どっちかとういと、世界は絶対、愛

「どっちかっていうと、世界は絶対、愛」

人生、何をするかで決まってしまう。何をするかの前に、自分が何を出来るのかを知る必要がある。そんで、自分が何を出来るのかを知ったうえで、何をするかで人生は決まってしまう。なんか、儚いな、それって。今思いついただけのことを言ってるだけやねんけども。でも、たぶん、そんなもんじゃないかなぁ、人生って。　
いや、ほんまにそんなもんかな。人ってすぐに決めつけてしまうよな。でもさ、思うねんけど、ほぼ全てのことって「これだ」って言っても、それは一概には言えんことばっかりやないかな。でも、分かりたいから、分かったフリをしたいから、まるで一概かのように言ってしまうねん。
プライドや。俺知ってるねんぞっへへーって誇りたいねん。少なくとも俺はそうやで。でもさ、ソクラテス言うてたやんか。無知の知って。
自分が無知って言うことを知ってることによって、「俺、知ってるぞーへへーんだ」って思ってる人より優れてるってやつ。俺達、知ってることなんか、たかが知れてるやろ、ほんまに。身近なことでも全然知らん。　
テレビがなんで観れるのか、冷蔵庫がなんでキンキンに冷たいか、インターネットの仕組み、掃除機の吸引力、服がどうやって出来てるか。全然知らん。あろうことか、一番身近な自分のことも全然分かれへん。　
なんで目が見えてるか、なんで指が動くか、なんで考えることが出来るか、なんで生きてるか。なんで今こんなこと考えてるのか、全然分からんで。なんで生きてるかっていうことに対しては、牧師先生が、神様に創られて、神様に生かされて、神様に愛されてるからやで、って言ってたな。ほんまかな。ほんまやったらええな。だってそれって、優しいやん。俺はさ、中学の時にさ、俺はみんなと違う特別な人間やと思ってたんや。なんでそんなふうに思ったのかは分からん。溢れんばかりの自己顕示欲がそうさせたんやろうな。俺は何かで有名になるって信じて思い込んでたんや。アホやな、アホやろ、アホやで。
そんでさ、勉強せんようになった。たぶん、それがきっかけやったと思う。勉強頑張って、ええ高校いって、ええ大学入って、そんで就職してってそんなレールに敷かれた人生いややって。学校の勉強なんか意味無いって。良くある思春期の捻くれた思想や。そんでさ、過去のアインシュタインさんとかエジソンさんとか偉い人を例えを持ってきて、彼らは学校の勉強、全然せえへんかった。だから俺もせんでいいって思ったんや。　
まぁ彼らと俺の違いは、彼らは、ほんまに、底抜けに、好きで夢中になれるもんがあって、それを生涯やってたからこそ、やねんけど。
今思い返してみたら俺ってさ、ただ単に、色々な面倒臭いことから逃げたかっただけやねんな。あるロックバンドの歌でさ、色々なこと諦めて言い訳ばっかりして、責任から逃れとったら、自由はどんどん無くなるで、みたいなことを歌ってるねんけど、その通りやでほんま。面倒臭いことから逃げ続けてきたその結果どうなったかって言ったらさ、色んな可能性を台無しにしていくんや。俺が思春期の頃持ってた思想ってさ、天才にしか通用せえへんで。凡人がそんなん言っても堕ちていくばかりやって。笑うわ。ちなみに天才っていうのは、ある一つのことにおいて異常な程に情熱を持ち続ける人のことを言うねん。俺の中では。
過去に戻って自分に説教したいわ。でも頑固でプライド高いから、過去の自分は今の自分に何言われても聞く耳持たんやろうな。でも、俺は未来から来たお前やでって言って、それを過去の俺が信じたらこっちのもんや。頑固でプライド高いけど、やたらと純粋なところもあるからな。
まぁ、あん時ぁ俺は本気で特別な天才と信じてたからなぁ。でもほんまは今でも信じてるねん。急がば回れって言うやろ。勉強とか嫌なことを頑張ったやつが早く夢を達成することが出来るで。もちろん、それは夢を持っていたらの話で、夢持ってない奴はそのままサラリーマンなったらええんとちゃう。それでも嫌なことから逃げてきた奴らから見たら、指を加えるほど年収の差はでっかいで。年収だけが全てじゃないけどさ、でもさ、彼らは嫌なことから逃げんかったんや。
責任逃れで笑ってたら、それ相応の人生しか歩めんやろ。
例えばさ、俺は作家になりたいねん。もしもあん時、ちゃんと勉強して、それなりの高校卒業して、それなりにええとこの大学行くやろ。俺は文系やったからそっち系や。たぶん遅くてもその辺で、自分がどれだけ文章を書くのが好きか、そして、周囲の評価から、自分には文章を書くセンスがあると気付くんや。そうして、作家になろうと思ったはずやねん。ほんで、そういう系の大学に入ってるからさ、就職先も記者とかそういった文章系の所狙えるやろ。ほんで大学で文法も勉強して基本もバッチリや。新人賞とか出すやろ。すぐには受賞せんでも、文章系の職に就いてたらそこで文章磨けるし、コネやら何やらで道も開かれやすいやろ。ほらな。ええことばっかりやん。でも、今の俺みてみ。中学校では全く勉強せえへんから、高校も公立は成績悪すぎて何処も行かれへんようなってもうて、いや、ほんまは一番下の公立高校は行けてたんよ。　
でも『アホの八岡』って呼ばれていたような高校に行くのは俺のプライドが許さんかった。だから私立のアホの高校に行った。家、貧乏やのにも関わらず。
何の役にも立たんくて、むしろ自分を引っ張って不自由にするだけのプライドなんか捨ててしまえ。プライドが人を不自由にし、プライドが人を傷つけて、プライドが人を見下すんや。そんでもってプライドが自分を傷つける。アホやで、プライド。アホやろ、プライド。
私立の高校行ってもさ、勉強せえへんから全く付いていけんようなって、案の定、中退や。ほんまに親不孝もんやで。
その後、バイトしながら放蕩しつつ、何かを目指しては速攻で挫折するの繰り返しやで。気ぃ付いたら、精神安定剤と睡眠薬を大量に飲むという、今密かに流行りの処方薬ジャンキーになってもうてな。あれ飲むと酩酊状態になるんや。　
しかしながら、みなさんの強力な協力でのリハビリで、なんとか、かんとか、中毒から抜けることは出来たけど、いつの間にかもう３１歳ですわ。　
どない？色んな面倒臭いことから逃げてきた結果や。でも俺はこの辺で気付いたんよね。今まで自分は逃げてきたという事実に。現実に。リアルに。ほんまに。ギリギリ大丈夫。俺はこれからやで。見とき。絶対作家になったるねん。それしか無いって思ってる。俺、社会不適合者やから、サラリーマンは難しいわ。でも、だからこそ、作家やったらなれる。文章書くの、ごっつ楽しいで。下手の横好きでもないと思ってる。好きこそものの上手なれますわ。なれますよ。信じてるもん。
作家になるためには、どないしたらええか？って簡単や。書き続けたらええねん。諦めんかったらええねん。それだけや。シンプルやなぁ。でもシンプルなことっていうのは単純ってわけじゃないし、楽ってわけでもない。シンプルなことっていうのはごっつ難しいで。でも信じてやり続けることやな。自分を信じてあげんと。アルゼンチンの女優で、かつ政治家やったっていう、エペ・ヘロンって言う人が言っとった。
狂信的な思い込みがなければ、何も成し遂げることなんてできないわ。ってな。かっこええなぁ。イカすぜOK。
俺は物書きのために産まれてきた。神様はそのために俺を創ったんやっていう狂信的な思い込みや。俺はそう信じとる。妄信的にではなく、狂信的にな。ええやろ。何を信じようと。誰にも迷惑かけとらんねんから。まぁ、若干迷惑かけとるけどな。ははは。いや、ちゃうって、笑って済ませられるぐらいやで。そこまで倫理に欠けた人間ちゃうから安心して。昔は酷かったけど。
　それにしてもここのコーヒー美味いな。ええ感じでこじんまりとした喫茶店やなぁ。カウンターテーブルだけで、店員さんと客の距離がめっちゃ近いから、なんか親近感湧いて喋りやすくて雑談出来るねん。オーナーさんはそういう感じの喫茶店にしたかったんやろな、きっと。
コーヒー豆が透明な容器にズラっと並べてあって、コーヒー豆の香ばしい匂いが俺のふわんと漂い、俺の心は軽く、ダンシング。それにしても、コーヒー豆ってずっと嗅いでいたい匂いやな。脳ミソ気持ち良くなる。お姉さん、ここのコーヒー美味しいですね。お姉さんが淹れてくれたからかな。って店員の、今、コーヒーを作ってくれてはる、べっぴんお姉さんに声を掛けたら、お姉さん、ありがとうございますって目ぇ大きくして、身を捩って、素直に受け取って、嬉しそうに答えるお姉さん。ああ、お姉さん。俺はあんたに恋をした。この物語はこうして始まる。始まったらええな。純愛物語。ええやん。好きやでそういうの。好きやろ、そういうの。
俺、びっくりするぐらい簡単に恋するねん。なんでやろか。ちょっと頭おかしいほどに、簡単に。頭おかしいんかな。まぁええわ。そもそもそれは恋なんですかね。恋に恋してるだけなんとちゃうのかな。
コーヒーは美味いし、お姉さんは綺麗やし、言うことないわって言いながらハハって笑った。お姉さん、口抑えて恥ずかしそうに笑ってるやん。ごっつ可愛いなこのお姉さん。なんで女の子ってこんなに可愛いんやろか。太ってたら可愛ないけど。もちろん、太ってるほうが可愛いっていう人もおるで。俺は太ってたら可愛いとあんまし思わん。人それぞれやな。太ってるって言っても女のこの太ってるは当てにならん。痩せてるこでも太ってるとか言うやろ。いやいや、君が太ってるんやったら、拒食症ばりに痩せてるこで標準になってしまうよ。君の基準の痩せてるはミイラやろ。ミイラ見てみ。あんなんなりたいんか？ちゃうやろ。
嗚呼、それにしても、なんで俺はこんなすぐにトキメいて恋をしてしまうんやろか。不思議やなぁ。普通に街中歩いてても、２０人、若くてナウな女子を見ると、１５人ぐらいにトキメいてしまうし。いや、１５人は言い過ぎか。１０人ぐらいかな。今度、数えてみよか。それでも、その数は、やっぱりちょっと頭おかしいかな。おかしいよな。それとも３１歳やったらそれぐらいで健常かな。んなことないやろ。どっちでもええわ。でも、このコーヒーのお姉さんに対する胸のトキメキはそれとは違うはず。恋に恋してるんじゃなくて、お姉さんに恋をしてるはずなんや。お姉さん、おあいそ。
お姉さんは明るい可愛い声で、はーいって。その声だけで、モノクロからカラーへ一転するこの世界。俺はちょっとカッコつけて鮮やかに、スッと椅子から立ち上がった。そしてスマートに財布を取り出して、余計な動作を加えつつ、お姉さんに１０００円札を渡した。お姉さんはお釣りを渡してくれる。そん時に思った。お姉さん、俺のこと好きなんちゃうやろかって。何故かというと、お姉さんが俺の手に触れたからや。
しかも目ぇ合った。目ぇ合ったで。間違いないやろこれは。もう告白してしまおか。好きです。結婚を前提に付き合ってくださいって。さすがに好きです。結婚してください、やったら早すぎるから引くやろ。いや、分かってる。勘違いやろ。分かってるよ。でも半分信じてる。
半分勘違いって思いつつ、半分ほんまにそうかもって思ってる。半分半分、ハーフアンドハーフ、ヒフティヒフティやからええねん。これが完全に信じて、勘違いしてるとしてたら危ないで。立派なストーカーになってしまう。俺はまだストーカーになるには積極性と自意識過剰さが足りてない。足りてなくて良かったよ。今のままやと、頭が幸せな子、止まりやからね。
また来るわ、おおきにって後ろにクルッと振り向いて、歩きざまに手を挙げて立ち去る。かっこええやろ。お姉さんは後ろから、ありがとうございましたって。お姉さん、俺のこと、かっこええと思ったかな。俺のこの仕草の一つ一つ。俺のこのシャープな顔立ちとか、顎髭とか、スマートな体型とか、紫のジャケットとか。ダメ―ンジジーンズとか。ええ感じやと思うねんけど。ちょっと頬こけてるけど、でもそれがまたいいんやと思う。苦労してる感じで。全然苦労してへんけど。と鏡に映った自分を見ながら頬をさする。
この店、週に４～５回は来たろ。ええ店発見したわ。どっかでコーヒー飲んでから行きたいなと思ってさ、いつも自販機の缶コーヒーやったけど、なんとなく味気無くなってきたから、そしたらこんなええ店が駅近くにあったなんて。なんでもっと早いこと誰か教えてくれへんかったんやろか。お姉さんと結婚する。そう決意した１０月の朝。冗談やで。　
それにしても、ちょっと寒いな。俺がじゃなくて、今日の気候な。朝は寒くて、日が昇るにつれて次第に暑くなり、夜はちょっと寒い。そんな苛々する季節。何着たらええかわからへん。寒いか暑いかはっきりしてほしい。白か黒かはっきりして。昨日テレビ観とったら政治家が、前向きに善処しますやって。なんやねんそれ。イェスかノォかはっきりしてや。　ジャパニーズははっきりするのが嫌いやねん。ぼんみゃりしてるのが好きや。だから芥川龍之介も「ぼんやりとした不安」とか言って死んでったやろ。ぼんぼん、ぼんやり。ジパングの人々は視力０・０１の世界が好きやねん。ぼんやりとした世界やで。
でも俺はな、視力２・０か、盲目か、どっちかがええねん。どっちかにしてや。韓国の人はっきりしとるで。韓国人の友達で李さん言うのおるねんけどな、李さんを自宅に招いてご飯作ったった時あってんけど、李さん一口食べて「まっず！これ不味いワ！」って言ったんや。びっくりしたで。そんなん、ようゆわんやろ。あれはさすがに腹立ったけどな、でも韓国人好きやで。一回仲良くなったら一生の付き合いっていうぐらい絆が深いからな。よぉ、ブラザーみたいなノリやで。ええやろ。好きやでそういうの。なんて思いながら俺は駅に着き、定期券を改札のタッチパネルに堂々とタッチし、改札を通過する。それだけで、俺は偉い人になった気がする。幸せもんやろ。ええやろ。ええことばっかりや。
人生捨てたもんじゃないな。電車がちょうど来た。走れば間に合うかもしれん。当然、俺は走る。階段を二段飛ばしで降りる。二段飛ばしで昇るのは楽やけど、降りるのは中々難しい。　下手するとつまずいて転がり落ちる。一回、二段飛ばし失敗してつまずいて階段を、ごっついスピードで転がってるスーツのサラリーマン見たよ。でもさすが、スーツのサラリーマンやな。見事に下まで転がり終え、電車も走り去った後、何事も無かったかのように立ち上がって、そのままホームを歩いていって椅子に座って足組んでスマホいじってたよ。凄いわ。その威風堂々たる姿に心の中で賛辞を惜しまなかったよ。
内心がどうであれ、尊敬する。ブルーワーカーの俺には真似できひんで。俺はそんなサラリーマンの二の舞にならずに、最後まで階段を見事に駆け下りた。電車がもう閉まるとこやった。俺に気付いた車掌さんはドアを開けてくれた。ガタンガガッで忙しなくドアが開く。そして電車に駆け込んだ。えらいすんません。少しばかりの息の乱れを整え、空いてる席を探す。この電車はクロスシートか。どの空いてる席も片方に人が座ってるやないですか。こういう時、アメリカ人やったらお構いなく空いてる席の方にエクスキュースミとか言って座るんやけど、ここがジャパニーズの嫌なとこやな。なんか気まずいとか、遠慮みたいな思いで座られへん人、多いやろ。だから片方だけ席空いてるねんで。俺も一緒や。みんながみんな、そうってわけじゃないけどさ。そんで座ってるほうは座ってるほうで、隣に誰か座ってきたらちょっと嫌な気分になるやろ。俺はそうやで。みんながみんな、そうってわけじゃないで。
