流派にない秘伝

城谷四郎は無役の六十石取りの下士。
無役なのは父親の代からで、どうすれば役を貰えるのか分からない。
鬱屈から剣術ばかりに打ち込んで、腕は上がったが使い道はない。

一生こうやって過ごすのかと諦めかけていたころ、師匠から秘伝を受ける。
親友とその妹と共に、気付けば陰謀に巻き込まれていた・・・。

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小説家になろうにも投稿しています。

一 近郷
その日、無役の城谷四郎は、非番の佐渡賀谷権六とその妹である佐切と、近郷の寺に向かった。城谷家と佐渡賀谷家は親戚であり、その法事の打ち合わせのためである。本筋は城谷家だが、元は郷士だったからか、墓が城下ではなく近郷にあった。

「暑いな」
四郎は権六や佐切に言うともなく言った。
季節は夏から秋に変わろうとしていた。まだ青々しいとはいえ稲穂が重い実りを表し、今年の豊作を思わせた。飢餓の心配はなくなるが、豊作なら豊作で、札差から得られる現金は減って、侍の生活は苦しくなる。

「何とか推算の範囲でやれそうで良かったな」
権六はその厳つい顔に似合わず勘定方だからか、金勘定に細かい。まあ、皆貧乏しているので、金勘定に細かくない侍なんて、扶持の多いごく一部の上士くらいのものだろうが、その中でも細かい。
「権六、しかし、たかだか百石の家と、無役の六十石の家、そう格式ばらなくても良いのではないか」
「やることはやっておかんとならん。貴様とていつ出仕するか分からんのだから、家中の評判ということも気にしなくてはならんぞ」
「そんなものかね。出仕しても俺など剣以外の取り柄もなし、評判なんて関係ないと思うがね」
ふん、と権六は鼻を鳴らす。無役はこれだからと言わんばかりである。無役なのは親父殿の代からで、俺のせいじゃない。ついでに親父殿の代に、百二十石から六十石に減らされたのだ。何があったんだか知らんが。

権六は、無益な話は切り上げて、妹の佐切に話しかける。
「佐切、たまには城下を出るのも良かろう」
「兄上、お気遣いありがとうございます。お蔭さまで気分が晴れました。それに・・・四郎様が一緒ですし、楽しゅうございます。ね、四郎様」
「あ、ああ」

佐切は美人で気も強いが、少し病弱なところがある。先ごろも家で寝込んでいたと聞いた。心配していたが、今日の様子では大丈夫なのだろう。兄貴がこれだからそう気軽に近づいてくる輩はいないが、俺も注意しないとな。
他愛のない軽口を叩いていると、遠くで土煙が上がっているのが見える。馬に乗っている上士がいるみたいだ。下士の礼として、道の脇に避け、少し頭を垂れる。

たった一騎で通り過ぎていった。権六が言う。
「郡代の室戸様じゃったな。お若いのに、村々を回って励んでおられるようだが、今のは気晴らしの遠乗りじゃろうか。在郷ではこのところ飢餓で死者が出ることもないし、新田の開墾やら現金収入に結びつく藍の栽培などに取り組んでおられるようじゃ。はよう執政になられると良いのじゃがな」
「ふーん、権六殿はさすがに勘定組勤め。世知に明るいな。そんなに立派な方なら、俺の扶持を戻してもらえんものかね」
「剣だけじゃ出世は難しいぞ。学問をせい」
「そ、それはちょっとアレな。人には向き不向きというのがある。俺はどうもその、書見台に向かうと寝てしまうし、子曰くの暗唱もすぐ忘れてしまうし、算盤もいまいち、頭が学問に向いておらんのよ」
「言い訳じゃな」
「言い訳ですわね」
「出世の見込みのない奴に、妹はやれん」
「嫁の来手がなくなってしまいますわね」

兄妹で追い打ちを掛けてくる。止めてくれ。現実は分かっている。無役の六十石の家に嫁の来手がないことくらい。何の実力も実績もない俺に加増してくれるなんてことがないことくらい。
しかしもう二十年近くも無役のままの家なんだ、どうすりゃいいのか分からんのだ。屋敷の畑で野菜を作るか、道場での荒稽古しかすることがないのだ。今更学問したところで、それをどこでどうやってお目に掛けるというのか。戦国の世なら、戦働きで力を示せるが、太平の世の、無役がどう努力しようが、風任せにしかならない。

ところで、無役の侍といっても、元服した藩士であるからには月1回、登城する機会がある。殿が国元におられようと、在府(江戸詰)だろうと、大抵は家老か中老に挨拶し、城内の警備にあたって終わり。しかし、元服後初めて登城した際に向けられた、上士から向けられる冷たい目線と、目配せを、俺は忘れていない。親父はよっぽど何かやらかしたのだろう。その失態と、それをすすぐ方法を教えてくれる前に、登城した俺を見て安心したのか、親父は流行り病で死んでしまった。
いくら権六と親しくしていても、親戚であっても、そんなことはとても相談できることではない。次代の執政、室戸様。立派な方だっていうけど、俺にどうしたら旧禄に戻してもらえるか、教えてもらえないものかね。時代が明るくなるというならいいが、俺としては、いつまで経っても無役じゃ、嫁ももらえん。もう一生このままなんじゃないかと、近頃は諦めの気持ちが漂わないでもない。


二 出府
俺は毎日のように道場に通っている。城下の剣術道場だ。師匠の忍(おし)源之丞は各国の放浪の果て、この藩に流れ着いたと言われているが、本当のところはよく知らない。何となく上方言葉を話すように思える。親父と旧知らしく、馬が合ったのか、その縁で俺も権六も子供のころから通っている。
自慢じゃないが、今では俺と権六は忍道場の龍虎と言われている。かつては佐切も通っていて、五歳も離れた兄をもたじろがせる剣の鋭さがあったが、さすがに近頃は道場通いを止めたようだ。

道場の朝は早い。いつも通り、重い木刀を使った素振りが始まった。エイ、エイと掛け声を絞り出しながら、汗を流す。その後、普通の木刀に持ち替え型稽古、その後組太刀の稽古に進んでいく。型稽古というのは、一人で遣う決まった技を繰り出す動きを稽古するもの、組太刀というのは、二人で一組になり、打方(うちかた)と仕方(つかいかた)に分かれ、型の決まった打ち合いを行うものだ。
中級者以上の組太刀は、型をそのまま遣うのではなく、打方、仕方双方が阿吽の呼吸で変化を付ける。間合いだったり、太刀筋だったり、受け方だったり、この変化によってお互い対応力を身に着けていく。
師匠は、俺の親父と同年輩と思っていたが、組太刀を行うと、要所要所でとんでもない鋭さの太刀筋を見せ、木刀を巻き取られたり、受け損なって打たれたりする。今日も危うく木刀を落としそうになった。逆襲してやろうと、無声の気合から変化を付けるが、すぐに読まれ、最小限の動きでそれを封じられた。結局ほとんどの場合、型以上の動きができない。全く、歳を偽っているとしか思えない。もしくは化け物なのか。
次には権六と組んだ。お互い大きな変化を付けるが、阿吽の呼吸を合わせて乱れることがない。激しく打ち合っても、ほとんどお互いの予想を外れることがなく、怪我をするような打ち込みはほぼない。とは言え、やはりヒヤリとする打ち込み、受けというのは必ずある。ここから工夫をさらに重ねていくのだ。

