護る女(まもるひと)認める女 ニ幕

 封筒の金は日を追うごとに薄っぺらになって行く。新たな住まいはなるべく賃料の安いアパートを選んだのだが身の周りの物をバッグに詰めただけで出てきた二人にとって出費は驚くほどかさばり持ち出した金は湯水の如く消えて行った。
「─お帰り。今日はどうだった?」ここ数日出迎える度の決まった台詞(せりふ)だ。
「─うん。年末も近いしどこも忙しくはしてるんだけど求人はなかなか─ごめんよ」恭司はそう言うと疲れ切った風に大きくため息を吐いた。
「そう─お疲れ様ね。ハローワークには行ってきたの─?」狭い台所でインスタントコーヒーを入れながらそう訊くと、
「いや。あそこには僕に向いた仕事はないからね─」そう応えた。
思い切って行動に移した「駆け落ち」だが先行きは決して明るいはずもなかった。徐々(じょじょ)に追い詰められそうな金銭的な問題もあるが夫とも正式に別れた訳ではない。伝手(つて)も土地鑑もない全く知らない場所を思いつきで決め来たはいいが職探しも思うように(はかど)らず唯一確かなのは恋しい男と一緒にいるだけで、だが二人で抱き合いいくら愛を確かめ合っても揺らいでいる足許が定着する訳もない。
他人からは世間知らずで奔放(ほんぽう)に見られ勝ちだが実は臆病でいつも頭で先を見据(みす)えながら生きてきた。おっとりした柔らかな物腰と物言いは天然が故に周囲に敵を作ることもなかったがそれも自身の内心の隠れ(みの)になることを承知していた。
夫とは友人の主催したコンパで知り合った。アメリカンナイズなクールな物の考え方とスマートに思えた生き方に同調し知り合って間もなくプロポーズを受け入れ結婚したのだが、心に描き求めていた理想の家族像がその生き方の先に結びつかないないものだと知るのにさほど時間は掛からなかった。何より主張するディンクスにはどうしても賛同できなかった。一人っ子でいつも心細く仕事に忙しい両親の帰りを待ち侘びていた。兄妹がいる友達を(うらや)み賑やかな家族に憧れていた。

「─子どもはいらないって、それがどうして合理的な考え方なの─?」新婚旅行の初日、楓は夫の言葉に思わず声高に反発した。
「─向こうの国じゃかなり昔からそれも普通のライフスタイルなんだよ。君だって言ってたじゃない。スマートな生活に憧れてるって。夫婦二人きりでずっとこの先の生活を愉しむんだ。子どもがいれば色んなことが足枷(あしかせ)にもなるだろう─?」夫は穏やかな口調でそう言うとシャンパングラスに指を伸ばした。
「─だから子どもを持たないことがどうして合理的なの。大体子どもの存在が足枷だなんて思った事もないし、それが幸せだとはわたしは思わない─わたしは家庭を持ちたいの。守るべき子どもがいる温かい家庭を─」繰り返しそう言うと、
「─うん、分かったよ。そのことはまたこれからゆっくり話し合って行こう。流れに任せればいい、きっと俺たちに見合った答えが出るさ─とにかく俺は君とずっと恋人同士でいたいんだ」(なだ)(すか)す様にそう応えたが実際始まった夫婦生活で夫は避妊を徹底した。それでもベッドで身体を求められる度に愛情を注ぐべき家族が欲しい、と訴えるのだが夫は自分の欲情を吐き出すだけの行為を繰り返すばかりだった。
レディファーストを気取っていた夫のしかし身勝手な本質を窺い知るとやがて潮が引くように愛情も冷めはじめた。激しい言い争いもしばしばあったがやがて出店したレストランが流行り出すと二人共に多忙を極める様になり、店舗を増やしたことで更に忙殺される日々に追われると互いに気持ちを寄せ合う時間もなくなり楓もいつの間にか三十路を越してしまっていた。
ベッドを共にする事さえも(うと)ましくなってくるとその心の移ろいを察知したように間もなく夫は他に女を作った。時折憶えのない匂いを伴い帰宅する様になった夫とそれでも長年連れ添っていたのは自分の意思を反映することのできる仕事に遣り甲斐(やりがい)を見出していたからに他ならない。だが浮気を意に介さない振りをしているのをいい事に好き勝手に遊ぶ夫に嫌悪さえ感じ始めた頃、店の従業員の中でも一際存在感のある恭司に目が止まり救いを見出したかのようにまた(くすぶ)っていた恋心が動き出したのだった。