ちょっとまって、あ、奥の方にめっちゃ可愛い娘の隣が空いてる。あそこや。あそこに座ろう。俺は闊歩しながら、彼女の席まで行き、少し頭を下げ、出来るだけ格好良く席に座った。隣からシャンプーのええ匂いがしてきて、俺はクラッときた。俺、臭くないやろか。大丈夫かな。　
この娘、俺が横に座ってきたことに対して嫌な気ぃ起こしてへんやろか。それとも男前が横に座ってきて嬉しいわぁって思ってるやろか。それはないか。だって一瞥もくれてないしな。とかなんとか思ってると、横にいた娘は駅を降りた。俺は後２駅や。
景色でも眺めてみよか。家、家、工場、ガレージ、マンション、家、見渡す限り、住宅街。グラディーションがかった青白い空にはでっかい雲がドンと張り付いてる。逆方向走る電車がダララララッって容赦無い勢いで通り過ぎる。目ぇ痛い。そしてまた家、家、工場、ガレージ、マンション、家、見渡す限り、住宅街。景色、見ててもしゃーないわ。スマホでもイジってよ。みんなイジってるし。よぉ見たら、ほとんどみんなスマホをイジってる。凄いな。昔はみんな電車の中で何イジってたんかな。
覚えてないなぁ。なんて考えてると、長瀬駅に着く。大学前や。いつ来ても大学生がたくさんいてはる。俺は大学に行くわけじゃないで。　
大学、行きたかったけどな。キャンパスライフって人生で一番と言っていいほどの自由な雰囲気、あるやん。あぁ、勉強ちゃんとしてたらなぁ。それなりの大学行って。嗚呼、なんて後悔していてもしゃあないよな。この駅で降りる度に、俺の感情を逆なでして妬みの感情が沸き上がってくる。あかんあかん。しっかりと前向かんとあかん。あの時、ああしてたらとか、キリないし、意味無いし、価値無いし、時間の無駄やで。
改札から出ると、少し開けた空間が俺を癒してくれる。自転車がぎょうさん駐輪してある。すぐ前には商店街を入る門みたいなんがある。門には「まなびや通り」って書かれてるんやけど、どうなんかな、その名称。名前負けしてへんやろか。遊べると、こいっぱいあるで。バーとかあるやん。学ばれへんわ。酔っぱらいながら学べてか。酔拳か。このまなびや通りをずっと歩いていって、大学の入口付近には日本一安いゲーセンが２つあるんや。なんと１ゲーム３０円。その商店街から少し離れたところにはもっと安い、１ゲーム２０円っていうのがある。今でもあるか知らんけど、俺が１０代の頃の溜まり場やったなぁ。なんて思い出しながら踏切を渡り、線路沿いにずっと真っ直ぐ歩いていく。小鳥がチュチュチュンって言ってる。
ガタコトと電車がたまに通り過ぎる。お婆ちゃんが古びた家から出てきて植木鉢に埋めてる雑草みたいな花に水をやる。線路も家も植木鉢もお婆ちゃんも目に映る全部が所々錆びてる。だから俺は安心する。心が和む。全部新品やったら落ち着けへんわ。
しばらく歩いてると、老人ホームが見えてきて、その角を左に曲がる。線路を後ろに残して歩き続ける。しばらくすると、工場がチラホラと見えてきて、色んな金属を打ち付ける音とか、機械の音が聴こえてくる。この町の音や。東大阪が誇る音。
工場が４つほど連なっていて、そのうちの一番端っこにある工場に俺は無言で入っていく。おはよーございますーとバカでかい声であいさつすると、えげつない音を立てながら、超高速回転してるローラーの前に座って、黙々と研磨をしている吉田さんがピクッと反応して、おいーっす、幸太。おはようさん。とバカでかい声で応答し、赤いボタンを押す。　
ローラーの回転と、えげつない音が緩やかになっていき、いずれ止まる。　アホみたいな音も止む。静寂。とまでは言わんけど、静かになった。朝日が燦燦、おはようさん、と吉田さんは言いながら顔をタオルで拭く。暗くて汚くて誇りっぽい工場で吉田さんは朝から晩まで、７時から７時まで一人で研磨の仕事を黙々としてはる４０歳。ええ人や。
話がめっちゃおもろい。　俺は吉田さんの知り合いの内山牧師っていう牧師先生から、吉田さんの仕事を紹介してもらった。内山牧師は、牧師や。キリスト教の。青少年の更生の働きをしてはる偉い人や。昔は暴走族のリーダーをしてはったけど、少年院にて、お父さんから聖書を差し入れしてもらって、暇やからその聖書を読んでたら、感動して更生したらしい。漫画みたいな話やろ。でもほんまやで。
引き籠ってジャンキーで手がフルフル震えとった俺は、お兄ちゃんに面倒見てくれる牧師先生おるから、そこに行きなさいと言われて、教会に泊まらせてもらうことになって、そこで頑張って酒と薬から抜けだすことが出来たんや。そんでから内山牧師に仕事、ツテあるけど何処がええか。ゴミ屋か、解体屋か、引っ越し屋か、研磨か言われて、偉い顔広いなぁと思いつつ、研磨の工場は社長が一人でやってるって聞いて、それやったら人付き合い楽でええなと思て、研磨にすることにした。そうしてかれこれ半年。今日研磨するやつ、そこのパレットに置いてるから適当に休憩しながらやってってや。
と吉田さん。俺はアイアイサ―と言いながら奥の部屋にあるぶっ壊れたロッカールームにカバンを無理矢理押し込め、作業着に着替える。
　手袋してマスクして、準備完了。研磨機は二台あって、吉田さんが使ってる研磨機の隣の研磨機を俺はいつも使う。まぁ、二台しかないから当然やけど。サンドペーパーを８０番のやつに取り替えて、赤いボタンを押す、すると、研磨機がウゥゥゥゥと唸り声をあげながら、ものっ凄い勢いで回り始め、ヴォァンヴォァァァって叫んでる。そうして俺はパレットに置いてある、何かの部品が入っている容器を隣に持ってきて、その部品を一つ一つ、研磨機に当ててジジジッと削ってキレイキレイしていき、空の容器にポイポイと放り込んでいく。
　研磨機にあてる時の力の入れ具合が絶妙や。力入れ過ぎると品物が歪んでしまうし、力無さすぎると、角度がズレて線が入って綺麗にならへんし。吉田さんはこの道２０年の職人や。その腕は凄い。まず、部品を座ってる股のところにたくさん仕込んどいて、３つぐらい取り出して、両手で１つを研磨機に当てて、そして右に用意した空箱にポイっと入れる。そして残りの２つも同じ要領でスピーディにこなしていく。その動作１つ１つに寸分の狂いも無い。まるで機械のごとく正確なんや。めっちゃ早くて、しかもめっちゃ綺麗。どれ１つとして線が入ってなくて完璧。ビビるで、ほんま。
入ったばかりの頃、その腕前を見て「吉田さん凄いですね。まさに職人技ですねって絶賛したら、吉田さんは「こんなんいくら綺麗に出来たかって、何の価値もあらへん。中国なんかこの仕事、１人日給１５００円ぐらいでやらせるやろ。だからバンバン仕事取られるし、俺も色々言いくるめられて単価安くさせられるし。結局押しの強い口達者な奴が得するねん。技術なんか二の次や」と口を尖らせて嘆いてた。そういや、昔アカルイミライって言う映画で、主人公が雇ってもらってた、あるおっちゃんの仕事が粗大ゴミの中からテレビとか冷蔵庫とかそういう電化製品を拾ってきて、修理して治すリサイクル工場やねんけど、その仕事の腕前を誰かが「素晴らしい腕前ですねー。凄いですねー」と感嘆して褒めると、そのおっちゃんは「つまらいですよっこんな仕事ッ」と声を荒げて、マジギレしてた。同じような気持なんかなぁ、本物は認められんと、メッキもんが得をする世の中なんかなぁ、正直もんはバカを見るんかなぁ、でもメッキはいつか剥れるけど、ほんまもんはいつまで経っても剥れへんで。などと思いながら俺はひたすら研磨っていく。吉田さんのようにスピーディーに、リズミカルに、綺麗には出来ひんけど、自分なりに一生懸命やってるで。
　今研磨ってる部品は窓のサッシにはめ込む部品なんやけど、これは単価が１個４円。俺は５秒に１個出来る。ということは１分で１２個。１時間で７２０個。７２０×４は、２８８０円。俺の給料、時給９００円。ということは俺は１時間で２０００円の利益を生み出してるってことになるんかな？と考えると、この工場の役に立ってるんやと思ったらちょっと嬉しくなる。まてよ。でも材料費とか電気代とかもあるもんな。大丈夫かな、俺。役に立ってるやろか。もっと頑張って仕事早くなって役に立ちたいよな。俺はこれでもめっちゃ真面目で、一生懸命頑張ってるって褒められたんや。吉田さんが内山牧師に俺の働きぶりを報告してくれて、内山牧師が俺に「幸太めっちゃ真面目に頑張ってらしいやん」って褒めてもらえてん。エヘン。
俺はそのうち、歌を歌いながら研磨る。研磨機は凄まじい音で唸ってるから、俺の歌声もほとんど掻き消されるから、大丈夫。
俺はブルーハーツの「ロクデナシ」を歌いだす。最後まで歌い終わると次は「ロクデナシ２～ギター弾きに貸す部屋はなし～」を歌いだす。それが終わるとミッシェルガンエレファント、次にエレカシ、セックスピストルズ、グリーンデイ、マイウェイを歌う。英語の歌は適当や。歌い疲れた。仕事に集中しよ。
とかなんとかしていると、吉田さんが研磨機の音に負けんように声を張り上げて「幸田くん飯くおおうかああ」と僕の方を見ながら叫ぶ。僕は「わぁっかりましたあ」と口を大きく開けて叫ぶ。
口を大きく開けると、目も大きく見開いてしまうのはなんでやろ。とか思う。吉田さんと俺は汚い蛇口で手を洗う。最初、手洗わんと、ご飯を食べようとしたら、手ぇ洗わんの？」と言われて「僕不潔だから大丈夫です」て言ったら、「不潔なんはいいけど、鉄クズが付いてるやろ。鉄クズ食べたら痴呆症なるで」って言われて、そらかなわんわと思って、手を洗うようにした。脳ミソは大切にしなあかん。
　吉田さんがP箱を組み合わせて机とセッティングし、二人してカップラーメンとコンビニのお握りセットを机に並べる。
　吉田さんは片手鍋に沸かしたお湯（その中に、てんこ盛りのもやし）を持ってきて、自分と俺のカップラーメンにお湯を注ぎつつ、もやしを均等に分けてくれる。吉田さん、なんかまだこれ温いですよ、と俺が言ったら。ほんまや。めっちゃ温いやん。しゃあないな、やって。
しゃあないって、なんですか。まぁ、でも、確かにしゃあないけども。覆水盆に返らず。終わったことをいつまでも引きずってたらあかん。前に進まれへん。時間の無駄や。吉田さんはいつも昼飯中に面白い話をしてくれる。今日は小学、中学と同級生やった人の話やった。
菅原っていう同級生がおってんけどさ。そいつの家がめっちゃ貧乏でなぁ。小学校の時はソプラノリコーダーやろ。でも中学なったらアルトリコーダーになるやろ。でも菅原の家、貧乏やからアルトリコーダー買う金あらへんねん。菅原もそれを分かってたけど、取りあえず母ちゃんに言ってみることにしたんや。「母ちゃん、音楽の授業でアルトリコーダー使うから、買わなあかんねん」って。母ちゃんは困った顔しながらも「アルトリコーダーってどんなんや？」って聞き返すと、菅原は「今持ってるリコーダーよりも黒くて長いやつや」って。母ちゃんは「よっしゃ分かった」って言った。そして翌日、母ちゃんは粗大ゴミから拾ってきたアルトリコーダーが中に入ってると言い張る、ジェラルミンケースを菅原に渡したんや。菅原はこれ、絶対ちゃうやろって分かってたんやけど、母ちゃんのこと好きやったから、言われへんかってん。母ちゃんが可哀想と思って。
　そして、意を決して学校に持っていくことにした。ジェラルミンケースを手に持って。そんで音楽の授業、まず、みんなでアルトリコーダーを組み立てることになった。菅原はジェラルミンケースからアルトリコーダーらしき物を取り出して、組み立て始めるんやけど、みんなの奴と明らかに違うんや。ジェラルミンケースに入ってる時点で違うよな。
　なんか高級感溢れるし、めっちゃ複雑やで。菅原が無言で組み立てていると、先生が菅原に近寄ってきた。そして菅原の肩を叩き、言った。
「菅原君、それ、クラリネットや」
先生は沈痛な面持ちで首を振った。菅原は俯いたまんまやった。
そこまで言うと吉田さんは引き笑いで爆笑した。俺も笑った。
　なんでも菅原はめっちゃ悪いやつで、高校生の時には友達と一緒にカツアゲで日本全国を一周する旅をしようと計画して、実際に行ったらしい。広島辺りでパクられたんやって。結構行けたな。っていうか凄い発想力やなと感心する。感心したらあかんな、そんなん。
　ちなみにこの東大阪というケッタイな町は日本一カツアゲの多い町としても有名や。今はそんなことないやろうけど、昔はカツアゲされたこと無いやつなんかおらんかったんとちゃうかな。
吉田さんは俺が作家になることを応援してくれてる。そして俺の文才を認めてくれてる。というのも、吉田さんも昔、作家を目指してたからや。作家を目指してたゆうても、しょうもない駄文を連ねてただけちゃうのって思うけど、そうじゃない。吉田さん、何を思ったか最近SNSしだしてんけどさ、そのSNSの投稿の面白いこと面白いこと。なるほど、　
作家を真剣に目指していただけあるって思うほどその文章は光るもんがあった。この前なんか吉田さん、工場の隣にあるグラウンドで野球の試合してる中学生達を見ながら、フェンスにもたれかかり、遠い目をしてコーヒーを片手に「幸太君、作家になるの、頑張りや。応援してるで」って言ってくれた。なかなか郷愁が漂う感動する場面やったで。
　でもその後に「早く作家なってこんな仕事辞めて羽ばたいていきや」って言われたのにはちょっと胸が痛かった。吉田さんは東大阪の片隅の、誰の目にも止まらんような、この埃っぽい、古びて鉄クズだらけの汚れきった工場で朝から晩まで一人で窓のサッシの部品とか車の荷台をくくる部品とか、誰も気にせんような部品を研磨してるんや。
　誰にも認められず、褒められへん、日に当たらん孤独な仕事や。でも俺から見たら吉田さんはヒーローや。その腕前に惚れ惚れしてる。一流の腕前の職人さんっていうのはめっちゃかっこええ。
そしたら午後からも頑張ろかぁって欠伸しながら吉田さん。
俺達はテーブルセットを片付けて、赤いボタンを押して、再び研磨機の轟でこの世界は支配される。吉田さんの音の世界。
　俺は一心不乱に研磨する。それにしても、中々面白いでこの仕事。ずっとやってたら背中辺りがバキバキになってくるから、たまに背伸びとかせんと辛いけどさ。そんなこんなで休憩しつつも、吉田さんが１５時にいつものコンビニのコーヒーを奢ってもらいつつも（最近のコンビニのコーヒーって喫茶店のコーヒーよりも美味いよな）１６時５０分ぐらいになると、吉田さんがまたでっかい声で、幸田君、そろそろ終わろかあああって。研磨機のボタンを押して、辺りは静寂に包まれる（とまでは言わへんけど）
またこの世界に戻ってきたで。ほんまは９時から１７時までやのに、吉田さんはええ人や。１６時５０分ぐらでいつも声かけてくれて、それでいてちゃんと７時間分の給料をくれる。吉田さんはいつも自分から損をするような人や。しかも吉田さん、まだ仕事あるのに俺を駅まで送ってくれるねん。軽トラで吉田さん、駅まで送ってくれるんやけど、吉田さんの運転はちょっとばかし荒くて、しかも軽トラって凄いスピード感やな。ジェットコースターみていでちょっと怖いわ。でも俺、スピード狂やねん。昔良く友達にバイクとか車に乗っけてもらったけど「もっとスピード出せや」って仕切りに叫んでたからな。でも俺、免許取らんかったし、バイクも車も乗ったことない。免許取るのが面倒臭くて。免許取ってたら今頃峠で爆発して死んでたかも。
