八咫烏(10) 最終回特別編!!
*オープニング
https://www.youtube.com/watch?v=Lq8-2QUBpRI
https://www.nicovideo.jp/watch/sm37925493(予備)
第十話「義賊・八咫烏!」
「おいら、八咫烏を見たんだ」
日の出まえ、まだ夜空に満月が輝いているころだった。しじみを採りに大川(隅田川)へ向かう途中、隼助は三つの黒い影を見たのである。
「八咫烏って、あの三本足のカラスのことかい?」
と、お滝ばあさんが米を研ぎながら笑った。お滝ばあさんだけではない。井戸端にあつまった長屋の女たちは、みんな顔を見合わせながらクスクスと笑っていた。
「茶化さないでくれよ、おばさん。知ってるくせに」
八咫烏は江戸でもっとも有名な義賊である。知らない者などいないのだ。
「どうした、隼助。朝っぱらから、なにを騒いでおるのだ?」
大きなあくびをして〝ムシリあたま〟をボリボリかきながら、彦坂小十郎がやってきた。俗にいう傘張り浪人である。
「おじさん、おいら見たんだよ」
「見たって、なにを?」
彦坂は井戸端の女たちにあいさつをしながら釣瓶を井戸に垂らして水を汲みはじめた。
「八咫烏だよ。義賊の」
「ほう。で、そのカラスがどうしたんだ?」
彦坂は適当に返事をしながら桶に張った水で顔を洗っている。
さては信じていないな、と思いながら、隼助は腕を組んでため息をついた。
「朝方、捕り物があったの知ってるだろ、おじさん?」
「いや、寝てたから知らん」
「呼子の笛、聞こえなかったのかい?」
「ああ、聞こえなかったな。で、そのカラスはどうなった?」
「三人とも、逃げたみたいだけど……」
「そうか。飛んでいったか」
やはり、子供の言うことだと思って馬鹿にしているのだろうか。彦坂はまるで関心がない、というような態度で、濡れた顔を手拭いで撫でまわしていた。
やはり信じてもらえないか、とあきらめつつも、隼助はつづけた。
「でも、ひとり、お役人に斬られたみたいだったよ」
「なに、斬られた?」
彦坂が手拭いの隙間から鋭い眼をのぞかせた。
「死んだのか?」
彦坂は首に手拭いを下げながら、隼助の顔のまえにヒゲ面をかがめてきた。さっきまでの寝ぼけた顔ではない。その目つきは虎のように鋭く、ギラギラと光っていた。
隼助はゴクリとつばをのんで答えた。
「いや、仲間のひとりが背負って逃げたんだ。それで、もうひとりが煙玉みたいなやつを役人に投げつけたんだ」
三つの黒い影が、満月の中を駆け抜けた。千両箱らしきものをかついで、屋根の上を音もなく走っていたのだ。盗っ人だろうか。隼助は路地の陰から、そっと様子をうかがっていた。すると、いちばんうしろを走っていた影がよろめいて、屋根から転げ落ちた。おそらく、小柄――刀の鞘のわきに収められた小刀のような物――を受けたのだろう。その小柄を放ったのは町方の役人だった。役人のそばにいたひとりの岡っ引きは呼子笛を鳴らしていた。片足を引きずりながら、影は慌てて逃げようとしている。
「そのとき、役人が背中から斬りつけたんだ」
袈裟掛けに一太刀。
「なるほど」
と、鋭い眼を細めながら彦坂がうなずいた。
「しかし、おまえさんはどうしてその三人組が八咫烏だと思ったんだ?」
「え? そ、それは……」
隼助は言葉につまった。三人組の盗賊というだけで、彼らが八咫烏だという証拠はどこにもない。
「だって、八咫烏は三人組だっていうから……」
あいまいに答えながら隼助があたまをかいていると、彦坂は拍子抜けしたように笑いはじめた。
「そうだな。そいつらは、きっと八咫烏にちがいない」
と、高笑いしながら彦坂は部屋へもどっていった。
「ちぇっ。ばかにして」
隼助は今年で十三になった。もう自分は立派な大人である、と隼助は自覚していた。
「そんなことより、隼ちゃん。おときさんの具合、どうなんだい?」
井戸端で大根を洗いながら、おくまさんが言った。隼助の母・おときは、ひと月まえから小石川養生所に入所していた。胸に〝岩〟ができたのだ。
「あした、手術するって言ってた」