「─明日は少し休んでいいかな。ちょっと街に探索にでも行かない?」タバコを(くわ)え火をつけながら恭司が言った。
「あ、うん。そうね─そう言えばせっかく港町に越して来たんだものね」楓が小首を(かし)げて笑みを浮かべそう応えると恭司は灰皿にタバコを置き立ち上がり背からそっと腕を回し首筋に優しく口づけてきた。
恭司は優しいが若さのせいもあるのか金銭感覚に疎いところがあり店から持ち出した金の金額も知ろうとはせず全て楓に任せ切っていた。節約して行こうね、と言っていたにも(かかわ)らず一緒に買い物に行けば思いつくまま高級な食材を選んだり、つい先日は作ったばかりだというカードを使って職探しの帰りに狭くかび臭い畳部屋の寝室には(およ)そ似つかわしくない高価なティファニーのステンドグラスのランプを買って来たりした。
「─可愛らしいでしょ。このランプ。楓さんが好きそうだと思ってさ」そう言ってどこかまだ少年の面影の残る笑顔を向けられるとつい文句も言えなくなるのだった。

「楓さんは行きたい所ある?市場にでも行ってみる─?」煙を吐き出しながらのんびりした口調で恭司が言った。
「─うん。いいけど、ねぇ、そろそろやめない。そのさん付け」苦笑してそう応えると、
「そう?いいじゃない。楓さんは楓さんで。ずっと高嶺(たかね)の花だと思ってた人なんだから─」恭司はそう言ってタバコをもみ消すと笑って大きく背伸びをした。
「─ねぇ、あのさ、わたし働こうか?パートでもいいし」そう言うと恭司はため息を吐いて、
「─ダメだよ、そんなの。養うのは男だよ、俺の役割なんだから。もうちょっとだけ待ってて」少し眉間に皺を寄せてそう応えた。その表情が堪らなく母性を刺激すると思わず近寄りその顔を愛おしむ様に後ろからふわっと抱きしめた。
 一本の缶ビールを飲んで幸せそうに布団に包まって小さく寝息を立てている様を笑みを浮かべて見つめた後、スマホを取り出すと財布からレシートを出して今日一日の出費を記録し始めた。店でも家でも長年任されていた金銭管理が癖になっていた。
「─うーん。このまま行くとマズイかもだわ」画面に映る数字を見てそう呟きながら改めて封筒の中身を確かめた後、大きくため息を吐いた。
「─どうしたの、何かあったの?」くぐもった声が聞こえた。見ると布団から目だけ覗かせて恭司がこちらを見ていた。
「あ、ごめんね。起こしちゃった?家計簿つけてたの」そう言うと、今度は抑えた笑う声が聞こえてきた。
「え─何?何が可笑しいの」怪訝(けげん)にそう訊くと、
「ううん。ただ、楓さんが何か一生懸命にやってると可愛らしくてさ」恭司はそう応えてまた布団を小刻みに揺らした。
「ま、失礼しちゃうわね。歳下のくせに」そう言って楓も笑った。
「─ま、いいか。いざとなればカードもあるしね」またそう呟きスマホを閉じようとした時、着信の青いランプが点灯しているのに気づいた。履歴を確かめると夫からだった。ラインもブロックし電話も着信拒否してある。楓は脳裏に恐らくは憤然としているであろう夫の顔を想像しながら(おもむろ)に立ち上がると、恋人の温もりを求めてもぞもぞと布団に潜り込んだ。
 
 翌日は朝から冷たい雨が落ちていたが市場は大勢の人で賑わっていた。潮風のせいかそれとも赤銅色の肌が示している通り酒で潰れてしまったのかあちこちで売人が濁声(だみごえ)を張っている。
「─楓さん、ほらすごいよッ、でっかいマグロ─」子どもみたいに興奮した風に声を上げ狭い通路の人混みを縫うように先を歩く恭司を笑って追いかけながら楓は昨晩の着電の事を考えていた。当然憤りを向けた連絡に違いないが一度はきちんと向き合う必要がある。気の重いやり切れない問題だがいつまでも放って置く訳にもいかない。とにかく一度帰って直接対話しなければ─、そう考えている時突然生魚の匂いが鼻につくと胃の奥が焼けるように感じ思わずその場に(うずくま)った。