　吉田さんの車の中で、かなりしょうもない話をしてると、駅まで着いて俺はありがとうございました。お疲れさまでした。またよろしくお願いします、と言い、定期を改札口に悠々とタッチして駅のホームへと吸い込まれていく。今日は何を食べましょか。と考えながら電車に揺られること約５分。布施―布施でございます、と車掌さん。車掌さんってなんであんなにナヨッとした喋り方なんかな。
電車がバッと開いて俺はパッと降りる。改札をパッと出て、駅からパッと出ると、すぐに高架下。信号を渡る人々。俺は左にある、大きな商店街へと吸い込まれていく。ひゅるる。
　夕方の商店街、なんとなく疲れてる雰囲気が漂う。天井には光る看板がズラっと並び、目の前には店がゴチャッと並んでる。安価良品という看板を掲げた洋服屋さんなんかは、店から、そこまではみ出していいんですかっていうぐらい商店街の道路をはみ出して、服を並べてる。
しばらく歩くと、ピカピカと光ったスーパーが見えてくる。俺はスーパーの中に入り、今日の餌を選ぶ。弁当は嫌いや。なんでかって言うと、弁当ときたら、オカズが全部決まってる。俺は１つ１つ丁寧に自分で選びたいねん。エゴイストやねん。貪欲やねん。哀れなほど、人間やねん。
だから俺は惣菜を選ぶ。今日食べたいのはなんやろか。目で見てお腹に訊いていく。肉団子を見た時、俺の腹はグギュルと鳴った。これか、これが食べたいんか。ええやろ。食べさせたろ。俺は肉団子をカゴに放り込む。次に唐揚げが目に入った時、唐揚げに齧りつくと共にほとばしる肉汁が舌に絡まり、ジューシーな味わいが口の中に広がるのを妄想をし、唾がシュルルと出てきた。ええやろ。たんと食べなさい。唐揚げを放り込む。次は、エビチリ。エビチリの甘酸っぱいもんが、じゅわりと。よかよかー食べなはれ。エビチリを放り込む。
ちょっと待ち、野菜も食べなあかんで。好きなもんばっか食べてたら、ええ死に方せえへんよ。俺はマカロニサラダを放り込む。そして酒も飲もか。ワンカップの梅酒でええわ。梅酒も放り込む。
　こんなもんか。レジへと向かう。俺は自然とナウでヤングな女子の店員の方へと足が動く。磁石みたいやな。９５０円になりますと言われ、１０００円札を軽やかに渡す。店員さんを一瞥する。つぶらな瞳の店員さん、それなりに可愛いなどと勝手に評価を下す俺。まさか評価されてるとは思えへんやろな、この人。でもやっぱりドングリ目のコーヒーのお姉さんが一番可愛い。今頃、どうしてるんやろか。ありがとさん、と俺。店員さんはニコッと笑顔。お釣り渡してもらった時、手が触れた。俺のこと好きや。確定。でも俺にはコーヒーのお姉さんがおる。ごめんな。俺はそのスーパーから少し歩いていき、角のコンビニを曲がって、しばらく歩いていく。次第にチンケな住宅街へと色が染まっていく。夕焼けとようく似合ってる。目の前に見えてきたのが、お世辞にも綺麗とは言えない見た目のワンルームマンション。重いドアを開けると、照明の電球が事切れそうになっていて、最後の力を振り絞って点滅しとる。もう休ませてあげたって。８つのポストのうち３つのポストには大量のチラシが突っ込まれ溢れ返っている。２つのポストはガムテープが貼られていて、薄暗い玄関のドアのガラスにはヒビが入ってる。
さすが家賃２万５０００円。俺はこの自分の住んでいるマンションをミスターパーフェクトと呼んでいる。一階の一番奥が俺の宮。鍵をぶっ刺し、ガチャコンと開ける。もわっとした雰囲気が漂う。汚い部屋やな。　
なんてたって掃除をしたことがないからな。しもた。服洗濯機から出して干すの忘れてた。山積みの服からは生乾きの臭いが漂ってくる。もわんとしてるのは雰囲気だけじゃなかった。明日着る服もパンツもあらへんで。どうすんねん、今日の服とパンツのままで過ごすしかないやろ。しゃあない。済んだこと悔やんでもしゃあない。前進しなあかん。ご飯炊いて飯食おう。俺は炊飯器の横に置いてある米袋を手に取る。そして違和感。掴んだ瞬間米袋はカサっと音をして萎んでいく。おいまさか。嘘やろ。米袋に手を突っ込むと、俺の手は宙を彷徨う。米、あらへん。泣きッ面に蜂。嗚呼、しかし、冷蔵庫の上にカップラーメンが。地獄に仏。
カップラーメンをご飯にしてオカズを食べよか。心なしかちょっと贅沢になった気分もする。たらふく食べた後は梅酒飲んで、ほっと一息。
全部やり終わったみたいで気分ええわ。ちゃうちゃう。まだ終わってないで。明日のため、その１。書くべし、書くべし。俺はノートパソコンを開いて、デスクトップにある『タイトル未定』と書かれた小説をダブルクリックし、そうして空白のページに文章をバシバシと打ち込んでいく。俺の将来を左右する大切な作業や。１時間後、基本的に体力の無い俺はフラフラになる。もうやめよか。明日またしたらええやんか。　
程々が大事やで。否、違う。ブンブンと頭を振る。後２０分やろ。この後２０分やるっていうのが大事や。たまに汚い天井を見上げつつ、アイデアが降ってくるのを待ち、振ってきたらまたバシバシと打つ。
よし、頑張った。シャワーに入り、万年床に転がりながらスマホをイジり倒す。そうしてると、いつの間にか、いつも意識が無くなっとるわ。けったいな意識やで。

――アラームっちゅーのは、ほんまに耳障りやで。まあ、それが彼らの役割なんやろうけどさ。可愛そうやな。みんなに嫌われてボンボン殴られて。でも、アラーム無かったらみんな困るのに。嫌われ役を買って出るのは偉いもんや。俳優さんとかで悪者役やる人は偉いわ。聞いた話やけど、悪者役で有名なある俳優さんは、街中で罵詈雑言浴びせられたこともあるらしいよ。それはちょっと、罵倒した奴、考えが浅はか過ぎるやろ。
君、悪役がおらんとその映画は成り立たんし、その俳優さんは演技してるだけでなんも悪いことしてへんがな。むしろ盛り上げて楽しませてくれてると言うのに。子供やあるまいし、そのぐらい分かるやろ。いや、子供が罵倒するんかな？などと思いながら、アラームが鳴り響くスマホを殴り飛ばした後、布団の中で微睡みつつ、転がる俺。
あかん。はよ起きな。喫茶店行く時間が無くなる。お姉さんに会わなあかんねん。お姉さんが待ってる。俺は恋の力で起き上がる。異性を思う力ってごっついよな。初めてのデートの待ち合わせとか２時間ぐらい早く待ち合わせ場所に到着したりしてな。最近観たニュースでは、女の子のパンツ見たいがあまり、朝４時ぐらいから商店街の排水溝の中に潜り込んでスカートの中を見ていたらしい。捕まった時、取り調べで「次生まれ変わる時は道になりたい」って言ったらしい。名言誕生。
これはエロの力やけど、異性を想うということに関しては変わりないよな。今の俺の力はエロの力やないで。純愛の力や。似て非なる者や。
俺は起き上がり、一番かっこええジーンズに履き替える。作業着を鞄に詰めて、外に出る。ドアを開けてすぐに視界に入ってくるのは、透明な容器に入ったあらゆるジャンルのコーヒー豆と、その透明容器を透かして見えるコーヒーのお姉さんの笑顔。いらっしゃいませぇと容器を通して陽気なお姉さんの声。お姉さん、俺を観て、昨日の俺を思い出したのか、クスっと笑う。俺はクールに手を軽く挙げ、まいど、と言った。
お姉さんの笑顔とお姉さんのコーヒーを飲みに来たで、と言いながら、俺は椅子に座る。カウンター越しのお姉さん、ありがとうございますと言って、スマイル。プライスレス。生きててよかった。俺もニカッと笑ってみる。でも俺、あんまし歯ぁ見せたくないねんな。お姉さんみたいな白い歯と違って、昔ヘビースモーカーやったせいで黄ばんでるし、それに歯並び悪いし。コーヒーのお姉さん、俺の歯ぁ観て萎えへんかな。大丈夫かな。俺はカウンターに置いてあるメニューを取り、睨めっこする。コーヒーが自慢なだけに、コーヒーの種類がめっちゃ豊富や。何したらええんやろか。悩む。俺はコーヒーのお姉さんに全てを託すことにした。伊達にコーヒーのお姉さんやあらへんからな。お姉さんのオススメはなんですか？え、オススメですか。うーんと人差し指を顎に当てて天井を睨むお姉さん。可愛い。俺と結婚しよう。幸せにする。どんなのが好きですか？とお姉さん。お姉さんの好きなやつが好きとほざく俺。お客さん、ほんまに口上手ですね、とお姉さん。思ったことばっかり口に出る病気やねん、と俺。またぁとお姉さん。叩くフリ。
「あたしは、グァテマラが好き。香りが甘くて酸味が上品で、芳醇な風味がありますよ」
「じゃぁそのグアマラテで」
「グァテマラですね。分かりました」とやんわりと訂正される。
お姉さんはコーヒーの豆を救う用のスプーンみたいなやつでグァテマラの豆を取り出し、正確に測り、そして、コーヒーの豆を挽くであろう機械に豆を入れるみたいなことをやってる。機械はガシャコンガシャコンと上品な音を立てて、豆を挽いていく。吉田さんとこの機械の音とはえらい違いやな。お姉さんの音の世界。良く見えんけど、次にお湯を何かの物体に流しこんでる。トクトクトクとお湯の注がれる音が耳に心地よい。その一連の動作が慣れた手つきでコーヒーのお姉さんはまるで、コーヒー界の天使のようやった。もしかしたら、そうかもしれん。そうかもしれんっていうか、絶対そうやろ。はい、おまちどうさまと言い、グアマラテコーヒーが並々と注がれたカップが俺の目の前にやってくる。
おおきにと言い、俺は香ばしい香りを目一杯吸う。そうしてから、コップを震える手で持ち上げて、ズズッと啜る。どうですか？と首を少し傾けてコーヒーのお姉さん。俺は、んんっと呻き、うまっと小声で叫んだ。ほんまですかと口を抑えて笑うコーヒーのお姉さん。昨日飲んだコーヒーよりか全然美味しいで。俺、お姉さんと感性似てるんかもしれへんなぁと言いながら、テーブルに両腕を交差して枕変わりにうつ向きながら、顔だけを横に向けてコーヒーのお姉さんの方を薄めで見つめる。
そうやってコーヒーのお姉さんとエデンの園で楽しんだ後に、俺は鉄くずと埃っぽい工場へと急ぐ。エデンの園で長居しすぎたせいで遅刻しそうや。でも吉田さん、めっちゃ適当やから、例え遅刻しても「遅刻しましたすんません」って言うと、「ん？あぁ、そっか。気にしやんでええで、そんなん」って遅刻したっていう事実さえ気付いてない。
いつものごとく駅で降りると、車掌さんがタラップをセットして、車イスの青年を押してあげている。そうして青年はホームに降り、そして車掌さんと青年は別々の道を歩き始める。まるで何事も無かったかのように。そこには生命と生命の交わりなんてまるで無かったかのように。その辺の石を拾って捨てるかのごとく。
なんや、なんでや。車掌さん「はいどうぞ」ぐらい言ったらいいのに。青年は「ありがとうございます」ぐらい言ったらいいやん。無言で別れるの？マジか。マジかー。そうして、朝日を浴びながら工場までの道程を歩いていると、酒屋の前を通り過ぎようとした時、ふと足元を見ると犬がおる。それもダックスフンド。うおっなんでこんなとこにと思ってダックスフンドを避けると、そのダックスフンドの肛門から、体の中身から不自然に排出してしまった赤い臓のような物体がヌメっと出ているのが見えた。思わずひえっという叫び声が喉元まで出てきた。俺の心は一瞬にして真っ黒に覆われた。　
脱腸してはる。犬は脱腸しながら震えている。何度も脱腸してる。すぐそばに酒屋のおばちゃんがせっせと黄色いビールケースの箱を運び、酒屋からはボブ・マーレーの陽気な音楽が流れ、素晴らしい天候に恵まれ、そして犬は脱腸し、軽く痙攣しながら悲壮漂う表情でウロウロをしている。おばちゃんは気付いていないのか。おばちゃんの犬かと思ったが、首輪をしていない。出した結論は、気持ち悪い病気になったから飼い主が捨てたということや。えげつない世界に産まれたもんやで。俺は通り過ぎつつも、２度見、３度見を繰り返して、今、自分に出来ることを賢明に考えた。しかし、思いつかなくて、おばちゃんがきっと今すぐにでも気付いてなんらかの対処してくれるんじゃないかと、おばちゃんに全責任を押し付け、委ね、そのまま通り過ぎた。俺は心の中で言い訳を考える。つい２日前、仕事を風邪で休んだばかりやし、遅刻するわけにもいかんし、動物病院連れて行けばいいんやけども、足も無いし。
でも、その建前の言い訳は全部、面倒臭いことをしたくないという本音の前で全て掻き消された。俺に足りなかったのは、他ならぬ、愛。
車掌さんと車いすのお兄さんに対して批判なんか言える立場やあらへん。一緒や。でも俺には情がある分、もしも次、同じ場面を観た時は必ず助けるという思いがある分、彼らとは根本的に違う。と思ったけど、それもやっぱし言い訳や。違うことあらへん。結局同じことしてるもん。

俺は吉田さんに朝来る前に観たショックな出来事を話した。
まず、犬のこと。そしたら、なんもせえへんかった自分を責めてる俺に向かって吉田さんは、そんなんしゃーないって。幸太君、悪くあらへん。悪いのは飼い主やろ。次は無視せえへんって決めただけでもめっちゃ偉いやん。普通やったら大体みんな次も無視するよ。決意もせえへん。だってみんな、自分だけで精一杯やからな。心ある証拠やで。
そして次に、車掌さんと青年の話をして、俺は、観て見ぬふりした自分がこんなこと言うんも、お門違いかもしれへんけど、聖書に愛の無い冷え切った時代が訪れるって書いてたんですけど、それって今の時代のことなんですかね。それとも昔から変わってないんですかね。でも、良く今時のおっちゃんとかは、昔はもっと情があったって言いますよ、と吉田さんに問うた。吉田さんは首を傾げて、それはどうかなぁ。みんな昔を美化する傾向にあるからなやってさ。　
なるほど。そん時、俺は、何千年前のエジプトの象形文字には『近頃の若い者は』と書かれているという話を思い出した。昔から変わらず、愛は冷え切ってるんや。聖書の伝道者の書っていうところには今あることは昔あったこと。新しいものは一つも無いと書いている。他の箇所には、義人はいない。一人もいない、とも書いている。五十歩百歩や。みんな、いっぱいいっぱいやねん。なんでかっていったら、みんなパーフェクトちゃうから。
おっしゃあ。終わろか、と吉田さん。吉田さん、まだ１６時３０分ですよって言うと、明日休みやからサービスやサービスって、どんなサービスやねん。俺はスーパー行って惣菜と米買って、それらを口の中に掻きこんで、それはおそらく、胃の中へ行って厠で出されて、休日前のダブルサービスということで、焼き鳥の皮とつくねとビール２本を飲んだ。焼き鳥の皮を食べている時、その感触から脱腸した犬を思い出し、少しえずき、そして寝た。
寝たらすぐに土曜日や。土曜日。休日の俺は、いつも通り、朝７時に目が覚めるけど、今日は休日やって満面の笑みを浮かべながらそのまま再度夢の中へと足を運ぶ。そうして次にリアルに戻ってきた時には、朝遅くの９時。まだええやろってもっかい夢の世界へ。ええかげんにしときやって夢の世界から追い出されて１０時。そろそろ起きよかって起きて、この後、いつもやったら何しよかって考えるとこやけど、コーヒーのお姉さんに逢いにいこってすぐに閃く。
喫茶店のドアを開けるとそこにはコーヒー豆の透明な容器を透かして見えるのは、髭の生えた白髪のコーヒーの……お爺ちゃんや。ナルホド、今日はコーヒーのお姉さん休みか。土日は休みやねんな。
入って帰るのもなんやから取り敢えず座る。いっらっしゃいませとコーヒーのオジサマ。オーナーさんかな。