隼助は無理に笑顔をつくった。本当は、不安でたまらないのだ。もし手術が失敗たらと思うと、怖くて仕方がなかった。でも、養生所の医師、根岸新三郎なら、きっと治してくれるはずだ。まだ三十一と若いが、そこらのヤブにもなれないタケノコ医者より腕はいいのである。町医者は医学の知識がなくてもなれるので、そのほとんどがヤブやタケノコだった。だが、新三郎は長崎で西洋医学を修めてきた〝本物の医者〟なのだ。
「大丈夫だよ、隼ちゃん」
お滝ばあさんがほほ笑みながらうなずいた。
「え?」
隼助は「はっ」とした。いつのまにか、頬が涙で濡れていたのだ。隼助は慌てて手の甲で目をぬぐった。
「根岸先生なら、きっと治してくれるさ。おときさんは、きっとよくなるよ」
お滝ばあさんは笑顔で励ましてくれた。
「おばさん……」
「元気だしなよ、隼ちゃん」
おくまさんに大根を一本もらった。みんなも、笑顔で励ましてくれた。涙が止まらなかった。
「……ありがとう」
隼助はみんなに礼を言うと、足早に部屋へ戻った。
朝めしを済ませると、隼助は売れのこったしじみを天秤に下げて養生所へ向かった。小石川養生所は幕府の予算で賄っているので、患者から薬礼(治療費)を受け取ることはない。それでも、隼助は毎日、売れのこったしじみを養生所へ届けていた。患者たちがよろこんでくれるのだ。隼助のおかげで、毎日うまいしじみ汁が食べられる、と。もちろん、しじみの勘定は受け取っていない。母が世話になってるお礼のつもりで届けているからだ。本当は、毎日母に会うための口実なのだが……。
「おはよう、先生」
診療所の戸口から声をかけると、奥の部屋から新三郎が顔を出した。
「おう、隼助か。おはよう」
「しじみ、もってきたよ。今日は、ちょっと少ないけど」
隼助は桶――二升ほどのしじみが入っている――を新三郎に見せた。
「いつもすまんな、隼助」
と、新三郎は目を細くしてうなずいた。
「おっ母が世話になってるから、これぐらいしないとね」
隼助はあたまをかいてはにかんだ。
「そうだ、先生。今朝、捕り物があったの知ってるかい?」
「ああ、聞いたよ。三人組の賊のことだろう?」
「きっと、八咫烏だよ。先生も、そう思うよね?」
「ああ。そうだな」
と、言いながら、新三郎は笑っていた。
やはり、新三郎も八咫烏ではないと思っているのだろう。この養生所へ来る途中も、町では三人組のうわさをしていたが、だれもその賊が八咫烏だと言っている者はいなかった。八咫烏を見た者はだれもいない。町方ですら、まだ八咫烏の正体をつかんではいないのである。それでも、自分が見た三人組は、きっと八咫烏にちがいない。なぜかは知らないが、隼助はなんとなくそう思えてならないのであった。
「おっと、まだしじみ代を払っていなかったな」
新三郎は笑みを浮かべながら、隼助に一分金を二枚、差し出した。
「ひと月分だ。とっておきなさい」
「いや、いいよ。先生も薬礼とらないんだろ? だから、おいらも」
「私は御上から給金をもらっている」
隼助の掌に一分金をのせながら新三郎が言った。
「だから、おまえさんも勘定を受け取るんだ」
そう言われると、隼助は返す言葉がなかった。
「ちぇっ。先生にはかなわないや」
隼助は苦笑しながら勘定を受け取った。新三郎は、満足そうにほほ笑んでいた。
「ところで、先生」
「なんだ」
「あした、手術するんだよね?」
すると、むずかしい顔をして新三郎がうなずいた。
「来なさい、隼助。母さんのところで話をしよう」
養生所の部屋は、どこも患者でいっぱいだった。空いている部屋はひとつもない。ふつうは数人でひと部屋を使うのだが、重病人の場合は個室を使っていた。隼助の母も、個室で治療を受けていた。
「気分はどうだね、おときさん」
布団のよこでヒザをそろえると、新三郎は母の脈をとりはじめた。
「おっ母」
隼助も新三郎のとなりでヒザをそろえた。母は、やせ細ったまっ青な顔で、精一杯の笑顔をつくっていた。隼助は、そんな母の笑顔を見ているのがつらくて仕方がなかった。
「いよいよ明日、手術をするわけだが」
新三郎がむずかしい顔で腕組みをした。
「はっきり言おう、おときさん。私は自信がない」
「そんな」
隼助は新三郎の言葉に耳をうたがった。
「先生は長崎で勉強してきたんだろ? 外国の医学を勉強してきたんだろ? 先生なら、きっと治せるよ」
父は五年まえに死んだ。そしてこんどは、母まで死んでしまうのか。父は、なにも悪いことはしなかった。母も、なにも悪いことはしていない。なのに、どうしてこんな目にあわなくてはならないのか。そう思うと、隼助はくやしくてたまらなかった。