「─だいじょうぶ?朝、何か悪いものでも食べたかなぁ─」外にある洗面所で懸命に背中を(さす)りながら恭司が言った。
「─ごめんね、だいじょうぶ。落ち着いたから─でも何だか少し身体も重だるいから、今日はもう帰らない─?」ティッシュで口元を拭いながら楓が言った。環境の変化が原因なのか越してきてから体調が思わしくない。元からあまり丈夫な方ではなく特に胃腸はちょっとのストレスでも調子が左右される。朗らかでのんびりした外見よりずっとセンシティブな神経をしていた。
「─帰りにちょっと薬局に寄って行こう」恭司はそう言うと優しく楓の肩に腕を回した。
胃腸薬と念のために風邪薬を買って外に出ると激しくなってきた雨と共に寒風が拭きつけて来た。
恭司は自分の着ていたフードつきのジャケットを脱ぐと楓の肩から羽織らせた。
そう云った細やかな気遣いが気持ちを癒してくれる。夫にはない優しさだった。
いつもビジネスに神経を尖らせていて経済的には申し分のない暮らしをさせてくれていたが気持ちが満たされたことはなかった気がする。抱かれていてもいつも心は欲情に伴わず虚ろで子どもの頃の孤独の延長線上に置きざりにされている様に感じることもあった。だが恭司とは唇を重ねただけで心ごとを預け一つになれた至福に満たされるのだった。

「─あれ?楓さんも。これって、泣きぼくろでしょ─?小さいから気づかなかったけど、美咲ちゃんと同じだね」その晩、風呂上りでスッピンの顔の左の目元をしげしげと見つめ指差して恭司が笑った。
『─左の目元の泣きぼくろはね、母性が強くてダメな男を引き寄せるのよ。気をつけなさいね』そう笑って言った母親の言葉を思い出す。「ダメな男」と云う(くく)りが嫌で大人になって化粧するようになるとファウンデーションで隠すようにしていた。
店で美咲を気に掛け可愛がっていたのは同じぼくろがあることを認めたからでもあった。
「─あのね、着電があったんだけど─オーナーから」恭司はそう言うと少し困った様に楓を見つめた。
「え─?」思わず聞き返した。特にこの数日楓のスマホにも頻繁に着電がある。プライドの高い夫が念のために着信拒否させていた横恋慕の当事者である恭司の携帯にまで掛けて来ていることは業を煮やし何らかの結論があるものと思われた。

「─え、使えないって─?」レジ打ちの年輩の女性をきょとん、と見つめて言うと、
「─さあ?とにかく読み込みできませんが─」と怪訝な顔をして逆に見つめ返してきた。
翌日うっかり財布に現金を入れずに買い物に出てしまい、もう長年使っているカードで決済しようとしたのだが受け付けられないのだと言う。磁気に異常があるのかと思い他のカードを出したのだがやはり読み込まない。仕方なく買い物籠ごとを預けてクレジット会社に電話して確認すると紛失届けが出されている旨の返答があった。直ぐに夫の顔が浮かぶと慌てて今度はコンビニに行き銀行のキャッシュカードで払い出ししようとしたがどのカードも使用できなかった。
楓は蒼白(そうはく)に帰宅するとスマホをじっと見つめ止む無い思いで着信拒否の設定を解除すると夫の番号を検索した。

「─好き勝手やって、まだ気が済まないの─?」通話口の向こう側の声は明らかに憮然(ぶぜん)としていた。
「思いつきで出てきた訳じゃないわ─」冷静を試みそう応えると、
「もう、帰ってくる気はないんだな─?」心の内を探るようにそう訊いて来た。少しの間の後、
「─そうね。だってもう一緒に暮らす意味があるの、わたしたちに─」そう応えると、
「─そうか。やっぱり血筋なのかもな」皮肉めいた嘲笑を含んだ声が返ってきた。
「─どう言う意味よ」咄嗟(とっさ)に聞き(とが)めたが返答はなかった。
「─母さんのこと、─言ってるのね」思わず言葉に詰まり声が上擦(うわず)った。
楓の両親は楓が結婚する前の年に迎えた父親の定年を機に離婚した。
二人は一回り以上歳が離れていて原因は母親が十歳も年下の男と恋に落ちてしまったことにあった。だが父は母を詰る(なじる)ような事は一切言わず、別れる時退職金の半分を母に渡した。
『まだ、若いんだ母さんは。恋をして当たり前だからな─』母の希望を入れて建てた三人家族にしては広い間取りのリビングでそこここに埃の溜まったソファにぽつねんと腰掛け、心配して様子を見に来た楓に向き合うと薄く笑ってそう言った。
楓は父親が四十に差し掛かろうとする歳に漸く授かった一粒種だった。溺愛する様子は母も苦笑する程で楓もそんな父が大好きだった。
『─憎くないの、母さんが』そう訊くと、
『─お前は嫌いか、母さんが』と言った。少し考えたが楓が首を振ると、
『うん。良かった。お前は母さんの一部だからな、これからもずっと─』そう言って優しく微笑んだ。
新郎の手前もあるから、と結婚式には何とか二人揃って出席したが父と並んで腰掛ける母はどこか見知らぬ女になっていた。元々美しい人だったがその美貌に妖艶さと若さが加わりその気配全てから女の匂いを(かも)し出している様だった。恋をするとはこう言うことなのか、と思わせる女の変貌を目の当たりにした。