時間もあることやし、俺はモーニングセットAを注文する。コーヒーはもちろんグアマラテや。コーヒーのお祖父様は慣れた手つきで一連の動作を施し、サンドイッチを丁寧に、几帳面に、それでいて敏速に作り、しばらく後、俺の目の前にサンドイッチとグアマラテが置かれる。湯煙が俺の目の前にほんのりと立ち込める。それと同時に、ほんのりと、グアマラテ。いつものお姉さんは今日休みですかと訊いてみる。もしかしたらお父さんかもしれへんな。コーヒーのお爺様、こっちをピクッと向いて、年季の入ったメガネを少しズラし、そうですよ、と紳士の笑みを見せるコーヒーのお爺様。あの綺麗なお姉さんはバイトですか？訊くと、お祖父様はええ、そうです。３年前から働いている看板娘です。　
彼女が働き出してからお客さん増えましたよ。ハハ。とのこと。そら増えるやろ。俺みたいなブルーワーカーの勘違い男がこぞってお姉さんに癒されにくるねん。そんで告白してフられていくねん。アホやなぁ。夢見過ぎやで。勘違いもええとこや。
ズズッとグアマラテを啜り、そしてサンドイッチをパクっとはむはむ。美味いがな、サンドイッチ。卵たっぷり入れてくれてはるし、生地が薄い分、ボリューミー感が増してるで。美味い。こら美味いわ。コーヒーのお姉さんに作ってもらいたいなぁ。その為にはもうちょっと早起きせなあかんなぁ。店内にはベートーベンの田園が流れてる。休日の朝にピッタリの曲や。なんで休日の朝かというと、俺の親父が休日の朝に、いつもこのベートーベンの田園を聴きながら、ワイン片手にソファーに沈んでたから。親父はインテリ気取りや。高校の頃は文学青年やったし。　
真空管剥き出しの骨董品みたいなレコード機器でベートーベンを聴きながら優雅にワイングラスを廻してたわ。俺はその親父の膝の上にちょこんと乗って一緒に田園聴いてた。　俺の少年時代の思い出。小２の時におかんと離婚してからは会ってない。別にどうでもええけど、あんな親父。好きなことばっかりやってるわ。
俺は久しぶりに満足な朝食を食べ終え、グアマラテを一口一口紳士に味わい（さすがインテリ親父の血ぃ引いてるだけある）優雅な休日を過ごした。店長と他のお客さんがなんか喋ってるけど、よう分からん。店長が東京へ出張へ行って、そこで色々学んだってことを喋って、それについて、へぇーそうでっかー。なんとかかんとかですなーってお客さんが言ってた。俺はお姉さんのこと考えてたから、凄くどうでも良かった。
店長、おおきに。おあいそして。肉体的にも精神的にも満腹感を覚え、久しぶりに良い休日を過ごせそうな雰囲気になってきたなぁ。
朝の太陽は大らかな光でこの町を照らしてくれる。そして俺の肉体と俺の心も。ええ感じやで。何処行く？何する？なんでも出来るで。一陣の風が俺にこう、語り掛ける。お前は今、圧倒的な程に自由や。
全ての義務から解放された俺は、本当にやりたいことを今からやろう。自由を勝ち取る革命で殉死した者達の追悼も兼ねて。
　俺は家に帰り、スマホをイジりながら、気が付いたら夢の中へまた旅立っていた。今、内山牧師から学んでる聖書にこんなことが書かれているのを思い出した。『しばらく眠り、しばらく微睡み、しばらく手をこまねいて、また休む』俺の休日はまさにその通りとなっていた。これが俺の本当にやりたかったことか？否、違う。俺は今快楽の奴隷になっているだけや。さっき俺が読んだ聖書の一カ所は、３０００年前のソロモンさんという栄華を極めた王様が書いた箴言という所から引用したもんやけど、このソロモンさんっていう王様は世界一の知恵を神様から頂いた王様やった。
　箴言というのは基本的に罪を避ける賢い人と、罪の奴隷となる、愚かな人の結果が描かれている。しばらく眠り、しばらく微睡み、しばらく手をこまねいてまた休む。その次には『だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る』って書かれてる。ほんま、そのまんま、俺のことやで。でもな、ソロモンっていう王様は１０００人の女をはべらかして、快楽の限りを尽くした王様なんや。それはつまり快楽の奴隷になってるってこと。その結果ソロモンさんは「全てが虚しい」と呟いた。世界一の知恵を持ってるソロモンさんでも、罪には勝たれへんかってんで。えらいこっちゃな話やで。俺は作家になりたいから、小説を書くことが今一番やりたいことや。あかん。分かってんねんけど、ちょっとダラダラしたいねん。ええやろ。今日ぐらい。次の休日ん時には頑張るからさ。赦してや。
　そうして、なんだかんだで夜になってくると後悔するねん。嗚呼、時間無駄にしたなぁって。自由を勝ち取るために殉死した人達は、こんなことを僕達にさせたいために死んだんとちゃうやろ。やっぱし頑張って小説書いたら良かった。学習せえへんなぁ。
腹減ったでーって腹があいさつしてきよるから、時計を見ると１９時になってた。太陽の光を浴びたのは結局朝だけやったな。そんじゃあ、ラーメン食べにいこ。そしてその次に御馴染みのバーへ行こ。俺は布施の商店街にある点龍っていうラーメン屋へ向かった。店長も店員も中国人の店や。さすが中国４０００年の味。なかなか美味いで。ズズズと音を立てながら、ラーメンを頬張る。中国の人達は、なんか知らんけどスピードがやたら速い。物凄いスピードで調理してはるわ。
　俺は「おあいそ」と言って席を立ち、７００円払い、そして近鉄電車へ飛び乗る午後２０時。辺りは次第に享楽な夜の色に染まり初め、酒池肉林の罪な時間が始まろうとしている。鶴橋で降りる。降りてすぐに焼肉の香ばしい臭いが立ち込める。唯一、四六時中、焼肉の臭いがする駅や。そうして環状線に飛び乗る。目指すは京橋。グランシャトーに行くんやないで。カタルシスっていう場末のバーに行くんやで。知らんやろ。６０年代から９０年代までのロックミュージックがひたすら流れてて、ドリンクがオール２００円という破格の値段で提供してるロックバー、カタルシスで酒を呑みながら、そこに集う常連たちとしょーもない話に華を咲かせることが俺の休日のメインイベント。
ゲーセンやパチンコ、頻繁に通る電車の騒音でやかましく鳴り響く。なんか大阪って街はとにかく喧しいな。今気付いた。ラーメン屋、串カツ、居酒屋等のB級料理の店がところどころにあり、上を見上げればチカチカと眩しく、不健康に輝くパチンコの看板。ゴチャゴチャとした狭い通りを歩いていく。女性の客引きが目立つ駅前や。そこの左側にある「梅通り」と書かれた、狭い商店街へと入っていく。両側には金券ショップ、回転寿司、パチンコ、コンビニ、居酒屋、そして焼肉屋が見えたところで十字路になっていて、そこを左に曲がり、立ち食いソバと居酒屋を通り過ぎ、しばらく歩く。しだいに風俗街へと景色は変わっていく。そこも更に通り過ぎ、店がまばらになってきた辺りの、商店街のちょうど終わる一歩手前に、場末中の場末のバー、カタルシスは何食わぬ顔でポツンと、それでいて威風堂々と構えてはる。
まるで京橋が始まる前から、否、この世が始まる前から在ったかのような態度で。
コンクリートの壁を真っ赤に塗りたくり、店の隣は古びた空き店舗となっていて、ヒップホップ調のスプレーでシャーっとやった英語の放送禁止用語の数々。一見入口なのか、よう分からん木製のドアを引くと、ギシギシという軋む音とともに、中に入ることが出来る。中に入るとすぐに酒や調味料類がズラっと並んだカウンターに、店長の姿が見える。カウンターのすぐ上には黒板にチョークで店のメニューが掛かれている。曲がったカウンターテーブルにカウンターチェアが５席。奥に４人掛けのソファー席がある。天井は配管が剥き出しや。店長が言うにはそっちのほうが味があるし、しかも金がかからないからそうしてるとのことやけど、絶対、本音は面倒臭いからやで。オシャレでそうしてるんやったらええけども、面倒くさいからそうしてるってのが見え見え。だってなんか、汚らしいだけやもん。
幸太君、いらっしゃい、とカクテルをシェイクしてるロンゲの店長。店には既に客が３人。みんな常連や。新聞配達員、２７歳で金髪の圭吾、キャバ嬢の絵里、テキ屋の安井さん。店内にはGreen Day – Minorityが流れてる。ええ感じや。
このカタルシスではおもろい遊びがある。それは、誰かが実際に自分が体験した話をするねん。そんでその話が面白かったら、「めっちゃおもろい！」って思ったやつが１杯でも１００杯でも何杯でも、好きなだけ酒を奢るっていうシステム。いつの間にか常連の間で出来た遊びです。適当に話しとっておもろいって思ったら酒奢るだけや。決まりもなんもあらへん。
　俺はカウンターチェアに腰かけ、店長、いつもの頼んますわ。と言うと、店長はイエッサーと言う。俺が最初に飲むのは必ずテキーラコークって決まってる。理由は特に無いけど。理由は特に無いけど決めてることって、なんか好きやわ。分かるかな、この気持ち。分かるやろ。せやろ。店長はカウンターテーブルにシェーカーのボディーを置き、テキーラとコーラを手際よく入れ、そして氷をボディーの上の線をやや超えた辺りまで入れる。ストレーナーを奥の方から被せ、左手をかぶせ、力が入る。右手でさらにぎゅっと押さえつけ、手槌で叩き、トップを被せ、スタイリッシュに降り始める。
ちょっと前に、「バーテンってあれやろ。モテるやろ。かっこええし」と店長に言うと、店長は「モテへんで。でも酒のあるところには女も付きものやからそういった意味ではモテるかもな」と言う。モテるんか、モテへんのか、ようわからん発言やな。ぼんみゃりとしてるわ。
新聞配達はモテるでって横におる圭吾が笑いながら言う。もう結構出来上がってるけど、いつからおるんやろ。
少し前に、いや、結構前やったかなぁ、俺は自分の体験した夢の話をした。その時は雨振っててんけど、店内は色んな所が薄いから雨の音が良く聴こえる、土曜日の夜中やった。　俺、おもろい話あんねん、って俺はタバコの煙を吐き出しながら軽く手を挙げた。俺はタバコを灰皿に乱暴に捻りつぶすようにして消してから語りだす。
「昨日見た夢の話なんやけどさ」って言ったら、すぐに絵里が「人の夢ほどつまらん話は無いって言うけど」って言って、俺はちょぉ、ちゃんと聴いてやと泣きそうな声をする。そして俺はまた喋り出す。
昨日の夜、寝苦しくてな。中々寝れんかった。微睡むまでは行くねんけど、最後まで意識が無くならん感じ。でも何時間かしたらやっと眠れた。そんで気ぃ付いたら夢の中。その夢の中っていうのがさ、俺が中学時代の頃やってん。俺が中学の頃の、ある時の記憶やねん。
中学に入学したばっかりの頃で、俺はテニス部に入って１週間ぐらいやった。まだボール拾いしかさせてもらわれへん頃。で、その日、昼休みにふと気が付くと、俺の新品のテニスラケットが無くなっててん。いつも机の横に置いてたのに。あれ？おかしいなぁ。何処やってんやろと思いつつ弁当食ってたら、同じクラスの奴が、俺に近づいてきて、物凄く申し訳なさそうな顔して俺のテニスラケットを差し出してきた。泥に塗れてボロボロになったテニスラケットを。ショックやったで。俺の家貧乏やったのにも関わらず、おかんが買ってくれてん。なんか、おかんに泥塗られたような不思議な屈辱感を味わった。それで俺はそいつを殺そうと思ったんや。でも、今目の前におるこいつがやったんちゃうっていうのが分かった。そいつはそんなことするような奴じゃないし、めっちゃ申し訳なさそうにしてたから。だから俺が「これ誰がやったんや？」て震える声で聴いた。するとそいつは「俺は全然知らんで、ただ、中田がこれ幸太に返してといてって言ったから」って。中田は茶髪の不良やった。なんでそいつがこんなことをしたのかと考えたら、そういえば昨日、廊下であいつが前から歩いてきて鉢合わせになったけど、こっちは譲る気が無かったし、あいつも譲る気が無くて、そして肩がぶつかって、そのままお互い通り過ぎた。その報復でやったんやということが分かった。なんにしろ俺は殺す、と堅く誓った。
そんで、しばらくして、あれ？なんかこれ、前にも一回見たことあるなぁってデジャブってやつ。そんで、しばらくして気が付いた。あ、これ確かに前もあったって。デジャブじゃなくて、確かにあったんよ。
そうしてこれが夢やって気付いた。今でも良く覚えてる。俺の人生の分岐点でもあった出来事や。俺はこの後自分がどうするのかも知ってた。
この後、教室に帰ってきて自分の席に着いた中田を後ろからこのテニスラケットで容赦なくぶちのめしたんや。椅子からぶっ倒れた中田を何度も殴りまくったんよ。みんなが止めるまで。気絶はしたけど、あいにく死なんかったし、全治何週間かそんぐらいで大した怪我にもならんかったから、警察沙汰までいかんかったけど、俺はその日からクラスの中で浮きまくってさ。誰も俺のこと怖がって話かけてけえへん。
「そら怖いわ」とテキヤの安井さんが肩を竦めて酒をクイッと飲む。
それから俺はグレ初めて、それをきっかけにテニス部を辞めて。学校もサボり気味になっていた。思えばあの時のアレがきっかけで、俺はどんどん落ちぶれていったんやなぁって。そう思って、じゃあもしあの時、違う選択をしていれば、今と違う人生歩んでたんとちゃうかって。そう思ったら、みんなやったらどうするよ？今の自分にならない分岐点があると知ったら、どうする？あたしやったらぜっ　たいに違う道を選ぶって絵里は『ぜ』の後の『た』に移るまで、不自然なほどにまで間を置き、見えないし聴こえないが、確かに存在するであろう小さい『つ』をたくさん羅列して言った。　
せやろ。俺も同じや。もしかしたら、これは、夢じゃなくてほんまに過去に戻ったんかもしれんと思ってさ、絶好のチャンスやと思て、俺はテニスラケットを綺麗に洗って、なんとかグッと抑えたんや。そしてその日はそれで終わって早送りみたいになって、そしたら次はテニス部で頑張ってるとこやってんけどさ、そこで俺は急にテニス部の先輩に殴りかかってん。そっから乱闘騒ぎ。そうしてテニス部辞めて、どんどん時が進んでいくと、しまいには結局自分の歩んでた道と全く同じ道を歩み始めてんねん。それで、最後は、精神安定剤と睡眠薬を酒と一緒に乱用してラリってるとこで目が覚めてん。目ぇほんまに覚めたわけじゃない。
まだ夢の中やった。俺のすぐ目の前に、なんかおかしいぐらい真っ黄色の、この世とは思えへんほどの原色の枕が不自然に立ってるねん。その時悟ったっていうか、なんか知ってるねん。この枕を倒したら、また違う場面に連れていってくれて、チャンスくれるんやって。俺と俺だけが知っている法則みたいなもんやな。
倒したら案の定、また違う場面や。次は高校の受験でさ、俺は受験めんどいし、公立の高校は一番下のアホの高校しか無くて、そこはプライドで行きたくなかったから、今の成績で充分いける更にもう１ランク下の私立の高校行くことに決めんねんけど、もしあの時先生が言うように、もう１ランク上のとこ目指しとったら、高校中退せんで、楽しく高校生活過ごしてたんちゃうかってな。そんでもちろん、１ランク上目指すねん。そこでまた時がギューンってなって、１ランク上の高校合格すんねんけど、結局、高校は今と同じ理由で辞めてまうねん。そしてまたいつの間にか今と同じ道に合流し始める。なんや、結局、こうなるんが決まってるんかって分かってくるんよね。でもまた夢から覚めた夢に来ると、諦めつかんくて真っ黄色の枕を倒すねん。まるで倒してくれっと枕も叫んでるようやった。でも何回やっても同じ。何回も繰り返したみたいやで。詳細は覚えてないけどさ。いや、詳細なんて無かったと思う。夢やし。
