無題/あるいは昨日と今日の間の話

「翳踏むばかり」シリーズ短編


 おれはいつか知らぬ時から今までにかけて、耳の奥にへばるような翳なるもののおとずれを聞き続けている。音は肚の底にずしんときながら頭のうちをぎりぎりと硝子でも掻くように乱暴にして 病ではあるまいがこうではまるで病そのものである、音のおれを苛むことは甚だしいが、けれども近頃はすっかり慣れ 気にする、しないの域にないのだ。
 土地の空気が濃いのだと誰が言ったか、覚えていないが、ああ と思う。おれの手に届くようで届かない薄暗い存在を思い浮かべながら、行ってしまったら戻れないようなところ、いつだったか耳にし目にした翳なるものどものうつくしい国! 記憶とは美化され浄化されるものだとおれはずっと思っていたが  けれど……

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 高校生時分に好隆の部屋で盗み見た紙の切れ端にはこのようなことが書きつけてあった。

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 たまには、僕の唯一の友人の話をする。
 一度進学のために単身上京した彼は、それから一年も経たぬうちに心でも折られたものか実家へ戻ってきて、その翌年には地元の大学に再入学していた。その半年だか一年だかのことはよく分からないが、もとより考え込みがちな性分を口数の多さで紛らわしていたはずの好隆は増々その物思いを悪化させ、時に僕が暇をつぶしに彼を訪ねても、僕のほうを見ずわずかにも口を開かず、僕が不思議に思うほどに「らしくない」恰好になっていて、さしもの僕も驚いたものと記憶している。
 彼が何か懊悩して、その一端を吐露するように文字に書き起こそうとしていたことは僕も知っているけれど、いつだかに妙に吹っ切れたような、否無理に吹っ切ったような顔で、「おれには文才がない」と言ってそれきり、文筆を止めてしまったらしいことも覚えている。僕は別段、あのとき少し読んだだけの彼の文を下手なものとは感じなかったし、むしろ、少しのエッセンスとして僕の書きものに吸収してもいる……はずだと思っている。少なくとも僕の意識の上ではそうだ、あの男は僕が人生の中で珍しく、純に憧れたことがある人間なのだから。
 単純に彼は頭が良い。学校における勉強などはとりわけ能くできた。小学校が尋常小学校だった最後の世代に属するあたりの好隆は、体育以外の全教科で甲を貰ってばかりだったと聞いている。それより四つ年少の僕は、おのれの成績と、当時の自分と同じ学年だったころの好隆の成績とをよく見較べていた(ずいぶん嫌がられた)が、体育以外の総合成績、試験結果、その他の「勉強」ではあれには決して勝てなかったのだ。良くて同等、紙一重である。
 子供心に、それはもう悔しかった覚えがある。僕には身近で仲良くしていた子供などは好隆しかいなかったから、親からしても子からしても「競う相手」「較べる相手」は自然と彼ばかりになる。それがどう見ても勝てるべくもないのだから、拗ねたい気持ちになるのは当然である。僕などは馬鹿ではなかったが、論理的思考力と考察能力が低いので、そこでいつも大きく負けるのだ。いくら体ばかり丈夫でも仕方がない。
 また好隆は、他人と距離をとるのが異様に上手い人間で、それもちゃんと波風立てぬ空気のように群衆の中に紛れ込み、あまりに目立たぬわけでもなし、しかし目立ちすぎることもなく、ほどほどの存在を保ちながらも自身の孤独を失わぬ立ち回りができる性質である。僕は物心ついたときから、こうした得意を持った彼を羨んだ。僕もきっと彼同様、他人を疎んじる気持ちのほうが強い気性であったので……。
 皮膚で隔てられた先にいるものはみなびとが他人である、他人はおれたちのことを理解しない、逆におれたちがあれらを理解することもない、たとい親兄弟であろうとも。……好隆がこんなことを言ったのは、彼がもう中学を出ようとしていたくらいの歳の頃である。この頃にはかの少年の懊悩は始まっていて、彼は己の世界をどこからも切り離そうと努力しているように見えたが、僕には多少の「同類意識」らしきものを見たか……それはあながち間違っていると断じられはしないけれど。好隆の使う言葉は小学生にはたまに難しかったが、しかしこれはまだまだ幼さを拭い切れぬ僕にも奇妙な理解を残した。
「おれとおまえの間にも、完璧な理解は無い。おれにはおまえが理解し難い。現におまえだって、誰の心も分からんのだろう」
 それも、凡そ中っているように思った。彼は、人と距離を取りたがるわりに、人の性質を見抜くのも上手い。僕には絶対に宿るべくもなき才である。
 それはつまりは繊細が過ぎるということか。だとすれば得心がいく。彼はそういうことのない僕の目から見たら、あまりにも悩みの多い人間である。
 いったい何にそこまで……と、思うこともまた屡々あるが、それはきっと、逆のことが好隆にも起こっているのに違いない。