「─嫌いだったんじゃないのか。言ってただろ、母親の生き方はたくさんの人を傷つけたって」淡々と夫が言った。楓が返答に窮して(きゅうして)いると、
「─同じじゃないのかね─お前の母親と」そう言葉を重ねた。楓の眼から不意に涙がこぼれ落ちた。
「─じゃあ、あなたは何なのよ─他に女を囲って─わたしが家族を持ちたいって言っても─」込み上げた感情に詰まりながらそう言い掛けた次の瞬間、いつの間に帰って来たのか恭司が楓の手からスマホを取り上げた。

その晩、夜半に背中の差し込むような痛みで目覚めた。胃の芯にかけて焼け火箸で(えぐ)られる様な重い鈍痛で額は脂汗が(にじ)んだ。初めて経験する痛みだった。
「─ごめんね。肩甲骨(けんこうこつ)のあたりを押してくれない─」苦痛に顔を歪めながらやっと言った。
「─ストレスだよね多分、かわいそうに─。大丈夫だからね、僕がちゃんとするから」懸命に背を擦りながら恭司が言った。
長い時間指圧をしてもらっているとどうやら痛みも薄らいで来た。
「─落ち着いてきたわ、ありがと」そう言って首筋にも汗を滲ませ指先に力を込めている恭司を振り返ると、
「─本当に平気?楓さんに何かあったら僕の責任だから─」そう言って眉を寄せ不安げにいる子どもの様な表情をした。
「だいじょうぶだから─」そう応えると楓は(にわ)かに湧き上がる笑いを噛み殺した。先刻、恭司は電話口で夫に向かって威勢のいい啖呵(たんか)を切ったのだった。初めは元の従業員然とした受け答えをしていたのだがあまりにも執拗(しつよう)に責められ罵倒(ばとう)され我慢し切れなくなってしまったのだと言っていた。
『─あんたは別に誰でもいいんだろ抱ける女なら、僕は楓さんじゃなきゃ駄目なんだよッ、いいよ行ってやるよ、話しをつけにッ─』しまいにそう言って一方的に通話を切ったのだった。
「─あのね、情けない顔してないのよ。さっきの勢いはどこ行っちゃったのよ、ちょっとカッコよかったんだから」そう言って笑うと、恭司も笑った。

「─本当にいいんだな、これで」テーブルの上にある婚届けに判をついた後眼を上げて念を押すように夫が言った。
定休日のがらんとしたそれでもどこか香ばしいような空気の充満した店内に三人は向き合っていた。
「何もなくなるんだぞ、お前には。家も金も─せっかくのスキルも無駄になるんだ」夫はもう一度そう言うと今度は恭司に眼を向けて、
「幸せになれるとでも思ってるのか本気で─こんなまだ駆け出しの奴に付いて行って」嘲笑と共にそうつけ加えた。
「─失くすのはあんたの方なんじゃないですか。愛してるから結婚したんでしょ、楓さんと」恭司が真っ直ぐに夫を見て言った。夫が挑むような目つきで見返すと、
「愛した女を守ることも出来ないで僕みたいな駆け出しの若造に奪われるんだ。楓さんを失くしてついでに天狗の鼻みたいな高慢なプライドをへし折られた、あんたそのものが消えて失くなるんじゃないですか─僕がこの人を幸せにしますから。命に代えても」その目線を逸らさずに静かな口調で、だがはっきりとそう言葉を続けた。次の瞬間、夫の顔色がさっと変わった。蒼白に立ち上がるとテーブルの上の薄いクリスタルの灰皿を手に取り怒りを露わにして力任せに向かいの壁に投げつけた。パーン─!とガラスの砕け散る激しい音が耳に響くと恭司も夫に対峙(たいじ)する姿勢で徐に立ち上がった。咄嗟に無言で睨み合う二人の間に分け入ろうと立ち上がりかけたその時、強い眩暈(めまい)が襲うと目の前の視界がぐらっ、と大きく揺らいだ。思わず手を差し伸ばし恭司の身体に縋ろうとしながら楓は朦朧(もうろう)とその場に蹲る様に倒れこんだ。