最後さ、小学生の時に作文コンクールかなんかで受賞したことをきっかけに作家を目指そう思うねんけど、そのことを親父に言ったら「それは難しいんじゃないかな」って鼻で笑われて、その時に恥ずかしい気持ちになって諦めるねん。あの時、もしも諦めんかったら？っていう選択肢や。でもな、もう何回も繰り返して、結局元の今に戻ってたから、もうええわと思って、そこで俺は完全に諦めて、夢から覚めよ思ってん。俺は夢の中で夢やと気付いた時に、夢から覚める方法を知ってた。それは目をぎゅうって瞑って、全身に力を入れるんや。
そうしたら即効で目ぇ覚めるで。俺だけかもしれんし、誰でもそうかもしれん。試してみ。そうして、俺は目が覚めた。なんか汗をびっしょりかいてたわ。俺はなんか笑えてきて、１人で笑っとったわ。まぁ、そんぐらいで終わり。俺は、はぁ、喋り疲れたわとため息を吐く。
みんなちょっとの間沈黙してから、考えさせられる話やなぁ楽しかったで。今日は俺が全部奢ったるって大きい声で言って俺の背中を叩く安井さん。俺はありがとうございますとヘラヘラと笑ってた。
「ちょっと待って。最後の夢、途中で終わったんでしょ。じゃあ、今から夢の続き、見たらどうだい。それはきっと、過去を振り返っててもしょうがない。前に進みなさいっていう合図だよ。作家目指して頑張りなさいってことだよ。幸太君」
と店長は結構熱くなって言うと、俺は、おぉ、ポジティブ。それも言いかも、神様、そう言ってるんかも、とまんざらでもない様子で、ほんでそっからちょっとなんか書いてみようかなって書いてみたらこれがまたノってきてさ。寝る間も惜しんで夢中で書き続けるんよ。そんで書いたやつを新人賞送ってみたらさ、１次通過、そして２次も通過したんや。次で落ちたけど。これはいけると思ったね。そっから今に至るって感じ。
などと過去をぼんみゃりと思い出しつつ、酒をチョビチョビと飲んでいると、絵里が中学生の頃、毎日スポンジを食べていたという話しをしていた。みんな引いた。俺も引いた。それは１７歳の頃まで続いたが、１７歳の時、初めて付き合った彼氏にスポンジを食べる女と付き合いたくないと言われ、泣く泣く食べるのを止めたという。そいつは異食症という病気だねと、俺知ってるねんぞーって顔で店長が解説を始める。
異食症は栄養障害・栄養不良が原因だったり、特に貧血の場合には氷をバリバリ食べてしまうらしい。他には、極度の精神的ストレスが原因で感情や欲求が抑制出来なくなるのが一因であったり、統合失調症などの精神疾患が原因だったり、脳腫瘍の異常行動だっりするらしい。
絵里ちゃんは何が原因だったんだろうと店長が言うと、絵里はさぁ？と原因についてはどうでもええわって感じでタバコに火を付ける。
異食症の人は初めて出会ったからちょっとした感動をありがとうってことで店長、今日は絵里ちゃん、お金要らないよと。絵里はラッキーと言い、ちょっと微笑む。世の中には色んな病気と色んな人がいるもんやなと、当たり前のことを悟り直す俺。
　店内ではNirvanaのCome As You Areがカートコバーンの気怠そうな歌声と共に店内を気怠い波で押し寄せ、俺達はその気怠い波に乗りながら、体をゆらゆら帝国。店内には常連たちがこぞって６人。そうして俺は良い感じで酔っ払い、みんなも良い感じで酔っぱらい、俺達の感覚と思考はまどろっこしい状態へ。そうか、日本人が酒を好きなんも、ぼんみゃりとするからか。と思いつつ、誰かが酒を零し、誰かが零したでって言い、誰かが俺の服をちょ、ちょ、ちょいと持ち上げる。そして俺は、ああ、そっか俺の服が、零れた酒で濡れたんかぁって分かっても、何処吹く風。店長がタオル渡してくれる。俺はタオルでひと拭き。そして俺はそろそろ帰るわ。おおきにと切り上げる。なんや、もう帰んのかいなぁと、安井さん。指が２本無い左手を弱々しくあげて、幸太君、またなぁって。ええ感じでみんな負け犬や。好きやで、ロクデナシ。社会に適合出来んかった、繊細な俺達。　
傷付きやすく、それでいてプライドが高い俺達。
酔った俺は、まるであらゆる神経が抜けたよう。色んなことを気にしなくなる。神経質だった俺がまるで全ての事柄に無頓着になる。色んなことを赦し、色んなことが赦せなくなる。
要するにまともじゃないってこと。場末感丸出しの京橋の街をほっつき歩き、歩道を出た所でタクシーを捕まえ、布施までよろしく。そのまま、コンビニで酒を買い、飲み直しや。もう布施も結構静かになってる、そんな時間。俺は自宅へ戻り、万年床に寝転がり、そしてまた酒をチョビチョビ飲み始める。そうして、嗚呼、そういや明日教会で礼拝やった。　
もうそろそろ寝よかぁって二日酔いのまま朝を迎えて、頭痛を抱えて教会へ行くのが日課や。みんなで賛美して、内山牧師のメッセージ聴いて、みんなで昼飯食って、聖書勉強会みたいなんをしてから、家に帰って小説を書く。俺の一週間、これの繰り返しやで。でもこれから新たに加わったのがグアマラテコーヒーを飲みに、そしてコーヒーのお姉さんに会いに、いや、順番逆やな。コーヒーのお姉さんに会いに、そしてグアマラテコーヒーを飲みに、駅前喫茶に行くこと。
　新たな一週間、俺は毎朝喫茶店へ行って、そして毎日グアマラテとコーヒーのお姉さんと談笑の日々。コーヒーのお姉さんは俺が来ると良い笑顔見せてくれる。他の客が来た時に迎える笑顔とちょっと違うと思うねん。っていうかさ、最初半分冗談混じりでコーヒーのお姉さん口説いててんけど、もう結構マジやからね。ほんまに好きになってもうた。

そうして１日１日が過ぎて行き、木曜日、汚い布団にくるまっていると、何処からともなく暗澹たる思いがやってくる。錘を乗せた心とともに、万年床に沈み込み、なんともやりきれない、唐突に、一体、ぜんたい、誰に向かってなのかも分からない怒り、憎しみ、妬み、そして焦燥感等が複雑にこんがらがった感情を抱えこみながら、悶々とした眠れない時を過ごしていると、何処からともなく、じわりじわりと、淫行に耽っている真っ只中だとしか思えない、女の獣染みた呻き声と一定のリズムで刻まれるベッドが軋む音が聴こえてきた。おいおい。俺が今、満たされていないものを刺激してくれたな。やってくれるやんけ。ええやろ。
年季の入った古ぼけた財布を手に取り、中身を確認する。１万円札が３枚。１０００円札が４枚。小銭が少々。よし、デリヘル呼ぼ。
　なるべくやったら呼びたくなかった。金もったいないし、それに教会行き始めてからといふものの、後ろめたい気持ちがあるんよね。なんでかっていうと俺も一応クリスチャンになってるんですわ。
そんで熱心なクリスチャンの人って、風俗はおろか、結婚するまでセックスはしないって決めてはるんです。いやぁ、半端もんのセックス依存の俺には無理ですわそれ。でも、あれよね。それが出来れば、もっと世の中、不幸が減って、幸せが増えると思うんです。最近習ったんですけど、聖書には十戒言うもんがありまして、神様が人間に与えた１０の戒めってやつですわ。そこには「殺してはいけませんよ」とか「パパとママを敬いましょうね」とかごっつ簡単なことが１０個書かれてましてね。そこに「姦淫してはいけませんよ」って書かれてまして、この姦淫っつーのは浮気と結婚前のセックスのことを言うんです。
もしもこの十戒を人間がそれを全て守れるんやったら、それを突き詰めると、この世はユートピアになるっていう法則に辿り着くんです。
せやけど人間やから無理ですねん。１０の戒めの全てを破るのが人間ですねん。でも、その理想に向かって頑張る、言うんは大事ですね。
とは言え僕には無理ですよ。だってセックスしたくて堪らんもん。我慢できひんて。俺はスマホをイジりながら、デリヘルサイトに標準を合わせる。便利な時代ですわ。そうして、好みの娘を捜す。どれどれ。一人ずつ顔とスタイルを吟味しながら、ゆっくりと、優雅に、スクロールしていく。おっ。これはっ。と画面上の一人の女のこを目が通過した時、それはそれは驚いた。ドキっとしたり、ギョっとしたりしたよ。なんでかいうと、その女のこ、コーヒのお姉さんにむっちゃ似てるんよ。
目元を手で隠してるもんやから全体像は分かれへんけど、目以外のパーツがそっくりやで。俺は背徳感から迫ってくる興奮で脳みそがワサワサした。この娘にしたい。したいけど、それは、結構な、罪責感。だって好きな娘に似てる人を抱くってさ、それってなんか。
中学生の頃、俺は猿のごとくマスターベーションをしていたんだけれども、その回数と言えば一般平均よりも遥かに上回ってる（なんでそれが分かるかというと、友達に一日に何度マスターベーションを施すのかということを何人かに訊いてみたから。しかし、みんなが恥ずかしいと思い誤魔化してサバを読んでいる可能性も十分にある。そうであると信じたい）
そうして俺は、恥ずかしい話やけど、クラスの女の子で可愛いと思われる子をほとんどオカズにしていた。しかし、そのクラスの中で１人、好きな子がおったんや。その子に対しては、なんでか分からんけど、マスターベーションのオカズにしたくなかった。それはきっと大事にしたいっていう思いが働いてるんよね。しかし、一度その子をオカズにしてみると、背徳感から押し寄せる興奮でいつにも増しての快感が、俺の心を支配したんや。そうして一度すると背徳感が大分薄れて、普通にオカズに出来るようになるっていう感じ。だからさ、大事にしてるからさ、この子選びたくないんよね。でもさ、高い金払うわけやしさ、たくさん興奮したいやんか。この場合、俺の中での戦いが始まる。理性と本能のドンパチが今、始まろうとしている。っていやいや、無理無理。だって俺、快楽依存症やから。そんで戦いは圧倒的な程に本能に軍配が上がる。
俺は早速と電話をかけ、コーヒーのお姉さんに似てる女の子「ユリエちゃん」を指名する。さぁてと、後は待つだけやで。
取り敢えず掃除でもして、シャワーを浴びて、身も心も綺麗にしておこう。心を綺麗にするって今から汚れるわけなんやけどさ。そうしてキレイキレイして、缶ビールの空き缶を灰皿代わりにタバコをスパスパ吸いながら考えた。ひょっとして、あのこ、ほんまにコーヒーのお姉さんとかじゃないよな？もう一度スマホを取り出し、ユリエちゃんの画像を凝視し、そしてコーヒーのお姉さんのスタイルと顔を精一杯思い出す。
んんと唸る。似てる。めっちゃ似とるで。でもまさか、そんなことあり得る？コーヒーのお姉さんはめっちゃ純粋やで。それに、ええとこの大学生やもん。平日の朝、大学に行く前までいつも働いてるだけで精一杯とちゃうの。バイト掛け持ちする時間なんか無いやろ。っていうかそもそもデリヘルで働くとか無いやろ。だってそれは君、仮にもコーヒー界の天使と謳われたお姉さんやで。無いわ。そら無いわ。無い無い。
でも、もしも万が一、億が一、京が一、コーヒーのお姉さんやったら？例えばの話し。もしもコーヒーのお姉さんが来たら、その時は俺、どうする？
きっと背徳感マックス、それによって興奮度もマックスになり、理性と本能の凄まじいせめぎ合いが始まるんでないの。

――などと考えていると、ピンポーンと鳴る。俺はビックッとなる。
ってまぁ、それはいくらなんでも無いかって急に心が落ち着いて、アホみたいなこと考えてもうたなぁ、恥ずかしい恥ずかしいと思いながら、はーい。今行きますと男らしい声で叫んだ末、玄関に向かい、ドアを開ける。
こんばんはーっとそこに立っていたのは、こんばんはと挨拶してから俺の顔を観てはっとし、どんぐり目を更に大きくして口を抑えてその場に立っている、コーヒーの、コーヒーの、お姉さん。マジ？嘘やろ。え、なんでなんで。何これ。嗚呼、そうか夢か。って違う。これ現実。あ、これ、映画の世界？俺、誰かの空想上の登場人物やったんかなってそれも違う。これ、マジモンのリアル。
コーヒーのお姉さん、そのまんま、５秒ぐらい静止。俺も。
そしてすぐに正気に帰ったコーヒーのお姉さん、物憂げな顔で
「入ってもいいですか？」
そらぁ、物憂げやろ。
「あ、どうぞ」と俺。
俺はコーヒーのお姉さんをミスターパーフェクトへお招きする。まさか、こんな形でミスターパーフェクトへお招きすることになるとは誰が想像した。それとも想像したやつがおって、こんな風に創造したんか。だとしたらそいつ、赦されへんな。神様がこんなことを。ってなんでも神様のせいにしたらあかんよな。だって俺らには自由意志が与えられてるんやもの。世界が残酷なのは、他ならぬ自分のせいや。俺らには悪と善を選ぶ権利がある。
そして本当にコーヒーのお姉さんやった時、背徳感から来る興奮が勝つか、理性が勝つかって？いやいや、興奮なんか一切無いよ。気まずさと後悔とショックが俺の心に粘っこくまとわり付いている。
畳にちょこんと正座して、「まさか、お客さんやったとは」とうつむき加減に抑揚の無い声のお姉さん。フッと笑ったその笑顔はいつものコーヒーのお姉さんの笑顔ではなく、酷く自傷的で皮肉めいた、世界を斜めにしたやつ。
俺は何も言えない。無言。耐え難い、静寂と言う名の沈黙。
しばらく沈黙の後、お姉さんが口を開く。どうしたの？
俺はやっと、無理やり、声を出す。「どうしたも、こうしたも」
「なんで、こんな仕事？」と俺。
お姉さんは遠い目をしながら「お父さんの工場、倒産して、仕送り一切無いから、学費と生活費稼ぐには、こうまでしないと間に合わないの」
とお姉さん。
「だからって」と悔し混じりの悲痛な声の俺。
「しょうがないじゃない、それに、幸太君には関係無いことだよ」
と氷点下の声でコーヒーのお姉さん。
お姉さんは「してもいいんだよ？」と言ってお姉さんの横で胡座をかいてる、俺の太ももに手を乗っけてきた。
　お姉さんのその声は、まるで全てを諦めているかのようだった。俺はそのまま動かない。しばらくして、お姉さんの手と俺の太ももに暖かい液体がポタポタと滴のように落ちていく。お姉さんは少しビクッとして手を離し、僕の顔を覗き込んだ。
「どうしたの？」
と聴くお姉さんに僕は
「それはこっちのセリフやで」
と掠れた声で言うと、次はお姉さんが自分の太ももを暖かい液体がポタポタと滴り、濡らし始めた。俺はそのまま３０分、お姉さんのために泣いた。今の俺に出来るのはそれだけだった。
「お姉さん、嫌なんやろ。嫌やったら止めよ。嫌なことしてほしくない。
傷つくことしてほしくない。自分を汚して、傷負ってまで、大学行くの大事か。大学が全てじゃない。コーヒーショップのお姉さんの笑顔が本当のお姉さんやろ。いつも、本当でいてほしい」
「いや、違うよ。こっちの顔が本当のあたし。あの笑顔は作りもの」
と鼻で笑うお姉さん。
俺は声を荒らげる。
いいや、違うね！俺は知ってるから。お姉さん知らんかっても俺は知ってる。あの笑顔こそほんまもんや。
「なんでそんなんあんたに分かるんよ！」
とお姉さんは大きい声で怒る。
「分かるよ！なんでかって？俺はあの笑顔で心が暖かくなって生きてて良かったって思えるから。でも体売って悲しい顔を見せる時のお姉さんをみたら辛くなってしんどくなるから。心が暖かくなって生きてて良かったって思うほうがほんまもんやろ！何のために産まれてん！生きててよかったって思うためやろ！冷たいことを信じるためじゃないやろ！暖かいことを信じるためやろ！暖かくなるためやろ！暖めるためやろ！そうやろ！せやろが！」
俺がそう叫ぶように言うと、お姉さんはビックリした顔をして俺の顔を見る。続けて俺は言う。
「俺はグアマラテ作ってくれるお姉さんが好きや」