その後、非番の者や出仕前の年齢の者、そして俺のような無役や部屋住みの者は、出仕する諸先輩を見送ったあと、竹刀での乱取りとなる。この道場では他より重い竹刀を使い、真剣での勝負を思わせる踏み込みと切り落としを是として稽古しており、他道場よりも荒いと言われている。今日は権六が非番でないため、俺は手持無沙汰になった。師匠は乱取りに入ることはほとんどなく、若い向こう見ずな連中に稽古をつけてやる時もあるが、正直相手にならない。これなら突然鋭い剣を放ってくる佐切の方が、よっぽど稽古になる。もちろん、佐切は来ていないし、総合力で言えば、若い連中の方が高いことは分かっているが。
常であれば、一人で木刀を振っているか、見所(けんぞ)で師匠の話し相手になったりしているが、今日は師匠の部屋に呼ばれた。気合があちこちで交差する道場を後にし、母屋に行くと、薄茶が出された。

「権六と四郎、お互い切磋琢磨し、よう腕を上げたの」
「まだまだ、お師匠の足元に及びますまい」
率直な感想である。太刀筋だけなら勝ることもあろうが、組太刀で立ち合ってみて、かいま見えるのは彼我の間の深い溝だ。

「そなたらの剣は、素直で、人を疑うことを知らぬ。そしてその剣が、容易に人を殺すことも、殺されることも。じゃからこそ、儂の剣に届かぬように見えようだけ。だが要は経験のみの差であって、技量の差ではない。いずれ分かるわ」
「お師匠のおっしゃりようだと、いずれ俺や権六は人を殺し、その時になったら皆伝となる、ということでありましょうか」
「そうかも知れぬなぁ。そうであって欲しいとまでは思わぬが、兵法者であれば、いずれそうなるのだろう」
「秘伝があるやに聞いておりますが。人を殺したら、その秘伝がおのずと理解できるというものではありますまい」
「秘伝など、あってなきがごとしのものよ。あると思えばある、ないと思えばない」
「はあ」
四郎は気の抜けた返事をした。秘伝を授かったとて、使うわけでもなし。剣は好きだが、それを活かしてなんて、戦国の世でもあるまいし。

「ふん。気の抜けたことだ。おお、そう言えば、権六の勤番が決まったそうな。一年は江戸詰ということじゃ」
「お、なんと。お耳の早い。本人はもう知っているのでしょうか」
「今日、勘定奉行から伝えられるということじゃ」
どっからそんな話を拾ってくるものか。さすが道場主、上士の子弟もいないことはないから、そのあたりからなのだろうか。
それにしても、権六のやつ、勤番とは羨ましい。俺だって江戸に一度くらい行ってみたい。悪さをして減石、閉門なんて藩士もいないではないが、聞くところでは大抵の藩士は楽しそうに在府の様子を語ってくる。まあ、無役の俺には縁遠いが。

夕刻、太鼓が鳴って、城勤めの侍が大手門を下がってくる。家に向かう道で待っていると、権六が浮かない顔で歩いてきた。
「おう、遅かったな。暗い顔してどうした」
権六は眉を上げると、何かに思い当たったようだ。
「わざわざここまで出てくるとは、お師匠に聞いたのだな。俺が次の勤番になったこと」
「ああ。よく分かったな。まあ、ちょっと一杯いこうや」

赤ちょうちんに入る。町人が多い店だが、上がりがあって、侍なら一応そこに通される。密談というわけにはいかないが、そこなら静かに話せる。
「全く地獄耳のお師匠だよ。俺が出仕することになった時だって、親父から聞く前に、お師匠から聞かされたんだぜ。信じられん。道場に通ってくる、上士の子弟から仕入れるのだろうか」
「いや、どうも上士と直接付き合いがあるみたいだ。番頭とか、中老の屋敷で見かけたという者がいた」
「ふーん。お偉方に通じられるほど、流行っている道場とも思えんがね」
などと他愛もない話。
しかし来年には勤番か。これと言って権六の他に友もいない俺としては、いい歳してなんだか不安だ。

「佐切が心配だ。世話は辰平の爺さんがいるからいいとして、ああ~心配だ」
「少しは自分の心配もしろよ。どれだけ妹好きなんだ」
「だってなあ、心配だろう。あんなかわいい妹が、一人で、といっても爺さんはいるぜ、だけどまあなんだ、不安じゃないか。そうだ、お前は毎日家に来て、様子をみるんだぞ」
「あのな。未婚の娘しかいない留守宅に、無役の俺が毎日行ったらどんな噂を立てられるか。それこそお前も俺も評判どころじゃないぞ」
「毎日遠くから見守っていろ。何かあったら文をよこすんだぞ」
「おーい」

春になって、権六は殿の出府に随行し、江戸に向かった。



三 秘伝
夜中の道場。幽霊なんぞ信じないが、揺らめくろうそくの明かりと、隙間から差し込む月光で照らされる道場の羽目板は、奇妙に黒光りして居心地を悪くさせられる。
今日で四日目、今日が終わればあと六日。師匠から俺は秘伝を授けると言われ、十日間の深夜稽古に臨んでいた。始まる前に馬鹿みたいに冷たい井戸の水で潔斎し、道場に入ってきた。寒い。寒いが、秘伝の伝授という皆伝の儀式に、柄にもなく心が躍り、燃えたぎっている、はず、だったが。

「ではもう一度だ。この技は調子が全て。それが取れなければ死ぬ」
ひたすら師匠の扇子を叩く音に調子を合わせ、下段に構えた低い姿勢から切り上げ、刀を返さず握りを変えて峰打する。その稽古だけを、夜中じゅう続けていた。合戦の時に役立つ技というが、一体何なんだ。合戦なんて、いつの時代だって。さすがにもう続けられんと思ったとき、師匠がボソッと言う。
「この稽古は今日これで終わりだ。明日からは、居合を遣う」
「はあ~、え、居合、とはまた・・・」

昼間は屋敷の裏手の畑で作っている大根や葉物に水をやったりはしたが、ほとんど寝ていた。夜中じゅう扇子の音を聞いていたものだから、うたた寝でも音が聞こえてくる気がする。幻聴というやつである。しかし寝ていてもぴったりと調子が取れることがわかる。あれだけやればそりゃそうなるだろうが。
技は遣えても、使い道が分からないとは・・・。

夜中になってまた道場に行く。これまで同様、井戸水で潔斎して道場に入る。流派には居合技はない、かどうかは知らないが少なくともこれまで習得した技の中にはなかった。
道場の見所には、二尺一寸くらいの短か目の刀から、三尺近くある長刀まで、五振りが並べてある。ここからひたすら抜き付けと納刀の稽古が始まった。
最初は真ん中の二尺五寸からはじめて、いったん長い刀まで遣う。次は徐々に短い刀に移っていき、二尺一寸で稽古した。そしてまた二尺五寸から長刀へと。
これまで居合の稽古をしたことはなかったから、少しは時間がかかったが、最初のぎこちなさは徐々に消えていき、長さに関わらず滑らかに、高速の抜き打ちが放てるようになった。
そして最後の日。空が白んでくる頃に、師匠が言う。

「相手が抜き放っていて、自己が居合の場合は、鞘の内に刀がある故、一見状況としては不利なように見えるが、相手の刀は見えており、自己の刀は形を見せていない。その時、相手は陽で自己は陰だ。相手が斬りつけると、それは陽から陰に変わる。そうすると、今度は鞘の内にある刀が陰から陽に変わるのだ。これを後の先といい、鞘の内という」
「分かるようで分からん話ですな。要は、居合によって間合を隠せることの有利さを活かして、相手の初発を躱すことでできる隙にぶち込めということで良いのですか」
「まったく、乱暴なやつだ」

木刀を以て、師匠が打ちかかる。俺が抜き打つ。その呼吸を理解しろということだろう。何度か繰り返すと、意味が分かった。
「そうだ」
師匠は満足そうにいい、手を振って母屋に下がっていく。これで終わったということなのだろう。