「隼助」
母は枕の上で静かに首をふった。隼助は母の意思に従うようにうなずいた。
「いいかね、おときさん」
腕組みをしたまま新三郎が言う。
「岩を取りのぞくには、とてつもない苦痛を伴うのだ。はたして、おときさんがその苦痛に耐えられるかどうか……」
新三郎は、いちど静かにため息をついてからつづけた。
「それに、岩を取りのぞくことができたとしても、命が助かるという保証はないのだ」
隼助は絶望した。なにが西洋医術だ。これでは町にあふれているタケノコ医者と変わらないじゃないか。
「どうする、おときさん。それでも手術を受けてみるかね?」
新三郎の問いに、母は静かにうなずいた。
「手術をしなくても、助からないのでしょう?」
「残念だが」
新三郎は否定しなかった。
母は、もう覚悟を決めているのだろうか。いささかも動揺を見せなかった。
「たとえ失敗しても、かまいません。そのかわり、できるだけたくさん、学んでください。そうすれば、その知識が、きっと自信につながります」
母は迷いのないまっ直ぐな目で新三郎に悲願した。
「おときさん……」
母の眼差しを受けとめながら、新三郎は決心したようにうなずいた。
「隼助」
細くやせた母の手が、隼助を求めていた。
「おっ母……」
隼助は、母の手をそっと両手で包みこんだ。
まっすぐに隼助を見つめたまま母がつづける。
「いいかい、隼助。もし、母さんが死んでしまっても、けっして先生を恨んだりしてはいけませんよ?」
隼助は、ただだまってうなずいた。返事をしようとしたが、声が出なかった。涙を流しながら、隼助はもういちどうなずいた。母は、ほほ笑みながら目を閉じた。ひとすじの涙が、母の頬を流れていった。
「根岸先生。ちょっとよろしいでしょうか?」
障子を開けたのは、見習い医師の片桐という男だ。
「片桐か。どうした?」
「はい。先生のお知り合いだという方から、言伝を頼まれまして」
「言伝?」
片桐は新三郎になにかを耳打ちしている。話し終わらないうちに、新三郎の顔色がにわかに変わった。
「わかった。診療箱をもってきてくれ。私がひとりでいく」
隼助は今朝の盗賊が八咫烏だと言った。もちろん、新三郎は隼助の話を馬鹿にして聞いていたわけではない。町でうわさを聞いたときから「もしや」とは思っていたのだ。そして、「烏長屋の烏平次が危篤である」と片桐が知らせに来たとき、その三人組が八咫烏だと確信に至ったのだ。
診療箱をもって表へ出ると、遊び人風の若い男が戸口のまえで待っていた。
「急に呼び出したりしてすまねえ」
「今朝の一件、だな? 雷蔵」
「へい。菊次が深手を負っちまって。まだ息はあるが、急がねえとあぶねえ」
「わかった。案内してくれ」
新三郎は雷蔵の正体を知っていた。もちろん、雷蔵も新三郎の正体を知っている。
「烏平次は、達者か?」
新三郎は小走りで駆けながら雷蔵の背中に声をかけた。
「へい。いまじゃ、立派な八咫烏のカシラでさァ」
雷蔵はふり向かずに答えた。
「そうか。烏平次がカシラ、か」
烏平次はかつての仲間、新三郎も八咫烏の一味だったのだ。
烏平次とは、ほぼおなじ時期に八咫烏の仲間に加わった。烏平次が二十、新三郎が二十一。もう十年もまえのことだ。世の中から貧乏をなくしたい。貧乏がなくなれば、病気で貧しい者でも医者の治療を受けることができる。そう思ったから、八咫烏の仲間になったのだ。だが、現実はそんなに単純ではなかった。ほとんどの町医者はヤブ以下のタケノコである。そんなタケノコ医者にいくら金を払ったところで風邪ひとつ治せやしない。だったら、自分が〝本物の医者〟になってやろう。そう決心し、新三郎は盗っ人稼業から足を洗ったのだ。金ではなく、医術で人を救う道を新三郎は選んだのである。
「まだ着かんのか?」
もう向島の外れまで来ている。
「あの山の中でさァ」
道を少しそれたところにある大きな山を、雷蔵が指差した。
人がほとんど立ち入らないので山道はない。竹や杉の木の間を縫うようにして奥に進むと、やがて古い荒れ寺が見えてきた。
「あそこがカラスの塒、か」
菊次の傷は相当に深いらしい。おそらく、もう手遅れだろう。新三郎は、なんとなくそう感じていた。
「これは……」