「グァテマラ」と泣き笑いしながら訂正するお姉さん。
「俺、お姉さんのことが好きや。だからお姉さん、俺、お姉さんと結婚を前提に付き合いたい。俺、お姉さんのためやったら学費と生活費を援助してでも助けるよ」
お姉さんは鼻をズルズルさせながら、涙声で
「こんな姿見せても、そんなこと言ってくれるなんて。嬉しい。ありがとう」
俺のこの残酷な世界は今、愛で包まれた。
――なぁんて、わずか３０分足らずでここまで妄想してもうたで。ほとんど変態の領域やな。大丈夫かな、俺。いや、しかし、さすが作家目指すだけあって我ながら天晴れのストーリーが出来てしもた。
俺はキーボードで打って完成したストーリーを読み、ええ感じ、ええ感じ、と頷いた。もうちょっとでデリヘル嬢来るやろうな。てか、ほんまにコーヒーのお姉さん来たらどないしよ。この通りにストーリー進むんかなと考え、手を抑えて一人でクックッと笑う。するとピンポーンとチャイムが鳴る。はーい。今行きますと男らしい声で叫んだ末、玄関に向かい、ドアを開ける。こんばんはーっとそこに立っていたのは、写真の通りで、否、大分写真よりかはアレやけど、確かにコーヒーのお姉さんに似てるけど、いや、似てるか？似てないやろ。目が少し切れ長で、コーヒーのお姉さんのどんぐり目とは明らかに違う別物。もちろん、コーヒーのお姉さんではない。こんばんはーユリエです。よろしくお願いします。と、えらい愛想の無い、ツッケンドンとした女の子。売れる気無いやろこの娘。顔はそれなりに可愛いけど、その客に対する無礼な態度にチェンジしたくなったけど、でもまぁ赦す。これでも俺クリスチャンやから。クリスチャンの醍醐味は赦すことや。ユリエちゃんは、なんか汚いもんを避けるかのように、そろりそろりと俺の部屋に入り、部屋の片隅にバッグを置き、店に電話する。電話を終えた後、シャワー浴びてもいいですか？と気怠く言うユリエちゃん。俺は壁に持たれかかり、タバコを燻らせながら、はい、どうぞ。なんだか俺は萎えてしまった。そんな身なりと、不愛想な面下げて、コーヒーのお姉さんを名乗っていたのに腹が立った。コーヒーのお姉さんを侮辱しおってからに。
ユリエと名乗る偽コーヒー姉はシャワーを浴び終わり、服を着て戻ってきた。俺は万年床に寝っころび、彼女を見ずに、なんもしなくてええよ。その代わり、時間まで俺と話しよ。と言うと、似非コーヒーユリエは、え、ほんまに。やったぁ。とパッと笑顔になりガッツポーズをして、俺の横の万年床にゴロンと転がる。そんなコーヒーっぽいユリエを一瞥する。なんや、可愛いとこあるやん。ちょっと惚れたで。ユリエちゃんやったっけ。なんでこんな仕事してるん？と俺が聴くと、偽ブランドコーヒーユリエは、そんなん、あたしの自由やんと言いながらスマホイジってる。いや、まぁ、そら、自由やけどさ、なんでか理由あるやん。やっぱり。と言うと似非コーヒーユリエは、楽にお金稼ぎたいからと、低俗極まる返答。
いくら楽に稼ぎたいゆうてもなぁ、この仕事好きじゃないやろ？知らん男に体弄られて、嫌な気分なるやろ？と言うと、インスタントコーヒーユリエは、嫌やけど、その時我慢したらいいだけやし、そしたらお金貰えるし。俺は、語気を若干荒くして、いやいや、その時我慢してもなぁ。後から憂鬱な気持ちっていうのは残っていくで。コーヒーの、じゃなくて、ユリエちゃん、さっき、今日は話だけでいいって言ったらめっちゃいい笑顔してたやん。あれがほんまもんのユリエちゃんで、いつもほんまもんの気持ちで人生生きたほうがいいよ。まがい物コーヒーユリエちゃん、眉を顰めて、説教はいややって言いながらスマホを横に投げて、万年床に頬杖を付く。
何歳？２３。将来なんかしたいこととかあるん？別に。彼氏おるん？たぶん、おらん。たぶんってなんやねん。この仕事どんぐらいしてんの？１年ちょっと。前は何してたん？キャバ嬢。その前は？と聞いたところで、インスタントユリエは俺の質問を遮って、そういえばお客さん、名前なんて言うん？と俺に質問。幸太やで。こうたってどんな字？しあわせにふといで、こうた。太い幸せっていい名前やなと、肩肘を付いて俺の方に体と顔を向けて微笑してる。幸太君は何してんの？俺？俺は研磨の仕事しながら、とそこまで言ってから口を噤んだ。しながら？とユリエ。まぁ、ええやん。なんやの、それ。言われへんようなこと、してんの？と怪訝な顔のユリエ。いや、別に言われへんことちゃうけどさと、小さい声で。
そうして俺達は他愛も無い会話をしつつ、時を過ごした。
ユリエは玄関前でありがとう、助かったわと言って振り返り、手を振り、ドアを開け、帰っていった。
助かったわ、かぁ。なんだか人助けをした気分になり、俺は心地良かった。そうかぁ、こんな俺でも人の役に立てたんかぁと、なんとなく、喜び。俺は軽くなった心で安心しきって、そのまま安眠。
　アラームで目が覚め、そしてまた寝る。ほんで、はっと起きると、もう喫茶店に行く時間は無くなっていた。外を出ると分厚い雲が空に張り付いてる。これは雨が降るんとちゃうの。でも傘は持って行かん。なんでかって。俺は傘をさすのが異常な程嫌いやった。なんでかって言うと、面倒くさいというのもあるけど、それともう一つは、雨に負けた気になるから。雨に屈したような気がする。だから俺は雨が降ろうと、何喰わぬ顔をして、あ、そういえば雨降ってたんだっけ？全く気付かんかったよ。雨なんていう現象は俺にとって、存在感まるで無しといった表情で歩く。雨に対して憎しみを持つと雨に負けた気がする。
だって雨のことを頭の中で考えて、その時、俺の頭の中は雨のことでいっぱいになってるから。しかし、無関心だと雨に勝った気がする。
周りのみんなは大層に傘を持ってる。雨に関心奪われ過ぎてる証拠や。俺を見なさい。傘なんか持ってないし、雨のことなんてまるで無関心。雨のことなんか一切考えてないわ。などと思いながら、そう思ってる時点で俺が一番雨に関心あるやんけと、一人突っ込みを入れ、長瀬駅でいつものように降りる。すると、またタラップを用意し、駅員さんが車椅子の青年をホームに降ろす。そしてまた二人は離ればなれ。
と思ったけど、改札口のところで、駅員さんは青年の定期をタップしてあげていた。そして駅員さんは、はい、どうぞーありがとうございますと柔らかい口調で言っていた。そうか、まだやることが残ってたんや。
しかし青年は無言、無表情を貫いていた。青年はともかく、駅員さんは無関心では無かったのか。半分救われた気分やった。そうしてテクテクと歩いてると、酒場の所まで来ると、なんとなんと、あの脱腸犬がヨレヨレと歩いてるじゃないか。生きとったんか、犬っ。そしてその後ろには酒屋のおばちゃんが犬の肛門をティッシュで拭いてあげてた。そのティッシュは鼻血がちょっと出たのを拭いたのと一緒の色に染まっていた。そしておばちゃんは犬を酒屋の中へ優しく入れてあげた。なんや、酒屋のおばちゃんの犬やったんか。なんてこった。俺は勝手に勘違いをして「世界は残酷だ」とかほざいていたということか。恥ずかしいこと極まりないな。おばちゃんは優しいし、ダックスフンドも精一杯愛されてるやないの。もしかしたらあの青年も俺と同じで勘違いしているのかもしれない。世界は残酷だって思うが余り、何も信じられなくなってあんな不遜な態度を取り、いつも憂鬱の爆弾を抱えているのかもしれない。もしそうならばあの青年に教えてあげたい。世界、そんな捨てたもんじゃないよって。もしかしたらさ、世界を残酷にしてしまう人達っていうのは、みんな勘違いしてるかもしれへんね。世界は残酷だって。だから世界をもっと残酷にしてしまおうっていう勘違いが世界を残酷に招いているのではないかしら。勘違い起こして間違い犯したんどっからや。
アダムとエバからか。まぁ、彼らをせめてもしゃーないけどな。だってもし俺がアダムやったとしても同じように間違い犯してるやろ、絶対。
などと考えつつ、工場に向かい、工場に着いて吉田さんに青年とダックスフンドの話をすると、ほんまかーっ良かったやん。俺もホッとしたわとほんまに嬉しそうな笑顔で言ってた。それは駅員と青年に対して、ダックスフンドに対して、そして喜ぶ俺に対して喜んだ感じやった。ええ人や。幸太君、休憩しよかあと大声の吉田さん。ラジャー！と俺は大声。幸太君、今日は俺が奢ったるわ。えーそんな悪いですよ。ええから気にすんなってと一緒に徒歩５０メートル先にあるコンビニへ向かう。
ほんで好きな物買っていいでって言うもんやから、好きなもん買わせていただきました。ありがとうございます。と言って、一緒に帰る。
そして、コンビニのドアを開けると、前方から歩いて来た人は、青いツナギの作業着を着た、茶髪の髪を一くくりにして、化粧バッチリキメた良い匂いのするお姉さんやった。ビックリ仰天。俺は振り返って２度見し、そして３度見た。吉田さん、女のこが工場で働いてますよ、なんか作業着着てる女の人ってやたら可愛いですねと興奮して言うと、ああ、そこの工場やで。毎日昼飯買いに来てるわ。ネジガールって知らん？って言う吉田さん。なんすかそのネジガールってとバカにしたように笑いながら言うと、最近若い女のこの間では工場で働くのが流行ってるんよ。
なるほど、ギャップがいいってことですね。それにしても、そんなん、山ガールにネジガールときたか。なんでもアリやないですか。あ、そうか。俺がそのギャップに可愛いって思ったことは、そういうことなんかー。なるほどーと一人で納得。
それにしても、いくらギャップが可愛いって言って、その理由で女のこが工場で働いても楽しいんですかね？もっと華やかな仕事の方がええんとちゃいますん。と言うと、吉田さんは、そこに生き甲斐を見つけられたら、どんな所でも楽しいやろ。そこに生き甲斐を見つけられんかったら、どんな見た目がええ所でも楽しくないやろ。そういうことや。と言われ、おおっと深く感嘆。そして自分の読みの浅さに、嘆息。
俺は鍋にグツグツと煮えた牛の骨を溶かしたゼリー状の液体を研磨機のローラーに塗っていると、吉田さんが、その液体な、隣の工場に昔おったジョンって言う犬がいつも持っていくんや。犬の大好物やねん。ええー、そうなんですか。なんでこんな臭いもん、好きなんやろかと思いつつ、塗ってると、あ、そっか、骨やから好きなんかぁと納得。俺ってちょっと頭足りひんのかなぁ。まぁええわ。
そして次の日の朝、喫茶店でコーヒーのお姉さんにその話をした。
その話って言うのはつまり、青年と駅員さん、ダックスフンドの酒屋のおばちゃんを最初見た時に世界は残酷やと思ったけど、しばらくして同じ場面見て、そこで見てなかった所を見て、世界は残酷じゃなかったっていう、くだり。
それで俺は、みんな勘違いしてるところとか、見ていないところってあると思う。そういうすれ違いで、仲たがいしてしまったりして、おかしくなってしまうってゆうケース、いっぱいあると思う。そういうのって悲しいよね。
感情に支配されて、絶対悪って決めつけたらあかんよね。そうやって決め付けて正義ぶることでかえって悪を生んでしまうんよね。とコーヒーのお姉さんに言うと、お姉さんは終始頷いて、たまにあーっと言って感動したり、成程って真剣に頷いたりしてくれる。　
それで最後に、幸太さんって凄いですね。その二つの事件通して、そこまで考えられるなんて。あたし、あんまし物事考えないから尊敬しますって。俺は首をしつこいぐらい振って、いやいやいや、そんなええもんとちゃいますよって謙遜ぶる。
コーヒーを立てるのが上手なお姉さんは、男を立てるのも上手やった。
そうして俺はいつもより全面に胸を出して、肩で風を切って歩いて工場へと向かうのであった。ちゃんちゃん。
そうして、はりきって迎えた時は過ぎゆき、木曜日、仕事を終えて、壁にもたれ掛って、ロックンロールを聴きながら缶ビール飲みつつ、ふと思い出す。そういや、先週、コーヒーのお姉さんに似たユリエちゃん呼んだんやなぁ。全然コーヒーのお姉さんに似てないけどさ。
最初、嫌な女やと思ったけど、話してみたら可愛くていいこやったなぁ。結構そういうことあるよね。話してみたらええ人やった、みたいな。
嗚呼、あの娘にどうしても話したいことがあるねんなぁ。月曜から思ってたけど、やっぱり話したくてウズウズするから話そう。お金、もったいないことあらへん。だって必要なことやし、話したいことあるもん。
俺はまたデリヘルに電話をし、ユリエちゃんを指名する。
そして、レディを呼ぶのだから、俺は掃除。流しの生ごみをポリ袋に入れ、きつく縛ってゴミ箱へ。あれやこれやしてると、ピンポーン。入っていいよーと大きい声で答えると、ドアがガチャコンと開く。
こんばんはーっと言いながら入ってくるユリエちゃん。その声と顔は、なんとなく警戒してるっぽい感じ。あ、適当にその辺座ってて。今コーヒー入れるから。俺、毎日出勤前に喫茶店通ってるねん。そこで美味しいコーヒーの淹れ方とか教えてもらったから、めっちゃ美味いよ。そのちゃぶ台の前に座ってゆっくりしとって。
ユリエちゃんは、あのー、シャワー、とか、浴びなくて、いいですか？とコートを脱ぎつつ、伏し目がちに、消え入るような声で言う。
ああ、と俺は言って、ははって笑い。ええよ、別に今日も会話するだけやで。っていうかユリエちゃんを呼ぶ時はいつも会話するだけやから大丈夫やで。やったっとパっと明るい声に変わって少しジャンプする感じのユリエちゃん。え、でもそれってあたしに魅力無いってことでもあるんちゃうん？嬉しいけど、なんか悲しいなぁ。と指を顎に当てて残念そうに言う。ちゃうって。全然魅力あるで。でもなんかもう、友達やん。
だからやで。っていうか別にええってそんなんどうでも。と言う。ユリエちゃん、なんやのそれ。変な人と言って、はにかんだように笑う。
１００均のピンクのプラスチックのコップに入ったコーヒーをユリエちゃんの前に置く。俺は青のプラスチックのコップに入ったコーヒーを自分の前に置く。飲んでや、グラヤマテコーヒーやで。知ってる？香りが甘くて酸味が上品で、芳醇な風味がありますよ。
グァテマラのコーヒーやろ？なんやのグラヤマテって。イリオモテヤマネコみたいになってるやんと言いながら爆笑するユリエちゃん。
そしてコーヒーを啜ると、うん、美味しいと言って、目を細めて笑顔。八重歯がチラっと見える。俺は、びっくり。なぁなぁ、ユリエちゃん、　
可愛いやん。そうやっていつも笑ってたほうがいいんとちゃう？あんな不愛想な顔してたら３割増しブスになるで。いや、いつも不愛想な顔してるわけちゃうからー。まぁ、せやろうけどさ。あ、そうそう、あんな、あんな、昨日のメッセージでさ、あ、そうそう、俺クリスチャンやねんけどさ。クリスチャン？なんやの、それ。幸太君の苗字が？外人やったん？クリスチャンベールみたいやん。え、クリスチャンベール知ってんの？クリスチャンベール知ってるってことは結構映画詳しいやろ？せやで。あたし映画マニアやで。一時期、毎日２本欠かさず観てたよ。
マジかー、俺も映画ヲタクやねん。キューブリックとかリンチとか好きやで。えーキューブリック好きな人ってなんか気取ってるわー、映画マニアやねんぞーって格好付けてる感じする、リンチは悪趣味で尚且つ気取ってるって感じっと笑うユリエちゃん。いや、だってほんまに好きやからしゃーないやん。ってちゃうやん。ほんまに純粋に好きなん？怪しいなぁ、気取ってるとこない？ってそういう話じゃなくって、クリスチャンって言うのはイエスキリスト信じてる人や。イエスキリストが自分の罪のために十字架にかかってくれたってことを信じてる人やで。アーメンソーメン冷ソーメンのやつ？そうそう、それそれ。アーメンラーメンチャーシュメン。でさ、毎週日曜日教会行ってんねんけどさ、先週の牧師のメッセージが、姦淫の女っていうところからやってんけどさ、姦淫の女って何？ちょ、聴いてて、最後まで。俺はユリエちゃんの口元に手の平を近づけて、制す。うん、分かった。と言って変な顔して笑うユリエ。