俺は、道場のろうそくを片付け、立膝で座って一人瞑想している。師匠は伝授を始める前に、その内容を人に漏らさぬことを俺に誓わせた。秘伝だ、一子相伝だ、お前をいつか守る技となるはずだ、と笑いながら言った。一子相伝は笑いごとなのか。そして本伝と全くかかわりのないこの秘伝は何なのだ。
後の先、は確かに得心がいったが、しかし心得や呼吸という意味では、本伝でも似たようなものはあったと思う。正直なところ、技やその呼吸は会得したが、意味が分からんままであった。
とは言え、秘伝とはそんなものなのかも知れぬ。以前師匠が言った通り、あると思えばある、ないと思えばない。剣術とは、形があるようでないものだ。そう理解しておくしかない。
この時の俺は、そう自分を納得させ、瞑想をやめにした。



四 過去
 秘伝の伝授が終わって、また平穏な日々が戻ってきた。屋敷の裏で野菜を作り、時折権六の家に寄って佐切と立ち話しては、野菜を渡した。道場にもほぼ毎日通うが、権六がいない道場では、組太刀の相手にも事欠き、師匠は近頃見所にも母屋にもいないときがあって、勢い、一人で型稽古をすることが多くなっていた。それはそれで有益ではあるが、1か月もすると飽いた。

 ところが、その平穏が破られる時が来た。道場に行くと、見所から師匠が手招きする。挨拶をしようとすると母屋に呼ばれた。
 「室戸様がな、お主を呼んでいる。知っとるじゃろ、室戸様。今は郡代の」
 「お師匠、いくら無役といっても、郡代くらいは知っております」
 「おお、それなら良い。室戸様は、最近刺客に狙われておられるらしい。さすが次の家老と言われる御方じゃな」

嫌な話を聞いた。刺客を防げという話しかないな、これは。
「引き受けよ、四郎。お主とて、万年無役で良いとは思っておらんだろう。室戸様は、首尾よくし遂げれば旧禄に戻そうとおっしゃったぞ」
「それは」
「ふふ、乗り気になったか。日が沈んだら、室戸様の屋敷を訪ねよ。門番には話が通っている。案ずるな。皆伝のお主がしくじる仕事ではないわ」

正直、これは面倒なことになったとしか思っていなかったのだが、師匠は勘違いしたようだ。郡代は次代の家老だと言われ、家中で重きをなしている人物。刺客がどんな輩か知らんが、徒党を組んで襲い掛かられたら、防ぎようがない。し遂げればというが、こういう空手形が一番危ないのじゃないか。世知には疎いが、貸本だとよくある展開ではないかと思った。

とは言え、秘伝まで受けている師匠の指示であり、また如何に無役とは言え、家中でそれだけの人物からの依頼を断る勇気もないわけである。権六と佐切なら、また言い訳だとなじりそうだが、仕方あるまい。日没後、暗くなりつつある町を抜け、上士屋敷町の端の方にある、室戸様の屋敷に向かった。

門番に氏名を告げる。門番は少し怪訝な顔をして引っ込んだが、すぐに庭に回るように言われた。上士の屋敷だ、俺ごとき無役は庭で当然かと思いながら庭に回ったら、外廊下に師匠がいた。ますます怪しい・・・。
我が師匠ながら、上士との変なつながりであったり、そもそも他藩から流れてきたという割に、城下の道場は広く、謎が多い人物である。
 「おう、やっと来たか。室戸様もそろそろ下城される頃じゃ。こちらから上がれ」

師匠に連れられてきた座敷でかしこまっていると、郡代と知らん顔の上士らしき人が二人入ってきた。少し離れて座る、師匠が俺を紹介する。
「この者が城谷四郎でござる。城谷九郎兵衛の倅で、我が道場の師範代を務めております」
 え、俺って師範代だったの。そんなのあったのか。などと思いながら、俺も姓名を名乗り、平伏する。
 「おお、九郎兵衛のな。親父殿も、良く剣を遣ったな」
 知らん顔の上士の一人が言う。郡代は、何も言わず俺の顔をまじまじと見つめている。しかし、上士からよく受けた「あの目つき」ではない。冷たく、憫笑しているようなあの目ではなく、今郡代が俺を見ているのは、優しさというのか、どちらかと言えば、温かいまなざしだった。

 「九郎兵衛は、精密な剣を遣いましたな。わしも彼の剣にはてこずったものでござる」
 「しかし城谷は・・・今更ではあるが。城谷、貴様は親父から聞いているのだろう」
 俺を差し置いて話が進んでいく。顔の知らん上士たちは、やはり俺の顔を見て、憐憫の情を浮かべているように思える。それはそうと、聞いているかとは。怪訝な顔を察して郡代が説明し始める。まさかここでその話を聞くことができるとは、思いもしない。

「お、そうか、聞いておらなんだか。二十年前、城谷九郎兵衛は中老だったわしの父を護衛していたが、仕損じた。わしの父は死にはしなかったが重傷を負って、引退せざるを得なくなった。これでこの藩の改革は二十年遅れたな。藩財政の再建は夢となりかかっている」
郡代は、淡々と続ける。
「室戸殿っ・・・」名前の分からない上士が止めようとするが、郡代は言い切ってしまった。
「刺客は今も分かっておらぬ。しかし上意だという者がいる。室戸も、城谷も、反逆の家だというわけだ」

話についていけない。郡代の親父殿は、病気で致仕されたのではなかったのか。親父殿と、俺の親父は、殿に反逆した結果、致仕され、減石されたということなのか。しかし本当に上意なら、お家断絶でもおかしくない。いったい・・・。

「まあ、昔話はそんなところで良かろう。もうすでに源之丞から聞いていると思うが、わしの護衛をせよ。親父は圧倒的に正しく、幕閣の支持もあった。だから上意といっても暗殺するしかなかったのだろう。表だっての上意討ちとなれば、幕閣は納得しないということだろう。そしてわしも。暗殺によって死なず、刺客を防ぎ切れば、藩を正すことができよう。その暁には城谷も旧禄に戻し、場合によっては加増もできよう」
「承知しました」

束の間、逡巡したが俺は受けることにした。過去のいきさつを聞いても、他人事のようにしか感じなかったが、もう無役で憫笑されるのだけは我慢がならん。ここらで挽回しなくては、嫁とりもままならんし、もうずっとこのままじゃないか。権六と佐切には短慮だと責められるかも知れんが、俺は腹を括って、郡代に加担することにした。


屋敷から下がり、師匠と歩いていると、また重大事を告げられた。
「実はの、権六が失踪した。錯乱して江戸屋敷を出奔したという。いったいどうしたというのか、心当たりはないか」
「まさか、あの真面目な権六が・・・。何か理由があったのではないでしょうか」
「わからん。なにか手紙などきていないのか」
「いえ、江戸についてひと段落した、非番は江戸の剣術道場で指南してもらう、という手紙を一度もらったきりでござる。便りがないのは良い知らせかと思っておった故・・・」
「そうか・・・。秘伝のこと、よもや漏らしたわけではあるまいな」
「まさかそのようなこと。直弟子をお疑いですか」
「いや、すまぬ。それならよい。権六のこと、心配じゃな」
なぜか最後は取って付けた言葉のように思えてならず、違和感が残った。

辻で師匠と別れ、自宅に向かった。しかし、本当にどうしてしまったのか・・・権六。子供のころから遊びや剣術に明け暮れてきた、家族同然だった男。屈託のない、真っすぐで、真面目に勘定組に勤めていたとばかり思っていたが、その裏に何かあったのだろうか。
そして佐切。あれだけ妹想いだったのに、家が立ち行かなくなるようなことを、なぜ。考えてわかることではないか。俺だって、「あの目」のこと、減石になった事件のこと、一度も話すことはなかった。奴とて、何か抱えていておかしいことはない。これ以上、考えても仕方あるまいが・・・。佐切は見舞ってやらねばなるまい。



