が児童相談所に通報して、あたしはそこから児童養護施設で暮らしていた。ある時、今のお父さんが来て、あたしを引き取ってくれたんだ」
 僕はどういう表情をしたらいいか分からなかったので、そのまま彼女を見上げながら話を聴いていた。
「お父さんは結婚してすぐにお母さんを癌で亡くしたんだって。だからあたしとお父さん二人で生活してる。お父さんが教会の仕事で忙しい時に、あたしは店で万引きして、ここで遊んでいたの」
風が吹き、村上遥香の綺麗な髪がたなびく。彼女は髪をかきあげた。
「ある時、いつものようにここに来てみると、この竹藪にその木箱が転がっていたの」
「そして木箱に鍵が付いていることに気付いた。木箱を振ると、ガタンガタンと音がする。大きめの何かが入っていることが分かる」
 僕は木箱を軽く振ってみた。するとガタン、ガタンと音が鳴った。
「あたしは、どうしたと思う?」
「無理矢理開けようとした?」
「そう考えたんだけど、開けるのをやめたの。諦めたんじゃなくて、やめたの。
 そして、この木箱を眺めて、その中身を空想した。その中身から出てきた物から、また物語が発展していくの。そういう空想をしていた。そうしたら、それだけで満足になった。 
あたしはそれから万引きをやめて、独りの時はいつもここに来て、しばらくこの箱を抱えたまま、ここで眠るの。あたしはそれで心が満たされて家に帰るの」
僕は両手で抱えた木箱をマジマジと見つめながら、木箱を優しくさすってみた。
「中身が気にならないの?」
「気になるよ。でも想像するだけで満足」
「たっちゃんにその箱あげるから、煮るなり焼くなり好きにしていいよ」
僕はえぉっと言ったような奇声をあげた。
「いいの?そんなに大切な物」
「いいよ。あげる。もう必要じゃなくなったから」
「なんで?」
「さ、帰ろ」
村上遥香は僕の質問には答えずに振り返って歩き出した。僕は急いで付いていく。
「そういや、たっちゃん青山高校行くんだって?」
村上遥香は、木の枝をブンブンと振り回しながら、草を搔き分けつつ、そう訊いてきた。  
「そうだよ、今の僕のレベルなら十分だし、それ以上目指そうとも思わないし」

「じゃぁ、あたしもそこ行こっかな。内申悪いけど、成績的には行けるし」
彼女は囁くように小さい声で言った。
「え!」
 と僕はそこから「どうして?」と言いたかったけど、言葉が続かなかった。

「じゃあまた明日ね」
 村上遥香はそのまま振り返りもせずに駆けていった。
 僕はそのまま帰路へと着いた。


「今日のハンバーグめっちゃ美味いね。いつもありがとう」
 と何気なく言いながら、モリモリとご飯を食べていると、母は驚いた顔を僕に見せていた。何故なら僕はそんなことを一度も言ったことが無いからである。

 ご飯を食べ終えた後、泥パックを顔に塗ったままの母が、皿を洗っている僕のところに来て、「おほほほ」と言いながら、お道化てみせた。
僕はなんだか、そこに愛を感じた。
 
 部屋に戻り、木箱を勉強机に置いた。工具箱に入っていたレンチを取り出し、木箱を左手で押さえ、右手に持ったレンチで、鍵の留め具の部分をおもいっきり叩いた。
 大きな音とともに、一度の衝撃で、鍵の留め具が壊れた。
 僕はしばらく木箱を眺めていた。

 僕は、木箱の隙間に指を入れて、少し力を入れた。
木箱は鈍い音とともに、軋ながら開いた。

人の想像出来ることは全て起こり得る現実

人の想像出来ることは全て起こり得る現実

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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