ある日、イエスが神殿でみんなに神様のこと話しててん。そうしたら、律法学者とパリサイ人っていう奴らが来てんけど、こいつらは、当時の宗教家で、「こうしなければならない」みたいな法律をガチガチに自分たちで作って厳格にその教えを守ってた奴らやねん。そんで、こいつらイエスのこと大嫌いやってん。お前なんか聖書に書いてる俺たちの救世主のはずがあるかいボケ！っていつも喧嘩売っててん。
そんでさ、こいつらが一人の服があらわな姿になってる女を連れてきて、会衆とイエスの真ん中に置いてん。女はビクビクとしてます。
フンフン、と頷くユリエ。そんでパリサイ人と律法学者は言いました。
「先生、この女は浮気の現場で捕まえた女です。律法の中ではこの女を石打ちにして殺すように書かれてますけど、ところでイエスさん、あなたは何と言いまっか？」
え、ちょっと待って、浮気しただけで死刑？酷くない？とユリエ。
せやで。酷いな。でも今でもイスラム教とかそっち系の厳格な国とかはこんな感じの法律あったりするで。怖いなぁ。日本人やったらほとんど死刑で全滅するで。でもな、こいつらほんま最悪やで。イエスを告発するために、この女の人を騙して、男と寝てるところを捕らえてきてん。
つまり、この女の人と寝た男はパリサイ人と律法学者とグルやってん。
パリサイ人と律法学者はイエスが赦しなさいって言うと思ったんよ。
なんでかって言うと、イエスは民衆にそういうことをいつも説いてるから。でもな、犯罪犯した人を赦しなさいって言ったら、幇助罪になるねんて。なんやの、ほうじょざいって？芳香剤みたいやな。似たようなもんやで。まぁ、犯罪者を助けた罪ってこと。フンフンと頷き、どうすんの？イエス様、ヤバイやん。とユリエ。うん、ほんでな、イエスは何も言わんと、身をかがめて、砂場の地面に何かを指で書き初めてん。何書いてんの？とユリエ。いや、　
分からん。分からんのかいとユリエ。そんでさ、パリサイ人と律法学者は、おい、なんとか言えよこら、どうするんかって聴いてんねん、おいコラって問い続けてたん。そんでイエスは身を起こして、立ち上がってこう言ったんや。
「君たちの中で、罪を犯したことの無い人が、最初に彼女に石を投げなさい」
そう一言言って、イエスはもう一度身をかがめて、地面に何かを書き初めたん。それを聴いた人たちは、しばらくして、歳の取った人から順に、一人一人、立ち去ったんや。そして、最後にはイエス一人だけがその場に残されたん。そしてイエスは書くのをやめて、立ち上がって、その女の人にこう言いました。
「ご婦人さん、あの人達は、何処に行きました？君を罪に定める人はいなかったんですか？」
女の人は泣きそうな震える声で言った。
「誰もいません」
そしてイエスは優しく言いました。
「行きなさい。今からは罪を犯したら駄目ですよ」
ユリエは黙って俺の方をジィっと見つめて聴いていた。
「イエスがさ、罪を犯したことの無い人が最初に彼女に石を投げなさい」って言ったやろ。それを聴いて歳取った人から立ち去って行ったやろ。つまりさ、みんな罪をいっぱい犯してるってこと。特に歳取ってる人のほうが、その年月から気付きやすいから歳取ってる人から順番に去っていったんやな。イエスが指で地面に何か書いてたのは、その場に居る人達が今まで犯してきた罪を書いてたのかもしれへんなぁ。
イエスは神の子やからなんでも知ってるからさ。そんなん、自分だけしか知らん罪を書かれたらビビるやろ。気付かずにはおられへんし、石投げられへんなるやろ。そんで最後にイエスだけが残ったけどさ、イエスは生涯で一度も罪を犯したことのない唯一の人やねん。だからイエスには石を投げる権限はあったってこと。でもイエスは石を投げずに、彼女を赦したんよ。
死刑囚をな、赦してさ、行きなさい。もう罪犯したらあきませんよって。おしまい。
感慨深そうなのか、無表情なのか良く分からん顔で、そうなんやとユリエ。せやでと俺。なんであたしにこの話したん？とユリエ。
俺は立ち上がって背伸びしながら、いや、なんか感動したから話たかってん。ビックリするぐらい美味いラーメン屋見つけたら人に言いたくなるやろ？そんな感じ。っていうかクリスチャンやのにデリヘルとか呼んでいいの？と、お眉を潜めてユリエ。別にお話してるだけやし、いいやん。でも最初はそのつもりじゃなかってんやろ？うん。でもクリスチャンって赦された罪人やからな。なんやなのそれ、なんか卑怯やな。でも赦しを受け取るか受け取らないかも自由やもん。そっか。そやで。信じたら赦されるってこと？せやで。
ふぅん。頬を膨らませてるユリエ。どういう意図かは分からん。コーヒーまだいる？うん、もう一杯ちょうだいとユリエが言うから俺はコーヒーポットを持ってきて、プラスチックのコップにトクトクトクとコーヒーを注ぐ。それにしても、プラスチックのコップやったら、あかんな。
雰囲気出えへんで。もっとコーヒーのグラスに合ったやつ買わなあかんなぁと思っていると、ユリエがあっと言って、喋ろうとしてたけど、
喋ろうとして忘れてて、今思い出しかのように喋りだした。
あたし、また幸太君に呼ばれた時、今度は抱かれるんかな。それやったら凄い嫌やなって思ってん。だって、前は何も手出さなかったいい人やったから、次会ったら獣のように抱かれたら、悲しくなるから。でも良かった。またええ人やった。人間、捨てたもんちゃうね。
俺はパッと嬉しくなり、せやろ！人間捨てたもんちゃうで、人生も捨てたもんちゃうで。と、ちゃぶ台を前にして、グラスを両手に持ったユリエに体を近づけて、顔を近づける。ユリエは少しピクッと仰け反って、
変な人と言って笑ってる。なぁなぁ、もういっこ話しあんねん。なんやの？とユリエは両手でコップを持ってコップで顔を、口元らへんを隠してる感じ。聴いてくれる？
体も貸さんと、耳も貸さんかったら、あたしここにいる意味無いから聴いてあげるとユリエ。
ネジガールって知ってる？知らん。俺も最近知ってんけどさ、要するに、作業着を着て工場で働くおねえちゃんのことや。俺、工場の近くのコンビニで青いツナギの作業着着た化粧ばっちりのお姉さん見てんけどさ、そのギャップにめっちゃ可愛いくて、そして格好いいってキュンってなったんよ。今、工場で働く若い女の人って流行ってるらしいよ。
トラックの運ちゃんがお姉さんとか、たまに見るやん？良くない？ああいうの。あんな感じ。作業着を着たお姉さん、充実してそうな顔やったで。一生懸命汗水垂らして働いた後のビールはごっつ美味いで。飯もヤバイ。空腹は最高のスパイスっていうあれ、めっちゃ分かるよ。
箴言にな、あ、箴言っていうのは聖書のある章やねんけどさ、『なまけ者は心に欲を起こしても何も無い。しかし、勤勉な心は満たされる』ってあるんよ。楽して大金稼いでも虚しいだけやで。そうしてる人ってたぶん毎日憂鬱な心のモヤモヤを抱えてると思うよ。
でもな、一生懸命働いてみ。自分で作ったネジ見てみ。めっちゃ気持ちいいで。俺、自分で研磨した部品見たら気持ちいいもん。俺がこれ造ったんかぁって。小説書いてる時もそうやで。あ、そうそう、俺小説書いてるねん。作家なりたいから。へぇ、凄いやん。と目を丸くするユリエ。目を丸くしたらコーヒーのお姉さんにやっぱり似ていた。
あんな、楽が出来るからってそこには幸せは無いなぁって思ってん。
一生懸命やったそこに幸せってあるんよ。たぶん。
息継ぎせずに喋ったせいで俺は息切れをして少しハァハァ。
あんた、変な人やなぁと含み笑いのユリエちゃん。
人生、何をするかで決まるんじゃなくて、何のためにそれをするのかで決まるような気がする。愛の為にそれをするんやったら、その人の周りはええ感じにハッピーになるけど、自分の名誉とか、性欲とか、色んな欲の為にそれをするんやったら、その人の周りは不幸になるんちゃうかな。と俺は最後に言ってバシッと決めた。ユリエちゃんの心に届いたやろか。時間になり、ユリエちゃんはありがとう。楽しかったで。と言って八重歯をチラつかせながら帰っていった。そうしてええ感じに充実して、朝。コケコ。
自分の欲のためなら、残酷に、より残酷に。
愛のためなら、美しく、より美しく。というフレーズが思いつきつつ、目が覚める。ええな、この詩的な響き。小説に使お。と思いつつ、いつものように喫茶店に着くと、喫茶店閉まってるやないですか。どうしてんやろ。平日閉まってるの初めてみたなぁ。まぁ、なんかあってんやろ。大したことあらへん。　ってことで工場へと向かう。てくてく。
幸太君、早いなぁと吉田さん、そう言いながら研磨の機械を止める。
吉田さんはコーヒーを買ってきてくれて、すんません、ありがとうございますと俺はお礼を言い、頭をペコリと下げる。
そして、なんとなく会話。その中でどういう流れか、自分のおかんはめっちゃ過保護で過干渉やったと言った。すると、吉田さんは俺の親父もそんな感じやったで。中１の頃、友達とゲーセンに行ってたらさ、親父にバレてさ、中１ぐらいやったらゲーセン行ったらめっちゃ怒られる時代やってん。そんでさ、親父がゲーセン乗り込んできてさ、そしたら、いきなり俺の友達の胸ぐら掴んで、友達殴りよったわ。そんで「俺の息子を変なとこ連れ回しよって」と怒鳴りよってん。俺には何も言わんかった。他には、万引きで捕まった時、親父が駆けつけて、そのスーパーに来ると、親父は俺をおもっきりグウでパンチしたと同時に、足で地面をおもっきり蹴って効果音を付けて、あたかもおもっきり殴ったかのように見せてんけど、実は頬を掠めただけで全然痛くないっていう芸当を見せて、店員さんが「お父さん、その辺で赦したってください」って。　
その後、車の中で「全然痛くなかったやろ。あんな風にしたらすぐ帰してくれるからな」と笑ってたわ。
へぇー、愛、ありますね。ん？愛、かなぁ。
吉田さんは目を開いて、全身で否定するかのように、愛、あるか？無いやろ。おかしい愛やで。そんなん歪んでるよ。怒るところ、ちゃんと怒らなあかんやろ。ある時なんかさ、まだ夜明けぐらいに、叩き起こされて、車に乗らされて「今から、ブレーキせんとこのまま海まで走る。死んだらそれまでや」とか言い出して、走りだしてさ。泣き叫んだよ。
め、メチャクチャですね。無いわ、愛。身勝手な愛みたいな奴ですね。歪んだ愛っていうのかな。嗚呼、そういえば僕もおかんに、勉強しろってよう言われてて、小学２年生の時、強制的にさせられてて、塾に行かされてたんですけど、ある時、同級生の奴を虐めて、そいつが泣いて、先生にチクって、そんでみんなで話し合いみたいになって「幸太君がどうして虐めたりしたのか、それは幸太君が何かストレスか何かを抱えているのではないのか。幸太君、思い当たることある？」と先生に聴かれて、みんなの瞳が俺を見つめていて、別にストレスとか特に無かったんですけど、いや、あったかもしれんけど、取り敢えず、それっぽいこと言おうと思って「塾に行ってるからそれかも」と言うと、先生は「そんな小さい頃から塾なんて行かされてるなんて。子供は遊ぶのが仕事や！」　
となんかいきなり憤りだして、先生はおかんに報告したんです。
俺が同級生を虐めたことと、それは塾へ行ってるストレスから来てるのではないですかってこと。でもほんまは僕、そう思ってないんですよ。　
ストレスとかあると思ってなかったから。でもなんか一番それっぽい回答してみただけなんですよね。そうして帰路へ着くやいなや、おかんは血相を変えて僕に「なんで塾行ってること言ったのっ」と怒鳴られたんですよ。僕はなんで塾行ってること言うのがアカンのやろ？っていうか、なんで虐めたことは怒られてないんやろか？と純粋に思って、
「なんで塾に行ってること言ったらあかんの？」って聴いたら、おかんは「塾行ってることバレたら、成績が良かったのは塾のおかげと思われるやろ！」って怒鳴られたんですよ。
つまりおかんは僕が成績が良かったのは、何もしなくても勉強が出来る頭の良い子と思われたかったんですね。僕はその時ショックでしたよ。　
ショックやったから今でも覚えてるんやろうな。
一番ショックだったのが、虐めたことについては全く怒られへんかったこと。次にショックやったのは、おかんは周囲の人に頭の良い子と思われて天狗になりたかったってことが分かったってこと。
なんで一番ショックやったのが虐めたことについて怒られへんかったのは良く分かりませんね。と言うと、吉田さんはうぅんと唸り、
それは幸太君がどうして虐めたのかということをお母さんに聴いて欲しかったからとちゃう？だって先生は虐めた原因は塾に行っているというストレスにあって、それをお母さんに分かって貰いたかったんやろ？でもお母さんはそれを無視して、自分の子供が頭良いのは塾に行ってるからだというのがバレて、怒鳴られたから、それはつまり、自分の名誉を傷付けられたことに対して幸太君に怒鳴ったから、それは幸太君のことを考えて怒鳴ったわけじゃないっていうのを幸太君が幼ながらに感じたからと違う？と言う吉田さん。
おぉ、ナルホド。俺、やっぱり頭ちょっと足りてないなぁと思った。
次の日、またいつもの時間に喫茶店、覗いてみると、良かった、開いてた。意気揚々とドアを開けると、そこに居たのはいつもと変わらないコーヒーのお、お、おっちゃんやんけ。髭面の。お前なんか呼んでへん。コーヒーのお姉さんはどうした。コーヒーのお姉さん出さんかいって心の中で思う。
いらっしゃいませ、と野太い声で、俺のことを初めてみるような顔で見やがって。どれだけ俺が常連か知らんくせに。お前よりか全然常連やぞと言わんばかりに俺はふんぞり返って椅子に座り、素っ気なくグアマラテと注文すると、グァテマラですね、かしこまりました。と知った風な口。でもやっぱり新入りやな。何処に何があるのか分かってない。
俺はグアマラテを飲みながら、コーヒーのお姉さん、もしかして辞めたのか。それともシフトが変わったのか。心配になってきた。でもこの髭面のおっちゃんに聴くのもなんか癪やったから訊かんかった。