五 護衛(一)
今日は番頭(ばんがしら)の邸宅からの護衛である。護衛についてから三回目の呼び出しだ。護衛の用がある日は、室戸家の用人か、その使いが来て、屋敷まで行くことになっていた。
番頭の屋敷から室戸の屋敷までは、さほどの距離はないが、上士屋敷が並ぶ辺りは、壁が長くて人通りが少ない。場所によっては襲撃の危険はあろう。

番頭の屋敷の控え所で他の供侍と待っていると、用人が呼びに来る。今日は早かったな。たぶん、番頭は室戸派なのだろうな、などと思っていると、駕籠(かご)の準備ができたとのことだ。門を出て、外の安全を確認する。郡代が駕籠に乗り、供侍が前後につく。用人が駕籠の左、俺が右後ろについて、駕籠担ぎの人足が掛け声を発し、出発した。
しばらく掛け声だけが暗闇に溶けている。今日も何事もなく終わるだろう、と思っていると、正面から提灯を掲げた、一見して胡乱なやくざ者が向かってくる。後ろを伺うが、後ろからは来ていない。俺は素早く駕籠の前に出て、分かりやすく鯉口に手を掛けながら、声を上げる。
「郡代様の駕籠である。用がなければ道を空けてもらえないか」

こういった輩は、高圧的過ぎても反発するし、下手に出ると付け上がる。しかし何の利もなければ避けるはずだ。

「ちょっと手元が不如意でよ。近頃羽振りが良いと噂の室戸様によ、少し無心を頼めないものかと思ってな。どうかね」
男たちからはあからさまな敵意。しかもこの国の話し方ではない。流れ者か。それなのに室戸の名を言った。これは襲撃で間違いない。

俺は鯉口を切って抜き放つと同時に、正面の男に近づき、鋭い気合を放ちつつ、袈裟掛けに打つ。もちろん、峰打ちだが、肩は折れたかもな。男たちは怒号を上げて、匕首や長脇差を抜き、俺に殺到してくる。しかし俺にはまだまだ余裕があった。匕首を突き出した男の腕に強く峰を叩きつけると、その男は匕首を取り落とし、腕を抑える。腕が折れただろう。
長脇差の男二人は、飛び退って体勢を整えようとする。さすがに喧嘩慣れしている。とは言え、その動きは俺にとってみれば鈍重で、たかが流れ者の喧嘩流に過ぎない。俺は下段の構え、飛び退る左の男に向かい、無造作に近づく。右下から左上への切り上げで、長脇差を弾き飛ばす。次の瞬間には右の男に峰を返した胴薙ぎをぶち込む。返す刀で左の男にも峰で袈裟打ち。
呼吸が何回か繰り返される間に、四人を倒した。不具にはなったかも知れんが、死にはせんだろう。

闇の中から、五人目がゆっくりと姿を現す。着流しの浪人。歩き方を見ても、手練れだとわかる。重心が動かず、ゆったりと流れるように近づいてくる。俺よりも、だいぶ歳上だろう。刀は抜いていない。居合を遣うのか。
「荒っぽいがな、あんさん。ひひ。久しぶりに面白い獲物じゃのう。これは殺しがいがありそうだ」
峰を返している余裕ではなさそうだ。こちらも殺すつもりでかかるしかない。

正眼から右足を一歩引いて八双に構える。しかし刀をあまり立てず、後ろに傾け、右肩に担ぐような構えにする。居合が後の先なら、こっちは先の先、初発の速度で制しよう。相手の鋭い圧力を、身体の左側に受け止め、仕掛ける隙を伺う。浪人も足を止め、左手は鯉口に、右手はだらりと下げている。やはり居合の構えか。しかし遣うと分かっていればやりようはある。
口ぶりに比べ、浪人の動きはひどく冷静で、漫然と仕掛けてくることはない。こちらが半足動けば、それに合わせて前後する。そろりと右に動いても、徒らに距離を縮めたりせず、合わせて回る。まだ涼しい春の夜とは言え、無言の駆け引きに、汗が噴き出してきた。道場稽古なら既に動いて何度も入れ替わっているだろう。しかし真剣の重みは、重量だけ模した木刀や竹刀とは違う。
容易に人を殺す。そして容易に殺される。師匠の言葉が頭をめぐる。身体は獣のように研ぎ澄まされているが、頭がついていくかが不安になってきた。その時、浪人が口を開いた。
「あんさん、人を斬ったことがないな」
「うるせえ、今から斬る」

これを合図に浪人が右手を柄に掛ける。左に足を出したのを、俺は見せかけだと看破し、刀を傾けた八双のまま無声のまま突進する。浪人はにやりと口元を曲げながら、抜き出した刀を一文字に斬りつけてくる。居合の刀が俺の身体に届く前に、勢いを乗せた八双の刀が浪人を袈裟斬りにした。浪人の身体の肉と骨を断ち斬った感触が手に残る。止めが必要かと思ったが、これは真剣勝負ではなく、護衛だった。血振りし、懐紙で刀を拭いて収める。
腰を抜かしている人足を起こし、体勢を立て直す。供侍の一名に郡代が声を掛け、町奉行を呼ぶよう指示した後、すぐに室戸屋敷に向けて再出発した。幸い、その後は何事も起こらず、無事に屋敷に到着した。

「いや、本当に出るとはな。城谷の腕なら大丈夫と、源之丞から太鼓判があったとは言え、お主も初めての真剣であろう。さすがに少しひやひやしたぞ」
郡代は、本当にひやひやしたとは思えない、呑気な声で言う。
「は。少しお見苦しいところをお見せしました。真剣の重み、漸く知ってございます」
「ま、首尾よく退けられて何より。怪我もないようじゃな。頼みにしているぞ。し遂げれば、わしは必ず約束を守る」

ほっとした。まずは無事で切り抜けられたこと。郡代の信頼を失わずに済んだこと。そして、郡代はこんな時にも約束を守ると繰り返した。当初は護衛など気が進まなかったが、これこそが本当の希望ではないかと思うようになっていた。

そこに町奉行が飛び込んできた。
「室戸様。ご無事で何よりでござる。供回りの者にもお怪我はなかったでござるか」
「大丈夫だ。城谷が撃退してくれたでな。確か流れ者のような者が五人、四人は博徒崩れか何か、うち一人は着流しの浪人で凄まじい居合を遣った」
「それなのですが・・・闘争の跡は残っていますが、一人も残されておりませんでした」
「逃げたか。しかし浪人は城谷が斬ったと見えたが」
「血は残っておりましたが、人間は跡形もなく」
「不思議じゃな」
「不思議でございます。この短時間で、大怪我をした人間を連れて逃げられるものでしょうか。辻番は気づかなかったと言っています」
「分からんな。使嗾した者が、証拠を消すために更に援護したとでも」
「そこまでは。しかしこれで終わりとは思えません。我らも見回りを増やしますが、室戸様も十分な備えをお願いいたし申す」

やっぱり、厄介なことになった。あの浪人は確かに斬った、と思う。死に至ったかは分からないが、深手を負わせたことは間違いない。他の博徒崩れは、肩や腕を折っただけだから、動けないことはないが、町奉行所の動きよりも早く、全員が逃げおおせるというのはやはり不自然のように思えた。何か大きな力が背後にいて、闘争の跡を消し去ったのではないか。
しかし、だからと言って逃げ出すわけにはいかない。この闘争が終わるまでは、この船から降りることはできない。いったん決意したことだ。最後まで守り切るしかない。