布団の上で横向きになった菊次を見て、新三郎は絶望した。浅く速い呼吸、発汗、そして青白い体。応急処置はしてあるようだが、出血が多すぎる。もはや手遅れだ。新三郎の予感はまちがっていなかった。
「傷は、相当深いと思う」
ムシリあたまの男が言った。
「助かると思うか?」
「あまり期待しないでくれ、烏平次」
無精ヒゲを生やしているが、烏平次はむかしと変わっていなかった。
雷蔵が焼酎の入ったヒョウタンをもってきた。
「よし、はじめるぞ」
三人で菊次をそっとうつぶせに寝かせた。まずは、傷口を焼酎で消毒しなくてはならない。もちろん、気を失うほどの激痛が走るだろう。新三郎は、菊次の口に手拭いをかませた。激痛が走った拍子に舌をかみ切らないようにするためである。
「ふたりで、しっかり押さえていてくれ」
これで助かったら神を信じてもいい、と新三郎は思った。べつに弱気になったわけではない。医者は神ではないのだ。治せない傷もある。治せない病もある。むしろ、救えない命のほうが多いだろう。だが、新三郎には信念があった。ひとつでも多く、病を治したい。ひとりでも多くの命を救いたい。たとえ手遅れとわかっていても、もてる知識と技術をすべてかける。菊次の傷口をにらみながら、新三郎は焼酎を口に含んだ。
「すまん」
新三郎は縁側に腰かけると、長いため息をついてうなだれた。
菊次は死んだ。できるだけのことはしたのだが、やはり傷が深く、なにより出血が多すぎたのが致命的だった。
「先生。あまり、自分を責めねえでおくんなせえ」
新三郎のとなりに腰かけながら雷蔵が言った。
「アッシらにも責任があるんだ。アッシが」
雷蔵が言葉を詰まらせた。ヒザの上でこぶしをふるわせながら、くちびるをかみしめている。
「アッシが、もう少し注意してりゃあ、こんなことには……」
菊次は雷蔵よりひとつ年下の二十三だった。雷蔵は、菊次を実の弟のように思っていたのだ。
新三郎は、ふたりのことはよく知らない。雷蔵、そして菊次は、新三郎が長崎に渡ったあと、八咫烏に加わったのである。
「先生、ありがとうごぜえやした」
ふるえるこぶしをにらみながら雷蔵が言った。
新三郎は、ただだまってうなずいた。
「北町与力・佐野紋十郎」
烏平次がポツリと言った。
縁側に腰かけたまま、新三郎は肩越しにふり向いた。烏平次は囲炉裏のまえであぐらをかきながら、どんぶりで酒を呷っている。
「菊次を斬ったのは、佐野紋十郎なのか?」
「ああ」
佐野は悪徳商人と結託し、私腹を肥やしているといううわさのある男だった。
「……きっと、やつの悪事を暴いてやりまさァ」
まるで復讐を誓うような、怒りのこもった静かな口調で雷蔵が言った。
しかし、烏平次は言う。
「雷蔵、おれたちの仕事は敵討ちじゃねぇだろう。菊次のことは、忘れろとは言わねえ。だがな、おれたちの目的だけは忘れちゃいけねえぜ?」
「へ、へい。わかってやす」
八咫烏は義賊である。だが、いくら貧しい民のためとはいえ、盗みを正当化することはできないのだ。しかし、八咫烏が貧しきを救っているのは事実。光と闇のはざまに生きる者、いわば必要悪なのだろう、と新三郎は思っていた。
「人ひとりの命を救うというのは、ほんとうにむずかしいことだな」
しみじみとつぶやきながら、新三郎は茜色の空を見上げていた。
いつもより早く目を覚ますと、隼助は朝餉も摂らずに長屋を飛びだした。腹が減っているのかどうかさえわからない。新三郎なら、きっと母の命を救ってくれる。そう信じているのだが、どうしてもいやな予感がつきまとってはなれないのだ。
隼助は養生所の戸口のまえに天秤を置くと、深呼吸をしてむりやり笑顔をつくった。
「先生、おは――」
養生所の戸口から声をかけようとしたとき、奥の部屋から話し声が聞こえてきた。障子が細目に開いている。隼助は上がり框にヒザを乗せ、両手を畳について奥の様子をうかがった。
「あれは、先生かな」
障子の隙間から見えるのは、白衣を羽織った新三郎の背中だけである。火鉢をはさんで、だれかと話し込んでいるようだ。聞こえてくるのは男の声ばかりだが、くぐもったような低い声なので、なにを話しているのかわからない。それに、相手の姿もよく見えない。が、どうやらひとりではないらしかった。どうしても相手の姿が見えないので、隼助は上がり框から伸びあがって障子の隙間に顔をちかづけた。
「どちら様です?」