俺は電車の中で安倍公房の「砂の女」っていう本を読みつつも、ふと考える。コーヒーのお姉さんのことを。それと同時にユリエちゃんのことも考える。俺の友達や。昼の仕事してくれたらええけど。だってそっちのほうが幸せになるから。脂ぎった脂肪の塊みたいな人に抱かれるとトラウマ級と言ってた。トラウマになるまでして、なんでするんかな。分からんなぁ。と言うと、自分で自分を傷つけてるねん。リストカットしてる女のこと似たようなもんとも言ってた。なんで自分で自分を傷付けるんか。分からんなぁ。自分で自分傷付けて楽しいん？と訊くと、楽しくないけど、むしろ心痛いけど、悲しいけど、それがええねん。と言ってたなぁ。ううむ。分からん。でも、そういえば、カタルシスのバーの店長が、肉体的な痛みや疲労が高まると、脳の下垂体部分からβ-エンドルフィンが分泌され、肉体的・精神的な苦痛やストレスを抑える働きがあって、モルヒネの数倍の鎮痛効果があり、気分が高揚したり幸福感が得られるという作用があって、ピアスとかタトゥとかしまくったり、リストカットに走る人はそれが目当てで自分を痛めつけまくるって、理顔で言ってたな。好きなものや、気持ちのいいと感じるものを見たり聴いたり、あるいは気持ちの良いと感じるものを思い出したり、美味しいもん食べたり、感動したりしても、この快楽物質はバンバン出るらしい。そしたら、そういうことで快楽物質出せばええやん。なんで痛めつけるんやろ。間違ってるわ。そういえば俺は小説書いてる時、ええ感じのストーリーとか、かっこええ文章書けた時に心が空飛ぶようになるけど、あれも快楽物質出てるんやろうな。後は、まだ俺が依存症で苦しんでで、内山牧師の所でお世話なってた時、教会の人達と一緒に土砂災害の復興支援に行ったけど、あるお婆ちゃんの家を半日かけて泥を救って、庭を綺麗に一生懸命にしたけど、そん時に、そこのお婆ちゃんが涙を流しながら、ありがとう、ありがとう、て何回も何回も、曲がった骨を更に曲げてお辞儀してくれて、その時も同じように心が空飛んだな。いや、かっこええ文章書けた時よりも、ありがとうって涙流された時のほうが上空まで、遥か彼方へと、心は飛んでいったで。ユリエちゃんにありがとうって言われた時も心空飛ぶし。
そんなんやったら何か創造したり、感謝されるようなことをして心空飛ばしたったらええやんか。自分を痛め付けて快楽物質出して心空飛ばしても、それは絶対、心は空飛んでへんで。心、空飛んでるように錯覚してるだけ。
ほんまは落ちていってんねん。バンジージャンプとかで落ちる時と、空を飛んでる時って同じような感覚なるやろ。痛めつけてエンドルフィンを出すっていうのはそれは落ちてるねん。飛んでない。
そうや。今度ユリエちゃんを家に呼ぶ時、そのこと教えてあげよ。俺は安倍公房の砂の本の読んでいたページを折り曲げて、カバンに押し込む。しおりを本に挟んでるにも関わらず、ページを折り曲げる。俺は綺麗にするということに、とんと無頓着や。でももっと物を綺麗に扱ったほうがええやろな。と思いつつ、駅を降りて、仕事へ向かう。
ほんでから、次の日も、喫茶店には、透明なコーヒー豆を透かして最初に観たのはコーヒーのお姉さんじゃなくて、コーヒーの髭親父やった。次の日も、次の日は、コーヒーのお爺様、次の日も。その次の日はコーヒーのオジサマ。
痺れを切らした俺は、次の日、コーヒーのお爺様担当やった時に訊いてみることにした。俺はグアマラテを頼み、お爺様はグアマラテを俺の側に置いた。すんません、とコーヒーのお爺様を呼びかけると、はい？と言いながら、手を少し止めて、眼鏡をズラして、こっちを見るコーヒーのお爺様。あの、ええっと、前までいつもお姉さんいたじゃないですか。最近見ないんですけど、どうしたんですか？そう言うと、コーヒーのお爺様は、とてもとても悲しそうな顔をして、あぁ、と言い、俺から目を逸らして、ため息を吐き、そして重たそうになった口を開いて言った。
あの娘ねぇ、亡くなられたんですよ。
え？無くなる？無くなられたって何が無くなったんですか？
お姉さんが無くなった？どういうこと。死んだってことですか？そんなアホな。えぇ、そうです。と沈痛な面持ち。
は？死んだ？何ゆうてんねんこの爺。死ぬわけないやろが。と思った。
意味分からんことゆってるなぁ。ボケたんとちゃう。俺はコーヒーを目が痛くなりそうなほど睨みながら、グアマラテを啜ってみた。グアマラテは凄く苦かった。いつもこんな苦いコーヒー飲んでたっけ。
コーヒーのお爺様は、車に轢かれて、飲酒運転でして、とかなんとか言ってたけど、その言葉は俺の耳に入って、そのまま逆の耳から抜けていったのか、それとも最初から耳が抵抗して入らせへんかったのかよう分からんけど、単語の切れ端しか聴こえんくて何言ってるのかよう分からんかった。あんまし理不尽な理由を訊くのを俺の心が拒否していた。でも、言葉の切れ端で大方のことは分かってしまって、分かりたくないこと程、分かってしまうっていう法則あるよなって。そんで、なんか、地球の重力が変わったみたいで、重力の向きが変わったのか、なんだか俺は、良く分からんくなって、コーヒーを持つグラスが物凄く膨れ上がっているような感覚だったり、この喫茶店の空間がやたらデカく膨張してるような、それでいて５メートル先の物が目の前にあるような。うぉんうぉんと空気が鳴ってる。
どうやって辿り着いたのか、工場のドアを開けると、吉田さんが仕事をしてはって、俺は今から何をするのか良く分からんようになってた。
吉田さんは俺の顔を見るやいなや、びっくりしたような顔をして、どないした？と焦った顔して聞いてきた。
「幸太は、その心の中がそっくりそのまま顔に出るなぁ」って言われたことあって、それを思い出した。ということは今、俺は、涙を流さずに赤ちゃんが泣きわめいてるような顔をしてるってことかな。
え？あ、はい。何がですか。あ、おはようございます。って言うと、大丈夫か？と悲しそうな顔で訊いてきてくれて、俺はそれが凄く嬉しくて泣きそうなったけど、でも泣くのは嫌だ笑っちゃお。進めーひょっこりひょうたん。
俺はその後、一言も発さずに昼ごはんを食べ、仕事を終えた。吉田さんは俺がショックを受けた時、無言になるのを知ってるから気を使ってくれて何も言ってこなかった。そうして俺は、どうやって帰ったのか分からんけど、いつの間にか家に着いて、万年床に突っ伏してた。飯買うの忘れた。まぁいいや。喉、通らんし。コーヒーのお姉さんを死なせた奴は、今頃どんな顔してるのか。自分の将来のことを考えて絶望してるのか、それともコーヒーのお姉さんの、両手で抱えても足りんぐらい存あった、希望の光を一瞬にして闇に葬り去ったことに対しての絶望か。そのどちらでも無いか、それとも、そのどちらも抱えてるか。両方を抱えていて欲しい。
覆水が盆に返らないという残酷さ。自然の法則。この世の原理。なんでや。間違いは、アダムとエバからか。でも、俺がアダムやったとしても、間違ったよ。勘違いしたよ。蛇に騙されたよ。神になりたいって思って、木の実、食べたよ。
コーヒーのお姉さんがエバやったら、間違い犯さんかったんとちゃうかなって思った。だからこそ、理不尽に死んでしまうんかな。間違い犯さん人は、間違い犯す人に殺されるのかな。なんで？嗚呼、でもそういう仕組もあるよな。それでも俺、間違い犯さん側になりたいねん。理不尽に殺されても。だってさ、教会に酔っ払って帰ってきて、ソファーで寝てた時、牧師先生の奥さんがさ、俺に毛布掛けてくれた時のことを俺はいつまで経っても覚えていて、それを思い出すと心がポカポカするから。どっちの方が得をするかじゃなくて、俺は優しい方を選びたいし、優しい方を信じたいし。俺は毛布を掛けたいし、毛布を掛けられたいねん。毛布、掛けて欲しいやろ。せやろ。

ずっと万年床に突っ伏してると、俺もこの万年床の一部になりそうな気がしてきた。ひょっとしたらこうやって俺は万年床の一部になり、万年床というのはそうやって鬱病になった人が寝込んで、万年床に吸収されてきて、それを養分として生きていて、そうやって、何人もの養分を吸ってきて、そうして今、この人食い万年床は俺の手元にあるんじゃないか。ということは俺も吸収されて、誰かがこの万年床をどっかで買って、そうして何年も万年もこの人食い万年床は生き続けるのじゃないかと思った。そうして、万年床に吸収されそうになってると、ピンポンとチャイムが鳴った。珍しいこともあるもんやな。吉田さんが心配して、そんで牧師先生にでも連絡してくれたんかな。まぁ、そんな感じの流れやろ。でも、動かれへんし、動きたくなかったし、人と会うのも話すのも、同じ空気吸うのも嫌な感じやったから無視してたら、またピンポンってしつこいな。すると、ドンドンってドアを叩いて、幸太くーんって女の、あ、ユリエの声。あれ？なんで？俺今日呼んだっけ？いや、呼んでないやろ。金無いから呼ばれへんし。
ユリエちゃんやったら会ってもいいかもと思って、俺は人食い万年床から離れようとして、おもいっきり力を入れると、皮膚が万年床に粘着していて、顔を持ち上げると、頬が引っ張られ、俺の頬が取れてしまうんやないやろかって程に、でも別に取れてもいいやと思って渾身の力を入れると、ベリッと万年床から剥れ、服もビリバリベリッと心地の良い剥れ音を立てながら、なんとか万年床から剥れることが出来た。人食い万年床は口惜しそうに大きな口を開けてウォーンって唸りながら大粒の涙を流してる。俺はそんな万年床を無視して、フラッとよたれながらヨテヨテと歩き、玄関まで行き、ドアを開けた。すると、ユリエちゃんと最初に目が合った時、ユリエちゃんはパッと晴れた表情をし、呼ばれてないけど、暇やから来てもうたってお道化た顔をしながら笑って言ったかと思うと、俺の顔を見るやいなや、その表情はすぐに曇り、どうしたん？なんかあったん？大丈夫？と悲しい顔をしながら言って、玄関に入って、ドアを閉めた。俺はうん、何かあった。と掠れた声で俯いたまま言った。何があったん？と言ったユリエちゃんの顔は雨になりそうになってた。晴れのち、曇り、ところによってにわか雨のユリエちゃんは俯いた俺の顔を覗き込んできた。
俺はなんか、ヤバイと思って後ろを振り向き、指を加えて、窓のある奥まで歩いて、窓にピタッとくっついて同化して、窓の一部になった。
ユリエちゃんは俺に近づいてきて、部屋の真ん中辺りまで歩いてきた。
テクテク。しばらく、ユリエちゃんは部屋の真ん中、それはちょうど、万年床の枕元。俺は、指を加えながら、カーテンさえ無い、錆び錆びの窓にもたれ掛ったまま、時は過ぎていった。５分、ぐらいして、俺は声帯が生きているのを確認するかのように、あ、と小さい声で発声し、するとユリエちゃんは、まるで全てが母性の愛で出来ているかのような、小さい子供に話かけるような声で、ん？と言い、俺はその促しに我慢出来なくなり、震えそうな声で、抑揚の無い声で好きなこが、死んだ。と言った。するとユリエちゃんはそれからまたちょっと間を置いてから、　
そっか。あたしも、経験あるよ。と柔らかく言い、そしてユリエちゃんは手を広げて、ちょっとお道化たような声で、それでいてお母さんみたいに、おいでって言った。俺は窓からバリバリッと体を引っ張り剥がして、泣きながらユリエちゃんに早足で駆け寄り、ユリエちゃんの胸にうずくまり、両手をユリエちゃんの胸において（推定、Cカップや）、ヒンヒンと、しゃっくり交えて、泣きじゃくった。ユリエちゃんは俺の頭を優しく、それでいて、優しく何度も何度も撫でてくれて、俺はその時、今まで誰かに何かをして欲しいと思い、それが何か分からんくて、なんかこう、思い出しそうやのに思い出されへん、ここまで出てるのに、アーッみたいなウズウズを３１年間抱えてきたけど、ユリエちゃんの香りを鼻で感じ、ユリエちゃんの肌を肌で感じ、ユリエちゃんの手の感覚を頭で感じ、ユリエちゃんの大丈夫、大丈夫という声を耳で感じてる時、俺は今までずっと、これがして欲しかったんやって分かった。ユリエちゃんにこれをして欲しかったんやって。
その時、このまま世界が終わったらいいのになって思った。最後の最後は一番優しい感覚で終わりたかったから。そういうの、分かるやろ。
ユリエちゃんの白いセーターが俺の涙と鼻水で濡れて、濡れたセーターの感触はちょっと痒くてモサモサして少しばかりの不愉快を感じた。そして、この人喰い万年床、干したら死ぬんやろうかと場違いなことを考えつつも、　
俺はユリエちゃんの胸に全てを委ねながら、涙声で言った。
なぁユリエちゃん、自分を傷付けたら楽しくないけど、むしろ心痛いけど、悲しいけど、それがええって言ってたやろ。あれな、肉体的とか精神的な苦痛を感じたら、べーたエンドルフィンっていう快楽物質が出るねんて。だから、そんなんしてたんやで。それをしたら、心が空飛んでるみたいになるやろ？でもそれな、空飛んでるのとちゃうで。実は堕ちていってんねん。飛んでるのと堕ちてるの、同じような感覚やから騙されてんねん。あんな、俺、何か創ってる時、俺やったら小説書いてる時、それとな、人にありがとうって言われたようなことをした時はもっと気持ちええで。心が空飛ぶねん。それがほんまもんやで。
そうなんやとユリエちゃんは、俺の言葉の全てを受け入れるお母さんみたい。ユリエちゃんは天井を見上げてるみたいやった。天井見上げてるユリエちゃんを涙でぼんみゃりした視界で一瞥すると、ユリエちゃんの目に水が溜まってる感じで、その水を流さないように溜めて、水溜まりを創ってるみたいやった。流したらいいのに。川の流れのように。
よっしゃ、分かった。あたし、ネジガールになるっとユリエちゃんは力強く言った。俺はめっちゃ嬉しくて、心が空に飛んでいった。
じゃあ俺、ユリエちゃんと結婚するまで、他の女の人は当たり前やけど、ユリエちゃんともセックスせえへん、絶対。と言うと、ユリエちゃんは俺をギュッと抱きしめたまんま、まさかのプロポーズと含み笑いで言い、そして、あんたやっぱり変な人やなぁと、俺の頭をワシャワシャと犬を撫でるようにしてきた。俺はその時、もしコーヒーのお姉さんが生きてたとしても、俺はユリエちゃんと結婚してたやろうなって分かった。運命ってやつ。必然ってやつ。摂理ってやつ。
ユリエちゃんの体温に包まれてる時、そういえば、明日土曜日やから仕事休みやなぁ。今からどうしようか。ユリエちゃんと京橋のバー、カタルシスに行って、そうしたらいつもの暇人達おるから、ユリエちゃんを紹介でもしよかなと思って、その旨をユリエちゃんに伝えると、ユリエちゃんも幸太君の行きつけのバーに行きたいと了承してくれて、そうしてバーに行くと案の定、いつものメンバーがおった。その可愛い娘、彼女？と店長が訊いてきて、俺は優越感と共にもっと上やでってサラリと、フィアンセやフィアンセと言うと、そこにいた４人みんながオーッと驚きと喜びの混じった声。店内ではU2のWhere the Streets Have No Nameが流れ始めた。
凄いなぁ、幸太でも結婚出来るんやぁ。俺達の希望やなぁと誰かが言った。店長がフィアンセ、名前なんて言うの？と訊いたから、俺はユリエちゃんって言うねんって言った。するとユリエちゃんは口に含んだ酒を吐きそうになるのを堪えて、それ源氏名やでと言い、あ、そういえばそうやん。ユリエちゃん、名前なんて言うん？って聞いたら、次はみんなが爆笑した。お前凄いな、名前さえ知らん人と結婚するって話、聴いたことないでって。そういえば名前どころか携帯の番号も、住んでる場所も出生も年齢も何もかもしらんかった。知ってるのはデリヘルで働いてるってことと、年齢だけや。でも俺は石を投げへんし、投げられへんし。
もう一つ知ってるのは、ユリエちゃんの匂いと、声と、頭を撫でてくれる感触と、おっぱいの感触と、目の中に溜まっていた液体と、体温だけ。でもそれだけ知ってたら充分じゃない？結婚するにあたって、他に何を知る必要があるんやろ。
ずっとみんな爆笑してて、なぁユリエちゃん、本名なんて言うの？ってもっかい聞いても、ユリエちゃんもお腹抱えて笑ってる。ちょっとまって、とみんなの笑いを制するように言って、ちゃうで、名前さえ知らんくても結婚したいぐらい、本気やねんで。と言いながら、そんな笑わんでもってちょっと拗ねつつ、グラスに入ったテキーラコークを口に含むと、口の中に、じとっとした違和感を感じて、なんか、酒よりもグラヤマテのコーヒーが飲みたいなぁって思った