六 護衛(二)
今度の護衛は、時間がかなり遅くなった。夜更けといってよい。家老の屋敷に入った郡代は、恐らく何らかの強硬な談判を行っているのだろう。俺が中身を知ることはないし、その必要も全く感じない。今は郡代を守り切って、家を旧禄に戻すことに集中するしかない。

権六の行方も気になるが、今の俺が権六にできることはない。佐切をたまに見舞っているが、今のところは、屋敷を明け渡すなどの沙汰はない。藩としても、書置き一つない出奔であるし、今や藩を割っての権力闘争中であるから、下士一人が行方不明でも、そのうち沙汰すればいいということなのだろうか。

さて、また今日も護衛である。いつもの通り、表通りの様子を確認し、郡代を駕籠に乗せる。郡代は、さすがに長時間の談判で疲れ切った様子だったが、何がしかの成果があったのだろう。どことなく安堵している風にも見える。こういうときに、襲撃があるものではないかと思った。
家老の屋敷と郡代の屋敷は、同じ上士屋敷町の中ではあるが、上士屋敷はそれぞれが広く、雑木林や火除地、広小路も含まれるため、それなりに離れている。この時間では、普通に歩いている人間はいない。飲み屋小路だとしても、もう町木戸が閉まる時間である。お供以外の人間は、襲撃者と思って良いだろう。

しかし不思議なのは、郡代はいつもの供回り以上に、人数を増やそうとしないことだ。駕籠担ぎの人足以外には、供侍二名、用人、そして俺だけだ。前の襲撃は、流れ者のやくざが多く、浪人と連携して襲ってこなかったから防げたが、複数の剣客に取り囲まれたら、とても守り切れない。その懸念は郡代に伝えた。しかし、上意での暗殺を想定するなら、刺客が多数ということはあり得ない。むしろこれから護衛を増やそうとしても、護衛に裏切り者が含まれることが避けられず、より危険性が増す、というのが答えだった。師匠に話をしてみるという俺にも、
「はは、あの男が護衛などするわけがない。しかも、あの男は必要があればわしの首だって取るだろう。わしらとは、『違う』のだ」
いや、何かしらの疑いは抱いてはいるが、そこまで、俺は言ってないぞ・・・。師匠は味方ではないのか。

ともかく駕籠は進み始めた。いつも通り、前後を供侍が守り、駕籠の左右に用人と俺が付く。刺客が複数ではないことを祈りながら、周囲の暗闇の気配を探る。左側が武家屋敷の壁、右側は雑木林になっているので、右側を特に警戒する。
しばらく進んでいく。何も起きず、人足は順調に駕籠を進めている。息を吐くその刹那、右後ろから殺気が放たれる。とっさに切り結び、刺客の勢いを受け流す。どうやら雑木林の枝から飛び降り、勢いをつけて飛び込んできたようだ。軽業師かよ。誤って力で受けたら押し倒されただろう。相手は覆面の侍。と見た次の瞬間、自ら覆面を剥ぎ取ってこちらに投げつけ、横薙ぎの一閃を放ってくる。その刀を避けようとして、俺は驚きで一瞬止まってしまった。
「ご、権六・・・」
驚きから避けきれず、俺は胸の辺りを斬られた。やられたかと思ったが、後ろに大きく飛び退り、手を当ててみると浅手だ。大したことはない。
刺客とは、権六だったのか・・・。

「上意により、室戸様のお命を頂戴いたす。四郎貴様もだ」
「そうだったのか・・・。しかし二代続けて護衛が務まらんのでは、武士の名折れ。上意などお主が言っているだけのこと。俺にとっては、お主は暗殺者だ。返り討ちにしてくれる」
「ふふ、お主はそういう奴じゃのう」
「出奔したと聞いたぞ。いったい何があって上意討ちなどと」
「護衛にお主が付いたことで、生半可な人間では上意討が務まらなくなったのよ。それでわしに声がかかった。多少不本意な方法で強制されたと言えなくもない。しかし、上意とあらば致し方なし。それに」
「それに」
「お主と本気で立ち合いたいと思ったことも確かだ。お主は、お師匠から秘伝を受けたのじゃろう。江戸では暇を見つけては他流の道場で腕を磨いた。秘伝を破る工夫もできているぞ」
「秘伝は」
そんなものじゃない、と言いかけて、師匠との約定を思い出す。秘伝の内容を、誰にも伝えてはならぬ。権六、秘伝はお主が思うような、奥義とか奥伝ではないぞ。
「城谷っ、何をしておる。討て」
郡代がいつの間にか駕籠から降りて叫んでいる。

そんな叫ばなくてもわかっている。権六だろうが、もうやるしかないんだ。
「権六。俺も、本気で立ち合いたいと思っていたよ。さあ、やろうぜ」

お互い手の内を分かりあっている間柄だ。権六は江戸の他流道場で何か身に着けたようなことを言っていたが、俺だって、その間遊んでいたわけじゃない。秘伝は偽物かもしれんが、浪人との真剣立ち合いも経験した。技は互角。ほんの毛先ほどの何かの差が、勝敗を分けるだろう。

初撃、二撃目のような変則的な遣い方ではない。申し合わせたように、双方とも正眼に構えた。暫しの間があり、俺から仕掛けた。鋭く踏み込み、気合を掛けながら上段を打つと見せかけて逆胴を放つ。権六は一歩前に出て受ける。俺は刀を外し逆袈裟、そこから持ち替えて切り上げる連続技。権六は俺の刀を逸らしながら柔らかく後ろに下がり、切り上げを押さえようとする。お互い前進して、極近間合いでの鍔競り合い。暫し押し合いお互い大きく飛び退って間合いを取る。

また双正眼。静であっても動であっても、常に俺と権六は動いていた。どちらからともなく呟く。
「風が・・・」
「強いな・・・」

申し合わせたように双方とも八双の構えに移す。浪人に向かった時は、居合への対処として寝かせるような攻撃重視の構えとしたが、この場合は身体を開き、刀を立てる通常の八双の構え。今度は権六から仕掛けてきた。
大きく前進しながら胴薙ぎから逆胴、上段に取る。俺は刀を弾こうと狙ったが難しく、合わせて大きく下がり、上段からの剣を霞で受ける。権六の刀を外して左に変わり、逆袈裟に斬る。権六は逆袈裟を受けずに更に左に回って躱し、少し下がってまた八双に取る。

俺も一旦八双に取ったが、ここで更に変化した。八双から右足を更に引き、刀を後ろに倒しながら左こぶしを右腰にほぼ付ける。刀は横に寝かせて、正面から見えない位置まで隠す。
「車」の構えを取った。この構えからの変化は少ないが、間合が読みにくいうえに、横薙ぎ、面打ちでの強力な斬撃が出せるのが特徴である。浪人との斬り合いで、間合の見えにくさは真剣では大きな有利を生み出すことを強く認識した俺は、このタイミングで変化させたのだ。
権六は、八双から動かずに少し首をかしげた。
「それが秘伝か。見切ったぞ」

権六が距離を詰めてくる。車の強力な斬撃を受けまいと、懐まで飛び込んでくる。野太い気合と共に、八双からの袈裟掛け。しかし車は誘いである。俺は合わせて下がり、権六の刀に向けて横薙ぎの一閃で刀を逸らし、振りかぶって裂帛のん気合と共に上段を襲う。権六は弾かれた刀を反動で旋回させ、下段から切り上げてくる。相討となる直前、俺の刀は権六の肩付近を斬り裂いて、権六は後ろに飛び退った。浅かったか。

権六は何も言わず、刀を納め、あとじさっていく。
「まて、権六。貴様」
声を掛けた途端に雑木林の方に向きを変え、敏捷に逃げ、闇に溶けた。追おうと思えば追えたのかも知れないが、これで良かったと思う気持ちもあった。権六はたった一人に近い、友だった。たかが家のために、友を殺すなんてことは、ない方がいいに決まっている。