鼻をつく消毒薬の匂いで眼が醒めた。憶えのない天井の模様と背に当たる硬いクッションの感覚に辺りを見回すとすぐ横に恭司がいた。
「─だいじょうぶ、楓さん。ごめんよ、体調が良くなかったのに─僕がもっと気をつけてあげてれば良かった─」点滴のチューブに繋がれた手の指先を握りながら心配そうに恭司が言った。
「─ずっといてくれたんだね。ありがと─わたし、どうしちゃったんだろ─」そう言うと得体の知れない不安が湧き上がり自然に涙が溢れ出てきた。
「─だいじょうぶだよ。ストレスと疲れだよ─ずっと傍についてるからね」恭司が言った。楓はギュッとその手を握り返し少しの間の後、
「─うん。ありがと─あのさ、カッコ良かったよ。─あの人に向かって言った台詞。嬉しかった─」優しい眼差しを見つめ返してそう言うとまた涙が湧き上がってきた。
「えへへ。ありがとう。自分でも決まった、って思ったよ」そう言って恭司が笑った時、
「─え、ごめんなさいよ。ラブラブなところにお邪魔しちゃって」そう言いながら年輩の医師が入って来た。

「─おめでとう。あんたたちの愛の結晶だよ」交互に二人の顔を見ると笑みを浮かべ医師が言った。
「─え」咄嗟に意味が分からず聞き返すと、
「おめでただよ、奥さん。妊娠したんだ。体調の変化も出産に向けての準備が始まった(しる)しだ」医師が繰り返した。
思いもかけぬ言葉に茫然と見つめ返していると、
「─これから、僕たちは親に、─親になるんだよ」楓の手を握り締めた指先に更に力を込め潤んだ声を詰まらせながら恭司が言った。
「簡単には親になれんよ。ちゃんと試験がある─」唐突に医師が言葉を挟んだ。楓が眼を上げると医師は優しい眼差しを向け頷いて、
「─お腹の赤ちゃんがあんたたちの試験官だ。決して立派な人間じゃなくてもいい。護るお父さん、お母さんになるんだよ。いいかい、例えこの先何があっても、だ。たった今、試験が始まった。答案用紙は配られたばかりだ。満点以外は合格じゃないとても厳しい難問ばかりの試験だ。だけれども必ずクリア出来る。大きなヒントを教えて上げよう。─それはあんたたちの愛、だ。─いいね」そうつけ加えた。

「─ごめんごめん。うっかり忘れちゃったよ。もう少しで飢え死にするところだった」恭司は弁当の包みを受け取りそう言うと笑って勢い良くバイクを発車させた。
懐妊を告げられた次の日、恭司は早朝から出掛けバイトだが日中は宅配便、夜間は倉庫でピッキングの二つの仕事を決めて帰って来た。
「─だいじょぶなの。そんないきなり掛け持ちのバイトなんて」心配して楓が訊くと、
「─父親になるんだ。もう甘えてなんかいられない。君たちを護る男にならなきゃ」そう言って笑った。
年の瀬を間近にした快晴の空は小春日和の陽射しを(はら)んでいた。
後ろに積んだ荷箱を少し不安定に揺らしながら走り去っていく宅配便の三輪バイクを手を振り見送りながら楓はまだ膨らみも見せぬ自分のお腹を愛おしそうに擦った。
アパートの真向かいの家の垣根の下に覗いている寒椿の花の鮮やかな紅色にメジロの夫婦が仲睦まじく蜜を吸っている。時折(くちばし)を寄せ重ね合う仕草を笑みを浮かべて見ていると、散歩に行ってきたのか同じアパートに住む親娘がこちらに向かって歩いてきた。母親は臨月が近いのかマタニティのお腹を大きく膨らませ少ししんどそうに時折息をつきながら歩いていてそれでも仲良く手を繋いでいる。その姿にふと自分とまだ見ぬ子が重なって見えた。会釈を交わした時、女の子が不意に母親の手を放しちょこちょこと駆け寄り目の前に立ち止まるとじっと楓を見上げた。思わず笑みを向けると、
「─おねえちゃんにも、ばぶちゃんがいるの?」そう訊いて来た。
「─え─?」咄嗟に意味が分からずそう訊き返すと、
「あのね、ママとおなじ、ばぶちゃんのにおいがするの」そう応えて楓のお腹にそっと耳を当てて優しく擦ってきた。次の瞬間確かに、どくん、と楓の中で胎動を感じた気がした。途端に胸一杯に感情がこみ上げると、
「─うん。─ありがとう」やっとそう言い笑いかけたその眼から自然に、温かいものがこぼれ落ちた。


                了

護る女(まもるひと)認める女 ニ幕

護る女(まもるひと)認める女 ニ幕

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-04

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