と、いきなり障子が開いたので、隼助は慌てて土間に転げ落ちた。
「いてて……」
いまのは新三郎の声ではなかった。土間の上に起きあがって奥の部屋に目をやると、見知らぬ男がふたり、座布団の上で笑っていた。
「いや、おどかして悪かった。ケガはねえか、ぼうず?」
ムシリあたまの男が黄色い歯を見せた。隼助は尻もちをついた格好のまま、仏頂面をしてそっぽを向いた。
「なんだ、隼助じゃないか」
あきれた顔で笑いながら新三郎が言った。
「おはよう、先生」
隼助は居心地わるそうに笑いながら立ち上がった。
「もうすぐ手術をはじめる。それまで、母さんのそばにいてやりなさい」
火鉢のまえで腕組みをしたまま新三郎がほほ笑んだ。
「それじゃ、おれたちはこれで。いくぜ、雷蔵」
「へい」
ふたりの男たちも、新三郎にあいさつをして帰っていった。
五ツ半(朝九時ごろ)、手術がはじまった。自分も母のそばにいたい、と隼助は頼んだが、邪魔になるから、と拒否された。手術にあたるのは新三郎と片桐、ほか二名の医師の四人である。おそらく夕刻までかかるだろう、と新三郎は言った。
ゆうべは、なかなか寝つけなかった。夜中に、だれもいない神社で御百度も踏んだ。それでも、胸の底にはまだ不安がのこっている。手術は、いまはじまったばかりだ。母は、きっと助かる。新三郎なら、きっと助けてくれるはずだ。隼助は、自分で自分を励ましつづけた。だが、どうしても嫌な考えがあたまを過るのだ。不安で、悲しくてたまらない。無性に泣きたくなった。だれもいないところで、思いっきり泣こう。涙が枯れるまで、思いっきり泣こう。隼助は、養生所を飛び出して街の中を駆けぬけた。
「あっ」
街の中をがむしゃらに走っていると、路地のところでだれかとぶつかった。
「おっと、大丈夫か、ぼうず?」
聞き覚えのある声だ、と隼助は思った。ふと顔を上げると、どこかで見たことのある顔だった。
「あ、おじさんは、あのときの」
ムシリあたまに無精ヒゲ。養生所で新三郎と話していた男だ。遊び人風の若い男も一緒だった。
「おお、あのときのぼうずか」
と、ヒゲ面の男が笑いながら手を差しのべてきた。
「だいぶ慌てて走っていたようだが、どこへ行くんだ?」
ヒゲ面の男の手につかまって立ち上がると、隼助はうつむいて尻を払った。
「べつに、急いでなんかいないよ」
「ところで、ぼうず」
遊び人風の男が、ジロリと隼助をにらんできた。懐手をして煙管をくわえている。マゲは、少し横に垂らして〝いなせ風〟である。
「見たところ病人でもなさそうだが、おめえさんは養生所になんの用があったんだ?」
鼻から紫煙を立ちのぼらせながら遊び人が言った。
「しじみを……売りに来ただけだよ」
養生所の話はしたくない。涙をこらえながら、隼助はそっぽを向いた。
「そういやあ、今日は〝岩〟の手術があるって、根岸の先生が言ってたな」
あごヒゲをさすりながらムシリあたまが言った。
「その患者には、息子がひとりいるとも聞いた。毎日、養生所にしじみを売りに来る、ってな」
「……おっ母……」
いよいよたまらなくなった隼助は、もはや涙をこらえることはできなかった。うなだれて、こぶしをふるわせながら涙をこぼした。
「そうか。ぼうずのおっかさんだったか」
ヒゲ面の男は、隼助が泣き止むまで肩を抱いていてくれた。肩を抱きながら、無言で励ましていた。隼助は、ヒゲ面の男から死んだ父とおなじぬくもりを感じていた。
ヒゲ面の男は烏平次、遊び人風の男は雷蔵と名乗った。
「おいらは、隼助」
隼助は烏平次の顔を見上げてニコリと笑った。
「隼助、か。いい名前ぇだ」
と、烏平次も優しい笑顔でうなずいた。雷蔵は隼助たちのうしろを歩いている。とぼけた顔で懐手をしながら、口にくわえた煙管をプカプカとふかしていた。
「あっ」
桜の花びらが一枚、隼助の顔のまえをひらひらと舞いながら横ぎった。
「見事に咲きやしたね」
撫子色に目を細くしながら雷蔵が言った。大川(隅田川)の両岸には、桜並木がつづいている。いまが見頃だろう、と隼助は思った。
「そこの茶店で一服してくか」
烏平次が一軒のだんご茶屋をあごで指した。
隼助と烏平次が床几に腰かけると、雷蔵は茶店のおやじにお茶と桜餅を注文して烏平次のよこに座った。
「そうか。おとっつぁんは死んだのか」
烏平次が気の毒そうに茶をすすった。