「逃げられたか。しかし傷は負わせたようじゃな。ようやった」
「はっ。しかし権六は並の手練ではありませぬ。再度の襲撃もあり得ます。その前に、疾く屋敷へ」

半ば無意識に、俺は用人と交代して左側に立った。右手の雑木林から強い風が吹き付けている。もしそちら側から再度襲撃しようとすれば、権六の傷から流れる血の匂いですぐにわかるだろう。もう一度襲撃するなら必ず屋敷側からだ、しかもあの軽業(かるわざ)を考えれば、壁の上からというのも十分あり得る。と言葉で伝えるならそうなる。しかしその時は権六との立ち合いの消耗が激しく、そこまで頭が回っていたわけではない。

駕籠がまた動き出した。二町も進んだところで、何かが俺に襲来を告げた。屋敷の壁から影が現れ、一直線に駕籠に向かう。俺はそれを目で見る前から、身体が動き出し、居合を遣った。さんざん稽古した、後の先。駕籠を襲おうと振りかぶる権六を、居合により速力を増した俺の刀が、横一閃、権六の腰の辺りを斬り裂いた。勢いで数歩進んだが、振りかぶった刀が振り下ろされることはなく、致命傷となったことがわかった。権六は刀を落とし、膝をついて倒れた。俺は権六に走り寄る。

「権六・・・すまぬ」
「何を・・・武士の一分を懸けて、戦った。わしは、ほんの少し、お主に及ばなかった。それだけよ」
「なんで、こんなことに。こんなことのために」
血が広がっていく。俺は、こんなことのために、親しい友を殺すために、これまで剣の稽古をしてきたというのか。俺は、おれ、は。

「鈴蘭」
「え、なんだ。何と言った、おい」
「・・・」
唐突に言葉を発した権六は、気付けば既に事切れていた。

郡代が駕籠を降りて、近づいてくる。
「佐渡賀谷か・・・お主の同門だったな。最期に何か申したようじゃが」
「いえ・・・それがこの風でよく聞き取れず。敵対したとはいえ、友の最期であるのに・・・。申し訳ないことをしてしまい申した」
「そうか。佐渡賀谷は江戸下屋敷を出奔し、行方不明になっておったが、よもや刺客として現れるとはな。何か聞いておったか」
「まさか。錯乱し出奔したとは師匠から聞きましたが、何かの間違いかと思っておりました。それ以上のことは何も。上意とはまことなのでしょうか」
「分からん。何者かが上意を枉げているのか、それとも本当に上意なのか。いずれにしても、暗殺するしかない上意などに、わしは屈するつもりはない。ところで、佐渡賀谷を倒したあの剣が、秘伝の技なのか」
俺は曖昧に笑って、かぶりを振った。何故、郡代は権六のことを、それから秘伝のことを知っているのか。いや、権六も何故か秘伝のことを知っていた。俺は誰にも言っていない。だとすると、師匠、なのか・・・。

まさか師匠こそがこの黒幕であるのではないかという、恐ろしい想像に慄然としながら、郡代の屋敷までの道のりが長く、足が重い。上士屋敷の壁は、かように長かっただろうか。



七 佐切
佐渡賀谷家は、権六の親父・お袋殿は、五、六年前の流行り病で亡くなっており、権六はまだ嫁を迎えていなかったから、佐切しかいなかった。権六は上意と言ったが、江戸藩邸にいる殿の意向も、家老からの指示も伝わってくることはなかった。結局、郡代を襲って返り討ちになったとして、佐渡賀谷家は断絶、佐切は勝手次第との沙汰が下された。
俺は佐渡賀谷家の親戚として、室戸屋敷から権六の遺体を引き取った。佐切と共に、形だけではあるが権六の葬儀を済ませた。佐切とは、ほとんど口を聞かなかった。というか、聞けなかった。
権六の遺体には切り傷があり、病死でないことは分かり切っている。そもそも江戸屋敷から出奔したという話は佐切も聞いているわけで、どうなってこうなったのか、何となくは分かっているのかも知れない。俺が斬ったということまで、分かっているのかどうか。どう思っているのか。話すのも、聞くのも怖かった。

しかし、権六の最期の言葉は「鈴蘭」。佐切に聞け、もしくは佐切の面倒をきちんとしろということだろう。屋敷の明け渡しまではまだ五日ほどある。それまでに話をして、佐切の身の振りも決めねばならぬ。

鈴蘭。まだ季節が少し早いが、屋敷の脇に咲いているのを摘み、匂いをかいでみる。小さな花。こじんまりとした、清楚で、香りの強い花。根には強い毒があるという。子供だった俺は、そんな毒のことなど知らなかったが、佐切の花だと思っていた。
佐切は、子供のころから小柄で、俊敏で、気が強いが時たま病弱だった。外で遊んでいるときは男顔負けというところがあったが、家で寝ていることも結構あったように思う。そんなときは、手近にあった鈴蘭を摘んでは、彼女に渡していた。身近にあったからか、彼女の印象に合っていると思ったのか、彼女が喜んだことがあったからなのか、よく覚えていない。
そんな様子を見ていた権六は、鈴蘭で誓いを立てたなどと囃すことがあった。しかしそれは俺たちしか知らないこと。郡代や用人、供侍を警戒したのだろう。

さて、摘んだ鈴蘭を紙に包んで、佐渡賀谷の家に行く。佐切は相変わらず何も言わずに、部屋に上げてくれた。簡素な台に、権六の戒名の書かれた真新しい位牌が置かれて、線香と水が供えられている。俺も線香を上げて、手を合わせた。たった数日前、俺が命を奪ったのだと思うと、今権六に言えることは何もないのだ、と改めて思った。

佐切に向き直り、鈴蘭を渡す。佐切は、やはり何も言わずに受け取り、権六のものと思しき茶碗に水を入れ、そこに活けた。
俺は何と言っていいのか分からず、いろいろ迷って変な間があった後で、言った。
「佐切、これが権六からの最期の言葉だった。奴は、『鈴蘭』と言い残したよ」

佐切は、暗い声で独り言のように答える。
「そう。やっぱり、そういうことになったんだね」
「俺を恨んでいるか。いや、そりゃそうだよな。たった一人の兄貴を奪ったのだからな」
「いや、私だって武家の娘だから、こういう日が来ることは覚悟していました。それに、兄上から話は聞きました。数日前の夜中に、うちに来ましたから」
「そうだったのか・・・。不本意なやり方で強制されたと言っていたが、何か聞いたのか」
「私にもそのようにしか言いませんでした。恐らく、何か不祥事をでっち上げられ、妹にも累が及ぶなどと脅されたのでしょう。愚かな兄上」
「そう、言うな。権六は、常に佐切を心配していた。江戸勤番が決まった日も、自分のことよりも佐切の心配ばかりをしていたのだ」
「そんなことだから、こういう結果になるのですよ・・・」
「・・・」

暫く間があった。
「そう。でもそういうことだけで、あんな大それた事をして返り討ちになったわけじゃありません。兄上は、四郎様と本気で立ち合う機会を欲していました。徐々に開く技の差を気にして、江戸では随分といろいろな道場を回ったみたいで、暇があれば稽古していたようです。四郎様が秘伝を授けられたと聞いて、それを打ち破る工夫を本当に行っていたと言っていました」
「そうか・・・ん。秘伝を授けられたというのは、誰から聞いた話だったのだろうな。師匠と俺しか知らん話を、権六も郡代も知っていた」
「さあ。そこまでは聞いておりません。ただ・・・」
「ただ、なんだ」
「上意討を命じたのは殿や家老様ではなく、郡代様ではないかと言っていました」
「何だって。いや、そんなことが。自分を襲わせるなんて」
「『不本意な強制』の中身は分かりませんが、指示の内容は、上意として郡代を襲い、まずは城谷を必ず討ち取れ、その後に郡代を殺害せよ、というものだったそうです」

