詩と生きることについて
詩を書く私と、生きてく私の意地みたいなことについて、散文です。
本当に、色々疲れちゃった暮らしているけれど、詩を書き続けていくことで、いつか自分のことを好きになりたいから、きょうも私の周りを浮遊するシャボン玉みたいな言葉たちと仲良く過ごしたい。
人の顔色を気にしている。
人の声色を気にしている。
他人にどう思われているのか気になるし、張り付いた笑顔で低い自己評価をカバーしながら生きながらえている。
そんな、どこにでもいる、平凡な私の、神経は、多分何処までもセンシティブになれることだろうと自分で自分を分析することもある。
その内、テンションの上がり下がりが急激過ぎて、自分のことを持て余してしまうことも多々ある。
周りは、言いたいことを言いたいように言える人がとても多く、真実を口にする彼らは私を救ってくれるけれども、何処までも苦しくさせることがある。
上手に自分の世界を守れる人がとても多く、私の世界は薄い膜一枚しかなく、他人の言葉が入り込みやすい。
なるべく深く深く、自分のために穴を掘ってモグラみたいに隠れて生きているけれども、お客さんが来たらにっこり笑って顔を出す、その程度の意気地だった。
それでも、これを、私として、何処までも他者を受容して受容して、傷付いて傷付いて、生きてやるって思うこともある。優しい人間を弱いだなんて言う人たちに、どこまでも微笑んで生きながらえる自分でありたいと思うこともある。そんな風に穏やかな特攻を繰り返す内にボロボロになった夜は、自分の奥底の意思と呼べるものもぐちゃぐちゃになる。
イヤホンから流れる、過敏な神経を優しく覆う音楽、止まりかけた心臓を動かすサウンドたちに生かされて、嫌い尽くした朝にも薄く笑う力をもらう。
愛する詩たち、文学たち、近代文豪たちの生き方が、私に力をくれる。
そうやって、「好きなもの」を掻き抱いて、生きている。
私は他者に絶望しない。
絶望と歩むが、他者に絶望することで、他者から目を背けることはしない。絶望に飲み込まれることはしない。
私は、絶望を隣に置きながら、絶望と手を繋ぎながら、微笑むことをやめてやるものかと、疲弊し切った魂の奥底にある僅かな火を消さないように消さないように、より強く絶望の手を握りしめて、一緒に生きることを誓う。
わかりあえないことに泣き叫びたくなったり、わかってもらえないことに俯きたくなったり、外で笑って、1人になった瞬間崩れてしまう日々を何度も越えて、生きながらえる。
生きながらえて、生きながらえて、たとえば最期の時にたった1人だったとしても、荒れ狂う大海を見つめて呵々大笑できるような老人になりたいと思っている。
他者を愛せる人になろうと、傷付きながら、それでも、自分が人間であるなら、それでも、それでもって、何度も憎んで、何度も折れて、何度も転んで、それでもの尻尾を掴み続ける、そういう自分をいつか愛してあげたい。
詩を書きたい。
否定され続けた感情に、言葉を与えることは、私の、自分を愛してあげる手段だろう。
これからも、詩を書こう。
詩情が尽きないうちは、私はずっとずっと書き続ける。
絶望を、熱情を、退廃を、感傷を、風景を、心象を、ずっとずっと書き続ける。
叫びたい、歌いたい、誰かの作った歌を歌って、私の感傷を夜空に飛ばしてあげたい。
どうやったら、自分を愛せるか、よくわからない。どうやったら、負い目を消せるのか、よくわからない。どうやったら、自分の生き方を肯定できるかわからない。
感受性が認められなくたって、感受性に生かされてる自分がいる。自分の過敏な神経は、傷付くシーンを繰り返しながらも、空を見て海を見て山を見て、多くのことを感じて、喜びたいんだって、私に訴えかける。
最後の最後に味方でいるべきは、自分なんだって、絶望と手を繋ぎ、過敏な神経と手を繋ぎ、目の前の人に微笑んで生きていたい。
「それでも私はそういふうに生きる」っていう思いを文字にぶつけたい。
言葉と抱きしめ合う。
自分のために言葉と抱きしめ合う。
来るべき、自分を愛する瞬間まで、私は、その瞬間を過ぎても、変わらずに、詩を書きたい。
私は詩と、そうやって、暮らしていく。生きていく。苦しい日々を、微笑んで。
詩と生きることについて