「おっ父は、大工だったんだ」
小さな声でそう言うと、隼助は掌で包んだ湯呑に目を落とした。
「おいらは、まだ小さかったからよく覚えていないんだけど、少し短気で喧嘩っ早くて、曲がったことが嫌いで、困っている人がいたら助けずにはいられない、口は悪いが優しい人だった、って、おっ母が言ってた」
隼助はそっと視線をよこに動かし、床几の上の桜餅に目をやった。薄い紅色をした円筒状の餅がふたつ、皿のうえに並んでいる。うぐいす色の桜葉漬けに包まれた、きれいな紅色の餅。その〝筒〟の中には、漉し餡がたっぷりと詰まっていた。
「おとっつぁんも、病気だったのか?」
雷蔵が訊くと、隼助は首をよこにふった。
「仕事中に、足場が崩れて落ちたんだ」
「わからねえなあ。人の命ってのは」
烏平次がしみじみとした口調でため息をついた。
隼助は茶托に湯呑をもどすと、桜餅の皿に手を伸ばした。そして紅色の餅に黒文字を突き立て、大きく開けた口の中に放り込んだ。その瞬間、口中に桜の花が満開に咲き誇った。しかし、最初に感じたのは甘味ではなく、桜葉漬けの薄い塩味だった。そして咀嚼するたびに漉し餡の甘みが舌の上に押し寄せ、桜の香りと融合し、なんとも言えない上品な後味が口の中に残るのであった。
「どうだ、うまいか?」
烏平次が笑顔で訊いた。
「うん! すこぶるうまいや」
隼助は弾けんばかりの笑顔で応えた。すると、烏平次は大きな口を開けて笑うのであった。実は、隼助は桜餅を食べるのは初めてだったのだ。
「そうか。そんなにうまいか。なら、おじさんの分もやろう」
「えっ、おじさんは食べないの?」
「実を言うとな、おじさんは、甘いものは苦手なんだよ」
烏平次は苦笑混じりにあたまをかいた。
「ありがとう。おいら、朝からなにも食べてないから腹ペコだったんだ」
「なら、アッシの分もやろう」
雷蔵が烏平次にうなずき、皿を渡した。
「ありがとう! 雷蔵のおじさん」
隼助は烏平次から皿を受け取りながら礼を言った。
「まだおじさんなんて呼ばれる年じゃねえよ」
ふてくされた顔でボソリとつぶやき、雷蔵がそっぽを向いた。
「ところで、おめえも大工になるのか?」
茶をすすりながら烏平次が尋ねた。隼助は桜餅をひと口頬張ってから「おいらは、八咫烏の仲間になるんだ」と答えた。
「なに、八咫烏?」
烏平次と雷蔵は声をそろえて目を丸くした。
「八咫烏って、あの盗っ人のことか?」
まわりを気にしながら烏平次が小声で言った。
「盗っ人じゃないよ。義賊だよ」
隼助は八咫烏がそのへんの盗っ人と一緒にされるのが我慢ならなかった。八咫烏は、貧しい庶民のために罪を背負っているからだ。自分のために盗みをするコソ泥とはちがうのである。
しかし、烏平次は言う。
「いいか、隼助。どんなに立派な大義名分を掲げようとも、盗みは盗みだ。御定法を犯してることには変わりはねえ。だから、おめえはちゃんと堅気の仕事につくんだ。あんまりばかなこと言ってると、おっかさんが悲しむぜ?」
「人を助けることが、悪いことなの?」
「なあ、隼助」
烏平次が困った顔でため息をついた。
「八咫烏じゃなくったって、人助けはできるんだ。たとえば、根岸先生みてえな医者とか」
「おいらが住んでる長屋には、仕事がない浪人さんとか、貧しい人がたくさんいるんだよ。おいらは、貧しい人を助けたいんだよ」
隼助は烏平次の目をまっすぐに見ながら訴えた。烏平次も、真剣な表情でじっと隼助の眼差しを受けとめていた。
遠くのほうから、昼八ツの鐘が聞こえてきた。
「根岸の先生、もう終わったころかな」
勿忘草色の空を仰ぎながら烏平次がつぶやいた。
三人は茶店を出ると、その足で養生所へ向かった。
「ぼうず。これを、おっ母さんに」
烏平次は茶店で包んでもらった折詰を隼助に差しだした。桜餅の折詰だ。
「桜の枝を折るわけにはいかねえからな。これでかんべんしてくれ」
ヒゲ面に薄い笑みを浮かべながら烏平次が言った。
あの大川の桜を母にも見せてやりたい。そう隼助が言ったからだ。
「ありがとう。おじさん」
隼助は折詰をぶら下げて歩きながら、ふと思った。
「おじさんは、なんだか八咫烏みたいだね」
「おじさんが、八咫烏?」
烏平次は一瞬、妙な顔になった。そして、にわかに大きな声で笑いだした。
「そうだな。おじさんも、八咫烏の仲間にしてもらうかな」