確かに、郡代は襲撃の時期や、刺客が一人であることを知っていたようだ。権六が最期の言葉も気にしていた。何気なく見過ごしてきたことだが、郡代はかなり怪しい。
「そういうことだったのか・・・自分を襲わせ、撃退することで藩内により強く正当性を誇示できる。日和見の重臣を自派に付けるのにもってこいだったというわけか。しかし・・・俺が負けたら己も殺されてしまうぞ」

「上意討ちを伝えに来たのは、お師匠様だったそうです」
「まさか・・・確かに道場にいない時があったが、江戸と往復できるほどでは・・・なかったと、思うが」
「私も耳を疑いました。しかしお師匠様と郡代様が結託しているなら、四郎様が兄上に勝つことは分かっていたはずです。」
「そこまでの差はなかった」
と言いながら、最期の決着は、秘伝として稽古された居合だったことに気づく。師匠は、そこまで読んでいたのか。だから、あんな稽古を。いや、そうするともう一つの技は、そのために遣えということなのか。

「佐切」
「はい」
「幼き頃の約束、覚えているか。俺の嫁になってくれるという」
「そんな約束してません」
「そうだな」

そう、俺は別段佐切とそんな約束をした記憶はないのだが、長じてからも、権六は佐切を城谷に嫁がせるというようなことを普通に言い、佐切もそれを聞いても平然としていた。だから、それは佐切として受け入れているものだとばかり思っていた。

「でも・・・いいよ」
突然、子供の頃の口調に戻って言った。言い訳のように言う。
「もう家族は誰もいない。この家からも出ないといけないし」
「でも、俺は、権六を斬ってしまった。お前の兄を」
「仕方のない、運命だったんだよ。兄上も、この上意討に大義がないことを分かっていて、そして四郎様に勝てないことを分かっていて、でも武士の一分を貫いた。四郎様も、望んで兄上を殺したわけじゃない。わかってる」
「そうか。済まない」

そう言ってくれることが、嬉しかった。報われたような、気がした。しかし、まだ一つ、いや二つ、仕事が残っている。
「ありがとう。少しだけ、待っていてくれるか。やらなくてはならないことが二つある。その後で藩を出て、江戸に行こう」

いつもの口調に戻って佐切が言った。
「分かりました。旅支度をして、待っています。気を付けて、四郎様」



八 仇討
道場の門をくぐり、母屋に向かおうとすると、忍源之丞が現れた。
「待っておったぞ、四郎。道場に行こう」

夕暮れの道場は薄暗く、夜中とは異なる気味悪さがある。あるいはこれから聞こうとする話の、暗示なのだろうか。
俺は単刀直入に言う。
「お師匠、郡代と結託して、俺と権六を殺し合わせましたな」
「はっはっは。何を突然。んなアホなことがあろうか」
「権六は、佐切に全てを伝えておりましたぞ」
「・・・。馬鹿な権六め。なんつって。まあ仕方ないわな。そうよ、わしが室戸をけしかけて、我が道場で龍虎と称された、お主らを殺し合わせた。権六や室戸に、秘伝のことを教えたのもわしよ。権六にはもう少し強くなってもらう必要があったからな。それから、権六の前に襲ったやくざ者と浪人も、わしが手配したものよ。面白い物語が作りたくてな」

「物語とは・・・。そうだ、居合は何だったのです」
「居合は、役に立っただろう」
「予測したというのですか」
「まあそんなところだ。で、どうする。わしと立ち合うか」
「・・・そうですな。権六と俺、それから佐切をおもちゃのように扱ったお師匠様は、許せぬ。真剣での立ち合いを所望いたす」
「いいじゃろう。来い」

お互い間合いを取って抜刀し、正眼に構える。師匠が相手だ、後手に回ったら負ける。鋭く踏み込むと見せて右に回り、右に回って袈裟斬りから返す刀で斬り上げる。師匠は袈裟斬りを下がって躱し、斬り上げた刀を弾き、上段を襲う。俺は霞で受けて左に回って逆袈裟へ斬撃を送るが、師匠は頭の横で軽く受ける。刀を巻き取ろうとする動きに応じ、刀を引き、俺は一旦後退した。

「ふふ。やはり人を斬った後は、一味違うな」
怒りで我を忘れるものかと思ったが、思っていた以上に俺は冷静で、怒りとか恨みを忘れたわけではないが、その感情の向こうに自分がいるような、力が入り過ぎるでもなく、お互いの動きや技がよく見えている。たった数回とはいえ、真剣での命のやり取りと、人を斬った経験が、俺の心の在り方の何かを変えたのだろう。

「人を疑うことを知ったからかも知れませぬな」
「上手いことを言いおるの」

その後も刀を打ち合うが、これが本当に真剣勝負なのか。真剣を遣ってはいるが、型稽古なのではと思ってしまうほど、滑らかなやり取り。静かな道場に、息遣いと金属音が続く。
漸く、局面が少し変わってきた。師匠は正眼から八双に取る。一拍遅れて、俺も八双に取った。師匠はそこから車に変わった。これは。
「見ておられましたか」
「ふん」

権六との立ち合いのとき、権六は八双、俺は車に構えた。それを見ていたのだろうか。今度はそれで師匠は俺を斬るつもりか。なめるなよ。
俺も続いて右足を大きく引き、車に取る。師匠が鋭く踏み込み、横薙ぎの斬撃を送ってくる。目いっぱい左足を引き、横薙ぎを躱した瞬間、上段に変わった俺の刀は、師匠の頭を襲い、斬り割った、かに見えた。

「いや、本当に腕を上げたな。四郎。まさに免許皆伝よ。わしは、去ぬる。どうも、うまくいかなんだな」
今まで刀を打ち合っていた道場から、師匠の姿が消えた。煙のように、などとというが、煙すらなく、突如として姿が全く見えなくなった。気付けば息の上がった俺一人しかいない、静かな夕暮れの道場である。

「待てっ。いったいどういうことだ。どこに逃げた。忍源之丞っ」
俺はあまりのことに動転した。人が消えるなんてことがあるものか。でも声が聞こえる。幻術とやらなのか。そんなものが本当にあるのか・・・。

「はは、その名はどこぞで野垂れ死んだ兵法者の名よ。わしはその名を借りていたに過ぎぬ。だいぶ長い間借りておったがな」
「きっ、貴様は何者なんだっ」
「まあ何でもええやないか。そうや、お主のもう一人の仇、室戸は明日の朝、一人で遠乗りに出かけるぞ」
「何だって」
「じゃあの」

忍源之丞と名乗っていた何者かは、呑気な声で別れを告げて、今度こそ気配そのものが全く失せて、忍などという道場主は、最初からいなかったのではないかと思うくらいの、静寂が流れた。
ひょっとして、俺一人が幻覚を相手に斬り合ってたのかと思うくらいである。しかし身体には浅く斬られた跡、刀にも打ち合った跡が残っている。何がどうなったというのか、しばらく立ちすくんでいた。


翌朝。俺は夜明け前に家を出て、忍源之丞と名乗っていた何者かが言った、郡代の遠乗りが通ると思われる付近に、埋伏した。佐切が作ってくれた握り飯を頬張っていると、日が昇ってきた。それから四半刻も過ぎたころだろうか、規則的な馬の走る音が聞こえてきた。
俺は、稽古を思い出していた。悔しいが、この技も、この時のために俺に稽古させたのだろう。馬の走る音を聞きながら、飛び出す頃合を見計らう。今だっ。