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 何年次だかは忘れたが、夏季休暇の時期に一度、ふらりと家出でもするように旅に出たらしい好隆が、高熱を起こしながらひとりきりで真夜中に家へ戻るということがあったそうだ。風邪を引いたとかいうことではなく、何の病かも知れず、酒居の家のものは軒並み、奇妙がり首を傾げていたように見えた。
 僕が見舞いに行こうとしたら幾重にも止められたので、一度きりこっそりと、忍び込むようにして彼を訪ねた。確かに高熱だったが、熱があって体幹が定まらぬ以外は取り立てて変化もないようだった。なんだか取ってつけたような病に見えたので、彼の中に潜む精神的な病質が、なみなみの器からこぼれ出たのではないかと妄想さえした、気分の上での話だがきっとそうだと、空想しがちな僕は彼の首筋を滑っているいくらかの汗を見て考えていた。
 あくまでもこれは次男坊、そのうえ得体のわからない熱に浮かされて弱っているときたら、一部の献身的な女中以外は極力寄って行きはしないだろうと踏んでいたが、聡明ながら陰気な彼はやはり鼻つまみ者と見えて、僕がそこにいた二時間余り、あの部屋を誰も訪れはしなかった。代わりに水差しと冷水を張った桶があって、僕は呻いている彼の額から落ちかかったタオルを数度取り、水で冷やしてやったり、見える皮膚をいくらか拭いてやったりした。よく見ると、汗にまぎれてあれは少し泣いていたようだったので、僕は静かに驚いた……覚えがある。
 数日するともうすっかり熱は引いたといい、平気で外へ出たりもしていたが、眼の内に薄ぼんやりした翳りが浮かぶようになったのを僕は見留めた。何かあったのだろうと思ってそれとなく聞いても、好隆は決して何も教えてくれなかった。
 そのときの彼は、ここにはいない誰かの影を意識しながら在るようだった。それは例えば僕にとってのかの山犬のように。しかしそこへひと匙ぶんの怯えや恐怖を放り入れた感覚か。あるいは罪悪を悔いるもののようともとれるが、僕はいまひとつこうした心をうまく思い浮かべることができない、だからいまひとつ定かに言えない。僕は共感覚をどこに忘れてきてしまったか。昨日と今日との隙間のような、過ぎてしまったら何をも取り留めることも叶わぬ、遠い遠い果てのようなところ。
 幽世、思い出の果てのうつくしい国。
 あるいはあの世。
 彼も、そのあたりへ何か忘れてきたろうか。

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 そう、中途退学の末に再び進学した好隆は、独居時代に覚えたのか煙草を嗜むようになっていて、嫌煙のきらいがある僕は大いに辟易したものだったが、「煙が厭なら来なきゃ良い」との言にはぐうの音も出ず、かといって僕に彼以外の友人はないのだから、ごねながらも僕自身の進学までの間、よく暇をつぶしに彼を訪ねた。
 好隆が中学くらいの頃までは、彼より幾分子供の僕がそのもとへ遊びに行ったとき、あまりに暇を持て余した場合に限って、彼は「ばあちゃんに聞いた作り話だ」とかいう奇妙な「昔話」を、僕に語って聞かせていた。耳に馴染みのまるでない、「翳なるものたちのうつくしい国」。彼が走り書きしたものとおそらくは同一の、遠い世界のこと。口伝なのだから当然だが語り口はたどたどしい。けれど僕はこの物語を妙に好ましく感じていた。
 僕が高校に上がって以降、時にそのことを懐かしく思い出し、どんなものだったか彼に訊いてみたことがあるけれど、それより以前は教えてくれたというのに、「昔のことだから」「もうよく覚えがない」などの返事しか得ることができず、それからはもう、微塵もあの話を持ち出してはくれない。その境目というのはおそらく、好隆の身に薄くまとわりついた煙草のけぶりであり、あの高熱であり……と、僕は今でも考えている。
 彼はその頃びっくりするほど寡黙であった。何を内面に長々と泳がせていたものか、彼が髪を切りっぱなしにしてほとんど整えなくなったのも、ただでさえ思考の海に沈んでいきやすいのが潜ったきり帰らないように思われるようになったのもあのあたりである。
 彼は考えるとき煙草を山ほど吸った。ああしかし僕が彼を訪ねたそのときは、僕が嫌がるのを思ってなのかは知らないけれど、今さっき火を入れたばかりのものがあったとして、ほとんど吸わないうちに灰皿へ押しやっていたのは知っている。それは今でも変化ない。彼が僕の前で煙をふかしたのは、僕が部屋まで来たのに気づかなかった数回のことと、彼の兄が嫁を娶ろうというのが決まったときに済まないと前置きして、僕から少し距離を取って火をつけたとき、そのくらいだと記憶している。
 幼馴染の所縁がそうさせるのか、否それを抜いても好隆は優しい。僕にもそのくらいのことはよく分かる。彼が僕を、どうにも苦手に感じていただろうことだって知っている。他人の家に押し掛けるのが大好きな子供など、あの性質の人間が好きになれるわけがないのだから……けれど我慢していたのだろう、きっと彼は昔から優しいのに違いないから。ああだから僕は、その懊悩を理解し難く思うのを、珍しく口惜しく感じるのだろう。

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(ノート裏 端書と思われる)
 どこかに置いてきてしまったと思われるものが、彼の手に掬われて、あの頃にほんの少しだけ戻ってきていたような心地がある。それに気がついたのはほんの最近のことだ。山犬を得てもう数年経つが、孤独でいる間は及びもつかないことを、近頃改めて考えるようになった ああ何とするべきか。そうでもなければ好隆のことを改めて考えたりはしなかった 僕は彼のために非人間になりきらなかったのだと、考え付くことすらなかったろう。
 しかし僕には、彼が何を未だに気にしているのか 悩んでいるのか、まるでわからない。

無題/あるいは昨日と今日の間の話

無題/あるいは昨日と今日の間の話

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-11-02

CC BY-NC-ND
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