烏平次は笑っていたが、隼助たちのうしろを歩く雷蔵は、まるで関心がないらしい。懐手をして煙管をくわえ、とぼけた顔で鼻からモクモクと紫煙を立ちのぼらせていた。
養生所にもどると、新三郎がひとり、庭の隅に佇んでいた。
「先生」
隼助は新三郎の背中にそっと声をかけた。
「おっ母は……?」
「……すまん。隼助」
新三郎はふり向かなかった。こぶしをにぎりしめて、肩をふるわせている。母は死んだ。新三郎の涙が、そう語っていた。
体中のちからが一気に抜けて、隼助は折詰を地面に落とした。
「……うそだ」
あたまの中が、真っ白になった。隼助は思考がマヒしたように、なにも考えられなかった。
「うそだ!」
ふと、母の笑顔を思いだす。隼助は、無意識のうちに母の部屋へ向かって駆け出していた。
新三郎と長屋の衆で、母を弔った。みんなが帰ったあとも、新三郎はひとり、母の位牌のまえでひざをそろえていた。
「私は全力を尽くしたつもりだ。しかし……私はおときさんを助けることができなかった。ゆるしてくれ、隼助」
新三郎はひざの上でこぶしをつくると、目を閉じてうなだれた。
「べつに、おいらは先生を恨んじゃいないよ。おっ母も、先生を恨むなって言ってたし」
隼助にはもう、一滴の涙ものこっていない。ありったけの涙を流したが、胸の奥にのこる悲しみまでは流すことはできなかった。この悲しみは、おそらく一生のこるのだろう。隼助も、母の位牌を見つめながらこぶしをにぎりしめた。
「……すまん。隼助」
目を閉じたまま、新三郎はもういちど詫びを言った。
「ぼうず」
声にふり向くと、戸口のところに烏平次が立っていた。雷蔵も一緒である。
「線香を、あげさしてもらってもいいかな」
烏平次は新三郎にあいさつをしてから焼香をした。
「香典だ」
烏平次が紙の包みを隼助に手渡した。
中には、一分金が四枚。
「一両も? 多すぎるよ」
「いいから、とっときな」
烏平次が黄色い歯を見せて笑った。隼助はしばし迷ったが、長屋に住むみんなのために役立てようと思い、「ありがとう、おじさん」と、笑顔で礼を言った。
「それと、こいつを渡しておこうと思ってな」
と、烏平次は懐から一通の書状のようなものを取りだした。それを隼助に渡しながら、こう言った。
「もし、なにか困ったことがあったら、外神田にある松葉屋って小間物問屋にそれをもっていくといい」
松葉屋の主人にこの書状を見せれば、無利子で銭も貸してくれるし、仕事も世話をしてくれるだろう、と烏平次は言った。
「それじゃ、またな。ぼうず」
烏平次は雷蔵を伴って帰って行った。
だいぶ夜も更けてきた。新三郎と烏平次たちが帰ったあと、隼助は例の書状を開けてみた。手紙は一枚。しかも、たたの白紙だった。
「なんだ。なにも書いてないじゃないか」
隼助はロウソクのそばにまっ白な手紙をちかづけて、よくたしかめようとした。
「やっぱり、なにも書いてないや」
不思議に思いながら、しばらくロウソクのそばでながめていたときである。
「あっ」
ロウソクにちかづけすぎたせいで紙が焦げてしまった。
「え、これは……?」
焦げではない。模様だ。なにか、模様のようなものが浮かび上がってきた。黒い丸、それから、その丸の中に浮かんできたものは……。
「あっ、烏だ」
黒い丸の中に、黒い烏の絵が浮かび上がってきた。しかも。
「足が……三本ある」
隼助の手が、にわかにふるえはじめた。丸の中に、三本足の黒い烏。
「……八咫烏だ……」
隼助は手紙をにぎりしめて長屋を飛び出した。
「八咫烏だ。あのふたりは、八咫烏だったんだ」
どこに行けば、あのふたりに会えるのだろうか。そうだ、養生所に行ってみよう。新三郎は、あのふたりと知り合いなのだ。新三郎に訊けば、ふたりの居場所がわかるかもしれない。隼助は、満月を背にして夜の街を駆け抜けた。
「なんだ、隼助か。どうした、こんな夜更けに。なにかあったのか?」
「先生、あのふたりは?」
「あのふたり? だれのことだ?」
「烏平次のおじさんと、雷蔵さんだよ」
「あのふたりが、どうかしたのか?」
隼助は新三郎に例の手紙を見せた。
「……なるほど」
新三郎は渋い顔でため息をついた。新三郎は、この書状がなんなのかを知っていたのだ。そして、烏平次と雷蔵の正体も。
「ふたりに会って、どうするのだ?」