馬は悲しげな声を上げて、前に倒れ、騎乗している人間を振り落とす。死んだら死んだときだと思ったが、どうやら室戸は死ななかったようだ。運のお強いことよ。と口の中で罵り、そのあとで、あえてのんびりと呼びかけた。
「室戸様。こんなところで奇遇ですな」
室戸は足を挫いたようで、しきりとさすっているが、大きな怪我ではなさそうだ。
「おお、城谷か。わしの馬が怪我したようで、倒れてしまっての。助けてくれ」
「それは大変でござるな」
室戸を助け起こす。
「ときに、城谷はかような所で何をしておるか。わしは近郷の屋敷に戻ろうとしておったところじゃが」
「室戸様をお待ちしておりました」
「は、それはどういう風の吹き回しじゃ」
「返答によっては、お命を頂戴いたす」
「佐渡賀谷のことか」
「忍源之丞と名乗った者のこともでござる」

突然慌てた様子で、郡代は咳払いする。
「おいおい・・・そこまで分かっているのか」
溜息をついて、お手上げのつもりか、妙に芝居がかって両手を上げる。
「わしは忍にそそのかされた。親父のできなかった家老就任と藩政の改革を成し遂げてみる気はないか、とな。まだ親父が死んで間もない頃、もう二十年も前の話よ。わしはまだ若かった。使命感、自分でなくては成し遂げられるはずがないという強い想い、しかし力が足りないという渇きがあった。彼奴が言うには、代償は家中の若侍の命がけの献身と、その命だと言い、わしはそれを約定した。そこから十年くらい、わしは悪戦苦闘したにも拘らず、大して前進が見られなかった。時を経て、もうそんな約定など終わったものと思っておった」

そこで一旦話を切って、郡代はその日に想いを馳せているのか、遠い目をする。
「気づいたら、忍は城下に腰を落ち着けていて、そこそこ道場が流行っていた。わしも、もうさほど若いとは言えん歳になってな、焦って、欲がでた。それで、忍の言う通りに踊って見せて、ほれ、この通りじゃ」
また両手を上げる。もういい。

黙って俺は抜刀した。右手に持った刀をだらりとさげた。
「お、わしを斬るか。斬れば今度こそ、藩は本当に終わるぞ」
「脅しのおつもりですか。室戸様が死のうと、何も変わりますまい」
郡代の顔色が変わった。低いドスの効いた声で言う。
「そんなことはあり得ぬ。わしは、単なる権力欲で藩政を握りたいと願うわけでは断じてない。今の重職を占める者どもは、揃いも揃って愚か者どもよ。わしがいなければ、簡単に商人どもに何もかも売り渡して、売り渡した後には何も残らぬじゃろう。だから、わしは」
「佐渡賀谷の命でそれを購おうとしたとおっしゃるか」

少し、郡代が下を向き、語気が弱くなった。
「佐渡賀谷とは分からなんだが、結果としてそうなった。そうしたかったわけではない。たかだか一人の命とは思っておらぬ。他に手段を見つけることができなかったのは、我が不明じゃ」

また元の語気に戻って言う。
「しかし、さらにこのままわしが死ねば、佐渡賀谷一人の命を無駄にしただけでは済まぬぞ。最悪の場合は国替や改易さえあり得る。家中の者はことごとく苦しみ、あるいは路頭に迷わねばならぬ。この時代、新規の召し抱えなど万に一つの僥倖じゃろう」

俺は刀を納めず、一歩前に出て言った
「そうはならぬこと、お誓いいただけるか」
「十年前ならば、あるいは。しかし今更、そのようなことを誓えることではない。とは言え、我が死力を以て務めることは誓おう。武士に二言はない」

郡代にして、誓えないと言わしめる状況なのか・・・。俺はたかが無役の一藩士とはいえ、戦国以来、先祖から連綿とこの藩の禄を食んできた。さすがに暗澹とならざるを得ない。抜き身を下げたまま、黙ったままの俺を、郡代は不審そうに見ている。
俺は刀を納めた。

「室戸様。俺ごときがと思われるかも知れませぬが、藩を、お願い申す。先祖代々、お仕えしてきた藩であれば、やはり愛着はござる」
「おい、城谷、お前はどうするのだ」
「この藩での城谷四郎は死にました。跡取りのない城谷家は、佐渡賀谷家と同様、取り潰しでござろう。室戸様、ご無礼の段お許しくだされ。さらば」



九 希望
家に戻ると、佐切が何も言わずに飛びついてきた。
「仕事が片付いた。これから出るのでは、すぐに夜になってしまう。明日早朝、ここを出よう」
「はい」

大した荷物もないから、出立する準備はすぐにできてしまう。今日あった出来事を、佐切に語っていると、ふと権六の行動に思い当たる。
「権六は勘定方だったから、ひょっとしたらこの藩が危機的状況ということを知っていたのではないか。郡代が早く家老にならなければ、藩は手遅れになってしまう。この上意討で自分が返り討ちになることで、それを早めるしかないと思っただろうか」
「さあ、そのことは私には何も。でも真面目な兄上が考えそうなことです」
「俺でも、良かったのにな」
「え」
「逆で、良かったろう。刺客なんて、無役の俺の方がよっぽどお似合いじゃないか」
「四郎様は、私の気持ちを無視したかったといことですか」
「なんでそうなるのか・・・」

そこまで言って、権六の最期の言葉を思い出す。「鈴蘭」つまり、佐切がいたから。逆ってわけにはいかんだろ、佐切を頼んだぞ、と言っている権六が、まぶたの裏に浮かんでは、消えた。
全く、兄妹そろって強情な。
とは言え、奴の凄まじい剣、技を思い出すに、彼我の差はほんの一髪。俺が死ぬ結末も十分あり得た。権六に関しては、俺の思い過ごしかもな。

表に我が家を訪なう声がする。室戸家の用人じゃないか。まさかまた護衛しろというんじゃなかろうな。もうその任は解いてもらった、はず。俺が引き戸を開けると、何も言わず、油紙に包まれた書類を俺に手渡し、にやりと笑って、すぐに去っていった。何だいったい。
油紙を広げてみると、佐切と俺の、二人分の通行手形が入っていた。全く、行き届いているこった。


翌朝、俺たちは生まれて初めて藩を出る。城谷も佐渡賀谷もなくなって、四郎と佐切は手を取り合って生きる。手形もあるから、江戸まではたどり着けるだろうが、その先はどうだろうか。
権六が身命をなげうってつないだ藩の命脈は、郡代が何とかしてくれると信じるしかない。同じく、俺と佐切も、命ある限り生きる。出立する俺たちの背中を、朝焼けが押す。かすかな希望があると信じて、明日への一歩を踏み出した。


忍源之丞と名乗っていた男が、その様子を遠くから無表情で見ている。
「あんまり、うまくいかなんだな。原因は、やはり手を下し過ぎたのじゃろうかえ。我が主さまに怒られてしまうのう」
言っていることは反省のようだが、何も浮かんでいない、血色のない真っ白な表情と全く合っていない。もしこれを見た人間がいれば、異常者か物の怪と思っただろう。
暫く四郎と佐切の背中を見ていたその影が、跡形もなく消えた。



(了)

流派にない秘伝

流派にない秘伝

城谷四郎は無役の六十石取りの下士。 無役なのは父親の代からで、どうすれば役を貰えるのか分からない。 鬱屈から剣術ばかりに打ち込んで、腕は上がったが使い道はない。 一生こうやって過ごすのかと諦めかけていたころ、師匠から秘伝を受ける。 親友とその妹と共に、気付けば陰謀に巻き込まれていた・・・。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • アクション
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-11-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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