「おいらも、八咫烏の仲間に入れてもらうんだ」
「ばかなことを言うんじゃない」
とがめるような口調で新三郎が言った。
「八咫烏は盗っ人なんだぞ。おまえが罪人になったら、あの世のおっかさんがどんなに悲しむことか」
「盗っ人じゃない。八咫烏は義賊だよ。おいらも、烏平次のおじさんに……八咫烏に助けてもらったんだ。先生とおなじで、八咫烏も人を救ってるんだよ」
新三郎は腕組みをして目を閉じると、しばらくだまって考え込んだ。
「わかった。明日の朝、出直してきなさい」
明日、ふたりに会わせてやる。新三郎は、そう約束してくれた。
「ありがとう、先生」
翌朝。
養生所へ出向くと、烏平次と雷蔵が待っていた。
「やれやれ。困ったもんだ」
と、烏平次が苦笑した。
「たのむよ、おじさん。おいらも八咫烏の仲間に入れてくれよ」
「もし、だめだと言ったらどうする?」
「お奉行所に訴えてやる」
もちろん、隼助は本気で言ったのではない。こう言えば、いやでも自分を仲間にするしかないだろう、と考えたからだ。
「なるほど」
烏平次は余裕の表情で笑った。
「仲間にしてくれるの?」
「ああ、いいとも」
烏平次はあっさりと認めてくれた。
「えっ? ほんとうに?」
からかわれているのだろうか。隼助は、いささか拍子抜けしてしまった。
「ほんとうに、仲間にしてくれるの?」
「ああ。ただし、条件がある」
「条件?」
「もし、おじさんたちを裏切ったり、掟を破るようなことがあったら、おまえさんの記憶を全部消させてもらう」
「記憶を、全部?」
そんなことができるわけがない、と隼助は思った。
「この雷蔵はな」
と、烏平次が話しはじめた。雷蔵は、もと伊賀の忍だったらしい。雷蔵は毒薬や眠り薬など、あらゆる薬に精通していた。そして、すべてを忘れてしまう秘伝の薬の調合方法も会得している、と烏平次は言った。しかし、手術の際に痛みを和らげる麻沸散(麻酔)の調合だけは、なかなかうまくいかないらしかった。
「わかってると思うが、もし役人に捕まったら、死罪は免れねえんだぜ?」
「かまわないよ。たとえ死罪になっても、おいらは納得して死ねるから」
隼助がそう答えると、烏平次はにわかにきびしい目つきになった。きびしいが、澄んだ瞳である。烏平次は、じっと隼助の目を見つめている。隼助は、烏平次に心の中まで見られているような感じがしていた。
隼助は松葉屋で丁稚として働くことになった。そして隼助は、松葉屋の主人・松葉屋伝左衛門から八咫烏の掟や〝お勤め〟についていろいろと教わった。八咫烏は伊賀の忍衆とも通じているらしく、お勤めには必ず雷蔵のような伊賀者をひとり加えることになっていた。伊賀の忍は幕府とも通じている。ようするに、八咫烏の活動を監視するのが目的なのだ。
音をたてずに瓦の上を走る稽古も苦労したが、隼助がいちばん骨を折ったのが「烏の鼾」と呼ばれる会話術の稽古だった。この烏の鼾とは、自分が話したい相手にだけ聞こえるように話すという特殊な会話術で、関係のない第三者には、となりの部屋から聞こえてくるような、くぐもった唸り声にしか聞こえないのである。隼助は、四年がかりでようやくこの技を習得することができたのだった。
それから三年後――。
二十歳になった隼助は、正式に八咫烏として認められ、一味に加わることになった。
「いい月だ」
烏平次が満月を見上げた。八咫烏がお勤めをするのは、必ず満月の夜と決まっていた。
「それじゃ、行きやすか」
雷蔵が烏平次にうなずいた。
目指すは廻船問屋・播磨屋である。
「隼助、ぬかるんじゃねえぜ?」
烏平次が黄色い歯を見せた。
「余裕ですよ」
隼助もニヤリと笑った。
オレたちゃ八咫烏。江戸でもっとも有名な義賊なのである!
―― おわり ――
八咫烏(10) 最終回特別編!!
*エンディング
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*エンドロール
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https://www.youtube.com/watch?v=p1K7AX9DGo8(予備)
*提供クレジット(BGM)
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